つぎの第9節にすすむ。
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 第9節・ネップ下の文化生活。〔p.409~p.410.〕
 ネップのもとでのロシアの文化的生活は、表面的には、体制の初期にあった比較的に多様な姿を示し続けた。
 しかし、スターリン時代の愚かしい画一性へと進む途を歩んでいた。
 教理(doctrin)がいったん決定されると、文化(culture)は党に奉仕すべきものとされ、文化の役割は、共産主義社会を創出するのを助けることだとされた。
 また、出版や演劇に対する検閲や国家独占を通じて教理を実施する装置がいったん作り出されると、文化が政治の召使いになるのは時間の問題にすぎなかった。//
 意外なことだが、このような画一性への圧力は下から生じた。
 党の指導部は、むつかしい選択に直面した。
 彼らは文化を自分たちに奉仕させたかったが、同時に、銃砲や農機具の場合とは違って、芸術や文学は命令どおりには決して産出されえない性質のものだと知っていた。
 彼らはしたがって、妥協をした。すなわち、明確に反共産主義的なものは弾圧したが、〔共産主義との〕同伴者(fellow-travelers)的なものは大目に見た。
 トロツキーは、これについてつぎのように述べた。//
 『党が直接的かつ命令的に指導する領域がある。
 統御し、協働する別の領域もある。
 そして最後に、それに関する情報だけを確保し続ける領域がある。
 芸術は、党が命令を要請されない分野だ。…。しかし、党は、政治的な規準を用いて、有害で破壊的な芸術の諸傾向はきっぱりと否認しなければならない。』(161)//
 このような考え方は、実際には、国家機関が芸術や文学に介入はしないで監視し続けることを意味した。
 報道活動(ジャーナリズム)については、国家が介入する。
 高等教育については、国家が命令する。(162)
 そして実際に、製造業や取引での私的な主導性を許容するネップのもとで、体制側は文化に関しては、本来の厳格さをほとんど主張できなかった。(163)
 レーニンやブハーリンも、このような考え方を共有していた。//
 非共産主義文化に対するこのような寛容さは、自己流の『プロレタリア』作家からの烈しい攻撃に遭うことになった。(164)
 その名前すら忘れられている侵襲者たちには、自分たちの読者がなかった。国家出版局の長官によれば、『たった一人のプロレタリア作家への注文も』受けなかった。(165)
 彼らの残存は、国家の後援に、できれば独占的な性質のそれに、完全に依存していた。
 その後援を獲得するために彼らは、共産主義の旗に身を包んで、政治的に中立な文学を反革命的だと攻撃し、全ての文化が党の要求に奉仕すべきだと主張した。(166)
 彼らは、『文化の最前線』を自認する、教育を充分に受けていない党員たちの支持を獲得した。
 彼ら善良な党員たちは、創造的な知識人たちが、かつやつらだけが、党の統制から免れるという議論には我慢できなかった。(167)
 同伴者たちに寛容な有力な指導者だったトロツキーが1924年早くに不名誉なまま脱落したことは、彼らの教条的考え方の助けになった。//
 紛議を通じて、党は一定の見解を明確にしなければならないことになった。
 党は、いくぶん両義的なやり方で、これを行なった。1924年5月の第13回党大会は、つぎのように決議した。すなわち、いずれの文学上の派や『傾向』も、党の名をもって語る権利を有しないが、何らかの『文学上の批判の問題を調整する』ことがなされるべきである、と。(168)//
 これは、非政治的な文学のことが党大会決定の主題になった初めてのことだった。
 また、公式には文学の異なる『傾向、部門、集団』の間での中立を維持した最後のことだった。この中立性は、党の光を文学作品に当てて検査することとほとんど両立できなくなることが、いずれかのうちに分かってきた。(169)
 自然科学ですら、もはやイデオロギーによる検査や非難を免れなかった。
 共産党の出版物は、1922年までには、アインシュタイン(Einstein)や他の『理想主義的な』科学者を攻撃し始めた。(170)//
 
  (161) L・トロツキー, 文学と革命 (1924), p.165。
  (162) ペシブリッジ, 一歩後退, p.223。
  (163) E・H・カー, 一国社会主義, 1924-1926, Ⅱ (1960), p.78。
  (164) この論争について、同上, Ⅱ, p.76-78。
  (165) 1924年5月9日のN. Meshcherriakov, in : 〔略〕, p.120。
  (166) プラウダ, 第40号(1924年2月19日), p.6。
  (167) クリストファ・リード, 革命ロシアの文化と権力 (1990), p.203。
  (168) Trinadtsatyi S" ezd ロシア共産党(ボ) ,〔略〕(1963), p.653-4。
  (169) カー, 一国社会主義, Ⅱ, p.82-83。
  (170) ペシブリッジ, 一歩後退, p.213。
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 第9節、終わり。