秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日本共産党の大ペテン・大ウソ19

 一 前回(18)での叙述には、ソ連共産党の解体を1991年8月ではなく1990年8月と、日本共産党常任幹部会の<ソ連共産党解体歓迎>声明を1991年9月ではなく1990年9月と理解していた誤りがあった。したがって、これらと宮本顕治の1991年元旦の発言との関係を問題にする叙述は、すべて取り消す。<すでに6/15に必要な修正・削除をおこなった。>
 但し、宮本顕治(中央委員会議長)が1991年元旦に「赤旗」上で「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と公言していたことは、事実だ。
 したがってまた、その時点で宮本顕治はソ連共産党の解体もソ連邦の解体も見通せていなかったのであり、前回の元来の指摘と同じ程度ではないが、「日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如」も示すものだった、旨の指摘は基本的には当たっているだろう。
 つぎに、前回(18)、「しかし、『ソ連解体にさいして』日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような〔=残念だ旨の〕声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない」と書いた。
ソ連共産党解体とは別にソ連邦解体について、残念と感じるか歓迎するかのいずれの明確な反応もなかったようだ、との趣旨であり、誤っているわけではない。
 但し、日本共産党による反応が全くなかったわけではない。
 日本共産党の七十年/下(新日本出版社、1994)p.422-3にも言及されているように、1991年12月23日付(翌日「赤旗」掲載)で、日本共産党中央委員会常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」が発せられている。以下、日本共産党国際関係重要論文集24(同党中央委員会出版局、1993)による(p.203-5)。趣旨の理解について上記党史/七十年をも参考にすれば、次のように言う。
 ・ソ連共産党と国家としてのソ連邦の解体とは「次元を異にする問題」だが、「『歴史的巨悪』としての覇権主義」が「決定的要因となったことでは、共通の歴史的な状況がある」。(p.203)
 ・ソ連邦の解体の「最大の根源は、スターリンいらいの覇権主義および、その害悪に対するゴルバチョフ指導部の無自覚と無反省にあった」。(p.204)
 ・「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」。(p.204)
 ・「世界平和にとって重要な問題は、ソ連がもっていた核兵器がどうなるか」だ。「ソ連邦の解体とともに生まれた新しい情勢を、核兵器廃絶にすすむ積極的な転機とするために、あらゆる努力をかたむけることを、よびかける」。(p.205)
 以上、引用終わり。
 以上について特徴的なのは、<残念と感じるか歓迎するか>は明瞭ではないが、党の解体と同様に<スターリン以降の覇権主義>に原因があった、と淡々と分析?していることだろう。その意味では、前回紹介の宮本顕治発言よりも、<ソ連共産党解体歓迎>声明に近いかもしれない。
 ともあれ、ソ連共産党解体のときのような、<歓迎>声明そのままではない。したがって、ソ連共産党の場合と同様にソ連邦解体の場合も対応したとその後のまたは現在の日本共産党(・の幹部たち)が説明・主張しているとすれば、それは必ずしも正確な日本共産党の歴史ではない、と見られる。
 また、この時期には、ソ連共産党やソ連邦の解体の最大の原因を、日本共産党は<(大国主義・)覇権主義>に求めていた、ということを確認しておくべきだろう。レーニンの<市場経済から社会主義へ>の道をスターリン以降が覆したことに原因がある、あるいはこの道に対する態度がレーニンとスターリンの大きな違いだ、などという分析・説明は全くなされていない、ということだ。
 二 宮本顕治が、概念や論理の一貫性をもって思考している人物ではまったくないことは、上に言及の1991年元旦発言と、ソ連邦解体等のあとの翌年の1992年元旦付の「赤旗」上の発言を比べても分かる。前回と同様に宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997)p.53-によるが、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)にも収載されている。宮本は語る。
 ・「ソ連の崩壊は社会主義の崩壊ではなくて、社会帝国主義、覇権主義の破たんです。ソ連がスターリン・ブレジネフ型の、官僚主義・命令主義の体制となった結果、第二次大戦後の米ソ関係、東西関係は、資本主義体制対社会主義体制という対立から、一定の時期を経て、事実上は帝国主義と社会帝国主義の対立に転化した面があります」。(p.54)
 ・「ソ連、東欧の体制は崩壊したが、自分の誤りによって自壊したのであって、体制としての資本主義が社会主義にたいして最終的な勝利をおさめたわけではありません」。(p.55)
 以上は一部だが、誤っているとはいえなお<社会主義>国の一つと見ていたかのごとき1年前とは違って、解体したソ連等を突き放した、評論家ふう?の叙述になっている。自らと日本共産党に火の粉が降りかかるのを懸命に避けているようだ。
 また、上の発言の基本は1994年の日本共産党綱領改定にも継承されているようで、この時期の日本共産党の指導者たちの考え方が示されているだろう。
 しかし、宮本顕治が好んだかもしれない「社会帝国主義」というソ連に対する論難の仕方は、1994年およびその後の日本共産党の見解または語法としては採用されなかった、と見られる。
 また、資本主義が「最終的な勝利をおさめた」わけではない、という言い方をしているのは、<中間的には>資本主義が勝利していることを認めているようでもあり、興味深い。
 ところで、宮本顕治の発言等を追っていくと、この時期の日本共産党の最長老の現存の「教祖」らしい、<未来への確信をもって頑張れ>との宗教家的煽動の言葉が目につくが、ソ連について、つぎのようにも述べたようだ。1994年5月、すなわち同年7月の第20回党大会直前の中央委員会総会での一文だ。第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/下(同党中央委員会出版局、1994.08)による。
 「総会では、最後に宮本議長が閉会のあいさつ」を述べ、「…われわれの闘争いかんにかかっているのであり、甘い期待をもつのではなく、心をひきしめてたたかうべきことを指摘。//
 ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしいことで、最後には真理は勝利することをしめしている、…、…とのべた」(p.463)。
 //は原文では改行でない。
 宮本顕治は1961年に正式に日本共産党の最高幹部になったとき、(すでにスターリンは死亡し、スターリン批判もあったが)ソ連邦をどのように理解していたのだろうか。解体してみれば、「ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしい」と言ってのける神経の太さは並大抵ではない。
 なお、ここでは立ちいらないが、この時期の宮本顕治は<スターリン(指導下のソ連)にも良い面があった>、すべてを<精算主義>的に理解してはならない旨も強調している。そしてそれは、1994年改定綱領にも採用されたと見られる。第二次大戦時でのソ連邦のはたした役割等についてだ。
 しかし、2004年の綱領全面改定によって、スターリン(指導下のソ連)の<よい面>に関する記述は削除された。不破哲三体制の誕生を示していたのかどうか、この点にはいずれまた触れるだろう。
 <つづく>

資料・史料/安倍晋三首相・戦後70年談話

 安倍晋三首相/戦後70年談話 2015.08.14
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 平成27年8月14日 内閣総理大臣談話

 [閣議決定]
 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました。
 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

 平成二十七年八月十四日
 内閣総理大臣  安倍 晋三
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Hoover: Freedom Betrayed, p.880-1〔フーバー回顧録11〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 11
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.880
 〔第一二節〕 1943年10月にモスクワでバルト諸国と東部ポーランドを犠牲にしたこと。
 第十二。正当な政治を喪失する十二番めの過ちは、1943年10月、モスクワでの外務大臣会合において、自由な諸国民を犠牲にしたことであった。この会合では、自由とか民主政とかの言葉が使われる真っ只中で、バルト諸国、東部ポーランド、東部フィンランドおよびブコヴィナ(Bukovina)を併合しようとする周知のロシアの意図に対して、一言の異議の言葉も発せられなかった(このことを彼〔ルーズベルト?〕はヒトラーと合意していた)。この黙認は、四つの自由の最後の言葉〔=<恐怖からの自由>〕および太平洋憲章を放棄することを示すものであった。(注12.)

 注12…第46章参照。

 p.880
 〔第一三節〕 テヘランおよびさらなる七つの国家の犠牲
 第十三。第十三の、そしておそらくルーズベルトとチャーチルの政治家資格失墜を示す錯乱した迷走の最大の一つは、テヘランにおいて、1943年12月になされた。ここでは、諸併合に関するモスクワ会合での黙認が〔正式に〕追認された。また、"友好的な境界線国家"の周縁部-七つの国家を覆う傀儡共産主義政権-についてのスターリンの原則〔doctrin〕が、受容された。国際的な道義や諸民族と自由な人々の独立性に関する彼ら自身の約束に忠実であるならば、ルーズベルトとチャーチルは、テヘランで、一度だけでもスターリンに確固として反対する必要があった。このときまで、これらの合意、黙認そして宥和を正当化できるだろうような、スターリンが分離した平和を作り出す、軍事的な危険は全く存在しなかった〔にもかかわらず〕。 (注13.)

 注13…第47章参照。

 p.880-1
 〔第一四節〕 ヤルタ-諸国家崩壊についての秘密協定
 第十四。正当な政治の十四度めの致命的な喪失は、ルーズベルトとチャーチルによって1945年の2月にヤルタでなされた。十二カ国の独立に対するスターリンの侵食のすべてが承認されたばかりではなく、一連の秘密協定でもって、何世代にもわたって世界を国際的な危険に感染させつづけるだろう不吉な力が作動してしまった。スターリンがすでに七つの国家を覆う共産主義政権を作り出していたことを知って、ルーズベルトとチャーチルは、彼らの政治家資格の失墜を隠蔽(カモフラージュ)しようとした。それには、"自由で独立した"選挙とか、"あらゆるリベラルな分野をもつ代表制"とかの言葉で表現された仕掛け(gadget)が伴っていた。テヘランでの宥和を軍事的な根拠でもって最も強く擁護する者たちですら、ヤルタでのそれをもはや擁護することができなかった。ここでは少なくとも、風格や自由な人類を追求する姿勢が、示され得たであろう。そうであれば、アメリカには、よりクリーンな手と自由な人々からの道徳的な尊敬が与えられ、残されることができていたであろう。 (注14.)

 注14…第54章、第55章参照。
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 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.115-120, p.260-1も参照。

日本共産党の大ペテン・大ウソ18

 少し元に戻る。
 1.日本共産党がソ連を<社会主義国ではなかった>と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。
 既述だが、この1994年7月まで、ソ連は「社会主義」国ではなかった、と性格づけたことは、1991年12月のソ連(の公式)解体後も、一度もなかったと見られる。
1991年12月(ほぼ1992年1月)から1994年7月第20回党大会の直前まで、上の性格づけの明言はなく、まだ曖昧にであれ「社会主義」国の一種と見ていたと理解するほかはない文献上の根拠はすでに挙げたが(2016.05.19の「07」の3②)、いま一度、もう少し詳しく紹介しておく。
 2.上記第20回党大会の2月前の 1994年5月に発行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下は次のように、その時点からは過去の同党大会について、叙述している。かりにすでに<「社会主義」国理解>を放棄していたとすれば、以下のような叙述にはならない、と考えられる。
 ①p.238-9- 1985年の第17回党「大会は、党綱領の内容をいっそう充実させる一部改正をおこなった」。「第一に、覇権主義の克服を綱領上の課題としてとりあげた」。「また、綱領の一部改正は、…、社会主義諸国、国際労働者階級、…、社会の社会主義的変革のためにたたかっている勢力は、『内部にそれぞれの問題点をもちながらも、社会の歴史的発展にそう活動』によって、今日の時代における『…を決定する原動力となりうるものであり』と規定し、これらの勢力が世界平和、…、社会進歩をめざして『ただしい前進と連帯をはかることが重要』と明記した。この規定は覇権主義、官僚主義などをもつ『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味していた。旧ソ連・東欧の体制の劇的破たんは、これらの規定の歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」。/〔改行〕
 「第二に、『資本主義の全般的危機』という規定を削除した。『資本主義の全般的危機』論は、①……、②社会主義体制が世界史を決定し資本主義体制の危機をふかめることを一面的に強調し、社会主義国依存の傾向をうみ、主体的力を軽視する傾向をうみがちであること、③社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと、-以上から誤った理解をうむ不適切な規定をとりのぞいた」。/〔改行〕、<第三、第四、第五および「その他」は省略>
 引用終わり。
 上のうち『』内は1985年改定綱領の中に含まれる文であり、それ以外の「」内は、1994年5月発行の上掲書自体の文章だ。1985年時点の日本共産党のソ連理解を忠実に反映しているとも言えるが、1994年5月時点で、「社会主義(諸)国」の中にソ連を含めて叙述していることは明らかだろう。
 ②p.377-8-「『社会主義崩壊』論による異常な反共攻撃と…のなかで、党は1990年7月9日から…、第19回党大会を、…ひらいた」。<中略>
 「大会は、『現存の社会主義体制をみるさい、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されて以後の時期を区別して分析する必要がある』と指摘して、レーニンの死後『ソ連の体制は対外的には大国主義、覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと転換させられていった』ことを解明し、そのうえで『日本共産党は、……』と強調した」。<以下、略>
 引用終わり。上のうち『』内は1990年の党大会決定(または不破哲三幹部会委員長報告)の中に含まれる文であり、1990年7月時点で(ソ連共産党やソ連の解体は1991年)日本共産党がソ連を「現存の社会主義体制」の一つと見ていたことが分かるが、今のここでの文脈では重要なのは、1994年5月の日本共産党の文献が、上のように1990年時点のソ連理解をそのまま引用して「党史」を叙述していることだ。
 なお、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003、日本共産党中央委員会出版局)は、上のような詳しい?叙述を回避している。
 3.1.不破哲三・ソ連・中国・北朝鮮-三つの覇権主義(新日本出版社、1992.11)、2.不破哲三・日本共産党に対する干渉と内通の記録-ソ連共産党秘密文書から/上・下(新日本出版社、1993.09)はいずれも、1991年12月のソ連解体と1994年7月の第20回党大会の間に書かれ、出版されている。
 注目されてよいのは、かなり分厚い上の2冊(または3冊)において、ソ連またはソ連共産党の覇権主義等々を厳しくかつ詳しく批判しながらも、ソ連は<社会主義国ではなかった>という旨の叙述は、いっさい存在しないことだ。
 かりにソ連解体後にソ連は<社会主義国ではなかった>と不破哲三または日本共産党がすでに?理解していたとすれば、上に述べたような叙述には決してならなかっただろうと思われる。
 上の1.の最初の大きなタイトルは、「ソ連共産党とたたかって三十年」だ。
 この30年とは1961年綱領・宮本賢治体制確立以降のことだと考えられるが、日本共産党・不破哲三の1994年7月第20回党大会以降の説明・主張によれば、1961年の時点でソ連はとっくに<社会主義への道>を踏み外し、<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている。にもかかわらず、ソ連は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっていた、そのような国家又はソ連共産党と「三十年」にわたって「たたかって」きた、というのならば、その旨がはっきりと叙述されているはずだろう。
 この点もまた、1991年12月と1994年7月の間、日本共産党はまだソ連を<社会主義国>と見ていた、あるいは少なくとも(下記の文献の一部も斟酌すれば)、ソ連共産党解散につづくソ連解体に遭遇して明瞭な見地に立ち得ず、<混乱していた>、ということの証左になる、と解される。
 4.1990年8月(日本共産党の第19回党大会の翌月)、ソ連共産党は解体した。
 日本共産党中央委員会常任幹部会は、1990年9月1日付で「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題する声明を発表した。同声明は述べる。以下、日本共産党中央委員会出版局・日本共産党国際問題重要論文集23(1992.01)、p.283~による。<後日6/15に訂正ー上に記した二箇所の1990年は、いずれも正しくは1991年>
 「ソ連共産党の解体は、…を直接の契機としたものであったが、長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたことは、これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。/〔改行〕
 「ソ連共産党が、スターリン・ブレジネフ時代から世界に及ぼしてきた大国主義、覇権主義の誤りが、二十世紀の世界史にもたらした重大な否定的影響は、はかりしれないものがあった。1940年の…、45年の…、56年の…、68年の…、79年のアフガニスタン侵略など、くりかえしおこなわれた野蛮な武力による民族自決権のじゅうりんは、ほんらい対外干渉と侵略には無縁である科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」。<以下、省略>
 引用終わり。
 上のうち、まず、ソ連共産党の罪悪として「科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」と(まず第一に、または基本的・総括的に)述べているにすぎないことが注目される。たんに「傷つけ」たにすぎず、「おおきな混乱」をもたらしたにすぎないのだ。
 つまりは、この声明の前提には、ソ連共産党も、(科学的)社会主義の理念を追求し、「平和と社会進歩のためのたたかい」をすべき政党だった、という見地があるものと理解して差し支えないだろう。
 したがってつぎに、この声明は(この時点ではまだ存在していた)ソ連邦は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている、という旨など、まったく述べていない、ということに注目しておかなければならない。
 1994年7月になってはじめて、上の旨を明確に述べたのだったから、上の点は当然かもしれない。しかし、ソ連共産党解体の時点で、ソ連を「(現存)社会主義国」の一つと見ていたことを、現在の日本共産党は正直に肯定しなければならない。
 なお、スターリン以後のソ連共産党およびソ連をどのように見ていたかということは、レーニンの時期との対比をどう説明していたかという、(ネップにもかかわる)第二の大きな論点に関係する。再び、上の叙述部分には言及することがあるだろう。
 5.<以下の叙述は、6/15に一部削除したうえでのもの>
 宮本顕治は、1991年1月1日付「赤旗」紙上で、年頭のインタビューに答えている。
 内容としてきわめて重大なのは、宮本のつぎの言葉だ。以下、宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997.11)p.7以下の「情勢と科学的社会主義の本道」による。上記の、日本共産党国際問題重要問題集23にも収録されている。「ソ連の事態」についての質問を受けて語る中で、こう言う。
 「…残念ながら、ソ連の出口を科学的に解決できる勢力はいまのところ見あたらない。われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思うし、現在の経済危機も乗りこえてほといと思うわけですが、しかし、根は深いということです」(p.14)。
 以上、引用終わり。
 宮本顕治は、ソ連共産党という政党とソ連という国家をおそらくは確実に区別して、ソ連については「失敗は希望しないし、なんとか…立ち直ってほしいと思う」と明言し、1991年元旦の党の機関紙上で公にしていたのだ。
 このような言い方が、ソ連はすでに<社会主義の道から踏み外した>、<社会主義国ではもはやない>という理解から生じるはずがない。
 宮本顕治自身が、この時点で、きちんとまだ?、ソ連を「社会主義国」の一つと見ていたのだ。だからこそ、正しい姿へと「立ち直ってほしい」と明言していたわけだ。
 ここには、日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如も、示されている。宮本は、ソ連が(あるいは社会主義・ロシアが)正式に崩壊することを、全く見通せていなかった、ということになるだろう。
 また、日本共産党の常任幹部会は1991年9月にソ連共産党の解体を「もろ手をあげて歓迎」したのだったが、その一員であったはずの宮本顕治は1991年1月には、「ソ連の失敗は希望しない」と、ソ連邦については明言していたのだ。
 ところで、現在の日本共産党、あるいは不破哲三らは、1991年9月の<ソ連共産党解体歓迎声明>をもって、同党は<ソ連解体も歓迎した>というつもりでいるようだ。そのような趣旨の不破哲三らの文章に出くわすこともある。
 しかし、上の宮本顕治の言葉の論理的な延長は、<ソ連は解体(失敗)してほしくなかった。ソ連解体は残念だ>ということになるはずだ。
 だがしかし、「ソ連解体にさいして」日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない。いったいどちらだったのだろう。
 日本共産党や同党幹部には知的または論理的な思考力や誠実さはまるでなく、もっぱら<政治的に>・<戦術的(・戦略的)に>、そのつど、無定見に、一見詳しくて、理論的?ふうの戯れ言を撒き散らしてきただけではないだろうか。
 -という、疑いをますます濃くさせる。
 もちろん、<ソ連と30年間にわたってたたかってきた>という言い分は、<大ペテン>だ。
 「社会主義国」ではないソ連や社会主義政党ではないソ連共産党と闘うのと、「社会主義国」の一つであるはずの、あるいは社会主義政党であるはずの、ソ連邦やソ連共産党と闘うのとでは、まるで意味が異なることは明白だろう。嗤ってしまう。

Hoover: Freedom Betrayed, p.878〔フーバー回顧録10〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 10
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章
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 p.878
 〔第七節〕 スターリンとの同盟
 第七。まさにアメリカの全歴史上の最大の正当な政治の喪失は、ヒトラーが1941年6月に侵撃したときに、共産主義ロシアと隠然たる同盟関係をもったこと、そしてそれ〔共産主義ロシア〕を支援したことであった。アメリカの軍事力はイギリスを救うために必要とされていたという誤った考え方ですら、今や明らかに消失してしまった。ナツィ(Nazi)の狂熱がロシアの沼地へと方向転換したことによって、何人もイギリスとすべての西側世界の安全をもはや疑うことはできなくなっていた。この怪物的な独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕は、どちらが勝とうと、互いに消耗させ合うことになるはずであった。ヒトラーが軍事的勝利を得たとしてすら、ヒトラーは数年間は、隷属状態の人々を保持しようと試みる窮地に陥っていたであろう。また、ロシアは、ヒトラーが望んでいたかもしれない、いかなる種類の軍需物をも破壊した違いなかった。彼〔ヒトラー?〕自身の将軍たちも、彼の行動に反対した。
 ロシアに対するアメリカの援助は、スターリンの勝利を、かつ共産主義の世界中への蔓延を意味した。正当な政治は再び、傍観するように、歯をくいしばって油断なく備えておくように、そして彼らの相互破壊を待つように求めて、切羽つまって泣き叫んでいたのである。そのような日がやって来たとすれば、アメリカ合衆国とイギリスには、自由主義の世界に真実の平和と安全保障とをもたらすために彼らの力を用いる機会が、存在したであろう。平和を永続させるためのこれほどに大きな機会は、ある大統領にはかつて来ていなかった。その人物〔ルーズベルト〕は、しくじった。(注.6)

 注6.…第33章参照。
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 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.97-98, p.255も参照。

日本共産党の大ウソ・大ペテン17

 今回は「休憩」して、若干のメモを残すにとどめる。
 1 不破哲三・レーニンと「資本論」7ー最後の三年間(新日本出版社、2001)p.90-196(とくにp.120-2)、レーニン全集第33巻(大月書店、1959/1978の26刷)のとくにp.79-109。この二つを比較・確認しつつ読んだ。
 不破、そして志位和夫、そして日本共産党の<大ウソ>・<大ペテン>は明らかだ。
 何回かあとに詳しく述べる予定だ。
 気になること。兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で、「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443で兵本は、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は「市場経済を通じて…」論に有利であるかにも見えるが、進んで引用・紹介しそうなものなのに、不破哲三の上掲書には引用・紹介されていない(と思われる)。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか。1922年秋の11月にはコミンテルン大会でのレーニン生前最後の演説があったりするが、稲子恒夫・ロシアの100年(既出)の年表類でも上の旨の発言・文章は確認できない。
 2 ソ連について触れようとしつつ、いつから「共産党」になったのか、ソ連はいつ結成されたのかと迷うことがある。つぎのようにメモしておく。
 ①「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボルシェヴィキ)」への名称変更-1918.03.
 ②「共産主義インターナショカル(コミンテルン)」<第三インター>結成大会-1919.03(→最後の第7回大会は1935.07-08)
 ③「ソヴィエト社会主義共和国連邦」結成-1922.12. 
 *1924.01、レーニン死去
 ④「ロシア共産党(ボ)」から「全連邦共産党(ボルシェヴィキ)」への改組-1925.12.
 3 日本共産党、不破哲三らの書いていること、主張していることは時期により大きくまたは微妙に異なっているので、いつの時期の文章か、とりわけいずれの綱領(改定)に関する報告等であるのか、に意識・留意しておかなければならない。以下もメモ。
 現在の日本共産党(宮本→不破→志位)は1961年綱領から出発していると理解しているので、それを含めてその後、以下の8つの綱領があったことになる。
   ①日本共産党1961年綱領 1961.07第08回党大会
   ②1973年、同・一部改定 1973.11第12回党大会
   ③1976年、同・一部改定 1976.07第13回臨時党大会
   ④1985年、同・一部改定 1985.11第17回党大会
   ⑤1994年、同・一部改定 1994.07第20回党大会
   ⑥ 2004年、同・全面改定 2004.01第23回党大会
   *④と⑤の間に<ソ連崩壊>があった。
以上。
 

日本共産党の「影響力工作」類型-佐々木太郎著。


 佐々木太郎・革命のインテリジェンス-ソ連の対外的「影響力」工作-(勁草書房、2016)の第4章は「仮説としてのソ連の『影響力行使者』の諸類型」というタイトルになっている。
 書名やこの表題に見られるようにソ連(・共産党)の対諸外国に対する「影響力」工作がテーマだが、相当程度に同様のことは自由主義(資本主義)諸国内にある共産党その他のコミュニズム政党の当該国内における「影響力」工作についても妥当する、と思われる。
 先だって江崎道朗論考に触れて、上の「諸類型」を挙げ、5つめの「デュープス」について江崎論考を引用して説明した。
 5つの類型とは、もともとはアメリカ・FBI元長官のE・フーバーによるもののようだが、①公然の党員、②非公然の党員、③「同伴者」、④「機会主義者」、⑤「デュープス(罪のない犠牲者)」をいう。
 これらの類型のうち、ほぼ意味が明らかな①と②(=AとB)以外について、E・フーバーを紹介・参照しての佐々木の説明を、さらに引用・紹介しておこう。その際、「影響力」工作・行使の主体として、日本共産党を想定した、引用・紹介になるかもしれない。
 C・「同伴者(Fellow Travelers)」
 フーバーによると、同伴者は「党員ではないが、ある期間において党の綱領を積極的に支持(同調)する」。「積極的に共産党に対して支援をおこなう非党員」のことだ。
 「シンパ」とは区別されるべきで、「シンパ」は「より消極的であり、特定の問題について党や党員に共感を示すが、積極的な支援をしたりしなかったりする」。同伴者よりも「より消極的あるいは限定的な支援をおこなう非党員」のことだ。
 佐々木は、この「同伴者」という語の経緯もふまえて、つぎのように定義する。
 「共産主義の大義や理想、あるいは共産党が示した特定の問題についての対応や解決策への強い共感から、共産党のための活動をする非共産党員」(p.104)。
トロツキーがこの語を使い始めたとされ、アーマンド・ハマー、アンドレ・ジッド、アインシュタイン、ロマン・ロラン、ハインリヒ・マン等々がその例とされるなど興味深いが、省略する。
 D・「機会主義者(Oppotunists)」
 同伴者と同じく非党員だが、同伴者と異なり、「共産主義や共産党の方針に対する共感から進んで同党のための仕事をする」のではない、また「デュープス」と異なり、「共産党のフロント組織が訴える普遍的な"正義" に対して共感を持つ」わけでもなく、「個人的な利益が増大する場合にのみ、共産党に接近する人々」のことをいう(p.111)。
 フーバーによると、「もし個人的に利益を得られるのであれば、意識的に党を支持し、代わりに支援や恩恵を受け取る」、「シニカルで利己的な」人々だ。
 再び佐々木の文章に戻ると、共産党はこの類型の人々に「強い警戒感」を持ちつつ、「戦略的な交際」を結ぶ。そして、<機会的>であっても、自らの力を行使して共産党の方針へと「世論や政策を誘導」するならば立派な「影響力行使者」の一類型になる。
 E・「デュープス」
 「騙されやすい人々」、つまり「カモ」で、フーバーは「罪もない犠牲者」(Innocent Victim)とも換言しつつ、「共産主義者の思想統制に知らず知らずのうちに従属して党の仕事をする個人」とも表現する、とされる。
 佐々木によれば、「明確な意思をもって共産党のための活動をする人々ではなく」、共産党という「政党やフロント組織が訴える普遍的な"正義" に対して情緒的な共感を抱き、知らず知らずのうちに共産党に利用されている人々」のことをいう。
 以上で引用・紹介を終える。
 すでに「デュープス」なるものについて触れたことがあるように、きわめて興味深い、有益な類型化だ。
 党員ではないが日本共産党(・候補)に選挙で投票している党員数の10倍以上の人々、日本共産党系の集会・デモに参加している人々、日本共産党の「フロント組織」・「大衆団体」または日本共産党系の「学会」・「研究者グループ」の構成員になっている人々…。これらの中に公然または非公然の党員も勿論いるだろうが、党員以外の者たちは、「同伴者」、「機会主義者」あるいは「デュープス」のいずれに該当するのだろうか。
 万々が一、この欄(あるいは佐々木・上掲著)に接することがあれば、自己分析してほしいものだ(「無意識」という「デュープス」概念の要素を充たさなくなるかもしれないが)。
 ところで、「機会主義者(Oppotunists)」のところで「個人的な利益」に言及があるが、「個人的利益」のために日本共産党に接近したり、ついには日本共産党員になったりする者が、とくに<(日本の人文・社会系の)学者・研究者>の中には少なからず存在するものと思われる。
 かつてこの欄で述べたことのある、<処世のための>あるいは<出世のための>「左翼」人士化、そして日本共産党の党員化だ。
 上掲の佐々木著には、また言及することがあるだろう。

日本共産党の大ペテン・大ウソ16

 二(つづき)
 E・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)には、ネップ(新経済政策)とその時期について、次のような叙述もある。抜粋的に紹介・引用する。
 ・ネップが目指した「農民との結合」の必要性を疑う者は数年間は稀で、1921-22年の「悲惨な飢餓」ののちの農業の回復等によりネップの正当性は立証された。しかし、危機が去って「戦時共産主義」の窮乏が忘れられてくると、「社会主義」からの徹底的な離脱への不安感が生じた。結局「誰かが」農民への譲歩の「犠牲を払った」のであり、「ネップの直接、間接の帰結のあるものは、予期も歓迎もされない」ものだった。2年以内に、新たな危機が生じ、農業以外の全経済部門に影響を与えた。(p.70)
 ・工業への影響は「主として消極的」だった。重要な修正はあったが、レーニンのいう「管制高地」である大規模工業は「国家の手に残った」。
 ・ネップ導入後、想定された現物的商品交換は売買に変化したため、商業過程への「公的統制」が図られた。それはむしろ「ネップマン」=新商人階級の活動を容易にし、小売商業が活発になり、「繁栄の空気が資本の裕福な方面」に戻ってきた、ネップの受益者には、「未来はバラ色」に見えた。(以上、p.71-73)
 ・しかし、「ネップのより深い含意が、相互に関連する危機」を伴って現れた。最初は、狂気じみた価格変動による「価格危機」だった。農産物価格の高騰・工業製品価格の下落は「労働の危機を招来」し「失業」を生んだ。雇用者は労働者に現金支払いではなく「現物支給」をした。
 ・労働組合と雇用者又は経済管理者の間の交渉で紛争解決が図られたが、労働者の不満は「赤い経営者」=かつてのツァーリの将校あるいはかつての工場経営者・工場所有者に向けられた。彼らは高い給料をもらい、工業経営・政策への発言権も持ち始めた。彼らへの非難は、<革命>とは逆転した状況への「嫉妬と憤慨の徴候」だった。(以上、p.74-77)
 ・「失業の到来」は労働者に、「ネップ経済におけるその低下した地位を最も強く意識させた」。ネップは農民を厄災から救ったが、「工業と労働市場」は「混沌寸前の状況」だった。「革命の英雄的旗手たるプロレタリアートは、内戦と産業混乱の衝撃の下で、離散、解体、極端な数的減少」を被っていた。「工業労働者はネップの継子になっていた」。
 ・「金融上」の危機が別の側面だった。ルーブリの価値が急落したため、1921年末の党協議会決定により「金ルーブリ」を貨幣単位とする紙幣等が発行されたものの、実際上の効果は少なかった。こうした状況の結果として、1923年に「大きな経済危機」が起き、労働者の不満は同年の「夏から冬に、不穏な状態とストライキの波をひきおこした」。(以上、p.77-79)
 まだ叙述は続いていくが、このくらいにしよう。
 1923.03.03-レーニン、3度目の脳梗塞により言語能力を失う。
 1924.01.21-レーニン死去。
 省略しつつも、かつ上の部分以降には全く言及しないものの、かなり長く引用・紹介したのは、日本共産党は、レーニンが「ネップ(新経済政策)」導入を通じて、「市場経済を通じて社会主義へ」という<新しく正しい>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と理解しているからだ。
 また、既に紹介のとおり、志位和夫は、1921年10月のレーニン報告は「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった、「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した、「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方」は、「画期的な新しい領域への理論的発展」で、レーニンが「情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ、などと書いているからだ。
 志位和夫がエピゴーネンとして依拠している不破哲三の本も一瞥しているが、いわゆる戦時共産主義とレーニンの死の間の時期、ネップ期とも言われることもある時期・時代の歴史は、上のコンパクトなカーの書物においてもすでに明らかなように、日本共産党や志位和夫・不破哲三が描くような単純なものではない。
 また、個人、例えばレーニンが「頭の中」で考えて手紙等で記したことと、党の会議での発言内容(・提出文書)と、そして党(ボルシェヴィキ)の公式・正式決定として承認されたもの(レーニンの原案であれ)は、党にとってもロシアにとっても意味は同じではないと思われ、それぞれ区別しておく必要があると思われる。
 上の点での厳密な史料処理はなされていないと思われるし、また、「観念」・「意識」と「現実」は違うはずだ、という基本的な点が日本共産党、不破哲三らにおいてどう理解され、方法論的に処理されているのかについても疑問がある。
 つまり、いくら<考え>あるいは<党決定>がかりに適切な(正しい)ものであったとしても、<現実>とは異なるのであり、前者に応じて後者も変わったということを、別途叙述または論証する必要があるだろう。
 不破哲三らはレーニンが何と言ったか、書いたかの細かな(文献学的な)詮索をしているが、かつての、1920年くらいから1924年くらいまでの現実の具体的な歴史の変遷を細かく確認する作業は怠っているように見える。
 そして、レーニンの生前と死後とで政策方針と現実が質的に大きく変わったかのごとき単純化は、誤っている、とほとんど断じてよいものと思われる。なお、レーニン生前の、「革命」後の党決定等には、スターリンも党幹部として関与している。
 三 ネップ期に限っても別の文献を紹介することはできるが、当然のことだが、ネップ期の前や10月「社会主義革命」まで(さらには2月「ブルジョワ革命」まで?)遡らないと、レーニンとロシア(・ソ連)についての理解は困難だ。
 今のところ所持している関係文献に、以下がある。すでに言及しているものも含む。
 ①稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)。
 ②D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/上・下(1995、日本放送出版協会)。
 ③M・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991/上・下(1997、草思社)
 ④R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(2000、成文社)。
 ⑤クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇(2001、恵雅堂出版/文庫版もある)。
 ⑥E・H・カー・ボリシェヴィキ革命1~3(1967・1967・1971、みすず書房)。
 ⑦E・H・カー(塩川伸明訳)・ロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年(1979、岩波現代新書)。
 カーの書物はソ連解体前のもので、それ以降に明らかになった史料は使われていない。
 カーは、「ソ連型社会主義」が<失敗>したと理解したとすれば、その原因をスターリンに求めるのだろうか、「革命」後のレーニンに求めるのだろうか、それとも「ロシア革命」自体に求めるだろうか、あるいはマルクス自体に?
 上の諸文献を利用しつつ、さらに、レーニンとスターリンの異同をめぐる日本共産党の<大ペテン>・<大ウソ>に論及していくこととする。

日本共産党等の「赤色ファシスト」運動-2011年の高本茂著。

 高本茂・忘れられた革命-1917年(幻冬舎、2011)という書物がある。
 ロシア革命の詳細に関心をもっているうちに購入したのだが、著者(1947~、現か元か大学教授)はどうやら大学生時代にいわゆる反日共系・「新左翼」の学生運動をしたらしい。しかし、60歳を過ぎて、以下に紹介するような心境に達しているらしい。
運動をやめてからも「ロシア革命においてボルシェビキが果たした役割は偉大だった」という「幻想にとらわれ続けてきた」が、「ロシア革命の真相」が明らかになるにつれ、それについての自分の知見を埋もれさせたくなくなってきた、と言う(p.115)。
 その結論は、ロシア革命、さらにはマルクス主義自体に対する消極的評価だ。以下、しばらく引用する。
 「マルキシズムはその内部から必然的にボルシェヴィズムを生み出し、ボルシェヴィズムはその内部から必然的にスターリニズムを生み出すのである。その意味でマルクス・レーニン主義を旗印にした戦後日本の学生運動(日共=民青はもとより、中核派、革マル派、その他新左翼諸派)は皆赤色ファシスト運動だったのだ(〔略〕)。〔/改行〕
 では、闘争の渦中で死んでいった者たちは何のために死んでいったのか。私は彼らの一人ひとりが、ツァーリの圧政やボルシェヴィキの欺瞞に対して決起した幾千幾万の無名の民衆と同様に、純粋で心優しい心情の持ち主だったと確信する。だが、…ロシア10月革命が、当初から裏切られ変質させられていたのだとすれば、自らの生死を賭けた闘争は、…、世界全体を強制収容所や暗黒の牢獄と化し、全人類を奴隷化するための運動だったということになり、…、全くの無駄死、犬死だったということになるではないか。真夜中や夜明けにふと目を覚まし、こうした物思いにふける時、そのまま一睡も出来ぬ日が今でもよくある。こうした慚愧の想いや悲憤の念を押し潰して、時間の歯車は無慈悲に過ぎ去っていくのであろうか…。〔一文略〕」(p.117-8)
 高野悦子や奥浩平の自死もそうだが、何とも痛ましい。いや、高野や奥は<社会主義>の理想に賭けたことへの「慚愧の想いや悲憤の念」に駆られたのではなかっただろう。生きて、かつての青春の何年かであれ無為に(あるいは逆に人類には加害的に)過ごしてしまった、という感慨に浸らざるをえないことの方が、痛ましいかもしれない。
 それにしても、マルクス主義・共産主義によって、いったい何億何千万の人々が、せっかくの一度きりの人生を無駄にし、あるいは殺害されたりしていったのだろうか。歴史の現実は、苛酷だ。
 ロシア革命やレーニンについては最近この欄に記載しているところであるので、あえて立ちいらない。上の文章が、レーニンとスターリンの区別をせず「ボルシェヴィキ」で括っていることは明らかだ。ロシア革命は「当初から裏切られ変質させられていたのだとすれば、…」と書いてもいる。
 日本共産党の党員の中にも「左翼」の中にも、「純粋で心優しい心情の持ち主」はいるのだろう(すべてがそうだとは秋月には思えないが)。そのような人々を巻き込んでしまう<赤色ファシスト>運動とは怖ろしいものだ。
 「左翼ファシズム」という言葉はこの欄でも使ってきたが、「赤色ファシズム(ファシスト)」という語は、初めて見たような気がする。

資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(2)

 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (2)
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 〔09〕
 かくの如き形勢より推して考うるに、「ソ」連は、やがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ侯。(即ち共産党の公認、「ドゴール」政府、「バドリオ」政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び、防共協定の廃止等)
 〔10〕
 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之侯。
 即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵慨心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座侯。
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に御座候。
 〔11〕
 少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存侯。
 皇族方の中にも、 此の主張に耳を傾けられるる方あり、と仄聞致し侯。
 職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産主義主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て、 彼等を引きずらんとしつつあるものに御座侯。
 抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是ら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。
 満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。
 支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯。
 〔12〕
 是ら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、 意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存侯。
 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到違したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座侯。
 不肖は、此の間三度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんがため、出来得るだけ是ら革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座侯。
 〔13〕
 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢を加えつつありと存侯。
 かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目釣を達せんとする共産主義分子なりと睨み居り候。
 一方に於て徹底的米英撃滅を唱う反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座侯。
 軍部の一部はいかなる犠牲を払いても「ソ」連と手を握るべしとさえ論ずる者もあり、又延安との提携を考え居る者もありとのごとに御座侯。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべき凡ゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならばこの形勢は急速に進展致すべくと存侯。
 〔14〕
 戦局の前途につき、何か一縷でも打開の望みありと云うならば、格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之れ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存侯。
 随って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信致し侯。
 〔15〕
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。
 彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗致すべき者と存ぜられ侯。
 もしこの一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有り侯。
 従って、戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座侯。
 此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むべく候。
 蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるが故に、其の本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものとなりと存侯。
 〔16〕
 尚、これは少々希望的観測かは知れず侯えども、もし是ら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気は緩和するに非ざるか。
 元来米英及び重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改らぱ、彼等としても戦争の継続につき考慮する様になりはせずやと思われ侯。
 〔17〕
 それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提、先決条件と存すれば、非常の御勇断をこそ願わしく奉り存侯。
 以上。
 -------------
 以上

資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(1)

 いわゆる<近衛上奏文>は秦郁彦も重きを置いておらず、「陰謀史観」を示す一つとして取り扱われている。
 しかし、数十年後には、異なる評価がなされることもありうるのではないか。
 もちろん、近衛文麿自身に変化がありえただろうことを意識しなければならないと思われる。
 以下、読みやすくするために、一文ごとに改行した。
 また、本来の改行場所との間の一段落を、山口富永・近衛上奏文と皇道派-告発・コミンテルンの戦争責任-(2010、国民新聞社)所収の資料を参考にして、〔01〕、〔02〕のような頭書を付した。
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 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (1)
 〔01〕
 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯。
 以下此の前提の下に申述べ侯、
 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て、敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存ず。
 国体護持の建前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座侯。
 〔02〕
 つらつら思うに、我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。
 即ち国外に於ては、「ソ」連の異常なる進出に御座侯。
 我国民は「ソ」連の意図は的確に把握し居らず、 かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる見方と存侯。
 「ソ」連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座侯。
 〔03〕
 ソ連は欧州に於て其の局辺諸国には「ソヴィエート」的政権を、爾余の諸国には少くとも親「ソ」容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之侯。
 〔04〕
 「ユーゴー」の「チトー」政権は、その最も典型的な具体表現に御座侯。
 波蘭〔ポーランド〕に対しては、 予め「ソ」連内に準備せる波蘭愛国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申し侯が、羅馬尼〔ルーマニア〕、勃牙利〔ブルガリア〕、芬蘭〔フィンランド〕に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつ「ヒットラー」支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエート」政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致し侯。
 〔05〕
  「イラン」に対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致し侯。
 端西〔スウェーデン〕が「ソ」連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は端西政権を以て、親枢軸的なりとて一蹴し、之がため外相の辞職を余儀なくせしめ侯。
 〔06〕
 占頷下の仏蘭西〔フランス〕、白耳義〔ベルギー〕、和蘭〔オランダ〕に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる斗争が続けられ、且つ是ら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり。
 而して是ら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座侯。
 独逸〔ドイツ〕に対しては波蘭に於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ侯。
 〔07〕
 「ソ」連はかくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の足場を取るも、事実に於ては、極度の内政干渉をなし、国内政治を親「ソ」的方向に引きずらんと致し居り候。
 〔08〕
 「ソ」連の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安には「モスコー」より来れる岡野〔野坂参三〕を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。
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 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ15

 一 ネップ(新経済政策)の問題は、現在の日本共産党綱領の正当性にもかかわるじつに微妙な?問題だ。
 現2004年(23回党大会)綱領はつぎのように書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 上の第一の観点から、現在の中国(シナ)とベトナムの両「社会主義」国の歩みは日本共産党によって正当化され、また第二点のように、日本共産党自身も「市場経済を通じて社会主義に進む」と明言している。
 しかして、この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告にも、-「ネップ(新経済政策)」への言及はあるが-このような定式化は見られない。
 そして重要なのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、いや端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした(この「正しい」路線をスターリンが覆した)、と日本共産党は理解していることだ。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013、新日本出版社)によれば、こうだ。
 1921年10月のレーニン報告は、「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった。「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した。レーニンの主張には反対もあったが、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかに」した。
 「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方は、…、画期的な新しい領域への理論的発展」で、「レーニンが、…、情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ。(以上、p.178-9)
 志位はこの考え方を「マルクス、エンゲルスの理論にもなかった新しい考え方」だとしている(p.179)。不破哲三の文献で確認しないが、志位和夫は「不破さんの研究に依拠しつつ」説明すると明記しているので(p.176)、不破哲三においても同じ理解がされているのだろう。
 そうだとすると、「マルクス、エンゲルスの理論」の「画期的な新しい領域への理論的発展」であるよりむしろ、マルクス主義からの<逸脱>ではないか、という気がしないでもない。<マルクス・レーニン主義>とは言うが、レーニンはマルクス主義から逸脱していたのではないのか。とすれば(マルクスを基準にすれば)、レーニンがすでに「誤って」いたのではないいか(とすれば、日本共産党1922年創立自体も、正しい科学的社会主義理論?からの逸脱の所産ではないか)。
 だが、そこまで問題にするのは避けて、レーニンは<正しく、ネップ路線を導入した>のかに焦点をあてよう。これが日本共産党の主張するようなものでなければ、それは現日本共産党の綱領の正当性、および同党の現在の存在意義そのものにかかわることは、変わりはない。
 二 ネップについてはすでに言及してきており、稲子恒夫の認識も、その一部は紹介している。
 上記の志位和夫の著はE・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ、1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)に肯定的に言及しているが、同じカーの書物のレーニンとネップとの関係についての部分は、次のようなものだ。
 ・「戦時共産主義」の評価の差異は「ネップ」の評価にも反映し始めた。1921年3月の危機的状況の中で「戦時共産主義のより極端な政策からネップへの転換」が満場一致で受け入れられたときでも「分岐は棚上げされた」のであり、全面的「和解」はなかった。//
 ・「戦時共産主義が社会主義に向かう前進としてではなく、軍事的必要に迫られた逸脱、内戦の非常事態に対するやむをえざる対応として考えられる限り、ネップは強要されたものではあるが遺憾な脱線からの撤退であり、…より安全でより慎重な道への回帰であった」。//
 ・「戦時共産主義が社会主義のより高度な点への過度に熱狂的な突進-確かに時期尚早ではあったが、それ以外の点では正しかった-として扱われる限り、ネップは、当面保持するのが不可能だとわかった地歩からの一時的撤退であり、その地歩は早晩奪還されるべきものであった。レーニンが-彼の立場は必ずしも一貫してはいなかったが-、ネップを『敗北』、『新たな攻撃のための撤退』と呼んだのは、この意味においてであった。」//
 ・「第10回党協議会においてレーニンが、ネップは『真剣かつ長期にわたって』意図されていると言ったとき(だが、質問に答えて、25年という見積りは『あまりに悲観的』であると付けたした)、ネップは戦時共産主義という過誤の望ましくかつ必要な修正であるとの見解と、ネップ自身が将来修正され、とって代わられるべきものであるとの見解の両方に言質を与えたのである。」//
 ・「第一の見解の言外の前提は、後進的農民経済と農民心理を勘案することが実際に必要であるという点であった。第二の見解のそれは、工業を建設し、革命の主要な拠点をなしている工業労働者の地位をこれ以上悪化させないことが必要だということであった。」//
 ・1920-21年の難局の解消への感謝で当面は覆われていた「分岐は、2年後の更なる経済危機と党内危機の中で再び現れるのである。」/
 以上、p.52-53。//は原文では改行ではない。
 E・H・カーの1979年の本ではまだ見逃されたままの資料・史料があったかもしれない。だが、それにもかかわらず、上の叙述を読んだだけでも(他にもネップ言及部分はある)、主として農業・対農民政策をとってみるだけでも、レーニン時代とスターリン時代とに大別する発想をすることは、複雑な歴史を(都合のよいように?)単純化するものではないだろうか、という疑問が生じる。
 <つづく>
 

Hoover: Freedom Betrayed, p.877〔フーバー回顧録09〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 09
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.877
 〔第四節〕 一九三九年にイギリス・フランスがポーランドとルーマニアを保証したこと
 第四。正当な政治の第四の深刻な喪失は、イギリスとフランスが一九三九年の三月にポーランドとルーマニアの独立を保証(garantee)したときになされた。まさにそのとき、欧州の民主主義諸国は、ヒトラーとスターリンの間の不可避の戦争から手を引くという従来の政策を変更したのであった。
 このことは、欧州の勢力外交の全歴史のうちで、おそらくは最大の過ちであった。イギリスとフランスは、ポーランドを侵略から救い出す力を持っていなかった。しかし、この行為〔独立の保証〕によって、彼らは民主主義の政体〔ポーランド・ルーマニア〕をヒトラーとスターリンの間に投げ込んだ。彼らのこの行為によって、彼らはスターリンをヒトラーから守っただけではなく、スターリンに自らの影響力を最も高価な買い手に売ることができるようにした。(イギリスとフランスという)同盟国は入札したが、スターリンが示したのは、よるべない人々が住むバルト諸国および東部ポーランドの併合という、同盟国がとても応じることのできない人道的な対価であった。スターリンは、ヒトラーからその対価を獲得したのである〔=ヒトラーが入札に勝ったのである〕。
だがヒトラーは、南東ヨーロッパにまで膨張し、モスクワの共産主義者の聖地(Vatican)を破壊するという決心を放棄するつもりはまったくなかった。しかし今は、ヒトラーはやむなくも、まずは西側民主主義諸国を無力化しなければならない、そしてそのように進め始めた。
 おぞましい第二次世界大戦の長い連鎖〔列車〕は、ポーランドの保証というこの過ちから出発した。ルーズベルトはこうした勢力外交にいくばくか参加していた。しかし、それがどの程度であったかを測定するには、諸記録文書があまりに不完全すぎる。チャーチルは、まだ政権に入っていなかったが、ミュンヘンでの宥和(-政策)のあとの絶望的な行為へとチェンバレンを駆り立てることによって、何がしかの寄与をなした。(注3.)

 注3…第18章、第19章、第27章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.88-91, p.253-4.も参照。

日本共産党の大ペテン・大ウソ14

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
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 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ13-稲子恒夫は批判する②

 二(つづき)
 稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)より。
 <スターリン主義の起源>との見出し-
 ・「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…、スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた。//
 レーニンが『共産主義の左翼小児病』で認めたようにロシアを実際に統治していたのは、共産党中央委員会政治局という小さい寡頭集団だったし、彼は独裁が個人独裁を生む危険についても警告していた。//
 レーニンは首相を兼ね、常時クレムリンにいたから、政治局内で単なる同輩中の第一人者ではなかった。レーニンの党は彼を中心に高度に中央集権的に組織されていた。この状況は党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛を生み出していた。//
 スターリンは書記長、組織局員として党中央の実務と中央地方の党組織をにぎるから、党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝を生みだして、レーニンの後継者である自分の大売り出しに成功した。」/〔改行〕
 以上、上掲書p.1009。//は原文では改行ではない。
 以下、簡単なコメント。
 <レーニンは正しく、スターリンが道を誤った>という理解はまったく示されていない。端的に抜き出せば、「スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた」とされる(p.1009)。また、レーニン時代にすでに「党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛」があり、スターリンはさらに「党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝」を生んで、自分のために利用した、とされる。
 とすれば、以上のかぎりでは、レーニンもスターリンもほとんど変わりはないのではないか。
 また、これまでこの欄ではほとんど言及していない論点だが、レーニンは<ネップ>に積極的ではなかった、という重要なことが指摘されている(p.1008)。
 この点は、また別に論及するが、レーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>という「正しい」道を歩んでいたにもかかわらず、スターリンがこれを覆したとする、現在の日本共産党の公的な歴史理解と真っ向から対立するものであり、日本共産党の歴史理解を大きく疑問視させるものだ。
 少なくとも、ロシア・ソ連に関する専門家・学者たちのすべてが現在の日本共産党のように理解しているわけではない。日本共産党、不破哲三の主張・理解も、あくまで一つの「説」にすぎない。
 稲子恒夫は、上掲書の「はしがき」で、つぎのような旨を語っている。
 ソ連の末期にはスターリン時代の多くのことが明らかになったが、「レーニン時代はまだ霧につつまれていた」。1991年以降にレーニン時代を含む極秘文書を含む資料が多数出るようになった。(はしがきp.3-4)
 そして、つぎのように続ける。
 「公開の文書のなかには、レーニンの意外な真実を伝えるものがあり、レーニンは基本的に正しかったが、スターリンは重大な誤りをおかしたというたぐいの、レーニン論の根本的な見直しが必要になった」。(はしがきp.4)
 不破哲三は、「科学」と「真実」を追求するのならば、<スターリン秘史>だけではなく、<レーニン秘史>もまた著すべきだろう。
 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ12-稲子恒夫は批判する①

 一 最初に設定した疑問の第二は、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=『社会主義』、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、というものだった。最後の<それ>にかかわる論点には、既に長らく言及した。
 さて、現在の2004年綱領は、レーニンとスターリンについてつぎのように明記している。「世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中で書かれている。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」 
 この綱領以前の段階で、1980年代後半には、レーニンの時期とスターリン(以降)の時期を区別する必要が、不破哲三らによって(そして日本共産党によって)語られてきた。
 「少なくない試行錯誤をともないながら」という限定はついているが、二つの時期を大きく簡単に区別することができるのか。
 この問題は<正・邪>の論評・評価にかかわるので、単純な<事実>認識の問題ではない。しかし、上のようにソ連の歴史を単純化できるのか、<ロシア革命>自体について、あるいは<新経済政策(ネップ)>等々について、これら等々とレーニンやスターリン等との関係について、種々の議論・歴史学上の検討成果がありうる。
 ロシア社会主義革命とレーニンを否定するということは、日本共産党を否定することに等しい。
 なぜなら、日本共産党は1922年に、ロシア「社会主義革命」を達成したボルシェビキ、のちのソ連共産党が中心として1921年に結成したコミンテルン(国際共産党、第三インター)の日本支部として創立されたからだ。
 日本共産党自体が、ロシア革命がなくコミンテルンもなければ、産まれていないのだ。 日本共産党が「共産党」と名乗り、創立年を(例えば1961年ではなく)1922年とするかぎり、ロシア「社会主義革命」と(かつての、少なくとも1922-35年の間の、コミンテルンの存在の正当性を絶対に否認することができない、という宿命にある。
 そして、ロシア「社会主義革命」とコミンテルン結成に主導的役割を果たしたのはレーニンだから、日本共産党はレーニンを(いまこの政党がスターリンについて行なっているようには)批判し否定することが絶対にできない。
 そのような日本共産党がレーニンとスターリンについて上のように現在主張している(認識している?)のは、そもそも身勝手な主張ではないのだろうか?
 ソ連の政治、法制、社会、歴史の専門家ではない秋月が、レーニン研究もスターリン研究も適切に行えるわけではないことは当然だ。
 しかし、いま日本共産党の主張しているように単純には言えないのではないか、と疑問視することはできるし、日本共産党が主張しているようには理解してはいないソ連(・ロシア)に関する学者・研究者もいる、という程度の指摘・紹介くらいはすることができる。そして、次のようにも言えるだろう。日本共産党は<大ウソ>をついているのではないか、と。
 二 さっそく、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)のうち、編著者自身の分析結果を示す文章の一部を引用・紹介する。
 稲子は、「日本共産党」と名指しはしないが、この党の「説」をこの著で批判していることが明らかだ。
 <レーニンの真実>との見出し-
 ・「スターリンの国家万能とレーニン無関係説は…、レーニンの革命前後の主張と『ウラーの国有化』とその結果の経済の混乱の実際にふれないで、彼〔レーニン〕の功績をもっぱら市場経済移行の新経済政策(ネップ)の開始から始める。//
 しかし、…というネップは…、クロンシュタートの反乱、エスエルが主張していたことであり、レーニンは乗り気でなかった。//
 しかも彼〔レーニン〕は生前最後の22.11.20の演説でネップを『後退のゼスチャー』と言い、新たな飛躍を宣言した。//
 このネップの中止を呼びかける演説は『レーニン全集』に新聞報道による要旨だけが載っており、全文はやっと1995年の…に公表された。//
 ネップは党の戦術(長期政策)ではなく、当面の戦略だからあいまいだった。」/〔改行〕
 ・「そのうえネップには政治の改革がなかった。//
 ネップとレーニン礼賛者はこの時期の…、報道の自由、出版の自由など政治的自由の否定、検閲の確立、教会の弾圧、多数の知識人の国外追放など、ネップにともなうプロレタリアート独裁の制度化にふれない。」/〔改行〕
 ・「さらにネップ時代の広範な政治犯罪と類推適用を認めた1922年刑法典へのレーニンの関与、流刑の復活、法律によらない都市からのネップの湯あか(ネップマン)の追放、彼らの財産没収というレーニンのいう経済的テロも無視できないだろう。」/〔改行〕
以上、稲子・上掲示書p.1008-9. //は原文では改行ではない。
 <稲子編著も含めて、つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ11

 一 日本共産党は、ソ連の解体まで、1980年代後半にも複数回、ソ連またはソ連共産党を訪問していた。
 1987年は1917年10月「社会主義」革命70周年だったので、11月初旬のモスクワでの記念行事に出席し、記念集会で当時の書記局長・金子満広がメッセージを読み上げている(日本共産党の70年/党史年表(日本共産党中央委員会)による)。
 また、その前の10月に「日ソ両党関係を素描する-10月革命70周年」という論文を発表して10/22付けの機関紙・赤旗に掲載している。
 黒坂真「『構造改革論』と不破哲三」幻想と批評第8号(2008.04、はる書房)p.44-45によると、その内容の一部はつぎのとおり。
 ・「われわれはまた、十月革命70周年にあたり、70年前に遅れた資本主義国から出発した社会主義のソ連が、人民の生活、教育、医療などの分野で今日まで築きあげてきた大きな成果を土台に、政治的経済的文化的にいっそう前進、発展することへの期待を表明する。」
 ・「おおざっぱではあるが、これまでたどってきたように、65年間の日ソ両党間の関係のうち、主要な部分は友好と協力の関係である。」
 ソ連正式崩壊のわずか4年前にこのように語っていたことを、憶えておく必要がある。
 こう書いた7年足らずのちには、ソ連は「社会主義」国では全くなかった、と評価が反対になったのだった。そして、現在、スターリン下のソ連に対して、日本共産党はさんざんの悪罵を投げつけている。
 1922年日本共産党設立、1991年ソ連共産党解体だから「交流」期間はほぼ70年だが、1935-45年の10年は日本共産党としての活動はないから、実質はほぼ60年になる。
 上では「主要な部分は友好と協力の関係」だという。しかし、今日の日本共産党の見方では1936-37年にはソ連はすでに「社会主義」国ではなくなり、スターリンの継承者たちの指導下のソ連もそうだったとされているので、良好な関係というのは、じつは、1922-35年の10数年間にすぎない。65年のうち約14年間では「主要な部分は友好と協力の関係」だったとはとても言えないだろう。
 1994年7月20回党大会以前の日本共産党の文献のうちソ連関係部分はどのように訂正・修正・是正・削除することになるのか、現在の日本共産党には一覧表を作ってもらいたいものだ。
 二 1994年7月20回党大会の前に開かれた、19回大会第11回中央委員会総会で、予定の20回大会について不破哲三は、つぎのような「幹部会報告」を行なった(1994年3月、19回大会中央委員会総会決定集/下による)。
 「〔予定している〕綱領・規約の一部改定の趣旨について若干のべますと、党綱領の基本路線の正しさはもこの33年の歴史の検証を経て、いよいよ鮮明であります。…。さらに、85年の一部改定のさいには、覇権主義の歴史的克服を綱領的任務として規定しました。ソ連の解体は、この規定の先駆的な意義をあきらかにしました。/〔改行〕
 このように、綱領の基本路線の正しさは明白でありますが、…、今回の一部改定では、ソ連覇権主義の解体が現実のものとなった情勢のもとで、世界情勢の叙述をそれにふさわしく改定することを主眼にしたいと思います」。
 おそらくはすでに、綱領改定案はほとんど作成されていて、ソ連は「社会主義」国ではなかった、ソ連等の崩壊は「資本主義の優位を示すものではない」等の新綱領や不破報告は用意されていたのだろう。
 だが、ともあれ、ソ連の覇権主義批判の「先駆的な意義」が「ソ連の解体」によって明らかになったとは、何という倒錯であり、何という<大ペテン>だろう。
 本来、ソ連が覇権主義の誤りを<社会主義の復元力>でもって是正し<正しい社会主義>の路線に戻ることこそ、日本共産党は期待していたはずなのだ。それとは逆の事態が現実には生じたことについて、覇権主義批判は正しかったと喜んでいるのが、上の不破哲三の言葉だ。
 また、上では「ソ連覇権主義の解体が現実のものとなった情勢のもとで、世界情勢の叙述をそれにふさわしく改定する」と述べているが、実際に行なったことは「ソ連の解体」をふまえての、ソ連に関係する部分の「歴史」の修正、日本共産党にとって都合が悪くなった部分の削除や訂正に他ならない。もっとも、20回大会での改定だけでは不十分だと考えられたようで、その後も、とくにソ連関係部分の「歴史」の修正が綱領改定によりなされていった。
 不破哲三が、そして日本共産党が<反省>らしき言辞を全く述べなかったわけではないが、それは到底「自己批判」・「詫び」と言えるものではないことは、すでにこの欄で述べた。
 ところで、興味深いのは1991年末のソ連正式解体後の日本共産党幹部会メンバーたちの議論の中身だ。ソ連存在中の綱領や不破哲三報告等々が問題にされたに違いない。そして、ソ連が存在しなくなった新情勢にどのように<さりげなく、連続性があるように>綱領や報告を変えていくかが、おそらくは当時の幹部会委員長・不破哲三を中心に議論されたに違いない。
 幹部会委員の議論によったのか、それとも常任幹部会委員だけの議論と案作りだったのか、よくは分からない。明確なのはたぶん、少なくともこの時期は筆坂秀世や兵本達吉は幹部会メンバーではないので、元党員であっても、この辺りの事情にさほど詳しくはない、ということだろう。

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ10

 「共産主義読本」編集委員会編・共産主義読本(1966.12)という本がかつて刊行されていた。編者名だけでは明確でないが、奥付では、日本共産党中央委員会出版部発行で、日本共産党中央委員会機関紙経営局が発売元とされているので、少なくとも当時の、日本共産党の公式見解・主張が語られている、と理解してよい。
この本のp.327-8は、「社会主義社会」とは~ですという説明のあと、次のように述べる。
 「このような社会主義社会は、ロシアにおける1917年の十月社会主義革命の勝利のあと、長期にわたる闘争の結果、1936年ごろにソ連邦で基本的に実現されました。//
 その後、第二次世界大戦の末期から終戦後数年にかけての激動の時期に、チェコスロバキア、ポーランド、アルバニア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ドイツ民主共和国、中国、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナム民主共和国およびキューバが資本主義世界体制から離脱して、社会主義建設の道にのりだしました。//
 これらの国のほかに、すでに第一次大戦後まもなく資本主義的発展の道をとおって社会主義社会をうちたてつつあったモンゴル人民共和国をくわえると、すでに基本的に社会主義を建設した国、および社会主義を建設しつつある国は、こんにちでは一三カ国をかぞうます。//
 つまり、いまではもう世界人口の三分の一以上をしめる9億50万人以上の人びとが、社会主義の道にふみだして新しい生活をきずきはじめているわけです。//
 いまでは資本主義世界体制とならんで、強大な社会主義世界体制が存在します。」
 以上。//は、原文では改行ではない。
 なかなか感慨、あるいは興趣?を覚える文章だ。こうした文章をたぶん1980年代までは、日本共産党は書いていたのだろう。
 上のうち、ソ連は「1936年ごろ」に「社会主義社会」が「基本的に実現」されていたという記述に、第一に驚かされる。
 一つは「1936年ごろ」という時期の特定だ。
 別により詳しく言及したいが、今日の日本共産党は、「1930年代」(の半ば)にスターリン指導のソ連は「社会主義」の道を踏み外した=「社会主義」とは縁もゆかりもない社会に変質した旨を言って(主張して?、理解して?)いるので、まったく真逆に、この1930年代半ば頃に「社会主義社会」が「基本的に実現」されていたと、1966年の時点では言って(主張して?、理解して?)いたわけだ。
 コメントの二つめに、とりあえず文献は省略するが、その後の日本共産党が社会主義化が「基本的に実現」されたなどとは言わず、<まだ生成期の(生成途上の)>「社会主義国」と言ってきたことを承知している。
 この点でも、日本共産党は<歴史認識>を変えている。1994年7月以降は、「社会主義」国でもなかった、と言っているのだが。
 第二に、いわゆる東欧の7国を「社会主義建設の道にのりだし」た国々と理解している。
 これらはすべて、今日ではいかなる意味でも「社会主義」国ではなくなった。
 1966年当時の真面目な日本共産党員、真面目な共産党シンパは、この「現実」をどう受けとめたのだろう。
 第三に、この当時、モンゴルや北朝鮮も含めて13カ国が「社会主義世界体制」に属する、と言っているが、今日の日本共産党の言っているところによると-文献省略-、今日の「社会主義」国は、中国、ベトナム、キューバの3国にすぎない。北朝鮮は、日本共産党にとって、今日では「社会主義」への道を歩んではいない。
 この激減の「現実」を、1966年当時の真面目な日本共産党員、真面目な共産党シンパは、どう受けとめるのだろう。
 最後に、上の叙述は1966年のものだが、<共産主義読本>などと称するタイトルの本で上のように書いた<責任>は、今日の日本共産党にはまったくないのだろうか。同じ日本共産党の、組織としては同じはずの中央委員会が了解していたはずの書物ではないか。
 こんなことを書いても虚しいのだろう。まだこの欄で言及してはいないが-もう省略するかもしれないが-、日本共産党の65年、日本共産党の70年という二つの「党史」の叙述は、丁寧に見ると、かなり変化している。
 「党史」という<歴史>をも平然と書き換える政党。それが日本共産党だ。

2008年4月に「日本共産教」・「科学的社会主義教」と言っていた(再掲)。

 2007/03/23付けで、次のように、日本共産党を「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体と皮肉っていた。同じことを、つい最近も感じたわけだ。再掲する。最後の一段落は無関係なので、以下では省略。 
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 日本共産党ではなく「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体。
 安い古本だからこそ店頭で買ったのだが、日本民青同盟中央委・なんによって青春は輝くか(初版1982.04)という本がある。中身は青年・若年層向けの宮本顕治・不破哲三等の講演を収めたもの。
 宮本顕治のものは四本ある。宮本は逝去まで日本共産党中央から非難されなかった珍しい人物なので、この本で宮本が語っていることを日本共産党は批判できず、「生きている」日本共産党の見解・主張と理解してよいだろう。
 全部を読んでいないし、その気もない。p.14を見ていて、こんな内容が少しだけ興味を惹いた。以下、宮本の講演録(1982年2月に民青新聞に掲載)の一部。
 <「社会主義」とは第一に「搾取をなくし、特権的な資本家をなくして、労働者の生活を守る」、第二に、「広範な働く人の民主主義を保障する」、第三に「民族独立を擁護する」。ポーランド問題で社会主義自体がダメだとの批判が起きているが、そうではない。社会主義そして「将来の共産主義社会」は「どんな暴力も強制も不要な」「すべての人びとの才能が花ひらく、才能が保障される社会」で「マルクス、エンゲルス、レーニンたちが一貫して主張してきた方向」だ。>
 ここまででも「搾取」・「特権的な資本家」といった概念がすでに気になるし、またこの党が「民族独立」=反米を強調していることも面白い(社会主義の三本柱の一つに宮本は挙げている。はたして、「社会主義」理論にとって「民族独立」はこれほどの比重を占めるものなのか)。
 だが、面白いと思い、さすがに日本共産党だと感じたのは、上に続く次の文だ-マルクスらの説は「ただ希望するからではなく、人類の歴史、いろんな発展が、そうならざるを得ない」。
 このあとの、マルクスらの説は「人類のつくったすべての学説のすぐれたものを集めたもの」だということが「共産主義、科学的社会主義のほんとうの立場」だ、という一文のあとに「(拍手)」とある。
 いろいろな事実認識、予測をするのは自由勝手だが、上の「いろんな発展が、そうならざるを得ない」とはいったい何だろうか。「そうならざるを得ない」ということの根拠は何も示されていない。共産党のいう<歴史的必然性>とやらのことなのだろうが、それはどのようにして、論証されているのか??
 たんなる「希望」であり、そして要するに「確信」・「信念」の類であり、<科学的>根拠などどこにもない。
 上のような内容を含む講演というのは、信者または信者候補者を前にした<教主さま>の<説教>・<おことば>に違いない。その宗教の名前は、<日本共産教>または<科学的社会主義教>が適切だろう。
 現在も、こんな(将来の確実な<救済>=仏教的には「浄土」の到来?を説く点で)基本的には新興宗教を含む「宗教」と異ならない「教え」を信じて信者になっていく青年たちもいるのだろう。1960年代後半から1970年前半頃までは、今よりももっと多かったはずだ。
 こんな民青同盟又は日本共産党の組織員になって「青春」が「輝く」はずもない。一度しかない人生なのに、日本共産党(・民青同盟)に囚われる若い人々がいるのは(この組織だけでもないが)本当に可哀想なことだ。
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 以上。

2007年3月の秋月瑛二・日本共産党批判(再掲)。

 10年近くも経つと、かつて自分が何を書いていたか、自分のことながら分からなくなってくる。
 2007年3月に、「日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか」と題して、つぎのように書いていた。2007/03/23付け。
 現時点で見れば知識不足のところはあるし、当時は日本共産党文献やその他の関係文献を調べてみようという気は起きなかった。但し、最近は、きちんと実証的に正確な「事実」を確認しようと思っている。
 日本共産党が現在およびそれぞれの時期に何と主張していた(いる)かを知ること自体は、「事実」の認識の問題だ。
 問題関心だけは今でも共通するので、過去のものを再掲しておくことにする。
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 日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。
 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。
 レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。
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 以上。
 旧東ドイツを訪れた当時、上に言及のレーニン像のほか、比較的大きい建造物の壁面上部に、<我々を解放してくれた「赤軍」に感謝する!>というような旨の大文字が書かれてあるのを見た記憶もある。50年も前のことではない、かつての「社会主義」国・東ドイツの「現実」だった。

日本共産党の「影響力工作」-江崎道朗・月刊正論5月号論考。

 月刊正論5月号(2016、産経新聞社)の江崎道朗「『反戦平和』の本質と『戦争法反対』『民共合作』の怖さ-共産主義の『影響力工作』は甘くない-」(p.100-105)は、最近の雑誌の日本共産党・共産主義特集の中では、おそらく最も優れたものだ。
 優れているか否かやその程度の基準は、<現在の>日本共産党を批判する、またはその活動を警戒する、<有効な>内容を(どの程度)もっているか、だ。
 江崎道朗論考の優れているところはまた、日本共産党と日本の「左翼」との関係、前者の後者に対する「影響力」を意識して書かれていることだ。
 日本共産党と朝日新聞の関係、あるいは日本共産党の主張と朝日新聞社説の論調との関係、日本共産党の主張と岩波・世界の論調との関係等々は、保守派側によってもっときちんと分析される必要がある、と考える。
 江崎論考はまた、佐々木太郎の新著を紹介するかたちで(本欄は、E・フーバー→佐々木太郎→江崎道朗というひ孫引きになるのだが)、「共産主義運動に関与する」人間類型の5種を示していることだ。「日本共産党」の活動との距離別人間類型でもあるだろう。すなわち、①公然党員、②非公然党員、③同伴者、④機会主義者、⑤デュープス(Dupes)。
 興味深いのは上の⑤で、これはもともとは「間抜け、騙されやすい人々」を意味するが、共産主義(共産党)との関係では「明確な意思をもって共産党のために活動する人々ではなく、ソ連やコミンテルンによって運営される政党やフロント組織が訴える普遍的な『正義』に対して情緒的な共感を抱き、知らず知らずのうちに共産党に利用されている人々」のことを指す(p.102)。
 この欄で<何となく左翼>という語を使ったことがあるが、これにかなり近く、かつ上の定義はまさに表現したい内容を伝えてくれている。日本共産党との関係に即して書き直すと、
 <明確な意思をもって日本共産党のために活動しているわけではないが、日本共産党や同党系の大衆団体が掲げる普遍的な『正義』に対して情緒的な共感を抱き、知らず知らずのうちに日本共産党に利用されている人々>だ。
 このような人々が、諸学界、大学、マスメディア、官公庁の世界等々にいかに多いことか。これこそが、日本を危殆に瀕せしめかねない<ふわっとした左翼的雰囲気>の原因になっている、と思える。
 主観的には人間・個人の尊厳と「自由」あるいは「平和」と「民主主義」のために言論し行動しているが(それが何故か反安倍内閣・反自民党になっているのだが)、客観的には日本共産党のいう日本の「民主主義」化のために、長期的には同党のいう「社会主義・共産主義の社会」実現に寄与する役割を果たしている人が、うようよといる。そのような人々は、何となく産経新聞を全く読まなかったり、保守系雑誌には目もくれなかったりする。
 長谷部恭男は上の②ではなくとも、⑤にとどまらず、上の③か④だろう。
 江崎道朗は吉永小百合と山田洋次は上の③「かもしれない」としているが、私は山田洋次については②ではないかという疑いをもっている。
 なお、上の理解の仕方にいう「日本共産党系の大衆団体」とは、例えば、民主主義科学者協会法律部会(民科・みんか)が典型的だ。この学会の会員の中には、これが日本共産党系であることも知らず(代々の理事長は日本共産党の(公然?、非公然?)党員であることも知らず)、日本共産党に客観的には利用されているという意識もない法学者・研究者もいるに違いない。
 ともかく、上の①~⑤のいずれに該当するか、という観点から、<左翼的な(リベラルな?)>人々(・団体)を理解し分析することは、有意味だと思われる。
 日本共産党のまわりでウロウロしている者たちを、気の毒だが、暴き出す必要がある。
 ところで、月刊正論5月号の背表紙(総力特集)には「共産主義者は眠らせない」で日本共産党という文字はなく、4本の論考のタイトルのうち「共産党」が一部にあるのは筆坂秀世のもののみで、実質的にはほとんど日本共産党を扱っていると思える江崎道朗のものにもない。
 産経新聞や月刊正論は、中国(・同共産党)をしばしば批判対象として取り上げているにもかかわらず、正面から「日本共産党」と対決することを怖れているのではないか 、という印象がある。
 上で書き忘れたが、日本共産党と日本国内「左翼」との関係のほかに、日本共産党と中国共産党との関係も重要な認識・理解の対象だ。この後者の点については(も)、産経新聞を読んでも、月刊正論を読んでもほとんど分からないだろう。
 日本共産党と日本国内「左翼」との関係、日本共産党と中国共産党との関係についても、今週後半に発売されるらしい、産経新聞政治部・日本共産党研究(産経新聞社)は十分に又は適切に論及しているだろうか?
 産経新聞社の書物は、<現在の>日本共産党を批判する、またはその活動を警戒する、<有効な>内容をもっているだろうか? 期待は大なのだが。

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ09

 旧ソ連は社会主義国だったのか、そうでなかったのか、という問題を直接に話題にしているわけではない。それは「社会主義(国)」概念の理解によって異なりうるだろう。現実の歴史からすると、<国家によるテロル>はその概念要素の一つのようにも見えるが。
 ここで問題にしているのは、上の点についての日本共産党の見方の変化(という「事実」)だ。また、変化させることがありうるとしても、そのためのきちんとした理由づけ・根拠づけが日本共産党によってなされたのかどうかだ(これまた、基本的には「事実」の認識の範疇に入る)。
 一 日本共産党幹部会委員長・不破哲三は、1994年7月の第20回党大会で、旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」(不破「綱領一部改定についての報告」)とまで、言い切った。
 「まったく明白」だったにもかかわらず、その党大会の2カ月前刊行の日本共産党の文献がソ連を「社会主義国」として記述していたことは、すでに紹介した。
 不破哲三自身も、幹部会委員長として、1990年3月の時点で、いわゆる「現存社会主義」という言葉を使っていた。
 すなわち、「…、現存社会主義国が『歴史的制約や否定的傾向を克服』してゆく過程が前進することが避けられない、ということを指摘しました」(第18回党大会・日本共産党中央委員会総会決定集/下(1990.08)p.280 、<不破・第8回中央委員会総会「幹部会報告」>)。
 誤りをもつ「社会主義国」ソ連も<社会主義の復元力>によって正しい道に戻るのは不可避だ、という旨を述べていたわけだ。
 二 こうまで見通しが狂い、「社会主義国の一種」視から社会主義への「移行の過程にある過渡期の社会などでもありえない」へと理解・認識を変えてしまうのなら、何らかの反省が、より明確にいえば、かつては(1994年7月党大会以前は)<誤った>理解と見通しを持っていたことを認め、それについて<自己批判> しなければならないのではないか。
 党員たちの一部は、さざ波通信36号(2004年)で、「当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない」、と批判していた。
 もっとも、不破哲三が<反省>とも見える言葉をいっさい述べていないわけではないようだ。上でも言及した1994年7月第20回党大会での不破哲三の報告の中の一部に、つぎの文章がある。
 ・「しかし、当時はまだ、旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていたことを、ここではっきり指摘しなければなりません」。
 この一文は、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003)で、そのまま引用・紹介されている(p.287)。
 さて、「私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもの」だったという自己認識は誤っていない、と考えられる。
 しかし、そのあとの、「今日から見れば明確さを欠いていた」という表現しか使っていないことは、いかにも、不破哲三、そして日本共産党らしい。
 何度もここで記したソ連についての見方の変化・変質は、「明確さを欠いていた」で済ますことができるものなのか。20回党大会、そしてこの報告のソ連観が<正しい>のだとすれば、かつてのそれは明確に<誤っていた>と言わなければならないだろう。「明確さを欠いていた」などと形容できるものではないはずだ。
 すでに記したような日本共産党の<大ペテン>の前提には、このような自己欺瞞、知的不誠実さ、がある。
<こっそりと自己批判のないまま>重要な路線変更を行った可能性が高い。
 三 上記の不破報告の部分は、その後現在まで<生きて>いるのかどうかは疑わしくもある。少なくとも強調されてはおらず、また積極的に(不破哲三によっても)言及されてはいない。
 したがって、この部分は1994年7月段階での<歴史的な>文書の一部であり、今日時点で、「今日から見れば明確さを欠いていた」ということすら、認めてはいない、と日本共産党・同指導部は主張する可能性がないではない。
 そうだとすれば、日本共産党はまことに度し難い、最低の知性すら持ち合わせていない政党だということになるだろう。
 あるいは、現在の日本共産党にとっては、可能なかぎり触れてもらいたくない、そして思い出したくない、不破哲三報告の一部だったのだろうか。
そのように自己欺瞞・自己隠蔽することによってはじめて、<大ペテン>(=日本共産党は誤ったソ連と30年も闘ってきた)が、ある程度は成功したのかもしれない。
 <つづく>
 

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ08

 一 日本共産党がソ連を「社会主義ではなかった」と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。繰り返しになるが、再度紹介すれば、以下。
 ①ソ連等の「崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産」だった。ソ連等は「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」として解体した。(1994年7月第20回党大会・改訂党綱領)
 ②旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」。「スターリンは、…社会主義とは無縁な社会への道をつきすすんだ」。「スターリン以後の転落は、…、反社会主義的な制度を特質として」いた。(1994年7月第20回党大会・不破哲三(幹部会委員長)「綱領一部改定についての報告」)
 このときまで、-党員たちには事前に改定綱領の「案」が知らされていたのだろうが-日本共産党はソ連についての上のような理解・認識を明らかにしていたことはなかった、とほぼ断じることができる。ソ連崩壊後の第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/上・下(日本共産党中央委員会出版局)がその根拠になる。
要するに、1991年12月のソ連解体後、2年半ほどあとになって(ようやく?)上の新しい性格づけに至っているわけだ。
  したがって、これもすでに紹介したが、上の党大会の直前(2カ月前)の1994年5月に刊行された日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下が、少なくともソ連を含めて「社会主義国」という語を使っていたのも、自然ではある。日本共産党にとって、1994年7月の直前まで、ソ連(旧ソ連)はまぎれもなく「社会主義国」だったのだ。
 ・1985年綱領改定がソ連覇権主義との闘争の必要性を明記したのは、「覇権主義、官僚主義など『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味」した。また、「社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよま」ったという「情勢の変化」から「資本主義の全般的危機」規定を削除した。(1994年5月刊行の日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下)
 二 1994月7月の第20回党大会後の第2回中央委員会総会での「幹部会報告」の中で、不破哲三は、「旧ソ連社会論」として次のように述べている。
 「わが党は、ソ連が解体される以前から、第19回党大会において、…、ソ連史の二つの時期、レーニンが指導した時期とスターリン以後の時期とを根本的に区別すべきことを指摘してきました。//
 第20回党大会では、そこにさらに新たな解明の光をあてました。すなわち、スターリン以後は、…、社会体制としても全面的な変質の道に引き込まれたのであり、崩壊した旧ソ連は、社会主義社会でなかったことはもちろん、それへの過渡期の社会でもなく、人民への抑圧と搾取を特質とする社会だったことを、あきらかにしたのであります」。
以上で引用終わり。//は原文では改行ではない。
 不破によると、「社会主義社会」でもそれへの「過渡期の社会」でもなかった等のことは、「さらに新たな解明の光をあて」たことによって得られた結論だ、という。
 ここにはゴマカシがあるだろう。ソ連解体という「厳然たる事実」を認識して、日本共産党は旧ソ連とともに「社会主義」の側にいたのだ、というこれまた明白な事実を隠蔽し、自己欺瞞をするために、旧ソ連の「社会主義国」性を否定するという、それまでの日本共産党のソ連社会理解とは根本的に異なる、全く反対の理解・認識を、1994年7月になって示したのだ。これを「さらに新たな解明の光をあて」たと表現するのは、本質を隠蔽するゴマカシであり、<大ウソ>だ。
 同じことは、2003年1月に刊行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の80年(日本共産党中央委員会出版局)の中の、第20回党大会(1994.07)に関するつぎの叙述についてもいえる。
 ・「党は、1994年にひらいた第20回党大会で、党綱領を情勢にてらして現代的に発展、充実させる一部改定をおこないました。//
 とくに、旧ソ連社会の内実のたちいった研究にもとづいて、旧ソ連社会論を大きく発展させました。」
引用終わり。//は原文では改行ではない。
 旧ソ連を「社会主義国」の一つと理解することを「社会主義でなかった」へと<変更>させることは、上によると、「情勢にてらして現代的に発展、充実させる」ことであり、旧ソ連の見方を「大きく発展させ」たものなのだそうだ。
 これも大きなゴマカシであり、<大ウソ>だ。嗤ってしまう。
 三 上に言及した不破哲三の1994月7月第20回党大会・第2回中央委員会総会「幹部会報告」の中で、不破はつぎのように述べている。
 ・三大選挙にむかって党の政策文書案を作成したが、「日本共産党の存在意義」を語るのが第二の重視点で、その中では「5つの角度」から党の性格を述べている(中央委員会総会決定集p.33-34)。
 秋月の文章に戻せば、その5点のうちの一つは、つぎのようなものだ。
 ・「ソ連の干渉・横暴・謀略と30年間たたかいぬいた自主独立の党」(p.34)
ここに大ペテンがある。すでに解体・崩壊しているソ連と「30年間たたかいぬいた」というが、解体・崩壊後もなお「社会主義国」の一つと見ていたし、東欧の激動時の頃は「現存社会主義国」と称してもいた(この点は別に文献を紹介する予定だ)。解体後は「たたかう」相手がいないから、30年間というのは、1961年~1990年のつもりなのだろうか。
 厳密にいえば、日ソ共産党の間に対立が生じた(ソ連からの「干渉」があった)のは1964年のはずなので、30年には満たない。
 そんなことよりも、ソ連=社会主義国、ソ連崩壊=社会主義の失敗・社会主義国の消滅というふうに多くの国民が<感じて> いたなかで上のように<宣伝>することは、失敗した<ソ連社会主義>の側には日本共産党はいなかった、それと長らく「たたかって」きたのだ、ということをアピールしたいのだろう。日本共産党は、そのように2016年の今日まで宣伝している可能性はある。
 しかし、上のような<宣伝>は、日本共産党は(1994年7月まで)ソ連を(生成途上であれ)「社会主義国」の一つと見なしており、かつ日本共産党も「社会主義」をめざす政党である、という明白な事実を隠蔽して、より本質的ではない論点にかかるイメージを拡散しようとするものだ。
 <こっそりと自己批判のないまま>過去の言明と真逆の理解をもちこみ、かつ上のような<大ペテン>を仕掛ける。日本共産党とは、そのような政党だ。
 <つづく>

日本共産党は「本当は怖い」?、日本共産党の「正体」?-日本共産党こそ主敵。

 一 保守系雑誌の背表紙に「日本共産党」の文字があるのはきわめて珍しいと思うし、産経新聞ですら、日本共産党に直接に関係する連載記事を掲載したことがあるのか疑わしい。
 したがって、雑誌で日本共産党特集を組むのはよいが、背表紙タイトルが「日本共産党の正体」(月刊WiLL5月号(ワック))だったり、「本当は恐ろしい日本共産党」(月刊Hanada6月号)だったりするのは、あまりに旧態依然としていて新味がない。
 それに何より、「正体」と書けば実際とは違う別の「外形」?があるかのごとくだし、「本当は恐ろしい」と書けば、では「表面的には恐ろしくない」のか、と(皮肉家としては)思ってしまう。
 日本共産党についてわざわざ「正体」と書く必要はない。「正体」は批判できるが、その他は批判できない、などというものではない。
 また、日本共産党について「本当は恐ろしい」などと書くのは、上記のとおり、表面的・外形的には「恐ろしくない」 かのごときで、ミス・リーディング を誘導しかねない。
 秋月瑛二からすれば、日本共産党のそのままが、このような政党が存在していること自体が、日本と日本人にとって「恐ろしい」、と言うべきなのだ。
 二 日本共産党の現綱領(2004年1月)は、かつてのマルクス解釈としては通説?だった社会主義と共産主義(狭義)の二段階論を放棄して、「社会主義・共産主義の社会」と言っている。また、文献等は省略するが、日本共産党の党員は「科学的社会主義」を用いるべきだが、「マルクス主義」を用いることはまだ許され、「マルクス・レーニン主義」という言葉は使うべきではないのだそうだ。
 ともあれ、現綱領によると、「社会主義・共産主義の日本」では、「搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、『国民が主人公』という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる」、のだそうだ。
 コメントすると、「搾取」とは何ぞや、綱領中には説明がない。そしてとりわけ、「人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる」という部分は「ほんとうの意味で」という限定が付いたりしているので、何が言いたいのかさっぱり分からない。「国民が主人公」とは、一時期、民主党がよく使っていた表現だ…。
 また、現綱領によると、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
 この部分はきわめて恐ろしいのだが、さらに現綱領、つまりは現在の日本共産党が言っていることによると、上の「本格的な展望が開かれ」ることによって、「本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる」のだ、そうだ。
 つまり、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ」たのちに、「…共同社会への本格的な展望が開かれ」、そしてようやく「人類史の新しい発展段階」が始まる(足を踏み出す)、というわけだ。
 何とまぁ、高度な「社会主義・共産主義の社会」もまだ序の口で、まだ先があるのだ。
 以下は、コメント、論評。
 第一。日本共産党の綱領には、その他の重要決定類にもそのようなものあるが、もともと①たんなる<願望>なのか、②たんに将来こうなるだろう、という<推測>なのか、あるいは③将来こうなるはずだ、という<(客観的・合理的?)予測>なのかが判然としない部分が多い。
 上に紹介した部分はおそらく③だとみられる。そして、このようになるはずだから、これに向かって頑張ろう、と主張しているものと思われる。たんなる願望や、漠然とした推測ではないだろう。
 日本共産党は<理論・法則と実践の統一>だとか言うのかもしれないが、上の点ですでに<思考の方法論>の奇妙さを日本共産党については感じる。
 上の点は措くとしても、第二。将来の見通しを確たるものとして?持っていることについて、日本共産党は、他の(日本の)政党とは違うと言って自慢しているようだ(不破哲三が言っていたが、文献省略)。しかし、つぎに述べるように、<空想>・<妄想>ならば、何とでも書ける。
 第三。このような将来展望をかかげていること自体が、異様であって、恐ろしい。
 もともと抽象的概念が多くて厳密な意味は理解しにくいが、何となくのイメージで理解するとしても、「いっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの実現・達成は、そもそも不可能だと私には思われる。
 そもそもが「いっさいの強制のない」、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの正確な意味は不明で、「真に平等で自由な人間関係」なるものも分かりにくいが、何となく分かったとして、このような社会は本当に実現されるのだろうか。日本共産党がそう考えている、あるいは(科学的に?)予測しているとすれば、それは<狂>の世界にいる人たちの<妄想・幻想>の類だと思われる。
 「平等」と「自由」が、あるいは「いっさいの強制のない」ということも、すべてが充足されるような社会はおそらくは到底実現されない、と思われる。
 なぜなら、人間自体が決して画一的には、全く「平等」には生まれてこないからだ。個体としての人間自体に生来の「制約」があるのであって、完全に「自由」な状態など生じるはずがないからだ。
 日本共産党が夢想しているような社会がくるとすれば、それは生殖も生育環境等々も統一的に<管理>された、ロボットのような人間ばかりの社会だろうと思われる。あるいは、すべてがメガ・コンピューターによって(いわゆる個人情報のすべても認識され)操作され、<管理>されるのだろうか。<管理>主体はいったい誰あるいはどこにあるのだろう。
 簡単に「真に平等で自由な」などと言ってしまわない方がよい。人間、社会について日本共産党は異常に傲慢すぎる。人間は、社会は、日本共産党の幹部・党員たちが想定しているよりははるかに複雑で、多様だ。かつ、人間は、死を免れない「生物」という自然(環境)の一つ・一要素でもあるのだ。
 日本の公的な政党の中に、上のような将来展望をもち将来予測している政党があること自体が気味が悪く、恐ろしい。さらにまた、「原則として」などという曖昧な限定を付けているのだから、まともに論評できるものではない。
 三 将来予測と実践と、と考えていくと、日本共産党は<日本共産教>または<(日本)科学的社会主義教>とでもいうべき「宗教」を奉じる「宗教団体」だと--本当の宗教団体には申し訳ないが--感じざるをえない。
 始祖があり中間教祖があり、教義があり、「信者」獲得運動があり、現在の最高指導者・最高指導部に対する「帰依」も要求される。そのように感じてしまう文章を、日本共産党の文献の中に、いくらでも見つけることができる。
 それで「科学的」とか語り、不破哲三は「科学で見た…」とかの書物を多数刊行しているのだから、「恐ろしい」。わざわざ詳細に立ち入らなくとも、その「正体」はじつははっきりしているのだ。

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ07

 第1回めに、いくつかの雑誌の日本共産党特集を見ても「疑問を払拭できない、いくつかの基本的と思われる論点・問題」の「第一」として、「日本共産党は、かつてのソ連=ソヴィエト「社会主義」共和国連邦は「社会主義」国ではなかった、と1991年以降は言っているようだが、1989-91年以前はどのように理解・主張していたのか」ということを挙げた。
 上のうち「1991年以降は言っているようだが」は、「1994年7月の第20回党大会による綱領改定以降は言っているようだが」、が正しい。
 一 さて、この論点・問題について日本共産党(・不破哲三)はどう書いてきた(いる)か、どう言ってきた(いる)か、の「事実」は、あらためて整理すれば、つぎのとおりだ。
 1-1994年7月の第20回党大会以降今日までの「理解」
 ①ソ連等の「崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産」だった。ソ連等は「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」として解体した。(1994年7月改定党綱領)
 ②旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」。「スターリンは、…社会主義とは無縁な社会への道をつきすすんだ」。「スターリン以後の転落は、…、反社会主義的な制度を特質として」いた。(1994年7月第20回党大会・不破哲三「綱領改定についての報告」)
 ③「ソ連型の経済・政治体制、社会体制」は「社会主義とは縁のない」ものだった。「『ソ連型社会主義』というのは、社会主義の典型でないことはもちろん、社会主義のロシア的な道でもない」(2000年8月の不破哲三・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕)
 ④「ソ連で崩壊したのは何だったのか。ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません」。「崩壊したのは、社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義」だ。「その覇権主義は社会主義の産物ではなく、スターリンとその後継者たちが社会主義の事業に背を向け、社会主義を目指す軌道を根本的にふみはずすことによって生み出したもの」だ。(2007年5月の不破哲三・スターリンと大国主義・新装版のまえがき)
 2-上のように「理解」した経緯
 ①「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります。」(2000年8月の不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕)
 ②「ソ連から覇権主義的な干渉を受け、それを打ち破る闘争」の中で、「私たちはつぎの点の認識を早くから確立してき」た。1.「覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない」。2.「国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は、社会主義とは両立しえない」。(2004年第23回党大会・不破哲三「綱領改定についての報告」)
 ③「私たちは、早くからこの認識をもってい」た。そして、「ソ連の体制崩壊のあと、その考察をさらに深め、94年の第20回党大会において、ソ連社会は何であったかの全面的な再検討をおこな」った。「その結論は、ソ連社会は経済体制においても、社会主義とは無縁の体制であったというもの」だった。(同上)
 3-ソ連解体直前・後にソ連を「社会主義」国と見ていた例
 ①「一部の社会主義国に生まれた覇権主義というのは、まさに、歴史の発展にそむき、『国際緊張の一定の要因』になるとともに、『対外干渉と侵略にほんらい無縁である科学的社会主義の理念』を傷つけ、…害悪である…」。(1991年12月-ソ連崩壊直前-の不破哲三・ソ連覇権主義の解体と日本共産党)
 ②1985年綱領改定の主要理由の一つはソ連覇権主義との闘争の必要性の明記で、「覇権主義、官僚主義など『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味」したが、「旧ソ連・東欧の劇的破たん」はこの明記の「歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」。もう一つは「資本主義の全般的危機」規定の削除で、「社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと」が背景の一つだった。(1994年5月-綱領改定した同年7月の党大会直前-の日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下)
 4-じつは<ソ連は社会主義国でなくなった>論(完全変質論)を批判までしていた。
 ①誤りの「もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りをおかしているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史のうえでいかなる積極的役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』」だ。「わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして」最も厳しく闘っているが、「その誤りがどんなに重大なものであっても」、「その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論』を裏返しにした、根本的な誤り」だ。(1982年7月・第16回大会での不破哲三「中央委員会の報告」) 
 ②「社会主義国の党や政府の指導のうえで、あれこれの重要な誤りがあるからといって、その国が社会主義国でなくなったとするなどの結論を簡単にひきだす、いわゆる社会主義変質論も、われわれがとるところではないし、科学的な見地でもない」。「わが党が、それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえるのにたいして」、中国側は「ソ連は社会主義国から資本主義国家-ブルジョア独裁の国家に変質してしまったという立場をと」ったので「明確な理論的批判をくわえ」た。「中国のこの非科学的なソ連変質論はその後さらに奇怪な発展をとげてい」る。(1979年の、不破哲三・現代前衛党論)
 ③「誤った見方のもう一つは、あれこれの社会主義大国がそうした重大な誤りをおかしているということを根拠に、『この国はもはや社会主義国ではなくなった』とか、『その存在は世界史のうえでいかなる積極的な役割も果たさなくなった』とかみなす、いわゆる『社会主義完全変質論』」だ。中国側とは違って、「わが党代表団は、ソ連の大国主義、干渉主義…は断固として批判するが、だからといって、その誤りを理由に、ソ連は社会主義国でなくなったとする見方は」とらなかった。(1984年の、不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線)
 二 上の4を読んだあとで、1や2を読めば、ただちに一貫性がまるでないことが分かる。そして、4と2を対比させるならば(3と2でもよいのだが)、不破哲三、そして日本共産党は<大ウソ>をついていることが明白だ。
 日本共産党は、ソ連は「社会主義」国ではないとの「認識を早くから確立してき」た??、 「早くからこの認識をもってい」た??
 よくぞヌケヌケとこういう言葉を吐けるものだ。不破哲三とは、そしてそれを温和しく聴いて(読んで)承認している日本共産党の代議員や党員たちとは、まともな神経を持っている人間だとは到底思えない。
 過去にどう言っていたのかという簡単かつ基本的な「事実」 を無視して、あるいは忘れてしまって、矛盾することを平気で書ける(言える)、これを<大ウソ>つき、という。 何のためにこういう<大ウソ>をつくのか。それは、ソ連(・東欧)解体後に高まった「社会主義・共産主義」 批判を回避するために、それから逃げるために、ソ連(・東欧)は「社会主義」国ではなかった、解体・崩壊したのは「社会主義」国ではない、と強弁したかったからだろう。
 そう強弁したのは、ソ連の「覇権主義・大国主義」と「30年にわたって」闘ってきた、という<自負>があったからに違いない。
 しかし、その際に、ソ連の「覇権主義・大国主義」との闘いは「社会主義」国・同共産党と他の共産党間の「内部」での闘いであったはずなのに、つまり誤りを批判しつつもなおソ連を「社会主義」国の一つと見ていたはずなのに(完全変質論否定)、まるでソ連はすでに「社会主義」国ではなくなっていた、その「反社会主義」体制と闘ってきたのだという<大ウソ>による<大ペテン>を仕掛けたのだ。
 日本共産党の党員たちは表向き、このペテンに引っかかったままのようにも見える。しかし、すべての文献を見ることはできないが、日本共産党や同党幹部自身の文献を少しばかり丁寧に見ていけば、これが<大ペテン>であることが分かる。
 そしてまた、上の2のように近年では壮語?することができる不破哲三の<知的傲慢さ>も感じざるをえない。あのように述べて、党大会代議員たちを「騙せる」 と思っているのだろうか。「誤魔化した」つもりなのだろうか。そうだとすれば、あまりに<傲慢>すぎる。
 また、<自らの過去の言明と向き合う>ことができないのは、<知的怠惰>でもある。不破哲三のみならず、志位和夫も含めて、現在においてまだ日本共産党員である者は、すべて<知的緊張感>を失っているのだろう。
 このような、<知的誠実さ>がまるでない人々がなぜ、「科学的社会主義」を、「科学」を、語ることができるのか。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ06


 前回につづける。
 3. 第三に、さざ波通信36号が一部を引用している、不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線(1984、新日本出版社)から。この著全体が1983.08の日本共産党全国地区委員長講習会での「講義」を整理して雑誌・前衛に載せたものをさらに「大幅に加筆」したものとされている。
 以下は、「第三章・国際情勢をどうとらえるか」の中の「大国主義問題での二つの誤った見方-『社会主義無謬論』と『完全変質論』-」という中タイトルの部分(p.111-)。
 ・日本共産党は「二つの誤った見方-『社会主義無謬論』と『完全変質論』とをしりぞけている」。/前者は「社会主義は民族自決権の侵犯などといった根本的な誤りをおかすはずはないという立場」。「まさに今日では、大国主義者とその追従者の現実に背を向けた観念論的イデオロギー以外のなにものでもありません」。<改行、以下中略>
 ・「誤った見方のもう一つは、あれこれの社会主義大国がそうした重大な誤りをおかしているということを根拠に、『この国はもはや社会主義国ではなくなった』とか、『その存在は世界史のうえでいかなる積極的な役割も果たさなくなった』とかみなす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。//
 「…1966年の日中共産党会談で、わが党代表団と毛沢東その他中国側との論争の最大の焦点の一つは、この点にありました。//
 中国側は、ソ連のあれこれの誤りを社会主義国の党と政府が誤りをおかしているといった段階の問題ではなく、ソ連が経済的には国家独占資本主義、政治的にはファシズム独裁の国になり、アメリカ帝国主義と同列の帝国主義国に変質してしまったことのあらわれだという評価を前面におしだし、これを理由にアメリカのベトナム侵略戦争に反対する国際統一戦線の方針につよく反対しました。<改行>
 これにたいして、わが党代表団は、ソ連の大国主義、干渉主義やアメリカ帝国主義美化論は断固として批判するが、だからといって、その誤りを理由に、ソ連は社会主義国でなくなったとする見方はとりませんでした。//
 そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。//
 中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから。」(p.115)<改行>
 ・「私たちはまた、中国にたいしても、…批判をくわえましたが、…、そのことを理由に中国が社会主義国でなくなったとか、もう誤りただす力がなくなったとかの見方はとりませんでした。」<以下、中略>
 ・「社会主義の復元力についての私たちのこの展望は、…最近の中国の動向によって実証されました。……復元力のあらわれ方は、まだ複雑で過渡的な状況にありますが、この過程の全体が『社会主義完全変質論』の誤りの事実による証明となっていることは、まちがいないところです。」<改行、以下省略>
 以上、紹介おわり。// は原文では改行ではない。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ05

 不破哲三、そして日本共産党は、「ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、…、人間抑圧型の体制だった」と、1994年7月の第20回党大会以降になって、主張し始めた。すでに<完全変質>していた、と認めるに至ったわけだ。
 しかし、不破哲三は、<いかにスターリンに問題・欠点があっても、ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>という旨を、かつて明確に主張していた。いわば<完全変質否定論>だ。 
 <さざ波通信>36号(2004)は③不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線(1984、新日本出版社)を典拠として挙げているが、秋月が知りえたかぎりで、他に、①不破・現代前衛党論(1979、新日本出版社)にも同旨の文章がある。また、②日本共産党第16回大会で中央委員会書記局長として行なった報告「第16回党大会にたいする中央委員会の報告」(前衛484号、1982.10)も同旨の部分を含んでいる。これらの中では、②が日本共産党の最も公的な見解を示していたものだろう。
 1. まず、この1982年16回大会・不破「報告」から引用・紹介する。
 「社会主義諸大国の大国主義、覇権主義の誤りを問題にする場合、…、科学的社会主義者として、つぎの二つの見地を原則的な誤りとしてしりぞけるものです。
 一つは、社会主義大国が…などの誤りをおかすことはありえないとする『社会主義無謬論』です。<以下、中略>」
 「もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りをおかしているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史のうえでいかなる積極的役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。
 /一六年前、宮本委員長を団長とするわが党代表団が、中国で毛沢東その他と会談したさい、ソ連の評価をめぐって、もっともするどい論争点にの一つとなったのが、この問題でした。
 /わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして、…もっともきびしく批判し、…たたかっている党の一つですが、その誤りがどんなに重大なものであっても、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論』を裏返しにした、根本的な誤りです。
 <中略> …過程は単純なものではなく、長期の複雑な経過をたどるでしょうが、社会主義の大義と道理に反する大国主義、覇権主義の誤りが、かりに現時点ではきわめて根深い支配力をもっているようにみえようとも、将来にわたって永続的な生命をもちえないことは確実であります。<中略-抜粋、中国の文化大革命が同共産党によって断罪され転換がすすめられていること>は、社会主義の事業と共産主義運動の復元力をしめした一例とみることができるでしょう。<以下、中略>」
 「社会主義のこの復元力は、自然現象のように、自動的に作用するものではなく、誤りや逸脱にたいする理論的・政治的な闘争をつうじて、はじめて力を発揮するものです。<以下、略>」
 以上、紹介終わり。/の部分は、原文では改行ではない。
 2.つぎに、不破・現代前衛党論(1979)p.70以降から引用・紹介する。
 「日本共産党の国際路線について」と題する論考の中の「社会主義の『生成期』とその前途について」で、全国地区委員長学習会議での講演をもとに整理して前衛1979.09号に掲載されたもの。
 ・レーニンは1916年の論文の一つで「社会主義政党が民族自決権の要求をかかげることに反対する議論」を批判した。レーニンは「社会主義になったら民族的抑圧が自動的になくなるかという根本問題を正面から提起して」、これを否定する結論を出していた。「レーニンは、上部構造での民主主義の徹底した確立と実行という条件を提起し」た。レーニンによれば、『民族的抑圧を排除するためには、土台-社会主義的生産-が必要であるが、しかし、この土台のうえで、さらに民主主義的な国家組織、民主主義的軍隊、その他が必要である』。」
 ・レーニンは1922-23年にスターリンの「大国排外主義の民族抑圧的傾向」と「闘争」したが、レーニンは「社会主義無謬論にけっしてたたず、社会主義の土台のうえでも、誤りの如何によっては他民族への抑圧という社会主義の大義に反する事態までおこりうることを理論的に予見し、実践的にも、…闘争に大きな精力をそそいだ」。
 ・「レーニンのこうした分析とも関連して、もう一つの重要な点は、社会主義国の党や政府の指導のうえで、あれこれの重要な誤りがあるからといって、その国が社会主義国でなくなったとするなどの結論を簡単にひきだす、いわゆる社会主義変質論も、われわれがとるところではないし、科学的な見地でもないということです。これは、レーニンの使った言葉を採用すれば、国家の上部構造のうえで誤りがおきたからといって、ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない、ということです。」<改行>
 ・「この問題は」、かつても中国共産党と「根本的に対立した問題の一つでした」。「…では、一定の共通点はありましたが、わが党が、それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえるのにたいして、中国側が、…、ソ連は社会主義国から資本主義国家-ブルジョア独裁の国家に変質してしまったという立場をとり、それによって『反米反ソ統一戦線論』を根拠づけようとしました。わが党は、…、…この主張に明確な理論的批判をくわえて、その誤りを明らかにしています。」<改行>
 ・「中国のこの非科学的なソ連変質論はその後さらに奇怪な発展をとげています」。<中略> 「毛沢東やその追従者たちの非科学的な社会主義変質論は、中国を、…アメリカ帝国主義の同盟者の立場までに転落させた理論的な根拠の一つになったのです。」<改行>
 ・「中国の大国主義、覇権主義の問題でも、ことがらの性質は同じことです。わが党は、…中国の誤った路線について、社会帝国主義への二重の転落と特徴づけて批判しましたが、これは、中国が社会主義国家から帝国主義国家に変質したという、中国流の非難を中国にあびせかけたわけではありません」。<以下、略>
 以上、紹介終わり。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ04

 そこそこ大きい書斎につながっている、近所からは図書館と呼ばれている広大な書庫から、ソ連解体後の初の党大会資料である日本共産党第20回大会決定集(1994)等々々をとり出してきた(冗談だ)。
 日本共産党や幹部自体の諸文献を読んでチェックする速さと、この欄に関係部分を引用しつつコメント等をしていく作業の面倒くささが全く一致しない。
 最近の保守派の諸雑誌の日本共産党特集も含めて、これまでの保守派の日本共産党に関する知識や諸媒体の情報発信力は相当に不十分だ、とあらためて感じる。
 宮本顕治体制を確立した1961年綱領の採択が今日までの日本共産党の実質的出発点あるいは基盤だとは思うが(従って、それ以前の日本共産党の歴史を取り上げることは現在の同党に対する有効な批判になるとは必ずしも思えないが)、1985年綱領(17回大会)、1994年綱領(20回大会)、そして現在まで続く2004年綱領(23回大会)によってかなりの<修正・変更・変質?>が加えられていることも分かる。前二者の間にはソ連解体があるのである意味では当然だが、現在の綱領も、ある程度は(第二次大戦での役割など)ソ連を評価していた1994年綱領の一部を大幅に削除したりしている。
 こうしたことを調べて?いくと、いくつかコメント、論評したくなることも出てくるが、当初のイメージにほぼ従って、とりあえず書き進めよう。
 さて、ソ連共産党解体直前の1991年、ソ連自体の解体後の1994年(上記の20回大会の前)の日本共産党文献がソ連についてまだ「社会主義国の一部」とか書いているのだから、1989-91年以前のそれがソ連について「社会主義社会でないことはもちろん、それへの過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白」だ(1994、不破哲三・20回党大会「綱領一部改定についての報告」)、などと書いているはずはない。
 1961年綱領や宮本顕治の文章、そして1980年代後半に至るまでの諸文献からソ連を依然として「社会主義」国と見なしていた例証をいくつかここで挙げようと考えていたが、ほとんど自明だろうと思われるので、省略する。
 つぎに、不破哲三が<ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>、という旨を明確に語っていた(「ソ連完全変質論批判」)、1980年頃の文章をそのまま転記するつもりだった。
 これは、予定どおり紹介はするが、すでに日本共産党の党員(個人名不明)によって、2004年1月13-17日の第23回党大会での不破哲三報告の「ソ連社会論をめぐる歴史の偽造」と題する部分が批判されていることを、ネット上で知った。
 おそらくよく知られているように、<さざ波通信>とは日本共産党の党員グループがネット上で発信しているもので、党中央は関与を禁止しているはずだ。だが、今日まで閉鎖はされていないようで、2004年のものもネット上にある。同上36号だ。 
 以下、「」を省略して転載する。**と**の間が不破哲三の報告からの引用。最後の一文はほとんど無意味なので省略した。
 ---------
 不破報告は、多数者革命に関するいつもの話を繰り返した後に、最後に第5章に話を移している。その中で不破はまずソ連社会論について議論を展開している。その中で、またしても不破は歴史の事実を大きく歪め、平然と嘘をついている。
 **「……スターリン以後のソ連社会の評価という問題は、わが党が、64年に、ソ連から覇権主義的な干渉を受け、それを打ち破る闘争に立って以来、取り組んできた問題でした。
 この闘争のなかで、私たちはつぎの点の認識を早くから確立してきました。
 (1)日本共産党への干渉・攻撃にとどまらず、68年のチェコスロバキア侵略、79年のアフガニスタン侵略と、覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない。
 (2)社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は、社会主義とは両立しえない。
 私たちは、早くからこの認識をもっていましたが、ソ連の体制崩壊のあと、その考察をさらに深め、94年の第20回党大会において、ソ連社会は何であったかの全面的な再検討をおこないました。その結論は、ソ連社会は経済体制においても、社会主義とは無縁の体制であったというものでした。」**
 これは、表現をきわめて大雑把にすることで、あるいは、問題や表現をずらしたりスリかえたりすることによって、読者を意図的にミスリーディングし、歴史を歪め偽造するいつもの手法である。
 実際には、90年代以前のわが党は、覇権主義や対外侵略は社会主義とは無縁であるとは言ってきたが、「覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない」というような言い方は一度もしたことがない。これは、ソ連の体制そのものが社会主義ではないという認識につながりかねないものであり、わが党は慎重にこのような言い方を避けてきたのである。
 それどころか逆に、1980年代にはソ連社会主義の完全変質論を厳しく批判し、「社会主義の復元力」論を『赤旗』を通じて大キャンペーンを展開したのである※注。あくまでも、1994年の第20回党大会ではじめてソ連の体制そのものが社会主義の体制ではない、と明言されたのである。
 ※注 +ちなみに、ここでの不破の発言には、ソ連社会の現実についても著しい誇張がある。不破は、「社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治」とか、あるいは、その少し先で「ソ連には、長期にわたって、最初は農村から追放された数百万の農民、つづいて大量弾圧の犠牲者が絶え間ない人的供給源となって、大規模な囚人労働が存在していました。実際、毎年数百万の規模をもつ強制収容所の囚人労働が、ソ連経済、とくに巨大建設の基盤となり、また、社会全体を恐怖でしめつけて、専制支配を支えるという役割を果たしてきました」などと述べているが、これはスターリン時代の、とりわけ大粛清期の現象をそれ以降の全時代に不当に拡張したものである。
 フルシチョフ時代にはいわゆる「恐怖政治」的なものはなかったし(もちろん、反対派は厳しく抑圧されていたが)、逆に強制収容所は基本的にすべて解放されて、そこにいた数十万の政治犯はほぼ全員が家族のもとに帰った。スターリン時代に粛清されたほとんどの共産党員は名誉回復された。数百万の囚人労働が「社会主義」建設を支えるという事態は基本的にこのときに終わったのである。ブレジネフ時代には締めつけが強まったが、スターリン時代のような恐怖政治は再現されなかったし、数百万の囚人労働が工業化を支えることもなかった。その後のチェルネンコ、アンドロポフ、ゴルバチョフ時代のいずれも、ブレジネフ時代よりも締めつけは緩和したし、とくにゴルバチョフ時代にはフルシチョフ時代以上に自由化が進んだ。これはソ連史の常識であるが、不破はどうやらスターリン時代の恐怖政治と囚人労働がそのままソ連崩壊までずっと続いたと思っているらしい。+
 すでに過去の『さざ波通信』などで、第16回大会における不破の報告を何度か取り上げたが、ここでは、もう一つの材料として1984年に出版された不破の『講座 日本共産党の綱領路線』(新日本出版社)を取り上げよう。1994年の第ソ連完全変質論のわずか10年前に出版された本書で不破は、1960年代における中国のソ連社会主義完全変質論に対して当時のわが党が反対して闘った事実を誇らしげに紹介しつつ、次のように述べている。
 **「そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから」(115頁)。**
 1984年の時点ですでに決着がついていたはずなのに、その10年後には日本共産党は、かつての中国とまったく同じソ連社会主義完全変質論に転向したのである。とすれば、当然、当時の論争において正しかったのは中国で、当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない。
 いずれにせよ、こうした歴史的経過は、少なくとも1990年代以前に入党した共産党員にとって常識である。つまり、不破がここで言っていることは、まったく見え透いた嘘なのである。不破哲三ほど、平然とさまざまな嘘をついてきた共産党指導者はおそらくいないだろう。<一文、略>
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 以上で、紹介終わり。
「1990年代以前に入党した共産党員」にとっては、日本共産党最高幹部たち(とくに不破哲三)の言うことの「ウソつき」ぶり、一貫性のなさ、無反省ぶりが明らかだ、というわけだ。
 上では全文が正確には紹介されていないので、不破哲三等が1989年以前に何と書いていたかを、<社会主義の復元力>部分も含めて、別にこの欄でそのまま引用・紹介する。
 なお、上の文章の書き手または当該サイトの設置者は、日本共産党中央に対しては批判的なようだが、少なくとも形式的にはまだ党員なのだろうし、上以外の書きぶりを見ると、なおも「左翼」の立場にはいるようだ。
 <つづく>

憲法学者のあり方を大石眞(京都大学)が読売で語っていた。

 かなり遅いが、昨年・2015年8月2日付読売新聞で、大石真(京都大学)は、憲法(九条を含む)解釈の変更はありうること、「憲法学者は、政権へのスタンスでものを言ってはいけない」こと等を以下のように語っていた。
 森英樹・浦田一郎等々の日本共産党員憲法学者に直接の影響はかりに受けなくとも、かつての指導教授や同窓学者たち、現在所属機関の先輩・同僚、あるいはその大学・学部自体の意見や雰囲気等に影響されて自分自身の学問・研究の「自由」を失っているような得体の知れない憲法学者が多い中で、まともな憲法学者もいるものだ。
 以下に述べられていることにほぼ異論はない。後世の学界と日本のためにも、記録し記憶しておく必要があるだろう。
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 ――安全保障関連法案の国会論戦では、「合憲か違憲か」がいまだに議論の中心だ。
 中身の議論が深まっていないのは残念だ。野党は法案の印象ばかりを批判している。「戦争法案」というネーミングはデマゴギー(民衆扇動)で、国民の代表である国会議員が使うべき言葉ではない。野党代表が、世論調査を基に「国民の多くが憲法違反だと感じている」と訴えるのも違和感がある。国会議員が自ら判断を放棄しているようなものだからだ。
 政府が既存の法律10本の改正案を平和安全法制整備法案として束ねたのも、議論を分かりにくくしている。一括法案を否定するわけではないが、切り分ければ、野党が反対しない部分もあっただろう。政府は丁寧に切り分けて説明しないといけない。安倍首相のヤジは品性にかかわる。控えてほしい。
 ――憲法9条と安保法制の関係をどう考えるか。
 憲法が作られた時、集団的自衛権を行使する事態なんて、誰も予想していなかったはずだ。人定法は、過去の事象に対する判断や評価から、条文ができている。想定していなかった事態に対し、憲法をつくった人がどう考えていたかを想像するなんておかしい。改正手続きが定められているのは、「憲法がすべてお見通し」ではないからだ。
 もちろん、憲法が侵略的な武力行使の放棄を定めているのは疑いようがない。憲法解釈も安定している方が望ましい。しかし、国際情勢は絶えず動いている。安全保障政策は、国際情勢を考慮して、解釈変更の余地を残し、憲法の規範と整合性を取っていくべきだろう。
 例えば、ヘイトスピーチを取り締まるためにも、憲法解釈の変更が必要だ。今の解釈では、憲法21条の「集会、結社、表現の自由」が尊重され、取り締まることができない。だから、日本は、ヘイトスピーチを規制する法整備を求めた国連の人種差別撤廃条約の第4条を留保している。9条の解釈変更に反対する人たちは、ヘイトスピーチを取り締まるための解釈変更にも反対するのだろうか。憲法解釈は、政策的な要素に左右され得ることを認めた方がいい。
 野党は憲法解釈変更を「立憲主義を覆す」と批判しているが、そもそも憲法の役割は、正しい形で政治家に権力を与えることだ。「権力を抑制しなければならない」という主張は、政治家には存在価値がない、と自ら言っているようなものだ。国民が選挙で投票するのも、権力を作り、議院内閣制を確立するためなのだから、立憲主義の議論は不毛だ。
  〔見出し〕 野党の「立憲主義」議論 不毛
 ――衆院憲法審査会での違憲論争をきっかけに、憲法学者が注目を浴びるようになった。
 我々憲法学者は、政権へのスタンスでものを言ってはいけない。そこを誤れば、学者や研究者の範囲を踏み外してしまう。時代とともに変わる規範を、きちんと現実の出来事にあてはめることが責任ある解釈者の姿勢だと思う。内閣や国会の法制局はそうした役割を担っている。最高裁も、法文を大事にしながら、起きた出来事にいかに妥当な解決策を見いだすかに腐心している。憲法学者にも、そういう姿勢が求められるのではないか。
 (聞き手 橋本潤也)
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 以上 

Hoover: Freedom Betrayed, p.875-6〔フーバー回顧録08〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 08
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.875-6
 〔第一節〕 一九三三年の世界経済会議
 第一。ルーズベルトが国際的な政治家資格を失墜するに至った第一回め(でかつ重要なもの)は、一九三三年の世界経済会議を破壊したことであった。この会議は英国の首相・マクドナルドと私自身〔フーバー〕が準備したもので、一九三三年一月に開催することになっていた。ルーズベルトが(大統領に)選出されたため、六月に延期された。あの頃、世界は全世界的不況からまさに回復し始めていた。しかし、世界はひどい通貨戦争に引き込まれており、貿易障壁を拡大していた。初期の仕事は、専門家たちによってなされていた。ルーズベルトは十名の首相たちをワシントンに呼び集め、国家間の決済における金標準(本位)制を復活することに合意した。〔にもかかわらず、〕この会議の途中で突然に、ルーズベルトはこうした企図を覆し(「爆弾投下))、会議を挫折させ、達成したものが何もないままで死に至らしめた。ルーズベルト自身の国務長官であったハルは、この行為こそが第二次世界大戦の根源であったと、明白に非難した。(注1.)
 注1…第1章参照(編者〔G.H.ナッシュ〕注記-この文書の脚注はすべてフーバーによるものである。)

 p.876
 〔第二節〕 一九三三年に共産主義ロシアを承認したこと
 第二。ルーズベルトにおける第二の正当な政治の喪失は、一九三三年に共産主義ロシアを(国家として)承認したことにあった。四代の大統領たちと五代の国務長官たちが-民主党であれ共和党であれ-(国際共産主義の目的全体と手法に関する知見をもって)このような行為〔国家としての承認〕を拒否していた。共産主義者たちは宗教的誠実さ、人間の自由および諸民族の独立を破壊する胚種を運び込むことによってアメリカ合衆国に侵透することができるだろうと、彼らは知っていたし、そう言った。ソヴィエト・ロシアを(国家として)承認することは他諸国の間での威信と力をそれ〔ロシア〕に与えるであろうと、彼らは考えていた。共産主義者たちは我々〔アメリカ合衆国〕の国境内部では悪辣なことをしないという、ルーズベルトと共産主義たちとの間の幼稚な合意のすべては、四八時間も経たないうちに、履行不能の登録簿に載ってしまった。共産主義者たちと仲間の旅人たちの長い車列は、行政部の高いレベルにまで入り込んだ。第五列の活動が、国全体に広がった。こうして、ルーズベルトが大統領職にあった一二年の間に、長く続く国家叛逆的な諸行為がなされたのである。(注2.)
 注2…第2章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.74-82, p.251-2.も参照。

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ03

 日本共産党は1991-92年頃にはどう言っていたか。
 一 1994年の不破哲三によれば、「スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質として」いた。
 ここでは、①「経済的な土台においても」ととくに挿入されていることに留意してよい。
 また、②「経済管理からの人民のしめだし」がなぜ「反社会主義的な制度」なのかという<理論>問題もある。社会主義において基本的な経済管理は国家が行なう(ことになっている)のではなかったのか。ここではとりあえず無視して、はしよる。
 また、不破哲三によれば、「三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論」は、「ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、抑圧型、人間抑圧型の体制だった」こと、「ソ連で崩壊したのは、社会主義では」なく、「社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義」だった。
 ここでは、「大国主義、覇権主義」とは諸国の各共産党間で(ソ連共産党と日本共産党の間で)見られたというもので、そのような「主義」はいかほどに「大国主義」国の<社会主義>国家性に関係するのか、上の最初の文章もいうように「政治的な上部構造」の問題にすぎないのでないかという疑問も生じる。だが、これも無視して、はしよる。
 二 さて、1989年11月09日・ベルリンの壁崩壊、1990年10年03日・東西ドイツ統一、1991年8月25日・ソ連共産党解体、、1991年12.月21日・ソ連邦解体。
 なお、日本共産党第19回大会が1990.07で、直後の第1回中央委員会で宮本顕治は(中央委員会)議長にしりぞき、不破哲三が(幹部会)委員長に、志位和夫が書記局長になった。1994年の第20回党大会まで党大会は開催されていない。
 この1990年半ばから、名目的にも不破哲三が日本共産党のトップに立った。
 1991年から既に紹介した1994年第20回党大会での綱領改定までの不破哲三らの文章を読むと、党員でも同党シンパでも全くないのに、なかなかに息苦しい。
ソ連・東欧での<混乱>が続き、ついにはソ連共産党が解散してまうという事態に遭遇して、以下は秋月の文章だが、<日本共産党だけは誤っていない、何とでもこの危機を乗り越えなければならない>、という日本共産党指導部の焦りや緊張感が伝わってくる。
 そして、1994年党大会以降のようにはまだ明確に、歯切れ良くは論じられておらず、日本共産党の論調にもまだ(ソ連共産党やソ連の解体「後」であっても)用語等の混乱が見受けられる。
 ソ連共産党解体後の1991年9月に、日本共産党は「中央の弁士」を全国の都道府県に派遣してソ連問題(と同党)に関する「特別の演説会」を開催した。聴衆総数は全国で6万人近くだった、という。
 委員長の不破哲三も1ケ月の間に、名古屋、東京、盛岡、新潟で「演説」している。
 以上は、不破哲三・ソ連覇権主義の解体と日本共産党(1991.12、新日本出版社)のまえがき等による。
 聴きに集まった者たちはおそらく、ほとんどが日本共産党員だっただろう。ソ連はどうなるのか、そして「わが党はこれからどうなるのか」と心配(?)していたに違いない。
 上の不破著の冒頭はそのときの演説内容を整理してまとめたもので「覇権主義の党の解体と日本共産党」と題されている。
 ソ連共産党はなくなっても(各邦の共産党がまだあるから?)ソ連はまだ残存しているから、という理由づけが成り立つのだろうか、上の論考の特徴は、ソ連の「覇権主義」に対する批判を内容のほとんどにしていて、ソ連国家自体の(新たな)性格づけについては何も語っていないことだ。
 ソ連国家自体について語っているのはむしろ、ソ連はまだ「社会主義」国だ、という理解だと読める。以下のとおり。
 不破哲三は、ソ連の覇権主義を「社会帝国主義」とも称しつつ批判・分析していることについて、1981年6月の宮本顕治(当時の委員長)のつぎの発言を引用している。もちろん、否定・批判しているのではない。
 ・ソ連の「アフガニスタンへの軍事的な浸入というのは、われわれは社会帝国主義的である、社会主義であるけれどもやっていることは帝国主義だという点では『社会帝国主義』という言葉もあえて使っているわけですが、これがやはり、…を仮借なく徹底的に分析しています」(不破・上掲p.21)
この部分はソ連は「社会主義である」ことを前提としているとしか読めない。かつ不破哲三は1991年12月刊行の本で、何の警戒?もなく肯定的に引用していたわけだ。
 つぎに、不破は、「ソ連の覇権主義者」による干渉の例として1963年頃の日本国内の大衆運動等の「分裂」を挙げ(日本社会党との友好化・「日本のこえ」等々)、次のように述べている。
 ・資本主義国の共産党に対して「これをつぶすためための全面攻撃をするなどということは、世界の共産主義運動に例のない、階級的な犯罪行為というべきものでした」(p.32-33)。
「世界の共産主義運動に例のない」ことだから「共産主義運動」ではないとの趣旨ではないだろう。上の文章の最後にある注記として、日本共産党がソ連共産党に対して1964年8月に送った「返書」のつぎのような一部が紹介されている。
 ・ 「あなたがたは、…。これは国際共産主義運動の歴史のなかでも、いまだかつて例のないものです」(p.33)。
 ところで、不破は「三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争…」と言っている。それは第8回党大会での1961年綱領採択後の日本共産党・宮本=不破体制において、という意味だろう。
 それほど重要な闘争であるならば綱領中に行動目標的に掲げられてもよかったはずだ。しかし、不破も言うように、「綱領に、覇権主義とのたたかいを、党のもっとも重要な任務の一つとして明記」したのは1985年の第十七回党大会での綱領一部改定によってだった。
 その改定綱領の内容を、不破哲三はつぎのように紹介している。『』内が綱領中の文章だろう。
 ・「一部の社会主義国に生まれた覇権主義というのは、まさに、歴史の発展にそむき、『国際緊張の一定の要因』になるとともに、『対外干渉と侵略にほんらい無縁である科学的社会主義の理念』を傷つけ、…害悪であること、これを克服することは、…、私たちが負っている大事な『国際主義的任務』であるということです」(p.40-41)。
 「一部の社会主義国」とはソ連に他ならず、明確に、ソ連は「社会主義国」だ、と理解していたことになる。
さらに、不破の同著中の「覇権主義の党の解体と日本共産党」は、ポーランド問題について1981年12月25日付赤旗に掲載された西沢富夫(当時、副委員長)の発言を「スターリン以来の官僚主義・命令主義が、社会主義からのいかに重大な逸脱であるかの、明確な分析をおこなった」と評価するが、そこで引用されている西沢発言の一部はつぎのようなものだ(p.83-84)。
 ・「今日の社会主義諸国と官僚主義の問題一般についてくわしく立ちいる」ことはしないが、「スターリンがソ連の最高指導者」だった時期に「根づき、強まった」。「ソ連のモデルは、戦後社会主義の道へふみだした他の東欧の社会主義国などにも」持ち込まれた。
 ・「あとから社会主義の道へふみだした国では、社会主義大国の覇権主義と国の指導部の自主性の欠如が結びついて。官僚主義の弊害が重大化するのです」。
 「社会主義大国」がソ連を意味するだろうことは明らかだ。
 なお、日本共産党は今日、スターリン時期以降のソ連のみならず、同時期以降の東欧諸国もまたソ連と同じ道を歩んだとしている。にもかかわらず、上では(日本共産党が今日ではもはや社会主義とは無縁だったとする戦後に!)東欧諸国も「社会主義の道へふみだした」としている。
ソ連が「社会主義」でもそれへの「過渡期」でもなく「人間抑圧型」体制になっていたはずの時期に、東欧諸国は「社会主義の道へふみだした」と言っているのだ!
 三 日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下(新日本出版社)は1994年5月に、ソ連の性格づけを綱領で大きく<変更・修正>した1994年の第20回党大会が開催される前に、出版されている。
 執筆者名は不明だが(むろん中央委員会による正規の文章ではある)、1985年の第17回党大会での綱領改定にもこの党史は触れている。
 改定の主要点とされる第一は、先に言及したが、ソ連覇権主義との闘争の必要性の明記だとされている。そして、この明記は、つぎのことを意味するとされる。
 ・「覇権主義、官僚主義など『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味していた。旧ソ連・東欧の劇的破たん」は、この明記の「歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」(p.239)。
 この文章は「旧ソ連・東欧の劇的破たん」の後で書かれている。にもかかわらず、ソ連と東欧諸国は「社会主義諸国」だったことをも明瞭に認めている叙述になっている。
 改定の主要点の第二は「資本主義の全般的危機」規定の削除だとされるが、その削除の理由の一つはつぎのことだと書かれている。
 ・「社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと」
 ここでも、(少なくとも)ソ連は社会主義国だったという理解が前提とされていることは明らかだろう。
 四 以上は、1991年と1994年の、それぞれ一つずつの文献の一部の紹介にすぎない。それでも、ソ連を「社会主義」国の一つと見る理解がなおも示されていることは明らかだろう。
 日本共産党と同党員たちはおそらくは1990年末、あるいは1991年末のソ連解体まで、ソ連は社会主義国だと思っていただろう。しかるに、ソ連・東欧「社会主義」国の崩壊によって混乱してしまったのだ。
 そこで、生き延びるために想起したのは、幸か不幸か、日本共産党はソ連の覇権主義と闘ってきた<栄光>の歴史がある、ということだったに違いない。
 そこで、もともとは「社会主義」諸国または諸共産党の間での、「国際共産主義運動」内部での闘いだった日本共産党のソ連(ソ連共産党)との闘いを、社会主義ではなくなっていたソ連との闘いだったと強引に理解し直すことにし、かつまた、長きにわたって闘ってきたのだ、などと姑息にも言いつくろうことにした。
 これが、不破哲三の、そして日本共産党の大ペテン・大ウソの一つだ。
 「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります」(不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版(2000)〕p.63)とは、よくぞ言えたものだ。
 ソ連解体後またはソ連共産党の解体後の1994年や1991年12月にもまだちゃんと(?)、ソ連等は「社会主義」国である(だった)旨を書いているではないか。あるいは、その旨の1980年代の共産党指導者たちの発言等を、その時期になお肯定的に引用・紹介しているではないか。
 不破哲三、そして日本共産党は、「ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、…、人間抑圧型の体制だった」と、1989-91年の以前に、いつ、どの文献で述べていたのか。
 さらにだが、かりに不破が、いかにスターリンに問題・欠点があっても、ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない、という旨をかつて明確に主張していたとすれば、一体どうなるのだろう??
 文献上の(実証的な)根拠はある。<反共デマ宣伝>をしているのではない。日本共産党や不破哲三自身の文献をきちんと見て書いている。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ02

 現在の日本共産党は、かつてのソ連をどう見ているか。
 2004年改定の日本共産党綱領は、次のように述べる。
 「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕(但し、この節番号は最初の一章からの通し)の一部を引用する。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」
  ・「ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。」
 ・「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。」
 以上
 以下は同「(九)」の冒頭の一文。
 ・「ソ連などの解体は、資本主義の優位性を示すものとはならなかった。」
 上の最初の方からだけでは、ソ連は「社会主義」国だったのか否かについての回答は示されていないようにも読める。「社会主義の原則を投げ捨てて」とは厳密には何を意味するか、はっきりしないからだ。
 しかし、そのあとに、「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた」とあることから、遅くとも「解体」の時点では、「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」だったと理解・認識しているようだ。
 このような理解に、党としては1994年の(綱領一部改定をした)第二十回大会で(1991年からは3年後になる)、達したとされる。 
 この大会の決定・報告集を所持していないが、綱領一部改定はソ連の認識を<修正または変更する>もので(このあたりが興味深いのだが)、当時日本共産党(幹部会)委員長だった不破哲三は、自らこう報告したと不破の2007年の著(スターリンと大国主義・新装版)のまえがきで紹介している(p.15)。
 ・「スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質としていました。」
 以上。
 また、不破哲三の2000年8月刊行の本である、不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕(2000、新日本出版社)p.62-63によると、上の党大会で不破は以下のように述べた。
 ・「社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか。」
 以上。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013.04、新日本出版社)でも、上の(直近の)不破発言部分はそのまま引用されているので、現在の日本共産党の公式見解と言ってよいだろう。
 ちなみに、現在の党(幹部会)委員長・志位和夫は、この不破発言部分を聞いて「私自身も大きな感動を覚えたものでした」、らしい(上掲・志位著p.195-6参照)。
 また、不破哲三は、2000年の上記書物・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕によれば、同年7月20日の講演で自らの上記発言部分も引用しつつ改定綱領の重要点の一つとして次の「認識」を、やや異なる表現で、こう述べている(p.63-65)。
 ・「第一は、ソ連型の経済・政治体制、社会体制にたいする徹底した告発、これは、社会主義とは縁のない社会だったという認識であります。」
 ・「『ソ連型社会主義』というのは、社会主義の典型でないことはもちろん、社会主義のロシア的な道でもない、…と告発しました。」
 ・「そういうわれわれの批判的な認識の深まりが、ソ連解体後一挙に明るみに出た社会の内情についての材料の分析と結びついて、第二十大会でのあの結論--ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、抑圧型、人間抑圧型の体制だった、という結論になったのであります。」
 以上。
 さらに、不破哲三は、同・スターリンと大国主義・新装版(2007.05、新日本出版社)のまえがきで、次のようにも述べている。
 ・「ソ連で崩壊したのは何だったのか。/ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません。そこで崩壊したのは、社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義です。」
 ・「その覇権主義は社会主義の産物ではなく、スターリンとその後継者たちが社会主義の事業に背を向け、社会主義を目指す軌道を根本的にふみはずすことによって生み出したものです。」
 以上。
 このとおりで、1994年から現在までの日本共産党のソ連についての理解・認識を知ることはできる。
 だがしかし、秋月瑛二が不思議にまたは奇妙に感じるのは、不破哲三のつぎのような文章を目にしたときだ。
 上記の不破(2000)・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕p.63は言う。
 ・「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります。」
 以上。
 はたして、日本共産党の「ソ連の大国主義、覇権主義との闘争」というのは、ソ連の<反社会主義>・<人間抑圧社会>との闘いだったのだろうか。
 「ソ連が解体してから」ではなく、それ以前から現在のような認識に立っていた(少なくともその一端は明確に示していた)、というがごとき書き方だが、これは、大ペテン・大ウソだ。また、そもそも、「ソ連が解体してからにわか」の時点では、現在のような認識ではなかったようだ。文献上の(実証的な)根拠はある。
 <つづく> 
 

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ01

 日本共産党ウォッチャーではないので、少なくとも継続的な日本共産党ウォッチャーではないので、同党関係文献を多数所持しているわけではない。もちろん、日本共産党を研究する学者・研究者でもない。
 日本共産党特集をしている最近の諸雑誌を一瞥して不満だと思う、つまりはそれらを見ても疑問を払拭できない、いくつかの基本的と思われる論点・問題に、以下しばらく言及する。
 すでに日本共産党の外部で議論や指摘がなされているものかもしれないが、残念ながら、秋月瑛二はきちんと読んだことがない。
 現在の日本共産党を観察・評価する場合に基本的と(秋月が現在)思っている論点・問題とは、次のようなものだ。「暴力」革命問題でも(1950年頃の歴史問題でも)、憲法問題でも天皇問題でもない。
 第一。日本共産党は、かつてのソ連=ソヴィエト「社会主義」共和国連邦は「社会主義」国ではなかった、と1991年以降は言っているようだが、1989-91年以前はどのように理解・主張していたのか。
 これ以前に(生成途上であれ)「社会主義」国と理解していたとすれば、そのように理解していたことを自己批判し、反省し、国民に、少なくとも一般党員に詫びるべきだろう。
 関連して第二。日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。
 このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=「社会主義」、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか。
 これにかかわって重要なのは、上の<それ>を現在の日本共産党は「社会主義」それ自体と認識・主張しているようだが、逸脱には<社会主義内部>あるいは<国際共産主義運動内部>でのそれまたは誤りもある、ということだ。現在の認識・理解のように、1989-91年以前の日本共産党も認識・理解していたのかどうか。
 兵本達吉・日本共産党戦後秘史(2005、産経新聞出版)にはこれらについての言及はない。
 雑誌・幻想と批評1~9号(はる書房、2004-2009)はすべて所持している。一瞥のかぎりで、黒坂真のいくつかの論考が関係している。のちに触れるかもしれない。
 それでも、黒坂が言及する不破哲三の前衛所収論考を見なくとも、ある程度丁寧に日本共産党の文献を見ていけば、上についてのいちおうの答は出てくる。
 <つづく>

日本共産党こそ主敵-10人に1人以上が投票する「左翼」の総本山

 日本共産党と同党員こそが主敵だというのは、むろん、中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)が味方であるという意味ではない。これらは十分に「敵」だ。だがしかし、日本国内にいる同類の組織や人間たちを批判しないでおいて、反中国や反米国だけをいくら説いてもほとんど空しいように思える。
 政権に加担したことがない日本共産党くらいを批判し、攻撃し、そして弱体化させることができないで、どうして中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)に勝てるのだろうか。
 中国や中国共産党を批判するまたは批判的に分析する(日本人による)書物・論考は少ないとは言えないだろうが、なぜそうした書物・論考はほとんど、日本共産党にも批判の眼を向けていないのだろう。
 無視してよいくらい、日本の共産党は微少な政党なのだろうか。
 2014年12月の総選挙(衆議院議員)における得票数・率を、日本共産党と自由民主党のみについて、小選挙区・比例区の順に比べる。数は1万以下を、率は1%以下を四捨五入。
 小選挙区  日本共産党  704万 13%
       自由民主党 2546万 48%
 比例区  日本共産党  606万 11%
       自由民主党 1766万 33%
 保守派の人々、論壇人あるいは「保守」系のつもりの出版社・新聞社は、 日本共産党が自民党と比較して比例区ではほぼちょうど1/3の、小選挙区では27%の得票を得ていることを意識しているだろうか。
 日本共産党は選挙で自民党のせいぜい10%・一割程度しか得票していない、と思っているとすれば大間違いだ。
 また、投票有権者の10人に1人以上は日本共産党の候補者の名をまたは日本共産党という党名を書いている、という現実を無視できないことは、当たり前だろう。
 日本共産党がこの程度は力を持っているからこそ、朝日新聞・岩波書店内やABC・TBS内の「左翼」は(党員がいることも間違いない)、あるいは非共産党系の論壇人・評論家・学者研究者類は、「安心して」、日本共産党と全く同じ又は同工異曲の 「左翼」的言辞を吐けるのだ。
 イタリアにはもはや共産党は存在せず、かつて社会党と共闘してミッテラン大統領を生み出したフランス共産党も今日ではわずか数%の得票率しか得ていない。
 その他のサミット構成国でいうと、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツにはもともと(大戦後は)、少なくとも合法的には共産主義・社会主義を目指すことを目標として明記する政党(共産党)は存在しない。
 八百万の神の国のためなのだろうか、日本人らしい鷹揚さ・寛容さのためもあるのだろうか。社会全体が、そしてまたいわゆる「保守」あるいは<自由主義>の陣営もまた、自民党ももちろん含めて、少しは異様だ、と感じなければならないと思う。

Hoover: Freedom Betrayed, p.881-2〔フーバー回顧録07〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 07
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.881-2
 〔第十六節〕 ポツダム
 第十六。第十六の盲目の政治を示したのは、ポツダムでのトルーマンであった。(アメリカ政治の)権力はいまや、民主主義諸国での未経験な人物たちに渡っており、〔一方、〕共産主義者たちはすべての重要な地点に進出していた。ポツダムでの合意のすべては、スターリンに対するそれまでの降伏の一連の正当化と敷衍であった。共産主義者による併合や傀儡化のすべてが、スターリンとの関係をさらに堅くした。のみならず、ドイツやオーストリアの統治に関する諸条項は、これら両国の一部がスターリンの懐に入ってしまうようにするものであった。賠償政策の結果として、アメリカの納税者たちには怠惰なドイツ人の救済費用として数十億(ドル)の負担が課せられ、ドイツの再興、そうしてヨーロッパのそれが、数年にわたって厳しく抑えつけられることとなった。戦争捕虜に対する悪意ある奴隷化や多数の諸民族の母国地からの放逐は、ヤルタ(密約)によって裁可され敷衍された。
 これに加えて、指導者〔高官〕たちの助言に逆らって、日本に対して無条件降伏を要求する最後通牒が発せられた。その最後通牒には、アメリカの経験ある多くの専門家の意見が推奨していた、ミカドの地位を維持することを許す例外条項は存在しなかった。日本人は回答としてこの点での譲歩のみを求めたのであったが、原子爆弾に遭遇した--そうして、最後に譲歩がなされた。(注16.)
 注16…第61章、第62章参照。

 p.882
 〔第十七節〕 原子爆弾を投下したこと
 第十七。アメリカの正当な政治の第十七の揺らぎは、日本人たちの上に原子爆弾を投下せよとの、トルーマンの非道徳的な命令であった。日本は繰り返し和平を求めていたのだということだけではなく、この命令は、アメリカのすべての歴史において比較のしようのない残忍な行為であった。これは、アメリカ人の良心に対して、永遠に重くのしかかるであろう。(注17.)
 注17…第62章参照。

 p.882
 〔第十八節〕 毛沢東にシナを与えたこと
 第十八。正当な政治の喪失の十八度めの歩みは、シナに関してトルーマン、マーシャルおよびアチソンによってなされた。まずはルーズベルトが共産主義者〔中国共産党〕との連立政府〔の樹立〕を蒋介石に対して固執して要求し、シナに関するヤルタでのおぞましい秘密協定がそれに続いた。その密約は、モンゴルを、そして実質的には満州を、ロシアに与えるものであった。トルーマンは、彼の左翼的(left-wing)な助言者たちの主張によって、また彼らの意向を実現しようとするマーシャル将軍を任用することによって、全中国を共産主義者たちに犠牲として捧げたのだ。最終的には4億5000万のアジアの人々をモスクワが支配する共産主義傀儡国家〔毛沢東の中華人民共和国〕に組み入れてしまったこうした政策について、トルーマンは政治の巨大な過ちをしたと、査定(評価=asses)されなければならない。(注18.)
 注18…第51章、第82章参照。

 p.882
 〔第十九節〕 第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth)
 第十九。モスクワ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムの諸会議およびシナに関する政策から、第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth、厄災の種)が世界のいたるところにばら撒かれた。そして我々は、何年もの「冷戦」を、ついにはおぞましい朝鮮戦争を、体験することとなった。そして、アメリカが再び勝利することを危うくする、北大西洋同盟の弱々しさをも。(注19.)
 注19…第82章、第83章、第84章参照。
 
 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.124-133, p.262-4.も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.879-881〔フーバー回顧録06〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 06
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.879-880
 〔第十一節〕 無条件降伏を要求したこと
 ルーズベルトの政治における第十一の巨大な過ちは、1943年1月にカサブランカで「無条件降伏」を要求したことであった。そこではルーズベルトは、我々の軍隊の助言なく、チャーチルの助言すらなくして、新聞一面の見出し(headline)〔「無条件降伏」が新聞に大きく取り上げられること〕を狙っていた。この要求は、全敵国の軍国主義者や扇動家に入り込んだ、そしてドイツ、日本およびイタリアとの戦争を長引かせた。最後には、降伏の際の大きな譲歩が日本とイタリアの両国には与えられた。〔一方、〕この要求は、ドイツ人がナチスを除去したとするならば、彼らには和平へのいかなる希望も与えなかった。苦難の結末となる戦争は、ドイツが再建するための基礎らしきものの一切を、残さなかったのである。 (注11.)
 注11…第42章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.111-, p.259-.も参照。 

 p.881
 〔第十五節〕 1945年5月-7月の日本の和平提案を拒絶したこと
 第十五。十五度目の正当な政治の喪失は、日本に関して、1945年の5月、6月そして7月に見られた。トルーマンは、日本人たちの白旗〔=降伏のサイン〕に注意することを拒絶した。ルーズベルトの「無条件降伏」に愚かにも従う義務は、トルーマンにはなかった。それ〔無条件降伏の要求〕は、欧州のアメリカ自体の軍事指導者によっても非難されていた。日本とは、ただ一つの譲歩さえすれば和平は達成できていたであろう。その一つとは、ミカドの地位を保全することであった。ミカドは、精神的にも非宗教的にも国家の頂点にあった。その地位は、一千年にわたる日本人の宗教的信念と伝統に根ざしていた。そして、我々が最後にようやくこの点に譲歩したのは、数十万の人命が犠牲になってしまった後のことであった。(注15.)
 注15…第61章参照。

  投稿者注記/藤井厳喜ほか・上掲書p.120-, p.261-2も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.879〔フーバー回顧録05〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 05
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.879
 〔第十節〕 三ヶ月の冷却期間をおく日本との合意の受諾を拒絶したこと
 第十。第十の正当な政治の喪失は、1941年11月に、三ヶ月の冷却期間をおくことを合意しようという、彼の大使が知らせた日本の天皇からの提案の受諾を拒絶したことであった。我々の軍官僚たちは、ルーズベルトに対して受諾するように強く働きかけた。そのとき日本は、ロシアが同盟国・ヒトラーに対して勝利するかもしれないと警戒していた。九〇日間の引き延ばし(delay)があれば、日本は戦意をすべて喪失していたであろう、そして太平洋には戦争が生じないままだったであろう。スティムソン日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその官僚たちは、日本人たちが明白な犯行をするように挑発する方法を探していたのである。こうして、ハルは馬鹿げた最後通牒(ultimatum)を発し、我々はパール・ハーバーで敗北した。
 全南アジアの日本占領地域における継続した損失と日本の勝利は、計算できなかったものであった。さらに、制海権を失ったので、ヒトラーとTogoは、我々の海岸線から見えるところで我々の船舶を破壊することが可能であった。(注10.)
 注10…第38章、第39章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.106-, p.258-.も参照。上のTogoは、Tojo=東條が正確だと見られる。〕

日本共産党こそ主敵-<悪魔の100年史>刊行を。

 月刊Will(ワック)は5月号で、日本共産党批判の特集を組んでいた。
 その他、雑誌Japanism等でも特集がある。
 しかし、一瞥のかぎりだが、私は不十分だと感じている。それについては近いうちに言及する。
 さて、月刊正論6月号(産経新聞社)の藤岡信勝論考の最後にこうある。正確には「若者」に対してだが。
 「日本共産党の歴史を、戦前は立花隆、戦後は兵本達吉の本を読んで知ってもらいたい」(p.135)。
 この二つを当然ながら秋月は読んでいるが、考えさせられることがある。
 それは、そう言えば、日本共産党の歴史(と現在)に関する詳細で学問的でもある(かつ分かりやすい)文献はなさそうであることだ。上の二つは、人文社会系の学者・研究者によるものではない。
 共産主義一般に関する(日本人による)批判的文献はないではない。また、ソ連や中国(・北朝鮮)の実態等に関する書物は多いとは言えないかもしれないが、まだある。
 しかし、日本の共産主義者たち、または肝心の日本共産党についての(むろんその歴史を含む)体系的・包括的な文献はひょっとすればまったく存在しないのではないか。
 研究者あるいは評論家と言われる人たちの中に、まともな(体系的・理論的も含む)日本共産党批判書を刊行している人はいるのだろうか。これは、日本の保守派=反共産主義派の大きな怠慢ではないか。
 人文社会系の学者たち、あるいはいわゆるアカデミズムが大きくコミュニズムに汚染されていて、現に日本にあったし、ある日本共産党の客観的分析、とりわけ批判的分析ができないだろうことは理解できる。だが、そのような実態こそ、いったい保守派は、とくに保守派とされる学者・研究者たちはいったい何をしてきたのかを疑問視させるものでもある。
 日本共産党自体の「社会科学的」研究こそが望まれる。処世・世渡りのために日本共産党自体の研究と公表をおろそかにしているとすれば(自民党についてはいくつかあるはずだ。55年体制とか「吉田ドクトリン」等々について)、本来は「社会科学」の精神・学問の自由の理念から離れている。
 日本共産党は2022年、6年後に創立100年になる。現在の状況では、大々的に<日本共産党の100年>とかの書物を「党史」として刊行する可能性が高いだろう。
 まだ6年ある。共同作業でもよいから、日本共産党自身が宣伝するような歴史と実態を同党はもつものではないことを、詳しく包括的に(かつできるだけ分かりやすく) 叙述する書物を保守派=反共産主義の学者あるいは論壇人たちは出版してほしいものだ。

Hoover: Freedom Betrayed, p.878-9〔フーバー回顧録04〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 04
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.878-9
 〔第八節〕 日本に対する1941年7月の経済制裁
 第八。ルーズベルトの政治における第八の巨大な過ちは、一ヶ月のち、1941年7月末の、日本に対する全面的経済制裁だった。この制裁は、砲弾発射を除くすべての意味(本質)における戦争だった。ルーズベルトは再三にわたって自分の部下から、このような挑発は遅かれ早かれ戦争への報復を生み出すだろうとの警告を受けていた。(注7.)
 注7…第37章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.99, p.256も参照。

 〔第九節〕 近衛の和平提案の受諾を拒絶したこと
  第九。1941年9月の、太平洋平和のための近衛首相の和平提案をルーズベルトが侮蔑的に拒絶したことによって、第九の正当な政治の喪失が完全になされた。近衛の諸提案を受諾するように、アメリカやイギリスの日本駐在大使たちは祈るような気持ちで強く働きかけていた。近衛が提案した諸条件に従えば、おそらくは満州(注8)の返還を除いて、アメリカはすべての目的を達成したことになっていたであろう。その満州返還ですら、まだ議論する余地を残していた。 皮肉家(犬儒学者)は、ルーズベルトはこの些末な問題をきっかけにして大きな戦争を起こそうと意図していた、そして共産主義ロシアに満州を与えた、と想起するであろう。(注9.)
 注8…満州はすでに、1933年5月31のタンクー(Tang-Ku)合意においてシナによって日本に譲与されていた。
 注9…第38章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜ほか・上掲書p.102-4も参照。

日本共産党こそ主敵-月刊Hanada6月創刊号を少し読む。

 月刊Hanada6月創刊号(飛鳥新社)を一読。
 すでにある月刊Will6月号(ワック)と比べてみると、月刊Hanadaの方がよい。背表紙に「本当は恐ろしい日本共産党」とある。
 月刊Willには、目次を見ても共産主義・日本共産党に関するものが一つもない。時期的・政治的センスが相当に欠ける、と感じる。但し、裏表紙裏に西尾幹二全集の広告があるのはよい。
 月刊Hanada6月創刊号の既読のものは以下、(順番どおり)。
 ・西尾幹二「現代世界史放談-ペリー来航からトランブまで」
 ・名越健郎「日本共産党に流れたソ連の『赤いカネ』」
 ・藤岡信勝「騙されるな!共産党の微笑戦術」 以上、3稿。
 かつてのようには?、細かく紹介・言及・論及しない。 
 共産主義・日本共産党に関する、手垢のついた?、これまでにもあったような批判や分析は秋月瑛二にはもう十分だ。
 むろん歴史と伝統?に由来することも少なくないが、日本共産党の現綱領のもとでの現在の活動・主張を現在または最新の同党の現実の文献・文書等を素材にして、批判・分析することが必要だ(これは名越論考の有益性の否定をまったく意味しない)。
 この点、産経新聞も月刊正論も含めて-月刊正論はようやく5月号で特集を組んでいるが-保守派の議論には大きな欠陥があったと秋月は感じている(これは日本共産党はもちろん「左翼」に対しても言えることで、だから、長谷部恭男を自民党推薦委員とするような有力?自民党国会議員も出てくる)。
 日本共産党の卑劣さ・いやらしさを具体的に感じることのない、日本共産党の議論など無視して構わないと考えている、極論すれば保守の論壇内でぬくぬくと生きていければよいというがごとき論者がいるようだからこそ、日本共産党の棲息をなおも許しているとすら思える。
 1991年のソ連崩壊によって、勝負はついたとでも思って安心してしまっているのではないか。
 日本と日本人にとっての主敵は、日本共産党と同党員にこそある。
 アジアでは、自由主義と共産主義の闘いはなおも続いたままだ。
 もっとも、上の西尾幹二の論稿は、「放談」とはいえない、自由主義対共産主義という観点すら小さく思えるような大きなスパンに立ったものだ。自由対コミュニズムという基本的観点が誤っているとは思わないものの。
 西尾は予測する-何十年先か、地球は「再び大破壊を被る」、または「地球はカオスに陥る」。いずれも、アメリカが今後どうなるかに強くかかわる。それに応じて、日本と日本人はどう考え、どう行動すべきなのか。
 追-<堤堯の今月この一冊>も月刊Hanadaに移ったようで、堤は、藤井=稲村=茂木・日米戦争を起こしたのは誰か(勉誠出版、2016)を取り上げている。秋月瑛二が長い眠りから目覚めようかという気になったのは、この本と別のもう一冊(そのうち論及する)だったので、見る人は見ているな、という感はある。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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