○ 櫻井よしこが日本文明や日本の宗教について語るときに、神仏混淆、神仏習合の歴史に言及しないでただ「神道は日本の宗教です」と言うのは、日本人一般の庶民感覚をも侮蔑している。
 神道と仏教の違いを不明確にしか了解していないままでか、かなり意識して両方ともか、は人によって異なるだろうが、日本人の多くは、神道と仏教のいわば<混在>を何となく感じて生きているのだと思われる。
 街角の小さな神か仏に自転車で近づいて、前で手を合わせて戻っていったまだ若い男性をいつぞや見かけた。あれは、神道の小さな祠だったのか、小さな石仏の地蔵だったのか。
 日本文明とか日本の宗教とか語りつつ、櫻井よしこはいかほどに、日本人の平均的な<宗教>観を知っているのか。神・仏の違いや関係がどう意識されているのかを知っているのか。
 櫻井よしこは、日本国民一般を侮蔑しているのではないか。
 以下では、神仏混淆について<感じ知っている>ことを書く。
 ○ いつの頃か、おそらく平安時代には生じていたのだろう神仏混淆・習合の痕跡は、現在でもあちこちで、つまり普遍的に認めることができる。
 毎日をただ忙しく過ごしている櫻井よしこは、例えば、浅草寺には行かないのかもしれない。また、かりにこの浅草の寺を訪れても、つぎのことに気づかないだろう。
 浅草寺(せんそう-)の本堂から東へと抜ける道(境内の道状の通路)に面して、浅草神社(あさくさ-)という神社がある。ときには仏教寺院の一塔頭のごとき位置づけで神社ふうの建物があることがあるかもしれないが、この神社は建前的にも寺院とは別で、別の独立の宗教法人だろうと思われる。寺とは別に「認証」を受けているだろうが、申請の場合に神道・仏教の別くらいを記載しないことはありえないだろう。寺とは別に、ご朱印もいただける。
 実質的にいえば、仏教寺院の境内の中に神社があるように見える。おそらくかつてから、寺と神社はほぼ一体のものとして、すぐ側で並立しながら、あの浅草の地に存在してきたものと思われる。それが今でも残っているわけだ。
 仏教寺院でありながら、神道的雰囲気を感じることもある。
 本堂の前で手を合わせるとき、すぐ上か、少しだけ後ろに「鳥居」が立っていることがある。ほとんどではないが、決してほんの一部というわけでもない。「聖天」との通称がある寺院に多いようだ。鳥居だけ「神道」というのではなく、かつての混淆・習合の痕跡が明らかに残っているのだと思われる。
 寺院敷地内の傾斜緑地(丘陵)に接して鳥居が立っていることがあった。たまたま通りかかった寺務所の方に尋ねると、「結界」(の印)だと答えてくれたが、質問の趣旨は、なぜ神道様式の鳥居が(「結界」表示のためであれ)使われているのか、だったのだが。
 前回あたりで神社神道の中の「稲荷」系というものに触れたが、仏教寺院としての「稲荷」もある。
 愛知県豊川市の「豊川稲荷」がそれで、仏教寺院(曹洞宗、妙厳寺)だ。
 ご朱印をいただくときに、「あれ?、稲荷って仏教ですか」という無邪気な驚きの言葉を発してしまった。「ここは、仏教です」(多くは神道ですという趣旨)で、少しは安心した。
 少しは雰囲気を思い出すと、神社建築物でも不思議ではないものとは別に、仏教的な(曹洞宗的な)建物もあった。
 しろうとの推測なのだが、おそらくは、かつては神社(稲荷)と寺院が隣り合わせで存在していたが、明治期に入ってどちらか一つへの選択(神仏分離)が要求されて、どちらかを廃止することなく、仏教の方を選んで、かつての「稲荷」を祀る施設もそちらの方に取り込んだのだろう。
 不動明王系なのか修験道・役行者系なのか、はっきり記憶しないが、境内にやはり鳥居が立っている仏教寺院があることがある。尋ねてみると、形が違って神社のものではないという答えだったのだが、日枝神社(東京、首相官邸近く)にある鳥居とよく似ていた。つまり、笠木の上に山の形をしたものがさらに付いていた。
 ○ こういうことを書いていると、半分は「美しい日本」の連載を続けるような、続けたいような気持ちがしてくる。
 明らかに日本的な、たぶんより正確には日本化した、または日本で初めて生まれた仏教の寺院というのも存在しているようだ。
 それらは、インドや中国にも、朝鮮半島にも見られないように思われる。
 かつてはインド・中国等にあったが、日本にだけ残った、というものでもないように思われる。
 つまり、伝来の仏教ではないが、日本のふつうの神社神道でもないような日本的宗教が(仏教と神道を混合させるような形で発生していて)、それらは無理やり、明治期以降に仏教の方に編別されたのではないか、と思われる種類の宗教や行事がある。
 ある仏教寺院で、本尊はないと言われて驚いたことがある。不動明王が本尊の場合には、崇拝対象の仏像はなく、紙に描かれているのを貼ってあるだけ、ということがある。
 修験道とは、そもそもいかなる宗教なのか。仏教の方に分類されているけれども。
 これとたぶん関係があるものに「役行者」信仰というのがある。
 「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは実在した人物・修行「僧」らしいが、その生誕地(奈良県御所市)だという寺(吉祥草寺)の本堂らしき建物に入って見ると、ふつうの寺院様式とはまるで違う。大きな仏像、仏壇というものの記憶ははなく、平たい台の上に仏具が置かれていて、むしろ素朴な神道神社の内部に似ているような気がした。
 こういうことを書いていくとキリがないだろう。
 ○ 櫻井よしこはいかほど知っているのか知らないが、おそらくは神道の影響も受けて、または日本の多様な自然によって育まれてきた、日本にしかないような<仏教>信仰もある、と考えられる。
 これらを無視して、日本の文明を、日本の歴史を語れるとは思えない。
 東照宮や豊国神社は神道形式だが、東照大権現、豊国大明神という場合の「権現」や「明神」は、仏教との関係を抜きにして説明することはできない。
 仏教宗派によって同じではないのだろうが、仏教の側の本地垂迹説による仏教と神道の一種の<統合>があった、という歴史事実を無視して、日本の神道をすら語ることはできないのではないか。
 ○ 櫻井よしこは、日本国民の日常的な神・仏の感覚を馬鹿にしてはいけない。そのような人物は、決して日本国家と日本国民を適切な方向に導かないだろう。
 国家基本問題研究所の役員たちは(一部のアホを除いて)、「長」の櫻井よしこの文章や発言をいちど「研究」してみたらどうか。その薄さ・浅さに驚くのではないだろうか。
 以上は専門書を見ないで、全くの<しろうと>の立場で<感じ知っている>ことを書いている。