下斗米伸夫「『政治の終焉』から政治学の再生へ-ポスト・ソ連の政治学-」年報政治学1999(岩波、1999)。
 これは、日本政治学会の1998年での学会総会での報告のようだ。
 ロシア・ソ連の1917年から1990年代までの政治史が概観されていることで役立つ。
 詳しい歴史叙述は10月「クー」、スターリン、米ソ冷戦期、解体過程等々について多いが、学会報告の16頁でまとめてくれているから(但し、小さい字の二段組み)、把握しやすい。
 そもそも「ソ連になぜ政治学がなかったのか」という問い自体、20世紀ならどの国でも「政治学」くらいはあるだろうと多くの人が思い込んでいるはずなので、驚きではある。
 しかし、ロシア「革命」等の経緯をある程度知ると、ロシアでは1917年以降に積極的な方向で役立った政治学も行政学も存在しなかっただろうことが分かる。それ以上に、経済学、経営学、会計学、企業論、財政学等々の国家経済を管理・運営していくに必要な学問研究の素地もほとんどなかったことが分かる。
 レーニンらにとって、マルクス(・エンゲルス)の経済学・政治学・哲学、要するにマルクス主義の政治・国家・社会論しかなかったのだから、それでよく「権力」を奪って、国家を運営していこうと、国家を運営できると、思えたものだと、その無邪気さ、またはとんでもない「勇気」に、ある意味では、茫然とするほどに感心する。
 下斗米は、上の問いに対して、①帝制以来の権威主義による未発達、②マルクス主義の陥穽-「政治」従属論・国家の死滅論等によって「政治」固有性を認識させない、③ソ連とくにスターリン体制による政治学を含む社会科学への抑圧、という説明をする(p.20)。
 学問研究を「政治」の支配もとにおけば、後者を対象とする「政治学」など存立できるはずがない。
 日本共産党に関するまともな<社会科学的研究>(政治学・社会学・思想史等々)が生まれるのは、いつになるだろうか。
 また、日本共産党という「共産主義」政党が学界に対する影響力をもっている間は、現在の中国についてもそうだが、かつてのロシア・ソ連についてのまともな学問的研究はおそらくなかったのだろう。ソ連政府による公式資料のみを扱い、決してこの体制を批判しない、日本共産党の党員研究者か又は親社会主義(・共産主義)の学者による研究論文しかなかったのではあるまいか(例えば渓内謙、和田春樹
 アーチー・ブラウン(下斗米伸夫監訳)・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)、という大部の邦訳書がある(約800頁)。最後の三つの章名はつぎのとおり。
 第28章・なぜ共産主義はあれほど長く続いたのか。
 第29章・何が共産主義の崩壊を引き起こしたのか。
 第30章・共産主義は何を残したのか。
 下斗米伸夫(1948-)は、「監訳者あとがき」の中で、つぎのようなことを書いている(p.713-4)。
 1980年代前半の「当時の日本では、少なくとも知的世界の中では、現代ソ連論は学問の対象というよりも、まだ政治的立場の表明のような扱いしか受けておらず、戦後や同時代のソ連について議論をするのはやや勇気の要ることでもあった」。
 自分も「1970年代末にある論壇誌でチェコ介入についてのソ連外交論を書いたが、学界の重鎮から、それとなくお叱りを受けた」。
 フルシチョフ秘密報告、ハンガリー動乱、チェコ1968年の「春」等々は、ろくに「研究」されてはいなかったのだ。ソ連に<批判的>な研究発表は、国家ではなく、日本の学界自体によって抑圧されていたかに見える。
 「政治的立場の表明のような」学問研究・研究論文の発表は、じつは現在でも頻繁になされている、というのが日本の人文社会系の分野の「学問」の実態だろう、とは、この欄でしばしば記してきたことだ。
 下斗米・ソ連=党が所有した国家1917-1991(講談社選書メチエ、2002)を全面改定・増補し、タイトルも変えた、下斗米伸夫・ソビエト連邦史1917-1991(講談社学術文庫、2017)は、モロトフを主人公にすえた通史。ロシア「革命」100年がしっかりと振り返られるきっかけになればよいと思う。
 なにしろ、以下のことから書き始める、広瀬隆・ロシア革命史入門(集英社、2017)という本までが、学問研究の自由 ?と出版の自由のもとでバラ撒かれているのだから。
 広瀬隆の「まえがき」いわく-ロシア革命史を調べて「戦争反対運動を最大の目標としていた」ことに気づいた、「無慈悲な戦争を終わらせ、貧しい庶民に充分なパンを与えるために起こったのがロシア革命であった」。p.7。
 こんなことから出発する<どしろうと>のロシア「革命」史本が100周年で出るのだから、(ソ連解体があったからこそ)ソ連・共産主義の総括のためにも、「専門家」のきちんとした研究書がたくさん必要だ。