つぎの第10節にすすむ。第10節は、p.410~p.419。
 ---
 第10節・1921年の飢饉①。
 ロシアは、その歴史を通して定期的に、厳しい収穫不足を経験してきた。革命のすぐ前の年には、1891~2年、1906年および1911年に、それがあった。
 農村共同体(muzhik)は長い体験を通じて、一年のまたは二回の不作にすら耐え抜けるように、充分な予備を蓄えて自然災害に対処することを学んだ。
 不作はふつうは、飢餓というよりも空腹を意味した。間欠的に飢饉が蔓延することはあったけれども。
 飢饉(famine)は、三年にわたって冷酷にも農作を秩序立って破壊し、ボルシェヴィキは、数百万の人々が死亡する飢饉について熟知することになった。(*)//
 飢饉の前には、1920年に初めて感知された干魃があった。
 ウクライナと北コーカサスはソヴェト支配を逃れていて、何とか予備穀物を大量に集めていた。これらの〔ボルシェヴィキによる〕再征服があったために、災害から一時的に目を逸らすことになった。
 1921年に政府が新しい現物税制度のもとで獲得した食糧の半分は、ウクライナから来ていた。(171)
 しかし、食糧集積機構は1920年にはウクライナとシベリアでまだ完全には設けられていなかったので、徴収の重い負担が依然として、消耗した中央部地方にのしかかった。(172)//
 1921年飢饉を引き起こした天候の要因は、1891-92年のそれに似ていた。
 1920年の降水は、異常に少なかった。
 冬には雪がほとんど降らず、降ってもすぐに融けてしまった。
 1921年春に、ヴォルガ地域の収穫は少なかったが、決定的に悪くはなかった。
 そして、灼熱の暑さと干魃がやってきて、草葉が焼かれ、土地にひび割れが入った。
 巨大な範囲の黒土の一帯は、砂塵の鉢に変わった。(173)
 昆虫〔いなご〕は、残った草木類のほとんどを食べた。//
 しかし、悲劇に対して、自然災害は寄与したにすぎない。それは、原因ではなかった。
 1921年の飢饉は、『< Neurozhai, ot Boga; golod, ot liudiei >、不作は神の思し召し、空腹は人間が原因』という農民たちの諺の正しさを確認した。
 干魃は、大災難を促進した。そしてそれは、遅かれ早かれボルシェヴィキの農業政策の結果として必然的に起こったものだった。
 この主題を研究した一学生は、政治的および経済的要因がなかったとすれば、干魃は大きな意味をもたなかっただろうと述べる。(174)
 ほとんど余剰などではなく、農民たちの生存に不可欠だった穀物の『余剰』を容赦なく収奪したことは、大厄災を確実なものにした。
 供給人民委員〔ほぼ供給大臣〕の言葉によると、1920年までは、農民たちは自分たちが食べ、種子を残すにぎりぎり十分な程度を収穫していた。
 もはや生存のための余裕は残っていなかった。かつては穀物現物の蓄えが、悪天候に対して農民たちを柔らかく守ってくれた。それが、なかった。//
 1921年の干魃は、ほぼ間違いなく、食糧生産地帯の半分を襲った。この地帯のうちの20%は、収穫が全くなかった。
 飢饉を被った地域の人口は1922年3月で、ロシアで2600万人、ウクライナで750万人、併せて3350万人だった。子どもたち700万人以上を含む。
 アメリカの専門家は、被害者のうち1000万人から1500万人は死亡するか、死ぬまで残る後遺症を肉体に受けた、と推算した。(**)
 最も悲惨だったのは、ふつうの年だと穀物類の主要な供給地であるヴォルガの黒い土の地帯だった。
 カザン、ウファ、オレンブルク、サマラの各地域は、1921年の収穫高は一人あたり5.5 Pud より少なかった。-これは、種子用に何も残さないとして、農民たちの生存に必要な量の半分だった。(+)
 ドンの低地一帯や南部ウクライナも、悲惨だった。
 国土の残りの地方のほとんどで、収穫高は5.5~11 pud で、地方の民衆人口が食べるのにぎりぎりだった。(175)
 ヨーロッパおよびアジアのロシアの、飢饉に遭った二十の食糧生産地方での生産高は、革命以前には毎年に穀物類2000万トンだったが、1920年には845万トンに減り、1921年には290万トンに減った。つまり、〔革命前に比べて〕85%も低くなった。(176)
 比較してみると、帝制時代に天候条件によって最悪の不作となった1892年には、収穫高は平年よりも13%低かった。(177)
 この違いは、大部分について、ボルシェヴィキの農業政策に起因しているはずだ。//
 大厄災がどの程度に人為的行為によっているかを、さらに、伝統的に最大の収穫高をもつ地帯で最小のそれになったという数字によっても、強く主張することができる。
 例えば、ヴォルガのゲルマン自治共和国はふつうは繁栄した緑地だが、最悪地域の一つになり、その人口の20%以上を失った。
 ここでは、1920-21年に、全穀物類収穫物の41.9%が、〔国家によって〕徴収された。(178)// 
 ------
  (*) なぜソヴィエトの歴史家がこの主題に注意を向けることができなかったのかは、理解し難い。なぜ西側の学者がこれを無視してしまったのかは、もっとありそうでない。
 例えば、E・H・カーは、その三巻の<ロシア革命の歴史>で、この最も秘儀的な情報に関する叙述部分を残してはいるが、死者の推定数は信頼できないという尤もらしい理由で、大災害を一段落(a single paragraph)でもって簡単に片付けている(<ボルシェヴィキ革命>, Ⅱ, p.285)。
 同様の理由づけは、ネオ・ナチの歴史家により、ホロコーストを無視する根拠として使われてきた。
 これを〔私が〕執筆する時点では、1921年飢饉に関する研究書は一つも存在していない。
  (171) レーニン, PSS, XLIV, p.667.; LIII, p.391。
  (172) 同上, XLIII, p.13-14。
  (173) 革命的ロシア(RevR), No. 14/15 (1921), p.14-15。
  (174) L・ハチンソン, in : F. A. Golder =Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の推移について (1927), p.50。
  (**) イズベスチア, No. 60-1499 (1922年3月15日), p.2。ハチンソン, in : Golder =Hutchinson, 推移について, p.17。少し異なる数字は、次に示されている。Pomgol, Itogi bor'dy s golodom v 1921-22 gg (1922), p.460。子どもたちの数字は、次による。ロジャー・ペシブリッジ, 一歩後退二歩前進 (1990), p.105。
  (+) 地域ごとに数字はいくぶん変わるけれども、農民は毎年、生存維持の穀物として最低でも10 pud (163 kg)を必要とし、種子として残すために追加して2.5~5 pud (40-80 kg)が必要だった。RevR, No. 14/15 (1921), p.13。
 L・カーメネフは、1914年以前のロシアで、一人当たりの平均穀物消費は一年で16.5 pud (種子穀類を含む)だったと見積もっていた。RTsThIDNI, F. 5, op. 2, delo 9, list 2。
  (175) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.50。
  (176) ジーン・M・インゲルソル, 生態学的災害の歴史的諸例 (1965), p.20。
  (177) V. I. Pokrovskii, in : <略> (1897), p.202。
  (178) V. E. Den, <略> (1924), 209。ファイジズ, 農民ロシア, p.272。
 ---
 ②へとつづく。