一 今次の平和安保法案は<集団的自衛権の行使>を容認する憲法解釈に立つものだとされる。
 その場合に前提とされる<集団的自衛権>とは何か。そこでいかなるものが想定されているのか。
 産経新聞6/10の「正論」欄の中西輝政「安保法案は日本存立の切り札だ」は「護憲派」長谷部恭男にも言及のあるタイミングのよい論考だが、そこには1960年「3月に当時の岸信介首相が…答弁しているように」、「一切の集団的自衛権を(憲法上)持たないというのは言い過ぎ」で、「現憲法の枠内での限定的な集団的自衛権の成立する余地」を(日本政府は)認めてきた、という一文がある。
 この岸首相答弁を私は確認することができなかった。但し、1960年3月に当時の林修三内閣法制局長官は、憲法と<集団的自衛権>について、以下のことを述べている。すなわち、①「…外国が武力攻撃を受けた場合に、それを守るために、たとえば外国へまで行ってそれを防衛する」こと、これが「集団的自衛権の内容として特に強く理解されている」が、これは憲法は認めていない。②「現在の安保条約」で「米国に対して施設区域を提供…」、あるいは米国が他国から侵略された場合の「経済的な援助」、こういうことを「集団的自衛権」という言葉で理解すれば、これを憲法が「否定しておるとは考えません」。いずれも、1960.03.31参議院予算委員会答弁。
 また、3月ではなく4月の20日に、岸首相は衆議院安保委員会で、上の①と②と同旨のことを述べている。
 ①「自分の締約国…友好国であるという国が侵略された場合に、そこに出かけていって、そこを防衛する」、これは憲法は認めていない。②「ただ、集団的自衛権というようなことが、そういうことだけに限るのか」。「基地を貸すとか、あるいは経済的な援助をするとか」、それらを内容とするものは、「日本の憲法の上から」いってできる、「それを集団的自衛権という言葉で説明するならばしてもよい」。
 但し、今次に問題になっている<集団的自衛権(の行使)>とは、1960年の時点で政府(岸信介首相ら)が憲法も容認しているとも語っていた基地提供や経済的援助の類を含むものではなく、やはり何らかの<実力の行使>を意味すると考えられる。
 二 近時の国会等での議論では必ずしも表立っては言及されていないように見えるが、<政府解釈>は、以下のような意味での<集団的自衛権(の行使)>は憲法上容認されていないとしてきており、かつそのような解釈は今次の安保法案、およびそれの前提の重要な一つになっている「集団的自衛権行使容認」解釈によっても変更されていない、と解される。否定されていることに変わらない<集団的自衛権(の行使)>とは、次のようなものだ。そして、昨年の閣議決定により<政府解釈>を変更して、容認することとなったそれは、以下のものに<限定>を加えたもので、同一ではない、と解される。
 1.「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている」。しかし、「集団的自衛権を行使することは、…憲法上許されない」(1981.05.29政府答弁)。
 2.「集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されて」いる。「これは、我が国に対する武力攻撃」への対処ではなく「他国に加えられた武力攻撃を実力でもって阻止することを内容とする」ので、「その行使は憲法上許されないと解してきた」(2004.06.18政府答弁書)。
 自国に対する(直接の)武力攻撃に対処するのが「個別的自衛権」の行使、密接な関係にある外国に対する武力攻撃に対処するのが「集団的自衛権」の行使、と相当に単純にまたは簡単に理解されてきた、と見られる。
 このような理解を前提として、いわゆる<新三要件>にもいっさい論及することなく、<集団的自衛権行使容認>に対する反対声明を出したのが、何と、日弁連会長・村越進だった。
 三 また、今回、政府が「論理的整合性」があるとし、<政府解釈>変更に際して前提にしている1972.10.14の参議院決算委員会提出文書のうち、行使が否定されるとする<集団的自衛権>について語っている部分は、以下のとおりだ。
 ①憲法九条は一定の場合に「自衛の措置」をとること禁じてはいない。②「しかしながら、…無制限に認めているとは解されない」。「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認される」のだから、「その措置は、右の事態を排除するためにとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」。③そうだとすれば、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」。④「したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」。
 結論的に言って、2014.07.01閣議決定による<政府解釈>の変更は、上の①・②・③の「基本的な論理」は維持していると見られる。この閣議決定が、(①はもう省略するが)上の②・③についての次の部分は「従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理」であると、述べているとおりだ。すなわち、「この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力の行使』は許容される」。
 だが、閣議決定および今次の法案は、上の④の具体的な適用または結論を<限定または修正>したものと解される。どのように「変更」したのか。2014.07.01閣議決定文書は、次のように述べている。
 「これまで政府は、…『武力の行使』が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、…わが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。…。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」。
 つまり、1.「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に<自衛>権行使を限っていたのを、この場合に限らず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」にも認める、というわけだ。かつ、2.その場合でも実際の行使は「我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき」に限るとされ、3.その態様は「必要最小限度の実力」だとされた。この2.3.は従来の解釈で語られてきたのとほとんど同旨であるので、重要なのは1.ということになる。
 四 上に二で言及したような意味での<集団的自衛権>の行使が容認されたわけではないことは明らかだ、と考えられる。<外国に対する武力攻撃>の発生という要件だけではなく、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」という要件(新三要件の第一)もまた加えられている。その意味で、国際法上のまたは国連憲章が想定する<集団的自衛権>そのものの行使ではないことに注意しなければならない。
 五 長谷部恭男は憲法審査会で、今次の法案(<解釈変更>)は(従来の政府解釈と)「論理的整合性を欠く」と発言したらしい。
 結論が同じではないのだから、まったく「整合性」がとれているわけではないことは当たり前のことだ。この批判は、要するに、<解釈変更は許されない>、<解釈変更自体が違憲だ>と主張していることに究極的にはなるのかもしれない。しかし、そのような批判は成り立たない。
 また、政府側は「自衛措置」をとることの合憲性・違憲性について最も詳しく語っていると見られる1972年の答弁文書をふまえて、そこでの「自衛」権の行使に関する基本的な考え方・論理を維持しようとしている、とは言えるだろう。この点について、安倍内閣を、あるいは自民党中心政府を、批判したい者たち、あるいはアメリカとともに安倍内閣・自民党中心政権を「敵」と見なしている者たちは、何とでも言うだろう。疑うつもりならば、批判したいならば、最初からそういう立場に立てば、何とでも言える。
 もっとも、長谷部恭男は、前回に触れた読売オンライン上の論考では、「論理的整合性」の問題には明示的には触れていない。むしろ、1972年政府答弁文書等々による<集団的自衛権行使否認>解釈を変更すること自体への嫌悪、あるいは安倍内閣に対する不信・悪罵の感情の表明が目立つようだ。さらに続ける。