秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1510/日本の保守-宗教・神道と櫻井よしこの無知④02。

 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-89。
 この櫻井よしこの論考は、月刊正論3月号の<ポスト安倍・論壇は誰か ?>を主題とする、<保守>に関する特集の中にある。そして、この月刊正論3月号は、10人以上の論者に「保守」を語らせながら(その中にこの欄で紹介した小川榮太郎のものもあった)、前に八木秀次「保守とは何か」、最後に櫻井よしこ「これからの保守…」をもってきてそれらを挟むという編集スタイルをとっている。
 このように八木秀次と櫻井よしこを<保守>論者として重視するという編集姿勢そのものにすでに、産経新聞的または月刊正論的、または月刊正論編集部・菅原慎太郎的な<保守>の現況の悲惨さ、惨憺さが現れているだろう。
 上の櫻井論考は6頁あるが、神道・古事記等々は出てきても、「仏教」という語は一回も出てこない。
 櫻井よしこは「保守の特徴」の第一は「日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置」くことだとしている(そして「世界に広く心を開き続ける」ことだとする)。
 この程度のことは誰でも語ることができるし、場合によってはナショナル左翼もまた、この文章自体に反対することはないかもしれないレベルのものだ。
 問題はもちろん、「日本文明の価値観」として何を想定するかにさしあたりはなる。
 櫻井よしこが一切「仏教」に触れていないことは既に記した。櫻井が頻繁に言及しているのは、「十七条の憲法」と「五箇条のご誓文」で、後者は「ご誓文」だけの場合も含めて、(6頁に)7箇所も出てくる。
 「日本文明の価値観」を示したものとして櫻井が最初に挙げるのが「十七条の憲法」で、これと「五箇条のご誓文」は重なるとか似ているとかしきりに言っている。
 そして、聖徳太子・十七条の憲法-天武天皇・古事記-神道-天皇・皇室という流れの中で、「神道」を位置づける。
 明記はないが、「五箇条のご誓文」は(神道・)天皇・皇室中心の<明治>国家の最初の宣言文書という扱いだと理解して、まず間違いないだろう。
 ○ 「十七条の憲法」といえば聖徳太子だが、この人物名の問題は別として、聖徳太子は、仏教を日本で容認してよいかどうかの蘇我氏と物部氏の間の紛議・対立に際して前者を支持して仏教容認派勝利を決定的にした。これは、中学生の教科書にもあるだろう。
 櫻井は上の論考でも最近の別の文章でも聖徳太子を高く評価しているが、「仏教」とのかかわりはどう見ているのだろうか。週刊新潮2017年3/09号にこうある。
 「神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キリスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定である」。
 この部分以外に「仏教」は出てこない。
 しかも、「異教」のそれを受容したことに日本文明または神道の「寛容」性を見る、という文脈の中で位置づけている。
 この頃からおよそ1400年経った。しかも150年ほど前にすぎない1800年代の後半までは、<神仏混淆>・<神仏習合>と言われる時代が長く続いた。かりに600年~1850年として、1250年も続いた。
 この歴史を、櫻井よしこは無視、または少なくとも軽視しているのではないか。
 天皇譲位問題に関するこの人の主張の基礎と同じく、ほとんど明治期以降にしか目を向けていないのではないか。あるいは、<明治日本>を最良・最高の日本だったと観念しているのではないか。
 別の観点から批判的にいえば、日本文明は「異教の仏教」を受け容れたが、基本的にいえば、キリスト教やイスラム教を受容しなかった。
 キリスト教・イスラム教と仏教は、日本人と日本国家にとって、明らかに違うだろう。
 しかし、櫻井よしこの文章には、そこに立ち入っていく姿勢・雰囲気はまるでない。
 聖徳太子以前の時代にだけ「日本文明」を限れば別だが、今や、あるいは飛鳥・奈良・平安等々という時代を通じてずっと、ある程度は日本化した、また日本で新登場した(新解釈された)と見てよい「仏教」を無視または軽視して、日本の伝統的な「文明」も「文化」も語ることはできない、と考えられる。
 櫻井よしこの視野は、偏狭だ。
 ○ 西尾幹二は「仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」と述べた(前回参照)。
 そのとおりだ。諸天皇・皇族は、<信教>のことなどを考える物質的・精神的余裕がなかった時代は別だが、おおむね神仏をともに崇敬していて、中には「仏教」により強く傾斜した天皇も少なくなかった、と思われる(逆に神道の方を重んじた時代・天皇もあったかもしれない)。
 キリがないだろうが、例えば西国三十三カ所巡拝(観音菩薩信仰)は平安時代の花山天皇に由来するともされる。
 また例えば、京都市には今でも無数に(正確には数多く)「門跡」寺院というのが残っていて、これは天皇・皇族が出家して法主等を務めた「仏教」寺院を意味する。
 北白川の曼殊院には秋篠宮殿下家族がご訪問の際の写真が掲示されている。有名寺院の中でも、他に、青蓮院、聖護院、三千院、仁和寺、大覚寺等々、数多く「門跡」である仏教寺院はある。
 櫻井よしこの蒙を啓くためにも、天皇・皇族の<墓陵/陵墓>について、以下に述べる。
 なお、秋月瑛二はこの問題についても<専門家>ではない。そうでなくとも、櫻井よしこがきっと知らないことを知っているし、櫻井よしこが関心を持たないことにも興味をもつのだ。
 ○ 櫻井よしこは、光格天皇を、天皇・皇室の<皇威>を高めた天皇として高く評価していたようだ。
 しかし、光格天皇は、櫻井よしこが本当は反対だったはずの<生前退位>を行なった天皇(最後の)であり、「院政」を敷いたかはこの概念の理解にもよるだろうが、現在のところ最後の<上皇>だった。
 天皇・皇室問題に関連して櫻井よしこがこの天皇に触れたとき(週刊新潮で取り上げたとき)、上のことはどの程度意識されていたのだろう。
 かつまた、光格天皇の死後どのように天皇の「墓陵」は造営されて管理された(管理されている)のか。
 いつぞや「美しい日本」との連載ものの中で下り参道の珍しい例として泉涌寺(京都)を挙げ、ほんの少し「御寺(みてら)」と呼ばれて天皇陵も周辺にあることを記した。
 明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇の墓陵は「後月輪陵」といって、泉涌寺の周辺にある。以下、地図も付いて分かりやすいので、つぎの書物を参照する。
 藤井利章・天皇と御陵を知る辞典(日本文芸社、1990年)。
 祖父の仁孝天皇も同じ「後月輪陵」、父親の孝明天皇はその東の「後月輪東山陵」で、-現地で確認したことはないが-泉涌寺の近くでいわば寄り添っている。
 さらに、17世紀最初の皇位継承者だった後水尾天皇から、明生、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、そして1770年即位の後桃園天皇まで、200年近くの各天皇の墓陵・御陵は全て「月輪陵」であり、泉涌寺の周辺に集中している。
 何となく「御寺(みてら)」という語を印象的に記憶していたが、こうして見ると、泉涌寺と天皇(家)の関係は、少なくとも日本近世ではきわめて密接だった。
 いや、場所的に近いだけで、寺院と墓陵は別だろう、という人が必ず出てくるので、さらに立ちいる。とりあえずは、上掲書の後水尾天皇の項にこうあるとだけ紹介する。
 「…崩御され、…泉涌寺において陵地を決定し、…夜入棺して、泉涌寺の僧徒がこれを手伝った」。p.243。
 つづける。

1509/ネップ期の「見せしめ」裁判③-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
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 第8節・エスエル「裁判」③。
 モスクワの聖職者たちに対する手続の結論が出て1月後、そして同様の訴訟がペテログラードの聖職者たちに開始される4日前、1922年6月6日に、裁判は開廷された。
 起訴状は、被告人たちを一般には反逆とテロルの行為とともにソヴェト国家に対する武装闘争をしたとして追及した。個別には、1918年8月のファニー・カプランによるレーニン暗殺企図とタンボフ反乱のいずれも組織したというのが起訴理由だった。
 かつてモスクワのクラブ・貴族だった舞踏場で行なわれた裁判を見るためには、ほとんど信頼できる党活動家にのみ発行された入場券が必要だった。
 観衆たちは政治劇が上演されているふうに行動し、訴追に拍手を浴びせ、被告人やその弁護人たちをやじった。
 外国人弁護団は最初に、つぎのような、いくつかの手続の特徴に抗議した。すなわち、裁判官全員が共産党員であること、弁護のための多くの目撃証人が証言を妨害されていること、法廷への入場が数名の被告人の友人以外には認められていないこと。
 裁判官は、あれこれの抗議を、ソヴェト法廷は『ブルジョア』的規則を遵守する義務はないという理由で、却下した。 
 裁判の八日め、死刑判決は下されないだろうというその約言をラデックが撤回したあとで、また、速記者をつける権利を含むその他の要求が却下されたあとで、4人の外国人弁護士が、『司法の下手な模造劇(parody)』への参加をやめると発表した。
 そのうちの一人はあとで、この裁判について『人間の生命をまるで雑貨物であるかのごとく取り扱っている』、と書いた。(152)//
 二週間後、手続はもっと醜悪な変化すら見せた。
 6月20日に、政府機関はモスクワの赤の広場で、大量の示威行進を組織した。
 群衆の真ん中で、主席裁判官が検察官と並んで行進した。群衆は、被告人たちへの死刑判決を要求した。
 ブハーリンは、群衆に熱弁を奮った。
 被告人はバルコニーの上に姿を見せて、罵声を浴びて、大群衆の脅かしに晒されることを強いられた。
 のちに、選ばれた『代表団』は法廷へと招き入れられて、『殺人者に死を!』と叫んだ。
 この嘲笑裁判で卑劣な役を演じたブハーリンは、リンチするかのごとき代表群団を『労働者の声』を明確に表現したものとして誉め称えた。このような嘲笑裁判は、16年のちに、もっと捏造された咎でブハーリン自身を非難して死刑を言い渡した裁判と、ほとんど異ならなかった。
 ソヴィエト映画界の有名人、ジガ・ヴェルトフが指揮したカメラは、このできごとを撮影した。(153)//
 エスエルたちは、公正な聴問に似たものを何も受けられなかったけれども、共産主義体制に関して遠慮なく批判する機会を得た-これが、ソヴィエトの政治裁判で可能だった最後ということになった。
 メンシェヴィキが被告人席に立つ順番になった1931年には、証言は注意深くあらかじめ練習させられ、文章の基本は検察側によってあらかじめ準備された。(154)//
 レーニンが予期されることを広汎に示唆していたので、8月7日に宣告された評決は、驚きではなかった。
 1922年3月の第11回党大会で、エスエルとメンシェヴィキの考え方を馬鹿にし、レーニンは、『これのゆえに、きみたちを壁に押しつけるのを許せ』と語った。(155)
 ウォルター・デュランティ(Walter Duranty)は、7月23日付の<ニューヨーク・タイムズ>で、訴訟は告発が『真実』であることを示した、被告人の大多数に対する非難は『確か』だった、『死刑判決のいくつかは執行されるだろう』、と報告した。(156)
 被告人たちは、刑法典第57条乃至第60条のもとで判決を受けた。
 そのうち14人は、死刑だった。しかし、検察側と協力した3人は、恩赦をうけた。(*)
 国家側の証人に転じた被告人たちもまた、赦免された。
 第一のグループの者たちは、いっさい自認しなかった。彼らは、裁判官が評決を読み始めたときに起立するのを拒否し、そのために(デュランティの言葉によると)『自分たちの告別式場から』追い出された。(157)//
 ベルリンでのラデックの早まった約言は裁判所に法的に有効でないとされ、恩赦を求めて正規に懇請するのをエスエルたちは拒んだけれども、裁判官たちは、処刑執行の延期を発表した。
 この驚くべき温情は、暗殺に対するレーニンの過敏な恐怖によっていた。
 トロツキーは、その回想録の中で、レーニンに対して訴訟手続を死刑へとは進めないようにと警告し、そうしないで妥協すべきだと示唆した、と書いている。
 『審判所による死刑判決は、避けられない!。
 しかし、それを執行してしまうことは、不可避的にテロルという報復へと波及することを意味する。…
 判決を執行するか否かを、この党〔エスエル〕がなおテロル闘争を続けるかどうかによって決するしか、選択の余地はない。
 換言すれば、この党〔エスエル〕の指導者たちを、人質として確保しなければならない。』(158)//
 トロツキーの賢い頭はこうして、新しい法的な機軸を生み出すに至った。
 まず、冒していない犯罪、かつまた嫌疑はかけられても決して法的には犯罪だと言えない行為について、一団の者たちに死刑の判決を下す。
 つぎに、別の者が将来に冒す可能性がある犯罪に対する人質として、彼らの生命を確保する。
 トロツキーによれば、レーニンは提案を『即座に、かつ安心して』受諾した。//
 裁判官たちは、つぎのことがあれば、死刑判決を受けた11名は死刑執行がされないと発表するように命じられていた。すなわち、『ソヴェト政府に対する、全ての地下のかつ陰謀的なテロル、諜報および反逆の行為を、社会主義革命党〔エスエル〕が現実に止める』こと。(159)
 死刑判決は、1924年1月に、五年の有期拘禁刑へと減刑された。
 このことを収監されている者たちは、死刑執行を待ってルビャンカ〔チェカ/ゲペウおよび監獄所在地〕で一年半を過ごしたのちに、初めて知った。//
 彼らはしかし、結局は処刑された。
 1930年代および1940年代、ソヴェト指導部〔スターリンら〕に対するテロルの危険性はもはや残っていなかったときに、エスエルたちは、計画的にすっかり殺害された。
 ただ二人だけの社会主義革命党活動家が、いずれも女性だったが、スターリン体制を生き延びた、と伝えられる。(160) 
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  (152) ヤンセン, 見せ物裁判, p.66。
  (153) ロジャー・ペシブリッジ(Roger Pethybridge), 一歩後退二歩前進 (1990), p.206。
  (154) メンシェヴィキ反革命組織裁判〔?、露語〕(1933)。
  (155) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.90。
  (156) NYT, 1922年7月27日付, p.19。
  (*) ブハーリンは、G・セーメノフに対しては温情判決を要請した。NYT, 1922年8月6日付, p.16。16年後のブハーリンに対する見せ物裁判では、ソヴェト指導層〔スターリンら〕に対するテロル企図でブハーリンを有罪にするために、セーメノフの名前が呼び起こされることになる。マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見せ物裁判 (1982), p.183。
 セーメノフは、ブハーリンとともに、スターリンの粛清によって死んだ。
  (157) 同上(NYT), 1922年8月10日付, p.40。
  (158) L・トロツキー, わが生涯, Ⅱ (1930), p.211-2。L・A・フォティエワ, レーニンの想い出 (1967), p.183-4 を参照。
  (159) NYT〔ニューヨーク・タイムズ〕, 1922年8月10日付, p.4。
  (160) ヤンセン, 見せ物裁判, p.178。 
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 第8節、終わり。

1508/日本の保守-「宗教観念」・櫻井よしこ批判④。

 ○ 西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)に、つぎの旨の叙述がある。p.41-70、p.78-、p.95-101、p.167など。(以下、必ずしも厳密でない再述がありうる。但し、大きくは誤っていない)
 水戸光圀・大日本史の編纂にあたって論争点になった三つの「難問」があった。
 ①南朝(後醍醐)は正統か-楠木正成は逆賊でないのか、のほか、
 ②大友皇子(天智の子)は天皇としてよいか、②神功皇后を皇統の一代に数えるべきか。
 これらは、明治維新後の新政府の「歴史」理解の問題ともなり、「水戸学」・大日本史と同じ結論が維持された。
 ①南北朝のうち南朝が正統、②大友皇子は天皇に即位していた(弘文天皇と追号)、③神功皇后(=応神天皇の母)は天皇と同様には扱わない(天皇のように一代とは数えない)。
 以下は、内容も秋月の文になる。
 日本書紀は天武天皇とそれ以降の天武系の天皇のもとで編纂されたので、天智の子・大友皇子(母は伊賀采女)を天皇扱いにしているはずがない(当然だと思うので、確認しない)。大友が天皇に即位していたことを認めてしまえば、<壬申の乱>で天武は天皇を弑逆したことになるからだ。天皇から皇位を奪い取ったことになるからだ。
 大友が即位していなければ、辛うじて、天智天皇の死のあとの弟と子(天武からいうと甥)の間の<皇位継承の争い>という説明ができる。
 明治になって公式に大友皇子=弘文天皇とされたので、当然だが、その一代だけとっても(天智より後は)、日本書紀と今日の理解での各天皇の代数は、少なくとも一つずつ異なる
 <保守>の人々はときに、例えば櫻井よしこも、平気で<~代までつづく>と今日までの代数を示すが、これは明治期以降に「確定」 ?したものだ。
 ○ 同じく、西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)は、西尾自身の言葉として、つぎのことを主張している。同旨は多々あるようだが、つぎの一箇所に限る。p.40。
 明治新政府の「廃仏毀釈というのは善い意味でも悪い意味でも非常に影響の大きい運動」でした。「『国家神道』が唱道され、仏教を廃し神道を重んじる」ことになった。「それが天皇家の復活に寄与したという一面がある」。
 「しかし長い目で見ると、仏教を否定したのは精神史上マイナスであったといわざるをえません。仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」。
 神道の重視は「天皇家の復活には役立った」。「しかし、その結果、日本人の宗教を痩せ衰えさせてしまったという面があるのです」。
 秋月瑛二も、この辺りの理解に賛同したい。私は、神社も寺院もたいていは好きで(レーニンやロシア革命にだけ関心があるのではない)、全国のかなり各地を回っているが、神社・神道と寺院・仏教の違いや類似性、日本化した(おそらく神道の影響を受けた、強いて今日的に分類すれば)仏教・寺院の存在を、肌感覚で感知することがある。
 ○ 櫻井よしこの、以下の論考は、その<保守(主義)宣言>と理解して、今後も複数回とり挙げる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-。
 この中に、つぎの一節がある。
 「古事記は」、「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる。
 「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。p.85。
 このあと段落すら変えないで(改行することなく)、櫻井は古事記の話に入り、「自然が神々であり、それらはやがて人間になり、天皇と皇室が生まれたわけです」と、段落を結ぶ。p.85-86。 
 先に最後の部分に触れると、櫻井よしこは竹田恒泰の著を参照文献のごとく括弧内で挙げている。しかし、竹田恒泰もさすがに自然・神々・人間・天皇の関係を(永遠の自然史の流れとしてはともあれ)「事実」として主張しているのではなく、あくまで古事記に記述された<物語>の内容を説明しているだけだと思われる。
 しかるに、この櫻井よしこの書き方では、まるで天皇とは「現人神」だ。
 そのように「観念」するのはまだよいが、「神」と「天皇」・人間を同一視するかの叙述を「事実」のごとく叙述すべきではないだろう。
 そもそもはこのあたりにすでに、<観念・意識・精神>と<現実・事実>の境界の不分明な櫻井よしこの叙述の特徴が出ている。
 ○ 本来言及したいのは、上の点ではない。
 神道は日本の宗教である、というとき、二つの基本的な論点がある。
 一つは、そもそも「宗教」とは何かだ。明治期には、むしろ特定の<宗教>もどきのものとは神道は扱われなかったという逆説的な理解も可能だ。
 つまり、日本の神道は「宗教」ではなく、「伝統的習俗」類であって、例えば現在の憲法がいう「宗教」とは異なる、という理解も不可能ではないのだ。
 二つは、では、「仏教」は、日本の宗教ではないのか、という問題だ。
 上の引用部分では明らかではないが、櫻井よしこは明らかに、仏教よりも神道を重視している。一つだけとすれば、間違いなく、躊躇することなく、神道を挙げるに違いない。
 一つだけ取り上げる、又は最重視する「宗教」を敢えて名指しする、という考え方は、日本の<保守>あるいは日本国家や日本人にとって、望ましいことなのだろうか。
 ここで再び、冒頭近くに紹介した西尾幹二の主張・叙述に、目を向けるべきではないだろうか。
 櫻井よしこの「頭」は、観念的・単純で、偏狭なのだ。もともと関心があるテーマなので、つづける。

1507/ネップ期の「見せしめ」裁判②-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
 田中充子・プラハを歩く(岩波新書、2001)p.210-2は、「まだレーニンが生きていたから」、ソ連に「いろいろな近代建築が生まれた」、「西欧的な教養を身につけたレーニンが死に」、「スターリンが独裁体制を敷いて自由主義的な風潮にストップをかけ」た、と何の根拠も示さずに書いていた〔2016年9/19、№1387参照〕。
 レーニンと「自由主義的な風潮」という、このような<像>を、田中充子はどこから仕入れたのか?
 田中充子の所属は、京都精華大学。この大学にかつて上野千鶴子も勤めていたことがあるので、わずか二人だけながら、この(おそらく)小規模の大学に好印象を持てなくてもやむをえないような気がする。
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 第8節・エスエル「裁判」②。〔第8節は、p.403-p.409.〕
 『右翼エスエル』と言われる党の指導者たちの裁判について、2月28日に発表があった。ソヴェト政府に反抗する暴力的かつ軍事的な活動を含む反革命行動を理由として、最高革命審判所による裁判にかけられる。(148)
 この発表は、社会主義革命党の多くの友人がいる西側の社会主義諸団体を動揺させた。
 後述するように(p.422)、偶々この頃、モスクワはヨーロッパの社会主義者との『統合前線』に関心をもっていた。
 ラデックは、彼ら社会主義者を宥めるために、1922年4月のベルリンでの社会主義者とコミンテルンとの合同会議で、被疑者は自由に弁護団を選べるし、重い刑罰が適用されることはないだろう、と述べた。
 レーニンはこの譲歩に対して烈しく怒り(『われわれは多く払いすぎた』は、この問題を書いた記事の見出しだった)、死刑にはならないだろうとの約束を破った。
 しかし彼は、その義務を果たすことはできないことを確実にしたうえで、エスエル被告人に外国人弁護団をつけることを許した。//
 登場人物の配役は、慎重に選ばれた。
 34人いた被疑者は、二つのグループに分けられた。
 24人は、真の悪玉だった。その中には、アブラハム・ゴッツやドミトリー・ドンスコイが率いたエスエル中央委員会の12名の委員がいた。
 第二のグループは、小物たちだった。その役割は、検察官に証拠を提出し、告白し、彼らの『犯罪』について後悔することだった。その代わりに、無罪放免というご褒美が与えられることになっていた。
 上演物の目的は、一群のエスエルの党員たちに対して、その党との関係を断ち切るように説得することだった。(149)//
 主任検察官の役は、ニコライ・クリュイレンコが指名された。この人物は、民衆を感銘させる手段として無実の者を処刑するのを好んだと記録されている。(150)
 エスエル裁判は彼に、1930年代のスターリンの見世物裁判で検察官を務めるための経験を与えたことになる。
 クリュイレンコは、ルナチャルスキーおよび歴史家のM・ポクロフスキーに補助された。
 裁判長は、共産党中央委員会の一員であるグリゴリー・ピャタコフだった。
 被告人は三チームの法律家たちによって弁護されたが、そのうち一つは外国から来た4人の社会主義者だった。その代表者、ベルギーのエミール・ヴァンダヴェルデは、第二イナターナショナル〔社会主義インター〕の事務局長で、ベルギーの前司法大臣だった。
 モスクワへの鉄道旅行中、外国人弁護士たちは敵意をもって取り扱われ、たまには集まった群衆の示威行為で脅かされた。
 モスクワでは、『労働者階級に対する裏切り者をやっつけろ!』と叫ぶ組織された大群衆に迎えられた。
 ジェルジンスキーは、爪にマニキュアを施して縁飾りのある靴を履くヴァンダヴェルデの習慣を公表して、彼の評価を落とす定期的な『運動〔キャンペーン〕』を開始するように、チェカの一員に指示した。(151)
 弁護団のもう一つのチームは、上演物の演出家によって任命された。その中には、ブハーリンとミハイル・トムスキーがおり、二人とも〔共産党中央委員会〕政治局のメンバーだった。
 この二人の役割は、味方である被告人の『道徳上の名誉回復』のために弁論することだった。//
 三ヶ月以上続いた予備審問の間に、クリュイレンコは多くの目撃証人を寄せ集めた。
 証人たちは、肉体的苦痛は与えられなかったが、さまざまな方法で協力するように、圧力が加えられた。
 エスエルの中央委員会メンバーたちは、従うのを拒否した。
 彼らの意図は、政府攻撃の公共空間として裁判を利用して、1870年代の政治犯たちを見習うことだった。
 手続の間じゅうずっと、彼らは、印象深い威厳をもって振る舞った。
 エスエルたちはつねに、知恵よりも強い勇気を示した。//
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  (148) レーニン, Sochineniia, XXVII, p. 537-8。
  (149) ヤンセン, 見せ物裁判, p.29。
  (150) リチャード・パイプス, ロシア革命 (1990), p.822〔第二部第17章「『赤色テロル』の公式開始」〕。
  (151) RTsKhIDNI 〔近現代史資料維持研究ロシアセンター(モスクワ)〕, F. 76, op. 3, delo 252。 ---
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 ③につづく。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1505/ネップ期の「見せしめ」裁判①-R・パイプス別著8章8節。

 同じ章の、つぎの第8節へと進む。
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 第8節・エスエル「裁判」①。
 レーニンは闘いを生きがいとした。戦争が、彼の本当の生業(me'tier)だった。
 それを実践するには、敵が必要だった。
 レーニンは、二度、敗北した。
 一度め、国外に共産主義を伝搬させるのに失敗した。
 二度め、自国で社会主義経済を建設するのに失敗した。
 彼は今や、現実にはいない敵と闘うことに力を向けた。
 レーニンが抑圧対象として選んだのは、何らかの行為または意図による理由でではなく、革命秩序を拒否して存在していることだけが理由となる『有罪者』だった。//
 彼の激怒の主な犠牲者は、聖職者と社会主義者だった。//
 クロンシュタット、タンボフ、および党自体の内部からの民主主義分派の出現(後述、p.448-459〔第9章第3節・『労働者反対派』等〕を見よ)によってレーニンは、エスエル〔社会主義革命党〕とメンシェヴィキが彼の体制を打倒しようと経済危機を利用する工作をしている、と確信した。
 不満には正当な原因がある、ということをレーニンは自分に対してすら認められなかった。帝制時代の典型的な警察官にように、全ての無愛想の背後には敵の煽動の仕業があるのではないかと疑った。
 実際には、エスエルとメンシェヴィキはレーニンの独裁制に適応していて、帝制時代にしていたのと同じことをすることが許されていた。責任を帯びずして、静かに愚痴を述べたり、批判したりすることだ。
 彼らは、数千の単位で共産党の党員になった。
 エスエルの中央委員会は、1920年10月には、ボルシェヴィキに対する全ての武装抵抗を止めた。
 しかし、ボルシェヴィキの独特の推論の世界では、『主観的』に欲することと『客観的』にそうであることとは、完全に別のものだった。
 ジェルジンスキーは、逮捕されたある社会主義革命党員に言った。
 『おまえは、主観的には、われわれがもっと多かれと望んだだろう程度に革命的だ。しかし、客観的には、おまえは、反革命に奉仕している。』(*)
 別のチェキストのピョートルは、社会主義者がソヴェト政府に対して拳を振り上げるか否かは重要ではない、彼らは排除されなければらならない、と語った。(140)//
 エスエルとメンシェヴィキは白軍に対抗するモスクワを助けていたので、内戦が進行している間は、彼らは我慢してもらえた。
 内戦が終わった瞬間に、彼らへの迫害が始まった。
 監視と逮捕が1920年に開始され、1921年に強化された。
 チェカは1920年6月1日に、エスエル、メンシェヴィキ、そしてかなり十分にシオニスト、の扱い方を書いた通達をその機関に配布した。
 チェカ各機関は、『協同的組織と協力している労働組合、とくに印刷工のそれ、で仕事をしているメンシェヴィキの破壊活動に特別の注意を払う』ことを指令され、『メンシェヴィキではなく、ストライキの企図者や煽動者その他だと説明して罪状証拠となる資料を、粉骨砕身して収集する』ものとされた。
 シオニストに関しては、保安機関は支持者だと知られる者を記録し、監視の対象にし、集会を開くことを禁止し、違法な集会は解散させ、郵便物を読み、鉄道旅行をすることを許さない、そして『多様な口実を用いて徐々に、〔シオニストの〕住居区画を占拠し、軍隊やその他の組織の必要性でもってこれを正当化する』こととされた。(141)//
 しかし、社会主義者に対する嫌がらせや逮捕では、彼らの考え方が民衆間の重要な階層に訴える力をもつかぎりは、問題を解消できなかつた。
 レーニンは、社会主義者は反逆者だと示すことでその評価を貶め、同時に、自分の体制を左から批判するのは右からのそれと変わらず、いずれも反革命と同じことだと主張しなければならなかった。
 ジノヴィエフは、『現時点では、党の基本線に対する批判は、いわゆる<左翼>派のものでも、客観的に言えば、メンシェヴィキの批判だ。』と言った。(142)
 レーニンは、この点をよく理解させるために、ソヴェト・ロシアで最初の見世物裁判(show trial)を上演した。//
 犠牲者として選んだのは、メンシェヴィキではなく社会主義革命党〔エスエル〕だった。そのわけは、エスエルが農民層の間でほとんど一般的な支持を受けていたことだ。
 エスエル党員の逮捕はタンボフの反乱の間に始まっていて、1921年の半ばまでには、エスエル中央委員会メンバー全員を含めて数千人が、チェカの牢獄の中に座っていた。//
 そして1922年夏、嘲笑の裁判手続がやってきた。(143)
 エスエルを裁判にかけるという決定は、1921年12月28日に、ジェルジンスキーの勧告にもとづいて行なわれていた。(144)
 だが、チェカに証拠を捏造する時間を与えるために、実施が遅れた。
 元エスエルのテロリストで、チェカの情報提供者に変じたゼーメノフ・ヴァシレフが、1922年2月にベルリンで、一冊の本を出版した。(145) この本が、裁判の中心主題だった。
 あらゆる成功した瞞着がそうであるように、この本は、真実と虚偽とを混ぜ合わせていた。
 セーメノフは、1918年4月のファニー・カプラン(Fannie Kaplan)のレーニン暗殺計画に関与していた。そして、この事件について、興味深い詳細を記述していたが、それはエスエル指導部を誤って巻き込んだ。
 のちにセーメノフは、被告人と検察側のスター証人のいずれもとして、裁判に臨むことになる。//
 エスエル裁判について発表される一週間前の1922年2月20日に、レーニンは、司法人民委員〔司法大臣〕に対して政治犯罪や経済犯罪を処理するには手ぬるいとの不満を告げる怒りの手紙を、書き送った。
 メンシェヴィキやエスエルの弾圧は、革命審判所と人民法廷によって強化されるべきだ、とした。(**)
 レーニンは、『模範〔見せしめ〕となる、騒がしい、<教育的な>裁判』を欲した。そして、つぎのように書いた。//
 『モスクワ、ペテログラード、ハルコフその他の若干の主要都市での(早さと抑圧の活力をもって、法廷と新聞を通じてその意味を大衆に教育する)一連の <模範> 裁判の上演(postanovka)。/
 裁判所の活動を改善し、抑圧を強化するという意味で、党を通じての人民裁判官や革命審判所メンバーに対する圧力。
 -これら全てが、系統的に、執拗に、義務的だと斟酌されつつ、実行されなければならない。』(146)//
 トロツキーはレーニンの提案を支持し、〔党中央委員会〕政治局への手紙で、『磨き上げられた政治的産物(proizvedenie)』となる裁判を要求した。(147)
 聖職者については、裁判所よりも煽動宣伝〔アジプロ〕演劇場にもっと似たものが続いた。
 役者は厳選され、その役割は特定され、証拠は捏造され、有罪判決を正当化すべく暴力的雰囲気がふさわしく醸し出され、判決文はあらかじめ党機関によって決定されていた。そして、『大衆』は、路上の劇場にいるように夢中になった。
 正式手続の最大の要素は脇におかれ、被告人たちは、その行為を犯したとされるときには、かつ拘留されたときには犯罪ではない犯罪について、告訴された。なぜならば、被告人たちが裁判にかけられている根拠の法典は、その裁判のわずか一週間前に公布されていたのだ。//
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  (*) マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見世物裁判 (1982), p.19。この規準でいくと、もちろん1917-18年のレーニンは、『客観的』には、ドイツの工作員〔代理人〕だった。
  (140) M. I. Latsis, <略、露語> (1921), p.16-17。
  (141) 社会主義情報〔SV〕, No. 5 (1921), p.12-14。
  (142) Dvenadtsatyi S" ezd RKP (b) (1968), p.52。
  (143) 以下の資料は、大きく、マルク・ヤンセン, <見せ物裁判(Show Trial)>にもとづく。
  (144) V. I. レーニンとVChK (1987), p.518。
  (145) <略、露語>。
  (**) この文書は、レーニン全集の以前の版では削除されており、1964年に初めて以下で完全に出版された。すなわち、レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-400。
 レーニンは、『われわれの戦略を敵に暴露するのは馬鹿げている』という理由で、この内容に関するいかなる言及も禁止した(同上, p.399)。
  (146) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-7。
  (147) Jan M. Meijer 編, トロツキー論集, 1917-1922 (二巻もの), Ⅱ, p.708-9。
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 ②へとつづく。

1504/絶望は人を死に至らしめるか-例えば、レーニンの死。

 ○ 昨年2016年5月に一度、次の本の最後にある山内昌之「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」に言及した。
 D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(NHK出版、1995)。
 山内の文章をあらためて読むと、レーニンの死、あるいはその死因について、興味深い文章が並んでいる。
 長い引用は、避ける。つまるところ、精神(神経)と肉体の関係が語られている。
 例えば、心臓血管と大動脈の狭窄による「動脈硬化症だったと推定されている」が、「しかし、死を早めたのは」、レーニンがその「猛烈なストレスと過労に対して、身体に適応する準備ができていなかったことであろう」。p.381。
 これは、D・ヴォルコゴーノフの著の影響を受けての叙述なのかもしれない。
 ○ ロバート・サーヴィス(河合秀和訳)・レーニン/下(岩波、2002)はもちろんもっと長く、レーニンの死の問題を扱っている。
 そして、やはり「動脈の硬化」に原因を求める(p.256)。
 但し、レーニンの「名誉」を傷つけることとなるような死因ではないことも、強調している。
 この、岩波書店とR・サーヴィスという組み合わせの本に、他に以下がある。
 R・サーヴィス(中嶋毅訳)・ロシア革命/ヨーロッパ史入門(岩波、2005)
 これら二組の岩波+R・サーヴィスの本は、レーニンに対して「穏和」的、「宥恕」的であることに共通性がある。いずれまた、述べる。
 ○ マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇/上・下(草思社、1997)は、きわめて有益な本だと思われる。白須英子の和訳の上手さにも感心する。
 M・メイリア(Martin Malia)はリチャード・パイプスと同世代・同門で、パイプスとは異なると言いつつも(とくにロシア風土とレーニン・ボルシェヴィキとの関係)、ネップあたりの叙述は、基本的なところで、R・パイプスとよく似ている。
 シェイラ・フィツパトリック(Seila Fitzpatrick)とともに(R・サーヴィスとは違い)、反共産主義の意識が強いように見える。
 そのメイリアの<ネップ>に関する総括的叙述も知的刺激を十分に生じさせるもので、邦訳書が刊行されていなければ、手元にある原著を見ながら日本語に訳出してみたいほどだ。
 Martin Malia, The Soviet Tragedy, A History of Socialism in Russia, 1897-1991 (1994)
 邦訳書だと二巻ものになるが、1991年までを対象としつも、原著はR・パイプスの1930年頃までに関する二著の合計にはるかに及ばない。それでも、大判の一冊で、全てを含めて600頁ほどにはなる。
 すでに得ている知識によっても、レーニンは1921年の半ばあたりから体調不調を訴え始めており(1921年3月が第10回党大会)、翌1922年に最初の発作があって半年ほどモスクから離れてかつ戻ったのちに再度の発作、病床にいて<レーニンの遺書>の「物語」の材料を、または「最後の闘い」(日本共産党・不破哲三ら)の痕跡を残しつつ1924年1月に死ぬ。
 上記・メイリアの邦訳書に戻る。上巻のp.267あたりにこうある。
 「病床のレーニンは…こうした危機に絶えず怒りを感じていた。/
 なぜならば、彼は心のなかで、メンシェヴィキが正しかったのかもしれないと懐疑的になっていたにちがいないからである。/」
 レーニンの「肉体的な衰え」は暗殺未遂事件の際の二発の銃弾や「かんばしくない心臓病の遺伝」でもなく、
 「革命家としての失望が『体細胞に作用した』からだと推論する人がいてもおかしくない
」。
 秋月は医学あるいは精神医学の専門家でもちろんないが、精神(神経)と肉体が厳密なところでは分けられないようであることは知っている。
 レーニンについての「動脈硬化」の原因に種々のストレスがあるとすれば、そのストレスの原因に、つぎのこともあるのではなかろうか。
 すなわち、<内戦>をいちおう乗り切った後のロシアの(とくにその経済、そして農業の)疲弊ぶりに直面し、クロンシュタットの水兵暴乱は何とか「鎮圧」したが農民反乱がなお続き、1921年中には<飢饉>も発生しているという現実を意識しての、1917年10月の「革命」は何だったのか、自分は正しく共産党を指導してきたのか、このままで果たして<社会主義>が実現できるのか、という不安や失望・絶望。
 1921年10月の「革命」4周年演説で、<戦時共産主義>とのちに称される基本政策が失敗だったことを、レーニンは自ら認めていた。(*ちなみに、これは<戦時>のゆえではなく、政権奪取後の<共産主義という観念・教条の機械的適用>に、つまりは私的所有否定・国有財産化といった<共産主義>自体に、現実に対応できない、かつ人間の本性を無視した、理論・観念としての過ちがあった、というのが秋月の今の理解だ。)
 では、これからは、どうすればよいのか。1922-23年の段階で、「ネップマン」に見られるような<私的取引の自由>や<市場経済>の限定された復活はあったが、はたして、社会主義・共産主義へと「正しく」進めるのか? 自分の後継者はどうなるのか?
 レーニンに不安や失望・絶望感が襲っても、やむをえないような状況に「客観的には」あっただろう。
 したがって、「動脈硬化」が死因でよいが、強い失望・絶望もまた、死に至らしめた原因だったように思える。
 ○ 他にも例証は挙げられ得るだろう。例えば、戦地での恐怖と絶望、強制収容所での不安と絶望。これらは場合によっては人を自殺へと追い込むことがあるだろう。しかしまた、人の健康・肉体を精神的に(神経を通じて)確実に傷つけるに違いない。勿論、繰り返せば、失望・絶望は、自殺の直接の原因になりうる。
 もとに戻れば、レーニンという人間一人の死は、原因が何であれ、些細なものであるかもしれない。
 だがしかし、レーニンによって指導された党による権力奪取とその後の一党支配・独裁下で、さらにはそれを継承したスターリン体制のもとで、残虐に殺されていった、とりわけロシア・ソ連の多数の人々はいったいどうなるのだ。
 彼らは何のために人として生まれ、死んでいったのか。
 R・パイプスの著の表紙近くの「献辞」は、<犠牲者たちに捧げる>。
 日本人は、決して<共産主義>という過ちを犯してはいけない。

1503/ネップ期の政治的抑圧③-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的抑圧の増大③。
 1920年代の法実務について論じた共産主義法史学者は、法とは『ソヴェト国家の強化と社会主義経済の発展を助ける統制原理だ』と定義した。(*)
 この定義では、国家当局の判断で国家に有害だ又は新経済秩序を阻害するとされるいかなる個人や集団に対する抑圧も、正当化されてしまう。
 かくして、1928-31年にスターリンが行なった『富農(kulaks)』の絶滅は、つまり数百万の農民が土地を奪われて多くは死の強制収容所へと強制移住させられたのは、レーニン主義法学者の使う専門用語の範囲内で、厳格に実施されたことになった。(134)
 ソヴィエトの最初の民法典第1条の定めでは、国民の私法上の権利は、諸権利が『社会経済の目的と矛盾』しない範囲で法によって保護される(naznachenie)。(135)//
 レーニンは、履行すべき新しい仕事について予め理解しやすくしようと、慣習上の法廷手続をなくした。
 いくつかの工夫が、新たに導入された。
 犯罪か否かは形式的な規準(法を侵犯するか否か)によってではなく、感知できる潜在的な影響力、つまり『実質的』または『社会学的』規準によって決定される。この規準によれば、犯罪とは、『ソヴェト体制の基礎を脅かす、社会にとって危険な全ての作為または不作為』だと定義された。(136)
 したがって、『意図』を立証することによって有罪になりえた。制裁を科す対象は、『主観的な犯罪企図』にあった。(**)
 1923年の刑法典第57条の追加条項は、国家機関が同意しない全ての行為を包含するように広く、『反革命』活動を定義した。
 その条項は、統治機構の破壊や弱体化、あるいは『世界のブルジョアジー』への助力を明確に目的とする行為に追加して、つぎのような行為もまた『反革命』だと性質づけた。
 『目標の達成を直接には意図していないが、にもかかわらず、当該行為の実行人物に関するかぎりでは、プロレタリア国家の根本的な政治的経済的征圧物に対する意識的な攻撃(pokushenie)を再示〔represent〕する行為』。(137)
 このように定義すれば、例えば、儲けようとの願望も、反革命的だと解釈でき、重い制裁に値しうることになる。
 K・V・クリュイレンコは、この第57条の修正について、制裁手段のかかる『柔軟性』は、『隠された形態の反革命活動』、その最も一般的な形態を処理するためには必要だ、と注釈した。(138)
 『類推』という原理によって、直接に定義されていないが類似の性質をもつ犯罪についても国民を訴追することが可能になった(刑法典第10条)。(+)。
 このような規準は、際限なく融通がきくものだった。
 党の法思想をその論理的帰結まで押し上げた共産主義法律家のA・N・トライニンは、1929年、スターリンのテロルが進行する前に、『犯罪が存在しない場合でも刑事上の抑圧が適用される例』はある、と論じた。(139)
 法と法手続の破壊へと、これ以上進むことはほとんどできないところに到達した。//
 このような原理の上で演じられる舞台である裁判の目的は、犯罪の存在または不存在を主張し合うことではなく-これは関係党機関によって予め決定されていた-、政治的煽動や情報宣伝の新しい公共空間を、一般国民の教育のために提供することだった。
 党員である必要のあった弁護人は、被告人の有罪を当然視しておくことが要求され、情状酌量を弁論するだけに限定された。
 レーニンが生きている間は、別の被告人に対する偽証によって生じる気の毒に思う感情は無罪放免を勝ち取らせそうだったし、少なくとも、減刑判決につながった。
 その後は、そのような行動では満足させないことになる。//
 法に関するこのような衝撃的事実の第一の犠牲者は、もちろん、その運命が政治的なかつ情報宣伝の考慮でもって決せられる被告人だった。
 しかし、社会全体も高い対価を支払った。
 ロシアの大衆はつねに司法を低く評価していた。大衆がその態度を克服するように、1864年の裁判所改革は徐々に学ばせてきていた。
 しかし今や、この教訓は一瞬のうちに学ばれていないことになった。
 ボルシェヴィキの実務が確認した司法とは、強者を愉しませるものだった。
 そして、法への敬意は社会の適切な作動にとって基本的なことであるのにもかかわらず、レーニンが定式化した無法性(lawlessness)は、言葉の最も完全な意味において、反社会的なものだった。//
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  (*) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.72。このような考え方は、用語ではなく精神的には帝制時代の伝統を継承している。革命前の主要な憲法学者によれば、ロシアでは法の機能は正義の確保というよりも公的秩序の維持にあった。N・M・コルクニノフ, ソヴィエトの現行法, Ⅰ (1909), p.215-222。
  (134) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.74-75。
  (135) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の民法典 (1923)〔露語〕, P.5。ハロルド・ベルマン, ロシアでの正義 (1950), p.27。
  (136) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の刑法典, 第2版 (1922)〔露語〕, 第6章, p.3。
  (**) ルドルフ・シュレジンガー, ソヴィエトの法理論 (1945), p.76。ここでも、ロシアの先哲者は継承されている。1649年の(刑事)法典によると、国家反逆罪が問題になっている事件では、意図と行為は明確には区別できない。リチャード・パイプス, 旧体制下のロシア (1974), p.109。
  (137) SUiR, No. 48 (1923年7月25日), 布令第479号p.877。
  (138) A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 (1925), p.30n。
  (+) この原理は、つぎのように適用される。『(第57条と第74条は)反革命罪および国家行政制度に対する犯罪を一般的に定義している。この第57条と74条にもとづいて、かりに国家反逆罪の一般的概念に含まれる行為がなされたが<具体的に(specifically)>予知されていないとき、…最も適切な同じ章の条項を適用することは許されうる。』
 A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 : Chast' Osobennaia (1925), p.7。
  (139) A・N・トライニン, 刑法: Chast' Osobennaia (1929), p.260-1。
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 第7節・終わり。

1502/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者/レーガン政権。

 ○ 米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』の2008年1月13日付のある記事がネット上で読める。このように書く。
 「25年前の1983年1月17日に、大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)は冷戦勝利の青写真を静かに定式化した」。それは「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号と呼ばれる、「レーガン施政下でのおそらく最も重要な外交政策文書」で、「ソヴィエト共産主義帝国を根本から揺るがそうとする大統領の意図」を具体化するものだった。
 この文書作成を監督したのは「国家安全保障補佐官のビル・クラーク(Bill Clark)」[Bill=William]で、国家安全保障会議でのクラークの副補佐官の一人に、ノーム・ベイリー(Norm Bailey)がいた。ベイリーによれば、「NSDD-75」は「冷戦勝利の戦略計画」だった。
 別の同会議スタッフだったトム・リード(Tom Reed)によると、それは「ゲーム終結の青写真」、「経済的・政治的戦争の秘密宣言文書」だった。
 ”Secret”(秘密)とスタンプされているこの文書の存在・内容を何らかの方法で知ったソヴィエトは、「歴史を脅迫する…新しい指令」と称して警戒感を示した、という。
 ロナルド・レーガン(共和党、元民主党)、1981年1月~1989年1月・米国第40代大統領。すでイギリス・サッチャーは首相になっていて、1981年にフランス・ミッテラン、ドイツ・コールが続き、やや遅れて、日本・中曽根康弘が登場する。
 ソ連では、1985年3月にゴルバチョフがソ連共産党書記長になる。
 そして、レーガン(と特にサッチャー)はゴルバチョフといく度か会談、対ソ連(・東欧)冷戦終結とソ連解体(・東欧諸国「自由」化)への重要な足慣らしをした。
 ○ 2016年は、対ソ連冷戦終結後25年めだった。
 日本もいちおう冷戦「勝利者」だったのだが、祝えるほどの大きな尽力をしたのか否か、米英の指導者やドイツ統一を導いたヘルムート・コール(Helmut Kohl、キリスト教民主同盟=CDU)に比べると、少しは肩身が狭いように感じる。
 それにそもそも、ソ連解体前後を通じて、「反共産主義」の意識・認識がどの程度あったのかは、もちろん米英独各国にも<左翼>または<対共産主義国穏健派>はいたのだが、これら諸国以上に怪しいのではないだろうか。
 日本と日本国民、「保守」を含む学者・研究者や<論壇>は、対ソ連冷戦終結とソ連解体・東欧諸国「自由化」の歴史的意味を、きちんと議論し総括するということをまだしていない、と考える。
 ○ 上にも名の出てきたノーム・ベイリー(Norm Bailey)が2016年発刊の書物の中で一部を担当して書くところによると、「NSDD-75」は同「32」、同「45」、同「54」、同「66」を基礎にしており、各省から集められたグループ(IG, Interdepartmental Group)によって国家安全保障会議の政策文書「米国の対ソ連外交」として原案が1982年8月21日に用意された。
 IGの委員長(議長)は国務副長官のウォルター・ストーセル(Walter Stoessel)。IGの会議でいずれも国務・財務・農務三省の反対でわずか2文だけ削除されたが、あとは一致しての賛成で原案ができた。
 この原案の、従ってさらに「NSDD-75」の「真の執筆者」はリチャード・パイプスだった。
 パイプスは、ハーバード大学を離れて2年間をワシントン(ホワイト・ハウス)で過ごした、「ソヴィエト連邦と東欧問題に責任のあるスタッフだった」
 以上は、Norman A. Bailey, Definig the Sterategy - NSDD75, in : Norman A. Bailey, Francis H. Mario, ed, William P. Clark, foreword, The Grand Strategy That Won the Cold War: Architecture of Triumph <冷戦に勝利した大戦略>(2016/1/14)p.67-68
 ○ リチャード・パイプスの側では、自伝書である、Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger <私は生きたーある非帰属者の回想> (2003)が、上のワシントン時代のことも書いている。「第三部・ワシントン」p.126 - p.211.だ。そのうち、「NSDD-75」に関するのは、p.188 - p.202。
 リチャード・パイプスは、ソ連・東欧問題専門家として、ドナルド・レーガン時代の対ソ連外交方針の形成に大きく関わった。
 R・ニクソン(共和党)は職に就いてから政治の技術・方法として反共産主義を選択したが、R・レーガンは<大統領になる前からの根っからの反共産主義者だった>、ともされる。
 この大統領とともにリチャード・パイプスは、共存でも「デタント」でもない、対ソ圧迫政策を進めるが、究極的にはソ連の瓦解をすら意図していたとされる。
 リチャード・パイプスはロシア専門の学者・研究者(大学教授)だが、その学識からも生成された自身の「反共産主義」性およびソ連の歴史や現状に関する知見でもって、<ソ連解体>の方へと「現実」を変えていく活動を政府の一員としてしたわけだ。
 上の本には、1981-82年頃の、ロナルド・レーガンと二人だけの写真、副大統領だったジョージ・ブッシュ(父ブッシュ)との二人だけの写真も掲載されている。
 ソ連は自分たちだけで自主的にソ連をなくすように追い込んでいったわけではない。「現実」を変えるべく、アメリカでも種々の議論があり「政策」策定もあったわけだ。後者は「見通し」、「計画」であってまだ「観念」ではあるが、それに従えば「現実」も動く、という「観念」もある。それは多くの場合は、おそらく、体系だった、概念も比較的に明確にした、長い文章から成っているのだろう。

1501/ネップ期の政治的抑圧②-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大②。
 ゲペウ(GPU)は表面的には、チェカほどの専横的権力をもたなかった。
 しかし、現実は違った。
 レーニンとその同僚は、問題は民衆によって引き起こされるが、その災いを作った者を除去すれば問題は解決できる、と考えた。
 ゲペウを設立して一ヶ月も経たない1922年3月に、レーニンはピョートルにつぎのように助言した。ゲペウは『賄賂と闘うことができるし、しなければならない』、反対者を攻撃するその他の経済犯罪も同じだ。
 これを実施するための命令が、政治局を通じて司法人民委員部に送付するこことされた。(121)
 8月10日の布令は、『反革命活動』で告発された国民を、外国かロシアの指定した地方に、三年間まで行政的手続で追放する権限を、内務人民委員部に認めた。(122)
 11月に発せられたこの布令の付属書は、『集団強盗』を相当と判断する程度に処理すること、そして、法的手続によることなく『銃殺で処刑することまで』をゲペウに許した。これはさらに、強制労働を伴う追放〔流刑〕と結びついて強力になった。(123)
 ゲペウの司法上の特権は、1923年1月にさらに増大した。特定の地域(かつロシア共和国の境界内部)に住んでいる者がその活動、その過去あるいは犯罪者集団とのその関係からして革命秩序の警護という観点から危険だと見える(appear)場合には、その者を追放する権限が与えられた。(124)
 帝制時代のように、被追放者は護送車で監護されて、部分的には徒歩によって、苛酷な条件のもとで目的地に到達した。
 追放刑は、理屈上は、ゲペウの勧告にもとづいて内部人民委員部により科された。しかし実際には、ゲペウの勧告は判決文に等しかった。
 1922年10月16日には、ゲペウは審問をすることなく、武力強奪や集団強盗の嫌疑があって現行犯逮捕された者たちを処刑〔殺害〕する権限まで認められた。(125)
 かくして、『革命的合法性』の機関として設立されてから一年以内に、ゲペウは、全ソヴィエト国民の生活を覆うチェカの専制的権力を再び獲得した。//
 ゲペウ・オゲペウは、複雑な構造を進化させ、厳密には政治警察の範囲内にあるとは言えない、経済犯罪や軍隊での反国家煽動のような事件にも権限をもつ、特殊な部署をもった。
 その人員は1921年12月の14万3000人から1922年5月の10万5000人へと減らされたが (126)、それでもなお、強力な組織であり続けた。
 というのは、民間人協力者に加えて、軍隊の形態でのかなりの軍事力を利用したからだ。その数は、1921年遅くには、5万人の国境警備別団を別として、数十万人(hundreds of thousands)に昇った。(127)
 国じゅうに配備されたこれら兵団は、帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)と似た機能を果たした。
 ゲペウは国外に、国外ロシア移民を監視し分解させる、コミンテルンの人員を監督する、という二つの使命をもつ『工作機関(agencies)』(agentury)を設置した。
 ゲペウはまた、国家秘密保護局(Glavit)が検閲法令を実施するのを助け、監獄のほとんどを管理した。
 ゲペウに関与されていない公的な活動領域は、ほとんどなかった。//
 集中強制収容所は、ネップのもとで膨らんだ。その数は、1920年の84から1923年10月には315になった。(128)
 内部人民委員部がいくつかを、その他はゲペウが運営した。
 これら強制収容所のうち最も悪名高いのは、極北に位置していた(『特別指定北部収容所』、SLON)。そこからの脱走は、事実上不可能だった。
 そこには、通常の犯罪者とともに、捕獲された白軍将兵、タンボフその他の地方からの反乱農民、クロンシュタットの水兵たちが隔離されていた。
 収容者の中で死亡する犠牲者の数は、高かった。
 一年(1925年)だけでSLONは、1万8350人の死を記録した。(129)
 この強制収容所が満杯になった1923年の夏に、当局はソロヴェツク(Solovetsk)島の古来の修道院を集中強制収容所に作り変えた。そこは、イヴァン雷帝の代以降、反国家や反教会の罪を犯した者たちを隔離するために使われてきた。
 ソロヴェツク修道院強制収容所は1923年に、ゲペウが運営する最大の収容所になり、252人の社会主義者を含めて、4000人の収容者がいた。(130)//
 『革命的合法性』原理は、ネップのもとで日常的に侵犯された。従前と同様に、ゲペウがもつ司法を超える大きな権力のゆえだけではなく、レーニンが法を政治の一部門だと、裁判所を政府の一機関だと考えていたからだ。
 法についてレーニンが抱く考え方は、ソヴィエト・ロシアの最初の刑法典の草案作成過程で明確になった。
 レーニンは司法人民委員のD・I・クルスキーが提出した草案に満足せず、政治犯罪にどう対処するかに関する細かい指示を出した。
 彼は政治犯罪を、世界のブルジョアジーを『助ける虚偽宣伝活動(プロパガンダ)や煽動、または組織参加や組織支援』と定義した。
 このような『犯罪』に対しては、死による制裁が、あるいは酌量できる情状によっては収監または国外追放という制裁が科されるものとされた。(131)
 1845年のニコライ一世の刑法典は政治犯罪を同様に曖昧に標識化していたが、レーニンの定義は、それに似ていた。ニコライ一世刑法典は、『国家当局または国家要人や政府に対する無礼を掻き立てる記述物や印刷物を書いたり頒布したりする罪』を犯した者には苛酷な制裁を科すことを命じていた。
 しかし、帝制時代には、このような行為に死刑が科されることはなかった。(132)
 レーニンの指示に従って、法律官僚は第57条と第58条、裁判所に反革命活動をしたとされる有害人物ついて判決する専制的な権力を与える抱合せ条項を作成した。
 これら条項を、のちにスターリンは、合法性の外観をテロルに付与すべく利用することになる。
 レーニンの指示の意味を彼が認識していたことは、クルスキーに与えた助言からも明らかだ。レーニンは、つぎのように書いた。
 『原理的なかつ政治的な正しさ(かつたんに狭い司法のみならず)、…<テロルの本質的意味と正当化>…』を提示することが司法部の任務だ、『裁判所は、テロルを排除すべきではなく…、それを実現させて原理的に合法化すべきだ。』(133)
 法の歴史上初めて、法手続の役割は、正義を実施することではなく、民衆をテロルで支配することだ、と明言された。//
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  (121) レーニン, PSS, LIV, p.196。 
  (122) 同上のp.335。
  (123) SUiR, No. 65 (1922年11月6日), 布令 844号, p.1053。
  (124) 同上, No. 8 (1923年3月10日), 1923年1月3日付決定 No. 108, p.185。ゲルソン, 秘密警察, p.249-250。
  (125) イズベスチア, No. 236-1, 675 (1922年10月19日), p.3。
  (126) ゲルソン, 秘密警察, p.228。
  (127) 次の、p. 383n を見よ。
  (128) Andrzei Kaminskii, 1896年から今日までの集中強制収容所 :分析 (1982), p.87。ゲルソン, 秘密警察, p.256-7 参照。
  (129) セルゲイ・マセイオフ, in :Rul' No.3283 (1931年9月13日), p.5。ゲルソン, 秘密警察, p.314 参照。
  (130) ディヴッド・J・ダリン=ボリス・I・ニコレフスキー, ソヴィエト・ロシアの強制労働 (1947), p.173。SV, No. 9-79 (1924年4月17日), p.14。
  (131) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
  (132) リチャード・パイプス, 旧体制, p.294-5。
  (133) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
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 ③につづく。

1500/日本共産党こそ主敵だ。反共産主義の「自由と孤独」。

 ○ 一年近く前に日本共産党こそ主敵という旨の文章を書いたが、二つの注記を付しておこう。
 第一に、日本共産党は日本の共産主義者の代表者又は代表的組織という意味であり、その他の共産主義的団体・組織又は個人を批判の対象から外しているわけではない。
 したがって、日本共産党の現在の路線(不破哲三・志位和夫体制)には反対だが、マルクスの理想あるいは論述だけは支持するという団体・組織に対しても、批判的立場にある。
 もっとも、そのような団体・組織はほとんどないかもしれない。
 というのは、ロシア「革命」・レーニンに対して(そしてたぶんスターリンにも)批判的だが、マルクス(・エンゲルス)だけは信じる、という団体・組織があるのか、疑わしいからだ。
 ある・いるとすれば、現実にあった「ソ連」社会主義はレーニンも含めて拙劣で悲劇的だったが、マルクス(・エンゲルス)の資本主義分析や将来展望だけは、正しくかつ「理想」だと思っている個人だろう。
 「左翼的」研究者・学者たちには、<雰囲気>だけでも、あるいは<頭の中>だけでも、そう思っている、または思いたい人々が、日本にはある程度存在しているように思える。この人たちも頭の中は「左翼」で、選挙での投票行動は<反自民党>である可能性が高い。
 つぎに、マルクス(・エンゲルス)は信じる、つまりマルクス主義を信奉しつつ、ロシア「革命」とその主導者・レーニンをロシアにそれを適用し現実化したものとして基本的には擁護する、そして一方で、スターリン以降のソ連・社会主義は支持せず、ソ連解体の原因をマルクス主義やレーニン・ロシア「革命」に内在するものとは見ない、という見地もある。このような見地にも、反対だ。
 これは、日本共産党の見地でもある。
 また、日本共産党のみならず、スターリンを批判する、スターリンから社会主義の道を踏み外したと見る点では日本共産党と同じだが、日本共産党をスターリニストの党として批判する、その他の反日本共産党の共産主義者たちにも、賛同することができない。
 このような組織・団体があることは知っている。有名なもの以外にも、いくつかあるようだ。
 この組織・団体や所属する人たちのことを日本共産党は、今でもきっと「トロツキスト」と呼んでいるのだろう。
 日本共産党は、スターリンはダメで、トロツキーがレーニンの継承者であればよかった、などとは一言も主張していない。また、同党には、理論上・論理上、あるいは歴史的にみて、そのように主張する資格はない。
 では、ロシア「革命」とレーニンを基本的に擁護する考えは日本共産党と「トロツキスト」以外にないかというとそうではなく、トロツキーを支持するわけでもスターリンを支持するわけでもなく、レーニン主義を継承する又は支持する、日本共産党=不破・志位以外の組織・団体以外の組織・団体あるいは個人もありうる。
 このような組織・個人も、日本にあるはずだ。彼らもなお「左翼」・容共主義者だろう。
 さらにいうと、日本共産党からの決裂、または同党との訣別の時期によって、すでに宮本顕治・不破哲三時代から(およそ1990年頃までに)この立場になった人々もいるだろうし、とりわけ1991年のソ連解体やそれへの同党の反応を知って、不破哲三体制ないし不破哲三・志位和夫体制時に分かれた人々もいるかもしれない。
 いろいろと推測できるが、固有名詞の列挙、個人名の特定はしないし、たぶん正確にはできない。
 反日本共産党と言っても、私がこれらの人々あるいは組織・団体に親しみを覚えているわけでも全くない。
 その他、反日本共産党だが、何となく「左翼」で自民党には絶対に(又は候補者が他にいないようなやむをえない場合を除いて)投票しないという人々も多いに違いない。
 非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」というのは、人文社会系の学者・研究者または大学の世界では、最も<安全な>立場だと見られ、イデオロギー・思想・信条とかとは関係なく、人間関係から、又は世すぎ・処世の手段として、この立場にいる者たちも多いように見える。
 しかし、この人たちは「主敵」ではないだろう。「左翼」であっても、じつは融通無碍な人々だ。
 もっとも、非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」と表向きは装いながら、じつは日本共産党の党員だったり、同党の熱烈な支持者だったりすることはある、と推測される。
 日本共産党・党員やその熱烈支持者は、こういう<偽装>を平気ですることができる人たちだ。目的のためならば、手段を選ばない。反・非日本共産党な言辞を吐くことくらいは平気でする、と想定しておいた方がよいように思われる。
 以上で書いたようなことは、じつは、大まかには1920年代ロシアの<ネップ>の評価・論じ方にも関係があるようだ。この回では触れない。
 第二に、日本共産党が当面に、社会主義・共産主義社会の実現を課題とはしていないことは承知しているし、同党を支持する国民たちが(場合によっては党員たちですら)社会主義・共産主義社会の展望を支持しているわけでもないことも、承知している。
 そのような意味で、日本共産党は主敵だと主張しているわけではない。
 問題は、長期的には<社会主義・共産主義の社会>を目指すと綱領に明記する政党に600万人ほどの有権者が投票していることだ。すなわち、<民主主義>でも<反戦・平和>でも<護憲>でも何であれ、「共産主義」を標榜する政党に、それだけ多くの日本国民が<ついていっている>ということだ。
 むろん、彼ら全員が社会主義・共産主義を目指しているわけではないし、同党員の中にすら、そのあたりは曖昧にしつつ、人間関係や処世の手段として入党した者も少なくないかもしれない。
 問題はいつまで<従っていくか>、日本共産党側からいえばどこまで<連れていくか>であって、そのあたりは慎重にかつ警戒しながら、日本共産党は政策立案やその表明をしている。憲法問題、天皇・皇室問題、「平和」問題、等々。
 ○ あえて再び指摘しなければならないのは、日本共産党の存在とその獲得票数や所属議員数から見ても、共産主義は決して日本で消滅していない、ということだ。
 支持者や党員の全員が社会主義・共産主義の「正しさ」を信じていないにしても、日本共産党それ自体は、指導部がそうであるように、日本の共産主義者の組織・団体だ。
 日本の共産主義について、「ネオ共産主義」(中西輝政)とか「共産主義の変形物」(水島総)を語る論者もいるが、そんな限定や形容句をつける必要なく、共産主義と共産主義者は立派に存在している。
 共産主義とは何かという「理論的・学者的」議論をしても、意味がない。
 自分で考える「共産主義」とは離れているから日本共産党は大丈夫だなどと、警戒感を解いてはならない。「正しい」、又は「真正」の共産主義(・マルクス主義)は、「保守」についても同じだが、誰も判断することができないはずのものだ(むろん、したい人は一生懸命に議論し、研究すればよい)。
 某「ほとんど発狂している」論者は、中国は「市場経済」を導入した、日本での共産主義の夢は滅びた、という旨を書いていたが、そのようなタワ言に影響されてはならない。
 明確であるのは、日本共産党・不破哲三らは<市場経済を通じて社会主義へ>の途を目指すと明言し、かつ、現在の中国(共産チャイナ)とベトナムを(あくまで今のところと慎重に言葉を選びつつ)<市場経済を通じて社会主義へ>と進んでいる国家と見なしていることだ。
 日中両共産党は1998年に「友党関係」を回復し、日本共産党・不破哲三もまた、中国共産党が<国際社会主義運動>の一員であることを肯定している。
 中国と中国共産党は、日本共産党にとっての<仲間>なのだ。
 しきりと中国や中国共産党を批判する人々が、なぜ批判の矢を、日本共産党にも向けないのか
 なぜ、反共を一応は謳う<保守>系月刊雑誌には、日本共産党に関する情報がほとんど掲載されないのか。
 日本共産党の影響は、じつはかなりの程度、<保守>的世界を含むマス・メディア、出版業界にも浸透している、と感じている。
 冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている。
 いく度も、このようなことを書かなければならない。

1499/ネップ期の政治的抑圧①-R・パイプス別著8章7節。

 次の節に入る。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大①。〔第7節/p.397~403。〕
 条件つきながらも私企業の出現を認めることになる経済統制の緩和は、ボルシェヴィキにとっては、政治的な危険だった。
 ゆえに彼らは、経済の自由化とともに政治的統制をいっそう強くすることを確認した。
 レーニンは第11回党大会〔1922年3月27日-4月2日〕で、矛盾していると見えるこのような政策の理由を、つぎのように説明した。//
 『栄光の大前進のあとで退却(retreat)するのは、たいへん困難だ。
 今では、諸条件は全く異なる。
 以前は、諸君が党規律を遵守しなくても、全員が自分たち自身で押し合って前へと突進した。
 党規律のことが今や、もっと考慮されなければならない。
 党規律が、百倍以上も必要だ。軍全体が退却しているときに、どこで止まればよいかを知ったり、見たりしないからだ。
 狼狽した声がここでいくつか上がれば、それで総逃亡になってしまう。
 そんな退却が実際の軍隊で起きれば、軍は機関銃部隊を展開する。そして、命じられた退却が壊滅的敗走に変われば、軍は命令する、「撃て(Tire)」。正しくそのとおりだ。』(*)//
 こうして1921年~1928年は、経済の自由化と政治的抑圧の増大とが結びついた時期だった。
 政治的抑圧は、ソヴェト・ロシアにまだ存続している自立組織、すなわち正教教会や対抗する社会主義諸党に対する迫害という形をとった。また、知識層や大学界に対しては、とくに危険だと考えられた知識人の大量の国外追放、検閲の強化、刑事法律の苛酷化によって、抑圧が増大した。
 このようなやり方は、ソヴィエト国家が経済自由化に賛成しているまさにそのときに外国に悪印象を生み出す、と主張して反対する者たちがいた。
 レーニンは、ヨーロッパを歓ばせる必要は全くない、ロシアは<私的関係>や公民の事案に国家が介入するのを強化する方向へ『さらに進む』べきだ、と答えた。(116)//
 このような介入の主たる手段は、闇のテロル機関から全方向に広がる枝葉をもつ官僚機構へとネップのもとで変形した、政治警察だった。
 ある内部的指令文書によると、その新しい任務は、経済状態を近くで監視して、反ソヴェト政党や外国資本による『怠業(sabotage)』を阻止すること、国家へと指定された物品が良質で間に合うように配達されるのを確実にすること、だった。(117)
 保安警察がソヴェトの生活のあらゆる側面を貫き透す程度は、その長、フェリクス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinskii)が就いた地位が示している。
 彼は、あるとき、また別のとき、内務人民委員、交通人民委員、そして国家経済最高会議議長として仕事をした。//
 チェカは完全に憎まれ、無垢な血を流すことに対する悪評は、金を使って人を意のままにすることよりはまだましだった。
 レーニンは1921年遅くに、帝制時代の秘密警察に添うようにこの組織を改革することを決定した。
 チェカは今や、通常の(国家以外の)犯罪に対する権限を剥奪され、それ以降は、司法人民委員部に管理されるものとされた。
 レーニンは1921年12月に、チェカの実績を称えつつ、ネップのもとでは新しい保安の方法が必要で、現在の秩序は『革命的合法性』だ、と説明した。それは、国家の安定化によって政治警察の機能を『狭くする』ことができる、ということだった。(118)//
 チェカは1922年2月6日に廃止され、すぐに国家政治管理局、またはGPU(ゲペウ、Gosudarstvennoe politicheskoe upravlenie)という無害の名前の国家機関が代わった(ソヴィエト同盟の設立後の1924年に、OGPU(オゲペウ)又は『統合国家政治管理局』へと代わる)。
 その管理は変わらず、長がジェルジンスキー、次官はIa. Kh. ピョートル、他の全ての者で、『ルビャンカ〔チェカ本部〕からかき混ぜられたチェカ人はいなかった』。(119)
 帝制時代の警察部局と同様に、GPUは内務省(内務人民委員部)の一部だった。
 それは、『強盗を含む公然たる反革命行動』を鎮圧し、諜報活動(espionage)と闘い、鉄道線路や給水路を守り、ソヴィエト国境を警護し、そして『革命秩序を防衛するための…特殊任務を遂行する』ものとされた。(120)
 その他の犯罪は、裁判所や革命審判所(Revolutionary Tribunals)の管轄に入った。//
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  (*) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕p. 88-P. 89。レーニンは、以前の第10回党大会で、政治問題を解決する手段として機関銃部隊に言及した。労働者反対派の代弁者が機関銃を反対者に向ける脅威について反対したとき、レーニンは、彼の経歴上独特の例に違いないが、詫びて、二度とそのような表現を使わないと約束した。Desiatyi S' ezd, p. 544。
 レーニンは翌年に再び その表現を使ったので、自分の言明を忘れていたに違いない。
 〔レーニンの本文引用部分は、邦訳文がレーニン全集(大月書店)第33巻p.286、にある。そのままなぞった試訳にしてはいない。-試訳者・秋月〕
  (116) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.412。
  (117) RTsKhIDNi, F. 2, op. 2, delo p.1154、1922年2月27日付のS・ウンシュリフトによる草案。
  (118) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕p. 327-329。
  (119) レナード・G・ゲルソン, レーニンのロシアの秘密警察 (1976), p.222。
  (120) イズベスチア, No. 30/1469 (1922年2月8日), p.3。
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 ②につづく。

1498/あるドイツ人-Wolfgang Ruge(1917-2006)。

 ○ 日本人には全くかほとんど知られていないと思う。
 ヴォルフガング・ルーゲ(Wolfgang Ruge)というドイツ人がいる。
 1917年生~2006年没。
 1917年夏にドイツ・ベルリンで生まれた。ロシアでは二月革命と同年の「10月の政変」のちょうど間。レーニンの7月蜂起があった頃。現在からほぼ100年前のこと。
 そのとき、第一次大戦はまだ終わっておらず、2歳の頃までに、戦争終結、ベルサイユ講和条約締結、そして2019年8月のワイマール憲法制定を、したがってドイツ・ワイマール共和国の成立期を、おそらくは記憶しないままで大きくなった。
 1933年の夏、8月末頃、ベルリンからおそらく「難民」として、ソ連・モスクワへと移った。
 そのとき、ワイマール共和国は、ナチス・第三帝国に変わっていた。ナチス党の選挙勝利を経て1933年の初頭に、ヒトラーが政権・権力を握っていた。
 W・ルーゲは、夏に16歳ちょうどくらい。二歳上の兄とともに、ソ連・モスクワに向った。そこで育ち、成人になる。スターリンがソ連・共産主義体制の最高指導者だった。
 戦後まで生きる。戦後も、生きた。そして1982年、ドイツに「帰国」する。
 彼が、65歳になる年だ。
 しかし、それは、ヒトラー・ドイツでもなければドイツ連邦共和国でもなく、「東ドイツ」、1949年に成立したドイツ民主共和国のベルリンへの「帰国」だった。
 そこで「歴史学」の研究者・教授として過ごす。主な研究対象は、ワイマール期のドイツの政治および政治家たちだったようだ。
 1990年、彼が73歳になる年に、ドイツ民主共和国自体が消失して、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一員となる。
 2006年、88歳か89歳で逝去。
 すごい人生もあるものだ。第一次大戦中のドイツ帝国、ワイマール共和国、ヒトラー・ナチス、スターリン・ソ連、第二次大戦、戦後ソ連、社会主義・東ドイツ、そして統一ドイツ(現在のドイツ)。
 1990年以降に、少なくとも以下の二つの大著を書き、遺して亡くなった。
 Wolfgang Ruge, Lenin - Vorgänger Stalins. Eine politische Biografie (2010)。
  〔『レーニン-スターリンの先行者/一つの政治的伝記』〕
 Wolfgang Ruge (Eugen Ruge 編), Gelobtes Land - Meine Jahre in Stalins Sowietunion (2012、4版2015)。
  〔『賞賛された国-スターリンのソ連での私の年月』〕
 ○ 上の後者の著書の最初の方から「レーニン」という語を探すと、興味深い叙述を、すでにいくつか見いだせる。これらが書かれたのは、実際には1981年と1989年の間、つまりソ連時代のようだ(おそらくは子息である編者が記載した第一部の扉による)。
 ・W・ルーゲはベルリンから水路でコペンハーゲン、ストックホルムを経てトゥルク(フィンランド)へ行き、そこからヘルシンキとソ連との国境駅までを鉄道で進んでいる。
 コペンハーゲンからの船旅の途中で(16歳のとき)、この進路は「1917年という革命年にレーニンがロシアへと旅をしたのと同一のルート」だということが頭をよぎる(p.10)。
 このときの記憶として記述しているので、ドイツにいた16歳ほどの青少年にも、レーニンとそのスイスからのドイツ縦断についての知識があったようだ。
 ・W・ルーゲは、ストックホルムより後は、母親の内縁の夫でコミンテルンの秘密連絡員らしきドイツ人の人物とともに兄と三人でソ連に向かう。
 ソ連に入ったときの印象が、こうある。「レーニン」は出てこない。
 フィンランドの最終駅を降りてさらに、「決定的な、20ないし30歩」を進んだ。
 ロシア文字を知らなかったし、理解できなかったが、しかし、「そこには、『万国の労働者よ、団結せよ!』とあるのが分かった。宗教人が処女マリアを一瞬見たときに感じたかもしれないような、打ち負かされるような、表現できない感情が襲った。私は、私の新しい世界へと、入り込んだ」(p.12)。
 ・さかのぼって、ドイツ・ベルリンにいた6歳のときのことを、こう綴っている。
 「レーニンが死んだとき〔1924年1月-秋月〕、6歳だった私は、つぎのことで慰められた。
 レーニンの弟のK・レーニン(カリーニンのこと)がその代わりになり、全く理解できないではない謎かけではなくて、<レーニンは死んだ。しかしレーニン主義はまだ生きている>と分かりやすく表現してくれた。」(p.25)
 このとき彼はすでに、レーニンの名を知っていた。さらに、ソヴィエトの一ダースほどの指導者の名前を知っていた、ともある(同上)。

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1497/食糧徴発廃止からネップへ④-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 今回の最後の、そして第6節最後に一部が引用されるレーニンの文章は、1921年10日18日付<プラウダ>234号に掲載された、レーニン「十月革命四周年によせて」だ。
 これは、レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.37~p.46に収載されている。R・パイプスが以下で引用する部分は、p.44-p.45。
 日本共産党・不破哲三らはこれのすぐ後の1921年10月29-31日の「第七回モスクワ県党会議」報告(同年11月3-4日の<プラウダ>248-9号に連載掲載)を重視していて、「十月革命四周年によせて」という重要性がありそうな題の、こちらの報告・演説文は、いっさい無視しているようだ。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行④〔p.393~p.394〕
十分に展開した新経済政策のもとに包括される結果の総体は、疑いもなく有益(beneficial)だった。不均一にそうだったけれども。
 どの程度有益だったかを正確に決定するのは困難だ。というのは、ソヴェトの経済統計は悪名高いほどに信頼のできないもので、依拠する情報源によって数100%もの違いがあるからだ。(*)
 利益はまず先に、農業に現れた。
 好適な気候はもちろん外国からの種子穀物の寄贈や購入によって、1922年のロシアは大豊作だった。
 耕作面積を増加させようとの新しい税政策に助長された農民たちは、生産を膨らませた。
 作付け面積は1925年に、1913年のそれと同等になった。
 しかし、生産額は革命の前よりも低いままで、収穫高もそれに応じて少なかった。
 集団化の前夜にあたる1928年になっても、それは1913年の数字よりも10%低かった。//
 資本不足や機械の旧式化、迅速な改修を妨げる同種の原因によって、工業生産は、もっとゆっくりと成長した。
 レーニンが爆発的な生産を計算した外国に対する諸権利の付与は、ほとんど何も役立たなかった。外国人は、借款不履行(デフォルト)で資産国有の国に投資するのを躊躇したからだ。
 外国資本に敵対的なソヴェト官僚制は、官僚的形式主義(red tape)やその他の逃げ口上の方法を使って、全力で、権利を与えるのを邪魔した。
 そしてチェカ〔国家秘密政治警察〕、のちのGPU〔ゲペウ、同〕は、ロシアへの外国による経済投資をスパイ活動(espionage)の偽装だと扱うことで、その役割を果たした。
 ネップの最後の年(1928年)には、動いている外国企業はソヴェト同盟の中にわずか31しかなかった。資本でいうと(1925年)、わずか3200万ルーブル(1600万ドル)だった。
 大多数の企業は、工業ではなくロシアの自然資源、とくに森林の利用に従事した。森林は、外国資本が権利を得て投資したうちの85%を占めた。(111)//
 ネップは、ボルシェヴィキが社会主義への不可欠のものだと見なす、総合的な経済計画の策定を妨げた。
 国家経済最高会議は、経済を組織するといういかなる考えも放棄し、できる限りで、ほとんど操業していない〔国有〕工業を『信用』という手段で管理することに集中した。
 この信用は、原材料をの融通はむろん、財政上の援助から受けた。その他の原材料は、公開市場で自由に購入した。
 それら工業が費用を自分で賄ったあとでは、生産全体が政府の手に委ねられた。
 経済計画の策定のために、レーニンは1921年2月に、Gosplan として広く知られる、新しい機関を設立した。その直接の任務は、電化のための壮大な計画を実施することで、それは将来の産業および社会主義の発展の基盤を提供することになるとされた。
 レーニンは、ネップの前の1920年にすら、ロシア電化全国委員会(GOELRO)を創設していた。それは来る10年から15年のうちに、主として水力エネルギーを発展させることで国家の電気供給能力を膨大に増加させることになる、とレーニンは期待した。
 レーニンは、この計画が他の諸解消を拒んでいた問題をこの計画の能力が解決できる、という奇想天外な期待を抱いた。
 レーニンの願望は、世に知られるつぎの彼のスローガンに表現されている。
 『ソヴェト+電化=共産主義』。これの精確な意味は、今日まで理解し難いままだ。(112)
 第12回党大会(1923年)の諸決定で、電化は経済計画の中心焦点で、国家経済の将来の『鍵となる石』だと叙述された。
 レーニンにとっては、これが意味するものは、なおも壮麗だった。
 彼は純粋に、電力の普及によって資本主義者精神がその最後の生存稜堡である農民家族経済で破壊されるだろうと、また宗教信仰も根こそぎ掘り返されるだろうと信じた。
 サイモン・ライバーマン(Simon Liberman)は、レーニンがつぎのように言うのを聞いた。農民にとって、電気は神にとって代わるだろう、そして彼らは電気に対して祈祷するだろう、と。(113)//
 計画の全体は、新しい夢想家(Utopian)の企画に他ならなかった。それは、経費を無視しており、金の欠如のゆえに無駄になるものだった。
 その計画の実現には、10年~15年にわたる毎年10億(1ビリオン)ルーブルの経費が必要だった。
 あるロシアの歴史家は、つぎのように書く。
 『かりに国家産業がほとんど静止状態にあり、かつ外国から必要な機械や技術的設計書を買うための穀物輸出も存在しないとすれば、電化計画は現実には『電気-小説』に似ている。』(114)
 現実の全体から見て、1921年3月のあとに導入された経済的手法は、ロシアに共産主義を持ち込むという一度抱かれた希望からすると、厳しい挫折(setback)だった。
 苛酷な力が問題をどこでも決定できる勝利者だったボルシェヴィキは、現実の経済の不変の法則によって敗北した。
 レーニンは、1921年10月に、そのことをつぎのように認めていた。〔以下、上掲レーニン全集による和訳を参考にする。〕
 『われわれは、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的配分とをプロレタリア国家の能力にもとづき共産主義的に組織しようと、あてこんで(count)いた。-いや、と言うよりも、つぎのように言うのが正確かもしれない。われわれは、十分に考慮することなくして、そのように想定(仮定、assume)していたのだ。
 実生活は、われわれが誤っていた(mistake)ことを示した。』 (115) //

  (111) A. A. Kisalev, in :新経済政策(Novaia Ekonomicheskaia Politika), p.113。
  (112) レーニン, PSS, XLII〔第42巻〕, P.159。
  (113) Simon Liberman, レーニン・ロシアの建設 (1945), p.60。 
  (114) N. S. Simonovin, ISSSR, No. 1 (1992), p.52。
  (115) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.151。
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 第8章・第6節終わり。

1496/日本の保守-歴史認識の愚弄・櫻井よしこ③03。

 ○ 櫻井よしこ的「保守」にはいいかげんうんざりしていると、既にいく度か書いた。
 本当は読みたくもないし、それについて何か書きたくもない。精神衛生によくない。
 しかし、自分自身が始めてしまったから、誰にも強いられない立場ながら、やむをえない。櫻井による米大統領トランプ批判(ケチつけ)や、その「天皇」・「宗教」観について、ある程度すでに、書き記す用意ができてしまった。
 ○ 前回に2015年戦後70年安倍内閣談話についての、週刊新潮(同年8/27)誌上での高い評価を見た。
 ところが、櫻井よしこは、この週刊誌の連載ものをまとめた書物では、何と微妙に、あるいはほとんど逆方向にすら、論評内容を変える「追記」を付加している。
 櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)、p.192。
 毎週の週刊誌読者に対して失礼だろう。また、櫻井よしこにとっての「歴史認識」とは何か、櫻井にとっていったん活字にした自分自身の論評とは何か、を強く疑わざるをえない。要するに、この人にとっては、歴史認識も安倍談話も、じつはどうでもよいのではないか。そのときそのときで適当に書いて原稿を渡せればよいのではないか。
 上の本の8カ月ほど前に櫻井は書いて、活字にした。
 例えば、談話は「安倍晋三首相の真髄」、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示す。/談話は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」
 ○ それが何と、上掲書では変質してしまう。これを読んだとき、秋月は、すぐさま、<保守論壇の「八方美人」>と感じて、その旨を一行、一言だけだが、この欄に書いた。
 この変化は、戦後70年安倍談話に対して、(私には当然のことだが)厳しい批判が明言されたことにあるようだ。
 櫻井よしこは、中西輝政と伊藤隆の二人を明示しつつ、「少なからぬ専門家から厳しい批判が寄せられた」と書く。上記、p.192。
 このような反応に櫻井よしこは困ったようで、かつまた、中西輝政らの批判の正当性に(ようやく?)気づいたようで、何とか綻びを繕おうとしている。
 櫻井は何と、つぎのようにここでは言い切っている。
 「両氏の主張、つまり談話批判は全くそのとおりであると認める」。
 中西輝政の批判の中には当然ながら、有識者「21世紀構想懇談会」の報告書によって国家の歴史解釈を規定すべきでない、ということがあった。
 にもかかわらず、週刊新潮の段階では櫻井は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」ことを、安倍談話を高く評価する根拠の一つにしていた。
 中西・伊藤らの主張・談話批判を「全くそのとおりであると認める」ということは、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」というかつての自分の読み方が、完璧に誤りだったと正面から認めているのに他ならない
 しかし、ここが櫻井よしこのしぶとい( ?)ところで、中西輝政が一部で「政治文書」という言葉を使っていることに着目して、つぎのように書く。
 両氏の談話批判は「全くそのとおり」だが、私(櫻井)が安倍首相談話を「評価する理由はそれが政治文書であるという点だ」
 唖然とするとしか、言いようがない。
 中西輝政が「政治文書」と語ったのはおそらく、十分に皮肉を込めてだろう。安倍晋三氏よ、日本国家の歴史認識を「政治」的に操作してよいのか、という意味だろう。ついでに記すと、西尾幹二も「政治的文書」という語を用いて表向き褒めるような導入をしつつ、そのあとで、談話の歴史認識を実質的に批判している(西尾幹二・日本/この決然たる孤独(徳間書店、2016)-原論考・月刊正論2015年11月号「安倍総理へ『戦後75年談話』を要望します」)。
 中西の「政治文書として賞賛措く能わざるほど素晴らしいできだ」という文章が、そのまま安倍談話を「政治文書」として高く評価するものと理解するのは、幼稚すぎる。批判をこめた皮肉だろう。
 すなわち、これまた、日本語文章の意味を全文の中で、種々のレトリックをくぐり抜け、行間も推察しつつ理解する、ということを櫻井よしこができないことを示しているだろう。
 さらに、櫻井は、やや意味不明だが、つぎのようにも書く。
 「政治文書」として高く評価できるが、「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」。上記、同頁。
 この部分は、週刊新潮誌上での、安倍首相談話は「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示した、という無限定の高評価と真反対だ。
 平然とこのように書けるのが櫻井よしこであることを、多くの国民は、とりわけ「左翼」ではない人々は、知らなければならない。「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」というニュアンスなど、2015年夏の時点では何も語っていない。
 本来はかつての文章を全面的に取消し、単行本に収載するに際してはこれを含めない、削除する、というのが、良心的なかつ正義感のある、自己懐疑心のある、立派な「ジャーナリスト」・評論家だろう。
 では、後から持ち出した「政治文書」として評価する、という論じ方は適切なのか。
 中西輝政らの指摘を知ったあとでの後出しジャンケンのごとき論法を持ち出すな、と言いたいが、まともに取り上げてみよう。
 簡単に、論駁できる。
 首相、内閣、大臣等々の談話は、すべてが<政治的>だ。
 彼らが発表する談話、声明等々は、すべて「政治文書」だ。もともと学者の研究論文ではない。
 その「政治文書」の中に、日本国と日本人の<歴史認識>に大きく関係する内容を、しかも根幹的内容として含めてしまってよいのか、というのがそもそもの問題だったのだ。
 櫻井よしこの論法でいえば、村山富市談話も、慰安婦にかかる河野談話も、「政治文書」だからという理由で、免罪されてしまうことになりかねない。
 櫻井よしこは、村山談話や河野談話に対して、「政治文書」か「歴史認識」・「歴史理念」を示す文書かの区別をしたうえで批判してきたのか。
 そんな区別をしていないだろう。
 しかるになぜ、安倍首相2015年談話については、2016年になって「歴史理念」は「村山談話を超えるものではなかった」が、「政治文書」であるという理由で「評価する」と、ヌケヌケと語れるのか。
 ○ 2009年にはすでに、櫻井よしこは信用できない、と感じてきた。
 このような人物を「保守」的「研究」団体の理事長にまつり上げる、又はかつぎ上げることをしなければならない<日本の保守>というものは、本当に絶望的なのではないかと、本当に危ういのではないかと、むろん櫻井のような人物だけなのではないが、強く感じている。
 櫻井よしこ「研究」を、さらにつづける。


1495/食糧徴発廃止からネップへ③-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行③ 〔p.393~p.394〕
 1922年と1924年の間に、モスクワは貨幣なき経済という考え方を放棄し、伝統的な会計実務を採用した。
 政府は予算上の欠損を充たす山積みの紙幣を必要としていたので、会計上の責任体制への移行は困難だった。
 ネップ(新経済政策)の最初の三年間、ソビエト同盟では実際には、二種類の通貨が並んで流通していた。
 一つは、denznaki とか sovznaki とか呼ばれる、実際には無価値の『引換券(token)』、もう一つは、chervonets と呼ばれる、金を基礎にした新しいルーブルだ。//
 ルーブル紙幣は、印刷機が作動するかぎりで急いで製造された。
 1921年にその発行数は16トリリオン(trilliom、16兆)だったが、1922年には2クヴァドリリオン(quadrillion=1000 trilliom、2000兆)に昇った。これは、『16桁の数字をもつ量、財務というよりも晴天の空での天文学を連想させる量』だった。(98)
 無価値の紙券が、洪水のように国を覆いつづけた。政府は一方で、新しい安定した通貨を生み出し始めた。
 財政改革は、ニコラス・カトラー(Nicholas Kutler)に託された。この人物は、銀行家、セルゲイ・ウィッテ内閣の大臣で、政府の仕事から引退したあとは、カデット(立憲民主党)の国会下院議員だった。
 カトラーの奨めで1921年10月に作られた国有銀行(Gosbank)の理事会の一員に、彼は指名された。
 政府が新通貨を発行することや国家予算を帝政時代のルーブルで表記することも、彼の助言によっていた。(99)
 (類似の改革は二年後に、ヒャルマール・シャハト(Hjalmar Schacht)のもとでのドイツでなされることになる。)
 国有銀行は1922年11月に、chervontsy 、5種類の銀行券を発行する権限を与えられた。これら銀行券は、25%は金塊と外国預金、残りは農産物や短期の借款で支えられた。
 新しい各ルーブルは純金7.7グラムに相当し、金の価値は帝制時代の10ルーブルと同じだった。(+)
 Chervontsy は法的な弁済よりも国有企業間の大規模の取引や決済に用いられることが想定されたが、古い引換券(token)と一緒に流通した。後者は、天文学的数字にかかわらず、小規模の小売り取引で必要とされた。
 (レーニンは、貨幣政策としては金を伝統的な地位に復活させる必要があると批判されて、共産主義が世界中で勝利するやいなや、ルーブル紙幣の使用は手洗所の建設に限られることになる、と約束した。)(100)
 1924年2月までに、Chervontsy で表記された貨幣量は10分の9になった。(101)
 引換券(token)ルーブルは1924年に流通しなくなり、帝制時代のルーブルの金の内容をもつ『国家財務省券』が取って代わった。
 このとき、農民は、国家への納税義務を一部又は全部、生産物ではなく金銭で履行することが認められた。//
 租税制度もまた、伝統的な方向で改革された。
 金ルーブルで計算される国家予算は、定期的に作成された。
 1922年に総支出の半分以上に達していた欠損は、次第に小さくなった。
 1924年に公布された法令は、欠損を埋めるための手段として銀行券を発行することを禁止した。(102)//
 国有企業の経営者は抵抗したにもかかわらず、小規模の私企業や協同企業を推進する布令が裁可された。これら企業は、法人格を付与され、限られた数の有給労働者を雇用することが許された。
 大企業は依然として国家の手のうちにあり、政府からの助成金で利益を確保し続けた。
 レーニンは、社会主義の国家的基礎を、彼の権力基盤とともに徐々に破壊するという危険(リスク)がネップにある、ということを十分に察知した。そして、経済の『管制高地』の支配権は政府が維持することを確かなものにした。輸送はもとより、銀行、重工業および貿易(=外国との取引)についてだ。(103)
 中規模の企業は、健全な会計実務に従うように命じられ、自立的になった。その会計実務は、Khozrazchet として知られる。
 怠惰な又は非生産的な中規模企業は、賃貸借の対象になる第一次の候補だと指示された。
 4000以上のこのような企業は、その大部分は小麦製粉業だったが、以前の所有者か又は協同企業に賃貸された。(105)
 こうしたことを容認したことは、設定した基本的考え方で、とくに社会主義の実務ではきわめて嫌悪された被雇用労働者を許した点で、主として重要だ。
 生産に対する実際の影響は、限られていた。
 1922年に国有企業は、価額を規準として、全国家産業生産高の92.4%を占めた。(106)//
 Khozrazchet への移行は、自由な業務や商品の綿密な構造を放棄することを強いた。そのために、およそ380万人の国民は、1920年と21年の間の冬に、政府の費用でもってその基本的な必需品を与えられた。(107)
 郵便と輸送は、〔政府から〕支払われるものとされた。
 労働者は金銭で給料を受け取り、公開の市場で必要な物を何でも購入した。
 配給もまた、次第に少なくなった。
 小売取引は、一歩一歩、私営化されていった。
 国民は、都市の不動産を売買すること、印刷業社を所有すること、薬品や農機具を製造すること、を許された。
 1918年に廃棄されていた相続する権利は、部分的に復活した。(108)//
 ネップは、魅力的でないタイプの起業家、古典的な『ブルジョア』とはきわめて異質な者たちを培養した。(109)
 私企業にとってロシアの環境は根本的に非友好的で、かつその将来は不安定だったので、経済自由化を利用した者たちは、得た利益を明日のことなど考えないで費やした。
 政府やそれと似た社会にパリア人のごとく取り扱われて、『ネップマンたち(Nepmen)』は、現物でもって返報した。
 貧窮のど真ん中で、彼らは贅沢にかつ目立って生活し、高価なレストランやナイトクラブに群らがった。毛皮のコートで身を包んだ愛人たちを見せびらかしながら。//
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  (98) Arthur Z. Arnold, ソヴェト・ロシアの銀行、信用、貨幣 (1937), p. 126。
  (99) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.350-352。
  (+) 帝制時代の『chervonets 』とは、金貨の名前だった。ソヴェトのchervontsy は多くは紙幣で、ある程度は新たに鋳造されたけれども。
  (100) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p. 225。
  (101) N. D. Mets, Nash rubl' (1960), p. 68。
  (102) ソ連の国民経済・1921-23以降〔統計年鑑〕, p.495-6, p. 498。
  (103) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p. 289-290。
  (104) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 34。
  (105) Genkina, Perekhod, p. 232-3。
  (106) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.302-3。
  (107) リチャード・パイプス, ロシア革命, p. 700〔第二部第15章「戦時共産主義」第8節「市場廃棄の努力と陰の経済の成長」〕。
  (108) Allan M. Ball, ロシアの最後の資本家 (1987), p.21-22。
  (109) 同上の各所。
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 ④につづく。

1494/日本の保守-歴史認識を愚弄する櫻井よしこ③02。

 ○ 前回書いたものを読み直して、気づいて苦笑した。
 田久保忠衛について、某「研究」所の副理事長に「おさまっている」ことを皮肉的に記した。
 しかし、田久保忠衛とは、今をときめく?<日本会議>の現会長なのだった。ワッハッハ。
 書き過ぎると櫻井よしこに戻れなくなりそうなので、短くする。
 田久保は櫻井よしこらとともに<美しい日本の憲法をつくる国民の会>の共同代表だ。
 しかるに、田久保が産経新聞社の新憲法案作成の委員長をしていたときの現九条に関する主張と、この会の九条に関する主張(と間違いなく考えられるもの)とは、一致していない。
 些細な問題ではない。九条にかかわる問題であり、かつ現九条一項をどうするのか、という問題についての重要な違いだ(2014冬~2015年春あたりのこの欄で指摘している)。
 この人物はどれほど首尾一貫性をもつ人なのか、それ以来とくに、疑わしく思っている。憲法に関する書物も熟読させていただいたが、深い思索や詳細な知識はない。
 どこかの「名誉教授」との肩書きだが、元「ジャーナリスト」。
 ジャーナリスト・かつ朝日新聞系となると最悪の予断を持ってしまうが、後者は違うようだ(しかし、共同通信や時事通信は?)。
 また、以下の櫻井よしこの文章の中にも出てきて、櫻井を誘導している。
 ○ 2015年末の日韓慰安婦最終決着両外務大臣文書について、櫻井よしこは何と論評していたか。すでにこの欄に記載のかぎりでは、渡部昇一×(西尾幹二+水島総+青山繁晴)、という対立があった。
 櫻井よしこは、産経新聞2016年2/16付「美しき勁き国へ」でこの問題に論及したが、つぎのような結論的評価を下している。
 「昨年暮れの日韓合意は確かに両国関係を改善し、日米韓の協力を容易にした。しかし、それは短期的外交勝利にすぎない」。消極的記述の中ではあるが、しかし、「短期的」な「外交勝利」だと論評していることに間違いはない。続けて言う。
 「『…安倍晋三首相さえも強制連行や性奴隷を認めた』と逆に解釈され、歴史問題に関する国際社会の日本批判の厳しさは変わっていない。」
 「逆に解釈され」?
 そんなことはない。あの文書は、明言はしていないが、河野談話と同じ表現で、「強制連行や性奴隷を認めた」と各国・国際世論素直に?解釈されても仕方がない文書になっている。
 櫻井は、日本語文章をきちんと読めていないし、河野談話を正確に記憶していないかにも見える。
 英訳公文の方がより明確だ。日本語文では「関与のもとに」だが、英語文では「関与した…の問題」になっている。
 つぎの論点も含めて言えるのは、櫻井よしこには、<安倍内閣、とくに安倍晋三を絶対に批判してはいけない、安倍内閣・安倍晋三を絶対に守らなければならない>という強い思い込み、あるいは確固たる?<政治戦略>がある、ということだろう
 したがって、この日韓問題についても、櫻井は決して安倍首相を批判することはない。批判の刃を向けているのは<外務省>だ(そして保守系月刊雑誌にも、安倍内閣ではなく「外務省」批判論考がしばらくして登場した)。
 安倍首相-岸田外相-外務省。岸田や安倍を、なぜ批判しないのだろうか。
 ○ こう書いて奇妙にも思うのは、結果として安倍内閣・自民党の方針には反することとなった今上天皇譲位反対・摂政制度活用論を、櫻井よしこは(渡部昇一らとともに)なぜ執拗に主張とたのか、だ。
 これ自体で一回の主題になりうる。
 憶測になるが、背景の一つは、今上陛下の「お言葉」の段階では、自民党・安倍内閣の基本方針はまだ形成されていない、と判断又は誤解していたことではないか。だからこそ渡部昇一は、安倍晋三が一言たしなめれば済む話だなどと傲慢にも語った、とも思われる。
 しかし、テレビ放送があることくらいは安倍晋三か菅義偉あたりの政権中枢は知っていた、と推察できる。それがなければ、つまり暗黙のうちにでも<了解>がなければ、NHKの放映にならないだろうと思われる。
 実際に、そののちの記者会見で陛下により、「内閣の助言にもとづいて」お言葉を発した旨が語られた。ふつうの国民ですら、それくらいには気づいている。
 ついでに言うと、この問題の各議院や各政党の調整結果についても、高村正彦・自民党副総裁は、同総裁・安倍晋三の了解を得て、事実上の最終決着にしている。ふつうの国民ですら、それに気づいている。
 特例法制定・少なくとも形式上の皇室典範改正に、安倍首相は何ら反対していない。
 櫻井よしこら一部の「日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか」。保守の一部の「言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」(西尾幹二2016年、前回から再引用)。
 ○ つぎに、2015年8月・戦後70年安倍内閣談話を、櫻井よしこはどう論評したか。
 櫻井よしこはまず、週刊ダイヤモンド2015年8月29日号で、「国内では『朝日新聞』社説が批判したが、世論はおおむね好意的だった」と世相・世論を眺めたうえで、「…談話は極めてバランスが取れており、私は高く評価する」と断じた。
 そのあとは例のごとく、鄭大均編・日韓併合期/…(ちくま文庫)の長々とした紹介がつづいて、推奨して終わり。
 読者は、櫻井がほとんどを自分の文章として書いていると理解してはいけない。他人の文章の、一部は「」つきのそのままの引用で、あとは抜粋的要約なのだ。
 これは、櫻井よしこの週刊誌連載ものを読んでいると、イヤでも感じる。この人のナマの思考、独自の論評はどこにあるのだろうとすぐに感じる。むろん、何らかの主張やコメントはあるが、他人が考えたこと、他人の文章のうち自分に合いそうなものを見つけて(その場合に広く調査・情報収集をしているというわけでもない)、適当にあるいは要領よく「ジャーナリスト」らしく<まとめて>いるのだ(基礎には「コピー・ペイスト」的作業があるに違いない)。
 つぎに、詳細に述べたのは、週刊新潮2015年8月27日号うちの連載ものの「私はこう読んだ終戦70年『安倍談話』」だった。
 櫻井よしこはいきなりこう書いていて、驚かせる。
 ・この談話には、「安倍晋三首相の真髄」が、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」が示されている。
 ここに、「ひたすら沈黙を守る」だけではなく「逆に称賛までして」しまう、「日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」(中西輝政2015、前回から再引用)、の典型がいる。
 より個別的に見ても、日本語文章の理解の仕方が無茶苦茶だ。よほどの「思い込み」または「政治的」偏向がないと、櫻井のようには解釈できない。
 ①有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」。
 そんなことは全くない。完全に逆だ。この懇談会の歴史見解をふまえているからこそ、委員だった中西輝政は<怒った>のだ。「さらば、安倍晋三」とまで言ったのだ。
 ②「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」との下りは、「田久保忠衛氏が喝破した」ように、「国際間の取り決めに込められた普遍的原理をわが国も守ると一般論として語っただけ」だ。
 そんなことは全くない。
 「二度と用いてはならない」と、なぜ「二度と」が挿入されているのだろう。
 日本を含む当時の戦争当事者諸国について言っているのだろうか。
 そのあとにやや離れて、つぎのようにある。
 「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました」
 「そう」の中には、上の「二度と用いてはならない」も含まれている。そのような「誓い」を述べたのは「我が国」なのだ。
 このように解釈するのが、ふつうの日本語文章の読み方だ。英語が得意らしい櫻井よしこは、英訳公文も見た方がよいだろう。
 ③「談話で最も重要な点」は「謝罪に終止符を打ったことだ」。
 はたしてそうだろうか。安倍の、以下にいうBの部分を評価しなくはないが、「最も重要な」とは言い過ぎで、何とか称賛したい気分が表れているように見える。
 安倍内閣談話ごときで、これからの日本国家(を代表するとする機関・者)の意思・見解が完全に固定されるわけでは全くないだろう。いろんな外国があるし、国際情勢もあり、こちらが拒んでも「謝罪」を要求する国はまだまだありそうだ。
 ④これは、櫻井よしこが無視している部分だ。
 談話-「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」、「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」。/「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」。
 櫻井はこの部分を、読みたくないのか、知りたくないのか、無視している。
 安倍談話は、安倍晋三内閣が1995年村山談話(も菅直人談話も)「揺るぎないもの」として継承することを明言するものであることは、明確なのだ。
 だからこそ、村山富市は当時、基本的には異論を唱えなかった、という現実があった。
 これくらいにしよう。じつに、異様きわまりない。「異形の」大?評論家だ。
 ○ 安倍内閣談話の文章は、日本文らしく主語が必ずしも明確ではない。安倍晋三、そして安倍内閣は、そこをうまく利用して?、櫻井よしこら<保守派>をトリックに嵌めたようなものだ、と秋月は思っている。
 その一種のレトリックにまんまと嵌まったのが、櫻井よしこや渡部昇一だっただろう。あるいは、嵌まったように装ったのか。
 先に記したように櫻井よしこは、「朝日新聞社説」だけは?反対した、と書いている。
 朝日新聞が反対したから私は賛成しなければならない、という問題では全くない。そのような単純素朴な、二項対立的発想をしているとすれば、相当に重病だ。
 この点は、当時は書くまでもないと思っていて、ようやく今年2月に書いておいた、以下も参照していただきたい。コピー・貼り付けをする(2/08付、№1427「月刊正論編集部(産経)の欺瞞」)。
 「レトリック的なものに救いを求めてはいけない。/上記安倍談話は本体Aと飾りBから成るが、朝日新聞らはBの部分を批判して、Aの部分も真意か否か疑わしい、という書き方をした。/産経新聞や月刊正論は、朝日新聞とは反対に、Bの部分を擁護し、かつAの部分を堂々と批判すべきだったのだ。/上の二つの違いは、容易にわかるだろう。批判したからといって、朝日新聞と同じ主張をするわけではない。また、産経新聞がそうしたからといって、安倍内閣が倒れたとも思わない。/安倍内閣をとにかく支持・擁護しなければならないという<政治的判断>を先行させたのが、産経新聞であり、月刊正論編集部だ。渡部昇一、櫻井よしこらも同じ」。
 ○ 安倍内閣・安倍晋三をとにかく擁護しなければならない、という「思い込み」、<政治>判断はいったいどこから来ているのか。
 <政治>判断が日本語文章の意味の曲解や無視につながっているとすると、まともな評論家ではないし、ましてや「研究」所理事長という、まるで「研究」者ばかりが集まっているかのごとき「研究機関」の代表者を名乗るのは、それこそ噴飯物だ、と思う。
 ○ 天皇譲位問題もすでにそうだから、2015年安倍談話に関する論評も、いわゆる時事問題ではとっくになくなっている。だからこれらにあらためて細々と立ち入るつもりは元々ない。
 きわめて関心をもつのは、櫻井よしこの思考方法、発想方法、拠って立つ「観念」の内容、だ。
 「観念保守」と称しているのは、今回に言及した点についても、的外れではないと思っている。

1493/食糧徴発廃止からネップへ②-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 なお、不破哲三・レーニンと「資本論」第7巻(新日本出版社、2001)p.118-p.125は、レーニンは1921年10月29日-31日の「第7回モスクワ県党会議」での報告によって、「市場経済を容認し、それと正面から取り組みながら、社会主義への道を探求するというこの方針」に到達したと述べ、かつまた「この報告」は「『新経済政策』の展開の歩みのなかで、その後の歴史にてらしても、もっとも重大な、文字通り画期的な意義をもつものだった」と記す。
 志位和夫・綱領解説第2巻(新日本出版社、2003)p.177-もこれに追随する。志位によると、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のだが(p.179)、つぎのようにも書く。
 レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。新たに転換した路線とは「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ(p.177-8)。
 レーニンの上記報告の全文(邦訳)は、以下。
 レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.70~p.98/「第七回モスクワ県党会議」。
 前回部分もそうだが、この日付や会議名にも留意してR・パイプス著を継続して読むと、興趣を少しはそそられるかもしれない。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行② 〔p.391~p.393〕
 新政策を表明する際に、レーニンは、その政治的意義を強調した。
 農民が人口の大多数を構成するロシアでは、農民から支持を受けないで効果的に統治することはできない。
 カーメネフは内部的な連絡文書で、この政策の第一の目標として『農民層への政治的平穏性の導入』を挙げた(次いで、作付け面積の増加の奨励)。(87)
 従来は階級敵と見なされていた農民層は、これ以来、同盟者だと扱われた。
 レーニンは今や、以前は拒否していたこと、西ヨーロッパーの多くの国とは違ってロシアでは、農村住民の多数は被雇用者でも土地賃借耕作者〔小作人〕でもなく、独立した小規模生産者だ、ということを承認した。(88)
 確かに、上の最後の者は、『プチ・ブルジョアジー』だった。そして、彼らに対する譲歩は、レーニンによると、遺憾な退却(retreat)だが、一時的な(temporary)なものだった。
 レーニンは、『経済上の息つぎ(breathing spell)』だと正当化した。
 ブハーリンとD・B・リャザノフは一方、『農民とのブレスト〔-・リトフスク講和条約〕』だと語った。(89)
 この『息つぎ(breathing spell)』がどのくらい長く続くかについては、何も語られなかった。だがレーニンはある箇所で、農民を変えるのには数世代(generations)かかるだろうことを認めている。(90)
 このような又はその他のレーニンのこの問題についての言葉は、レーニンの究極の目標は集団化であるままだが、スターリンがしたように早くにはそれを開始しなかっただろう、ということを示唆している。//
 1921年4月についてすでに触れたように、新しい政策によって農民世帯は、穀物、馬鈴薯、油用種子について規準の税を課された。
 翌年に、他の農産物がリストに加えられた。すなわち、卵、乳製品、毛織物、タバコ、干し草、果物、蜂蜜、獣肉、および生皮。(91)
 穀物税〔現物税〕の大きさは、赤軍、工業労働者および非農業集団の最小限の必需によって決定された。
 村落ソヴェトの裁量に委ねられた割当額の決定は、規模、自由に使用できる耕作適地の広さ、および地域の穀物生産高に応じて決定される、個々の農民世帯の納入能力と相応したものでなければならなかった。
 布令は、農民に生産増加を促すために、税の規準として、実際に耕作されている土地ではなく耕作がなされる可能性のある土地、つまり全耕作適地の広さを用いた。
 国家への義務を果たす『集団責任』(krugovaia otvetstvennost')の原理は、放棄された。(92)//
 最初の現物税は、2400万Pud〔単位、1トン=ほぼ6 Pud?〕が設定された。これは、1921年に徴収されたよりも600万少なく、1921年について従前に設定された< Prodrazverstka >〔余剰食糧徴発制〕の上限のわずか41%だった。
 政府は、物々交換原理のもとで、農民に工業製品を余剰穀物と交換してもらうことで、不足を埋め合わせることを望んだ。
 これによって、追加して1600万Pud がもたらされるはずだった。(93)
 これらの望みは、何一つ叶えられなかった。主要な穀物生産地帯を1921年春に厳しい干魃が襲ったからだ。
 被害を受けた地域はほとんど何も生まなかったので、徴収できた税は、上記の2400万Pud ではなく、1280万Pud にすぎなかった。(94)
 誰も、どの穀物についても、提案された物々交換をしなかった。交換取引をする工業製品がなかったからだ。//
 新しい政策は直ちには改善につながらなかったけれども-実際に最初は徴集した食糧は < Prodrazverstka >よりも少なかった-、長期的にはきわめて大きい利益になるという共産主義者の思考方法に関して、重要な前進点を画した。
 農民層をたんに収奪の対象として扱うかつての実務とは対照的に、現物税、あるいは< prodnalog >は、農民層の利益も考慮に入れた。//
 新しい農業政策の経済上の利益は、直ちには明らかにならなかった。しかし一方で、政治上の報償は、すぐに与えられた。
 食糧徴発制の廃止は、反乱という帆船隊の帆を根こそぎ吹き飛ばした。
 レーニンは、翌年に、以前は農民蜂起が『ロシアの一般的な絵画を決定』したが、その蜂起はほとんど終わった、と誇ることができた。(*)//
 現物税を導入したとき、ボルシェヴィキ〔共産党〕は、それの影響・効果について何も考えていなかった。無傷で国家経済の中央集中管理を維持することを、意図していたからだ。
 商取引と工場制工業に対する国家独占を放棄することは、ボルシェヴィキが最も望んでいないことだった。
 ボルシェヴィキは、物々交換で農民に工業製品を与えて、穀物の余剰分を吸い上げようと十分に期待していた。
 しかしながら、この期待が非現実的で、その結果としてつぎのことをボルシェヴィキに強いるものであることが、すみやかに明らかになった。すなわち、かつてより野心的な改革を少しずつ実行して、社会主義と資本主義の独特な合成物をついには生み出すことを強いられる、ということだ。両者のこの独特な合成物(hybrid)は、新経済政策(NEP, New Economic Policy)として知られる。(この言葉は、1921-22年の間の冬に初めて一般的になった。)(95)
 現物税は必然的に、自由に処分できる余剰生産物の部分で、農民層に商取引をする権利を認めることを意味した。
 (そうでなければ、農民の生産高を増加させる心的動機としてはほとんど何の影響力も持たないので、自由処分可能な余剰を手放すことは、ただ名目上の譲歩にしかならないだろう。)
 このことは反面では、農業生産についての市場の再生、農業と工業を結びつける不可欠の結節点であり貨幣の循環が甦る領域である市場関係の再建、を意味した。(96)
 < prodnalog >〔現物税〕は、かくして不可避的に、まず最初に、穀物とその他の食糧についての私的取引を復活する途へと誘い込んだ。
 これが生じたとき、穀物取引についての国家独占という要塞を放棄して明け渡すくらいなら、全員を殺させる方がよいとレーニンが誓約したのち、ほとんど15週間も経っていなかった。(97)
 さらに、公認の価値という客体に支えられる安定した通貨制度をもつ、伝来的な貨幣実務が回復することも、意味した。
 また加えて、農民は代わりに工業製品を取得できるときにのみ自分の余剰分を引き渡すので、工業に対する国家独占を放棄することをも意味した。
 これが必要としたのは、また反面では、消費者をもつ工業の相当部分の私営化(privatizing)だった。
 このようにして、国土に広がる共産党に対する蜂起を鎮静化させるために企図された緊急措置は、最後の出口には資本主義とその帰結である『ブルジョア民主主義』の復活が待っている、予め地図に描いていなかった水路へと、共産党の者たちを導いた。(**)//
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  (87) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 9。
  (88) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.57-58。
  (89) 同上, p.69-70。Desiatyi S" ezd, p.224, p.468。
  (90) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.60-61。
  (91) 1921年4月21日の布令, SUiR, No. 38 (1921年5月11日), p.205-8。E. B. Genkina, 新経済政策のソヴェト政府の布令〔?露語〕1921-22 (1954), p. 123-124。
  (92) SUiR, No. 26 (1921年4月11日), 第147条, p. 153。
  (93) E・H・カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ (1952), P. 283-4。
  (94) Genkina, Perekhod, p. 302。
  (*) レーニン, Sochineniia, XXVII〔第27巻〕, P. 347。この文章の文言は、次とは異なる。最新版の、レーニン選集(PSS, XLV, p. 285)。
  (95) <省略、露語>
  (96) Maurice Dobb, 1917年以降のソヴェト経済の展開 (1948), p. 131。
  (97) レーニン, XXXIX〔第39巻〕, p.407。Iu. Poliakov, <省略>を見よ。
  (**) 『戦時共産主義』は即興的なものだったが、ネップは計画された、とふつうは考えられているけれども、現実は、反対方向にあった。
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 ③につづく。

1492/日本の保守-歴史認識の欺瞞・櫻井よしこ③。

 ○ 「歴史認識」という日本の保守にとって譲れないはずの基本的な問題領域で、日本の保守は、大きく崩れてしまっている。正確にいえば、読売新聞系ではない産経新聞系「保守」あるいは自国の歴史について鋭敏なはずの<ナショナル・保守>の保守「論壇」人についてだ。
 おそらく、「観念保守」の人々の歴史認識は、ほとんど全ての人々において、狂っているだろう。あるいはそもそも、きちんと正確に日本の歴史を見つめる勇気がない。あるいは語る勇気がない。あるいは、関心自体がない。
 以上のことを、2015年8月の安倍内閣・戦後70年談話に対する論評の仕方で、残酷にも知ってしまった。
 秋月瑛二自身も、これによって、産経新聞や一部の<保守>をきわめて強く疑うようになった。そして、「観念保守」という概念も見出した。
 ○ もちろん、正気の、まともな<保守>の人たちもいる。
 水島総が月刊正論(産経)誌上の連載を中止しているのは、産経新聞や月刊正論編集部の基本的な<歴史認識>(日韓慰安婦最終決着文書も含む)に従えないという理由でかは、私は知らない。
 だが、安倍晋三とその内閣の<歴史認識>の表明内容を、水島総はきちんと批判している。
 但し、この人の発言等を全部信頼しているのではもちろんない。この人の天皇・皇室への崇敬の情は、私には及びもつかない。
 中西輝政は、歴史通(ワック)2016年5月号で、上記談話への反応に関して、つぎのように書いた。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。p.97。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 西尾幹二は、この欄に既に引用していることを上に続けてさらに掲載するが、月刊正論2016年3月号で、つぎのように書いた。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。
 西尾幹二と中西輝政の二人が、今年に入ってから読んだ雑誌で対談していたが、すぐには見当たらないので、関係する部分があるかもしれないが、省く。
 記憶に頼れば、戦後70年安倍談話を正面から批判したのは、われわれ二人だけだった、という旨を西尾が語っていた。
 二人だけではない。雑誌上でも、伊藤隆は批判派だったし、藤岡信勝や江崎道朗もおそらくそうだろう。他にも、渡部昇一、櫻井よしこ、田久保忠衛らの迎合的反応を苦々しく感じている人々が多数いると思われる(国家基本問題研究所の役員の中にも。しかし、全てではない。「アホ」もいるからだ)。
 小川榮太郎の見解は、知らない。
 ○ ふと気づいたが、櫻井よしこは、週刊新潮2016年12/8号で、朝日新聞社説を批判して、つぎのように言った。
 「朝日社説子は歴史認識について」某を批判した。「噴飯物である。如何なる人も、朝日にだけは歴史認識批判はされたくないだろう。慰安婦問題で朝日がどれだけの許されざる過ちを犯したか。その結果、日本のみならず、韓国、中国の世論がどれだけ負の影響を受け、日韓、日中関係がどれだけ損われたか。事は慰安婦問題に限らない。歴史となればおよそ全て、日本を悪と位置づけるかのような報道姿勢を、朝日は未だに反省しているとは思えない。」
 櫻井よしこは、2015年末日韓慰安婦最終決着を、2015年夏の戦後70年安倍内閣談話を、どう論評したのか。「噴飯物である」。
 歴史認識について、朝日新聞を、上のように批判する資格が、この人にあるのだろうか。
 ひどいものだ。日本語の文章の趣旨を理解できない人物が、「研究」所理事長になっており、田久保忠衛という同じく日本語の文章を素直にではなく自分に?都合良く解釈できる人物が、その研究所の<副理事長>におさまっている。
 いずれこの「研究」所の役員たちには言及するとして、櫻井よしこが戦後70年安倍内閣談話をどう読んだか等について、さらに回を重ねる。
 ○ ついでに、先走るが、櫻井よしこによる米大統領・トランプ批判の底にある、単純な<観念>的なものにも気づいた。
 櫻井よしこは、天皇や日本の歴史にかかわってのみ「狂信者」になるのではない。いや、正確には、「狂信」とまではいかないが、この人は、詳しい知識があるような印象を与えつつ、じつは単純・素朴な<観念>に支えられた、要領よく情報を収集・整理して、まるで自分のうちから出てきたかのように語ることのできる、賢い(狡猾な)「ジャーナリスト」だ。
 心ある、冷静な判断のできる人々は、例えば「国家基本問題研究所」の役員であることを、恥ずかしく思う必要があるだろう。

1491/食糧徴発廃止からネップへ①-R・パイプス別著8章6節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)のp.369-の<第8章・ネップ-偽りのテルミドール>は、目次上は、以下の節で構成されている。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔-条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソ連邦の軍事協力の開始。
 以上。
 このようにR・パイプスが扱う<ネップ期>の範囲・問題は幅広い。
 以下では、<第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行>だけの邦訳を試みる。
 このあたりを指して、日本の某政党(日本共産党)は、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」の途を確立した、とか歴史叙述しているからだ。
 <フランス革命>を終焉させた「テルミドール(七月)」との比較から始まった、アントーノフ運動、クロンシュタット反乱、タンボフの悲劇等々の叙述はすでに終わっている。
 原則として一文ごとに改行し、本来の改行(段落の最後)の箇所には「//」を付す。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行 〔p.388~〕
 クロンシュタット暴動の前にもう、レーニンには明らかに農民たちを宥める必要があると分かった。
 このような考えを促進したかもしれないのは、(1921年)2月9日に起きた西シベリアの農民蜂起だった。(79)
 数万にのぼるパルチザンがトボルスクを含む主要都市を占拠し、ロシア中部を東部シベリアと結ぶ鉄道線路を切断した。
 地方軍では立ち向かうことができず、中央は、この圏域に50000人の兵団を動員した。(80)
 烈しい戦闘が続き、正規軍は最終的にはゲリラ部隊を鎮圧することができた。
 しかし、シベリアからの食糧輸送が二週間途絶えたことは、蜂起がまだ進行中であったなかで、ソヴェト指導者に、農業政策全体を再検討することを強いた。(81)//
 ついに水兵の暴動が発生した。赤軍が海軍基地への最終攻撃を始めるべく場所を定めた3月15日に、レーニンは、新しい経済政策の中核になることになる政策を表明した。それは、< Prodrazverstka > 〔余剰食糧徴発(収奪)制度-試訳者・秋月〕として知られる恣意的な食糧剥奪を廃止して現物税(tax in kind)を採用する政策だった。
 < Prodrazverstka > には、最も広く嫌悪された戦時共産主義の特質があった。-生産物を奪われる農民たちは嫌悪し、食糧が配給される都市住民もまた嫌悪した。//
 食糧徴発は、明らかに恣意的に実施されていた。
 供給人民委員部〔人民委員=ほぼ大臣、従ってほぼ<供給省>〕は、要求する食糧の量を決定した。-その量は、生産者が供給できる量とは無関係に、都市や軍隊の消費者〔・需要者〕に食を与えるために必要な量によって、決定した。
 供給人民委員部はこの数字を、不適切でかつしばしば古い情報にもとづいて、各地方、各地区、各村落ごとの担当量へと割り振った。
 この制度は、残酷であったが、また非効率だった。例えば1920年に、モスクワは< Prodrazverstka >を5億8300万puds(950万トン)に設定したが、何とか集めたのはその量の半分だけだった。(82)//
 徴集担当者は、つぎの二つを前提にして行動した。すなわち、供出するように強いられる穀物は余剰ではなく家族用の食糧や種を確保するために不可欠のものだ、と農民たちが言うのはウソだ。また、農民たちは秘蔵食糧を掘り出すことで損失を補填できる。
 農民たちはこの秘蔵を、1918年と1919年にはできたかもしれなかった。
 しかし、彼らは1920年までには、秘蔵所にいくばくかは残っているとしてもほとんど何もなくなった。その結果がどうだったかは、タンボフ県の事例で見ることができる。そこでは、< Prodrazverstka >は不完全にしか徴集されなかったとしても、農民たちにほとんど何も残さなかった。
 もう何もない、これで全てだ。
 熱心な徴集者は、『余剰』と生存に必要な食糧だけでなく、翌年の作付けのために除けていた穀物をも奪い取っていった。共産党高位官僚の一人は、当局が収穫物の100%を収奪したことを認めた。(*)
 この供出を拒むことは、結果として家畜類が奪われ、殴打されることを意味した。
 付け加えると、徴集員や地方役人は、彼らの要求が抵抗に遭うと、抵抗農民に対して『クラーク(kulak、富農)』に唆(そそのか)された、または『反革命的』なとレッテルを貼ることで、力を得た。また、食糧、畜牛、そして個人的使用の衣類をも勝手気侭に収奪できると思っていた。(83)
 農民は、激しく抵抗した。ウクライナだけで、彼らは1700人の徴集官僚たちを殺害したと報告されている。(84)//
 自らをより痛める政策を考え出すのは困難だっただろう。
 この制度は、農民がより多く生産すればそれだけ多く剥奪されるという、不合理な原理にもとづいて作動していた。この帰結は、自分たちの需要を超えれば、それ以上は何も生産しないという、不変の論理だ。
 ある地域が豊かになればなるほど、それだけ多く政府による略奪を甘受することになる、そうすると、それだけ多く生産を削減しがちになった。国の中央部、穀物不足地帯の一つ、での作付け面積は、1916-17年と1920-21年の間に、18%減少した。一方、穀物過多の主要地域では、同じ比較で33%減った。(+)
 肥料や牽引動物が足りないために面積(エーカー)あたりの生産高が減少したので、1913年に8010万トンだった穀物生産高は、1920年には4610万トンに落ちた。(85)
 1918年と1919年に『余剰』を徴発することがまだできていれば、農民たちは1920年までには、教訓を得て、供出する物は何もないと確信していた。
 農民たちにはパンもなく種もなくなることを意味するとしても政府が欲する物を奪い取っていく、という事態は、明らかに生じなかった。//
 経済的と政治的の二つの理由で、< Prodrazverstka >は放棄されなければならなかった。
 飢餓に直面した農民たちから奪い取れる物は、何も残されていなかった。飢餓は、国土上の広汎な反乱に油を注いでいた。
 政治局〔共産党中央委員会の〕はついに、〔1921年〕3月15日に、< Prodrazverstka >を中止することを決定した。(**) 
 新しい政策は、3月23日に公示された。(86)
 これ以降は、農民たちは、ある特定の量の穀物を、政府機関に供出することが要求された。恣意的な『余剰』の収奪は、終止符を打った。//
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  (79) 同上, 265-70。 
  (80) Desiatyi S" ezd, p.430。
  (81) プラウダ, 51号 (1921.03.08), 1; Radkey, 知られざる内戦, p.229。
  (82) Desiatyi S" ezd, p.415, p.418。
  (*) I. I. Skvortsov, in :Desiati S" ezd, p. 69。農民たち自身の消費や種のために必要な穀物すらも剥奪することを命じた、レーニンの諸指令文書が現存している。レーニン, PSS, XLXⅢ〔第48巻〕, P.219。1921年半ばに供給人民委員部は、穀物の種の半分をタンボフ県からサマラへ輸送するように命令した。TP〔トロツキー文書〕Ⅱ, P.550-1。< Prodrazverstka >の濫用について、イズベスチア(Izvestiia), 42-1-185号 (1921.02.05), p.2。
  (83) Radkey, 知られざる内戦, p.31。
  (84) Tsiurupa, in: Desiatyi S" ezd, p.422。
  (+) Frank A. Golder と Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の軌跡 (1927), p.8。リチャード・パイプス, ロシア革命, p.697-8〔第15章・『戦時共産主義』/第5節・「農業生産力の衰退」〕。カ-メネフは国土全体について、1920年に25%減少したと見積もった。プラウダ, 1921年7月2日号, in: M. Heller, Cahiers 〔ノート〕, XX, No. 2 (1979), p.137。作付け面積の削減は、内戦の間に遂行した敵軍からの収奪によって牽引動物が不足したことによっても惹起された。1920年のロシアとウクライナでの牽引牛馬の数は、革命直前の時期と比べて、それぞれ28%、30%減った。Genkina, Perekhod, p.49。
  (**) Desiatyi S" ezd, p.856-7。トロツキーは思い出して、その自伝(Ⅱ, p.198-9)でつぎのように書く。1920年2月に、中央委員会に< Prodrazverstka >を放棄して現物税を採用すべきと提案したが、票決で負けた、と。レフ・トロツキー, Sochineniia, 第17巻, Pt. 2 (1926), p.543-4。この提案は、きわめて先見の明がある。
  (86) イズベスチア, No. 62-1205 (1921年3月23日), 2。
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 ②へとつづく。

1490/レーニンとスターリン-R・パイプス別著終章6節、日本共産党の大ウソ33。

 日本共産党こそ「主敵」だと書き、主として①ソ連解体後にソ連は「社会主義国」ではなかったと後づけで主張し始めた欺瞞性、②レーニンはネップで<市場経済を通じて社会主義へ>の途を切り拓いたがスターリンがそれを打ち砕いて社会主義への途から転落したという歴史叙述の大ウソ、の二つに言及し始めてから、すでに1年が経過しようとしている。
 リチャード・パイプスの著書の日本語への試訳の紹介も予定より遅れているが、上の元来の関心そのものかきわめて近い、ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳しておこう。原則として全てを改行し、本来の改行(段落の終わり)の箇所には、「//」を付す。
 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節になる。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
 さらに補記すると、「レーニンとスターリン」という論点を設定する、同趣旨だがスターリンはレーニンの後継者かレーニンの破壊者かという問題について論じる、というのは1990年代には珍しくなかったとしても-簡単にR・パイプスも以下のように論及はするが-、今日でのロシア革命・ソ連史(戦前)研究ではさほど関心を惹く主題にはなっていないように見える。以下のような叙述すら珍しいようだ。
 つまりは、<化石>のごとき<スターリン悪玉論>にしがみついてレーニン(とロシア「革命」)だけは原則的に擁護しようとしているのは、ソ連や欧米を含む世界中で、日本共産党・不破哲三らのみだ、と言えるように思われる。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数十万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1489/「左」と「右」の観念論-日本共産党・不破哲三と「研究」所理事長・櫻井よしこ。

 ある種の「左」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「未来」に見る。
 ある種の「右」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「過去」に見る。
 「未来」のことは当然にまだ分からないので、文字通りに夢・理想・ユートピアであって、その内容も、達成方法も、将来についての<観念>でしかない。
 「過去」のことは過ぎ去ったことであり、今ある現実からは遠ざかっているので、その内容は、不可避的に抽象的な<観念>にならざるをえず、過去に一足飛びに戻れるわけではないので、その夢・理想・ユートピアの実現方法も<観念>的に語るしかない。
 今ある<現実>を唾棄すべきものとして正視せず、遠い未来か過去に理想社会・理想の時代を夢見るのは、いずれも<観念>論に陥る危険性がある。
 観念とは、脳内で作られる、かつ外部に表現されることもある、言葉、意識、考え(希望・反希望いずれであれ)、あるいはこれらの組み合せ又は体系だ。
 将来についての言葉・意識・考えは不可避的に、「観念」であるしかない。
 しかし、過去については膨大な歴史的事実が知られているはずであって、それを冷静に見つめれば「観念」論やその体系に嵌まるはずはない。
 しかし、今ある現実を忌避しすぎて、ある特定の時代・時期を単純に理想化して、その時代の過去に戻りたいという熱望が極端に大きくなりすぎると、歴史的現実(過ぎ去った現実)を冷静に、多様かつ総合的に視ることができなくなり、単純な「観念」的把握しかできなくなる。
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 ある種の「左」の人々の典型は、日本共産党だ。
 ある種の「右」の人々の典型は、さしあたり言えば、櫻井よしこだ。また、渡部昇一だ。
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 今年1月末頃に以下の象限表のようなものを提示した。番号を反時計廻りにに見る。
 ②リベラル保守 ①ナショナル保守
 ③リベラル左翼 ④ナショナル左翼
 上と下は、保守(反共産主義)と左翼(容共産主義)の対立。
 左と右は、近代普遍的(とされる、欧米的な)<自由・民主主義>とこれに懐疑的又は批判的なナショナリズムの対立。むろん、諸概念について種々の説明を要し、議論がありうることは承知している。
 それらを割愛していえば、ここでの(今回記しているテーマでの)要点は、①と④は、決して両極に離れたものではなく、すぐ上と下にあるように、存外に?近いものである、ということだ。
 ①が究極化して、ファシズム・ナチズムになったのかもしれない。
 ④が究極化して、レーニン・スターリンのコミュニズム(共産主義)になったのかもしれない。
 そしてまた、これらは<全体主義>として括られることがかなり多い。①の一部と④の一部は共通性がある。
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 日本の現在に即していうと、つぎのような印象がある。
 ④の中には、共産主義、そして日本共産党が入る。
 ①の中には、<観念保守>、日本にのみある「天皇」を至高の価値・存在と考え、「天皇」中心時代への復古を求める、現実(例、アメリカのトランプ)も、過去(例えば、明治維新)もまるで正視できない、冷静にかつ総合的に把握することのできない、一部の<保守>の人々又は団体・組織が入る。
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 日本共産党の不破哲三は、(かつて)<日本の共産主義者は…!>と党大会等で呼びかけて、煽動していた。
 某「研究」所理事長・櫻井よしこは、(日本の)「保守の気概」、「保守の真骨頂」なるものの保持・発揮を、<保守>系雑誌(この言葉は産経・月刊正論3月号上)で呼びかけ、あたかも読者を煽動しているふうだ。
 両者の「思い込み」ぶり、「観念」主義は、どこか似ていないか。

1488/日本の保守-小川榮太郎とその日本の「保守」批判。

 小川榮太郎は、かなり、又はきわめて、鋭敏な「保守主義」者だ。
 小川が、ほとんど適切に平川祐弘の天皇論・譲位制度反対論を批判し、「日本の保守はじつに危うい」と的確に指摘していることは、すでに言及した。
 月刊正論3月号(産経、1917年)では小川は、<「保守主義」者宣言>と題して、つぎのように書く。保守とは何か、自分にとっての保守、というのがおそらく執筆依頼された主題なので、このような批判的叙述をするのは少しは勇気が必要だっただろう。p.76-。旧かな遣いは勝手ながら現代かな遣いに変えた。
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 「戦後イデオロギーは、今や完全に全日本人の遺伝子に浸透し、保守的な『生き方ないし考え方の根本』そのものが、日本人から失われてしまった。保守を自称する人達も例外ではない」。
 安倍支持保守・安倍批判保守、熱烈天皇主義者、理論派保守(反リベラリズム・バーク・福田恆存・アメリカ共和党に依拠)等々、「様々な自称・他称保守」を見ても、保守的な『生き方ないし考え方の根本』を体現する人は「殆ど見当たらない」。
 「天皇陛下万歳を唱えながら、排他主義のはけ口にしているだけなのかもしれない」。
 蓮舫を批判しつつ「職場では権利の主張に余念がない」かもしれない。等々。
 要するに、「近年保守的な標語が世上に乱舞している状況は、ネットの断片的な情報によって過激化したナショナリズムと評すべきであって、保守的な人間像、保守的なエートスの蘇りではない」。
 「ナショナリズムを否定するつもりは毛頭ない」が、「本当に日本の核になるもの」を「保守」したいのなら「その奥に踏み込まねばならぬ」。「本当に消えつつあるのは、日本人が歴史の持続の中で鍛えあげてきた人間像そのものなのだ」。
 日本が失われるのは「反日勢力に否定された」からではない。「真に侵され、危機に瀕しているのは日本の外被ではない、我々の内側に息づいているべき日本の方なのだ」。「その記憶を取り戻す事こそが『保守』でなくて何なのだろう」。 
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 自分であればこのような表現の仕方はしない、又はできない、と感じはする。
 しかし、小川榮太郎が単純な「安倍支持保守」や「熱烈な天皇主義者」を<保守主義>者と見ていないことはよく分かる。
 秋月瑛二にとつては、「保守」という言葉で自分を意識するか自体も大した問題ではない。がともあれ、「反共産主義」や「反左翼」の意味では<保守>なのだろうという思いはある。
 そのような<保守>感情からすれば、渡部昇一・櫻井よしこらのアホの4人組、加地伸行を含めるとアホの5人組らの「観念保守」は、平川祐弘・八木秀次を含めて、批判されるべき、危険視されるべき人物たちだ。
 そのような気持ちと、小川榮太郎が述べている「保守主義」には、少なくとも部分的には、合致点があるように考えられる。

1487/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき⑤。

 ○ 櫻井よしこは昨年11月14日の有識者会議のヒアリングでつぎのように語った。
・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが、国事行為、公的行為の次に」にきているが、「優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」天皇陛下の日常日程を整理し直すのがよい。
・天皇像の形成に「求められる最重要のことは、祭祀を大切にしてくださるという御心の一点に尽きる」。
 その他の最近の文章でも、上の趣旨を繰り返し、述べている。平川祐弘もしきりとまつりごと=政治と祭事を、「祈る」ことを語る。
 日本の歴史や天皇に関することになると、櫻井よしこはたんなる「ジャーナリスト・評論家」ではなく、<狂信家>に変わる。平川祐弘も似たようなものだろう。
 ゆっくりと上の点はこの欄で記していくことにして、まずは、おそらく櫻井よしこにはきわめて難しい問題を設定して、質問してみよう。平川祐弘に対しても同じ。
 神宮(伊勢神宮)の<式年遷宮>は、天皇の「祭祀」なのか否か、その理由は何で、これには憲法に関する問題は全くないのか。
 ○ 現代でもおそらく80歳を超えれば長寿だろうし、100歳まで生きる人は少数だろう。そういう時代ですら、20年に1回の遷宮を経験する、又は見聞きするのは、3-4回程度しかないだろう。
 上に20年に一度と書いたが、日本および天皇の歴史上は、そういう時代の方が短い。
 せっかくだから、できるだけ多くの遷宮の間の年数を、下記の文献によって、記しておこう。下記の、//と//内の数字。内宮と外宮が別の年のこともあったので、内宮の遷宮年を意味させる。有史以後のことだから、初期も、神話的伝説・伝承ではないと思われる。
 01回・690年//19年//02回・709年//20年//03回・729年//18年//04回・747年//19年//05回・766年//19年//06回・785年//25年//07回・810年。
 この最後から平安時代に入る。
 //19年//08回・829年//20年//09回・849年//19年//10回・868年//18年//11回・886年//19年//12回・905年//19年//13回・924年//19年//14回・943年//19年//15回・962年//19年//16回・981年//19年//17回・1000年。この最後は一条天皇のとき。
 //19年//18回・1019年//19年//19回・1038年//19年//20回・1057年//19年//21回・1076年//19年//22回・1095年//19年//23回・1114年//19年//24回・1133年。この最後は、崇徳天皇のとき。
 //19年//25回・1152年//19年//26回・1171年//19年//27回・1190年//19年//28回・1209年//19回//29回・1228年//19年//30回・1247年//19年//31回・1266年//19年//32回・1285年//19年//33回・1304年//19年//34回・1323年。ここまで、886年以降の遷宮は19年毎だ。これ以降、南北朝時代に入る。
 //20年//35回・1343年//21年//36回・1364年//27年//37回1391年//20年//38回・1411年//20年//39回・1431年//31年//40回・1462年。このあと、応仁の乱が始まり、じつに122年間中断した。
 //122年//41回・1585年(秀吉)//24年//42回・1609年(家康)。
 これ以降、江戸、明治、昭和前記まで、規則的・定期的に20年毎の遷宮がつづく。省略する。盛大に行われたのが、第58回・1929年(昭和4年)。そのあと変則的な挙行が1回だけあり、あとは復して20年毎になる。
 57回・1909年(明治42年)//20年//58回・1929年(昭和4年)//24年//59回・1953年(昭和28年)//20年//60回・1973年//20年//61回・1993年(平成5年)//20年//62回・2013年(平成25年)。
 以上、茂木貞純=前田孝和・遷宮をめぐる歴史(明成社、2012)、による。
 ○ こうした中断もありつつ長く続く遷宮の諸費用を誰がどうやって支弁したのかは、歴史学的にも重要だろう。122年間の中断は、そのコストを負える人物・組織等が存在しなかったことを意味すると思われる(伊勢神宮自身も含めて)。
 遷宮の祭主が旧皇族であることからも、この遷宮が神道関連行事・儀式であることのほかに、天皇・皇室に由縁のあることもかなり知られているだろう。
 では、これは天皇の「祭祀」なのか。いや、伊勢神宮の行事ではないのか。
 かりに「祭祀」だとしてすら、「宮中祭祀」ではないだろう。
 1949年(昭和24)年に予定されていた第59回遷宮について、「昭和天皇の思し召し」を受けて、当時の内務省・神祇院は、早々と1945年(昭和20年)12月14日に、とりあえず「中止」を決定した。上掲書、p.122。
 そのようなお役所は現在にはない。
 いや、宮内庁はある。だが、宮内庁は伊勢神宮と、何がしかの公的な関係があるのだろうか。
 いつかこの欄で記したように、戦後に限らないように思われるが、少なくとも形式上は、遷宮の最終に至るまでの諸行事は、日程も含めて、各天皇の「ご聴許」により決定される。少なくともそのかぎりで伊勢神宮よりも、天皇は「上」に立つ。
 遷宮自体が広義の?祭祀かどうかも興味ある(又は深刻な)問題だが、この「聴許」とは、天皇の、いかなる性格の行為なのだろうか。「祭祀」そのものではないが、「祭祀」の挙行とその詳細をいわば命令する、「祭祀」の一要素なのだろうか。
 そしてまた、櫻井よしこも触れている、憲法・皇室典範上の位置付け・性格は、遷宮自体とともに、この「聴許」は、どのように位置づけられるのだろうか。かつ、憲法に関係する問題・論点はないのだろうか。
 <保守>的団体の代表者として君臨し、天皇・皇室を敬愛し、天皇を戴く日本を保持しつづけることこそが<保守>だとの旨を述べ、そして「祭祀」の最優先を強く主張する櫻井よしこならば、このくらいのことは答えられるだろう。

1486/天皇譲位問題-産経新聞社・月刊正論の困惑と怨念。

 天皇譲位問題-往生際の悪い産経新聞社・月刊正論。
 昨年夏以降の天皇譲位問題の発生とその帰趨は、少なくとも内部的には産経新聞社を困惑させ、混乱させたと思われる。
 もともとの主張は、当時又はのちの「アホの4人組(加地伸行を含めて5人組でもよい)」の主張と同じで、譲位反対・摂政制度利用論だったようだ。
 産経新聞は昨年8/06社説(主張)で、とくに小堀桂一郎の言を紹介したりして、このような方向の主張をしている。
 但し、世論調査の結果と大きな齟齬がでてきたことは、意識したに違いない。
 それでも、記憶に頼れば、阿比留瑠比は、<世論調査結果に一喜一憂しないで…〔じっくりと正しい方向へ〕>という旨を書いていた。産経や阿比留にとって「喜」となる調査結果、「憂」となる調査結果は何かと思いめぐらさせ、それらが推測できそうで、かなり興味深かった。
 11月のヒアリングの頃には社としての主張を確定していたのかどうかは、私にははっきりしない。購読者でないので、いつ頃に転じたのか分からないが、12/23日社説では、「今の陛下の一代に限り、特別措置法で譲位を実現する方向性が出ている。/陛下のお気持ちを踏まえ、できるだけ早く見直す観点からは、自然な流れではないだろうか」となっており、その後はこの線の主張をしてきている。
 世論を完全に無視できず、かつ皇室典範全面改正も認めたくない、という、政府・自民党がもともと提供しようとしていた折衷案的解決にすがったことになるのかもしれない。
 というわけで、産経新聞と譲位問題には現時点では語ることはほとんどないとも言える。
 しかし、同社発行の月刊正論上の「教授」・「先生」はなおも、<ぐじゃぐじゃ>と述べている。「負け犬の遠吠え」というか「敗者のルサンチマン」というか。
 3月上旬辺りが最終編集だろうか、月刊正論5月号(産経)「メディア裏通信簿」欄によると、以下。
 ①「教授」-「天皇陛下のご意思に基づく法整備と退位は憲法上の疑義がある」。「先生」-「完全に憲法違反だぜ」。
 ②「教授」-「摂政設置や国事行為の代行という選択肢もあると指摘されているのに、あえてその方向をとらず、退位にこだわったのは、天皇陛下が摂政に否定だったからでしょう。そういう意味でも〔=天皇の意思によるのだから〕退位制度は国民や国会の意思という理屈には無理がある」。
 上の①については、「おことば」後の記者会見の際に「内閣の助言の承認により」発したという説明を今上陛下はなされた。また、NHKによる放送を予め政権中枢が全く知らなかったとは考え難い。さらにもともと言えば、今上陛下にも一人間としての意思や思考は当然にあるので、その表明を一切封じてよいのか、「国政」に結果として影響を与えることになるのか否かは「お言葉」の時点ではまだ分からない、といった論点もある。
 ②については、もともと摂政設置と国事行為委任法では天皇の行為の全てをカバーできない部分があるという原理的・基礎的な問題点がある。また、「天皇の意思」によるからと言うが、国会が自立的に法律を改正しその原案・法律案を内閣が自立的に作成するということに問題はないだろう。自立性を正面から否定するのはむつかしい。「教授」や「先生」も、政府が改正準備を始めたあとの、彼らにとって賛成できる皇室典範の非改正、現状維持であれば、それがいかに今上陛下の明示の意思表明にもとづくものであっても、形式や手続を問題にしないのだろう。
 そういう中味よりも、もしこれらを正々堂々と主張したいならば、月刊正論の最後の辺りの、「覆面」雑談記事でではなく、産経新聞の「正論」欄とか、あるいは<誰が正しい譲位否定論を潰したか>とでも題した論考を月刊正論にでも掲載すべきだろう。
 そうしないで覆面をかぶって雑談のごとくしゃべっているのは、じつに諦めの悪い、怨念丸出しの、印象のよくないことだ。
 ところで、「教授」は月刊正論も含めて原稿執筆依頼を受けて、執筆して校正・見出しつけにかかわることがあるらしい(p.335)。
 月刊正論に小さくとも必ずのように登場する、「教授」のごとき主張をしかつ恨み節も述べそうな覆面人間は、八木秀次、という人ではないか。
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 同欄から追加の引用。社説には現れていない、産経新聞又は月刊正論編集部の<本音>や<困惑>がかなり分かる。
 月刊正論2016年11月号p.319〔9月上旬に最終編集か〕。「先生」-「俺たち保守派は伝統と法にもとづいて天皇が政治的決定をしないように主張すべき」だし、それが「天皇の立場を守ることになる」。「月刊正論10月号で終身在位制の意義を強調して、ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。
 月刊正論2016年12月号p.308〔10月上旬に最終編集か〕。「先生」-「SAPIO11月号では小林よしのりが…男系維持派の渡部昇一や八木秀次たち保守論客をバカみたいな絵で描いていたな」。
 「教授」-「ひどい描き方ですね。しかも名前を書いていない。文句を付けられないように、わざと書いていないんでしようね」。
 /名前を書いていないのは、「教授」も「先生」も同じで、かつ似顔絵もない〔秋月〕。
 同p.309〔10月上旬に最終編集か〕。「編集者」-「産経も読売も、自分たち自身が本音では『困惑』している当事者でもあるから、はっきりものが言えなくて…。」
 「先生」-「少なくとも、月刊正論ではもっと〔譲位に対する〕反対・慎重論を明記して、議論を喚起すべきじゃないか」。
 「編集者」-「また、そんな厳しいことを。……いろいろ考えるとなかなか…。…を読んでも、そこのところを悩んでいるのが、分かるじゃないですか、勘弁してください」。等々。

1485/日本の保守-櫻井よしこの<危険性>②。

 ○ 国家基本問題研究所は公益財団法人だが、国又は公共団体の研究所ではないので、前回に「任意、私的」団体と秋月が記したことは何ら誤っていない。
 さて、この研究所なるものの役員たちは、あるいは櫻井よしこに好感を抱いてる日本の保守的な人々は、櫻井よしこの「政治感覚」はまっとうで正確な、又は鋭いものだと思っているのだろうか。そうは私は、全く感じていない。
 ○ 最近に櫻井よしこは産経新聞4/03付の「美しき勁き国へ」で、「小池百合子知事の姿が菅直人元首相とつい重なってしまう。豊洲移転の政治利用は許されない」との見出しの小論を書き、「左翼」菅直人と結びつけてまで、小池現東京都知事に対する警戒感を明らかにしている。
 また櫻井よしこは、たしか週刊新潮では「保護主義」を批判的にコメントしていたが、週刊ダイヤモンド2017年1月26日号には、D・トランプ米大統領について、希望・期待を述べるよりは、皮肉と警戒、懸念を優先した文章を載せた。
 さらに、櫻井は1月21日に「日本の進路と誇りある国づくり」という高尚な?テーマで講演して、ほとんどをトランプに関する話に終始させている(ネット上のBLOGSの情報による)。種々の見方はあるだろうが、そこで語られているのは、トランプに対する誹謗中傷だとも言える。
 小池百合子やトランプについての櫻井よしこの言及内容をここで詳しく紹介したり、議論するつもりはない。
 しかし、小池百合子に対する冷たさは、石原慎太郎を守りたい観のある一部「保守」系雑誌(面倒だから特定を省略する)や、小池ではなく別の候補者を支援した自民党中央や東京都連の側に立っているとの印象がある。このような立脚点または姿勢自体が適切なのか、「政治的」偏向はないかを疑わせると私は感じる。(なお、産経新聞も、かつての大阪の橋下徹に向けた冷たさや批判が適切だったかが問われる。)
 また、トランプについては、ではヒラリー・クリントンが新大統領になった方がよかったのか、という質問を、当然ながら投げつけたい。
 櫻井よしこが週刊ダイヤモンドで依拠している、Wallstreet Jounal のデイビッド・サッターの適切さの程度についてや、またどのようなソースによってトランプに関する上の諸文章・講演はなされているのか、について興味・関心がある。
 例えばだが、アメリカの「保守」又は「反左翼」論者として有名らしい(詳しくは知らない)アン・コールター(Ann Coulter)は、昨2016年8月に、<私はトランプを信じる>と題する書物を刊行している。
 また彼女は、邦訳書『リベラルたちの背信』(草思社、2004/原書名等省略)を書いてアメリカの「リベラル」派を批判しているが、日本語版の表紙に写真のある人物は、F・D・ルーズベルト、トルーマン、J・F・ケネディ、ジョンソン、カーターおよびビル・クリントンで、全て民主党出身の大統領だ。所持しているが読んでいない原書の表紙にはないが、批判の対象がこれらの民主党大統領でもあることを示しているだろう。
 また、読みかけたところだが、B・オバマを「左翼」と明記して、<共産主義者>を側近に任命した、と書いている本もある。
 もう一度問おう。あらためて遡って確認してはみるが、民主党・オバマの後継者の、ヒラリー・クリントンの方がよかったのか?
 もちろん、日本人と日本国家のための議論だから、アメリカ国内の民主党・共和党の対立にかかわる議論と同じに論じられないことは承知している。
 しかし、櫻井よしこは、本当に<保守>なのか、健全な<保守>なのか。トランプに対する憂慮・懸念だけ語るのは、アメリカ国民に対してもかなり失礼だろう。
 思い出したが、「アメリカのメディアによると」と簡単に櫻井が述べていた下りがあった。
 <アメリカのメディア>とは何なのか。日本と同等に、あるいはそれ以上に、明確な国論の対立がアメリカにあること、メディアにもあること、を知らなければならない。あるいは、櫻井よしこが接するような大?メディアだけが、アメリカの評論界や国民の意見を代表しているのではないことを知らなければならない。
 ○ 以上のような批判的コメントをしたくなるのも、櫻井よしこには、秋月瑛二に言わせれば、政治判断を誤った<前科>があるからだ。
 かつてのこの欄にすでに何回も書いた。詳細を繰り返しはしない。
 櫻井よしこは、2009年の日本の民主党・鳩山由紀夫内閣の成立前後に、つまり2009年8月末の総選挙前後に、民主党の危険性についてほとんど警戒感を表明せず、同政権誕生後には屋山太郎の言を借りて<安保・外交政策に懸念はないようだ>とも語り、当時の自民党総裁・谷垣禎一を「リベラル」派と称して自民党にも期待できないとしつつ、民主党政権成立の責任の多くを自民党の責任にし(この部分は少しは当たっているだろうが、言論界の櫻井よしこの責任ももちろんある)、翌年になってようやく民主党政権を「左翼」だと言い始めた。
 こんな人物の政治感覚など、信頼することができない。秋月でも、2009年8月に、鳩山由紀夫の<東アジア共同体>構想等を批判していたのだ[2009年の8/28、9/18]。
 ついでに言えば、櫻井よしこに影響を与えたとみられる、上に名前を出した屋山太郎は、<官僚内閣制からの脱皮>を主張して民主党政権成立を歓迎した人物であり、渡辺喜美が「みんなの党」を結成した際の記者会見では渡辺の隣に座っていた人物だ。
 屋山は、官僚主導内閣批判・行政改革を最優先したことによって、より重要な政治判断を誤った、と断言できる。
 さらには、櫻井よしこはかつて、道路公団<民営化>に反対して竹中平蔵〔23:50訂正-猪瀬直樹〕らと対立していたが、この問題を櫻井は、どのように総括しているのか。
 もう一つ挙げよう。
 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのか。
 ○ こうした過去の例から見ても、櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性・危険性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。

1484/日本の保守-櫻井よしこという「ジャーナリスト」①。

 ○ 櫻井よしこは「ジャーナリスト」を自分の肩書きにしているようだ。
 たしかに、歴史家でも思想家でもない(社会思想、経済思想、政治思想、法思想等々のいずれの意味でも思想家ではない)。
 また、学者・研究者だとも言えないだろう。少なくとも、そのような<世俗>の資格を持ってはいなさそうだ。
 もちろん、歴史家、思想家(・哲学者)、研究者などは自称すれば誰でもなりうるのだが、「ジャーナリスト」というのは謙虚であるかもしれない。
 いや、ジャーナリストの何らかの積極的な意味に、誇りを持っているのかもしれない。
 ジャーナリストにもいい意味はあるだろう。
 しかし、ジャーナリストは、多数の情報を入手し、整理し、要領よくまとめて、多くの又は一定範囲の人々に伝搬する者たち、という印象もある。
 櫻井よしこはまさにその印象どおりの人で、例えば週刊新潮の連載でも、「評論家屋山太郎氏によれば…」とか「百地章教授によれば…」とかのインタビー記事か問い合わせへの回答(又は親しい会話)で1/4ほどを埋めたり、何らかの雑誌・新聞記事の紹介で半分ほどを埋めたり、光格天皇や孝明天皇について特定の書物から長々と引用・紹介したりしたうえで、自分の感想・コメントを最後のあたりで(又は冒頭あたりで結論提示しつつ)ごく少なく述べる、ということをしてきている。きっと、週刊ダイアモンドでも同様なのだろう。
 もっとも、その引用・紹介やまとめ方が一見は要領よさそうでも奇妙なこともあるのは、例えば、光格天皇・孝明天皇についても見られる。
 のちに福地重孝・孝明天皇(秋田書店、1974)も入手して見てみたが、この本は「最後の闘いの武器は譲位」という趣旨を第一の主眼点にしているわけではない。また、当時に攘夷(・反幕府)を孝明天皇にも熱心に迫って動いた公家たちの中に岩倉具視がいたこと(福地は明記し、藤田覚は不確実だが推定されるとする)には、櫻井よしこは何ら触れていない。
 紙数、頁数に限りがある、という釈明はできない。限りあるなかで、なぜ一定の、限られた情報しか選択しなかったのか、と問われれば、答えに窮するのではないか。
 ○ 「国家」の「基本問題」を「研究」する国家基本問題研究所という(任意・私的)団体の理事長は、櫻井よしこだ。
 「ジャーナリスト」にすぎない、あるいは思想家・歴史家でも研究者でもない、あるいは常識的意味では「政治家」でもない櫻井よしこを、なぜ役員の方々は理事長に戴いているのだろうか。
 あるいはその人々はなぜ、櫻井よしこが呼びかけた団体に喜んで?加入して、役員として名を連ねているのだろうか。
 二つめの○の第一文の内容はすでに、日本の「保守」の現況がいかに悲惨なものであるかを、かつまた日本国民に、決して良い影響を(少なくとも長期的には)与えないだろうことを、十分に示唆している。
 さすがに、敬愛する?西尾幹二や中西輝政は、この団体と少なくとも形式上の関係はなさそうだ。
 しかし、役員の方々の名前を見ていると、じつに興味深いことも分かる。

1483/ムッソリーニとレーニン⑤-R・パイプス別著5章2節。

 ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源⑤。
 
前回のつづき。
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 ムッソリーニは、ファシスト政党を設立した1919年には、自分自身を社会主義者だとなおも思っていた。
 イタリアは、多数の退役者が仕事を見つけられず、インフレに苦しみ、深刻な社会不安を抱えていた。巨大な数の労働者が、ストライキに入っていた。
 このような不穏状態は、ムッソリーニを元気づけた。
 1919年1月に彼は、郵便従業員の違法な怠業を煽動し、労働者には工場を確保するように訴えた。
 ある権威者によれば、社会的混乱が頂点に達していた1919年の夏に、ムッソリーニは、工場労働者による暴力活動を訴えて無能の社会党や全国労働者連盟(General Federation of -)に高い値で自分を売り込むことすらした。彼の新聞<イタリア人民>は、<不当利得者は街路灯上の麻薬中毒者だ>と述べていた。(32)
 ファシスト党の中核になった< fasci di combattimento >の1919年6月綱領は、社会党のそれとほとんど異ならなかった。すなわち、憲法制定会議〔立憲議会、Constituent Assembly〕、一日八時間労働制、工場管理への労働者参加、国民予備軍、『資本への重税』による富裕層からの部分的剥奪、および教会財産の没収。
 労働者は、『革命的な戦争』を始めることが奨励された。(33)
 社会党の専門家はムッソリーニを、『<革命的な社会主義者>』だと見なした。(34)//
 戦争に対する立場によって信用を落としはしたが、こうした活動によってかつて社会主義者の指導者だったムッソリーニは、イタリア社会党の役職をもう一度得るのを望んだ。
 しかしながら、社会党は、彼を許そうとしなかった。社会党はファシスト党との選挙連立ブロックの形成を意図していたが、それは、ムッソリーニが排除されるという条件つきだった。(35)
 ムッソリーニは、政治的に孤立し、主に社会主義干渉主義者によって支援され、そして右翼へと振れた。
 二つの大戦間の彼の歩みを見て示唆されるのは、彼が社会党を拒絶したのではなく、社会党が彼を拒絶したこと、彼は旧宅、つまり社会党では達成できなかった政治的野心を満たすための道具として、ファシスト運動を始めた、ということだ。
 ムッソリーニの社会主義との決裂は、言い換えると、イデオロギー上のものではなく、人間的なものだ。//
 1920年遅くに始まったが、武装したファシスト騒団が、不法居住農民を打ち砕くべく農村地帯へと行進した。
 彼らは翌年早くに、北部イタリアの小都市を脅かす『懲罰遠征隊』を組織した。
 彼らは、ボルシェヴィキが実際にしたことを想起させるやり方で、物理的な暴力と脅迫を用いて、社会主義諸党や労働組合を解体させた。
 イタリアの社会主義者たちは、ロシアでの対応者〔ロシア社会民主党〕がそうだったように、このような剛腕による方法に受動的にしか対応せず、支持者たちを混乱させ、意気消沈したままに放置した。。
 ムッソリーニの行動は、工場経営者や土地保有者の支援を獲得した。
 彼はまた、休戦協定に対するイタリア人の憤懣も利用した。イタリアは勝利した連合国側で戦ったが、領土の要求を全く満足させるものではなかったからだ。
 ムッソリーニはイタリアを『プロレタリアの国』と描写して、民衆の怒りをもとに活動した。この戦術によって、不快感をもつ軍退役者の間での支持をかち得た。
 ファシスト党は、1921年11月までに15万2000人の党員を有した。そのうち24%は農業従事者で、15%は工場労働者だった。(36)//
 ムッソリーニは、ファシスト指導者になってすら、共産主義に対する共感と敬意を隠さなかった。レーニンの『残虐な力強さ』を高く評価し、ボルシェヴィキによる人質殺戮に反対しなかった。(37)
 彼は誇らしげに、イタリアの共産主義はまだ子どもだと言った。
 国会下院での1921年6月21日の最初の演説で、つぎのように自慢した。
 『私は、共産主義者をよく知っている。何人かは、私が育てたからだ。
 皮肉に見えるかもしれないが真面目に認めよう、私は、多数のブランキ(Blanqui)が弱体化した小さなベルクソン(Bergson)をイタリアの社会主義に持ち込み、イタリアの民衆を社会主義に感染させた、最初の人間だ。』(38)
 ムッソリーニは1921年2月に、ボルシェヴィズムについてこう言った。
 『あらゆる形態のボルシェヴィズムを拒否する。しかし、かりにどれか一つを選ばなければならないとすれば、モスクワやレーニンのボルシェヴィズムを選ぶだろう。それは、その総体が巨大で、野蛮で、かつ普遍的であるのだけが理由だ。』(39)
 ムッソリーニは1926年11月に、自立した政党、団体、組織を禁止する布令を発した。そのときでも、彼は共産党の存続を許した、ということを見過ごしできないだろう。(40)
 彼は1932年には、ファシズムの共産主義との親近性(affinities)を承認した。
 『全ての消極的な面で、われわれは似ている。
 われわれとロシア人は、リベラルたち〔自由主義者〕に反対で、民主主義者に反対で、議会制度に反対だ。』(41)
 (ヒトラーはのちに、ナチスはボルシェヴィキと分かたれているのではなく結びついている、と語って、これに同意することになる。(42))
 ムッソリーニは1933年に、スターリンに対して、ファシズムのモデルに従うように公然と強く迫った。
 また、ソヴェト独裁者が歴史上最もおぞましい大虐殺を完遂し終わった1938年には、最高級の賞賛をしてスターリンを褒め称えた。
 『スターリンは、レーニン体制の全体的崩壊を前にして、秘密のファシストになった。』
 ロシア人、『すなわち半野蛮な種族』のスターリンは、刑務所の囚人を懲らしめるために、香料油を強いて注ぐというファシストのやり方を見習わなかった、という違いはあるけれども。(43)//
 まずムッソリーニが、次いでヒトラーが自分たちの政治技術を真似る(copy)のを、ロシアの共産主義者は不安げに見守った。
 こんな比較がまだ可能だったのかと思う第12回党大会(1923年)で、ブハーリンは、つぎのように観察していた。//
 『ファシストの方法と闘いの特徴は、他のどの党よりも多く、ロシア革命の経験を採用し、実践へと適用したことだ。
 <形式的>観点から、つまり政治方法の技術の観点から見れば、ファシストたちがボルシェヴィキの戦術を、とくにロシアのボルシェヴィズムの戦術を完全に適用しているのが分かる。それは、権力の速やかな中央集中化、緊密に構成された軍事組織の力強い活動、また、人の力を関与させる独特な制度、Uchraspredy、総動員など、そして、必要で情勢が求めるときはいつでも敵を容赦なく破滅させること、という意味でだ。』(*)//
 歴史の証拠は、以下を示す。
 ムッソリーニのファシズムは、自分の政治的利益を促進するためにこの二つ〔社会主義と共産主義〕を攻撃するのを躊躇しなかったとしても、社会主義または共産主義に対する右翼の反応として出現したのではない。(+)
 もしも機会があれば、ムッソリーニは1920-21年頃には、強い親近性を感じていたイタリア共産党を自分の党派のもとに、喜んで抱え込んでいただろう。
 その親近性は、確実に、民主主義的社会主義者、リベラルたち〔自由主義者〕および保守主義者に対するものよりも強かった。
 ファシズムは、総括的に言うが、イタリア社会主義の『ボルシェヴィキ』派から生まれたのであり、保守的なイデオロギーまたは活動から生まれたのでは決してない。
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  (32) ロッシ, 成立, p.19。
  (33) ディ・フェリーチェ, ムッソリーニ, p.742-745。   (34) 同上、p. 730。
  (35) ロッシ, 成立, p.39。   (36) 同上、p. 163。
  (37) ノルテ, 理論, p.231。
  (38) ロッシ, 成立, p.134-5。  (39) 同上、p.138。
  (40) Eevin von Beckerath, ファシスト国家の本質と生成 (1927), p.109-110。
  (41) Yvon de Begnac, ヴェネツィアの宮殿 :ある体制の歴史 (1950), p.361。
  (42) ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning), ヒトラー語る (1939), p.134。
  (43) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, XXIX (1959), P.63-64。Gregor, ファシスト信条, p.184-5 参照。
  (*) ロシア共産党(ボ)編集のXIIS" :Stenograficheskii otchet (1968), p.273-4。
 < Uchraspredy >とは、党活動家の任命に責任をもつ[共産党の]中央委員会の機関だ。
  第12回大会の議事原案の編集者は、ブハーリンが『馬鹿げた』、『根拠なき』、『非科学的』といった比喩を用いている部分を削除した。同上、p.865。
 さらに、Leonid Luks, 共産主義的ファシズム理論の生成 (1984), p.47 を見よ。
  (+) Renzo de Felice は、運動としてのファシズムと体制としてのファシズムを明確に区別し、前者は革命的なままだったと主張する。Michael Ladeen, in :国際的ファシズム, p.126-7。
 同じことは、権力を掌握するやその権力を維持するために保守的(conservative)になったボルシェヴィズムについても言えるかもしれない。
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第2節、終わり。

1482/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む②。

 小林よしのりが論及している点にすべて関わると、10回分も必要になるだろうので、感想、コメントの要点を絞る。
 1.天皇の意思による譲位の可能性・許容性の問題と、皇位継承者の資格、つまり女性天皇、女系天皇の可能性・許容性の問題とは、全く無関係ではないとしても、分けて論じなければならない。
 小林よしのりが譲位反対論者を<男系主義者>と非難するのは、前回言及の8~9名については当たっているのかもしれないが、譲位の可否と女性・女系の可否は論理的には関係がない。
 2.小林は「天皇を苦しめてまで天皇制を維持すべきなのだろうか?」と人間的感情の欠如を疑わせるアホ4人組に比べれば自然でまっとうな疑問を示したあと、「いつ自分がリベラルに転向するかわからないほど迷う」と書いている。p.544。
 このように、<観念保守>の主張は、とくにそれがある程度まとまって述べられると、それが<保守>派一般の主張であるかのごとく理解され(池田信夫においてもそうだ)、健全なまたは理性的な人々を、リベラルないし「左翼」へと追いやる可能性・危険性をもっている。<アホ保守>は、その意味でこそ、許されない。
 <アホ4人組>を批判しておく必要があると(そのためには少しはきんと読まないといけないと)秋月が思っているのもそのためで、彼ら<観念保守>は、ふつうの日本人を、<保守>嫌いにさせるという、きわめて悪質な機能を客観的には有していると考えられる。
 小林よしのりはどうか何とか、「リベラルに転向」などをしないでいただきたい。
 3.現皇室典範自体が改正されることになる
 小林よしのりは皇室典範自体の改正を主張し、一代限りのという特例法には反対している。 
 法案自体の正確な内容を知らず(子細はまだ決定されていないだろう)、新聞等による一般的な情報にのみ頼るが、基本的論点についての政治的・政党的な調整もふまえた事実上の決着点は、以下であると見られる。
 ①いわゆる皇室典範改正論と特例法制定案の折衷。
 ②特例法が一代を対象として、かつ先例になりうるものとして制定される。
 ③典範自体の付則で②の特例法が皇室典範と「一体」であることを明示する。
 ④「付則」もまた法律(皇室典範)の一部に他ならないので、皇室典範自体も改正されることになる。
 以上のとおりで、特例法が制定されるとともに、それと併せて皇室典範も改正される。
 この決着の意味は、つぎのとおりだと考えられる。
 A.自民党・特例法制定と民進党・皇室典範改正の二つの主張の両方を生かした。
 B.憲法二条の「国会が議決する皇室典範」によりとの部分との整合性を確保して、違憲だという疑念が生じないようにした。
 小林よしのりが示唆するように、また流布されていたように、自民党は特例法で決着させるつもりだったのかもしれない。
 そして、皇室典範全面改正とその全面否定の間の<特例法>で両派を宥めたかったかにも見える。<観念保守>または前回言及の8-9名のような「保守」の全面否定論-摂政設置主張論にも配慮したという姿勢を示したかったのかもしれない。
 そのために、皇室典範全面改正を支持しない者・主張もある程度多いことを示すために、平川祐弘、櫻井よしこらのかなり多い全面否定-摂政設置論者がヒアリング対象者に(政策的に)選定された可能性がある。
 しかし、皇室典範とは独立の特例法では憲法二条の定めに違反する可能性が高い。
 立法技術にもかかわるが最終的にどうするつもりだろうと、もともと<特例法>のイメージも不明瞭だったのだが、秋月も思ってきた。
 それで最終的には、上のようになった。
 皇室典範の、戦後最初の実質的な大きな改正となるだろう。
 皇位承継方法についての大きな例外を、皇室典範自体が認めることになるからだ。
 特例法は形式的には皇室典範とは別でも、皇室典範そのものの一部となる。これは分かりやすいことではないが、「付則」もまた法律の立派な一部であり、法律の定めの一内容だからだ。
 したがって、その内容は憲法二条にいう「皇室典範」が定めていると理解することができ、憲法問題・違憲問題の発生は回避できる。 
 というわけで、小林よしのりの元来の主張は半分しか通らなかったが、半分は、ある程度は、実現された、ということになるように思われる。

1481/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む①。

 ○ 小林よしのり・天皇論平成29年(小学館、2017)のp.479以下を読んだ(又は拝見した)。
 入手が遅れたのは、主題についての関心の薄さ、「観念保守」(=小林よしのりが「自称保守」とか称しているものに近いかもしれない)の文章を思い出すことへの嫌悪にもよる。 
 ○ 最後の方の p.544に、小林が批判の矛先を向けている8名の人物の顔の似顔絵が出てくる。
 ちなみに、昨秋あたりの月刊正論(産経)はこの似顔絵化を、<卑劣>だとか批判していた。
 しかし、小林よしのりの絵から、私でもかなり人物名を特定できる。しかるに、月刊正論(産経)は最終頁あたりで「教授」・「先生」・「女史」等とだけ冠名する人物を登場させて、個人名を隠したままで勝手な?ことを言わせている。
 良心的なのはまだ小林よしのりで、月刊正論編集部(産経)の方が<卑怯>だろう。
 元に戻る。8名のうち、左の2名はすぐには分からなかったが、どうやら加瀬英明と加地伸行らしい。
 残るは、右から、八木秀次、渡部昇一、小堀桂一郎、竹田恒泰、平川祐弘、櫻井よしこ。ほんの少し頭を覗かせているのが大原康男かと思われるが、さしあたり計算から省く。
 上の8名のうち政府・天皇関連有識者会議のヒアリング対象者は、八木秀次、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこの4名
 なんと、秋月瑛二が「観念保守」と批判し、<アホの4人組>と酷評した4名と全く同じ。100%の合致だ。
 しかも、上の点はかりにさておいても、8人のうち4名が該当するだけでも、相当な<打率>だ。なお、大原康男を含めても、4/4.3くらい、および4/8.3くらいの高い<打率>になる。
 小林よしのりの上の基本的な感覚または彼らの論旨(譲位反対論)に対する非難は、まことに健全だ。
 ○ 加地伸行がヒアリング対象者だったとすれば、平川祐弘と同じかさらに低レベルの発言をしていた可能性がある。 
 たぶん昨年中に、西尾幹二は(確認しないが)月刊正論あたりでたしか天皇・皇室問題で加地伸行と対談していたが、加地の発言にほとんど頷くばかりで、容喙していなかった。加地の発言のあまりのヒドさに思わず、私は当該雑誌自体を放り投げたほどだ。
 もっと前にも、西尾幹二と加地伸行の二人は天皇・皇室問題でかなりひどい対談か論考を載せて話題になったらしい(これもかすかな記憶はある)。
 西尾幹二は、ときに一緒に酒呑みするくらいならよいが、加地伸行レベルの人物と雑誌用の対談などはしない方がよいと思われる。せっかくの高名を辱めるだけだろう。
 ○ とここまで書いて、まだ小林よしのり著の内容にはほとんど立ち入っていない。
 これまた連載にするしかない。


1480/ムッソリーニとレーニン④-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。[第5章第2節は、p.245-p.253。]
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源④。
 ムッソリーニが社会党から除名される原因になったこの転回について、さまざまな説明が提示されてきた。
 最も好意的でない見方によると、ムッソリーニは賄賂で動かされた。-彼は、その新聞< Il Popolo d'Italia >〔イタリア人民〕を発行するための資金を提供してくれたフランスの社会主義者から強い圧力をかけられていた。
 これが示唆するのは、実際に、ムッソリーニは破産状態にあったことだ。
 しかしながら、ムッソリーニの動機は政治的なものだったというのが、もっとありえそうだ。
 ほとんど全てのヨーロッパの社会主義政党が平和主義の公約を破って政府の参戦を支援したのちに、ムッソリーニは、ナショナリズムは社会主義よりも力強いと結論したように見える。
 1914年12月に、彼はつぎのように書いた。
 『国家は消失しなかった。われわれは、国家は絶滅すると思ってきた。
 そうではなく、われわれは目の前で、国家が立ち、生き、躍動しているのを見た。
 当たり前だが、そうなのだ。
 新しい現実は、真実を抑え込みはしない。すなわち、階級は国家を破壊できない。
 階級は利益の集合体であるが、国家は、情緒、伝統、言語、血統の歴史だ。
 国家の中に階級を挿入することはできるが、それらが互いに破壊し合うことはない。』(29)
 このことの帰結は、社会党はプロレタリアートだけではなくネイション全体(the entire nation)を指導しなければならない、ということだ。すなわち、『<ナショナルな社会主義(un socialismo nazionale)>』を生み出さなければならない。
 たしかに、世界的(インターナショナルな)社会主義から国家の(ナショナルな)社会主義への移行は、野心ある西側ヨーロッパのデマゴーグについてよく理解させる。(30)
 ムッソリーニは、一つのエリート政党が指導する暴力革命という考え方に忠実なままだった。しかし彼はこれ以降は、ナショナルな革命を目指すことになった。//
 ムッソリーニの転回はまた、戦略的な思考だったと説明することもできる。すなわち、革命には国際的な〔international=国家間の〕戦争が必要だとする確信からだ。
 こういう見解はイタリアの社会党創設者たちの間では共通していた。それは、極左のセルジオ・パヌンシオ(のちファシズムの主要な理論家)が戦争開始の二ヶ月後に新聞<前へ!>で書いた、つぎの考察文にも見られる。
 『<私は、現在の戦争だけが-かつより激しくて長引く戦争が-ヨーロッパ社会主義を革命的行動へと解き放つだろうと確信する。>(中略)
 国外での戦争には、国内での戦争が続かなければならない。前者は後者を準備しなければならない。そして、その二つが一緒になって、社会主義の偉大で輝かしい日を用意しなければなならない。(中略)
 われわれ全てが、社会主義の実現は<求められ>なければならないと確信している。
 今が、<求めて> そして<獲得する>ときだ。
 社会主義が緩慢でかつ…<中立的>であれば、明日には、歴史的状況は現在の状態と類似の情勢を再確認するだけにとどまるかもしれない。しかし、客観的には、社会主義からはより離れた、しかしかつ逆の意味での転換点でありうる。(中略)
 われわれは、われわれの全てが、<全ての>諸国家が-<いかなる程度>にブルジョア国家であろうと-勝者と敗者のいずれであろうと、戦争の<あと>では、粉砕された骨とともに衰弱して横たわっているだろう、と確信する。(中略)
 資本主義は深い損傷を受けるので、最後の一撃(< coup de grace >)には十分だろう。(中略)
 平和の教条を支持する者は、無意識に、資本主義を維持する教条を支持しているのだ。』(*)//
 戦争へのこのような肯定的態度は、ロシアの社会主義者たちに、とくに極左の立場の者たちに、もう少しは率直さを抑えて語られたが、知られていなかったわけではない。
 レーニンが第一次大戦の勃発を歓迎し、それが長く続いて、破滅的になることを望んだ、という証拠資料がある。
 世界の『ブルジョアジー』を大量殺戮者と攻撃する一方で、レーニンは個人的には、その自己破壊を称賛していた。
 バルカン危機の間の1913年1月に、レーニンはゴールキにあてて、つぎのように書いた。
 『オーストリアとロシアの戦争は、(東ヨーロッパ全体の)革命にとってきわめて有用だ。しかし、フランツ・ヨゼフとニコラシュカ(ニコライ二世)は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(31)
 レーニンは、大戦中ずっと、ロシアおよびインターの社会主義運動で、平和主義に関するいかなる宣明をすることも拒否した。社会主義者の使命は戦争を止めることではなく、戦争を内乱へと、つまり革命へと転化することだと主張しつつ。//
 ゆえに、つぎの旨のドメニーコ・セッテンブリーニ(Domenico Settenbrini)の叙述には賛同しなければならない。すなわち、ムッソリーニとレーニンの戦争への態度には、一方は自国の参戦に賛成し、他方はともかくも表向きは反対しているとしても、強い類似性がある。彼はこう書く。//
 『(レーニンとムッソリーニの二人は)以下のことを悟っていた。党は大衆を革命化し、その反応を形成するための道具ではありうる。しかし、党はそれ自身によっては、革命の根本的な前提条件-資本主義的社会秩序の崩壊-を生み出すことはできない。
 プロレタリアートの自己啓発によって自動的に出現する革命精神、その結果として弱体化する市場に資本主義者が商品を売れなくなること、についてマルクスがいったい何を語っていようが、プロレタリアートはますます貧窮化し、革命精神は欠如していることが判り、資本主義秩序は破滅に向かうどころか拡張している、というのが事実だ。
 したがって、マルクスによって自動的に起動すると想定されたメカニズムには、それを補完するものがなければならない。補完するものとは、-戦争だ。』(**)
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  (29) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ, Ⅶ (1951), p.101。また、Gregor, ファシスト信条, p.171 も見よ。
  (30) ムッソリーニ, 同上。Gregor, ファシスト信条, p.168-171。
  (*) フェリーチェ, ムッソリーニ, p.245-6 から引用。この論考の正確な著者はムッソリーニ自身である可能性が指摘されてきた。
 1919年にムッソリーニは、イタリアの参戦に関して、『革命とその始まりの最初のエピソードだ。革命は戦争の名のもとで40ヶ月続いた』と語った。これは、A. Rossi, イタリアファシズムの成立, 1918-1922 (1938), Ⅱ に引用されている。
  (31) レーニン, PSS, 第48巻, P.155。
  (**) G. R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.151。
 セッテンブリーニ(Settenbrini)は、つぎの興味深い疑問を提出している。
 『かりに1914年のイタリア政府のようにロシア帝制(ツァーリ)が中立のままにとどまっていたとすれば、レーニンはいったい何をしただろうか。レーニンが熱心な干渉主義者(Interventioist)にならなかったとは、確実に言えるのではないか?』
 Settenbrini, in : George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.107。
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 ⑤につづく。

1479/レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32。

 ○ R・パイプスの本を読んで訳を試みているのも、とくに二つの大著について邦訳書がないことにもよるが、単純な知的関心によるのではない。
 日本共産党、不破哲三ら、そして「左翼」学界人等々が抱いているかに見える<レーニン観(・イメージ)>を壊しておく必要があると感じているからだ。
 繰り返すが、レーニンがいなければロシアでの1917年10月「政変」はなく、ロシア共産党もなく、1919年の共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立もなく、したがって、1922年のその支部としての日本共産党の設立もなかった(なお、この設立の事情は不明確なところがある。月日・場所等について、在モスクワの共産主義日本人が異なる情報を寄せた可能性がある)。
 したがって、宮本顕治の日本共産党入党も在獄もなく、宮本を指導者とする1961年綱領もなく、宮本・不破哲三体制もなく、不破哲三・志位和夫体制もなかった。
 これは、たんなる時代の前後関係というのではなく、原因・結果の因果関係だと思われる。
 その日本共産党が現在もなお、ロシア革命を美化し、レーニンを原則的には擁護し、スターリンから過った、という<歴史叙述>を公然と行っている。
 つまりは、レーニン像を(そして日本共産党の「ロシア革命」観を)壊すことは現実的な意味がある。その観点からR・パイプス等々の本を捲っている。
 したがって、<実践的>または<政治的>意図・意識を持っていることを、隠そうとは思わない。
 しかし、たんなる、彼らのいう<反共デマ宣伝>をするつもりは全くなく、可能なかぎり<文献実証的に>、かつ自分自身の頭で理解して、事実を確認したいと考えている。
 ○ R・パイプスは、レーニン「陰謀家」ぶりを強調しているようだ。この人の叙述を100%信頼しているわけではなく、ロシア史、ロシア革命についての欧米の研究者にも、いくつかの傾向があることを-この欄に記してはいないが-知っている。
 だが、以下に一部紹介するレーニン自身の1922年3月の「秘密書簡」の原文(但し、英訳)を読むと、さすがにこの「ソヴェトの指導者のMentality(心性・気質)」にある「非人間的な残虐性」、「きわめて異常(exrraordinary)」さを感じざるをえない。以下以外にも多々あるが、「陰謀家」・「策謀家」あるいは「捏造家」・「煽動者」等々と評するのは、誇張では全くないだろうと思われる。
 少し上の「」内は、以下から利用した。
 ① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994), p.350, p.352 (「第7章・宗教に対する攻撃」)。
 これの全文は、② Richard Pipes 編, 知られざるレーニン-秘密資料から〔The Unknown Lenin, -〕(1996), p.152以下にある。
 また、① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994)も、ほぼ全文を1頁半にわたって引用している。但し、英訳が同じでないのは、ロシア語文の翻訳だとはいえ、興味深い。
 さらに、③ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, The New Edition (2008), p.97- は、Richard Pipes の上掲著 (1994) を参照要求しつつ、一部を原文どおりに引用している。
 ○ もちろん、背景事情をある程度は知らないと、ほとんど理解不可能なのかもしれない。しかし、「異様さ」だけは伝わってくる。
 歴史的背景については、梶川伸一の<宮地健一のホームページ>にある、以下が詳しい(むろん、上掲の①②③も、精粗はあれ触れている)。但し、原文の邦訳文はないと見られる。
 <宮地健一のホームページ/6.二〇世紀社会主義を問う/第7部・ネップ後での革命勢力弾圧継続強化/農民問題と飢餓・飢饉の関連ファイル/梶川伸一・レーニン体制の評価について/5.秘密裡の宗教弾圧
 ○ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, Tthe New Edition (2008), p.97-の一部原文引用部分だけでも、邦訳しておこう。残余も、邦訳しておく意味があると思われるので、機会があれば、試みるかもしれない。
 原文全体には、いわば前記と後記を除くと13の段落がある(1996年のR・パイプス編著による)。
 フィッツパトリックが原文引用しているのは、その中の、第4の段落の、さらにその一部だ(1994年のR・パイプス著によると思われる)。以下、その部分だけの試訳。
 『飢餓にある地方の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 以下、Sheila Fitzpatrick の要約的説明が少し入る-「飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を奪い取る[そして名目上は飢えた人々に分ける]運動(campaign)が暴力的示威活動を刺激して生じさせたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンは結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と」。再び、原文引用。
 その裁判は、『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒い百を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない
 そしてモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけではなく、…大きければ大きいほど、数多くの反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちの処刑を、その理由でもって、より十分に達成することができる。
 われわれは今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』
 1922年3月19日、〔共産党〕政治局各メンバーに代わって同志マルトフあて。
 前記-『極秘いかなる理由でもコピーをとるな。だが、(同志カリーニンはもちろん)各政治局員は、この文書に関する何らかの意見を記せ。/レーニン』。
 これは、ちょうど一年前の党大会で<ネップ>政策導入がすでに決定され、日本共産党、不破哲三や志位和夫によれば、1921年10月のモスクワ県党会議における<確立>を経て、レーニンが問題を抱えつつも<市場経済を通じて社会主義へ>の途を「正しく」歩もうとしていた時期の文書だ。
 以上。 
 

1478/ムッソリーニとレーニン③-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源③。
 労働者階級は生まれながらに改良主義者だ(『経済組織(労働組合)は経済の現実が改良主義的だから改良主義者だ』)と、そして全ての政治制度のもとで、支配しているのは少数者だといったん決定するや、ムッソリーニは、かりに労働者が革命化しなければ、労働者を指導する知性と意思をもつ特権階層が必要になる、と結論づけた。(21)
 彼は1904年には、このような考え方を信奉した。(22)//
 このような前提のもとで、彼は、イタリア社会党の再建へと進んだ。
 ムッソリーニが設立した< La Lotta di Classe > (階級闘争)〔新聞〕で、レーニンがメンシェヴィキに対してしたのと同じように彼は、改良主義多数派を放逐した。誹謗中傷はレーニンほどではなかったけれども。
 レーニンは、この新聞の創刊号の中のムッソリーニの論説に、自分の名前を署名するのを躊躇しなかっただろう。ムッソリーニは、こう書いていた。//
 『社会主義は到来しつつある。そして、社会主義を実現する手段は、政治的征服によってではなく-社会党に頻繁にみられる幻惑的な理屈だ-、将来の共産主義組織の中核をすでに今日に形成している労働者協同体の数、力および意識によって、現存する市民社会の胸中に与えられている。
 カール・マルクスが<哲学の貧困>で述べるように、労働者階級は、その発展の推移のうちに、古い市民社会を、階級とその間の矛盾を廃棄する協同体(association)に取って替えるだろう。(中略)
 このように予期するならば、プロレタリアートとブルジョアジーの間の闘争は、<階級の階級に対する戦い>、最高度に表現すれば、全体的(total)な革命となる戦いだ。(中略)
 ブルジョアジーの収奪は、この闘争の最終結果だろう。そして、労働者階級が共産主義を基盤にして生産を始めるのに困難はないだろう。この戦いと征圧のための武器、制度、人間を、彼らの労働組合の中に、今日すでに用意しているのだから。(中略)
 社会主義労働者は、前衛的で果断のないかつ戦闘的な組織を形成しなければならない。その組織は、刺激し鼓舞することで、理想的目標への展望を大衆に決して忘れさせないだろう。(中略)
 社会主義は商売人の戯れ事ではないし、政治家の遊びでもなく、恋愛小説家の夢でもない。ましてスポーツではない。
 社会主義とは、個人としても集団としても精神と物質の高揚へと努力することであり、そしておそらく、人間集団の感情を掻き乱す最強のドラマだ。また、確実に苦しみ無為に過ごさないで生きたい数百万の人々の、最も大切な希望だ。』(23)//
 ムッソリーニは、党員たちの挫折した過激主義を利用して、1912年の社会党大会で穏健派を指導層から排除することに成功した。
 『ムッソリーニ派』として知られる彼の支持者の中には、のちの著名なイタリア共産主義者の何人かがいた。とりわけ、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)がいた。(24)
 ムッソリーニは党の執行委員会へと指名され、<前へ!(Avanti !)>の編集長職を託された。
 レーニンは<プラウダ>紙上で、ムッソリーニ党派の勝利を歓迎した。
 『分裂は、困難で苦痛の出来事だ。
 しかし、ときには必要だ。その状況では、弱さや感傷の全ては…犯罪だ。(中略)
 イタリアの社会主義プロレタリアートの党は、その真ん中からサンディカリストと右派改良主義者を放逐して、正しい途を進んだ。』(25)//
 1912年、30歳に1年足らないムッソリーニは、イタリアの革命的社会主義者の、または『非妥協者』たちの、指導者になることが運命づけられているように見えた。
 しかし、それは現実とはならなかった。イタリアの参戦問題に関する彼の考えの転回が理由だった。//
 レーニンのように、ムッソリーニは1914年の前に、政府が宣戦すれば社会主義者は内乱的暴力でもって答えるだろうと脅かした。
 1911年に政府がトリポリ(リビヤ)へ兵団を派遣したあとで、ムッソリーニは、社会主義者は『諸国間の戦争を階級間の戦争に』変える用意があると警告した。(26)
 この目的を達する手段は、一般的ストライキ〔ゼネ・スト〕だった。
 ムッソリーニは、第一次大戦の直前に、この警告を繰り返した。かりにイタリアが中立を放棄して連合国に抗する中央勢力に加わるならば、プロレタリアの蜂起に直面するだろう、と。(27)
 ファシズム歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は、何らかの理由でレーニンを無視して、ムッソリーニは戦争になれば反乱だと政府を威かしたヨーロッパのただ一人の重要な社会主義者だ、と主張している。(28)//
 戦闘が勃発して、全く予期しなかったことだが、ヨーロッパの社会主義者たちが進んで軍事借款に賛成票を投じたことは、ムッソリーニの自信を激しく動揺させた。
 彼の同僚が驚いたことに、ムッソリーニは1914年11月に、イタリアの連合国側への参戦に賛成することを明らかにした。
 この言葉と行動を合わせるために、彼は軍に歩兵として加入し、1917年2月まで戦闘に加わった。そのとき彼は、重傷を負って後方に送られた。//
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  (21) De Felice, ムッソリーニ, p.122-3。
  (22) Gregor, ファシスト信条, p.145。
  (23) 1910年1月9日付の論説, in : ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅲ, p.5-7。
  (24) Gregor, 若きムッソリーニ, p.135。
  (25) レーニン, PSS, 21巻, P.409。
  (26) < La Lotta di Classe >(階級闘争〔新聞〕)1911年8月5日号。De Felice, ムッソリーニ, p.104. に引用されている。
  (27) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅳ (1953), p.311。
  (28) エルンスト・ノルテ, ファシズムの三つの顔 (1965), p.168。
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 ④につづく。

1477/ムッソリーニとレーニン②-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源②。
 ムッソリーニは、レーニンのように、政治の特性は闘いだと考えた。
 『階級闘争』は彼にとっては、言葉の字義のとおりの意味で、戦争だった。どの支配階級もかつてその富や力を平和的に放棄したことはないのだから、それは暴力的な形態をとるはずだった。
 彼はマルクスを尊敬し、経済学や社会学のゆえではなく、『労働者暴力に関する大哲学者』であるために、『父親であり教師』だと称した。(17)
 ムッソリーニは、議会制という策謀でもって教条を進化させているつもりの『法廷社会主義者』を軽蔑した。
 また、労働組合主義も信用しなかった。それは労働者を階級闘争から逸脱させるものだと考えていた。
 1912年に彼は、レーニンのペンで書かれているかのような、つぎの文章を書いた。
 『たんに組織されているだけの労働者は、利益という暴力にのみ服従するプチ・ブルジョアに変わる。
 理想を訴えても、何も聴かれないままだ。』(18)
 社会主義を放棄したあとですらこのような見方に忠実であり続けた。1921年にファシスト指導者として、彼は、労働者を『生まれながらに、…信心深くて根本的に平和主義的だ』と描写した。(19)
 こうして、レーニンから独立して、社会主義者とファシストの両方の精神性を具現化したものになって、ムッソリーニは、ロシア過激派のいう『随意性』を拒絶した。自分が考えたことだが、労働者は革命を起こさず、資本主義者と取り引きをする。これは、レーニンの社会理論の神髄だったのだが。(*)//
 このように考えて、ムッソリーニはレーニンが直面したのと同じ問題に向かい合った。生まれながらに反革命的だと言われる階級と一緒に、どうやって革命を起こすのか。
 ムッソリーニは、レーニンがしたように解決した。労働者の中に革命的暴力の精神を注入する、エリート党の結成を主張することによって。
 レーニンの前衛政党という考えは人民の意思の経験にもとづいていたが、ムッソリーニのそれは、ガエターノ・モスカとヴィルフレド・パレートの書物によって塑形された。この二人は、1890年代と1900年代の初めに、エリート集団の間の権力闘争という政治観を広めていた。
 モスカとパレートは、同時代の哲学理論、とくにアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)のそれの影響を受けていた。ベルクソンは、主意主義を主張して『客観的』要因が社会行動にとって決定的だとの実証主義哲学者の考えを拒否した。
 しかし、このエリート理論を主に起動させたのは、民主制は作動していないという19世紀末に向かう民主制の実際の姿を観察したことだ。
 大陸〔ヨーロッパ〕の民主制が次々に起こる議会制の危機と醜聞に悩まされたというだけではない-イタリアでは1890年代の10年間に6回も内閣の交代があった-。そうではなく、集まる証拠資料によれば、民主主義的諸制度は、寡頭的少数者の隠された支配のための外被(facade)として役立っていた。
 このように観察して、モスカとパレートは、第一次大戦後のヨーロッパ政治に深い影響を与えた理論を定式化した。
 政治における『エリート主義』との観念は、平凡だと思われるほどに十分に西側の思想界に吸収された。カール・フリートリヒによれば、エリート理論は『西側思想史の最近三世代にわたる重要な主題になった。』(20)
 しかし、世紀の変わり目には、ひどく新奇な考えだった。<支配階級>の中でモスカは、少数者が多数者を支配することを認めるのは、多数者が少数者を支配するのを認めることよりもむつかしいことを受容していた。//
 『組織された少数者の組織されない多数者に対する支配は、ただ一つの衝動に従うことにより、避けることができない。
 いかなる少数者の権力も、組織された少数者の全体(totality)の前に独りで立つ多数派の個々人にとっては諍い難いものだ。
 同時に、まさに少数派であるというその理由で、少数者は組織される。
 共通の理解のもとで均一にかつ一致して行動する100人の人間は、協力しない、ゆえに一人一人が取り引きされうる1000人に対して勝利するだろう。』(**)//
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  (17) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ Ⅱ(1951), p.31, Ⅳ(1952), p.153。
  (18) 同上、Ⅳ, p.156。
  (19) A. Rossi, イタリアのファシズムの成立 1918-1922 (1938), p.134。
  (*) イタリアの社会主義者世界では、階級意識は階級上の地位の自然の産物ではないという考え方は、1900年とそれ以降の多様な社会主義理論家によって拒否されていた。
 とりわけ、Antonio Labriola, A. O. Olivetti, Sergio Panunzio 。A. James Gregor, ファシストの政治信条 (1974), p.107。
  (20) カール・J・フリートリヒ, 常識人の新しい姿 (1950), p.246。
  (**) ガエターノ・モスカ(Gaetano Mosca), 支配階級 (1939), p.53。
 この理論は、全体主義体制が対抗政党だけでなく例外なく全ての組織を破壊して奪い取ることを強く主張した理由を説明している。社会の原子化は、少数者が多数者をはるかに効率的に支配することを許してしまう。
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 ③につづく。

1476/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④02。

 ○ 小川榮太郞の文章を借りて、先に平川祐弘の天皇譲位問題見解を見たのだったが、今回は、平川の文章を直接にあらためて読んでみた。但し、以下に限る。
 ①有識者ヒアリング発言・2016/11/07-内閣府サイト。
 ②「何が天皇様の大切なお仕事か」月刊正論2017年1月号(産経)。
 -これは、①とほとんど異ならない。原稿のほぼ「横すべり」、あるいは「使い回し」だ。
 ③「誰が論点をすり替えたか」月刊Hanada2017年4月号(飛鳥新社)。
 日本の保守というものにいい加減ウンザリしてきた、とこの問題に限らないでいつぞや書いたが、本当にイヤになる。平川祐弘は「アホ」だ。限りなく「アホ」だ。
 <東京大学名誉教授>に対して失礼だなどと怒ってはいけない。
 あの上野千鶴子も、れっきとした<東京大学名誉教授>だ。世俗の肩書きとは関係がない。
 ○ 「このところ新聞では、憲法の文言によって専ら論ぜられ、法学部出身の皆様の解釈が前面に出ますが、それだけでよいのか」。①、他にも同旨あり。
 バカではないか。例えば、本郷和人は文学部出身、正面から平川批判をした小川榮太郎も文学部出身、池田信夫はブログ内で<保守>の譲位反対論を皮肉っていたが、経済学部出身。他にも、平川祐弘を嗤っている人々はたくさんいるに違いない。
 有識者会議のメンバーの出身学部を詳しくは知らないが、例えば山内昌之は文学部出身の<東京大学名誉教授>。山内は、平川祐弘と同様のことを主張するだろうか。
 今上陛下の<お言葉>のあとの世間の反応はあるが、「そもそも退位はあり得るのか。法律的に許されるのか、詳しいことはよく突き詰めて考えていないのが実情ではないでしょうか」。①の冒頭部分。
 これには苦笑してしまった。
 「詳しいこと」を「よく突き詰めて考えていない」のは、平川祐弘自身だろう。
 そうでないと、エドワード八世やら源氏物語とやらが、突如として登場してくるはずはない。
 櫻井よしこもそうだが、日本国民や雑誌読者(週刊新潮を含む)を、<観念保守>の人たちはバカにしているのではないか。とりわけ、せっかくの内閣総理大臣の諮問会議の<公的な>時間と経費を無駄にさせて、申し訳ないと感じるべきだろう。
 ○ 上の「退位はあり得るのか。法律的に許されるのか」、の他に、以下もある。
 今上陛下が「憲法にもない生前退位をしたいと示唆されたのはいかがなものか」。①
 今上陛下の「個人的なお気持ちを現行の法律より優先して良いことか」。①
 仲正昌樹が<精神論保守はダメだが、制度論保守ならいいかも>とか書いていた気分が、よく分かる。
 東京大学名誉教授や「比較文化史家」なるものの、頭の悪さまたは基礎的な法的素養のないことに唖然とする。
 上記のヒアリングに出席して発言する機会が付与されたのだから、憲法の関係条項や現皇室典範の退位・皇位承継関係条項くらいは見ておくのが、当然の姿勢なのではないだろうか。
 後世の、のちのちまで、平川祐弘の発言内容は、日本政府関係情報・電子データとして残っていく。他人事ながら、恥ずかしいことだ。
 さて、憲法に「生前退位」を肯定する規定はないが、それは憲法が生前譲位を否認していることを意味しない。
 「第2条/皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」。
 「国会の議決した皇室典範」の意味については立法技術にも関係する議論があり、かつすでに事実上は決着したようだ。 
 しかしともあれ、皇位継承については「国会の議決した皇室典範」に、つまりはほぼ間違いなく(憲法解釈として)法律の定めに委ねているのが、現憲法の規範内容だ。
 したがって、法律(これがどのようなものか、「典範」か特例法か等には立ち入らない)が憲法の範囲内であれば、いかようにも決しうる。ついでに、男系も女系も、憲法は「世襲」だとだけ定めて何も語っておらず、法律に委ねている。
 現憲法が終身在位を定めているなどと誤解しているとすれば、もちろん<大アホ>。
 「法律的に許されるのか」、「現行の法律より優先して良い」のかなどと問題提起しているのが、さすがに平川祐弘らしい。
 その法律あるいは「現行の法律」を改正すべきか否か、そして改正するとすればどのように改正すればよいのかが、まさしく問われていたのだ。
 ○ このように書いていて、さすがに阿呆らしくなってきた。
 <保守>の、ひょっとすれば多くの人たちは(秋月はその例外のつもりだが)、法律でもって、つまりは世俗の国会議員・両議院議長らや政党関係者がこの問題を扱う権限があると知って(気づいて)、驚天動地の思いだったのではないだろうか。
 長い間(これはある程度は私もだが)、この問題を等閑視してきたのが誤りだった、とも言える。
 ○ そもそもは、譲位問題の結論や帰趨よりも、私には<観念保守>の思考方法に関心があった。
 彼らのほとんどが、現実にある<規範>の意味を無視して、憲法と法律(さらには政令だとか条例だとか)の区別も知らないで議論していることがよく分かった。櫻井よしこにも、渡部昇一にも、その弊は十分にある。
 しかし、彼らの言述を知って気づく、もっと重要な問題は、<天皇の祭祀と宗教・神道>というテーマだろう。
 意識的にか、無知のゆえか、この憲法問題に、彼らは論及しない。簡単に 、憲法問題(国家と宗教の関係)があることを無視して、祭祀や「祈り」を語っている。
 あるいはまた、神道といちおう区別される<仏教>の存在を無視したままで、日本の歴史またはその伝統を語っている。仏教を「疎外」して神道を<国教>化したのは明治維新以降・戦前で、それが日本と天皇の歴史だと勘違いしてはいけない。
 <タブー>が、月刊Hanada編集部の花田紀凱にも、月刊WiLL編集部にも、月刊正論編集部にもあるように思われる。暗黙の前提、もしくは「隠されたイデオロギー」がおそらく存在している。
 こうした問題については、ずっと前に坂本多加雄が言及していたし、たぶん彼の言葉を知らないままに秋月瑛二もかつてこの欄で触れたことがある。
 櫻井よしこについてと同様になるので、別の回にする。

1475/ムッソリーニとレーニン①-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源①。
 第一次大戦前の著名な社会主義者の中で、ムッソリーニほどレーニンに似ている人物はいない。
 レーニンのように、ムッソリーニは、自国の社会主義政党の反修正主義派を率いた。
 レーニンのように彼は、労働者は生まれながらに革命的なのではなく、知識人エリートによって革命的行動へと突つかれなければならない、と考えた。
 しかし、ムッソリーニの考えにはより適した環境の中で仕事をした間、添え木となる党を形成する必要が彼にはなかった。
 少数党派の指導者だったレーニンは分離しなければならなかったが、一方のムッソリーニは、イタリア社会党(PSI)の多数派を獲得して、改良主義者を排除した。
 1914年にムッソリーニの戦争に関する考え方の転回が起こらなかったならば、彼は十分に、イタリアのレーニンになっているかもしれなかった。彼は、連合国側へのイタリアの参戦に賛成することを明らかにして、イタリア社会党から除名されたのだった。
 社会主義歴史家は、ムッソリーニの初期の伝記にあるこのような事実を恥ずかしく感じて、それらを抑えて公表しなかったか、社会主義との一時的な戯れとして叙述した。その戯れをした人物の知性の師は、マルクスではなく、ニーチェとソレルだとされた。(*)
 しかしながら、このような主張は、つぎの事実と一致させることが困難だ。すなわち、イタリアの社会主義者たちは、十分に将来のファシズム指導者について考慮して、1912年に党機関である新聞 <前へ!(Avanti !)>の編集長に指名した、ということだ。(14)
 社会主義との一時的なロマンスとは全く違って、ムッソリーニは熱烈に社会主義に傾倒していた。
 1914年の10月まで、いくつかの点では初期の1920年まで、労働者階級の性質、党の構造と活動、社会主義革命の戦略に関する彼の考え方は、レーニンのそれに著しく似ていた。//
 ムッソリーニは、無政府主義的サンディカリストとマルクス主義者の信条をもつ、貧しい伝統工芸家の息子として、イタリアの最も過激な地方であるロマーニャ地方で生まれた。
 父親は彼に、人間は二つの階級に、被搾取者と搾取者とに分けられる、と教えた。(これは社会主義指導者としてムッソリーニが用いた定式だった。『世界には二つの祖国がある。被搾取者の国と搾取者の国だ』。-sfruttatiと sfruttatori。)(15)
 ムッソリーニはボルシェヴィズムの創設者と比べれば低層の出自で、その過激主義はより多くプロレタリアの性質を帯びていた。
 彼は理論家ではなく、戦術家だった。暴力の重要視とともに無政府主義とマルクス主義の混合物である彼の知識人エリート主義は、ロシアの社会主義革命党のイデオロギーと似ていた。
 19歳のときの1902年に、ムッソリーニはスイスに移り、一時雇い労働者として働き、余暇には勉強して、きわめて貧乏な二年間をすごした。(*)
 彼はこの期間に、過激派知識人と交際した。
 確実ではないけれども、ムッソリーニがレーニンと会った、ということはありうる。(++)
 この期間に頻繁にムッソリーニを見たアンジェリカ・バラバノッフによれば、彼は虚栄心をもち自己中心的で、異様な興奮をしがちだった。また、その過激主義は、貧困と金持ちへの憎悪に根ざしていた。(16)
 この時期にムッソリーニは、長く続く改良主義者や進化論的社会主義に対する敵意を形成していった。
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  (+) ソレル(Sorel)はムッソリーニに対して大きな影響を与えたというのは、反ファシスト文献上の長く続く神話だ。彼の影響は小さく一時的なものであることを、証拠資料は示す。以下を見よ。Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938), p.228. ;エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte), ファシズムとその時代 (1963), p.203。
 ムッソリーニの暴力カルトは、ソレルではなくて、マルクスに由来する。ソレルはたまたま、1919年9月に、レーニンへの賛辞を書いた(「レーニンのために」in :暴力に関する考察, 10版, (1946), p.437-54.〔仏語〕)。
 ソレルはそこで、「マルクス以後の社会主義の偉大な理論家であるとともにその天才ぶりはピエール大帝のそれを想起させる」ムッソリーニの知的発展に自分が寄与した、というのが、噂になっているように本当であれば、きわめて誇らしい、と書いた。
  (14) ムッソリーニの初期の社会主義やレーニンのボルシェヴィズムへの親近感についてきちんと取り扱った書物の中に、以下がある。Renzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965) ;Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938)。A. James Gregor のつぎの二つ, 若きムッソリーニとファシズムの知的淵源 (1979), ファシストの政治信念 (1974)。および、Domenico Settenbrini の二つの論文, 「ムッソリーニとレーニン」in :George R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.146-178, 「ムッソリーニと革命的社会主義の遺産」in :George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.91-123。
  (15) ベニート・ムッソリーニ, オペラ・オムニア (1952), p.137。   
  (*) この移動は、徴兵を避けたい気持ちからだったと、ふつうは説明されている。しかし、James Gregor は、ムッソリーニは1904年にイタリアに戻ってきて翌二年間を軍役ですごしたので、原因とはなりえなかった、と指摘した。James Gregor, 若きムッソリーニとファシズムの知的起源 (1979), p.37。
  (++) Benzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965), p.35n は、この遭遇はあった、と考えている。
 ムッソリーニはレーニン(「ロシア移民は絶えず名前を変えていた」)と会ったか否かの質問に決して明確には答えなかったが、一度、謎めかしてつぎのように語った。『私が彼〔レーニン〕を知っているのより遙かに多く、彼は私について知っていた』、と。
 彼はいずれにせよ、この期間に、翻訳されたレーニンの著作物のいくつかを読んだ。そして、『レーニンに捕まった』と言った。Palazzo Venezia, ある体制の歴史 (1950), p.360。
  (16) アンジェリカ・バラバノッフ(Angelica Balabanoff), 反逆者としてのわが人生 (1938), p.44-52。
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 ②につづく。

1474/全体主義の概念②-R・パイプス別著5章1節。

 前回のつづき。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・『全体主義』の観念②。
 ココミンテルンが定式化した、左翼には優勢の見方によれば、『ファシズム』は共産主義の正反対物で、この二つを『全体主義』という傘の下に置く試みは、冷戦の産物だとして却下される。
 この見方によれば、『ファシズム』は、最終的な消滅へと進む資本主義における帝国主義段階の一様相だ。
 包囲されかつ驚いて、『独占資本主義』は、労働者階級の支配を維持しようと絶望的な努力をして、『ファシスト独裁制』に頼っているのだ。
 共産主義インターナショナル〔コミンテルン〕執行委員会は1933年に、ファシズムを『金融資本主義の、最も反動的で狂信愛国主義的なかつ帝国主義的な要素をもつ、公然たるテロリスト独裁制』と定義した。(9)
 傾倒したマルクス主義者にとっては、議会制民主主義と『ファシズム』の間に何の違いもない。ただ、ブルジョアジーが労働者大衆の要求に対抗して自らを守る方法が違うだけだ。
 『ファシズム』は、財産関係を維持し続けるがゆえに保守的だ。『社会主義社会への自然の発展を妨げようとする点において、革命的ではなく、反動的であり、または反革命的ですらある。』(10)
 ムッソリーニやヒトラーの体制にある革命的な要素は、現代人には驚くべきことに、欺瞞的な策略(deceptive maneuvers)だと叙述される。//
 『全体主義』観念やボルシェヴィズムは『ファシズム』に影響を与えたという示唆に反対する論拠には、二つの範型がある。
 低い議論の次元では、人身攻撃(ad hominem)の方法が用いられる。
 『全体主義』の観念(concept、コンセプト)は、冷戦を闘うための武器として考案されたと言われる。共産主義をナツィズムと接合させることは、世論が反ソヴェト同盟へと向かうのを助ける、というのだ。
 この観念は実際には、冷戦の優に20年前には存在していた。
 『全体的(total)』政治権力や『全体主義』の観念は、1923年に、ムッソリーニの反対者だった(のちにファシストに殺害された)ジョヴァンニ・アメンドーラによって定式化された。彼はムッソリーニによる国家制度の体系的な破壊を観察して、ムッソリーニ体制は伝統的に言う独裁制とは根本的に異なっている、と結論した。
 ムッソリーニは1925年に、『全体主義』という用語を採用し、肯定的な意味を与えた。
 彼は、『精神的なものも人間的なものも』全てを、『国家の外にある全てではなく、国家に反抗する全てではなく、国家の内部にある全てのもの』を政治化する、という意味で『全体的な』ものだと、ファシズムを定義した。(*)
 ヒトラーの勃興とそれと同時に起こったスターリンのテロルがあった1930年代に、この用語は、学者世界で受容されていた。
 これら全ては、冷戦のとっくに前に生じていたのだ。//
 『全体主義』との語を拒絶する、より真剣な理論家は、その論拠をつぎのように述べる。
 第一に、いかなる体制も完全な政治化や国家統制を実施することができなかった。第二に、いわゆる『全体的』体制に帰属する特質は、それに独特なものではない。
 『言葉の厳格な意味で全体的という呼称を使える制度は存在しない』。
 さらに論述は続く、『なぜなら、どこにでも多かれ少なかれ多元主義的な屑滓は残っているのだから。』、と。
 換言すると、明確に特徴的だとされる『単一体』を実現することなどできない。(11)
 これに対しては、つぎのように答えることができる。
 『厳格な』意味づけという標識でもってつねに判定されるならば、社会科学の学術用語は、全てが考査に合格しないだろう。
 何人も、『資本主義』について語ることはできないだろう。なぜならば、レッセ・フェール(laissez-faire)経済の全盛期においてすら、政府は規制していたし、そうでなくとも市場の活動に介入していたのだから。
 また、このような規準によるならば、何人も『共産主義経済』を語ることができないだろう。なぜならば、ソヴェト同盟では理論上は99%が国有で国家管理のもとにあったとしてすら、つねに『第二の』自由経済部門(sector)の存在を黙認しなければならなかったからだ。
 民主主義は、民衆による統治を意味する。しかし、政策に影響を与える特定の利益集団がどの最も民主主義的な国家でも存在していることを、政治理論は何の困難もなく承認している。
 このような諸概念は、所与の体制が欲するものは何か、得るものは何かを伝達するがゆえに、有用なのだ。-自然科学ではなされるような、辞書上の用語の意味での『厳格に』語ってではなく、人間世界で最大限に一致していることを大まかに語って伝えるのだ。
 実際に、全ての政治的、経済的および社会的な制度は『混合』したもので、どれ一つ純粋なものではない。
 学者の仕事は、総体として所与の制度を際立たせて他者と分離させる、その総体を識別することだ。
 より厳格な規準を『全体主義』概念に適用する、いかなる合理的で知的な根拠も存在しない。
 じつに、全体的な熱望はきわめて高いので、ハンス・ブーフハイムによれば、まさにその本性のゆえにそれを認識することができない。ブーフハイムは、つぎのように述べる。//
 『全体的支配は不可能なことを-人の人格と運命を完全に統御することを-追求するので、部分的にしか認識され得ない。
 目標は決して到達できないもので現実になることもなく、力への一つの勢い、一つの<要求>にとどまり続けなければならない、というのが、全体主義の本質だ。
 全体的支配は単一的に推論できる装置ではなく、各部分が同等に働いている。
 これは望ましい状態で、ある分野では現実にも理想に接近しているのかもしれない。しかし、全体(whole)として見ると、力への全体的な要求は、変転する強さ、異なる時間、多様な生活領域が伴う、拡散した方法でのみ、認識される。-そして、全体的な特質はつねに、非全体的なものとの混合物なのだ。
 しかし、力への全体的要求の結果は危険で暴虐的だというのは、まさにこの理由からだ。この要求は不明瞭で予見不能で、存在を証明するのが困難だ。(中略)
 全体的な総体に関するほとんどどの考察にも、ある事項については誇張し、別の事項については過小に評価するという、致命的な特徴がある。
 この逆説は、認識できない統御への要求から生じている。それは全体的な統治のもとでの生活に特徴的なものであり、全ての外部者が把握することをきわめて困難なものにしている。』(12)//
 全体主義の(イデオロギーへの傾倒、大衆への訴え、カリスマ的指導者のような)属性はどの政治体制にも存在している、という主張に対しても、同様の答えをすることができる。
 『いかなる構成物にも歴史上の独特さがあるという論拠は、「全体として(wholly)」独特だということを意味してはいない。そんなものは何一つないからだ。
 全ての歴史事象は、…分析対象を幅広く分類したもののうちのいずれかに属している。
 歴史はまずは、人間であれ物であれ、また事件であれ、個別的なものにかかわる。そして、歴史上の独特さは、特徴的な要素を十分に多様な図柄にしたもので成り立っているのだ。』(13) //
 イタリアのファシズムとドイツの国家社会主義について研究するためには、ロシア革命を理解することがきわめて重要だ。その少なくとも三つの理由は、つぎのとおりだ。
 第一に、ムッソリーニとヒトラーは、民衆を脅かして独裁権力に屈服させるために、共産主義という妖怪を利用した。
 第二に、二人とも、個人的に彼らに忠実な政党を造り上げ、権力を奪取して一党独裁体制を樹立する技術について、きわめて多くのことをボルシェヴィキから学んだ。
 これら二つの点で、共産主義は、社会主義や労働者運動に対してよりも大きい影響を、『ファシズム』に対して与えた。
 そして第三に、ファシズムや国家社会主義に関する研究文献は共産主義に関するそれよりも、多くかつより精細だ。それらに慣れ親しむことは、ロシア革命が出現させた体制に対して、多くの光をあてる。//
 影響は大きいので、歴史家は危うい地形に嵌まるかもしれない。なぜならば、前後関係のゆえに因果関係あり(post foc ergo propter hoc)という、その後で生じたからそれが原因だとの謬論に陥る危険性があるからだ。
 共産主義はファシズムと国家社会主義の『原因』になった、と言うことはできない。これらの源泉は生まれた地にあったのだから。
 しかし、つぎのことは言うことができる。すなわち、大戦後のイタリアとドイツでひとたび反民主主義的勢力が十分な強さを獲得したとき、その指導者たちの手には、従うことができるモデルが用意されていた。
 全体主義の全ての属性の先行形は、レーニン・ロシアのうちにあった。つまり、公式の包括的なイデオロギー、『指導者』を長として国家を支配する単一のエリート政党、警察のテロル、通信手段と軍隊に対する支配党の統制、経済への中央からの指令。(**)
 これらの制度と過程は、ムッソリーニがその政府をヒトラーがその党を設立した1920年代早くに、他のいかなる国でも見出せなかったが、すでにソヴェト同盟にはあった。
 したがって、『ファシズム』と共産主義の間には何の連結関係もないということの立証責任は、そのような見解の持ち主の側にある。//
  (*) 1950年代と1960年代のガーナの独裁者で、ソヴェトとの同盟者だったクワメ・クルマーは、自分の碑につぎの言葉を彫りこんだ。『まずは政治王国を探求せよ。そうすれば全ての他事は君の上に加わるはずだ。』
  (9) レオニード・ルークス, 共産主義者のファシズム理論の生成 (1984) p.177。
  (10) アクセル・クーン, ファシストの支配体制と現代社会 (1973) p.22。
  (11) ザイデル=イェンカー, 途 p.26。同じ反論は以下からも述べられている。クーン in, ファシスト的支配体制, p.87。
  (12) ブーフハイム, 全体的支配, p.38-39。
  (13) フリートリヒ, 全体主義, p.49。
  (**) これらの標識は、カール・J・フリートリヒとズビグニュー・K・ブレジンスキーによって、彼らの<全体的独裁と専制>(1964) p.9-10 で確立された。
 経済計画は1927年のロシアで最初に実現されるが、その基礎作業は、レーニンのもとで、1917年遅くの国家経済最高会議(VSNKh)の設立によって行なわれていた。R・パイプス『ロシア革命』第15章を見よ。
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 第2節へつづく。 

1473/全体主義の概念①-R・パイプス別著5章1節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の訳を試みる。さしあたり、第5章のみ。
 原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には「//」を付した。<『 』>は、原著では<" ">だ。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 「ファシズムとは何か。それは民主主義から解放された社会主義だ。」- Charles Maurras (1)
  第1節・『全体主義』の観念
 国内および国外での共産主義者の活動の意味は、世界的革命を解き放つことではなく、逆説的ではあるが、彼らの精神性に類似した運動を生起させ、共産主義を闘う彼らの方法を模写することだ。
 この理由によって、第一次大戦後にヨーロッパに出現した、いわゆる右翼過激派の、または『ファシスト』の運動はしばしば、共産主義の正反対物だと見られている。
 しかし、宗教上のであれ世俗上のであれ相互に激烈に闘うイデオロギーにはよくあるように、それらは異なる原理や熱望をもつがゆえにではなく、同じ構成物を目指して競争するがゆえに、相互に激しく闘うのだ。//
 共産主義と『ファシズム』の関係は長らく、論争の対象だった。
 共産主義歴史家には義務的な、西側の社会主義者やリベラルたちには好まれた解釈によれば、この二つは決して一致しない現象体だ。
 保守的な理論家の側は、両者を『全体主義』という観念のもとに包括する。
 問題はきわめて微妙だ。『ファシズム』、とくにその最も悪性の表現であるナツィズムは、マルクス・レーニン主義と、したがって究極的には社会主義と、縁戚関係があるのか、それともそうではなく、『資本主義』から生まれてくるのか、という問題が生じるからだ。//
 以下の論述は、直接にはこの論争にかかわらない。この問題については、すでに多数の文献が存在する。(2)
 その代わりに、共産主義が、見習うべき模範かつ利用すべき脅威のいずれもとして西側の政治に与えた影響に、光を当てるつもりだ。
 大戦間のヨーロッパでの右翼過激派運動の起源を例にとれば、その運動はレーニンとスターリンという先行者なくして理解できないだろうことが、すぐに明らかになる。
 この問題は、不思議にも、ヨーロッパの全体主義独裁制がまるで自分で生まれてきたかのように扱う歴史家や政治学者によって無視されている。権力へのヒトラーの蜂起に関する標準的な説明をするカール・ブラヒャーですら、ほとんどレーニンに言及していない。ブラヒャーのあらゆる段階についての叙述は、この二人が採用した方法との類似性を明らかにしているにもかかわらず。(3)//
 なぜ、ソヴェトの実験は、ファシズムや全体主義に関する文献で大きく無視されているのか ?。
 左翼の歴史家にとっては、ソヴェト共産主義と『ファシズム』の親近性という問題を持ち出すことですら、両者間の因果関係を肯定するのと同じことなのだ。
 彼らにとって『ファシズム』とは、その定義上、社会主義と共産主義の正反対物であるために、このような親近性は承認されえないもので、『ファシズム』の根源は、もっぱら保守的思想と資本主義の実践の中に求められなければならないのだ。
 ソヴェト同盟ではこの傾向は進んで、レーニン、スターリンおよび彼らの直接の後継者たちのもとでは、『国家社会主義』という用語を使うことが禁じられた。//
 つぎに、『全体主義』および『ファシズム』という概念が現代性を獲得した1920年代には、西側の学者はボルシェヴィキとそれが生んだ一党独裁体制についてほとんど何も知らなかった。
 すでに記したように (4)、1917-18年、ヨーロッパが第一次大戦の最後の年にあり、ロシア内部の展開によりも注意を払うべき緊急の問題がたくさんあったときに、あの体制は、設定された。
 共産主義体制の真の本性は、その背後に独占的な党が立つ、新奇な民主主義紛いの諸制度によって、外国人の目からは長い間、隠されていたのだ。
 今日からすれば奇妙に思えるかもしれないことだが、『ファシスト運動が発展した1920年代には、共産主義はまだ全体主義的体制の一つであるとは分かっておらず…、制限のない自由の擁護者のように見えていた…。』(5)
 二つの大戦の間には、共産主義体制の起源を問題にするいかなる研究も、真剣な歴史的で理論的な分析を行わなかった。
 ほとんどが1930年代に、ソヴェト・ロシアに関する若干の研究書が出版され、スターリンが支配する国家について叙述した。それら研究書はしかし、一党国家体制の父祖であるのはレーニンではなくスターリンだという偽りの印象を生み出した。
 1951年になって、ハンナ・アレントは、レーニンが最初に権力をソヴェトに集中させることを企図し、内戦が勃発して『大敗北』を喫したのちに、『至高の権力を…党官僚の手へと移した』という衝撃的な主張をすることができた。(6)//
 全体主義現象に関する初期の分析は、彼ら自身の民族的体験にもとづいて、ほとんどもっぱらドイツの学者によって行われた。(7)
 ハンナ・アレントが全体主義の属性の一つであるとして反ユダヤ主義に与えた、誇張された重要性は、ドイツ人による多数の研究を説明するものだ。(*1)
 初期の別の(ジグムント・ノイマンのような)研究者は、ヨゼフ・スターリン、ベニート・ムッソリーニおよびアドルフ・ヒトラーの諸体制の類似性に注目した。しかし彼らですら、共産主義政治体制の作動に関してほとんど何も知らないという単純な理由で、ロシアが右翼過激派運動に与えた影響を無視した。
 1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった。(8)
 ファシズムと国家社会主義に対するボルシェヴィズムの影響について研究することには、第三の要素が内在していた。それは、全ての反共産主義の運動と体制を描写する『ファシスト』の利益になるように『全体主義的』という形容句を『進歩的』思想の語彙群から除外しようとする、モスクワの強固な主張だった。
 この問題に関する党の方針は1920年代に定められ、コミンテルンの決定で定式化されていた。
 ムッソリーニ・イタリアやヒトラー・ドイツを曖昧に包括する『ファシズム』は、ポルトガルのアントニオ・サラザールやポーランドのピルズドスキーのような比較的に穏健な反共産主義独裁制とともに、『金融資本主義』の所産であり、ブルジョアジーの道具だと宣告された。
 1920年代に、ソヴェトの公式原理は、全ての『資本主義』国家は共産主義(社会主義)にひざまづく前に『ファシスト』段階を通過することを余儀なくされている、と決定した。
 モスクワが『人民戦線』政策を採った1930年代半ばには、ソヴェトのこの問題に関する見地はいくぶんかは柔らかくなり、定義上は『ファシスト』の範囲内にある政府や運動との協力を許した。
 しかし、反共産主義をファシズムと同一視する考え方は、ミハイル・ゴルバチョフによる<グラスノスチ>が登場するまで、共産主義による検閲に服している諸国では拘束的なものであり続けた。
 この考え方は、外国の『進歩的』なサークルでも広く行き渡っていた。
 いかなる方法によっても無謀にもムッソリーニまたはヒトラーを共産主義と結びつける、あるいは共産主義体制を紛れもない大衆運動だと叙述する学者には、言葉によるまたはその他の形態による嫌がらせを受けるリスクがあった。(*2)//
  (2) 例えば、カール・J・フリートリヒ, 全体主義 (1954); エルンスト・ノルテ 編, ファシズムに関する諸理論 (1967); レンツォ・ディ・フェリーチェ, ファシズムの解釈 (1972); ブルーノ・ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 全体主義研究の途 (1968); エルンスト・A・ミェンツェ 編, 全体主義再検討 (1981)。
  (3) カール・ブラヒャー, ドイツの独裁者, 2版 (1969)。
  (4) リチャード・パイプス, ロシア革命, 12章。
  (5) ハンス・ブーフハイム, 全体的支配 (1968), p.25。
  (6) ハンナ・アレント, 全体主義の起源 (1958), p.319。
  (7) ペーター・クリスツィアン・ルドツ, in :ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 途, p.536。エルンスト・フレンケル, 二重国家 (1942), フランツ・ナウマン, ビヒモス (1943) といったパイオニア研究を見よ。最初の大戦間10年間には、全体主義に関する多数の研究がドイツ移民によっても、とくに、アレント, 起源 やフリートリヒ, 全体主義, によってなされた。
  (*1) 〔略〕
  (8) カール・J・フリートリヒ=ズビグニュー・K・ブレジンスキー, 全体的独裁〔Dictatorship〕と専制〔Autocracy〕 (1956)。
  (*2) 例えば、ファシズムの有名な非『ブルジョア』的根源を強調するイタリアの知識人界がレンツォ・ディ・フェリーチェ(Renzo de Felice) に対してとった処遇を見よ。マイケル・レディーン(Michael Ledeen), in: George Mosse 編, 国際的ファシズム (1979) , p. 125-40。
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 ②へとつづく。

1472/R・パイプス著『ボルシェヴィキ体制下のロシア』の内容・構成。

 既述のように、①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>とは別の、リチャード・パイプスの著に、② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)<原著・大判で約600頁>がある。これら二つを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。
 上の①の構成・目次とそこに掲げられている年表はすでに紹介し、第9章にかぎって試訳を行った。上の②の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)〔パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア〕の目次・構成は、つぎのように成っている。章番号については「章」という語はなく数字だけだが、「章」を加えた。
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 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)
 第1章/内戦-最初の戦闘(1918)
 第2章/内戦-頂点(1919-20)
 第3章/赤色帝国
 第4章/革命の輸出
 第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 第6章/プロパガンダとしての文化
 第7章/宗教に対する攻撃
 第8章/ネップ・偽りのテルミドール
 第9章/新体制の危機
 〔数字なし〕/ロシア革命に関する省察
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 以上のうち、第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、目次上では数字番号と「節」にあたる文字はないままに、つぎの節に分かたれている。但し、本文には見出し文章はなく、各節の間の区別は、一行の空白を挿入することによってなされている。
 National Socialism は、「国民社会主義」が定訳なのかもしれないが、「国家社会主義」と訳しておいた。
 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・「全体主義」の観念。
  第2節・「レーニン主義者」を源とするムッソリーニ。
  第3節・ナツィの反ユダヤ主義。
  第4節・ヒトラーと社会主義。
  第5節・全体主義三体制の共通性。
   1・支配政党。
   2・支配党と国家。
   大衆操作とイデオロギーの役割。
   3・党と社会。
  第6節・全体主義諸体制の差違。
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 以上。[注記、翌3/29に第5章内の節区分けの表示を改めた。]
  

1471/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④。

 ○ 小川榮太郎「平川祐弘氏に反論する-譲位の制度化がなぜ必要なのか」月刊Hanada5月号p.303-による、おそらく同誌4月号の平川祐弘「誰が論点をすり替えたか-天皇陛下『譲位』問題の核心」p.30-に対する批判は、平川批判として優れている。
 書いていることに即しての譲位問題に関する平川祐弘批判は秋月もする予定だったが、小川の言述の紹介でもってほぼ代替させることができるかもしれない。
 もっとも、櫻井よしこらと親交があるらしい編集長・花田凱紀の意向だと思われるが、平川論考のタイトルは4月号の表紙の右側に最も大きく掲載されているのに対して、小川榮太郎の上記については表紙の中になく、目次の中でも目立ってはいない。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaは、同人誌的サークルが別の名前で、似たような人が似たようなことを順番に書く雑誌に堕してしまっている観がある。ときにはこの小川榮太郎論考のようなものや、西尾幹二や中西輝政のものを載せて、ゴマカしているけれども。
 ○ 小川榮太郎に同意できない部分はあるが、そこはさておき、以下は平川批判。
 ・最後の、「…日本の保守は実に危うい」。p.315。平川を読んでの結論的感想のようだ。そのとおりだ。とくに「観念保守」の精神的頽廃は著しい。もっとも、「…」の「…させねば」の部分には同意できない。
 ・まん中あたりの、「そもそも平川氏-および保守系論客の多数-が、そんなに摂政に固執することが私には寧ろ理解できません」。p.311。そのとおり。かりに本当に「保守系論客の多数」だとすれば、日本の保守はすでに死んでいる。つぎの根拠づけも適切だ。
 「皇太子による摂政の制は、明治の典範で初めて定められたものに過ぎず、本来の天皇伝統ではない」。p.311。
 ・平川祐弘は、今上の「お言葉」は<天皇の役割を拡大する「個人的解釈」・「拡大解釈」>だと理解して、「我が儘を言っておられるだけ」だとし、「祀り主として存在することに最大の意義がある」と言うが、「そもそもが陛下のお言葉への反論になっていない」。p.305。
 ・存在するだけでよいとは、観念的詭弁(秋月の言葉)。「極論すれば」、「植物人間状態で全く『機能』していなくとも、『存在』が継承されれば天皇伝統は続いたか」。p.306。
 ・平川は譲位の問題を縷々述べるが「体系的網羅的懸念」でない。制度又は慣習化で防止できる。p.310。また、例えば以下。
 ①上皇と新天皇の各周辺の「人間関係がうまくいく保証はない」というが、同様のことが「摂政と天皇の間にも」「起こるに違いない」。p.310。
 ②エドワード八世の退位後のヒトラー接近というのは、「失礼極まる」「拡大解釈」だ。p.310。
 ・平川は源氏物語を持ち出して「高齢化」への配慮は不要だとする。しかし、現在の「高齢化」社会の出現は突然のもので、「世襲の制度にとって、この突然の平均寿命の倍増は、根底的な制度設計の変更を要求するものだと考えるのは、寧ろ当然ではないでしょうか」。p.311。
 以下は秋月瑛二による追記。源氏物語がかりに50-100年間の天皇の実態を反映して(物語だが史実に即して)書かれていたとしても、たかだか50-100年間の天皇の歴史にすぎない。なぜこれが、現在の議論の根拠になるのか。源氏物語が描いていない、平安期以前、平安期の残り、鎌倉以降の武家・幕府時代等についての根拠になるはずはない。平川祐弘の言及の仕方は、思いつくままの(限られた個人的な知識にのみ頼った)恣意的なものにすぎない。「バカ(アホ)」なのだ。
 ・小川の論述はさらに進む。「終身在位に固執する弊のほうが、遙かに実際的な危機ではないでしょうか」。p.312。
 (明治皇室典範の摂政位継承順位の定めに関する小川の理解p.311-312は、適切だろう。つまり、摂関時代のように、皇太子等の皇族以外が摂政になることを禁止し、天皇家・摂政家(これにつながる皇族)の対立、後者による「明治新政府を転覆する可能性」を摘み取ったのだ。ちなみに、1989年・明治皇室典範は、1877年・西南戦争のわずか12年後、1968年・新政府樹立の21年あと。)
 皇太子が摂政につくとすると、「事実上、六十代以降に即位した老齢天皇が、八十代で摂政を立てるというのが基本的な天皇のあり方になってしまいます」。p.312。
 ・「宮中祭祀七つに関しては摂政は代行できません」。p.312。
 これについて調べる必要があると感じていたところ、珍しくこの問題に論及している<保守>の人の文章を見た。現在の皇室典範によれば、摂政は天皇の「国事行為」のみを代行できる。また、国事行為委任法(略称)も、名前のとおり、「国事行為」のみを委任できる。八木秀次もいるはずなのに、これについての言及がなかったのは不思議だった。
 いわゆる<公的(象徴的)行為>や祭祀を含む<私的行為>について、どこまで摂政が代替できるかは、本来はきわめて重要な論点だったはずなのだ。
 ・平川祐弘ら「保守派」はただ宮中でお祈りしていただければよいとの議論が多いが、「天皇の祈り」は「そんな気楽なもの」ではない。p.312-3。
 以上にとどめる。小川の批判は、平川祐弘に対してのみならず、、渡部昇一、櫻井よしこ、八木秀次にも、そしてその他の、月刊Hanada、月刊WiLL、月刊正論の関係者やこれらの愛読者に対しても、相当程度にあてはまるだろう。
 昨年の文藝春秋スペシャルの天皇特集号でも、そこにあった八木秀次よりも遙かに柔軟でかつ制度もよく理解していた文章を、小川榮太郎は書いていた。
 ○ 八木秀次を除けば、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこはすべて<文学部>出身者。「アホ」になるのはどちらかというと文学部系に多い、というのが秋月の見立てだ。
 しかし、小川榮太郎は格段に優れている。話がかなり通じそうな気がする。
 もっとも、先に記載のとおり、小川が天皇について一般論として記していることについては、かなり違和感をもつ部分もある。だが、それは今回のテーマではない。

1470/第一次大戦と敵国スパイ④-R・パイプス著9章10節

 前回のつづき。かつ、とりあえずの(第9章の試訳の)最終回。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵国スパイ。

 1916年4月に、ツィンマーヴァルト会議の続きが、ベルン高原地方のキーンタールで開かれた。
 この会合は社会主義インター委員会により招集され、三年目に入ろうとしている戦争について議論をした。
 インターナショナルの平和派を代表する参加者は、ツィンマーヴァルト左派に従うことを再び拒否した。しかし、前年よりさらに左派に対して柔軟になった。
 会議は『平和問題へのプロレタリアートの態度』という決議で、資本主義の基盤での戦争を非難し、『ブルジョア的であれ社会主義的であれ、平和主義は』人類が直面している悲劇を解消することができない、と強く主張した。//
 『資本主義社会が永続する平和の条件を提示できないならば、その条件は社会主義によって提示されるだろう…。
 <永続平和を目指す闘いは、ゆえに、社会主義の実現を目指す闘いでのみありうる。> 』(133)
 これの実際的な帰結は、『プロレタリアートは即時休戦と講和交渉の開始を求めて呼びかけるべきだ』ということだった。
 再び言おう。反乱を起こすことや銃砲をブルジョアジーに対して向けることの呼びかけではない。しかし、このような行為は決議の前提から排除されてはおらず、多くのことはその中に暗に含まれていたと言うことができるかもしれない。
 ツィンマーヴァルトでしたように、レーニンは、つぎのようなプロレタリアートへの訴えで締め括る、左派のための少数派報告書を書いた。
 『武器を置け。その武器を、共通の敵(foe)-資本主義政府に向けよ。』(*)
 レーニンの声明文の下の(44人の参加者のうちの)12の署名者の中には、ラトヴィアを代表するジノヴィエフ、オランダのそれのカール・ラデックがあった。
 ジノヴィエフの草案にもとづく『社会主義インターナショナル事務局(Bureau)』に関するキーンタールの鍵となる決議は、左派の要求をほとんど満たすもので、この組織がいわゆる<祖国防衛と公民の平和>政策の共犯者に変わることを非難し、また、つぎのように論じた。//
 『インターナショナルは、<プロレタリアートが全ての帝国主義者と狂信愛国主義者の影響から自らを解放し、階級闘争と大衆行動への途を進むことができる>まで、その明確な政治力を有するに至ってのみ、解体を免れることができる。』(134)//
 インターナショナルの分裂を求めるレーニンの主張は再び敗北したけれども、会議が終わったあとで、右派のメンバーの一人、S・グルムバッハは、なおもつぎのように述べた。
 『レーニンとその仲間たちは、ツィンマーヴァルトで重要な役割を果たした。キーンタールでは<決定的な>役割を果たした。』(135)
 じつに、キーンタールの決議は、レーニンが創設した第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕の基礎作業だった。//
 1915-16年におけるツィンマーヴァルトとキーンタールでのレーニンの成功は、社会主義者たちを言葉上だけで信頼させたこと、彼らが美辞麗句(rhetoric)に酔うことを求めたことによっていた。
 これによってレーニンは、外国の社会主義団体の間で小さいがしかし熱烈な支持を獲得した。
 より重要なことは、こうした立場によってレーニンが社会主義運動上の道徳的な高位を掴んだために、彼の反対者たちは弱体化し、彼と闘うことが妨げられたことだ。
 インターの指導者たちは、レーニンの陰謀好きや誹謗中傷を軽蔑した。しかし、自分たち自身と縁を切ることなくして、レーニンと絶縁することはできなかった。
 レーニンはその戦術によって、社会主義インターの運動を徐々に左傾させ、ついには自分の党派から分裂させた。ちょうどロシア社会民主党について行なったように。// 
 これを言ったがまた、レーニンとクルプスカヤには戦時中の数年間は、苛酷な時期、貧困とロシアからの孤立の時代だったことも注記しておかなければならない。
 彼らはスラム街に接した区画に住み、犯罪者や売春婦たちと一緒に食事をして、かつての多数の友人から捨てられたと感じていた。
 以前の何人かの支持者ですら今や、レーニンは変人で、『政治的イエズス会士〔策謀家〕』で、廃人だと見なすようになった。(136)
 かつてレーニンの最も親密な仲間の一人だった、そして今は軍需産業に勤める官僚として快適な生活をしているクラージンがレーニンへの寄付を求められて接近されたとき、彼は二枚の5ルーブル紙幣を差し出して、つぎのように言った。
 『レーニンは、支援に値しない人物だ。
 危険なタイプだ。そのタタール頭に芽生えている狂気がいかなるものかを知ってはならぬ。
 レーニンよ、くたばれ!』(137)//
 レーニンが逃亡している間の唯一の光のひと筋は、イネッサ・アルマンドとの情事だった。彼女は、音楽ホールの芸術家二人の娘で、金持ちのロシア人の妻だった。
 チェルニュインスキーの影響を受けたイネッサは、夫と離婚し、ボルシェヴィキ党に加入した。
 彼女は1910年にパリで、レーニンとその妻に会った。
 まもなく忠実な支持者になるとともに、クルプスカヤの暗黙の了解を得て、レーニンの愛人になった。
 ベルトラム・ヴォルフェはイネッサについて『献身的で情熱的なヒロイン』のように語るけれども、しばしば彼女に逢ったアンジェリカ・バラバノッフは、つぎのように描写する。すなわち、『完全な-ほとんど受動的な-レーニンの指示の実行者』、『厳格にかつ無条件に服従する完璧なボルシェヴィキ党員の原型(prototype)』。(138)
 イネッサ・アルマンドは、レーニンがかつて緊密な人間関係を築いた、唯一の人間(human being)だったように思われる。//
 レーニンは、ヨーロッパ革命がいずれ勃発するという信念を失わなかった。しかし、その見込みは遠いように思えた。
 帝国政府は十分に、1916年に大攻撃を行なうべく1915年の軍事的かつ政治的な危機を見通していた。
 ペテログラードにいる工作員、アレクサンダー・シュリャプニコフが送ってくる散発的な通信によって、レーニンは、悪化するロシアの経済状況や都市住民の不満について知った。(139) しかし、彼はこの情報を無視して、帝国政府にはこのような困難を克服する能力があると明らかに信じていた。
 1917年1月9日/22日にツューリヒの青年社会主義者の集会で講演した際、レーニンは、つぎのように予言した。
 ヨーロッパでの革命は、不可避だ。一方でしかし、『われわれ古い世代の者はおそらく、来たりくる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(140)
 この言葉は、帝国の崩壊の8週間前に、発せられていた。//
  (*) レーニンはこのとき、こう書いた。〔以下、文献を省略〕
 『客観的に見て、平和というスローガンは、いったい誰の利益になるのだ。確実に、プロレタリアートではない。これは資本主義の崩壊を速めるために用いる考え方ではない。』
 これを引用して、アダム・ウラムは、こうコメントする。
 『レーニンは、数百万の人間の生命にとっても「平和というスローガン」が「利益」になりえた、という事実を看過した。』
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 リチャード・パイプス著『ロシア革命』第9章の試訳を、とりあえず、終える。

 

1469/なぜ「アホの4人組」か。天皇譲位問題・「観念保守」、つづき③。

 たぶん年齢順に、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次。この人たち4人をなぜ「アホの4人組」と称するのか。
 第一に、もちろん、昨2016年11月に、天皇関連有識者会議での「有識者ヒアリング」で発言した者たちであり、今上天皇の譲位(いわゆる生前退位)に反対して摂政制度の利用を主張した点で共通性がある。だが、そのような者は、他にもいる。
 第二に、いずれも、天皇の歴史も含めた、天皇問題の専門家ではない。
 大原康男や今谷明は、それぞれの分野で「専門家」だとは言えるだろう。所功も、園部逸夫もそうだ。
 八木秀次は憲法学者・研究者として、天皇問題の専門家だと自分を思っているのかもしれない。天皇・皇室問題で発言してきてもいる。
 百地章も、大石眞も、また高橋和之も、憲法学者・研究者として「専門家」なのかもしれない。 
 しかし、八木秀次の憲法学「専門家」性は、相当に疑問がある。そういうためには、憲法学界または憲法アカデミズムの一員として受容されていなければならないと思われるが、八木はとっくにそれから離脱しているのではないか。そして、<教育>問題・分野へと「活動」の重心を移しているのではないか。
 2015年にいわゆる平和安保法制問題が政局化した際に産経新聞は西修、百地章、八木秀次の三人の文章を「正論」欄に掲載したが、最も拙劣だったのは八木の文章だった。この当時にはこの欄で触れなかったが、八木秀次は、<憲法体制と安保体制の矛盾>という、日本共産党員の長谷川正安(故人、名古屋大学・憲法学)が言っていたようなことを述べていた(秋月も、子どもたちにウソを教えてはいけない旨を書いたことはある)。戦後日本の法現象の認識としてそのようなことを指摘できる可能性はあるのだろうが、当時の憲法「解釈」論としては、平和安保法制違憲論を断固として排斥し、合憲論をもっと強く主張しなければならなかった。
 というわけで、大石眞や高橋和之、そして百地章と並ぶ「専門家」と性格づけるのは困難だと思われる。
 第三に、月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)という保守系月刊雑誌に、人と雑誌によって多少は異なると思うが、頻繁に登場している。
 これが最も共通性の高い点だという印象もある。しかし、これだけではない。
 第四に、2015年8月の安倍晋三内閣によるいわゆる戦後70年談話を、いずれも支持した。
 渡部昇一と平川祐弘については、この点にこの欄でも触れて批判した。櫻井よしこがこの派に属することはとっくに確認している。 
 八木秀次について確認はしていないが、この安倍談話を批判していないことはおそらく間違いないだろう。今年になってからの、月刊正論3月号p.58でも、八木は「安倍晋三首相」と共通する立場にいることをとくに記している。
 第五に、これら4人はいずれも、秋月瑛二がこの欄で長らく批判的なコメントをし続けている人物だ。
 開設当初からというわけではない。漠然と思い出せば、八木秀次を信用できないと感じたのは早かったし、渡部昇一は現憲法無効論または廃棄論の主張者だと知って、これまた早々に(批判的コメントをするため以外は)読まなくなった。
 櫻井よしこを<保守>派のようだと明確に知ったのは遅かったかもしれないが、2009年の民主党内閣誕生前後の論考はひどいもので、とても<保守>派だとは思えなかった。
 屋山太郎とともに、この点で櫻井よしこは批判の俎上に載せた。2009-10年頃に秋月がコメントしたことは、間違っていないと今でも考えている。内容をいまここで繰り返しはしない。
 最後に、平川祐弘の名前は以前から知っていたが、積極的にせよ消極的にせよ読む価値のある人物だとの印象はなかった。
 にわかに関心を持ったのは、安倍戦後70年談話を、稚拙な文章でもって支持していたのを読んでからだ。そして、昨年以降のこの人の文章を読んでも、全く支持できない。
 以上のとおりで、たまたま「アホの4人組」と称したのではない。
 上智大学「名誉教授」、東京大学「名誉教授」、現役の某大学教授、そして「国家基本問題研究所」なるものの理事長を「アホ」だと言うのは、相当に勇気が必要なような気もする。
 しかし、「アホ」は「アホ」だから、仕方がないだろう。
 個人攻撃あるいは全面的な人格批判をしているのでは全くない。この人たちが何を、どのように書いているかを読んだうえでの、その内容についての批判だ。
 「アホ」は「アホ」だから仕方がない、と言うためには、もっと書かなければならないだろう。

1468/第一次大戦と敵国スパイ③-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。③
 パルヴゥスの申し出を拒否はしたが、レーニンは、あるエストニア人、アレクサンダー・ケスキュラを通してドイツ政府との政治的かつ金銭的な関係を維持した。(*1)
 ケスキュラは1905-7年に、エストニアのボルシェヴィキの指導者だった。 
 彼はのちに、エストニアの熱心な愛国者となり、母国の独立を目指そうと決心していた。
 帝制ロシアの打倒はドイツ軍によってのみ達成されるとパルヴゥスのように考えて、ケスキュラは大戦の勃発の際に、ドイツ政府にその身を委ね、その諜報機関に加わった。
 ドイツの援助を受けて、彼はスイスやスゥェーデンの外からロシア移民からロシア内部の状況に関する情報を確保したり、ボルシェヴィキの戦争反対文献をそれらの国へとこっそり輸入したりする活動をした。
 1914年10月にケスキュラはレーニンと逢った。ケスキュラは、帝制体制の敵およびエストニアの潜在的な解放者として彼〔レーニン〕に関心をもっていた。
 かなりの年月を経てケスキュラは、自分はボルシェヴィキを直接には財政支援しなかった、そうではなく間接的にその金庫に寄付をして、出版物の刊行を援助したのだ、と主張した。
 これらはいつでも、困窮化しているボルシェヴィキ党を支援する重要な財源だった。しかし、ケスキュラは、レーニンに直接に援助したかもしれない。
 明らかにケスキュラの要請に応えて、レーニンは1915年9月に、彼に奇妙な七点の綱領的な文書を与えた。それは、革命的ロシアがドイツとの講和を準備する条件を概述するものだった。
 この文書は第二次大戦のあとで、ドイツ外務省の建物の文書庫で発見された。(++)
 この存在は、レーニンがケスキュラをたんなるエストニアの愛国者ではなくてドイツ政府の工作員(agent、代理人)だと見ていたことを示している。
 ロシアの内部事情に関係がある点(共和制の宣言、大財産の没収、八時間労働の導入、少数民族の自治)は別として、レーニンは、ドイツがすべての併合と援助を放棄した場合に分離講和の可能性があると確言した。
 レーニンはさらに、ロシア軍のトルコ領域からの撤退とインドへの攻撃を提案した。
 ドイツは確実にこれらの提案を心に留め、一年半後に、レーニンがその領土を縦断してロシアへと帰るのを許した。//
 ベルリン〔ドイツ政府〕から渡された資金を使って、ケスキュラは、レーニンとブハーリンの著作物をスウェーデンで発行すべく手配した。ボルシェヴィキ党員たちは、これらの本をロシアへとこっそり持ち込もうとした。
 このような援助金の一つを、あるボルシェヴィキ工作員が盗んだ。(129)
 レーニンは返礼として、ロシアにいる彼の工作員から送られたロシアの内部状況に関する報告書をケスキュラに進呈した。ドイツは、明白な理由で、この報告書に鋭敏な関心を寄せた。
 1916年5月8日付の配達便で、ドイツ軍参謀部の官僚は、東方面の破壊活動に責任をもつ外務省部局の職員に、以下のように報告した。
 『最近数ヶ月に、ケスキュラはロシアとの多くの関係を新しく開設した…。
 彼はきわめて有用なレーニンとの関係も維持しており、ロシアにいるレーニンの秘密工作員から送られた状勢報告の内容をわれわれに伝えた。
 ゆえにケスキュラには、引き続いて今後の必要な生活手段が与えられなければならない
 異常に不利な交換条件を考慮すれば、一月あたり2万マルクでちょうど十分だろう。』(*2)
 レーニンは、パルヴゥスの場合と同じく、ケスキュラとの関係について、生涯の沈黙を守った。そしてそれは、理解できる。その関係は、ほとんど大逆罪(high treason)に該当するからだ。//
 1915年9月に、スイスのベルン近くの村、ツィンマーヴァルトで、イタリアの社会主義者が発案した、インターナショナルの秘密会合が開かれた。
 ロシア人は、出席した二つの党派の社会民主党とエスエル党により、強い代表者を持った。
 集団は、すぐに二派に分裂した。より穏健派は、戦争を支持する社会主義者との連携を維持することを求めた。左翼派は、きつぱりと離別することを主張した。
 38代議員のうちの8名から成る後者を率いるのは、レーニンだった。
 多数派は、『帝国主義者(imperialist)』の戦争を内乱(civil war)に転化せよとのレーニンが提起した草案を拒絶した。危険であるとともに実現不能だ、という理由で。
 代議員の一人が指摘したように、そのような宣言に署名することは、母国に帰ったときに彼らを死に直面させることになるだろう。その間、レーニンはスイスでの安全を享受するとしても。
 レーニンの、国を愛する社会主義者が支配するインターナショナル委員会からの分裂要求も、却下された。
 そうであっても、レーニンはツィンマーヴァルトで敗北はしなかった (130) 。というのは、会議の公式な宣言文書はいくらかの言葉上の譲歩をレーニンにしており、各政府の継戦努力を支援する社会主義者を非難し、全諸国の労働者たちに『階級闘争』に加わるよう呼びかけていたからだ。(131)
 ツィンマーヴァルトの左派は、自分たちの声明文を発表した。それはより激しかったが、レーニンが欲したように、ヨーロッパの大衆に反乱へと立ち上がることを呼びかけるまでには至らなかった。(132)
 両派間の不一致の基礎にあるのは、愛国主義(patriotism)に対する異なる態度だった。ヨーロッパの多くの社会主義者は強烈にその感情をもっていたが、ロシアの多くの社会主義者は、そうでなかった。//
  (*1) ケスキュラについて、Michael Futrell in St. Antony's Papers, Nr.12, ソヴェト事情, 3号 (1962) , p.23-52。著者はこのエストニア人にインタビューする貴重な機会を得た。しかし、不運にも、いくぶん無批判に彼の証言を受け止めた。
  (+) Futrell, ソヴェト事情, p.47は、これはボルシェヴィキ指導者との唯一の出会いだと述べる。しかしそれは、ほとんどありえそうにないと思われる。
  (++) 1915年9月30日付、ベルンのドイツ大臣からベルリンの首相あて電信で再現されている[人名省略]。Werner Hahlweg, レーニンのロシア帰還 1917〔独語〕(1957) p. 40-43 (英訳、Zeman, ドイツ, p.6-7。)
  (130) 以下で主張されているように。J. Braunthal, 第二インターの歴史 (1967) , p.47。
  (*2) ドイツ参謀・政治局の Hans Steinwachs から外務部の Diego von Bergen 大臣あて。Zeman 編, ドイツ, p.17。スウェーデンに浸透していたレーニン組織の報告書から得たことを〔ケスキュラが〕仄めかしたとき、ケスキュラは Futrell に誤った情報を伝えた、ということをこの文書の言葉遣いは示している。Futrell, ソヴェト事情, p.24。
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 ④につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
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 ③につづく。

1466/第一次大戦と敵国スパイ①-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。/の左右の日付は、左がロシア暦、右が欧州暦。 
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との関係。

 第一次世界大戦の勃発前の二年間を、レーニンは、クラカウ(cracow、クラクフ)で過ごした。彼はそこから、ロシアの支持者との接触を維持することができた。
 開戦のすぐ前および直後に、レーニンはオーストリアの政府機関、そしてウクライナ解放同盟と関係を結んだ。後者は、ウクライナ人の民族的願望をレーニンが支援する代わりに資金を出し、その革命活動を助けた。(116) 
 その同盟は、ウィーンとベルリンから資金を受け取り、オーストリア外務省の監督のもとで活動していた。
 この活動に加わっていた者たちの一人がパルヴゥスで、彼は1917年には、レーニンがドイツを通って革命ロシアまで確実に通過するのに重要な役割を果たすことになる。 
 ウィーン発、1914年12月16日付で同盟が提示した声明文には、以下の冒頭部分があった。//
 『同盟は、ロシア社会民主党の多数派党派を金銭のかたちで支援し、ロシアとの通信網の構築を援助する。
 その党派指導者、レーニンは、<ウクライナ情報〔新聞〕>で報告されている彼の講演が示すように、ウクライナ人の要求に敵対的ではない。』(117)
 レーニンとグリゴーリ・ジノヴィエフが敵国人でありスパイの嫌疑があるとしてオーストリア警察に逮捕されたとき(1914年7月26日/8月8日)、この団体と関係していることがきわめて役立った。
 オーストリアとポーランドの社会主義運動に影響力のある人物、とくにヤコブ・ガネツキー(ハニエッキ。フュルステンベルクとしても知られる)が、すなわちパルヴゥスが雇っている、レーニンの親密な仲間が、彼らのために穏便にことを済ませてくれた。 
 五日のちに、ルボフ(Lwow〔レンベルク〕)のガリシア総督は、『ロシア帝国の敵』と見なされているレーニンを確保しておくのは好ましくないと助言する電信文を受け取った。(118)
 クラクフの軍事長官は8月6日/19日に、レーニンが収監されていた地域裁判所に電報を打って、即時釈放を命じた。(119)
 レーニン、クルプスカヤ、彼女の母親は8月18日/9月1日に、オーストリア警察の旅券をもって、オーストリア軍事郵便鉄道でウィーンを離れ、スイスに向かった-ふつうの敵国外国人が利用できそうにない輸送手段だった。(120)
 ジノヴィエフとその妻は、二週間後に続いた。
 オーストリアの拘置所からレーニンとジノヴィエフが解放された事情は、ウィーン〔オーストリア政府〕は二人を価値ある資産だと見なしていることを示唆する。// 
 スイスでレーニンはすぐに、戦争反対の基盤に敬意を表して、社会主義インターナショナルの失敗を処理し始めた。// 
 労働者階級の利益は国境を超越し、『プロレタリアート』はいかなる条件のもとでも、市場獲得を目指す資本主義国間の闘争で血を流さない、というのが、国際社会主義運動の根本的な金言だった。
 国際的危機の真っ只中の1907年8月に開催された社会主義インターのシュトゥットガルト大会は、軍事主義と戦争の脅威に多くの注意を向けた。
 二つの傾向があったが、ベーベルによって指導されたその一つは、戦争反対を支持し、かりに戦争が勃発すれば、『早期の終戦』のために闘う、というものだった。
 もう一つの傾向は、三人のロシア代議員-レーニン、マルトフおよびローザ・ルクセンブルク-によって表明されたもので、ロシアの1905年革命の体験に教訓を得て、社会主義者たちが国際的内戦を引き起こすために戦闘を利用することを望んだ。(121)
 後者が強く主張され、大会は、国家の敵対が発生した場合には、以下のことが労働者階級と議会内の労働者議員たちの義務だと決定した。// 
 『終結を速めるために介入すること、戦争により生じた経済的かつ政治的危機を人民を覚醒させるために利用すべく全力を出すこと、そして資本主義階級の支配の廃棄を促進すること』。(122) //
 この条項は、二つの傾向の違いを覆い隠すための左翼少数派に対する右派多数派の修辞的な譲歩だつた。
 しかし、このような妥協にも、レーニンは満足しなかった。
 ロシアの社会民主主義運動で用いたのと同じ軋轢生成的な戦術をとって、レーニンは、社会主義インターの穏健な多数派からの離脱を始めた。革命目的のために将来の戦争を利用する、非妥協的な左翼にとどまることによって。
 レーニンは、平和政策に反対した。その平和政策は、諸国の対立を止めることを意図しており、ヨーロッパの社会主義者に多くに是認されていた。レーニンは実際、戦争を望んだ。悪辣なことに、その理由は、戦争は革命を起こすためのすばらしい機会を提供する、というものだった。
 このような立場は社会主義者にとって一般的ではなくまた受容できないものだったので、レーニンはこの見解を公に表明するのを控えた。
 しかし、あるとき、新しい国際的な危機が生じていた期間の1913年1月に、マクシム・ゴールキへの手紙の中で一度、レーニンは書いた。
 『オーストリアとロシアの間の戦争は、(東ヨーロッパの全てでの)革命にとって最も役立つものだ。しかし、フランツ・ヨーゼフ〔墺〕とニッキー〔ニコライ、露〕は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(123)//
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 ②につづく。

1465/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」つづき②のD。

○ 櫻井よしこ・週刊新潮2/16号の見出しは、「4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位」だ。
 そして櫻井は、光格天皇の「社会的遺産」を継承した「孫帝の孝明天皇」との言い方もし、強い意思の天皇だった旨も書いている。
 しかし、光格天皇のようには称えず、福地重孝・孝明天皇(秋田書店)によりつつ、孝明天皇が「天皇の幕府に対する最大最後の抵抗である」「退位」を示唆したとし、「このような歴史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか」、とまとめている。
 櫻井よしこは、これでいったい何を言いたいのだろうか。のんびりと、歴史を振り返る必要を指摘することくらいは、誰でもできる。。
 あるいは、天皇の「譲位」・退位の意思表示は世の中を混乱させる大変なことだ、と示唆したいのだろうか。
 ○ 櫻井よしこの記述の仕方には、奇妙なあるいは面白い側面がある。つまり、自分の強い意思をもち、能動的に行動するだけでは、天皇を肯定的には評価しないのだ。
 孝明天皇については、「開国反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった」と断定し、「開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論」だと、(後から見ての)価値評価を下している。そして、たんに<譲位は最後の抵抗手段>だという、この稿のまとめへと進んでいる。
 このような歴史理解は、櫻井よしこらしく、単純すぎる。つまり、孝明天皇は最後まで<開国反対=攘夷>に執着していたのではない。
 また、<開国>が進歩的で、<攘夷>は遅れていたという、のちの<薩長史観>に嵌まったままであることも、櫻井は吐露している。
 孝明天皇にはのちには、すでに記したα・攘夷とβ・開国という政策判断よりもむしろ、C・幕府中心体制でもA・天皇中心体制でもなく、両者が意思疎通しながらB・天皇・幕府協力体制を築いていくことを志向していた、と思われる。軍事力の差が歴然となってからは、開国せざるをえないという判断に至ったものと思われる(長州派も、いつのまにか?、開国派へと変身している)。
 それが長州・薩摩派や「過激」公家たちの路線と違ったのはなぜか。
 それは、彼らは、のちに王政復古維新をした明治新政府から旧幕府側人材(当面は)、とりわけ徳川家を除外する、という強い意思をもっていたからだ(ex.倒幕の密勅、対幕府戦争)。
 この点にこそ、のちの新政府側と孝明天皇側の、決定的な違いがあった。幕府排除・解体しての天皇中心体制か、「公武合体」体制か。孝明天皇がもっと存命であれば、歴史の展開は相当に変わっていただろうことは、しばしば指摘されている。
 以上は簡単な叙述で意を尽くした十分なものではないが、少なくとも、<開国・正、開国反対・邪>、孝明天皇は後者という、櫻井よしこのより単純な理解よりは、より適確だと思われる(櫻井よしこはもっと関係文献を読む必要がある)。
 ○ 櫻井よしこは、後から見ての特定の<勝利者史観>にもとづいて、孝明天皇を高くは評価できないと考えていることが明らかだろう。
 では、櫻井が中心に置いている<闘いの最後の武器は譲位>というのは、孝徳天皇について語るときに、適切な取り上げ方なのだろうか。いや、違う。
 レーニンは、反対者が自分に賛成してくれない場合に賛成を余儀なくさせる最後の手段として、しばしば<オレは辞めるぞ>と言ったと、R・パイプスは書いていた。
 相手を屈服させる、あるいは自分に不本意ながらも同意させるために、そんなことを言うならば、俺は辞めるぞ、それでよいのか、というのは、時代や国を問わずして、今日の日本でも十分にありうる。櫻井よしこは、人間の心理・感情・精神状態というものに知悉した人物なのだろうか。
 櫻井が用いてるのと同じ筆者の書物、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)には、ずばり、つぎの文章がある。1858年、井伊直弼大老就任のあと、「安政の大獄」の直前のことだ。通商条約調印強行の「報告」だけ受けての、孝明天皇。
 6月28日、朝廷公家に対して<退位とのちの明治天皇への譲位>の意思表示をした。幕府の措置に怒り「抗議のために譲位」表明するのは後水尾天皇(1600年代前半在位、幕府による禁中・公家諸法度制定などがあった)以来のこと。
 「天皇は、難局から判断不能に陥り、天皇位を投げ出したともとれるが、譲位の意思表示によって決意のほどを示そうとしたのだろう。/
 ここで重要なことは、孝明天皇は、逆鱗したとはいえ、あくまでも幕府への政務委任と朝幕融和(公武合体)という原則、江戸時代の朝廷の幕府の枠組みを大事にしていることである」。p.315。
 どういう研究者かの詳細を知らない藤田覚の言述をすべて信頼しているわけでは全くない。しかし、櫻井よしこのように単純に歴史や歴史的人物を理解して評価してはいけないこと、<譲位表明は最後の武器>という認識自体が誤っていること、を示しているだろう。
 ○ このような、何かに<取り憑かれた>ような、歴史については中学生少女レベルの人物が、日本や天皇の歴史について何を書いても、言っても、信用することはできない。その天皇譲位問題についての見解の基礎にある歴史観もまた、単純で、「観念論」的な、誤ったものである可能性がすこぶる高いわけだ。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
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 第10節につづく。

1463/レーニンと警察の二重工作員①-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)

 1908年に、社会民主党の運動は衰退に入った。その理由の一つは、知識人の革命への熱望が冷めたこと、二つは警察の潜入によって地下活動がほとんど不可能になったことだ。
 治安維持機関は、上から下まで、社会民主党の組織の中に入り込んだ。党員たちは逃げる前に日に晒され、逮捕された。
 メンシェヴィキはこの状況に、合法活動をすることを強調する新しい戦略でもって対応した。すなわち、出版物発行、労働組合の組織化、ドウーマでの活動。 
 いくらかのメンシェヴィキは、社会民主党を労働者党に置き換えることを望んだ。
 彼らは非合法活動をいっさい放棄するつもりではなかった。しかし、綱領問題の大勢は、党が労働者に奉仕するほど多くは労働者を指導しない、民主主義的な労働組合主義へと進んだ。
 レーニンには、これは呪詛の対象だった。彼はこのような戦略を支持するメンシェヴィキに、『清算人(liquidators)』とのラベルを貼った。彼らの狙いは党を清算し、革命を放棄することだからだ。
 レーニンの用語である『清算人』は、反革命主義者と同じ意味になった。//
 にもかかわらずレーニンも、警察による弾圧によって生じた困難な条件に適応しなければならなかった。
 彼は、対応するために、自分の組織に潜入した警察工作員を自分の目的で利用した。
 以下について確実なことは何もありえないけれども、そうでなくとも幻惑的な、工作員挑発者(agent provocateur)・マリノフスキーの事件は、最も納得できる説明になっているように見える。マリノフスキーは、しばらくの間(1912-14年)、ロシアのレーニン党派の代議員で、ドゥーマ・ボルシェヴィキ議員団の代表者だった。 
 それは、ウラジミール・ブルツェフの見解では、もっと有名なエヴノ・アゼフ事件を超えすらする重要性をもつ、警察による挑発の事件だった。(106)//
 レーニンは、支持者たちに第一回ドゥーマの選挙をボイコットするように命令した。その一方、メンシェヴィキは問題をその地方組織に委ね、ジョージア支部を除く多くの地方組織はボイコットを採択した。
 そのあとでレーニンは気持ちを変え、1907年に仲間たちのほとんどの意向を無視して、動く〔立候補する〕ようにボルシェヴィキに命じた。
 彼はドゥーマを、自分のメッセージを広げる公共広場として利用することを意図した。
 マリノフスキーが計り難い価値をもつことが判るのは、まさにドゥーマにおいてだった。//
 民族的にはポーランド人で、職業上は金属労働者、そして副業は窃盗というマリノフスキーは、窃盗と家宅侵入窃盗の罪で三つの収監判決を受けていた。
 彼自身の証言によれば、刑事記録〔前科〕のために満足させられない政治的野心に駆られて、またつねに金が必要だったために、マリノフスキーは、奉仕しようと警察当局に申し出た。 
 警察の指示により、彼はメンシェヴィキから向きを変えて、1912年1月にボルシェヴィキのプラハ大会に出席した。
 レーニンはきわめて好ましい印象を彼に持ち、『優秀な仲間』、『傑出した労働者指導者』だとマリノフスキーを褒めた。(107)
 レーニンはこの新規加入者を、裁量でもって党員を加える権限のある、ボルシェヴィキ中央委員会のロシア事務局員に任命した。 
 マリノフスキーはロシアに帰って、スターリン支持者を広げるためにこの権限を利用した。(108)
 内務大臣の命令にもとづき、マリノフスキーの刑事記録〔前科〕は抹消され、ドゥーマへと立候補することが許された。
 警察の助けで選出され、彼は、議員の免責特権を用いて、『ブルジョアジー』や社会主義『日和見主義者』を攻撃する燃えるがごとき演説を行った。それらの多くは治安機関によって準備され、全ては了解されていた。
 社会主義サークル内には彼の忠誠さについて疑問の声があつたにもかかわらず、レーニンは無条件でマリノフスキーを支持した。
 マリノフスキーがレーニンのためにした最大の仕事の一つは、-警察の許可を得てかつありそうなことだが警察の財政支援もおそらく受けて-ボルシェヴィキの日刊紙『プラウダ(pravda)』の創刊を助けたことだった。
 マリノフスキーは新聞の財産管理者として働いた。編集権は、警察の別の工作員、M・E・チェルノマゾフに渡った。 
 警察によって保護された党機関は、ボルシェヴィキの考えをメンシェヴィキ以上に広くロシア内部に伝搬させることができた。
 発行するために、警察当局は時たま<プラウダ>を繊細にさせたが、新聞は、発行され続けて、マリノフスキーや他のボルシェヴィキがドゥーマで行った演説の文章やボルシェヴィキの書きものを印刷し続けた。レーニンは一人で1912年と1914年の間に、265の論文をこの新聞に掲載した。
 警察は、マリノフスキーの助けによって、モスクワのボルシェヴィキ日刊紙「Nashput」をも創刊した。(109)
 このような仕事に就いている一方で、マリノフスキーは、定期的に党の秘密を警察に渡すという裏切り行為をしていた。
 われわれがのちに知るはずだが、レーニンは、この取引で得たものの方が、失ったものよりも大きいと信じた。//
 二重工作員としてのマリノフスキーの経歴は、内務省の新しい副大臣〔政務次官〕、V・F・ジュンコフスキーによって突然に終焉を告げられた。
 反諜報活動の経験のない職業軍人であるジュンコフスキーは、固く決心して、警察官たちの一団を『浄化』し、その政治活動を止めさせようとした。彼は、いかなる形態での警察の挑発についても、妥協をしない反対者だった。(*1) 
 任務を履行しているうちに、マリノフスキーは警察の工作員で、警察がドゥーマに浸透していることを知ったジュンコフスキーは、警察の大スキャンダルになることを恐れて、ドゥーマ議長のラジアンコに、その事実を内密に通知した。(*2)  
 マリノフスキーは退任を余儀なくされ、彼の年収分の6000ルーブルが与えられ、そして国外に追放された。//
  (*1) Badenie, Ⅴ, p.69, Ⅰ, p.315。ジュンコフスキーは、軍隊や第二次学校の中の警察細胞を廃止した。その理由は、軍人や学生の中で連絡し合うのは適切でない、ということだった。
 警察庁長官で、マリノフスキーの直接の監督者だったS・P・ベレツキーは、このような手段〔警察細胞の廃止〕は、政治的な反諜報活動の組織を混乱させるものだと考えた。Badenie, Ⅴ, p.70-71, p. 75。
 ベレツキーは、チェカ〔のちにボルシェヴィキ政府=レーニン政権が設立した政治秘密警察〕によって1918年9月に射殺された。これは、赤色テロルの波の最初のものだった。
  (*2) ドゥーマでのマリノフスキーの扇動的な演説は、ロシアが新しい産業ストライキの波に掴まれていた当時に労働者たちに対してもつ影響が大きかった、そのように警戒して、ジュンコフスキーはマリノフスキーを馘首した、という可能性は指摘されてきた。
 Ralph Carter Elwood, ロマン・マリノフスキー (1977), p.41-43。
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 ②へとつづく。

1462/西尾幹二は「国体」を冷静に論じる-「観念保守」批判。

 ○ 櫻井よしこが書いていることは1937年・文部省編纂『國體の本義』とよく似ており、部分的には酷似している、と最近に書いた。そして、そのような一面的・観念的な「史観」による歴史叙述を簡単にしてはいけない、とも書いた。
 日本書記・古事記の記述は全部ウソだという人に対しては、いやいや、かなりの程度は少なくとも事実を反映している、何らかの民族的記憶を背景にしている、と言いたくなる。一方で、日本書記・古事記の世界をそのまま日本の歴史として(たんなる「お話」と事実と合致する歴史叙述を区別しないで)「信じる」人に対しては、いやいや、そう思いたくとも事実ではないところが多い、と言いたくなる。
 全か無か、正か邪か、善か悪か、真か偽か、物事をこのように二項対立的に単純に理解してはいけない。
 ○ 産経新聞社の、かつて月刊正論・編集代表者だった桑原聡は、退任するにあたって、同誌2013年11月号でつぎのように書いた。この欄の2013年11月14日付=№1235も参照。 
 「自信をもって」、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、と。
 ここには、「何よりも尊い」、「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」を護持しようとするのが<保守>だという、強い観念、強い思い込みがあるようだ。
 <保守>の意味もさまざまだから、そのように考えている<保守>の主張を一概に否定するつもりはない。
 しかし、秋月は、「天皇陛下を戴く」ことが日本と日本人にとっての最高の価値、最大限に追求すべき価値だとは思っていない。
 むしろ、天皇・皇室制度が「左翼」、とりわけ共産主義者によって利用されることを怖れている。例えば、日本人に親天皇・親皇室感情が強いと知っている共産中国は、かりに将来に日本を何らかのかたちで侵攻して日本の政権を事実上であれ従属させた場合、少なくとも当面は<天皇制度をともに戴く>ことを躊躇しないのではないだろうか。
 共産主義者は、目的達成のためならば、何でもする、何とでも言う、と想定しておかなければならない。日本共産党も同じ。
 なお、かつて雅子皇太子妃に対する批判が<保守>論壇でも有力になされたときに、いわゆる「東宮」側に立ったコメントをこの欄に書いたのは、何が何でも雅子妃を含む皇室を守るという気持ちからではなく、主としては、そのような(私が知らない何らかの情報があったのかもしれないが)批判をするのはもはや遅い、無意味だ、という反発からだった。
 率直にいって、美智子皇后に<ベアーテ・シロタは女性の人権拡張に貢献した>という発言があるという噂・風聞の方が怖ろしい。
 ○ 西尾幹二・GHQ焚書開封4-「国体」論と現代(徳間書店、2010/のち文庫化)は、サブ・タイトルどおり、「国体」論を扱う。その他の巻で扱われている書物もそうだが、GHQが「焚書」にしたからといって、それらの書物の内容が全面的に正しい、または真実だ、ということにはならない。当然ながら、西尾幹二は、そのことをふまえている。
 冒頭で言及した1937年・文部省編纂『國體の本義』に限る。西尾はつぎのように冷静に、この本を読んでいる(p.131~)。櫻井よしこに読ませたいような部分に限って、以下に部分的に引用する。
 『國體の本義』のすぐの冒頭部分を「読んで、正直ちょっとやりきれないな、と感じる人が普通で」はないか、「現代のわれわれの感覚からするとまったく浮世離れして見えるから」だ。p.134。 
 「ここからは私の批評です。ある意味では、この『國體の本義』に対する批判です」。p.154。
 日本人の心の「まこと」が「わが国の国民精神の根底だといわれると、たしかに…、それだけでよいのだろうか」。<和>に加えて<まこと> を説いて「自己完結しているところに、かえって問題を感じます。日本人にわかり易いがゆえに逆に曲者なのです」。p.159。
 「和と『まこと』」の一節を読んで、「日本は戦争に負けたのは当然だ」と思わざるを得なかった。「明き浄き直き心」だけでは「主観的すぎて、他の存在感を欠き、自閉と弱さの表明でもあることをあの大戦を通じて民族的に体験した」のだから、「戦前の『国体論』にそのまま戻ればいいという話ではまったくないということをしかと肝に銘じるべきです」。p.161。
 この書の天皇中心の歴史記述、親政天皇については詳しく(例えば後醍醐)、武士・幕府政治については冷淡だということ、に対する西尾の批判的コメントもあるが、省略する。
 ○ 小林よしのりが何かに、西尾幹二は天皇についてはあまり興味がない、と書いていた。
 たしかにそのようなところはあるが、櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らのような<天皇中心史観>のもち主よりは、はるかに冷静で、優れている。つまりは、「観念」論に嵌まってはいない。
 なお、西尾幹二は(日本共産党のように ?)『國體の本義』を全否定しているわけではないことを付記する。西尾は、部分的には、秋月が必ずしも同意できないことも述べている。
 ○ 西部邁の語源探りは読んでいて鬱陶しいのだが、その弊をふむと、R・パイプスの『ロシア革命』原著を読んでいて出くわした spritualism という語の意味は、ある辞書によると「観念論」で、「精神主義」という訳語は出てこない(後者は誤りでもないだろう)。またこれは、「心霊主義」、「降神術」という意味ももつらしい。
 櫻井よしこらの「観念保守」の者たちの「観念論」は、純化すると、すみやかに「心霊」にかかわる、特定の<宗教>に転化するに違いない。

1461/強盗と遺産狙いの党財政②-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 レーニンが彼の組織のために金を獲得しようと進んだ途の行き着く先は、いわゆるシュミット事件によって例証される。(102)
 モロゾフと縁戚のある金持ちの家具製造業者であるN・P・シュミットは、1906年に逝去した。それは明らかに自殺で、12月のモスクワ蜂起に使われた武器の購入に財政援助したという責任を問われる裁判を待っている間のことだった。
 彼は遺書を残していなかった。しかし、ゴールキと他の友人は、シュミットはおよそ50万ルーブルに達する財産が社会民主党のものになることを欲していた、と語った。
 このような措置は、非合法の政党は遺産相続の利益を受けられないので、法の観点からは有効ではなかった。
 したがって、その金銭はシュミットの最も近い縁戚の、幼い弟に渡った。
 シュミットの財産が相続人によって濫費されたり、社会民主党の金庫に移されることを断固として阻止しようと、ボルシェヴィキは、レーニンを議長とする会合で、とりうる全ての手段を用いてそれを奪い取ることを決定した。
 十代の弟は、その二人の妹のために相続分を放棄するようにすぐに説き伏せられた。
 そして、二人のボルシェヴィキ党員が出廷して妹たち相続人と結婚する、という取り決めがなされた。
 下の方の幼い少女は、ヴィクトール・タラトゥータという名のボルシェヴィキの荒くれ男と結婚することになつた。しかし、警察の目をごまかすために、表向きは、堅実な男と二度目の結婚をすることとされた。
 彼女が結果として受け取った19万ルーブルは、パリにあるボルシェヴィキの金庫へと移された。(103) //
 シュミットの財産の第二部分は彼の姉が所有していたが、ボルシェヴィキに傾斜した社会民主党の党員でもある、その夫の手にあった。
 その夫は、しかし、金を守りたかった。
 論争は調停のために社会主義者の裁きの場に上程され、ボルシェヴィキに相続財産の半分または三分の一だけが与えられた。
 身体への暴力という脅迫によって、ついには夫は、妻の相続財産をレーニンに渡すように説得された。
 最終的にはレーニンは、シュミットの財産から、23万5000と31万5000の間のルーブルを獲得した。//
 このような醜悪な金銭事件やそれに類したものは、マルトフが暴露したときに、ロシアおよび国外でボルシェヴィキを大きく辱めた。そして、社会民主党の資金をドイツの社会民主主義者に預けることに同意するのを、レーニンは強いられた。
 金をめぐる争論は、1917年革命に先行する10年間に二つの党派が行った闘争の主要な柱の一つだった。
 レーニンの秘書として働いていたクルプスカヤは、見えないインキ、暗号、その他の警察を暗闇にいるままにする道具を使って、ロシアにいるボルシェヴィキの工作員との安定した連絡網を維持した。
 クルプスカヤの仕事を助けたタチアナ・アレクジンスキーによれば、レーニンからきた手紙のほとんどには、金の要求が含まれていた。(*)(105)
  (*) このように援助金が重要であることは、1904年12月の潜在的な寄付者に対する手紙においてもレーニンによって強調されている。
 『少なくとも半年の間に莫大な資金の助けで何とか耐えないと、われわれの仕事は破産に直面してしまいます。そして、削減することなく持ちこたえるためには、最小限度、毎月2000ルーブルが必要なのです。』 Lenin, 〔文献省略〕。
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