Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 前回のつづき。
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 第3節・民族問題③。 
 簡潔に言えば、プロレタリアートの利益は唯一の絶対的価値で、プロレタリアートの『真の』意識の運び手だと自認する党の利益と同じだという前提命題にもとづけば、民族の自己決定権の原理は戦術上の武器以上のものではあり得なかった。
 レーニンはこのことに十分によく気づいていて、この原理はレーニンの教理のとるに足らない一部だととくに言うこともなかった。
 他方で、民族の願望は党が権力への闘争に用いることのできるかつ用いるべき活力の力強い源だとレーニンが発見したことは、彼の政治の最も重要な特質の一つであり、その成功を多く確実なものにした。それは、階級闘争に関するマルクス主義の理論は民族問題に特有の注意を払う必要がないとする正統派と反対のものだった。
 しかしながら、レーニンは、彼の理論が功を奏したという意味で『正しい(right)』だけではなかった。それは、マルクス主義と一致してもいた。
 『プロレタリアートの利益』は至高の価値をもつので、民族的な争論や願望をその利益を増大させるために利用することに反対はあり得ない。また、のちのソヴィエト国家の政策が、征圧したおよび植民地化した地域で資本主義諸国を弱体化するためにそのような願望を支持することについても、同じく反対はあり得ない。
 一方で、エンゲルスによる『歴史的』民族と『非歴史的民族』の区別およびレーニンによる大民族のナショナリズムと小民族のそれとの区別は、根本的教理から生じるようには思えない。そして、特殊な歴史的環境に関連づけられる脇道(bypath)だと、見なされてよい。//
 その『純粋な』形態での、すなわちあらゆる状況で有効な絶対的権利としての民族の自己決定権は、明らかにマルクス主義に反している。
 そしてこのマルクス主義は、ローザ・ルクセンブルクの立場から見ると、容易に守られる。階級対立は重要であり、国際的だ。そして、闘い取るに値する民族の利益は存在し得ない。
 しかし、原理をたんなる戦術の一つへと降ろしたレーニンの幅広い留保を考えると、レーニンがこれを擁護したことが確立した教理に反していると主張するのは不可能だ。
 換言すれば、この問題に関するレーニンとローザ・ルクセンブルクの間の論争は、戦術の問題で、原理の問題ではなかった。
 民族の差違や民族文化は、レーニンの目には重要な価値がなく、彼が頻繁に述べたように、本質的にはブルジョアジーの政治的な武器だった。
 彼が1908年に書いたように、『プロレタリアートはその闘いの政治的、社会的および文化的条件に、無関心であることができない。したがって、その国(country)の運命に無関心であることはできない。
 しかし、プロレタリアートが国の運命に関心をもつのは、それが階級闘争に影響を与える範囲でのみであり、社会民主党の言葉にのせるのも汚らわしい、どこかのブルジョア的「愛国主義」によるのではない。』(全集15巻p.195。)
 『我々は、「民族(national)文化」を支援するのではなく、各民族文化の一部だけを含む国際的(international)文化を支援する。-各民族文化の一貫して民主主義的かつ社会主義的な内容を含むそれだけを。<中略>
 我々は、ブルジョア的ナショナリズムのスローガンの一つとしての民族文化に反対する。
 我々は、十分に民主主義的で社会主義的なプロレタリアートの国際的文化に賛成する。』(全集19巻p.116。)
 『自己決定権は、中央集権化という我々の一般的命題に対する例外だ。
 この例外は、反動的な大ロシア・ナショナリズムを見れば絶対に必要だ。この例外を認めないのは、(ローザ・ルクセンブルクの場合のように)日和見主義だ。
 それは愚かにも、反動的な大ロシア・ナショナリズムの手中に収まることを意味する。』(同前p.501。)//
 レーニンは頻繁に、戦争前およびその間にこのような見解で自分の立場を表明した。
 彼は、労働者は祖国を持たないという有名な言葉を強調して引用した。そして、全く字義どおりに考えていた。
 同時に、彼は、無制限の自己決定権を宣言し、ツァーリ帝制の被抑圧人民へと明確に適用した、唯一の重要な社会民主党指導者だった。
 1914年の末にレーニンは、『大ロシア人の民族的誇りについて』と題する小論考を書いた。(全集21巻。〔=日本語版全集21巻93頁以下。〕)
 これは、ロシア共産主義に熱狂的愛国主義が益々染みこむようになったものとして、最も頻繁に印刷されかつ最も多く引用されたテクストの一つだった。
 あらゆる形態の『愛国主義』(つねに引用符つき)を批判して愚弄したレーニンの他の全ての論考とは違って、この小論考で彼は、ロシアの革命家はロシアの言語と国を愛する、革命的伝統を誇りに思っている、そしてそのゆえに全ての戦争での帝制の敗北を、労働者人民にとって最も害の少ないそれを、望んでいると宣言する。また、大ロシア人の利益はロシアのプロレタリアートおよびその他全諸国のそれの利益と合致していると、主張する。
 これは、レーニンの著作の、その種のものとしてのテクストにすぎず、民族文化をそれ自体に価値があり防御に値すると見なしていると思えるかぎりで、残りのものからは逸脱している。
 全体としてのレーニンの教理から見ると、当時にボルシェヴィキに対して向けられた国家叛逆という非難に反駁し、ボルシェヴィキの政策は『愛国主義的』理由でも支持する価値があると示す試みだとの印象を、この小論考は与える。
 確かに、大ロシア人の民族的誇りを擁護することと、『民族文化のスローガンの擁護者の位置はナショナリスト・小ブルジョアにあり、マルクス主義者の中ではない』との言明(『民族問題に関する批判的論評』、全集21巻p.25)とをいかにすれば一致させることができるのか、理解するのは困難だ。//
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 (秋月注) 今回部分の全集引用部分は、日本語版全集各巻で確認することができなかった(2017.06.27)。
 第3節終わり。第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』、へとつづく。