秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

0973/長尾龍一・”アメリカの世紀”の落日(1992)の「あとがき」。

 長尾龍一・”アメリカの世紀”の落日―「極東文明化」の夢と挫折(PHP、1992)の「あとがき」は1991.12に書かれていて、こんな言葉を含んでいる。p.192。
 ・「国際政治に対する一般的立場からすれば、私は戦後一貫して、共産圏の拡大を阻止するというアメリカの政策を支持し続けてきた」。
 ・六〇年「反安保闘争の動機に疑念を提出し続けていた」。当時の反安保キャンペインの月刊誌など「汚らわしくて手続も触れないというくらいのもの」だ。
 ・「それとともに私は、マッカーサーの占領の成果に寄生しながら、共産圏に関する幻想をふりまき、西側世界を共産圏に向かって武装解除しようとしてきた左翼知識人たちに対して、いうにいえないいかがわしさを感じてきた」。「米軍を追い返し、日本を非武装化しようとする人々の意図がどこにあるのか」、彼らの「純粋な平和への願望」を「信じたことがない」。

 -このようにアメリカの基本政策に賛成しつつ、様々な観点から様々な感想をもってアメリカを観察した。その成果がこの本だ、とされている。
 長尾龍一、1938~、元東京大学教養学部教授(法思想史・法哲学)。
 上のように書く人が東京大学教養学部にいたとは、心強いことではある。
 だが、ソ連・東欧(共産党)の崩壊・解体が明瞭になっていた時点になってからの上のような言明をそのまま鵜呑みにして<称賛?>することはできず、上の本のほか、それまでのこの人の研究内容・文献をも参照する必要があるだろう。
 

0972/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む⑤。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ⑤

--------------------  「国」には「ステイト」と「ネーション」の二つの側面がある。戦後日本の前者の基軸は主として日米安保による在日米軍に委ねられ、後者をまとめる「共通の価値」は、「公式的にいえば、憲法に規定された個人の自由、基本的人権、平和主義」で、「占領下においGHQによって」与えられた。サ条約を「起点」とする「戦後」において、「平和憲法と日米安全保障体制は相互補完的」で「不可分の関係」にある。サ条約によって「主権回復」したというが、日本は「事実上、主権国家といえる」のか。  サ条約とともに締結された日米安保条約の基本的考えは以下。憲法により日本は「固有の自衛権を行使する手段」がない。だが軍国主義が世界からなくなっていないので日本には「危険」がある。一方、国連憲章により日本は「個別的および集団的自衛権」をもつ。この権利の「暫定的行使」として、日本は国内・付近に米軍が配備されることを希望する。  1951年安保条約は「あくまで暫定的措置」だった。アメリカも日本は「いずれは憲法改正を断行して軍事力を保持するものと想定」していた。  1960年安保改定にかかる岸首相の意図は「双方の義務を明確化」すること=「米軍による日本防衛と、日本の基地提供」の明瞭化によって、条約を「より対等なものに近づけ」ることだった。一説によると、岸は条約の双務的対等化により国民の支持を得た勢いによる憲法改正の実現を企図した。岸の選択は革新派の「アンポハンタイ」よりも「正しかった」が、世論の読み間違いがあり、皮肉にも、安保反対運動が憲法改正への道筋を阻止し、「日米安保体制」の強化により「戦後体制」が固定化された。  日米安保体制は変化していった。1996年の「共同宣言」、1997年の「新ガイドライン」で再定義された。この体制は「日本および極東」ではなく「アジア太平洋地域」の安全のための枠組みへと転化した。この背景には、「冷戦以降」の国際環境の中で、国際主義よりも「同盟国との関係を重視」する米国の方針転換があった。この延長線上に2005年の合意があり、これにより端的に「日米同盟」と定義された。日米は「世界の安全保障」という「共通の目標を達成するために同盟関係を活用する」こととなった。この合意は、対テロ戦争・対「ならず者国家」等のアメリカの世界戦略の中に日本を位置づけるものだった。これは「深化」ともいわれるが、「変質」だ。平和憲法による防衛能力の欠如の米軍による補填ではなく、「世界の安全保障」との「共通の戦略目標」のためのものへと変形したのだ。  かかる変化は、「戦後体制」を固定化し「いっそう先に推し進める」ものだ。  以上、p.191-195。 上の後半のような「安保体制」の変容の叙述または分析は、しかし、日本共産党等の<左翼>も行っている、と見られる。対米従属性、アメリカの(自分勝手な)戦争に日本が巻き込まれる危険、というのは日米安保条約締結以降の<左翼>の主張でもある。だからどうだ、というのでは、とりあえずは、ない。 --------------------------------------------  安保体制から同盟への変質は戦後体制をさらに固定化する。
 そこには「もはや憲法改正によって日本独自の防衛力を保持することが事実上不可能であるという」認識がある。「平和憲法のもとで」世界の安全保障のために協力するということは、アメリカの軍事行動に「平和憲法を前提にしつつ」後方支援等で日本が関与するとの方向を目指す。集団自衛権の保持と行使可能との憲法解釈をとることで、事実上「九条の平和主義の解釈を変更」しようとするものと推測される。「平和憲法」の成文はそのままにして「集団的自衛権」を行使する「普通の国家」に接近させる、ということだろう。これが「深化」の意味だ。
 だが、かかる関係は決して「対等な同盟」ではない。「従属的同盟」だ。本格的同盟にするためには日本は独自の軍事力と軍事戦略をもち、主体的な世界観をもって情報活動・外交をする必要がある。それはまず憲法改正を要請し、サ条約の時代に立ち返るわけで、日米安保体制のあり方そのものを遡って論じる必要がある。
 対等・共同の「同盟」は「集団的自衛権の行使を含む十全な軍事協力」が可能でなければならない。そのためには憲法改正が必要で、かつ九条の「非武装平和主義」を放棄するとすれば、当初の「安保条約」の意味の根本的再検討が可能になる。

 変則的「同盟」において、「日米共通の価値」の存在が強調されている。「自由・民主主義、…市場経済体制の絶対性」を承認し世界化することだが、「ネオコンの論理」はその価値観を端的に表明したものだった。
 日本が「自由・民主主義の世界秩序の受益者」であることは否定できない。しかし、<力による自由・民主主義の世界化>・<敵対者に対する力の対決>という価値観まで共有しているとは思えない。

 以上。17.5/26頁。

0971/中川八洋・民主党大不況―ハイパーインフレと大増税の到来(2010)を4割読む。

 中川八洋・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010.08。原書1995)を先日に全読了。
 つづけて、中川八洋・民主党大不況―ハイパーインフレと大増税の到来(清流出版、2010)のp.146まで、序+全九章+附記のうち第四章まで、読了。タイトルからの印象のような、経済・財政政策のみに関する本ではない。
 第一章は「子ども手当」批判(家族(・母親)から切り離した国家による子育て→共産主義社会)、第二章は現代日本の民主政(衆愚政治)批判、第三章のタイトルは、「夫婦別姓、ラブ&ボディ、フェミニズム―『日本人絶滅』への三大スーパー高速道路」。
 その第三章の各節の表題は次のとおり。内容の概略は分かる。第二節以外には「款」もある。
 第一節・「ラブ&ボディ」―日教組が子供たちを”セックス・サイボーグ”に改造する隠語
 1.厚労省母子保健課の「大犯罪」
 2.「フーコー人類絶滅教」を頭に注入させられる日本の中学生
 第二節・「産んであげない」―国を脅迫する赤いフェミニストたち
 第三節・”レーニン教徒の狂信”「夫婦別姓」
 1.「ルソー→マルクス/エンゲルス→レーニン→”赤の巣窟”法務省民事局
 2.少年少女犯罪の急増、出生率のさらなる激減、民族文化の消滅―「夫婦別姓」後の、日本の荒涼と殺伐
 この第三章で中川八洋が批判している学者等の論者の個人名は以下のとおり(外国人、団体・組織を除く。注記を含む)。
 手塚治虫、福沢恵子、福島瑞穂、星野英一、鍛冶千鶴子、葉石かおり、井上治代、星野澄子、榊原富士子、二宮周平、吉岡睦子、我妻栄、中川善之助
 立ち入らないし、これ以上の紹介もしない。ただ、<少子化>(中川によると→日本人絶滅)の原因が<子育てしにくい社会>にあるのではない、ということだけは間違いなく、戦後日本の歪んだ男女「対等」主義(誤った<ジェンダー・フリー>とも関係)、将来世代への<責務>を放棄させる(とくに女性の)「個人」優先主義、自然的な「母性」を否定するフェミニズム等々にある、とだけコメントしておく。大筋、基本的なところでは中川は誤ってはいないだろう。

0970/産経新聞・笠原健はまともな内容の文章を書いているか?

 産経新聞の長野支局長らしい笠原健がいろいろと書いているが、奇妙な見解・主張もある。

 昨年(2010年)12/11には、ほとんど櫻井よしこと同じく、次のように書く。

 <「大連立論」がある。しかし、それは「所詮は民主党政権の延命でしかない」。「民主党政権が朝鮮半島有事で的確に対応できると信じている日本人」がいかほどいるか疑問だが、「大連立によって谷垣禎一総裁が率いる自民党が政権に入ることになっても所詮は同じだろう」。なぜなら、「谷垣氏は系譜的にいって宮沢喜一元首相や加藤紘一元幹事長らと同じ党内左派に属する。菅直人首相や仙谷由人官房長官はもちろん、リベラル思想の持ち主だ。思想的に党内左派に属する谷垣氏らと菅首相らの提携は結果的にはリベラル勢力の結集でしかない」。自社さ村山政権の愚を繰り返してはならない。>
 民主党政権の延命とか村山政権の愚とかいうのはよい。しかし、谷垣禎一は「党内左派」の「リベラル思想」の持ち主なので、谷垣(自民党)と菅直人らとの提携は「リベラル勢力の結集でしかない」という見方、あるいは主張はどうだろうか。
 まず、そもそもこの人は、「リベラル(勢力)」という概念をいかなる意味で用いているかを明らかにしておくべきだ。つぎに、いちおうその意味が明らかになったとして、「リベラル」にも幅があるのであって、決して単色で塗りつぶせるようなものではないはずだと思われるが、谷垣と菅や仙石由人はいかなる意味で「同じ」で、<違い>はまったくないのか否かにさらに言及すべきだ。
 ちなみに、中島岳志のように、「保守リベラル」の立場に立つとする者もいて、中島は佐高信らとともに週刊金曜日の編集委員であると同時に、西部邁らの発行する隔月刊・発言者(ジョルダン)に「保守」思想について連載する。笠原のいう「リベラル」の中に、この中島岳志は入るのか?

 元に戻り、櫻井よしこについても言えるが、谷垣(自民党)と菅直人(民主党)政権とは「同根同類」だ、あるいは両者の連合は「リベラル」勢力の結集だ、というのならば、なぜ現時点において谷垣は連立・連合を拒否しているのか、なぜ「リベラル」勢力の結集ができていないのか、を笠原はきちんと説明すべきだ。

 谷垣(自民党)と民主党(政権)の<同質>論(あるいは今年になってからの櫻井よしこによると<同質性が高い>論)は、自民党中心政権に(総選挙を経て)変わってもほとんど意味がない、というかたちで、結果としては、総選挙実施を遅らせ、<左翼・反日>政権の延命に手を貸しているように見える。

 かりに主観的意図はそうでなくとも、現実に問題視されるべきは、客観的な機能・役割だ。
 この文章の中でも笠原は幕末期の「倒幕」運動に触れているが、今年(2011年)の1/10にはこう書いている。

 「…民主党が政権の座にとどまっている限り、状況が好転する訳がない。国家の基盤はますます劣化していくだけだ。一日も早く倒幕を成し遂げなければならない」。

 上のとおり笠原はいわゆる大連立に反対している。おそらくは、菅直人・仙石由人と同じ「リベラル」だとする谷垣を総裁とする自民党にもほとんど期待していない筈だ(そのようにしか読めない)。
 では、笠原健は、どのようにして「倒幕」=民主党政権打倒をすべきだ(することができる)、と主張しているのか?

 この点こそに関心を持たれるが、笠原はいっさい触れていない。「総選挙」あるいは「解散」という言葉すらどこにもない。言論人として(笠原が「言論人」だとしてだが)、あるいはたんなるブログではない記事(・文章)の書き手として、無責任だとは自らを思わないのだろうか。

 民主党を批判し、民主党政権打倒を唱えることくらいは多くの人ができることだ。谷垣禎一(・自民党)も批判しておいて、どのようにすれば民主党政権を打倒できるかを語らないとは、ひとことも触れないとは、無責任きわまりないと思われる。

 まさか、主な内容である日英同盟締結論というマンガのような主張がそれにあたるとは考えていないだろう。
 好き勝手に適当なことが書けるようで、産経新聞はさすがに「自由」だ。
 笠原によると、日英同盟締結論の根拠として、①インテリジェンスの面で多くの利益をもたらす、②アフリカ・中東と関係が人脈も含めて深いので外交上もプラス、③兵器の共同開発や共同生産も「ぜひとも進めたい」。

 この人は「同盟」という語をいかなる意味で用いているのか。かつての、1902年の日英同盟は明らかに<軍事>(少なくともそれを含む)同盟だった。上の①~③は、英国との「同盟」締結をしなくとも、外交政策によって多くは達成できるのではないか? それに、なぜ笠原健は、英国と同様にアフリカ等に植民地を多く持っていた、かつ英国と同様に国連安保理メンバーでもあるフランスとの「同盟」には、触れないのか。

 思いつきの適当な文章を、「ちょっとした夢」を、真面目ぶって書くな、と言いたい。「夢想」は朝日新聞・若宮啓文に任せておけばよいだろう。
 ついでにいえば、笠原は、米国との1951年以降の安保条約は「日本自らが国際情勢を真剣に見極めたうえに締結した同盟とはやはり言い難い」とし、1902年日英同盟は「自らの選択で同盟を締結した」という。たしかにその自主性の程度において違いはあるかもしれない。しかし、このような対比を強調しすぎると、あるいはとりわけ前者を強調すると、1910年日韓併合条約は韓国の<自主>性のない<無効な>ものだという<左翼>の論調へと接近するだろう。

 産経新聞の記者の中に「左翼」もいるだろうから、別に驚くことではないのだが。 

0969/中川八洋、撃論ムック・反日マスコミの真実2011、櫻井よしこ、産経、表現者。

 〇中川八洋・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010.08。原書1995)の半分余、p.131まで読了。
 これはなかなか衝撃的な書だ。「悪の反省にあらず、失敗の反省なり」とは適確だと最近書いたが、この書によると「悪の反省」が必要だ。但し、日本軍国主義(あるいは軍部・戦争指導者等)の「悪」ではなく、近衛文麿、尾崎秀実や軍部の中枢に巣くった「共産主義」という「悪」に対する「反省」だ。共産主義(コミュニズム)との関係を抜きにして先の大戦の経緯・結果等を語れないのはもはや常識だろうが、ここまでの(中川の)指摘があるとは知らなかった。
 なお、オビに「『幻の奇書』待望の復刊!」とある。「奇書」なのか? あるいは「奇書」とはいかなる意味か。

 〇撃論ムック30号(西村幸祐責任編集)・反日マスコミの真実2011(オークラ出版、2011)のp.47まで読了。

 朝日新聞やNHKに幻想をもっている人(「反日マスコミの真実」に気づいていない人)には必読と言いたいところだが、そうした人のほとんどは、この本(雑誌?)を手にとらないのかもしれない。

 〇櫻井よしこは、産経新聞1/03の対談で、①「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜(ひょうぼう)する政党はどこにも存在しません。民主党は最初からそういう考えがありませんし、自民党も谷垣禎一総裁の下ではむしろ3つの論点から遠ざかる傾向にあります。同質性が高い」。②「今の自民党は55年体制以降の自民党の延長線上にありますので変わる見込みはないでしょう。おのずと第三の道に行かざるを得ないのではないでしょうか」、と発言している。

 民主党政権(菅政権?)と「谷垣自民党」は「同根同類」とつい最近書いていたのだが、ここでは「同質性が高い」になっている。これは変化(言い直し)なのか? いずれにせよ、「同質性が高い」とは、厳密にはいかなる意味なのだろう。

 また、「今の」自民党は「変わる見込みはない」ので「おのずと第三の道に行かざるを得ない」だろうと言っているが、ここでの「第三の道」とは、具体的には何なのか。おそらくはまるで違った意味でだが、菅直人ですら「第三の道」と言っている。
 櫻井は「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する政党はどこにも存在しません」と直前に語っている。

 では、「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する」、政党ではない政治家・政治グループはどのような人々なのか、明言してもらいたいものだ。

 それに、そのような(期待できる政党は今はどこにもないという)「第三の道」に期待する時間的余裕はあるのだろうか。

 対談相手の渡辺利夫は「政界が再編成されて、本物の第三極ができるかどうか。保守の新しい軸をつくっていく努力はかなり長い時間を要すると思います」などと語っているが、櫻井よしこらのいう「第三の道」・「本物の第三極」への道が明確になり、かつ勝利するまでに、外国人参政権付与(公選法改正)法、夫婦別姓(民法改正)法、人権擁護法等が成立し、施行されたら、いったいどうするのか??。

 ずいぶんとのんびりとした議論だ。

 気のついたことをあと二点。櫻井よしこは、①解散・総選挙の必要性に一言も触れていない。②中国につき、「帝国主義」・「植民地主義」という言葉は使うが、なぜか、「社会主義(・共産主義)」という語を使っていない。

 〇やや古いが、櫻井よしこと親和性(?)の高そうな産経新聞について、隔月刊・表現者33号(ジョルダン、2010.11)の巻頭コラムは次のように書いていた。無署名だが、編集委員代表の富岡幸一郎の文章だろうか(雑誌自体は西部邁グループ(?)のもの)。
 <民主党代表選で朝日新聞と全く同じく小沢一郎批判を繰り返した産経新聞は「日米同盟」保持・重視のために小沢ではなく菅を選択したのだろうが、これが「現在の日本の”保守”と呼ばれるマスコミの醜悪で貧しい実態」だ。日米「同盟」こそ日本の命綱だとする者に「保守思想など語る資格もない」。アメリカによるイラク平定を素晴らしい成果だと堂々と主張する「こんな新聞は、はっきり言ってリベラル左翼派よりも低レベル」だ。これが「今日の日本の思想レベルを象徴している」。>(p.8)

 どうやら、(主観的・自称)<保守>にも産経新聞派と非(・反)産経新聞派があるようだ。  

0968/進歩的文化人の始まり、石川達三・横田喜三郎-山田風太郎1945年日記に見る。

 山田風太郎・新装版/戦中派不戦日記(講談社文庫、2002。原文庫1985、原書1971)は、1945年(昭和20年)の、その年に23歳になる年齢の作者の日記をのちに公開したもの。公開用の削除はあるが公開された部分に修正・加筆はないだろうと思っていたが、どうやら削除すらなく、全文が掲載されているようだ。

 筆者のコメントとともに、記載されている事実自体にすら、まだ生まれてもいない者には重要な価値がある。
 以下は、「文化人」の当時の言論とそれへの批判だ。網羅的ではないかもしれない。
 ①1945年一〇月二日付の一部「『闇黒時代は去れり』と本日の毎日新聞に石川達三書く。日本人に対し極度の不信と憎悪を感ずといい、歴史はすべて忘れよといい、今の日本人の根性を叩き直すためにマッカーサー将軍よ一日も長く日本に君臨せられんことを請うという。〔二文、中略〕

 ああ、何たる無責任、浅薄の論ぞや。彼は日本現代の流行作家の一人として、戦争中幾多の戦時小説、文章、詩を書き、以て日本民衆の心理の幾分かを導きし人間にあらずや。開戦当時の軍人こそ古今東西に冠たるロマンチストなりと讃仰の歓声あげし一人にあらずや。

 彼また鞭打たれて然るべき日本人の一人なり。軍人にすべての責任を転嫁せしめんとする風潮に作家たるもの真っ先きに染まりて許さるべきや。戦死者を想え。かくのごとき論をなして、自らは悲壮の言を発せしごとく思うならば、人間に節義なるもの存在せず、君子豹変は古今一の大道徳というべきなり。〔一段落、中略〕
 この人、また事態一変せんか、『いや、あの時代はあのように書くより日本の蘇生すべき道あらざりき』などといいかねまじ。余は達三の言必ずしもことごとく斥くるものにあらず。されど彼には書く権利なく、資格なく、義務なしという。少くともこの一年くらいは沈黙し、座して日本の反省(悪の反省にあらず、失敗の反省なり)の中に生きて然るべしと思う。

 〔一文、略〕而して死者に鞭打つがごとき軍人痛撃横行せん。これはある程度まで必要ならんも、当分上っ調子なる、ヒステリックなる、暴露のための暴露の小説評論時代来らん。而してそのあとにまた反省か。――実に世は愚劣なるかな」(p.542-3)。

 「悪の反省にあらず、失敗の反省なり」とは適確だ。それにしても10月初め、まだ『真相はかうだ』とかの放送は始まっていないはずだが、9月半ばにGHQによる実質的な「検閲」が始まって以降、すでに「軍人にすべての責任を転嫁せしめんとする風潮」は始まっていたごとくだ。お先棒を担いだのは、朝日新聞、毎日新聞等のマスコミだったのだろう。

 石川達三といえば、戦時中の小説「生きている兵隊」がのちの某下級審判決における事実認定(!)にまで利用されていたことを思い出した。この「社会派」作家は戦後、文壇のトップクラス(?)にいて、文芸家たちの団体の要職にも就いていた(1905-1985)。

 ②一一月五日付の一部「東京新聞に『戦争責任論』と題し、帝大教授横田喜三郎が、日本は口に自衛を説きながら侵略戦争を行った。この『不当なる戦争』という痛感から日本は再出発しなければならぬといっている。
 われわれはそれを否定しない。それはよく知っている。(ただし僕個人としては、アジアを占領したら諸民族を日本の奴隷化するなどという意識はなかった。解放を純粋に信じていた)
 ただ、ききたい。それでは白人はどうであったか。果して彼らが自国の利益の増大を目的とした戦争を行わなかったか。領土の拡大と資源の獲得、勢力の増大を計画しなかったか。
 戦争中は敵の邪悪のみをあげ日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみを説き日本の邪悪のみをあげる。それを戦争中の生きる道、敗戦後の生きる道といえばそれまでだが、横田氏ともある人が、それでは『人間の実相』に強いて眼をつむった一種の愚論とはいえまいか」(p.609)。
 横田喜三郎、当時東京帝大法学部教授、のち新制東京大学法学部教授、法学部長等を経て、最高裁判所長官(1896-1993)。国際法の分野の「権威」。戦後当初はGHQ初期政策迎合の「左派」だったが(かなり早い時期の上の「侵略戦争」明言もその一つだろう)、のちに<保守派>にさらに転じて最高裁長官の地位を獲得したとも言われる。

 宮沢俊義(憲法)等も含めて、戦後(とくに占領期)の大学教授たち、とりわけ東京帝大(法学部)教授たち(のちの新制東京大学法学部教授たち)の<処世ぶり>は批判的に分析しておかねばならない。それが未だ十分になされていないのは、「弟子」・「後輩」の東京大学(法学部)出身者たちが「恩師」や「先輩」を批判的・客観的に検討するのを期待しても無理がある、ということに理由があるだろう。東京大学に残って学者生活を続けた者たちだけではない。同大学出身者は日本の多くの大学に散らばって(?)かつ各分野で総じては有力な地位を占めてきたのだ。

 谷沢永一によってだっただろうか、横田は、<横田喜三郎現象>という語を使われて批判・蔑視されるようなこともしたらしい。

 上の山田の文章のあとに平林たいこへの言及があり、批判的コメントもあるが省略する。

 石川達三も横田喜三郎も上の山田風太郎日記が刊行されたとき(1971年)、まだ存命だった。その本の自分に関する部分を読んだだろうか。読んだとして、自分の生き方に、少なくとも言及されている自分のかつての文章に、羞じるところは全くなかったのだろうか。

0967/<偏っている>と言う一般新聞・一般テレビだけを見聞きしている<バカ>。

 一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでを見聞きして世の中が解ると(ほぼ正しく認識できると)勘違いしている日本人は多すぎるのではないか。全国紙ではなく、各県紙といわれる新聞を含めてもよい。その読んでいる新聞が朝日新聞だったり、特定の「傾向」を持った地方紙であれば、「ほぼ正しく」どころか、<歪んで>日本と世界の動向を「理解」してしまうだろう(以下、とりあえず現在に限るが、<歴史認識>についてもまったく同じ)。

 上のことはもはや常識的で、何らかの雑誌・専門誌紙やネット情報を加味しないと、もはや「世の中を解る」ことはできなくなっている。一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでも誤った「理解」をもってしまう(一定の認識へと誘導される)可能性が大なので、そのかぎりですでにマイナスだが、読んでいるのが朝日新聞だったり、ましてや日本共産党・社民党の機関紙・新聞や両党系の雑誌・冊子類だったら絶望的で、決定的で大きなマイナスになる。
 かかる大きなマイナスを受けるよりは、きちんと一般新聞を読まずほとんどテレビの報道を観ない日本人の方が、むしろ素朴でかつ本能的に適切な感覚を、日本の政治・社会の動向について抱くのではないか。

 さて、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして世の中を理解したつもりになっている者が、この欄で書いているような内容を見聞きすると、<偏っている>と感じるらしい。

 今日の日本の一般新聞(全国紙または地方紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)の影響力は怖ろしいほどだ。ほとんど努力することなく一般新聞・テレビからだけ情報を入手し、専門書も論壇誌等々も読まない人々は、何となく<身につけさせられた>意識・認識が日本の中正または中庸あたりの理解・認識だと勘違いしてしまうから、じつは少なからず存在するが一般新聞のほとんどやテレビのほとんどでは表に出てきていない意見・理解・認識を示されると、違和感をもち、<偏っている>と感じてしまうのだ。

 率直にいって、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道からしか日本・世界の情報を入手しない者は<バカ>になっているのだが、その人たちはそのことに気づいていない。<バカ>ならまだよいのかもしれないが、NHKの一部番組も朝日新聞等々も特定の傾向をもつから、<アブナい>人間になってしまっている可能性もある。

 そうなるよりは、上記のように、一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道をろくに見聴きしない方がまだましだ。

 この欄の閲覧者の大部分にとっては、全く余計なことを書いたかもしれない。

 但し、例えば<保守>論壇の中にいて、身近に<保守>的な人々ばかりがいて、日常的に<保守>的会話を交わしているような人々は、<保守>は決して多数派ではないこと、日本人の多くは一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして、一昨年8月末には多くが民主党に投票したり、昨年参院選の東京選挙区では唖然とするような票数を民主党・蓮舫に投じたりするのであることを、しかと認識しておく必要があるだろう。

 仲間うちだけの議論で満足してはいけない。「左翼」政権のもとにあること、自分たちは<少数派>であることを、本当は悲痛な思いでつねに自覚しておくべきだ。

0966/櫻井よしこはいつから民主党政権を「左翼」と性格づけたのか?

 〇月刊正論2月号(産経新聞社)の中宮崇「保存版/政治家・テレビ人たちの尖閣・延坪仰天発言録―そんなに日本を中国の『自治区』にしたいですか」(p.184-191)に「仰天発言」をしたとされている者の名を資料的にメモしておく。

 田中康夫(新党日本)、福島瑞穂(社民党)、服部良一(社民党)、小林興起(民主党、元自民党)、田嶋陽子(元社民党)、大塚耕平仙石由人(民主党)、浅井信雄(TBSコメンテイター)、山口一臣(週刊朝日編集長)、三反園訓(テレビ朝日)、高野孟伊豆見元(静岡県立大学)、田岡俊次(朝日新聞)、金平茂紀(TBS)、NEWS23X(TBS)。
 なお、CNN(中国)東京支局は「テレビ朝日」と「提携関係」にあるが、この事実を記す「ウィキ」等のネット上の書き込みは「即座に削除隠ぺい」されてしまう、という(p.189)。
 〇隔月刊・表現者34号(ジョルダン、2011.01)の中で西部邁は、戦後日本人が「平和と民主」というイデオロギー(虚偽意識)で「隠蔽」した、その「自己瞞着の行き着く先」に「左翼のダラカン(堕落幹部)たち」による「民主党政権」が登場した、と書く(p.181)。
 戦後憲法体制の「行き着いた」果てが現民主党政権で、自民党→民主党への政権交代に戦後史上の大きな<断絶>はない、というのが私の理解で、西部邁もきっと同様だろう。だが、民主党政権は自民党のそれと異なり、明瞭な「左翼」政権だ。この旨も、西部邁は上で書いていると見られる。
 「左翼」政権といえば、櫻井よしこ週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1950116/

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1603319/

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか? 

 厳しい書き方をしているが、櫻井よしこを全体として批判しているのではない。例えば、憲法改正(とくに九条2項削除)のための運動・闘いの先頭に立ってもらわなければならない人物の一人だと承知している。

 佐伯啓思に対しても、西尾幹二に対しても、西部邁に対しても、盲目的に従うつもりは全くない(それにもともとこれら三人の論調は同じではない)。<保守教条>主義者・論者であってはならないとの基本的立場は、櫻井よしこ等の他の<保守>論客に対しても、変わりはない。
 さらには、<保守>論壇・論客の中に、ひょっとして中国あるいは米国の<謀略>として送り込まれた人物もいるのではないか、くらいの警戒心をもって、<保守>系雑誌等の執筆者の文章や発言は読まれるべきであろうとすら考えている。
 

0965/遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)における三島・福田対談。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(麗澤大学出版会、2010.04)p.264~は、持丸博=佐藤松男の対談著(文藝春秋、2010.10)が「たった一度の対決」としていた福田恆存=三島由紀夫の対談「文武両道と死の哲学」にも言及している。こちらの方が、内容は濃いと思われるにもかかわらず、すんなりと読める。
 遠藤浩一著の概要をメモしておく。
 「生を充実させる」前提の「死を引きうける覚悟」、「死の衝動が充たされる国家」の再建という編集部の企図・問題意識を福田・三島は共有していると思われたが、二人は①「例えば高坂正堯や永井陽之助あたりの現実肯定主義」 、②「現行憲法」には批判的または懐疑的・否定的という点では同じだったにもかかわらず、福田が現憲法無効化を含む「現状変革」は「結局、力でどうにもなる」と「ドライかつラジカルな現実主義」を突き付けるのに対して、三島は「どういうわけか厳密な法律論」を振りかざす。

 三島は「クーデターを正当ならしめる法的規制がない」、大日本帝国憲法には「法律以上の実体」、「国体」・「社会秩序」等の「独特なもの」がひっついていたために(正当性・正統性を付与する根拠が)あった、という。福田は「法律なんてものは力でどうにでもなる」ことを「今日の新憲法成立」は示しているとするが、三島はクーデターによって「帝国憲法」に戻し、また「改訂」すると言ったって「民衆がついてくるわけない」と反論する。福田はさらに「民衆はどうにでもなるし、法律にたいしてそんな厳格な気持をもっていない」と反応する(この段落の「」引用は、遠藤も引用する座談会からの直接引用)。

 なるほど「力」を万能視するかのような福田と法的正当性を求める三島の問答は「まったく嚙み合っていない」。にもかかわらず、(遠藤浩一によると)「きわめて重要なこと」、すなわち両人の「考え方の基本――現実主義と反現実主義の核心」が示されている。
 現憲法は「力」で制定されたのだから別の「力」で元に戻せばよいとするのが福田の現実主義と反現実肯定主義だ。天皇を無視してはおらず、「法」を超越したところに天皇は在る、「憲法は変わったって、天皇は天皇じゃないか」と見る。
 一方で三島が拘泥するのは「錦の御旗」=正統性であり、正統性なきクーデターが「天皇の存立基盤を脅かす」ことを怖れる。

 福田の対「民衆」観は「現実的で、醒めている」が、三島にとっての「秩序の源泉」は「力」にではなく「天皇」にある。ここに三島の「現実主義と反現実肯定主義」があった。

 このような両者の違いを指摘し、「対決」させるだけで、はたして今日、いかほどの建設的な意味があるのか、とも感じられる。しかし、遠藤浩一は二人は「同じところに立っているようでいて、その見方は決して交わることがない」としつつ、「現実肯定主義への疑問においては完全に重なり合う」、とここでの部分をまとていることに注目しておきたい。三島が「それは全く同感だな」、「そうなんだ」とも発言している二人の若干のやりとりを直接に引用したあと、遠藤は次のように自分の文章で書く。

 福田恆存の「理想に殉じて死ぬのも人間の本能だ」との指摘は三島由紀夫の示した「死への衝動」に通じる。「理想に殉じて死ぬ」のは人間だけの本能だというまっとうな「人間観」に照らすと、「戦後の日本人がいかに非人間的な生き方をしてきたか」と愕然となる。戦後日本人は「現実肯定主義という観念を弄び、あるいはそれに弄ばれつつ、もっぱら生の衝動を満たすことに余念がない」。/「現実肯定主義は個人の生の衝動の阻害要因ともなりうる。生命至上主義に立つ戦後日本人の生というものがどこか浮き足立っていて、『公』を指向していないことはもちろんのこと、『私』も本質的なところで満足させていないのは、福田が言う『人間だけがもつ本能』を無視し、拒絶しているからである。私たちは自分のためだけに、自分の生をまっとうするためだけに生きているようでいて、その実、それさえ満足させていない、それは『私』の中に、守るべき何者も見出せていないからである」(p.269)。

 なかなか見事な文章であり、見事な指摘ではないか。樋口陽一らの代表的憲法学者が現憲法上最高の価値・原理だとして強調する「個人(主義)」、「個人の(尊厳の)尊重」に対する、立派な(かつ相当に皮肉の効いた)反論にもなっているようにも読める。

 なお、このあと「官僚」にかかわる福田・三島のやりとりとそれに関連する遠藤の叙述もあるが省略。また、歴史的かな遣いは新かな遣いに改めた。

 遠藤浩一は、上の部分を含む章を次の文章で結んでいる。

 「三島由紀夫は…『日本』に殉じて自決した。少なくとも彼だけは『死の哲学』を再建したのである」(p.275)。

 以上に言及した部分だけでも、持丸=佐藤の対談著よりは面白い。

 だが、遠藤浩一の著全体を見ると、引用・メモしたいところは多数あり、今回の上の部分などは優先順位はかなり低い。

 櫻井よしこは、どこかの雑誌・週刊誌のコラムで、遠藤浩一の上掲書を「抜群に面白い」と評しているだろうか。
 追記-「生命尊重第一主義」批判・「死への衝動」に関連する、三島由紀夫1970.11.25<檄>の一部。

 「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」。

0964/「ミニ・インテリ」層=高学歴・ホワイトカラー・都市居住勤労者の政治責任。

 月刊正論(2011年)2月号(2010.12、産経新聞社)の連載、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」は引き続いて石坂洋次郎に言及しているが、その中で、藤原弘達の1958年の著にある一農村青年の言葉を引用している。

 ・社会党支持の方が「何だかスマートでハイカラなような」気がする。保守党は「古さ」を連想させて「ツマラナイ」気がする。都会の若者たちは「皆社会党を支持しているそうですね」。

 竹内洋はこの発言こそ「草の根革新幻想の正体」を示したものだとする(p.278)。あえて佐伯啓思・日本の「思想」(NTT出版)の二分(p.164)を借りれば、戦後の「公式的価値」となった「顕教としての普遍的価値」を「古い」「日本的」観念=「密教としての日本的習慣」よりも愛好しようとするメンタリティが「革新幻想」でもあろう。

 (なお、竹内も意識しているだろうように、「革新幻想」の中核は、「社会主義幻想」だ。あるいは、「革新幻想」は「社会主義幻想」につながっていく性質をもつ。)

 竹内洋は、綿貫譲治の論文(1976年著に所収)の、データにもとづく次のような知見も引用している(p.278-9)。

 ・「ホワイト・カラー層」の「左翼政党(とくに日本社会党)」支持の高さは「顕著」。欧米の「ホワイト・カラー層」は大半が「右派社会党」を支持し、「保守党や自由党」支持率がもっと高いのと異なる。

 ・所得階層と政党支持の間に明確な関係はない。「教育程度と政党選択」の間には「ほぼ明瞭な相関関係」がある

 ・1930年~1940年に生まれた者(調査当時は二十歳台)や「戦後教育を受けた」者の間には日本社会党の支持率が高い。

 以上の諸指摘は、感じてきたこととも合致しており、きわめて興味深い。

 1930年以降に生まれ、「戦後教育」も受け、「教育程度」が高く、「ホワイト・カラー層」には日本社会党支持率が高い、というわけだ。

 戦後に「顕教としての普遍的価値」となったものは日本国憲法が示しているような諸原理だが、この<新憲法>教育を受けた者は、それ以前の者たちよりも「左翼的」になった、というのは傾向としては間違いないだろう。<新憲法>教育を受けたということは(とりわけそれが占領期であれば)、日本はかつて悪いことをした(日本軍国主義は<侵略戦争>をした)ということを客観的な事実として<信じ込まされた>ということを意味する。このような人々が、<護憲>の(日本軍国主義復活阻止の)社会党の支持に傾斜するのは自然だったともいえる。

 もちろん、今日的に見れば、日本国憲法は必ずしも日本の伝統・歴史につながらない「借り物」で、非武装条項も米国の占領初期の政策による「押しつけ」であることは明らかになってはきている。

 しかし、いわば<ミニ・インテリ>たち、農漁村というよりも都市在在の、「教養・学歴」があるとの自意識をもつ者たち、が社会党を支持するという形で示した「革新幻想」(>社会主義幻想)は、今日まで続いてきている、と思われる。
 いわゆる<団塊世代>(狭くは1947-49年生)よりもそのすぐ上の世代において社会党(または日本共産党を含む「革新」政党)支持率は一貫して高かった、というのが何回も新聞で見てきた世論調査の結果だった。この世代には、この欄で何回か用いた、1930年代前半=昭和一桁後半生まれ(1930-1935生)という、感受性の豊かな青少年期に<過去の日本=悪>との占領期教育にどっぷりと浸った<特殊な世代>の者たちが含まれる(典型として、大江健三郎)。小林よしのりは(教科書スミ塗りを経験した)「<小国民>世代」と言っているが、「国民学校」生徒経験者という意味では、こちらの方が厳密かもしれない。

 さて、今日まで日本国憲法の改正が行われていないのは、日本社会党等の改憲反対政党(日本共産党を含む)が国会で1/3以上の議席を占め続けたからであり、ひいては、上記の<ミニ・インテリ>たち、戦前に比べれば飛躍的に量を増した都市勤労大衆のうちの、学歴が相対的に高い「ホワイト・カラー層」等、が日本社会党等を支持したからだ。

 日本国憲法改正ができなかったのは、上のような<ミニ・インテリ>たちの選好政党に基本的原因があった、と言って過言ではない。彼らは、高度経済成長のもとで、自分と自分の家族のための物質的豊かさの向上を享受しつつ、その<安逸>(および努力すれば報いられるとの達成感)を守るために、<戦争・軍事>に関する問題については真摯に考えることなく思考停止させ、<戦争・軍事>問題を活性化させそうな、キナくさく「古い」と感じられた保守党=自民党には投票しなかったのだ。

 そのような<ミニ・インテリ>たちの購読する新聞はたいていは朝日新聞で、朝日ジャーナルがあった頃はそれも読み、かりに自分の勤務・仕事とは無関係であっても、少なくとも頭の中だけでは(観念的には)「進歩的」気分に浸り、意識の中だけでは<ミニ・エリート>たることができた。

 そのような世代または「層」は<団塊世代>をもまたいで、なお広範に存在するように見える。「古い」自民党政治からの訣別に拍手を送り、「新しい」民主党政権を大歓迎したの国民たちの中に、このようなかつての<ミニ・インテリ>たち(および彼らの影響を受けた者たち)は多かったように見える。

 民主党政権の成立とその後の成りゆきの責任を負うのはむろん最終的には有権者国民であり、民主党に投票した者たちだが、その民主党支持者(投票者)の中にはオールド「社会党支持者」たちも少なくなかったと見られる。

 戦後日本の歴史を概括しようとするとき、日本が<衰亡>に向かっているとすれば、上記のような<ミニ・インテリ>たち=オールド「社会党支持者」たちの<責任>はきわめて大きい。このことは特筆しておきたい。

 もちろん、そのような<ミニ・インテリ>たちを生んだ、学校教育(=教師)、マスメディア、そしてこれらをも指導した(一時期はGHQの占領政策に「迎合した」)本来の「知識人」たち、あるいは学者・文化人の類の<責任>は厳しく指弾されなければならない。

 <責任>が追及されるべきいわゆる<進歩的文化人>の特定と言動内容、GHQや「社会主義」諸国との関係等を明らかにしておくことは、「戦後日本」の総括にとっての重要な課題の一つに他ならないと思われる。

0963/近代(ブルジョア)民主主義よりも「進歩的」な(はずの)「社会主義国」の民主主義。

 ある程度は知識のあることだが、レーニンの書いたもの(の一部)を読んでいると、マルクス・レーニン主義における「民主主義」論にあらためて関心をもたされる。ギリシャ・ローマ時代の「民主主義」ではない。近代国家(ブルジョア民主主義国家)やレーニンらにおける「革命」との間の、「民主主義」なるものの意味だ。

 レーニン「国家と革命」(1917)の目次からすると、「民主主義」に関するまとまった叙述は以下に限られるようだ(レーニン10巻選集第8巻p.77-80による)。
 ・マルクス「ゴータ綱領批判」(1875)でマルクスは、資本主義社会と社会主義社会の間の「政治上の過渡期」である「プロレタリアートの革命的独裁」について語った。この「独裁」と「民主主義」との関係はいかなるものか? マルクス=エンゲルス「共産党宣言」では、プロレタリアートの支配階級化と「民主主義をたたかいとること」は二つの概念として並置されていたにとどまる。

 ・最も順調に発展した資本主義社会では「民主的共和制」という「多少とも完全な民主主義」があるが、これは、実質的には少数者・「有産階級」・「金持ち」のためだけの「民主主義」だ。「窮乏と貧困」にある住民の多数者は「民主主義どころではなく」、「公共生活、政治生活への参加」から排除されている。

 ・「資本主義的民主主義」・「骨の髄まで偽善的で、いつわりの民主主義」から「ますます広い民主主義」へと単純に発展するわけではない。「プロレタリアートの独裁」を通じてのみ共産主義社会へと発展する。

 ・「プロレタリアートの独裁」は「民主主義の拡大」をもたらすだけではない。それは「金持ちのための民主主義」ではない「人民のための」・「貧乏人のための民主主義」にならせるが、同時に、「抑圧者、搾取者、資本家に対して一連の自由の例外を設ける」。われわれは彼らを「抑圧しなければならず、彼らの反抗を暴力によって打ち砕かなければならない」。
 ・「人民の大多数のための民主主義と、人民の搾取者、抑圧者にたいする暴力による抑圧、すなわち民主主義からのその排除――これが、資本主義から共産主義への過渡にさいして民主主義がこうむる形態変化である」。
 ・資本主義社会にあるのは「制限された、かたわな、にせものの民主主義」・「金持ちだけのため、少数者のためだけの民主主義」だが、「プロレタリアートの独裁」がはじめて、「少数者、搾取者にたいする抑圧」とともに、「人民のため、多数者のための民主主義をもたらすであろう」。「ただひとつ共産主義だけが、ほんとうに完全な民主主義をもたらすことができる」。
 以上、マルクス主義についての知識のある者には常識的なことだが、実際の社会主義国(ソ連、中国、北朝鮮)における民主主義の「実態」は別として、マルクス・レーニン「主義」における「民主主義」は資本主義国家のそれよりも<広い・進んだ・完全な>ものなのだ。

 平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)によると、マルクス・レーニズムにおける「民主主義」論が上よりもより豊富に、多様な概念をともなって語られている。以下、適当に抜粋する。

 ・「ブルジョア民主主義革命」は「プロレタリア的、すなわち社会主義的な革命」へと「成長転化」する。「ソヴェト体制」は一革命が他革命に転化するのを確証するものであり、「労働者と農民のための民主主義の極致である」。同時にそれは、「ブルジョア民主主義との断絶」を意味し、「プロレタリア民主主義、あるいは、プロレタリアートの独裁の発生を意味する」(p.400、1921)。
 ・「権力をソヴェトへ」とは「旧国家機構全体」・「民主主義的なものを、いっさい阻止するこの官僚機構」を、「徹底的に改造する」ことであり、この機構を除去して、「新しい、人民的に真に民主主義的なソヴェト機構に代える」ということだ(p.164、1917)。

 ・こんにちのロシアでは二つの異なる社会戦争が行われている。一つは「民主主義のための」・「人民専制のための全人民的闘争」で、もう一つは「社会主義的社会組織のための、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの階級闘争」だ。社会主義者は、これら二つを同時に行う。「プロレタリアートが民主主義革命に参加する…任務を蔑視して」。「プロレタリアートと農民の革命的民主的独裁というスローガンを避ける」のは「愚か」であり「反動的」だ(p.80、1905)。

 他にもあるが、これくらいにしておく。
 ロシア革命の展開時期によって重点や用語は同一ではないが、大まかにいってつぎのような「理論」または概念用法のあることは明らかだろう。

 コミュニズム(マルクス・レーニン主義)において「民主主義」には二種がある。「ブルジョア民主主義」と「新しい、人民的に真」の「民主主義」または「プロレタリア民主主義」だ。後者こそが「完全な」民主主義だとされる(そして共産主義社会の完成=国家の消滅とともに民主主義も死滅するとされる)。但し、労働者大衆(プロレタリアート)は「ブルジョア民主主義」を目指す「民主主義革命」にも参加し、「革命的民主主義的独裁」=「プロレタリア独裁」を経て「完全な」・「プロレタリア民主主義」をもつ共産主義へと発展する。

 日本共産党が「自由と民主主義」の徹底を主張し、「真の民主主義」という言葉を使うことがあるのは元来のマルクス・レーニン主義と何ら矛盾していない。講座派マルクス主義によれば、日本はまだ「(真の)民主主義革命」を経験しておらず、「民主主義革命」と「社会主義革命」の二つの段階の「革命」を今後経なければならない(なお、「ブロレタリア独裁」は「人民の執権(ディクタトゥーア)」とかに訳語(?)変更しているはずだ)。

 また、旧東ドイツの正式名称、旧北ベトナムの正式名称が<ドイツ民主共和国>、<ベトナム民主共和国>であったのも、北朝鮮の正式名称が<朝鮮民主主義人民共和国>であるのも、不思議ではない。

 「実態」ではなく「理論」・「理念」のレベルでは、社会主義国の「民主主義」は資本主義国の(ブルジョア)民主主義よりも「進んだ」(進歩的な)ものだとされていることに注意しておく必要がある。

 いささか単純化しすぎかもしれないが、辻村みよ子が対比させる「国民(ナシオン)主権」と「人民(プープル)主権」は、<ブルジョア民主主義>と<プープル=人民の民主主義>の対比とほぼ同じなのではないか。辻村みよ子に看取できる<プープル主権>への憧憬は、<社会主義への憧憬>でもあるのではないか?

 さて、最近に紹介したように(12/22エントリー参照)、佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版)は、「冷戦以降」(ソ連崩壊後)の「最も進歩主義的な」国はアメリカ(合衆国)になった、と論定している。これは適切だろうか。

 「社会主義」国がまだ残存しているとすれば、資本主義国・アメリカよりも、あくまでマルクス・レーニン主義によるとだが、その現存「社会主義」国の方が、<より進んだ>・<より進歩的な>国なのではないか。この点でも、佐伯啓思の論定にはにわかに賛同することができない。

 だが、それをアメリカだとしたうえでの佐伯啓思の論述自体は日本の「保守(主義)」にとって興味深いものなので、紹介・コメントはつづける。

0962/櫻井よしこと持丸博=佐藤松男と大熊信行。

 櫻井よしこが週刊新潮12/23号で肯定的に言及していたので、持丸博=佐藤松男・証言/三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決(文藝春秋、2010)を入手して、読んで、いや全部を読もうとしてみた。

 だが、第二章の終わりあたりで、全体の3割くらいまで進んで、止めた。面白くない。
 三島由紀夫と福田恆存の「対決」は「たった一度」ではないのでないかと12/17に書いたが、この本のp.7によると、他に対談の機会はあったことには触れていないものの、「政治的、思想テーマについて」の「たった一度の対談」だとの趣旨のようだ。なおも誤解を招きうるとは思うが、12/17の批判的コメントは(全部ではなく)かなりの程度で撤回しておく。
 ともあれ、上の本は、最初に三島・福田の「対決」の「要旨」を掲載したうえで、あとは持丸博と佐藤松男の「対談」を内容とする。

 櫻井よしこは多くの三島論・福田論があったが「その中で、持丸、佐藤両氏が論じた本書は抜群に面白い」と評している(上記週刊誌p.138)。

 櫻井よしこは全部をきちんと読めた・読んだのだろうか。適当な(当事者たちに嫌われない)褒め方をしているにすぎないように思われる。

 この本の対談者二人は三島と福田にそれぞれに<私淑>した人物で、三島・福田の知られざる個人的言動がふんだんに語られていれば興味も湧くが、三島・福田の一つの「対談」を主たる材料にして、三島・福田と同レベルで、彼らの「思想」・「考え方」をあるときは代理してのようにあるときは独自の解釈を展開するように、語り合っている(全部を読んだわけではない)。持丸博と佐藤松男はそれぞれこれまでに三島や福田についての研究書なり評論書を刊行した実績はなく、どうやら初めての著書(対談書だが)のようだ。そのような二人が、いくらかつて三島・福田と物理的に「近い」場所にいたとしても、本格的な三島論・福田論を語るのは無理というものだろう。

 多少は具体的に述べれば、日本国憲法との関係で三島が使った「縄抜け派」という語を契機として示された二人の憲法感覚の違いは、持丸・佐藤のように説明または分析されるものなのか、疑問だ(p.32-37)。また、「国家(のエゴイズム)」と「天皇」の関係についての三島・福田の対論内容も、持丸・佐藤のように説明または分析されるものなのか、疑問だ(p.41-)。

 持丸博は<国家を超えた絶対的価値>の存否に関連して日本と西洋の違いや「キリスト教」に言及し、福田と三島の違いは「福田恆存は認識者」であることだ、「世界を認識」できるが、「絶対的な存在、そんな世界があるということを認識しているがゆえに…三島先生のような行為はできなかった」、「あの行為こそが三島由紀夫の限界」だとか語り、佐藤松男は福田は三島に「絶対的な価値は何か」を問うているのではなく「国家を超えた絶対的な何ものかを追い求めて」いく必要を語っているのだ、などと反応している(p.48-50)。

 このあたりのやりとりは(も)、対談の原文をきちんと読まず、かつ三島・福田について詳しくは知らないからかもしれないが、ほとんど理解できない。三島・福田が使った表面的な言葉・文章を手がかりにして、<空を掻く>ような議論をしている可能性を否定できない。

 もともと、「政治的、思想テーマについて」の唯一の「対談」として語られた中での、三島由紀夫と福田恆存の言葉・文章、相互の「やりとり」の関係のみをほとんど唯一の手がかりにして、三島・福田の「思想」・「考え方」の違い等を析出しようとするのは、無理があるのではないか。

 対談では、ふつうの単独執筆の文章・論考等と違って、概念・論理ともに厳密な議論が少なくとも十分にはできはしないだろうと思われる。

 三島由紀夫にしろ福田恆存にせよ長大な個人「全集」を遺しているわけで、それら全体から二人の「政治的、思想テーマ」に関する立脚点・発想・論理等々を(違いも含めて)明らかにすべきだろう。

 遠藤浩一・三島由紀夫と福田恆存(上)・(下)(麗澤大学出版会、2010)はそのような試みで、この二人の書いた文献を相当に広く渉猟しかつかなり深く読んだ上で、両者を分析または対比させているようだ。だからこそ興味をもって(時間はかかったが)読み終えた。しかし、持丸博=佐藤松男の本は約70頁でもう厭きてしまった。

 櫻井よしこに尋ねたいものだ。持丸博=佐藤松男の本が「抜群に面白い」というならば、遠藤浩一の本はいったいどうなのだ。櫻井よしこは、遠藤浩一の上記著書は読んでいない可能性があるだろう。

 ついでに、再び、櫻井よしこの上掲の週刊新潮12/23号の文章に戻る。
 櫻井よしこは、持丸博=佐藤松男の本に触れる中で佐藤が言及する大熊信行・日本の虚妄―戦後民主主義批判(論創社、2009)にも触れて、「大熊の主張はもっともだ」と書いている(p.138)。

 そこで紹介されているごく一部の大熊の発言だけに限れば「もっとも」なのかもしれないが、大熊信行は決して<保守派>の論者ではなく、「護憲」(九条2項改正反対)論者だ。タイトル(書名)に惑わされてはいけない。大熊は「戦後民主主義」だけを批判しているのではない。

 櫻井よしこが不用意に名を出すことによって、不必要な誤解を招く可能性もある。一部を読んだだけで、とか、引用されているのを間接的に読んで、というだけで簡単に肯定的に(または逆に消極的に)評価するのは、産経新聞社から<正論大賞>を受けたらしい「コラムニスト」あるいは「評論家」にはふさわしくないだろう。

0961/仙石由人は自殺するか? ノーマン―ビッソン-「ヴェノナ」文書。

 一 ヘインズ=クレア〔中西輝政監訳〕・ヴェノナ(PHP研究所、2010.02)の序章の冒頭の文章によると、「ヴェノナ(Venona)」または「ヴェノナ文書」とは、かつてアメリカ合衆国政府が「ヴェノナ作戦」と名付けた暗号解読作戦によって「傍受解読」された、暗号通信の記録文書の総称だ。ここで暗号解読作戦とは、第二次大戦前後の時期に「米国内のソ連スパイたちがモスクワの諜報本部との間でやり取りした約三〇〇〇通に上る秘密通信」を秘密裡に「傍受し解読」することをいう。そして、この「ヴェノナ(文書)」の具体的内容は「最高機密」とされ「ほぼ半世紀近くにわたって秘匿」されて一般の知るところではなかったが、1995年に「公開」された。上の本は大まかにいって、その原資料によって当時のコミンテルン(ソ連・モスクワ)のスパイ等の活動内容を、人名の特定もしつつ明らかにしたもの。

 20世紀米国史への見方を根本的に変える可能性があるらしいが、そうだとすると、米国(または米国人や米国滞在者)と関係するかぎりで、第二次大戦前後や占領期の日本史をも大きく「書き換える」可能性があるだろう。

 全体の量(資料等を除いても500頁超)からするとほぼ1頁しか費やされていなくて少ないが、トーマス・A・ビッソンについての言及もある。

 上掲書p.257によると、GRU(ソ連軍諜報機関・「参謀本部情報総局」)のエージェントの一人だったジョセフ・バーンシュタインが、GRUニューヨーク支局主任に対して「T・A・ビッソンと友人になったと伝えてきた」ことを記す文書がある、という。以下は、上掲書の著者たちによる文章(の一部)。

 ・ビッソンはのちに「アーサー」とのカバーネームを与えられた。
 ・彼は「中国共産党の熱烈な擁護者」で二つの雑誌の創刊メンバー。そして、毛沢東下の中国共産党員は「真のマルクス・レーニン主義者ではない」、中国は「民主主義的な中国」と表現されるのが正しい、毛沢東支配地域の体制は「ブルジョワ民主主義が核」などと一般には(対外的には)主張した。

 ・かつて務めていた米国「経済戦争委員会」の「秘密の報告書」をバーンシュタインに提供し、GRU(ニューヨーク支局)はそれを「ソ連の外交文書でモスクワに送った」。この報告書は独ソ戦の分析・中国の米兵・中国滞在の日本人の商取引等々に関する報告を含んでいた。
 トーマス・A・ビッソンはソ連・GRUのエージェント(情報源)だったというわけだ。中西輝政らの訳者が作成した「参考人名録」によると、ビッソンは1943年に米国下院「非米活動特別委員会」で「(アメリカ)共産党」との関係を詰問されたが「否定」。1946年にGHQ民政局に入り、GHQ起草の日本国憲法草案の日本語訳等に携わり、1947年に帰国。

 二 日本国憲法の制定過程における米国・GHQ側の重要人物の一人であったからでもあろう、その制定過程にもかなり言及している、ビッソン日本滞在中の妻あての手紙を収載した書物は邦訳されて出版されている。

 ビッソン・日本占領回想記(三省堂、1983。原書1977)だ。この原書や訳書の刊行時点で、ビッソンとソ連・GRUとの関係はまだ明瞭にはなっていない。
 上の本の訳者は講座派マルクス主義歴史学者で日本共産党員の可能性もある中村政則ら(中村政則と三浦陽一)。

 中村政則は上の本の「解説」の中で、妻あて手紙の中にビッソンは日本滞在中の「オーエン=ラティモア、E・H・ノーマン、…都留重人らとの交友の記録が随所に書き留められており、彼をとりまく知的サークルの雰囲気が彷彿と伝わってくる」と書いている(p.329)。

 中村政則は知らないままで書いているのだろうが、「ヴェノナ文書」の公開もあって、オーエン=ラティモアとE・H・ノーマンの二人のソ連・モスクワとの関係、彼らの「エージェント」性(または「共産主義者」性)はほとんど明らかになっているものと思われる(上掲書・ヴェノナでの確認はしていない)。

 マルクス主義者・中村政則は、「マッカーシズムの狂気は、一九五七年、ノーマンを自殺に追いやった」と書くが(p.340)、この、日本における近代国家の成立(岩波)の著者として知られるカナダ人に対するマッカーシーの疑いは、「狂気」ではなく、正当なものだったように推察される(なお、ビッソンも疑われたが、その直後を除いていちおうは「ふつうに」人生を終えたようだ)。
 なお、ノーマン、ラティモア、都留重人についてはいずれさらに何かこの欄で書く。

 三 「戦後日本」は、何とコミュニスト(共産主義者)または親共産主義者(・親社会主義者)に寛容なことだろう。

 戦後ずっと今日まで、ソ連・中国等々と<親分>は変わっても、少なくとも実質的・客観的には、<社会主義国のための情報源または代理人>として仕事をし生活をしている日本人の何と多いことだろう

 かりにその点を指摘され追及されたとしても、彼らはE・H・ノーマンのように「自殺」しはしないだろう。追及はそれほどに苛酷になることはありえないし、それほどに心理的に追い込まれることもないだろうからだ。むしろ、偏狭で排他的なナショナリズムをもって「日本のために」生きるのは<古い>思想・発想で、とりわけ東アジア諸国に優しい、過去の日本の歴史と誠実に向かい合う、「地球市民」として仕事をし、生活しているのだ、と開き直るのだろう。

 刑事事件にするつもりがないくせに裁判資料だとの理屈で尖閣諸島・中国船衝突のビデオの公開を拒んだ者(仙石由人ら)は居座り続け、あえて当該ビデオを「流出」させた海上保安庁職員(保安官)が1年もの懲戒停職処分を受け、おそらくは辞職を余儀なくされるとは、日本は依然として、あるいはますます、<狂った>ままでないか。

 ①逮捕・勾留していた中国人の「釈放」は検察の判断ではなく仙石由人らの実質的「指示」(かたちの上では「示唆」にでも何でもできる)によるのだったとすれば、②中国政府との間で仙石由人(ら)は<尖閣ビデオは公開しない>と「約束」していた(その代わりに北京で拘束された日本人は解放された)のだとすれば、仙石由人は、国会で、国民に対して、<真っ赤なウソ>を公然とついていたことになる。

 近い将来、2010年秋の上の二つに関する仙石由人発言が全くの<虚偽>だったことが明らかになれば、「赤い官房長官」・仙石由人は<自殺>するか?

0960/レーニンとフランス・ジャコバン独裁(1793年憲法)-その2。

 レーニンが1915年11月に雑誌か新聞に寄せた論文「革命の二つの方向について」(レーニン10巻選集第6巻(大月書店、1971)p.172-3)は、フランス一七八九年革命に次のように言及している。

 ①プレハーノフは、マルクスの「フランスの一七八九年の革命は、上向線をたどったが一八四八年の革命は下向線をたどった」との文を引用する。前者では権力が「より穏健な政党からより左翼的な政党へと」、すなわち「立憲派―ジロンド派―ジャコバン派」へと移行した。後者では逆だ(「プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世」)。これらの事例からするプレハーノフの現在のロシアに関する推論は誤っている。

 ②「マルクスは、一七八九年にはフランスでは農民と結合し、一八四八年には小ブルジョア民主主義派がプロレタリアートを裏切ったと書いている」。

 ③「一七八九年の上向線は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 プレハーノフによるロシア(1915年時点)への推論を批判してはいるが、マルクスが示したという「革命の二つの方向」、一七八九年の「上向線」と、一八四八年の「下向線」という理解そのものには、レーニンも反対していないことは明らかだ。成功(上向)と失敗(下向)の各事例の階級・階層関係の分析がプレハーノフとは異なるようだ。

 さて、上の②をプレハーノフは知っていたのに無視しているとレーニンは批判しているが(p.172)。上の②とこの批判を含まない、これらに続く文章が、平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)に引用されている(平野編p.115)。

 「一七八九年のフランスでは、絶対主義と貴族を打倒することが問題であった。ブルジョアジーは、……農民との同盟に応じた。この同盟が革命の完全な勝利を保証したのである。一八四八年には、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒することが問題であった。フロレタリアートは、小ブルジョアジーを自分のほうに引きつけることに成功しなかった。そして小ブルジョアジーの裏切りが革命を敗北させたのである」。

 このあとに、上記の(レーニン選集第6巻の)③がつづく。

 但し、平野編著は、上の①・②を割愛しているからだろう、そのまま引用するだけではなく、〔〕内に平野による「注」または「補足」を挿入している。したがって、上の③は次のようになっている。
 ③「一七八九年の上向線立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 レーニン自身による上の①を参照すると、ここでの〔〕内への挿入内容が平野による独自の解釈などではなく、レーニンの理解と矛盾していないことは明瞭だろう。

 つまり、こういうことだ。レーニンは、<絶対主義→ブルジョア民主主義>というフランス革命の「勝利」の最後の頂点に「ジャコバン派(党)」を位置づけている。

 レーニンにおいて、ジャコバン独裁・1793年の時期が肯定的に評価されていることは明らかだ。あらためて記しておくが、そのようなジャコバン独裁期に制定された(だが施行されなかった)、「人民(プープル)主権」原理に立つ1793年憲法を熱心に研究して1989年に著書を刊行したのが、辻村みよ子(現東北大学教授)だ。

 なお、レーニンが執筆したもののすべてに目を通すことは不可能で、平野編著も決して網羅的ではないようだ。河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によるとレーニンは1915年に「偉大なブルジョア革命家」として「ロベスピエール」(ジャコバン派)に言及したらしいのだが、該当部分をレーニンの著書や上の平野編著の中に見出すことはできなかった。

 レーニン(またはマルクス)がフランス・ジャコバン独裁をどう評価していたかの探索(?)は、とりあえずはこれで終えておく。

0959/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む③。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ③

 ・保守の精神とは何か。「保守の思想」は、英国の歴史や思想風土と「深く結びついて」いる。エドマンド・バークが抽出した英国の「国民性に根付いた歴史的精神もしくは暗黙の合意」を表現したもの。もともとはバークによるフランス革命への強い警戒心から発し、「保守」はまず「進歩主義」批判を意図する。「近代」社会は「進歩」を掲げるが、「近代主義とはほとんど進歩主義と同義」だ。とすると、「保守」は時代の「先を読む」・「潮流に乗る」等の甘言に飛びついてはならず、「徹底して反時代的」である必要がある(p.184-5)。
 ・「進歩主義(近代主義)の精神」として次の4つは無視できない。①合理主義・科学主義・技術主義の精神、②抽象的・普遍的理念の愛好、③自由・平等な個人の無条件の想定、④「急激な社会変化への期待」。

 ・「保守の精神」は、上との対比でこうなる。①「理性万能主義への強い懐疑」と「歴史的知恵」の重視、②「具体的で歴史的に生成したものへの愛好」、③「個人」よりも「個人を結び付ける多様なレベルの社会的共同体の重視」、④「急激な社会変化を避け、漸進的改革をよわしとする精神」と「大衆的なもの」への懐疑。「大衆的なもの」とは「無責任で情緒的な行動」で「ムードによって相互に同調的で画一的」になり「自らを主役であると見なす自己中心主義的な心情」。この「大衆的なもの」による「急激な社会変革」を「保守」は「ことさら警戒する」(p.185-7)。

 ・四つの各特質の第一点について。親社会主義=「革新」、親「アメリカ的」「自由民主主義・市場経済」=「保守」とされた。これは、アメリカに比べてソ連社会主義は「左」だったので「冷戦時代」には「一定の政治的有効性」があった。しかし、「冷戦以降」は異なる。

 ・「いくつかの例外を除いて、基本的に社会主義は崩壊したし、もはやイデオロギー的力はもっていない」。今日の最も「進歩主義的国家」はアメリカだ。「保守の精神」からは、アメリカ流「進歩主義」こそが最も警戒すべきものだ(p.187-8)。

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 このあたりから佐伯啓思らしさが出てくるともいえるが、コメント・感想を挟む。上の部分のうち、前半には賛同できない。
 「いくつかの例外」として何を意味させているのかは正確には分からないが、まだ<冷戦>は終わっておらず、「基本的に社会主義は崩壊したし、もはやイデオロギー的力はもっていない」と論定することはできない、と考える。

 中国(シナ)や北朝鮮を日本にとっての「例外」などと評価することはできない。そしてまた、中国・北朝鮮等という「社会主義」国家が近隣に現存するとともに、「社会主義」イデオロギーは日本国内においてすらなお強く現存している。
 現菅直人政権のかなりの閣僚は、「社会主義」イデオロギーの影響を受けていると想定される。少なくとも「社会主義幻想」を持ったことのある者たちがいる。だからこそ、民主党政権を「左翼・売国政権」(鳩山)とか「本格的左翼政権」(菅)と称してきた。

 他にも、日本共産党はもちろん社会民主党も、れっきとした、「社会主義」の「イデオロギー的力」の影響を受けている政党だ。

 さらにいえば、岩波書店、朝日新聞等、出版社やマスメディアの中には、「社会主義」の「イデオロギー的力」の影響の強い、「左翼」または親「社会主義」的と称してよい有力な部分が巣くっている。

 この論考だけではないが、佐伯啓思はなぜ、「左翼」または親「社会主義」勢力の現存・残存についての認識が<甘い>のだろう。職場・同僚・学界に、「左翼」(例えば親日本共産党学者と評せる者)はいないのだろうか。信じ難いことだ。

 脇道にそれたが、再び佐伯論考に戻ってつづける。

--------  ・「保守の精神」が「冷戦以降」の今日の「もっとも警戒すべき」は「アメリカ流」「進歩主義」だが、「強くて自由な個人、民主主義、個人の能力主義と競争原理などの価値」という「アメリカ建国の精神」へと「復帰する」ことはアメリカでは「保守主義」だ。だが、これは「イギリス流の保守主義」とはかなり異なる。アメリカ独立・建国はイギリスからの分離独立・イギリスに対しての「自由な革新的運動」だったので、建国の精神に立ち戻るという「アメリカ流保守主義」は「いささか倒錯的なことに」すでに「進歩主義」で刻印されている。この「倒錯」は、「ネオコン」=「新保守主義」が、「自由」・「平等」を普遍的価値とみなして「イラク戦争や対テロ戦争」を立案したとされることに、典型的に示されている(p.188-9)。
 ・「戦後日本」はアメリカ的価値観の圧倒的影響下にあったため、「アメリカ流保守主義」を「保守」と見なした。しかも冷戦下でアメリカ側につくことが「保守」の役割とされた。イギリス的「保守」とアメリカ的それとの区別が、決定的に重要なのに、看過された(p.189)。
 ・「日本とは何か」を問題にする際、「日本の保守」を「アメリカ流保守主義」と「自己同一化」してはならない。日本の「国体」はアメリカのそれと大きく異なり、むしろイギリスの方に近い。いずれにせよ、日本の「保守」にとって、「日本の歴史的伝統を踏まえた価値とは何か」という問いが決定的に重要だ(p.190)。
 ・いっとき勝利したかに見えた「保守」は今や退潮している。「この二〇年」で「保守」は「失敗した」。その原因は、日本の「保守派」が「保守」を「アメリカ流保守主義」によって理解していたからだ。日本は、①「経済構造改革」路線の選択、②外交・軍事上の「日米同盟」という、「二重の意味で、かつてなくアメリカと緊密な関係に立つという判断をした」(p.190-1)。
 ・かかる政策の当否を論じはしない。「保守」の立場からは何を意味するのかを明らかにしたい。ここでは以下、「日米同盟」につき論じる(p.191)。

 以上で、13/26頁。

0958/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む②。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ②

 ・「保守」の立場の困難さの第二は、日本の「近代化」が一方で伝統的日本(と見られるもの)への回帰、他方では「西欧列強の制度や価値」の導入、によって遂行されたことだ。近代化は「外発的」で、「憧憬することで近代化を遂げた」。この事情は戦後はさらに「緊張感を欠いた漫然たる」ものになり、ほとんど「無自覚、無反省」のままで「アメリカ的なもの」への「傾斜、追従」がなされた(p.181)。

 ・決してアメリカ化などしていないとの反論はありうるが、「戦後日本人が、ほとんど無意識のうちにではあれ、『アメリカ的なもの』、すなわち、個人的自由、民主主義、物的豊かさと経済成長、人権思想、市場経済、合理的で科学的・技術的な思考、市民社会などに寄りかかった」のは間違いない。他方で、これらと対立するとされた「日本的なもの」、たとえば「家族的紐帯、地域共同体、社会を構成する権威、そして、日本的自然観、美意識、仏教的・儒教的・神道的なものを背景にした宗教意識」は、すべて否定的に理解された。ここに「戦後日本における大きな精神的空洞が出来した」(p.182)。

 ・「保守」が「その国の歴史的分脈や文化的価値をとりわけ重視する」ものだとすれば、上の事態は「由々しき」ものだ。「倒錯した価値をしごく当然のごとく受け入れてきた戦後日本という空間には、公式的にいえば、『保守』の居場所はない」。「日のあたる場所」は「アメリカ的」「戦後思想」が占拠したのだから。したがって、「保守」は、「戦後日本が公式的に重要な価値とみなしているものをまず疑うところから始めなければならない」(p.182)。

 ・「軍事力」のない「戦前に戻ればよい」という単純な話ではなく「日本の近代化」自体が孕む問題だが、「戦後」に限っても、「戦後日本の…ありように、根源的な違和感をもつ」、この前提がないと「『保守』という精神的態度は成立しえない」。したがって、「少なくとも戦後憲法の精神は保持したままで『保守の原点に戻る』などと言っても意味はない」。「戻るべき原点」とは何かも問題だ。

 ・しかし、「戦後」への「大きな違和感」をもつと同時に、「どうあがき悶えても」、「戦後日本」に生きてきているのであり、戦後憲法と下位法体系のもとで「生活を守られ、言論活動をしている」のも事実で、「今日、われわれは決して『戦後日本』の外へ出ることはできない」(p.182-3)。
 ・典型的「進歩主義」に覆われた「戦後日本の公式的価値空間」で「保守」を唱えること自体が「矛盾をはらんでいるのではないか」との疑問すら生じる。「実際その通り」なのだ。「保守」自体の矛盾に自称「保守主義者」たちは「どこまで自覚的」なのだろうか。まずは、「自らの置かれた立場についての引き裂かれた自覚」があるべきだ。この自覚がないと、戦後日本の「大方の」「保守主義者」のように、「社会主義に反対して日米同盟を守ることが保守の役割」だといった「倒錯した保守の論理」が出現する(p.183-4)。

 ・「戦後体制」、つまり「平和憲法と日米安保体制」という構造の中で生き、身を守られているとすれば、「日米同盟」を破棄できない。この状況自体が、「日本を日本でなくする危険に満ちている」。そのこともまた「今受け入れるほか」はない。とすれば、「この種の苦渋に満ちた矛盾と亀裂の只中にいるという自覚」だけが「保守」に「道を開く」のであり、この点に無頓着な「保守」は、「親米であれ、反米であれ、『真の保守』たりえない」と思われる(p.184)。

 以上で2回め、終わり。まだ7/26頁。

0957/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」。

 一 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010.08)の第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」は、月刊正論2010年6月号(産経新聞社)の「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」に「多少の加筆修正」をしたもの。

 月刊正論の原論考ついては、この欄の5/07、5/17、5/18の三回ですでに紹介・言及している。不十分なコメントしかできていないが、単行本の一部となって読み直しても、<保守派>志向の者にとって、無視できない、重要な論点・問題を提起しているようだ。

 日本の「国民精神」は「西欧的なもの」と「日本的なもの」の間の、「もはや深刻なディレンマとして受け止めることができなくなってしまった」ディレンマとして表象されてきた。この「葛藤を引きうけること」によるしか「精神の活力もバランスもえることはできない」ので、「保守の立場とは、まずはこのディレンマを自覚的に引き受けるということから始めるほかない」(p.202-3)。

 日本の保守派(志向者)ははたして、「このディレンマを自覚的に引き受けるということから始める」ことをしているのだろうか? そしてまた、なぜ、この佐伯啓思論考を手がかりにしたような議論や論争が<保守論壇>で起きないのか?

 二 あらためて、この論考を最初から、メモをしながら読み直す。なお、今年2010年の4月頃に初出論文は執筆されたと見られることは留意されてよいかもしれない(まだ鳩山由紀夫首相で、まだ2010参院選民主党敗北も明らかでなかった。むろん尖閣問題も起きていない)。

 ・鳩山政権の支持率は下がっているが、自民党への期待が高まってもいない。その理由は「この政党の依って立つ軸のありかが全くもって不明な点」にある。但し、民主党も「同じ」で、「経済政策や外交政策の基本的な立場が見えない」(p.178)。

 ・民主党=リベラル、自民党=保守との図式ぱありうるが、「リベラル」・「保守」の意味自体が明快ではない。福祉重視=リベラル、市場競争重視=保守という「何とも大ざっぱで、しかも誤った通念」が流通した。これによると、「構造改革」をした自民党は保守、民主党は「その反動でリベラル」ということになる。だが、「構造改革」という「急進的改革」者を保守と称するのは奇妙で、それに「抑制をかける」ものこそを「保守」というべきだ。また、「過度にならない福祉」は「保守」の理念に含まれているはずだ(p.179-180)。

 ・下野した自民党の一部で「保守の原点」、「保守の再定義」、「真正の保守」等が語られているのは結構なことだ。では、「保守の原点に立ち戻る」とはどういうことなのか?(p.180)

 ・「保守」の立場の困難さの一つは、「改革」・「チェインジ」の風潮と現実のもとにあることだ。だが、現在の「変化が望ましい方向のものだという理由はどこにもない」。「変化」の意味を見極め、「変転著しい」「変化」に「振り回されない軸を設定する」ことこそが今日の政治の課題=「保守」という立場、だ(p.180-1)。

 とりあえず、以上(つづく)。

0956/マルクス・レーニンとフランス・ジャコバン独裁。

 河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によれば、レーニンは1915年に、「ロベスピエールの名前をあげ」つつ、「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と書いたらしい。また、「ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」とされる(p.193)。

 実際のところ、レーニンは、ジャコバン派・ジャコバン独裁あるいはフランスの1793年の時期について、どのように語って、または書いていたのだろうか。

 平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)という450頁を超える書物がある。これは、日本共産党員だったと見られる平野義太郎が、ほぼロシア革命の段階の順に、およびテーマ・論点ごとにまとめて、レーニンが種々の論文(・演説)等で記した(・語った)ことを整理して紹介したものだ。ある程度は、レーニン自身の言葉・文章の辞典的な役割も果たし、便利だ。

 この書物から、索引を主として手がかりにして、上記の関心に応えてみよう。レーニンは次のように述べた(「」は各論文等からの平野による抜粋的引用の部分。「…」はこの欄での省略部分。引用部分自体には平野による簡潔化・修正は加えられていないと見られる)。

 ①「ジロンド派は、フランス大革命の事業の裏切り者であったろうか? そうではない。しかし彼らは、この事業の、一貫しない、不決断な、日和見主義的な擁護者であった。だから、革命的社会民主主義者が、二十世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもりぬいているのと同様に、十八世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもりぬいたジャコバン派は、彼らとたたかったのである。だから、…あからさまな裏切り者・王党派・立憲主義的僧侶等々は、ジロンド派を支持し、ジャコバン派の攻撃にたいして、彼を弁護したのである」(1905.03.08)。

 ②「国民の大多数の利益のために革命的暴力を用いることに、反対するものではない。…/問題はただ『ジャコバン派』にも、いろいろあるということだ」。「機知に富んだフランスの格言は『人民ぬきのジャコバン派』をあざわらっている。/真のジャコバン派、一七九三年のジャコバン派の歴史的偉大さは、彼らが『人民とともにあるジャコバン派』、人民の革命的多数者、…とともにあるジャコバン派だったことにあった。/…ただジャコバン派ぶっているだけの連中、…はこっけいであり、みじめである」。「プレハーノフらの諸君。…一七九三年の偉大なジャコバン派が、…当時の国民の反動的・搾取者的少数者の代表を…人民の敵と宣言するのを、恐れなかったことを、諸君は否定できるか?」(1917.06.10)

 ③「民主主義的独裁は、…『秩序』の組織ではなくて、たたかいの組織である。…ペテルブルクを占領して、ニコライをギロチンにかけたとしてさえ、われわれは若干のヴァンデーに当面するであろう。マルクスも、一八四八年に…ジャコバン派のことを回想したとき、このことをみごとに理解していた。彼は、『一七九三年のテロルは、絶対主義と反革命とを片づける平民的なやり方にほかならなかった』と言っている。われわれも『平民的』なやり方でロシアの専制をかたづけるほうをえら」ぶ(1905.04.08。「ヴァンデー」とは、抵抗した農民に対する革命軍の大虐殺があった地域名-秋月。以上、p.44-45)。

 ④1849年のドイツでの「反動」期に、「マルクスは、…労働者が自主的に自分自身の組織をつくるように勧告し、とくに全プロレタリアートの武装が必要であること、プロレタリア衛兵を組織すること、『武装解除の試みは、すべてこれを必要とあれば暴力を用いても、阻止しなければならないこと』を主張している」。「マルクスは、一七九三年のジャコバン党のフランスを、ドイツ民主主義派の模範としている」(1906.03.20。p.82)。

 以上を、平野義太郎編著を使ってのレーニンの叙述紹介の第一回とする。

 レーニンやマルクスが、「1793年のジャコバン派」をどのように評価していたかは、すでに明瞭だろう。

 くり返しておくが、そしてまた再度述べるだろうが、フランス1793年憲法・ジャコバン派を研究した辻村みよ子が、このようなマルクス、レーニンによる評価にまったく(ほとんど?)言及することがないのは一体なぜなのか? 全く知らなかったはずはないのだ。

 付記すれば、既述のように、樋口陽一も、ルソーやジャコバン派を肯定的に評価していた憲法学者だ。樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)p.170は、「一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験すること」が「重要なのではないだろうか」とすら書いていた。樋口陽一も、マルクスやレーニンがジャコバン独裁(・テロル)を肯定的に評価し、実践的な「模範」としていたことに言及していない。一体なぜなのか?

0955/週刊新潮12/23号の櫻井よしこ・連載コラムと福田恆存。

 週刊新潮12/23号櫻井よしこ・連載コラムは、持丸博=佐藤松男・証言/三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決(文藝春秋、2010)に言及し、自らの文章として、「1960年の安保闘争から70年の安保闘争まで、左翼的思想で満ちていた日本で孤高の闘いを続けた福田恆存と三島由紀夫はたった一度、『論争ジャーナル』という雑誌で対談した」と書く(p.138)。
 持丸博らのミス(?)を引き継いでいるのだろうが、「たった一度」の対決・対談というのは、誤りだと思われる。
 決定版三島由紀夫全集39巻〔対談1〕(新潮社、2004)を見てみる。

 たしかに、論争ジャーナル1967年11月号で三島と福田は「文武両道と死の哲学」と題する対談をしている(全集39巻p.696-728)。

 だが、三島由紀夫・福田恆存・大岡昇平の三者は文芸1952年12月号で「僕たちの実体」ど題する対談をしている(同上p.111~127)。

 これは鼎談であって、対談でも「対決」でもないというならば、三島由紀夫と福田恆存の二人は、中央公論1964年7月号で、「歌舞伎滅亡論是非」と題する対談を行っている(同上p.415-424)。

 持丸らの上掲書を未読なのでどのような注記等がなされているのかは知らないが、「たった一度」の対決というのは事実に反しており、櫻井よしこもその瑕疵を継承しているようだ。

 つぎに、櫻井よしこは福田恆存「滅びゆく日本」(サンケイ新聞1969年02.01。福田恆存評論集第8巻p.261-264)の一部を紹介・言及して福田による「戦後」に対する警鐘・批判に同感する旨を書いている。

 たしかに福田恆存のこの一文からも福田の考えていたことの一端は分かる。しかし、この数頁しかない一文が福田恆存の代表的論文(・評論)とは思えない。いわゆる<進歩的文化人>と対決し、彼らを批判した1950年前後以降のものも含めて、福田恆存が「戦後」を批判的に分析し、批判し、憂慮した文章は、上記の評論集(麗澤大学出版会、刊行中)の中に多数見出すことができる。
 それに、遠藤浩一・三島由紀夫と福田恆存(上)・(下)(麗澤大学出版会、2010)が今年に刊行され、全集に直接に当たらずとも、福田恆存が1950年代以前から反「左翼」の立場で評論活動も行い、1960年前後にはすでに<高度経済成長>の「影」を視ていたことも明らかにされている(この遠藤著に今回は立ち入らない)。

 というわけで、櫻井よしこによる福田恆存発言の紹介の仕方には、たんに紙数の制約によるとばかりは思えない、かなりの不備があると感じられる。ついでながら、おそらくは、福田恆存は櫻井よしこ以上の文筆活動をしたと歴史的に評価されるだろう(たんなる量の問題ではない)。

0954/資料・史料-2010.12.09朝日新聞社説。

 資料・史料 朝日新聞2010年12月09日付社説

 

 離島防衛―「鎧」見せつけるだけでは
 自衛隊と米軍あわせて4万5千人が参加する過去最大規模の日米共同統合演習が、今月3日から九州、沖縄や日本海の周辺で行われている。
 北朝鮮の軍事挑発とともに中国の著しい海洋進出を牽制(けんせい)するのが狙いだ。演習には沖縄本島から与那国島にかけての、いわゆる南西諸島を防衛するための海上・航空作戦が含まれる。
 近年の中国海軍の活動をにらんで、これまで手薄だった離島地域の防衛体制を大幅に見直す。そんな議論が、「防衛計画の大綱」の年内改定に向け政府・与党内で進められている。
 ここは結論を急がず、熟慮してもらいたい。
 この地域の防衛力は現在、沖縄本島の陸上自衛隊約2100人や航空機部隊が中心で、それ以西は宮古島のレーダーサイトだけだ。地理的な制約や住民感情に配慮し、本島に駐留する米軍の抑止力に頼ってきたことが大きい。
 2004年にできた今の防衛大綱は、初めて中国の動向を意識して「島しょ部に対する侵略への対応」を盛り込み、防衛省は冷戦時代の北方重視を改め、「南西シフト」と呼ばれる部隊や訓練の見直しを進めてきた。
 同省は現在、与那国島への陸自配備などを検討している。
 9月の漁船衝突事件もあり、尖閣諸島への自衛隊配備や米海兵隊のような水陸両用部隊の創設を求める意見が、民主党内からも出た。
 とはいえ、日中両国の相互依存関係は深まる一方であり、近い将来、中国が武力侵攻を起こすとは考えにくい。日米の緊密な防衛協力体制がそれを抑止している。米中が正面から軍事的に衝突する展開も、ありそうにない。
 そうした状況で、脅威対応型の発想に傾きすぎるのは得策ではあるまい。かえって、日米中3カ国の安定した政治的枠組みを構築していく地道な作業を妨げることにならないか。
 洋上の移動手段もない陸上部隊を島々においても、中国海軍の艦艇に対する抑止効果は望めない。
 仮に海兵隊のような攻撃力の高い部隊をおけば、それこそ中国側に軍備拡張の格好の口実を与えかねない
 この地域で今後起こりうる危険は、偶発的な海上衝突だろう。それを避けるには、まずは対話を通じ両国間の連絡メカニズムや危険回避のルール作りを急ぐべきだ。
 同時に、これからも続くと見られる中国の民間船や公船との摩擦に備え、海上保安庁の警察機能を充実させ、領海警備をめぐる海自と海保の連携を深めることである。
 万一の場合の備えが必要としても、機動性の高い艦艇や航空機を遠方からでも投入できるよう即応性を高める方が賢明ではないか。「鎧(よろい)」を見せつけるだけが抑止ではあるまい
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 (下線は掲載者)

0953/辻村みよ子・フランス革命の憲法原理(1989)は「社会主義」の失敗・死滅を予想していたか。

 一 ブレジンスキーはアメリカ中心の歴史観・時代観に立っているだろうし、共産主義に対する「民主主義」の勝利という書き方をしているのも、欧米的「民主主義」に万全の信頼を置かないかぎり、全面的には賛同できないところがある。

 だが、1989年の前半の時点で<共産主義の死滅>を明瞭に予測した書物(伊藤憲一訳・大いなる失敗、計366頁)を執筆しえたことは、やはり記憶にとどめられてよいものと思われる。

 二 ところで、既に言及している辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義(日本評論社)は、1989年7月に刊行されている。

 この書は序章によると、「人民主権」原理による男子普通選挙制・人民投票制等の「民主的な内容」をもったためにフランスで「最も民主的な憲法」等と評価されてもいる1793年憲法、パリ・コミューンや第二次大戦後の「左翼共同政府綱領」等々においていわば「反体制のシンボル」たる役割を果たしてきた1793年憲法、について、「その特質とブルジョワ憲法としての限界を明らかにしよう」とするもので、同時に、①「ブルジョワ革命期憲法」=「近代市民憲法」の「本質と限界」等にもアプローチし、②「近代市民憲法の嫡流である日本国憲法の諸原理との比較研究」も行う(p.3-6)。

 フランス革命の簡単な通史である河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)は、むろん辻村著のごとく1793年憲法に詳細に立ち入っていないが、「ルソーの問題意識と理論の継承者」だったとするモンターニュ派=ジャコバン派の支配したフランス革命の一時期と1793年憲法について、次のように書いていた。

 ・1793年憲法は「ルソー的民主主義を基調」とし、「『人民』主権」を採り、議員は選挙民に「拘束」された。この最後の点は「『一般意思』は議員によって代表されないというルソーの理論の適用」だった(p.148)。のちの「民主主義者たち」や「二月革命期の共和派左翼」は「福音書」扱いし、「革命の最大の成果をこの憲法のなかにみた」(p.148-9)。

 ・ロベスピエールとともに公安委員会委員だったサン=ジュストは「反革命容疑者の財産を没収」し「貧しい愛国者たちに無償で分配」することを定める法令を提案し制定した。「ルソーが望んだように『圧制も搾取もない』平等社会を実現」することを企図したものだが、「資本主義が本格的にはじまろう」という時期に「すべての人間を財産所有者にかえようとする」ことは「しょせん『巨大な錯覚』(マルクス)でしかなかった」(p.157)。
 ・経済的には「ブルジョア革命」は1793年5月に終わっていたので、その後に「ロベスピエールが小ブルジョア的な精神主義」に陥ったときに「危機が急速度にやってきた」。しかし、「ロベスピエール派」の「政治的実践」は「すべて無効」ではない。国王処刑と独裁は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『
フランス
革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。
 ・この時期に「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとしたが、この意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。
 ・「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避」だった(p.190)。

 この河野健二著は、ジャコバン独裁期と1793年憲法の「特質と限界」を、すでに簡潔に述べていた、と言えるだろう。

 河野によれば、大まかにいって、ジャコバン独裁期と1793年憲法は、「民衆」とともに(「民衆」のための)急進的平等主義を目指したがゆえに「歴史の法則」に反し、そのゆえに不可避的に「悲壮な挫折」をした。

 辻村みよ子もまた、より複雑に叙述しているとはいえ、河野健二と似たようなことを書いている。例えば、総括的な章の中に、1793年憲法が「民主的・急進的な憲法原理」を持っていたことを認めたうえでの、次のような文章がある。

 ・1793年憲法の「不完全な」「人民主権」原理でさえ、ロベスピエールらは「あくまで(議会)ブルジョアジー」で「民衆」とは一線を画し、「民衆の利益を共有することは本来的に不可能」だったために、「危機」がなくとも実施されなかっただろう。

 ・「一方、主権者としての民衆も、この民主的な憲法を実施するには、あまりにも未熟」だった(p.376)。

 河野はロベスピエールは「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間」だと評するのに対して、辻村はロベスピエールらは「民衆」とは社会基盤を異にする「議会ブルジョアジー」だったとする。このような、あるレベルでは重要かもしれない違いはあるが、<「民衆」を基礎にしたさらなる(徹底的な)変革を現実に行うには、時代的・時期的な限界があった>という点では共通の理解があるものと思われる。

 興味があるのは、1989年に書物を刊行したとき、辻村みよ子は、いかなる時代状況、あるいはいかなる「歴史の発展」方向にかかる意識・認識をもっていたのか、だ。

 ほぼ同時期に、「共産主義(・社会主義)」の死滅を予見するブレジンスキーの本が出ていたし、すでにソ連や東欧等の<激変>の兆しは表れていた。

 にもかかわらず、やはりこの人は、絶対王政→近代市民(ブルジョア)革命→社会主義革命という<見通し>をなおも有していたのではないか。

 辻村自身が、1793年憲法はパリ・コミューンやバブーフ等々によって参照されかつ支持されてきたことを述べている。バブーフについて、こう書く。

 「私有財産を廃止による徹底的な平等と人民主権の実現をめざしていたバブーフも、一九七三年憲法を高く評価していた」(p.377)。「バブーフの平等主義」は1793憲法の諸原理を「超える」ものだったが、1795年憲法に対抗して「民衆や反政府的共和主義者」の力を結集するためには、彼らが尊重すべき「民衆的・民主的伝統の源泉」だった1793年憲法は「必要かつ最も適切な道具」でもあった(p.378)。

 しかし、辻村は、注意深く(?)、1793年憲法あるいはジャコバン独裁(ロベスピエールら)とマルクスやレーニン(・ロシア革命)との関係に言及することを避けている。おそらくは意図的にだ。

 これについては河野健二の著が、すでに紹介した中にマルクスの言葉が使われていたように、率直に語っている。
 ・レーニンは1915年に、「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と書いたが、その際、「彼はロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」。

 ・「ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」(p.193)。
 そもそもが、辻村が「ブルジョアジー」と区別して用いている「民衆」とは、いったい何を指しているのだろうか。何を意味させているのだろうか。この人が頻繁に使う「民主的」とかの概念とともに、じつは明瞭には説明・定義されていない。

 だが、おそらくは、のちには(のちのロシア革命では)革命の「主体」となった「民衆」、すなわちマルクス主義用語にいう「プロレタリアート」(労働者大衆)を意味させているのだろう。「ブルジョアジー」と区別して対比させられる範疇としては、これしか考えられない。

 辻村みよ子はおそらく、早すぎたがゆえに挫折した「社会主義革命」の試みまたはその萌芽をジャコバン独裁と1793憲法のうちに見て、今日でも、「近代市民憲法の嫡流である日本国憲法」の解釈論等に1793年憲法の諸原理を生かそうとしているとしているのだろう(具体例として、外国人参政権肯定がある)。

 このような辻村にとって、1989年の時点で、ロシア革命により成立したソビエト連邦等が崩壊することなど、微塵も想定できないことだったに違いない。

 現在では、社会主義への「発展」については多少は自信(?)を無くしているかもしれない。だが、日本国憲法を「近代市民憲法の嫡流」とあっさりと書いた辻村は、今日でもなお、佐伯啓思のいう「マルクス主義だの戦後進歩主義だの」という思潮の影響を受けた者の「思い込み」、すなわち「西欧近代は、中世・封建制を打倒して、人間の普遍的な自由を打ち出したという歴史観…。そして、日本は、…明治に西欧的近代を導入し、…戦後に改めて自由と民主主義を確立した」という「思い込み」(12/13エントリー参照)だけには少なくとも強く浸ったままだろう。

0952/「左翼・容共」政権とブレジンスキー・大いなる失敗(1989)。

 一 1989年、昭和から平成に代わったこの年の11月、ベルリンの壁の崩壊。だが、この時点ではまだ、ドイツ民主共和国(東ドイツ)もソビエト連邦も残存していた。なお、6月に中国・北京で天安門事件発生。ハンガリーとチェコスロバキアの「自由」化だけは、10月~11月に進んでいる(後者がいわゆる「ビロード革命」)。

 この頃、10月に、ブレジンスキー(伊藤憲一訳)・大いなる失敗―20世紀における共産主義の誕生と終焉(飛鳥新社)は刊行されている。

 6月に書かれた日本語版への序文の中でブレジンスキーは、近い将来の「共産主義の死滅」を前提としつつ、<死滅の仕方>を問題にして、東欧と中国では異なるだろう等と述べる。そして、こう結んでいる-「共産主義が…どのような衰退の道をたどるとしても、われわれの時代の基本的な性格は『人類の政治史上における脱共産主義の段階への入り口にさしかかった時代』と定義することができるだろう」(p.5-7)。

 伊藤憲一の「訳者あとがき」はこの本を読まずして「二〇世紀の回顧や二一世紀の予測」はできないとしつつ、ブレジンスキーの叙述の「結論」をこうまとめている。

 「二〇世紀を語ることは、同時に共産主義を語ることでもある」。「二〇世紀は、共産主義の誕生と死滅を目撃した世紀だから」。「二〇世紀はロシア革命に始まる共産主義の挑戦を受けて始まり」「一時はとくに知識人の間で」資本主義に対する優位も語られた。しかし、「後半に入るとともに次第に共産主義の衰退があらわとなり、いまや世紀末を迎え人類はその最終的死滅を目撃しつつある」(p.360)。

 伊藤によれば、ブレジンスキーは共産主義が「たんなる政治理論」ではなく「偉大な宗教にも匹敵する人間にとっての万能薬」で、「人間の感情と理性の双方に働きかける怪物」だったことを「説き明かし」た、という(p.361)。

 別の機会にそのあとの中間の叙述は紹介するとして、伊藤は最後を、次のようにまとめている。

 ブレジンスキーは「二〇世紀、人類は共産主義と遭遇し、大きな被害を受け」、「非常に重要な教訓」を学んだとしたが、「日本人」はこの教訓を「わがものに…できるのだろうか」。1989年参議院選挙で自民党大敗と社会党躍進があったが「体制選択というマクロな争点」から目を逸らしてはいけない。このことは「とくに社会党のなかに…マルクス・レーニン主義の信奉者が強力な勢力を温存している」ので、「とくに重要」だ。「体制選択をめぐって、不勉強かつ不毛な議論―世界の常識からかけ離れた時代遅れの議論―を繰り返さないためにも」、最低限度ブレジンスキーのこの本の指摘程度のことは「国民共有の知識としておきたい」。この本の内容は、「いまや人類共有の…体制比較の常識論」だからだ(p.365-6)。

 二 さて、「社会党」の中に20年前にいた「マルクス・レーニン主義の信奉者」またはその継承者のかなりの部分は、現在は民主党の主流派(内閣内の重要部分)を形成している。

 このことは、上の伊藤の言葉によれば<体制選択>にかかわる重要な事実だ。

 菅直人個人や谷垣禎一個人の「思想」あるいは考え方に焦点をあてて、民主党政権と自民党は「同根同類」だなどとする櫻井よしこら一部保守派の議論は、基本的・本質的な問題・争点の把握ができていない。現在の民主党政権は基本的には<左翼・容共>政権だ。米国クリントン国務長官が日本の現首相・内閣よりも、韓国の(保守派)李明博政権に親近感をもって(?)、日本よりも先に韓国の名前を挙げたらしいのは、もっともだと思える。

 民主党が昨年の総選挙で大勝した大きな理由は、その<左翼・容共>性「隠し」に成功したことにあるだろう。なるほど現在の民主党全体をかつての日本社会党と同一視することはできない。しかし、明らかな<左翼・容共>主義者を重要閣僚として取り込んでいるのが民主党内閣であり、そのことは<安保・防衛>にかかわる具体的問題が発生するや、ほとんど白日の下に曝されてしまった。

 菅直人政権と谷垣自民党はその「リベラル」性で「同根同類」? 馬鹿なことを言ってはいけない。歴史的に見ても、「リベラル」(日本的・アメリカ的にいう「リベラリズム」)の中に巧妙に隠れてきたマルクス主義あるいはコミュニズムの怖さをあらためて思い起こす必要がある。

 伊藤憲一によれば、「単純な人々も教養ある人々」も共産主義「思想」を受け入れて、「歴史的な方向感覚と道徳的な正当性を与えられ、自己の正しさを疑うことなく、このドクトリンの指示に貢献した」。したがって、マルクス主義の「理論的誤謬を科学的に批判しても…共産主義者に動揺を与えることはできなかった」、「特定の宗教の教理の誤りや矛盾をいかに指摘してみたところでその信者がまったく動揺しないように」(上掲書p.362)。

 いくら具体的事項・問題について詳細に批判したところで、かつその批判は正当なものだったとしても、本来のマルクス主義者(社会主義者あるいは強固な「社会主義幻想」保持者)は、基本的なところでは決して<改心>などはしない、ということは肝に銘じておく必要がある。

 民主党内の何人かの氏名と顔が浮かぶ。それにまた、「共産主義」を綱領に今なお掲げる政党(日本共産党)が堂々と存在している日本とは、「人類共有」であるべき「体制比較の常識論」からしてもまったくの異常・異様な国家であることもあらためて強く感じる。この異様さへの嫌悪に耐えて、あと少しは生きてはいくだろう、自分は日本人だから。

0951/日本の社会系学者・研究者を覆う「欧米的進歩主義(・合理主義)」・「社会主義幻想」。

 一 隔月刊の歴史通1月号(ワック)で、北村稔(立命大)がこう発言している。

 「不思議なのは、中国近現代の研究者の多くが、中国を批判的に研究しようとしないこと…。社会主義の中国が好きで中国研究者になったものだから、なんでも好意的に解釈をするし、いまだに社会主義は資本主義より一段高いと思い込んでいるふしがある。そういう社会主義幻想にとり憑かれたスタンスを変えて、…共産党独裁の凄まじい現実を見据えた客観的・批判的な研究をするべきだと思う…が、そういう人が少ない」(p.67)。

 これによると、「中国近現代」の専門的研究者はいるらしいが、「多くは」いまだに「社会主義幻想」に取り憑かれていて客観的・批判的研究をしていない。

 おそるべき「中国近現代(史)」学界の現実だ。

 これでは、中国の<社会主義的市場経済>なるものの、きちんとした経済学的、社会科学的(?)分析はおそらくほとんどないのだろう。

 極論すれば、日本共産党員研究者に、日本共産党それ自体(の歴史)についての、彼等のいう「社会科学」的研究を求めるようなものかもしれない。いつか、日本共産党自体の<科学的社会主義>の観点からする自己分析をせよ、と日本共産党員学者には言ってみたいものだ。いや、そんなものはなされている、各回の党大会報告、中央委員会報告がそれに当たる、と反論されるのだろうか。

 日本の「社会科学」的、歴史的、近現代史研究の対象の大きな欠損は、日本共産党それ自体だ。

 二 なぜか、佐伯啓思西部邁西尾幹二も、日本共産党についての具体的・詳細な批判はしていないようでもある。ついでに、櫻井よしこも。当たり前のことで指摘する必要はないということかもしれないが、日本「共産」党は、日本ではまだ立派な<公党>であり、党員のみならず知的職業者(大学教員等)に対して、なお隠然たる影響力を持っている。

 佐伯啓思は上の隔月刊歴史通1月号(ワック)の書評中で、こう書いている。

 自分のように「社会科学を専攻しており、しかも、その入口でマルクス主義だの戦後進歩主義だのという六〇年代末の思潮的風潮の洗礼を受けたとなると、なかなかひとつの思い込みから脱することは難しい。それは、西欧近代は、中世・封建制を打倒して、人間の普遍的な自由を打ち出したという歴史観…。そして、日本は、…明治に西欧的近代を導入し、…戦後に改めて自由と民主主義を確立した、あるいはアメリカから『配給』された、というものだ」(p.164)。

 佐伯啓思ですらこう書いているのだから、「マルクス主義だの戦後民主主義だのという」思潮の洗礼を受けた「社会科学」専攻者の中には、上にいう「思い込みから脱する」ことができていない者が<いまだに>相当の数にのぼるほどにいることが想定される。

 佐伯は「マルクス主義」・「戦後進歩主義」という語を使っているが、これらは北村のいう(私も使っている)「社会主義幻想」(にとり憑かれること)とほぼ同じか近い意味のはずだ。

 ソ連崩壊後ほぼ20年。日本共産党が後づけでソ連は「真の社会主義国」ではなかったと主張したことが影響しているのかどうか、欧州における冷戦終了・社会主義の敗北の明瞭化のあとでもなお、日本の社会系「学界」はこの有り様なのだ。

 佐伯啓思自身が、上のあとでこう続けている。

 今日ではかかる単純な図式を描いている者は「ほとんどいまい」が、「それでも、大半の研究者は、仮に意識しないとしても、漠然とこのような見取り図を脳裏に隠し持っている」(p.164)。

 こうした、<社会>系研究者を覆っている空気のような意識が(教科書等を通じて)高校・中学の社会系教師たちに影響を与えないはずはなく、彼らの講義を聴いて単位を取って卒業して公務員やマスコミ社員(・出版社員)等々になっていく学生たちに何らかの影響を与えていないはずもなく、かくして、「マルクス主義」・「戦後進歩主義」(→欧米的「自由と民主主義」)・「社会主義幻想」に何となくであれ覆われた日本は、ますます<衰亡していく>。

0950/NHK日曜午後7時米軍関係ニュースの「狙い」は何か。

 周知のとおり、NHKは、自己を被告とする、原告多数の訴訟について、製作番組(プロジェクトJAPAN)の内容にかかわるからだろう、いっさい報道していない。NHKの製作番組の中には「左翼=容共」性の強いものがあることは間違いないことだ。

 12月12日(日)の午後7時からのニュースの一部も<異様>だった。

 米軍(海軍)の軍楽隊が宮古島で演奏会を挙行したとの報道だったが、NHK(の担当記者・ニュース責任者)は何と、<宮古島で演奏会・米軍の狙いは>との横一列の見出しを掲げた(「狙い」は漢字を使っていた)。

 これには驚いた。「狙い」などと表現するのは、NHKは(少なくとも原稿執筆記者と見出し作成者かつこのニュース番組製作責任者は)米海軍音楽隊のこの行動を好ましくない又は気にくわないものと感じていることを、間違いなく示しているだろう。

 同じ意味の言葉に、他に「意図」も「目的」もある。これらですら、あえて<米軍の目的は>との見出しを打つことは「目的」を警戒するかのごときニュアンスを伴うのだが、これらよりもキツい響きをもつ「狙い」という語を、NHKはあえて使った。

 歓迎しているか、または少なくとも公正・中立さを意識しているならば、「米軍の狙いは」などという見出しを掲げる筈がない。NHKの少なくとも一部は、完全に「左翼」に乗っ取られているのではないか。
 本文および映像にも異様さはあった。アナウンサーは「今回の演奏会について、一部の住民からは『軍事利用につながる』などとして強い反発の声も上がっており、12日も会場の周囲では抗議活動が行われていました」と語り、<宮古島空港の軍事利用を許すな>とか書いた垂れ幕か横断幕をもった数十人か十数人の(空港前の)抗議行動らしきものを数秒以上にわたって放映した。

 だが、常識的に見て、宮古島空港の管理者はどの機関かは知らないが、国・沖縄県・現地自治体のいずれかの(もしくはすべての)同意・了解を得た上で米軍音楽隊の訪問はなされているはずで、当然ながら、<了解>し<歓迎>していた人々もいたはずなのだ。

 しかるに、NHKは上のような「抗議」をする一部住民(「…職労」とか書いてあった)のみについて報道し、その他の住民や市・県当局の対応・反応についてはいっさい報道しなかった。異常だ。

 全体としての放送時間の短さは理由にならない。以上のような報道の仕方は一面的・一方的で(公正・中立ではなく)、放送法にも違反している。

 この報道がいう米軍の「狙い」は次のとおりだ(アナウンサーが読んだ)-「こうした活動の背景には、有事などの際に迅速に対処できるよう、港湾や空港の状況をあらかじめ把握するとともに、この地域との関係を築いておくというねらいもあるものとみられています」。

 ここでなぜ「ねらい」という語が使われるのか。このような、「有事などの際に迅速に対処できるよう、港湾や空港の状況をあらかじめ把握するとともに、この地域との関係を築いておく」ということは、日本国と多数の日本国民が警戒しておくべき<意図>なのか。<狙い>とあえて形容すべきものなのか。

 NHKの中には紛れもなく<狂った>記者たちがいるようだ。日曜は平日とは別の者が担当しているかどうかなどという仔細は知らない。<米軍>といえば、あるいは<軍隊>といえば(音楽隊であれ)警戒視・危険視しなければならないと単細胞的に考えている(思い込んでいる)<狂人>がいるようだ(但し、中国や北朝鮮の「軍」の行動だと別異に判断する可能性もある。そうだとするとますますもって狂っている)。

 加えて、なぜ、わずか数十人(または十数人かもしれない)の「抗議」行動をあえて映像化して放映したのだろうか。市・県当局の担当者や他の住民の映像はまったくなかった。

 NHK(渋谷)の近くでも、最近に数回は、数千人規模のデモ行進が行われたはずだ。大阪でも行われたらしい(いずれも尖閣諸島問題が契機)。これらの数度にわたる、宮古島ではない大都市部の、かつはるかに大規模な集会・デモの様子を、NHKはすべてについて数秒でも放映したのか??

 こうなると、12日・日曜日の担当者・関係者だけの問題ではなく、NHKという団体全体の問題になるだろう。数千人の規模の集会・デモの無視・軽視と12日の宮古島の「抗議」行動の様子の放映とは、明らかに均衡・公平を失している。少なくとも平等・公正な取扱いがなされていないことは明々白々だ。これでよく、契約締結義務を定める放送法を根拠にして、受信料を徴収し、かつ受信料支払い請求の訴訟を起こすことができるものだ。
 12/12の午後7時台NHKニュースの責任者は、何らかの形で、以上のような感想・疑問・意見に対して答えよ。

0949/櫻井よしこの「谷垣自民党」批判は民主党・菅政権を利する。

 櫻井よしこ週刊ダイヤモンド11/27号で、「谷垣自民党」を批判している。

 「谷垣自民党」にも「自民党」にも批判されるべき点はあると思うが、この櫻井よしこの文章・論理による批判は決して説得的ではない。

 櫻井によると、菅直人内閣の支持率の低下にもかかわらず、問題は「自民党がいっこうに国民の信頼を回復できないこと」、すなわち「次の選挙では民主党には入れたくないという有権者が急増しているのに、自民党も支持したくないと考える人びとは少なくない」ことで、その理由は、「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」。

 「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」と評価するまたは断じる理屈づけ・説明には、しかし、いくつかの論理飛躍がある。

 第一に、かつての「加藤の乱」の当事者である自民党・加藤紘一は、「乱」の当時、「民主党幹事長だった菅氏の支持と連携に自信があった」、加藤は「複数の人間に、菅氏の番号を登録している携帯電話を見せて、自慢げに語っていた」、加藤は「菅氏とは『同志の仲』『ツーカーの仲』だと自慢していたという」といった、加藤・菅の10年前!の友好?関係を、論拠の出発点にしている。

 10年前の加藤・菅の関係を、なぜ「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」ということの理由付けの出発点にできるのか、大いに疑問だ。推測・伝聞も含まれており、できるとしても、かなり弱いと言うべきだろう。

 第二に、加藤ではなく谷垣禎一を登場させる必要があるのだが、櫻井よしこは、次のように言うのみだ。

 「自民党現総裁の谷垣禎一氏は、加藤氏の側近中の側近だった。『乱』の失敗を認める記者会見の席で、大粒の涙をこぼし『あなたが大将なんだから!』と加藤氏の肩を抱くようにして励ましていたのが谷垣氏だった。氏が加藤氏同様、菅氏とも『ツーカーの仲』なのかは、私は知らない。だが、価値観が似通っていることは確かだ」。

 加藤紘一=谷垣禎一とは櫻井よしこもさすがに書いていない。谷垣は加藤の「側近中の側近だった」とするにすぎない。

 しかも、谷垣が菅直人と「『ツーカーの仲』なのかは、私は知らない。だが、価値観が似通っていることは確かだ」と自ら書いている。断定的な資料・根拠を何ら示すことなく、「価値観が似通っている」と推測しているにすぎない。「確かだ」と書くが、「確かだ」とする証拠・資料を示していない。

 第三に、かりに谷垣と菅直人の「価値観が似通っている」としても、そのことが、、「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類だ」とする十分な根拠になるのか? もともと菅直人と菅政権は全くの同じではなく、谷垣禎一と「谷垣自民党」を同一視することも厳密には誤っている。

 にもかかわらず、櫻井よしこは谷垣と菅直人とは「価値観が似通っていることは確かだ」ということから、上のことを導く。

 さらに上述のように、そのように判断している根拠は、谷垣はかつて菅と友好関係にあった加藤紘一の「側近中の側近だった」ということだけだけだ。

 そしてまた、そもそものかつての(!)菅と加藤紘一の友好・協力関係も確定的にそう断じることはできない。少なくとも、櫻井よしこはその旨を説得的に納得させうる材料をほとんど示していない。論理は二重・三重に破綻している。

 櫻井よしこはこうまとめる。-「つまり、谷垣自民党は、『加藤の乱』が、決起から10年後に巧まずして実現した姿であり、菅氏との協力が政治力の源泉と考える人が主導するのが自民党である」。
 ここで語られる一つ、現自民党は「加藤の乱」の遅れての実現形、という断定ににわかに納得することはできない。谷垣が総裁だという以上の理由を櫻井は示していない。

 もう一つ、「菅氏との協力が政治力の源泉と考える人が主導するのが自民党」だと書いているが、この旨はそれまでの文章のどこにも出てきていいない。万が一、加藤紘一がかつて自分の力の源泉をかつての菅直人(当時、民主党幹事長)に)求めていたとしても、そのことによって、谷垣禎一もまた「菅氏との協力が政治力の源泉と考える人」だなどと論定することはできないだろう。

 わりあいと丁寧で、けっこう細かく論理的な文章を書く櫻井よしこだが、この週刊ダイヤモンドの連載コラムでの文章・論理はかなりひどい。

 さらに自民党も変わるべきとの最末尾の文章の前に、櫻井よしこはこうも書いている。-「菅政権もダメ、谷垣自民党もダメ」という国民は、両者が同根同類であることを見抜いている点で、きわめて正鵠を射ている」。

 叙上のように、「両者が同根同類である」という論定には、説得力がない。それだけの論証がない。したがって、そのように判断する国民は「正鵠を射ている」と言ったところで、ほとんど意味がない。

 最後に、次のようにも書いておこう。

 かりに万が一、谷垣禎一と菅直人の「価値観が似通っている」としても(櫻井よしこも「同じ」と言わず「似通っている」と言うだけであることにも注意)、そのことを何故、現時点であえて指摘しておく必要があるのか??

 もともと、上記のように谷垣禎一と菅直人の関係を「谷垣自民党」と「菅政権」の関係を同一視するかのごとき論理は厳密には正しくない。

 かりに万が一、そのように大まかに言えるとしても、そのことが「同根同類」という論定につながるのは、どう考えても、著しい論理飛躍だ。あるいは、デフォルメのしすぎだ。

 それにそもそも、現時点で何故、こんなことをあえて指摘するのか。

 池に落ちた犬を打てとかの言葉もあるようだが、きちんとした民主党批判、菅直人政権批判を、レトリック上の多少の強調・誇張混じりであってもしておくべきなのが、現在という時期状況なのではないか。

 にもかかわらず、「菅政権もダメ、谷垣自民党もダメ」、「菅政権と谷垣自民党が同根同類」ということをコラム全体で書きまくる(?)のは、客観的には民主党・菅直人政権をむしろ助けるものだ。自民党もどうせダメだから、民主党をまだ支持せざるを得ない、という読者・国民を増やすまたはその数を維持する機能をもつだけだ。

 どうも櫻井よしこという人の<政治的感覚>には信用が措けない。

 なお、追記しておくが、「谷垣自民党」を全面的に支持しているわけではない。谷垣が加藤紘一にも似た自民党内(宮沢派の流れをひく)「リベラル」派に属しているらしいこと(但し、現在の時点での評価と必ずしも合致するとは限らないだろう)、尖閣事件で中国「船長」を逮捕しないですぐに追放しておけばよかったと間の抜けた発言をいったんはしたことも知っている。また、幹事長の石原伸晃や政調会長の石波茂は、かつての<田母神俊雄論文問題>発生のときに田母神俊雄を何ら守ろうとはせず<更迭>を容認した人物たちだ。さらに、前々回に書いたように、仙石「暴力装置」発言を「われわれの平和憲法」の立場から批判する、という皮肉な論法しか採れないというのもじつに情けないことだ。

 だが、「赤い」(またはピンクの)官房長官とともに例えばいわゆる国家解体三法案の上程を試みる可能性がある菅政権よりは、「谷垣自民党」の方が<まだまし>だろうことはほとんど明らかであるように見える。

 「菅政権と谷垣自民党が同根同類」であることを「見ぬく国民は正鵠を射ており」、「自民党も支持したくないと考える人びとは少なくない」のは当然だ、との論調には、とても同意することができない。

 そんなに現自民党が嫌いならば、その自民党を「変える」ために、あるいは<真の保守>政治勢力の統合・強化をするために、口先だけではなく、具体的な何らかの行動を起こしたらどうか。

0948/松本健一著と司馬遼太郎と週刊朝日(編集長・山口一臣)。

 〇松本健一・三島由紀夫と司馬遼太郎―美しい日本をめぐる激突(2010.10、新潮社)を全読了。計237頁。

 司馬遼太郎につき、その(「思想」と言わないでおくが)考え方・歴史観等にいっそうの関心を覚える。「思想」嫌いで、従って反マルクス主義者・反「左翼」教条主義者でもあったはずだが、司馬遼太郎が<天皇>をこれほどに(松本が指摘するように)避けていたとは気づかなかった。それも、1970年の三島由紀夫の死(正確にはたぶん死に方)によって、その後の司馬の作風(?)に大きな影響が生じたとは、例えば<軍神>乃木希典に対する消極的評価もこれに関係しているとは、松本を信頼するかぎりで、はなはだ興味深い。
 〇三島由紀夫の自決直後に、司馬遼太郎の「街道をゆく」の連載が始まっている。朝日新聞本紙に連載することなどはその<主義>からして朝日側も嫌がり、まだ融通のきく媒体だからこそ<週刊朝日>が選ばれた、と何となく感じてきたが、三島由紀夫(の死が発した「思想」)と対抗するためにも、司馬はあえて<左翼>の週刊朝日を選んだのかもしれない、とも思ったりする。この点には、松本健一は言及していない。

 〇その週刊朝日だが、最近は(ますます?)精彩を欠くようだ。

 最近二号の表紙を見てみると、12/03号では最も大きな文字で「紳士服AOKIの怪経営」。12/10号の最大文字は「酒井法子独占インタビュー」。

 朝日の好きな筈の<政治>ものが表紙の最大の見出しになっていない。

 もっとも、<政治>ものを取り上げていないわけではないようで、12/03号にはかなり小さい文字で「裏切りの15カ月/民主党はどこで間違えたのか」とあり、12/10号にはこれまた小さく「…対北朝鮮日本の『迎撃力』」・「…仙石官房長官が狙う『前原擁立』構想」とある。

 昨年2009年に民主党が総選挙で勝利した直後には、この週刊誌は表紙に<民主党革命!>と大書した。

 同じ週刊誌が「裏切りの15カ月/民主党はどこで間違えたのか」を同じように表紙に大書しないのは、その<政治性>=<左翼性>によると考える以外にない。
 一般週刊誌のごとく見られるために現在の民主党に批判的な記事も掲載せざるをえないのだろうが、さすがに民主党支持政治団体である朝日新聞社系出版物としては、「裏切りの15カ月/民主党はどこで間違えたのか」と大書するのを躊躇したのだろう。

 そもそもが、このタイトルは、間違ってもいる。「民主党はどこで間違えたのか」などと問うのは無駄で、<民主党は最初から間違えていた>のだ。鳩山由紀夫が選挙前に月刊ヴォイスに寄せた論文(?)の内容を読んでも、そのことは明らかだった。

 もっとも、編集長・山口一臣は民主党・政府による<非核三原則の見直し(緩和)>の方向に苦言を呈しているのだから、この「政治活動家」編集長によって編まれる週刊誌がまともな内容になるはずはない。朝日ジャーナルはなく月刊・論座もなく、週刊朝日はいつまで発刊され続けるのだろう。

0947/仙石由人「暴力装置」発言は「平和憲法」に反する?

 仙石由人「健忘・左翼」官房長官が自衛隊を「暴力装置」と称したそのとき、質問者の自民党・世耕弘成は<自衛隊に失礼だ>と批判しただけだったが、たしか同日の後の質問者だった自民党参議院議員・丸川珠代(1971年1月生)は、「われわれの平和憲法を否定」するものだ、として仙石を批判した。
 また、誰が原文を執筆したのかは知らないが、自民党・みんなの党の幹部の了解を得ただろう、参議院での仙石由人問責決議の「理由」文は、上記発言についてだけではないが、次のように書いている。

 「第3に、日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反している」。「平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担い、国際貢献や災害救助に汗をかく自衛隊を『暴力装置』と侮辱したことは、決して許されるものではないし、自衛隊を『暴力装置』と表現することは、憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していないということである」。
 丸川は仙石発言を「平和憲法」否定だとし、問責決議は仙石は「憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していない」と指弾している。

 上の二つは基本的には同じ趣旨だが、これはきわめて奇妙な批判の仕方だ。つまり、現憲法のもとでの「自衛隊」の位置づけがどうなっているのか、丸川や多くの自民党国会議員等はきちんと理解しているのだろうか。「暴力装置」発言の適否よりも、こちらの方がむしろ気になる。

 日本国憲法九条2項第一文は、「…、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記する。こんな条文のもとで、現在の自衛隊は、上の「理由」中に書かれているように、「平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担」っていると断じられるのか?

 また、この規定との関係で、自衛隊の合憲性が問題となった(なっている)ことくらいは、国会議員ならば知っているはずだろう。

 「戦力」の保持が憲法によって禁止されているにもかかわらず、<自衛隊>という「実力」組織は法律制度上存在している。<自衛隊>は憲法で保持が禁止されている「戦力」にあたらないのか、という問題が生じることは常識的なことだろう。

 そして、現在までの日本の憲法学界では、自衛隊は「戦力」で、違憲の存在だ、との説の方が有力だと思われる。

 例えば、東京大学法学部の現役教授による、長谷部恭男・憲法(第4版)(2008、新世社)は次のように叙述する。

 多数説は「侵略」目的のもののみならず「あらゆる戦力」の保持が禁止されていると解する。これによると、「現在の自衛隊は、上述の意味における憲法によって禁止された戦力にあたることとなろう」(p.62-63)。

 このようなわが憲法学界によれば、仙石発言ではなく、むしろ自衛隊こそが「われわれの平和憲法を否定」しているのだ。自衛隊の方が、「憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神」(平和主義?)に反しているのだ。

 こういう緊張関係が日本国憲法(とくに九条2項)と自衛隊(という「軍隊・戦力」まがい?)との間にはあることを全く知らないまま、上記のような論評が出てきているとすれば、まことに驚きという他はない。

 自衛隊違憲論をここで主張したいのではない。これまでの政府見解(憲法解釈)は<戦力に至らない程度の、自衛のための最小限度の実力の保持>は九条2項でいう「戦力」にあたらない、現存の自衛隊もこれに該当しない>、というものであることも知っている。

 だが、(「警察予備隊」レベルならばともかく)相当に苦しい解釈であることは確かで(政府解釈によると、核兵器も保持が可能だ)、自衛隊は正規の「自衛軍」ではなく、「軍隊・戦力」まがい?のものとして、いわば<憲法嫡出子>、憲法上に堂々たる正当な根拠をもつもの、とは見なされてこなかったのだ。

 ここに「戦後」日本の、憲法にかかわる<大ウソ>を指摘することもできる。<欺瞞>と<偽善>がここにある、と見ることもできる。こんな<大ウソ>または<欺瞞>・<偽善>を罷り通らせる大人たちを、子どもたちは信頼するだろうか。国民全体が<憲法ニヒリズム>に陥らないだろうか。

 再び1970年の三島由紀夫の「檄」を見てみよう。

 「法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因」になってきた。「自衛隊は敗戦後の国家の不明確な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった」。

 そして、三島は次のようにまで言っていた。政府は自衛隊によらずとも治安保持できることを示して、「左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得た」。

 こうした三島由紀夫の「懊悩」を、丸川珠代や現在の自民党等の幹部はまるで知らないか、理解していないごとくだ。

 必要なのは、仙石発言を「憲法違反」と論評することではなく、むしろ、自衛隊を明確に憲法適合的なものにするように、憲法改正(とくに九条2項削除と自衛軍・防衛軍・国軍設置の明記)をすることだろう。

 現憲法と現実の自衛隊や現実の軍事情勢との間には不適合あるいは矛盾・緊張関係がある、ということを意識しておかなければならない。その意味で、上に記したような仙石発言に対する批判の仕方には、寒気を覚えるところがある。

 なお、「日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反している」という一般的な批判の仕方も慎重であるべきだ。なぜなら、現憲法の不備や憲法改正を指摘または示唆・主張するかつての首相等の閣僚に対しては、民主党内閣以前の野党は、憲法99条の「国務大臣」等の<憲法尊重・擁護義務>に反すると批判してきたからだ。丸川珠代や自民党・みんなの党が現憲法を100%容認し、不備も感じず、改正の必要も意識していないのならば、話は別だが。

0946/「戦後」とは何か⑥-佐伯啓思・日本という「価値」(2010)より2。

  佐伯啓思・日本という「価値」(2010、NTT出版)によると、自民党内部に、「顕教的価値」重視勢力と「密教的価値」重視勢力の二つの「政治文化」が形成された。①「護憲的勢力と改憲派」、②「国際主義とナショナリズム」、③「国連中心主義者と親米派」、④「非核三原則とアメリカの核のカサ」、⑤「普遍的な人権論者」とそれへの「反対勢力」、⑥「自由競争路線と福祉重視派」、⑦「都市化論者と地方主義者」、「すべてがあった」(p.166)。
 個々の自民党員や国会議員が上のすべての項についてきれいに前者か後者のいずれかに分類されるとは思えないが、自民党が「国民政党」という名の、これらの「包括的政党」だったとの趣旨は分かる。

 そして次のいくつかの文章は、少なくとも1990年頃までの「戦後」を、じつに的確にかつ簡潔に描いているように見える。

 自民党の内部対立が顕在化することなく推移したのは、「戦後憲法の平和主義を(暫定的であれ)受け入れ、日米関係を堅持し、そのもとで経済成長を達成し、…その成果をできるだけ国民に広く配分する」という「現実主義的妥協」だった(p.166)。

 この妥協はときに「吉田ドクトリン」と呼ばれるが、どこまで自覚的だったかはともかく、この妥協によって日本人は「あの二重性のもつ亀裂や分裂に頭を悩ませる必要から解放」された。「亀裂はうまく隠蔽」され、顕教も密教も「その時々においてすみ分けつつ配備」され、日本人は「特に痛痒を感じることなく過ごす」ことができた(p.166-7)。

 「大多数のサラリーマン」は「日本的」企業で「一生懸命働けば、所得が増加し、家族が満足し、そして、日本全体としても豊かになっていった。その時に、一体誰が日米関係の変則性や憲法のもつ矛盾に頭をなやます必要があるだろうか」(p.167)。

 「経済成長のもと」で「個人、家族、地域、企業、日本」は一本につながり、「あえて難問を思考するという不協和音」を入れる余地はなかった。「吉田ドクトリン」は1951年以降の自民党の「政治原則を示すキーワード」だろうが、これは自民党政治の象徴のみならず、「戦後日本を覆う精神状況そのもの」だった。自民党政権の長期継続は、自民党の体質が「戦後日本人の平均的な精神状態を表していた」からだろう(p.167)。

 「吉田ドクトリン」なるもの、つまり吉田茂の<思想と政策>についてはなおも検討の余地があるだろう。だが、少なくとも1990年頃までの、あるいは今日もなおも維持されている「戦後」日本の基本的体制(?)は、A・日本国憲法のいう「戦力」不保持条項のもとでの「平和」または「軽装備」主義とそれを補う日米安保条約を通じたアメリカ(の核を含む軍事力)による日本の「保護」、B・これを前提または与件とした「経済成長」または「経済的・物質的富」の追求、だった、とさしあたり理解している。

 自民党の長期政権の背景には、「顕教」と「密教」のいずれかを上手く分担してくれる政党が他になかったこと、つまり、少なくとも表向きは、上のAの要素である「日米安保条約を通じたアメリカ(の核を含む軍事力)による日本の『保護』」に反対して、日米安保破棄を主張していた日本社会党が野党第一党だったという不幸な事態があった、ということは記しておいてよいだろう。この点に佐伯啓思は明示的には言及していないが、ともあれ、「(A①)戦後憲法の平和主義を(暫定的であれ)受け入れ、(A②)日米関係を堅持し、そのもとで(B)経済成長を達成し、…その成果をできるだけ国民に広く配分する」、あるいは国民は物質的・経済的利益を「配分」される、という政策、意識あるいは「体制」が継続した―基本的には今日も継続している―のが、日本の「戦後」だった、と思われる。

 佐伯は上で、①「日米関係の変則性」と②「憲法のもつ矛盾」を簡単に語っている。佐伯のいう「冷戦(構造)の終わり」のあと、おおむね1990年代初め以降、本当はこれらがより強く意識され、まともに論じられ、改められる必要があった。これらについては、また触れる機会があるはずだ。

0945/資料・史料-2010.11.26仙石由人官房長官問責決議案理由

 史料・資料-参議院・仙石由人官房長官問責決議案「理由」 2010.11.26問責決議可決

 

 理由

 「菅内閣発足以来、国難ともいうべき事態が続いており、内閣の要であり、実質的に内閣を取り仕切っているといわれる仙谷大臣の官房長官としての責任は極めて重大である。菅内閣では、仙谷官房長官が実質的に重要事項の決定を主導しており、最近では法務大臣、拉致問題担当も兼務することになったが、仙谷官房長官が内閣の中枢に居座ったままでは、現状の打開は望むべくもない。

 以下、仙谷官房長官を問責する理由を、列挙する。

 第1に、「尖閣諸島沖中国漁船衝突事件」における極めて不適切な対応である。

 公務執行妨害で逮捕された中国人船長の釈放は、那覇地検が「わが国国民への影響や今後の日中関係を考慮」して判断したとしているが、このような重大な外交上の判断が一地方検察庁でなされたと信じる者は誰もいない。総理、外務大臣が国連総会で不在の中、官邸の留守を預かる仙谷官房長官主導で釈放の政治判断が行われたと考えざるを得ない。

 しかし、仙谷官房長官は、釈放は那覇地検の判断であったとの強弁を繰り返している。仮に、一行政機関である那覇地検が外交判断による釈放を行い、それを政府が是認したとすれば、検察が外交を行ったという日本外交史上、例を見ない越権行為が民主党政権下で行われたことになる。逆に、官邸が那覇地検に釈放の圧力をかけたとすれば、仙谷官房長官は虚偽の答弁を重ねてきたことになる。どちらにしても、この件を主導してきた仙谷官房長官の責任は重大である。
 さらには、諸外国に対してわが国の正当性を訴えるために戦略的に使われるべきであった衝突時のビデオは、官房長官の主導により長期間非公開にされ、事件発生から50日間を経て、ようやく6分50秒に編集されたものが国会に提出されただけであった。仙谷長官の誤った対処により、わが国は貴重な外交カードを失ってしまったのである。一連の対応により、失われた国益は大きい。

 さらに政府が国会に提出したビデオの6倍以上にわたる2回の衝突の時間を含む44分間のビデオが一海上保安官の手で流出し、全世界で視聴可能な状態となった。仙谷官房長官はビデオの国会提出にあたり書面で「慎重な扱い」を求めていたにもかかわらず、政府内では情報管理を行っていなかったことが露呈した。本来公開すべきビデオを公開しなかったからこそ起こった問題と言わざるを得ない。この責任も重大である。加えて事態発覚後は「政治職と執行職」という詭弁を弄して、自分たちの責任を海上保安庁長官一人になすり付けようとしたことも糾弾されるべきである。

 第2に、国権の最高機関たる国会を愚弄する、暴言、失言の数々が繰り返されていることである。

 菅総理自らが今国会冒頭の所信表明演説で、熟議の国会を呼び掛けているにもかかわらず、指名されてもいない仙谷官房長官がしゃしゃり出て、話をすり替え、恫喝し、また答弁席からやじを飛ばすなど、国会軽視もはなはだしい。また、報道に基づき質問した質問者に対して、自らも過去に何度もの質問をしていたことを棚に上げて「最も拙劣な質問」だと侮辱し、予算委員会が民主党も賛成した議決に基づいて呼んだ参考人に対して疑義を唱え、さらには恫喝を加え、内閣のスポークスマンとしての官房長官の資質を疑わざるを得ない。
 第3に、日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反していることである。

 中国漁船衝突事件のビデオ公開関連の「厳秘」書類を予算委員会で撮影された際に、自らの危機管理の甘さを恥じることもなく、「盗撮」呼ばわりし、取材規制の強化を振りかざし報道の自由を侵害しようとした。また、国会の外においては、自衛隊の施設内での民間人の発言を規制することを認めるなど、仙谷官房長官は憲法に定める表現の自由の侵害に加担している。

 仙谷官房長官は自衛隊を「暴力装置」と発言した。学生時代、社会主義学生運動組織で活動していた仙谷長官にとっては、日常用語であるかもしれないが、平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担い、国際貢献や災害救助に汗をかく自衛隊を「暴力装置」と侮辱したことは、決して許されるものではないし、自衛隊を「暴力装置」と表現することは、憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していないということである。

 第4に、国会同意人事案件に対する怠慢である。

 民主党政権は、今次国会召集からかなり日時を経た、10月半ばに5機関11名について提示した。これらはすべてが任期満了か、既に辞任した空席を補充するための人事であった。さらに今なお再就職等監視委員会の人事については提示さえしてきていない。さらには、この同意人事の国会議決がされていないにもかかわらず、次の人事を提示した。これらを長く放置していたことは国会軽視、政府の怠慢以外の何ものでもない。同意人事を担当する官房長官の責任は重大である。

 第5に、北朝鮮による韓国・延坪島砲撃事件における危機管理能力の欠如である。

 北朝鮮の砲撃開始は午後2時34分であるが、菅総理は砲撃を3時半ごろ報道で知り、官房長官もほぼ同時刻に第一報を東京都内の私邸で受け取っている。総理が官邸に入ったのは午後4時45分、仙谷官房長官は同50分である。総理、官房長官ともに、砲撃から2時間以上、一報を受け取ってから1時間20分経過してから官邸に入っている。しかも官房長官は総理より遅い登庁である。

 仙谷官房長官のその傲岸不遜な発言、失策の数々には、与野党を問わず、批判が集中している。一刻も早く、官房長官が職を辞すことが、菅内閣による日本の国益への損失を少しでも抑えることにつながると確信する。

 以上が本決議案を提出する理由である。」 

0944/「戦後」とは何か⑤-佐伯啓思・日本という「価値」(2010)より。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)という「論文集」(p.309)は三部で構成されているが、あえて言えば第一部は経済、第二部は政治、第三部は思想をテーマとするものを収載している。タイトルに示された「日本という『価値』」は価値を失い、または価値追求を失った日本人に何がしかの(日本としての、日本に特有の)「価値」発見・追求を求める趣旨なのだろうが、基本的趣旨は理解できるとしても、その「価値」の具体的内容は、残念ながら明瞭ではない。
 重要と思われる論考の一つは第8章「保守政治の崩壊から再生へ」。これは、西田昌司=佐伯啓思=西部邁・保守誕生(2010、ジョルダン)の中の独立の論考で2010年3月初出。自民党と民主党に言及しつつ、「戦後日本的なもの」を論じている。以下の頁数は冒頭に掲記の単独著。

 佐伯啓思によると、自民党とは何だったかを問うことは「戦後日本」を振り返ることでもあり、「戦後日本的なもの」は、「顕教としての普遍的価値」と「密教としての日本的習慣」の結合または「二重構造」だった(p.164)。じつに(?)大胆な主張または仮説だ。

 「顕教としての普遍的価値」とは、「誤った」戦前から「正しい」日本を再生させるとされた諸理念で、以下のものがとくに列記される-「個人の自由、民主主義、合理主義、科学や技術の尊重、平和主義、人権尊重、国際主義(国連中心主義)」。これらを「普遍的正義」としての<近代国家>の実現が戦後の「公式的価値」となった、戦後憲法は「この理想を表明」するものだった。

 「密教としての日本的習慣」とは、かの戦争にかかる「一方的な日本断罪(たとえば東京裁判)への不満、日本的な宗教精神(儒教的・仏教的・神道的・古代的自然観など)を基盤にした日本的価値観への愛好、社会の中に根付いた習慣や習俗、地域に残る共同体的なもの、家族や親子、あるいは教師と学生、上司と部下などの人間関係についての『日本的』観念」といったものを指す。

 上の後者は合理的・科学的では必ずしもないために「戦後的価値」(公式的価値)とは「表面上は齟齬」をきたし、顕教の「近代主義」から見れば「前近代的」で、ときに「封建的」とされる。しかし、「人間関係を差配」する「非合理的な慣行」・ルールという「目に見えない文化」を捨て去ることはできず、「声高に公式的に」表現されなくとも「非公式の価値」となってきた(p.164-5)。

 この「二重性」が戦後日本を特徴づけた。かつ、両者は「容易に調停」しがたく、差異を意識すれば「亀裂」は大きくなる。「日本人の自己像は分裂してゆく」。

 そこで、戦後日本人は「あえて思考停止を選んだ」。表面的には「近代主義的」「普遍的価値」を称揚し、表面下では「日本的慣行」に従って行動した。言説空間では「近代主義者」として、具体的生活空間では「前近代的」日本人として振る舞った。

 かかる「戦後日本の二重性を見事に表現した政治政党」、「この二重性を利用しつつ巧みに覆い隠した」政党が、自民党だった。日本人自身が「二重構造がもたらす自己分裂もしくは自己喪失を直視したくなかった」のであり、自民党は、「面倒なことから目をそらしたい」という「戦後日本人の心理に巧みに寄り添った」(p.166)。

 <戦後>とは何だったかを考えるためにも、きわめて興味深い叙述ではないか。上のいわばテーゼ的なものは、自民党のみならず、「吉田ドクトリン」や民主党政権の誕生にも関連させられる。次回に続ける。

0943/中国は「共産主義を全面的に捨てた」のか-西尾幹二=青木直人・尖閣戦争(祥伝社新書)より。

  西尾幹二=青木直人・尖閣戦争―米中はさみ撃ちにあった日本―(祥伝社新書、2010.11)で、西尾幹二は「中国は共産主義からの体制変換を宣言していません」と述べる(p.70)。

 西尾はまた、中国は、①古代専制国家、②共産主義・独裁国家、③似非金融資本主義国家、の三つの「蛇頭」をもち、さらに④「全体主義的ファシズム体制」の特徴が色濃くなっている、という(p.240-1)。

 上の②と④は同じことの別表現ではないかと思うが、西尾は、月刊正論12月号(産経新聞社)の「日本よ、不安と恐怖におののけ」でも同旨のことを述べていた(4点を挙げる、月刊正論p.75)。
 西尾幹二はまた、「東アジアには冷戦がつづいていた」ということを付随的に書く(上掲書p.70)。この点は、「冷戦は終わった」ことを前提として叙述する佐伯啓思とは異なる。

 だが、その佐伯啓思も、某誌11月号では、次のように書いて、中国は「共産主義」国であることを認めている。

 <「冷戦時代」の世界の構図は分かりやすかった。「中国は独特の共産主義国ですが」、基本的には東西対立で世界を理解できた。だが、「冷戦が終わって以降」、単純ではなくなった。(中略)九〇年の「社会主義陣営」崩壊後に「一番経済が発展したのが共産主義の中国」だ。これは「皮肉なことで、ほとんど漫画みたいな話」だ(p.7)>。

 「社会主義」と「共産主義」とを厳密に使い分けているとは思えない。佐伯においても、中国は「共産主義(社会主義)」の国なのだ。

 だが、興味深く、また検討を要するとも思うのは、西尾幹二との共著(対談著)である上掲の本で、青木直人は、中国は「共産主義」国ではない旨を述べていることだ。青木によると、以下。

 1989年の天安門事件頃、保守派(李鵬ら)と「市場経済」派(趙紫陽ら)の対立があった。湾岸戦争、ソ連崩壊を経て鄧小平が担ぎ出されたが、鄧小平は「趙紫陽やかつての自分たち」の主張した「経済開放政策、経済特区策」は正しかったと大演説をした。彼は<社会主義・資本主義>論争を非生産的とし、最晩年には「もはや社会主義は終わった。歴史的運命を終えた」と宣言した。「このとき、共産党は共産主義を全面的に捨てたのです」。1992年以後の人民日報社説ではかつてのターム「プロレタリア国際主義」が姿を消し、代わりに「中国愛国主義」が急増する(以上、p.84-88)。

 青木直人はより細かいまたは具体的なレベルで中国の政策・主張の変容を分析しているので、同じ「共産主義」という概念でも、厳密または純粋なそれを意味させているのかもしれない。

 しかし、釈然としないことはたしかで、なるほど<社会主義的市場経済>とはいったい何か、それも共産党一党独裁下での<市場経済>とは何か、といったことを十分には理解できていないようであることをも自覚する。

 青木には、「共産主義が全面的に捨て」られているとすれば、いったい何が採用されているのか、さらに詳述してほしいものだ(他の自著で書いているのかもしれない)。

 また、<中国経済>の専門家もいると思うが、この国の<経済>の仕組みを分かり易く解きほどいて説明しておいてほしいものだ。理論的・厳密な研究対象にできるだけの、信頼できる統計・資料等が乏しいのかもしれないのだが。

 二 ついでに、あと二点。西尾幹二は上の共著でつぎのように主張している。

 第一に、<すべて欧米基準にする必要はないが、日本は「民主主義国家ですよ、自由が存在する国ですよ、中国とはまったく違いますよ」ということをきちんと主張することが大切だ>(p.122)。

 これは月刊正論12月号での中西輝政の主張とほとんど同じで、また、佐伯啓思ならばこういう書き方はしないだろうように推測されて、興味深い。

 第二に、総選挙実施の主張だ。<尖閣事変は中国による「民主党の売国シグナルの真意を試す」行動で、中国には好ましいデータが揃っただろう。「この忌々しい状況を覆すには、マスコミの伝えない支那の恐ろしさを国民に知らしめ、売国民主党の支持率を下げさせて一刻も早く民主崩壊に導き、総選挙体制に持ち込むこと」だ(p.236)。

 この点はまったくの同感だ。例えば、現在の議席配分のままだと、公明党・社民党・日本共産党の賛成によって、上程されれば、参議院ですら外国人地方参政権付与法案は通過してしまう。

 佐伯啓思はややニュアンスの異なる主張をしているが、別の機会に言及したい。

0942/「戦後」とは何か④-西尾幹二ら・尖閣戦争(祥伝社新書)より。

 西尾幹二=青木直人・尖閣戦争―米中はさみ撃ちにあった日本―(祥伝社新書、2010.11)を、11/19に、全読了。

 構成は、序章・尖閣事件が教えてくれたこと、一章・日米安保の正体、二章・「米中同盟」下の日本、三章・妄想の東アジア共同体、四章・来るべき尖閣戦争にどう対処するか。計251頁。
 逐一の感想やコメントは書かない(時間がなくて書けない)。

 本題からはやや外れるだろうが、次の言葉は印象的だ。

 西尾幹二いまだに中国が共産主義の国であるということすら、しっかり認識していないし、五〇〇〇年の歴史を持った普通の国みたいに思っている人が多い。ちっともわかっていない」(p.29)。

 多数の<中国本>にもかかわらず、こういう状態だった、またはこういう状態のままの日本国民は多いだろう。

 菅直人は、先日の胡錦濤との「交談」で、両国は「一衣帯水」の関係にあり、とか何とかメモを見ながら冒頭で述べていた。五〇〇〇年(4000年?)の長い歴史を持ち、種々の文化を日本に伝えてくれた、というイメージも強いのだろう。

 だが、19世紀以降に日本から「学んだ」のは中国の側だ。古代を除き、その後いったい何を恵んでくれたのか。

 蒙古人、満州族による支配(王朝)があったことは知識としては常識的なことで、現在のような漢民族中心の国家が長々と続いてきたわけではない。中国という「国家」があって、連綿と続いているわけではない(現在は、毛王朝とか共産党王朝とか表現できる)。この点、日本とは決定的に異なる(<戦国時代>に統一国家=中央政府があったかはかなり疑わしいが)。

 にもかかわらず、上のような印象・イメージが日本人にあるのはなぜなのだろうか?

 中学校・高校時代に、中国または中華人民共和国についての正確な知識が教えられていないことがまずは大きい。きちんと「共産主義」なるものが教育されなければならない。

 ということは、中国に関係する教科書の問題になり、そして、中国に関係する教科書をどのような人々が執筆しているのか、という問題に行き着くだろう。

 そして、歴史・政治・経済・現代社会等々の教科書を執筆している大学教授たち等が<社会主義幻想>を持っていて、<親中国>の立場にいたら、どうなるのか? どういう中国に関する叙述になるだろうか? これが日本人の一般的意識に何を生じさせているかの根源かもしれない。

 そのような教育を受けた者が行政官僚・司法官(+弁護士)・マスコミ社員等々になっていく。中国(中国共産党)を批判する者はナショナリストで「右翼」だ、的なイメージが片方では作られている。

 そのような状況は、今回の事件で少しは変わっただろうか?

 いつか、朝日新聞について、すでに中国に<籠絡され>ているのではないか、という表現を使ったが、これはたんに親中・媚中の意識を持っているということにとどまらず、少なくとも実質的には、中国(中国共産党)の<エージェント>になっている幹部社員や記者等も朝日新聞にはいるのではないか、という疑いを持っているからだ。

 いかにして<エージェント>になるかは様々な方法・過程があるだろう。教育それ自体に問題があるところに、そしてそれは<左傾化した>(社会主義幻想をなお持つ)大学教授らに依るところが大きいと見られるところに、個々具体的な<策略>が種々に仕掛けられている、と見ておいた方がよい、とあらためて感じる。

 この、日本人になお残る、社会主義(共産主義)国に対する<甘さ>(警戒心の欠如)は、<戦後>というものの基本的な一内容でもある、と考えている。

0941/「戦後」とは何か③-遠藤浩一著の3。

 1963年(昭和38年)に、「文学座」分裂事件が起こり、これには三島由紀夫福田恆存も関係している。この事件は、<親中・媚中>の「左翼」で、のちに大江健三郎のそれの次の年に日本の文化勲章受賞を拒否した杉村春子が主人公のようで、「政治」と文芸(・新劇)との関係あるいは<進歩的文化人>なるものの所為を知る上でも興味深い。1963年とは、東京五輪の前年になる。
 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(2010、麗澤大学出版会)p.214-によると、福田恆存はこの1963年から翌年にかけて、「日本近代史論」を月刊文藝春秋に連載したらしい。この論考は現在刊行中の福田恆存評論集(麗澤大学出版会)には収載されていないようだ。

 遠藤によると、福田論考の内容は、次のようだ(「」はもともとの福田恆存の文章の引用部分)。

 明治以降の「近代化」は「壁なし社会」形成という成果はあるが、「大壁、小壁が存在しなくなったのではなく」、「透明な部分が多く」なりかつ「在り場所が不規則に」なっただけのこと。悪法も無視することで「存在を透明に」して「あたかも無きがごとき錯覚」を与えうる。特に戦後の日本は一九四六年製の胡乱な憲法によって拘束されているが、その歪みに対する疑念は拭われていない(「悪法は法に非ず」が安直に実現され日常化されている)。

 また、日本の国際化は国際的視野が広がったのでは必ずしもなく、「国家という大城壁が崩れ去」り「透明になり見えにくくなったという意味」にすぎない。

 さらに、大衆化現象の進展・マイメディアの発達による都市化の急速化で大都市・農村を問わず「彼等の欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」ようになった。そして自然科学の進歩や技術革新により、日本人は「悪夢の中」に「他方では限り無く美しい薔薇色の夢の中」に包まれて、「自由を束縛する壁」や「危険を守ってくれる壁」の存在が「全く解らなくなっている」。

 以上だが、なかなかに含意に富む。

 <透明化>とは近年ではよい意味で使うことが多いが、ここでは存在するのに見えなくすること(見えなくなること)の意味だ。

 ①日本国憲法制定過程・手続に大げさには「悪」があったとしても、見ても見ぬふりをする(気づいていても知らないふりをする)心性にほとんどの日本人が陥っていたのではないだろうか。また、過程・手続にのみならず内容自体にも奇妙なところがあることを意識していた者も少なくなかっただろうが、あえて言挙げする者の方が少なかったのだろう(だからこそ憲法改正は現実化しなかった)

 ②1963-64年の時点にすでに福田恆存はマスメディア等が日本人の「欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」現象を指摘している。大宅壮一がテレビによる<一億総白痴化>を語ったのは1957年くらいらしい。だが、経済成長に伴う、とくにマスメディアを通じた<消費「欲望」肥大化>・<「物質的」豊かさの追求>に対する批判的なコメントとしては、1963年頃でも早いと言えるだろう。

 ③「壁」が見えなくなっているとの指摘は、「国家」意識の減退・縮小や規律・秩序の弱体化・崩壊を意味しているようだ。

 そして驚くべきことに、上の①~③のような、福田恆存が1963年頃に含意させていたような事柄は、今日、2010年でも、基本的には何ら変わっていないのではないか。

 遠藤浩一も言うとおり、<「戦後」はまだ続いている>。

 「悪法を改めることもせず、その解釈拡大(無視)によってしのぎ続ける日本人。『国家という大城壁』を崩壊に任せたままの日本人。欲望の充足だけが政治の課題だと信じ込んでいる日本人。自らを守るものを見失ったままの日本人。何も変わっていない」(p.216)。

0940/戦後史②-遠藤浩一著の2。

 <戦後>とは何だったか、については直接・間接にいろいろと言及してきた。かつて、類似タイトルの田原総一朗の本の内容に触れたこともある。

 あらためて、より包括的に、だが当面は遠藤浩一と佐伯啓思の本を手がかりにして、<戦後史>を考える。

 日本の<戦後>の第一の区切りは1952年の講和条約発効だったかに見える。だが、1950年の朝鮮戦争と警察予備隊発足による日本の事実上の<再軍備(軽装備だが)>の始まりと、その前提としてのアメリカの占領基本方針の変更(変更前の「成果」こそが1947年施行の日本国憲法だった)の時点の方が政治的意味は大きいかもしれない。

 1947年初め(日本国憲法はすでに公布されていた)までを<戦後第一期>とすれば、その後が<戦後第二期>で、今日にいう<戦後>とは、この<第二期>の、アメリカの軍事力に守られて(軽軍事力のままで)経済成長にいそしむ、という「体制」に他ならないだろう。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)p.216(2010、麗澤大学出版会)は、そのような「戦後というものの継続」が確定したのは、1952年でも、(政治学者はしばしば画期として用いる保守・左翼政党のそれぞれの統一年である)1955年(「1955年体制」)でもなく、「昭和三十年代半ば以降」だったとする。

 昭和30年代の半ば、昭和35年は1960年で、<六〇年安保騒擾>の年。この年に岸内閣は退陣し、池田勇人内閣に変わる。

 池田は「朝鮮特需の頃」(1950年)から「助走」を始めていた「高度成長に棹さすことによって所得倍増政策を推進」した(p.217)。

 1963年10月に池田勇人は「在任中、憲法改正はいたしません」と宣言した(p.221)。

 遠藤浩一によると、池田政権の発足ととともに「軽武装・対米依存・経済成長優先」という「吉田路線」が復活し、「戦後」は終わらないまま「池田時代から本格化した」(p.221)。

 最近しばしば目にする<吉田ドクトリン>の内容とその評価はなおも留保したいが、<60年安保騒擾>後の数年間で、現在の日本の基本的姿は決まってしまった、という趣旨には同感する。

 すなわち、この時期に、政権党・自民党は、憲法改正(自主憲法制定)を実質的にあきらめてしまったのだ。

 どうしてだったのだろう? この時期に憲法調査会の報告もあったはずだが、改憲反対勢力が国会で1/3以上を占めていたので、改正の現実性は低かった。

 しかし、憲法改正(自主憲法制定)を訴え続け、国会内勢力を憲法改正発議が可能なように改める努力を、なぜ自民党政権はしなかったのだろうか。

 いつかも書いた気がするが、この時期に憲法改正=「自衛軍」の正式な(憲法上の)認知がなされていれば、今日まで残る基本的な諸問題のかなりの部分はすでに解決されていた。 三島由紀夫の1970年の自裁はなかった可能性がむしろ高いだろう。

 表向きはまたは身近は「平和」な状況のもとで快適で豊かな「物質的生活」を望んだ国民の意識が背景にはあるのだろう。しかし、国民の意識あるいは「欲望」に追随し阿るのが政治家・政党ではあるまい。

 岸信介は、「経済は官僚でもできる。だが、外交や治安はそうはいかない」と語ったらしい(遠藤浩一・下p.217)。

 なぜ、憲法改正はこの時期に挫折し、その後実質的には政治的課題・現実政治的な争点にならなくなったのだろうか。

 改憲反対勢力が国会で1/3以上を占めていた、あるいはそのような状態にさせていた「力」は、いったいどこから来ていたのだろう、という問題ともこの疑問は関連するはずだ。

0939/自衛隊を「暴力装置」と呼ぶ仙石由人の「反日」・マルクス主義者ぶり。

 一 仙石由人「健忘」官房長官が、11/18、自衛隊を「暴力装置」と呼んだ。

 軍(・警察)を「暴力装置」と呼ぶのはマルクス主義用語で、仙石の頭の中には、<自衛隊(軍)=暴力装置>という固定観念が根強く残っていることが、とっさの国会(参院予算委)答弁中の発言であることからもよく分かる。

 しかも、仙石由人は、「法律用語としては適切ではなかった」とだけ述べて陳謝し、撤回した。「法律用語」ではない「政治(学)」用語または「社会科学」(?)用語としては誤ってはいない、という開き直りを残していることにも注意しておいてよい。

 厳密には、マルクス・レーニン主義(コミュニズム)においては「国家」こそが「暴力装置」で、その国家を体現するのが<軍(・警察)>ではなかったか、と思われる。そして、マルクス・レーニン主義上は、「暴力装置」としての(またはそれを持つ)「国家」は、「家族」・「私有財産」とともにいずれ死滅する筈のものだった。現実に生まれたマルクス主義国家=社会主義国家が、まだ過渡的な時代のゆえか(?)、強力で残忍な「暴力装置」(政治犯収容所等を含む)があってはじめて存立しえたこと(しえていること)はきわめて興味深いことだが…。

 二 仙石由人は、奇妙で重要な発言を官房長官になって以後、しばしばしている。ソ連(ロシア)とは平和条約を締結しておらず国交を回復していないとの認識を示したらしいことも、官房長官としての資格を疑うに足りた(たしかのちに撤回した)。これよりも重大なのは、日韓関係についての発言だろう。

 2010.08.10の菅直人首相談話は100年前の日韓併合条約によって「その〔韓国の人々〕の意に反して行われた植民地支配」が始まった、と述べた。閣議を経ていることからも、仙石由人がこの文案作成に大きく関与している可能性がきわめて高い。

 また、2010.07.07には1965年の日韓基本条約に関連して、次のように述べた、と伝えられる。すなわち、「日韓基本条約を締結した当時の韓国が朴正煕大統領の軍政下にあった」ことを指摘し、「韓国国内の事柄としてわれわれは一切知らんということが言えるのかどうなのか」と述べ、同条約で韓国政府が日本の「植民地」時代にかかる<個人補償>請求権を放棄したことについて「法律的に正当性があると言って、それだけで物事は済むのか」と発言した。解決済みの筈の、または問題自体が存在しない、<従軍慰安婦>個人補償「問題」を、政府としてむし返す意向だ、と理解された。

 さて、当時にすでに感じたままこの欄に書いてこなかったことだが、仙石由人は、では、日本と日本国民にとって(韓国人にとっての日韓併合条約と同等に)重要な1947年の日本国憲法は日本国民の完全に<自由な意思>にもとづいて、つまり<意に反して>ではなく、制定され、施行されたのだろうか。当時は間接統治だったが、GHQの「軍政下」で制定され、施行された。朴正煕の「軍政」以上の、外国の「軍政」下にあったときに日本国憲法は作られたのだ。

 仙石由人は、日韓併合条約や日韓基本条約の韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>を問題にするならば、日本国憲法の出自につき、万が一「法律的に正当性がある」と主張できるとかりにしても、なぜ「それだけで物事は済むのか」と考え、主張したことがあるのか?

 自分の国の憲法制定についての<任意性>や<(軍政下という)内部事情>という重大な事柄には思いを馳せず、韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>は考慮するのは、いったい何故なのか? ちゃんちゃらおかしい。

 さらにいえば、1945.08.14の<ポツダム宣言>受諾自体、日本の<任意>だった、と言えるのか? 昭和天皇の「ご聖断」により決定された。だが、<任意に>とか<自由意思により>とかは厳密にはありえず、アメリカの強大な武力(核を含む)による威嚇によって<不本意>ながら受諾した、というのが、真実に近いだろう。敗戦という<終戦>が、本来の「意」に反して、行われない筈がない。国家間の戦争・紛争・対立の解消とは、少なくともどちらか一方の「意に反して」行われるのが通常だろう。

 仙石由人(や菅直人)には、このような常識は通用しないらしい。<意に反して>=<任意ではなく>=<強制的に>といった彼らの(とくに日中・日韓関係にかかわる)言葉遣いには注意が必要だ。

0938/三島由紀夫の「憲法」理解の対極にあった憲法学界の<親社会主義>。

 一 三島由紀夫は1970年11月に、「生命尊重以上の価値」をもつ「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」を「骨抜きにしてしまった憲法」と、1947年憲法(日本国憲法)を評した。そこで念頭に置かれているのはとくに、国家の軍隊の存在を否定する九条2項であることは明らかだ。自衛隊が存在しながらこれを正規の「軍その他の戦力」と位置づけない憲法解釈は、あるいは憲法改正によってそれを明瞭にしない<憲法護持>論は、三島にとって、姑息で欺瞞に満ちたものだった。

 こういう三島のような理解は、しかし、当時の政治家・国民の多数派のものではなかったし、ましてや憲法学者の大勢の理解でもなかった。

 当時はもちろん、今日でも、上の三島由紀夫のような理解は日本の憲法学界においてほとんど支持されていないと見られる。

 なぜか。端的に言って、戦後の憲法学者の圧倒的多数には、<社会主義幻想>がはびこっていたからだと思われる。資本主義→社会主義という<歴史の発展法則>に添うような憲法解釈をしようとすれば、日本が<社会主義>国になるためには、日本は(資本主義国たる日本を守るための)正規の「軍隊」などを保持してはならない、ということになる。その帰結は、①自衛隊を「違憲」の存在と見て廃止または縮小を求めるか、②自衛隊は正規の「軍その他の戦力」ではないために「合憲」であるという一種の強弁に、じつは詭弁・虚言に、少なくとも表向きはしがみつくか、のいずれかだった。

 <社会主義幻想>の内容の一つは、社会主義国は<平和愛好>的で資本主義国は<侵略的>とのデマだった。

 社会主義国ならばともかく、資本主義陣営の日本国家に、<侵略>性を有する軍隊などを保持させてはならなかった。かかる観点から憲法9条2項の解釈と自衛隊へのその適用も論じられたのだ。

 二 日本の憲法学・公法学が、表面的にはともかく、<体制選択>に関する特定の判断を前提として議論を展開させてきたことは、現役憲法学者・阪本昌成(広島大学→立教大学)の次の叙述により、明確だ。

 阪本昌成・法の支配(2006.06、勁草書房)p.1-2は、次のように一著の冒頭に書いている。時期的には、安倍晋三内閣が成立する直前にあたるだろう。

 「公法学における体制選択  20世紀は資本主義と社会主義との偉大な闘争の時代だった。経済思想史においても、政治思想史上においても、この闘争は人類史上の最大の論争点だったといっても過言ではない。この論争は公法学にも当然影を落とした。/

 過去半世紀を超えて、わが国の公法学者は、資本主義か社会主義かという体制選択問題を常に意識しながらも、あからさまなイデオロギー論争を巧みに避けて、個別的な場面での『解釈』や『政策提言』に各自の思想傾向を忍ばせてきた。イデオロギーを異にしながら、多様な『解釈』や『政策提言』を示してきた公法学者にも、奇妙な共通項があった。それは、経済市場と国家の役割への見方である。通常は、国家のもつ強制力に警戒的である論者も、こと経済市場の動きに対しては、国家介入に寛容となる。いくつか例を挙げれば、国家による市場秩序の人為的設計(かたや大企業への警戒感、かたや弱者としての中小企業や労働者の救済策)、社会保障プログラムの拡大・充実(市場における経済的弱者への思い入れ)、環境保護政策の推進(公害問題の発生因を市場経済に求める着想)等の姿勢である。/

 体制選択のひとつの候補が社会主義だった。この言葉には、”人々が程良い豊かさと自由を享受する正しい社会”という響きがどこかにあった。そのため、自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマが与えられがちだった。ところが、社会主義国家の自己崩壊後、『社会主義』という言葉に輝きも快い響きもない。……」

 上でこの欄での文脈上とくに重要なのは、「自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマ〔焼き印・刻印〕が与えられがちだった」、という部分だ。

 反社会主義的(または反共産主義的=反共的)言辞・発言には、<右派・保守>というレッテルが貼られがちだった、というのだ。それが少なくとも「社会主義国家の自己崩壊」までは続いた、と阪本昌成は言う。三島の死から約20年経っても、<反共>的言辞は<右派・保守>として異端視されていたのだ。

 社会主義国家はじつはすべて「崩壊」してはおらず、「体制選択」の問題は、日本では、そして日本の公法学界では、「あからさま」ではないにしても残っているように思われる。この点では、「自由経済体制」=「資本主義」の勝利とまだ決定的には断じられないところがある、と私は感じている。

 上のことには留意が必要だが、しかし、憲法学界等の公法学界の雰囲気が<親社会主義>的だったことは、おそらくは上の阪本昌成の文章でも示されているとおりだろう。

 そのような<親社会主義>的姿勢が、九条を始めとする憲法「解釈」や「政策提言」に影響を与えないはずがない

 辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義―(日本評論社、1989.07)は、ルソーの影響を受けたロベスピエールらの「ジャコバン主義」者、彼らの(未施行の)1793憲法の研究書だが、これらへの共感に満ち、これらを称揚しつつ、日本国憲法の「(国民)主権」論等の「原理」に関する示唆を得ようとするものだ。

 この本は東西ベルリンを隔てる「壁」の崩壊直前に執筆されたと見られる。そして、「あからさま」にはイデオロギー表明はしていないものの、(河野健二・岩波新書によると)早すぎた「社会主義」革命だったがゆえに失敗したとされる<ジャコバン独裁>を肯定的に把握しようとするもので、「あからさま」ではないが<社会主義幻想>に依拠して書かれている、と想定して間違いない。
 こうした人々にとって、三島由紀夫などは<右翼・反動>の極致の人物だっただろう。そして、こういう人々こそが(世代は上の杉原泰雄樋口陽一らも含めて)憲法学界・公法学会の主流派だったと見られる。今日に至って、少しは変化しているのだろうか

 ともあれ、日本の憲法学(学界)の大勢は、三島由紀夫の対極に位置していた、ということだけを、少なくとも確認しておきたい

 三 なお、第一に、阪本昌成が学界の「奇妙な共通項」として上に指摘するようなことは、日本国憲法もしっかりと(?)勉強して司法試験に合格した戦後教育の優等生である、福島みずほや仙石由人等を見ていると、なるほどと頷けるところがあるだろう。

 第二に、阪本昌成の上の本は、この欄でメモしながら読みつなぐことを意図したが、二年前にp.21くらいまで進んだだけで終わってしまった。

 上の引用は、最後の部分を除いて全文だが、かつて、次のように要約していた。

 <前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」>。 

0937/「戦後」とは何だったのか①-三島由紀夫「檄」。

 三島由紀夫の自裁後、ちょうど40年がもうすぐだ。
 1970年11月25日の「檄文」は、当時における三島の「戦後」認識を示している。そして、40年後の現在も何も変わっていないことに気づく。いや、何も変わっていないのではなく、当時よりも状況は<悪く>なっているかもしれない。

 「戦後」とは何だったのか。現在も含めて、<1947年憲法体制>の時代、と将来は呼ばれそうな気がする。ともあれ、三島由紀夫の「檄文」における「戦後」認識を引用する。なお、この「檄文」の一部はすでにこの欄に掲載したことがあるが、そのときよりも、引用部分をより長くした(新仮名遣いに改めている)。決定版三島由紀夫全集36巻p.402以下(2003、新潮社)。

 「檄/〔略〕/
 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。〔中略〕しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不明確な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。〔中略〕憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力を尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 〔中略〕日本の軍隊の建軍の本義とは、『天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る』ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしたのである。

 〔中略〕その日〔昭和44年10月21日〕に何が起こったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て『憲法改正』という火中の栗を拾わずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。〔中略〕政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。〔中略〕そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 〔中略〕この昭和四十四年十月二十一日という日は〔中略〕憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され〔中略〕自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は、『護憲の軍隊』として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 〔中略〕沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであろう。

 〔中略〕もう待てぬ。〔中略〕生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。〔以下略〕」

 「戦後」認識には当然に、戦後の基本的「体制」をどう認識するかも含まれる。そこには憲法上は「戦力」ではない筈の自衛隊をどう見るか、上の文には出てこないが日米安保をどう見るか、もまた含まれる。そして「憲法改正」にどういう立場を採るかにも関係してくる。

 一字一句、三島由紀夫の文章を<信奉>することはしない。だが、40年前の三島の鋭い指摘・認識にはあらためて感心する。三島由紀夫だけの認識や考え方ではなかっただろう。だが、当時も現在も、基本的なところですら、日本の政治家や国民の<多数派>にはなっていない。痛い想いとともに、三島の死の意味を考える。

0936/講和条約から60年安保「騒擾」へ-遠藤浩一著。

 一 いわゆる「六〇年安保」の1960年が、戦後日本にとっての重要な分岐点の一つだっただろう。

 遠藤浩一は、<六〇年安保闘争>などという語は用いず、「六〇安保騒擾」と称している。ともあれ、今でも、この「闘争」なるものに参加して国会周辺デモをしたことを懐かしくかつ何の恥ずかし気もなく語っている者が知名人の中にも少なくないことはどうしたことだろう。騙されてか、信念を持ってかのいずれにせよ、樺美智子や西部邁らとともに安保改定「反対」デモに加わったということは、秘すべき、恥ずかしい過去なのではないか。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(2010.04、麗澤大学出版会)p.47は、次のように<主権回復時(から安保改定に至るまでの経緯)>の論点を整理している。適確なのではないかと思われる。
 ・「平和憲法」により「戦力は…保持しない」として「自分で自分を守ることは致しません」と内外に宣言した日本が「主権を回復」しようとするとき、「二つの選択肢」が想定された。

 ・①「憲法を改正して普通の独立主権国家並の体制を整える」(そのうえでどこかと「同盟関係」を結ぶというオプションもありうる)。②「憲法の非戦条項を維持したまま別の国家に保護を求める」。

 ・かつまた、「東西」分裂・「冷戦」の激化があったので、この点でも「複数の選択肢」が発生した。

 ・A「自由民主主義陣営」に属する、B「共産圏」に属する、C「非同盟中立」を標榜して「独自の道」を歩む。但し、Cの場合は日本を「軍事的、経済的に保護」できる「非同盟中立の大国」は存在しなかったので、この道は「必然的に憲法を改正し自主防衛を追求」せざるをえない。

 ・以上を複合させて整理すると、「主権回復時」の日本は次の五つから進むべき途を選択する必要があった。

 ・①「憲法を改正し再軍備」したうえで「自由民主主義諸国」と連携する。②「再軍備したうえで共産圏」にコミットする。③「再軍備して非同盟・中立」を追求する。④「憲法」に手を付けず(=憲法改正をせず)「軽武装もしくは非武装」で「米国に軍事的保護を求める」。⑤同様に「軽武装もしくは非武装」で「ソ連に軍事的保護を求める」。

 ところが、と遠藤浩一は続ける。「全面講和論者」は「平和、平和」と気勢を上げるだけで、当時の日本が置かれた「状況」とそこから導出される「選択」について、「説得力ある議論」を展開したわけではなかった(p.47)。

 二 「全面講和論者」とこれにつながる「六〇年安保改定」反対論者は、現実に明確な<勝利>をしたわけではないが、戦後日本の歩みにきわめて重要な役割を果たした。その系譜は、脈々と今日まで受け継がれ、<左翼・売国>政権となって政治の現実について主導権を握るまでに至っている(「コミュニズム」の影響は今日の日本でもなお根強く生きている)。

 「全面講和論者」とこれにつながる「六〇年安保改定」反対論者とは簡単にはかつてにいう<進歩的文化人>を含み、かつこれによって煽られ、「理論」的に支えられもした。この者たちの<罪>は、永遠に忘れられてはならない。むろん、その背後にソ連共産党等の外国を含むコミュニストがいたことも明らかなことだ。

 戦前の個々の「戦史」や作戦・戦略面での<判断ミス>やその責任者について関心はなくはないが、そしてそれは戦後(・占領期)の「東京裁判」の理解と関係するが、基本的には、戦前の歴史には積極的な関心を持たないようにしている。

 時間的余裕が、現在も、想定される将来も乏しいからだ。

 日本は<戦争に負けた>、という事実から、日本の「戦後史」をふりかえるしかない。そして、<戦争に負けた>のは事実だが、そこに道徳的・倫理的な評価を混ぜることがあってはならない、ということをも前提としてふりかえるしかない。

 <戦争に負けた>のは事実だとしても、日本がその<戦争>をしたこと自体が「悪」だったとか、道義的・道徳的・倫理的に批難されるべきものだったとかの立場には立たない。<日本は(反省すべき)悪いことをした>という歴史認識は、一方に偏り過ぎている。いかにそれが、戦後の<正嫡の>「歴史観」だったとしても、<正嫡>・<公式>の歴史観・歴史認識が適切または「正しい」保障はない。言わずもがな、だが。

 というわけで、あるいは、ということを前提として、遠藤浩一の本等に言及しながら、「戦後史」をふり返る作業も、この欄で行う。

0935/資料・史料-2010.11.06「尖閣ビデオ流出」朝日新聞社説。

 資料・史料-2010.11.06「尖閣ビデオ流出」朝日新聞社説
 平成22年11月06日//朝日新聞社説
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 尖閣ビデオ流出―冷徹、慎重に対処せよ
 政府の情報管理は、たががはずれているのではないか。尖閣諸島近海で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した場面を映したビデオ映像がインターネットの動画投稿サイトに流出した。
 映像は海保が撮影したものとみられる。現在、映像を保管しているのは石垣海上保安部と那覇地検だという。意図的かどうかは別に、出どころが捜査当局であることは間違いあるまい。
 流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。
 それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない。
 ビデオは先日、短く編集されたものが国会に提出され、一部の与野党議員にのみ公開されたが、未編集の部分を含めて一般公開を求める強い意見が、野党や国民の間にはある。
 仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない。
 もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。
 ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある。警視庁などの国際テロ関連の内部文書が流出したばかりだ。政府は漏洩(ろうえい)ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない。
 流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある。
 しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない。
 中国で「巡視船が漁船の進路を妨害した」と報じられていることが中国国民の反感を助長している面はあろう。とはいえ中国政府はそもそも領有権を主張する尖閣周辺で日本政府が警察権を行使すること自体を認めていない。映像を公開し、漁船が故意にぶつけてきた証拠をつきつけたとしても、中国政府が態度を変えることはあるまい。
 日中関係は、菅直人首相と温家宝(ウェン・チアパオ)首相のハノイでの正式な首脳会談が中国側から直前にキャンセルされるなど、緊張をはらむ展開が続く。
 来週は横浜でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議が開かれ、胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席の来日が予定されている。日中両政府とも、国内の世論をにらみながら、両国関係をどう管理していくかが問われている。
 ビデオの扱いは、外交上の得失を冷徹に吟味し、慎重に判断すべきだ。
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0934/衆議院の解散・総選挙で改めて民意を問うべきだ。

 〇産経新聞11/13によると、時事通信社の世論調査(11/05-08)の結果は次のとおり。

 菅内閣支持27.8%(前月比-11.4)、不支持51.8%(+12.6)。

 政党支持率 民主党16.2%、自民党16.5%。政権交代後「初めて」自民党が逆転したらしい。

 この種の世論調査にどの程度の信頼性があるのか知らないが、菅内閣支持率の続落(仙石由人健忘長官の詭弁は上昇に役立っていない)ことのほか、上の第二点の「逆転」はかなり重要なニュースではないか。

 もっとも、「支持政党なし」という、隠れ共産党支持者(同党員)等を除いて、ほぼ<日和見層>・<浮遊層>にあたるものが、57.4%。今後のマスメディアの報道の仕方によってなお大きく変わりそうではある。

 〇NHKの11/08の午後七時からのニュースは、興味深いデータ(NHK世論調査)を報道していた。

 菅内閣支持31%(前月比-17)、不支持51%(+16)。

 これらよりも「興味深い」のは、<法案を成立させることが難しい「ねじれ国会」をどう打開すべきだと思うか>との問いに対する回答で、次のとおりだったという。

 ①「衆議院の解散・総選挙で改めて民意を問うべきだ」38%

 ②「与党と野党が政策ごとに連携すべきだ」36%

 ③「与党と野党の一部が連立政権を組むべきだ」・③「与党と自民党が大連立政権を組むべきだ」、それぞれ7%。

 なんと、解散・総選挙であらためて民意を問うが相対的には第一位になっている。

 一世論調査の結果の数字だとはいえ、このような「民意」が、産経新聞を含む全国紙やテレビメディア等に表に出てきていないのは、何故なのだろう。

 〇櫻井よしこの週刊新潮の連載コラムを3回分見てみる(11/04、11/11、11/18各号)。

 中国批判またはその批判的分析が多く、最近号の前半でようやくまとまった菅・仙石由人批判が出てくる。

 どこにも、「(衆議院)解散」、「総選挙」、「内閣打倒」、「倒閣」等の言葉は出てこない。

 中国や対中国対応を批判しているのは親中内閣を批判しているのと同じであり、内閣を批判しているのは内閣不支持→倒閣(そのための総選挙等)の主張と実質的には同じだと強弁(?)されるかもしれない。しかし、明確な言葉で書いているのとは大きな違いだ。

 あれこれとかりに正しく適切な<保守派的>言説をバラ撒いても、適切な時期に適切な主張をしなければならない。

 とくに櫻井よしこだけを論難してはいないが、民主党政権の誕生という、とり返しのつかない(既成事実としてすでに1年以上経った)政変を許してしまったのは、民主党政権誕生を許してよいのか、ということこそが昨年の総選挙の争点だったことの認識または政治的感覚の不十分さが<保守派>の側にあったことも大きいと考えている。

 そうだったからこそ、櫻井よしこらはなぜか安心して(?)自民党を<右から>批判して、結果としては民主党政権誕生の流れに棹さした。櫻井よしこは総選挙前の2009.07に、自民党は<負けるなら潔く負けよ>とまで明記していたのだ(櫻井よしこ・日本を愛すればこそ警鐘を鳴らすp.43-(2010.06、ダイヤモンド社)。

 政権交代直後にも民主党政権には期待と不安とが<相半ば>すると明記していた櫻井よしこだから、適切な政治感覚を期待しても無理かもしれない。それに、近傍には屋山太郎という民主党政権誕生大歓迎者もいる。

 せっかくよいことを多数の雑誌や本で書いても、ある程度の適切な政治的感覚・「勘」がないと、これらが<鈍い>と、今後も日本の具体的な方向性を結果として誤らせる可能性があることを懼れる。

0933/佐藤幸治の紹介する「戦略的護憲論」と井尻千男の唱える「憲法改正是非国民投票」。

 〇佐藤幸治・憲法とその”物語”性(2003、有斐閣)は、日本国憲法についての改憲論、護憲論にはそれぞれ二種ある旨を述べている。

 前者・改憲論には①根本理念を否定的に評価する「全面的改憲論」と、②全体としては「受け入れ」つつ「九条」の改正を主張する「部分的改憲論」(p.62)。

 記憶に頼るが、櫻井よしこは国民の権利義務の章についても疑問を呈しているので、上の①。八木秀次は人権条項等には間違っていないものもある旨を書いていたことがあるので(この点はこの欄で触れているが、自分の文章ながらも検索しない)、上の②に近いだろうか。

 いわゆる改憲論者は、自分が上のどちらに属するのか、明確な自己確認をしておいてよいだろう。私は理論的には、あるいは望ましい改正の姿からすれば、①の「全面的改憲論」に立つ。

 自民党の改憲案は現行憲法を前提として一部に削除・追加等をするもので、②に近いものと考えられる。

 本来は、自民党案のような<継ぎ接ぎ(つぎはぎ)改正>ではなく、条項名も内容も一新した全面改正が望ましいと考えられる。それによってこそ、日本と日本人は<自立>できるだろう。

 だが、現実的には、九条2項削除(+新設規定)による国防軍(自衛軍)の正式認知が可能ならば、そして法技術的観点等も含めてその方がより容易ならば、<継ぎ接ぎ改正>という<妥協・譲歩>もやむをえない、と考えている。

 元に戻る。佐藤幸治によると、後者・護憲論には、①「全面的擁護論」と、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」とがある。なお、①も「自由主義」から「社会民主主義」までの「多様な立場を包摂」する、とされる(p.62)。

 興味深いのは、佐藤幸治が、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」なるものの存在をきちんと認知し、かつどちらかといえば消極的評価のニュンスを匂わせていることだ。

 まさしく、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」「戦略的護憲論」はある。日本共産党の護憲論、日本共産党員の護憲論、日本共産党員憲法学者の護憲論はこれにあたる。

 日本共産党のみが現行憲法制定(旧憲法「改正」)時に「反対」投票をしたことはよく知られている。それも、固有の自衛権の行使のための「戦力」保持を禁止する九条2項を当時の日本共産党は問題視したのだ。

 それが近年では<九条の会>運動の担い手になっているのだから、笑わせる。

 吉永小百合もそうだし、その他の空想的・理念的<平和主義>者もそうだが、日本共産党の<戦略>としての護憲論(いやこの党は<憲法改悪阻止>と表現しているかもしれない)に騙されてはいけない。社会主義・共産主義社会という「別種の理想社会」への「過渡的措置を実現」するための<戦略>としての護憲論に騙されて、<ともに闘う仲間だ>などという甘い考えを持ってはいけない。

 〇月刊日本11月号(K&Kプレス)に井尻千男「今こそ憲法改正の好機だ」(インタビュー回答)が掲載されている(p.28-)。尖閣事件を契機とするもので、最近に言及した産経新聞11/03の田久保忠衛「正論」と似たようなものだ。

 しかし、上の中で井尻千男がこう言っているのには目を剥いた。
 <民主党だ自民党だと争っている場合ではない。与野党を超えて一致団結すべきだ。そこから「政界再編」もありうるが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施するべきだ」。>(p.31)。

 現時点で憲法改正に向けて「与野党」が一致できるかという現実認識の当否は別としておくが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施」すべきだ、とは、この人は何を寝ぼけたことを言っているのだろう。

 憲法改正を論じながら、現憲法上の「改正」手続に関する諸条項の内容すら知識としてもっていないようだ。他にどんなことを言っても、三島由紀夫が1970年に述べた「果たしえていない約束」を果たすべきだ等と言ったところで、上の部分で、ズッコケる。

 「憲法改正の是非を問う国民投票」などが「まず」必要になるのではない(むしろ不要だ)。最近書いたように、そんな思いつき(?)よりも、内閣を変えること、そのために総選挙をして国会議員の構成を変えること、の方がはるかに「憲法改正」に近づける。じつに常識的なことを書いているつもりなのだが。

0932/朝日新聞の二枚舌、大阪大学・鈴木秀美の奇怪な識者コメント。

 〇朝日新聞11/06社説をあらためて読むと、「非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない」と書いている。
 奇妙で滑稽でもあるのは、ここでは「政府や国会の意思に反する行為」だから、ということが理由とされている、ということだ。「国会」というのは、正確には民主党が多数を占める衆議院のことだ。

 はて、自民党(中心)内閣・自民党多数国会だったら、朝日新聞はこんなふうに主張しただろうか。
 自民党(中心)内閣・自民党多数国会が「全面公開しない」=非公開を決定したところで、その方針が気にくわなければ(場合にもよるが朝日新聞だとそういうスタンスを採ることが多かっただろう)、「非公開の方針に批判的な」行政官僚(・「捜査機関」)をむしろ持ち上げ、勇気あるものとして称揚するのではないか。

 そもそも政府の「意思」または与党が実質的に決定した国会の「意思」に反するから「許されない」とは、一般論としても、断じて言えない。政府・与党支配の国会の判断よりも優先されるべきものがある。それこそ、朝日新聞がお好きなはずの日本国憲法が示す諸価値・諸人権であり、そうした理念や<新しい人権>の中に、「透明で開かれた行政」や「(国民の)知る権利」が含まれていたのではなかったのか?

 今回に限らないが、朝日新聞の<ご都合主義>=<ダブル・スタンダード>はひどすぎる。
 この社説は「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである」と白々しくも書くが、そのあと続けて、「ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」と言う。

 一般論としてはもっともに見えるこの主張を、朝日新聞は自民党(中心)内閣・自民党多数国会時代に貫いてきたのか。あるいは、民主党に変わって、<より保守的な(または朝日の嫌いな「右派」)>政党が国会多数派を占め、<より保守的(「右派」)>政権ができた場合にも、上のようなことを断乎として主張しつづけることができるのか。

 朝日新聞は、そういう政権・国会の場合は、「外交や防衛」についての透明性・情報公開を強く(限度以上に)要求することはほぼ間違いないだろう。

 このいいかげんさ、<ご都合主義>=<ダブル・スタンダード>を、朝日新聞記者たちは自覚しているだろうか。

 幹部「左翼」活動家たち(論説委員の中にも当然にいる)は自覚している可能性はある。自分の新聞社が<左翼政治団体>に他ならないことを知っているからだ。

 以上、朝日社説がなぜかくも簡単に情報流出者を「許せない」と詰る(なじる)ことができるのか、不思議に思って書いた。

 国家公務員法「形式的」違反がただちに刑罰可(有罪)や懲戒処分相当という結論にはつながらない、という論点には、<形式秘>・<実質秘>の区別も含めてここでは立ち入らない。

 ひとことだけ追記すると、「起訴便宜主義」を持ち出して那覇地検の<処分保留・釈放>を「諒」とした仙石由人健忘(?)長官が、尖閣ビデオ流出以降は「流出者」を犯罪者(有罪者)のごとく断定的な言い方をしているのも、大笑いの<ご都合主義・ダブルスタンダード>だ。

 〇毎日新聞11/10朝刊に面白い識者コメントが掲載されている。

 弁護士・阪口徳雄は(本来は「左翼」的と見られる人物だが)、今回の情報流出行為は「公益通報者保護法」の保護の対象外であるとしつつ、「この程度の映像なら秘密にする必要はなかったのでは」と追加発言をしている。なお、NHK等によると、<情報法(学)>の第一人者と見られているかもしれない堀部政男(前一橋大学)は、<国会でも一部公開されているので国家機密=「実質秘」にあたるか疑問。最初から全面公開して国民の議論の対象にした方がよかった>旨を述べているようだ。

 毎日新聞の記事で<面白く>感じたのは、次の鈴木秀美(大阪大学教授・憲法)の「話」だ。以下、記事中の全文引用。

 「不祥事など政府による明らかな違法行為があったり、沖縄密約のように政府が国民に隠し続けた事実を暴くケースとでは情報の質が異なる。政府の高度な政治的判断で非公開としたものを、不満だからと一職員が流したのだとすれば、正当行為だとするのは難しい」。

 こういう場合のコメント(発言)は記者による要約・簡略化が入っているだろうから、このままそっくりを鈴木秀美なる憲法学者が喋ったのではないかもしれないが、「話」の要点だけはおそらく伝えているだろう。そのことを前提として、以下に続ける。

 この鈴木の「話」はどこやら朝日新聞11/06社説の上記部分に似ているところがある。つまり「政府」が「非公開」と決定した情報を「一職員が流した」のだとすれば「正当行為」ではない、と言う。

 本当に憲法学者がこんな趣旨を述べたのか疑いたくなるほどに、憲法感覚のないコメントだ。

 第一に、「政府」の決定に反すれば、なぜ「正当行為」でなくなるのか??

 「高度な政治的判断で」決定したかどうかは問題と関係がない。政府の「高度な政治的判断」の方が誤っている可能性があるからだ。

 第二に、鈴木秀美によると、「沖縄密約のように政府が国民に隠し続けた事実を暴く」のは、許される「正当行為」らしい。

 ここで質問したいものだ。「沖縄密約」なるものは「政府の高度な政治的判断」によって交わされ、「政府の高度な政治的判断」によって<非公開>とされてきたのではなかったのだろうか??

 こちらを「暴く」のは許され、尖閣ビデオという「政府が国民に隠し続けた」情報をオープンにする(「暴く」)のは許されない、とするのはいったい何故なのか。いかなる根拠・基準によるのか。

 鈴木秀美にも、朝日新聞と同様に<ご都合主義>=<ダブル・スタンダード>があることは明らかだ。

 この人にとって見ればおそらく間違いなく、民主党政府に<楯突く>ことは許されず、自民党政府に<楯突く>ことは許される、のだ。そうではないか?? 鈴木秀美よ、答えてみるがよい。

 鈴木秀美という憲法学者らしき者には、民主党政権を何とか擁護したいという心情があることが透けて見えるようだ。そうした心情を<左翼>または<何となく左翼>と称する。

 個人的にどのような心情・信条を持とうと自由だが、憲法学教授という肩書きで、<政治的心情(信条?)>を語るな、と言いたい。
 もっとも、鈴木に限らず、日本の(大学所属の)憲法学者の圧倒的多数が<左翼>または少なくとも<何となく左翼>という異様な状況にあるようなので、特別の驚きはない。自己の政治心情・信条を憲法学的(憲法解釈論的)言語を使って表明している者の何と多いことか。日本国民は、日本の憲法学界の大部分は、<世間的常識・良識>・<まともな論理>をもって生きているわけではないこと(+論文を書いたり講義したりしているわけではないこと)を、あらためて想起しておいてよいだろう。 

0931/中国(中共)御用新聞・朝日の真骨頂=11/06朝日新聞社説。

 11/06の全国紙各紙の社説は興味深い。毎日を除き、いわゆる<尖閣ビデオ>全面公開について触れている。朝日を除いて、要点のみ引用。

 産経-「ビデオ映像は、中国漁船の違法性を証明する証拠として、本来なら政府が率先して一般公開すべきものだった。遅きに失したとはいえ、菅首相は国民に伝えるべき情報を隠蔽した非を率直に認め、一刻も早くビデオ映像すべての公開に踏み切るべきだ」(最末尾)。
 読売-「尖閣ビデオ流出/一般公開避けた政府の責任だ」(タイトル)。「政府または国会の判断で、もっと早く一般公開すべきだった」。「中国人船長の逮捕以降、刑事事件の捜査資料として公開が難しくなった事情は理解できる。だが、船長の釈放で捜査が事実上終結した今となっては、公開を控える理由にはならない。/中国を刺激したくないという無用な配慮から、一般への公開に後ろ向きだった政府・民主党は、今回の事態を招いた責任を重く受け止めるべきだ」。
 日経-「迫られる尖閣ビデオの全面公開」(タイトル)。「政府には、漁船衝突ビデオについて、重要な善後策がある。映像の全面公開である」。「政府は刑事訴訟法の規定を盾に…公開できないとしてきた。しかし同規定の趣旨は、最高裁判例によれば①裁判に不当な影響を与えない、②事件関係者の名誉を傷つけない―の2点にある。/中国人船長がすでに帰国した現在、証拠ビデオを公開しても同規定の趣旨には反しない」。従って「公開しようと思えば、法律的には必ずしも不可能ではなかった。それでも一貫して公開に後ろ向きだったのは、日中関係への配慮という政治判断が働いたからだろう。/結果論からすれば、そうした対応は誤っていた」。

 異彩を放ち、さすがと思わせるのは、朝日新聞社説だ。政府の情報管理に不満を述べたのち、こう書く。

 朝日-「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である」。

 だからどうなのか、次のように続ける。

 「政府の意に反し、…ネットに流れたことには、驚くほかない。/ビデオは先日、短く編集されたものが国会に提出され、一部の与野党議員にのみ公開されたが、未編集の部分を含めて一般公開を求める強い意見が、野党や国民の間にはある」。
 「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」。

 「流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある。/しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。

 「ビデオの扱いは、外交上の得失を冷徹に吟味し、慎重に判断すべきだ」(最末尾)。

 なんと、上掲3紙社説と異なり、「全面公開」に消極的であり、有り体にいえば<反対>している。
 朝日社説子によると「仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない」。つまり、漏洩者=流出者は、もちろん<英雄>ではなく、酌量の余地のある公務員法形式的違反者でもなく、れっきとした「許されない」人物なのだ。

 なぜ朝日新聞は「全面公開」に反対なのか。朝日は正当にも(?)<尖閣ビデオ>は単なる「捜査資料」とは理解していない。その取り扱いは「日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な」案件だとし、「外交上の得失」を冷静に吟味せよ、と主張している。

 ここにこの新聞の本音が示されている。

 民主党政府の本音(対中配慮)を的確に把握しつつ、その本音(対中配慮)を支持し、貫け、と主張しているのだ。

 もう少しいえば、民主党・仙石らと同様に、<尖閣ビデオ>の「全面公開」によって「日中外交」が気まずくなること、つまりは中国(政府・共産党)が不満を高めることを怖れているのだ。

 「映像を公開し、漁船が故意にぶつけてきた証拠をつきつけたとしても、中国政府が態度を変えることはあるまい」とまで書いている。「全面公開」してもマイナスの方が大きい(可能性がある)し、「中国政府が態度を変えること」はないから無駄だろうとまで言っている。

 要するに、朝日新聞は、民主党政府はこれまでどおりに、中国(政府・共産党)の意向を配慮せよ、と主張している、ということに尽きる。

 「態度を変え」ようが変えまいが、すべき主張はきちんとしておくべきだと思われるが、相手の顔色を見て主張の仕方を変えよ、言っているに等しい。そのことによって、日本の利益がどうなろうと関係はなさそうだ。それが、朝日のいう「外交上の得失を冷徹に吟味」することなのだ。

 朝日はこういう主張を、どの外国との関係でも行うのではあるまい。上のような主張の中には一般論としては全面的には誤ってはいない部分が含まれてはいるが(その意味でもじつに巧妙だ)、今回の事件が、そして<尖閣ビデオ>が、中国(政府・共産党)を一方当事者とするがゆえにこそ、そのように主張しているに他ならないだろう。

 古くからもつDNAは生きたままだ。日本の有力な新聞の中に、このような、自国(日本)よりも中国(政府・共産党)の利益・意向を優先する新聞がある。

 たんなる政治的見解の相違というよりも、この新聞社(・幹部・論説委員・政治部や国際部の記者たち)は、とっくに中国(政府・共産党)に籠絡されているのだろう。あるいは端的に、事実上は、中国(政府・共産党)の支配下にあると言ってよいのだろう。

 注-「真骨頂(しんこっちょう)」=「そのものの本領(本来の姿)」(新明解国語辞典)。

0930/仙石由人・枝野幸男の卑劣な詭弁-「刑事事件」にしたくなかった筈なのに。

 一 11/01に<尖閣ビデオ>を「視聴」対象を短くし、かつ一部の国会議員にのみ「視聴」させたことにつき、社民党・福島みずほや民主党政府に対して<ふざけるなと言いたい>と書いた。

 11/06の深夜現在も、政府側は全面<公開>の方向性を示していない。

 二 いわゆる流出後の11/05に仙石由人健忘(・官房)長官は、「捜査記録」であるために<公開>できない旨を、あるいは「捜査の観点から言っても」流出が問題視される旨を言ったらしい。

 また、枝野幸男・民主党副幹事長は、「刑事訴訟法」の観点からも全面<公開>できない旨を(少なくともその観点を含めて公開の是非は考えるべき旨を)述べたようだ。

 何を言っているのか、この二人は。この議論に何となく同意したい民主党(または民主党政権)支持者もいそうだから、あらためて書いておく。<ふざけるな>。

 三 なるほど、情報公開法5条六号によると(前回は言及しなかったが)「公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」があるときは開示(公開)しないことができる旨を定め、その事務・事業の例として「争訟に係る事務」を明記している(六号ロ)。

 なお、海上保安庁自体の事務・事業すなわちその任務・所掌事務の遂行一般のいずれかに「支障を及ぼす」おそれがある、という主張もありえそうだが、仙石、枝野はそうは主張していないようだ。

 また、そもそも「流出者」として海上保安庁職員も疑われているようであることからも示されるように、ビデオが公開されても海上保安庁の<仕事>に悪い影響は与えないのではないか。むしろ、その仕事の苛酷さ等が国民によく判り、同庁職員の「士気」も上がって、「支障を及ぼす」おそれがあるのではなく、逆に<利益を及ぼす>ものと常識的には考えられる。

 さて、仙石・枝野の主張は情報公開法にあてはめると、上記のとおり、主としては、「争訟」に関する情報性を根拠とするかに見える。

 だがこれはふざけている。詭弁だ。

 たしかに、<処分保留>で釈放したのだから、いかなる(刑事)処分をするかはまだ決定されていない、刑事訴訟法の手続に入る可能性はある、その意味で訴訟で証拠資料として使われる可能性がある「捜査記録」にはなるのだろう。

 しかし、上はあくまで論理的にはまたは抽象的には想定できる<可能性>にすぎない。

 そしてそもそも、その可能性が現実になるように仙石等の現内閣や枝野らの民主党幹部は努力しているのか。すなわち、釈放した中国人(「船長」)の身柄拘束と日本への移送を、仙石や民主党は中国政府(・共産党)に求めているのか??

 仙石らは隠蔽・糊塗しているつもりかもしれないが、もともと<刑事事件>にしたくなかったからこそ、那覇地検は勾留決定まで得ていたにもかかわらず(そして実際に勾留していたにもかかわらず)、換言すれば那覇地検は<刑事事件>にするつもりだったにもかかわらず、それをなしくずしにし、(ここではもう経緯は省略するが)<釈放>して(させて)しまったのだ。

 仙石も菅直人も、正規の<刑事事件>にしたくなかったのだ。

 それを今になって、あるいは<釈放>後ずっと、<刑事事件>(となる可能性のある)関係情報(>ビデオ)だから国民一般に<公開>することはできない、と理屈づけるとは、何と言う卑劣な詭弁だろう。

 自ら「捜査」の継続を諦めさせておいて、「刑事訴訟」手続になることをさせないでおいて、「捜査記録」だからとか、「刑事訴訟法」上の問題があるとか、よくも言えたものだ

 呆れてものが言えない。<ふざけるな>という他ない。

 「赤い」健忘(・官房)長官・仙石由人は現役「左翼」活動家としていくらでも平気で詭弁を弄するだろうことは理解できるが、枝野幸男まで、仙石みたいなことを言う人物だとは知らなかった。

 これまで国民の「知る権利」という言葉を使っていないが、社民党や民主党「左翼」こそが、この概念を使って自民党中心内閣の政治・行政の「公開」あるいは「透明性」を要求してきたと思われる。

 仙石も枝野も、この概念・言葉は忘れてしまったのだろう。

 四 ついでに。傾向的には「左翼」こそが、捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求している。

 今回のビデオは日本国民のいかなる「プライバシー」を侵害するものではないし、海上保安庁の今後の活動を阻害しないことはもちろん、地検の捜査・起訴活動に何の不利益も与えないと考えられる。

 このことは、元警察官僚トップの佐々淳行が「今回の映像は初動段階で公開すべきもので、国家機密でも何でもない。それを菅内閣が勝手に機密化した」とコメントしたようであることからも、明らかだろう。

 被疑者との尋問過程にはるかに及ばない今回のようなビデオの「公開」・<可視>化を怖れて、いったい何をもって捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求できるのか??
 「左翼」・仙石よ、民主党よ、<ふざけるな。>

0929/産経11/03社説(主張)の「能天気」ぶり。

 産経新聞11/03の社説(「主張」)「憲法公布64年/国家の不備を正す時だ/尖閣を守る領域警備規定を」は、おわりの直前まではまともな指摘・叙述をしているようだ。

 しかし、最後の段落の「審査会の早期始動を」の部分は、寝言に等しい。

 憲法改正の必要性を前提としてだろう、「参院の民主、自民両党幹部の協議で、委員数など審査会の運営ルールとなる『規程』の制定に民主党が応じる考えを示した」ことをもって「注目すべき動き」と捉え、両院での議論の活性化につなげるべきだとし、「日本の守りの不備をどう是正するかなどを、審査会で論議すべきだ。……/民主党は党の憲法調査会ポストを空席にしたままだ。政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と結んでいる。

 なるほど民主党が憲法改正手続法により設置されたはずの憲法審査会の動きを前進させるようであるらしい(参院の審査会「規程」の制定に「応じる」らしい)ことは、好ましい変化なのかもしれない。

 だが、現在の国会の議席状況から見て、かりに万が一両院で憲法審査会での「議論」が始まったとしても、まともな憲法改正の方向に結実しないことは、ほぼ明らかではないのだろうか。

 民主党に「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と産経社説は書くが、厳密にいえば、ともかくもいかなる内容であれ憲法が改正されればよい、というものではないことは自明のことだろう。かりに万が一、政権与党が憲法改正に積極的になったとして、民主党と同様の見解の政党とともに出した結論が、現9条2項の削除ではなく、第一章・天皇条項の削除であったとしたら、社説子は歓迎するのか?

 現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、「戦後の絶対平和主義」から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らかではないか。

 産経新聞社説子がとりわけ現9条2項の削除・正規の「自衛軍」(防衛軍・国軍)の設置の明記を望んでいるならば、現与党による「憲法改正への主体的な取り組み」を求めても無駄だ。

 こんなことを理解していないとすれば、<能天気>であり、本当に思考力は<寝た>ままではなかろうか。

 自民党自体にいかほどに憲法改正(・現9条2項削除等)を目指す「意思」と「力」があるかは問題だ。しかし、民主党よりは「まだまし」だろう。

 喫緊の課題は、現与党・民主党に憲法改正への何らかの「期待」を寄せることではなく、民主党政権自体を「よりましな」内閣に変えることだ。それを抜きにして、望ましい方向での憲法審査会の「議論」がなされるとはとても思えない。
 産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ。

 <打倒>という表現でなくともむろんよい。<あらためて政権選択を!>とか、<政権選択のやり直しを!>とかくらいは主張したらどうか。

 と考えているところに、民主党には「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」などと主張されたのでは、ガックリくる。

 近いことは、同じ11/03の田久保忠衛の「正論」についても言える。「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。「狼煙」を上げて、そのあとどうするのか? 「憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう」くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。

 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ。
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?

 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。

0928/黒宮一太の「国民」と辻村みよ子の「市民」(外国人参政権付与論)。

 「法的側面からみれば」と限定して言っているが、<ふつうは>、黒宮一太の言うとおり、「国民」とは「国籍保持者」のことを指す。黒宮がより厳密に示す、「国民」とは「近代国家の統治に参与して主権を構成する集団、または主権者によって統治される集団」という説明も、下記の辻村みよ子からすれば「主権」概念の厳密さが問われうる(なぜなら上の説明では「国民」は「主権者」であるとともに「主権者」による被統治者でもあることになる。おかしくはないか? もう少し説明が要るのではないか?)が、大まかにはそのとおりだろう。以上、佐伯啓思=柴山桂太編・現代社会論のキーワード(ナカニシヤ出版、2009)p.91。

 上のことよりも、黒宮の以下の叙述は、よく分かる。

 ・「誰に国籍が付与されるか」を考えると、「多くの場合、諸国家の歴史的・文化的条件が加味されている」。「国民」を「純粋に法的・政治的側面からのみ規定することはできない」。それは「歴史性や文化的特質をともなった共属意識をもつもの」と考えておくべきだ。(上掲書p.91)

 「多くの場合」との限定つきだが、このような「国民」概念に付着しているはずの「諸国家の歴史的・文化的条件」や意識の「歴史性や文化的特質」を無視して、あるいは正確にはそのゆえにこそそれを嫌って、「市民」概念を使い、「国民主権」ではない「市民主権」の可能性を探り、主張しているのが、辻村みよ子・市民主権の可能性―21世紀の憲法・デモクラシー・ジェンダー(有信堂、2002。索引等を除き全295頁)だ。

 東北大学教授の辻村は、上の著のかなりの部分を<外国人参政権>問題にあて、いわゆる「許容」説をも超えた「要請」説を主張する。そして、外国人への地方(この人にとっては国もだが)参政権付与の憲法解釈論的根拠をかなり詳細に述べている。

 民主党あるいは社民党の中に多数いると思われる<付与>積極論者の理論的支柱になっているのではないかと思われる。福島みずほや千葉景子等の女性弁護士たち等々の、とくに<女性活動家>たちは、おそらくはこの本を所持して、おそらくは熟読しているだろう。

 辻村みよ子の論旨の特徴は、一口でいって、「国家」という概念が使われていても、<日本>の「歴史的・文化的条件」はまったく無視されていることだ。見事に欠落している。怖ろしいほどだ。

 「日本」の特性あるいはその「歴史的・文化的条件」を考慮することは<ナショナリズム>に傾斜することで、回避しなければならない、という強い<思い込み>(一種の<信仰>に他ならない)があるとしか思えない。

 辻村の憲法解釈によると、日本国憲法15条の「国民」は<国籍保持者>を意味しない。これは一例だが、外国人参政権付与に反対の論者たちは、この辻村みよ子の「理論」または「憲法解釈論」をも、<理屈>の上であるいは「説得の仕方」のレベルで、克服しなければならないだろう。少なくともこの本の議論を凌がないと、外国人参政権付与論は消失しないだろうと思われる。十分に止目しておくべき(危険な)書物だ。

 なお、先だって遠藤浩一の2001の本に依拠して紹介した菅直人の(「国家」観および)「市民」観と辻村みよ子のそれはかなり親近性・近似性がある。

 菅直人は「天皇」は尊敬はするが「ぼくのイメージの中の国家とはまったく別だ」と言い放っていた。「天皇」を無視して日本の歴史・文化を、そして日本「国家」を語りうるのだろうか? また、いわば自然発生的(土着的?)な「日本」への帰属意識とは離れた「思考タイプ」を持つものこそが「市民」だとも言っていた(10/26のエントリー参照)。

 政治学者・松下圭一に限らず、コミュニズムに親近的な、または結局はそれを容認することにつながる「左翼」論者は、しっかりと学界の中に多数いて、社民党や民主党内「左翼」を支え、指導していることを忘れてはならない。

0927/<左翼・売国>政権打倒のための総選挙実施を-月刊正論12月号一読後に。

 1.月刊正論12月号(産経新聞社)内をいくつか読んでいて、とくに中西輝政論考によってだろうか、尖閣諸島に非正規の中国実力部隊とともに多数中国人が上陸し始める、海上保安庁は、あるいは自衛隊は何をできるか、中国の正規軍(・軍艦)が(中国にとっての領海内に)入ってくる、という事態や問題が現実になりうるようで、いくぶんかの戦慄を感じざるをえない。

 2.月刊正論12月号は西部邁、中西輝政、西尾幹二、櫻井よしこの4人揃い組。これに渡部昇一、佐伯啓思あたりも加わっていれば、<保守>論者の大御所のオン・バレードだ。多少は皮肉も含まれており、似たような名前がいつも出てくるなぁ、と思いもする。

 <左翼>の側には、いろいろな戦線・分野で、いろいろな幅をもって、もっと多様な書き手、論者がいるのではないか。どうも心許ない。

 といったことを書いている余裕は本当はないのかもしれない。

 3.よく見る名前だが、<尖閣>または<9・24>をテーマとする論考に、主張内容の違いがあるのが分かる。むろん、基本的なところでは(対中国、対民主党政府等)、一致があるのだろう。だが、現在において何に重点を置いて主張したいかが論者によって同じではない。
 頁の順に、巻頭の西部邁「核武装以外に独立の方途なし」(p.33)は、タイトルに主眼があり、アメリカへの不信感を述べつつ、「自分らの国家を核武装させ、…他国への屈従から逃れてみせるしかない」と主張する。その過程で、「日米同盟の強化なしには尖閣の保守もなし」と唱える言説は、「いわゆる親米保守派」のそれで、「本当の噴飯沙汰」と明記している(p.36)。
 中西輝政「対中冷戦最前線、『その時』に備えはあるか」(p.48~)は、中国による「実際の軍事力の行使」=「危機の本番」は「年末から年明けにも」と予想する(p.50)。詳細には触れないが、具体的な想定等には、冒頭に記したように、戦慄と恐怖を覚えるところがある。

 中西によると、「日本人の精神の目覚め」を阻止するための、中国による「対日世論工作」が今後、活発化する。より具体的には、①「反米基地闘争」の「さらなる高揚」による「日米同盟」関係の「離間」、②「日本の言論界そのものに対する統制」、③与党・民主党に「親中利権派議員」を大量に作ること、だ(p.54-55)。

 ①~③のすべてがすでにある程度は、②に至ってはすでに相当程度に、奏功しているのではないか。

 中西輝政がまとめ・最後に述べるのは、次のようなことだ。

 <「民主主義」や「人権」は中国(・共産党)の「最大の弱点」なので、「同じ民主主義体制の国々」とともに中国にこれらの重視を対中政策の第一とすべき。「中国の民主化」という「人類社会」の「大義」に向かって協力するのが重要で、それは「大きな武器」になる。>(p.56)

 西部邁のいう「親米保守」派に中西輝政が入っているのかどうかは知らないが、中西輝政も憲法改正や核武装論に反対ではないだろうにせよ(むしろ積極的だ)、西部邁と中西輝政では、同じ状況・時期における具体的な主張は同じではない、と理解せざるをえないだろう。

 西尾幹二「日本よ、不安と恐怖におののけ」(p.74-)は、中国の分析、日本のマスメディア批判のあと、日本人の精神の対米従属性(+アメリカは本気で尖閣を守る気はない)を嘆いて終わっている。いわく-「この期に及んで自分で自分の始末をつけられない日本国民」をアメリカ人は「三流民族」だと見ているだろう、「否、…私も、日本国民は三流民族だとつくづく思い、近頃は天を仰いで嘆息しているのである」(p.81)。

 西尾のものは、同感するところなきにしもあらずだが、一種の精神論のごときで、最もリアリスティックなのは中西輝政の論考だ。西部邁は<核武装>に至る、または<核武装論>を議論するに至る、必要不可欠の過程を具体的に示してもらいたい。今どきのこの主張は、正しくとも、時宜にはかなっていない<空論>になるおそれが高そうに見える。

 もっとも、佐伯啓思ならば決して書きそうにない中西輝政の最後の主張も、正しくとも、やや綺麗事にすぎる、あるいは、米国も欧州諸国もそれぞれの国益を最優先するとすれば、多少は非現実的なところがあるかもしれない。「民主主義」と「人権」の主張の有用性・有効性を否定はしないが、はたして現実に<自由主義>諸国はそのように協力してくれるだろうか。

 中西輝政論考のポイントはむしろ、究極的(最終的)には<自衛隊の「超法規的」な軍事行動に期待するしかない>という想定または主張にあるように思われる(p.53-54)。

 4.上の三人ともに現民主党政府に批判的だろうが、誰もひとことも書いていないことがある。

 それは民主党(菅直人)政権を変えて<よりましな>内閣を作る、という、核武装や憲法改正よりも、現実的な論点・課題だ。

 朝日新聞の社説ですら、菅直人への首相交代時に<できるだけ早く>国民の信を問う(=総選挙する)必要性を(いちおうは)書いていた。

 尖閣問題への対応を見ても、この内閣が<左翼・売国>性をもつことは、ますます明瞭になっている。

 参加しないで言うだけするのも気が引けるが、10/02と10/16の二回の集会・デモのスローガンはいったい何だったのだろう。その中に<菅内閣打倒!>・<売国政権打倒!>・<即時総選挙実施!>などは入っていたのだろうか。

 現実的には、対中「弱腰」以上の、「親中」・「媚中」以上の<屈中>政権をこれ以上継続させず、外務大臣も官房長官も代えることの方が具体的な<戦略>だと思われる。そのためには、総選挙を!というムードをもっと盛り上げていく必要があるのではないか。

 いわゆる<政権交代>からもう一年以上経った。今の内閣が現在の<民意>に添ってはいないこともほぼ明らかだ。マスコミの主流は現内閣の困惑と混迷ぶりばかり報道しているようで、かつ産経新聞も含めて、<あらためて民意を問う>必要性を何ら主張していないのではないか。非現実的なのかもしれないし、上記の三人もそのように考えているのかもしれない。しかし、重要なこと、より現実的に必要なことは、やはり(憲法改正等と同等に)主張し続けなければならない、と考える。

 <左翼・売国>政権打倒!という表現では過半の支持は得にくいかもしれないが、形容・表現は極端に言えば何でもよい、現在の民主党政権を一日でも早くストップさせ、<よりましな>政権に変える、このことがとりあえずは日本の将来と現在の国益に合致している(もちろん国民の利益でもある)、と考えるべきだ。

0926/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)を全読了。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)を11/02夜に全読了。全311頁。

 最初から順に読み通したのだから(但し、佐伯の発表論考をまとめたもの)、感想は当然にある。
 既に初出論文について書いたかもしれない、<保守>にとって重たいまたは刺激的な論述もあるし、その他、佐伯らしい鋭い指摘・分析もある。全体として挑発的・論争誘発的(ポレーミッシュ、polemisch)な本なのに、この著をめぐって論争・議論が発展・展開したようでもないのは、<保守>論壇の貧困さの表れでもないだろうか。

 佐伯啓思に全面的に賛同しているわけではない。この9-11月という時期に読んでいると、<中国>への言及が、アメリカや<欧州近代>等に比べてはるかに少ないことに、驚きすら覚える。また、「マルクス主義」は「一九九〇年代には、さすがに腐臭をはなち、どう廃棄処分にするかが関心事であった」(p.45、2008年)とか、1930年代とは異なり「もはやファシズムも社会主義もありえない」(p.99、2009年)とかいう認識は、佐伯の頭の中や佐伯の<仲間たち>や純経済理論にとってはそうなのかもしれないが、「マルクス主義」や「社会主義」(の危険性・脅威)に対して<甘すぎる>、と感じる。

 具体的な紹介等をしていない遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(上下、2010.04、麗澤大学出版会)への言及とともに、より詳しい感想等は、他日を期したい。

0925/岡崎トミ子は「警察庁」と「警視庁」の区別ができているか?

 岡崎トミ子は国家公安委員会委員長というブラックジョークのような地位についているが、11/02に、警視庁の内部資料のネット掲載問題につき、閣議後の記者会見で<情報管理の重要性は「きちんと警察に指示している」と述べた>らしい。そのあと、<「警察で管理しなければならないものがネット上に出ていると、こういうことですよね?」と逆質問>という珍?問答もしたらしい。

 上の後半はさて措くとして、国家公安委員会委員長に、「警察に指示」する法的権限はあるのか?? とりわけ今回の文書管理者は警視庁という、法的または形式的には東京都に属する組織だ。

 国家公安委員会は内閣府設置法により、その外局として置かれる(同64条)。

 具体的な権能・権限等は警察法が定めていて、国家公安委員会は五人の委員により構成される(同4条2項)。この委員会の委員長には「国務大臣」があてられるが(同6条1項)、委員長が独自に権限を行使するのではない。いわゆる合議制の行政委員会であり、委員長は「会務を総理し、国家公安委員会を代表する」にすぎない(同6条2項)。

 以上からでもすでに、岡崎が、<警察に指示した>などと簡単に発言していることに疑問符がつく。いつ、そのための委員会の会議は行われたのか?

 国家公安委員会規則である国家公安委員会運営規則によると、「委員会は、会議の議決により、その権限を行う」(同2条1項)。 いつ、<警察への指示>のための国家公安委員会の会議・議事は行われたのか? とり巻いている新聞記者たちは、そういう疑問をまったく持たなかったのだろうか。

 委員会は警察法が定める委員会の任務・所掌事務の「運営の準則その他当該事務を処理するに当たり準拠すべき基本的な方向又は方法」を示す「運営の大綱方針」を定めることができ、「この大綱方針に適合していないと認めるとき」には「警察庁長官」に対して「必要な指示をするものとする」とされているが(2条4項)、第一に、これは委員会の権限で委員長かぎりでの権限ではないし、第二に、指示の相手方は国の機関の一つである「警察庁長官」であり、今回の件の「警視庁(総監)」とは直接の関係がない。
 また、警察法12条の2は「国家公安委員会は、第五条第二項第二十四号の監察について必要があると認めるときは、警察庁に対する同項の規定に基づく指示を具体的又は個別的な事項にわたるものとすることができる 」ととくに定めているが、ここでもまた、この権限の行使主体は委員長ではなく委員会であり、かつ、相手方は「警察庁」であって「警視庁」ではない。さらに、もともとこの条項は、対象事項を「第五条第二項第二十四号の監察」にとくに限定している。

 岡崎が述べたという<きちんと警察に指示している>とはいったい何だったのか。いかなる法的根拠にもとづいて、岡崎は、そんな大それたことを行うことができたのか。この人物をとり巻いている新聞記者たち等は、疑問に思わなかったのだろうか。寒心に堪えない。 

 ついでに書いておくが、第一に、国家公安委員会(委員長ではない)の基本的な任務は、「警察庁」を「管理」することだ。上のようの特段の定めがないかぎり、「警察庁(・長官等々)」の権限行使・事務処理に関して、個別具体的な指揮監督権を持っているわけではない。ましてや、委員長となると、委員会を代表するが、その構成分肢にすぎない。

 第二に、警視庁を「管理」するのは東京都公安委員会だ。国家公安委員会ではない。

 岡崎が「警察」と言ったとき、国の「警察庁」と東京都の「警視庁」の区別はついていたのだろうか。そもそも、「警視庁」とはいかなる行政組織なのかを理解していたのだろうか。

 委員会と委員長の区別も含めて、こんなことすら知らないで、「警視庁の内部資料」についてうんぬと述べているのだとすれば、当然に資質・資格が問われる。この人物をとり巻いている新聞記者等々は、何の疑問も持たなかったのだろうか。寒心に堪えない。

 新聞記者はともあれ、岡崎が上のとおりならば、即刻、辞任した方がよい。菅直人は罷免してもよい。ここに書いたことだけでも、十分な理由になる。

 なお、警察法5条4項に、「国家公安委員会は、都道府県公安委員会と常に緊密な連絡を保たなければならない」、とある。前者は後者に(直接に)<指示>する権限をもっているわけではない。念のため。

0924/<尖閣ビデオ>はなぜ一般的「公開」ではなく一部国会議員限定の「視聴」なのか。

 一 いわゆる情報公開法、正確には行政機関の保有する情報の公開に関する法律、によると、開示(公開)請求の対象となる「行政文書」とは「行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう」(2条2項)。但書による例外もあるが、以下で言及するものは例外にあたらない(「官報、白書」等々)。ビデオテープも、ここでいう「行政文書」には含まれる。

 開示請求があると、行政機関の長(以下のものについては、国家行政組織法別表第一が定める「行政機関」の長である海上保安庁長官になると見られる)は、以下の事項のいずれかに該当しないかぎり、開示(公開)しなければならないものとされている(5条本文)。いわゆる個人情報・法人情報にあたるもの(の一部)を除けば、次のとおり。
 5条の第三号~第六号。
 「三
 公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報
 四  公にすることにより、犯罪の予防、鎮圧又は捜査、公訴の維持、刑の執行その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報

 五 国の機関、独立行政法人等、地方公共団体及び地方独立行政法人の内部又は相互間における審議、検討又は協議に関する情報であって、公にすることにより、率直な意見の交換若しくは意思決定の中立性が不当に損なわれるおそれ、不当に国民の間に混乱を生じさせるおそれ又は特定の者に不当に利益を与え若しくは不利益を及ぼすおそれがあるもの 

 六 国の機関、独立行政法人等、地方公共団体又は地方独立行政法人が行う事務又は事業に関する情報であって、公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるもの

 イ 監査、検査、取締り、試験又は租税の賦課若しくは徴収に係る事務に関し、正確な事実の把握を困難にするおそれ又は違法若しくは不当な行為を容易にし、若しくはその発見を困難にするおそれ 
 ロ 契約、交渉又は争訟に係る事務に関し、国又は地方公共団体の財産上の利益又は当事者としての地位を不当に害するおそれ
 ハ 調査研究に係る事務に関し、その公正かつ能率的な遂行を不当に阻害するおそれ 

 ニ 人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれ

 ホ 国若しくは地方公共団体が経営する企業、独立行政法人等又は地方独立行政法人に係る事業に関し、その企業経営上の正当な利益を害するおそれ」。
 二 今日11/01に国会議員の一部のみが、国家審議の参考資料という名目で海上保安庁作成・保管の<尖閣ビデオ>、しかもそれをかなりカットした(編集した?)もの、を国会内で見ることができたらしい。
 社民党代表・福島みずほは、国民一般に見せるのはいかがかと、国民一般に対する<公開>には消極的な発言をしていた。
 与党・民主党も同様だが、ふざけるな、と言いたい。
 国民のかなりの部分が関心をもっている問題に関する情報について、かつての自民党(中心)政府・自民党等が公開に消極的な姿勢を示せば、<隠蔽体質糾弾!>とか<国政・行政の透明化を!>などと叫んで、「公開」・「透明化」を強く要求しただろう。
 民主党や社民党・福島みずほのダブル・スタンダードには呆れる。再び、ふざけるな、と言っておく。情報公開法や情報公開条例の制定に熱心だったのは、<左翼>だった、あるいは自民党よりもむしろ社民党・民主党だったのではないのか??
 国民一般(つまりはマスメディアということになろう)への「公開」を否定できる法的・政策的根拠はいったい何なのか?
 おそらくは、<中国(政府・共産党)のご機嫌を損ないたくない>、ほぼ同じことだが<日本国民に「反中国」感情を増やしたくない>(<日本人の「ナショナリスム」を煽りたくない>)、ということだろう。
 これははたして、法廷の場でも通用する理屈なのか? 弁護士資格をもつらしい、社民党・福島みずほや民主党・仙石由人等々は、上の情報公開法という法律のどの(開示しないことができる)例外的事由にあたるのか、を明言してもらいたいものだ。
 5条の四~六号は関係がないと見られる。四号について言えば、「公にすることにより、犯罪の予防、……その他の公共の安全と秩序の維持」を、むしろ増進させることとなる、と言うべきだ。
 唯一残るのは、三号の「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある」、ということだろう。
 ビデオ公開によって、どのようにして「国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ」があるのか、民主党・仙石や社民党・福島は説明してほしいものだ。
 公開すれば、中国軍によって日本の「安全が害されるおそれ」があるのか。もし本当にそうだと言うならば、法的問題以上の、真に由々しき事態にあると言わなければならないだろう。
 あるいは中国との「信頼関係が損なわれるおそれ」があるのか。しかし、中国という特定の国家との「信頼関係」を守るために、日本と日本国民の正当な利益まで失ってよいことまでをも、上の号は含意しているのか?。そんな形式的解釈は成り立たないだろう。「信頼関係」とは正当な(・国家や国民の利益と矛盾することが明らかではない)「信頼」関係でなければならないだろう。また、外国(人)の「犯罪」を当該外国のために<隠蔽>することが当該外国との「信頼関係」を維持するために必要だとかりに主張する者がいるとすれば、詭弁であり倒錯した論理だと言うべきだ。
 三 おふざけの弁護士を多数かかえているようである民主党の目を醒まさせる意味でも、全面・一般的公開を主張しているらしい自民党は、その代表(・総裁)あるいは幹事長個人の名前で(むろん自民党国会議員全員が名を連ねてもよい)、上の法律にもとづく開示請求をすることを考えたらどうか。むろん国会議員でなくとも「何人」でも、日本国民でも外国人でも、産経新聞記者個人でも、開示請求はできるのだが(3条)。
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  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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