秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2572/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節の②。
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 第四節・クロンシュタット暴乱②。
 (10) トロツキーは、3月5日にペテログラードに着いた。
 彼は暴乱者たちに、直ちに降伏し、政府の処置に委ねよと命じた。
 他の選択は、軍事的報復だった。(注56)
 少し変更すれば、彼の最後通告は、帝制時代の総督が発したものになっていただろう。
 反乱者に対する呼びかけの一つは、抵抗を続けるならばキジのように撃ち殺されるだろう、と威嚇した。(注57)
 トロツキーは、ペテログラードに住んでいる暴乱者たちの妻や子どもたちを人質に取るよう命じた。(注58)
 彼は、ペテログラード・チェカの長がKronstadt 反乱は自然発生的なものだと執拗に主張するのに困って、解任させるようモスクワに求めた。(注59)
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 (11) 反抗的なKronstadt 暴乱者たちは、トロツキーの行動を知って、1905年の血の日曜日での治安部隊への命令を思い出した。その命令は、ペテルブルク知事だったDmitri Trepov によるとされるものだった。—「弾丸を惜しむな」。
 反乱者たちは誓った。「労働者の革命は、行動で汚れたソヴィエト・ロシアの国土から、卑劣な中傷者と攻撃者を一掃するだろう」。(注60)//
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 (12) Kronstadt は島で、冬以外の季節に力でもって奪取するのはきわめて困難だった。だが、3月では、周囲の水は、まだ固く凍りついていた。
 このことが、猛攻撃を容易にした。大砲で氷を破砕しておくべきとの将校たちの助言を反乱海兵たちが無視していたために、なおさらそうなった。
 3月7日、トロツキーは、攻撃開始を命じた。
 赤軍は、Tukhachevskii の指揮下にあった。
 Tukhachevskii は、常備軍は信頼を措けないことを考えて (注61)、その中に、内部的抵抗と闘うために形成された特殊選抜分団を散在させた。(*) //
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 (脚注*) 1919年に、モスクワは反革命と闘う特殊な目的で、元々は共産党の将校と「特殊任務部隊」(〈Chasti Osobogo Naznacheniia, ChON〉)として知られる徴募された将校とが配属された選抜(エリート)軍を創設した。これらは1921年に3万9673名の幹部兵と32万3373名の徴集兵を有した。G. F. Krivosheev, Grif sekretnosti sniat (1993), p.46n.
 追記すると、内部活動軍(〈Voiska Vnutrennei Sluzhby, VNUS〉)があり、これは、同様の目的で1920年に設立され、1920年遅くには36万人が所属した。同上、p.45n.
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 (13) ペテログラードの北西基地からの攻撃が、本土要塞からの大砲発射とともに、3月7日の朝に始まった。
 その夜、白いシーツで包まれた赤軍兵団が、氷上に踏み出し、海軍基地に向かって走った。
 彼らの背後には、チェカの機銃部隊が配置されていて、退却する兵士は全て射殺せよとの命令を受けていた。
 兵団は海軍基地からの機銃砲で切断され、攻撃は大敗走となった。
 一定数の赤軍兵士たちは、義務の遂行を拒んだ。
 およそ1000人の兵士が、反乱者側へと転じた。
 トロツキーは、命令に背いた5分の1の兵士たちの処刑を命じた。//
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 (14) 第一砲が火を噴いた後のその日、Kronstadt の臨時革命委員会は、綱領的な声明を発表した。「何のために闘っているのか」、それは「第三の革命」を呼びかけることだ。
 アナキスト精神が滲むその文書は、知識人がこれまで書いてきた全ての特性をもっていたが、しかし、進んで闘って死ぬという意思でもって防衛者の気持ちは証明される、と表現してもいた。
 「労働者階級は、十月革命を実行することで、その解放が実現することを望んだ。
 その結果は、人間のいっそうの奴隷化ですらあった。
 権力は、警察と憲兵を基礎にした君主政から「奪取者」—共産主義者—の手に渡った。その共産主義者は労働者たちに、自由ではなく、チェカの拷問室で死に果てるという日常的な不安を、帝制時代の憲兵による支配を何十倍も上回る恐怖を、与えた。//
 銃剣、弾丸、〈oprichniki〉(+) の、チェカからの乱暴な叫び声、これが、長い闘争の成果であり、ソヴィエト・ロシアの労働者が被ったものだ。
 共産党当局は、労働者国家という栄光ある表象—槌と鎌—を、実際には、銃剣と鉄柵に変え、新しい官僚制の平穏で呑気な生活を守るために、共産主義人民委員部と役人機構を生み出した。//
 しかし、これら全ての最基底にあり、最も犯罪的であるのは、共産主義者によって導入された道徳的奴隷制だ。すなわち、彼らは、労働人民の内面世界へも手を伸ばし、彼らが思考するとおりに思考することを強制している。//
 国家が動かす労働組合という手段によって、労働者は自分たちの機構に束縛され、その結果として、労働は愉楽ではなく新しい隷属の淵源になっている。
 自然発生的な蜂起で表現された農民たちの異議申立てに対して、また、生活条件がやむなくストライキに向かわせた労働者たちのそれに対して、彼らは、大量処刑と、ツァーリ時代の将軍たちのそれをはるかに超える血への渇望でもって対応した。//
 労働者のロシア、労働者解放の赤旗を最初に掲げたロシアは、共産党支配の犠牲者の血で完全に浸されている。 
 共産主義者は、労働者革命という偉大で輝かしい誓いとスローガンを全て、この血の海へと溺れさせた。//
 ロシア共産党がその言うような労働人民の守り手ではないこと、労働人民の利益は共産党には異質なものであること、いったん権力を握ればその唯一の恐れは権力を失うことであること、そしてそのゆえに、(その目的のための)全ての手段—誹謗、暴力、欺瞞、殺戮、反乱者の家族への復讐行為—が許容されること、これらはますます明らかになってきており、今や自明のことだ。//
 労働者の長い苦しみは、終わりに近づいた。//
 いたるところで、抑圧と強制に対する反乱の赤い炎が、国の空の上に光っている。…//
 現在の反乱は最後には、自由に選挙された、機能するソヴェトを獲得して、国家が動かす労働組合を労働者、農民、および労働知識人の自由な連合体に作り変える機会を、労働者に提供する。
 最終的には、共産党独裁という警棒は粉砕される。」(注62)//
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 (脚注+) 1560年代に、想定した敵に対するテロル活動(〈Oprichnina〉)で、イワン四世に雇われた男たち。
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 (15) Tukhachevskii は、つぎの週に増援部隊を集め、その間ずっと、守備兵に夜間の襲撃に耐えられるよう警戒を続けさけた。
 島の士気は、本土からの支援の欠如と食料供給の枯渇によって低下した。
 このことを赤軍司令部は、Kronstadt にいる、反乱者から活動の自由と電話の使用を認められていた共産党員から、知らされた。
 仲間を攻撃するのに気乗りしない、自分たちの意気を高めるために、共産主義者は、反乱は反革命の愚かな手段だとプロパガンダするいっそうの努力を開始した。//
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 (16) 5万人の赤軍兵団による最終攻撃は、3月16-17日の夜間に始まった。このときは、主要兵力は南から、Oranienbaum とPeterhof から出発した。
 防衛者たちの人数は1万2000〜1万4000で、そのうち1万人は海兵、残りは歩兵だった。
 攻撃者たちは、何とか這い上がって、気づかれる前に島に接近した。
 激烈な戦闘が続いた。その多くは白兵戦だった。
 3月18日の朝までに、島は共産主義者が支配した。
 数百人の捕虜が殺戮された。
 敗北した反乱者の何人かは、指導者も含めて、氷上を横断してフィンランドへと逃げて、生きながらえた。但し、そこで抑留された。
 生き残った捕虜たちをクリミアとコーカサスに割り当てるのが、チェカの意図だった。しかし、レーニンはDzerzhinskii に、彼らを「北方のどこかに」集中させる方が「便利だろう」と告げた。(注63)
 これが意味したのは、ほとんどの者が生きて帰還することのない、白海上の最も過酷な強制労働収容所に彼らを隔絶させる、ということだった。//
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 (17) Kronstadt 蜂起が壊滅したことは、一般民衆に良く受け入れられたのではなかった。
 そのことはトロツキーの声価を高めなかった。トロツキーは彼の軍事的、政治的勝利を詳しく語るのを好んだけれども。しかし、彼の回想録では、この悲劇的事件で自分が果たした役割には、何ら触れるところがない。//
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 後注
 (56) Berkman, Kronstadt, p.31-32; L. Trotskii, Kak vooruzhalas' revoliutsiia, III/1 (1924), p.202.
 (57) Petrogradskaia pravda, No. 48 (1921.3.4). N. Kronshtadskii miateyh (1931), p.188-9 に引用されている。
 (58) Berkman, Kronstadt, p.14-15, p.18, p.29.
 (59) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
 (60) Pravda o Kronshtadte, p.68.
 (61) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167: Cheka report.
 (62) Pravda o Kronshtadte, p.82-84.
 (63) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
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 第四節、終わり。

2571/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節。
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 第四節・クロンシュタット暴乱(the Kronstadt mutiny)①。
 (01) 1920-21年の冬のあいだ、ヨーロッパ・ロシアの都市部での食料と燃料の供給状態は、二月革命の前夜を思い起こさせるものだった。
 運輸の断絶と農民による退蔵が原因となって、配送がきわめて落ち込んだ。
 ペテログラードは、生産地から遠く隔たっていることで、再び最も影響を受けた。
 燃料不足のため、工場は閉鎖された。
 多くの住民が、市から逃げ出した。
 とどまっていた者たちは、政府から無料で配られたまたは仕事場から盗んだ工業製品を食糧と物々交換するために農村地帯へと向かった。但し、産物を没収する「妨害部隊」(〈zagraditel'nye otriady〉)によって、帰りの途中で停止させられた。//
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 (02) こうした状況を背景として、1921年2月に、Kronstadt の船員たち、トロツキーの言う「革命の美と誇り」が、反乱の狼煙を上げた。//
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 (03) 海軍の暴乱に火をつけたのは、モスクワやペテログラード等の多数の都市でのパンの配給を、10日間三分の一減らす、という1月22日の政府命令だった。(注45)
 この措置は、いくつかの鉄道路線を閉鎖させている燃料不足のために必要になった、とされた。(注46) 
 最初の異議申立ては、モスクワで勃発した。
 モスクワ地域の政党色のない冶金労働者の会合が、2月初めに、体制側の経済警察が全面的に非難していると聞き、ソヴナルコム〔人民委員会議、ほぼ内閣〕構成員を含む全員の平等を求めて配給「特権」の廃止を要求した。また、恣意的な食料取立てを定期的な現物税に置き換えることも、要求した。
 何人かの発言者は、立憲会議(Constituent Assembly)の招集を呼びかけた。
 2月23-25日、多数のモスクワの労働者がストライキを行ない、公的な配給制度の外で、自分で食糧を獲得することを認めるよう、要求した。(注47)
 この抗議運動は、実力でもって鎮圧された。//
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 (04) 政府への不満が、ペテログラードに広がった。そこでは、最も特権的な階層である工業労働者の食料配給は一日当たり1000カロリー分減らされていた。
 1921年の2月初め、ペテログラードの大企業のいくつかは、燃料不足のために閉鎖を余儀なくされていた。(注48)
 2月9日、ストライキが散発的に発生した。
 ペテログラードのチェカは、原因はもっぱら経済にあり、「反革命者」が関与している証拠はない、と決定した。(注49)
 2月23日以降、労働者たちは会合を開いた。その中には、そのままストライキに進んだものもあった。
 ペテログラードの労働者たちは、当初は、農村地帯で食料を掻き取る権利だけを要求した。しかし、やがて、おそらくメンシェヴィキやエスエルの影響を受けて、ソヴェトの公正な選挙、言論の自由、そして警察のテロルの中止を呼びかける、政治的要求を追加した。
 ここでも、反共産党気分にときおり伴っていたのは、反ユダヤ主義のスローガンだった。
 2月末、ペテログラードはゼネ・ストの見通しに直面した。
 チェカは、この都市のメンシェヴィキとエスエルの指導者たち全員を逮捕し続けた。
 反乱している労働者たちを鎮静化しょうとするジノヴィエフの試みは、成功しなかった。すなわち、彼の聴衆は敵対的で、話し続けることができなかった。(注50)//
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 (05) レーニンは、労働者の反抗に直面して、まさしくニコライ二世が4年前に行なったように反応した。すなわち、彼がとりかかったのは、軍事だった。
 しかし、最後のツァーリは疲れ切って、不本意に戦闘し、すぐに屈服したのに対して、レーニンは、権力を握り続けるためにどこまでも闘うつもりだった。
 2月24日、共産党ペテログラード委員会は、将軍S.S.Khabalov の1917年二月25-26日の命令を彷彿させる言葉を用いて「防衛委員会」を—誰から「防衛」するのかを特定することなく—設置し、非常事態を宣言し、街頭集会を全て禁止した。
 委員会の議長は、アナキストのAlexander Berkman が「ペテログラードで最も嫌悪されている人物」と称した、ジノヴィエフだった。
 Berkman はこの委員会の一員のボルシェヴィキ、「太って、脂ぎって、不快な感じ」に見えるM.M. Lashevich の演説を聞いていた。このLashevich は、「ゆすりをするヒル」のように、抗議をする労働者を拒否した。(注51)
 ストライキ労働者たちは、ロック・アウトされた。これは、彼らが食料配給を受けられないことを意味した。
 当局はメンシェヴィキ、エスエルを逮捕し続けた。また、反乱「大衆」から遠ざけるためにペテログラードと他の地域のアナキストたちも。
 1917年二月には、不満の主な原因は要塞守備隊だったが、今のそれは工場だった。
 そうであっても、ペテログラードに駐在する赤軍部隊は懸念材料だった。そのいくつかが、労働者の示威行動の抑圧に参加しない、と宣言したからだ。
 そのような部隊は、武装を解除された。//
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 (06) ペテログラードでの労働者騒擾の報せが、Kronstadt の海軍基地に届いた。
 そこに配置された1万の海兵たちは伝統的には、特定のイデオロギー的志向のない、「ブルジョアジーへの憎悪」を強くもつアナキズムを選好していた。
 1917年には、こうした感情はボルシェヴィキのために役立った。
 だが今は、それはボルシェヴィキに反抗する方向に機能した。
 海軍基地でのボルシェヴィキへの支持は、十月の後にすみやかに失われ初めた。そして、1919年に海兵たちはペテログラードを防衛する赤軍のために勇敢に闘ったけれども、体制を熱狂的に支持したのでは全くなかった。とくに、内戦が終わった後ではそうだった。(注52)
 1920-21年の秋から冬に、Kronstadt の党組織員の半分である4000人が、切り札を出した。(注53)
 ペテログラードのストライキ労働者は銃火を浴びているという風聞が広がったとき、海兵の代表団が調査のために派遣された。彼らは帰還して、本土の労働者たちは帝政時代のかつての監獄でのように扱われている、と報告した。
 2月28日に、以前はボルシェヴィキの本拠だった戦艦〈Petropavlovsk〉の乗組員は、反共産党の決議を採択した。
 その決議は、秘密投票によるソヴェトの再選挙、(「労働者、農民、アナキスト、左翼エスエル党員」のためだけの)言論やプレスの自由、集会と労働組合の自由を要求した。また、賃労働者を雇用しないかぎりで、適切と考えるとおりに土地を耕作する農民たちの権利も。(注54)
 翌日、決議が、Kalinin にいる海兵と兵士の集会でほとんど満場一致で採択された。彼らは、暴乱者を鎮圧するために派遣されていたのだったが。
 集められて出席した多数の共産党員たちは、決議への賛成票を投じた。
 3月2日、海兵たちは、島を管理し、予期される本土からの攻撃に対する防衛を担当する、臨時革命委員会を設立した。
 反乱者たちは、赤軍の武力に長く抵抗できるという幻想を持ってはいなかった。だが、彼らの主張へとnation と軍事力 を結集させることを当てにした。//
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 (07) 彼らのこの期待は、失望に終わった。ボルシェヴィキが、暴乱の広がりを阻止すべく、迅速で効果的な対抗措置をとったからだ。この点では、新しい全体主義体制はツァーリ体制よりもはるかに有能だった。
 海兵たちは孤立していると感じ、彼らが勝利できそうにない軍事闘争に閉じ込められた。//
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 (08) 旧体制は、その権威に対する全ての挑戦をどす黒い外国勢力に起因させた。この習癖をボルシェヴィキがすみやかに吸収していたのは、興味深い。
 そして、その外国勢力とはかつてはユダヤ人だったが、今では「白衛軍」だった。
 3月2日、レーニンとトロツキーは、暴乱は「白衛軍」将軍たちの陰謀であり、その背後にはエスエルと「フランスの対敵諜報機関」がいる、と宣告した。(*)
 Kronstadt 暴乱がペテログラードに波及するのを阻止するために、同市共産党委員会が設置した「防衛委員会」は、群衆を解散させ、従わなければ発砲せよとの命令を兵団に発した。
 鎮圧措置は、譲歩と一組のものだった。すなわち、ジノヴィエフは「妨害派遣部隊」を撤収させ、政府は食料徴発を放棄しようとしているとの示唆を与えた。
 実力行使と譲歩の結合によって、労働者たちは鎮静化し、海兵たちへのきわめて重要な支援が奪われた。//
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 (脚注*) Pravda, No. 47 (1921.3.3), p.1. のちにスターリンのプロパガンダはさらに進んで、Kronstadt 蜂起には経済的援助があった、とまで主張することになる。
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 (09) Kronstadt 暴乱勃発から1週間後、ボルシェヴィキ指導者層は第10回党大会にためにモスクワに集まった。
 誰の意識にもKronstadt 暴乱があったけれども、議題はそれではなかった。
 レーニンは演説を行なったが、暴乱の件を軽視し、反革命陰謀だとして却下した。彼は、こう明確に述べた。「白軍の将軍たち」の関与は「完全に証明されている」、陰謀の全体はパリで企てられた、と。(注55) 
 実際には、指導部は、この挑戦をきわめて深刻に受け取っていた。//
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 後注。
 (45) Pravda, No. 14 (1921.1.22), p.3.
 (46) EZh, No. 14 (1921.1.22), p.2.
 (47) Lenin, Sochineniia, XXVI, p. 640; Oravda, No. 27 (1921.2.8), p. 1; Desiatyi S"ezd, p.861-2; RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.166.
 (48) Pravda, No. 32 (1921.2.13), p.4.
 (49)  RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.167.
 (50) Ibid. 〔同上〕
 (51) Alexanser Berkman, Kronstadt, p.6 とThe Bolshevik Myth (1925), p.292.
 (52) Avrich, Kronstadt, p.62-71.
 (53) Ibid., p.69.
 (54) Pravda o Kronshtadte (1921), p.8-10.
 (55) Lenin, PSS, XLIII, p.23-24.
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 第四節②へと、つづく。

2570/人間の「死」①—<コロナ禍>。

 2020年の春以降、意気が上がらない、というか、気が滅入る、というか、そのような話題が継続している。
 潜在的には、自分自身の「老化」と「死」を考えているからだろう。しかし、うんざりする状態が、けっこう長く続いている。全て、人間の「死」に関係する。
 第一は、いわゆる<コロナ禍>だ。自分自身の罹患とそれに続く「死」を疑ったことがあったが、幸い素人判断は外れていた。しかし、この二年間、それ以前に比べて、外出や旅行をし難くなってはいる。
 当たり前のことだが、ウイルスによる感染症は、人の生命を奪うことがある。日本でも(それ以外の原因での病死が減ったという情報もあるが)三万人余が死んでいる。そして、身近な人について遭遇しない多くの人には「実感」がないのかもしれない。
 もともとは早晩死ぬだろう、とくに基礎疾患をもつ高齢者がこれをきっかけに「少しだけ早く」死んだだけ、という説もある。最終的な「死」と感染・発症の因果関係の有無またはその程度の判断は、専門家にも困難なことがあるのではないか。
 しかしともあれ、<コロナ禍>の被害に遭遇しなければ死ななかっただろう若い人々がいるのは間違いない。新聞やテレビは、「統計数字」としてだけ報道するけれども。もはや報道すらしない、警察署前に掲示されている交通事故死者の「数」のように。
 とくに高齢者(その中のとくに基礎疾患のある人々)が外出(・旅行)をし難くなっているということは、相当程度、<運動不足>になっている、ということだろう。
 そして適度の運動の機会が奪われるということは、一般論としては、とくに一定の基礎疾患をもつ老人の死期を早めるものだ、と思われる。心臓にせよ、肺にせよ、その他の臓器にせよ。
 しかし、そうした疾患があって、適度の運動不足によって「早く」死んだ人がいても、それは「新型コロナ・ウイルス」感染症による死者数には計算されないだろう。
 むろん、適度の運動不足と「早く」死んだことの因果関係を探るのは困難だし、基礎疾患をもつ老人の死をそのような観点から考察するという意識、雰囲気自体が存在しないかもしれない。
 それにしても、再び当たり前のことだが、新型コロナ・ウイルスによる感染症は(何型であれ)、人間・ヒトにとっての脅威らしい。これによる、犬・猫、馬、ニワトリ等々の死の話題は聞いたことがない。
 人間・ヒトは、実際にそうであるように、人種、肌の色、民族、帰属・在住国家に関係なく、共通して<コロナ禍>で死ぬことがある。
 これはホモ・サピエンスだからこそそうなのであって、人種、民族、国家とは関係がない。あえて言えば、<グローバル>な現象だ。
 だが、人種、民族、帰属・在住国家によって発症患者や死者の数や率は異なり得る。衛生状態、医療制度、予防措置(入国制限やワクチン接種を含む)など、主としてはおそらく国家の違いによる場合があることは否定できないだろう。
 また、2020年にはしきりと言われたようだが、人種、民族による「ファクターX」というのも、否定できないように思われる(今ではどう議論されているのだろう)。
 というのは、日本人(・日本列島人)と欧米人(たぶんとくにヨーロッパ人)とでは、肝臓の機能に顕著な(と言っても程度問題だが)差異が、何かの分解作用についてあり、日本人の方が<酔いやすい>、<アルコールに弱い>、という話をある医師から聞いたことがあるからだ。そのオチは、韓国の医師たちは、日本人と同じ(同様)だということを、執拗に認めようとしない、ということだったのだが。
 こんなことを考えていると、皮膚・眼球・毛髪の色、頭蓋骨の形状、四肢の長さ・割合、筋力等々はホモ・サピエンスであっても人種、民族等によって異なることは明瞭だと思えてくる(もちろん共通性も多数ある)。
 そして、現在に至るまで差異が続いてきているというのは、人種、民族等が隔絶した、つまり<交雑しない>、よほど長い、数千年、数万年単位の「進化」・変化(しない)過程が続いたのだろうと、想像せざるをえない。地形・地理的隔絶、移動手段の未発達によるのだろう。
 これは、「文化的」遺伝子ではなく、まさに「生物的」遺伝子の問題だ。
 第一点は、この程度にする。
 人間の「死」について考えさせられる第二は、ロシアによる対ウクライナ戦争、第三は、安倍晋三元首相の突然の「死」だ。これらは2022年のこと。

2569/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場②。
 (08) Antonov は、1920年9月に再び現われて、Tambov 市奪取に失敗して意気をなくしていた農民たちを率いた。
 有能な組織者である彼は、集団農場や鉄道連結点への電撃攻撃を行なうパルチザン部隊を結成した。
 当局はこの戦術に対処することができなかった。攻撃が最も予期し難い場所で行われたがゆえだけではなく(Antonov たちはときどき赤軍の制服を着用した)、そのような作戦活動のあとゲリラたちは家に帰り、農民大衆の中に溶け込んだからだった。
 Antonov 支持者集団は、正式の綱領を持たなかった。彼らの目的は、かつて大地主にそうしたように、共産主義者を農村地帯から「燻り出す」ことだった。
 この時期の全ての反対運動でのように、あちこちで、反ユダヤ主義スローガンが聞かれた。
 この当時のTambov のエスエルは、労働農民同盟を設立したが、これは、全ての市民の政治的平等、個人的経済的自由、産業の非国有化を訴えた。
 しかし、この基礎的主張が、現実には二つのことだけを望んだ農民たちに何らかの意味を持ったかは、疑わしい。二つとはすなわち、食料徴発の廃止と余剰を処分する自由。
 基礎的主張は、公式のイデオロギーなしで行動することを想定できなかったエスエル知識人が書いたものだった。「言葉は行為の後知恵だ」。(注38)
 そうであっても、この同盟は、農民たちのために募った村落委員会を結成して、反乱を助けた。//
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 (09) 1920年の末までに、Antonov には8000人の支持者があり、そのほとんどが活動に参加した。
 1921年早くに、彼は、徴兵を行なうまでになった。これによって、彼の勢力は2万人と5万人の間のどこかにまで増えた。—数について、論争がある。 
 より少なく見積もっても、その規模は、ロシアの歴史上の著名な農民反乱であるRazin やPugachev が集めた勢力に匹敵するものだった。
 彼の軍団は、赤軍にならって、18ないし20の「連隊」に分けられた。(注39)
 Antonov は、優れた諜報組織と通信網を組織し、政治委員を戦闘部隊に配置し、厳格な紀律を導入した。
 直接の遭遇を避けて、短時間の急襲を好んだ。
 彼の反乱の中心は、Tambov 地方の南東部にあった。だが、似たような蜂起を発生させることなく、Veronezh、Saratov、Penza といった隣接する地方へも進出した。(注40)
 Antonov は、没収穀物を中央に運ぶ鉄道線を遮断した。その穀物を彼は必要とせず、農民たちに配分した。(注41)
 支配下の領域では、共産党諸組織を廃止し、しばしば残虐な拷問の後で共産党員たちを殺害した。犠牲者の数は、1000を超えたと言われている。
 彼は、このような手段を用いて、Tambov 地方の大半から共産党当局の痕跡を消滅させることができた。
 しかしながら、彼の野望はもっと壮大だった。彼はロシア人民に対して、自分に加わって、圧政者から国を解放するためにモスクワへと行進しようとの訴えを発した。(注42)//
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 (10) モスクワの最初の反応(1920年8月)は、その地方に戒厳令を布くことだった。
 政府は、公式の声明で、 反乱をエスエル党の命令に従って行動している「蛮族」と表現した。
 政府は、もっと知っていた。共産党の官僚たちは、内部通信を通じて、蜂起は元来は自然発生的なもので、食料徴発部隊への抵抗として激しくなった、と認めていた。
 多くの地方エスエルは支援を提供したけれども、党の中央機関は反乱との何らかの関係を全て否定した。すなわち、エスエルの組織局は「蛮族のような運動」と表現し、党の中央委員会は、反乱と関係をもつことを党員たちに禁止した。(注43)
 しかしながら、チェカは、明らかになっている全てのエスエル活動家を逮捕する口実として、Tambov 蜂起を利用した。//
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 (11) 常備軍では対抗できないことが明らかになったとき、モスクワは1921年2月遅くに、全権使節団を率いるAntonov-Ovseenko をTambov へ派遣した。 
 Antonov-Ovseenko は大きな裁量を与えられるとともに、レーニンに直接に報告するよう指示されていた。
 しかし、彼の指揮下にある、ほとんどが農民から徴用された多数の赤軍兵士たちは、反乱者たちに同情していたことが大きな理由となって、彼は十分には成功しなかった。
 明らかになったのは、騒擾を鎮静化する唯一の方策は、反乱を支持する一般農民を攻撃して反乱と切り離すこと、そのためには無制約のテロル、つまり強制収容所送り、人質の処刑、大量追放、を行使することが必要であること、だった。
 Antonov-Ovseenko は、このような手段を用いることについてモスクワの承認を求め、そして承認された。(注44)
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 後注
 (38) Radkey, Unknown Civil War, p.75.
 (39) IA, No. 4 (1962), p.203.
 (40) Saratov について、Figes, Peasant Russia, Chap. 7 を見よ。
 (41) TP, II, p.424-5.
 (42) Rodina, No.10 (1990), p.25.
 (43) Marc Jansen, Show Trial under Lenin (1982), p.15; TP, II, p.498, p.554; Frenkin, Tragediia, p.128-9, p.132-3; Singleton in SR, No. 3 (1966.9), p.501.
 (44) TP, II, p.510-3.
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 第三節、終わり。第四節へと、つづく。

2568/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場①。
 (01) 共産主義は農村の住民たちに、矛盾する態様で影響を与えた。(注29)
 私的土地のある共同体への配分は、割り当てを拡大し、「中間」農民を増やして貧農も富農もその数を減らした。このことは、農民共同村落(muzhik)の平等主義的心情を満足させた。
 しかしながら、農民は、獲得したものの多くを急速度のインフレで失い、蓄えも奪われた。
 農民は食料「余剰」の容赦なき徴発も受け、多数の労働上の負担に耐えることを強いられた。その中では、木を切って材木を荷車で運ぶ義務が最も重たかった。
 ボルシェヴィキは、内戦中に、消極的であれ積極的であれ食料徴発に抵抗した村落に対して、周期的に戦闘行為をしかけた。//
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 (02) ボルシェヴィズムは、文化的には、村落への影響をもたなかった。
 厳しさが政府の証明だと思っていた農民たちは、共産党当局に敬意を払い、それに順応した。彼らは、数世紀もの隷属状態によって、主人の宥め方と、同時に出し抜き方とを、学んでいた。
 Angelica Balabanoff は、驚きをもってこう記した。
 「農民たちは何とす早くボルシェヴィキの言葉遣いを身に付け、新しい語句を作り、何と適切に新しい法律の多数の条項を理解したことか。
 彼らは、これまでずっとその法律とともに生活してきたように見えた。」(注30)
 農民たちは、彼らの祖先がタタール人にしたごとく、外国の侵略者に対してしただろうように、新しい権威に適合した。
 しかしながら、ボルシェヴィキ革命の意味、ボルシェヴィキが呼号したスローガンは、彼らにとっては、解く価値のないミステリーだった。
 1920年代の共産党学者の調査によれば、革命後の村落は自らを維持し、他者からは閉ざして、それまでそうだったように、自分たちの不文の規則に従って生活していた。
 共産党の存在は、ほとんど感じられなかった。農村地帯で設立されるような党の細胞は、原理的に見て、都市部からの人員で補佐されていた。
 モスクワが1921年初頭にタンボフ(Tambov)地方の反乱を鎮圧させるために派遣したAntonov-Ovseenko は、レーニンへの秘密報告で、こう書き送った。
  農民たちは、ソヴィエト当局を「人民委員部または使節団」からの飛来する訪問者や食料徴発部隊でもって感知した。彼らは、「ソヴィエト政府は異質で、命令を発するだけで、強い意欲はあるが経済的感覚がほとんどない、と見るようになった」。(注31)//
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 (03) 識字能力のある農民たちは共産党の出版物を無視し、宗教文献や現実逃避的小説の方を好んだ。(注32)
 外部の事件についてのごく僅かの反響音だけが村落まで届き、届いたそれは捻れていて、誤解された。
 農村共同体(muzhiks)は、誰がロシアを統治しているかについて、ほとんど関心を示さなかった。1919年までに、観察者は旧体制への郷愁がある兆候に気づいていたけれども。(注33)
 したがって、共産党に対する農民反乱が消極的な目標をもった、というのは驚きではない。「叛乱は、モスクワまで行進するのではなく、共産党の影響を遮断することを目ざした」。(*)
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  (脚注*) Orlando Figes, Peasant Russia, Civil War (1989), p.322-3.
 例外は、タンボフ農民反乱の指導者、Antonov だった(後述参照)。 
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 (04) 農村の騒擾は1918年と1919年はずっと発生し、モスクワは、動員できる主要な軍隊で介入せざるを得なかった。
 内戦が激しさの高みにあるとき、広大な農村地帯は、緑軍団が統制していた。これは、反共産主義者、反ユダヤ主義者、反白軍感情の者たちと通常の山賊たちとの混成軍団だった。
 1920年に、これらの燻っている炎は、大爆発を起こした。//
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 (05) 反共産主義の反乱のうち最も暴力的なものが、タンボフ(Tambov)で勃発した。Tambov は工業がほとんどない比較的に肥沃な農業地方で、モスクワから南西に350キロメートル離れていた。(注34)
 ボルシェヴィキ・クーより前、この地方は毎年6000万puds (100万トン)の穀物を生産していた。この数字は、外国へ船で輸出される穀物の三分の一に近かった。
 1918-1920年に、Tambov は、強制的食料取立ての鉾先となったのを経験した。
 以下は、Antonov-Ovseenko がこの地方での「蛮族」の発生の背後にあった原因を叙述したものだ。
 「1920-21年の食料徴発の割り当て量は、前年の半分に減じられていたけれども、全体として多すぎるのが分かった。
 広大な播種されていない領域があり収穫がきわめて少なかったことで、この地方の相当の部分で、農民たち自身が食って生きるに十分なパンが不足した。
 Guberniia 供給委員会の専門家委員会のデータによれば、一人当たり4.2 puds の穀物しかなかった(播種の控除後には飼料用の控除がなかった)。
 1909-1913年の間、消費量の平均は…17.9 puds で、加えて飼料用の7.4 puds があった。
 言い換えると、Tambov 地方では、前年の地方収穫高は必要量のほとんど四分の一だった。
 予定では、この地方は、穀物1100万puds とジャガイモ1100万puds を供出しなければならなかった。
 農民たちがこの査定量の供出を100パーセント達成していたならば、彼らに残されたのは、一人当たり穀物1 puds とジャガイモ1.6 puds だっただろう。
 そうではあったが、査定量はほとんど50パーセント達成された。
 すでに(1921年)1月に、農民たちは飢餓状態に入っていた。」(注35) //
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 (06) 1920年8月にTambov 市近傍の村落で反乱が自然発生的に勃発した。その村落は食料徴発部隊に穀物を渡すのを拒み、部隊の数名を殺害した。また、増援部隊を撃退した。(注36)
 制裁のための派遣軍を予期して、その村落は、手にしていたもので武装した。何丁かの銃砲はあったが、主としては三叉鋤と棍棒だった。
 近くの諸村落も、加わった。
 反乱者たちは、あとに続いた赤軍との遭遇以降、勝利者として出現した。
 農民たちは、勝利に勇気づけられて、Tambov 地方で行進した。この地方の首都に接近するにつれて、農民大衆の数は膨れ上がった。
 ボルシェヴィキは増援部隊を送り、9月に反攻に出た。反乱側の村落を燃やし、捕えたパルチザンを処刑した。
 Alexander Antonov というカリスマ性をもつ人物が出現していなければ、暴乱はそのときに、そこで終わっていたかもしれなかった。//
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 (07) Antonov は、社会主義革命党〔エスエル〕の党員で、伝統工芸職人または同党が財源を補充すべく組織した強盗団(「収用部隊」)に1905-07年に参加していた金属労働者のいずれかの息子だった。
 彼は、逮捕され、有罪となり、シベリアでの重労働の判決を受けた。(注37)
 1917年に故郷に戻り、左翼エスエルに入党した。
 やがて彼はボルシェヴィキに協力したが、ボルシェヴィキの農業政策に抗議して、1918年夏に彼らと決裂した。
 その後の二年間、ボルシェヴィキ活動家に対するテロ行為を展開した。それが理由となって、欠席裁判で死刑判決を受けた。
 だが、うまく当局をかい潜り、民衆的英雄となった。
 彼は、小さな支持者集団とともに自分で行動した。党との関係はもう維持しなかったけれども、エスエルのスローガンを掲げて。//
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 後注
 (29) RR, 第16章。
 (30) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p55-56.
 (31) TP, II, p.484-7. 〔TP=Trotzky Papers, 1917-1922 (1964-71).〕
 (32) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.86, p.96-98.
 (33) A. Okninskii, Dva goda sredi krest'ian (1936), p.290-2.
 (34) Radkey, Unknown Civil War, あちこちで。;Mikhail Frenkin, Tragediia krest'ianskikh vosstanii v Rossi, 1918-1921 gg. (1988) , Chap. V; Orlando Figes, Peasant Russia Civil War (1989), Chap. 7. 共産党の見方については、Trifonov, Klassy, 1, p.245-9 を見よ.
 軍事公文書庫からの新しい史料が近年に、P. A. Aptekar で出版された。Voennoistoricheskii zhurnal No. 1 (1993), p.50-55, No. 2 (1993), p.66-70. 私の注目は、Robert E. Tarleton 氏によるこの情報に引かれる。
 (35) TP, II, p.492-5.
 (36) Iurii Podbelskii, in RevR, No. 6, (1921.4), p. 23-24.
 (37) Radkey, Unknown Civil War, p.48-58.
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 第三節②へと、つづく。

2567/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第二節・1920-21年の農民大反乱。
 (01) 1921年3月までに、共産党員たちは努力をして、何とかして国民経済を国家の制御のもとにおくことに成功していた。
 この政策はのちに、「戦時共産主義」として知られることになる。—レーニン自身が、1921年4月に、これを廃棄するときに初めて用いた言葉だ。(注08)
 これは、言うところの内戦や外国による干渉という非常事態でもって、経済的実験作業の大厄災的な結果を正当化するためにこしらえられた、間違った名称だった。
 そうではなく、当時の諸記録を精査してみると、この政策は実際には、戦争状態への緊急的対応というよりも、できるだけ速く共産主義社会を建設する試みだった、ということに、疑いの余地はない。(注09)
 戦時共産主義は、生産手段および他のほとんどの経済的資産の国有化、私的取引の廃止、金銭の排除、国民経済の包括的計画への従属化、強制労働の導入といったものを、内容としていた。(注10)//
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 (02) こうした実験は、ロシア経済を混乱状態に陥ち入れた。
 1913年と比較して、1920-21年の大規模工業生産額は82パーセントを失った。労働者の生産性は74パーセントが減り、穀物生産は40パーセントがなくなった。(注11)
 住民が食料を求めて農村地帯へと逃げ出して、都市部には人がいなくなった。ペテログラードはその人口の70パーセントを失い、モスクワは50パーセント以上を失った。
 その他の都市的なおよび工業の中心地域でも、減少があった。(注12)
 非農業の労働力は、ボルシェヴィキによる権力掌握の時点の半分以下にまで落ちた。360万人から、150万人へ。
 労働者の実際の賃金は、1913-14年の水準の3分の1にまで減った。(*)
 ヒドラのような闇市場が、必要なために根絶されず、住民たちに大量の消費用品を供給した。
 共産党の政策は、世界で15番めに大きい経済を破滅させることになり、「封建主義」と「資本主義」の数世紀で蓄積した富を使い果たした。
 当時のある共産党経済学者は、この経済崩壊は人類の歴史上前例のない大災難(calamity)だと言った。(注13)//
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 脚注(*) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii klass 1918-1920 gg (1974), p.80; Akademia Nauk SSSR, Instiut Ekonomiki, Sovetskoe harodnoe khoziaistvo v 1921-1925 gg (1960), p.531, p.536.
 これらの統計の詳細な研究は、1920年のソヴィエト国家には93万2000人の労働者しかいなかった、労働者と計算された被雇用者の三分の一以上は実際には一人でまたは単一の助手、しばしば家族の一員、をもって仕事をする芸術家だったから、ということを明らかにした。Gimpelson, loc, cit., p.82., Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obschestva: Okiabr' 1917-1920 (1976), p.258.
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 (03) 種々の実際的目的のために、内戦は1919-20年の冬に終わった。そして、これらの政策の背後の駆動力として戦争が必要だったとするなら、今やそれらを放棄すべきときだったはずだろう。
 そうではなく、白軍を粉砕した後の数年間、労働の「軍事化」や金銭の排除のような、最も乱暴な実験が行なわれ続けた。
 政府は、農民がもつ穀物「余剰」の強制的没収を維持した。
 農民たちは政府の禁止に果敢に抵抗し、隠匿、播種面積の減少、闇市場での産物の販売を行なって反応した。
 1920年に天候が悪くなったので、パンの供給不足はさらに進行した。
 それまでは食糧供給の点では都市部と比べて相対的には豊かだったロシアの農村地域は、飢饉の最初の兆候を経験し始めた。//
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 (04) このような失敗の影響は経済的だけではなく、社会的なものだった。ボルシェヴィキを支持する薄い基盤をさらに侵食し、支持者を反対者に、反対者を叛乱者に変えた。
 ボルシェヴィキのプロパガンダは「大衆」に対して、1918-19年に被った苦難は「白衛軍」とその外国の支援者が原因だ、と言ってきた。「大衆」たちは、対立が終わって、正常な状態が戻ることを期待していた。
 共産党はある程度は、軍事的必要を正当化の理由とすることで、その政策の不人気を覆い隠してきた。
 内戦が過ぎ去ってしまうと、このような説明で請い願うことはもはや不可能だった。
 「人々は今や確信をもって、厳格なボルシェヴィキ体制の緩和を望んだ。
 内戦終了とともに、共産党は負担を軽くし、戦時中の制限を廃止し、いくつかの基礎的な自由を導入し、より正常な生活のための組織づくりを始めるだろう。…
 だが、きわめて不幸なことに、こうした期待は失望に転じる運命にあった。
 共産主義国家は、軛を緩める意思を何ら示さなかった。」(注14)//
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 (05) 今や、ボルシェヴィキを支持しようとする人々にすら、つぎのような疑問が現われ始めた。すなわち、新しい体制の本当の目的は自分たちの運命を改善することではなく権力を保持し続けることではないか、この目的のためには自分たちの幸福を、そればかりか生命すらをも犠牲にしようと準備しているのでないか。
 このことに気づいて、その範囲と凶暴さで先例のない反乱が、全国的に発生した。
 内戦の終わりは、すぐに新しい戦いの発生につながった。赤軍は、白軍を打倒した後、今ではパルチザン部隊と闘わなければならなかった。
 この部隊は一般には「緑軍」として知られたが、当局は「蛮族」(bandits)と名づけたもので、農民、逃亡者、除隊された兵士たちで構成されていた。(注15)//
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 (16) 1920年と1921年、黒海から太平洋までのロシアの農村地帯で見られたのは、蜂起の光景だった。これらの蜂起は、巻き込んだ人数でも影響を与えた領域の広さでも、帝制下でのStenka Rajin やPugachev の農民叛乱を大きく凌駕するものだった。(注16)
 その本当の範囲は、今日でも確定することができない。関連する資料が適切にはまだ研究されていないからだ。
 共産党当局は懸命に、その範囲を小さくしようとした。かくして、チェカによると、1921年2月に118件の農民反乱が起きた。(注17)
 実際には、そのような反乱は数百件起き、数十万人のパルチザンが加わっていた。
 レーニンは、この内戦の前線から定期的に報告を受け取っていた。全国にまたがる地図があり、巨大な領域に叛乱があることを示していた。(注18)  
 共産党歴史家はときたま、この新しい内戦の範囲について一瞥していて、いくつかのクラクの「蛮族」は5万人を数え、もっと多くの反乱があったことを認めている。(注19)
 戦闘の程度や激烈さのイメージは、反乱への対抗に従事した赤軍による公式の死者数から得ることができる。
 近年の情報によると、ほとんどがもっぱら農民その他の家族的反乱に対して向けられた、1921-22年の運動での赤軍側の犠牲者の数は、23万7908人に昇る。(注20)
 反乱者側の損失は、ほとんど確実に同程度で、おそらくはより多かった。//
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 (17) ロシアは、農民反乱のようなものに関しては、何も知ってこなかった。かつては、農民たちは伝統的に武器を大地主たちに向かって取り、政府に対しではなかった。
 帝制当局が農民騒擾を〈kramola〉(扇動)と名づけたのと全く同様に、新しい当局は、それを「蛮族」と呼んだ。
 しかし、抵抗したのは、農民に限られなかった。
 かりにより暴力的でなかったとしても、もっと危険だったのは、工業労働者たちの敵対だった。
 ボルシェヴィキは、1918年の春までに1917年10月には得ていた工業労働者たちの支持のほとんどを、すでに失っていた。(注21)
 白軍と闘っているあいだは、メンシェヴィキとエスエルの積極的な助けもあって、ボルシェヴィキは、君主制の復活の怖れを吹聴することで労働者たちを何とか結集させることができた。
 しかしながら、いったん白軍が打倒され、君主制復活の危険がもはやなくなると、労働者たちは大挙してボルシェヴィキを捨て去り、極左から極右までの全ての考えられ得る選択肢のいずれかへと移行した。
 1921年3月、ジノヴィエフは、第10回党大会の代議員に対して、労働者、農民大衆はどの政党にも帰属していない、そして、彼らの相当の割合は政治的にはメンシェヴィキまたは黒の百人組を支持している、と言った。(注22)
 トロツキーは、つぎのような示唆に、衝撃を受けた。彼が翻訳したところでは、「労働者階級の一部が、残りの99パーセントの口封じをしている」。これは、ジノヴィエフの言及を記録から削除されるよう求めた部分だった。(注23)
 しかし、事実は、否定できなかった。
 1920-21年、自らの部隊を除いて、ボルシェヴィキ体制は全国土を敵にしていた。自らの部隊すらが、反乱していた。
 レーニン自身がボルシェヴィキについて、国民という大海の一滴の水にすぎない、と叙述しなかったか?(注24)
 そして、その海は、激しく荒れていた。//
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 (18) 彼らは、制約なき残虐さと新経済政策に具体化された譲歩を、弾圧と強いて連結させることによって、生き延びた。
 しかし、二つの客観的要因から利益も得ていた。
 一つは、敵がまとまっていないことだった。新しい内戦は、共通する指導者または計画のない多様な個人の蜂起で成っていた。
 あちこちで自然発生的に炎が上がったが、職業的に指揮され、十分な装備のある赤軍とは、戦いにならなかった。
 もう一つの要因は、反乱者側には政治的な選択をするという考えがなかったことだった。ストライキをする労働者も、反乱している農民も、政治的観点からの思考をしなかった。
 同じことは、多数の「緑軍」運動についても言えた。(注25)
 農民の心情に特徴的なもの—変更可能なものと政府を見なすことができないこと—は革命とそ後の多くの革命的変化の後も存続した。(注26)
 労働者と農民は、ソヴィエト政府が行なったことで、きわめて不幸だった。つまり、政府がしたこととそれが把握し難かったことのあいだには、帝制期に急進的でリベラルな扇動には彼らは耳を貸そうとしなかったのとまさに同様の関係があった。
 そうした理由で、当時のように今も、他の全てのものが残ったままでいるかぎりは、直接的な苦情を満足させることで宥めることができる、ということにはならなかった。
 これが、NEP の本質だった。人々がいったん平穏になれば奪い返す、そのような経済的恵みでもって自分たちの政治的な生き残りを獲得しようとすること。
 ブハーリンは、あからさまにこう述べた。
 「我々は、政治的な譲歩を回避するために、経済的な譲歩を行なっている」。(注27)
 これは、ツァーリ体制から学んだ実務だった。主要な潜在的挑戦者である地主階層(gentry)を、経済的利益でもって骨抜きにすることで、その専横的特権を守った、という実際。(注28)
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 後注
 (08) Lenin, PSS, XLIII, p.205-245.
 (09) RR, p.671-2.〔RR=R. Pipes, Russian Revolution, 1990〕 
 (10) Ibid., p.673.
 (11) Ibid., p.696. この主題についてはさらに、V. Sarabianov, Ekonomika i ekonomicheskaia politika SSSR, 2.ed., とくにp.204-247.
 (12) Desiatyi S"ezd RKP(b) :Stenograficheskii Otchet (1963), p.290. さらに、Paul Avrich, Kronstdt 1921 (1970), p.24 を見よ。Krasnaiagayeta,1921.2.9 を引用している。また、League of Nations, Report on Economic Conditions in Russia (1922), p.16n.
 (13) L. N. Kritsman, Geroicheskii period velikoi russkoi revoliutsii 2.ed. (1926), p.166.
 (14) Alexander Berkman, The Kronstadt Rebellion (1922), p.5.
 (15) Oliver H. Radkey, The Unknown Civil War in Soviet Russia (1976), p.32-33.
 (16) Vladmir Brovkin の近刊著、Behind the Front Lines of the Civil War を見よ。
 (17) Seth Singleton in SR, No. 3 (1966.9) , p.498-9.
 (18) RTsKhIDNI, F. p.5, op.1, delo 3055, 2475, 2476. それぞれ、1919年5月、1920年下半期、1921年全体。Ibid., F. p.2, op. 2,delo 303. これは、1920年5月の前半。
 (19) I. Ia. Trifonov, L¥Klassy i klassovaia bor'ba v SSSR v nachale NEPa, I (1964), p.4.
 (20) B. F. Krivosheev, ed., Grif sekretnosti sniat (1993), p.54.
 (21) RR, p.558-565.
 (22) Desiatyi S"ezd, p.347.
 (23) Ibid., p.350.
 (24) 上述、p.113.
 (25) Radkey, Unknown Civil War, p.69.
 (26) R. Pipes, Russia under the Old Regime (1974), p.157-8 を見よ。RR, p.114. p.118-9.
 (27) 1921年7月8日、コミンテルン第3回大会での Bukharin。The New Economic Politics of Soviet Russia (1921) , p.58.
 (28) R. Pipes, Old Regime, p.114.
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 第二節、終わり

2566/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第一節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 この書(総計約590頁)のうち、章単位で試訳掲載を済ませているのは、数字番号のない結語のような末尾の「ロシア革命の省察」(約20頁)を除くと、つぎだけだ。原書で約40頁。これら三者(ロシア・イタリア・ドイツ)の共通性と差異を考察している。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
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 この書物の第8章の節別構成は、つぎのとおり。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソヴィエト連邦の軍事協力の開始。
 以上のうち、この欄に試訳の掲載を済ませているのは、以下に限られる。
 第6節〜第10節。5年前の2017.04.10〜2017.04.27 のこの欄に掲載した。
 以下、第一節〜第五節の邦訳を試みる。
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 第8章・ネップ(NEP)—偽りのテルミドール。
 第一節・テルミドールではないネップ。
 (01) 「テルミドール」(Thermidor)は、フランス革命暦の七月で、その月にジャコバンの支配が突如として終わり、より穏健な体制に譲った。
 マルクス主義者にとって、この語は反革命の勝利を表象するものだった。その反革命は最後には、ブルボン王朝の復活に行き着いたからだ。
 それは、彼らが何としてでも阻止すると決意している展開だった。
 経済の破綻と大量の反乱に直面して、レーニンは1921年3月に、経済政策を急進的に変更させることを強いられていると感じた。その変更は、私的企業に重大な譲歩をする結果となるものであり、新経済政策(NEP)として知られるようになった路線だった。国の内外で、ロシア革命もまたその路線を辿り、テルミドール段階に入った、と考えられた。//
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 (02) このような歴史的類推を用いることはできないことが、判明した。
 1794年と1921年の最も顕著な違いは、フランスではジャコバン派がテルミドールに打倒され、指導者たちは処刑されたのに対して、ロシアでは、ジャコバン派に相当する者たちが新しくて穏健な路線を実施した、ということだった。
 彼らは、変化は一時的なものだと理解したうえで、そうした。
 1921年12月に、ジノヴィエフはこう言った。「同志たちよ、新しい経済政策は一時的な逸脱、戦術的な退却にすぎず、国際資本主義の前線に対する労働者の新しくて決定的な攻撃のための場所を掃き清めるものだ、ということを明瞭にしてほしい」。(注02)
 レーニンは、NEP をブレスト=リトフスク条約になぞらえるのを好んだ。これは当時は誤ってドイツ「帝国主義」への屈服と見られたが、後退の一歩にすぎなかった。つまり、長くは続かず、「永遠に」ではなかったのだ。(注03)//
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 (03) 第二に、NEP は、フランスのテルミドールとは異なり、経済の自由化に限定されていた。
 トロツキーは、1922年にこう言った。「我々は、支配党として、経済分野での投機者を許容することができる。しかし、政治領域でこれを認めることはできない。」(注04)
 実際に、NEP のもとで許容された限定的資本主義が全面的な資本主義の復活になることを阻止する努力を行ないつつ、体制は、政治的抑圧の強化をそれに伴わせた。
 モスクワが対抗する社会主義諸政党を破壊し、検閲を系統化し、秘密警察の権限を拡大し、反教会の運動を立ち上げ、国内と外国の共産主義者への統制を厳しくしたのは、1921-23年のことだった。//
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 (04) 退却の戦術的性格は、当時は広くは理解されていなかった。
 共産主義純粋主義者たちは、十月革命への裏切りだと見て憤激し、一方では、体制への反対者たちは、恐ろしい実験は終わったと安心してため息をついた。
 レーニンは、頭脳が働いた最後の二年間、繰り返してNEP を擁護しなければならず、革命はその行路上にあると強く主張した。
 しかしながら、彼の心の奥深くでは、敗北の感覚に取り憑かれていた。
 彼は、ロシアのような後進国で共産主義を建設する企ては時期尚早であって、不可欠の経済的、文化的基盤が確立されるまで延期されなければならない、と気がついていた。
 計画どおりに進んだものは、何もなかった。
 レーニンは一度、うっかり口をすべらした。「車は制御不能だ。運転してはいるが、車は操縦するようには進んでいない。だが、何か非合法なものに、何か違法なものに操縦されて、神だけが知る行方へと、向かっている。」(注05)
 経済破綻の状況の中で行動する国内の「敵」は、白軍の連結した諸軍よりも大きな危険性をもって体制に立ちはだかっていた。
 「共産主義への移行という企てをしている経済戦線では、我々は1921年春までに、Kolchak、Denikin、あるいはPilsudski が我々に与えたものよりも重大な敗北を喫した。はるかに重大で、はるかに根本的で危険な敗北だった。」(注06)
 これは、レーニンは1890年代に早くも、ロシアは十分に資本主義的で、社会主義の用意ができている、と間違って主張した、ということを認めるものだった。(注07) //
 ——
 後注。
 (02) A.L.P.Dennis, The Foreign Politics of Soviet Russia (1924), p,418. Ost-Information, No,191 (1922,01,11) から引用。
 (03) Lenin, PSS, XLIII, p.61; XLIV, p.310-1.
 (04) Odinadsatyi S"ezd RKP(b); Stenograficheskii Otchet (1961). p.137.
 (05) Lenin, PSS, XLV. p.86.
 (06) Ibid., XLIII. p.18, p.24; XLIV, p.159.
 (07) R. Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), あちこちの頁に.
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 第一節、終わり

2565/柳原滋雄・日本共産党の100年(2020)。

 柳原滋雄・ガラパゴス政党.日本共産党の100年(論創社、2020)
  この書物(計250頁ほど)の各章の表題は、つぎのとおり(一部に割愛あり)。プロローグ・エピローグは省略。
 第一部/朝鮮戦争と五〇年問題。
  第1章・日本共産党が「テロ」を行った時代。
  第2章・組織的に二人の警官を殺害。
  第3章・殺害関与を隠蔽し、国民を欺き続ける。
  第4章・日本三大都市で起こした騒擾事件。
  第5章・共産党の鬼門「五〇年問題」とは何か。
  第6章・白鳥事件—最後の当事者に聞く。
 第二部/社会主義への幻想と挫折。
  第7章・「歴史の遺物」コミンテルンから生まれた政党。
  第8章・ウソとごまかしの二つの記念日。
  第9章・クルクルと変化した「猫の目」綱領。
  第10章・原発翼賛から原発ゼロへの転換。
  第11章・核兵器「絶対悪」を否定した過去。
  第12章・北朝鮮帰国事業の責任。
  第13章・沖縄共産党の真実。
 第三部/日本共産党"政権入り”の可能性。
  第14章・「スパイ」を最高指導者に君臨させた政党。
  第15章・日本国憲法「制定」に唯一反対する。
  第16章・テロと内ゲバの「母胎」となった政党。
  第17章・「被災地」での共産党の活動。
  第18章・「日本共産党は"横糸“が欠けていた」。
  第19章・京都の教訓—庇を貸して母屋を取られる。
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  著者(1965-)は元「社会新報」記者。
 少し捲っただけで、まともには読んでいない。奇妙な「マルクス・レーニン主義」理解を披歴したり、「暴力革命」を捨てていないと言いつつ最後に公安調査庁の文書によってそれを正当化するような、程度の低い共産党批判書よりは、「事実」が書かれているようで、マシではないか。
 巻末に「付論」の中に、つぎの四綱領文書が掲載されているのは、役に立つだろう(但し、一部省略あり)。カッコ内はこの著者。
 ①1951年綱領(徳田綱領)。
 ②1961年綱領(宮本綱領)。
 ③2004年綱領(不破綱領)。
 ④2020年改定綱領(志位綱領)。
 ③は中国・ベトナムを「市場経済を通じて」社会主義をめざしている国家と位置づけた綱領だ(第23回党大会。④でまた変わる)。
 しかし、第20回党大会が採択した1994年綱領もまた、きわめて重要だと考えられる。これによって、<ソヴィエトはスターリン時代に社会主義国ではなくなっていた>旨が明記された。1991年12月〜1994年7月まで、少なくとも1992-93年の二年間は、日本共産党は公式にはこの問題には口をつぐんでいた。不破哲三は、「大国主義」・「覇権主義」と闘ってきたと、ソ連共産党という政党とソ連という国家自体の区別を曖昧にしたまま、何やら吠え立てていたけれども。
 なお、この年、この綱領後は、形式的にも宮本顕治の影響力はなくなった。1992-93年は宮本と不破の間の、ソ連認識も含めての「闘争」があったに違いない。
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2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第六節
 (01) NEP に関する議論は、時間の問題へと帰着した。
 ソヴィエト同盟が NEP が許容している機構を通じて工業化するのに、どのくらい長くかかるのだろうか? NEP が許容するのは、農場への課税と市場販売による資本蓄積、工業のための価格固定、新しい機械類の輸入支払いのための穀物の輸出だ。
 資本主義諸国家との戦争の勃発前にソヴィエト同盟が必要とする防衛産業を確立するのは、間に合うのだろうか?//
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 (02) 時間の問題は、体制の農民層との関係にかかるより広範な論点に関係していた。
 市場機構がいったん破綻し、穀物不足が発生したなら、とくに戦争の危険があるときにこれが起きたなら、どうなるのだろうか?
 農民たちはもっと多く納税しなければならなくなり、工業への投資はもっと減るのだろうか?
 あるいは、食料徴発が復活し、農民層との同盟関係は危うくなるのだろうか?//
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 (03) ブハーリンは、党の主要な支援者として、調達価格を高めることに賛成した。たとえ、工業化が農民の荷車の速さで進むことになるとしても。
 彼は、1926年の状況を判断したうえで、工業は何とか戦前の水準を再達成することができる、そしてNEP のもとで順調に推移するだろう、と主張した。
 彼は、ソヴィエト連邦は外国の脅威にも国内の脅威にも直面していない、と確信していた(前者につき、外国貿易は資本主義諸国との関係を落ち着かせている、後者につき、「クラク」や「私的利得者」は協同組合の急成長によって阻まれている)。//
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 (04) 1927年に、ボルシェヴィキの意見をNEP に反対にさせる二つの事件が起きた。
 第一は、都市部への穀物供給が再び途絶えたことだった。
 収穫不足が、消費用品不足と同時に起きた。そして、工業製品の価格が上がるにつれて農民たちは穀物売却を減らした。
 その秋の国家による農民からの調達量は、前年の半分になった。
 第二の事件は、戦争勃発の危惧だった。
 プレスが、イギリスがソヴィエト同盟に対する「帝国主義戦争」をしかけようとしている、という虚偽の風聞を報道した。
 スターリンは、この報告を、統合反対派を攻撃するために利用し、その指導者のトロツキーとジノヴィエフを、深刻な危機にあるソヴィエト国家の団結を破壊しているとして非難した。
 これら二つの問題—「クラク」の穀物ストライキと資本主義国家との戦争の脅威—は、スターリンの見方の中では結びついていた。//
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 (05) トロツキーとジノヴィエフは、調達価格を上げることに反対した。
 この二人は、消費用品生産の増加のために必要な食糧備蓄を確保するために、食料徴発を一時的に復活させることに賛成した。
 そのことは、農民たちの穀物を売却する動機をより大きくするだろう。
 この点で、スターリンは、ブハーリンの側に立ち、トロツキーとジノヴィエフに対抗した。後者の二人は、1927年12月の第15回党大会で敗北した。
 しかし、スターリンはそのあとで、ブハーリンとNEP への反対に転じた。
 彼のマキアヴェリスト的戦術は、権力の追求に際してのイデオロギーの完全な無視を示している。//
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 (06) 内戦時の乱暴な言葉遣いに戻って、スターリンは、五ヶ年計画でソヴィエト同盟を工業化すべく、穀物を求める新しい闘いを呼びかけた。
 戦争の危惧を彼は利用し、そのことで、NEP の放棄を推進することができた。NEP は工業の軍事化の手段としてはあまりに遅すぎ、戦争事態の際の食料確保手段としてはあまりに不確実だ、という理由を付けて、だった。//
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 (07) スターリンの五ヶ年計画は、革命は外国と国内の「敵」との絶えざる「階級闘争」だとする急進的な見方にもとづいていた。
 彼は乱暴な言葉遣いでもって、資本主義経済の最後の残滓(小取引と農民による耕作)を根絶することを語った。彼によるとそれは、社会主義的工業化へと国が進むのを妨げている。
 1928-29年のブハーリンとの間の政治闘争で、彼はブハーリンは「危険な」考えを持っていると責め立てた。その考えは、階級闘争は次第に少なくなっていくだろう、「資本主義的要素」は社会主義経済と調和し得る、というものだと。
 スターリンは言う。このような想定は、敵に対するソヴィエト国家の防衛力を弱め、敵がシステムに浸入し、内部からそれを転覆させるのを許すことになる、と。
 スターリンは、大テロル(Great Terror)へと至る国家の暴力の連鎖を合理化する歪んだ論理を用いる先駆者だったが、反対方向で、ブルジョアジーの抵抗は国家が社会主義へと接近するにつれて増大し、その結果として、活力が絶えず強くなることが「搾取者の反抗を粉砕して根絶する」には必要だ、と理由づけた。//
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 (08) 内戦時の階級闘争の再開を求めるスターリンの呼びかけは、一般党員の広範な部分を魅了した。彼らの中には、NEP は革命の目標からの退却を示している、という感覚が大きくなっていた。
 工業の発展についてのスターリンの弁舌は、青年期にイコン(聖像)とゴキブリの農民世界から飛び出して、こうした貧困の遺産を破壊するものと革命を見た下級のボルシェヴィキ党員全てに対して、力強い訴えとなった。
 彼らのほとんどは内戦時に入党し、スターリンのおかげで昇進してきた。
 彼らは実際的な人間で、マルクス主義理論の多くを理解しておらず、ボルシェヴィキに対する忠誠心は、「プロレタリア」という彼らのidentity と緊密につながっていた。
 彼らにとって、五ヶ年計画に関するスターリンの単純な見通しと、後進性を克服して国を世界の偉大な工業大国にするための新しい革命的攻勢とは、同じことを意味した。//
 ----
 (09) スターリンの戦闘的な言葉はまた、まだ若すぎて内戦を闘えなかったが、それに関する物語にもとづく「闘争崇拝」の中で教育されてきた若い共産党員たち—今世紀の最初の20年間に生まれた者たち—に対して、特別の魅力があった。
 あるボルシェヴィキ(1909年生まれ)は、自分たち世代の戦闘的な世界観は、「ブルジョア的専門家」、「NEPmen」、「クラク」その他の「ブルジョアジーの雇われ者たち」との「新たな階級戦争」の必要についてのスターリンの主張を受け入れる心の準備をしていた」、と回想記の中で述べた。
 若い共産党員たちは、NEP に苛立つようになっていた。
 あるスターリン主義者は、こう説明した。
 「私の世代の共産青年同盟員たち—10歳またはそれ以下で十月革命に遭遇した—は、運命を呪った。
 我々の意識が形成され、青年共産同盟に加入したとき、そして工場へと働きに行ったとき、我々は、我々にはすべきことが何も残されていないだろうことを知った。
 革命は過ぎ去っていたからだ。内戦期の真剣だがロマンティックな年月は戻って来ないだろうからだ。そして、歳上の世代の者たちは、闘争や興奮のない退屈で平凡な生活だけを我々に残してくれたからだ。」(注08)//
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 (10) ここに、スターリンの「上からの革命」、革命の第二世代の段階、の先頭に立とうとする熱狂者の集団があった。//
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 (11) スターリンは、内戦期の手段を復活させることで、穀物危機に対応した。
 食料徴発制は、一連の「非常措置」によって支えられた。—その中には、徴発軍団が穀物提出を控えていると疑うならば、その農民を誰でも逮捕して、財産を没収することを認める、悪名高い刑法典第107条もあった。
 「ウラル・シベリア方式」として知られるものは、数万の零落した農民農場を犠牲にしてでも比較的にうまく行った1928年の運動だったが、スターリンはこれによって、「クラクの穀物ストライキ」を破壊して五ヶ年計画が約束した工業革命に必要な食料を確保するために、より強制的な手段を押し進める気になった。
 「穀物を目ざす闘い」は、スターリンや彼の支持者たちを全力をあげた集団化へと向かわせていた。//
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 第六節、終わり。第9章全体も、終わり


 Figes-REv

2563/O.ファイジズ・NEP/新経済政策③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第五節
 (01) NEP は、革命が排除することを約束したがなしで済ますことがまだできない「ブルジョア文化」の残滓にとっての一時的猶予だった。
 NEP は、社会主義経済が必要とした専門的能力をもつ職業人階層—「ブルジョア専門家」、技術者、エンジニア、科学者—との闘いを、停止させた。
 それが意味したのはまた、宗教に対する闘いの緩和だった。教会はもう閉鎖されず、聖職者たちは従前のようには(あるいはのちのようには)迫害されなかった。
 啓蒙人民委員のLunacharsky のもとで、ボルシェヴィキは、寛大な文化政策をとった。
 今世紀の最初の20年間、ロシアの「白銀の時代」の芸術上のavan-garde は、30年代も流行し続け、多数の芸術家が、新しい人間とより精神的な世界を創造するという革命の約束から刺激を得ていた。//
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 (02) しかしながら、NEP は、ブルジョア的習慣と心性(〈byt〉と呼んだ)との闘いの中止を意味しなかった。 
 内戦の終焉とともに、ボルシェヴィキは、この文化戦線での長期の闘いを準備した。
 彼らは、革命の到達点は高次の—より共同的で、公共生活により活発に参加する—人間の創造だと考えた。そして、こうした人格を社会の個人主義から解放することに着手した。
 共産主義ユートピアは、こうした新しいソヴィエト人間(New Soviet Man)を設計すること(engineering)によって建設されるだろう。//
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 (03) ボルシェヴィキはマルクスから、意識は環境によって形成されると学んだ。
 そして、思考と行動の様式を変更する社会政策を定式化することから、この人間の設計という課題を開始した。//
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 (04) 家族は、彼らが最初に取り組んだ舞台だった。
 彼らは、「ブルジョア的家族」は社会的に有害だと見た。—宗教という砦、家父長的抑圧、「利己主義的な愛」は、ソヴィエト・ロシアが国家の託児所、洗濯場、食堂のある完全に社会主義のシステムへと発展するに伴い消滅するだろう。
 〈共産主義のABC〉(1919年)は、未来の社会を予見した。そこでは、大人たちは一緒に、彼らの共同社会の子どもたち全員の世話をするだろう。//
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 (05) ボルシェヴィキはまた、家族の絆を弱める政策も採用した。
 結婚を教会による統制から切り離し、離婚を単純な登録の問題に変えた。その結果として、世界で最高の離婚率となった。
 住居不足と闘うために、典型的には一家族一部屋で、一つの台所とトイレが共用の共同アパート(kommuki)を編制した。
 ボルシェヴィキは、人々を共同して生活させることで、人々はより集団的な性格になるだろう、と考えた。
 私的空間と私的財産はなくなるだろう。
 家庭生活は、共産主義的な友愛と組織に置き換えられるだろう。
 そして、個人は、相互の監視と共同社会の統制のもとに置かれるだろう。//
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 (06) 新しい様式の住居が、こうしたことを念頭に置いて、1920年代半ばに設計された。
 構築主義的な建築家は、「共同住宅」を設計した。それによると、衣類すらも含む全ての財産は住民が共同で使用するものになり、料理や子どもの世話のような家事は、交替制で諸チームに割り当てられ、全員が一つの大きな共同寝室で、男女で区別され、性行為のための私室が付くが、眠ることになる。
 この種の住居は、ほとんど建設されなかった。—あまりに野心的で、構築主義思考が短期間で政治的に受容されるには至らなかった。
 しかし、考え方自体は、ユートピア的想像やZamyatin の小説〈We〉(1920年)の中で、大きな位置を占めた。//
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 (07) 教育は、ボルシェヴィキにとって、社会主義社会の創成のための鍵だった。
 学校と共産主義青年同盟を通じて、彼らは、青年に新しい生活様式を教え込もうとした。
 ある理論家は、「柔らかい蝋のような子どもたちは可塑性が高く、優れた共産主義者になるはずだ。我々は家庭生活の邪悪な影響から子どもたちを守らなければならない」と宣言した。(注05)
 社会主義的諸価値の涵養は、ソヴィエトの学校のカリキュラムの指導原理だった。
 実際の活動を通じて子どもたちに科学と経済を教育することが、強調された。
 学校は、ソヴィエト国家の小宇宙として編制された。学習計画と成績は、図表や円グラフで壁に掲示された。
 生徒たちには、生徒評議会と「反ソヴィエトの考え方」の教師を監視する委員会を設置することが奨励された。
 学校の規則を破った子どもたちの学級「裁判」すらがあった。
 服従の意識を注入するために、いくつかの学校は、政治的な教練を導入した。それには、行進、合唱、ソヴィエト指導部に対する忠誠の誓約が伴っていた。//
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 (08) 子どもたちは、「革命家」の真似事をした。
 1920年代に最も人気のあった校庭遊びは、赤軍と白軍、ソヴィエトのカウボーイ・インディアンだった。それらでは、子どもたちが内戦の諸事件を演じ、特別に遊び用に売られていた空気銃がしばしば用いられた。
 もう一つは探索・徴発で、その遊びでは、一グループが徴発部隊の役を演じ、別のグループは穀物を隠す「クラク」として振る舞った。
 このような遊びが子どもたちに奨励したのは、世界をソヴィエト的に「仲間」と「敵」に分けること、正しい目的のために暴力を用いることを受容すること、だった。//
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 (09) 教育制度は、政治的には、活動家の生産と連動していた。
 子どもたちは、ソヴィエト・システムの実践と儀礼を教え込まれて、献身的な共産党員になるよう成長した。
 党は、とくに農村地帯での党員数拡大を必要とした。ボルシェヴィキ活動家の数が、人口に比してきわめて少なかったからだ。
 この世代—ソヴィエト・システムで初めて学校教育を受けた—は、党員の補充に適していた。//
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 (10) ソヴィエトの子どもたちは10歳で、1922年にボーイ・スカウト運動を範として設立された共産主義少年団(Pioneer)に加入した。そこで彼らは、「われわれ共産党の教条を断固として支持する」と誓約した。
 1925年までに5人に一人がこの組織に入り、その数は年々と増えていった。
 共産主義少年団員は頻繁に、行進、合唱、体操、スポーツを行なった。
 特別の制服(白シャツと赤いスカーフ)、団旗、旗、歌があり、それらによって団員は強い帰属意識をもった。
 この少年団から排除された者(「ブルジョア」出自が理由とされたのとほぼ同数いた)は、劣等感をもたされた。//
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 (11) 15歳で子どもたちは、少年団からコムソモール(共産青年同盟)へと進むことができた。
 全員が進んだのではなかった。
 1925年、共産青年同盟には100万の同盟員がいた。—15歳から23歳までの者全体の約4パーセントだった。 
 青年同盟に加入することは、共産党員としての経歴の第一歩だった。
 この組織は、熱狂者の予備軍として機能し、腐敗や悪用を非難する心づもりのあるスパイや情報提供者とともに、党の仕事を自発的に行なう者を提供した。
 この組織が強い魅力を持ったのは、まだ幼くて内戦で闘えなかったが、1920年代と1930年代の記憶で喚起された積極的行動礼賛の中で育った世代に対してだった。
 多数の者が、共産主義者であるからではなく、社会的活力を発散する場が他にないがゆえに、共産青年同盟に加入した。//
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 (12) Walter Benjamin は、1927年にモスクワを訪問して、こう書いた。
 「 ボルシェヴィズムは私的な生活を廃絶させた。
 官僚機構、政治活動家、プレスが力強くて、利害関心のための時間はほとんどこれらに集まっている。
 そのための空間も、他にはない。」(注06)
 人々は多くの面で、完璧に公共的生活を送ることを余儀なくされていた。
 革命は、公共的詮索から自由な「私的な生活」に対して寛容ではなかった。
 存在したのは党の政策ではない。人々が私的に行なう全てのことが「政治的」だった。—何を読んだり考えたりするかから、家庭の中で暴力的か否かに至るまでが。そして、これらは集団による譴責の対象となった。
 革命の究極的な狙いは、人々が相互監視と「反ソヴィエト行動」批判によって互いに管理し合う透明な社会を生み出すことだった。//
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 (13) 一定範囲の歴史家たちは、以下のことが達成された、と考えている。—1930年代までに、国家の公的文化の中で自分自身のidentity と価値観を喪失した「非リベラルなソヴィエト的主体」を生み出すこと。
 この解釈に従えば、ボルシェヴィキの公的な論議(discourse)によって定義された用語法から離れて個人が考えたり感じたりすることは、実際上不可能だった。また、異論を唱える全ての思考や感情は「自己の危機」と感じられる可能性が高く、強烈な個人による粛清が求められることになる。(注07)
 おそらくこれは、ある程度の人々に—学校やクラブで吹き込まれた若者、感受性の強い者たちや恐怖からこのようなことを信じた大人たちに—当てはまることで、このような人々はきっと少数派だった。
 現実には、人々は全く反対のことを主張することができた。—継続的な公共的詮索によって、自分の中に閉じ籠もり、自分自身のidentity を維持するためにソヴィエトへの順応の仮面をかぶって生きることを強いられた。
 彼らは、異なる二つの生活をすることを学んだ。
 一つは、革命の用語を口ずさみ、忠実なソヴィエト市民の一人として行動する。
 もう一つは、自分の家庭のprivacy の中で生きる。あるいは、自由に疑問を語ったり冗談を言ったりすることのできる、頭の中の内部的逃亡地で生きる。//
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 (14) ボルシェヴィキは、この隠された自由の領域を恐れた。
 彼らは、人々がその仮面の下で何を考えているかを知ることができなかった。
 彼ら自身の同志ですら、反ソヴィエト思想を隠している、ということがあり得た。
 ここで、粛清(purges)が始まった。—潜在的な敵の仮面を剥ぐというボルシェヴィキの必要から。
 ——
 第五節まで、終わり。つづく。

2562/O.ファイジズ・NEP/新経済政策②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第三節
 (01) NEP に対する都市部の反対は、市場メカニズムがときに機能しなくなって—革命と内戦の数年後では必然的だった—、国営商店での食料不足をもたらしたために、大きくなった。
 問題の根源は、農民たちと取引ができる消費用品がなかったことだった。
 内戦によって、工業は甚大な被害を受けていた。
 農村では1922年と1923年は非常に豊作だったが、工業が回復するのは、農業よりも遅れた。
 結果として、下落した農産物価格と消費者用品の急速に上昇している価格の間の隔たりが大きくなった(トロツキーは「鋏状の危機」と名づけた)。
 製造物品の価格が上がるにつれて、農民層は、国営倉庫への穀物販売を減らした。
 国家による支払いを受ける調達率はきわめて低かったので、農民たちは、必要とする家庭用物品を入手することができなかった。—その一部は、彼らが小屋の仕事場で自分たちで作ることができた(鋤、綱、靴、ろうそく、石鹸、単純な木製家具)。
 農民たちは、安い価格で穀物を販売しないで、家畜の飼料にしたり、納屋に貯蔵したりした。あるいは、私的な商人や袋運び屋(bagmen)に売った。//
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 (02) 食料供給の途絶を阻止すべく、政府は、内戦時スタイルの徴発の手段をとり、生産性を高めるために工業コストを削減した。そして、「NEPmen」への労働者階級の怒りに応じて、30万の店舗と市場施設を閉鎖した。
 1924年4月までに、当面する危機は回避された。
 しかし、市場の崩壊は、NEP にとっての潜在的問題のままだった。//
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 (03) この問題への対応の仕方について、ボルシェヴィキ内は分かれた。
 党の左翼たちは、農業価格を低いままにし続け、工業生産を増加させる必要があれば実力でもって穀物を奪うことを支持した。
 他方で党の右翼たちは、工業化のための資本蓄積の進度を遅らせても、国家と農民層の関係の基盤である〈smychka〉(労働者)と市場機構を守るために、調達価格を上げよと主張した。//
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 (04) 両派は、NEP の国際的背景に関しても一致しなかった。
 ボルシェヴィキが権力を奪取したときには、革命はすみやかに多くの先進工業国に拡大するだろうと想定されていた。
 彼らは、社会主義はロシアだけでは維持できない、なぜなら、「帝国主義」国家に対して防衛するに必要な産業をもたないからだ、と見ていた。
 1923年の末までに、革命がヨーロッパに拡大しそうにないことは明らかになった。
 戦後すぐの不安定期は過ぎていた。
 イタリアでは、秩序回復のためにファシストが権力を握っていた。
 ドイツでは、共産党が支援したストライキは、より大きな反乱へと発展することができなかった。
 スターリンは、即時の目標としての革命の輸出という考えを捨て去って、「一国社会主義」の政策を進めた。
 これは、党の革命戦略の劇的な転換だった。
 一般に想定されていたように工業国家からの支援が来るの待つのではなく、ソヴィエト同盟は今や、自己充足をし、自分の経済から抽出した資本でもって自らを防衛しなければならないだろう。
 西側から輸入する道具や機械の対価を支払うために、穀物や原料を輸出しなければならないだろう。
 ブハーリンが構想したこの考え方は、1926年に党の政策として採用された。
 しかし、左翼反対派は、マルクス主義イデオロギーからの根本的離脱だと批判した。マルクス主義は、世界から孤立した単一国家での社会主義建設を排除している、と。//
 ——
 第四節
 (01) NEP は、国家と社会主義化した部門が私的部門と競い合う混合経済を許容した。 
 NEP のもとでの社会主義経済は、農民たちが集団農場や農業協同組合に加入するよう促す、国家による規制、財政措置、農学上の援助によって生まれることになる。//
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 (02) レーニンは、協同組合の役割を最も重要視した。
 彼は、協同組合がロシアのような農民国家での社会主義社会の建設の鍵だと考えた。協同組合は社会主義的配分と農民との交換のための「最も単純で、容易で、最も受容されやすい」様態だ、というのがその理由だった。
 国家に支援されて、協同組合は農民たちに、彼らの生産物と消費用品との間の交換比率の保障を提供することができた。
 道具を購入する際の信用を提供することができた。あるいは、肥料、灌漑で、または土地保有を合理化して共同体の狭い帯状区画の問題を解決する農学上の援助をして、彼らの土地を改良するのを助けることができた。
 協同組合は、こうして、農民たちを私的取引者から引き離し、国家が耕作実務に影響を与え得る社会主義部門へと統合するものと考えられていた。
 農場の半分が1927年までに農業協同組合に帰属したのは、NEP がうまく行った尺度となった。
 結果として、生産性の着実な上昇が見られた。農業生産の1913年時点での高さは、1926年に再び達成された。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント大きかった。いわゆるロシア農業の「黄金時代」だった。//
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 (03) レーニンが意図していたようにNEP が継続していれば、第三世界での社会主義的発展の例として役立ったかもしれなかった。
 ソヴィエト経済は、活気ある農業部門を基礎にして、1921年と1928年の間に急成長した。
 工業も順調で、1930年代よりも高い成長率だった、と主張されている。
 NEP が継続していれば、1928年以降のスターリンの経済政策の実際の結果よりも、はるかに強力に1941年のナツィの侵攻に対抗できていただろう。
 そうならずに、NEP は、ソヴィエト農業を永遠に損傷させ、数百万の農民の生命を奪った大量集団化によって覆された。//
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 (04) NEP はつねに、農業の集団化計画を伴うものだった。
 ボルシェヴィキはイデオロギー的に、全ての土地が共同で耕作され、生産が機械化され、国家がこれらの農場との固定契約でもって食料供給を保障することのできる、そのような大規模の集団農場(コルホーズ、kolkhozes)へと共同体を変革させるという長期目標を有していた。
 しかし、これは漸次的で自発的な過程であり、その過程で農民たちは国家による財政的、農学的援助を通じて集団農場へと奨励されるものとされていた。
 1927年の後で、徴税政策によって大きな圧力が加えられた。
 しかし、集団農場に加入するよう全ての農民を強制することに関しては、何の疑問もなかった。
 実際に、強制的実力は必要でなかった。
 農民たちは何はともあれ、TOZ として知られる小規模農場に執着していた。そこでは、耕作は共同で行われるが、家畜と道具は私有財産のままだった。 
 TOZ の数は、1927年の6000から1929年には3万5000へと増加した。
 もっと長い期間があれば、NEP の範囲内での重要な集団農場部門になっていたことだろう。
 協同組合からの農学上の助けを得て、最強の農民たち—「クラクたち」—が担う効率的な近代的農場になっていただろう。
 しかし、スターリンはこのいずれも、そうさせなかった。
  彼は、全ての土地、用具と家畜が集団化されたもっと大規模の集団農場を望み、それに農民たちが加入するよう強いた。
 結果は、national な大厄災だった。//
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 第四節まで、終わり。第五節以降へつづく。

2561/O. ファイジズ・NEP/新経済政策①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?①
 第一節
 (01) 市場の復活は、ソヴィエト経済に生命を吹き込んだ。
 私的取引は、7年間以上の革命と内戦が生んでいだ慢性的な不足に、すぐに反応した。
 1921年までは、誰もがつぎあての衣服と靴で生活し、壊れた台所用具で料理をしていた。
 人々は、小部屋と間仕切りを作った。
 小さく汚い市場が流行した。
 農民たちは、町の市場で食用品を売った。 
 田園地方を往復する「袋かつぎ屋」が大量の現象になった。
 私的なカフェ、店舗、レストラン、そして小規模の製造業者すらが、新しい法律によるライセンスを得て、雨後の筍のように出現した。
 外国の観察者は、この変化に驚いた。
 モスクワやペテログラード、内戦中に死んでいた諸都市は、再び生気を取り戻し、騒がしい商売人、忙しいタクシー運転者、華やかな店舗の看板が、1917年以前にそうだったように、街路を活性化した。
 「NEP はモスクワを巨大な市場に変えた」と、アメリカのアナキストのEmma Goldman は1924年に書いた。
 「一晩で小売店や雑貨店が生まれ、不思議なことに、数年間はロシアで見ることのなかった美品が積み重ねられた。
 大量のバター、チーズ、肉が、販売用に陳列された。
 塗り粉、珍しい果物、そしてあらゆる種類の甘菓子を、買うことができた。…
 男性、女性、子どもたちが、やつれた顔をして飢えた眼で、窓から覗き込み、大きな奇跡だと話した。
 昨日は極悪非道の犯罪だと考えられたものが、今は公然たる合法的な形態で、彼らの前に展示されていた。」(注01)//
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 (02) 空腹の人々はどうやって、そのような商品を買うことができたのか?
 私的取引の復活は、多くのボルシェヴィキにとって、革命への裏切りだった。
 それは富んだ者と貧しい者の格差の拡大につながるように思えた。
 あるボルシェヴィキはこう思い出した。
 「我々若い共産主義者はみな、金銭はただちにかつ永遠に捨て去られる、と信じて育ってきた。
 金銭が再び現れているのなら、金持ちの人間もまた再出現するのではないか?
 我々は、資本主義へと後戻りする滑りやすい斜面にいるのではないか?
 我々は、不安の感情をもって、こう自問した。」(注02)
 彼らの懸念は、NEP の最初の数年での失業者の増加によって強くなった。
 解雇された労働者は最低限度の生活をしていた一方で、彼らの推定では、農民たちは豊かになっていた。
 Goldman はある赤軍兵士がこう言うのを聞いた。「こうなるために、我々は革命を起こしたのか?」(注03)
 労働者たちのあいだには、NEP は農民層のために階級利益を犠牲にしている、NEP は「クラク(富農)」が復活するのを認めるだろう、クラクとともに資本主義システムも復活するだろう、という感情が大きく広がっていた。
 数万人のボルシェヴィキ労働者たちが、NEP を嫌悪して、彼らの党員証を引きちぎった。彼らは、NEP を「プロレタリアートの新しい搾取」(New Exploitation of the Proletariat)と名付けた。//
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 (03) この庶民的な怒りの多くは、「ネップマンたち」(NEPmen)に向けられた。私的取引の復活によって成長した事業者の新しい階級だ。
 ソヴィエトのプロパガンダや時事漫画が形成した一般民衆の想像では、
「NEPmen」は彼らの妻や愛人たちをダイアや毛皮で着飾らせ、大きな輸入車を運転し、高価なホテル・バーで金運を大声で自慢した。その金運は、新しく開催された競馬やカジノで使ったものだった。
 このような〈nouveaux riches〉(新富裕層)の伝説的な出費は、都市部の貧困の背景にあったもので、革命は不平等で終わると考えた者たちのあいだに苦々しい忿懣を生んだ。//
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 第二節
 (01) レーニンにとって、NEP は、国を立て直すための市場への暫定的譲歩以上のものだった
 大部分は彼自身の党による1917年のクー・デタの結果として、「ブルジョア革命」が完遂されていない農民ロシアでの社会主義の役割を再定義する、そのような努力が間違って定式化されたとすれば、NEP は過激だった。
 レーニンは第10回党大会で、「発展した資本主義諸国で」のみ、「社会主義への即時の移行」は可能だ、と言った。
 ソヴィエト・ロシアはかくして、「ブルジョアの手を借りて共産主義を建設する」という任務に直面していた。これがボルシェヴィキに意味したのは、農民たちに市場を通じて富を生み出させる、ということだった。//
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 (02) レーニンは、革命がそれにかかっている、〈smychka〉-労働者-と農民の同盟関係を救うための、農民層への必要な譲歩だと、NEP を見ていた。
 この同盟は、工場で製造された商品と食料の交換を基礎にして築かれるだろう。
 NEP は、農民たちに20パーセントの現物税を支払った後で余剰を自由に販売することを許すことによって、彼らの市場販売を刺激して奨励することを意図していた。
 これは都市部に食料を供給し、徴税を通じて、農民たちが穀物の代わりに求めている基本的な生活用品の製造に対する国家投資を増加させるだろう。
 この取引と食料輸出への課税によって、国家は、工業化するために必要な道具や機械を輸入する費用を調達できるだろう。//
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 (03) NEP は、戦略的な退却として提示された。
 レーニンは1921年に、多くの懐疑者に対して、「我々は、のちに二歩前進するために、一歩後退している」と保証した。
 しかし、あとどのくらい長く続くのかは。不明瞭だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、「10年程度またはたぶんそれ以上」と語った。—NEP は、民衆の反乱から革命を守るための「政治的策略の一方法としてではなく」、「真摯に」、「全体的な歴史の画期のために」採用された、とされていた。(注04)
 レーニンは、混合経済を通じて社会主義へと前進するための、長い期間の政策綱領だと、NEP を見ていた。
 資本主義への回帰を許すかもしれないとの危惧に対応して、彼は、国家が「経済の管制高地(例えば、鉄鋼、石炭、鉄道)を掌握しているあいだは、消費者の需要を充たす小規模の私的な農業、取引、手工芸品を許容しても危険はない」と主張した。//
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 (04) 内戦から出現した党にとって、これは、内戦が目指したものとは急進的に異なる革命の見方だった。
 戦時共産主義は、私的取引の兆候の全てを根絶することで、すみやかに共産主義に到達する、と約束していた。
 ロシアのような後進的な農民国家では、ボルシェヴィキが先進的な産業諸国家との間隙を埋める方策として、国家による強制—民衆の労働部隊加入への強要—に手を伸ばすのは簡単だった。
 しかし、NEP は、革命の目標地点まで—ブハーリンが述べたように「農民の荷車で」—ゆっくりと進むことを意味した。
 NEP の緩慢な速さは、深刻な関心を生み出した。
 革命が前進する勢いを全て失ったなら、いったいどうなるのだ?
 鈍化して、無気力が入り込むのを許したなら?
 まだ支配的で一般党員を誘い込む怖れのある、旧社会のブルジョア的習慣と心性に屈服させるのではないか?
 革命の基盤が、内部の敵—「クラク」とプチ資本家—によって、彼らが私的取引で富裕になるとき、掘り崩されるのではないか?
 資本主義諸国との戦争が勃発するとしたなら、国は自衛するに十分に早く工業化するのだろうか?//
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 第一節・第二節、終わり。第三節以下に、つづく。

2560/左翼人士—参院選前に共産党に期待する53名。

 2022年6月7日(火)の「しんぶん赤旗電子版」。
 「共産党躍進に期待します」というメッセージを「各界著名53氏」が寄せている。
 もちろんこの中にれっきとした党員はいるだろう。
 証明はできないが、浜矩子、甲斐道太郎はそうではないか。
 近年の常連の内田樹は、いつかその主張を書物等で読んで、分析してみたい。
 それにしても、例えば1970年代、1980年代と比べて、共産党支持・推薦の「各界著名」人は<小粒>になったものだ
 松本清張、水上勉もかつてはいた(下に出てくる窪島誠一郎は実子)。有馬頼義の名もあったような気がする。
 国民的映画監督の山田洋次の名が、いつの間にか消えている。
 もっと前は、芦川いづみという女優の名があったかもしれない。
 演劇界の大物、滝沢修や杉村春子の名もあった。
 下に出てくる「日蓮宗本立寺」や「真言宗泉蔵院」というのは何処にあるのか知らないが、かつては京都・清水寺の老「貫主」の名もあった。
 選挙前のこうした報道や選挙用冊子・ビラで日本共産党「応援団」の氏名をたどっていくと、この政党の「栄枯盛衰」もある程度分かるかもしれない。
 ついでながら、白井聡が名を出しているのは、どういう「趣味」だろう。レーニン主義者、反・反共主義者だから不思議ではないが、名を出せるほどの人物なのか。
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 嵐圭史(俳優)、安斎育郎(立命館大学名誉教授)、池田香代子(翻訳家)、池辺晋一郎(作曲家)、石川文洋(報道写真家)、井上麻矢(こまつ座 代表取締役)、いまむらいづみ(女優)、鵜澤秀行(俳優)、内田樹(神戸女学院大学名誉教授)、宇都宮健児(弁護士、日本弁護士連合会元会長)、浦添嘉徳(日本勤労者山岳連盟会長)、遠藤教温(日蓮宗本立寺住職)、大野晃(スポーツジャーナリスト)、大原穣子(方言指導)、岡崎晃(日本キリスト教団牧師)、岡野八代(同志社大学教員)、小川典子(ピアニスト)、奥田靖二(淺川金刀比羅神社宮司)、尾畑文正(真宗大谷派僧侶)、甲斐道太郎(大阪市立大学名誉教授)、北村公秀(真言宗泉蔵院住職)、清末愛砂(室蘭工業大学教授)、窪島誠一郎(作家)、古謝美佐子(沖縄民謡歌手)、小林秀一(プロボクシング元日本チャンピオン)、小松泰信(岡山大学名誉教授)、沢田昭二(名古屋大学名誉教授)、ジェームス三木(脚本家)、島田雅彦(作家)、白井聡(政治学者)、鈴木宣弘(東京大学教授)、鈴木瑞穂(俳優)、高口里純(漫画家)、竹澤團七(文楽三味線奏者)、立川談四楼(落語家)、立川談之助(落語家、立川流真打)、土橋亨(映画監督)、中原道夫(詩人、日本ペンクラブ会員)、西川信廣(演出家)、浜矩子(同志社大学教授)、二見伸明(元公明党副委員長)、堀尾輝久(東京大学名誉教授)、本田由紀(東京大学教授)、本間愼(元フェリス女学院大学長、東京農工大学名誉教授)、前田哲男(ジャーナリスト)、増田善信(気象学者)、松井朝子(パントマイミスト)、松野迅(ヴァイオリニスト)、松元ヒロ(コメディアン)、松本由理子(ちひろ美術館・東京元副館長)、山崎龍明(浄土真宗本願寺派僧侶)、山中恒(作家)、山家悠紀夫(暮らしと経済研究室主宰)。
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2559/O.ファイジズ・スターリンによる継承②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第8章の試訳の続き。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
 第二節。
 (01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
 遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
 三人組は、そのように取り計らった。
 トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
 彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
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 (02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
 10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
 1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
 だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
 彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
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 (03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
 前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
 トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
 党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
 自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
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 (04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
 総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
 いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
 トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
 左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
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 (05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
 スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
 トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
 レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
 実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
 その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
 トロツキーは、抵抗することができなかった。
 敗北した人間として、党大会を去った。//
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 (06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
 彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
 彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
 このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
 二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
 分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
 しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
 Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
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 (07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
 正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
 レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
 彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
 スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
 しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
 スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
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 第三節
 (01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
 レーニン記念碑が、至るところに建立された。
 指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
 レーニンは人間として死に、神として生まれた。
 レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
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 (02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
 「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
 三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
 このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
 レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
 その思想は、しばしば矛盾していた。
 聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
 スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
 しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
 党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
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 (03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
 しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
 レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
 レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
 一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
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 (04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
 脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
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 (05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
 スターリンは権力を握っていただろうか?
 革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
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 (06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
 党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
 レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
 政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
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 (07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
 レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
 彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
 1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
 レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
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 (08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
 レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
 NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
 さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
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 第8章、終わり。

2558/O.ファイジズ・スターリンによる継承①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著の邦訳書は、ない。
 そのうち、第8章の試訳。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
 第一節。
 (01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
 だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
 その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
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 (02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
 彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
 彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
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 (03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
 トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
 赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
 しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
 トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
 彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
 彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
 政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
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 (04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
 彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
 スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
 秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
 彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
 トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
 「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
 政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
 考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
 党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
 党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
 レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
 スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
 これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
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 (05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
 書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
 1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
 彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
 スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
 彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
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 (06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
 三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
 カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
 ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
 しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
 二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
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 (07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
 彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
 しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
 スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
 車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
 彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
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 (08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
 レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
 この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
 レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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 (09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
 中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
 スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
 赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
 レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
 彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
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 (10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
 ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
 レーニンが、介入した。
 彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
 レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
 大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
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 (11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
 ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
 政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
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 (12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
 彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
 こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
 レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
 さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
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 (13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
 レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
 カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
 ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
 トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
 だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
 「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
 私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
 レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
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 (14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
 スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
 レーニンはこの事件を知って、荒れた。
 彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
 権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
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 (15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
 三日後、彼は三回めの発作を起こした。
 言語能力が失われた。
 10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
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 第8章第一節、終わり。

2557/「前衛」上の日本共産党員⑯—2013年9月号。

 既述のように、日本共産党中央委員会理論政治誌である月刊誌『前衛』に執筆しているのは、この党の議員・職員等であることが明記されていなくとも、余程の特別の事情のないかぎり、明確に党員だと見られる。非党員がこの性格の雑誌に執筆できるはずは、余程の例外を除き、あり得ないだろう。
 「青木 理」もまた、党員だと思われる。例外に当たらない。No.1627/2017.07.06参照。
 以下は、『前衛』2013年9月号による。正確には、この時点についての推定にはなる。
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 松宮 輝(火ヘン)/産業技術研究所—原発ゼロ社会。
 山田 朗/明治大学教授—政界の歴史修正主義。
 林 博史/関東学院大学教授—安倍・橋下の慰安婦発言。
 久保田 貢/愛知県立大学准教授—歴史認識・太平洋戦争。
 羽淵三良/映画評論家—反戦・平和映画の伝統。
 佐藤哲之/弁護士—全国B型肝炎訴訟。
 米沢 哲/日本医労連中央執行委員—介護。
 山﨑龍明/武蔵野大学教授・寺院前住職—核・原発等。
 ——
 以上。
 この号ではまだ、不破哲三の連載が続いていた。

2556/池田信夫ブログ029—民放テレビ局。

  「民放連」、日本民間放送連盟、とは、いわゆる地方民放局を含む200社以上で構成される団体(一般社団法人)だ。

 民放、とくにそのテレビ放送は実質的には広告宣伝事業体で、その収益で諸番組を作っている。「報道」番組はオマケのようなものだろう。全てをスポンサーが負担しているからこそ、一般視聴者は無料で観ることができる。せいぜい、娯楽・エンタメ産業の一つか。

 にもかかわらず、キー局・ローカル局を問わず、社員というだけで、少なくとも何らかの自前の番組の作成・編成に加わっている(または加わったことがある)というだけで、自分は「ジャーナリスト」の端くれだと思っている(いた)者もいるだろう。

 そして、ジャーナリストやマスメディアの使命は第一に政府に批判的な立場に立つことだと思い込む者もいて、「野党」または「左翼」的心情を明確にする者もいるに違いない。

 また、自分と同業者だと思うのか、地方民放社員の中にも、元NHKのかつての田英夫とか、現在の長妻昭あたりを心情的に応援したりする者も出てくることになる。
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  その民放全体または民放連については、池田信夫が何回かブログ発言をしていて、現在までの戦後日本の重要な「構造」の一つを作ってきたのは民放全体または民放連だ、ということを強く感じさせる。

 親の?大手新聞社との強い関係やキー局ごとのローカル局との不可分の関係は、おそらく相当に日本に独特な、または日本だけの現象だろう。ローカル民放局のほとんどの収益は中央での広告宣伝を各地方(かなり多くは県単位)の電波に乗せた分け前に違いない。放送事業以外の事業も行ってはいるだろうけれども。

 池田信夫ブログから、民放・民放連に触れているものを、以下に一部割愛で紹介しておく。池田は、かつて報道関係の仕事もしていたNHKの職員だった。
 
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 三 1 2018年5月13日。Agora。
 「次世代の無線『5G』についての話題がいろいろ出ているが、今ひとつ盛り上がらない」。

 「だがアメリカやEUでは、今の携帯端末と同じUHF帯に5Gを導入する計画が始まっている」。
 「日本では、UHF帯は大幅に余っている。テレビ局の使っていないホワイトスペースの200MHzを区画整理すれば、5Gで日本は世界のトップランナーになれる可能性もある。」

 「日本の地上デジタル放送は欧米と違って既存の放送局が立ち退く必要がないので、一足先に電波の再編ができる。これが競争力の落ちた日本の半導体メーカーが挽回する最後のチャンスだが、民放連がそれを妨害している。」

 「UHF帯の価値は時価2兆円。これを効率的に配分できれば、テレビ業界の既得権なんか大した問題ではない。『立ち退き料』として1000億円ぐらい払ってもいいし、ホワイトスペースの一部を優先的に使う権利を与えてもいい。総務省も、ITUが動き始めたら動くだろう。」
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 2 2019年3月17日。Agora。

 原英史・岩盤規制(新潮新書、2019)

 「望月衣塑子記者は、マスコミの特権意識を象徴する道化である」。

 「彼女がトンチンカンな質問を繰り返しても首相官邸に入れてもらえるのは記者クラブに加盟する東京新聞の記者だからであり、フリーランスだったらとっくに出入禁止だ。」

 「本書に書かれている去年の規制改革推進会議でも、最強の『岩盤』はマスコミだった。今まで聖域になっていた電波利権に安倍政権が手をつけたのはよかったが、電波オークションを恐れた放送・新聞業界が反対キャンペーンを繰り広げ、出てきたのは電波利用料だけだった。

 このとき読売新聞から朝日新聞までそろって展開した『放送法4条』騒動は、意味不明のキャンペーンだった。放送局に政治的公平性を義務づける4条の規定は表現の自由を侵害するので撤廃しろというならわかるが、それをなくすなというのはわけがわからない。ケーブルテレビや通信衛星で多チャンネル化した先進国では、とっくにコンテンツ規制は撤廃されている。

 本書によると、規制改革推進会議の最初の段階で、放送が多チャンネル化すると4条の規制もいらなくなるという議論が出たという。これは当たり前の話だが、マスコミは多チャンネル化には反対できないので、それと一体になっている4条の話だけつまみ食いして『偏向報道が出てくる』と騒いだのだ。」

 「電波オークションは、実は大した問題ではない」。「それよりテレビ局の占有しているUHF帯の大きな帯域を5Gに使う配分方法を考えたほうがいい、と私は規制改革推進会議で提言したのだが、マスコミは(産経を除いて)まったく報道しなかった」。

 「こういう情報操作が可能なのは、日本ではいまだに新聞と放送が系列化され、彼らがケーブルや衛星などの新規参入を阻んできたからだ。アメリカのようにケーブルが何百局もあると、記者クラブのような情報カルテルは組めないし、EUでは衛星放送が国境を超えているので、コンテンツは規制できない。

 こういう状況を日本でも変えたのがインターネットだが、放送局は地デジで垂直統合モデルを守り、著作権法を変えてインターネット放送を阻止した。いまだに地デジのネット配信は、県域ごとに権利者の許可が必要という信じられない状況だ。」

 「民主党政権のとき、彼らも電波利権に手をつけようとしたのだが、そのほとんど唯一の成果だったオークション(電波法改正)も、官僚のサボタージュでいまだに実現してない。それを報道するメディアがないので、規制改革のとっかかりもない。

 規制改革をつぶすとき張り切ったのは民放連だった
 私の発言を議事録から削除させた政治部の記者は、問題をまるで理解していない。技術者は理解しているが、決定権がない。

 こんなことをして既得権を守っても、マスコミはゆるやかに死ぬだけだ。20年前からこの問題とつきあってきた私の印象では、正直いって『バカは死ななきゃ直らない』というしかない。」

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  NHKはどうだかよく知らないが、<民放>をめぐる闇は深そうだ。それに繋がるものを、彼ら自身が報道するはずはない。

 改革者・変革者ではなく、既得権益にあぐらをかいてそれを守ろうとし(高収入も?)、非正規社員や下請け会社に負担をかけて、<おれたちジャーナリストは…>と内心威張っているふうの正規社員たちの姿が浮かんできそうだ。

 池田信夫の言及はまだ多数あるが、今回は二つだけにして、以下に続ける。

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2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
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 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
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 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
 ——
 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
 ——
 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
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 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
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 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
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 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
 ----
 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
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 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
 ——
 第7章、終わり。

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
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 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
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 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
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 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
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 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
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 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
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 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
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 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
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 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
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 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
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 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
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 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
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 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
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 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
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 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
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 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
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 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
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 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
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 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
 ——
 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
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 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
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 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
 ——
 第五節以下へ、つづく。

2553/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑨。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。最後の第六節。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第六節。
 (01) 飢饉の16周年にあたる1993年の秋は、これまでとは違っていた。
 二年前に、ウクライナは初代の大統領を選出し、圧倒的に独立賛成を票決した。
 政府がつづいて新しい統合条約に署名するのを拒んだことは、ソヴィエト同盟の解体を早めた。
 ウクライナ共産党は、権力を放棄する前の最後の記憶に残ることとして、1932-33年飢饉の責任は「スターリンとその親しい側近が追求した犯罪過程」にあるとする決議を採択した。(注73) 
 Drach とOliinyk は他の知識人たちと合同してRukh という独立の政党を創立した。これは、1930年代初め以降で初めて民族運動を合法的に宣明したものだった。
 歴史上初めて、ウクライナは主権国家となり、それとして世界のほとんどから承認された。//
 ----
 (02) ウクライナは主権国家として、1993年の秋までに、自らの歴史を自由に議論し、記念した。 
 入り混じった動機から、以前の共産主義者と以前の反対派はみんな、熱心に語った。
 Kyiv では、政府が一連の公的な行事を組織した。
 9月9日、副首相は学者の会議を開き、飢饉を記念することの政治的な意義を強調した。
 彼は聴衆にこう言った。「独立したウクライナだけが、あのような悲劇がもう二度と繰り返されないことを保障することができる」。
 それまでにウクライナで広く知られて尊敬されていた人物のJames Mace も、その場にいた。
 彼もまた、政治的結論を導き出していた。「この記念行事が、ウクライナ人が政治的混乱と隣国への政治的依存の危険性を思い出す助けとなることを、希望したい」。
 従前の共産党政治局員である大統領のLeonid Kravchuk も、こう語った。
 「統治の民主主義的形態は、あのような災難から人々を守る。
 かりに独立を失えば、我々は永久に、経済的、政治的、文化的にはるかに立ち遅れることを余儀なくされるだろう。
 最も重要なことは、そうなってしまえば、我々はいつも、わが歴史上のあの恐ろしい時代を繰り返す可能性に直面するだろう、ということだ。外国勢力によって計画された飢饉も含めて。」(注74)//
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 (03) Rukh の指導者のIvan Drach は、飢饉の意義をより広範囲に承認することを呼びかけた。彼は、ロシア人が「悔い改める」こと、罪責を承認するドイツ人の例に倣うこと、を要求した。
 彼は直接にホロコーストに言及し、ユダヤ人は「全世界にその罪を彼らの前で認めるように迫った」ととくに述べた。
 全てのウクライナ人が犠牲者だったと彼は主張しなかったけれども—「ボルシェヴィキ略奪者はウクライナで、ウクライナ人も動員した」—、ナショナリスト的響きを強調した。
 「ウクライナ人の意識を統合する部分になっている第一の教訓は、ロシアは、ウクライナというnation の全面的な破壊にしか関心を持ってこなかったし、今後も持たないだろう、ということだ。」(注75)//
 ----
 (04) 儀式は、週末までつづいた。
 黒く長い旗が、政府の建物から垂らされた。
 数千の人々が記念行事のために、聖ソフィア大聖堂の外側に集まった。
 だが、最も感動的な儀式は、自発的なものだった。
 多数の人々が、Kyiv の中央大通りであるKhreshchatyk に集まった。その通り沿いの三ヶ所に設置された掲示板に、彼らは個人的な文書や写真を載せていた。
 祭壇が一つ、途中に設置されていた。
 訪問者たちは、そのそばに、花やパンを残した。
 ウクライナじゅうからやって来た市民指導者や政治家たちは、新しい記念碑の脚元に花輪を置いた。
 何人かの人々は、土を入れた壺を持ってきた。—飢饉犠牲者たちの巨大な墓地から取ってきた土壌だった。(注76)//
 ----
 (05) そこにいた人々には、その瞬間は確実なものと感じられただろう。
 飢饉は公的に承認され、記憶された。
 それ以上だった。ロシア帝国による植民地化の数世紀後に、ソヴィエトによる抑圧の数十年後に、主権あるウクライナで、飢饉の存在が承認され、記憶された。
 良かれ悪しかれ、飢饉の物語はウクライナの政治と現代文化の一部になった。
 子どもたちは、今では学校でそれを勉強することになる。
 学者たちは公文書館で、物語全体の資料を集めることになる。
 記念碑が建てられ、書物が発行されることになる。
 理解、解釈、許容、論述、そして哀悼の長い過程が、まさに始まろうとしていた。//
 ——
 第15章全体が、終わり。

2552/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑧。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第五節。
 (01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
 ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
 しかし、数字は虚偽ではなかった。
 数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
 調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
 爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
 数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
 政府は、危険を十分に知っていた。
 ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
 Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
 ----
 (02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
 彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
 ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
 悪い決定がなされた。
 タービン検査は間違っていた。
 原子炉は、溶解していた。
 ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
 Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
 公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
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 (03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
 Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
 ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
 より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
 事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
 字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
 この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
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 (04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
 6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
 彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
 Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
 今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。 
 Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
 彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
 「若い世代は何故、我々から離れたのか?
 我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
 我々は欺瞞に慣れてきた。…
 1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
 党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
 「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
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 (05) しかし、後戻りはできなかった。
 Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
 事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
 Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
 他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
 本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
 Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
 Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
 そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
 「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
 数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
 同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
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 (06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
 1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。 
 Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
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 (07) 他の者たちもつづいた。 
 スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
 1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
 彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
 「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
 そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
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 (08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
 困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
 Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
 委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
 それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
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 (09) 結果は、予期しないものだった。
 学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。 
 政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
 欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
 「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
 飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
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 第15章第五節、終わり。

2551/孤独死と「直葬」。

  「おひとりさま」の、だろうか、「孤独死」という言葉を、数年くらい前に聞いた。
 孤独死とは何だろう。誰でも死ぬときは—大量一斉処刑とか突然の事故・自然災害による場合は別として—一個体として一人で死んでいくのだろうから、その意味ではほとんど全てが「孤独死」だ。
 死ぬとき、いわゆる息を引き取る瞬間に、周りに誰一人存在しないことを意味するのだろうか。
 しかし、そのようなことは、病院の病室でも起こり得る。あとで報告を受けた家族・遺族があわてて駆けつけて来る、ということもあり得る。
 おそらくは、死ぬ瞬間に、その人の死を気にかけている家族・親族あるいは「身寄り」が一人もおらず、また、病院に運び込まれたときはまだ生きていても周囲にいるのは家族・親族あるいは「身寄り」ではなく医療関係者だけ、という場合を意味するのだろう。
 たしかに、高齢化、後期高齢者の増加と親子・家族・親族関係の疎遠化にともなって、「統計」はきっと存在しないだろうが、「孤独死」の数は増えているだろう。
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  近年でのテレビでの宣伝広告の特徴の一つは、<葬儀場>または<葬儀運営業>や<葬儀保険>の宣伝が目立ってきたことだろう。「縁起が悪い」と感じられたのか、以前はそのような業種・商品の宣伝は全くなかったように思われる。
 さて、「孤独死」の場合の葬儀はどうなるのか。
 「一番小さな家族葬」という言葉があるようだが、死ぬときは「孤独死」であっても、「一番小さな家族葬」でも行われるということは、その死者は本当に「孤独」ではなかったのだろう。
 「一番小さな家族葬」の中の最も小さいものにも該当しない「直葬」というものも、「葬儀」概念の問題だが、ある人によると、「葬儀」の種類の一つだ。あるいは、「葬式はいらない」とか言う場合の「葬式」には「直葬」は含まれないのかもしれない。
 「直葬」概念またはそれを選択するかどうかは、正確には、家族・親族あるいは「身寄り」の有無とは関係がない。
 遺体・死体に対して何の葬礼も行わず、直接に火葬場に運び、骨にしてしまう、というのを「直葬」は意味するからだ。親族・「身寄り」が同意し、同行している場合もあり得るだろう。
 葬儀の仕方・種類はそのあとの「納骨」等々までの仕方・種類まで決めてしまうものなのか。
 全くの身元不明者の場合、所管市町村がその費用で「直葬」したとして、「納骨」はどうするのだろう。知識がない。提携?している寺院があって、その経営する墓地の無名者墓に入れるのだろうか。だがそうすると、その際にその仏教式の「読経」くらいはなされるようにも推測され、そうすると、「納骨」の段階でようやく「葬礼」がなされることになるのか。いや、<政教分離>の今では、市町村と寺院との提携?自体が許容されないのかもしれない。
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  しかしながら、葬儀も納骨も生者がすることであり、死者に関係はあっても死者自身が葬儀等がどのように行われているかを、知ることはできない。
 詳細に遺言しておけば、通常の、または正常な遺族・「身寄り」はおそらくそれに従うだろうが、遺言のとおりに行われる保証はない。「死後事務委任契約」を弁護士等を職業とする者と締結しておけば、保証される程度は高くなるだろう。
 だが、しかし、死んでしまっていれば、それを確認することはできないのは、当然のことだ。
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2550/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節②。
 (10) 注目した全ての者が肯定的なのではなかった。多くの専門的雑誌は、Conquest 著を全く書評しなかった。
 一方で、何人かの北米の歴史家は、Conquest を政治的右翼の一員であるとともにソヴィエト史のより伝統的な学派の代表者だと見なし、この書物をあからさまに非難した。
 J, Arch Getty は〈London Review of Books〉で、Conquest の見方は保守的シンクタンクのアメリカの起業(Enterprize)研究所から助成を受けていると不満を述べ、「西側にいるウクライナ人エミグレ」と結びついているがゆえに、彼の根拠資料を「パルチザン的」だとして否定した。
 Getty はこう結論した。「その言う『悪の帝国』とともにある今日の保守的な政治的雰囲気の中では、この本は確実に人気を博するだろう」。
 当時、今のように、ウクライナに関する歴史的議論は、アメリカの国内政治によって形づくられていた。
 飢饉の研究がそもそもなぜ「右翼」か「左翼」のいずれかだと考えられるべきなのかについての客観的な理由は存在しないけれども、冷戦時代の学界政治によれば、ソヴィエトの悪業について書くどの学者も、簡単に色眼鏡でもって見られる、ということを意味した。(注56)//
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 (11) 〈悲しみの収穫〉はやがて、ウクライナ自体の内部で反響を見出すことになる。当局はこの書物の流入を阻止しようとしたけれども。
 Harvard の研究企画(project)が1981年に開始されたのとちょうど同じ頃、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に関する国連使節団の代表たちが大学を訪問して、ウクライナ研究所がその企画を断念するように求めた。
 その代わりとして研究所に提示されたのは、当時としては稀少なことだったが、ソヴィエトの公文書資料の利用だった。
 Harvard 大学は、拒否した。 
 Conquest 著の要約版がトロントの〈Globe and Mail〉に掲載されたあとで、ソヴィエト大使館の第一書記が編集者に対して、怒りの手紙を書き送った。
 その第一書記は、こう出張した。そのとおり、ある程度の者たちは飢えた、彼らはしかし、旱魃とクラクによる妨害の犠牲者だった。(注57)
 いったん書物が出版されると、それをウクライナ人から隠し通すことは不可能だった。
 1986年の秋に、アメリカが後援し、München に基地局のある自由ラジオ(Radio Liberty)で、その書物の内容はソ連内部のリスナーに向けて朗読された。//
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 (12) より手の込んだソヴィエトの反応が、1987年に届いた。〈欺瞞、飢饉とファシズム—ウクライナ・ジェノサイド、ヒトラーからハーヴァードへの神話〉の刊行によって。
 表向きの著者のDouglas Tottle は、カナダの労働活動家だった。
 彼の書物は、飢饉はウクライナのファシストと西側の反ソヴィエト集団によって考案され、プロパガンダされた悪ふざけ(hoax)だと叙述した。 
 Tottle は悪天候と集団化後の混乱が食料不足の原因となったことを承認したけれども、悪意のある国家が飢餓の拡大に何らかの役割を果たしたことを認めるのを拒んだ。
 彼の書物は、ウクライナ飢饉を「神話」だと書いたのみならず、それに関する全ての説明資料は定義上、ナツィによるプロパガンダで成っている、と論じた。
 Tottle の書物は、とりわけ、つぎのように断定した。
 ウクライナ人離散者たちは全員が「ナツィス」だ。飢饉関係の書物や論文集は、西側の情報機関とも結びついた、反ソヴィエトのナツィ・プロパガンダだ。Havard 大学は長く反共産主義の調査、研究、教育の中心で、CIAと連結している。飢饉についてMalcolm Muggeridge が書いたものは、ナツィがそれを利用したがゆえに、道徳的に腐敗している。Muggeridge 自身が、イギリスの工作員だ。(注58)//
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 (13) モスクワとKyiv の両方にある党史研究所は、Tottle の原稿作成を助けた。
 修正や説明のために、未署名の草稿が彼と二つの研究所のあいだを行き来した。
 ソヴィエトの外交部は書物の刊行と進行を支持し、可能な場所ではそれを促進した。(注59)
 やがてその書物は、少数者を惹きつけた。1988年1月に、〈Village Voice〉は「ソヴィエトのホロコーストの探求。55年前の飢饉が右翼に栄養を与える」という記事を掲載した。これはTottle の著作を無批判に用いていた。(注60)//
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 (14) 遡ってみると、Tottle の書物は、ほとんど30年後に何がやってくるかを示す先駆けとして重要だった。
 その中心にある主張は、ウクライナ「ナショナリズム」とファシズムおよびアメリカとイギリスの情報機関との間の連結という想定を基礎にしていた。—ウクライナでのソヴィエトの抑圧やウクライナの独立または主権に関する議論の全てはウクライナ「ナショナリズム」と定義された。
 かなりのちに、同じ連結の一体—ウクライナ・ファシズム・CIA—が、ウクライナの独立や2014年の反腐敗運動に対するソヴィエトの情報キャンペーンで用いられることになる。
 まさに現実的意味で、その情報キャンペーンの基礎は1987年に築かれていた。//
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 (15) 〈欺瞞、飢饉とファシズム〉は、当時のソヴィエトの釈明と同様に、1932-33年にウクライナとロシアで一定の飢えがあったことを承服しはするが、大量の飢餓の原因を、「近代化」の要求、クラクの妨害、言うところの悪天候に求めた。
 真実の一端が、最も手の込んだ糊塗活動に結びつけられたのと同様に、虚偽と誇張とにも結合された。 
 Tottle の書物は、当時に1933年のものとされた写真のいくつかは実際には1921年の飢饉の際に撮られたものだ、と正確に指摘した。
 それはまた、1930年代についての間違ったまたは誤解を与える報告があることも、正確に見抜いた。 
 Tottle は最後に正しく、一定のウクライナ人はナツィスに協力した、ナツィスはウクライナ占領中に飢饉に関してきわめて多くのことを書き、話した、と書いた。//
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 (16) こうしたことは1932-32年の悲劇を消失させたのでも、その原因を変更したのでもなかったけれども、飢饉に関して書く者をそもそも傷つけることを意図して、単純に「ナツィ」と「ナショナリスト」の連想が用いられた。
 ある一定範囲では、この策略は有効だった。飢饉についてのウクライナ人の記憶や飢饉に関する歴史研究者に対抗するソヴィエトの情報活動は、不確定性という汚名を残した。
 Hitchens ですら、〈絶望の収穫〉での彼の論述の中で、ウクライナ人のナツィへの協力に言及せざるをえなかった。また、学界の一部はつねに、Conquest の書物を警戒心をもって扱った。(注61)
 公文書を利用することができなかったので、1980年代には、1933年春の飢饉を引き起こした一連の意図的な諸決定について叙述するのは、まだ不可能だった。
 その余波、隠蔽工作または抑圧された1937年統計調査について詳しく叙述することも、不可能だった。//
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 (17) それにもかかわらず、〈絶望の収穫〉と〈悲しみの収穫〉のいずれをも生んだ研究企画は、さらなる影響をもたらした。
 1985年に、アメリカ合衆国議会はウクライナの飢饉を調査研究する超党派の委員会を立ち上げ、Mace を主任調査官に任命した。
 その目的は、「飢饉に関する世界の知識を拡大し、ソヴィエトの飢饉への役割を明らかにすることでアメリカ国民のソヴィエト・システムに関する理解を向上させるために、1932-33年ウクライナ飢饉に関する研究を行う」ことだった。(注62)
 その委員会は、3年かけて報告書と離散者で飢饉からの残存者の口頭および文書による証言録を取りまとまた。これは依然として、これまでに英語で公刊された最大のものだ。
 委員会がその成果を1988年に発表したとき、その結論はソヴィエトの主張とは真っ向から矛盾していた。委員会は、こう結論づけた。
 「つぎのことに疑いはない。ソヴィエト連邦ウクライナと北部コーカサス地方のきわめて多数の住民が、1932-33年の人為的飢饉によって飢えて死んだ。その原因は、ソヴィエト当局による1932年の収穫の剥奪にある。」//
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 (18) 加えて、委員会はこう述べた。
 「『クラクの妨害』に飢饉のあいだの全ての責任があるというソヴィエトの公式の主張は、虚偽である。
 飢饉は、主張されるような旱魃とは関係がなかった。
 飢えている人々が食料をより容易に調達できる地域へと旅行することを禁止する措置がとられた。」
 委員会はまた、こう述べた。
 「1932-33年ウクライナ飢饉は、農村地帯の住民から農業生産物を剥奪することで惹き起こされた」。言い換えると、「悪天候」や「クラクの妨害」によってではなかった。(注63)
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 (19) こうした知見は、Conquest のそれを反映していた。
 それはまたMaceの威厳を立証し、その後の年月に他の研究者たちが利用することのできる、山のような新しい資料を提供した。
 しかし、委員会が1988年に最終報告書を発表したときまでに、ウクライナ飢饉に関する最も重要な議論が、ヨーロッパやアメリカではなく、ウクライナそれ自身の内部でようやく起こり始めていた。//
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 第15章第四節、終わり。

2549/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節①。
 (01) 1980年、飢饉が近づいてから50周年。北アメリカのウクライナ離散者グループは、もう一度行事を催すことを企画した。
 トロントでは、飢饉研究委員会がヨーロッパと北米じゅうの飢饉残存者と目撃者のインタビューを録画し始めた。(注46)
 ニューヨークでは、ウクライナ研究基金が、ウクライナに関する博士論文を執筆した若い学者のJames Mace に、Harvard 大学ウクライナ研究所で大きな研究プロジェクトを立ち上げることを委託した。(注47)
 かつてと同様に、会議が計画され、デモ行進が組織され、ウクライナ教会やシカゴとWinnipeg の集会ホールで集会が開かれた。 
 だが、このときの影響は異なるものになる。
 フランスの共産主義研究者のPierre Rigoulot は、こう書いた。
 「人間の知識は、石工の仕事に応じて規則的に大きくなる壁のレンガのようには集積しない。知識の発展は、そしてその沈滞も、社会的、文化的かつ政治的な枠組みにかかっている。」(注48)
 ウクライナについては、その枠組みが1980年代に変遷し始め、その十年間を通じて変化し続けることになる。//
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 (02) 西側の受け止めの変化は、部分的には、ソヴィエト・ウクライナ内部での事態の助けがあって生じた。この事態はゆっくり発生したものだったが。
 1953年のスターリンの死は、飢饉に関する公式の再評価をもたらさなかった。
 1956年の記念碑的な「秘密演説」で、スターリンの後継者のNikita Khrushchev はソヴィエトの独裁者を取り囲んでいた「個人崇拝」を攻撃し、1937-38年の多数の党指導者たちを含む数十万人の殺害についてスターリンを非難した。
 しかし、Khrushchev は、彼は1939年にウクライナ共産党の長になっていたのだが、飢饉に関しても集団化に関しても沈黙したままだった。
 これらについて語るのを拒否したことは、その年以降の離散知識人にとってすら、農民たちの運命を明確に理解するのは困難であることを意味した。
 上級の党内部者だったRoy Medvedev は1969年に、スターリン主義に関する最初の「異端」歴史書である〈歴史に判断させよ〉で、集団化に論及した。
 Medvedev は、飢餓で死んだ「数万の」農民について叙述した。しかし、自分はほとんど何も知らないことを認めていた。//
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 (03) それにもかかわらず、Khrushchev による「雪解け」は、システムにある程度の裂け目を開けた。
 歴史家は困難な主題に接近することができなかったが、ときにはそうした。
 1962年、ソヴィエトの文芸関係雑誌は、最初の正直なソヴィエト収容所の描写であるSolzhenitsyn の〈Ivan Denisovich の人生の一日〉を掲載した。
 1968年、別の雑誌が、はるかに知名度が小さいロシアの作家のVladimir Tendriakov の短い小説を掲載した。その中で彼は、「郷土から剥奪されて追放され」、地方の町の広場で死んでゆく「ウクライナのクラクたち」についてこう書いた。
 「朝にそこで死者を見るのに慣れてしまった。そして病院の厩務員のAbram は、荷車とともにやって来て、遺体を積み込んだものだ。
 全員が死んだのではない。
 多くの者は、汚い、むさ苦しい路地をさまよった。象のように、血流がなくて青くなった、水腫の浮いた脚を引き摺りながら。そして、通行人全てから小突かれ、犬のような眼で物乞いをしながら。」(注49)//
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 (04) ウクライナ自体の中では、スターリン主義に対する知識人や文芸関係者の拒絶は顕著にnational な傾向を帯びた。
 1950年代遅くおよび1960年代初頭の抑圧が少なくなった雰囲気の中で、ウクライナの知識人たちは—Kyiv、Kharkiv で、そして、以前はポーランド領土で1939年にソヴィエト・ウクライナに編入されていたLiviv で—、もう一度出会い、書き、national な再覚醒の可能性について議論し始めた。
 多くの者たちは、ウクライナ語で子どもたちに教えた基礎学校で教育されていた。また、自分たちの国の「選択し得る」歴史の見方を両親や祖父母から聞いて成長していた。
 ある者たちは、ウクライナの言語、文学、そしてロシアの歴史とは区別されるウクライナの歴史を普及させることを公然と語り始めた。//
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 (05) こうしたnational identity の影を蘇生させようとする静かな試みに、モスクワは警戒心をもった。
 1961年に、7名のウクライナ人学者が逮捕され、Liviv で裁判を受けた。その中には、Stepan Virun もいた。この人物は、「ナショナリズム追及と数百の党員や文化人の壊滅に伴った不公正な抑圧」を批判する冊子を書くのを助けていた。(注50)
 別の二十数人は、1966年にKyiv で裁判を受けた。
 種々の「犯罪」の中で、ある者は「反ソヴィエト」の詩を含む書物を所有しているとして訴追された。
 その書物は著者名なしで印刷されていたので、警察は、Taras Shevchenko の作品だと見分けることができなかった(当時は彼の著作は完全に合法だった)。(注51)
 ウクライナ共産党の指導者のShelest は、こうした逮捕を主導した。1973年に第一書紀の地位を失ったあと、彼もつぎのような理由で攻撃されたけれども。
 〈O Ukraine, Our Soviet Land〉は、「ウクライナの過去、その十月以前の歴史に長い頁数を与えすぎており、一方で、偉大な十月の勝利、社会主義を建設する闘いのような画期的な出来事を適切に称賛していない」。
 この書物は発禁となった。そして、Shelest は、1991年まで名誉を剥奪されたままだった。(注52)。
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 (06) しかし、1970年代までに、ソヴィエト連邦はもうかつてのように世界から切断されてはおらず、このときの逮捕をめぐっては反響を呼んだ。
 ウクライナの収監者たちは、自分たちの事案に関するニュースを密かにKyiv へと送った。
 Kyiv にいる反対派たちは、自由ラジオ(Radio Liberty)またはBBCと接触する仕方を学んでいた。
 1971年までに、相当に多くの資料がソ連から漏れ出していたので、ウクライナでの証言類を収集した編集本を出版するのは可能だった。その中には、受刑中のウクライナ民族活動家の情熱的な証言録もあった。
 1974年、反対派たちは、集団化と1932-33年飢饉に関する数頁を含む地下雑誌を発行した。
 この雑誌の英語への翻訳版も、〈ソヴィエト連邦でのウクライナ人の民族浄化(Ethnocide)〉という表題で刊行された、(注53)
 西側のソヴィエト観察者や分析者は、ウクライナの反対派は別個の明確な一体の不満をもっていることを徐々に知るようになった。
 1979年にソヴィエトがアフガニスタンを侵攻したこと、1981年にRonald Reagan が大統領に選出されたことは、突如としてデタントの時代を終わらせ、西側の諸国民の相当に広い部分も、ソヴィエトによる抑圧の歴史に改めて注目することになった。その抑圧には、ウクライナ内部でのそれも、含まれている。//
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 (07) 1980年代初頭までに、ウクライナ離散者たちも、変化した。
 以前よりも社会の中核に昇り、財政力も大きくなり—ウクライナ人社会の構成員はもはや貧しい逃亡者ではなく、北アメリカとヨーロッパの中間層の確固たるメンバーだった—、離散者組織は、以前よりも内容のある企画を財政援助することができた。また、散在している資料を書物や映像に変えることもできた。
 カナダでのインタビュー企画は、大きな記録映画(documentary)へと発展した。
 〈絶望の収穫(Harvest of Despair)〉は映画祭で受賞し、1985年春にカナダの公共テレビで放映された。//
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 (08) 合衆国では、この映像を放送しようとしない公共の放送機関の当初の姿勢が、論争の対象になった。—彼らは「右翼」すぎると恐れたのだ。
 PBS は1986年9月についに、「最前線部隊」の特別版として、この映画を放送した。この番組は保守派のコラムニストで〈Natinal Review〉の編集者のWilliam Buckley によって生まれ、彼と歴史家のRobert Conquest、〈New York Times〉のHarrison Salisbury、当時は〈Nation〉のChristopher Hitchens の間の討議の放映が続いた。
 討議の多くは、飢饉それ自体とは関係がなかった。 
 Hitchens は、ウクライナの反ユダヤ主義という論点を提起した。 
 Salisbury は、彼の発言のほとんどで、Duranty〔1884-1957、〈New York Times〉の元モスクワ支局長—試訳者〕に注目した。
 しかし、論評と記事の連続した波がその後に続いた。//
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 (09) より強い関心の大波を生じさせたのは、Conquest 著の〈悲しみの収穫〉(Harvest of Sorrow)だった。これは、数ヶ月後に出版された、Harvard 大学の映像化企画の最も目に見える成果だった。
 この書物は(本書のように)、Harvard ウクライナ研究所の協力を得て執筆された。
 Conquest には、今日では利用できる公文書資料がなかった。
 しかし彼は、Mace と一緒に、存在している情報源—ソヴィエトの公式文書や離散者の中の生き残った人々の口頭証言—を総合して構成した。 
 〈悲しみの収穫〉は1986年に出版され、イギリスとアメリカの全ての大手の新聞や多くの学会誌で書評された。—当時は、ウクライナに関する書物としては先例のないことだった。
 多くの書評者は、このような恐るべき悲劇についてはほとんど何も知らなかった、という驚きを表明していた。
 〈The Times のLiterary Supplement〉で、ソヴィエトの学者のGeoffrey Hosking は、「数年以上を使ってこれだけの資料が積み重ねられた。ほとんどはイギリスの図書館で完全に利用できる」と衝撃を受けた。
 「ほとんど信じ難いことだが、Conquest 博士の書物は、一世紀全体を通じて、最悪の人為的な恐怖の一つと評価しなければならないものの最初の歴史的研究書だ」。
 Frank Sysyn は簡潔にこう述べた。「ウクライナに関するどの書物も、これほど広汎な注目を浴びなかった」。(注55)
 ——
 第四節②へと、つづく。

2548/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章第三節の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第三節②。
 (07) Pidhainy はカナダで、ロシア共産主義によるテロル犠牲者(Victims of Russian Communist Terror)ウクライナ人協会の設立を始めた。
 また、目立ったエミグレ組織者にもなり、しばしばエミグレ仲間たちに語りかけ、飢饉だけではなくソヴィエト連邦での生活に関する記憶も書きとめておくよう激励した。
 他のエミグレ集団も、同じことをしたか、すでに行なっていた。
 1944年にWinnipeg に設立されたウクライナ文化教育センターは、1947年に回想記録大会を催した。
 第二次大戦に関する資料を収集することを意図していたが、提出された回想録の多くは飢饉に関係しており、やがてそのセンターは豊富な収集物を蓄えることになった。(注38)
 世界じゅうのウクライナ人社会は、München にある離散者新聞による訴えにも反応した。その訴えは、「ウクライナでのボルシェヴィキの専横さを厳しく弾劾するのに役立つ」回想記を求めていた。(注39)//
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 (08) このような努力の結果の一つが、Pidhainy が編集した書物、〈クレムリン黒書〉(The Black Deeds of the Kremlin)だった。
 やがて二巻で構成されて—第一巻は飢饉20周年の1953年に出版された—、〈黒書〉は、飢饉その他のソヴィエト体制の抑圧的側面の分析とともに、数十の回想記を含むことになった。
 執筆者の中には、Sonovyi がいた。
 このときの彼の主張は、英語に要約して翻訳された。
 「飢饉の真実」と題する彼の小論は、あからさまに始まっていた。
 「1932-33年の飢饉は、ロシアによる支配のためにウクライナ反対派の基幹部を破壊しようとするソヴィエト政府によって必要とされた。
 かくして、政治的動機があったのであり、自然が原因の産物ではなかった。」(注40)//
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 (09) 他の人々は、自分自身の体験を記した。
 簡潔で鮮烈な回想記は、死者の素描や写真とともに、長い文字によって過去を思い出させるものだった。
 Poltava の経済学者だったG. Sova は、「私は何回も、穀物、粉末の最後の一オンス、あるいは農民たちが取り去った豆類を見た」と記憶していた。(注41)
 I. Kh-ko は、その父親が家宅探索の際に靴のゲートルの中にいくつかの穀物を何とか隠すことができていたこと、だがそのうちにやはり死んだこと、を叙述した。
 「死体が至るところに散在していたので、父親の遺体を埋めてくれる者はいなかった」。(注42)
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 (10) 編集者たちは〈クレムリン黒書〉を、国じゅうの図書館に送った。
 しかし、カナダでの新聞記事やドイツでの冊子となった〈The Ninth Circle〉と同様に、ほとんどのソヴィエト学者や学界雑誌の主流によって、慎重に無視された。(注43)
 情緒的な農民の回想記と半学問的な小論の混合物では、アメリカの職業的歴史家たちに訴えるところがなかった。
 逆説的にも、冷戦はウクライナ人エミグレたちの行動の助けにならなかった。
 彼らの多くが用いていた言語遣い—「黒い行ない」あるいは「政治的武器としての飢饉」—は、1950年代、1960年代そして1970年代の多くの学者たちにはあまりにも政治的すぎた。
 執筆者たちは、物語を話す「冷戦の闘士」として冷たく拒否された。//
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 (11) ソヴィエト当局が飢饉の物語を積極的に抑圧したことも、不可避的に、西側の歴史家や文筆家に大きな影響を与えた。
 飢饉に関する確固たる情報が完全に欠けていたため、ウクライナ人の主張は少なくとも高度に誇張されたものだ、あるいは信じ難いとすら、感じさせた。
 そんな飢饉があったならば、ソヴィエト政府はそれに対応しようとしただろう?
 自分の国民が飢えているとき、どんな政府も傍観しはしないだろう?//
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 (12) ウクライナ人離散者たちは、ウクライナそれ自体の地位によっても傷つけられた。
 誠実なロシア史研究者に対してすら、「ウクライナ」という観念は、戦争後にはかつて以上に曖昧であるように思えた。
 外国人のほとんどは、ウクライナの短い、革命後の独立の時代があったことを知らなかった。ましてや1919年や1930年の農民蜂起について、知らなかった。
 1933年の逮捕と弾圧のことなど、少しも知らなかった。
 ソヴィエト政府は、その国民はもとより外国人がソヴィエト連邦は単一の統一体だと考えるように仕向けた。
 世界の舞台でのウクライナの公的な代表者は、ソヴィエト同盟の報道官であり、戦後の西側ではウクライナはほとんど一般的にロシアの一つの州だと考えられた。
 自分たちを「ウクライナ人」と呼ぶ人々は、いくぶんか不誠実だと見られることがあり得た。スコットランド人やカタロニア人(Catalan)の活動家がかつて不誠実だと見られたのとかなり似て。//
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 (13) ヨーロッパ、カナダ、アメリカ合衆国のウクライナ人離散者たちは、1970年代までに、自分たちの歴史家や雑誌をもつに十分なほど大きくなり、Harvard 大学のウクライナ研究所やEdmonton にあるAlberta 大学のカナダ・ウクライナ研究所の二つを設置できるほどに裕福になった。
 しかし、こうした努力があっても、歴史学の主流を形成できるほどに強くはならなかった。
 指導的なウクライナ人離散者のFrank Sysyn は、こう書いた。専門分野の「民族化」(ethnicization)で学界のその他の領域から遠ざかったかもしれない、ウクライナの歴史が二次的で価値のない研究対象のように見えるのだから。(注44)
 ナツィによる占領と一定範囲のウクライナ人がナツィスに協力したという記憶もまた、独立ウクライナの擁護者を「ファシスト」と称するのは数十年経ってすら簡単だ、ということを意味した。
 離散したウクライナ人たちが自己一体性(identity)を執拗に強調することすら、多くの北アメリカ人やヨーロッパ人には、「ナショナリスト」的で、ゆえに胡散臭いと思われた。//
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 (14) エミグレたちが「紛れもなく偏見をもつ者」だとして拒否され、彼らの説明は「曖昧な残酷物語」だとして嘲弄される、ということがあり得た。
 「黒書」の編纂はのちに、ソヴィエト史のある有名な研究者によって、学問的価値のない冷戦期の「時代的産物」にすぎないと叙述されることになる。(注45)
 しかし、そのときウクライナ自体で、重要な事態が進展し始めた。//
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 第三節、終わり。

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
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 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
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 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
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 第三節②へとつづく。

2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 試訳のつづき。
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 第15章第二節②。
 (11) 1942-43年に—ウクライナでのナツィの権力の最高時とたまたま一致している—、飢饉後10年を画するために、農民の支持を狙って多数の新聞が資料を刊行した。
 1942年7月、〈Ukrainskiy Khliborob〉という25万人の読者のある農民週刊紙は、「ユダヤ・ボルシェヴィキのいない仕事の年」に関する大きな記事を掲載した。
 「全ての農民が1933年という年をよく憶えている。飢餓が草のように農民たちを刈り取った年だ。
 ソヴィエトは、20年間に豊かな土地を飢餓の土地に変え、その土地で数百万人が死んだ。
 ドイツ軍兵士はこの攻撃を停止させ、農民たちはパンと塩でドイツ兵を歓迎した。ウクライナの農民が自由に仕事ができるように戦う軍の兵士をだ。」(注21)
 別の記事がつづき、何がしかの魅力をもった。
 当時に日記をつけていた一人は、ナツィのプロパガンダはそのいくぶんかは真実だったために大きな影響をもたらした、と記した。
 「我々人民、我々の家屋、畑、床、便所、村役場、我々の教会の廃墟、蠅、汚物を見よ。
 一言でいうと、全てがヨーロッパ人を恐怖心でいっぱいにする。だが、ふつうの人々から距離を置く我々の指導者とその子分たちや現代ヨーロッパの生活水準から無視されている。」(注22)
 Poltava からのある避難者は、占領下での飢饉に関する多数の議論が始まった戦後すぐのインタビューに答えて、語った。
 彼はまた、まるで赤軍が戻ってきたかのように見えた時点で、人々は「さて我々の『赤たち』は何をもたらすのか? 新しい1933年飢饉か?」と問うた、ということを思い出した。(注23)
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 (12) ナツィのプレスの全てと同じく、これらの戦時中の記事は、反ユダヤ主義で満ちていた。
 飢饉は—貧困や弾圧とともに—、繰り返してユダヤ人の責任だとされた。これはむろん以前から流行していた考え方だが、今では占領者のイデオロギーの中を占めていた。
 ある新聞は、ユダヤ人は必要なもの全てをTorgsin 店舗で購入しているので、飢饉を感じていない住民の唯一の部分だ、と書いた。「ユダヤ人には、金もドルもない」。
 別の新聞は、ボルシェヴィズム自体が「ユダヤの産物」だと語った。(注24)
 ある回想者は、戦争中のKyiv での飢饉に関する反ユダヤ・プロパガンダ映画を見せられた、と思い出した。
 それは掘り出された死体の映像を含んでいて、ユダヤ人の秘密警察官の殺害で終わっていた。(注25)//
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 (13) 戦時中のプレスは、とくにナツィのプロパガンダの枠組に適合するよう企画されてはいない飢饉に関する記事を、ごく少数だけ掲載した。
 1942年11月、農業経済学者のS. Sosnovyi は、まさに最初の準学問的研究だったかもしれないものを、Kharkiv の新聞に掲載した。
 Sosnovyi の論考はナツィの特殊用語を使っておらず、起こったことを正直に説明していた。
 彼はこう書いた。飢饉は、ソヴィエト権力に反対するウクライナの農民を破壊することを意図していた、と。
 「自然な原因」の結果ではなかった。「実際に1932年の気候条件は、例えば1920年のときのそれのように異常ではなかった」。
 Sosnovyi はまた、最初に真摯に犠牲者数の概算を示した。
 彼は、1926年と1939年の国勢調査その他のソヴィエトの統計出版物(たぶん知っていただろうが、発禁の1937年国勢調査を含まない)に言及しながら、1932年にウクライナで150万人が、1933年に330万人が、飢餓で死んだ、と結論した。—今日に広く受容されている数字よりも僅かに大きいが、遠く離れてはいなかった。//
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 (14) Sosnovyi はさらに、本当の物語、「選択し得る話」のきわめて多くは事実のあとの10年間なおも生き続けたということを示し、飢饉がどのように発生したかを叙述した。
 「まず彼ら〔ボルシェヴィキ〕は、集団農場の貯蔵所から全てを奪った。—農民が「作業日」(〈trudodni〉)に得た全てのものを。
 ついで彼らは、飼料、種苗を奪い、あらかじめ受け取っていた最後の穀物を農民から奪った。…
 彼らは、撒かれた範囲が狭く、穀物の収穫量は1932年のウクライナでは少ないことを知っていた。
 しかしながら、穀物生産の計画はきわめて高かった。
 これは、飢饉を組織する第一歩ではないか?
 ボルシェヴィキは、調達している間に、極度に少ない穀物しか残っていないことを知った。だが、彼らは全てを運び去り、奪い去った。—これはまさに、飢饉を組織するやり方だ。」(注26)
 同様の思いが、のちに、飢饉はジェノサイド(genocide)だった、nation としてのウクライナ人を破壊する意図的な計画だった、という主張の基盤を形成することになる。
 しかし、1942年では、この言葉はまだ使用されていなかった。そして、こういう観念自体すらが、ナツィ占領下のウクライナにいる誰の関心をも惹かなかった。// 
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 (15) Sosnovyi の論考は淡々として分析的なものだったが、それに付随した詩は、公然とは行えなかった服喪がまだなされていたことの証拠だ。
 Oleksa Veretenchenko が作った「遠い荒廃した北方のどこか」は、1943年を通して〈Nova Ukraina〉に掲載された一連の詩の〈1933年〉の一部だった。
 どの詩も、痛みまたは郷愁の、異なる調子をもっていた。
 「笑いに、何が起きたのか?
 少女たちが真夏の夕べを照らすために用いた焚き火に、いったい何が?
 ウクライナの村民たちはどこにいる?
 そして、家のそばのサクランボはどこに?
 貪欲な炎へと、全てのものが消え失せた。
 母親たちが、その子どもたちを食っている。
 狂った男が、市場で人肉を売っている。」(注27)
 こうした感情の響きの形跡は、人々の家の私的会話でも聞くことができた。
 ソヴィエトとドイツは侵攻に際してウクライナ西部(Galicia、Bukovyna、西部Volhynia)を国のその他の部分と効果的に統合したがゆえに、多数の西部ウクライナ人は、初めて東部へと旅行することができ、そこで見聞したことを記録した。
 飢饉は1933年には広く論じられたけれども、繰り返して語られる飢饉の物語を聞いて、戦時中に中部ウクライナを訪れたBohdan Liubomyrenko には、依然として驚きだった。
 「我々が人々を訪問した至るところで、会話した者は誰もが全て、きわめて恐ろしいこと、彼らが体験した日々について言及した」。
 彼を接遇した者はときどき、「一晩じゅう、彼らの恐怖の体験」を語った。
 「恐怖の時代は、政府が1932-33年にウクライナを満足げに眺める悪魔と一緒に計画した人為的飢饉の時代で、その記憶は人々の中に深く染み込んでいた。
 十年の長さは、殺戮の痕跡を抹消することも、無垢の子どもたちや男女の、飢饉で衰弱して死んでゆく若者たちの、最後のあえぎ声を消散させることも、できなかった。
 悲しみの記憶は、黒いもやのように都市や村落の上になおも掛かっており、飢餓を免れた目撃者たちの間に致命的な恐怖を生んでいる。」(注28)
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 (16) ウクライナ人も、集団化、抵抗、弾圧するために1930年に到来した軍隊について、公然と話し始めた。
 多くの人々には、飢饉の政治的原因は明瞭で、「農民たちが強奪されたこと、全てが没収されたこと、家族には、小さな子どもたちにすら、何も残されなかったこと」を語り、「彼らは全てを没収して、ロシアへと輸出した」と言った。(注29)
 1980年代に、作家のSvetlana Aleksievich はロシアの老人女性に会った。彼女は戦時中にあるウクライナ人女性の側で仕えていた。
 家族全員を飢饉で失った生存者であるその女性は、ロシアの老人に、自分は馬の肥料を食べてようやく生き残った、と言っていた。
 「私は祖国を守りたかった。でも、スターリンを守りたくはない。あの革命の裏切り者は。」(注30)//
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 (17) のちにそうなったのと同様に—また今日でも同様に—、聞いた者全員がこうした物語を信じているわけではなかった。
 ロシアの老人は、彼女の仲間は「敵」か「スパイ」ではないかと懸念した。
 Galicia 出身のウクライナ・ナショナリストですら、国家による飢饉という考えを固く信じるのは困難だと感じた。
 「率直に言って、政府がそんなことをすることができたと信じるのはむつかしいと思った」。(注31)
 スターリンは意図的に人々が飢えて死ぬのを認めたという考えは、スターリンを嫌う者たちにとってすら、あまりにも恐ろしすぎ、あまりにも怪物的だった。//
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 第二節、終わり。


 Applebaum-Faminn02

2545/池田信夫ブログ028—泊原発地裁判決。

 すでに誰かが池田信夫に「助言」しているだろうが、気になるのでこの欄でも記しておく。
 札幌地裁805号法廷2022年5月31日判決について、池田は「泊原発の判決に欠けている『根拠法』」と題して、判決を「どんな法律を根拠とし、誰が北電の原子炉運転を止めるのだろうか」等と批判している。Agora 2022.05.31
 万人が、池田信夫ですら、あらゆる分野に通暁しているわけではないから、とくに非難する意図はない。ただ、少しは誤解を溶かしておきたい。
  これは一定範囲の近隣住民と私企業の間の(よくある)広義での「環境」訴訟で、民事訴訟だ。
 仔細を知らないまま、民事法の専門家でもないのに書くのだが、争点は北電の原子炉運転(継続?)が原告住民の「人格権」を侵害するか否かまたは「侵害するおそれ」があるか否かだ。
 ここでの「人格権」は民事上の差止請求の根拠とされている民事法上の権利で、池田が記す憲法13条を根拠とするものではない。強いて言えば、明文はなくとも、民法に根拠はあると思われる。
 差止請求の根拠として、①所有権等の物権、②人格権、③「環境権」が語られ得る。
 大阪国際空港訴訟で原告団が考案?したのが③だったが、当該事件の最高裁も含めて判例は認めず、①により難い(多くの)場合は、勝敗は別として、②による請求を許容するのが判例一般だと思われる。
  私人間の民事訴訟であるがゆえに、国や規制委員会が当事者として直接に登場していないのは当然だ(「参加」はあり得るが、していないのだろう)。
 また、人格権侵害(のおそれ)の存否が争点なのであり、原子炉規制法または原子炉規制委員会が作成している「基準」類に問題の原子炉(運転)が適合しているか否かは、<直接には>または<法的には>関係がない。
 このあたりは法科大学院の学生でも、初期には理解が容易でないかもしれない。
 この地裁判決は委員会の安全「基準」に言及しているが、これとの不適合性の認定から直接に結論を導いているわけではない(ということに法的にはなる)し、判決の「骨子・要旨」からもそのようには読めない。
 これは、隣人または周辺住民がある私人による建築物の建築工事の差止めを請求した民事訴訟で、建築基準法または同法の解釈等に関する国土交通省(・大臣)の「通達」類との適合性はどういう「法的」意味をもつか、と同じ問題だ。
 より一般的には、民事法と行政法の関係、さらに伝統的にはまたは少なくとも戦前的には、「私法と公法」の区別・関係、それぞれの役割分担の問題であり、簡単には説明し尽くせない。
 この地裁の裁判官たちは、委員会の安全「基準」類を、結論へと至る、または心証形成のための重要な<参考資料>として「利用」している気配はある(実質的な(!)「立証責任」の問題、または被告の「立証」しようとする姿勢がより大きい影響を与えている可能性はある)。だが、上記のとおり、<直接に>または<法的に>連結させているわけではない、はずだ。
 この「参考」または「利用」の仕方が、裁判官にとっても、微妙なところだろう。
  池田は「誰が北電の原子炉運転を止めるのだろうか」という疑問をもっていて、規制委員会以外にはない、との趣旨のようだ(たぶん)。
 事実行為としては、運転を停止するのは被告・北電で、被告にそれを命じたのが今回の判決だ(但し、第一審)。
 訴訟によって原告はそれを請求する権利があり、訴訟要件に問題がないかぎり(例えば、沖縄県民は本件訴訟の原告になり得るか?)、裁判所はその請求権の存否について判断する義務と権利がある。
 以上、リンクされている判決「骨子・要旨」もロクに読まないで急いで書いた。この地裁判決の結論への賛否は、ひとことも述べていない。
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2544/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第二節①
 (01) 1941年6月22日、ヒトラーがソヴィエト同盟に侵攻した。
 ドイツ軍は11月までに、ソヴィエト領ウクライナのほとんどを占領した。
 つぎにどうなるかが分からないまま、多くのウクライナ人は、ユダヤ系ウクライナ人ですら、最初はドイツ兵団を歓迎した。
 ある女性はこう思い出す。
 「少女たちはしばしば兵士に花を捧げ、人々はパンを与えたものだ。
 我々はみんな、彼らを見て嬉しかった。
 彼らは、我々から全てを奪って飢えさせた共産主義者から救ってくれようとしていたのだ。」(注7)
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 (02) バルト諸国も、同様にドイツ軍を歓迎した。これら諸国は、1939年から1941年まで、ソ連に占領されていた。
 コーカサスとクリミアも同様に、ドイツ兵団を熱烈に迎えた。これらの住民たちがナチスだったのが理由ではない。
 非クラク化、集団化、大量テロルと教会に対するボルシェヴィキの攻撃によって、ドイツ軍がもたらすものについて、幼稚で楽観的な見方が生まれていた。(注8)
 ウクライナの多くの地方で、ドイツ軍の到来とともに、自発的な非集団化が発生した。
 農民たちは後方地を奪ったのみならず、ラッダイト(Luddite)の憤激のようにトラクターや複式収穫機を破壊した。(注9) 
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 (03) 大騒ぎは、すぐに終わった。—そして、ドイツによる占領のもとでのよりましな生活を望んだ全ての者たちの期待は、すみやかに消滅した。
 つぎにどうなったかの十分な説明は、この書物の射程を超えている。ウクライナにナツィスがもたらした苦難は、広範囲で、暴力的で、ほとんど理解できないほどの規模で残虐なものだったからだ。
 ソ連に来るまでに、ドイツは他国を破壊する多数の経験をもっていた。そしてウクライナでは、自分たちがどうしたいのかを知っていた。
 ただちにホロコーストが始まり、遠く離れた収容所でのみならず、公然と繰り広げられた。
 ドイツ軍は、移送をするのではなく、隣人たちの面前で、村落の端や森の中で、ロマ人やユダヤ人の大量の処刑を敢行した。
 ウクライナのユダヤ人の三分の二が、戦争の全過程を通じて死んだ。—80万人と100万人の間。この割合は、大陸全体で死んだ数百万の現実的部分のそれよりも大きい。//
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 (04) ヒトラーによるソヴィエトの犠牲者の中には、200万人以上の戦争捕虜も含まれていた。彼らのほとんどは病気か飢餓のために死に、また、多くはウクライナの領域で死んだ。
 人肉喰いが、再びウクライナで発生した。
 Kirovohrad の第306捕虜収容所では、監視兵が収監者が死んだ仲間を食べていると報告した。
 Volodymyr Volynskyi の第365捕虜収容所での目撃者は、同じことを報告した。(注10)
 ナツィの兵士と警察官は、その他のウクライナ人を、とくに公職の役人たちから強奪し、打ちのめし、恣意的に殺害した。 
 ナツィの人種階層では、スラヴ人は下層人間(Untermenschen)『“で、おそらくはユダヤ人よりも一階位上だったが、偶発的な抹殺の候補になった。
 ドイツ軍を歓迎した者の多くには、ドイツは一つの独裁制を新しい独裁制に変更した、ということが分かった。とりわけ、ドイツが新たな移送の波を打ち寄せ始めたときに。
 戦争のあいだに、ナツィ兵団は、200万人以上のウクライナ人をドイツの強制労働収容所に送り込んだ。(注11)
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 (05) ウクライナを占領した全ての諸国と同じく、ナツィスも究極的にはただ一つの現実的な関心をもっていた。すなわち、穀物。
 ヒトラーは以前から、「ウクライナの占領は全ての経済的不安から我々を解放する」、ウクライナの領土は「誰も前の戦争のように我々をもう一度飢えさせることができなくなる」のを保障する、と主張していた。
 1930年代の遅く以降、ヒトラー政権はこの願望を現実に変えようとしてきた。
 Herbert Backe という食料と農業を担当した悪辣なナツィ官僚は「飢餓計画」を構想したが、その目標は率直だった。すなわち、「戦争の三年めに全軍がロシアで食べていけてはじめて、戦争に勝つことができる」。
 しかし、軍全体は、ドイツ自体もそうだが、ソヴィエト国民が食糧を奪われてはじめて、自分は食べていくことができる、とも結論づけていた。 
 1941年6月に1000名のドイツの官僚たちに回覧された覚書にもあるが、彼は5月に出版した「経済政策指針」でこう説明した。
 「信じ難い飢餓がまもなくロシア、ベラルーシおよびソヴィエト連邦の産業都市を襲うだろう。Kyiv 、Kharkiv はもちろんモスクワやレニングラードでも。
 この飢饉は偶発的なものではないだろう。目標は、およそ三千万の人々が『死に絶える』(die out)ことだ。」(注12)
 征服した領域の活用を所管する東方経済部員(Staff East)への指針は、厳としてつぎのように述べていた。
 「この領域の数千万もの多数の人々は不必要になり、死ぬかまたはシベリアへと移住しなければならないだろう。
 〈黒土地帯からの余剰分を使って飢餓による死から彼らを救う試みは、ヨーロッパへの供給を犠牲にしてのみ成り立ち得る。
 そのような試みは、ドイツが戦争に踏み出すのを妨げる。
 ドイツとヨーロッパが封鎖に対抗する妨げになる。
 このことは、絶対的に明瞭だ。〉」[強調〔=〈〉〕は原文のまま](注13)
 これは、何倍も大きくしたスターリンの政策だった。飢餓による民族(nations)全体の抹殺。//
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 (06) ナツィスには、この「飢餓計画」をウクライナで完全に実施する時間的余裕がなかった。
 しかし、その影響はその占領政策に感じ取ることができた。
 集団農場からの食料徴発の方が容易だという理由で、自発的な非集団化はすぐに停止された。
 Backe は、「ドイツ人は、ソヴィエトがすでに整えていないならば、集団農場を導入しなければなければならなかっただろう」と報告的に説明した。(注14)
 1941年には、農場は「協同組合」へと転換させることが意図されたが、それは起きなかった。(注15)//
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 (07) 飢餓も、戻ってきた。
 スターリンの「焦土」政策が意味したのは、ウクライナの経済的資産の多くが赤軍を退却させたことですでに破壊されている、ということだった。
 占領によって、状況はそこにとどまった人々にはさらに悪くなった。
 Kyiv が9月に陥落する直前に、帝国経済大臣のHermann Göring は、Backe と会談した。
 二人は、都市部の住民が食物を「むさぼる」(devour)のが許されてはならない、ということで一致した。「もし誰かが新たに占領した領域の住民全員に食を与えたいと望んだとしても、そうすることはできないだろう」。
 SSのHeinrich Himmler は数日後にヒトラーに対して、Kyiv の住民は人種的に劣っており、不要なものとして処分することができる、と言った。
 「彼らの80-90パーセントなしで、容易に済ませられる」。(注16)//
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 (08) 1941年冬、ドイツは都市部への食料供給を断ち切った。
 固定観念とは逆に、ドイツ当局はソヴィエトのそれよりも有能ではなかった。つまり、農民取引者たちは暫定的な非常線を通過した—1933年にそうするのは困難だと気づいていた。そして、数千人の人々が再び食料を求めて道路や鉄道を利用した。
 それにもかかわらず、食糧不足は、占領地帯で増大した。
 もう一度、人々は膨らみ、痩せ、遠くを見つめ、そして死に始めた。
 その冬、Kyiv で5万人が飢餓のために死んだ。
 ナツィの司令官が非常線で遮断していたKharkiv では、1942年5月の最初の二週間で、1202人が飢餓のために死んだ。
 占領期間中の飢餓による全死者数は、約2万人に達した。(注17)//
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 (09) こうした論脈の中で、ウクライナの1933年飢饉に関して公然と語るのが初めて可能になった。—残虐な占領のもとでの苦難と混沌、そして新たな飢饉の発現の中で。
 状況によって、物語の語られ方が形成された。
 占領のあいだ、議論の目的は生存者が嘆き悲しんだり、回復したり、正直な記録を生んだり、あるいは将来のための教訓を学んだりするのを助けることでは、なかった。
 過去を思い出すようなことを望んだ人々は、失望していた。
 飢饉についての秘密の日記類を守り続けた農民たちの多くは、日記類を地下から掘り出し、地方の新聞社へ持ち込んだ。
 しかし、「不幸なことに、編集者たちの多くは、今になっては過去の時代のことに興味がなかった。そして、こうした貴重な歴史的記録は公表されなかった」。(注18)
 その代わりに、この編集者たち—仕事と生活を新しい独裁制に依存していた—のほとんどが、ナツィのプロパガンダに奉仕する記事を掲載した。
 この者たちには、議論の目的は、新しい体制を正当化することだった。//
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 (10) ナツィスは実際には、ソヴィエトによる飢饉について多くのことを知っていた。
 その飢饉が起きているあいだ、ドイツの外交官はベルリンへの報告書で詳細に飢饉に関して叙述していた。
 Joseph Goebbels は、1935年のナツィ党大会の演説で、飢饉に言及した。彼はそこで、500万人が死んだと発言した。(注19)
 ドイツ軍が到着した瞬間から、ウクライナ占領者たちは、彼らの「イデオロギー的工作」のために飢饉を利用した。
 彼らが望んだのは、モスクワに対する憎悪が増幅すること、ボルシェヴィキによる支配の結果を人々が思い出すこと、だった。
 彼らがとくに熱心だったのは田園地帯のウクライナ人に達することで、ドイツ軍が必要とする食料の生産のためにはそうした努力が要求された。
 プロパガンダ用ポスター、壁新聞、時事漫画が、不幸で半ば飢えた農民たちを描いた。
 あるやせ細った母親とその子どもは、「これがスターリンがウクライナにしたことだ」というスローガンのある荒廃した都市を見た。
 別の貧しい一家は、「同志たちよ、生活はよくなった、愉快になった」というスローガンの下で、食物のないテーブルに座っていた。—このスローガンは、有名なスターリンからの引用句だった。(注20) //
 ——
 第二節②へとつづく。

2543/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor①。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 邦訳書は、たぶん存在しない。この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。
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 緒言
 序説—ウクライナ問題。
 第1章・ウクライナ革命、1917年。
 第2章・反乱、1919年。
 第3章・飢饉と休止、1920年代。
 第4章・二重の危機、1927-29年。
 第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
 第6章・反乱、1930年。
 第7章・集団化の失敗、1931-32年。
 第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
 第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
 第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
 第11章・飢餓—1933年の春と夏。
 第12章・生き残り—1933年の春と夏。
 第13章・その後。
 第14章・隠蔽。
 第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
 エピローグ・ウクライナ問題再考。
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 すでにこの欄に掲載したのは、冒頭の「緒言」と「序説」。
 以下、第15章(とエピローグ)を試訳する。 
 Holodomor(ホロドモール)の意味は、本文の中で語られるだろう。
 ——
 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール(Holodomor)。
 第一節。
 (01) 飢饉のあとの数年間、ウクライナ人は、起きたことについて語るのを禁止された。
 彼らは、公然と嘆き悲しむのを怖れた。
 大胆にそうしようとしても、祈ることのできる教会はなく、花で飾ることのできる墓石もなかった。
 国家がウクライナの農村地帯の諸団体を破壊したとき、公的な記憶も攻撃された。
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 (02) しかしながら、生存者たちは、私的に記憶していた。
 彼らは、起きたことについて、実際に書き残し、または頭の中に憶えた。
 ある者が思い出すように、日記を「木箱に鍵をかけて」守りつづけ、床下に隠したり、地下に埋めたりした人々もいた。(注2)
 農村では家族内で、人々は何が起きたかを子どもたちに話した。
 Volodymyr Chepur は、彼の母親が彼女と彼の父親の二人は食べるためにあった全てのものを彼に与えようとした、と話してくれたとき、5歳だった。
 自分たちが生き残ることができなくとも、証言することができるように彼が生きるのを、両親は望んだ。
 「私は死んではならない。大きくなったとき、我々とウクライナ人がどのように苦悶の中で死んだかを、人々に語らなければならない。」(注3)
 Elida Zolotoverkha 、日記を残していたOleksandra Radchenko の娘も、子どもたち、孫たち、さらにひ孫たちに、日記を読んで、「ウクライナが体験した恐怖」を記憶しておくように言った。(注4)//
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 (03) 多くの人々が私的には繰り返したこうした言葉は、彼らの痕跡を残した。
 公的な沈黙によって、それらの痕跡はほとんど秘密の力をもった。
 1933年以降、こうした物語は選択し得るいずれかの話になった。飢饉に関する、情緒的に力強い「本当の歴史」か、公的な否認と並んで成立して大きくなる口伝えの伝承か。//
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 (04) 彼らは党が公的議論を統制するプロパガンダ国家で生きたけれども、ウクライナ内の数百万のウクライナ人は、選択し得るこの話を知っていた。
 分裂の感覚、私的な記憶と公的な記憶の乖離、民族的哀悼のうちににあったに違いない大きく裂けた穴。—これらは、ウクライナ人を数十年にわたって苦しめた。
 両親がDnipropetrovsk で飢餓によって死んだあと、Havrylo Prokopenko は、飢饉について考えるのを止めることができなかった。
 彼は学校のために、飢饉に関する物語をそれにふさわしい絵図つきで書いた。
 教師はその作業を褒めたけれども、捨てるように言った。彼が、そして自分が、面倒なことに巻き込まれるのを怖れたからだった。
 このことは彼に、何かが間違っている、という感情を残した。
 なぜ、飢饉のことに触れることができないのか?
 隠そうとしているソヴィエト国家とは何だ? 
 Prokopenko は、30年後に、地方のテレビ局で、「飢えて黒い人々」に関する一節を含む詩歌を何とか読むことができた。
 地方当局からの威嚇的な訪問がそのあとでつづいた。しかし、彼はいっそう確信するようになった。ソヴィエト連邦(the USSR)はこの悲劇について責任がある、と。(注5)//
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 (05) 記念する物が存在しないことで、Volodymyr Samoiliusk も苦悩した。
 彼はのちのナツィの占領を生き延びて第二次大戦で戦闘したけれども、飢饉の体験以上に悲劇的だと思えるものは何もなかった。
 記憶は数十年間彼にとどまり続け、彼は、飢饉が公式の歴史の中に現れるのを待ち続けた。
 1967年に彼は、1933年に関するソヴィエトのテレビ番組を観た。
 彼は画面を凝視して、記憶している恐怖に関する映像を待った。
 しかし、第一次五ヶ年計画の熱狂的英雄たち、メーデー行進、さらにその年からのサッカー試合すら、の画像は見たけれども、「おぞましい飢饉に関しては、一言も発せられなかった。」(注6)
 ----
 (06) 1933年から1980年代の遅くまで、ウクライナ内部での沈黙は、全面的(total)だった。—瞠目すべき、痛ましい、そして複雑な例外はあったけれども。
 ——
 第一節、終わり。

2542/Turner によるNietzsche ⑪。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第10節の試訳のつづきで、最終回。
 ——
 第10節③。
 (03) 生を肯定する道徳を受容することのできる生物は、〈Übermensch〉、超人(Overman)だった。
 この言葉は、今世紀の初めには「Superman」と呼ばれるようになった。
 この語はもともとは〈ツァラトゥストラはこう語った〉に出ており、明瞭な意味をほとんど持っていなかった。 
 〈Übermensch〉は生を肯定する。
 愉快で、無邪気で、本能的で、自分の本能による衝動を持っている。
 将来に存在する生物のように見える。というのは、ニーチェはある箇所で、人類を野獣と〈超人〉の間を架橋するものとして描いているからだ。
 この生物は、人類がキリスト教や近代自由主義の禁欲的理想からつき離されたときにどのようなものになるかの、ニーチェの理想の類型のように思われるだろう。//
 (04) 近年の論評者はこの概念を相当に中立化している。しかし、種々のことが語られていても、全てがおそらくは間違った接近方法をとっている。
 疑いなく、ニーチェはその言う〈超人〉としてヒトラーのような人物を想定していなかった。そして〈超人〉は、彼の心の裡でははるかにGoethe のような人物だった。
 それにもかかわらず、〈超人〉は明らかにリベラルな諸価値とは相容れないように見える。そして、ニーチェ哲学の多くとともにこの概念を擁護しようとする近年の試みは、19世紀のさらに別の大きな危機と融合しようとするブルジョア文化の試みにすぎないと、私には思える。//
 (05) この時代のヨーロッパの知的世界の考察を、本書はRousseau から始めた。
 ニーチェでもって終えるのは、偶然ではない。
 彼は、Rousseau 的見方に対する最も厳しい批判者の一人だ。
 貴族制とブルジョア社会の両方を非難したのは、Rousseau だった。だが、彼の解決策は急進的に平等主義的なものだった。
 古代世界で彼が好んだのは、古代の市民的美德であり、この美德は急進的に平等主義ではない社会に宿っていた。 
 Rousseau が将来に投影したのは、平等主義の展望だった。
 彼は、聖書が失墜した世俗的見方から帰結するものとして社会を描いた。
 そして、あけすけの意欲の力でもって、道徳的にも経済的にも他の人間に優越する地位を築いた者たちを非難した。
 彼の見方では、このような状況が近代社会の虚偽(falseness)につながった。 
 Rousseau は、急進的な平等主義にもとづいてこれを批判したかった。
 また、人間がそのために生命を捧げるべき力として一般意思と市民宗教(Civil Religion)を樹立したかった。//
 (06) ニーチェは、このような見方に関する全てを憎悪した。
 彼は、優越者たる地位を築いた古代の人物たちを尊敬した。 
 Rousseau が書いたもの全てに、プラトンとユダヤ・キリスト教の伝統の両方の香りを嗅ぎ取った。
 彼はその急進主義にもかかわらず、本当の知的勇気を持たない、とニーチェは考えた。 
 Rousseau は、確定的ではない生物という自然状態から生まれ来たるものだと、人間を描いた。そのような生物は、自分たちの基本的な性格を作り上げていく必要があるのだ。だが彼は、自分自身の見方の根本的なニヒリズムから離れていた。
 ニーチェが提示し、次の世紀のヨーロッパの知的世界の中心に持ち込んだのが、ニヒリズムだった。
 人間の本性は、彼にとって、本当に確定的ではない。
 人間は、それを確定しなければならない。そして、ニーチェは、彼の世代の者たちが主張する全てのイデオロギーはその任務を果たすには不適切だ、と考えた。//
 ——
 第10節、終わり。〈第15章・ニーチェ〉も、終わり。

2541/Turner によるニーチェ⑩。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第9節の試訳のつづき。
 ——
 第9節②。
 (07) ニーチェの見方では、貴族的な価値の再検討が始まったのは、古代イスラエルでの道徳的経験によってだった。
 キリスト教が顕著に促進したこの再評価は、「道徳に関する奴隷の反乱」を引き起こした。
 この反乱の中心に位置したのは、ニーチェが〈ルサンチマン〉(Ressentiment)と称したものだった。
 高貴な者たち(the noble)が世界の上から見渡して肯定したのに対して、奴隷たちは、まさにその状況のゆえに、外部世界を否認しなければならない。
 奴隷たちは、肯定できない自分たちの無能力を正当化しなければならず、否認を正当化して称賛することによって、そうするのだ。
 このキリスト教道徳は力への意思を否定し、そうして、生を否定し、生を制限する。
 こうしたキリスト教道徳の勝利によって、奴隷の道徳がヨーロッパを奪い取った。
 奴隷の道徳は高貴さを否定し、卑しい者、弱い者、臆病な者を称賛した。
 結果として、人間の本性を否定したのだ。//
 (08) ニーチェによる批判に関して重要なのは、その重要性を説明する彼の決断だ。
 従前の哲学者たちのほとんどは、普遍的な価値の存在を前提にしていた。
 厳密にどのような価値がそうであるかに関しては異論があっただろう。しかし、普遍的な価値の存在については、一致があった。
 ニーチェは、価値それ自体の独立した存在を否定した。
 彼は強くこう主張した。キリスト教の諸価値は元々は無力の者や階層が自分たちの力を最大にする必要に由来する、と。そしてこの者たちは、自分たちの奴隷的存在の価値を高貴な者のそれよりも高位で立派だと設定することによってそうしたのだ。
 さらに加えて、奴隷たちのこの叛乱は、終わらなかった。
 19世紀における革命、自由主義(liberalism)、社会主義の波は、奴隷たちの叛乱を延命させた。
 ニーチェは、こう明言した。
 「かつてよりもさらに決定的で深遠な意味において、ユダヤ(Judea)はもう一度、フランス革命の古典的理想に対して勝利した。ヨーロッパの最後の政治貴族、フランスの17世紀と18世紀の政治貴族は、〈ルサンチマン〉—一般大衆の本能—のもとで崩壊した。かくも歓喜した、喧騒の中の狂熱の声を、これまでの世界は聞いたことがなかった!。」(注19)
 ニーチェは〈道徳の系譜学〉の別の箇所で、近代の自由主義はキリスト教が残した場所でそれをたんに継続しているにすぎない、と論じた。
 近代自由主義にもキリスト教にも、人間の本性を否定したという罪責がああった。//
 (09) ニーチェは、禁欲という理想はきわめて重要な機能を果たした、と考えた。
 禁欲は人間に、意味を、とりわけ苦難がもつ意味を提示した。
 禁欲によって人間は、存在の根本的な無意味さという荒涼たる現実に立ち向かうことができなくなった。
 だがなお、禁欲という理想はきわめて高くつくものも呼び起こした。
 「禁欲の理想によってその方向が示された意欲の全体が実際には何を表現しているかを我々が隠蔽するのは、絶対に不可能だ。表現するのは、人間的なものへの憎悪、さらに動物的なものへの憎悪、さらに物質的なものへの憎悪であり、官能や理性そのものへの恐怖、幸福や美への恐怖だ。そして、仮象、無常、成長、死、願望、そして熱望それ自体から逃れたいという熱望だ。
—これら全てが意味しているのは、あえて把握しようとするなら、〈無(nothingness)への意思〉であり、生への反感であり、生の基礎的な諸前提のほとんどに対する反抗だ。しかし、これは一つの〈意思〉であることに変わりはない。
 最初に言ったことをもう一度言って、終わりにする。人間は、意欲を何らもたないよりは〈無を意欲する〉ことをなおも望む。」(注20)//
 ---------
 第10節①。
 (01) 道徳に関する総括的な検討が最後に示すのは、生を拒否する道徳にすらある主意主義的(voluntaristic)な基盤だ。
 否定的な禁欲主義は、それ自体は禁欲的ではない。 
 否定的禁欲主義は、全ての意識ある存在の特徴だとニーチェが考える、力への意思のもう一つの様式にすぎない。//
 (02) そのゆえに、人間にとっての問題は、生を否定するのではなく肯定するのを認めることになる価値を意欲する、または想定する、そのような方法を見い出すことだった。
 ニーチェにとって、その方法には本質的にエリート主義的で貴族的な道徳が必要だった。
 高貴な人間は、畜群(herd)に打ち勝たなければならない。
 このことはキリスト教の排撃だけではなく、当時のブルジョア・イデオロギーの全ての排斥をも意味した。—自由主義、功利主義、民族主義、人種主義、菜食主義、等々の全て。
 これらは全て、結果を計算することに関心をもつ道徳的立場にあり、その定義上、全てが奴隷の道徳の態様だ。//
 ——
 第10節②へと、つづく。

2540/Turner によるニーチェ⑨。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉の試訳のつづき(再開)。
 ——
 第9節①。
 (01) ニーチェはある意味では、人間が本質的に美学的な見地から生に立ち向かうことを要求した。
 人間は生の現象を見つめて、そして自分たち自身の内的存在から、外部が誘導する権威にもとづかず、判断するようにならなければならない。
 (02) ニーチェは、世界は根本的に形をもたないと確信して、人間が形を作り上げなければならない、と考えた。
 世界は、我々がこうあるべきだとするものだった。
 我々がComte やDarwin が考えたような知識をいずれ獲得する、そのような客観的世界は存在しない。
 (03) ニーチェにとっては、科学は本当(genuine)の知識ではない。
 科学は、伝来的な、または有用な知識だ。
 世界で我々を成功させてくれる場合のみ、科学は真実(true)になる。
 科学は、世界を理解しようとする一つの方法にすぎない。
 科学は、最終的な知識へと帰着しなかったし、そうできなかった。
 彼はその明瞭さと有用性のゆえに科学を称賛したが、科学それ自体は、最終的叡智またはその他の価値の源泉ではあり得ない。
 〈陽気な科学(The Gay Science)〉でこう書いたとおりだ。
 「生は、論拠ではない。
 我々は生きることができるように世界を整序した。—物体、線、面、原因と効果、運動と休止、形式と内容、こうしたものを配置することによって。
 こうした信仰(faith)の対象がなければ、誰も生きることに耐えられないだろう!
 しかし、このことは信仰対象の正しさを証明しはしない。
 生は、論拠ではない。
 生の諸条件は誤りを含んでいるかもしれない。」(注17)
 実際にニーチェは、ほとんど真実は道具(instrumental)だと言うに等しい所まで来ていた。
 この点では、初期プラグマティストたちの哲学者陣営にきわめて近い立場にあった。
 彼にとっては、真実は決して永遠のものでも、無限のものでもない。
 真実は、世界に入り込み、そこを通り抜ける方法なのだ。//
 (04) ニーチェは、こうした急進的な懐疑主義を抑圧的とも悲観的とも見なさなかった。
 多数の人々はとても恐いと感じるだろうとしても、彼は、解放の基盤だとそれを見なした。
 最初の段階では、真実に関する彼の考えによって、自分をキリスト教から解放することができた。
 Ipsen やその他の同世代者のように、ニーチェは、現今の道徳を愚かなものだと考えており、その道徳は基本的にはキリスト教に由来するものと見ていた。
 今の道徳は、キリスト教であれ功利主義であれ、禁欲的で、生に対して拒否的だった。
 彼のキリスト教に対する、そしてキリスト教道徳に対する批判は、ヨーロッパでかつて道徳であり道徳的経験だと見なされたものの核心部分へと及んだ。
 彼はキリスト教道徳の起源を、プラトンとユダイズム(Judaism)へと跡づけた。
 キリスト教は2000年前に、これら両者の最悪の部分を結合させ、人類を凡庸へと向かわせたのだ。//
 (05) この主題に関する彼の完全な議論は、〈道徳の系譜〉(The Genealogy of Morals)となった。
 ニーチェはこの書物で、何が善かの判断の起源はどうだったかを問題にした。
 彼はこう主張する。「善」の判断は確実に、善が最初に示されたものを起源とはしていない。
 最初の時代の何が善であるかの決定はむしろ、強くて高貴な人々に由来した。彼らは、自分たち自身に役立つように何が善かの判断を行ってきたのだ。
 彼はこう説明する。
 「こう起源を理解する理由は、『善』という言葉は必ずしも『非利己的』な行動と結びついていなかった、ということだ。『非利己的』な行動というのは、道徳の系譜学者が伝えてきた迷信だ。
 反対に、『利己主義』と『非利己主義』の対置が人々の良心の中にますます大きくなったがゆえに、貴族的な価値判断が衰亡している。
 —そうなのだ。私の用語法によれば、そうして最終的にこの言葉を掴み取るのは、〈畜群(herd)の本能〉なのだ。」(注18)//
 (06) 善という語の貴族的な理解が衰亡したことは、ニーチェが古代ギリシャに発見した強い古代の貴族の本能に対する、畜群の本能の勝利を象徴した。
 その貴族的な価値判断は、健全で力強い、肉体的に活発でつねに戦いや強さ試験に備えている人々を想定していた。
 その価値判断は、生と力を肯定することで成立していた。
 時代の推移とともに、畜群、聖職者、そして世界を否定する者たちの道徳に、入れ替わってしまった。//
 ——
 第9節②へと、つづく。

2539/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづきで、最終回。公刊邦訳書は、存在しない。
 —— 
 第20章・判決(Judgement)
 第二節②
 (08) ソヴィエト国家の創設者をどう取り扱うべきかに関する合意は、もはや得ることができなかった。
 Yeltsin とロシア正教会は、レーニンの聖廟を閉鎖して彼自身が望んだようにレーニンの遺体をSt. Petersburug のVolkov 墓地の母親の隣に埋葬しようとの呼びかけを支持した。
 しかし、共産党員たちは団結して、これに反対することを明瞭にした。それで、この問題は解決されないままになった。
 Putin は、レーニンを聖廟から移すことに反対だと言い、ソヴィエト国歌についての彼の考え方と同様の理由で、レーニンを聖廟から取り去ることは、ソヴィエト支配の70年のあいだ間違った理想を抱いていたと示唆することになって古い世代の者たちを傷つけるだろう、と言った。//
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 (09) Putin は、彼の体制の最初から、ソヴィエトの歴史における誇りを回復しようと意図した。
 ロシアを大国の一つとして再建設することは、彼の課題(agenda)の重要な一部だった。
 Putin の新政策は、とくにソヴィエト同盟への郷愁(nostalgia)に訴えるときに、人気を博した。
 ソヴィエト連邦の崩壊は、ほとんどのロシア人にとっては屈辱だった。
 数ヶ月のうちに、彼らは全てを失った。全て—安全と社会的保証を与えてくれた経済制度、超大国たる地位をもつ帝国、一つのイデオロギー、学校で教えられたソヴィエト的歴史の見方が形成したナショナルな一体性。
 ロシア人は、グラスノスチの時期に自分たちの国の歴史が泥を塗られたことに憤慨していた。
 彼らには、スターリン時代の自分たちの親族に関する諸問題を問うのを強いられたことが、不愉快だった。
 彼らは、自分たちの歴史がいかに「悪い」ものだったかを語る講釈を聞きたくなかった。
 Putin は、1917年以降の偉業を達成した「大国」の一つだとロシアを再び自己主張することによって、ロシア人がロシア人としてもう一度快い気持ちになることを助けた。//
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 (10) Putin の新政策は学校から始まった。ソヴィエト時代について否定的すぎると見られた教科書は、教育省の同意のもとで拒否され、実質的に教室から排除された。
 2007年、Putin は、歴史の教師たちの会合で、こう語った。
 「我々の歴史にあるいくつかの問題がある部分について言えば、そのとおり、存在した。
 しかし、どの国がそのような問題を持っていないのか?
 我々には、いくつかの他の国に比べて、問題は少なかった。
 我々にあった問題は、他のいくつかの国のようにはおぞましいものではなかった。
 そのとおり、我々にはおぞましい問題があった。1937年に始まった事態を思い出そう、それについて忘れないようにしよう。
 しかし、他の諸国も同様であって、より多くすらあった。
 いずれにせよ、我々は、アメリカ人がヴェトナムで行ったような、数千キロメートル以上にわたって化学薬品を撒いたり、小さな国に第二次大戦全体よりも7倍以上多い爆弾を落としたりすることをしなかった。
 また、ナツィズムのような、その他の暗黒の部分もなかった。
 この種の出来事は、全ての国家の歴史で起きている。
 そして、自分たちが罪を背負わされることを、我々は認めることができない。…」(後注5)
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 (11) Putin はスターリンの罪責を否定しなかった。
 しかし彼は、その点に思いとどまり続けることなく、国の「栄光のソヴィエトの過去」の達成者としてのスターリンの功績とそれのあいだの均衡を考える必要を語った。
 大統領から作成が委ねられ、ロシアの学校で圧倒的に奨励された歴史教育者用の手引書では、スターリンは、「国の近代化を確実にするためにテロル運動の指揮を理性的に行った、有能な管理者(effective manager)」だったと描かれた。(後注6)//
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 (12) 世論調査が示しているのは、ロシア人は革命的暴力に対して当惑させる考え方をもっている、ということだ。
 三都市(St. Petersburg, Kazan, Ulyanovsk)で2007年に実施された調査によると、住民の71パーセントは、チェカの創設者のDzerzhinsky は「公共の秩序と市民生活を守った」と考えていた。
 僅か7パーセントだけが、Dzerzhinsky を「犯罪者で、処刑者だ」と見なしていた。
 その調査が示すさらに当惑させることは、ほとんど全員がスターリンのもとでの大量弾圧について十分によく知っていながら—「1000万人から3000万人までの犠牲者」が被害を受けたとほとんどの者が知っていながら—、回答者の三分の二が、スターリンは国にとって積極的な役割をもった(positiv)と考えていることだった。
 多くの者が、スターリンのもとでの人々は「より優しくて思いやりがあった」とすら考えていた。(後注7)
 数百万人が殺害されたと知っていてすら、ロシア人は、大量の国家的暴力は革命という目標を目指すためには正当化され得る、というボルシェヴィキ思想を、受容し続けているように見える。
 別の調査によると、ロシア国民の42パーセントは「スターリンのような指導者」が再登場するのを望んでいる。(後注8) //
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 (13) 2011年の秋、数百万のロシア人が〈The Court of Time (Sud Vremeni)〉というテレビ番組を観た。そこでは、ロシアの歴史上の多様な人物や事件について、弁護人、証人および陪審員のいる模擬裁判によって判決が下された。陪審員は、電話で投票して評決に達した視聴者たちだった。
 これが下した諸判決は、ロシア人の考え方の変化について大きな希望を与えるものではない。
 農民に対するスターリンの戦争や農業集団化の影響の大惨害に関する証拠が提示されても、視聴者の78パーセントは、集団化はソヴィエトの工業化のために正当化される(「恐ろしい必要」だった)となおも考えており、僅か22パーセントだけがそれは「犯罪」だったと見なした。
 ヒトラー・スターリン協定〔1939年の独ソ不可侵条約—試訳者〕については、91パーセントが必要だったと考えた。僅か9パーセントだけは、それは第二次大戦の勃発に寄与した一要因だったと見なした。
 同じ投票数は、Brezhnev 時代についても記録された。91パーセントが「種々の可能性があったとき」だったと考えた。
 ソヴィエト同盟の瓦解についても、91パーセントが「national な大惨事」という評決に賛成した。//
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 (14) ロシア人が共産主義体制の社会的悪夢と病理から治癒されるには、数十年を要するだろう。
 革命は、政治的には死んでいるかもしれない。しかし革命は、100年の暴力的な一巡りで掃き集められた人々の精神性(mentalities)に余生を見出している。//
 ——
 第二節、終わり。第20章も、終わり。

2538/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
 —— 
 第20章・判決(Judgement)。
 第二節①。
 (01) ロシアが必要としたのは、おそらく裁判ではなく、真実と和解に関する委員会だった。それは、アパルトヘイト(apartheid)の犠牲者に公開の聴聞の機会を与え、暴力行使の加害者から恩赦の訴えを聴く、そうした目的のために設置された南アフリカの委員会のようなものだ。
 以前の党官僚の特定のグループを訴追したり禁止したりするのが不適切であれば、公開の聴聞や過去に冒された犯罪に対する国家の謝罪を通じて、ロシア人が自分たちの過去に向き合い、ソヴィエト体制の犠牲者が被った悪夢を認識することが、議論の余地はあるとしても正当で、治療法になっただろう(「復古的正義」)。//
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 (02) 限られたかたちではあるが、この過程はGorbachev のもとでのグラスノスチによって始まっていた。
 抑圧の犠牲者たちは名誉が回復され、氏名を明らかにすることが認められた。
 ソヴィエト・システムの崩壊のあと、Yeltsin には、新しい民主主義と市民社会のために必要だった制度設計の一部として、このシステムを解明する機会があった。
 彼は、この機会を掴まなかった。
 そのための説明の一部は、つぎのように政治的だった。
 KGB の力は強すぎて、その文書資料を公共の調査のために開示するよう強いることができない。憲法裁判所は新しいものなので、民主主義的役割を有効に果たすことができない。Memorial のような公共的団体はその力が依然として弱すぎる。
 そして、西側からは何ら圧力が加えられなかった。西側は、経済の自由化にだけ関心があったのだ。
 しかし、歴史は、一つの説明でもあった。
 ソヴィエトの過去によって、国は二分された。
 革命の歴史に関する合意はなく、nation が真実と和解を探求して統合することのできる、同意された歴史物語もなかった。
 南アフリカでは、アパルトヘイトに対する決定的な道徳的勝利があり、退いた体制の歴史に対して統一した物語を課すことができた。
 しかし、ロシアでは、1991年に、そのような勝利はなかった。
 多くのロシア人が、ソヴィエト同盟の崩壊を、おぞましい敗北だと見た。//
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 (03) 真実と和解は、歴史的判断を意味する。
 しかし、ロシアの人々が自分たちの国の歴史について、どのような評決を下し得ただろうか?
 彼らは、ソヴィエト・システムは世界で最良でないとしても「正常な」(normal)ものだと信じて(少なくともある程度は受容して)自分たちの人生を生きていたのだ。//
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 (04) ナツィ・ドイツとの比較が、ときおり行われた。
 西ドイツは、1945年以降、彼ら自身の近年の歴史に照らして、長くて痛々しい自己点検の作業を行ってきた。
 ナツィ体制は、12年間だけつづいた。
 しかし、ソヴィエト・システムは、四分の三世紀に及んだ。
 1991年までには、ロシアの住民の全体がそのシステムのもとで教育され、そのもとで経歴を積み、彼らの子どもたちを育てた。彼らの人生をソヴィエトの偉業を達成するために捧げたのであり、それは彼ら自身と当然に一体だった。//
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 (05) ロシアの人々は、信念と実践のシステムとしての共産主義を喪失して、混乱した。
 彼らは、道徳的空虚を感じた。
 ある人々にとっては、宗教が空隙を埋めた。
 正教は、マルクス・レーニン主義に代わる既成の選択肢だった。
 正教は、1917年以降に失われたロシア的生活様式との再連結、祖先を抑圧したことについての後悔、ソヴィエト体制に関与してしまった道徳的妥協からの清浄化を提供した。
 別のある人々にとっては、君主制主義が代替物だった。
 1990年代初頭には、ロマノフ家へのロシア人の関心が復活するということがあった。
 国外逃亡していたロマノフ家の子孫が帰ってきて、ロシアが立憲君主制になる、ということが語られた。
 君主制主義者の復活は、ニコライ二世とその家族が1998年7月17日、彼らがボルシェヴィキによって処刑された後ちょうど80年後に、St. Petersburg のPeter & Paul 聖堂に再埋葬されたときに絶頂に達した。
 二年後、皇帝一族は、モスクワの総主教によって聖人とされた。//
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 (06) 歴史で分裂したロシア人は、nation または国家の象徴のまわりで統合することができなかった。
 ロシア帝国の三色旗(白・青・赤)が、ロシア国旗として再び採用された。
 しかし、ナショナリストや君主制主義者たちは帝国軍隊の外套を好み、共産党員たちは赤旗に執着した。
 ソヴィエトの戦時中の国歌は、19世紀の作曲家のMikhail Glinka が作った「愛国歌」に換えられた。
 しかし、この「愛国歌」は人気がなかった。
 この歌はロシアの競技者やサッカー選手を鼓舞せず、彼らの国際舞台での成績はnational な恥辱の原因になった。
 Putin は、2000年に大統領に選出されてすぐ後に、87歳の作家のSergei Mikhailkov が1942年に元の歌詞を書いていた言葉に新たに戻した。
 彼はこの復活を、歴史的な敬意と継続性について語って正当化した。
 彼はこう言った。この国のソヴィエトの過去を否定することは、古い世代の人々から彼らの人生の意味を奪うことになるだろう。
 民主主義者はスターリン時代の国歌の復活に反対した。一方で、共産党員は支持し、ほとんどのロシア人もこの回帰を歓迎した。//
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 (07) 十月革命を記念することも、同様に分裂の元になった。
 Yeltsin は、「対立を消滅させ、異なる社会階層の間に和解を生むために」革命記念日を調和と再和解の日(Day of Accord and Reconciliation)に変更した。
 しかし、共産党員たちは伝統的なソヴィエト的様式で革命記念日を祝いつづけ、多数の党員が旗を掲げてデモ行進をした。
 Putin は、11月4日を国民統合の日として設定することで、対立を解消しようとした(1612年にポーランドによるロシア占領が終わった日)。
 その日は、2005年から公式のカレンダーで11月7日の祝日となった。
 しかし、国民統合の日は、理解されなかった。
 2007年の世論調査によると、住民のわずか4パーセントだけが何のための日かを語ることができた。
 人々の十分の六は、革命記念日がなくなることに反対していた。
 ——
 第二節②へと、つづく。
 

2537/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
 ——
 第20章・判決(Judgement)。
 第一節②。
 (09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
 しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
 ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
 民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。) 
 Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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 (10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
 独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
 実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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 (11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
 おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
 東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
 これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
 彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
 しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
 革命は、ロシアの土壌から成長した。
 数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
 「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
 この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
 Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
 ——
 第一節、終わり。

2536/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章はこの書全体の最終章で、「判決」(Judgemenrt)との表題のもとでソヴィエト連邦の歴史全体についての何らかの判断、評価、論評が書かれているのかとも、予想した。
 だが、そうではなく、主としては1991年崩壊後の(旧ソ連全体についてではなく)ロシアについて、人物としてはYeltsin やPutin らについて、書かれているようだ(当然に判断、評価、論評を含む)。
 この欄での表題を「ソ連崩壊のあと」に変えて、試訳を続ける。
 ロシアの民衆の多数が「社会主義・共産主義」またはソ連共産党支配を拒否したためにソ連が崩壊・解体したわけではない(O・ファイジズによると)、という指摘等は、今日のロシアやプーティン(Putin)について考えるにあたっても興味深い。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」(1997年、〈日本会議〉設立宣言)という宣明は、とくにロシア国民にとっては、どこか的はずれで幼稚だと、改めて思いもする。
 ——
 第20章・判決(Judgement)
 第一節①。
 (01) Yeltsin によるソ連共産党(CPSU)の禁止を、共産党員は争った。
 この事件は、新設されたロシア憲法裁判所の法廷によって1992年7月から審理され、五ヶ月間テレビで放映された。
 これは「ロシアのニュルンベルク」だと喧伝され、共産党に対する政治裁判と同然になったけれども、1945年のナツィス裁判とは違って、犯罪行為を追及される被告人はいなかった。8月の蜂起〔クー〕の指導者たちですら被告人ではなく、彼らは刑務所からすみやかに釈放され、恩赦を受けていた。//
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 (02) Gorbachev は、証人として出廷するのを拒んだ。見せ物裁判で全ての罪責を負わされる(made scaprgoat)のを恐れたのだ。
 彼は、ニュルンベルク裁判との対比を否定した。のちに、〈回想録〉でこう書いた。
 ニュルンベルクでは、「特定の者たちが特定の残虐行為を行ったとして裁かれた。
 しかし、本当に犯罪者として有罪であるソ連共産党の指導者たちはすでに死亡しており、歴史だけが彼らに対して判決を下すことができる。」(後注1)
 だとすれば、これはいかなる性格の裁判なのか?//
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 (03) Yeltsin の法的チームは、ソ連共産党は正当(proper)な政党ではなく犯罪組織だったと主張すべく、60人以上の専門家の宣誓証言に支えられて、十月革命の歴史の全体に及ぶ36巻の文書資料を作成した。
 スターリンのテロルの犠牲者の一人だったLav Razgon は、収容所で死亡した人々の数の正確な計算を嘆願した。
 他の者たちは、スターリン後の時代の反対派や僧職者を追及すべく証言した。
 共産党員たちは、党の歴史について自分たちの見方を述べ、ソヴィエトの工業化の達成、1945年の勝利、スプートニク宇宙計画を強調した。//
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 (04) 法廷は、ソヴィエトの歴史について判断する権能を自分たちは有しないと声明し、妥協的な評決に達した。Yeltsin によるソ連共産党の禁止を肯認し、一方で共産党員がロシアで党を再建することを許容した。
 ロシア連邦共産党は、法廷での審理直後の1992年11月30日に設立された。
 1993年3月までに、ロシア連邦共産党は、50万人以上の登録党員をもち、ロシアの新しい「民主政」のもとで他をはるかに凌ぐ最大の政党になった。//
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 (05) 党の歴史に関して、いかなる判決を下すことができたのか?
 党の「犯罪」の記録について、いったい誰が評決を下す法的または道徳的な権利を有したのか? 
 ニュルンベルクでは、罰せられるべき明らかな戦争犯罪があり、国際法のもとで裁判権をもつ軍事的勝利者がいた。
 しかし、以前のソヴィエト同盟を裁く司法権をもつ解放勢力は存在しなかった。
 憲法裁判所は、そのような高度の権能を担える立場にはなかった。
 13名の裁判官のうち12名は、かつては共産党員だった。
 彼らは誰に対して判決を下すことができたのか?
 新しいロシア憲法は、ようやく1993年2月に採択された。このことは、党にその政策を実施するほとんど無審査の権力を付与していたBrezhnev の憲法に従って、彼らは法的決定を下す必要があることを意味した。//
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 (06) いったい誰に、判決が下されなければならなかったのか?
 Gorbachev にか?
 党指導部にか? KGB にか?
 あるいは、ソヴィエト・システムを動かしてきた数百万の幹部党員、警察官、監視兵たちにか?
 Yeltsin は大統領布告で、個々の共産党員が党の犯罪について責任を取らされてはならない、と述べた(彼は疑いなく、1976年と1985年のあいだはSverdlovsk の共産党の長だった自分の経歴について、多くを回答できたはずだった)。
 裁判途中にあったテレビ・インタビューで、この穏健な考え方の意味がつぎのように明らかにされた。
 「おそらく我々は、1917年以降初めて、言ってみれば、復讐という過程を開始しなかった。
 そうするのをロシアが抑制した、ということが重要だ。分かるだろう。」(後注2)//
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 (07) 法廷もまた、妥協案に達したとき、ナショナルな統合と和解の必要を考えていた。
 座長が事情聴取の開始に際して述べたように、「当事者が法廷のどちらの側に座っていようとも、白軍と赤軍が行ったように互いに破壊し合うのではなく、のちには一緒に生きていかなければならない」のだった。(後注3)//
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 (08) こうした宥和的な姿勢の結果として、ソヴィエト体制による人権侵害について、誰に対しても正義(justice)が行われなかった。
 従前のKGB やロシアの共産党の官僚に対しては、いかなる訴追も行われなかった。これは、以前のソヴィエト連邦のその他の諸国、とくにエストニアやラトヴィアと異なっていた。これら諸国では、1940年代に大量の逮捕やバルト諸国からソヴィエトの収容所への強制移送を実行した元NKVD職員に対して、明確な意思をもつ審判が行われた。
 東ヨーロッパやバルト諸国にあったような、犯罪に加担した者たちを暴き、上級官職から排除する、浄化(lustration)の法制も政策もロシアにはなかった。//
 ——
 第一節②へと、つづく。

2535/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第六節。
 (01) ソヴィエト同盟の崩壊は、完全な革命ではなかった。
 Gorbachev の改革によって社会は活性化し、政治化したけれども、ソヴェト体制が瓦解したのは、Gorbachev の改革努力によってではなかった。
 かりに今後に歴史が何かを明らかにするとすれば、ロシアにおける長年にわたる民主主義の弱さだ。—民衆が現実的な変化を達成することができないこと。//
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 (02) Gorbachev は自分の挫折を導いた諸事態の鍵となる登場人物だった。
 改革を通じてソヴィエト同盟を救おうとする元来の計画から判断すると、彼は失敗する運命にあったに違いない。
 しかし、彼の意図は自分の見解が進展するにつれて変化し、この期間に多数のことを達成したと評価されるべきだ。とりわけ、ロシアに民主主義の基礎を築いたこと、ソヴィエトの支配からnationsを解放したこと、冷戦を終結させたことで。
 おそらく彼の主要な功績は、ボルシェヴィキが平和的に権力を放棄する舵取りをしたことだ。ボルシェヴィキの権力は、ほとんど4分の3世紀のあいだ、テロルと強制力に依拠していた。
 Gorbachev は、内戦や大きな暴力なくして、ボルシェヴィキの独裁を廃止することができた。これは容易ならない可能性しかなかったことで、これゆえにこそ、彼は現代史上の偉大な人物の一人だという、西側での彼の評価と地位に値する。
 出発したとき、革命を終わらせることは、彼の意図ではなかった。
 Gorbachev は、レーニン主義者として、ソヴィエト・システムを改革することで社会主義を建設するのは可能だと信じていた。
 彼は後年には、共産主義から民主政への行路を指揮するのがつねに自分の計画だという、異なる考えを抱くことになった。
 しかし、真実を言えば、彼は政治上のコロンブスだった。約束された土地を見出すべく出発したが、別の異なる土地を発見したのだ。//
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 (03) 成功した革命かに関しては、政治的エリートを交替させたかが本当の検査対象になる。
 大まかには、これは東欧の諸革命が実現したことだった。
 しかし、ロシアでは、1991年の事件の結果として多くの変化があったのではなかった。
 Yeltsin 政権は、共産主義体制の権力悪用に加担したり高位の職にとどまり続けたりした役人たちを暴いた東ヨーロッパの多くと比べると、浄化するための法制を何ら作らなかった。
 政治家や成功した事業家の大部分は、Yeltsin のロシアでは、ソヴィエト・ノメンクラトゥーラ(nomenklatura)(党指導者、議会議員、工場管理者、等々)の一部だった。 
 Yeltsin の大統領府の4分の3の職、ロシア政府のほとんど4分の3の職が、1999年時点での従前のノメンクラトゥーラ構成員でもって占められていた。
 地域政府では、その割合は80パーセントを超えた。半分以上が、Brezhnev のもとでのノメンクラトゥーラの一員だった。//
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 (04) 1990年代のビジネス・エリートたちも、以前のソヴィエトや党の官僚の出身だった。
 Gorbachev 時代の法的混乱によって、彼らは国有資産を私的な財産に変更することができた。
 1986年以降、コムソモール(Komsomols,共産主義青年同盟)は商業取引をすることを法的に認められ(輸出入業、店舗、そして銀行すら)、書類上の収益を流動的現金に変えた。
 これは、Mendeleev 化学・技術研究所にいるコムソモールの役員から最初の民間銀行の一つのMenamap の総裁になるという、Mikhail Khodorkovsky が歩んだ途だった。
 役員たちは、裕福になった。西側企業との共同事業を立ち上げることにより、またロシアでの銀行市場での現金取引から個人的利潤を得るべく外国債権を用いることにより。
 1987年から、ソヴィエトの公務員は国有資産を購入し始めた。これは、残りの民衆が国有資産から何がしかの分配を受け取ったときよりも、ずっと前のことだった。
 諸省庁は商業化し、一部は上級官僚が営む事業体として経営された。彼らは、自分たちが管理してきた資産を最低価格で自分たちに売った。 
 工場と銀行は、同じように売り払われた。//
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 (05) ソヴィエト・システムの崩壊は、ロシアの富や権力の配分を民主主義化しなかった。
 1991年のあと、ロシア人は、何も大きくは変わらなかったと考えるのを許されてきた。少なくとも、良い方向には変わらなかったと考えるのを。
 疑いなく、ロシア人の多くは、1917年の後と多くは同じことだと思っていた。//
 ——
 第六節、終わり。第19章も終わり。第20章(書物全体の最終章。表題は<Judgement>)へと進むかは未定。

2534/O.ファイジズ・ソ連崩壊⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第五節。
 (01) Gorbachev は、党の一体性を維持することで、1991年のソヴィエト体制の崩壊とともに滅びることを自ら確実にした。
 その崩壊は、1989年に東ヨーロッパでの革命とともに、ソヴィエト帝国の外縁部で始まった。
 モスクワからの軍事的支援がないままで、東ヨーロッパの共産党体制は、民主主義運動に抵抗することができなかった。その運動は、共産党に権力から去ることを要求し、新しい指導者たちを選んだ/
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 (02) ポーランドでは、大衆ストライキと抗議運動によって共産主義者は連帯(Soridarity)との円卓会談を行うことを余儀なくされ、1989年6月に政府が確信を持てない議会での投票と自由選挙に準じたものが行われた。その選挙で連帯は、候補者を立てることが認められた全ての議席を総占めする勝利をかち得た。
 共産主義者の権威は傷ついた。
 Jaruzelski が大統領として返り咲き、連帯の活動家のTadeusz Mazowiecki が首相になった。これは1989年9月のことで、この40年間で東ヨーロッパでは最初の非共産党政権だった。//
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 (03) ハンガリーでは、共産党は自分たちの権力の放棄について民主主義フォーラムの活動家たちと交渉した。後者は新しい議会を構成する複数政党選挙で、最大多数の票を獲得した。
 ハンガリー革命は、ベルリンの壁の崩壊と東ドイツ(GDR)の共産主義体制の瓦解につながった。
 ハンガリーがその国境をオーストリアに開いて数千の東ドイツ人が西側に旅行することを認めたとき、危機が始まった。
 出国(exodus)を食い止めようとする試みは、とくにLeipzig〔当時、東ドイツ〕で大衆的抗議を生み、政府への圧力となった。
 アメリカ合衆国のテレビによって語って、市民は自由に出国しているという印象を政治局の報道官が与えた。—これは、東側で観られていた西ドイツのテレビ局が取り上げた物語だった。
 壁が開いていると考えて、東ドイツの数万の市民たちが、11月9日から国境に到着した。
 政府からの明確な指示がないまま、監視兵は、彼らを西側へと通過させた。
 壁は、壊れた。//
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 (04) チェコスロヴァキアでは、ベルリンの壁の崩壊は、Václav Havel その他の老練な反体制者たちが組織した市民フォーラム(the Civic Forum)が主導した広汎な抗議運動を呼び起こした。
 11月25日までに、80万人の抗議者がプラハの街頭に出現した。
 その二日後、ゼネ・ストに住民の4分の3が加わった。
 共産党体制は自由選挙について譲歩し、権力を手放した。そして、12月29日の連邦議会の満場一致の票決によって、Havel が大統領となった。//
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 (05) 東欧革命は、ソヴィエト同盟内部でのナショナリストの運動に油を注いだ。
 バルト諸nations は、最初に独立を求めた。それに、ジョージア、アルメニア、および実質的にはウクライナとモルダヴィアの地域が、続いた。
 より遅く反応したのは中央アジア諸共和国で、そこではエリート層はソヴィエト・システムに依存しており、民衆が選択するのはIslamic になりそうだった。//
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 (06) Gorbachev の改革は、二つの態様でナショナリスト運動が勃興する条件を生んだ。
 第一に、彼が1990年3月にソヴィエト大統領という新しく作った地位に就任したことは、共和国の指導者たちが自分たちの権力基盤を形成する先例となった。
 1991年6月にYeltsin がロシア共和国の大統領に選出されたことは、ロシア共和国内部では、選出されていないソヴィエト大統領よりも強い権威をYeltsin に与えた。
 第二に、各共和国の最高ソヴェトについての競争選挙の導入によって、ナショナリストはこの最高の議会を統制して、モスクワからの独立を宣言するために利用することができるようになった。
 バルト諸国では、ナショナリストが1990年の選挙で圧倒的な勝利を獲得した。
 この諸国では、共産党は圧力のもとで分裂し、主権をもつことに賛成する党派としてソ連共産党を脱退し、ナショナリストの票を求めて競い合った。//
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 (07) 警察による弾圧も、ジョージアとバルト諸国での独立運動を盛んにさせた。
 Tbilisi 〔ジョージアの首都〕では、ソヴィエトの警察によって1989年4月に、19人のデモ参加者が殺害され、数百人が重傷を負った。
 リトアニアとラトヴィアでは、1991年1月の弾圧によって、17人が殺害され、数百人が負傷した。
 こうした弾圧は大部分は、KGB や軍部にいる共産党の強硬派が主導していた。彼らは、ナショナリストの暴力的反応を挑発しようとしていた。そうなれば、ソヴィエト同盟の瓦解を阻止すべく非常事態宣告の議論をするために用いることができた。
 Gorbachev は、これに抵抗して党を分裂させる危険を冒さずに、強硬派に譲歩し、Boris Pugo を内務大臣に、Gennady Yanaev をソヴィエトの副大統領に任命した。//
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 (08) Gorbachev は、ソヴィエト同盟を再構築しようとする彼の計画のためには、彼らの支持を必要とした。
 彼は、各共和国が国民投票を経て合意するならば、新しい同盟条約について交渉しようと提案した。
 ソヴィエト同盟を一緒に守る連邦構造に合意したかったのだが、彼はそれを力でもって維持するのは間違っていると考えた。
 Gorbachev は、レーニンのように、ソヴィエト同盟は自発的な意思にもとづく同盟として存続し得ると信じた。//
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 (09) 六つの共和国は、完全にソヴィエト同盟から離脱する決意をもち、この国民投票を拒否した(ジョージア、アルメニア、モルダヴィア、バルト三国)。
 他の九共和国では、1991年3月17日の国民投票で、人口の76パーセントがソヴィエト同盟の連邦構造の維持に賛成する票を投じた。
 条約草案がソヴィエト政府と九共和国の指導者たちの間で交渉された(「9+1」合意)。そして、モスクワ近郊のNovo-Ogarevo で署名された。
 この交渉で、Yeltsin(ロシア大統領に選出されたあと、強い立場だった)とLeonid Kravchuk(ナショナリストに変身してウクライナの大統領になるのを狙っていた)は、ソヴィエト大統領から各共和国へと、従前はクレムリンにあった多数の権能を抜き出していた。//
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 (10) 8月までに、九のうち八共和国が、条約草案に同意した。—唯一の例外はウクライナで、1990年の国家主権の宣言を基礎にする同盟に投票した。
 この条約草案は、ソヴィエト連邦を、ヨーロッパ同盟に似ていなくはない、独立国家の連邦に転換していただろう。単一の大統領、単一の外交政策、単一の軍事兵力をもつけれども。
 条約は、ソヴィエト連邦をソヴェト主権共和国同盟と改称していただろう(「社会主義」の箇所が「主権」に変わる)。
 〔1991年〕8月4日、Gorbachev はクリミアのForos で休日を過ごすべくモスクワを発った。8月20日には、新しい同盟条約に署名するために首都に帰還するつもりだった。//
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 (11) 条約は同盟を救うことを意図していたけれども、強硬派は同盟の瓦解を促進することを恐れた。
 強硬派は、行動するときだと決断した。
 8月18日、陰謀者の派遣団がForosu へ急いで行って、非常事態の宣言をすることを要求した。そしてGorbachev が最後通告を拒んだとき、彼らはGorbachev を建物内に拘禁した。
 モスクワでは、自ら任じた国家非常事態委員会が、権力を掌握したと宣言した(これに加わっていたのは、ソヴィエト首相のValentin Pavlov、KGB 長官のVladimir Kruchkov、国防大臣のDmitry Yazov の他に、Yanaev、Pugo ら)。
 疲れていると見えたYanaev 〔Gorbachev 任命の副大統領〕は、両手をアルコール症的に震わせながら、世界のプレスに対して、自分が大統領職を奪取していると、不確かに発表した。//
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 (12) 国家転覆者たちは、ためらいが過ぎて、成功する現実的な可能性を持たなかった。
 おそらくは、最後までシステムを守るに必要な手段を奪うという意思を、彼らすら有していなかった。
 彼らはYeltsin を拘束することができなかった。Yeltsin はホワイト・ハウスへ、ロシア議会(最高ソヴェト)の所在地へ、向かった。そこで彼は。クー・デタに対抗する民主主義防衛隊を組織することになる。 
 国家転覆者たちは、クーへの抵抗を抑止するためにモスクワに持ち込んだ戦車部隊に対して、決定的な命令を発することができなかった。
 いずれにせよ、彼らの味方である上級の軍司令官たちの間にも分かれがあった。 
 ホワイト・ハウスの外側に駐留していたTamanskaya 分団は、Yeltsin に対する忠誠を宣言した。彼は、戦車の一つの上に登って、群衆に向かって呼びかけた。
 流血の事態は起こらないまま、この時点以降は、転覆者たちがホワイト・ハウス攻撃に成功するのは不可能になった。
 だが、彼らは、闘う気分をそもそも持っていなかった。//
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 (13) クーはすみやかに終わった。
 8月22日に、その指導者たちが逮捕された。
 Gorbachev は、首都に戻った。
 しかし、1917年8月のKornilov 陰謀事件の後のケレンスキーのように、Gorbachev は自分の地位が侵食されていることを知った。
 クーは共産党への信頼を大きく傷つけ、主導権を、ロシア共和国大統領で「民主主義の守り手」のYeltsin へ移した。 
 Yeltsin は、8月23日に、クーでのソ連共産党の役割を調査するあいだ同党の活動を停止する布令を発した。
 その日の夜半、群衆が、Lubianka のKGB本部建物の外側にある、チェカ創設者・Dzerzhinsky の立像を倒壊させた。
 翌日、Gorbachev は、ソ連共産党総書記を辞任した。
 8月25日、ソ連共産党の財産は、全ての文書資料と銀行口座も含めて、ロシア(共和国)政府が掌握した。//
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 (14) 〔1991年〕11月6日、Yeltsin は、ロシアでのソ連共産党を禁止した。
 その布令は、法技術的には、ロシアの大統領の権限を超えている点で違法だった。
 しかし、Yeltsin は、歴史的根拠を理由として正当化した。「ソヴィエト同盟の人民が追いやられた歴史的苦境(cul-de-sac)と、我々が到達している解体状態に対して」その党には責任がある、と宣告したのだ。(後注8)//
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 (15) Gorbachev は、同盟条約の交渉をなおも再開したかった。
 しかし、Yeltsin はそれに反対した。ソヴィエト同盟の解体はロシアにとっての勝利だと見たのだ。一方で、その他の共和国、とくにウクライナは、その潜在的な抑圧の力がクーによって暴露されたモスクワとの同盟には、どのようなものであれ警戒するようになっていた。
 Novo-Ogarevo 会談が11月に再び始まったとき、Yeltsin とKravchuk〔ウクライナ〕 は、ソヴィエト政府からのいっそうの譲歩を要求した。
 まるでソヴィエト連邦が主権国家同盟へと変わるように見えた。
 しかし、12月1日に、独立に賛成するウクライナの一票が、ソヴィエトという国家の船に巨大な穴を吹き込んだ。
 一週間後、Yeltsin、Kravchuk とべラルーシの指導者のStanilav Shushkevich は、ベラルーシで会って、ソヴィエト同盟の解体を発表した。
 独立国家共同体(Commomwealth of Independent States, CIS)がこれにとって代わることになる。//
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 (16) 実質的には、三つの共和国の指導者たち(Yeltsin、Kravchuk、Shushkevich)による、ソヴィエト連邦から離脱して自分たちのnational な政権を樹立しようとするクー・デタだった。
 クリスマスの日にクレムリンからテレビで放映された別れの演説で、Gorbachev は、ソヴィエト同盟の廃止を支持することはできない、なぜなら憲法上の手続でまたは民主主義的な民衆の投票で承認されていないのだから、と宣言した。
 世論は〔「共同体」ではなく〕同盟を支持していた。
 ソヴィエト同盟を終焉させたのは、指導者とエリートたちだった。//
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 第五節、終わり。

2533/O.ファイジズ・ソ連崩壊④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第四節。
 (01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
 社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
 Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
 ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
 彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。 
 Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
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 (02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
 在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
 彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
 国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
 競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
 レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
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 (03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
 政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
 彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
 何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
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 (04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
 1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
 これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
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 (05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
 5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
 議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
 Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
 彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
 彼は7月2日にテレビでこう表明した。
 「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
 政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
 ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
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 (06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
 レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
 このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
 Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
 このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
 ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
 政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
 ——
 第四節、終わり。

2532/O.ファイジズ・ソ連崩壊③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ
 第三節。
 (01) グラスノスチ(glasnost、情報公開)は、Gorbachev の改革の中の本当に革命的な要素で、システムをイデオロギー的に解体する手段だった。
 ソヴィエト指導者は政府に透明性を与え、改革に反対するBrezhnev 保守派たちの力を削ぐことを意図した。 
 グラスノスチの初期の呼びかけは、1986年4月のChernobyl 原発事故—史上最悪でヨーロッパの多くに影響を与えた—のはずべき隠蔽によって強化された。
 しかし、glasnost の影響は、Gorbachev の統制を超えて急速に大きくなった。//
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 (02) 検閲を緩和した glasnost は、党はマスメディアを掌握できないことを意味した。マスメディアは、従前は政府が隠していた社会的諸問題を暴露し(劣悪な住居、犯罪、生態学的破綻、等)。それによってソヴィエト・システムへの民衆の確信を掘り崩した。//
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 (03) ソヴィエト史に関する暴露も、同様の効果をもった。
 次から次に、システムを正当化する神話は、新たに公にされた文書や外国で翻訳されて出版された書物で明らかになった暗い事実だとして、攻撃に晒された。その神話とは、資本主義社会に対する物質的かつ道徳的優位、ナツィズムを打倒したという名誉、集団化と五ヵ年計画による国の近代化、大衆を基にした1917年10月の革命による創設、といったものだ。
 メディアは毎日、この国の暴力的歴史の「黒点」が多数つまった暴露を掲載した。大量テロル、集団化、飢饉、Katyn の虐殺の詳細。グラク(強制収容所)の恐怖、偉大な愛国戦争でのソヴィエト兵の生命の無謀な浪費の全容。
 これらは、ウソと半分真実が混じったものとして、こうした事件の公式の記録を暴露することによって、体制の信頼性と権威を揺るがせた。//
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 (04) 人々の信頼は政府から離反していった。—その多くは、こうした真実を暴露したメディアに原因があった。
 最も大胆な新聞や雑誌は、途方もなく売れた。
 〈Argumenty i fakty〉(論争と事実)の週間予約購読者数は、1886年から1990年のあいだに、200万から3300万に増えた。この週刊誌はプロパガンダ機関であることをやめ、かつて秘密だった事実やソヴィエトの生活についての批判的見解を伝えるソースになった。
 毎金曜日の夜に、数千万人の若者たちが、〈Vzglyad〉(View)という番組を観た。この番組は、ソヴィエトの検閲による制約はもちろん、個人的好みの限界をも無視して、今日的問題に関するテレビ編集、インタビュー、歴史の探索に突進した(やがて1991年1月に禁止された)。//
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 (05) Glasnost は、社会を政治化した。
 独立の公共的団体が結成された。
 1989年3月までに、ソヴィエト同盟には6万の「非公式の」グループやクラブがあった。
 これらは、街頭で集会を開き、デモ行進に参加した。多くは、政治改革、市民の権利、ソヴェト諸共和国や地域の民族的独立性、あるいは共産党による権力独占の廃止を呼びかけるものだった。
 大都市では、1917年の革命的雰囲気が蘇ってきていた。//
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 第三節、終わり。

2531/O.ファイジズ・ソ連崩壊②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第二節。
 (01) Gorbachev は、レーニン主義の理想から始めた。
 脱スターリン化の基本方針がその政治的発展の契機となったKhrushcev のように、Gorbachev は、「レーニンへの回帰」の可能性を信じた。
 他の指導者たちはソヴィエト国家の創設者に口先だけの賛辞を寄せた一方で、Gorbachev は、レーニン思想は彼が直面している革命的挑戦にとつてなお意味があると信じて、レーニンを真剣に考察した。
 彼は、遺言のレーニンに共感していた。—レーニンが最後に書いたもので、NEP での市場への譲歩の問題に取り組み、内戦で間違った革命の是正には民主主義がより多く必要だとしていた。—彼は、レーニンが考えたことに対応するものを見た。それを60年後に仕立て直さなければならなかったのだ。
 ソヴィエトの民衆と政治的エリートに皮肉な見方が大きくなっているときに、Gorbachev は楽観的なままであり、仕組みを改革する可能性を純粋に信じていた。
 彼は、レーニンの革命を道徳的かつ政治的な刷新を通じて作動させることができると、真摯に考えた。
 この意味で、Gorbachev は、最後のボルシェヴィキだった。//
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 (02) 改革への彼の理想主義的信念を最もよく示す例は、彼が最初にしたことだ。すなわち、1985年4月の布令によって発表された、反アルコール決定。これによってウオッカの価格は3倍になり、ワインとビールの生産は4分の3に減った。
 「ウオッカで共産主義を建設することはできない」と、Gorbachev は言った。
 のちに彼が認めたように、この初期の段階での彼の思考のいくつかは「ナイーヴでユートピア的だった」。(後注2)
 アルコール依存症者たちは、この政策に妨げられることなく、安くて危険な密造酒を闇市場で購入し(砂糖が突然に店舗から消えた)、またはオーデコロンや化粧水を飲んだ。
 国家はウオッカ販売による貴重な収入源を、1985年の総額の17パーセント失い、消費用物品や食料を輸入する力を減らした。それで、購入や飲食を減らした人々は、不満を募らせることになった。//
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 (03) Gorbachev は、党内指導層に改革を支持する多数派をもたず、Khrushcev が辿った運命を回避するためには慎重に事を進める必要があると意識していた。
 1985-86年、彼は経済の「迅速化」(〈uskorenie〉)だけを語った。これは、アルコール禁止にふさわしく、紀律を強化し、生産性を向上させるAndropov の方法を模倣したものだった。
 1987年1月の中央委員会総会でようやく、Gorbachev は、そのペレストロイカ(perestroika)政策の開始を発表し、それは指令経済と政治制度の急進的な再構築という「革命」だと表現した。
 Gorbachev は、自分の大胆な決定を正統化するためにボルシェヴィキの伝統を援用し、つぎの威厳ある言葉で演説を締め括った。
 「我々は懐疑者にすらこう言わせたい。そのとおり、ボルシェヴィキは何でも行うことができる。そのとおり、真実はボルシェヴィキの側にある。そのとおり、社会主義は人間のために、人間の社会的経済的利益とその精神的な向上に奉仕するシステムだ。」(後注3)
 これは、新しい1917年10月の主意主義(voluntarist)の精神だった。//
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 (04) 経済的には、perestroika はNEP と多く共通していた。
 perestroika は、市場メカニズムによって計画経済の構造に対して生産の刺激と消費者の需要の充足を加えることができる、という願望に満ちた想定に依存していた。
 賃金や価格に対する国家統制は、1987年の国家企業体に関する法律によって緩和された。
 協同組合は1988年に合法化され、カフェ、レストラン、小店舗や売店が急に出現することになった。たいていの店でウオッカや(今や再び合法化された)、タバコ、外国から輸入したポルノ・ビデオが売られた。
 しかし、こうした手段では、食糧やより重要な家庭商品の不足を沈静化することができなかった。
 インフレが大きくなり、賃金と価格の統制の緩和によって悪化した。
 計画経済の廃止によってのみ、危機は解消され得ただろう。
 しかし、イデオロギー的に、それは1989年までは不可能だった。その年にGorbachev は、ソヴェト型の思考から決裂し始めた。そして、さらに急進的に1990年8月に合法化し、そのときに、市場にもとづく経済への移行に関する500日計画が、ついに最高ソヴェトによって導入された。
 しかし、そのときまでにすでに、経済の破綻を抑えるには遅すぎた。//
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 (05) Gorbachev は、社会主義的思考での「革命」だとしてperestroika を提示し、—彼自身の理想化した読み方によった—レーニンの言葉で、絶えずそれを正当化した。
 彼は、公務員の本当の選挙を伴う、政府でのさらなる「民主主義」を呼びかけ、従前はタブーの言葉だった「多元主義」について語り、党に対してその創設者の「社会主義的人間中心主義」への回帰を迫った。
 「Perestroika の意図は、理論的および実践的観点からするレーニンの社会主義の観念を、完全に復活させることだ」と、Gorbachev は、十月革命70周年記念集会で宣言した。(後注4)
 この「人間中心主義」や「民主主義」は、レーニンの理論や実践には、ほとんど見出され得ないものだったけれども。
 しかし、Gorbachev は、その改革への党指導層の支持を望むならば、レーニンの名を引き合いに出す必要があった。//
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 (06) 外交政策でこの「新しい思考」が意味したのは、階級闘争という冷戦に関する党の理論的枠組を放棄して「普遍的な人間の価値」の増進に代える、ということだった。
 このことは、ソヴィエト経済の利益を無視することにつながる、より実践的で「常識的」接近を含んでいた。
 また、Brezhnev(ブレジネフ・)ドクトリンを放棄するという意味も包含していた。
 Gorbachev は、東ヨーロッパの共産党指導者たちに、今や彼ら自身の判断で生きるべきことを完全に明瞭にした。
 彼らがその民衆の支持を獲得できなくとも、モスクワは助けるために介入するつもりはない、ということを。
 民衆の支持は東欧の共産党指導者たちが自分たちでperestroika を行なってかち取ることを、Gorbachev は望んだ。
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 第二節、終わり。
 

2530/O.ファイジズ・ソ連崩壊①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 この書物の章順の表題は、つぎのとおり。
 01/出発、02/「舞台げいこ」、03/最後の望み、04/戦争と革命、05/二月革命、06/レーニンの革命、07/内戦とソヴィエト体制の形成、08/レーニン・トロツキー・スターリン、09/革命の黄金期?、10/大きな分岐、11/スターリンの危機、12/退却する共産主義?、13/大テロル、14/革命の輸出、15/戦争と革命、16/革命と冷戦、17/終わりの始まり、18/成熟した社会主義、19/最後のボルシェヴィキ、20/判決。
 これらのうち、「ソ連解体」期に関する19章・20章を試訳してみる。なお、18章はスターリンの死から始まっているようだ。
 書名は「革命的ロシア-1891〜1991」であって「ソ連史」ではないが、大まかには前史を含む<ソ連史>だろう。
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution (1996, Memorial Edition 2017)という「ロシア革命史」の書物もあり、この欄で一部の試訳を掲載しているが、これとは別の書物。
 各章内の節分けはないが、一行の横線を引いた明確な区分けがあるので、便宜的に各「節」の区切りとして扱う。一行ごとに改行し、段落の初めに元来はない数字番号を付す。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第一節。
 (01) ソヴィエト体制が突然に終焉するとは、誰も想定していなかった。
 たいていの革命は、轟音ではなく嗚咽とともに死ぬ。
 1989年〜1991年の事態は一つの革命だと、ある人々は言う。
 これは全く正しくはない。
 しかし、体制が崩壊した速さに誰もが驚いたために、革命という名をかち得たのだろう。//
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 (02) 1985年、ソヴィエト同盟はどの国家とも同様に永続的なものに見えた。
 Gorbachev が解決しようとした諸問題のどれも、ソヴィエト体制の存在そのものを脅かしたのではなかった。
 経済は停滞していて、年間成長率は1パーセント以下で、生活水準は西側よりも大きく遅れており、石油価格の急激な下降(1980年価格の3分の1)は、体制の財政に大きな打撃を与えた。
 しかし、事態は、ソヴィエトの歴史上で政治的にもっと不安定だった時期よりもはるかに悪かった。
 人々は物不足に慣れるに至っていて、大衆的な抗議の兆しはなかった。
 体制は、改革しなくとも数年間は踏ん張っていけただろう。
 貧しい生活水準が長く続いても何とか切り抜けた独裁制の例は、豊富にあった。
 それらの多くは、ソヴィエト同盟が1980年代に経験したよりもはるかに悪い経済的環境の中でも生き抜いた。//
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 (03) 軍事予算は重荷になっていて、Reagan のSDI〔戦略防衛構想〕の開始とともにいっそう大きくなり始めた。
 東ヨーロッパの共産主義体制を安い石油と食糧で支援する費用は、やはり深刻な課題だった。
 クレムリンは、ポーランドの1980年危機に対処するためだけに、40億ドルを費やす必要があった。その年、大衆的ストは<連帯>という反対派運動に発展し、Jaruzelsky 政府による戒厳令の施行を強いることとなった。
 しかし、1985年までに、連帯運動は息切れがしたように見え、ソヴィエト帝国は安全だと思えた。//
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 (04) ソヴィエト体制が完全に崩壊した速さを説明するために必要なのは、ソヴィエト同盟の構造的問題にではなく、体制がその頂点から解きほどけていった態様に、目を向けることだ。
 仕組みを急進的に再構成する、切迫した必要性はなかった。
 「危機」があったとすれば、ソヴィエトの現実とソヴィエトの社会主義の理想との間に分裂が大きくなっていることに危機を感じとる、Gorbachev やその他の改革者たちの心理(the mind)の中にあった。
 現実の危機を惹き起こしたのは、Gorbachev の改革だった。すなわち、党の権力と権威の解体。
 観念上の革命が開始されたのは、グラスノスチ(glasnost、情報公開)が人々に体制を疑問視して代替の選択肢を要求するのを認めたことによってだった。
 18世紀のフランスの旧体制についてTocqueville が書いたように、「悪い政府にとつて最も危険な瞬間は、政府が改革を始めるときだ。…。辛抱強く我慢するのが長いほど、政府は矯正不能に見え、人々がいったん政府を排除する可能性を意識すれば、不満は耐え難いものになってしまう」。//
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 第一節、終わり。

2529/池田信夫グログ027—ウクライナ問題と八幡和郎。

  池田信夫のつぎの主張は、細かな点に立ち入らないが、しごく穏当なものだ、と思う。Agora 2022.04.05。
 「いま日本人にできることはほとんどないが、せめてやるべきことは、戦っているウクライナ人の後ろから弾を撃たず、経済制裁でロシアに撤兵の圧力をかけることだ。それは中国の軍事的冒険の抑止にもなる。八幡さんのような『近所との無用な摩擦は避ける』という事なかれ主義は有害である。」
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  これに対し、八幡和郎の書いていることは問題が多い。
 A・八幡和郎/Agora 2022.04.03「トルコ仲介の期待と戦争を終わらせたくない英米の迷走」。
 B・八幡和郎/Agora 2022.04.04「国際法・国連決議・軍事力より外交力が平和の決め手」。
  八幡の心底にあるのは、親アメリカ・親EU(またはNATO)立場を明瞭に語りたくない、語ってはならない、という心情だろう。
 上のAに「ロシア憎しで感情的にな」るのはいけない旨があるが、八幡によると、「感情的に」親ウクライナ=親EU(またはNATO)・親アメリカになってもいけないのだろう。
 ここで八幡が持ち込んでいるのは、「歴史観」や「価値観」だ。
 A①「制裁に反対しているのではない。欧米との同盟のために付き合えばいいが、歴史観などには独自の立場をとり、仲裁に乗り出すべきだと主張している」。
 「歴史観などには独自の立場をとり」という部分でうかがえるのは、親ウクライナ=親欧米の立場を支持すると、まるでアメリカやヨーロッパの「歴史観」をまるごと支持しているかのごとき印象を与える、という日本ナショナリストとしての「怯え」だ。
 B①「普遍的的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく同盟がめざされたのだが、これは、日本外交の指針であり、それが、とくに対中国包囲網の基本理念になっているということであって、それを超えて普遍的にひとつの同盟を形成するものではないし、アメリカ的な自由経済が正義だというのも世界で広く認められているわけでない」。
 この部分も面白い。「価値観」外交は対中国の理念であって「普遍的にひとつの同盟」を形成しようというものではない、とわざわざ書いている。さらに余計に、「アメリカ的な自由経済」に批判的な口吻すら漂わせる。
 「普遍的価値」を文字通りに共有はしていない(そのとおりだと秋月も思うが)のだから、「普遍的価値」でアメリカやヨーロッパと日本は「一体」だ、という印象を八幡は与えたくないのだろう。それを八幡は「怯え」ているのだ。
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  八幡和郎の思考方法は歪んでいる、適切ではない、と思われる。
 「歴史観」や「普遍的価値観」等を持ち出してはいけない。これらは、今次の問題を論評するにあたって、ほとんど何の関係もない。 
 端的に言って、今回の事案の争点は、当初によく言われたように、<力による現状変更>は許されるか、だろう。
 ここで問題になるのは、池田信夫も直接言及していないが、ソヴィエト連邦の解体のあと、またはそれと同時に、ロシアとウクライナの間でどういう国境線が引かれたか、だ。
 独立国家共同体(Commonwealth of Independent States =CIS)が発足したとき、「独立」主権国家としてのロシアとウクライナの間の国境はどのように定められていたのか、だ。つまり、1991年の「ベロヴェーシ合意」や「アルマトイ」宣言が基礎にしていた各国の領域・境界はどうだったか、だ。これにはソヴィエト連邦時代の両共和国の境界は形式的には関係がないが、明確に又は暗黙に前提とされた可能性はあるだろう。ついでに書くと、かつてのロシア・ウクライナの両共産党の力関係も、関係がない。
 この点を私は正確には知らないのだが、ウクライナの主張や2010年代のクリミア半島等をめぐる紛争・対立の動向や主張・論評等からすると、クリミア半島もウクライナ東部の二州も、元来(1991-2年頃の時点で)ウクライナの領土だといったん確定した、エリツィンも(ゴルバチョフ)も、いかにロシア系住民が多くとも、それに文句を言わなかった、異議を申立てなかった、のではないか。
 そうすると、確定している国境を超えて武力で侵入するのは「侵略」であり、<力による現状変更>の試みだ。これ自体がすでに(自力執行力に乏しいとはいえ)「国際法」・「国連憲章」等に違反しているだろう。
 ——
  八幡和郎は、この単純なことを認めたくないようだ。
 A②「ロシア帝国=ソ連=ウクライナ+ロシアその他であって、ロシア帝国=ソ連=ロシアでないといっても、屁理屈並べて否定するどうしようもない人が多い」。
 これは意味不明。今のロシアをかつての「ロシア帝国=ソ連」と同一視する者が本当にいるのか。
 A③「フルシチョフは幼少期にウクライナに移住、ブレジネフはウクライナ生まれで、いずれもロシア系ウクライナ人であり、ソ連統治下で有力者の地元としても、ウクライナは優遇され発展したといっても、嘘だと言い張るのだから始末が悪い」。
 これも意味不明。かりにウクライナ出身者やウクライナがソ連時代に優遇されたのだとして、そのような「歴史」は、今次の問題とは全く関係がない。
 Bにある「旧ソ連においてウクライナ出身者は権力中枢を占めており、お手盛りで地元として非常に優遇されており、ロシアに搾取されていたがごとき話は真っ赤な嘘だ」、も同様(B②)。
 戦前のスターリンの<飢饉によるウクライナ弱体化>政策を見ると、ウクライナが優遇されたというのも、八幡の日本古代史論とともに、にわかには信じ難い。スターリンの故郷・グルジア(ジョージア)には何の優遇もなかったのではないか。
 関連して、B③「ロシアは少数民族に寛容な国だが、ウクライナのロシア系住民に対する差別は虐殺だとか言わずとも相当にひどい」。
 後段の当否はさておき、「ロシアは少数民族に寛容な国」だというのは、一体いつの時代の「ロシア」のことなのか。現在のロシアも、数の上ではより少数民族であるウクライナ、ジョージア、チェチェン等に対して「寛容」だとは言えないだろう。
 ソ連、それ以前の「ロシア帝国」の時代、今のロシアが優越的地位を持っていたことは明らかだ、と思われる。ソ連時代の「ロシア共産党」は、実質的にはほぼ「ソ連共産党」で、その中核を占めた。レーニンとスターリンの間には「民族自決権」について対立があったと(とくにレーニン擁護の日本共産党や同党系論者により)主張されたものだが、ソ連全体=実質的に「ロシア」の利益に反しないかぎりで「少数民族」も保護されたのであり、民族問題についてレーニンとスターリンは50歩100歩、または80歩90歩の程度の差しかない。
 なお、評論的に言っても無意味だが、今次の問題の淵源は、少なくともソ連時代の、ソ連共産党時代の、民族問題の処理、連邦と構成共和国間の関係の扱い方、に不備があったことにあるだろう。
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  八幡は、少なくとも一ヶ月前、「アメリカ抜き」での和平を夢想していた。
 標語的には、Bの「国際法・国連決議・軍事力より外交力が平和の決め手」。
 また、いわく、B④「なにが大事かといえば、もちろん、軍事もある。しかし、それとともに、賢い外交だと思う。賢い利害調整と果敢な決断、安定性の高い平和維持体制の構築が正しい」。
 これと同じとは言わないが、吉永小百合の〈私たちには言葉というものがあります。平和のためには言葉を使って真摯に話し合いを>に少しは接近している。
 それはともあれ、A④「アメリカ抜きで交渉した結果、相当な進展があったようである」(「この交渉の進展が、英米はお気に召さないらしい」→「戦争を終わらせたくない英米」)
 A⑤「ゼレンスキーもNATO加盟は諦めてもいいといい、クリミアも15年間は現状を容認するとまでいっているのだから、両者の溝は狭い」。
 この一ヶ月の進展は、八幡和郎の幻想・妄想が現実に即していないことを証明している、と見られる。
 トルコの仲介が功を奏しているようには見えない。
 ロシアが、ウクライナが「NATO加盟は諦めてもいいといい、クリミアも15年間は現状を容認する」と言ったからといって、停戦・休戦し、和平・平和が訪れるようには思えない。
 NATO加盟とクリミア半島・東部二州だけをロシアが問題にしているようには、全く思えない。
 八幡は、日本ナショナリストで潜在的な「反米」主義=反「東京裁判史観」=反「自虐史観」の持ち主であることから、あまりアメリカに功を立ててもらいたくないのだろう。西尾幹二のようにEUをグローバリズムの「行く末」としてまるごと批判するのか、フランス・ファーストのルペンを仏大統領選では内心支持していたかどうかは知らない。
 八幡和郎は、新潮45(新潮社)の廃刊(2018年)のきっかけを作った杉田水脈(論考)を擁護する記事を、翌月号に、小川榮太郎等とともに執筆した人物でもある。
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2528/池田信夫ブログ026—馬渕睦夫著。

 池田信夫ブログマガジン2022年4月25日号「なぜ反ワクチンが反ウクライナになるのか」=同・Agora 2022.04.19。
  これは、馬渕睦夫の2021年秋の書物に対する批判だ。
 馬淵の本はいくつか所持しているが、まともに読んだことはない。
 こんな奇妙なこと(オカルト的なこと)を書く人なのだと間接的に知った。
 馬渕によると(その紹介をする池田によると)、「世界の悪い出来事」は全てDS=Deep State の陰謀で、このDS の正体は「国際共産主義運動とユダヤ金融資本とグローバル企業の連合体」らしい。
 表題によると、馬渕は「反ウクライナ」のようだが、だとすると「親ロシア」で、ロシアへの厳しい対応をしていないので「親中国」でもあるのだろうか。とすると、「国際共産主義運動」への敵意らしきものとの関係はどうなるのだろう。
 残念ながら、池田信夫の言及だけでは分からない。と言っても、馬淵のこの書物を購入して読む気もない。
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  池田信夫は、元ウクライナ大使の馬淵が「B級出版社」(池田は「ワック」をこう称する)から本を出す「ネトウヨ」となった背景をこう推測する。
 「精神疾患にかかった」とは考え難い。「右翼メディアも売れっ子になって、彼の右翼的信念がだんだんと強まった」のだろう。徐々に「過激」になるのは「よくあること」。「特にネトウヨ界隈では、穏健な右翼は目立たないので、だんだん過激にな」り、「まともなメディアには出られなくなるので、…ますます過激になる」という「悪循環」に入る。
 これは、相当に考えられ得る想定だ。「売れっ子」だとは感じていなかったけれども。 
 「ネトウヨ界隈」の雑誌類等の中で何とか「角を付けて」、だが「右翼」たる基本は失わないで泳いできた一人は、西尾幹二だろう。
 但し、池田信夫の「ネトウヨ」概念は少し単色すぎるきらいはある。
 池田によると、櫻井よしこも西尾幹二も、そして佐伯啓思も、きっと「ネトウヨ」に入るのだろう。正確な叙述を知らないが、近年に懸命に日本人・ユダヤ人同祖論を展開しているらしき「つくる会」第二代会長・田中英道もいる。
 だが、それぞれに、たぶん馬渕も含めて、違いはある。〈日本会議〉との距離も異なるし、「皇国史観」で一致しているかも疑わしいし、一致していてもその「皇国史観」の中身は同じでないだろう。
 もう一人、遅れてきた「ネトウヨ」の名を思い出した。Agora で表向きは池田と親しいのかもしれない、八幡和郎
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2527/R・パイプスの自伝(2003年)⑱。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の最後。
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 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う②。
 (06) このうんざりする主題について、コメントを二つ追加しよう。
 第一に、全体主義体制のもとで生きなかった人々は、それがいかに強く人々を捉えるか、最も正常な人々をすら、強くて明瞭な憎悪を掻き立てて怪物的な犯罪に手を染めさせるかを、想像することができない。
 Orwell は〈1984年〉で、この現象を正確に叙述した。
 この情感に囚われているあいだは、ふつうの人間の反応は抑圧されている。この体制が瓦解するや否や、その気分は冷める。
 この実証例によって、決して政治をイデオロギーに従属させてはならない、と私は確信した。あるイデオロギーが道徳的に健全な場合であっても、それを実現するには通常は暴力に訴える必要がある。社会全体がそのイデオロギーを共有することはないからだ。//
 (07) 第二に、ドイツ人について若干のこと。
 ドイツ民族は伝統的には、血に飢えているとは見なされていなかった。ドイツは、科学者、詩人、そして音楽家の国だった。
 だがしかし、大量虐殺の際立った達人たちであることが判った。
 1982年5月に、ワシントンで初めて会っていたフランクフルト市長のWalter Wallman を、彼の招きで、訪問した。
 我々は彼の家で私的な食事を摂り、ときには英語で、ときにはドイツ語で、さまざまな話題について会話をした。
 彼は、ある一点について、私に尋ねた。「ナツィズムはドイツ以外のどこかで発生し得たと思うか?」
 一瞬考えたあとで、私は、そう思わない、と答えた。
 彼は、「ああ神よ!」と言って、掌の中に顔を埋めた。
 私はすぐに、この上品な人物に苦痛を与えたのを悔やんだ。しかし、別の答えはあり得ない、と感じていた。//
 (08) ドイツ人に関して私がいつも感じている性格は、こうだ。生命のない物体や動物を扱うのは本当に秀逸だけれども、人間を扱う能力に欠けている。人間をたんなる物体としてしか扱わない傾向がある。(脚注1)
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 (脚注1) 読者の中には、ここでのドイツ人であれ、のちのロシア人についてであれ、こうした民族についての一般化に反対する人がいるだろう。そうであっても、私は遺伝子的特性ではなく文化的特徴について言っているのだ、ということに留意すべきだ。
 示唆しているのは教育であって、「人種」(race)とは何ら関係がない。
 かくて私の観察では、同じ文化の中で育ったドイツ・ユダヤ人は、彼らの言うポーランド・ユダヤ人よりもアーリア同胞人に似ていた。
 ついで、あるnation の構成員は一定の態様で行動する傾向があると言っても、これはむろん、全員がそうだ、ということを意味しない。〈大概は〉(grosso modo)の叙述的記述であり、総じて(by and large)間違いでななく本当だ、という記述だ。
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 ドイツ軍兵士が1939年に占領したポーランドから家に送り、のちに出版された手紙の中で、強調していたのはポーランド人とユダヤ人の「不潔さ」(dirtiness)だった、というのは重要だ。
 彼らの文化には関心を抱かず、衛生状態にだけ関心をもったのだ。(脚注2)
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 (脚注2) ポーランドの小説家、Andrzei Szezypiorski は、この気質をこう説明する。「ユダヤ人はしらみだ。しらみは絶滅しなければならない。このような考えはドイツ兵の想像力に訴えた。ドイツ人は清潔で、衛生と秩序を好んだからだ」。〈Noe, Dzien i Noe〉(1995)、p.242.
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 彼らは不潔な調度品にそうしたように、不潔な人間や家族世帯にうろたえたのだ。 
 彼らはまた、ユーモアのセンスをほとんど持っていない(Mark Twain はドイツのユーモアについて、「笑えるものでない」と言った)。(脚注3)
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 (脚注3) だが、助けが進行している。2001年の末に、イギリスの新聞は、オーストリアのアルプス保養地のMieming はユーモアを教えるドイツ人用の特別課程を始めた、と伝えた。それには「笑いの訓練」も含まれている。〈The Week〉,2001.12.22, p.7. 〈Sunday Telegraph〉から引用した。
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 したがって、ドイツ人には、ユーモアを可能にする人間の嗜好に対する寛容さのようなものが足りない。
 彼らは機械工学者だ—おそらく世界一の—。だが、人間は、際限のない理解と忍耐を必要とする生きている有機体だ。機械とは違って、厄介で気まぐれだ。
 ゆえに、教条のために殺害せよと命じられれば、廃棄した物品に対する以上の憐憫を何ら感じることなく、殺害する。//
 (09) あるドイツのSS〔Schutzstaffel,ナツィス親衛隊〕将校について読んだことを思い出す。Treblinka で勤務していた彼は、ユダヤ人を乗せた列車が彼らをガスで殺すべく到着したとき、彼らをたんなる「荷物」だと見なした、と語っていた。
 呪文で縛られたこのような者たちは、建設労働者たちが空気ドリルで舗道を壊すのと同様に感情を持たないままで、無垢で守る術なき人々を機関銃で殺害することができる。
 人間のこのような非人間化は、高度の〈Pflicht〉、「義務」意識と結びついて、他のどこかでは発生しなかっただろうようなホロコーストを、ドイツで可能にした。
 ロシア人は、ドイツ人よりもさらに多くの人々を、殺害した。また、自分たちの仲間を殺した。しかし、ロシア人は、機械工学的な精確さなくして、そうした。髪の毛や金の填物を「収穫」したドイツ人の理性的な計算を持たないで、殺した。
 ロシア人は、自分たちの殺害行為を自慢することもしなかった。
 私はソヴィエトの残虐行為の(彼らが撮った)写真を見たことがない。
 ドイツ人は、禁止されていたけれども、自分たちで無数の写真を撮った。//
 (10) かつてMünchen で、一時期にCornell でのロシア語教師だったCharles Malamuth を訪れた。
 彼はドイツ軍に接収されていたと思しきアパートを借りていた。
 コーヒー・テーブルの上に、以前の所有者が忘れて置いていったアルバムがあった。ふつうの人々ならば幼児や家族の小旅行の写真を貼っているようなアルバムだ。
 このアルバムには、東部戦線でヒトラーのために働いた家族の主人かその子息が家に送った写真が中にあった。ほとんど貼り付けられた、とても異なる種類の写真だった。
 私が見た最初は、ドイツ軍兵士が年配のユダヤ人女性を彼女の髪の毛を掴んで処刑の場所まで引き摺っているところを、写したものだった。
 つぎの頁には、三枚の写真があった。一つめは、赤ん坊を腕に抱えて木の下に立っている女性たちのグループだった。二つめでは、同じグループの女性たちが裸に剥かれていた。三つめは、大量に血を流して横たわっている、彼女たちの死体だった。//
 ——
 第七章、終わり。第一部も、終わり。続行するか未定だが、第二部の表題は、<Harvard>。

2526/R・パイプスの自伝(2003年)⑰。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の第七章に移る。
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 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う①。
 (01) 1945年春、ドイツは降伏した。また、我々とユダヤ人全てへの人的被害をもたらしたことが分かった。
 赤軍がポーランドに入り、そこからドイツに進行するにつれて、新聞は、解放された強制収容所や「絶滅」収容所に関する記事や写真を公にし始めた。人間は骸骨に近くなり、靴や眼鏡が殺害された犠牲者から奪われて山積みになっていた。火葬場で、ガスを吸わされた人々が灰になった。
 我々は、このような系統的で大規模な殺戮を予期していなかった。野蛮であったばかりか、ドイツはその戦争のためにユダヤ人を用いることができたから合理的でもなかったので、そんなことは不可能に思えた。
 連合国諸政府は、ドイツに占領されたヨーロッパで起きていることを知っていた。しかし、戦争は「世界のユダヤ」によって、彼らの利益のために行われているというヒトラーのプロパガンダ機構を助けるのを怖れて、沈黙を守る方を選んだ。
 私はロンドンにあったポーランド亡命政権の1942年12月10日付の冊子を持っている。それは「ドイツ占領ポーランドでのユダヤ人の大量虐殺」との表題で、連合諸国構成諸国に対して訴えたものだった。
 輸送された数十万のユダヤ人および同数の餓死しているか殺害されたユダヤ人に関する、正確で詳細な報告がなされていた。
 その情報は無視された。
 永久の汚名になるだろうが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちも、同族に対するジェノサイドについて、口を噤んだままだった。//
 (02) 1945年4月末、私はOlek からの手紙を受け取った。彼は戦争を生き延びたが、最初はワルシャワの、次いでウッチ(Łódź〉の「アーリア」側に隠れていた。
 そのあとすぐ、母親がポーランド・ユダヤの新聞の切り抜きを送ってくれた。それには、Wanda が自分の言葉で、Treblinka のガス室へと移送する家畜列車から飛び降りて、ドイツにあるポーランド人用強制収容所の労働者として終戦を迎えた、と書いていた。
 これらは奇跡だった。
 だが、我々の一族の他の者には、奇跡は乏しかった。
 母親の二人の兄は、何とか生き延びた。
 郵便による連絡が回復するや否や、彼らは、すでに知られていたようなホロコーストが母国で行われたと伝える手紙を、我々に送ってきた。
 私の伯父は二人とも学歴がなく、戦前に多くを成し遂げたというのでもなく、主として祖母の資産から生じる家賃で生活してきた。
 このことで、二人の手紙はいっそう強烈なものだった。
 母親の弟のSigismund は、戦前には女性を追いかける人生を送っていたが、こう書いてきた。
 「狂人になっているのではないかと思う。彼らが戻ってくるという想いだけが浮かぶ。
 母親と一緒にいた我々のArnold とMax、Esther そして(彼らの娘の)Niusia は1942年9月9日にファシストの凶漢によってゲットーから引き出されて、巨大な輸送車に積み込まれた。
 ドイツのやつらは最初は、定住地を変えるだけだと言った。しかし、分かったとおり、到着すると人々は生きたまま焼かれるかガスを吸わされたのだから、これは通常の殺害だった。
 数百万の人々が、ゲットー全体が、このようにして殺戮された。もっと残虐なこともあった。」
 Max は、こう書いた。
 「Sigismund と私は、Max(.Gabrielew)、(その妻)Esther とJasia がTreblinka へ移送されたことの証人だ。…
 我々みんなが愛して、深い悲しみが尽きないArnold は、いつものように、年老いて生きるのに疲れた我々の最愛の母親と一緒に、口元に微笑をたたえて、「死の列」に立っていた。 
 この73歳の女性も、勇敢に立っていた。…
 ああ、彼らを救う可能性はなかった。
 どんな人間の力も叡智も、(彼らの運命を)和らげる何事もできなかった。
 彼らに毒を渡すこともできなかった。」//
 (03) 既に語られてきていないホロコーストのことで、私に言えることはほとんどない。
 これは、ホロコーストに関して読んだり映画や写真を見て、意識的に萎縮してきたからですらある。
 私が読んだ虐殺の全ての事件や観た全ての映像は私の心に永遠に鮮明に刻み込まれ、悪魔的犯罪のおぞましい記憶想起物として今も漂っている、というのが私の理由だ。
 これには困ってきたが、私の精神の安定と生への前向きの姿勢を維持するために意識はしてきた。//
 (04) ホロコーストは、私の宗教的感情を動揺させなかった。
 知的にも情緒的にも、私は神の言葉をヨブ記が記録するように受け入れた。その第38章によると、我々人間には神の目的を理解することのできる能力がない。(脚注)
 ----
 (脚注) そう受容することで、私は知らないうちにタルムード(Talmudic)の聖人たちの、人間の理解を超越した問題を考察するのを思いとどまらせる助言、「汝にはむつかしすぎる事柄を探し出すな、汝に隠されている事柄を詮索するな」、に従っていた。A. Cohen, Everyman's Talmud (1949), p.27.
 ----
 多くのユダヤ人が、ホロコーストを理由として宗教的信条を失った。私の父親も、その一人だった。
 かりに何かあったとして、私の信条は強くなった。
 大量虐殺(同時期にソヴィエト同盟で起きていたものを含む)は、人々が神への信仰を放棄するとき、人間は神の心象によって造られていることを否定するとき、そして人間を魂の欠けた、ゆえに消耗し得る物資的対象にしてしまうときに、生じるものだ。//
 (05) 私の心理に対するホロコーストの主な影響は、私に認められてきた生きる毎日を楽しく感じさせたことだ。私は確実な死から救われたのだから。
 自己耽溺や自己肥大に費やすためにではなく、悪魔の思想がどのようにして悪魔的帰結を生じさせたかの歴史上の例を示したり使ったりして、道徳的教訓を広げるよう用いるために、私の生は残されたのだ、と感じたし、今日まで感じている。
 学者たちがホロコーストについて十分に書いてきたので、共産主義を例として用いて、その真実を明らかにすることが使命だ、と私は考えた。
 さらに、精一杯の幸福な人生を送るのが自分の義務だと、また、ヒトラーを許さないと、生がもたらす全てに満足していようと、陽気にしていて気難しくはしないと、私は感じたし、感じている。悲しみと不満は、嘘をつくことや残虐さに無関心であるのと同様に、冒涜の一形態だと私には思える。
 このような考え方は、私の個人的および職業的生活に影響を与えたのだが、私の若い時代の体験の結果だ。そうではなく、苦しい経験を免れた幸運な人々が人生や職業をより冷静に捉えるのは自然なことだ。
 その反面で、自由な人々の心理上の諸問題にはほとんど我慢できないことを、私は認める。とくに、彼らが「アイデンティティの探求」その他の自己探求の種々の形に耽溺しているならば。
 それらは、私に言わせれば、些細なことだ。
 ドイツの随筆家、Johanness Gross が人類は二つの類型に区別することができる、と書くのに、私は同意する。「問題をかかえる人々と、交際をする人々」。
 問題をかかえる者たちは彼ら自身に任せるのが、自己を維持するための重要な要素だ。(後注7) 
 (後注7) FAZ, Magazine,1981.09.11.
 ——
 ②へと、つづく。

2525/西尾幹二批判062。

 (つづき)
  西尾幹二は上記の引用文の中で、「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と書いた。
 こう2020年に書いたことと、「明白に」矛盾することを、西尾幹二は主張していたことがある。
 すなわち、西尾自身が「あれほど明白になっている」「現実」に、「新しい時代の自由」をいう「平和主義的、現状維持的イデオロギー」と「旧習墨守」をいう「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」に立つ論者は、いずれも「目を閉ざして」いる、と厳しく非難したことがある。
 月刊諸君!2008年12月号、p.36-37。
 西尾幹二は「あれほど明白になっている東宮家の危機」を上の両派ともに「いっさい考慮にいれ」ず、「目を閉ざして」いると論じる。
 そして、こうも書く。
 「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。
 自分たちの観念や信条の方が大切なのです。」
 そして上の危機、「東宮家の異常事態」、の中心にある「現実」だと西尾が「認識」しているらしきものは、つぎだ。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて、すでに五年がたっている」。
 この危機・異常事態を西尾は「日本に迫る最大の危機」とも表現するのだが、その点はともかく、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて」いるという「事実」は、どうやって認定、あるいは認識されたのだろうか。 
 テレビ番組での西尾発言を加えると、<病気ではないのにそれを装って(「仮病」を使って)>雅子妃は宮中祭祀を「明確に拒否」している、との「現実」認識を、西尾はどうして「あれほど明白になっている」とする危機の根拠にすることができたのだろうか。
 こういう「認識」の仕方は、西尾自身が2008年に非難していた、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。自分たちの観念や信条の方が大切なのです」とか、「イデオロギーに頼って…日本に迫る最大の危機すら曖昧にしてしまう」とかにむしろ該当するのではないか。
 さらに西尾が2020年著で批判する、「…をつい疎かにして、ひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうというようなこと」を自分自身が行っていたことになるのではないか。
 首尾一貫性がない、と評すれば、それまでだ。西尾幹二という人物は、いいかげんだ、で済ませてもよい。 
 「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と言いつつ、これと矛盾して、「あれほど明白になっている」現実を無視していると、多くの論者を糾弾することのできる<神経>が、この人にはあるのだ。
 なお、「過去の事実」と「現実」(=「現在の事実」?)は異なる、と言うことはできない。西尾は「五年」前からの「現実」を問題視しているのであり、一般論としても、「現在の事実」は瞬時に、あっという間に「過去の事実」(=「歴史」?)になってしまうからだ。「事実」という点において、本質は異ならない。
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 2020年著の冒頭頁の「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」という表現は、<事実それ自体は存在しない>というF・ニーチェの有名な一節を想起させる。そして、西尾は、単純に、アフォリズム的に、これの影響を受けているのではないか、とも推察することができる。
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 その部分は、現在は実妹のElisabeth が編集した「偽書」 の一部だとされていると思われる、『権力への意志(意思)』の一部だった。だが、この書自体は存在していなくとも、上の旨を含む一節・短文は現実に存在した、と一般に考えられていると思われる。 
 M・ガブリエル(Markus Gabriel)は、そのいう「構築主義」を批判する中で、ニーチェのつぎの文章を引用している。
 Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt (Taschenbuch), S.186,
 =清水一浩訳/なぜ世界は存在しないのか(講談社、2018年)p.61。
 (0) 「いや、まさに事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。
 我々は事実『それ自体』を確認することができない
 そのようなことを望むのは、おそらく無意味である。
 『そのような意見はどれも主観的だ』と君たちは言うだろう。
 しかし、それがすでに解釈なのだ。
 『主観』は所与のものではなく、捏造して付け加えられたもの、背後に挿し込まれたものである。」
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 上の前後を含む短文全体の邦訳を、以下に二つ示しておく。この欄でのみ便宜的に前者にだけ、対応する原語・ドイツ語を付す。//は本来の改行箇所。
 (1) 三島憲一訳/ニーチェ全集第九巻(第II期)・遺された断想(白水社、1984年)、397頁。
 「『存在するのは事実(Tatsachen)だけだ』として現象(Phänomenen)のところで立ちどまってしまう実証主義(Positivismus)に対してわたしは言いたい。
 違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈(Interpretation)だけなのだ、と。
 われわれは事実(Faktum)『それ自体』は認識(feststellen)できないのだ。
 おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。
 『すべては主観的(subjektiv)だ』とお前たちは言う。
 だがすでにそれからして解釈(Auslegung)なのだ。
 『主観』(Subjekt)ははじめから与えられているものではない。
 捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。
 とどのつまりは、解釈(Interpretation)の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?
 すでにこれからして虚構(Dichtung)であり、仮説(Hypothese)である。//
 『認識』(Erkenntniß)という言葉に意味がある程度に応じて、世界は認識しうる(erkennbar)ものとなる。
 だが世界は他にも解釈しうる(anders deutbar)のだ。
 世界は背後にひとつの意味(Sinn)を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。
 『遠近法主義』(Perspektivismus)。//
 世界を解釈(die Welt auslegen)するのは、われわれの持っているもろもろの欲求(Bedürfnisse)なのである。
 われわれの衝動(Triebe)と、それによる肯定と否定なのである。
 いっさいの衝動はそのどれもが一種の支配欲であり、それぞれの遠近法を持っていて、他のすべての衝動にそれを押しつけようとしているのだ。」
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 (2) 原佑訳/ニーチェ・権力への意志(下)(ちくま学芸文庫・ニーチェ全集13、1993年)、27頁。
 「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、
 否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
 私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない
 おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。//
 『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。
 しかし、このことがすでに解釈なのである。
 『主観』は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。
 —解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか?
 すでにこのことが、仮構であり、仮説である。//
 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。
 しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももっておらず、かえって無数の意味をもっている
 —『遠近法主義』。//
 世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。
 いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。」
 --------
 注記—上に出てくる「遠近法主義」とは、M・ガブリエル=清水一浩によると、「現実(Wirklichkeit)についてはさまざまな見方(Perspektiven)があるというテーゼ」とされ〔一部修正した〕、邦訳者・清水は「遠近法主義」ではなく、そのまま「パースペクティヴィズム」としている。
 このような言葉・概念の意味は、Nietzscheにおけるそれでもある(少なくとも、大きく異なるものではない)と見られる。
 ——

2524/西尾幹二批判061。

  さて、No.2523で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について叙述して、あるいは論じて、いるのだろうか。
 このように課題設定する前に、西尾幹二の<真意>を探ろうとする前に、そもそもこの人はつねに真面目にその「真意」を表現しようとしているのか、という問題があることを指摘しておかなければならない。
 ①「事実」または「真実」を明らかにする。②付与された紙数の範囲内で「作品」(文芸評論的、政治評論的な、等々)を仕上げて提出する。③世間的「知名」度を維持または形成する。④その他。
 付加すると、こうした西尾の<動機>自体の問題もある。西尾自身が、自分が書いてきたものは全て「私小説的自我」の表現だったと明言したことがあることも、想起されてよい。
 元に戻ると、西尾幹二は、明らかに自分自身を含むものについて、こう叙述したことがある。
 (1) 月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 (2) 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
 以上。
 このように書いたことがある西尾幹二の文章ついては、上の(1)に該当していないのか、上の(2)が述べるように100パーセント「全部ぶちまけている」のか否か、をつねに問題にしなければならない。
 --------
  上は気にしなくてよいという仮の前提つきで、あらためて真面目に問題にしよう。
 No.2522で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について、叙述しあるいは論じているのか。
 「歴史」に関するもののようだ。次のように言う。
 「歴史」は、「過去の事実を知ること」ではなく、「事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。
 「歴史」とは「『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』」であって、かつまた「『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』」なのではないか。
 歴史学者ではなく、一冊の歴史叙述書も執筆したことがない西尾の「歴史」論議を真面目に相手にする必要はない、と書けば、それで済む。
 秋月瑛二という素人でも、おそらく上の文章の100倍の長さを超える文章で、疑問を提起することができる。
 ここでの「歴史」はかなり限られた意味だ、そして「歴史」との区別も不明瞭だが「歴史」書も古事記、神皇正統記、大日本史、本居・古事記伝といった次元のものに限られている気配がある、過去の人が「考えていた」ものだけでなく遺跡・遺構・遺物や公家等の日常的な日記類(広く古文書類)も歴史の重要・貴重な「史料」だ、一時間前も一日前も一年前も10年前も「過去」であって「歴史」に属する、例えば秋月瑛二にも<個人史>または<自分史>があって、それも「歴史」の一つだ。
 『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が「歴史」だとも書くが、過去の人々が「どう信じ」たかも含めているのは気にならなくもないし、「総和」と言っても、過去の人々が「どう感じ、どう信じ、どう伝えたか」は各人によって相違する、矛盾することがあるのであり、「総和」などど簡単に語ることはできない。等々、等々。
 要するに、真剣な検討に値しない。「歴史」概念自体がすでに不明瞭だ。
 何を、どういうレベル、どういう単位で叙述する、または論じるのか。
 西尾は、上の文章に限られないが、おそらく、きちんと叙述しておくべき、自らだけは分かっているつもりなのかもしれない<暗黙の前提>を明記することを怠っている。
 ところで、「対象」とは日本語文でよく使われる言葉だが、哲学者のマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)は、「対象」(Gegenstnd)を<「真偽に関わり得る思考」(wahrheitfähige Gedanken)によって「考える」(nachdenken)ことのできるもの>と定義し、対象の全てが「時間的・空間的拡がりをもつ物」(raumzeitliche Dinge)であるとは限らない、「夢」の中の事象や「数字」も「形式的意味」での「対象」だ、とコメントする。また、「対象領域」(Gegenstandsberich)という造語?も使い、これを「特定の種類の諸対象を包摂する領域」と定義し、それら諸対象を「関係づける」「規則」(Regeln)が必要だとコメントする。
 M,Gabriel, Warum es die Welt nichi gibt (Taschenbuch/2015, S.264. 清水一浩の邦訳を参照した)。
 西尾においては、論述「対象」が何か自体が明瞭ではなく、「対象領域」を構成する別の対象との「関係づけ」も曖昧なままだ、と考えられる。「歴史」に関係する諸対象を「関係づける」「規則」を「歴史」(・「哲学」)の専門家ではない素人の西尾が知っているはずもない。
 よくぞ、『歴史の真贋』と題する書物を刊行できるものだと、(編集者の冨澤祥郎も含めて)つくづく感心してしまう。もっとも、「歴史」を表題の一部とする西尾の書は多い。
 専門の歴史家、歴史研究者、井沢元彦や中村彰彦のような歴史叙述者(後者は小説の方が多いが)は、かりに西尾の論述を知ったとして、どういう感想を持ち、どう評価するだろうか。
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  ついで、「事実」の把握または認識に関する叙述であるようだ。
 そして、以下のように語られている。「過去の事実」=「歴史」だとすると(こう理解させる文がある)、「歴史」と無関係ではない。
 「歴史」は、「過去の事実」について「過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。「過去の事実を直(じか)に知ることはできない」。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである」。
 「なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や思想が残っているだけなのです。」
 以上。
 この辺りに、西尾幹二に独特の(そう言ってよければ)「哲学」または<認識論・存在論>が示されていそうだ。
 「人間の認識力には限界があ」るのはそのとおりかもしれないが、そのことから、「事実を知ることは不可能」だとか、「事実そのものは、把握できない」ことになるのか?
 きっと、「事実」という言葉の意味の問題なのなのだろう。全知全能では全くない秋月瑛二でも、つぎのような「事実」を「認識」している。
 ・いま、体内で私の心臓が拍動している。・「呼吸」というものをしている。・ヘッドフォンから美麗な音楽が流れている。
 これらは、私の感覚器官・知覚器官、広くは「認識器官」を通じて「私」が「認識」していることだ。最後の点を含めて、近年の「私」に関する「過去の事実」でもある。
 「私」が介在していなくともよい。「私」が存在した一定の年月日に日本で〜大地震や〜事件、等々が起きたことは、「私」の感覚器官が直に(じかに)認知していなくとも、「過去の事実」として把握または認識することができる。
 私の生前に、一定の戦争に日本が勝利したり、敗北した(降伏文書の署名をし、外国によって「占領」された)ことも、「過去の事実」のようだ。
 そんなことを言いたいのではない、と西尾幹二は反応するかもしれないが、西尾の上の文章は、以上のようなことも否定することになる。そうでないとすれば、文章内容の十分な限定、条件づけを西尾という人は、行うことのできない人物なのだ。
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 (つづく)

2523/西尾幹二批判060。

  西尾幹二の近年、2020年の著に、つぎがある。編集担当は、冨澤祥郎。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)。85歳になる年の著。
 第一部冒頭の章の表題は「神の視座と歴史—『神話』か『科学』の問いかけでいいのか」で、2019年5月の研修会での報告文(?)だとされる。
 『歴史の真贋』と題する著の冒頭に置くのだから、それなりに重要視しているのだろう。
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  その冒頭の章のさらに冒頭で引用しているのは、つぎの1997年著の「あとがき」の冒頭だ。
 西尾幹二・歴史を裁く愚かさ(PHP研究所、1997)。62歳のとき、編集担当者は当時PHP研究所出版部の真部栄一。
 引用される文章は、以下。「(中略)」も2020年著の原文どおり。
 「歴史は、過去の事実を知ることではない。
 事実について、過去の人がどう考えていたかを知ることである。
 過去の事実を直(じか)に知ることはできない。
 われわれは、過去に関して間接的情報以外のいかなる知識も得られない。(中略)//
 ところが、どういうわけか、現代の知識人は過去の事実を正確に把握できると信じている。
 事実が歴史だと思いこんでいる。
 そして、その事実について過去の人がどう考えていたかは捨象して、自分が事実ときめこんだ事実を以て、現在の自らの必要な欲求を満たす。//
 それは事実の架空化による事実への侵害である。」//
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  この引用のあとに続けて、西尾は2020年に(正確には2019年。但し、例のごとく単行本に収載するに際しての「大幅な改稿、加筆」がある、という(p.360))、趣旨・意図をこう説明する。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである、ということが言いたかったのです。
 それも現在の制限された条件の下で、最大の知力と想像をもってもわずかに推察し得るのみであります。
 もう一度言います。
 『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』が歴史であって、しかも『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が歴史なのではないか。
 それは事実を確かめる手段であるだけではなく、時には目的そのものですらあります。
 なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や残っているだけなのです。
 ところが実際には、手続や手段として情報を精査することなく、それをつい疎かにして、結果として知られたひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうことが、まま行われてはいないでしょうか。」
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  歴史学者ではない西尾が、よくぞ「歴史」を表題の一部とする書物を多数執筆できたものだ、という気が、ふつうは生じるだろう。
 これも、<新しい歴史をつくる会>という(政治)運動団体の初代会長になってしまったという何らかの偶然によることなのか。自分には「歴史」または「歴史学」について語り論じる資格があり、かつ初代会長として語り、論じなければならない(上の1997年著は会長時代のもの)と「思い込んだ」からなのだろうか。
 こんなことは些細なことだ。ただし、25年近く前の文章をそのまま引用するとは、よほど自信があるか、よほど進歩・変化していないのだろう、という感想は記しておいてよいかもしれない。
 上にこの欄で引用した文章には、「歴史」のみならず、「事実」、「過去」、「把握」・「認識」等(・「言葉」等)に関する西尾幹二の基本<哲学>のようなものが表現されている、と考えられる。
 そこで、2020年という近年の著の冒頭に置かれてもいるので、かなり拘泥して、以下に取り上げてみる。
 (つづく)
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