前回のつづき。
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 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動①。
 ロシアの戦争意図をめぐる政治的危機を利用して、ボルシェヴィキは4月21日に、権力をめざす最初の試みを行った。
 イスパルコム〔Ispolkom, 全ロシア・ソヴェト執行委員会〕は1917年の3月末に臨時政府に対して、オーストリアとトルコの領土に対するミリュコフ(Miliukov)の要求を承認しないように強く主張したことが、想起されるだろう。
 社会主義者たちを宥めるべく、政府は3月27日に宣言書を発表し、イスパルコムが承認した。それは、領土併合の放棄を多言することなく、ロシアの目的は『民族の自己決定権』にもとづく『永続平和』だと宣言していた。//
 こう認めることで問題は収拾されたが、一時的にだけだった。
 ヴィクトル・チェルノフ(Viktor Chernov)がロシアに帰ってきて、この問題は再び4月の論争の根幹部分になった。
 このエスエル党の指導者は戦時中の数年間を、西欧で、主としてスイスで過ごした。スイスではツィンマーヴァルトとキーンタールの会議に参加し、伝えられるところではドイツの資金で、ドイツやオーストリアにいるロシア人戦争捕虜に関する革命的な書物を刊行した。 
 彼はペテログラードに戻って、すぐにミリュコフに反対する宣伝運動を始め、ミリュコフの辞任を要求し、政府に対して3月27日の宣言書をロシアの正式の戦争意図であるとして連合諸国の政府に電送することを求めた。
 ミリュコフは、公式に領土放棄を明らかにすれば戦争からの離脱の意図を意味していると連合諸国が誤解する、という理由で、この要求に反対した。
 しかし、内閣はミリュコフの言い分を認めなかった。
 ケレンスキーは、この事案に特別の熱心さを示した。それは、彼の重要な好敵であるミリュコフの評判を落とし、ケレンスキー自身のソヴェト内での立場を強くするはずだった。
 そのうちに、妥協に到達した。
 政府は3月27日の宣言書を連合諸国に伝えるのに同意するが、戦争を継続するとのロシアの意図についての疑いを除去するように、説明の文書〔Note, 覚え書〕を添付することとする。
 ケレンスキーによると、ミリュコフが案を作成して内閣が承認した説明文書は、『ミリュコフの「帝国主義」への最も厳しい批判で充満していたはずだった』。(53)
 それは、連合諸国と共通する『高い理想』のためのロシアの戦闘決意と、そのために『義務を完全に履行する』ことを再確認した。
 二つの文書[宣言と説明書(覚え書)]は、4月18日(西暦で5月1日)に連合国諸政府へと電送すべく国外のロシア大使館へと打電された。//
 政府の文書が4月20日朝のロシアの新聞に掲載されると、社会主義知識人界は激怒した。
 ごく一部の極端派を除く社会主義諸政党の公式目標である、勝利までの戦争継続の誓約が不愉快だったのではなく、問題は、『併合と配分』に関する両義的な言葉遣いだった。
 イスパルコムはその日に、『革命的民主主義は、攻略的な目的のために…血が流れることを許しはしない』と票決した。
 ロシアは、戦いつづけなければならない。だがそれは、全交戦国が領土併合のない講和を結ぶ用意ができるまでだ。//
 政府とイスパルコムの間の協議によって、論争は容易に解消されえただろう。それはほとんど確実に政府側の屈従になっただろうけれども。
 しかし、両者間に妥協が成る前に、兵舎および労働者区画で怒りが発生した。それは、見えない糸でイスパルコムとつながっていた。//
 街頭不安は4月20日-21日に自然発生的に始まったが、速やかにボルシェヴィキが指導した。
 若き社会民主主義者の将校、リュテナント・テオドア・リンデ(Lieutenant Theodore Linde)は、この人は指令書第一号の草案作りに関与していたのだが、政府の文書は革命的民主主義の理想に対する裏切りだと解釈した。
 リンデは彼の連隊、フィンランド予備衛兵団の代表者たちを呼び集め、彼らにミリュコフに反対する街頭示威活動へと部下を投入するように言った。
 彼は同じ伝言書を携えて、別の守備兵団も回った。
 リンデは、ロシアが戦争し続けることを望む、熱烈な愛国者だった。
 すぐのちに、彼は死ぬ。闘いに加わるよう求めた前線の兵士団によって、殺戮された。彼らは、リンデのドイツふうにひびく名前によって、敵の工作員に違いないと決めたのだった。
 しかし、彼は、多くのロシアの多くの社会主義者のように、戦争は『民主主義』の理想を掲げて開始されたと思いたい人物だった。
 どうも彼は、権威により正当化されていない政治的な示威運動に参加するように兵士たちに熱心に説くことは反乱を呼びかけるに等しい、ということを認識していなかったように見える。
 午後三時からそれ以降、フィンランド予備衛兵団を先頭とする若干の軍団が、完全武装をして、政府が所在するマリインスキー宮へと行進した。そこで彼らは、ミリュコフの退任を要求して叫んだ。//
 グチコフ(Guchkov)が病気だったため、このときの閣議はマリインスキー宮ではなくて、グチコフの戦時省の職場で開かれていた。
 その前に、コルニロフ将軍が現れていた。彼は、ペテログラード軍事地区司令官であり、首都の治安に責任をもっていた。
 彼は、兵団に反乱兵士たちを解散させることの許可を求めた。
 ケレンスキーによると、内閣は一致してこの要請を拒んだ。
 『我々は、推移を把握している自信がある。また、きっと民衆は政府に反対するいかなる暴力行為をも許さないだろう』。
 これは、臨時政府がその権威に対する公然たる挑戦に直面して実力を行使するのをためらった最初のことで、かつ最後のことではなかった。-この事実をコルニロフもレーニンも、忘れなかった。//
 このときまで、ボルシェヴィキは騒乱と何の関係もなかった。実際、彼らは驚いたように思える。
 しかし、ボルシェヴィキはこれを利用する時間を逸しなかった。//
 この時点でのボルシェヴィキの最高司令部の活動については現在、明確ではない。重要な文書証拠類のほとんど非公刊のままであるためだ。
 事態に関する公式の共産党の見方によると、党中央委員会は、4月20日夕方から21日の全日にわたってペテログラードで起きた反政府の集団示威活動を、正当なものとして承認してはいなかった。
 『臨時政府打倒』とか『全権力をソヴェトへ』とか書いた旗を掲げて街頭を歩くボルシェヴィキ党員は、S・Ia・バグダエフ(Bagdaev)を含む第二ランクのボルシェヴィキの指令によって行動した、とされている。(*)
 しかし、ボルシェヴィキ党のような中央集中的政党で、小さな党組織が自分で中央委員会に果敢に逆らって革命的なスローガンを掲げるのを認めただろうとは、全く考え難い--レーニンの臨時政府への対立的な立場に反抗したとバグダエフの文書が証して、責任はより愚かな者へと転嫁された。
 1917年4月20-21日の事態に関して誤導するような説明方法は、ボルシェヴィキの最初の蜂起の企てが恥ずかしい失敗に終わったことを隠蔽するために作り上げられてきた。
 事態を正確に描くのをさらに混乱させるのは、共産党の歴史家が事象発生後に党によって採択された諸決議を長々と引用してきたことで、それはこの事象は、発生前に意図されていたと示唆しており、かつレーニンが書いた指令を『出典不明』だと推論している。//
 リンデによって呼び出された兵団がマリインスキー広場に集まっていた4月20日の午後、ボルシェヴィキ中央委員会は緊急の会議を開いた。
 ミリュコフの文書を読んだあとその日の早くにレーニンが起草した決定を、同委員会は裁可した。このことは、その後の示威活動はボルシェヴィキが支持していたことの、合理的な根拠を提示する。
 レーニンの著作物の初期の諸版は、レーニンが執筆者であることを否定した。
 これを初めて肯定したのは、1962年発行のレーニン全集の第5版だった。(61)
 レーニンは、臨時政府は『完全に帝国主義的』だ、イギリス・フランスはもとよりロシアの資本によって支配されている、と表現した。
 この類の体制はまさにその本性において、領土併合を放棄することができない。
 レーニンは、政府を支持しているとしてソヴェトを批判し、ソヴェトに全権力を握るように求めた。〔A〕
 これはまだしかし、政府打倒の公然たる訴えではなく、レーニンの文章からこのような結論を導くには、深い洞察が必要だ。
 これはたしかに、ボルシェヴィキ党員が『臨時政府打倒』や『全権力をソヴェトへ』と書く旗をもって示威行進をするのを承認している。レーニン自身がしかし、のちにはこれらと離れることになる。//
 このときの会議で中央委員会が採択した戦術的諸決定がどのようなものであったかは、知られていない。
 中央委員会会議にしばしば加わっていたペテログラード委員会の議事録で公刊されている版は、瑣末な組織上の問題のみを記録している。
 5月3日までの全てのそれに続く会議の議事は、省略されている。
 しかしながら、つぎの二つのことは、合理的に見て確かだ。
 第一に、レーニンは攻撃的な示威行動の主な提唱者であり、かつ強い反対に遭ったように見える。
 これのかなりは、後で起きたことから分かる。のちにレーニンは、同僚、とくにカーメネフから批判を受けた。
 第二に、集団示威活動は、激発した労働者や反乱した兵士たちがツァーリ(帝制)政府を打倒した2月26-27日の再現、全面的な蜂起を意図するものとされていた。//
 すでに4月20日の夕方、午後の示威行進に参加した兵士たちが兵舎に帰ったあとで、兵士と労働者の新しい一群が、反政府の旗を持って街頭に現われた。彼らは、ボルシェヴィキが指導する反乱者たちの先行軍団だった。
 そのあと、『レーニンよ、くたばれ!』と書く旗を掲げる、反対の示威活動が起きた。
 示威行進中の者たちは、ネヴスキー通りで衝突した。
 イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕による介入に従って、群衆たちは平穏になった。//
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  (53) Alexander Kerensky, The Catastrophe (ニューヨーク, 1927), p.135。
  (*) バグダエフは実際に、5月1日、これは4月18日にあたる、のデモを組織したとしてペテログラード委員会から追及された。この日に政府の戦争意図に関する宣言書と説明文書は、連合諸国政府に伝えられた。
  (61) Lenin, Sochineniia, XX, p.648。プラウダ第37号(1917年4年21日付)p.1からの文章は、p.608-9。Lenin, PSS, XXXI, P.291-2。
 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)183頁以下の「臨時政府の覚え書」/1917年4月20日執筆・プラウダ第37号(1917年4年21日)に発表、が該当する。「覚え書」とは、本文上の<添付した説明文書>の旨で訳したNoteのことだ。-注記・試訳者〕。
  〔A〕試訳者注記/上のレーニン全集第24巻183頁以下「臨時政府の覚え書」から一部引用する。p.183-5。
 「…と覚え書は、補足している。//簡単明瞭である。決定的に勝利するまで戦う。イギリスやフランスの銀行家との同盟は神聖である…。//
 問題は、グチコフ、ミリュコフ、…が資本家の代表者だという点にある。/
 問題は、いまロシアの資本家の利益が、イギリスとフランスの資本家とおなじものだということにある。このために、しかもただこのために、ツァーリと英仏資本家との条約は、ロシアの資本家の臨時政府の心情にとっては、こんなに貴重なのである。//
 どの自覚した労働者も、どの自覚した兵士も、臨時政府を『信頼』する政策を、これ以上は支持しないであろう。信頼の政策は破産したのだ。//
 いまの労働者・兵士代表ソヴェトは、二者択一をせまられている。すなわち、グチコフとミリュコフが進呈した丸薬をのみこむか、…、それともミリュコフの覚え書に反撃をくわえるか、…である。//
 労働者、兵士諸君、いまこそ、大きな声で言いたまえ、われわれは、単一の権力-労働者・兵士代表ソヴェト-を要求する、と。臨時政府、ひとにぎりの資本家の政府は、このソヴェトに場所を明けわたさなければならない。」
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 ②へつ続く。