秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2672/私の音楽ライブラリー⑨。

 私の音楽ライブラリー⑨。
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 26 →Marie Laforêt, La tendresse, 1964. 〔Marie Laforêt〕

 27 →舟木一夫, 夜霧のラブレター, 1965. 〔舟木一夫公式YouTubeChannel〕
    安部幸子・歌詞、山路進一・作曲。

 28 →Gigliola Cinquetti, La Rosa Nera, 1967. 〔Jose Almeida〕

 29 →布施明, 愛の終わりに, 1971.
    島津ゆう子・歌詞、クニ河内・作曲。ミ→上のミ、次いでレ→上のレという運びは単純で、ありそうだが、この曲のようにまで大胆に用いるのは「勇気」があるだろう。ミ→ラ→ドに次いでミ→ソ♯→シと上昇の仕方を変化させる曲もある。

 30 →小椋佳, 冬木立, 1978. 〔eisin555〕

 31 →Barbra Streisand, Woman in Love, 1980. 〔just73〕

 32 →Sylvie Vartan, Nicolas, 1979. 〔Officiel〕

    →天地真理. 初恋のニコラ, 1980。 〔3366 Mari〕
        訳詞/麻木かおる。 

 33 →井上陽水, ジェラシー, 1981. 〔kantarokanna〕
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2671/1892年の日本音階研究—上原六四郎③。

  前々回(→①・No.2663)に、上原の「結論的叙述」は西洋音楽の五線譜ではなく「12段の枡形のような図」で示されていると書いたが、より正確な描写はつぎのとおり。
 長方形(枡形)が12個積み上げられている。接する箇所を一つの線とすると、下に何もない線(一番下の1個めの長方形の下部の線)から上に何もない線(一番上の12個めの長方形の上部の線)まで、13の横線がある。長方形の中にではなく、それらの線上の6箇所に「1」(一番下の第1線上)、「2」、「3」、「4」、「下5」、「上5」の表記があり、一番上の第13線の上には再び「1」の表記がある。
 一番下の「1」を「ド」とした「5音」音階の並びを、<陰旋>と<陽旋>について、前々回にすでに記載した。
 <陰旋>。
 上行—①ド、②ド♯、③ファ、④ソ、⑤ラ♯、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ソ♯、④ソ、③ファ、②ド♯、①ド。
 <陽旋>。
 上行—①ド、②レ、③ファ、④ソ、⑤ラ#、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ラ、④ソ、③ファ、②レ、①ド。
 これらでの各音の表示は〈十二平均律〉等によるものではないので、誤解も生じ得るだろう。
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 各音の(1に対する)周波数比と各音間の周波数比の比率(間差)が明記されているので、これを紹介する。「下行」の場合も、小さい順に並べる。「⑥2」は秋月が追加した。
 <陰旋>。(p.97-p.98)
 上行—①1、②16/15、③4/3、④3/2、⑤7/4※、⑥2。
 下行—①1、②16/15、③4/3、④3/2、⑤8/5、⑥2。
 (上行⑤※についてはなお後述参照—秋月。)
 「間差」(p.106-7)。「各音間の音程」と称されている(同左)。上行と下行を一括する。
  ①-②16/15、②-③5/4、③-④9/8、④-下⑤16/15、④-上⑤7/6、下⑤-⑥5/4、上⑤-⑥8/7。
 原著p.107は、①を「第一音」と称し、ここでの⑥を「第一音甲」と称している。
 なお、上行⑤7/4※については、以下の旨の叙述がある。p.98。
 「上行第五音」に数種がある主因は流派にある。12/7と7/4は「西京地歌」に9/5は「関東の長歌」に用いられ、「山田流」は三種を「混用」する。但し、「音の一定不変なる楽器」では「上高中の中間」で代えるのが「適度」だ。
 要するに、諸音があって一定していないが、「中間」の7/4を選ぶのが適切だ、ということだと思われる。
 いずれを選ぶかによって、上行⑤の④や⑥との「間差」も変わってくる。p.106-7。
 上行⑤12/7の場合。④-⑤=8/7、⑤-⑥=7/6。
 上行⑤9/5の場合。④-⑤=6/5、⑤-⑥=10/9。
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 <陽旋> (p.101-2)
 上行—①1、②10/9、③4/3、④3/2、⑤9/5、⑥2。
 下行—①1、②10/9、③4/3、④3/2、⑤5/3、⑥2。
 「間差」=「各音間の音程」(p.107)。上と同じく、①を「第一音」と、ここでの⑥は「第一音甲」と称されている。上行と下行を一括する。
 ①-②10/9、②-③6/5、③-④9/8、④-下⑤10/9、④-上⑤6/5、下⑤-⑥6/5、上⑤-⑥10/9。
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  いろいろな数字が出てきた。上原の著での〈西洋音楽〉観や中国・日本での各音の呼称には立ち入らず、表面的な比較考察の結果だけを、とりあえず、示しておく。
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 既述のように、〈十二平均律〉での呼称に似た言葉を使うと、<陰旋>、<陽旋>の並びは、以下のように表現することができた。上行と下行を一括する。
 <陰旋>。
 ①ド、②ド♯、③ファ、④ソ、⑤ラ♯(下行はラ♭)、⑥ド。
 →①ドを「ミ」に替えての上行。①ミ、②ファ、③ラ、④シ、⑤レ、⑥ミ。
 <陽旋>。
 ①ド、②レ、③ファ、④ソ、⑤ラ#(下行はラ)、⑥ド。
 →①ドを「レ」に替えての上行。①レ、②ミ、③ソ、④ラ、⑤ド、⑥レ。
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 以上の「レ」、「ミ」等々はそもそも〈十二平均律〉での呼称に近いものとして選んでいるので、かりに〈十二平均律〉での呼称に従うと、元に戻って同じことになる。
 しかし、〈十二平均律〉では13音の12の「間差」は全て同じ数値であるのに対して、上に見たように上原の言う<陰旋>、<陽旋>での「間差」は大いに異なる。
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 周波数比はつぎのとおりだった、上行・下行を一括する。
 <陰旋>。
 ①1、②16/15、③4/3、④3/2、⑤7/4(下行は8/5)、⑥2。
 <陽旋>
 ①1、②10/9、③4/3、④3/2、⑤9/5(下行は5/3)、⑥2。
 〈ピタゴラス音律〉での「ド」に対する「レ」、「ミ」等々はつぎのとおりだ。この音律での全12音、「7音」音階での周波数比はじつは確言できない(私は説明の仕方に疑問をもっている)のだが、「定説」的なものに従って、上の6音の対1の周波数比を示すと、つぎのようになる。A=上の<陰旋>での①ド〜⑥ドの6音、B=上の<陽旋>での①ド〜⑥ドの6音について、ピタゴラス音律での各音の周波数比を示したもの。
 A/①1、②2187/2048(または256/243)、③4/3、④3/2、⑤128/81(ラ♭)、⑥2。
 B/①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16(ラ)、⑥2。
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 〈純正律〉での「5音」音階については省略する。
 私が頭と計算だけで作り出した「私的」音階の、M、N、Pの三種の「7音」音階+〈12音階〉の元はXとZだったが、そこでの「5音」音階の並びは、つぎのようだった。
 1、(4/3)、(3/2)、2という「3(4)音」のうちの最大の「間差」である4/3を小さい方から(9/8)で分割してXを、大きい方から(9/8)で分割してZを、作ることができた。
 X—①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 Z—①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
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  このように、既存のものとして知られているものの若干(+「私的」音階での途中)と「5音」が一致しているものは一つもない。日本の伝統的音階とされる四種との異同は、「日本の伝統的音階」は別の主題としたいので、ここでは取り上げない。
 しかし、〈十二平均律〉は別として、<陰旋>・<陽旋>、ピタゴラス音律、「私的」なX・Zにおいて、明らかに一致していることがある。
 それは、③と④の数値がそれぞれ全く同じ、ということだ。
 すなわち、第3音=4/3、第4音=3/2
 これらは、第1音を「ド」とすると、それぞれの「ファ」と「ソ」に当たる。
 また、〈十二平均律〉的に言うと「ファ」と「ソ」の二音が(4/3)と(3/2)になるということに限っては、これまでに言及したことがたぶんないが、〈純正律〉でも全く同じだ。
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 この、(3/2)と(4/3)がつねに使われているということは、きわめて感慨深い。
 1とその1オクターブ上の2のあいだに新しい音を設定しようとした古代からの人々がまず思い浮かべたのは、1に対する(2/3)と(3/2)の周波数比の音だろう、と想像してきたからだ((2/3)は容易に「同」音の(4/3)に転化する)。(3/2)と(4/3)の二音を、(1と2に次ぐ)「原初的」な音ともこの欄で称した。
 (3/2)と(4/3)は〈ピタゴラス音律〉での音の設定でも発生するが、この二音は〈純正律〉でも同じく使われる。
 周波数比が2対3または3対4ということは、1または2ときわめて「調和」または「協和」しやすいことを意味する(2との関係では3対4または2対3)。
 古くからヒト・人間はそう感じてきた。日本の人々もまた、おそらく明治期以前からとっくにそうだったのだ。
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2670/1892年の日本音階研究—上原六四郎②。

  上原六四郎・俗楽旋律考(岩波文庫、1927。第8刷/1992)
 上原がこの著で示した二種の音階は、この人が考案したものではなく、明治前半期に彼が当時の日本で実際に「聴いた」諸音楽を検討して「発見」した結果の音階だ。
 このことは、「一 緒言」に語られている。
 原文の文語体・旧仮名遣いではない「現代文」化を「一 緒言」について秋月瑛二が勝手に試みると、つぎのとおり。p.29-p.30。一文ずつ改行する。
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 「そもそも世に言う俗楽とは、社会の上流なると下流なるとを問わず、あまねく世間に行なわれる、俚歌、童謡をはじめ、浄瑠璃、端歌、琴歌、謡曲、尺八本曲の類を総称するものである。
 現今にその流派はきわめて多いけれども、その一二を除く他はおおむね同一であり、その発達とともにようやく分岐してきたけれども、曲節はまた相類している。
 しかしとりわけ、都府で行なわれているものと田舎間で行なわれているものとは、大いにその趣味を異にし、あるいは来源が同じではないようにみえる。
 よって、ここでは前者の類を都節と称し、後者の類を田舎節と名づける。
 〈改行〉
 雅楽には呂律等の旋法、西洋音楽(「西楽」)には長短の二音階があって、それぞれその曲節を律している。
 俗楽でもまた、そのような旋法がないはずはない。
 しかしながら、古来これを論ずる者なく、わずかに近時、伊藤脩二、瓜生寅等の両三氏がこれを論じているだけである。
 自分はもともと音楽に精しくはないけれども、明治8年以来少しだけこれの攻究を試みた。
 しかして、自分がもっぱら攻究したのは都節中の俗箏、長歌および京阪地方のいわゆる地歌ならびに尺八の本曲であって、田舎節、謡曲等はわずかにしかこれを玩味していない。
 加えて、すでに講究に年月を費やしたが、なお疑惑の箇所が少なくないので、これを書物に論載するようなことは他日に譲ろうと考えていた。
 しかるに、今回東京音楽学校長村岡範爲馳氏の命があったので、あえていささかこの論説を今日に試みるだけである。
 その足らない所は、怠らず討究して、他日に補うこととする。」
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  もう一つ、「十八 都節と田舎節との関係の事」を「現代文」化してみよう。「陰旋」、「陽旋」という言葉の由来の一端が書かれている。p.86-p.88。
 内容には難しい部分があるが、①「一」とは最も単純には今日に言う「一半音」に当たる(または、近い)と思われる。②「」とは、最初の一定の音、つまり「基音」のことだ(「絶対音」の呼称ではない)。この二点以外は、そのままにしておく。
 「十日戎のように田舎節を都節に変唄し、また沖の大船のように田舎節と都節を混用するものについて、田舎節音階と都節音階との関係を求めると、左図<前回に言及したのと同じ—秋月>のごとくであって、主として両音階の性質を変えるものは、その第二音と下行第五音との位置にある。
 すなわち、田舎節のこれら二音を一律低くすればただちに都節となり、都節のこれらの二音を一律高くすればただちに田舎節になることを知ることができる。
 〈改行〉
 田舎節と都節とにはこのような親密な関係があるがゆえに、これを譜表に示そうとする場合には、かりに田舎節を記入するに*dを宮とするときは都節もまたこれを宮としなければならず、あるいは都節を記入するに*eを宮とするならば田舎節もまたこれを宮とする必要がある。<一文、省略>
 〈改行〉
 田舎節の曲節は都節に比べるとおおむね爽快で、きわめて力がある。
 このことが、ややもすると、その曲節が野鄙に聞こえる理由であって、普通〔平凡〕である弊に陥りやすい。
 これに対して、都節はきわめて柔和な性質をもっている。
 このことが淫猥に傾きやすい原因であって、また普通である弊がこれに伴ないやすい。
 しかして、西洋音楽に長短の二音階があるように俗楽にもまた二旋法があり、両者は全く性質を異にするのだから、自分は、都節の音階に陰旋の名を与え、田舎節の音階に陽旋との呼称を与えて、この区別を試みる。」
 以上。
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2669/私の音楽ライブラリー⑧。

 私の音楽ライブラリー⑧。
 一つを除き、「Yoshiki」名義でuploadされているものの中から選んだ。
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 22 →X Japan, Art of Life 〔Yoshiki〕.

 23 →Yoshiki, Tears 〔Yoshiki〕.

 24 →Yoshiki, Requiem 〔Yoshiki〕.

 25-01 →Yoshiki, Angel 〔Yoshiki〕.
  Yoshiki が歌唱している。

 25-02 →X Japan, Angel 〔X Japan official〕
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2668/西尾幹二批判071—全集第8巻②。

 西尾幹二全集第8巻(2013)の「後記」の第一頁(p.787)には、前回に触れたいくつかの点以外に、注目を惹く文章がある。
 第一に、1980-90年の約10年、「思想家としても、行動家としても、限界までやったという思いももちろんないではない」、とある。
 これは2013年時点の感慨なのか、1990年初頭にすでに抱いたものなのかは明確ではない。
 しかし、少なくとも2013年の時点ですでに、自らのことを「思想家」かつ「行動家」だと書いている。
 秋月瑛二は、2019年1月の文春オンライン上で(私には)「『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家」としての思いがある(だから椛島有三と妥協できなかった)と語った部分が、最初かと思っていた。
 2013年に、何の限定も付けずに、かつ自らの文章で「思想家」(かつ「行動家」)と称していたのだ。
 なお、いつの時点であれ、西尾を本当に「思想家」だと見なしている人は何人いるのだろうか。
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 第二に、「人生で一番よいものの書ける、体力もある充実した歳月に私は教育改革のテーマに集中していた」約10年が経った後について、こうある。一文ずつ改行する。
 「フッと憑きものが落ちたかのように、この世界から離れてしまった。
 そのあと二度とこの種の教育論は書いていない
 日本の教育の行方に絶望したからだともいえるし、教育を考えること自体に飽きたからともいえる。」
 これは、じつに驚くべき文章だ。1990年前半での述懐ならばまだ分かる。
 しかし、西尾幹二はその後、「教育学」研究者の藤岡信勝と出会い、1996-1997年に〈新しい歴史教科書をつくる会〉を設立し(記者会見は1996年12月)、自分が「初代会長」になったのではないか。
 この「つくる会」とその運動は、名称上も「歴史教科書」に関係するもので、日本の「歴史教育」を正面から問題にしていたのではないか。当然に、「教育改革」と関連する。
 それにもかかわらず、いかに「会」とは直接の関係がなくなっていたとは言え、2013年に、1990年初頭以降は「日本の教育の行方に絶望した」または「教育を考えること自体に飽きた」、という旨(こうとしか読めない)を書けるとは、いったいどういう<神経>のもち主なのだろうか。
 この人にとっては、「教科書」も「教育」も大した問題ではなく、これらとは別の次元の「思想」・「精神」または「歴史哲学」に、あるいは自分が「会長」として目立っていて〈有名〉であることに、最も大きな関心があったのかもしれない。
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 第三に、「人生の重要な時間を費やした貴重な体験からもパッと離れ、たちまち遠くなってしまう」ことについて、こうある。
 「ある意味で悪い癖で、私は感動だけを求めていて、これはその後の人生でも繰り返されたパターンである」。
 これは、西尾が「その後の人生」や自己の「癖」について語っていて、興味深い文章だ。
 そして、最も気になる重要な言葉は、「私は感動だけを求めてい」た、という部分だと思われる。
 西尾がそれだけを求めていた(その後でもそうだったとする)「感動」とは何か
 「真実」でも、「正義」でもない、「感動」だ。
 この「感動」は、教育改革に自分の見解が採用された、それに影響を与えた、というものではないだろう。
 そして、教育改革(そのための「臨教審」・「中教審」答申等)をめぐって(当時は2013年時点よりも多様な全国紙を含む)諸情報媒体から、西尾幹二個人の発言または原稿執筆が求められ、西尾の名前が知られ、注目され、〈有名になった〉こと、これこそがこの人にとっての「感動」であったように思われる。
 すでにこの欄に書いたことだが、「真実」、「正義」、「合理」性は、西尾幹二が追求してきたものではない〈有名〉・〈高名〉な「えらい人」と多数の人々に認知されるという「陶酔感」、「感動」を得ることこそが、この人が追求してきた最大の価値だった、と考えられる。
 もちろん、そうした「願望」が実現されたかは、別の問題になる。
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 つづく。

2667/西尾幹二批判070—全集第8巻①。

 西尾幹二全集(国書刊行会)について、「グロテスク」とか「複雑怪奇」と評したことがある。以下の巻に即して、これを見てみよう。
 西尾幹二全集第8巻・教育文明論(国書刊行会、2013。全804頁)。
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  目次を概観し、さっそくに「後記」を見てみる。
 冒頭に、こうある。p.787。
 「『教育文明論』という題で編成した本全集第8巻は、私の45歳から55歳にかけての10年間、…私が情熱を注いだ教育改革をめぐる論考の集大成である」。
 『教育文明論』という単著がすでにあるのではないことが、分かる。
 しかし、上の文章にはすでに、「大間違い」または「ウソ」がある。
 西尾は1935年生まれなので、「私の45歳から55歳にかけての10年間」とは、ほぼ1980年から1990年の10年間を意味しているはずだ。
 しかし、この巻に収載された個々の論考類には、上の範囲を逸脱しているものがある。決して、ごく一部ではない。
 「I 」の中にまとめられている6つの小論考の発表年月は、順に、1974年3月、1976年8月、1978年4月、1978年6月、1979年3月、1979年5月。
 「VI」の中に収められている3つの論考の発表年月は、順に、1991年1月、1993年3月、1995年5月。
 全てが1980年〜1990年の範囲を超えている。なお、「I 」の表題が「…を書く前に…考えていたこと」であることでもって釈明することはできないだろう。「I 」もまた、この「巻」の一部だからだ。
 さらに、上の「後記」冒頭の文章には、驚くべき「大ウソ」がある。
 計16頁ある「後記」の最後の方の15頁めになってようやく、各個別論考、最初に収載した単行本、そしてこの全集との関係についての記述が出てくるのだが—後述のとおり、この点こそ「異様」なのだが—、そこで初めにこう書かれている。
 「…以外の文章を収録した単行本名と各作品名を記すと次の通りである」。
 「…」で記載された文章(単著)は、そのままこの巻に収載した、との趣旨なのだろう。
 「…」の部分に記された単著の名、本巻での符号、当初の発行年月は、つぎのとおりだ。発行年月は「後記」には記載がなく、この巻での最終頁に記されている。
 ①『日本の教育 ドイツの教育』、「II」、1982年3月。
 ②『教育と自由』、「V」、1992年3月
 何と、かつての単行本を単独の「II」・「V」との数字番号を当ててそのまま収録したらしき二つの単行本のうち一つは、「私の45歳から55歳にかけての10年間」に刊行されたものではない。
 また、以下で「C」と略記するものについて、上二つに似た紹介をすれば、こうなる。
 C=『教育を掴む』、「III」の一部と「IV」、1995年9月
 この1995年9月は刊行年でそれに収録した個別論考類の発表年ではない。しかし、これに収録されたと各論考類の末尾に記載された①〜⑤のうち、②〜⑤の発表年は、それぞれ1991年1月、1991年4月、1991年4月、1991年5月だ。
 いずれにせよ、これらも1990年よりも後に書かれている。
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 西尾は、かつての自分自身の書物や文章がいつ書かれて発表されたかをきちんと確認しないままで、「後記」を書いているのだ。「大まかには」、「おおよそ」といった副詞を付けることもなく。
 以上は、西尾幹二の文章は「信頼することができない」ことの、まだ些少な一例だ。
 ——
  西尾は「後記」で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 くどくも、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
 しかし、第一に、こうした趣旨を西尾自身が破っており、「余計な解説」以上のことを彼自身が「後記」で書いている。この点は、別の回で扱う。
 第二に、「そのまま」「素直に」読んで、とか、「いわば10年間にわたる一つの精神のドラマ」だといった文章自体が、2013年時点での、自分のかつての書物や論考についての読者に対する「読み方ガイド」であり、2013年時点での「誘導」になっている。
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  上のことも西尾の自己「全集」観を示していて、重要だろう。 
 だが、全集の読者・利用者が「編集者」に期待するのは、上のような<贅言>をくどくどと記すことではなく、最初に発表した論考、それらを収載してまとめたかつての単行本、この全集の巻での掲載の仕方の関係を、きちんと、丁寧に明らかにしておくことだろう、と思われる。全集の「緒言」・「まえがき」または「後記」・「あとがき」類は、そのためにこそあるべきだろう。
 だが、西尾の「全集」観は、自分の「全集」については、明らかにそうではない。
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 計16頁の「後記」の15頁めを見てようやく分かるのは、この巻に収められている主要部分は上記の二つの単行本であることのほか、ほとんどの文章(「作品」)は三つの単行本にかつて収録されていた、3つだけはこの全集が初めて収録した、ということだ。
 しかし、第一に、これら三著(上記の二著以外)に収録されていたものは全てこの巻にあるのか、それとも別の巻に入っているものもあるのかは、明記されていない。
 かつまた、第二に、これら三著に収録されていたものが、全集のこの巻でどのように配置されているのかは、「後記」のこの箇所では全く記されていない。
 したがって、この巻の読者は、目次と「後記」のこの箇所(p.803-4)を自ら照合させて、かつての収録関係を理解するしかない。
 ①最初に発表した雑誌や新聞等々の特定、②それらをかつて刊行したどの単行本にすでに収録したのかの特定は、一覧表的に明らかにされておくべきだと思うが(それが「全集」の第一の役割だと思うが)、西尾「全集」のこの巻では、なされていない。かつての一冊の著書をそのまま全集の一巻とした例外的場合を除いて、その他の各巻と同様に、<複雑怪奇>な「構造」になっている。この巻での個々の論考等の末尾には、①しか記載されていないのだ。
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 秋月において、この「複雑さ」を解消する作業を行なってみよう。一部についてに限られる。
 「I」、「III」、「IV」はこの巻での番号、「A」、「B」、「C」はかつての単行本(各々、1981年、1985年、1995年刊)、①・②・…はこの巻の「I」等の中の順の番号(この巻にはこれらの数字は目次にもない)。この巻に「初出」のものもある。
 「I 」①〜③→全集に初出。④・⑤→「A」、⑥→「B」。
 「III」①〜⑯→「B」。⑰〜⑳→「C」。
 「IV」①〜⑤→「C」
 以上。
 なお、つぎのコメントが「後記」に付されているものがある。
 「III」③—「(『…』に改題して収録)」。
 これはどういう意味だろうか。「…」の部分はこの巻にはないからだ。
 おそらく、この巻では元に戻したが、「B」に収録したときは「…」と改題した、という意味なのだろう。表題自体が、最初の発表時、過去の単行本時、全集収録時で異なり、「B」でだけ異なる、というわけだ。
 一方、個々の論考類の出典について、全集のこの巻に、それらを掲載した末尾に「改題」と明記しているものがある。
 例、「III」④、同⑤、同⑥、同⑨、同⑬、同⑰。
 これらはおそらく、全集収録時ではなく、上の④〜⑬はかつての単著「B」に収録する際に、上の⑰はかつての単著「C」に収録する際に、「改題」した、という意味なのだろう。
 「改筆」と明記されている場合もある。「III」⑮。
 おや?と感じさせるが、おそらく、全集収録時ではなく、かつての単著「B」に収録する際に「改筆」した、という意味なのだろう。
 全集に収載するときに、かつての「B」で示した出典や「改筆」の旨を、全集時点でも何ら変更なく<そのまま>使って示しているわけだ。
 ——
  以上は、読者・利用者に対する「編集者」としての「親切さ」または「丁寧さ」の欠如だ、と論評できるだろう。「複雑」であり、「紛らわしい」ことの原因になっている。
 しかし、それ以上に<いいかげんさ>を感じさせるところが、「後記」にはある。
 第一に、上に言及した、各論考等とかつての単行本との収録関係に関する箇所(p.803-4)には、<「IV」①〜⑤→「C」>という旨の記載が、いっさい存在しない。
 第二に、この巻の「III」の内容の紹介の一部として、「後記」に、「臨教審の答申が出るたびに『毎日新聞』がそのつどつききりで私の批判的所見を掲載した。四度に及ぶ同紙の答申直後の私の記事を全部収めて、記録としておく」と書いている。p.791。
 これは相当に恣意的だ。なぜなら、まず、「III」の中にはもう一つ(5つめ)の「毎日新聞」寄稿文がある(⑳)。ついで、「III」の中には、「日本経済新聞」と「サンケイ新聞」への寄稿文も一つずつある。さらに、「IV」のなかには、「産経新聞」、「読売新聞」、「朝日新聞」への寄稿文が一つずつある(「IV」③〜⑤)。
 西尾はおそらく、当時に「毎日新聞」に多数寄稿したことを、2013年に振り返って思い出したのだろう。その結果として、他の新聞については「後記」に書かなかったわけだ。
 また、「文藝春秋」と「月刊正論」の名だけ出しているようだが(p.791)、実際には「諸君!」、「中央公論」、「週刊文春」等もあるので、決して網羅的に言及してはいない(言及するか否かは読者・利用者には分からない「恣意」によるのだろう)。
 ——
 ところで、ここでの主題から逸脱することを承知のうえで書くが、この当時に西尾幹二が寄稿した(執筆を依頼された)新聞や雑誌等の名を見ていると、興味深いことに気づく。
 すなわち、政府関係の「臨教審」や「中教審」の答申に批判的だった西尾幹二は、幅広く、多様な情報媒体に登場していた。「毎日新聞」や「朝日新聞」は当時にどういう基本的性格の新聞だったかを詳しく正確には知らないけれども、やはりどちらかと言えば「左翼的」だっただろう。
 このような状況は、1996-97年のいわゆる「つくる会」設立と西尾の初代会長就任後から全集のこの巻発行の2013年頃のあいだにこの人が寄稿した新聞や雑誌等とは、大きく異なっていた、と思われる。
 言い換えると、およそ1980年前後から1990年代の初頭まで、西尾幹二は決して「保守」を謳う評論家ではなかったように推察される。
 「反共産主義」者またはマルクス主義に無知でそれに影響を受けなかった「非共産主義」者だったかもしれないが、この時期の西尾はまだ今日的に言う「保守」を標榜していなかった、と思われる。
 のちの2020年刊の同・歴史の真贋(新潮社)のオビに言う「真の保守思想家」というものとは大きくかけ離れていた、と言ってよいだろう。
 1990年代後半には「保守」の立場を明確にし、「つくる会」会長として協力団体の「日本会議」ともいっときは良好な関係を築いた。
 「私の45歳から55歳にかけての10年間」(「後記」冒頭)を2013年に振り返って、西尾幹二は以上のようなことを全く想起しなかったようであることも、じつに興味深い。
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 つづく。

2666/「ドレミ…」はなぜ「7音」なのか⑦。

 結果としてはほとんど意味をもたせないのだが、行きがかり上、掲載する。
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  XX-01/M、XX-02=ZZ-01/N、ZZ-02/Pとして行なった作業を、XX-03/Q、ZZ-03/Rについても、行なってみよう。
 Q/XX-03について。各音を①〜⑧と表現する。「β」は「(32/27)の2乗根」のことだ。
 Q。①1、②9/8、③(9/8)×β、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦(27/16)×β、⑧2。
 間差は、つぎのとおり。
 Q。①-②9/8、②-③β、③-④β=(4/3)÷(9/8)β=(32/27)/β、④-⑤9/8、⑤-⑥9/8=(27/16)÷(3/2)、⑥-⑦β=(27/16)β÷(27/16)、⑦-⑧β=2÷((27/16)×β)=(32/27)/β=βの2乗/β。
 最大は①-②、④-⑤、⑤-⑥の3箇所にある9/8(=1.125)で、残り4箇所はβ だ。。 
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 R/ZZ-03について。各音を①〜⑧と表記する。「β」は「(32/27)の2乗根」のこと。
 R。①1、②β、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥(3/2)β、⑦16/9、⑧2。
 間差は、つぎのとおり。
 ①-②β、②-③β=(32/27)÷β、③-④9/8=(4/3)÷(32/27)、④-⑤9/8、⑤-⑥β=(3/2)β÷β、⑦-⑧9/8=2÷(16/9)。
 最大の間差は9/8(=1.125)で、3箇所ある。残りの4箇所はβ(=約1.0887)だ。
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  最大の間差は3箇所にある9/8なので、これを二分割しよう。
 そうすると、新しく3音が得られ、10音(11音)音階が形成されるだろう。3箇所全てについて二分割すること以外(いずれかを選択して分割すること)は、考え難い。
 さて、9/8より小さい数値で、これらの方式でこれまでに出てきているのは、β だ。
 そこで、9/8=β×θ、またはθ×βとなるθを求める。(9/8)÷βの計算で求められる。
 これは、1.125/βだが、βはもともと(32/27)の2乘根なので、1.125/約1.0887という計算式になる。答えは、θ=約1.0333になる。
 これを利用することにし、β とθ ではβ を先に置いて計算した結果を示し、かつ小さい順に並べると、こうなる。<>は間差。
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 Q/XX-03。①1—<β>—②β—<θ>—③9/8(②)—<β>—④(9/8)×β(③)— <β>—⑤(9/8)×(32/27)=4/3(④)— <β>—⑥(4/3)×β—<θ>—⑦(3/2(⑤)=(4/3)(9/8)—<β>—⑧(3/2)β—<θ>—⑨27/16(⑥)—<β>—⑩(27/16)β(⑦)—<β>—⑪(27/16)×(32/27)=2(⑧)。
 間差は、β が7箇所、θ が3箇所(=かつて9/8があった3箇所内)。
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 R/ZZ-03。①1—<β>—②β—<β>—③(32/27)—<β>—④(32/27)β—<θ>—⑤4/3=(32/27)×(9/8)—<β>—⑥(4/3)β—<θ>—⑦(3/2)=(4/3)×(9/8)—<β>—⑧(3/2)β(⑥)—<β>—⑨16/9=(3/2)×(32/27)(⑦)—<β>—⑩(16/9)β—<θ>—⑪(16/9)×(9/8)=2。
 間差は、β が7箇所、θ が3箇所(=かつて9/8があった3箇所内)。
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  若干のコメントを付す。
 第一に、Q、Rで10音(11音)音階を作ることができるが、最大の三つの間差箇所を全て二分割するかぎり、8音(9音)音階や9音(10音)音階はできない
 このかぎりでは、M、N、Pの場合と同じだ。
 第二に、M、N、Pで最後に得られる12音は「ドレミ…」という「7音」音階よりもむしろ、十二平均律、純正律、ピタゴラス音律に共通する<計12音>構造に対比できるもので、これらでの12音との差異を考察するのは意味がないわけではないと思われる。しかし、QやRは「10音」(11音)音階であるので、こいうした対照ができない。
 第三に、Q、Rは「β」=「(32/27)の2乗根」という数値を用いるもので、「θ」もこの2乗根を要素としている(θ=(9/8)÷((32/27)の2乗根))。
 この点で、全ての音を通常の整数による分数で表記することのできる純正律、ピタゴラス音律とは性格がかなり異なる。限定的だが、〈平均律〉と似ている側面がある。
 このことから、Q、Rは 「7音」および「10音」音階であることを否定できないが、以下では視野に入れないことにする。
 —- 
  M、N、P、それぞれの「7音」音階—いわば「私的」7音音階—および「12音」については、なお言及しておきたいことがある。
 各音の1に対する周波数比と、あえて1=「ド」とした「ドレミ…」を使った場合のこれらの音階を表記すると、既述のことだが、こうなる。再記する。
 M—①1、②9/8、③81/64、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦243/128、⑧2。
   =ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド。
 N—①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
   =ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド。
 P—①1、②256/243、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥128/81、⑦16/9、⑧2。
   =ド、レ♭、ミ♭、ファ、ソ、ラ♭、シ♭、ド。
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2665/西尾幹二批判069。

 全集刊行の時点での〈加筆修正〉の例は、一見明白ではないものの、つぎに見られるだろう。唯一ではないと見られる。
 西尾幹二全集第17巻/歴史教科書問題(国書刊行会。2018)には、目次上で「二大講演・新しい歴史教育の夜明け」と題された項がある。この巻の第三部・IIの第三の項として位置づけられている。
 一見「二大」の講演録が収載されていると思いきや、目次上ですでに上の題の下に「(一本化)」と記載されている。
 「二つの」講演内容を収載しているのではない。
 実際の掲載箇所の末尾には、つぎのように書かれている。
 「講演『新しい歴史教育の夜明け』(2000年8月21日、狭山市市民会館)と広島原爆慰霊祭記念講演『教科書問題の本質』(2000年7月30日、広島法念寺)を再編集した。」—第17巻p.507。
 これは何を意味するのか。
 表題からすると二つの講演の趣旨・内容は全く同じだとは思えないが、好意」的に解釈すれば相当によく似たものだったのだろう。そして、二つを別々に全集に掲載する必要はない、と判断したのだろう。
 しかし、その場合、上の「二つ」のうち一つだけをそのまま収載し、類似または同趣旨の講演を他に〜でも行なった、と残りのもう一つに関して注記して触れておけば十分だろう。
 しかるに、なぜ「一本化」したのか。
 それは、全集刊行の時点で、つまり講演時から8年後に、二本を併せて「加筆修正」したかったからだ、と考えられる。
 西尾幹二はこれを「再編集」と称することによって、「編集」レベルでの変更にすぎないと理解させたいようだ。これは、相当に愚劣、あるいは些細であれ「卑劣」だ。
 確実に、全集刊行の時点での「加筆修正」が行なわれている。しかも、どのように加筆修正されたかは、読者にはいっさい分からない。
 西尾幹二全集の読者・利用者は、こういうこともあるので、注意しなければならない。
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2664/私の音楽ライブラリー⑦。

 私の音楽ライブラリー⑦。
 ChaconneJ. S. Bach, Partita f. Solo Violin No.2, -V (BWV1004).
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 21-01 Sayaka Shoji, Bach, Chaconne〔lovesayakaori6hiro〕.

 21-02 Itzhak Perlman, Bach, Chaconne.

 21-03 Isabelle Faust, Bach, Chaconne 〔topic〕.

 21-04 Seiji Ozawa: Saito Kinen, Bach, Chaconne〔Bar MUSICA〕
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2663/1892年の日本音階研究—上原六四郎①。

  1892年(明治25年)に執筆が完了した原稿は1895年(明治28年)8月付で「金港堂」から出版された。
 岩波文庫に加えられたのは1927年(昭和2年)で、兼常清佐という校訂者の緒言は、その際に加えられたように推察される。
 上原六四郎・俗楽旋律考(岩波文庫、第8刷/1992)。
 この書物は貴重だ。最近にこの欄で日本独自の音階論はなかったようだと書いたり、三味線・尺八・和琴、長唄・浄瑠璃・義太夫、神道での「祝詞」等々を思い浮かべることなく、寺院での「声明」での音階は仏教界以外に広まらなかったようだと書いたりして、日本の「伝統的」音階や音階論の存在を知らなかったのは、素人とは言え、相当に恥ずかしい。
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  上原六四郎(1848〜1913)という人物の経歴、生涯については今回は省く。
 注目すべきは、この人は、130余年前の1892年の段階で、「日本の音楽」を関心と研究の対象とし、「陽旋」と「陰旋」(「陰陽二旋法」)—長音階と短音階に相当すると見られる—の存在を発見し、それらの音階(「5音」音階)の各音の位置を明らかにし、さらに各音の、一定の音(いわば「基音」)との関係での周波数比まで示していることだ。
 すでにこの欄に書いたが、私の中学生時代の音楽の教科書には、「日本音階」または「和音階」での長調(長音階)と短調(短音階)が、音階の五線譜での楽譜付きで紹介されていた。
 「律音階」、「民謡音階」、「都節音階」、「琉球音階」が日本の「伝統的」音階の四種として挙げられることがある。しかし、私がこれを知ったのは比較的最近のことだ。
 そして、日本音階での四種ではなく長音階・短音階という二種の取り上げ方は、少なくとも結果としては、上原六四郎の研究・考察の結果と符号している。
 現在の(とくに義務教育課程での)音楽教科書の内容を全く知らないが、私の中学生時代の文部省告示「教育指導要領」には、「音楽」教科の内容として、上の四種ではなく、「長音階」と「短音階」の二種だけが明記されていたのだろうと推察される。
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  上原の上の著は三味線の三線での位置から音階や音程の考察を始めていて、私にはほとんどか全く理解できない。
 結論的叙述が、西洋音楽の五線譜ではなく、12段の枡形のような図で示されている。第一音が一番下、最後の1オクターブ上の(第六)音が一番上にくる。数字番号しか書かれていない。
 強引に一番下の第一音を(Cでもよいが)「ド」として、現在に支配的な音・音階の表示方法に倣って各音の位置を表記すると、つぎのようになる(岩波文庫、p.105の図表による)。
 第五音だけが、上行と下行で異なる。
 「陽旋」
 ①ド、②レ、③ファ、④ソ、⑤ラ#、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ラ、④ソ、③ファ、②レ、①ド。
 上原著自体が、「律」音階—「所謂雅楽の律旋」(p.113)—と、この「陽旋」は「全く同物」だと明記している(同上等)。
 この点は、私自身が音階の形成を試みる中で出現した、ド—レ—ファ—ソ—ラ—ドという「5音」音階について記したことがある(各音は上の下行の場合と同じ)。
 これをさらに強引に、第一音を「レ」に替えて表現し直すと、つぎのようになる。
 ①レ、②ミ、③ソ、④ラ、⑤ド、⑥レ。
 下行—⑥レ、⑤シ、④ラ、③ソ、②ミ、①レ。
 これは、上行・下行ともに、かつての教科書上の「長音階」と全く同じだ。
 既述のように、<君が代>は、下行も含めて、この音階による。
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 「陰旋」
 ①ド、②ド♯、③ファ、④ソ、⑤ラ♯、⑥ド。
 下行—⑥ド、⑤ソ♯、④ソ、③ファ、②ド♯、①ド。
 これをさらに強引に、第一音を「ミ」に替えて表現し直すと、つぎのようになる。
 ①ミ、②ファ、③ラ、④シ、⑤レ、⑥ミ。
 下行—⑥ミ、⑤ド、④シ、③ラ、②ファ、①ミ。
 これは、上行・下行ともに、かつての教科書上の「短音階」と全く同じだ。
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  上に見た図表において、各段の段差(周波数比)は同一だと考えられているのだろうか。同じ数値で等分されているのが前提ならば、<平均律>になってしまう。
 だが、同一ではない。上原著でますます注目されるのは、各音の周波数比(これは弦の長さの比率でも表示され得る)を明記していることだ。
 次回に、続ける。
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2662/「ドレミ…」はなぜ7音なのか⑥。

 「音階あそび」を続ける。
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  これまでに導き出した1オクターブ内7音(最後を含めて8音)音階は、つぎの五種だった。便宜的に、M、N、P、Q、Rと称する。すでに見たように、XX-02とZZ-01は同じ結果になる。
 M/XX-01。①1、②(9/8)、③(81/64)、④(4/3)、⑤(3/2)、⑥(27/16)、⑦(243/128)、⑧2。
 N/XX-02=ZZ-01。①1、②(9/8)、③(32/27)、④(4/3)、⑤(3/2)、⑥(27/16)、⑦(16/9)、⑧2。 
 P/ZZ-02。①1、②(256/243)、③(32/27)、④(4/3)、⑤(3/2)、⑥(128/81)、⑦(16/9)、⑧2。
 XX-03とZZ-03はβ=(32/27)の2乗根=√(32/27)という数値を使い、分数表記ができないので、同列に扱い難い。いちおうは「7音(8音)音階」に含めつつ、叙述の対象としては後回しにする。
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  さて、新しい音を発見する手がかり・方法にしてきたのは、第一に、各音の間差(周波数比の差異)が最も大きい箇所を見出すこと、第二に、その間差をすでに得ている数値を用いて二分割することだった。2音を二つに分割すれば、新しい1音が得られる。
 最大の間差は、3→5の第一段階では、(4/3)だった。
 最大の間差は、5→7の第二段階では、(32/27)だった。
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 そこで、上の五種の7(8)音音階について、隣り合う各音の間差を求めてみる。最後の音を含めて8音があるので、間差は7箇所で見られることになる。まず、上のM、N、Pについて確認する。
 M/XX-01について。各音を①〜⑧と表現する。
 間差。①-②(9/8)、②-③(9/8)、③-④(256/243)=(4/3)÷(81/64)、④-⑤(9/8)、⑤-⑥(9/8)、⑥-⑦(9/8)、⑦-⑧(256/243)=2÷(243/128)。
 最大の間差は9/8で、5箇所ある。残りの2箇所の③-④と⑦-⑧はいずれも(256/243)だ。
 M①1—<9/8>—②9/8—<9/8>—③81/64—<256/243>—④4/3—<9/8>—⑤3/2—<9/8>—⑥27/16—<9/8>—⑦243/128—<256/243>—②2。
 なお、9/8=W、256/243=h、と略記すると、間差の並びは、WWhWWWh。
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 N/XX-02=ZZ-01について。各音を①〜⑧と表現する。
 間差。①-②(9/8)、②-③(256/243)=(32/27)÷(9/8)、③-④(9/8)=(4/3)÷(32/27)、④-⑤(9/8)、⑤-⑥(9/8)=(27/16)÷(3/2)、⑥-⑦(256/243)=(16/9)÷(27/16)、⑦-⑧(9/8)=2÷(16/9)。
 最大の間差は9/8で、5箇所ある。残りの2箇所の②-③と⑥-⑦はいずれも(256/243)だ。
 N①1—<9/8>—②9/8—<256/243>—③32/27—<9/8>—④4/3—<9/8>—⑤3/2—<9/8>—⑥27/16—<256/243>—⑦16/9—<9/8>—⑧2。
 なお、9/8=W、256/243=h、と略記すると、間差の並びは、WhWWWhW。
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 P/ZZ-02について。各音を①〜⑧と表現する。
 間差。①-②(256/243)、②-③(32/27)÷(256/243)=(9/8)、③-④(4/3)÷(32/27)=(9/8)、④-⑤(9/8)、⑤-⑥(128/81)÷(3/2)=(256/243)、⑥-⑦(16/9)÷(128/81)=(9/8)、⑦-⑧2÷(16/9)=(9/8)。
 最大の間差は9/8で、5箇所ある。残りの2箇所の①-②と⑤-⑥はいずれも(256/243)だ。
 P①1—<256/243>—②256/243—<9/8>—③32/27—<9/8>—④4/3—<9/8>—⑤3/2—<256/243>—⑥128/81—<9/8>—⑦16/9—<9/8>—②2。
 なお、9/8=W、256/243=h、と略記すると、間差の並びは、hWWWhWW。
 —
  間差についての結論はいずれも、<最大の間差は5箇所ある9/8、残りの2箇所はいずれも(256/243)>だ。
 これまでの新しい音発見の方法は最大の間差を二分割することだったが、ここでは、最大の間差である同じ9/8の箇所が5つもある。
 この9/8を二分割することは、つぎのとおり、不可能ではない。
 これまでに用いてきた数値で9/8よりも小さいのは(256/243)だ。よって、(9/8)=(256/243)×γまたは(9/8)=γ×(256/243)となる「γ」の数値を求めれば、新しい音が得られる(ちなみに、γ=(2187/2048)=約1.0679だ)。
 しかし、五つある(9/8)のうちどの箇所を二分割するか、という重大な問題に直面せざるを得ない。
 そしてまた、ある(9/8)の箇所は二分割し、残りの(9/8)の箇所は二分割しないとすれば、常識的にはきわめて不均衡または無秩序な、一貫性・合理性のない音階になってしまうだろう。
 とすると、五箇所ある(9/8)の間差を全て二分割するしかない、と考えられる。
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  五箇所ある(9/8)の間差を全て二分割すれば、その結果はどうなるか?
 7音(8音)音階に新たに5音が加わって、「12音(13音)」音階が形成されるだろう
 「ドレミ…」7音音階というのは「主要」7音(8音)と「副次」5音との計12(13)音で1オクターブを構成するものだった。
 これに対して、上では、「主要」12音(13音)自体が1オクターブ内の「音階」を構成することになる。
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 五箇所ある(9/8)のうち1箇所、2箇所、または3箇所だけ選んで新しい音を一つ、二つまたは三つ加えて8音(9音)音階、9音(10音)音階または10音(11音)音階を作るようなことは不可能だと考えられる。
 「7音(8音)音階」はこれを生み出した方法を継続して新しい音を発見しようとすると、結局は「12音(13音)音階」になるしかない。「8音(9音)音階」や「9音(10音)音階」はできない。
 以上のことは、<「ドレミ…」はなぜ7音か>の一つの答えになっている、と考える。
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  なお、実際に、計算作業を行なっておこう。なお、乗じる数値に(256/243) とγの二種があり得る場合、つねに(256/243)を先に置くこととする。< >内は間差。

 (1) M①1—<256/243>—②256/243—<γ>—③9/8—<256/243>—④96/81—<γ>—⑤81/64—<256/243>—⑥4/3—<256/243>—⑦1024/729—<γ>—⑧3/2—<256/243>—⑨128/81—<γ>—⑩27/16—<256/243>—⑪16/9—<γ>—⑫243/128—<256/243>—⑬2。
 間差12箇所のうち、(256/243)が7箇所、γが5箇所。
 (2) ①1—<256/243>—②256/243—<γ>—③9/8—<256/243>—④32/27—<256/243>—⑤8192/6561—<γ>—⑥4/3—<256/243>—⑦1024/729—<γ>—⑧3/2—<256/243>—⑨128/81—<γ>—⑩27/16—<256/243>—⑪16/9—<256/243>—⑫4096/2187—<γ>—⑬2。
 間差12箇所のうち、(256/243)が7箇所、γが5箇所。
 (3) ①1—<256/243>—②256/243—<256/243>—③65536/59049—<γ>—④32/27—<256/243>—⑤8192/6561—<γ>—⑥4/3—<256/243>—⑦1024/729—<γ>—⑧3/2—<256/243>—⑨128/81—<256/243>—⑩32768/19683—<γ>—⑪16/9—<256/243>—⑫4096/2187—<γ>—⑬2。
 間差12箇所のうち、(256/243)が7箇所、γが5箇所。
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 これらの数値は、ピタゴラス音律や純正律のいずれかの1オクターブ12音の各数値と全てが同じではない。〈十二平均律〉とは、1、2以外は全て異なる。
 (256/243)=約1.0535、γ=(2187/2048)=約1.0679。ちなみに、〈十二平均律〉での「半音」=12√2=2の12乗根=約1.059463
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 つづく。

2661/西尾幹二批判068—四つの特質。

 西尾幹二について、掲載し忘れのないように、いつか総括的な論評をしておこうと思っていた。私の長期的な生存自体の可能性が曖昧なので、書き忘れたままになるのは避けたい。もう一つ、<日本共産党の大ウソ>シリーズも完了していない。こちらの方も、別に急ぐことにしたい。
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 西尾幹二とは何か。この人が「やってきた作業」、「全仕事」の本質的性格は何か。総括的に論評すればどうなるか。
 2の2乗の4とか3乗の8という数字が好きだから(1000よりも1024の方を「美しく」感じるたぶん少数派の人間だから)、上の点を四つにまとめてみたい。
 第一は、すでに書いた。→「2646/批判66」
 多数の人々に「えらい」、「すごい」と認めさせ、自分に屈服させること。これがこの人の作業の、最大かつ最終の目的だったと思われる。
 単純に「えらい」、「すごい」ではなく、西尾幹二がとくに意識した「ライバル」たちがあって、その者たちよりも「優れている」とできるだけ多数の人々に承認されたい、というのが正確かもしれない。
 この点には立ち入らず、つぎの点に進む。
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 誰でも、自分自身についての何らかの自己イメージ、自己評価、自画像を描いているだろう。そのイメージが他者による自己の評価または「客観的」評価と一致しないことは、よくあることだろう。
 だが、西尾幹二の場合、第二に、<西尾自身による自己イメージと第三者多数によるまたは「客観的な」評価との乖離がきわめて大きい>、と考えられる。これが、西尾幹二の全作業の評価にかかわる基本的特質だ。西尾は「客観的」評価などは存在せず本人の強い主張によって「評価」自体が変動するのだ、と考えているのかもしれないが、この問題にはここでは触れない。
 詳細は省くが、この人は自分は「思想家」だと明言している(正確には対象の一定の限定が付く「思想家」)。西尾幹二本人と、「思想家」だと宣伝して西尾本を売りたい出版社、その編集担当者を除いて、<表向きであっても>西尾幹二は「思想家」だと評価している者は皆無だと思われる。
 むろん「思想家」なる言葉の意味、外延にもかかわる。しかし、西尾幹二自身は、相当に限定された、「優れた」人間にのみ与えられる呼称だと思っているはずだ。
 また、例えばつぎの、この人が書いた2018年の次の文章を引用するだけでも、西尾幹二が関係した「運動」や書物についての自己イメージ・自己評価が、<誇大妄想>という以上の「異様」なイメージであることは明らかだと思われる。なお、以下での「つくる会」運動は、西尾が会長であった時期のものに限られている。そして、①はその時期の著作物は「歴史哲学」上の成果物だと主張しているとみられる。②は、まさに自分の著作『国民の歴史』に関するものだ。
 ①・②ともに、全集第17巻・歴史教科書問題(2018年)「後記」所収751頁。秋月による下傍線の意味については後述。
 ①『国民の歴史』等の「著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう。はっきり言ってこの観点〔おそらく「日本人の歴史意識を覚醒させる」こと—秋月〕を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」。
 ②古代から江戸時代まで「中国を先進文明と見なす指標で歴史を組み立てる」という観念をもつ歴史学の「病理」を「克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えていて、…、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
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 第三に、<意味不明・無知>と表現しておく。この人の作業あるいは仕事は、要するにほとんどは「文章書き」だ。その「文章」はいったい何をしようとしていたのか、じつははなはだ不明だ。また、幼稚な「誤り」も、しばしば看取される。
 性格について言うと、小説や詩等の「創作物」・「フィクション」ではない。では、何かを解明しようとする「学問研究」なのかと問うと、ほとんどが学問研究ではないと考えられる。
 「評論」という名のもとで行なってきたこの人のほとんどの作業の性格は、いったい何だったのだろう。
 別により具体的には言及したい。
 一例だけ上げると、安倍晋三首相退陣直前の西尾「安倍晋三と国家の命運」月刊正論2020年7月号37頁以下は、いったい何を目的とし、何を論じているのだろうか。また、西尾幹二は<保守の立場から安倍政権を批判する」と表紙に明記する書物を刊行したことがあるが(『保守の真贋』2017年)、この2020年7月号の文章では、最後にやや唐突に「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが」という、そのかぎりでは好意的に評価する言葉が出てくる。そもそもの「一貫性」自体が、この人には脆いのだ。安倍政権について、民主党政権から日本を救い、「長期の安定」をもたらしたとの趣旨は、2017年著のどこに出てくるのか。
 「無知」は、すでに「根本的間違い」と題するなどをしてこの欄で何回も取り上げた、西尾幹二の「国際情勢」の認識・判断において顕著だ。再度は立ち入らないが、アメリカより中国はまだましだ、アメリカは中国・韓国の支持を得て日本を攻めてくるだろう旨を、何回も述べていた。<反米>を強調するあまり、アメリカが第一の<敵」であるかのごとき主張を繰り返していた。なお、憲法改正を含む日本の対米自立、自衛・自存を説きながら、<日米安保の解消>をひとことも主張しないという、大きな矛盾すら抱えていた。
 <哲学・歴史・文学>を統一すること、いずれにも偏らないことを理想としてきたと、西尾は述懐したことがある(全集「後記」。—正しくは、同・歴史の真贋(2020、新潮社)「あとがき」後日に訂正した)。これは、いずれも専門にすることができないという「性格」の不明さとともに、いずれの観点からも「無知」であり得ることを、自己告白しているようなものだ。
 以上のことは、西尾幹二がすでに50歳になる頃には、<アカデミズム>の中で生きていくことを諦めたことと、密接な関係があるだろう。
 なお、<意味不明・無知>は迷った末の表現だ。
 <たんなるヒラメキ・思いつきを堂々と活字にしていること>も、第二点とも関連するが、「意味不明」の原因になっていること(実証・論証がなされていないこと)として、ここに含めておきたい。
 また、西尾幹二には「言葉」・「観念」と「現実」の関係について、私から観るとやや<倒錯>している考え方があるように見える。哲学的・認識論的問題に立ち入ることを得ないが、「言葉」・「観念」が生み出されて存在すれば、「現実」自体も変動する、というような考え方だ。「客観」性・「真実」性・「合理」性の存否ではなく、ともかくも「言葉」で強く主張する者が「力」をもつ、といった考え方に傾斜しやすい人ではないか、と思われる。
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 第四は、<大衆蔑視>意識、「ふつうの人々を馬鹿にする心情」を基礎にしていることだ。
 西尾幹二がどれほど十分かつ正確にF・ニーチェの文献を読んでいるかは、疑わしい。
 しかし、「大衆」=「愚民」=「愚衆」と区別される<エリート>、たぶん「超人」あるいは「力への意思」をもつ者、の一人だと、西尾幹二が自分のことを強烈に意識していた(いる)ことは疑いないだろう。
 「この観点を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」との文章は不思議な文章だ。
 まるで「運動の具体的関与者」は「歴史哲学」とは関係がないかのごとくだ。「歴史哲学」という高尚な?価値とは無関係な「運動の具体的関与者」とは会議資料をコピ—して用意したり、理事等に諸連絡を行ったりする「会」の事務職員を含んでいるだろう。
 そして、西尾幹二は、そのような事務職員を「蔑視」または「見下して」いることを、上の文章の中で思わず吐露してしまった、と読めなくはない。
 こういう「大衆蔑視」意識・心情を形成した一つは、東京大学文学部独文学科出身(かつ大学院修士課程修了)という「学歴」にあるのだろう。だが、戦後日本の「教育」や「学歴主義」の問題点が西尾幹二にも現れているようだ。
 たしかに、西尾の世代からするとかなり少数の「高学歴」のもち主かもしれない。しかし、そのことは、自分はきわめて「えらい」、「すごい」<人間>だと認められる(はずだ、べきだ)ということの何も根拠にもならない。
 また、この人は、文章執筆請負を長らく業とした(しかし、国立大学教員という「職」・「地位」を「定年」まで放棄しなかったことも西尾幹二を観察する際に無視できない)。そういう西尾幹二にとって、「先生々々」と呼んで「持ち上げて」くれる戦後日本の出版業・その編集担当者の存在が身近にあったことも、意外に大きいかもしれない。
 この第四は第一の特質とかなり重なっている。また、第二のそれの背景になっている、と考えられる。
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 以上は、秋月瑛二が西尾幹二について描く総括的「イメージ」だ。相互に関連し合っており、今回に詳しく論じたわけでもない。とりあえず、こういう全体像を示しておくと、今回以降のより具体的な、「例証」にもなる文章を書きやすいだろう。
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2660/私の音楽ライブラリー⑥。

 私の音楽ライブラリー⑥。
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 18-01 Schubert, Camille Thomas, Schwannengesang -IV. Ständchen.

 18-02 Schubert, Anne Gastinel, Schwannengesang -IV. Ständchen. 〔Harmonico101〕

 19-01 Brahms, Abbado-WienPO, Hungarian Dance No.4.

 19-02 Brahms, Barenboim-BerlinPO, Hungarian Dance No.4. 〔Irie 1948〕

 20-01 Dvorak, Masur-Leipzig GhO, Slavonic Dance op.20-2.〔EuroArtsChannel〕

 20-02 Dvorak, Ririko Takagi, Slavonic Dance op.20-2.〔高木凛々子ViolinChannel〕
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2659/「ドレミ…」はなぜ7音なのか⑤。

  前回までに作り出す事のできた二種の「5音」音階とは、つぎだ。便宜的に、それぞれX、Zと称しておこう。
 X—①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 Z—①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
 間差の広い箇所に新しい音を設定する。5つある間差の数値は、つぎのとおり。
 X—①②9/8、②③32/27(=(4/3)÷(9/8))、③④9/8、④⑤9/8(=(27/16)÷(3/2))、⑤⑥32/27(=2÷(27/16))。
 最大は32/27で、2箇所ある。残りの3箇所は、9/8。
 Z—①②32/27、②③9/8(=(4/3)÷(32/27)、③④9/8、④⑤32/27(=(16/9)÷(3/2))、⑤⑥9/8(=2÷(16/9))。
 最大は32/27で、2箇所ある。残りの3箇所は、9/8。
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  この最大の(間差が広い=周波数比が最も大きい)32/27を二つの部分に分割しよう。Xでは、②③の間と、⑤⑥の間。Zでは、①②の間と④⑤の間。
 そうすると、32/27は2箇所にあるので、新しい音が二つ増える。そして、既存の5音に加えて、計7音になるはずだ。
 分割方法は無限にあり得るが、つぎの三つの方法を合理的なものとして選択できる、と考えられる。
 まず、すでに9/8という数値を利用していることを参照して、32/27を9/8と残余の部分に分ける方法が考えられる。こも場合は、厳密には二つに分かれる。
 第一に、9/8を先に置き、(9/8)×α=32/27とする。この場合のα=256/243であることが容易に計算できる。
 第二に、9/8を後ろに置き、(256/243)×(9/8)=32/27とする。
 既存の音(の数値)にこれら二つの数値のいずれを乗じるかを決めておく必要があるので、上の第一と第二は区別しなければならない。
 これら以外に第三に、32/27の「中間値」で二つに分割することが考えられる。この「中間値」はもちろん「16/27」ではなく、32/27と64/27の「中間値」である48/27でもない。
 正解は、<2乗すれば32/27となる数値>、すなわち<(32/27)の2乗根>だ。後述もするように、この数値を「β」と称することにする。これを分数表示することはできないし、「無理数」なので、小数化すると無限に数字がつづく。
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  上の三つの方法の順序で、二分割作業を、以下に行なう。結果として計「7音」を得ることができる。その場合の「7音」音階を、便宜的にそれぞれ、XX、ZZと表記しよう。
 第一のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が、32/27だ。
 (1) 9/8(②)×(9/8)=81/64。なお、(81/64)×(256/243)=4/3で、元の③の数値となる。
 (2) (27/16)(⑤)×(9/8)=(243/128)。なお、(243/128)×(256/243)=2で、元の⑥に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(81/64)と(243/128)の二つの数値が得られた。
 元のXの「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの01
 ①1、②9/8、③81/64、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦243/128、⑧2。
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 次いで、第一のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が、32/27だ。
 (1) 1(①)×(9/8)=(9/8)。なお、(9/8)×(256/243)=32/27で、元の②の数値となる。
 (2) 3/2(④)×(9/8)=(27/16)。なお、(27/16)×(256/243)=(16/9)で、元の⑤に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(9/8)と(27/16)の二つの数値が得られた。
 元のZの「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの01
 ①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
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  次に、(256/243)を先に乗じる、第二の方法を採用する。
 第二のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が、32/27だ。
 (1) (9/8)(②)×(256/243)=(32/27)。なお、(32/27)×(9/8)=4/3で、元の③の数値となる。
 (2) (27/16)(⑤)×(256/243)=(16/9)。なお、(16/9)×(9/8)=2で、元の⑥に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(32/27)と(16/9)の二つの数値が得られた。
 Xの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの02
 ①1、②9/8、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦16/9、⑧2。
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 次いで、第二のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が、32/27だ。
 (1) 1(①)×(256/243)=(256/243)。なお、(256/243)×(9/8)=(32/27)で、元の②の数値となる。
 (2) (3/2)(④)×(256/243)=(128/81)。なお、(128/81)×(9/8)=16/9で、元の⑤に戻る。
 以上で、元の「5音」以外に、新しく、(256/243)と(128/81)の二つの数値が得られた。
 Zの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの02
 ①1、②256/243、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥128/81、⑦16/9、⑧2。
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  第三の方法は、32/27を、「2乗すれば(32/27)になる数値」で分割する。この「(32/27)の2乗根」を、「β」と簡称する。この方法による場合は、間差の32/27を構成する大小のどちらの数値からβでの乗除を行っても、結果は異ならない。
 なお、この「β」=「(32/27)の2乗根」は1.088662…なので、「9/8」(1.125)よりも小さい。
 第三のXX関連。元の②③、⑤⑥の各間差が32/27だ。
 (1) (9/8)×β=(9/8)β。なお、(9/8)β×β=(4/3)。
 (2) (27/16)×β=(27/16)β。なお、(27/16)β×β=2。
 以上で、元の「5音」とは異なる、新しい、(9/8)β、(27/16)βを得られた。
 Xの元の「5音」にこれらを加えて挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 XXの03
 ①1、②9/8、③(9/8)β=約1.225、④4/3、⑤3/2、⑥27/16、⑦(27/16)β=約1.838、⑧2。
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 次いで、第三のZZ関連。元の①②、④⑤の各間差が32/27だ。
 (1) 1(①)×β=β。なお、β×β=(32/27)。
 (2) (3/2)×β=(3/2)β。なお、(3/2)β×β=(16/9)。
 以上で、元の「5音」とは異なる、新しい、βと(3/2)βを得られた。
Z の元の「5音」にこれらを挿入し、小さい(周波数比の小さい)順に改めて並べ直すと、つぎのようになる。
 ZZの03
 ①1、②β、③32/27、④4/3、⑤3/2、⑥(3/2)β、⑦16/9、⑧2。
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  これで、最初のXとZの「5音」音階を基礎にして、計6種の「7音」音階を、秋月瑛二なりに作り出すことができた。
 種々の数字・数値が登場しているが、振り返って、重要な数字・数値を挙げると、つぎのとおりだ。
 第一に、4/3と3/2。この二つは古代人もすみやかに気づいた、核となる数字だっただろう。当初はあるいは(3と1/3ではなく)3/2と2/3だったかもしれない。後者の2/3は容易に4/3に転化した。
 第二に、(3/2)÷(4/3)で得られる、9/8という数字。
 私は<ピタゴラス音律での全音>が(9/8)で<ピタゴラス音律での半音>が(256/243)であることをすでに知っているので、(9/8)から出発すればピタゴラス音律での音階と似たものができるだろうと想定はしていた。
 しかし、9/8とは上記のとおり<(2/3)と(3/2)>という原初的二音の間差(周波数比)なのであり、この数字は論理的には必ずピタゴラス音律につながるものではないように思われる。
 第三に、「5音」設定終了の段階で生じた、相互の音の間差のうち最大の間差(周波数比)を示す、「32/27」という数字。
 第四に、(32/27)を二分割する場合に登場した、(32/27)÷(9/8)の結果としての、256/243という数字。
 最後に、(32/27)から生じる、「(32/27)の2乗根」=「β」。
 これらの数字・数値を組み合わせて、六種の「7音」音階ができたわけだ。ピタゴラス音律での計算方法である、3または3/2を乗じつづけて、かつ2の自乗数で除する(「シャープ系」の場合)ようなことをしなかった。
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  正確には、6種ではない。それぞれの音階を、①数値、②1=ド=Cとした場合の十二平均律での近い数値の音(ドレミ)の順に、並べてみよう。第三の方法による場合は除く。
 ①XX01—1、9/8、81/64、4/3、3/2、27/16、243/128、2。
   —ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド
 ②ZZ01—1、9/8、32/27、4/3、3/2、27/16、16/9、2。
   —ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド
 ③XX02—1、9/8、32/27、4/3、3/2、27/16、16/9、2。
   —ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、ド
  これは②と同じ。「移調」すると、ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラになる。これの並び方を—「移調」することなく—変更すると、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドにもなる。
 ④ZZ02—1、256/243、32/27、4/3、3/2、128/81、16/9、2。
    —ド、レ♭、ミ♭、ファ、ソ、ラ♭、シ♭、ド
  これは、ラ♭がドになるよう「移調」して全体を並べると、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミになる。さらにこれの並び方を変更すると、ド〜ドにも、ラ〜ラにもなる。
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 以下は参考として再び付記。
 ⑤XX03—1、9/8、(9/8)×β、4/3、3/2、27/16、(27/16)×β、2。 
 ⑥ZZ03—1、β、32/27、4/3、3/2、(3/2)×β、16/9、2。
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  検討作業がこれで終わったのではない。
 つぎの問題は、これまでの発想や検討作業の過程を継続して、「8音」音階や「9音」音階を作ることはできないのか、できないとすればそれは何故か、だ。
 <「ドレミ…」はなぜ7音なのか。
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2658/私の音楽ライブラリー⑤。

 私の音楽ライブラリー⑤
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 17-01 Albinoni, Hauser, Adagio.

 17-02 Albinoni, Lara Fabian, Adagio.

 17-03 Albinoni, Copernicus ChamberO, Adagio.〔Music Artstrings〕

 17-04 Albinoni, Band Sinfonica, Adagio.〔Banda National De Ukrania〕
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2657/日本の教育②—学歴信仰の悲劇の例。

 伊東乾のブログ上の記事の一部や、伊東乾・バカと東大は使いよう(朝日新書、2008)の一部を読んだ。後者は、第二章・76頁まで。いずれ言及するだろう。
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 2021/04/06に、→「2334/『知識』・『学歴』信仰の悲劇—山口真由」と題する投稿を行なっている。
 当時の山口真由に関する知識からすれば、修正の必要を感じない、
 但し、2年以上経過した現時点でのこの人に関する論評として的確であるかは、別の問題だろう。
 こう断ったうえで、2021年4月の文章を、(当時もそうだったが)山口ではなく<日本の教育>に関するものとして、以下に再掲する。
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 (以下、再掲)
 ネット上に、山口真由の興味深い述懐が掲載されている。週刊ポスト(集英社)2021年4月9日号の記事の一部のようだ。おそらく、ほぼこのまま語ったのだろう。
 「東大を卒業したことで“自分はダントツでできる人間だ”との優越感を持ってしまったのだと思います。その分、失敗をしてはいけないと思い込み、会議などで質問をせず、変な質問をした同期を冷笑するようになった。東大卒という過剰なプライドが生まれたうえに、失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させることができませんでした」。 
 山口真由、2002年東京大学文科一類入学とこのネット上の記事にはある。
 別のソースで年次や経歴の詳細を確かめないまま書くと、2006年東京大学法学部を首席で卒業、同年4月財務省にトップの成績で入省、のち辞職して、司法試験に合格。
 上のネット記事によると、同は「財務省を退職して日本の弁護士事務所に勤務した後、ハーバード大大学院に留学。そこで『失敗が許される』ことを学び、『東大の呪縛」を解くことができたという」。
 山口真由、1983年年生まれ。ということは、2021年に上の述懐を公にするまで、ほとんど38年かかっている。
 2016年にハーバード大・ロースクールを修了したのだとすると、ほとんど33年かかっている。
 33-38年もかかって、「失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させること」ができなかったことに気づいた、というのだから、気の毒だ。
 東京大学入学・卒業までの年月は除外すべきとの反応もあるかもしれない。しかし、一冊だけ読み了えているこの人の書物によると、この人は大学入学まで(たぶん乳児期を除いて)<東京大学信仰>または<学歴信仰>を持ったまま成長してきている。つまり、少年少女期・青春期を、<よい成績>を取るために過ごしてきていて、「東大卒という過剰なプライド」を生んだ背景には間違いなく、おそらく遅くとも、中学生時代以降の蓄積がある。
 読んだ本は(手元にないが、たぶん)同・前に進むための読書論—東大首席弁護士の本棚(光文社新書、2016)。
 「知識」・「学歴」信仰の虚しさ、人間はクイズに早くかつ多数答えたり、難しいとされる「試験」に合格したりすること<だけ>で評価されてはならない、ということを書くときに必ず山口真由に論及しようと思っていたので、やや早めに書いた。
 正解・正答またはこれらに近いものが第三者によってすでに用意されて作られている問題に正確かつ迅速に解答するのが、本当に「生きている」ヒト・人間にとって必要なのではない。「知識」や「教養」は(そして「学歴」も)、それら自体に目的があるのではなく、無解明の、不分明の現在や未来の課題・問題に取り組むのに役立ってこそ、意味がある。勘違いしてはいけない。
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 付加すると、第一。テレビのコメンテイターとして出てくる山口の発言は、全くかほとんど面白くないし、鋭くもない。
 <キャリアとノン・キャリアの違いがあることを知ってほしい>との自分の経歴にもとづくコメントとか、サザン・オールスターズの曲でどれが好きかと問われて、<そういうのではなくて、論理・概念の方が好きだったので…>と答えていたことなど、かなり奇矯な人だと感じている。これらの発言は、2016-2020年の間だろう。
 第二。一冊だけ読んだ本での最大の驚きは、「試験に役立つ・試験に必要な知識」を得るための読書と、その他一般の読書をたぶん中学生・高校生のときから明確に区別していたこと。
 大学入学後も、受講科目についての「良い成績」取得と国家公務員試験の「良い成績での合格」に必要な知識とそれらと無関係な(余計な?)知識とを峻別してきたのではないか。
 これでは、<自分の頭で考える>、茂木健一郎が最近言っているようなcreative な頭脳・考え方は生まれない。
 山口真由だけに原因があるというのではなく、その両親や友人、出身高校等、そして「戦後教育」の全部ではないにせよ、重要な一定の側面に原因があるに違いない。
 よってもちろん、こうした<信仰>にはまった人々は、程度や現れ方は違うとしても、多数存在している。
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 (以上で再掲終わり。以下、2023年夏での秋月瑛二の言葉。)
  学校での成績は、そもそもその人間の全体や「人格」とは関係がない。
 「いい高校」入学・出身、「いい大学」入学・出身。これらでもってその個人の「えらさ」が判断されるのではない。
 正答のある、限られた範囲の、第三者が作った「試験」にうまく対応しただけのことだ。
 正解・正答のない、または複数の「解」があり得る現実の社会に役立つことのできる、何の保障にもならない。
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 特定の大学に入学しただけでは、何の意味もまだない。
 特定の大学・学部を「首席」で卒業したとしても、それだけではまだ何の意味もない。
 むつかしいとされる中央省庁にトップの成績で採用されたとしても、まだ何の意味もない。
 この人は、何かの社会的「痕跡」を何ら残すことなく、その中央省庁を辞めてしまった。
 むつかしいとされる司法試験に(外国も含めて)合格しただけでは、まだ何の意味もない。
 この人は、「法曹」資格をどのように社会・世界のために生かしているのだろう。
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  ときにテレビ番組でこの人を観る機会が2021年以降もあったが、「知識人・専門家」枠か、「弁護士」枠か、それとも「女性」枠か。いずれにしても、大したことを語っていない。
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  上に再掲したようなこの人の「読書歴」を読んだときの衝撃は、今でも覚えている。
 女子・男子にはこだわらない方がよいだろうが、私の同世代の女性たちは、全員ではないにせよ、<アンの青春>シリーズとか、M・ミッチェル「風とともに去りぬ」あたりを熱心に読んでいた。後者は高一のときに私も読んだ。
 <人生論>、<青春論>の類を、この人はその「思春期」に読んだのだろうか。
 <学校の勉強や試験に必要な>読書と、それらには役立たない<その他の(無駄な?)>読書に分けることができる、という発想自体が、私にはとても理解できない。
 この人は、大学生時代もそうだったのだろうか。教科書と講義ノートだけ見ていると、他の読書はできなくなるし、サザンの音楽に関心を持つこともできなくなるだろう。
 やや書きすぎの感があると思うので、一般論にしておくが、「合格」すれば」目標を失い、資格・試験に関するつぎの「目標」をさらに求める、という人生は、いったい何だろうか。<合格するという目標>がなくなれば、「生きがい」もなくなってしまうに違いない。
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  山口の生年からして1950年代生まれなのだろうか、この人の両親も<学校に毎日まじめに通い、かつ学校での成績が(とても)よい>といことで満足し、子どもに助言したり注文をつけることをしなかったのだろう。この人の<読書傾向>が問題視されなかったのは、おそらくはその両親を含む大多数の「戦後の親」、広くは「教育環境」に背景があるのだろうと思われる。
 伊東乾とは相当に異なる山口の成育ぶりに、種々の感慨を覚える。
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2656/ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定・第二。

 ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定方法の第二は、3で割り続け、2の自乗数を乗じるという計算を12回行うことだ。
 これを論理的には後からできた「五度圏(表)」を使って表現すると、「反時計(左)まわり」の12音設定方法と称することができる。あるいは、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「下旋回」・「下行」方式とも言える。さらに、論理的には後から生まれた表示方法を用いると、「下降」系の意味での「フラット(♭)系」の12音の設定方法だ。以下、「第二方式」とも呼ぶ。
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  計算結果を示すと、つぎのとおり。基音を⓪とする。①〜⑫が何回めの計算かを示す。関係資料を見てはいるが、過半は秋月瑛二が自ら行なって確認している。
 ⓪1
 ①1x1/3x4=4/3。
 ②4/3x1/3x4=16/9。
 ③16/9x1/3x2=32/27。
 ④32/27x1/3x4=128/81。
 ⑤128/81x1/3x2=256/243。
 ⑥256/243x1/3x4=1024/729。
 ⑦1024/729x1/3x4=4096/2187。
 ⑧4096/2187x1/3x2=8192/6561。
 ⑨8192/6561x1/3x4=32768/19683。
 ⑩32768/19683x1/3x2=65536/59049。
 ⑪65536/59049x1/3x4=262144/177147。
 ⑫262144/177147x1/3x4=1048576/531441
  =2の20乗/3の12乗
 この⑫を小数で表現すると、1.97308073709…となる。2とこの数値の差異で<マイナスのピタゴラス・コンマ>が生じる。1に対する比率は、0.9865036854…だ。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉。
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  上の12音(基音を加えて13音)を小さい(周波数比の小さい=高さの低い)順にならべると、つぎのとおり。小数はほとんどに「約」がつく。
 先立ってしまうが、便宜のために、基音1=Cとして、C〜C'の12音階の今日的表示を、右に付す。「第一方式」、純正律、十二平均律の場合と、基音以外の数値は一部を除いて異なる。「第一方式」とはGもFも異なる。また、C♯=D♭等々が成り立たない。
 ⓪1。C。
 ①(上の⑤)256/243=1.053497。D♭。
 ②(上の⑩)65536/59049=1.109857。D。
 ③(上の③)32/27=1.185185。E♭。
 ④(上の⑧)8192/6561=1.248590 。E。
 ⑤(上の①)4/3=1.333333。F 。
 ⑥(上の⑥)1024/729=1.404663。G♭。
 ⑦(上の⑪)262144/177147=1.479810。G 。
 ⑧(上の④)128/81=1.580246。A♭。
 ⑨(上の⑨)32768/19683=1.664786。A。。
 ⑩(上の②)16/9=1.777777。B♭。
 ⑪(上の⑦)4096/2187=1.872885。B 。
 ⑫(上の⑫)1048576/531441=1.973080。C’ 。
 繰り返しになるが、⑫の小数はより正確には1.97308073709…で、1に対する比率は0.98654036854…だ。1とこの数値の差異を<マイナスのピタゴラス・コンマ>と言う。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉だ。
 <プラスのピタゴラス・コンマ>は約0.0136であり、<マイナスのピタゴラス・コンマ>は約0.0135だ。
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2655/ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定・第一。

 ピタゴラス音律の考え方での1オクターブ内12音の設定方法の基本は、一定の音(基音)を1として、これに3を「乗じる」(掛ける)または3で「徐す」(割る)ことを12回し続けることだ。
 その際に、例えば3や1/3ではすでに「1オクターブ内」(1とほぼ2の間)という条件を充足しないので、1〜ほぼ2の間になるように、絶えず2の自乗数で「徐」したり、2の自乗数を「乗」じる
 3→3/2、9→9/8、1/3→4/3、2/3→4/3のごとし。
 ここで、例えば3/4、3/2、3はオクターブは違うが「同じ」音、また例えば1/3、2/3、4/3はオクターブは違うが「同じ」音、ということが前提にされている。
 なぜ12音かという問題にはもう立ち入らない。簡単には、12回めの計算でヒト・人間の聴感覚にとって「現実的な」(1に対する)ほぼ2の数値が得られるからだ。
 ピタゴラス音律での1オクターブ内12音の設定方法の第一は、3を乗じ続け、2の自乗数で割るという計算を12回行うことだ。
 これを論理的には後からできた「五度圏(表)」を使って表現すると、「時計(右)まわり」の12音設定方法と称することができる。あるいは、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」・「上行」方式とも言える。さらに、論理的には後から生まれた表示方法を用いると、「上昇」系の意味での「シャープ(♯)系」の12音の設定方法だ。以下、「第一方式」とも呼ぶ。
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  計算結果を示すと、つぎのとおり。基音を⓪とする。①〜⑫が何回めの計算かを示す。関係資料を見てはいるが、秋月瑛二において自ら確認している。
 ⓪ 1。
 ① 3x1/2=3/2。
 ② 3/2x3x1/4=9/8。
 ③ 8/9x3x1/2=27/16。
 ④ 27/16x3x1/4=81/64。
 ⑤ 81/64x3x1/2 =243/128。
 ⑥ 243/128x3x1/4=729/512。
 ⑦ 729/512x3x1/4=2187/2048。
 ⑧ 2187/2048x3x1/2=6561/4096。
 ⑨ 6581/4096x3x1/4=19683/16384。
 ⑩ 19683/16384x3x1/2=59049/32768。
 ⑪ 59049/32768x3x1/4=177147/131072。
 ⑫ 177147/131073x3x1/2=531441/262144
  =3の12乗/2の18乗
 この⑫を小数で表現すると、2.0272865295410156…となる。この端数を<プラスのピタゴラス・コンマ>と言う。1に対する比率は、1.01364376477…だ。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉。

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  上の12音(基音を加えて13音)を小さい(周波数比の小さい=高さの低い)順にならべると、つぎのとおり。小数はほとんどに「約」がつく。
 先立ってしまうが、便宜のために、基音1=Cとして、C〜C'の12音階の今日的表示を、右に付す。「第二方式」、純正律、十二平均律の場合と、基音以外の数値はほとんどについて異なる。 
 ⓪ 1 。C。 
 ①(上の⑦)2187/2048=1.067871。C#。
 ②(上の②) 9/8=1.125。D。
 ③(上の⑨)19683/16384=1.201354。D#。
 ④(上の④)81/64=1.265625。E。
 ⑤(上の⑪)177147/131072=1.351524。F。
 ⑥(上の⑥)729/512=1.423828。F#。
 ⑦(上の①)3/2=1.5。G。
 ⑧(上の⑧)6561/4096=1.601806。G#。
 ⑨(上の③)27/16=1.6875。A。
 ⑩(上の⑩)59049/32768=1.802032。A#。
 ⑪(上の⑤)243/128=1.898437。B。
 ⑫(上の⑫)531441/262144=2.027286。C’。
 繰り返しになるが、⑫の小数はより正確には2.0272865295410156…、1に対する比率は1.01364376477…で、この端数を<プラスのピタゴラス・コンマ>と言う。「プラス」・「マイナス」は一般には用いられず、秋月の言葉だ。
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2654/「ドレミ…」はなぜ7音なのか④。

 以下の一部ずつだけを読んだ。衝撃的に面白そうだ。
 ①小泉文夫・日本の音—世界のなかの日本音楽(平凡社文庫、1977)。
 ②小泉文夫・歌謡曲の構造(平凡社文庫、1996)。
 小泉文夫、1927〜1983。元東京芸術大学教授(民族音楽)。
 日本の音楽・音階についてこの欄に既に記述したことは、書き直しが必要になりそうだ。
 →「2635/<平均律>はなぜ1オクターブ12音なのか②」で、日本の古歌も「西洋音楽」の楽譜で表記され得ることは「西洋音楽」の「広さ・深さを感じさせる」と書いたが、「西洋音楽」を高く評価しすぎかもしれない。
 また、→「2652/私の音楽ライブラリー④」で1963年の「恋のバカンス」は「画期的だった」と(むろん主旋律だけでなく前奏・伴奏を含めての)素人的印象を語ったが、これも単純だったかもしれない。
 すでにこの項の「③」で「律音階」に触れており、今回も「民謡音階」に言及するが、日本の伝統的音階が叙述の主対象ではない。このテーマは、別途、上の小泉文夫著等をふまえて扱いたい。
 このテーマは、「日本音楽」とは何か、「日本民族」とは何か、「日本とは何か」という大きな問題に関連しそうだ。「日本語の成立」過程に関する問題とも、少しは類似性がある。
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  さて、この項の<「ドレミ…」はなぜ7音なのか>は「西洋音楽」での1オクターブ12音をふまえた「ドレミ…」の7音構造の背景に関心をもつものだ。
 1オクターブ内での4/3と3/2の「発見」による1、4/3、3/2(、2)の3音構造の成立に続く9/8と27/16の設定による「5音」音階の成立まで、私ならばどのようにして音階を作るか、を叙述してきた。
 だが、このように迂回しつつ、「西洋」の「ドレミ…」の音階が7音(最後のドを含めて8音)で構成されざるを得なかったことを、「証明」することができる可能性がある、という見通しをもっている。
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  「5音」からさらに数を増やすことを急がず、立ち止まってみよう。
 前回に9/8と27/16を新たに加えたが、それは1×(9/8)と(3/2)×(9/8)の計算結果の採用による。1-(4/3)、(3/2)-2、といういずれも4/3または3対4という広い間差(周波数比)の間に、「小さい」方の数値に9/8を乗じたものだった。
 だが、4/3および2という「大きい」方の数値から9/8だけ小さい数値を計算することによっても、新しい二つの数値が得られるはずだ。次もように、それぞれの「大きい」数値に8/9を掛けることでよい。
 (4/3)×(8/9)=32/27。2×(8/9)=16/9。
 これら二つを1、4/3、3/2、2という「3音」構造に挿入して小さい順に並べると、以下のようになる。
 Z①1、②32/27、③4/3、④3/2、⑤16/9、⑥2。
 これは、前回に記した「5音」(最後を含めて6音)音階の数値と異なっている。前回に記したのは、つぎだった。
 X①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 このX は、前回に記したように、今日の〈十二平均律〉の場合に近い音を選んで1=ドとして表現すると、「ド・レ・ファ・ソ・ラ・ド」だ。そして、伝統的音階のうち雅楽に使われる「律音階」にきわめて類似している。
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  上のを、今日の〈十二平均律〉の場合に近い音を選んで1=ドとして表現し直すと、つぎのようになる。
 「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」。Xの②と⑤よりもこのZの②と⑤の方が数値が大きいこと(かつその割合は同じだろうこと)は、設定の仕方からして当然のことだ。
 念のための確認すると、つぎのとおり。
 Z②(32/27)÷X②(9/8)=256/243。(=ミ♭とレの間差)
 Z⑤(16/9)÷X⑤(27/16)=256/243。(=シ♭とラの間差)
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  ところで、興味深いことだが、Zの5音(6音)音階の「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」=「C-E♭-F-G-B♭」は、日本の伝統的音階のうち、「民謡音階」に相当する、と見られる。
 日本の伝統的音階として四つを挙げること、そして各音階をどう説明するかには、あるいは一致がないのかもしれない。
 ここでは、ネット上で前回に触れた「律音階」とともに「民謡音階」についても以上の叙述と同じ説明をしているサイトを挙げ、その説明を一部抜粋引用しておく。冒頭で記した小泉文夫の著も結局は同様なのだが(というより、小泉の説の影響を受けているように見られるが)、今回は小泉著には直接には触れない。
 →「文化デジタルライブラリー」
 民謡音階—「わらべ歌や物売りの声、日本民謡の中でよく使われている…」。「楽譜の通り、…『ド—♭ミ—ファ—ソ—♭シ—ド』で構成されます」。
 律音階—「『律』という言葉は、中国から入ってきました」。「楽譜の通り、…『ド—レ—ファ—ソ—ラ—ド』で構成されます」。
 →「メリー先生の音楽準備室」
 「民謡音階の構成音は、ド、ミ♭、ファ、ソ、シ♭の5音。わらべ歌や日本の民謡の多くで、この音階が使われています。」
 「律音階で使われている5つの音は、ド、レ、ファ、ソ、ラです。中国から伝来した音楽の基本的な音階で、雅楽にも用いられています。」
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 さらに追記すると、「ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭・ド」=「C-E♭-F-G-B♭-C」をド→その下のラ、C→その下のAへとそのまま「移調」すると、つぎのようになり、「♭」記号は消える。
 「ラ・ド・レ・ミ・ソ・ラ」=「A-C-D-E-G-A」
 「ラ」を主音とする、今日にいう7音(8音)の<短調音階>のうち、「ファ」と「シ」が欠けている。
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  こうして、二種の「5音」音階を作ることができた。
 次回に、「7音」音階に接近してみよう。

2653/池田信夫のブログ030-03。

 (つづき)
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 第三。「内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、ひとつのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している」。
 「必要なのは法律をモジュール化して個々の法律で完結させ、重複や矛盾を許して国会が組み替え…」。
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 現在(2023年8月1日時点)に有効なものとして「e-Gov 法令」に登載されているのは、一つの名称(表題)をもつ一本ずつを数えて、法律2120政令2288府省令4161、計8569。
 他に、政令としての効力を今でももつ「勅令」71、国家公安委員会・公正取引委員会、海上保安庁等々の「規則」433。これら504を加えると、総計・9074。上の政府サイトによる。
 およそ10000本(1万本)と理解して、大きな間違いではない。
 これらの中には「民法」、「刑法」、「民事訴訟法」、「刑事訴訟法」、「商法」、「会社法」等々も含まれている。したがって、全てではないが、「ほとんど」、おそらくは95パーセント以上が、「行政諸法」だろう。
 なお、以上には、地方公共団体の「条例」と「規則」は含まれていない。47都道府県・全市町村の「条例」等の総数は旧自治省の総務省が把握しているかもしれないが、公表・情報提供されているのかどうか。
 地方公共団体のこれらは、<ほぼ全て>が「行政」関連だと考えられる。地方公共団体は、「民法」や「刑法」、各「訴訟法」の特別規定(特則)を定める権能を有しない。
 政令や府省令は上位の1本の法律のもとに体系化できるはずだが、一つの法律の下に政令が1つだけ、府省令が1つだけでは通常はないだろう。「府令」とは、内閣総理大臣に策定権限がある「内閣府令」のことをいう。
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 「行政法規」である法律に限っても、諸法律が錯綜していることは顕著なことだ。池田信夫の言う「スパゲティ化」の正確な意味は不明だが。
 有名なのは都市計画法分野で、「都市計画法」という法律は一般的に「建築基準法」と連結している。同法にいう「都市計画」の内容や策定手続の特則定める、「都市計画法」から見れば「特別法」にあたる「都市再生特別措置法」、「文化財保護法」、「明日香特別措置法(略称)」等々もある。同じく「都市計画法」から見れば「特別法」にあたるが、同法にいう「都市計画事業」に関して定める「土地区画整理法」、「都市再開発法」等々がある。
 これらを概観するのは、ほとんど不可能だ。一冊の書物が必要になる。安本典夫・都市法概説第三版(2017)参照。
 都市計画法という名前の法律は国土交通省(旧建設省)所管で、関係諸法令に詳しい職員がいるはずだ。それでも関連諸条項の全てを知っているはずはない。まして関連「通達」類を熟知しているはずがない。
 全「行政」諸法に詳しいのは法律(内閣提出のもの)と政令を事前に「審査」する内閣法制局の職員だろうが、担当する分野が区分されており、また長期にわたって担当するのでもない。
 したがって、日本の<行政諸法>・「行政法規」の内容の全体に関する知識をもつ者は、かりに全てについて「ある程度」であっても、日本の中に誰一人存在しない。
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 分かりにくいのは確かだが、「重複」は別としても、「矛盾」があれば問題で、その矛盾は発生が防止され、あるいは事後に是正・解消される必要があるのではないだろうか。
 「法治主義」ではなく「法の支配」原理に立つと池田信夫が理解するアメリカやイギリスで、法律または法令間の「矛盾」は公然と承認されているのだろうか。一般論としては、なかなか想定し難い。
 もっとも、イギリスでは三国(国?、イングランド・ウェールズ・スコットランド)ごとに議会があり、アメリカには各州法があるので、連邦法とそれらの間、または諸州法相互の間に「差異」が存在するのはむしろ自然で、適用法令の発見自体が司法部(・判例)に委ねられるのかもしれない。
 ドイツ、フランスのこともよく知らないが、日本では、「矛盾」が正面から承認されることはないと思われる。
 しかし、何らかの特殊な事案が発止して、「矛盾」が明らかになることはあるだろう。但し、その場合、とりあえずは、適用条項の「選択」・「発見」の問題として処理される可能性が高い。
 「矛盾」しているか否かがときに重要な法的問題になるのは、国の法律(+法令)と、「法律の範囲内」でのみ制定可能な(憲法94 条参照)地方公共団体の「条例」との間の関係だ。独自に土地利用や建築を規制しようとする条例と都市計画法・建築基準法等との関係など。
 一般論としては「矛盾」は許容されず、法律に違反する条例は、違法・無効だ。だが、「違反」しているか否かの判断が必ずしも容易ではない。「地方自治の本旨」(憲法92条)に反する法律の方が違憲で無効だ、という議論を始めると、ますますそうなる。
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 池田信夫の問題関心は、「法治主義」と「法の支配」の違い、<レガシーシステム>からの脱却、<モジュラー>化しての弾力的?運用、「最終的判断は司法に委ねる法の支配への移行」にあるのだろう。
 したがって、今回に以上で書いたことも、そうした関心に対応していないことは十分に承知している。
 ——
  いつか書こうと思っていたのは、「法学」という学問分野の特性だ。経済学と異なり、諸「文学」とも異なる。
 法令類の有効性を前提とした<法解釈学>の場合、「真実」の発見が目的なのではない。「正しい」・「正しくない」という議論も、厳密には成り立ち難い。法的主張、法学説それぞれの間での決定的な「差異」は、裁判所、とくに最高裁判所の判決によって支持されているか否かだ。
 「正しい」解釈が最高裁判例になっているのではない。逆に、最高裁判所の判例になっている法学説こそが「正しい」という語法を使うことは(きっと反対が多いだろうが)不可能ではない。
 では、最高裁判例とは何か? 科学の意味での「真実」ではない。社会管理のために立法者が定めた基準類を具体的事案に適用するために必要な「約束事」を、立法者の判断を超えて示したもの、とでも言えようか。
 裁判所、とくに最高裁判所の判決という「指針」、「手がかり」のあること、これは<法(解釈)学>の、経済学等々とのあいだの決定的な違いだ、と考えられる。
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2652/私の音楽ライブラリー④。

 私の音楽ライブラリー④。
 日本の<ポピュラー音楽>または<J-POP>はすでに世界的レベルに達していて(但し、下の16追のコメントも参照)、あえて欧米のポップスを渉猟するような時代遅れのことをする必要はない、と考えられる。
 GHIBLI=宮崎駿のアニメ映画=久石譲の音楽という等式が成り立つのかは、宮崎映画を一つも真面目に観ていないのだから全く自信はない。だが、久石譲の音楽は世界の多くの人々の心を捉えているようだ。「専門」教育を受けている久石譲は国際標準の知識と技量をもつとともに、どこか「日本的」な味わいの旋律を作る。たいていを、好ましく感じている。

 13 美空ひばり「東京キッド」1950年〔Mei Wang〕。
 作詞/藤浦洸、作曲/万条目正。
 美空ひばりはこのとき、「専門的・音楽教育」を受けていない。楽譜も読めず、第三者の歌唱かピアノ演奏でこの歌を覚えたのではないか。
 聴いた音楽・旋律を自分の身体と喉で再現し、かつ自分らしく歌唱することに、この人はすこぶる長けていたに違いない。

 14 ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」1963年〔H. Shigeoka1〕。
 作詞/岩谷時子、作曲/宮川泰。
 1960年前後に平尾昌章(昌晃の旧名)らの「ロカビリー」が流行していたが、アメリカからの直輸入だったと思われる。
 単純な旋律の坂本九「上を向いて歩こう」(中村八大作曲)の世界的ヒットとほぼ同時期に、この日本製楽曲が登場した。私は、画期的だった、と感じている。
 この曲は決して「日本的」でなく、国際的な普遍性をもっていたと思われる。作曲者の宮川泰は、クラシック以降の欧米の種々の旋律を知っていて、それらにinspire されていたのだろう。

 15 ペギー・マーチ「忘れないわ」1969年〔HKD Japan〕
 作詞/山上路夫、作曲/三木たかし。
 日本人作詞・作曲の曲を、外国人少女が歌い、ある程度はヒットした。この女性の日本語は、ほとんど違和感がない。

 16 井上あずみ「君をのせて」in 天空の城ラピュタ1989〔hamuhamu aki〕。
 久石譲・作曲。歌詞・宮崎駿。
 「地球はまわる 君をのせて
  いつかきっと出会うぼくらをのせて」
 この歌詞は〈ナショナリズム〉ではない。人種・民族等に関係なく、ヒト・人間は一つの地球の上で生きている。
 「父さんが残した熱い想い
  母さんがくれたあのまなざし」
 親に対する想いは、人種・民族等に関係なく、きっと相当に普遍的だ。 

 16追 森麻季「Stand alone」NHK『坂の上の雲』2009主題歌〔Soprano Channel〕。
 「うじゃうじゃした」または多数の女の子や男の子の合唱?曲に接していると、こんな歌が聴きたくなる。久石譲・作曲、作詞・小山薫堂。
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2651/池田信夫のブログ030-02。

 (つづき)
 第二。「ルールもほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ…」。「省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義…」。
 これらのフレーズから生じ得るイメージは、(官僚が実質的にはつくる)「法令」によって、またはそれらにもとづいて「行政」は行なわれている、というものではないだろうか。
 法律でもって「法令」を代表させれば、「法律による行政」または「法律にもとづく行政」というイメージだ。
 あるまだ若い憲法研究者から、行政は全て「法律」に根拠をもって行われている(はず)でないのか、と問われて驚いたことがある。
 これは誤解だ。実際にはそうではない。また、こちらの方が重要だが、日本(および諸外国)の憲法学、行政法学、ひっくるめて「公法学」で、全ての「行政」が議会制定法規という意味での「法律」によって根拠が与えられかつ制約されてなければならない、とは考えられていない(余談だが、立憲民主党議員の中には素朴かつ幼稚な<国会・行政>関係のイメージをもっている者がいるようだ)。
 「法律による」や「法律にもとづく」の意味によって多少は異なってくるが、しかし、重要なことは、「法令」=「行政法規」と無関係の、または「法令」=「行政法規」上の多少とも具体的な規定が存在しない「行政」が実際には存在する、ということだ。
 全ての行政が「憲法」に違反してはならない。<関連行政法規>が存在すれば、全ての行政はそれに違反してはならない。これらは間違いではない。
 しかし、上の後者は<存在していれば>の叙述であって、<関連行政法規>が存在しないならば、「違反」することもあり得ない。
 あえて単純化していうと、具体的な行政には、つぎの二つがある。
 ①憲法—法律—政令・省令等→行政。
 ②憲法—予算—配分基準を定める「通達」類→行政。
 法律または条例がなく、正確には多少とも具体的な規定のある法律・条例がなく、あっても「責務」規定、行政「目的」規定だけがあり、別途財源措置だけが「予算」によってなされていて、その一定の額の財源の配分先・金額の上限、交付・助成決定にいたる「手続」等が「行政法規」に定められておらず、「通達」類(<内部的>だが「公表」されていることも多い)が定めている、そういう「行政」がある。
 池田信夫も用いている言葉である「業法」というものがある行政分野ではない。
 定着した概念はないと思うが、手段に着目すれば「補助金行政」であり、目的に着目して「助成」行政とも言える。社会保障分野に多いかもしれない。だが、特定の産業、起業あるいは研究・開発を誘発・誘導しようとするものもある。
 池田信夫がよく用いている「裁量」という語は、本来は、①の行政の場合に行政法規に制約されつつも行政担当者になおも認められる「自由な判断・選択の余地」を意味する。当然に、広狭があり得る。
 だが、広くは②でも使われ得る。もともと行政法規による「制約」がなく法令との関係では「自由」なのであり、憲法とせいぜい「法の一般原理」に制約されるだけだからだ。
 ところで、上につづくとして、「関連行政法規」がなく、「予算」上の財源措置とも無関係な「行政」もあるだろう。現実にも存在すると思われる。
 この分野ではしかし、「法令」によらないでそんなことをしてよいのか、そもそも「(公)行政」ではないのではないか、という「国家」・「行政権」の存在意義に関わる深遠な(?)問題が生じることもあると考えられる。
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 さて、関連して想起してしまうのは、<行政指導>という「行政手法」だ。
 「お願いベース」という言葉が、コロナ対策に関連しても使われた。
 お願い、要請、奨励、指導。全て「法的」拘束力はない。これらは、「行政法規」が正規に国民あるいは「私人」に要求する以上のことを「求める」。上の①の行政でもあり得る。②の行政では、これらはもともと「セット」の一部のようなものだ。
 しかし、これらに国民・「私人」が従えば、正確には「任意に」従えば、「お願い」行政もまた現実化する。あるいは、<機能する>。
 反コロナワクチンを打たれる際には、あれこれのことに「同意」する旨の署名が求められていた。だが、医学上の専門用語を使った「副反応」等の説明をいったい何%の人々が「十分に」理解して「任意に同意」して(署名して)いるのか、と感じたものだ。
 諸外国と比べての相対的な意味でだが、「任意」性の曖昧さ、「意思」の曖昧さこそが、そしてその点を利用?して行なわれる<行政指導>、「お願い」、「要請」の盛行こそが、英米の他に仏独とも異なる、日本の「行政スタイル」の特徴の一つではないだろうか。
 この問題は、簡単には論じ尽くせられない。
 なお、<行政指導>概念には特定の様式に関する意味は付着していない。文書によることも、メディアを通じることもあり、個別に「口頭」で行われることもある。
 行政手続法という法律(1993年第88号)は、口頭による場合の一定の「行政指導」について、相手方私人の文書(書面)交付請求権を認めている。一種の「文書主義」だ。
 行政手続法35条第3項「行政指導が口頭でされた場合において、その相手方から前二項に規定する事項を記載した書面の交付を求められたときは、当該行政指導に携わる者は、行政上特別の支障がない限り、これを交付しなければならない」。
 その他、35条全体、32条〜36条の2も参照。「行政指導」は、一般的・世俗的用語にすぎないのではなく、ここに見られるように、法律上の(法的)概念だ。
 これ以上は立ち入らない。
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2650/池田信夫のブログ030—官僚機構・日本の行政。

 池田信夫ブログマガジン2023年7月24日号。
  この号にある、フランクフルト学派(アドルノ、ホルクハーイマーら)と啓蒙・合理主義の関係に関する叙述も興味深いのだが、秋月瑛二にとって面白いのは、<名著再読「Cages of Reason」>の中の文章だ。
 最初にある、英米法と大陸法、英米型と日仏型の官僚機構の違いは1993年の原本著者の、日本についての研究者でもあるらしいSilberman の叙述に従っているのかもしれない。
 だが、「日本の官僚機構は『超大陸法型』」という中見出しの後の文章は、池田信夫自身の考えを述べたものだろう。
 以下、長くなるが、引用する。一文ごとに改行。本来の段落分けは----を挿入した。
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  「日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティックな超大陸型だという。
 ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。
 法律は『業法』として縦割りになり、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに作られる。
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 このように省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義という点では、日本の統治機構は法治主義である。
 これはコンピュータのコードでいうと、銀行の決済システムをITゼネコンが受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。
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 しかも内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、一つのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している、
 一つの法律を変えると膨大な『関連法』の改正が必要になり、税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で10以上のパーツを別々に担当する担当官が10数人ずらりと並ぶという。
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 こういうレガシーシステムでは、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があるが、これはコンピュータでいえば、デバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。
 優秀な官僚のエネルギーの大部分が老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。
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 問題はこういう官僚機構を超える巨視的な意思決定ができないことだ。
 実質的な立法・行政・司法機能が官僚機構に集中しているため、その裁量が際限なく大きくなる。
 国会は形骸化し、政治家は官僚に陳情するロビイストになり、大きな路線変換ができない。
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 必要なのはルールをモジュール化して個々の法律で完結させ。重複や矛盾を許して国会が組み換え、最終的な判断は司法に委ねる法の支配への移行である。
 これは司法コストが高いが、官僚機構が劣化した時代には官僚もルールに従うことを徹底させるしかない。」
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  学術研究論文の一部として書いたものではない、印象、感想にもとづく提言的文章だろう。
 だが、テーマは重くて、多数の論点に関係している。
 これを素材にして、思いつくまま、気のむくまま、雑文を綴る。
 第一。「ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め…」。
 法律の重要な一つである刑法について、法務省?の「解釈通達」はない。刑法施行政令も法務省令〈・国家公安委員会規則)もない。法律の重要な一つである民法をより具体化した、その施行のための政令も省令もない。民法特別法の性格をもつことがある消費者保護関係法律には、関係省庁の「解釈」または「解説」文書があるかもしれない。かりにあっても、民法とその特別法の最終的解釈は裁判所が判断する。
 池田信夫が念頭に置くのは、雑多な<行政関係法令>だろう。つまり、「行政」執行を規律する「法令」だろう。<行政法令>を適用・執行するのは(あとで司法部によって何らかの是正が加えられることもあるが)先ずは「行政官僚」・「行政公務員」あるいは中央省庁等であることが、行政諸法が刑事法や民事法と異なる大きな特色だ。
 その<行政法令>・<行政関係法令>を、私は「行政法規」と称したい。
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 「行政法規」は、法律、政令、省令に限られない(憲法典は除外しておく)。
 伊東乾はかつて団藤重光(元最高裁判事、東京大学教授)と交流があって「法的(法学的)」思考にも馴染みがあるようだ。そして、いつか、「告示」で何でも決められるものではないと、「告示」の濫用を疑問視していた。安倍晋三の「国葬」決定の形式に関してだったかもしれない。
 発想、着眼点は正当なものだ。だが、「告示」を論じるのはむつかしい。ここでは、「告示」には、「法規」たるものと、たんに<伝達・決定>の形式にすぎないものの二種がある、とだけ書いておく。
 学校教育法33条「小学校の教科に関する事項は,第29条及び第30条の規定に従い,文部科学大臣が定める」→学校教育法施行規則(文部科学省令)52条「小学校の教育課程については,この節に定めるもののほか,教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする」。
 こんな包括的で曖昧な根拠にもとづいて「学習指導要領」が文部科学大臣「告示」の形式で定められている。そして、最高裁判所判例は「学習指導要領」の「法規」性を肯定している。中学校・高校にはそれぞれ同様の規定が他にある。<日本の義務教育の内容>は、この「告示」によって決められている。
 教科用図書(教科書)「検定」についても似たようなもので、省令でもない「告示」が幅をきかし、最高裁判所も「委任」・「再委任」のあることを肯定し、その「法規」性を前提にしている。
 「都市計画」その他の一般的に言えば<土地利用・建築の規制のための「地域・地区」指定行為>の法的性格も怪しい。最高裁判所判例は都市計画の一類型の「処分」性(行政事件訴訟法3条参照)を否定しているので、そのかぎりで、「法規範」に類したものと理解していると解される。
 以上のほか、地方公共団体の議会が制定する「条例」や知事・市町村長の「規則」もほとんどが「行政法規」だ。条例には、法律(または法令)の「委任」にもとづくものと、そうでない「自主条例」とがある(憲法94条参照)。
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 これら「行政法規」に行政官僚は拘束される。但し、その原案を「行政官僚」が作成することがほとんどだろう。法律ですら、内閣の「法律案提出権」(内閣法5条参照)を背景として、行政官僚が作成・改正の任に当たっていることは、池田信夫が書いているとおり。
 なお、日本国憲法74条「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする」
 これは、興味深い、かつ重要な憲法条項だ。
 法律・政令には「主任の国務大臣」が存在し、それの「署名」のあとで「内閣総理大臣」が「連署」すると定めている。憲法は「法律の誠実な執行」を内閣の職責の一つとするが(憲法73条第一号)、法律・政令の「所管(主任)の国務大臣」の責任が実質的には「内閣総理大臣」よりも大きいとも読める憲法条項であって、各省庁「縦割り」をむしろ正当化し、その背景になっている(ある程度は、明治憲法下からの連続性があるだろう〉。
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2649/私の音楽ライブラリー③。

 バイオリンという楽器は、演奏がとてもむつかしそうだ。左右両手は全く別の動きだし、ギターにある「フレット」なしで音程を決める必要がある。
 弦を押さえる左指先の位置で音程が変わることは、伴奏や交響楽団つきではない、つまりソロ・「独奏」でならば、〈十二平均律〉以外の音律で、例えばピタゴラス音律や純正律等で音程を調整できることを意味する。練習と訓練次第で、不可能ではない。そうでなくとも、バイオリン協奏曲(Violin Concerto)の場合は背後の音よりも目立たせるために少し高めに「弦を押さえて」弾くことがある、と何かで読んだことがある。
 さて、下の10の日本人少女、村田夏帆の演奏は「見事」ではないか。
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 09 Hilary Hahn, Bach, Sonata f. Violin Solo No.1 in D-minor -4.Presto (BWV1001)。

 10 Natsuho Murata, Saint-Saens, Introduction & Rondo Capriccioso op.28〔International Music & Arts〕。

 11 Sayaka Shoji, Sibelius, Violin Concerto in D-minor (Israel PhO)。

 12 Julia Fischer, Tchaikovsky, Violin Concerto in D (France Radio PhO)〔Classical Vault 1〕。
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2648/「ドレミ…」はなぜ7音なのか③。

 伊東乾には笑われそうだが、「音階あそび」を続けよう。
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  1オクターブの間に、どのように諸音を設定するか。
 基音を1、その1オクターブ上を2とすると、1と2の間にどのような周波数比の音を選定するか。
 これを、1オクターブ12音とか<ドレミ…>の7音音階とかの知識なく行なえばどのようなことになるだろうか。
 もっとも、1オクターブ12音以外に、なぜ「音階」(または「調」)というものが必要になったのか、「調」の長調と短調への二分はどういう意味で自然で合理的なものなのかは、じつは根本的な所ではまだ納得し得ていないのだが。
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 前回に記したように、3/2、4/3の二つの数値が容易に得られて、1・4/3・3/2・2の3音(最後を含めて4音)音階が得られる。
 一定の弦の長さを1/2にして周波数(振動数)を2倍にすると1オクターブ高い音になる。これを古代の人々が知ったならば、つぎに行なったのは、その一定の弦の長さを1/3または2/3にすることだっただろう。すると、周波数比は3倍、3/2倍になる。そして、1と2の間に、3/2と4/3の数値が得られる。
 なお、弦の長さを3/2倍、2倍、3倍…と長くしていくのは実際には必ずしも容易ではないだろうが、一定の長さの弦の下に支点となる「こま」を置くことによって、周波数(振動数)を3倍、3/2倍等にすることがきる。そのような原理の「モノコード」という器具は、—日本列島にはなかったようだが—紀元前のギリシアではすでに用いられていたと言われる。
 この3/2と4/3の設定までは、結果としてピタゴラス音律や純正律と同じ。
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  ①1、②4/3、③3/2、④2。
 これらの間差は、①-②が4/3、①-③が3/2、①-④が②。
 そして興味深いことに、またはしごく当然に、②-④は3/2(2÷(4/3)=6/4=3/2)で、③-④は4/3(2÷(3/2)=4/3)だ。
 あと一つ、明らかになる数字がある。9/8だ。
 すなわち、(3/2)÷(4/3)=9/8。②-③が9/8だ(③-②は8/9)。
 この9/8を「素人」は利用しようと考える。
 上の4つの音の間の3つの間隔のうち広いのは、①-②と③-④の、いずれも4/3だ。
 この4/3を二つに分割しよう。その際に容易に思いつくのは、①の9/8倍、③の9/8倍の音を設定して、上の二つの間隔をいずれも二つに分割することだ。
 得られる数値は、1×9/8=9/8と、(3/2)×(9/8)=27/16。
 この二つを新たに挿入して、低い(周波数比の小さい)順に並べると、つぎのようになる。
 ①1、②9/8、③4/3、④3/2、⑤27/16、⑥2。
 これで、5音音階(最後を含めて6音音階)を作ることができた。
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  ところで、面白いことにここで気づく。
 先入観が交じるのを避けるために「ABC…」とか「ドレミ…」という表現を避けてきているのだが、上の5音(6音)音階は、①1を「ド」として今日的に(〈十二平均律〉の場合の数値に近いものを選んで)表示し直すと、こうなる。
 ド・レ・ファ・ソ・ラ(・ド)。=C-D-F-G-A(-C)。
 これは、日本の伝統的音階の一つとされる<律>音階(・旋律)と同じだ。この「律」音階は「雅楽」の音階ともされ、日本固有というよりも、大陸中国の影響を受けた音階だとも言われている。
 余計ながら、現在の天皇の即位の礼をかつてテレビで見ていて、古式の「雅楽」の旋律や、たなびく(漢字が記された)幟によって、「和」風というよりも「漢」風を私は感じた。先日のG7サミットでも宮島で「雅楽」が演奏されていたが、「雅楽」というのは、平安時代の「みやび」とも室町時代の「わび・さび」とも少し違うような気が、私にはする。日本のとくに天皇家または「朝廷」に継承されてきた音楽ではないだろうか。
 さらに進むと、上の5音(6音)音階は、日本国歌・君が代の音階でもあるようだ。
 〈十二平均律〉の影響をすでに受けた叙述になるのだが、上の「ド·レ·ファ·ソ·ラ·ド」(C-D-F-G-A-C)は、「一全音」ずつ上げると(=ここでは各音に9/8を掛けると)、♯や♭を使うことなく、同じ周波数比関係を維持したまま「レ·ミ·ソ·ラ·ド·レ」と表現し直すことができる(D-E-G-A-C-D)。「レ」が「主音」になる。
 私が中学生時代の音楽の教科書には、この「レ·ミ·ソ…」は「日本音階」(または「和音階」)での<長調>だと記述されていた。「ミ·ファ·ラ·シ·レ·ミ」が<短調>だった。
 「君が代」の旋律の「レドレミソミレ…」は、まさに日本音階の<長調>であり、近年に知った言葉によると、「雅楽」の音階である「律」音階(旋律)そのものだと思われる(但し、上行ではなく下行の場合は「レ·シ·ラ·ソ…」と「ド」が「シ」に変わる「理屈」は私にはよく分からない)。
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  ともあれ、9/8を利用して、5音(6音)音階ができた。数の上では、あと二つで、「ドレミ…」と同じ7音(8音)音階になる。
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2647/伊東乾のブログ・「正しい解答」なき問題の思考—日本の教育①。

 一 伊東乾の文章は、ネット上のJBpressで興味深く定期的に読んでいる。
 私よりかなり若くて、参考にもなる刺激的な文章を書く。「学歴」等々の無意味さを<日本の教育>に関して述べたいのだから矛盾してはいるが、この人の経歴と現職には驚かされる。
 東京大学理学部物理学科卒業、現職は東京大学教授で「情報詩学研究室/生物統計・生命倫理研究室/情報基礎論研究室」に所属。作曲家・指揮者でもあり、『人生が深まるクラッシック音楽入門』(幻冬社新書、2012)等々の書物もある。
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  比較的最近のものに、2023年6月29日付「タイタンの乗客をバラバラにした深海水圧はどれほど脅威か」がある。
 これによると、水深2.4キロで240気圧が乗員・乗客を突然に襲ったとすると、「ぺちゃんこになる」どころか、おそらく「瞬時にしてバラバラ」になり、「海の藻屑となって四散した」だろう、という。
 関連して想像したくなるのは、その死者たちは自分の「死」を意識する余裕があったのかだ。たぶん、意識する「脳・感覚細胞」すら、「瞬時に」破壊されたのだろう。
 マスメディアでは報道されないが、「死」または「死体(遺体)」については、楽しくはない想像をしてしまうことが多い。
 だいぶ前に御嶽の噴火で灰に埋まった人々がいて、中には翌年以降に発見された遺体もあったはずだが、その遺体はどういう状態だったのだろう。
 知床半島近くの海に船の事故のために沈んでまだ「行方不明」の人々もいるはずだが、彼らの「遺体」はどうなっているのだろう。同じことは、東日本大震災のときの津波犠牲者で、まだ「行方不明」の人々についても言える。
 まだ単純な家出と「行方不明」ならばともかく、ほとんどまたは完全に絶望的な「行方不明」者について、「遺体」またはせめて「遺品」でも見ないと、「死んだという気持ちになれない」というのは、理解することはできても、生きている者の一種の「傲慢さ」ではなかろうか。
 2011年春の東日本大震災のあと一年余りあとに、瓦礫だけはもうなくなっていた(そして病院・学校の建物しか残っていなかった)石巻市の日和山公園の下の海辺を、自動車に乗せてもらって見たことがある。このときの感慨、不思議な(私の神経・感覚の)経験は、長くなるので書かない。
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 三 2023年6月23日付は「東大程度が目標の教育なら日本は間違いなく没落する」という、種々の意味での「東大」関係者には刺激的だろう表題だ。
 伊東乾が言っているのは、おそらく、正解・正答のある問題への解答ばかり学習して身につけた「知識」では役に立たない、あるいは「1945年以降の戦後教育が推進し、ある意味、明治~江戸幕藩体制期に先祖返りしていま現在に至る先例墨守、前例遵守の思考停止で共通の唯一正解しか求められないメンタリティ、能力とマインドセット」に落ち込んではダメだ、ということだ。
 そして、「正解がない問題ではない複数の正解がありうる問題に、より妥当な解を目指して漸近していく、そういう知性」が求められる。「19世紀帝国大学的な唯一解教育の全否定」が必要だ。「人々の意識の底に潜む唯一の正解という亡霊を一掃」する必要がある。
 このような旨の主張・指摘は、東京大学出身者である茂木健一郎がしばしば行なっている。特定大学名を出してのテレビ番組や同じくその番組類での出演者の「学歴表示」を、この人は嘲弄している(はずだ)。
 同じく東京大学出身者である池田信夫の印象に残った言葉に(しごく当然のことなのだが)、<学歴は人格を表示しない>旨がある。
 また、池田は<学歴のシグナリング機能>という言葉を、たぶん複数回用いていた。
 これらに共感してきたから、伊東乾の文章も大きな異論なく読める。
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  だが、「学歴」または「出身大学」意識は、日本社会と人々に蔓延していそうだ。いずれ書くが、「早稲田大学(第一)文学部卒」というのを、一つの重要な価値基準とする者も(とくに出版業界隈には、桑原聡等々)いるらしい。
 しかし一方で、「大学教育」というものはほとんどの大学と学部で「すでに成立しなくなっている」こともまた、多くの人々にとって(大学教員にすら)自明のことだと思われる。 
 その「大学教育」を形だけは目指して、高校(・中学校)や予備校・塾での「教育」と「学習」が行なわれているのだから、こんなに「無駄」、「人的・経済的資源の浪費」であるものはない。
 「大学授業料」無償化と叫ぶのは結構だとしても、そのいう「大学」での教育・学習の実態を無視した「きれいごと」の議論・主張では困る。
 とりあえず、第一回。
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2646/西尾幹二批判067。

  1965年に三国連太郎主演で映画化された『飢餓海峡』の原作者は、水上勉だ。この原作は、1962年に新聞で連載され、1963年に加筆されて単著化、1969年に文庫化されたようだ。だが水上勉はこの小説への「思い入れ」が深かったようで、のちに<改訂決定版>を書き、没後の2005年に刊行された。
 新聞または週刊誌に連載された当初の発表原稿が単著になったり文庫化されたりするときに加筆修正されることは、珍しくはないのだろう。 
 水上勉『飢餓海峡』の場合、単著になるときに加筆修正されていることは明記されていたはずだし、のちの<改訂決定版>も、このように明記されて出版された(所持している)。
 松本清張全集や司馬遼太郎全集(文藝春秋)に収録された諸小説類は、これらの全集は生前から逐次刊行されていたこともあって、新聞・週刊誌での発表原稿か、すみやかに単行本化された場合はその単著を「底本」としていたと思われる。三島由紀夫全集(新潮社)の場合は、全集刊行の事前に本人の「加筆修正」があったはずもない。
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  当初の発表原稿が単著化される、または単著の一部とされて出版される場合に「加筆修正」があるならば、その旨が明記されることが必要であって、通常の著者や出版社はそうしているだろう。
 さらに厳密に、「加筆修正」の箇所や内容もきちんと記載されることがあるかもしれない。
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 雑誌に発表した文章をその他の文章とともに単著化するに際して、<加筆修正した>旨を明記することなく、実際には「加筆修正」している例が、西尾幹二にはある。
 たまたま気づいたのだが、『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』(徳間書店、2017)と、その一部として採用されている「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)
 上の前者は6部に分けられて「書き下ろし」と既に発表したものの計18の文章で成っているようだ(18なのか、例えば20を18にまとめているのかをきちんと確認はしない)。
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 こういう場合、「初出一覧」を示す一つの頁を設けて、どの雑誌・新聞の何月(何日)号に当初の原稿は発表した旨を一覧的に示すものだが、西尾幹二『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』には、そういう頁はない。
 そうではなく、本文と「あとがき」の間に小さい活字で、「オリジナル」以外の「初出雑誌、並びに収載本は各論考末にあります」とだけ書かれている。すでに別の単行本になっているものの一部も転載されているようだ。
 それはともあれ、「各論考」の末尾をいちいち見ないと、その文章が最初はいつどこに発表されたかが、分からないようになっている。
 少なくとも、親切な「編集」の仕方ではない。
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  「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)は、は「II」の「五」に収録され、その末尾にカッコ書きで「(『WiLL』2016年9月号、ワック)」と記載されている(p.110)。
 但し、A・雑誌発表文章とB・上の単著収録文章には、若干の差異がある
 第一。タイトル・副題自体が同じでない。Aは「安倍首相への直言・なぜ危機を隠すのか—中国の脅威を説かずして何が憲法改正か、首相の気迫欠如が心配だ」。
 Bでは、「安倍首相、なぜ危機を隠すのか—中国軍機の挑発に対して」。
 第二。小見出しの使い方が同じではない。
 Aには「中国の非を訴えるべきだ」と「米中からの独立」が二つめと最後にあるが、Bにはこれら二つがない。
 第三。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、明らかに文章が変わっている。「修正」されている。
 「軍事的知能が落ちた」という小見出しの位置を変更した辺り、Aでは「…いかに現実のものとなっているかがお分かりいただけると思います」(雑誌p.60)、Bでは「今やいかに現実のものとなっているかは、考えるヒントになろうかと思います」(書籍p.108)。
 第三の二。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、単著化の際に明らかに付け加えられた文章がある。「加筆」だ。
 Aの「安倍首相への直言、…」は、「…。アメリカと中国の両国から独立しようとする日本の軍事的意志です」で終わっている(雑誌、p.61)。
 これに対してBの「安倍首相、なぜ…」は、上のあとで改行して、つぎの二段落を加えている。
 「中国軍機の挑発をいたずらにこと荒立てまいと隠し続ける日本政府の首脳は、国民啓発において立ち遅れてしまいました。…〔一文略—秋月〕。
 意識を変えなければなりません。やるべきことはそれだけで、ある意味で簡単なことなのです。」
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  このような不一致、および「加筆修正」を問題視しなくてよい、そうする必要はない、実質的に同じだ、趣旨を強化しているだけだ、と擁護する向きもあるだろう。
 しかし、決定的に問題なのは、上のようなことが(他にもあるかもしれないが)「ひとことの断わりもなく」、「加筆修正した」と明記することもなく、単著化の段階で行なわれている、ということだ。
 何の「断わり」も「注記」もないのだから、単著『保守の真贋』の読者は、各文章の末尾に付された雑誌類と同じそのままの文章が掲載されていると思って読むだろう。
 これは一種の「ウソ」で、「詐欺」だ。一部であっても全体の一部なのだから、ある文章の全体を単著化の時点で黙ったままで「書き直した」に等しい。
 そして、このような「加筆修正」等が<全集>への収載の時点で行なわれていない、という保証は全くない。
 著者・編集者が、西尾幹二だからだ。
 元の文章を明示的に修正しなくても、西尾自身の「後記」によって後から趣旨の変更を図るくらいのことは、「知的に不誠実な」西尾幹二ならば行ないかねないし、行なっていると見られる。
 当初の(雑誌・新聞等への)発表文章、単著化したときの文章、全集に収録された文章、これらの「異同」等に、読者は、あるいは全く存在しないかもしれないが、西尾幹二文献に「書誌学」的関心をもつ者は、注意しなければならない。
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2645/高森明勅のブログ③—2023年6月11日。

 一 高森明勅の2023年6月11日付ブログ。
 この記事は「旧宮家系男性」が現存するのは「久邇・賀陽・竹田・東久邇の4家」としたうえで、こう書く。
 「なお、これらの諸家は…、全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)である。
 ところが、現在の皇室典範では“一夫一婦制”を前提として、皇族の身分を厳格に嫡出・嫡系(正妻に出自を持つ系統)に“限定”している(皇室典範第6条)。
 よって、非嫡系の男子に新しく皇族の身分を認めることは、制度上の整合性を欠くとの指摘がある(大石眞氏)。
 「現行法が採用する強い嫡出制原理との整合性という点から考えると、『皇統に属する男系の男子』がすべてそのまま対象者・適格者になるとするのは問題であろう」(大石氏、第4回「“天皇の退位等に関する皇室典範特例法に対する附帯決議”に関する有識者会議」〔令和3年5月10日〕配布資料)
 この指摘を踏まえると、(仮に「門地差別」や当事者の意思などの問題を一先ず除外しても)旧宮家系男性に「対象者・適格者」は“いない”、という結論になる(非嫡系の旧宮家が、現行典範施行後、皇籍離脱までの僅かな期間〔5カ月ほど〕、皇族の身分を保持できたのは、典範附則第2項の“経過規定”による)。」
 以下、秋月の文章。これで、旧皇族系男性の皇族復帰(・養子縁組)が法的理屈上ほぼ不可能であり、絶望的であることは「決まり」だ。後記のことを考慮すると、正確には「ほとんど決まり」。
 秋月が気づくのが遅れたので、上の資料上の大石眞の文章をもう少し長く抜粋的に引用しておく。
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 皇室典範特例法附帯決議有識者会議(2021年5月10日)・配布資料3—大石眞。
 皇族数の減少をもたらす「制度上の潜在的な要因」がある。養子縁組ができないこと(典範9条)、「明治典範とは異なって(旧典範4条参照)、三后を除いて皇族であるためには、すべて『嫡出の皇子』と『嫡男系嫡出』の皇孫・子孫とされて嫡出原則が強く求められ(典範6条)、庶出・庶系の者はすべて排除される」こと、婚姻により皇族女子が「皇族を離脱」するとされること(典範12条)、の三つだ、
 「とくに皇位継承という面から見ると、嫡出制原理のもつ意味は大き」い。
 継続的な継承資格者確保のための「立法論としては、(1) 「皇統に属する男系の男子」、及び、(2) 『嫡出』である皇族」という要件の「いずれか又は両方を緩和することによって、その範囲の拡大を図るほかはない」。
 このうち、「(2) の庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」。この点から考察すると、「皇庶子孫の皇位継承」を明治典範は認めたが(旧典範4条)、そこには夭折する皇子が多かったこと、光格・仁孝・孝明のほか明治天皇や嘉仁親王(のち大正天皇)も皇庶子だったこと、という事情がある。「我が国の庶出を断たざるは実に已むを得ざるに出る者なり」(旧典範4条義解)なのだった。
 「現行典範の制定過程では、嫡出子に限ると皇位継承資格者を十分に確保できないのではないかとの懸念が示された。しかし、立案者側は、『庶出子は正しい系統ではない』とする国民の間における『道義心』を理由に庶出・庶系を外したと説明している。しかも、いわゆる正配・嫡妻のほか側室を正面から認めるような国民意識の乏しい現在では、上記(2) の嫡出要件を外す途は建設的な議論といえない」。
 「そのため、結局、上記(1) の男系・男子要件を外すことにより皇位継承資格者の拡大を図るしかない」。
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 この大石眞の見解と、「旧宮家系男性」は「全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)」だとの高森明勅の認識が結びつくと、「旧宮家系男性に〔皇族「復帰」・皇位継承の〕「対象者・適格者」は“いない”」との高森の結論となる。
 「庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」ので秋月も十分に意識していなかったが、大石の見解は妥当と思われる。
 旧皇族の後裔者が現存していても、現皇室典範の<嫡出原理>もとでは、「皇族」化するのはきわめて困難であり、かつ現典範上のその原理を廃止するのは現実的・建設的ではない、ということだ。
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  しかし、上は厳密には、現皇室典範のレベルでの議論だとも思われる。
 そこで、これまでの議論にやや奇妙な思いももってきたので、この機会に、若干のことを付言したい。憲法レベルでの議論は完全に尽くされているのだろうか。
 第一。数年前に青山繁晴ら自民党国会議員有志が男子に限っての旧皇族(の後裔たち)の皇族「復帰」を目指す提言(または法案)を発表したとき、不思議に思ったのは、当該旧皇族個々人の「同意」・「合意」が必要であることを前提にしていることだった。
 西尾幹二も、「皇族」となる意思のある旧皇族(の子孫)はいるかと、竹田恒泰に訊ねていたことがある(二人の対談書で)。
 しかし、将来に皇位を継承する(=天皇となる)か否かが「皇族」化に関する当事者の<意思>に依存するというのは、つぎの意味で適切でない、と考える。
 世襲たる天皇位はその「血統」を理由として継承される。ときどきの、または関係個々人の「意思」によるのではない。「皇族」化に同意した者には皇位継承の可能性が開かれ、同意しない者にはその可能性は一切なくなる、というものではないだろう。
 「同意」を要件とするのは、一方的・強制的でなく「合意・同意」にもとづいて穏便に、という戦後の「風潮」に合致し、つぎに触れるが、一般国民となっている者の「人権」に配慮しているのかもしれない。
 第二に、国民の一部の「皇族」化は、—上で出てくる高森の表現では—「門地による差別」であって憲法上絶対に許されない、と言い切れるのかどうか、なおも疑問とする余地がある。高森はこの点を疑っていないようだが。
 全ての「人権」も、「平等取扱い要求」も、絶対的なものではなく、「公共の福祉」による制限を課し得ることは憲法自体が許容している(この点に一般論としては争いはない)。
 問題は、制限する、問題に即してより具体的に言えば国民の一部を一方的(・強制的)に「皇族」化して「身分」を変更し「自由」を制限することを正当化することができるだけの「公共の福祉」はあるのか、その「公共の福祉」とはいったい何か、だ。
 このように問題を設定しなければならないのではないか。
 その「公共の福祉」として考えられるのは、現憲法も「価値」の一つとしている<天皇位>の保持だ。つまり、<安定的・継続的な皇位就任資格者の数の確保>だ。
 これが個々の一定の国民を「門地により差別」し、「平等」には取り扱わない根拠・理由になり得るならば、そのための(一方的な)法律策定・改正もまた憲法上許容される、と考えられる。
 このような議論をしてほしいものだ、と感じてきた。
 こう書いたからといって、上の具体的な「公共の福祉」を持ち出すことによる憲法上の正当化ができる、と秋月は主張しているのではない。
 男系天皇制度護持を強く主張する者たちこそが、「同意」要件などを課さずに、こういう議論をし、こういう「論法」を採用すべきだ、と感じてきただけだ。<男系天皇の保持>はこの人たちにとって、日本国家の存立にかかわる、絶対的な「公共の福祉」ではないのか。
 「国民意識」や国民の「道義心」を理由として<嫡出原理>の廃止は困難だとする大石の議論の仕方も参照すると、結論的に言って、法律(典範)改正等による一定範囲の男性国民だけの「皇族」化は、世論の支持を受けず、法的にも<安定的な(男性皇族による)皇位継承>という「公共の福祉」による正当化を受けそうにないと思われる。
 したがって、結論は、おそらく高森明勅と異ならない。
 なお、以上のようなことはすでに誰かが書いているかもしれない、と弁明?しておく。
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2644/西尾幹二批判066。

  西尾幹二全集は完結したのだろうか。最後の方は購入をしなくなったので知らない。また、全ての単著および発表論考を、そのまま、全集に収載したのだろうか。
 日本会議批判を含む『国家と謝罪』(2007)・『保守の怒り』(2009)等や『皇太子様への御忠言』(2008)は全集にそのまま忠実に収録されているのだろうか。
 いかほど売れているのだろうか。しばしば自著の販売部数に触れてきた西尾幹二は、<全集>の売れ行きも気になるに違いなく、概数を知っているだろう。人文社会系書籍でも大学等の研究機関や公立図書館が購入してくれるので最小限のある程度の部数は捌けると聞いたことがある。これ以外に、西尾幹二全集を「個人で」金を払って購入している人はいったい何人いるのだろうか。
 真剣に思うのだが、100人もいるのだろうか。
 多くの読者、いや所持者は、西尾幹二から「無償で」送付されているのではなかろうか(そして、ろくに読んではいない)。
 <西尾幹二批判>を書き続けつつ、こんな人物を論評しても意味がないという虚しさも感じる。本人が思っているのとは異なり(あるいは本人も深いところでは悟っているかもしれないように)、西尾幹二とは「まともに相手にする必要のない」、またはごく少数のマニアからを除いて、本当は「まともに相手にされていない」人物なのだ。
 だが、いっとき渡部昇一や八木秀次等々に比べて西尾幹二は「ましな保守」論客だと勘違いしていた「恥ずかしい」経験が私にはあるので、その「負い目」をなおも意識せざるを得ない。
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  より本格的な分析・検討は別に行ないたいが、<西尾幹二全集>は、日本の「全集」出版史上、稀に見るグロテスクなものになっていると思われる。実質的な編集者の西尾幹二本人のもとで小間使いをさせられている(いた)国書刊行会の「編集」担当者は気の毒だ。
 三島由紀夫全集(新潮社)には評論類や私的「手紙」まで収載され、じつに詳細な索引まで付いている。
 三島由紀夫全集と比較すること自体が無謀あるいは愚昧なのかもしれない。
 西尾幹二は、自らの詳細な「年譜」とともに、「公にした」文章(①新聞・雑誌論考、②それらを中心にまとめた単著、③収載した(はずの)<全集>)の「差異」を、自ら詳細かつ明確に記しておくことができているのだろうか。「索引」(可能ならば人名と事項の二種)を付す「誠実さ」はあるのだろうか。
 とりあえず分類した上の①・②・③は基本的には同じはずであり、少なくとも③の段階では「加筆修正」はもはや存在しないだろうと理解するのが常識的だと見られる。常識的な読者はそう理解して読むだろう。しかし、全集の各巻発行の時点で西尾は「加筆修正」しているのではないか、との疑いを拭うことができない。
 具体的指摘は別にするが、西尾は、かつての二つの文章(講演記録だったかもしれない)を、<全集>の段階で一つの文章に「合成」していたことがある。実質的には同じだという釈明をすることはできない。<全集>の段階で元の文章を書き直しているのと同じだ。
 個々の文章の「加筆修正」ならば全体には直接には波及しないかもしれない。
 しかし、編集者・西尾幹二にとって「好ましい」ように各巻が配置され、現在の西尾にとって「好ましい」ようにかつての文章が選ばれている。そして、かつては同じ一つの単著の中の文章だったものが、全集段階で別の巻に分散して収められていることもある。上の②の時点での「あとがき」やその当時の第三者による「書評」が収載されていることもある。したがって、いつ書かれたのかという基本的な点も含めて、きわめて分かりにくく、複雑怪奇なものになっている。なお、同じ文章が全集の別々の巻に収められていたことがあった(それを詫びていた記事があった)。
 これを解消するには、上に触れたように、諸文章、各著書、「全集」段階での収録の各関係等々を詳細かつ丁寧に説明する、全集段階での一覧表的記述をしておくことが必須だ。だが、西尾幹二にそのような「知的誠実さ」を求めること自体が無理なのかもしれない。
 西尾幹二全集の最大の特徴は、各巻末尾の西尾自身の「後記」の存在だろう。
 この「後記」の内容の異様さを見ると、全集「月報」上以外に、西尾幹二以外の第三者のかつてのまたは全集刊行時点での文章が(「追補」等として)堂々と掲載されていることの異様さもかすんでしまう。
 西尾幹二は「後記」で、自らのかつての文章を論評し(多くはその積極的意義を述べ)、かつまた読者に対して、かつての自らの文章の「読み方」をガイドまでしようとしている。その中には、かつてとは異なる、全集刊行時点での自分自身の評価(意義の理解の変更を含む)をも紛れ込ませている。
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  結局のところ、西尾幹二の文章執筆(そしてこの人の人生そのもの)の最大の目的は、西尾幹二の「偉さ」を多数の人々に認めさせること、多くの人々に「えらい」、「すごい」と称賛されることにあった。この人にとって、「自分の存在意義」こそが全てだ。
 全てはそのための「手段」にすぎない。自分の文章作りとともに、ときには他人の存在までもが。
 真実、良心、誠実、…。こうした「美徳」は、西尾自身の「顕名」に比べれば、何の価値もない。。
 現天皇即位の際に月刊正論に寄稿した文章を冒頭に置く西尾『日本の希望』(徳間書店、2021)の表紙にこうある。
 「私は、日本のあり方をずっと考えてきた!」
 大笑いだ。そして、ウソをつくな、と言いたい。書いたものは全て「自己物語」で、「私が主題」だった、「私小説的自我のあり方で生きてきた」と、2011年の全集刊行開始頃に遠藤浩一との対談で語っていたではないか。
 「日本」もまた、この人にとっては「手段」だった。あるいは、ヒト・人間、人類、地球・世界ではなく、「日本」としか語れないところに、西尾幹二の本質と致命的な限界があるのかもしれない。
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  多くの人々が西尾幹二に「だまされてきた」。この人の文章をきちんと読み、きちんと分析・検討することなく、「だまされてきた」。
 なぜそうなったのか。例えば、なぜ、西尾幹二はいわゆる「つくる会」の初代会長に「まつり上げ」られたのか。日本の戦後の、少しは限定して言えば日本の戦後の<保守>界隈の、一つの興味深い現象だ。
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2643/私の音楽ライブラリー②。

 ①で取り上げた、01のSchumann の冒頭和音のあとの旋律と02のMendelssohn の冒頭の旋律は、相対音でどちらも「ミラシド…」だった。Tchaikovsky, “Swan Lake”の「情景」も、「ミラシド…」だ。むろん、各音符の長さは違うし、上昇と下降の違いもある。
 このたった4つの短い音節は若いときからなじみのあるもので、舟木一夫「高校三年生」、小椋佳「春の雨はやさしいはずなのに」、井上陽水の「心もよう」も、冒頭は相対音で「ミラシド…」だ。他にもあるだろう。
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 05 J. S. Bach, St. Mattäus Passion (マタイ受難曲)(Netherlands Bach Society)。

 06 Beethoven, Symphony No. 5 in C-minor (運命)(Seiji Ozawa,NHK SymO)〔小林一夫〕。

 07 Brahms, Symphony No. 4 in E-minor(Tatsunori Numajiri, NHK SymO)。

 08 Mozart, Lacrimosa -平均律·純正律聴き比べ-〔渡邊秀夫〕。
 特定の一曲の演奏が、主要音の周波数比の簡潔さが顕著な純正律による方が「調和性」が高い(表現によれば「より美しい」)ことははっきりしている。日本の戦前の唱歌について純正律によるものがuploadされてもいる。しかし、〈十二平均律〉と比較での優劣をこの点だけをもって判断することはできない。これら二つの音律は「次元」が異なるのだ。なお、Lacrimosa を含む、Mozart, Requiem in D-minor はMozart の中では最も好みの一つだ。
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2642/「ドレミ…」はなぜ7音なのか②。

  1オクターブが12音で構成されるのならば、それら各12音には低い(周波数の小さい)順にA-B-C-D-E-F-G-H-I-J-K-L(イロハニホヘトチリヌルヲ)という符号をあててもよかったのではないか。
 楽譜を五線譜ではなく六線譜にすれば、♯や♭を用いなくとも全12音を線上または線間に表記できるのではないか。
 以上は、素人が感じる疑問。〈十二(等分)平均律〉から音律の歴史が始まっていたとすれば、ひょっとすれば上のようだったかもしれない。しかし、現在の音楽界を圧倒的に支配する〈十二平均律〉もまた、「歴史と伝統」を引き摺っているのだ。
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  「No.2638/「ドレミ…」の7音と白鍵・黒鍵」のつづき。  
 マックス·ウェーバー・音楽社会学(邦訳書1967)でM·ウェーバーは「『圏』状に上行または下行すると…」という表現を用いていたが、同著に付された「音楽用語集」によると、この「」はcircle, Zirkel の訳語であることが分かる。「円環」あるいは「周円」のことだ。
 そして、「圏」はこう説明される。①「ある音を出発点として、上方または下方に向かい、決められた度数によって順次得られる諸音によって作られる圏をいう。… 諸音を得ることの外に、調の近親関係を見わたすための便利な図として利用される。」
 また、「5度圏」はこう説明されている。②「或る音から上方・下方に完全5度音を次ぎ次ぎにとって行くことにより諸音を得る。これを図にしたのが5度圏である。出発点から十二番目の音は、例えばCから出発した場合His〔B♯—秋月〕の様な非常に近い音になる。平均律5度音の場合は十二番目は異名同音的に重なる。」
 少し挿むと、②の最後部分が述べているのは、〈十二平均律〉だとちょうど1オクターブ上の2となって重なるが、(おそらくは)ピタゴラス音律においては重ならない(ピタゴラス・コンマぶんの誤差が生じる)、ということだと考えられる。
 ともあれ、「5度圏(表)」は〈十二平均律〉についてのみ意味があったものではないこと、「5度」または「完全5度」等は〈十二平均律〉におけるそれら(例えば、十二平均律での<今で言うC-G>の間差)を元来は意味したのではなかったということ、が重要だ。
 また、上の①に「諸音を得ることの外に…」とあるが、これは「5度圏」を含む「圏」の表・図の第一の目的が「諸音を得る」ことにあったことを示している。②もまた、「…諸音を得る」とだけ断じている。
 従って、〈十二平均律〉を前提として、「5度圏(表)」を用いて五線譜冒頭の♯や♭の数によってある曲の「調」が分かる(加えて近親「調」が分かる)というのは、「5度圏(表)」の歴史的な本来の役割からすると些細なことだ。トニイホロやソレラミシを「覚える」だけでは空しい。You Tube上の例えば以下のサイトは、「5度圏(表)」の歴史的意味を理解していないと見られる。この人たちには「圏状の上行・下行」(あるいは「螺旋上の上行・下行の旋回」)という表現に当惑するのではないか。
 「音大卒が教える」「音大卒があなたのお困り助けます」
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 以下の文献はピタゴラス音律に関して「音のらせん」という節をもち、「らせん上で3倍することを繰り返す」と題する図も付して、「圏状の上行・下行」あるいは秋月の表現だが「螺旋上の上行・下行の旋回」を、明確に説明している。
 小方厚・音律と音階の科学(講談社ブルーバックス、2018)、p.45-46、p.59。
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  音の周波数が2倍、4倍、8倍、…になるとともに音の高さはちょうど1オクターブ、2オクターブ、3オクターブ、…高くなる。弾く弦の長さを1/2、1/4、1/8、…にするとともに、と言っても同じ。
 このことに、人々は太古から気づいただろう。
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 では、1オクターブ内にどのように音を設定すればよいか。—オクターブだけ異なる「同じ」音では満足できず、「異なる」高さの音によって何らかの「旋律」を生みたい人々は、こう問うたに違いない。
 そして、すみやかにつぎのことを知ったと思われる。
 すなわち、一定のある音と異なり、かつ1オクターブ上(・下)の「同じ」音でもない音は、一定のある音を1とすれば、その1に3/2および2/3を掛けることによって得られる(2/3を掛けるとは3/2で割ると同じ)。
 これは、弦の長さで言うと、ある音が出る弦の長さを2/3倍および3/2倍にするのと同じ(弦の長さと音の高さ(周波数の大きさ)は反比例する)。弦の長さを1/3および3倍にすると表現しても、本質は同じ。
 そして、1×(3/2)=3/2と、1÷(3/2)=2/3の二つの数値が得られる。このうち後者も1と2の間の数値になるように2倍すると(2倍してもオクターブは異なる「同じ」音だ)、3/2と4/3の二つの数値を得ることができる。
 1と2を加えて小さい順に並べると、1、4/3、3/2、2
 オクターブだけ異なる「同じ」音に次いで得られた二つの音は一定の音(1、2)との関係での周波数比が簡潔であるために、一定の音ときわめてよく調和または協和するはずだ。
 さて、音の「度」数表示は〈十二平均律〉の採用以前の古くから行われていたようで、池宮英才「音楽理論の基礎」マックス·ウェーバー・音楽社会学(1967)所収294頁は、ちょうど1オクターブだけ離れた音(2)を「8度」と呼び、「絶対協和音」とする。
 かつ、上の3/2と4/3をそれぞれ「5度」、「4度」と呼び、この二つを「完全協和音」とする。また、両者をそれぞれ、「完全5度」、「完全4度」とも称している。
 ここに見られるように、「完全5度」、「完全4度」とは〈十二平均律〉の場合にのみ語られる用語ではない。
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 〈十二平均律〉を前提とした音程の説明の中で「完全5度」や「完全4度」といった概念を用いている人々がどの程度自覚しているのかは疑わしいが、上の3/2と4/3の二つは、〈十二平均律〉における「(完全)5度」や「(完全)4度」の周波数比の値と異なる。
 ピタゴラス音律および純正律において、オクターブだけが異なる音に次いで最初に設定されると考えてよいと思われる二つの音の周波数比の値は、3/2と4/3だ。どちらの音律でも同じ。
 これに対して、〈十二平均律〉では、「完全5度」、「完全4度」の対1周波数比は、つぎのようになる。
 「完全5度」=1.49830…、「完全4度」=1.33484…。
 これらは「無理数」で、整数を使って分数化することができない。
 対比させるために、少数を使ってピタゴラス音律や純正律での「完全5度」、「完全4度」をあらためて表記すると、つぎのとおり。
 「完全5度」=1.5、「完全4度」=1.33333…。
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 〈十二平均律〉ではこうなるのは、この音律は、1オクターブを隣り合う各音の周波数比が全て同一になるように周波数比を「等分に分割」しているからだ。
 いつか触れたように、Xを12乗すれば2となる数値が最小の単位(「一半音」の周波数比)になり、このXは「2の12乗根」のことだから、(この欄での表記はやや困難だが)「12√2」だ(1√2はいわゆる「ルート2」のこと)。
 「12√2」=「2の12乗根」は、約1.059463
 これをここで勝手にたんに「α」と表記すると、「完全5度」、「完全4度」はそれぞれ、αの7乗、αの5乗であり、計算すると、上に掲記の少数付き数値になる。
 そして、低い順に、αの0乗=1、αの5乗、αの7乗、αの12乗=2、という音の並びになる。
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  以上のかぎりで、ピタゴラス音律と純正律では、1、4/3、3/2、2という「音階」ができることになる。
 「ドレミ…」を<7音音階>と言うとすれば、単純だが素朴な<3音音階>だ。
 さらに新しい音を設定(発見)しようとして、ピタゴラス音律では3/2または3を乗除し続ける。純正律では5/4、6/5という簡潔な分数を見出し、これを全体に生かそうとする(「2と3」から「2、3と5」の世界へ)。
 この二つの音律の歴史的前後関係については、前者の欠点を是正しようとして生まれたのが後者だと理解していた。この場合、ピタゴラス・コンマは最初からないものとされ、<今日にいうC-E-G>の和音の「美しさ」が追求される(但し、純正律では「シントニック・コンマ」※が生まれる等の問題が生じる)。
 但し、両者はほぼ同時期に成立していた旨の説明もある。その場合、2、4、8または3ではない5という自然「倍音」が古くから着目されていたともされる。
 また、今回に言及した池宮英才「音楽理論の基礎」音楽社会学所収も、3/2、4/3の設定・「発見」の叙述のあとで、すでに純正律も考慮したような叙述をしている。
 ※「シントニック・コンマ」。純正律における「大全音」と「小全音」の差で、(9/8)÷(10/9)=81/80。または、ピタゴラス音律での「長3度」と純正律での「長3度」の差で、(81/64)÷(80/64)=81/80。
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 さて、秋月瑛二は、素人的に考えて、つぎの2音を選ぼうとする。
 すると、<5音音階>を簡単に作ることができる。<7音音階>までもう少し、あと2つだ。
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 つづく。

2641/マックス·ウェーバー・音楽社会学(1911-12)。

  マックス·ウェーバー・音楽社会学=安藤英治·池宮英才·門倉一朗解題(創文社、1967)は、創文社刊のM・ウェーバー<経済と社会>シリーズの、第9章のあとの「付論」で、独立した一巻を占める。
 <音楽社会学>というのはいわば簡称で、正式には「音楽の合理的社会学的基礎」と題するらしい(独語)。また、未完の著作だったとされる。
 上掲著は計約400頁で成るが、二つの解説論考(「マックス·ウェーバーと音楽」・「音楽理論の基礎について」)、訳者後記、第二刷あとがき、音楽用語集、人名索引・事項索引等が「解題」者によって付されているので、それらを除くと、本文は約240頁になる。
 しかもまた、本文中の「各章末」の「訳註」は訳者たちによるので、それらを除くと、きちんと計算したのではないが、M・ウェーバー自身の文章は、約240頁のうちの100頁以下だと思われる。
 この<音楽社会学>(「音楽の合理的社会学的基礎」)が執筆された時期は明確でない。安藤英治1911-12年に「草稿として書き上げられ」ていた、とする(p.244)。ウェーバーの死の翌年の1921年7月付の「緒言」が別の学者(Theodor Kreuer)によって書かれており、これも上掲書に訳出されている。
 20世紀前半のドイツの「社会科学者」、少なく見積もっても「社会学者」による「音楽理論」に関する文章は、それだけで興味をそそる。また、一読だけしても、きわめて興味深い。
 以下、冒頭の一部だけ、上掲書からそのまま引用する。訳者によって挿入されたと見られる語句の引用・紹介はしない。
 原訳書と異なり、一文ごとに改行する。「過分数」という語もあるように、分数表記の仕方は前後ないし上下が逆だと思われるが、そのまま引用する。下線は引用者。 
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 〔=第一章冒頭—秋月〕
 和声的に合理化された音楽は、すべてオクターヴ(振動数比1:2)を出発点ととしながら、このオクターヴを5度(2:3)と4度(3:4)という二つの音程に分割する。
 つまり、n/(n+1)という式で表される二つの分数—いわゆる過分数—によって分割するわけで、この過分数はまた、5度より小さい西欧のすべての音程の基礎でもある。
 ところが、いま或る開始音から出発して、まず最初はオクターヴで、次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で「圏」状に上行または下行すると、この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない
 例えば、(2/3)12乗にあたる第十二番目の純正5度は、(1/2)7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである。
 このいかんとも成し難い事態と、さらには、オクターヴを過分数によって分ければそこに生じる二つの音程は必ず大きさの違うものになるという事情が、あらゆる音楽合理化の根本を成す事実である。
 この基本的事実から見るとき近代の音楽がいかなる姿を呈しているか、われわれはまず最初にそれを思い起こしてみよう。
 ****〔一行あけ—秋月〕
 西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法は、オクターヴを5度と4度に、次に4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割することである。
 以上の音程は、いずれも、2、3、5という数を基にした分数によって構成されている
 和音和声法は、まず「主音」と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な「三和音」を構成する。
 そして次に、三和音を構成する諸音(ないしそれらの8度音)を一オクターヴ内に配列すれば、当該の主音を出発点とする「自然的」全音階の全素材を、残らず手に入れることになる。
 しかも、長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ「長」音列か「短」音列のいずれが得られる。
 オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在し、いずれの場合にも、二番目の全音が小全音で、それ以外はすべて大全音である。
 ----〔改行—秋月〕
 音階の各音を出発点としてその上下に3度と5度を形成し、それによってオクターヴの内部に次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの「半音階的」音程が生ずる
 それらは、上下の全音階音からそれぞれ小半音だけ隔たり、二つの半音階音相互のあいだは、それぞれ「エンハーモニー的」剰余音程(「ディエシス」)によって分け隔てられている。
 全音には二種類あるので、二つの半音階音のあいだには、大きさの異なる二種類の剰余音程が生ずる。
 しかも、全音階的半音と小半音の差は、さらに別の音程になるのであるから、ディエシスは、いずれも2、3、5という数から構成されているとはいえ、三通りのきわめて複雑な数値になる。
 2、3、5という数から成る過分数によって和声的に分割する可能性が、一方では、7の助けを借りてはじめて過分数に分割できる4度において、また他方では大全音と二種類の半音において、その限界に達するわけである。
 ----〔改行、この段落終わり—秋月〕
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 以下、省略。
 ——
  若干のコメント。 
  M・ウェーバーと音楽・芸術一般の問題には立ち入らない。 
 M・ウェーバーの「学問」において音楽・芸術が占める位置の問題にも立ち入らない。
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  「音楽理論」との関係に限定すれば、つぎのことが興味深く、かつ驚かされる。すなわち、この人は、ピタゴラス音律および純正律または「2,3,5」という数字を基礎とする音律の詳細を相当に知っている。
 そして、上掲論文(未完)の冒頭で指摘しているのは、ピタゴラス音律および「2,3,5」という数字を基礎とする音律が決して「合理的でない」ことだ。
  ピタゴラス音律に関連して、3/2または2/3をいくら自乗・自除し続けても「永遠に」ちょうど2にならないことは、この欄で触れたことがある。
 M・ウェーバーの言葉では、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」、「12乗にあたる第十二番目」の音は1オクターブ上の音よりも「ピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」。
 さらに、以下の語句は、今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える
 「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」。
 この「上行・下行」は、ここでは立ち入らないが、「五度圏(表)」における「時計(右)まわり」と「反時計(左)まわり」に対応し、「♯系」の12音と「♭系」の12音の区別に対応していると考えられる。
 さらに、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」上の12音と「下旋回」上の12音に対応しているだろう。
 そして、M・ウェーバーが言うように「二つの音程は必ず大きさの違うものになる」であり、以下は秋月の言葉だが、「#系」の6番めの音(便宜的にF♯)と「♭」系の6番めの音(便宜的にG♭)は同じ音ではない(異名異音)。このことに、今日のピタゴラス音律に関する説明文はほとんど触れたがらない。
  <純正律>、<中全音律>等に、この欄で多少とも詳しく触れたことはない。
 だが、上記引用部分での後半は、これらへの批判になっている。
 純正律は「2と3」の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または「和音」を形成することができる。
 しかし、M・ウェーバーが指摘するように、純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)「半音」で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに「幹音」に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。
 なお、「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在」する、という叙述は、つぎのことも意味していることになるだろう。すなわち、鍵盤楽器において、CとEの間には二個の全音が(そしてピアノではそれらの中間の二個の黒鍵)があり、Fと上ののCの間には三個の全音(そしてピアノではそれらの中間の三個の黒鍵)がある、反面ではE-F、B-Cの間は「半音」関係にある(ピアノでは中間に黒鍵がない)、ということだ。
 彼は別にいわく、「次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。二個というのは、純正律でもピタゴラス音律でも同じ。
 また、長調と短調の区別の生成根拠・背景に関心があるが、この人によると、「長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ『長』音列か『短』音列のいずれが得られる」。これは一つの説明かもしれない。
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  引用部分にはなかったが、M・ウェーバーはいわゆる<十二平均律>についても知っており、その「究極的勝利」についても語っている(p.199-p.200)。但し、その弊害にも触れている。
 彼によると、「不等分」平均律と区別される「等分」平均律の一つであり、こう説明される。「これは、オクターヴを、それぞれ1/2の12乗根になるような十二の等しい等間隔に分割することであり、したがって十二個の5度をオクターヴ七つと等置すること」である。「12」という音の個数自体は、ピタゴラス音律や純正律の場合と異ならない。
 なお、完全「5度」、完全「4度」、「長3度」、「短3度」等の表現をM・ウェーバーもまた当然のごとく用いていることもすこぶる興味深い。詳細とその評価に言及しないが、こうした言葉は、1オクターヴは8音の「幹音」で構成される(両端を含む)として、それぞれに1〜8の番号を振って二音間の隔たりを表現する用語法だ。「5度」の一半音上の音は「増5度」になる。馬鹿ばかしくも、一半音は、「減2度」と言う。
 今日の日本の「音楽大学」等での「専門」的音楽理論教育で用いられている術語は、20世紀初頭のドイツでとっくに成立していたようだ(明治期・戦前の日本の「専門」音楽界はそれを直輸入した)。
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2640/中北浩爾・日本共産党(中公新書、2022)①。

 中北浩爾・日本共産党—「革命」を夢見た100年(中公新書、2022)
 出版直後ではなく、数ヶ月あとに読了している。あまり記憶には残っていないが、この書の一部を再読して、日本共産党やこの書自体に関して、感想等を述べておく。
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  上の中北著は「はじめに」で、欧州の「急進左派政党」との比較、「ユーロコミュニズム」と日本共産党の「宮本路線」の異同の検討がその歴史も含めて必要だとし、それら等をふまえて「終章」で現状分析と当面する「選択肢」を論じる、とする。
 矛盾してはいないのだろうが、しかし、「終章」では欧州の「急進左派政党」や「ユーロコミュニズム」に言及することは少ない。但し、「社会民主主義への移行」と著者が推奨するらしき「民主的社会主義への移行」という選択肢の提示に役立っているのかもしれない。
 そうすると「社会民主主義」と「民主的社会主義」の区別が重要になる。そして、日本共産党の現在の綱領の骨格を維持した日本「共産党」という名称のままで可能なのか、も問題になる。中北は後者には論及していないようだ。
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  「ユーロコミュニズム」と日本共産党「宮本路線」が同じではないのは共産主義政党の成立以来の歴史から明瞭なことで、あらためて指摘するまでもない。
 封建制→(絶対主義)→資本主義→社会主義という「歴史の発展法則」が(マルクス・エンゲルスによって提示されたように)存在するとすれば、封建制・絶対主義以降の国家・「革命」政党にはこれらから決別する「(ブルジョア)民主主義革命」とそれはもう遂行されたとみて「社会主義革命」を目指すかの選択が強いられたはずだ。フランスやイタリア等では「社会主義」革命という一段階だけが残っていた。
 日本共産党はいわゆる「講座派」の立場から前者の<二段階>革命論を創立時から採用していたのは、諸テーゼからも明らかだ。
 戦前の綱領的文書は日本共産党が独自に策定したのではなく、ロシア・ソ連の共産党(・コミンテルン)に「押しつけられた」面が決定的だっただろう。ロシア帝制は1917年2月に崩壊したにもかかわらず天皇制がまだ残っている戦前の日本にはまだ「(ブルジョア)民主主義革命」だ必要だ、とロシアのボルシェヴィキたちは容易に判断したのかもしれない。
 もっとも、第一に、レーニン「帝国主義論」(1917年9月刊行)によると、「帝国主義」とは資本主義の「最高の」、「独占主義的」段階のようなのだが、そうすると、日本は「半封建的絶対主義天皇制」のもとで「帝国主義」戦争を遂行していたことにになる。これは、概念または語義に矛盾をきたしていたのではなかろうか?
 第二に、帝政崩壊を招来したロシア「二月革命」が、「(ブルジョア)民主主義革命」だったかは、疑わしい。
 それ以降も、来たるべき「革命」の性格や担うべき政党・運動の性格や共産党とプロレタリアートや農民の役割分担等々について、メンシェヴィキとボルシェヴィキの間等で、議論があった。
 中核にいるべきは「自分(たち)」だという点でレーニンは一貫していただろう。しかし、上の点に関するレーニンの主張・理解が明瞭だったとはいえない。「全ての権力をソヴェトへ!」とのスローガンを1917年四月から「十月」までずっと掲げたのでもない。
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 中北著もまた、100年間で日本共産党が「変わらない部分」は、「日本が当面、目指すべき革命の内容として民主主義革命を位置づけ、その後に社会主義革命を実現するという、二段階革命論をほぼ一貫して採用してきてこと」だ、と明記している。この点は現在の同党綱領を読んでも明らかだ。
 戦前の労農諸派、戦後の日本社会党との対抗の意味もあっただろうが、中北も頻繁にこの概念を用いているらしき「二段階革命論」の採用こそが、欧州のかつての共産党のほとんどとの違いであり、1991年12月以降も日本共産党がなおも勢力を残存できた根本的な「理論的」背景だったと考えられる。そしてまた、「民主主義」科学者協会法律部会(民科)の会員のような、「民主主義」のかぎりで一致する者たちを党(・日本共産党員学者)の周囲に置くことができた原因でもあった。
 なお、ロシアでのこの問題に関する事情の判断は容易ではないが、連続する(永続的)「二段階革命」論というのはトロツキーのほか、「革命の商人」とのちに言われた、レーニン・ボルシェヴィキへのドイツ帝国からの資金援助を媒介したともされるパルヴス(Parvus)によって唱えられていた、ともされている。トロツキーは1917年7月に遅れて入党したボルシェヴィキで、弁舌に秀でていたともに「理論家」でもあったようだ。
 なお、以下を参照。R・パイプスの著(試訳)→No.1453→No.1551L・コワコフスキの著(試訳)→No.1610→No.1661
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 つづく。
  

2639/私の音楽ライブラリー①。


 音楽を味合うにもコンサート等のライブと録音再生 とでは違い、アナログレコードとCDでも違う。配信される音源にも通常のCDの音質を超えるとされる「ハイレゾ」(Hi-Rez)またはFLacやWav様式のものもある。私は、PCに向かうときは(下の03追以外は)、Hi-Rez対応のスピーカ(と再生機)を用い、またはHi-Rez 同等以上とされるApple-Lossles でSSDにコピーしたものを聴いている。
 だが、以下は全て、Youtube にリンクさせる。Youtube の音質は最高でふつうの「AAC」とされていて、Hi-Rez、Apple-Lossles に及ばない(AppleがLossles に対応したAirPods-Proを売っていないのは不思議だ。iPad 経由でもHi-Rez対応のSony 製イアフォンとAirPods-Proとでは明らかに前者で聴く方が精細さで優る。iPhone もAACなので、高音質にするにはLDacが必要)。
 したがって、満足はしないが、Apple-Music に直接にリンクさせることは困難なようなので、Youtube を利用させていただく。〔〕内は、upload してくれている人・団体の名。
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 01 →Schumann, Cello Concerto op.129 (Jacqueline du Pre)、〔Araks Gyulumysn〕
 冒頭の和音三つで、あっさりと虜になった。相対音で、ミ·ラ·ドは三音のそれぞれに入っているだろうが、不思議な和音だ。そのあとも好ましく、ミラシドラファレファミ·ミレ♯…も美しい。
 もともとピアノ曲よりもバイオリン曲の方がどちらかと言うと好みだが、弦楽器ではチェロも同等にに好きになる契機になった。低音の重厚さはバイオリンでは出し難く、チェロはけっこう高い音も出る。
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 02 →Mendelssohn, Symphony No.3 (Karajan, Berlin PhO)。〔Berlin PhiharmonicOrchestra-Topic〕
 最初の、ミラシドシレラシ·ラドミミレラドシララソ♯という主題はゆっくりと単純で、郷愁を誘うかのようだ。こんな旋律を基調にして交響曲が作られているとは、素晴らしい。
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 03 →Chopin, Nocturn No.20 in C♯-minor, Op Posth (Nobuyuki Tsujii)。〔Classical Vault 1〕
 どちらかというとバイオリンやチェロ曲の方が好きだが、ショパンのピアノ曲にはやはり良いものがある。
 とりわけ、辻井伸行が弾くこの曲は、この曲の演奏の中でも最も秀逸ではないか。
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 03追 辻井伸行といえば、以下にリンクを張りたくなった。
 →Nobuyuki Tujii, La Campanella。〔KogumaMischa〕
 場所はロンドン。本来の演奏が終わったあとに続くアンコールをいったん辞退して舞台から消えるが、それでも鳴りやまないアンコールの拍手に応えて再登場して<ラ·カンパネラ>を弾く。すでに疲れているからか、聴衆の熱気に押されてか、辻井のこの演奏は「激しい」。ウィーンでの同曲の演奏よりも魅かれる。
 辻井伸行が「born blind」、生まれながらに盲目であることについては、「言葉もない」。
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 04 →映画·砂の器-菅野光亮「宿命」-シネマ·コンサート2022。〔PROMAX〕
 この映画を1974年に観た。原作と主題がやや異なるが、音楽の美しさは強く印象に残った。
 そのサウンド·トラックの生演奏の一部を加藤剛がピアノを弾く姿とともに視聴できて、懐かしい。
 冒頭の旋律は、ラシドドミシララ…か。
 映画音楽ですぐに思い出すのは、ドクトル·ジバゴ(1965年)の「ララのテーマ」だ。ほとんどロシアの大自然と音楽(と主人公等の容姿)だけが記憶に残り、当時は「ロシア革命」について何も知らなかったけれども。
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2638/「ドレミ…」の7音と白鍵・黒鍵。

  1オクターブ12(13)音のうち主要なのは、ドレミファソラシ(ド)という7音(8音)だ。あるいは、ABCDEFGの7音だ。
 ピアノ・オルガン類でこれらだけが白鍵で弾かれ これら以外の「派生音」は#または♭が付き、ピアノ・オルガン類では黒鍵で弾かれるのは、いったいなぜだろうか。
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  YouTubeを含むネット上に、「音大卒が教える〜」と称するサイトがある。その他にも、音楽または「音楽理論」の「専門家」の(又はそれらしき)人々が書いた、または語った、「音楽理論」に関する情報が溢れている。
 「現在の音階は古代ギリシャの哲学者・ピタゴラスが作った」と無邪気な間違いを堂々と語っている人がいた。それでも、総じては、役立つ、参考になるものがある。
 しかし、物足りないと感じたり、そのような説明に何の意味があるのか、と疑問に思ったりすることも多い。
 そして、上のに掲げた問題にどのように解答しているかに関心をもつが、この疑問を解消してくれる説明を読んだり見たりしたことはない。
 「幹音」7つと「派生音」5つで1オクターブが構成される。ピアノ等の鍵盤楽器では前者は白鍵で、後者は黒鍵で弾かれる。これらはいったいなぜか、なぜそうなったのか、という問題だ。
 1オクターブは12音で構成されるということと「ドレミファソラシ(ド)」の幹音7つによる音階設定を自然現象のごとく当然視していたのでは、解答することができないだろう。
 なお、「幹音」と「派生音」という用語とこれらの区別が日本の「専門」音楽教育で一般的に定着しているのかは、私は知らない。
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  <音楽情報サイト🎵ハルモニア>が、「ピアノの黒鍵はなぜあの位置に?鍵盤楽器の黒鍵・白鍵の並び方の意味」をつぎのようにまとめている)。
 ①「白鍵と黒鍵の独特な配置により、12種の音の位置が視覚で瞬時にわかる」。
 ②「黒鍵を奥に配置して浮かび上がらせることにより、離れた音でも片手で同時に弾いたり、行き来したりすることができる」。
 納得できるのは後者だけだ。ヒト・人間の手・てのひら・指の大きさからする条件が、鍵盤楽器には課せられるだろう。だが、両手を用いて弾くのなら、この限界は問題でなくなるかもしれない。
 また、この説明では1オクターブ12音と白鍵7音が前提とされているのだろうが、この前提自体に関する説明はない。
 前者は、「独特な配置」の根拠・背景に触れていないので、何も語っていないのとほとんど同じだ。白鍵と黒鍵が交互に並んでいたのでは音の適切な位置が分かりずらい等だけでは不十分だろう。
 なぜ白鍵7つで黒鍵5つなのか、
 加えて、黒鍵5つはなぜ左側に白鍵に挟まれて二つ、右側に白鍵に挟まれて三つ配置されているのか。
 なぜ左側に三つ・右側に二つではないのか。
 あるいは、左側に黒鍵一つだけ、右側に黒鍵四つ(またはその反対)でも、黒鍵5つ、白鍵7つを構成できるのではないか。
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 この問題に適切に回答するためには、「ドレミ〜」の7音の音階の特徴を語る必要がある。以下、いわゆる「長調」に話題を限る。
 すなわち、その重要な特質は、<十二平均律>でもそうなのだが、残る他の7音の間の関係と異なり、E-FとB-Cの間だけは「半音」関係だ、ということだ。
 「全音」と「半音」の厳密な意味(周波数または周波数比の違い)は同一ではないが、ピタゴラス音律でも純正律等でも、幹音相互の関係に、「全音」と「半音」の区別があった(純正律では二種の「全音」があった)。whole-half、ganz-halb の区別があった。
 そして、厳密な高さ(周波数比)は違うが、E-F、B-C の間は「半音」だった。 
 これが<十二平均律>でも維持されている。だから、E-F、B-Cの間には、「全音」を分割する「半音」=黒鍵が置かれないのだ。
 なお、「全音」一つの分割方法は<十二平均律>では単純だが、歴史的にはかなり複雑だ(単純な周波数比ましてや周波数の数値の中間値ではなかった。純正律の場合は「派生音」の周波数の数値自体に諸説があるようだ)。
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  ピタゴラス音律、純正律等(中全音律=ミーントーン等々)において、なぜE-F、B-Cだけは「半音」とされたのかに、さらに立ち戻らなければならない。
 唐突だが、この問題は、<十二平均律>での音階が説明される中でネット上でもしばしば言及される「五度圏」に関係している。
 「五度圏」という術語自体がピタゴラス音律の歴史を引き摺っていると私には思える。
 それはともかく、「五度圏(表)」は相当に興味深いもので、1オクターブ12音自体を疑問視しない限りは、「音楽理論」と多様な関係がある。
 例えば、五線譜での楽譜上で調を発見するのに役立つともされる。
 しかし、(長調の場合は)「シミラレソドファ」または逆の「ファドソレラミシ」を「覚えなさい」という説き方だけでは、音楽「理論」をつまらない知識の集合にしてしまうだろう。
 さて、上の並びは、<調>の探索に際して、楽譜上の最初に付されている調号記号の♭(フラット)が楽譜上の「シ」の位置に一つあればヘ長調、「シとミ」に二つあれば変ロ長調、…、#(シャープ)が楽譜上の「ファ」の位置に一つあればト長調、「ファとド」の位置に二つあればニ長調、…、ということを示す、という意味がある(旋律自体を弾けば又は歌えば容易に判明するので、こんな面倒なことをする人がいるのだろうか、とも思うが)。
 しかし、より重要なのは、上で得られる長調の順序は(#を優先すると)「トニイホロ」になり、その前に調号記号が何も付かない「ハ」長調、とさらにその前に♭が1つだけ付く「へ」長調を加えると、「ヘハトニイホロ」の順序になる、ということだ。
 これは、「ドレミ…」を相対音の表記にのみ用い、絶対音を「ABC…」で表記するとすると、F-C-G-D-A-E-Bの各長調(major、dur)を意味する。つまり、これらを「主音」とする長調の並びを意味する。
 そして、ピタゴラス音律での各音設定過程での出発点である一定の音をかりにFとすると、上の7音はつぎつぎと3/2を乗じて(1-2の範囲内になるよう1/2又はその乗数を掛けて)得られる、ピタゴラス音律での各音に合致している。
 F=1、C=3/2、G=9/8、D=27/16、A=81/64、E=243/128、B=729/512。
 これをC=1にして書き換えると、つぎのとおり。
 F=2/3、C=1、G=3/2、D=9/8、A=27/16、E=81/64、B=243/128。
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 上の7音は全て、♯や♭の付かない「幹音」だ。順序を変えて、小さい順に並べると(但し、1-2の範囲内になるよう、F=4/3とする)、つぎのようになる。
 C(1)、D(9/8)、E(81/64)、F(4/3)、G(3/2)、A(27/16)、B(243/128)。
 これはCをかりに「ド」と言うと、ピタゴラス音律での「ド〜シ」の音階だ。1オクターブ上のCを加えると、「ドレミファソラシド」になる。
 このピタゴラス音律での音階において、各音の差異(周波数比)は、こうなる。
 E-F、4/3÷(81/64)=256/243
 B-C、2÷(243/128)=256/243
 これら以外の、隣り合う各音の差異(周波数比)は、計算過程を示さないが、全て、9/8だ。
 ピタゴラス音律における「全音」は対前音比9/8(=1.125)で、「半音」は対前音比256/243(=約1.0535)ということになる。
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 繰り返す。
 第一。ピタゴラス音律の各音設定過程での(一定の基音の設定を一回と数えて)7回の計算作業で生じる7音は、全てが現在に言う「幹音」で、「ドレミファソラシ(ド)」を構成できる。12音のうち、最初に設定できる7音こそが、現在にいう「幹音」であり、その後の計算作業で残る5音の「派生音」が生まれたのだ。
 第二。7つの幹音の相互関係を吟味すると、E-FとB-Cの差異(周波数比)だけが「半音」で、これら以外は、同じ大きさの「全音」だ。
 これらは、ピアノの白鍵と黒鍵の配置関係にすでに対応している、と言えないか? 例えば、E-F、B-C の間には黒鍵は存在しないことになる。これは、ピタゴラス音律であってもすでに見られる現象だ。現在の<十二平均律>は、具体的数値を変更はしたが、これらを継承しているのではないか。E-F、B-Cの間には黒鍵を置かず、それら以外の「幹音」の間には黒鍵を挿入すると、現在に一般的なピアノ等の白鍵(7)・黒鍵(5)の配置になる。
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2637/月刊正論(産経新聞社)と皇室。

  月刊正論(産経新聞社)という雑誌のすごいところは、いや凄まじいところは、<祝・令和—改元特大号>と謳った同2019年6月号の<記念特集・新天皇陛下にお伝えしたいこと>に西尾幹二と加地伸行の文章を掲載していることだ。
 西尾幹二は2008年に〈皇太子さまへの御忠言〉(ワック)を出版し、2012年にそれに加筆して文庫(新書?)化して再刊した。また同年には別途『歴史通』に「『雅子妃問題』の核心」という文章を書いて、現在の天皇(当時の皇太子)は「…と言ってのけた」と表現するなどし、現在の皇后(当時の皇太子妃)を「地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するように、幻のように生きている不可解な存在」表現し、離婚せよの旨を明確に出張した。さらに、2008年8月のテレビ番組で西尾は、雅子妃は「仮病」だから「一年ぐらい以内にケロッと治る」だろう、雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人。低いのははっきりしている」、「実は大したことない女」と発言したらしい。
 加地伸行の当時の皇太子・同妃に対する主張も似たようなものだった。
 しかるに、二人のこうした主張・見解を知っていたはずだが、菅原慎一郎を編集代表とする月刊正論2019年6月号は、当時の皇太子・同妃が天皇・皇后に即位する時点で、「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」の原稿執筆を依頼した。そして、この二人は、文章執筆請負業の「本能」からか?、原稿を寄せた。
 西尾幹二、加地伸行は、かつてのそれぞれ自身の発言・文章に明確には言及しておらず、むろん取消しも撤回もせず、当然のこととして「詫び」もしていない。
 よくぞ、「新天皇陛下にお伝えしたいこと」と題して執筆できたものだ。
 二人の「神経」の正常さを疑うとともに、月刊正論(・菅原慎一郎)の編集方針(原稿執筆依頼者の選定を含む)もまた、「異常」だと感じられる。
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  月刊正論の元編集代表(2010年12月号〜2013年11月号)だった桑原聡は、「天皇陛下を戴く国のありようを何よりも尊い、と感じることに変わりはない」旨を編集代表としての最後の文章の中で書いた。
 これは、いわば<ビジネス保守>の言葉だけの表現ではないか、との疑問はある。
 上の点はともかく、月刊正論、そして産経新聞社、産経グループ全体が読売新聞社系メディアよりも<より親天皇(天皇制度)>的立場にあった(ある)、という印象はあるだろう。
 しかし、現在の天皇・皇后、上皇・上皇后各陛下等々の皇室の方々は、月刊正論・産経新聞社・産経グループを「最も支持し、最も後援してくれる」最大の味方だと感じておられるだろうか。
 すでに誰かが書いているだろうように、また書かずとも広く理解されてしているだろうように、桑原聡の上の言葉とは違って、月刊正論(・産経新聞社)は全体として皇室の「味方」だとは思えない。
 前天皇の「退位」に反対した(終身「天皇」でいるべきだと主張した)櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次、加地伸行らは月刊正論や産経新聞「正論」欄への主要な執筆者だった(秋月による「あほ」の人たち)。当時の天皇はこの議論に「不快」感をもったとも報道されたようだが、その真否を確言できないとしても、当時の天皇の意向とはまるで異なっていたことは明確だった。
 現在の皇后、雅子妃、前皇太子妃を最も厳しく攻撃し、批判したのは、西尾幹二だっただろう
 その西尾幹二はまた、月刊正論や産経新聞「正論」欄への継続的な執筆者だった(2023年時点でどうかは知らない)。
 現在の皇后、雅子妃も、現在の天皇、前皇太子も、西尾幹二が自分たちについてどのように書き、どのように主張していたかを、よくご存知だったと思われる。
 皇居内の「私的」空間にはおそらく主要な新聞紙が置かれ、それらのうちいくつかには西尾幹二のものも含む単行本の宣伝広告も掲載されていただろう。そして、皇族であっても「私的に」本や雑誌を購入することは可能だ。
 西尾幹二によって、小和田家まで持ち出されて攻撃された雅子妃は、ひどく傷つかれただろう。西尾幹二の言い分は、「病気」治癒を却って遅らせるものだった。前皇太子も、激しい怒りを感じられたに違いない。
 西尾幹二は前皇太子・同妃が2019年(5月)に新天皇・新皇后として即位するとは思いもしていなかっただろう。2016年に「意向」表面化、2017年にいわゆる退位特例法成立だったが、西尾は早くとも2012年まで、皇太子等を批判し続けた。「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」の力(西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)のオビ)が、彼にはなかったのだ。
 西尾幹二は2008年に、自分の文章を「一番喜んでおられるのは皇太子殿下その方です。私は確信を持っています」と発言したようだが、いったいどういう「神経」があれば、こういう態度がとれたのだろう。
 現在の天皇・皇后にとって、西尾幹二は「最大の敵」ではなかったか、と思われる。
 その人物を、改元=新天皇・新皇后即位の記念号の執筆者の一人として起用した月刊正論(編集部)もまた、「異様」だ。
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 参考→Yoshiki, 即位10年奉祝曲・Piano Concerto "Anniversary"

2636/加地伸行・妄言録—月刊WiLL2016年6月号<再々掲>。

 加地伸行月刊WiLL2016年6月号(ワック)での発言と秋月瑛二のコメント(2017年07月16日No.1650)の再々掲。
 対談者で、相槌を打っているのは、西尾幹二
 最初に掲載したとき、冒頭に、つぎの言葉を引用した。
 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
 2023年5月末の時点で書くが、平川祐弘はこのとき、自分自身が「おかしな右翼」と称され得ることを全く意識していなかったようで、可笑しい。
 なお、花田紀凱編集長の月刊Hanada(飛鳥新社)の創刊号は2016年6月号で、加地伸行の対談発言が巻頭に掲載されたのは、「分裂」後最初の月刊WiLLだった。おそらく、手っ取り早く紙面を埋めるために起用されたのが、加地伸行・西尾幹二の二人だったのだろう(対談だと録音して容易に原稿化できる)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
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 「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
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 「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
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 「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。
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 「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
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 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。
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 以上。

2635/<平均律>はなぜ1オクターブ12音なのか②。

  Mac-OSの中に付属しているGarageBand という演奏・作曲補助アプリも、近年開発されているらしい諸コンセプトを告げれば自動的に作曲をするというAIアプリも、坂本龍一の「戦場のメリークルスマス」も、<十二平均律>にもとづいている。
 それによると1オクターブは12音(両端を含めると13音)で構成される。だが、この1オクターブが12音で構成されるということは、決して「自然」または「当然」のことではない。
 一方で、ある音に1あるいは2オクターブ上の音、1あるいは2オクターブ下の音が存在するということは、「自然」の現象だ。
 ある音の周波数を2倍、4倍、1/2倍、1/4倍にしたものを同時に響かせると、最も振幅の短い、多数の周波数をもつ音に全てが吸収されて、人間の通常の聴感覚では「同じ一つの」音に聞こえる、というのは、人為を超えた「自然」なことだ。
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 しかし、1オクターブが12音で構成されるというのは、「人為的・歴史的」な現象だ。なぜ、そうなったのか。
 <十二平均律>では基音の1オクターブ上の音は基音のちょうど2倍の周波数をもつ。そして、その1オクターブの中に高さの異なる12の音を「平均的」に配置したのが<十二平均律>だ。「平均的」=隣り合う音の周波数比が全ての音の間について同一に。
 だが、1オクターブを一定の数の音に「平均」的に配置するだけならば、<10平均律>でも、<15平均律>等々でもよいはずだ。なぜ、<12平均律>なのか。
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 ピタゴラス・コンマを除去する前の(1オクターブ内での諸音設定のための)計算過程では、「12」回めの数値は前回に記したように約2.0273になる(これは基音1に3/2を乗じ続けることを前提としての数値だ。3/2で除し(割り)続けることを前提にすると「12」回めの数値は約1.9731になる)。
 上のような計算を「53」回続けると、計算結果の数値はさらに2に近づき、差異は0.01以下の約2.0042になるとされている(12回を超えて13回、14回と増えるごとに徐々に2に接近していくのではない)。
 素人判断ながら、このことは今日にでも<53平均律>が語られることにつながっていると見られる。
 しかし、1オクターブ内に53の異なる高さの音を配置するのは、人間の通常の聴感覚からして、現実的ではない。なぜなら、ふつうの人間は1オクターブ内の異なる53もの多くの音を聞き分けることができないだろうからだ。
 53というのは、例えばピアノの1オクターブ内に現在の4倍以上の鍵盤を設ける(一つの白鍵・黒鍵をさらに上下左右に分ける?)ことを意味する。
 楽器製作の便宜はともかくとしても、現在に言う「半音」一つがさらに4つ以上に分割された場合、よほどに「耳の良い」人は例外として、聴き分けることができるとは思えない。
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 1オクターブ12音とされる歴史の中で決定的に重要だったのは、ピタゴラス音律の成立過程で、「12」回めの計算でほぼ2という数値(=ちょうどほとんど1オクターブ上の周波数値)が得られたことだと考えられる。
 かつまた、その「12」という数字に魅力、魔力があったからだ、と見られる。
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  「12」という数字の魅力、魔力、「特別の意味」と言うだけでは、厳密な答えにはなっていないだろう。
 だが、この点は、多くの人が容易に思いつくことがあるだろうので、多言は省略する。
 素人論議だが、数点だけ書いておきたい。
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 第一。キリスト教世界では元々、こういう考え方があった、とされる。神は、全てを「完璧に」、「美しく」創造した。音、「音楽」の世界も完璧で美しく構成されているはずだ。
 そして、ピタゴラス音律での1オクターブ「12」音もこれを背景にしている、という旨の説明を読んだことがある。
 たしかに、西欧には1ダース(12個)という日本には元来はない観念があり、13-19とは違って11と12には日本にはない特別の数字用の言葉がある。eleven, twelve、elf, zwoelf で、thirteen,dreizehn と言っても、two-teen、zwei-zehn とは言わない。
 また、キリストには12人の「使徒」がいた、とも言われる。
 そうすると、ピタゴラス音律が結局は1オクターブ12音を採用したことも理解できなくはない。あるいはその前に、弦の長さを調節している過程で、弾いた音がちょうど1オクターブ上になる場合を(長さを3/2または2/3にするのを繰り返して12回めに)発見した、と感じたのかもしれない。
 もっとも、1から出発して3/2または2/3の乗除を続ける計算では「永遠に」ぴったり2にならないことは、古代の数学でも分かっていたと思われる。
 それでもしかし、約2.0273(または約1.9731)は2と同一視できる範囲内だと考えたのかもしれない。またその上に、この端数であるピタゴラス・コンマを除去して正確に2にするために、必ずしも簡単ではない「工夫」を(12種の音の設定自体の過程で)したのかもしれない。
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 第二。東洋でもピタゴラス音律に似た音階設定の考え方はあったとされるのだが、それは別としても、「12」という数字への注目は、東洋にも、そして日本にもあったし、今でもある。
 子丑寅…の<12支>だ。またこれと<10干>を連結した言葉もある(壬申の乱、戊辰戦争等。明治新政府は「邪教」としたのかもしれない「陰陽五行説」の影響が残っている)。薬師如来を守護する仏(神)としての「12神将」というのも知られている(奈良市・新薬師寺に大きいもの、山形県寒河江市・慈恩寺に小さいものが残っている)。
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  これらにも関心は向くのだが、そもそも、「12」というのは、ヒト、人間にとって、太古の昔からきわめて重要な数だったと思われる。
 自分たちが生きる地球と太陽の関係(天道か地道か)を正確には知らなくとも、日出・日没あるいは昼夜の反復ごとに「一日」を感じるのは極北・極南にいないかぎりヒトの発生以降普遍的なことだっただろう(この感覚は、ヒトの「睡眠」神経中枢の形成に関係したかもしれない)。また、寒暖または季節の変化の反復によって、「一年」という感覚も生じただろう。
 同時に、地球と月の関係についての正確な知識はなかったにしても、月の満ち欠けを大昔から知っていたに違いなく、新月または満月の繰返しは、太陽(日)との関係で知覚していた「一年」の間にほぼ12回あるという知識も積み重ねていっただろう。
 暦の歴史に関する知識は全くないが、太陰暦が太陽暦に先行したらしいことも十分に理解することができる。一年を一日以上の単位で区切るとすれば、曖昧な寒暖や四季を別にすると、「12」しかなかったのだ。
 その12ヶ月=一年は、太陽暦になっても維持されている(閏月もなくなって月の実際の干満との不適合が大きくなっても)。「三日月」とか「十五夜」という言葉は、今でも使われている。
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 「とき」、時間をどう把握し、どう区切るかは、人の生活にとって、そして人間集団の諸活動にとって、きわめて重要だったはずだ。
 1、2、4に次いで、3、5、6、8と同程度の意味・重要性を、12はもっていただろう。
 そのことは、現在の「時計」を見てもよく分かる。数字付きであれば、1から12までがある。1時間=60分=5分の12倍。午前12時間、午後12時間。
 日本でも「12支」を使って一日の間の時刻を表現することが行われていた(丑三どき等)。なお、方角の指示も、これによっていた(丑寅・鬼門、巽=辰巳等)。
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  常識的なことを上で長々と書いたかもしれないが、要するに、つぎのようなことだ。
 <平均律>というだけならば、非現実的な<53平均律>でなくとも、<10平均律>でも<13平均律>でも、<15平均律>でもよいはずだ
 1オクターブ内の異なる高さの15-16音くらいまでは、通常の人間の聴感覚で区別できるのではないかと思われる。
 なぜ<十二平均律>になったのかが、疑問とされなければならない。
 直接の背景・根拠だと考えられるのは、純正律でも、その前のピタゴラス音律でも、<1オクターブ12音>が採用されていた、ということだ。このような歴史的背景がある、ということだ。
 この意味で、ピタゴラス音律が「音楽」の世界に与えた影響はきわめて大きかったと思われる。
 そして、そこでの「12音」の採用には、「12」という数字の一般的な重要性も影響した、と考えられる。
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 なお、念のために書いておく。ピタゴラス音律と<十二平均律>は、<1オクターブは異なる高さの12音で構成される>という点では同じだ。しかし、一定の最初の音(基音)以外の11の音の高さ(周波数)は全て、同じではない。1オクターブの中に12の音があることに変わりはないので、ある程度は似たような高さの音が設定されるとしても。
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  欧米で<十二平均律>がすでに支配的になっていた時代に、日本は「西洋音楽」を輸入した。「文明開花」の時代、「西洋文明の継受」の時代だ。この時代には、今日に言う戦前・戦後の間以上の大きな変化があったと思われる。
 音楽の世界では、音楽大学等を通じて、おそらくドイツ(・オーストリア)の「音楽理論」が急いで直輸入された。三Bの最後のブラームスでも、1833年〜1897年没。モーツァルトは、1756年生〜1791年没。シューベルトは、1797年〜1828年没。
 (余計ながら、「完全五度」・「完全四度」、「長三度」・「短三度」等の術語や<十二平均律>を主体にしてピタゴラス音律や純正律等との差異を「セント」という単位を使って説明するという方法は、現在の「専門」音楽教育でも依然として使われているようだ。いいかげんに改めた方がよいと素人の私には感じられるものがある)。
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 そうだとすると、「西洋音楽」の背景にあったかもしれない教会音楽、宗教音楽、そしてキリスト教という宗教の影響を、日本が受けても不思議ではなかった。だが、日本は「表面」または「形式」・「様式」だけを導入した。あるいは「魂」ではなく「技術」だけをすみやかに継受した。
 ところで、「君が代」は古歌・古謡とされ、明治期以前にすでに各地方に「民謡」があったに違いない。だが、日本独自の音階「論」があったわけではなさそうなのは不思議なことだ。仏教寺院での声明(しょうみょう)という経の唱え方は一種の旋律で、楽譜にあたるものもある、とも言えそうだが、仏教界以外の音楽一般へと発展はしなかったようだ。
 むしろ、実際にそうであるように、「君が代」も各種「民謡」も、おそらく「西洋音楽」を前提とした楽譜(高低二種の五線譜)で表現され得るものであることが、「西洋音楽」の広さ・深さを感じさせる(琉球民謡もアラビア風旋律も同じ)。楽譜に写され得ないとすれば、いわゆる半音の4分の1、8分の1程度の微細な高さの違いがあるのだろう。
 楽譜化できる日本音階(和音階)での長調と短調という話題に発展させることができなくもないが、立ち入らない(「君が代」はレミソラドレ(上昇時)という音階による)。
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  12(13)音のうち主要なのは、ピアノでは白鍵で叩かれる、C=ドとしてのドレミファソラシ(ド)という7(8)音だ。あるいは、イロハニホヘト、ABCDEFGの7音。「幹音」とも称される。
 これら以外はなぜ、♯(嬰)や♭(変)付きで表現されるのだろうか。この疑問とほぼ同じ意味であるのも不思議、あるいは興味深いが、ピアノ・オルガン類でこれらだけが白鍵で、その他は黒鍵で弾かれるのは、いったいなぜだろうか。
 この問題についても、素人的な想定・仮説を持っている。やはりピタゴラス音律の生成過程に関係する。別に記してみる。
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2634/西尾幹二批判065-02。

 (つづき)
  思想の(専門的)研究者と「思想家」は同義ではない。
 外国「思想」をあれこれと紹介し、論じている諸著者に、<あなた自身の「思想」はどうなのか、披瀝してほしい>と感じるときもあるのだが、ともあれ、思想研究者と思想家は異なる。
 上のオビで西尾幹二が「真の保守思想家」とされていることを思い出したが、西尾幹二自身が、一定の「思想」の専門家ではなく、自分自身が「思想家」だと明言したことがある。
 大笑いだ。西尾幹二の「思想」とは何なのか。西尾幹二を現在日本にいる「思想家」の一人だと思っている日本人は何人いるだろうか(外国にはきっといないだろう)。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾はこう語っている。発言内容と言葉は正確なものであるとする。
 2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、西尾はこう発言した。
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して”日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 すでにこの欄で言及したことがあるので、驚かされる部分を含む内容には立ち入らない。
 ここで重要なのは、「明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思い」があるから、某と妥協できなかった、と明言していることだ。
 「明治以来の日本史の革新を目ざす」とは、質問者が「つくる会」会長だったことを主たる理由としてインタヴューを申し込んだらしいことによるだろう。
 重要なのは、西尾幹二は(少なくとも上の当時の2019年)、自分を「思想家」だとと自認した、ということだ。
 もう一度書く。大笑いだ。西尾幹二「思想」とは何なのか。西尾幹二を現在日本にいる「思想家」の一人だと思っている日本人は何人いるだろうか。
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  関心は、さらには、つぎの二つに絞られる。
 第一。西尾幹二という人物の「人格」、「神経」。
 第二。西尾幹二に執筆依頼等をし、まとめた著書を出版までする、日本の一部の出版・雑誌「産業」の頽廃。
 あるいは二つをまとめて、こういう人物、出版「業界」を生み出した、<戦後日本>というものの「影」の姿。
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2633/西尾幹二批判065-01。

  前回No.2631の最後に、西尾幹二に「ドイツ思想」または「歴史哲学」に関するどの専門書が「一冊でも」あるのだろうか旨を書いたが、さっそくに「専門的論文が一本でも」あるのか、に訂正しなければならないだろう。月刊正論(産経新聞)、月刊WiLL(ワック)等への寄稿文章は「(専門的)論文」ではない。
 書籍・単行本に限っても、西尾幹二は自分自身で「私の主著」は『国民の歴史』(1999、2009、2018)と『江戸のダイナミズム』(2007)のふたつであるを旨を2018年に明記している。つぎの、自己賛美が呆れ返るほどの一文の中でだが。
 「『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナイズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される運命を担っている」(全集第17巻「後記」、p.751)。
 こらら二つに『ニーチェ』(1977)を加えて三著とするとしても、「ドイツ思想」に関する専門書ではないことは明瞭だ。また、いずれも何らかの意味で「歴史」を扱っているとしても、日本の歴史に関する断片的随筆・評論、ニーチェの一部の「文学的」歴史研究であって、「歴史哲学」書ではない。なお、西尾幹二にとっては「歴史」に関する何らかの一般的なあるいは抽象的な思考を表明すれば「歴史哲学」になるのかもしれないが、それならば秋月瑛二もまた「歴史哲学」者と自称し得る。「歴史哲学」と言いつつ西尾のそれはほとんどが「思いつき」、「ひらめき」から成るものだ。
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  西尾幹二が「ドイツ思想」の専門家とされることは、ドイツの思想に関係した仕事をしてきた日本の研究者は、たぶんそんなことは無視しているだろうが、知ったならば、論難、罵倒あるいは冷笑の対象にするに違いない。
 L・コワコフスキは「マルクスはドイツの哲学者だ」と叙述することの意味に大著のある章の冒頭で触れているが、マルクスもまた「ドイツ思想」の系譜上にあると言っても誤りではないだろう。そして、谷沢永一(1929-2011)はレーニン・国家と革命(1917年)を明らかに読んでいる叙述をかつてしていたが、西尾幹二は、「反共」を叫び「マルクス主義」という語も用いながら、マルクス、レーニン等の著作の内容に言及していたことは一度もない。
 仲正昌樹ほか・現代思想入門(PHP、2007)の最初の章の仲正「『現代思想』の変遷」はマルクス主義から論述を始めているのだが、その前のカント・ヘーゲルについて、西尾幹二が何か論及していとのを読んだことは一度もない。
 仲正昌樹・現代ドイツ思想講義(作品社、2012)は、ハイデガーから叙述を始めて、「フランクフルト学派」、その第二世代のハーバーマス、フランス・ポストモダン等のドイツへの影響で終えているのだが、これらのうち西尾幹二が記したことがあるのはハイデガーだけだ。しかもハイデガー研究ではなく、その「退屈」論を要約的に引用・紹介しただけだ(『国民の歴史』の最後の章、現代人は自由があり過ぎて「退屈」して「自由の悲劇」に立ち向かわざるを得なる、という秋月には理解不能の論脈の中でだ)。西尾の諸文章は、ニーチェとハイデガーの関係にもおそらく全く触れたことがない。
 仲正昌樹・上掲書のそのほぼ半分はアドルノ=ホルクマイヤー・啓蒙の弁証法を「読む」で占められているが、西尾幹二はそもそも「フランクフルト学派」に言及したことがないのだから、この著(1947年)に触れているはずもない。日本の<保守>派で、「フランクフルト学派」を戦後「左翼」の重要な源泉と位置づけていた者に、田中英道、八木秀次がいる。
 なお、L・コワコフスキの大著でマルクス主義の戦後の諸潮流の一つと位置づけられた「フランクフルト学派」の叙述を読んで、つぎの二点でこの「学派」は西尾幹二と共通性・類似性がある、と感じたことがある。
 ①反現代文明性(反科学技術性)、②大衆蔑視性。
 「フランクフルト学派」は単純な「左翼」ではなく、西尾幹二は単純な「反左翼」ではない。
 参照→近代啓蒙・西尾幹二/No.2130・池田信夫のブログ016(2021/01/24)、同→西尾幹二批判041/No.2465(2022/01/07)。
 「四人の偉大な思索者」を扱った現代思想の源流/シリーズ・現代思想の冒険者たち(講談社、2003)で「ニーチェ」を執筆していたのは三島憲一で、その内容の一部は西尾幹二とも関連させてこの欄で取り上げたことがある。
 三島憲一・戦後ドイツ(岩波新書、1991)は「思想」よりも広く副題にあるように(政治史と併行させて)戦後ドイツの「知的歴史」を論述対象としたものだ。
 この書では、ハイデガー、「フランクフルト学派」、ハーバーマス、マルクーゼらに関して多くの叙述がなされているようだ。そして最後に1986年からの<歴史家論争>にも論及がある。
 この書を概観しただけでも、西尾幹二がとても「ドイツ思想」の専門家と言えないことは明瞭だ。上のいずれについても、西尾幹二は論述の対象にしたことがないからだ(せいぜいハイデガーの「退屈」論のみの、かつ要約的紹介だ)。
 フランクフルト学派に何ら触れることができていないのでは「ドイツ思想」を知っているとすら言えないだろう。また、「歴史哲学」を含めても、主としてドイツ国内の<歴史家論争>をまるで知らないごとくであるのは、致命的だ。
 では「戦後」ではなく「戦前」ならば詳しく知った「専門家」なのかというと、そうでも全くないのは既述のとおり。
 いくつか上に挙げた「ドイツ思想」関係の書物はあくまで入手しやすい例示で、他に専門的研究書や論文はあり、かつ西尾幹二はその研究書等を読んですらいないだろう。
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  西尾幹二が自ら記した自分の活動史からしても、この人が「ドイツ思想」全体にはまるで関心のなかったこと、「専門」を「ドイツ思想と歴史哲学」にしようとは考えていなかったことが明らかだ。
 西尾幹二・日本の根本問題(新潮社、2003)所収の2000年の論考でこう書いている。
 私は1970年の三島事件のあと、「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。このとき、35歳。
 そして1977年(42歳)に前述の『ニーチェ』出版、1979年に博士号を得る。その頃、「文学者」として(日本文芸家協会の当時のソ連との交流の一つとして)ソ連への「遊覧視察旅行」(足・アゴつき大名旅行)、文芸雑誌で「文芸評論」・「書評」をしたりしたあと、1990年を迎える(1990年は45歳の年)。
 とても「ドイツ思想」の研究者ではない。そして、1996年12月-1997年1月に<新しい歴史教科書をつくる会>の初代会長就任(満61歳)
 その後を見ても「ドイツ思想」の専門的研究を行う隙間はなく、むろん(当時の「皇太子さまにご忠言」する書籍を2006年に刊行しても)その分野の専門的研究論文や研究書はない。
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  それにもかかわらず、「専門はドイツ思想、歴史哲学」と紹介され、それに抵抗する特段の意思を表明していないのは、「ふつうの神経」をもつ常識的人間には考えられないことだろう。また、そのように紹介する出版社、雑誌、雑誌編集者も「異常」なのだ。
 雑誌への執筆者のいわば「品質」表示が読者・消費者に対する雑誌編集部の「執筆者紹介」だ。その紹介を見て雑誌を購入したり、個別論考を閲読する読者もいるはずだ。
 そうだとすれば、刑事告発等をする気はないが、原産国・原産府県、成分表示、JISやJASとの適合等について厳格な「正しい」表示義務のある生活用品や食品の場合と同様に、少なくとも倫理的に、「正しい」表記・成分表示、「不当表示の排除」が求められるべきだ。
 全てではないにせよ、雑誌の一部には、西尾幹二の例に見られるような「不当表示」、間違った「執筆者紹介」がある。
 もっとも、「執筆者紹介」の具体的内容は、執筆者自身が申告して、雑誌編集部が原則としてそのまま掲載するのかもしれない。
 というようなことを思い巡らせると、書籍のオビの惹句は書籍編集担当者がきっと苦労して考えるのだろうと推測していたが、じつは西尾幹二本人が原案を書いたのではないか、と感じてきた。 
 西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)のオビの一部。
(表)「日本はどう生きるのか。/民族の哲学・決定版。
 不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成。」
(裏)「自由、平等、平和、民主主義の正義の仮面を剥ぐ。
 今も力を失わない警句。」
 西尾幹二ならば、編集者を助けて?、「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」、「今も力を失わない警句」と自ら書いても不思議ではないような気がする。
 なお、西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)のオビの一部。
 (表)「崖っぷちの日本に必要なものは何かを今こそ問う。
 真の保守思想家の集大成的論考」。
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 最後の五へとつづく。

2632/<平均律>はなぜ1オクターブ12音なのか。

  音の高さは音波の1秒間の振動数(周波数、frequency)によって表現され、周波数が大きくなると高くなる。周波数の単位はヘルツだ(Hz、学者のHeinrich Hertz の名に由来する)。
 そして、一定の何らかの音(基音と称しておく)の周波数を2倍、4倍、8倍にすると基音の高さのそれぞれ1オクターブ上、2オクターブ上、3オクターブ上の高さの音になり、基音の周波数を2分の1、4分の1、8分の1にすると基音の高さのそれぞれ1オクターブ下、2オクターブ下、3オクターブ下の高さの音になることが知られている。
 88鍵のピアノを想定すると、鍵盤部分の中央やや右にあるA(C=ドとすると、ラ)の鍵盤の音の周波数は440.000Hzだとされる(世界的な取り決めがあるようだ。但し、ソロでピアノ、ヴァイオリン等を演奏する場合にこれを厳密に守る必要はなく、ある程度は「好み」によるだろう)。
 88鍵だと8個のAを弾くことができ、440HzのAは5番めの高さでA4とも記載される(A0が最初)。その1、2、3オクターブ上のA5、A6、A7の周波数はそれぞれ、880Hz、1760Hz、3520Hz、1、2、3オクターブ下のA3、A2、A1の周波数はそれぞれ、220Hz、110Hz、55Hzだ。
 楽器がピアノでなくとも一般に、一定の何らかのの音(基音)とその1オクターブ上の音または下の音の間の1オクターブの間に、基音の周波数と2または1/2の乗数関係のない周波数をもつ別の音を配置して、一連の異なる音から成る何らかの音階を設定することができる。
 現在に圧倒的に多く採用されているのは、一定の基準を使って12の音を設定し、周波数の小さい順に配置するものだ。
 理屈上はどの音からでもよいが、かりにAから始めるとA,A#(B♭),B,C,C#(D♭),D,D#(E♭),E,F,F#(G♭),G,G#(A♭)の12音だ。なお、A#とB♭、D#とE♭等は現在では異名同音だが歴史的には別の音(異名異音)とされたことがある。また、ドイツでは今でも上の場合でのB♭をB、BをHと称することがある。
 問題は、なぜ12音(両端の音を含めると13音)なのかだ。
 また、付随して、上の#や♭の付かない音と付く音(A#やE♭等)の表記方法にも表れているが、ピアノでの12音はなぜ、白鍵で弾く7音と黒鍵で弾く5音に区別されているのか、も疑問だ。この付随問題も鍵盤楽器を用いたピタゴラス音律の確立過程に原因があると推測しているが、以下ではこの問題には全く触れない。
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  現在の1オクターブ12音階は、ギリシア古代のピタゴラス(ピタゴラス音律)に由来すると説明されることが多い。そして、遅くともバッハ(Bach)の時代には確立されていたようだ。
 バッハに「平均律クラヴィーア曲集/第1巻・第2巻」があるが、12音全てを主音とする長調と短調の曲(12×2=24)が2セットある(計48曲)。
 長調と短調の区別がすでに18世紀前半に成立していたようであることも興味深いが、そもそも12の音の区別が前提とされていることが重要だ。
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  バッハの時代に1オクターブ12音階がすでに確立され、ピタゴラス音律が基盤となっていたとしても、それらでもって現在の12音階と12音の設定の方法ないし基準を説明し切ることはできない。
 なぜなら、現在の「音楽」を圧倒的に支配している12音設定方法は<十二平均律>と言われるものであるところ、バッハの時代に<十二平均律>が現在のように圧倒的に採用されていたかは疑わしいからだ。
 上の<平均律クラヴィーア曲集>にしても、ドイツ語ではWohltemperierte Klavier (英語ではWell-tempered 〜)で、正確には<十分に(適正に)調律された〜>を意味し(Klavier はピアノ等の鍵盤楽器のこと)、「平均律〜」とするのがかりに誤訳でないとしても、現在にいう「(十二)平均律」を採用していることを意味してはいないと考えられる。
 また、現在の<十二平均律>の圧倒的採用までに、<ピタゴラス音律>、これの欠点を除去しようとした<純正律>その他の音律・音階が使われていたことが知られている。モーツァルト(Mozart)は広い意味での<純正律>の一つでもって自らのピアノ曲を弾いていた、と言われてもいる。
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  「美しい」かどうか、「より美しい」のはどれかは主観的な判断基準で、その代わりに「調和している」という基準を用いるとすると、少なくとも一定範囲ではまたは一定の諸音の関係では、現在の<平均律>よりも<ピタゴラス音律>や<純正律>等の方が「調和性が高い」、と私は思っている。なお、この調和性も主観的基準だが、一定の音との周波数比の簡潔さはある程度は客観的に判断できそうだ。また、1または2オクターブだけちょうど異なる音を「同じ」と感じる「聴感覚」も、主観的だとは言える。
 詳論は避けて、①C、②E、③F、④G、⑤1オクターブ上のC(に近い音=C’)の周波数比が基音C=1との関係でどうなるかを、結論だけ以下に示す。下4桁まで。ピ音律=ピタゴラス音律。
 ピ音律—1,81/64=1.2656,4/3=1.3333,3/2=1.5,2.0273*
 純正律—1,5/4=1.25,4/3=1.3333,3/2=1.5,2
 平均律—1,1.2599,1.3348,1.4983,2
 (* この余剰分を「ピタゴラス・コンマ」と言い、これを除去してちょうど2になるよう各音の設定の一部を修正したものをピタゴラス音律と言うこともある。この余剰の数値にも議論はある。)
 ピタゴラス音律、純正律では、各12音の全てを分数表示することができる。
 平均律では、できない。隣り合う12の各音(および最後の音と次の1オクターブの最初の音)の周波数比を完全に「同一」にするのが平均律の最大の目的だからだ(その周波数比は2の12乗根で、約1.0595になる)。
 この点は重要だが別論として、C-F,C-Gの周波数比は上記のとおり、ピタゴラス音律と純正律ではそれぞれ4/3,3/2で、これら2音は「よく調和する」と言える。周波数比がより簡潔な数字で表現されていれば、調和性が高いと言うことができる。
 純正律ではさらに、C-Eが5/4で、この2音はよく調和する。この純正律では、C-E-Gの3音は4-5-6という簡潔な周波数比となる(このC-E-Gとは「ドミソの和音」だ)。
 現在に(ジャズでもJ-popでも坂本龍一でも)圧倒的に採用されている<十二平均律>での離れた2音の関係は、少なくともC-F,C-Gについては、調和性が他者に比べて低い(あり得る表現によれば「美しくない」、「濁っている」)。C-F は1.3348、C-G は1.4983という複雑な数値であり、かつこれらには「約」がつく(小数表示は尽きることがない)のだ。
 十二平均律の長所・利点、有用性を私が認めないわけではない。記していないが、純正律には(ピタゴラス音律よりも)大きな欠点があると思われる。
 ここで注目したいのは、その<十二平均律>であっても、ピタゴラス音律・純正律等のこれまでに開発され工夫された音律または音階設定と全く同じく、1オクターブは12音(+1で13音)で構成されることが維持されている、ということだ。
 <平均律>には利点、実用的有用性(とくに転調の可能性)があるのだが、それだけならば、12ではなく、<10平均律>でも、<15平均律>でもよいのではないか。実際に「53平均律」で作られた曲や、現在に通常の半音関係をさらに半分にしたいわば四半音階を使った曲があると何かで読んだことがある(聴いたことはない)。
 <12平均律>が現在の音楽をほぼ支配しているのは、ピタゴラス音律以降の(西洋)音楽の歴史・伝統を継承しているからだ、とは容易に言える(それが明治期に日本に輸入され、日本の音楽界も支配した)。だが、加えて、ピタゴラスもまた重視したのかもしれない「12」という数字に魔力・魅力があったからだろう、と私は素人ながら想定している。
 本当にピタゴラスだったとすれば、そのピタゴラスはなぜ、1とほぼ2の範囲内に収まる数値を見つけるために、1に3/2をつぎつぎと乗じていく回数を「12」回で終え、2.0273…で満足したのだろうか。
 ①3/2→②9/4÷2→③27/8÷2→…→⑫=3の12乗/2の18乗=約2.0273
 「12」という数字に特別の意味を感じ取ったことも、重要な理由の一つだったのではないか。
 音楽は、いろいろな意味で、なおも面白い。
 …
  池田信夫ブログマガジン2023年4月3日号に、池田麻美という人が「私の音楽ライブラリー」欄で、「戦場のメリー・クリスマス」を取り上げて、意味不明のことを書いている。
 「坂本龍一氏が死去しました。最近では、…人も多いかもしれませんが、最盛期はこの映画音楽のころでしょう。その後は音楽が頭でっかちになってつまらない。」
 最後の一文は私には意味不明だ。この人が毎週取り上げているような音楽こそが、特定の音楽分野を嗜好する「頭でっかち」さを感じさせる。この人は、音楽全般を、「平均律」や「純正律」等々を、優れた日本の「演歌」類を知っているのだろうか。坂本龍一もまた用いただろう楽譜はなぜ「五線譜」で、「六線譜」等ではないのか、と疑問に思ったことはあるのだろうか。
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2631/西尾幹二批判064。

  西尾幹二の雑誌論考での肩書は「評論家」が最も多いだろう。現在に所属する大学の教授や「〜名誉教授」を肩書とする人も少なくないが、西尾幹二は「電気通信大学教授」または「電気通信大学名誉教授」とはあまり名乗りたくなかったようだ。 
 「評論家」というのもじつは曖昧で、西尾幹二はいったい何に関する評論家だったのだろうか。
 政治、国際政治、文学といったものが想定されるが、「歴史」に関する文章も少なくない(一時期に月刊正論に連載されていて未完だと思われる「戦争史観の転換」は「評論家」の肩書で書かれている)。
 その他に、皇室、原発を問題にすることがあり、かつては一夜漬けで?証券取引法を「調べた」ような文章を書いたこともあった(堀江貴文の逮捕の頃)。
 正しくは「時事評論家」だろうか。いやそれでは狭すぎ、本人は「何でも屋」の「総合評論家」だと自称したいかもしれない。
 だが、このような曖昧さ、良く言えば「広さ」は、同時に、例えば各事象、各問題に関する<専門家>や、「学界」でも第一人者と評価される「アカデミカー(学問研究者)とは比肩できない、「浅さ」・「浅薄さ」の別表現でもある。
 西尾幹二は、同・歴史の真贋(新潮社、2020)の「あとがき」で、「『哲・史・文』という全体」で外の世界を見るのが「若い日以来の私の理想」だった旨記している(p.359)。これは、反面では、ある時期以降のこの人の作業は「哲・史・文」のいずれとも理解し難い、これら三分野を折衷・混合した「ごった煮」に、いずれの分野でも先端をいくことのない、専門家を超えることのできない「浅薄な」ものにならざるを得なかったことを、自認しているように考えられる。
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  西尾幹二の雑誌論考の中途または末尾に、執筆者紹介として「東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。…」と記されていることがある(例、月刊正論2014年5月号、p,147)。
 これは誤解を招く、読者を誤導する紹介の仕方だ。これではまるで、西尾幹二は「ニーチェ、ショーペンハウアー」の哲学または思想を研究したことがあるかのごときだ。この二人は通常、哲学者(・思想家)だと理解されているだろうからだ。
 上の紹介は全く誤っている。すでにこの欄で言及したように(→西尾幹二批判042、2022/01/08、No.2466)、第一に、西尾『ニーチェ』(中央公論社、1977。二巻本)を対象とする文学博士号授与の審査委員の専門分野はドイツ文学3名、フランス文学1名、哲学1名の計5名で(西尾幹二全集第4巻「後記」p.770)であり、もともとニーチェの哲学・思想を研究したものとは考えられていなかった。
 第二に、上の著は「未完の作品」(上掲p.763)と自ら明記しているもので、ニーチェの『悲劇の誕生』(1872)の成立までを扱った(一種の「文献学」・「書誌学」的)研究書であって、ニーチェを包括的に研究したものではない。
 第三に、西尾幹二は同・上掲書への斎藤忍隋による「オビ」上の推薦の言葉を自ら引用しているが(全集4巻、p.778。西尾幹二の全集に頻繁に見られる「自己讃美」の仕方だ)、これをさらに抜粋すると、以下のようだ。
 「評伝文学の魅力/…ニーチェがギリシア古典の研究者としてスタートを切った事実は…完全に無視されてきた。…西尾氏の文章は、初めてこの事実を解明を試みた綿密な研究であるとともに、『評伝文学』の魅力に溢れており、…傑作である。」
 ここに示されているように、西尾・上掲書はニーチェの初期の「文献学」・「書誌学」的研究書であり、ニーチェの「伝記」の一部であり、「評伝文学」と位置づけられ得るものだ。到底、ニーチェの哲学(・思想)を、一部であれ、研究したものではない。
 なお、西尾幹二は上の書以外にもニーチェに論及する文章を書いており(同全集第5巻を参照)、ニーチェ著の一部の「翻訳」をしているが、ニーチェの、とくにその哲学・思想全体の「本格的」な研究者では少なくともない。ショーペンハウアーに至っては、翻訳の文章があるほかは、ニーチェとの関連で言及するだけで、まともに「研究」していたとは思えない。
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  西尾幹二の雑誌論考の中途または末尾に、こう書いてあるものまで出現している。
 「東京大学文学部独文学科卒。専門はドイツ思想と歴史哲学。近著に…」(月刊正論2020年6月号、p.25)。
 何と、西尾幹二の「専門はドイツ思想と歴史哲学」だと明記されている。
 大笑いだ。「歴史哲学」に「ドイツ」が係るのか不明だが、いずれにしても。
 西尾幹二に「ドイツ思想」または「歴史哲学」に関するどのような専門書があるのだろうか。一冊でもあるのか?。

2630/日本共産党と4月統一地方選挙・松竹伸幸。

  日本共産党中央委員会常任幹部会は、2023年4月10日に声明を発して、同年4月の統一地方選挙の前半戦の同党の選挙結果について、こう明言した。
 道府県議選では「前回選挙で獲得した99議席から22議席を後退させる結果となりました」。また、新たに4県が「議席空白となりました」。
 政令市議選では、「前回選挙で獲得した115議席から22議席を後退させる結果となりました」。
 同じく日本共産党中央委員会常任幹部会は、2023年4月24日に声明を発して、後半戦の同党の選挙結果について、こう明言した。
 「4年前の選挙と比べると、東京区議選挙で13議席減、一般市議選挙で55議席減、町村議選挙で23議席減となり、合計91議席の後退となりました。議席占有率は前回の8.08%から7.28%に後退しました」。
 明らかであるのは、そのスピードの緩急は別として、地方レベルでも見られる、日本共産党の力の衰退傾向だ。 
 すでに明らかにされているように。党員数、機関紙購読者数も顕著な減少傾向を示している。この傾向は緩やかであれ、今後一貫して続くだろう。
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  「日本共産党の65年」、「日本共産党の70年」、「日本共産党の80年」を同党中央委員会名義で出版してきた日本共産党だから、間隔が空いてもさすがに2022年には「日本共産党の100年」を出版するのだろう、「最長の歴史もつ政党」を誇るのだろうと予想していたが、ついに発行されなかった(2023年4月末現在)。
 全体として、活動能力が落ちていることは間違いない。100年史を執筆することのできる人材が枯渇しているのだろうか。あるいは、党の100年の歴史の「総括」的叙述をし始めると、基本的部分ですら中央委員会または同常任幹部会内部で「理論闘争」が起きて、収拾がつかなくなるのだろうか。
 ともあれ、1970年代に日本共産党とその基本「思想」に共感し、同党の描く将来を夢見て入党し、2020年代に70歳前後になり、人生の「晩年」を迎えて、約50年間の<日本共産党員>たる地位を放棄すると決断したらしき松竹伸幸(1955年生、2023年「除名」)も含めて、一度きりの人生の20歳代から70歳前後まで、つまり人生の活動期間のほとんどを<日本共産党員>として過ごしてきた者たちの現在の心情を想像すると、憐憫の情に耐えない。じつに気の毒だ。そのような人々の人生は、一回かぎりの人生は、いったい何だったのか。
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  松竹伸幸がまだ共産党員だったとは知らなかったが、この人の近時の主張の内容、朝日新聞社説等による擁護論の内容等に興味はない。つぎのようにだけ付言する。
 <分派の禁止>、党中央と異なる見解の「党外」での公表の禁止は、1921年3月のロシア共産党10回大会で明確に採用され、世界の各「共産党」も採用した共産主義政党の根本的な組織原理であり、「体質」だ。これが変更されることは「共産党」と謳うかぎり、あり得ない(だからこそ、レーニン主義的組織原理を維持する「共産党」は今や世界にきわめて希少な存在になっている)。
 松竹伸幸は自分の言動がどのような結果をもたらすかを、かつての日本共産党中央委員会要職者という経歴からしても、熟知していたはずだ。
 最後に<華々しく散ろう>と考えたのかもしれないが、「茶番劇」にすぎないだろう。見解・政策方向の違いに原因があるのではなく、要するに、<日本共産党には未来がない>と、人生の最終盤に入ってようやく明確に悟った、というだけのことではないか。
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2629/西尾幹二批判063。

 以下は、西尾幹二の言説(妄言)の「歴史的記録」として。あるいは、その「人格」を例証する一つとして。このとき、満76歳。
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 西尾幹二「『雅子妃問題』の核心」歴史通2012年5月号(ワック)
 一部(当時の皇太子妃批判・攻撃)を引用する。以下での「皇后陛下」は現在の上皇后陛下、「皇太子妃殿下」・「雅子妃」は現在の皇后陛下、「皇太子殿下」は現在の天皇陛下—以上、引用者。一文ずつで改行した。/は本来の改行箇所。下線は引用者による。
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 ①「皇后陛下は…耐え、馴れて、ご自身の世界を切り拓いて新境地に達した。
 皇太子妃殿下はいまだその域に達していない。
 『適応障害』といわれて九年目になる。
 一般人の自由を奪われたことが病気の原因であることは間違いない。
 皇室という環境にあるかぎり病気は治らないと医師も証言している。
 であるなら、道は二つに一つしかない。
 皇室を離れて、一般人の自由を再び手に入れるか、それとも皇室の掟に従うことを覚悟して、わが身に自由は存在しないことを大悟徹底するか、の二つに一つである。/」p.36。
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 ②皇室問題に「独特の混乱」を招いているのは「女性宮家創設」問題ではなく、「男系か女系か」も「緊急のテーマ」ではない。
 「最重要の問題は、雅子妃が皇室に一般的人の自由を持ち込み始めていることである。
 そしてそれを次第に拡大し、傍目にも異常に見えるようになったのは、単に皇室の掟に従わないだけではなく、一般社会人も当然生活する上で日常のさまざまな掟に縛られているのであるが、彼女はそこからも解放され、自由であり、天皇に学び皇后に従い皇室の歴史における自分の立つ位置を定めるという義務を怠っているので、一般社会からも皇室からも解放され、ついに何者でもない宇宙人のような完璧に自由であるがゆえに、完璧に空虚な存在になりはじめていることである。」p.36〜p.37。
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 ③「皇太子殿下」は…と「発言されたのだ」。
 「病気治癒に役立つなら公務を私的に利用すると平然と言ってのけたのでる。
 つい口を滑らして本音が出てしまったのかもしれないが、一般人が享受する私的自由は皇室にはない、との覚悟を内心深く蔵していたなら、不用意であっても、こんな言葉が出てくる筈はない。
 一般人の自由を皇室に持ち込み、なにごとも "自分流" を通されようとする妻の影響下に置かれている有様が透けて見えるようで、悲しい。/」p.37。
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 ④佐藤あさ子『雅子さまと愛子さまはどうなるのか?』(草思社)の「以上の叙述と思想から浮かび上がってくるのは、一般社会からも皇族社会からも完全にフリーな、どちらにもコミットしていない真空地帯、稀にみる楽園のような、地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するそうに、幻のように生きている不可解な存在である。…
 天皇陛下皇后陛下には生活があり、佐藤さんはじめ働く一般庶民にも生活があるが雅子妃には『生活』がない。
 無限の自由の只中にあって、それゆえに自由を失っている。
 ご病気の正体はこれである。/
 『裸の王様』という言葉があるが、ご自分ではまったく気がついていないものの、外交官のライフスタイルを失ったという嘆きやぼやきが思うに唯一の生き甲斐となり、夫への怨みや脅迫となり、与えられた花園の中を好き勝手に踏み歩く権利意識になっていると思われる
 …、学歴も高く才能もあるといわれて久しいのにほとんど目ぼしい活動もなく、子供の付き添い登校にひどくこだわって顰蹙を買ったのも、理由ははっきりしている。
 『生活』のないところにどんなライフワークも生まれようがないからである。/」p.41〜p.42。
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 ⑤「妃殿下に皇族として生きる覚悟が生じたときにはじめて彼女の『生活』が開始する。
 あるいは、ご離婚あそばされ、一般民間人になられたなら、そこでも『生活』が始まることは間違いない。
 その中間はない。
 どっちつかずの真中はない。
 あれかこれかの二つに一つで、選択への決断だけが彼女に自由を与える。/
 これがどうしてもお分かりならないでいる。
 そのために現代社会では起こり得ない次のような奇怪な絵図が展開されている。/
 「雅子妃の愛子さま付き添い登校」等…。
 「…、つい先頃まで毎日のように学習院初等科の校門前で行われた…珍妙な儀式は、封建時代の悪大名の門前を思わせる、たしかに ”異様” の一言でしか言い表せない光景である。
 こんな出来事がわれわれの現代社会に立ち現れていたことはまことに嘆かわしいし、恥しい。/」
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 参考。→即位祝賀奉祝曲・嵐「Ray of Water」(作曲・菅野よう子)、2019年11月9日

2628/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌⑥。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。(Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 つづき。
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 第一章④。
 (14) 精神の歪曲と身体の責苦を目的とするこのような皮肉な弁証法の利用を、西側のマルクス主義講釈者たちは、通常のこととして、見逃した。彼らは過去の理想または未来の展望の黙考に沈潜して、とくに彼らがかつての犠牲者や目撃者だった場合には、ソヴィエトの現在に関する不愉快な情報に動かされないままでいることを好んだ。(注12)
 Kolakowski がこのような者たちと遭遇したことが、疑いなく、「西側の」マルクス主義と彼の進歩的な同調者の大部分に対する彼の痛烈な軽蔑を説明する。
 「教養のある人々にマルクス主義が人気のある理由の一つは、マルクス主義は単純な態様ではきわめて理解し易い、ということだ。Sartre ですら、マルクス主義者は誤っており、(マルクス主義は)あれこれと研究し終えることなく、歴史と経済の総体に対処するのを可能にする道具だった、ということに気づいていた。」(注13)
 このような遭遇は、ずっと以前に出版された論考集〈My Correct Views on Everything〉という嫌味溢れる表題となった小論の動機となったものでもあった。(注14)
 イギリスの歴史家のEdward Palmer Thompson は1973年の〈The Socialist Register〉に、Leszek Kolakowski に宛てた公開書簡を掲載した。
 そこで彼は、かつてのマルクス主義者に向かって、若いときのマルクス主義修正主義からの転向によって擁護者を見捨てたと、叱りつけた。
 この公開の書簡が際立って示したのは、Thompson の自己満足と地域性だった。すなわち、彼は饒舌で(書簡は100頁に及んだ)、慇懃無礼で、偽善的だった。
 Thompson は、威張った扇動的な調子で、亡命したKolakowski の鼻の前に修辞の指先を突きつけて彼を払い落とし、彼を—その思慮深くて進歩的な公刊物を斜めに一瞥しながら—非難する。
 「我々二人は、1956年に共産主義修正主義の見解で一致した。…我々はともに、スターリン主義批判の先頭の立場から…を経てマルクス主義修正主義の態度へと至った。
 時代を経て、あなたとあなたが支持した物事は、我々の最も内的な思考について現在のようになった。」
 Thompson は、イギリスの地方の居心地よい安全な所から、こう示唆した。
 あなたは、どのようにしてあえて我々を裏切ることができるのか? 共産主義ポーランドでのあなたには不都合な体験でもって、我々に共通するマルクス主義の理想を覆い隠すことによって。//
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 (15) Kolakowski の反論文である〈My Correct Views on Everything〉はおそらく、政治的議論の歴史上、最も良く書かれた知識人の解体作業だ。すなわち、これを読んだあとでは誰も二度と、Edward Palmer Thompson を真面目に受け止めないだろう。
 この小論は、マルクス主義の歴史と体験によって「東側」と「西側」の知識人の間にあることが明らかになった、かつ今日まで存在している、大きい道徳的な溝を解説するものだった(そして症候として例証するものだった)。
 Kolakowski は情け容赦なく、Thompson の懸命の利己的な努力を解剖し、分析した。その努力とは、マルクス主義の欠陥から社会主義を、共産主義の拒絶からマルクス主義を、そして彼自身の犯罪から共産主義を救おうとするものだった。—全ては、一つの理想の名のもとに行なわれた。表面的には「唯物論的」現実に根ざし、信頼性もそれに依存していて、決して現実世界の経験や人間の不可能性に言及されることがない理想。
 Kolakowski はThompson に向かってこう書く。
 「あなたは、『システム』という概念で思考するのは傑出した成果をもたらす、と言う。
 私も、確かにそう思う。—たんに傑出しているばかりか不可思議な成果をだ、という点で留保はするが。
 人類の全ての諸問題を、それは一撃のもとですぐに解決するのだ。」
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 (16) 人類の諸問題を一撃のもとで解決する。現在を説明すると同時に将来を保障することのできる、全てを包括する理論を追い求める。
 現実の体験の苛立つような複雑さと諸矛盾を回避するために、知性的または歴史的な「システム」という松葉杖に逃げ場を求める。
 腐敗した果実から、想念または理想の「純粋な」種子を救い取る。
 このような近道は、永遠の魅力をもつが、マルクス主義者(または左翼)の独占物ではない。
 少なくともこのような人間の愚昧さのマルクス主義という変種から別離することだけは、至極当然のことだ。
 Kolakowski のようなかつてのマルクス主義者の洗練された洞察とThompson のような「西側」マルクス主義者の独善的な偏狭さのあいだで、歴史の審判自体について完全に沈黙するならば、問題は自明のこととして処理されたかのように思われるだろう。
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 注記。 
 (12) このような目撃証言には信頼性がないという主題に、西側の進歩主義者によるスターリン主義の釈明は注目した。
 全く同様に、アメリカのソヴィエト学者は、東方圏からの逃亡者または移住者による証拠物提出や証言を、無視した。—あまりにも個人的体験で、一致していないため、概観することを歪曲し、客観的に分析することを妨害する。
 (13) 「社会主義に残るものは何か ?」((注08)を見よ)。ポーランドの人々その他の「東方圏人」は、迎合的な西側の進歩主義者に対するKolakowski の嘲弄に共感していた。詩人のAntoni Slonimski は1976年に、Jean-Paul Sartre が20年前に、アメリカに対抗して「社会主義陣営」を弱めないために、社会主義リアリズムを放棄しないよう、ソヴィエト圏の文筆家たちを激励したことを、思い起こさせた。「彼にとっての自由、我々にとっての全ての制約!」。「L'Ordre regne a Varsovie」〈Kultura, 3〉(1976), S.26f. 所収、Marci Shore,〈Caviar and Ashes: ワルシャワ世代の生とマルクス主義の死, 1918-1968〉(2006), S.362 による引用、を参照。
 (14) 例えば、Leszek Kolakowski,〈Chretiens sans eglise. La conscience religieuse et le lien confessional au XVIIe siecle〉(1969)。同〈God Owes Us Nothing. A Brief Remark on Pascal's Religion and on the Sprit of Jansenism〉(1995)。並びに、論文集〈My Correct Views on Everything〉,South Bend, Indiana (2005)、とくに、George Urban との対話、「歴史における悪魔」と小論「Concern with God in an Apparently Godless Era」。ドイツ語では、Hans Rössner(編),〈Der nahe und der ferne Gott. Nichttheologische Texte zur Gottesfrage im 20. Jahrhundert〉,序言 (1981)で出版された。
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 第一章〔表題なし〕、終わり。第二章へつづく。

2627/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌⑤。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。(Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 つづき。
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 第一章③。
 (08) マルクスをスターリン(およびレーニン)による「歪曲」から「救い出す」ために、三世代の西側のマルクス主義者たちは果敢に、マルクス主義と共産主義を控えめに結合しようとした。—そう、Kolakowski は明確に述べる。
 20世紀のロシアまたは中国の歴史について、ヴィクトリア朝のロンドンで生活したドイツ人著作者のKarl Marx (注8)に責任があるとは、ほとんど誰も、何らかの思想的に理解可能なやり方では主張しないだろう。
 ゆえに、創設者たちの真の意図を探り、Marx とEngels が彼らの名前で始まるはずの将来の負い目に関して考えていたことを解明しようとするマルクス主義純粋主義者の数十年間の努力は、いく分か時代遅れで、無意味だった。
 それでも、神聖な文献の真実に立ち戻ろうとする絶えず繰り返された訴えは、Kolakowski が特別の注目を向けた、マルクス主義の党派的な次元の大きさを示していた。
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 (09) やはりなおも、教義としてのマルクス主義は、それから生まれた政治運動やシステムの歴史と分離することはできない。
 実際には、Marx とEngels の思想には決定論的中核がある。人間が何ら力を奮うことのできない諸論拠によって、事物は「最終的分析では」そうであるべきであるようになっている、という主張だ。
 この強固な主張は、古きヘーゲルを「転倒させて」、争いの余地なき物質的根源(階級闘争、資本主義的発展の法則)に歴史の解釈をもとづかせようとするMarx の望みに由来していた。
 プレハノフ、レーニンや彼らの後継者たちが歴史的「必然性」の構築物全体とそれを導く実施機構を依りかからせることができたのは、この安逸な認識論的擁壁だった。
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 (10) さらには、プロレタリアートは被搾取階級という特別の役割—彼らの解放は全人類の解放の号砲となる—にもとづいて、歴史の最終目的を特権的に洞察することができる。そしてこの見識は、プロレタリアートの利益を具現化すると主張する独裁党のもとへプロレタリアートの利益が従属することで生まれる、共産主義の成果と密接な関係がある。
 マルクス的分析を共産主義独裁に結びつけたこの論理的足枷がいかに強固だったかは、—Michail Bakunin からRosa Luxemburg までの—多くの観察者や批評家たちに委ねよう。彼らは、レーニンがその勝利の途を歩み始めるべくペテルブルクのフィンランド駅近くへ到着するずっと前に、共産主義的全体主義を予見し、警告していた。
 もちろん、マルクス主義は異なる方向へと展開することもあり得ただろうし、あるいはどこかで終焉することもあり得た。
 しかし、「レーニンによるマルクス主義の見方は、唯一の可能なものではなかったとしても、きわめて尤もらしいものだった」。(注9)
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 (11) 当然ながら、マルクスもその承継者たちも、産業プロレタリアートによる資本主義の打倒を説く教理は後進的で広く農民的な社会でも有効だろうとは、意図しなかったし、感じてもいなかった。
 だが、この逆説はKolakowski には、マルクス主義の信仰体系としての力を強く意識させるものだった。すなわち、レーニンやその支持者たちが自分たちが勝利する不可避の必然性に固執しなかったならば(そして、それを理論的に正当化しなかったならば)、彼らの努力は決して成功しなかっただろう。
 同様にまた、彼らは数百万の外部の崇拝者たちにとって、確信を与える模範者にもなれなかっただろう。
 レーニンを封印列車でロシアに行かせることでドイツ政府が容易にした機会主義的な蜂起を、「不可避の」革命に変えること、これには単純な戦術的天才性ではなく、イデオロギー的信念上の包括的な実践が必要だった。
 Kolakowski は、確実に正しかった。政治的マルクス主義は、何よりも先ず、世俗的宗教なのだった。//
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 (12) 〈主要潮流〉は、唯一の傑出したマルクス主義に関する叙述ではない。だがそれはしかし、群を抜いて、意欲的だった。(注10)
 この著をとりわけ特徴づけるものは、Kolakowski のポーランド的視座だ。
 一つの終末論だとする彼のマルクス主義解釈を強調すれば、このことは十分に明らかになる。—「ヨーロッパの歴史全体を覆う黙示録的予想の、現代的な変種の一つ」。
 そしてそれは彼に、妥協なき道徳的な、そうして宗教的な、20世紀の歴史の見方を生み出した。
 「悪魔は、我々の経験の一部だ。
 我々の世代は、それを十分に見て、きわめて深刻な教訓を引き出した。
 私は、悪は生まれるものではなく、美徳の不在や歪曲あるいは劣化(あるいはその意味において美徳と対極にある全ての何か)ではなく、執拗な、解消することのできない事実だ、と主張した。」(注11)
 西側のどのマルクス主義観察者も、いかに批判的であろうとも、このようには語らなかった。//
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 (13) Kolakowski は、マルクス主義だけではなく共産主義のもとで生きた者としても書く。
 彼は、一つの政治的生活様式における知性的な理論からのマルクス主義の変容の生き証人だ。
 こうして内部で観察され、体験されたマルクス主義は、共産主義と区別することがほとんど困難だ。—結局は、最も重要な実践的帰結であったばかりか、その唯一の結果だった。
 自由を抑圧するという世俗的な目的のためにマルクス主義の諸範疇が日常的に利用されて—そのために権力を握る共産主義者によってマルクス主義がとくに用いられて—、時代の経過とともに理論の魅力自体が損なわれた。//
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 注記
 (08) 〈主要潮流〉はマルクスを、彼の精神的風景を支配したドイツ哲学にしっかりと位置づけた。社会理論家としてのマルクスは、簡単に扱われている。経済学に対するマルクスの寄与については、—労働価値説であれ、先進資本主義の利潤率の低下傾向の予見であれ—Kolakowski はほとんど注意を払っていない。
 マルクスですら自らの経済的研究の結果に関して不満だったことを考えれば(その理由の一つは〈資本論〉が未完のままだったことだ)、これは慈悲深かったと言うべきだろう。つまり、マルクスの経済理論の予見能力は、とっくに左翼によってすら否認されていた。少なくとも、Joseph A. Schumpeter の〈資本主義、社会主義および民主主義〉(Bern, 1946年)以降は。その20年後に、Paul Samuelson は、Karl Marx はせいぜいのところ「二流のリカード後継者」だと慇懃無礼に語った。
 (09) Kolakowski「歴史の中の悪魔」,〈Encounter〉(1981年1月)所収。〈My Correct Views on Everything〉前掲書, S.125に再録。
 (10) 最良の一巻本のマルクス主義研究書、素晴らしく凝縮されているが人間性や思想とともに政治と社会史を包括する研究書は、依然としてGeorge Lichtheim の〈マルクス主義〉のままだ。1961年にLondonで出版された〈歴史的、批判的研究書〉だ。
 マルクス自身に関しては、私には、70年代の二つのきわめて異なる伝記が、最良の現代的な描写になっている。すなわち、David McLellan,〈Karl Marx, 人生と著作〉1974年と、Jerrold Seigel,〈Marx の運命. 人生の造形〉1978年。
 これらの叙述は、だが、Isaiah Berlin の注目すべき小論〈Karl Marx〉によって補完される必要がある。これは1939年に英語で出版され、1968年にドイツ語に翻訳された。
 (11) 「歴史における悪魔」,〈My Correct Views on Everything〉上掲書所収, S.133.
 Kolakowski は同じ講演で、政治的メシア主義の終末論的構造を簡単にもう一度強調する。すなわち、地獄への転落、過去の罪悪との絶対的な決別、新しい時代の到来。だが、神が不在であるため、このような所業は本来的に矛盾していると非難され得る。知識だと誤称する宗教は、実を結ばない。
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 つづく。
 

2626/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌④。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
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 第一章②
 (05) このような経緯によって、〈主要潮流〉の特徴がいくぶんか明らかになる。
 第一巻の〈生成者〉(ドイツ語版、成立)は、思想史として伝統的手法で執筆されている。すなわち、弁証法のキリスト教的淵源、ドイツのロマン派哲学での完全な解決の構想、その若きマルクスへの影響から、マルクスとその同僚のFriedrich Engels の成熟した文献までを辿っている。
 第二巻は、元々は(皮肉ではなく私は思うのだが)素晴らしい、〈黄金の時代〉というタイトルだった。(注4)
 彼は、1889年まで存在した第二インターナショナルから1917年のロシア革命までの歴史を叙述している。
 ここでもKolakowski は、とりわけ、急進的なヨーロッパの思想家の目ざましい世代が高度の精神的水準に導いた思想や論争を扱う。
 この時代の指導的マルクス主義者たち—Karl Kautsky、Rosa Luxemburg、Eduard Bernstein、Jean Jaures、そしてWladimir Iljitsch Lenin—、彼らはみな正当に一つの章を与えられ、それらの章は慎重にかつ明晰に彼らの歴史上の主要な議論と位置を概括している。
 このような総括的叙述では大して重要な位置を占めてこなかったためにさらに大きな関心を惹くのは、イタリアの哲学者のAntonio Labriola、ポーランドのLudwik Krzywicki、Kazimierz Kelles-Krauz、Stanislaw Brzozowski や「オーストリア・マルクス主義者」のMax Adler、Otto Bauer、Rudolf Hilferdinng、に関する章だ。
 Kolakowski の叙述で比較的に多くのポーランド人が登場するのは、疑いなく、部分的には著者の地域的観点によるのであり、それまでは軽視されたものを補うものだ。
 しかし、オーストリア・マルクス主義者たち(この巻の最も長い章の一つが割かれている)のように、彼らは、ドイツとロシアのマルクス主義が忘却して長らく抹消した、中世ヨーロッパの〈世紀末〉を呼び起こしてくれる。(注5)
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 (06) 〈主要潮流〉の第三巻—多くの読者が「マルクス主義」と理解するもの、すなわちソヴィエト共産主義の歴史と1917年以降の西側マルクス主義者の思想を扱う—は、明けすけに〈瓦解〉と題されている。
 この部の半分弱はスターリンからトロツキーまでのソヴィエト・マルクス主義を扱い、残りは他諸国の選び抜いた理論家を論じている。
 彼らのうち若干の者、とくにAntonio Gramsci とGeorg Lukacs は、20世紀の思想史にとって継続的な関心の対象であり、Ernst Bloch やKarl Korsch(Lukacs のドイツの同時代者)には古物的な魅力がある。
 さらに他の者たち、とくにLucien GoldmannとHerbert Marcuse は1970年代半ばよりも今日ではさらに関心を惹かなくなったようなのだが、Kolakowski は数頁で済ませている。
 この著作は、「近年のマルクス主義の変遷の概観」で終わっている。これはスターリン死後のマルクス主義の展開に関する小論であり、Kolakowski は、自分の「修正主義」の過去に短く触れたあとで、ほとんど一貫した調子で、時代のはかない流行(Mode)を取り上げる。そして、Sartre の〈弁証法的理性批判〉やその〈余計な新造語〉から、毛沢東の「農民マルクス主義」やその無責任な西側の賛美者までがきわめて愚昧であることを語る。
 この部分の読者は、第三巻の緒言で警告される。この著者は、最後の章は数巻へと拡張できただろうと認めつつ、「ここでの主題がそのように詳細な叙述をする意味があるのかどうか、確信がなかった」と付記しているのだ。
 最初の二巻は1987年にフランス語で出版されたが、Kolakowsk の代表著作の第三巻はそこでは今日まで公にされていない、ということにここで触れておく価値がたぶんあるだろう。
 ここでKolakowski によるマルクス主義的教理の歴史の驚くべき射程範囲を紹介するのは、不可能なことだ。
 彼の叙述を上回ることは、ほとんどどの後継者によっても行なわれ得ない。この領域をこれほど詳細にかつこれほどの巧みさをもってあらためて掘り返すことができるために、いったい誰がもう一度十分な知識を得るだろうか? あるいは、いったい誰がもう一度十分な関心を呼び醒ますだろうか?
 〈マルクス主義の主要潮流〉は、社会主義の歴史ではない。
 この著者は、政治的論脈または社会的制度には表面的な注目だけを示した。
  これは動かされない思想史であり、かつて力をもった理論や理論家の一族の勃興と崩壊に関する教養小説(Bildunfsromane)であって、懐疑的で濾過したした時代に、残存している最後のその末裔たちについて、語っている。
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 (07) 1200頁にわたるKolakowski の論述は、率直であり、明晰だ。
 彼の見解では、マルクス主義は真摯に受けとめられるべきものだ。
 それは、階級闘争に関する宣明(しばしば正しいが、新鮮な何かではない)のゆえにではなく、また不可避の資本主義の破滅とプロレタリアによって導かれる社会主義への移行(完全に挫折した予言)の約束のゆえにでもなく、マルクス主義が、唯一の—そして本当に独自性をもつ—プロメテウス的なロマン派的幻想と妥協なき歴史的決定論の混合物を提示しているからだ。
 このように理解されるマルクス主義の魅惑は明白だ。
 それは、世界がどのように〈作動している〉(funktionieren)かを説明する。資本主義と階級関係の経済的分析だ。
 それは、世界はどう作動〈すべき〉かの態様を提示する。若きマルクスの唯心論的考察がそうだったような人間関係の倫理だ(そして、Kolakowski が、その妥協的な人生を軽蔑したものの、相当に一致したGeorge Lukacs のマルクス解釈)。(注6)
 最後に、マルクス主義は、マルクスのロシアの支持者たちがその(およびEngels の)文献から導き出した歴史的必然性に関する一連の主張に支えられたのだったが、世界は将来にそれに応じて作動する〈だろう〉との信仰を告知した。
 経済的記述、道徳的命令、政治的予見のこうした結合は、途方もなく魅力的である—かつ目的に適している—ことが分かる。
 Kolakowski が気づくように、マルクスは、なおも一層、読む価値がある。—その伝統の膨大な多面性を理解するためにだけであっても、別の者がそれに秘術をかけて、そこから飛び出してくる政治システムを正当化するためにも。(注7)
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 注記
 (04) ドイツ語訳書では、三つの巻は〈成立、発展、瓦解〉と区分された。
 (05) 歴史家のTimothy Snyder は、その書物、〈Nationalism, Marxism and Modern Central Europe: A Biography of Kazimierz Kelles-Krauz, 1872-1905〉(1997年)でもって、Kelles-Krauz を少なくとも忘却から救い出した。
 (06) Kolakowski は別の箇所でLukacs について書く—この人物は、Bela Kun ハンガリーRäte共和国で短期間に文化委員として働き、のちにスターリンの要請にもとづき、かつて書き記していた全ての興味深い言葉を放棄した—。彼は「優れた知識人の相当に尋常ではない例」だった、「生涯の最後まで…その精神は党に奉仕することにあったが、彼の著作は我々にもはや思考の衝動を与えない、彼は自らハンガリーに生き残った」。「文化形成としての共産主義」を参照。Gesine Schwan (編)所収の、〈Leszek Kolakowski, Narr und Priester. Ein philosophisches Lesebuch〉,S187-209, 1995年。
 (07) 「社会主義に残るものは何か」を参照。最初に出版されたときのタイトルは、「Po co nam pojecie sprawiedliwosci spolecznej ?」。〈Gazetta Wyborcza〉6-8号所収、1995年5月。〈My Correct View on Everything〉上掲に、再録された。
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 つづく。

2625/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌③。

 Tony Judt の論稿から、試訳を始める。
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 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 第一章①
 (01) Leszek Kolakowski は、ポーランド出身の哲学者だ。
 だが、このような性格づけは、全く適切ではない—または、十分ではない—と思える。
 Czeslaw Milosz やその前のその他の人々においてそうだったように、Kolakowski の知的および政治的な軌跡は、彼の反対派的立場によって明確になり得る。伝統的なポーランドの文化の深く根づいた経緯、すなわち聖職者主義、差別主義、反ユダヤ主義によって特徴づけられるものに対する立場によって。
 1968年に出国を強いられたのち、Kolakowski は、彼の故郷に戻ることも、そこで自分の著作を出版することもできなかった。
 1968年と1981年のあいだ、彼の名前はポーランドの検索対象になることが禁じられた著者だった。そして、彼はそのあいだに、今日に彼が最も知られている著作の大部分を執筆し、外国で公にした。
 亡命中のKolakowski は、ほとんどをイギリスで過ごした。彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。
 しかし、会話の際に言っていたように、イギリスは島であり、オクスフォードはイギリスの中の島であり、All Souls(学生のいないCollege)はオクスフォードの中の島だった、そして、Leszek Kolakowski 博士は、All Souls の中の島、四重に囲まれた島だった。(注1)
 イギリスの文化生活は、ロシアや中央ヨーロッパからの移民知識人たちに対して、かつては一つの場所を提供した。—Ludwig Wittgenstein、Arthur Koestler、あるいはIsaiah Berlin を想起することができる。
 だが、かつてのマルクス主義的カトリックのポーランド出身哲学者は、さらに異国者的で、彼の国際的な名声にもかかわらず、イギリスではほとんど知られていなかった。そして、驚くべきほどに低い評価を受けていた。//
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 (02) しかし、他の国では、Kolakowski は有名だった。
 彼の世代の多くの中央ヨーロッパの学者たちと同様に、彼は複数の言語を用い—自宅でのポーランド語や英語と同じようにロシア語、フランス語、ドイツ語を使った—、とくにイタリア、ドイツ、フランスで栄誉と賞を受けた。 
 Kolakowski がシカゴ大学の社会思想委員会で4年間教育したアメリカ合衆国では、彼の業績は惜しみない評価に恵まれた。その絶頂は2003年で、連邦議会図書館の第一回のJohn Kluge 賞が与えられた。—この賞は、ノーベル賞の対象になっていない学問分野(とくに思想科学)での生涯にわたる研究に対して付与されたものだった。
 しかし、一度ならずパリにいるときが最も落ち着くと述べていたKolakowski は、イギリス人以上にアメリカ人ではなかった。
 おそらく、20世紀の学者共和国の最後の輝かしい市民だと彼を叙述するのが、最も適切だろう。//
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 (03) 彼の本当の故郷のほとんどで、Leszek Kolakowski は、とくにその著名な三巻のマルクス主義の歴史書、〈マルクス主義の主要潮流〉で(そして多くのところではそれだけで)知られている。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版されたこの著作は、1年後にドイツで、2年後にイギリスで出版され、現在のアメリカ合衆国では一巻本の書物として再発行されている。(注2)
 この著作は、疑いなく、最大の高い評価を得ており、現代の人文学の記念碑的傑作だ。
 もちろん、Kolakowski の著作の中でのこの作品の卓越さには一定の皮肉がなくはないが、この著者は「マルクス学者」(Marxologe)では決してない。
 彼は、哲学者であり、哲学歴史家であり、カトリック思想家だ。
 彼は初期キリスト教の教派と異端派の研究を行ない、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史に最後の四半世紀の大部分を捧げた。これは、最良の哲学的神学的研究と称し得るものだろう。//
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 (04) 戦後ポーランドの同世代の中での洗練されたマルクス主義哲学者という高名から始まる、1968年の離国までのKolakowski の「マルクス主義」段階は、実際は全く短いもので、この時期の大部分で、彼はすでに異端者だった。
 すでに1954年、彼が27歳のときに、「マルクス=レーニン主義からの逸脱」を非難されていた。
 彼は1966年に、Posenでの労働者抗議運動(「ポーランドの十月」)10周年記念日のために、有名な批判的講演をワルシャワ大学で行ない、党指導者のWladyslaw Gomulka から公式に「いわゆる修正主義運動の主要イデオローグ」と咎められた。
 Kolakowski が講座を剥奪されたとき、その理由とされたのは、「国の公式の方向に逆らって」歩むという「若者の考え方」を作り出している、ということだった。
 西側に到着したとき、彼は、(我々には今でもそう思えるように、贔屓の者たちを困惑させることには)もはやマルクス主義者ではなかった。そして、そのあとで彼は、最近の半世紀のマルクス主義に関する最も重要な書物を執筆し、二年後に、ポーランドのある研究者が奥ゆかしく表現したところでは、「この主題に関するなおもささやかな関心だけ」を掻き集めた。(注3)//
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 注記
 (注01) Leszek Kolakowski とDanny Postel の対話、〈追放、哲学、未知の深淵での不安定なよろめきについて〉。〈Daedaulus〉2005年夏号所収、S.82.
 (注02) Leszek Kolakowski, 〈Glowne Nurty Markzmu〉1976, Paris. ドイツ語版、〈マルクス主義の主要潮流、成立・発展・瓦解〉1977-79, München. 再版、1981.
 英語訳の初版は、Oxford で1978年に出版された。ここで言及した新版は、著者の新しい緒言とあと書き付きで2005年にNew York で刊行された。タイトルは、〈マルクス主義の主要潮流、生成者・黄金時代・崩壊〉。
 (注03) Andrzey Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom :The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995, S. VII.
 楽観的正統派から懐疑的反対派への転遷について、Kolakowski は、つぎのようにだけ言った。
 「たしかに、20歳のとき、(完全にでなくとも)ほとんど知ったつもりだった。けれど、お分かりのとおり、年をとるにつれて、人々は愚かになる。28歳で、ほとんど分からなくなり、今でも一層そうだ。」
 以上、最初は〈Socialist Register〉(1974)に発表された〈My Correct Views on Everything. E. P. Thompson への返答〉。〈My Correct Views on Everything>、上掲書、S.19.
 ——
 つづく。

2624/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌②。

 雑誌<Transit—Europäische Revue>第34号・2007年/2008年冬季号。原語は、もちろんドイツ語。
 編集者まえがき(「編集の辞」、Editorial)
 (01) 2007年10月に、Leszek Kolakowski は80歳になった。
 彼は、1940年代の学問上の経歴を、正統派マルクス主義者として始めた。 
 この哲学者は、1956年以降の雪解けの時期にワルシャワ大学に1959年に招聘され、1966年に党から除名されるまで共産主義の改革の支持者になっていたが、1968年にその講座を失い、西側へと亡命(emigrieren)した。
 彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。 
 Krzysztof Michalski は、Kolakowski 思想の中心主題の軌跡を追っている。
 Tony Judt とJohn Gray は、1970年代に執筆された彼の最高傑作である〈マルクス主義の主要潮流〉から新しい意味を見出している。
 Kolakowski によるマルクス主義の思想史的再構成は、グローバル化への抵抗者のかたちを採るのであれ、Gray が驚くべき診断を下しているような、軍事力を媒介として民主主義政体を拡大するという新保守主義的な構想のかたちを採るのであれ、今日の夢想主義(Utopismus)の亡霊たちを見れば、完全に現在的であることが分かる。
 Marci Shore は東欧共産主義におけるユダヤ人の役割に関する論稿で、「夢想主義の慢性的な病理」(Gray)というとくに今日的な章を想起させている。//
 ----
 (02) Kolakowski は、早くから社会主義思想に取り組んできた。
 彼は、1957年に書いて検閲により発禁となった皮肉たっぷりの小冊子「社会主義とは何か?」で、共産主義体制を映しだした。
 この—この雑誌に再録した—政治風刺の傑作の後のほとんど50年後に、Kolakowski は、「社会主義から残るものは何か」(注1)という小論で、もう一度確認した。
 世界中に広がる不平等に鑑みれば、社会主義は今日再び、道徳的信頼を獲得しているように見える。 
 Kolakowski は、こう続ける。マルクス主義が全てについて間違っていたということは、まだ永らくは、社会主義の伝統を時代遅れのものにはしない。
 また、社会主義思想が悪用されたということは、まだその思想を失墜させはしない。
 結局は、社会主義的諸価値はリベラルな諸価値と結びついて、民主主義的な市場経済の範囲内で実現されたのだ。
 社会主義運動は、我々の社会の政治的風景を変え、今日には自明のことになっている福祉国家を生む、そのような改革を誘発した。
 Kolakowski は、さらにこう書き続ける。
 「たしかに、『代替可能な社会』の構想としての社会主義思想は、死んだ。
 しかし、被抑圧者や社会的に不利な者との連帯を表現するものとして、社会的ダーウィン主義に対抗する動機づけとして、競争とは少しは離れたところにあるものを我々に思い出させる光として、こうした理由でもって、社会主義は—システムではなく、その理想は—、今だになおも利用され得るのだ。」//
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 (03) ロシアのジャーナリスト、Anna Politkowskaja は2001年に、…。
 <以下、省略>
 2007年12月、ウィーンにて。
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 (注1) 「社会主義に残るものは何か」, in: L. Kolakowski, My Correct Views on Everything (2005).
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2623/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌①。

 ドイツ・フランクフルト(am Main)のNeue Kritik という出版社が、<Transit>と題するおそらく季刊雑誌を発行している(または発行していた)。
 その第34号=2007年/2008年冬季号は、二つの特集を主内容にしており、その第一は、「レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の80歳の誕生日に寄せて」だった(試訳者注1)。L.Kolakowski、1927.10生〜2009.07没。
 巻頭の編集の辞はほとんどをL.Kolakowskiへの言及で費やしており、特集は、そのKolakowski の1957年のエッセイ「社会主義とは何か?」(試訳者注2)を再録しているほかは、つぎの四つの論稿で成っている。番号数字は原雑誌にはない。日本語は、試訳。
 1/Krzysztof Michalski, 全体の裂け目。
 2/Tony Judt, 全てのお別れに?—今日に読むKolakowski の〈マルクス主義の主要潮流〉。
 3/John Gray, 共産主義から新保守主義へ。
 4/Marci Shore, 家族のドラマ—ユダヤ人とヨーロッパの共産主義。
 興味深いのは、この4名のうちの2名がTony Judt(トニー・ジャット)とJohn Gray(ジョン・グレイ)だ、ということだ。
 この二人が書いたものの一部は、この欄で何回にも分けて試訳を掲載したことがある。(試訳者注3)
 この二人の政治的立場は同一ではないだろうが、いずれも明確な反共産主義者で、L・コワコフスキを高く評価している(かつ敬愛の念を抱いている)ことでは共通していた。(試訳者注4)
 二人の著書の邦訳書はあり、とくにJohn Gray 著には多い。だが、ジョン・グレイ(London大学教授)の邦訳書が多いのは「新保守主義」、「自由原理主義」ないし「新自由主義」に対するこの人の批判的立場が日本の出版業界隈で「左翼(的)」だと受けとめられた可能性があるからだろう、と私は思っている。明確な「反共」の立場の欧米の書物は、日本では翻訳書が出版され難い。
 現に、この欄にかなり(と言っても半分にはるかに満たないが)試訳を掲載した〈マルクス主義の主要潮流〉は、邦訳書が出ないままで終わりそうだ。日本の近年のいわゆる「保守」派も、「反共」を唱えつつ、欧米の共産主義・反共産主義に関する文献に興味を示さない。
 以下、「編集の辞」のほとんどのLeszek Kolakowski に関する部分と、上の四つの論稿をできるだけ邦訳してみる。
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 (試訳者注1) もう一つの特集は、「Anna Politkowskaja 追悼」だ。
 この女性はロシア人ジャーナリストで、第二次チェチェン紛争、RSB(ロシア連邦保安庁)、プーチンに対して批判的だった。2006年に暗殺された。Anna Politkowskaja、1958.8生〜2006.10没、満48歳。
 (試訳者注2) この小論は、加藤哲郎・東欧革命と社会主義(花伝社、1990)の表紙裏に掲載された。「ポーランドの哲学者・コラコフスキー」と執筆者名を記しているが、加藤は「コラコフスキー」へのそれ以上の関心を継続させなかったようだ。参照→No.1976/2019.09.13「加藤哲郎著とL・コワコフスキ」
 (試訳者注3) それぞれに言及した最初は、→トニー・ジャット(No.1525/2017.05.02)、→ジョン・グレイ(No.1565/2017.05.29)。
 (試訳者注4) いずれにもその点が分かる論稿があるが、とくにT・ジャットは、〈マルクス主義の主要潮流〉(原著、1976(パリ)。第一巻独訳書、1977。全巻英訳書、1978)のアメリカでの再発行決定を歓迎する文章を2006年に書き、Kolakowskiの死の直後の2009年に哀惜感溢れる(と私は感じる)文章を書いた。彼自身が、翌2010年に難病のために死亡したのだったが。Tony Judt、1948.01生〜2010.08没、満62歳。
 上の雑誌への寄稿は亡くなる2-3年前で、すでに病魔と闘っていたのではないかと思われる。
 コワコフスキ追悼文、参照→No.1834・2018年7月30日付。この追悼文はのちに、つぎの邦訳書の中に収載された。当然ながら、訳は上と同じではない。
 T・ジャット=河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時—ベルリンの壁崩壊から9.11まで(慶応大学出版会、2019.04)。原書は、Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015)
 妻のJenniffer Homans が編者で、「まえがき」を彼女が書いている。そして、「人と思想」は区別しなければならないと冒頭に書きつつ、結局はT・ジャットの著作と人物像が入り混じった追悼の文章になっている(と私には思えた)。その点が興味深く、かつ感動的でもあって、いつか試訳してみたいと思っていたが、上の邦訳書に含まれている。
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