前回のつづき。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>と② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)<原著・大判で約600頁>とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」(下記の西山による)一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。したがって、この欄で邦訳を試みている書物①の内容は、上の邦訳書の前半分程度を占めていることになる。内容に大きな矛盾はないだろうが、しかしまた、1990年の本の方が前半部については優に二倍以上の詳細さをもっているだろう。西山克典の訳書を参考にさせていただいていることは言うまでもない。
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 レーニンの青少年期について印象的なのは、彼の同時代の者たちの多くと違って、レーニンは公的な出来事への関心を示さなかった、という事実だ。(3)
 検閲という鉄の掴みがレーニンを非人間的にする前に彼の姉妹の一人が出版した書物から浮かび上がってくるのは、きわめて勤勉な少年の肖像だ。きれい好きで、几帳面な-このタイプを、現代の心理学は、強迫神経症的と分類するだろう。(4) 
 レーニンは模範的学生で、素行を含むほとんど全ての科目で優秀な成績を獲得し、それで毎年金のメダルを授与されていた。
 彼は、クラスのトップの成績で卒業した。
 われわれが利用できる乏しい証拠資料からも、彼の家族に対してであれ体制に対してであれ、反抗的態度の痕跡を見出すことはできない。
 レーニンののちの好敵になるアレクサンダーの父親、フョドール・ケレンスキーはたまたまレーニンがシンビルスクで通っていた学校の校長だった。その校長はレーニンに、カザン大学に進学するように薦めたのだったが、それは、『学校の中でも外でも年長者や教師に対して、言葉によっても行為によっても、好ましくない意見をもつに至る理由を全く示さない』、『無口』で『非社交的』な学生として、だった。(5)
 1887年に高校を卒業するまで、レーニンは『明確な』政治的意見を抱いていなかった。(6)
 レーニンの初期についての伝記には、将来の革命家を暗示するものは何もない。むしろ、レーニンは父親の足跡に従い、名のある官僚の経歴へと進むだろう、ということが示唆されている。
 カザン大学で法学を学修することが認められたのは、このような特性によってだ。これがなければ、彼の家族に関する警察の記録によって、レーニンは大学進学を妨害されていただろう。// 
 大学に入って、レーニンは名高いテロリストの弟だと仲間の学生たちに認識され、秘密の人民の意思グループへと引き摺り込まれた。
 ラザール・ボゴノフを長とするこの組織は、ペテルスブルクを含む他都市の同意見の学生たちとの接触があり、明らかに、アレクサンダー・ユリアノフ〔レーニンの兄〕とその仲間が処刑された行為を実行する意図をもっていた。
 この計画がどの程度進行していたか、レーニンがどの程度関与していたか、を確認することはできない。
 このグループは1887年12月に逮捕され、大学の規制に対する抗議のデモが行われた。
 走り、叫び、両腕を振っているのを目撃されていたレーニンは、短期間だけ、拘留された。
 郷里に戻ったレーニンは、自主退学することを告げる手紙を大学に書き送った。しかし、退学処分を免れようとする企図は失敗に終わった。
 レーニンは逮捕され、39人の学生たちとともに流刑〔追放〕に遭った。
 この苛酷な制裁はアレクサンダー三世が自立や不服従の兆候を抑え込むために用いた典型的な手法だったが、革命運動への新規加入者をつねに与えつづけることにもなった。//
 レーニンはそのうちに忘れられ、復学することが許されたかもしれなかった。捜査の過程で警察がボゴラス・サークルとの関係を暴き、彼の兄がテロリズムに関与していたことを知る、ということがなければ。
 ひとたびこのような事実が知られるようになるや、レーニンは『不審者』リストに掲載され、警察による監視のもとに置かれることになった。
 レーニンおよびその母親の復学を求める請願書は、決まって却下された。
 レーニンの前には、将来がなかった。
 彼は、つぎの4年間、母親のペンションを離れて、強いられた怠惰の生活をおくった。
 彼の気分は絶望的で、母親の請願書の一つによると、すぐにも自殺をしそうだった。
 われわれがもつこの期間のレーニンに関する資料からすると、彼は傲慢な、嫌味のある、友人がいない青年だった。 
 しかし、レーニンを尊敬していたユリアノフ家族の中では、彼は天才の卵であり、その意見は福音(gospel)だった。(7)//
 レーニンはこの期間に、大量の読書をした。
 彼は、1860年代および1870年代の『進歩的』な雑誌や書物を読み漁り、とくにニコライ・チェルニュイシェフスキーの書物には、彼自身の証言文書によると、決定的な影響をうけた。(8)(*)
 この試行錯誤的な期間、ユリアノフ家はシンビルスクの社会からのけ者にされた。人々は、警察の注意を惹きつけることを恐れて、処刑されたテロリストの近親者との交際を断ったのだった。
 これは苦い体験であり、レーニンが過激化するについて、少なからぬ役割を果たしたように見える。
 レーニンが母親とともにカザンへ移った1888年の秋までに、レーニンは完全に巣立ちのできるラディカルになっていた。そして、彼の約束された経歴を切断し、家族を拒否した者たち-帝制支配者層および『ブルジョワジー』-に対する際限のない憎悪で、充ち満ちていた。
 彼の亡兄のような、理想主義へと駆られるロシアの典型的な革命家とは対照的に、レーニンの主要な政治的衝動は、滞留する憎悪だった。
 この感情的な土壌に根ざして、レーニンの社会主義とは、最初から本質的に、破壊という原理(doctrin)のものだった。
 レーニンは将来の世界についてほとんど何も考えず、感情的にも知性的にも、現在の世界を粉砕することに没頭していた。
 この偏執症的な破壊主義こそが、ロシアの知識人を魅惑したり嫌悪させたり、喚起したり畏怖させたりしたものだ。彼らは、ハムレットの逡巡とドン・キホーテの愚昧の間を揺れ動きがちだった。 
 1890年代にレーニンと頻繁に逢ったストルーヴェは、つぎのように言う。//
 『彼の最も重要な-新しい有名なドイツの心理学用語を使うと-気質(Einstellung)は、<憎悪>だった。
 レーニンはマルクス主義の原理を採用したが、それは本質的には、彼の心性のうちのあの重要な<気質>が、その原理に反応したことが理由だ。  
 容赦なくかつ完璧に、敵の最終的な破壊と絶滅を目指す階級闘争の原理は、周囲の現実に対するレーニンの感情的な態度に適応するものだった。 
 レーニンは、実存する専政体制(帝制)や官僚制のみならず、また警察の無法さや恣意性のみならず、それらと対照的なもの-『リベラル』や『ブルジョワジー』-をも、憎悪した。
 あの憎悪には、嫌悪を感じさせる恐ろしい何かがあった。というのは、具体的な-あえて私は野獣的なと言いたいが-感情や反感に根源があるので、それは同時に、レーニンの全存在に似て抽象的でかつ冷酷なものだった。』(9) //
  (3) Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969), p.111-12 参照。
  (8) Valentinov, Early Years, p.111-38, p.189-215。レーニンとの会話にもとづく。
  (*) チェルニュイシェフスキーは1860年代の指導的な過激派宣伝者で、<何がなされるべきか>という、青年に家族を捨てて新しい実証主義的かつ功利主義的な思考方法による共同体に加わるよう促した小説、の著者だ。彼は、現存の世界を腐っていて絶望的だと見なした。この小説の主人公、ラフメトフは、鉄の意思をもつ、過激な変革に完全に献身した『新しい人間』として描かれている。レーニンは、彼の最初の政治的小冊子にこの小説のタイトルを使った。
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第2節につづく。