Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』②。
 社会民主主義者は全て、綱領の最小限と最大限の区別を当然のことと見なしていた。そして、いかにして社会民主主義者がブルジョア革命後の『次の段階』への闘いを遂行するかに関心を持っていた。
 彼らの誰も、どの程度長くロシアの資本主義時代が続くのかを敢えて予測しようとはしなかった。
 しかしながら、メンシェヴィキは一般に、西側の民主主義および議会制度を吸収する歴史的な一時代全体が必要だろうと考えた。そして、社会主義への移行は遙かに遠い期待だ、と。
 レーニンは、彼の側では、全ての戦術を将来の社会的転覆に向かって連動させなければならない、『最終目標』をつねに心に抱いて全ての党の行動を指揮しなければならない、というまったくマルクス主義の精神のうちにあるこの原理を重大視した。
 問題は、こうだった。ブルジョア革命が人民に、すなわちプロレタリアートと農民に権力を与えれば、彼らは不可避的に社会を社会主義の方向へと変形させようとするだろうか、そしてブルジョア革命は社会主義革命へと成長するだろうか?
 この問題は、1905年革命の直前の数年間に、そしてその革命後すぐのパルヴゥス(Parvus)やトロツキー(Trotsky)の著作で、前面に出てきた。//
 レオン・トロツキー(Leon Trotsky, Lyov Davidovich Bronstein)は、ロシアの亡命者集団でのマルクス主義の有能な主張者として、1902-3年に名前を知られるようになった。
 1879年11月7日(新暦)にヘルソン地方のヤノヴカ(Yanovka)で、ユダヤ人農夫(ウクライナ地域に少しはいた)の子息として生まれ、オデッサ(Odessa)とニコライエフ(Nikolayev)の小中学校に通い、18歳の年にマルクス主義者になった。
 彼は数ヶ月の間、オデッサ大学で数学を学んだ。だがすぐに政治活動に集中して、南ロシア労働者同盟(the Southern Russian Workers' Union)で働いた。この同盟は、純粋に社会民主主義ではないがマルクス主義思想の影響を多く受けていた。
 トロツキーは1898年の初頭に逮捕され、二年間を刑務所で過ごし、そして四年間のシベリア流刑の判決を宣せられた。
 収監中および流刑中に、熱心にマルクス主義を学び、シベリアでは研修講師をしたり合法的新聞に論考を発表したりした。
 トロツキーという名の偽の旅券によってシベリア流刑から逃れて、ここから彼の歴史に入っていくが、1902年の秋にロンドンでレーニンと会い、<イスクラ>の寄稿者になった。
 彼は、第二回党大会では、レーニンは労働者階級の組織ではなく閉鎖的な陰謀家集団に党を変えようとしているとして、その規約1条案に反対表決をした多数派の一人だった。
 トロツキーはしばらくはメンシェヴィキの陣営にいたが、リベラル派との同盟に向かう趨勢に同意できなくなってそれと決裂した。
 1904年にジュネーヴで、とりわけ党に関するレーニンの考えを攻撃する、<我々の政治的任務について>と題する小冊子を発行した。
 レーニンは人民と労働者階級を侮蔑しており、プロレタリアートを党に置き換えようとする、と主張した。これは時が推移すれば、中央委員会を党に置き換え、中央委員会を一人の独裁者に置き換えるだろうことを意味する、と。  
 これ以来頻繁に引用されるこの予言は、ローザ・ルクセンブルクによるレーニン批判と同じ前提にもとづくものだった。つまり、職業革命家から成る中央集中的かつ階層的な党という考えは、労働者階級は自分たち自身の努力ではじめて解放されることができるとの根本的なマルクス主義の原理に反している、という前提。//
 トロツキーは多年にわたり、主として独立の社会民主主義の主張者として活動し、党のいずれの派にも属さないで、党の統一の回復の方向へとその影響力を用いた。
 ミュンヒェンで、ロシア系ユダヤ人のパルヴゥス(Parvus、A. H. Helfand)の友人になった。パルヴゥスは、ドイツに住んでいて、ドイツ社会民主党左翼に属していた。
 このパルヴゥスは、永続革命理論の本当の(true)先駆者であり創始者だと見なされている。
 パルヴゥスの見方によると、ロシアの民主主義革命は社会民主主義政府に権力を与え、それは必然的に、社会主義に向かう革命の過程を継続するよう努めることになる。
 トロツキーはこの考えを採用し、1905年の革命に照らしてこれを解釈した。
 あの事件から一般化して、ロシアのブルジョアジーは弱いので、来たる革命はプロレタリアートによって率いられなければならず、ゆえにブルジョアの段階で停止しないだろうと、述べた。
 ロシアの経済的後進性が意味しているのは、ブルジョア革命のあとにただちに社会主義革命が続くだろう、ということだ。
 (これは、ドイツについての1948年のマルクスとエンゲルスの予測に似ていた。)
 しかし、『第一段階』でプロレタリアートは農民に支えられるが、社会主義革命の時期には農民は、それに反対する小土地所有者の大衆になるだろう。
 ロシアでは少数派なので、西側の社会主義革命によって助けられないかぎり、ロシアのプロレタリアートは権力を維持することができないだろう。
 しかし、革命の進行がロシアからヨーロッパおよび世界のその他の地域へと速やかに広がることを、期待することができる。//
 かくして、トロツキーの『永続革命』理論は、彼がその後数年間にしばしば繰り返した二つの前提条件に依拠している。
 ロシアのブルジョア革命は、継続的に社会主義革命へと進化する、ということ。
 これは、西側での大乱(conflagration)を誘発する、ということ。
 もしそうでなければ、ロシアの革命は生き残ることができない。プロレタリアートが農民大衆の圧倒的な抵抗と闘わなければならなくなるのだから。//
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 ③へとつづく。