秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2257/池田信夫ブログ019-遺伝・環境・自己。

 池田信夫ブログマガジン8月24日号(先週)は①技術は遺伝するか、②国民全員PCR検査がもたらす「アウシュヴィッツ」、③新型コロナは「一類相当」の感染症に格上げされた、④名著再読:例外状態、のいずれも、関心を惹く主題で、密度が濃い。
 上の①の一部についてだけ「引っかかって」、それに関連する文章を書く。
 つぎの一文だ。すでになかなか刺激的だ。
 「獲得形質は遺伝しない、というのは中学生でも知っている進化論の鉄則である

  先祖が<偉い>からその子孫も<偉い>のかどうか。
 万世一系の天皇家の血は「尊い」という意識の適否に関する問題には触れないでおこう。
 だが、例えば源頼朝は伊豆に流されても「貴種」として大切にされた、といわれるように、かつては「親」がどういう一族・身分かは「子」にとって決定的に重要だった。
 そんな意識・感覚がまだ残っている例がある。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)は、重要人物として登場させる小田村寅次郎について、何と少なくとも四回も、小田村は<吉田松陰の妹の曾孫>だった、とわざわざ付記している。一度くらいは当該人物の係累紹介として言及してよいかもしれないが、四回は多すぎる。しかもまた、文章論理上、全く必要のない形容表現なのだ。
 これが、吉田松陰一族関係者だととくに書くことによって(小田村は吉田松陰ではなくその妹の「血」を直接には引いているのだが)、小田村寅次郎の評価または印象を高めるか良いものにしようという動機によるだろうことは明らかだ。
 なお、その影響を受けて、この書に好意的な結論的評価だけを与えた知識人・竹内洋(京都大学名誉教授)もまた、小田村について吉田松陰の係累者だとその書評の中でとくに書いている。
  獲得形質は遺伝しないのではなく遺伝し、かつまた生来(生得)形質も「子」に遺伝する、と多くの人が考えた国や時代もあった(ある)ようだ。
 北朝鮮では全国民が十数の「成分」に区別されている、という話を読んだことがある。あるいは、「成分」の違いによって、国民は十数に分類されている。
 日本帝国主義と戦った勇士の子孫から、旧日本協力者あるいは「資本家」の子孫まで。日本育ちか否かも考慮されるのかもしれない。これは、「親」の職業・地位・思考は「子」に遺伝する、という考えにもとづくものと思われる。
 かつてのソヴィエト連邦でも、少なくともスターリン時代、革命前の「親」の職業はその子の「思想」にも影響を与えると考えられたと見られる。
 ブルジョアジー・「資本家」(・富農)の「子」はその思想自体が<反社会主義>だと考えたのだとすると、「遺伝」を肯定していたと見てよいのではないか。
 上のことを側面から強く示唆する件が、自然科学・生物学・遺伝学の分野であった。<ルイセンコ事件>とも言われる。
 L・コワコフスキによると(2019/02/21、No.1921の試訳参照)、ルイセンコ(Lysenko)は「遺伝子」・「遺伝という不変の実体」は存在せず、「個々の生物がその生活を通じて獲得する特性はその子孫たちに継承される」と出張した。この考えは雑草のムギ化やムギの栽培方法の改革(「春化処理」)による増産、そして農業政策に具体的には関係するものだったが、1948年には党(・スターリン)の「公認」のものになった。
 参照、L・コワコフスキ著試訳/▶︎第三巻第四章第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学
 池田のいう「中学生でも知っている進化論の鉄則」をソ連共産党やスターリンは少なくともいっときは明確に否認していたわけだ。
 この否定論は、人間全改造肯定論であり、人間の改造、思想改造(・洗脳)は可能だ、そしてそれは子孫にも継承させうる、という考え方となる。
 「獲得形質」の強制的変更によって将来のヒト・人間も<変造>できる、というものだ。数世紀、数十世紀にわたっての自然淘汰、<変化>はありうるのだろうが、人間の、特定の「権力」の意思・意向による人間の「改造」論こそ、マルクス主義、あるいは少なくともスターリン主義の恐ろしさであり、このような<人間観>こそ、「暴力革命」容認とやら以上に恐ろしいイデオロギーではないだろうか。
 ルイセンコ説はソ連末期には否定されたが、フルチショフによる寛大な対応もあったとされ、かつまたこの説は、日本の生物学界にも影響を与えたらしい。
 戦後の民主主義科学者協会(民科)生物部会はルイセンコに好意的で、そのような説を説いた某京都大学教授もいた、とされる。ソ連の<権威>によるのだろうから、怖ろしいものだ。
 なお、ほとんど読んでいないが、つぎをいつか読みたい。
 中村禎里/米本昌平解説・日本のルイセンコ論争(新版)(みすず書房、2017)。計259頁。
  J・ヘンリック/今西康子訳・文化がヒトを進化させた-人類の繁栄と<文化・遺伝子革命>を取り上げての池田信夫の文章に少し戻る。
 リチャード・ドーキンス・利己的遺伝子(邦訳書、40周年版・2018)を読んでいないし、文化的遺伝子(ミーム)のこともよく分からない。但し、技術や文化をヒト・人間が生むととともに、そうした技術・文化自体がヒト・人間を「進化」させ、変化させたことも事実だろう。
 しかし、言葉や宗教・道徳の発生を含むそうした「進化」・変化はそれこそ数万年、数千年単位で起こったものだろう。それもまた「獲得形質の遺伝」と言えなくもないとしても、「技術は遺伝するか」(あるいは文化・宗教は遺伝するか)というように、「遺伝」という言葉・概念を用いるのは、やや紛らわしいのではないかと感じる。
 

2256/池田信夫ブログ018・西尾幹二批判005。

 
 池田信夫ブログ2020年7月14日付は同20日予定の「ブログマガジン」の一部のようなので、全文を読んでいるわけではないが、すでに興味深い。
 タイトルは「『皇国史観』という近代的フィクション」
 ときに、またはしばしば見られるように、紹介・論及する書物に書いてあることの紹介・要約なのか池田信夫自身の言葉・文章なのか判然としないが、片山杜秀・皇国史観(文春新書、2020年4月)を取り上げて、池田はまずこう書く。そのままの引用でよいのだが、多少は頭の作業をしたことを示すために箇条書きするとこうだ。
 ①「万世一系の天皇という概念」ができたのは明治時代だ。
 ②「天皇」は「古代から日本の中心だったという歴史観」は徳川光圀・大日本史に始まるが、一般化はしていなかった。
 ③その概念・歴史観を「尊王攘夷思想」にしたのは「19世紀の藤田東湖や相沢正志斎などの後期水戸学」だ。
 ④明治維新の理念はこの「尊王攘夷」だったという「話」は「明治政府が後から」つくったもので、「当時の尊王攘夷は水戸のローカルな思想」だった。
 ⑤この思想を信じた「水戸藩の武士は天狗党の乱で全滅」、長州にこれを輸入した「吉田松陰も処刑」。そのため、戊辰戦争の頃は「コアな尊王攘夷派はほとんど残っていなかった」。
 ⑥「水戸学」=尊王攘夷思想の最大の影響は、徳川慶喜(水戸藩出身)による「大政奉還」というかたちの「政権」投げ出しだったかもしれない。
 ⑦これは「幕府の延命」を図るものだったが、「薩長は幕府と徹底抗戦した」。
 以下、省略。
 こう簡単にまとめて叙述するのにも、幕末・明治期以降の「神・仏」・宗教・「国家神道」や戦後の神道の「宗教」化あたりの叙述と同様に、かなりの知識・素養・総合的把握が必要だ。
 片山なのか、池田信夫なのか、相当に要領よくまとめている。
 仔細に立ち入らないが、上のような叙述内容に、秋月瑛二も基本的に異論はない。
 少し脱線しつつ付言すると、①水戸藩スペア説・水戸出身の慶喜が一橋家養子となっていたため「最後の」将軍になった、という偶然?
 ②「大政奉還」は全面的権力放棄ではなく(1967年末には明治新政府の方向は未確定で)、とくに「薩長」が徳川家との全面対決と徳川権力の廃絶を意図して「内戦」に持ち込み、勝利してようやく<五箇条の御誓文>となった(ついでに、この第一項は決して今日の言葉での「民主主義」ではない)。
 ③尊王攘夷の「攘夷」は<臆面>もなく廃棄されたが、それは「長州ファイブ」でも明らか。-上に「コアな尊王攘夷派ほとんど残っていなかった」とあるのは、たぶん適切。
 
 明治維新を含んでの、上のような辺りに関する西尾幹二の<歴史観>を総括し分析するのは容易ではない。これは、日本の歴史・「天皇」についての理解の仕方全体にも当然にかかわる(容易ではない原因の一つは、同じ見解が継続しているとは限らないことだ)。
 だが、西尾幹二にも、明治期以降に「作成」された、あるいは本居宣長等以降に「再解釈」された「歴史観」・「天皇観」が強く反映されていることは明瞭だと思われる。
 <いわゆる保守派>によくある、明治期以降の「伝統」が古くからの日本の「伝統」だと思い込んでしまう(勘違いしてしまう)という弊害だ。
 西尾幹二自身も認めるだろうように、「歴史」の<認識>は少なくともある程度は、<時代の解釈>による。明治期あるいは大日本帝国憲法下の「歴史観」(=簡単には「皇国史観」)という一つの「解釈」に、西尾幹二も依拠しているものと思われる。
 この点は、いくつかの西尾の書物によって確認・分析するだろう。
 上のブログ叙述との関係でいうと、池田信夫が、①藤田東湖ら「後期水戸学」の尊王攘夷思想は「ローカルな」ものだったが、②明治政権が明治維新の理念に関する作り「話」として「後から」作った、③但し、真底から?これを実践したわけではない、と述べている部分は(最後の③は秋月が創作した)、西尾幹二とかなり関係している。
 「自由」を肯定的意味でも用いることのある西尾幹二によると、藤田東湖の父親の藤田幽谷は、こう叙述される。あくまで、例。
 ①藤田幽谷が幕府と戦ったのは「あの時代にして最大級の『自由』の発現でした」。
 ②「徳川幕藩体制を突き破る一声を放った若き藤田幽谷…」。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.205、p.379。前者に先立つp.181~に「後期水戸学」に関するかなり長い叙述がある。
 また、つぎの著は本格的に?、藤田父子を挟んで、水戸光圀から天狗党の乱までを叙述している。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封11-維新の源流としての水戸学(徳間書店、2015)
 このように西尾は藤田幽谷・東湖を高く評価している。但し、つぎの書には「水戸学」関係の叙述は全くないようなので、西尾が藤田幽谷・東湖らに関心を持ったのは、どうも2000年-2010年より以降のことのように推察される。
 西尾幹二・決定版/国民の歴史-上・下(文春文庫、2009/原著1999)。
 (ところで、西尾幹二全集第18巻/国民の歴史(国書刊行会、2017)p.765によると、「新稿加筆」を行い、上の「決定版」の三文字は外した、という。西尾『国民の歴史』には、1999年・2009年・2017年の三種類がある、というわけだ。「最新」のものだけを分析・論評の対象にせよ、ということであるなら、まともな検討の対象にはし難い。<それは昔書いたことで、今は違う>という反論・釈明が成り立つなら、いったん活字にしたことの意味はいったいどこにあるのか?)。
 さて、西尾幹二によるとくに「後期水戸学」の評価にかかわって、つぎの疑問が生じる。
 第一。西尾幹二は別途、「豊穣な」江戸時代、「すでに近代だった」江戸時代という像も提示していると思われる。
 西尾幹二・江戸のダイナミズム(文藝春秋、2007)。/全集第20巻(2017)。
 この書は本居宣長をかなり扱っている。しかし、珍しく「索引」があるものの、「水戸学」も「藤田幽谷」・「藤田東湖」も出ていない
 それはともかく、江戸幕藩体制を「突き破る」精神・理念を提供したという後期水戸学・藤田父子への高い評価と、上の書の江戸時代の肯定的評価は、どのように整合的・統一的に把握し得るのだろうか? 必ずしも容易ではないように思えるのだが。
 第二。池田信夫ブログにあるように、「尊王攘夷」思想が現実化された時期があったとしても、ごく短い時代に限られる。
 したがって、藤田幽谷ら→明治期全体、という捉え方をすることは全くできない。ましてや、藤田幽谷ら後期水戸学→「近代日本」という(少なくとも直接の)連結関係もない。
 余計ながら、明治時代こそ、現在の西尾幹二等々が忌み嫌う「グローバリズム」へと突き進んだ(またはそうせざるを得なかった)時代だった。「鹿鳴館外交」とはいったい何だったのか。
 したがって、今日において藤田幽谷らを「称揚」することの意味・意義が問われなければならない、と考えられる。西尾において、この点はいかほどに意識的・自覚的になされているのだろうか。
 そんなことはどうでもよい、と反応されるのかもしれない。とすれば、いかにも「西尾幹二的」だ。

2255/西尾幹二批判004-佐藤優・籠池泰典。

 
 佐藤優が週刊現代(講談社)2020年4月7号で、籠池泰典(森友事件参照)の書物(文藝春秋、2020年2月)を読んで、つぎのようなことを書いている。
 佐藤優のおそらく直接引用によると、籠池泰典は奈良県庁職員だった頃に「目の前に興福寺があり、東大寺や春日大社といった由緒正しい神社仏閣も間近に位置し、この国の伝統文化の息吹を日々感じることができた」。
 この部分に着目して、佐藤優はこう述べる。
 神社仏閣に日本の「伝統文化の息吹を感じる」という認識が重要だ。彼においては「神仏が融合して神々になっている」、「このような宗教混淆は神道の特徴だ」。
 彼は、「神道と日本文化を同一視している」。
 「実はここに『神道は日本人の習俗である』という言説で、事実上、国家神道を国教にしてきた戦前・戦中の宗教観との連続性がある」。
 「神社非宗教という論理に立てば、キリスト教徒でも仏教徒でも日本人であれば習俗として神社を参拝せよ、という結論になる」。
 佐藤はこのあたりに、かつて一時期は明確に日本会議会員(かつ大阪での役員)だった籠池についての「草の根保守」の意識を感じとっている。
 日本会議うんぬんは別として、上の佐藤の叙述は、じつはかなり意味深長であり、奥深い。あるいは、明瞭には整理されてないような論点を分析している。
 神道と仏教はそれぞれ別個の「宗教」だとの書き方をこの欄でしたことがあるのは現在の様相・建前を前提としているからで、江戸時代・幕末までの両者の関係・異同は分かりやすいものではなかったことは承知している。
 また、<神仏分離>の理念らしきものが生まれた一方で、伊藤博文は大日本帝国憲法制定の際に、「神道」は「宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し」く、日本国家の「機軸とすべきは独り皇室あるのみ」としたのだった。この点はすでに、以下の著に主としてよってこの欄で紹介した。
 小倉慈司=山口輝臣・天皇の歴史09/天皇と宗教(講談社、2011)。
 こうして「神道」は仏教と並ぶような(本来の?)「宗教」性を認められず、「宗教」に該当しないとされたがゆえに、実際には戦後すぐに生まれてすぐに消滅した観念であるらしい「国家神道」の状態が(上の佐藤によると)「事実上」生じたのだった。
 ともあれ、佐藤優は上の籠池著の紹介・書評を、籠池の印象に残ったというつぎの別人(日本会議大阪の役員)の言葉と、つぎの自らの言葉で結んでいる。
 <籠池さん、日本会議というタマネギの皮を剥いでいくと最後に何が残ると思います? 芯にあるのは神社なんです。>
 「国家神道が静かに蘇りつつある現実が、本書を読んでよく分かった」。
 
 西尾幹二は、岩田温との対談で、2019年末にこう発言した。月刊WiLL2019年11月号別冊、p.225。①~⑤は秋月が付したが、一続きの文章・発言だ。
 「①日本人には自然に対する敬愛の念があります。②日本には至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。③…、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。④決して科学の国ではない。⑤だからそれを守らなくてはなりません。」
 全体として奇妙な論理でつながっているが、ここではとくに、①→②の「論理」が興味深い。
 ①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」、②日本には「至るところに神社があ」る、という二つは、どのようにして、何故、こう<論理的に>結びつくのだろうか?
 ②の原因が①であることを肯定したとしても、①であれば当然に②になる、という論理的関係はないはずだ。
 日本人以外の人々もまた、アジアの人々も、たぶんキリスト教以前のヨーロッパ人も、「自然に対する敬愛の念」(かつ同時に<畏怖>の念)は持って来ただろうと思われる。
 それが、太陽・月、風雨、山海等々の「自然」の中で生きなければならなかったヒト・人間の自然の、素直な感情、<宗教意識>と称してよいようなもの、だったと考えられる。
 仏教徒も(あるいは日本的仏教らしい<修験道>者も)、「自然」を敬愛しかつ畏怖してきただろう。
 にもかかわらず、西尾幹二においてはなぜ、①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」<から>、②日本には「至るところに神社があ」る、という発言の仕方になるのだろうか。深読みすると、「自然に対する敬愛の念」は当然に「神社」につながる、と理解され得るような発言の仕方になるのだろうか。
 既述のように、西尾幹二は「宗教」という語も、また「神道」という語すらもいっさい用いない。「神社」は「神道」の施設であることは常識、周知のことであるにもかかわらず。
 そして、上の佐藤優の表現を想起すると、西尾幹二においても戦前・戦中の「国家神道が静かに蘇りつつある」という現象が見られるのではないか、と感じられる。
 むろん、「日本会議」との関係を否定したい、あるいはそれを推測もされたくはないだろう西尾幹二が、その旨を明言するはずはない。
 しかし、「自然」→「神社」→「天皇」という上のような関係づけ(の単純な肯定)は、「国家神道」的であり、かつ(どのように西尾幹二が否定しようとも)日本会議と共通性または親近性がある。
 西尾幹二は、<最後の身の置き所を見つけておきたい、という境地>にあるのだろう、というのが、秋月瑛二の見立てだ。それが日本会議ではなく、産経新聞社・ワック等の<いわゆる保守>情報産業界隈であるとしても。
 
 追記。明治初年のいわゆる「学者の統治」の時期(上の山口輝臣らp.194-。これは「国学者の優越」時期のことだ)、萩藩=毛利藩の萩城下で起きたのが、隠れキリシタンの処遇に関する<乙女峠の惨劇事件>だった。一般には知られていない、明治初年の「状況」を知ることのできる事件と思われるので、この欄でいつか紹介したい。
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 上に萩としたのは誤りで、乙女峠の所在は、正しくは石見国津和野藩。訂正する。/7月22日に後記。

2254/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第16節・第17節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第16節・ボルシェヴィキに対するアメリカの反応。
 (1)批准という形式的手続が、まだ残っていた。
 トロツキーが連合諸国代表者たちに打ち明けた間違った懸念にもかかわらず、事態は疑問の余地が決してないものだった。
 ソヴェト大会は、民主主義的に選出された機関ではなく、信仰者たちの集会だった。すなわち、3月14日に集まった1100名ないし1200名の代議員のうち、3分の2はボルシェヴィキ党員だった。
 レーニンは、長々と続く散漫な演説を行って、ブレスト=リトフスク条約を模範的に擁護し、現実主義に立つことを求めた。-完全に疲れ切った人物の演説だった。//
 (2)レーニンは、アメリカやイギリスへの経済的および軍事的援助の要請に対する反応を待っていた。彼にはじれったくも待ち遠しいものだったが、条約が批准された瞬間にそれを得る機会は皆無になることを、十分によく知っていた。//
 (3)ボルシェヴィキ権力の初期の時期には、ロシアに関する知識やロシア事情への関心の大きさは、ロシアに対するその国の地政学的近接性に直接に比例していた。
 最も近いところにいたドイツは、ボルシェヴィキと交渉しているときですら、彼らを軽蔑しかつ怖れた。
 フランスとイギリスは、戦争を継続しているかぎりで、ボルシェヴィキの行動やその意図に大した関心がなかった。
 大洋を離れたアメリカ合衆国は、ボルシェヴィキ体制を積極的に歓迎しているように見えた。そして、十月のクーの後の数カ月は、大規模なビジネスの機会という幻想に誘引されて、ボルシェヴィキの指導者たちに気に入られようと努めた。//
 (4)ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)は、ボルシェヴィキは本当に人民のために語っていると信じていたように見える。(93)そして、普遍的な民主主義と永遠の平和に向かって前進していると想定した大国際軍の分遣部隊を設立した。
 彼は、ボルシェヴィキの「人民」に対する訴えに対しては回答が必要だ、と感じた。
 ウィルソンはこの回答を、1918年1月8日の演説で行った。そこで彼は、有名な14項目を提示したのだ。
 彼は、ブレストでのボルシェヴィキの行動を称賛するまでに至っていた。
 「私にはこう思えるのだが、世界中の困惑した空気の中に充ちているどの感動的な声よりも身震いさせて心を掴む、そのような原理的考え方と目的を明確に示す声が、そこにはある。
 ボルシェヴィキの訴えは、これまでに何の同情も憐憫もないと知られるようになったドイツの容赦なき権力の前では、よるべなく、ほとんど無力だと見えるだろう。
 ボルシェヴィキの権力は、明らかに痛めつけられている。
 しかしなお、彼らの精神は屈服していない。
 彼らは、原理においても行動においても、屈従しないだろう。
 正義、人間性、そして彼らが受容する高潔性に関する彼らの考え方は、率直に語られてきた。それらには、見方の広さ、精神の寛容性、そして人間的共感があり、人類のこれまでの全ての友情に対する賞賛に挑戦するものであるに違いない。
 彼らはその考え方を混ぜ合わせて、彼ら自身には安全かもしれないものを放棄するのを、拒んできた。
 彼らは、我々が望むものは何か、かりにあるならば、彼らのものとは異なる我々の目的や精神はいつたい何にあるのか、を語ることを我々に迫っている。
 そして私は、合衆国の人民は完全な簡潔さと率直さをもって私が回答することを望むだろう、と信じる。
 現在の彼らの指導者たちが信じようと、信じまいと、ロシアの人民が自由(liberty)と秩序ある平和という最大の希望を獲得できるよう援助する特権を我々がもつかもしれない、そのような方途が我々には開かれている、ということは、我々の心からの願望であり、希望だ。」(94)//
 (5)ボルシェヴィキと連合諸国の関係には潜在的には重大な一つの障害があった。それは、ロシアの負債の問題だった。
 すでに記したように、1月にボルシェヴィキ政府は、ロシア国家の国内および国外の貸主に対する債務に関して債務不履行を宣言(default)した。(95)
 ボルシェヴィキは、かなりの懸念をもってこの措置を執った。このような数十億ドルに上る国際法侵犯は「資本主義者十字軍」を誘発するのではないか、と怖れたのだ。
 しかし、西側で革命が切迫しているという予想の拡がりによって警戒が逸らされ、この措置が執られた。//
 (6)西側に革命は起こらず、反ボルシェヴィキ十字軍もなかった。
 西側諸国は、この新しい国際法違反を驚くべき沈着さで迎えた。
 アメリカはボルシェヴィキに対して、何も怖れる必要はないと保証するまでした。
 レーニンの親密な経済助言者のI・ラリン(Iurii Larin)は、アメリカ領事の訪問をペトログラードで受けたが、その領事は、合衆国は国際的借款の無効宣告を「原理的に」受け入れることはできないが、としつつ、こう語った。
 「合衆国は、支払いを要求しないこと、ロシアが世界に登場したばかりの国家であるかのごとく関係を開くことを、事実上受諾するだろう。
 合衆国はとくに、ロシアがアメリカから全ゆる種類の機械や原料をムルマンスク、アルハンゲルまたはウラジオストークへの配送を通じて輸入するために、我々(ソヴェト・ロシア)に大規模の商業上の貸付(credit)を提供することができるだろう。」
 返済を確保すべく、合衆国領事は、ソヴェト・ロシアが中立国スウェーデンに若干の金貨を預託し、アメリカ合衆国にカムチャツカの割譲をすることを考慮するよう、提案した。(96)//
 (7)自分たちの国民を革命へと煽動しているときですら「帝国主義的強奪者たち」とのビジネスをすることができる、ということについて、これ以上の証拠が必要だろうか?
 そして、ある一国との取引関係を別の国とのそれが競争し合うようけしかけるだろう。あるいは、資本主義的産業家や銀行家を軍事と対抗させるだろう。
 このような<対立させて政治をせよ(divide et impera)>の政策を用いる可能性は、無限にあった。
 そして実際に、ボルシェヴィキは、自分たちの呆れるほどの弱さを埋め合わせるための機会としてこれを最大限に利用することとなる。つまり、自国の民衆が飢えて凍えているときですら、諸外国が持たない食料や原料と交換して工業製品を輸入するという餌で諸外国を釣ることによって。//
 (8)アメリカ合衆国政府がボルシェヴィキ当局に1918年初期に伝えた全ての意向は、ワシントンが表向きはボルシェヴィキの民主主義的および平和的意図の宣告をそのまま受け取り、世界革命の呼びかけを無視する、ということを示した。  
そのことによってレーニンとトロツキーは、ワシントンへの救援の訴えに対する積極的な反応を十分に期待することができたのだった。//
 (9)待ちに待った、3月5日の問い合わせに対するアメリカの回答は、ソヴェト第四回大会の開会日(3月14日)に届いた。
 ロビンスはそれをレーニンに手渡した。レーニンはたたちに、その回答書を<プラウダ>で公表した。
 それは当たり障りのない内容で、ソヴィエト政府ではなくソヴェト大会が宛先となっていた。おそらくは、このソヴェト大会がアメリカの議会と同等のものだと考えたからだろう。
 その回答は、当面はソヴィエト・ロシアを援助するのを拒否しつつ、非公式の承認にほとんど近いものをソヴィエト体制に認めるものだった。
 アメリカ合衆国大統領は、こう書いていた。//
 「今ここに、ソヴェト大会が開催される機会を利用して、ドイツ軍が自由を求める闘い全体を妨害しそれに逆行し、ドイツの願望のためにロシア国民の目的を犠牲にしているこの瞬間に、アメリカ合衆国国民がロシア国民に対して感じている真摯な共感を表明させて下さい。//
 合衆国政府は現在は不幸にも、本来は望んでいる直接的で有効な援助を行う立場にはありませんけれども、私は貴大会を通じてロシア国民に対して、ロシアがもう一度完全な主権と自己に関係する問題に関する自立性を確保するための、かつまたロシアがヨーロッパと現代世界の生活上のその偉大な役割を完全に回復するための、全ての機会を利用するつもりである、と保証させて下さい。//
 合衆国国民の全ての心は、専制的政治から永遠に自由になろうと、そして自分たちの生活の主人になろうとしているロシア国民とともにあります。
 ウッドロウ・ウィルソン
 ワシントン、1918年3月11日。」(97)
 イギリス政府も、同様の趣旨の反応をした。(98)//
 (10)この回答は、ボルシェヴィキが期待したものではなかった。ボルシェヴィキは、「帝国主義」陣営が互いに競い合う能力を過大評価していたのだ。
 ウィルソンの電信回答はたぶん最初の提示にすぎないと期待して、レーニンはロビンスに、追加の伝言を乞い続けた。
 その追加回答はもうないということが明らかになったとき、レーニンは、(大統領ではなく)アメリカ「人民」を侮蔑する回答書を執筆した。そこで彼は、アメリカ合衆国での革命は遠からずやって来る、とつぎのように確約した。//
 「大会は、アメリカ国民に、とりわけ合衆国の全ての労働、被搾取階級に対して、厳しい試練の中にいるソヴェト大会を通じてウィルソン大統領がロシア国民に表明した共感に対して謝意を表する。//
 ソヴェト・ロシア社会主義連邦共和国は、ウィルソン大統領が意向表明した機会を利用して、帝国主義戦争の恐怖によって死滅し苦痛を被っている全ての人民に対して、心からの共感と、全ての諸国の労働大衆が資本主義の軛を断ち切って、社会主義国家を建設する幸福なときが来るのは遠くないという堅い信念を、表明する。社会主義社会のみが、全ての労働人民の文化と福利はもとより、公正で永続する平和を達成することができる。」(99)//
 ソヴェト大会は、嘲弄の轟きの中で、この決議を満場一致で可決した(二箇所の小さな修正はあった)。ジノヴィエフはこの決議を、アメリカ資本主義を面前にしての「痛烈な非難」だったと叙述した。(100)//
 (11)大会は予定通り、ブレスト=リトフスク条約を批准した。
 この趣旨での提案は、724票の賛成を得た。この数は出席したボルシェヴィキ党員よりも10パーセント少なかったが、それでも3分の2の多数を超えていた。
 276名の代議員、あるいは4分の1は、ほとんど全員が左翼エスエルでおそらくは左翼共産主義者のうちの若干が加わっていたが、反対票を投じた。
 118名の代議員は、保留した。
 結果が発表された後、左翼エスエルはソヴナルコムから離脱することを宣言した。
 これによって、「連立政権」という虚構は終わった。左翼エスエルはなおも当分は、チェカを含む下級のソヴェト機関で職務を継続したけれども。//
 (12)ソヴェト大会は、秘密投票によって、政府にブレスト条約を破棄し、その裁量でもって宣戦を布告する権限を付与するボルシェヴィキ中央委員会の決議を承認した。//
 -----------
 (93) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N.J., 1956), p.255.
 (94) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.70.
 (95) Dekrety, I, p.386-7.; これにつき、以下の第15章を参照。
 (96) NKh, No.11(1918年), p.19-p.20.
 (97) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.87-p.88.
 (98) 同上, p.91-p.92.
 (99) 同上, p.89.; ロシア語原文は、Lenin, PSS, XXXVI, p.91.
 (100) Noulens, Mon Ambassade, II, p.34-p.35.
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 第17節・ボルシェヴィキの外交政策の原理。
 (1)レーニンは、屈辱的な条約を受諾するという先見ある見方でもって、必要とする時間を稼ぎ、事態を自然に崩壊させたとして、ボルシェヴィキ党員から広く、高い評価と信頼を得た。
 ドイツが西側連合諸国に降伏したあとの1918年11月13日にボルシェヴィキがブレスト条約をを破棄したとき、ボルシェヴィキ運動でのレーニンの資産は、これまでになかった高さにまで達した。
 無謬だという彼の評価を、これ以上に高めたものはなかった。レーニンは、その生涯で二度と、辞任するという脅かしをする必要がなかった。//
 (2)だがしかし、レーニンが同僚たちにドイツの要求に従うよう説得している際に、彼は中央諸国の降伏が差し迫っていると予見していた、ということを示すものは何もない。
 反対派を説得しようと考えられ得る全ての論拠を使っていた1917年12月から1918年3月までの彼の演説や文章の中で、公的であれ私的であれ、レーニンは、時勢はドイツから離れており、ソヴェト・ロシアは放棄しなければならなかったもの全てを再びすぐに取り戻すだろう、とは何ら主張しなかった。
 全くの反対だった。
 1918年の春と夏、連合諸国に破壊的な敗北を与えそうだというドイツ最高司令部の楽観的見方を、レーニンは共有しているように見えた。
 L・クラージン(Leonid Krasin)は、1918年9月早くにドイツから帰ったときに<イズヴェスチア>の読者に対して、優秀な組織と紀律の力でドイツは困難なく戦争をさらにもう5年間継続するだろう、と保障した。(101)これは確実に、自分のためだけに語ったのではなかった。
 ドイツは勝利するとのボルシェヴィキの信頼は、つぎの綿密な協定によって証されている。それはモスクワがベルリンと1918年8月に締結したもので、両国が公式の同盟関係国に至る初めにあるという見方を前提にして同意している。(102)
 ドイツの敗北がモスクワにとってはいかに想定し難く考えられていたかは、ドイツ帝国が死の発作に陥っていた1918年9月30日になっても、レーニンは3億1250万ドイツ・マルクの価値のある資産をベルリンに移し替えることを許可しいる、という事実によって証明されている。そのような移し替えについては、8月27日のブレスト条約の付属協定によって定められいたのだが、レーニンは、安全にその支払いを遅延させて、放棄することもできたのだった。
 ドイツが休戦を求める一週間前、ソヴィエト政府は、ドイツ市民はソヴィエトの銀行から預金を引き出して、それを自国にもち出すことができる、ということを再確認した。(103)
 こうした証拠から見て引き出される疑い得ない結論は、レーニンはドイツの<命令(Diktat)>〔ブレスト=リトフスク条約〕に屈従していた、ということだ。その理由はドイツが相当に長くはその条約を履行することができないと考えたからではなく、反対に、ドイツが勝利するだろうと予期し、勝者の側に立ちたかったからだ。//
 (3)ブレスト=リトフスク条約をめぐる状況は、ソヴィエトの外交政策になることとなるものの古典的なモデルを提供している。
 ソヴィエト外交政策の原理的考え方は、つぎにように要約することができるだろう。//
 1) いつ何時でも最高の優先順位をもつのは、政治権力の維持だ。-つまり、一つの国家領域のある部分に対する主権的権能と国家機構の統制。
 これはこれ以上小さくすることのできない、最少限度だ。
 これを確保するための対価で高すぎる事物は存在し得ない。
 このためには、何でもかつ全てを犠牲にすることができる。人命でも、土地や資源でも、民族的名誉でも。
 2) ロシアが十月革命を経て世界の社会主義の中心(「オアシス」)となって以降、ロシアの安全確保と利益は他の全ての諸国、闘争、あるいは党、のそれらに優先する。後者には、「国際プロレタリアート」のそれらも含まれる。
 ソヴェト・ロシアは、国際社会主義運動を具現化したものであり、社会主義運動を推進するための基地だ。
 3) 一時的な利益を得るためめに、「帝国主義」諸国と講和することは許され得る。しかし、その講和は軍事休戦と見なされなければならず、利益となる情勢の変化があれば破棄されるべきものだ。
 レーニンは1918年5月に、資本主義が存在するかぎりで、国際的取り決めは「紙の屑だ」と語った。(104)
 表向きは平和の時期ですら、協定に調印した政府を打倒するという見地から、敵対行動が、因習にとらわれない手法によって、追求されなければならない。//
 4) 福利を求める政策、国内政策と同様に外交政策は、つねに非感情的に実施されなければならない。その際には、「力の相関関係」への考慮に対してくきわめて綿密な注意が払われなければならない。以下のとおり。
 「我々は偉大な革命的経験をした。そしてその経験から、我々は客観的条件が許すならばいつでも絶えざる前進をする戦術をとる必要があることを学んだ。<中略>
 しかし、我々は、客観的条件が一般的に絶えざる前進を呼びかけることのできる可能性を示していないならば、力をゆっくりと結集して、遅らせる戦術を採用しなければならない。」(105)。
 (4)だが、ボルシェヴィキの外交政策にはもう一つの基本的な原理があることが、ブレスト条約の施行後に明らかになった。すなわち、外国の共産主義者の利益は<分割統治(divide et impera)>原則の適用によって促進されなければならないという原理的考え方だ。あるいは、レーニンの言葉によると、こうだ。
 「敵の間にある最も小さな『裂け目(crack)』であってもそれら全てを、多様な諸国のブルジョアジーの間や、産業国家内部のブルジョアジーの多様な集団や分野の間にある全ての利害対立を、慎重に、用心深く、警戒して、かつ巧妙に利用することによって」、促進されなければならない。(106)
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 (101) Izvestiia, No.190/454(1918月9月4日), p.3.
 (102) 後述、第14章を見よ。
 (103) Izvestiia, No.242/506(1918月11月5日), p.4.
 (104) Lenin, PSS, XXXVI, p.331.
 (105) 同上, p.340.
 (106) 同上, XLI, p.55.
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 第16節・第17節、終わり。第13章も終わり。次章・第14章の表題は、<国際化する革命>。

2253/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第15節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
 毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
 (1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
 彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
 そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
 (2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
 「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
 これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
 1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
 2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
 3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
 4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
 アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
 イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
 これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
 この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
 (3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
 トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
 しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
 日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
 ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
 アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
 (4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
 ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
 フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
 (5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
 1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
 連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
 連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
 (6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
 当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
 トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
 こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
 レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
 (7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
 その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
 両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
 のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
 「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
 彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
 (8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
 緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
 口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
 (9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
 彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
 権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
 レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
 しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
 全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
 (10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
 目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
 レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
 まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
 中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
 平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
 別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
 レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
 彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
 (11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
 条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
 レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
 ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
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 (82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
 (83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
 (84) 同上, p.85-6.
 (85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
 Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
 (86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
 Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
 (87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
 (89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
 ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
 (91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
 (92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
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 第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。

2252/熊代亨「『生きづらさ』の根源を…」(2020-06-28)。

 最初はBLOGOS 上で見つけたのだったが、熊代亨が書いていることは面白いし、有益だ。
 池田信夫のものはたぶんすみやかに全てのものを読了しているが、名前(書き手)や主題を見ただけで読む気がしないものも多い。
 その点、シロクマ(熊代亨)氏のようなブロガーを発見するのは楽しい。
 →熊代亨ブログ
 2020.06.28の「『生きづらさ』の根源を…」では、資本主義、人間・生物、仏教等々に論及がある。
 またどこかでこの人は、白衣で仕事をしているときは「精神科医」の「役割」を果たし、脱ぐとブロガーに変身するとか書いて、「役割」論に触れていた。
 各人が自己について認める「役割」、あるいは<演じている(つもりの)>役割というものがある、というような趣旨を含んでいると思われ、「役割」という概念およびこの視点は、identity 論や「自己」論にもかかわって興味深い。
 さっそくに、以下を入手した。但し、まだ読んでいない。
 熊代亨・健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて(イースト・プレス、2020年6月)。
 --や××の書物を読むより、きっと有益だろう。もっとも「益」か否かの判断基準の問題はあるが、少なくとも私には<面白い>だろう。
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 熊代亨は現役の精神科医のようなのだが、「精神科学」には関心を持ってきた。
 一度だけこの欄で、木村敏(1931~)について言及したことがある。
 所持だけはしている、精神科医・精神医学者の書物に、以下がある。
 木村敏・異常の構造(講談社現代新書、1973)。
 木村敏・分裂症の現象学(弘文堂、1975)。
 木村敏・自己・あいだ・時間-現象学的精神病理学(ちくま学芸文庫、2006/原著1981)
 木村敏・時間と自己(中公新書、1982)。
 木村敏・自分ということ(ちくま学芸文庫、2008/原著1983)。
 木村敏・偶然性の精神病理(岩波現代文庫、2000/原著1994)。
 木村敏・心の病理を考える(岩波新書、1994)。
 中井久夫・「思春期を考える」ことについて(ちくま学芸文庫、2011/原著1985)。
 中井久夫・最終講義-分裂病私見(みすず書房、1998)。
 大塚明彦・「精神病」の正体(幻冬舎、2017)。
 ほかに、中野信子のものも一冊くらいは所持しているかもしれない。
 隣接・周辺に広げると、福岡伸一茂木健一郎(例、同・脳と創造性-「この私」というクオリアへ(PHP、2005))、養老孟司から、さらに団まりな(この欄に既出)まで入ってくる。
 もっとも、専門性が高いものも多いことや、私自身の怠惰と時間的余裕のなさで、なかなかじっくりと読書することができない。
 「自己」・「精神」・「名誉心」は、特定の一部の<文学部>出身者だけが扱えるものでは全くない。 

2251/アリストテレスの「学問分類」-西尾幹二批判003。

 
 Newton2020年6月号(ニュートンプレス)の特集は<哲学>で、種々の興味深いことが書かれている。
 中でも、アリストテレスによる<学問分類>を紹介しているところが秋月にはきわめて面白い。
 「アリストテレスは学問分類をつくり、『万学の祖』と呼ばれています」と本文で述べて、その「学問分類」を紹介している(p.32)。
 この特集全体の「監修」はつぎの4名。金山弥平、金山万里子、一ノ瀬正樹、伊勢田哲治。元大学教授、現教授、現准教授だが専門は分からず(私には)、執筆担当または監修責任部分も明記されていない。しかし、かなりの素養のあることは、素人の秋月のせいかもしれないが、よく分かる。
 さて、これによると、アリストテレスは、「学問」をつぎの三種に分けた。
 A/理論的学問、B/実践的学問、C/制作的学問。A~Cの符号は秋月。
 これらを総じてアリストテレスは「哲学」と呼び、「論理学」は「哲学」に含めず、後者のための「道具」と見なした、という。
 先走って筆者なりに表現すると、ここでの「哲学」はほぼ、人間の「知的」営為全体だ。「知」への関心・愛着こそが Philosophy の原意だともされてきた。
 つぎに、上の書によると、上の三種はそれぞれ、さらに次のように分けられる。単純な分類ではなく、次の段階へと発展・展開するもののようにも感じられる(この部分は秋月)
 A/理論的学問→a・数学、b・自然学、c・形而上学
 B/実践的学問→a・倫理学、b・政治学
 C/制作的学問→a・弁論術、b・詩学。a~cの符号は秋月。
 上の7つについて、簡単な説明もあるが、ここでは省略する。
 
 なぜ、上の紹介が関心を惹いたかというと、こうだ。
 第一。<理系>・<文系>の区別、あるいは<自然科学>・<人文学>・<社会科学>(・「医学」)といったよく用いられる「学問」分類は、はたして人間の「知」的営為あるいは一定の意味での「精神」活動の段階・構造あるいは対象を的確に捉えて分類しているのか、という疑問をそもそももつに至っている。
 これは、直接には学校教育制度での「教育」内容・体系や日本での「学問」分野の設定・分類にかかわる。
 しかし、この全体または根本的なところを問題にしている研究者等はいるのだろうか。あるいは、全体・根本の適正さもまた問題にしなければならないのではないか。
 そのうちにいずれ、<幼稚な>西尾幹二の学問体系の認識の仕方には触れるだろう。
 人間の「知」とは何かが、脳科学・脳生理学・生物進化学、遺伝学等々も含めて、問われなければならず、そうしないと、無駄な「知」的作業、悪弊ばかりの「知的」活動も生まれてくる。それ自体が、人間の「知的」活動の必然的成り行きなのかもしれないけれども。
 なお、説明されているように今日にいう「自然科学」に最も近いのは、上の「自然学」だ。「法学」は上の「政治学」の中にかなり入りそうだ。
 第二。上のCのa・「弁論術」について、「聴衆に対するすぐれた説得法を対象」とする、との説明がある。また、「詩学」については、「文芸や演劇を対象」とする、とされる。
 これらも(「制作的学問」とアリストテレスが言ったらしいもの)もまた「知的」活動であり、広義には「学問」であり「哲学」でもあるだろう。「知的」、「精神」活動であることに変わりはない。
 上の二つに関連して、「政治」と「文学」の<二つの論壇>で自分は活躍?しているかのごとき迷言を吐いた小川榮太郎を思い出さなくもない。
 だが、もっとも直感的に想起したのは、西尾幹二がやっていること、やってきたことはアリストテレスのいう「弁論術」に最も適確には該当するだろう、ということだ。
 西尾幹二は文芸評論家でも少なくともかつてはあって、自らを「文学者」と呼ぶことにあるいは躊躇しないかもしれない。その意味では、小川榮太郎とも共通して上の「詩学」にも親近的で、傾斜しているかもしれない。
 しかし、何よりも、西尾幹二本人が明言しているように(002参照)、「理論的」であれ「実践的」であれ、西尾は「学問」をしているとは自己認識していない。
 この「理論的」と「実践的」の区別は、「理論・原理」科学と「政策・応用」科学の区分を想起させるところがあるが、どちらであっても、西尾幹二は追求してきていないし、追求してこなかった、と思われる。論理的・理論的な「筋道」、概念の首尾一貫性等々は、この人にとっては後景に退いている。
 では何を目ざしているのかは、別途ゆっくりと「分析」することとしよう。
 前回に紹介したように、西尾自身の言葉によるとやってきたことの全ては「研究でも評論でも」ない「自己物語」であり、「私小説的な自我のあり方」を-おそらくは本質的・究極的にはという限定つきだろうが-問題にしてきたのだ。
 なお、ついでながら、「詩学」にはさらに、「音楽」・「絵画」等の<言語>によらない表現活動も含めてよいのだろう。これらもまた、人間の「知的」、「精神的」活動であることに変わりはない。これらも含めて、「知」は体系化・構造化される必要があるものと思われる。
 
 当然のこととして、アリストテレスの若干の著作(むろん邦訳書)にあたって確認してみようとしたが、どうもよく分からない。
 アリストテレス=出隆訳・形而上学(岩波文庫、1959)は明らかに「哲学」の種別を問題にしているので、この書で上のような<学問分類>が語られているのかもしれないが、簡潔にまとめてくれているような叙述はないようだ。
 したがって、上のNewton2020年6月号のアリストテレスに関する叙述・紹介の適正さを私自身は保障しかねるのだが、「監修」者たちがとんでもない間違いをしているわけではおそらくないだろう。 

2250/L・コワコフスキ著第一巻第6章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第一巻第6章の試訳のつづき。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第3節・労働の疎外・非人間化される人間〔Die Entfremdung der Arbeit. Der entmenschte Mensch〕②。
 (4)しかし、労働者の解放はたんに私有財産〔私的所有〕の廃棄にもとづくのではない。
 共産主義は、ゆえに私有財産の否定も、多様な形態をとり得る。
 マルクスはとくに、古代の共産主義ユートピアの原始的な全的(totalitär)平等主義を考察した。
 マルクスからすると、これは、いかなる者の私有財産にもなり得ない物を全て、ゆえに諸個人を特徴づける点を全て、廃棄しようとする、一つの共産主義だ。
 この共産主義はまた、才能を消失させ、人間的個性の全てを消去しようとするもので、文明を摘み取ってしまう。
 このように理解される形態の共産主義は、疎外された世界を決して我が物にすることはなく、反対に、疎外を極端に増大させる。そこでは、労働者の現在の条件はかき乱されるだろう。
 かりに共産主義が私有財産〔私的所有〕の<完全な>(positive)廃棄を、そして自己疎外の廃棄を意味するのだとすれば、共産主義は<人間のために人間によって>人という種の固有の本性を獲得し、社会的存在として人間が回帰することになるはずだろう。
 このような共産主義は、人間と人間の、本質と存在の、個体と種の、自由と必然の間の矛盾を解消する。
 しかし、その言う私有財産の「完全な」廃棄とは、いったいどこに存在するのか?
 マルクスは、宗教の廃棄に喩えることを示唆している。
 人間を肯定するために神の否定にもはや依拠しないならば、無神論はその意義を一瞬にして失う。これと全く同様に、完全な意味での社会主義は人間性の直接的な肯定であり、私有財産の否定に依拠する必要はない。
 ゆえにまた、完全な意味での社会主義とは-確実に-、財産〔所有制度〕の問題が解消され、人々の意識に上ることがなくなる、そういう状態なのだ。
 社会主義は、長期間の残虐な歴史過程の結果としてのみ成立し得る。しかし、その完全な形態での社会主義は、全ての人間的本質の、全ての人間的特性と能力の全的(total)な解放なのだ。
 社会主義の新しい生産様式のもとでは、国民経済上の<富裕と困窮>に代わって、<豊かな>人間とそれと同時に豊かな<人間的>需要が生じるだろう。
 そして、「<豊かな>人間とは同時に、人間的な人生表現の全体性(Totalität)を<必要とする>人間のことだ」。(11)
 疎外された労働の条件のもとでの人間の需要の増大は疎外という現象の深化をもたらす。つまり、生産者は人為的な手段でもって需要を増加させようとし、人々を量的にますます多くの生産物に依存させようとする。この環境ではこうしたことは隷属状態を増加させる。これに対して、社会主義の条件のもとでは、需要の豊かさは、人間の本当の豊かさのうちに認められる。//
 (5)『経済学哲学草稿』(パリ草稿)はこのようにして、社会主義を人間性の本質を実現するものとして設定することを試みる。この論脈では社会主義は同時に、たんなる純粋で単純な理想だと叙述されるのではなく、歴史の必然的過程が進む自明の前提として想定されている。
 マルクスはこの理由で、私有財産も、労働の分割も、あるいは人間の疎外も、人間が自分自身の条件を適正に理解するに至るならばいつでも訂正することのできる『誤り』だとは考えない。そうではなく、マルクスはそれらを、将来の解放のための不可欠の条件だと考えている。
 『草稿』がかなり概括的にだけ述べている社会主義観(Sozialismus-Vision)では、それは人間相互、そして人間と自然の間の<全的で>かつ<完全な>調和だと考えられている。それは、人間の本質と人間の存在の完全な一体化は、すなわち人間の究極的宿命とその経験的存在の完全な調和は、将来に達成可能であることを前提にしている。
 このような意味での社会主義社会は、需要が完璧に充足される場所であるに違いない、ゆえにさらに発展する必要はなく、発展のための動機づけも必要がない究極的な社会に違いない、と想ってしまうだろう。
 マルクスは、このような言葉を用いてその社会主義観を表現してはいない。しかし、彼はこのような解釈を排除するように限定してもいない。そして、社会主義に関する彼の展望から明らかになるのは、社会主義は人間の対立の全ての根源が除去されている状態であり、経験的生活で『人間』(人間性の本質)が実現される状態だと把握されている、ということだ。
 マルクスが叙述するように、共産主義とは、「歴史の謎(Rätsel, riddle)を解くものであり、自らがその解決だと知っているものだ」。(12)。
 しかして、ここで生じる疑問は、歴史の謎の解決とは歴史の終焉と同じ意味ではないのか否か、だ。//
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 (11) MEW, Ergänzungsband(補巻), 1. Teil, S. 544を参照。
 (12) 同上, S. 536. <=マルクス・エンゲルス全集第40巻(大月書店、1975)、457頁。
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 第3節、終わり。次節の表題は、<フォイエルバハ批判>。

2249/西尾幹二批判002。

 
 前回に引用した、つぎの西尾幹二の発言もすでに奇妙だ。月刊WiLL2011年12月号。
 ①「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、」
 ②「西洋の古典文献学、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです」。
 ③「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」 。
 上の①・②は一つの文、①・②と③は一続きの文章。
 第一に、前回に書き写し忘れていた「西洋の古典文献学」においては別として、ニーチェが「死んだ」という<神>と「日本の儒学、シナの清朝考証学」における<神>は同じなのか? 一括りにできるのか?
 ニーチェの思い描いた「神」はキリスト教上の「神」であって、それを、インド・中国・日本等における「神」と同一には論じられないのではないか。
 ①と②の間に何気なくある「が、」がクセモノで、いわゆる逆接詞として使われているのではない。
 このように西尾において、同じまたは類似の言葉・観念が、自由に、自由自在に、あるいは自由勝手に、連想され、関係づけられていく、のだと思われる。
 したがって、例えば1999年の『国民の歴史』での「歴史・神話」に関する論述もまた、元来は日本「神話」と中国の史書における「歴史」の差異に関係する主題であるにもかかわらず、「本質的」議論をしたいなどとのカケ声によって、ヨーロッパないし欧米も含めた、より一般的な「歴史・神話」論に傾斜しているところがある。
 そのような<発想>は、2019年(月刊WiLL別冊)の「神話」=「日本的な科学」論でも継承されているが、しかし、神話・歴史に関するその内容は1999年の叙述とは異なっている。西尾において、いかようにでも、その具体的「内容」は変化する。
 連想・観念結合の「自由自在」さと「速さ」は、<鋭い>という肯定的評価につながり得るものではあるが、しかし、「適正さ」・「論理的整合性」・「概念の一貫性」等を保障するものではない。
 ついでに、すでに触れたが、「神話」に論及する際に、「宗教」に触れないのもまた、西尾幹二の独特なところだ。日本「神話」が少なくとも今日、「神道」と切り離せないのは常識的なところだろう。しかし、1999年の『国民の歴史』で<日本>・<ナショナリズム>を示すものとして多数の仏像の「顔」等の表現を積極的・肯定的に取り上げた西尾幹二としては、仏教ではなく神道だ、とは2019年に発言できなかったに違いない。
 もともと1999年著を西尾は、神道と仏教(等)の区別あるいは異同(共通性を含む)に関心を持たないで執筆している。この当時は、神道-神社-神社本庁-神道政治連盟という「意識」はなかった可能性が高いが、これを意識しても何ら不思議ではない2019年の対談発言でも、日本「神話」の「日本の科学」性を肯定しつつも、<仏教ではなく神道だ>とは明言できないのだ。
 ここには、まさに西尾幹二の「評論」類の<政治>性の隠蔽がある。<政治評論>だからいけない、という趣旨ではない。その具体的「政治」性を意識的に隠蔽しようとしている欺瞞性を指摘している。
 第二に、西尾は「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」と何げなく発言している。だが、上の第一の問題がそもそもあることのほか、「ニーチェの問い」を問題として設定する、あるいはそれに対して回答・解答する義務?が「明治以後の日本の思想」にあるわけでは全くないだろう。
 したがって、これは西尾の「思い」にすぎない。ニーチェに関心がない者、あるいはニーチェの「問い」を知ってはいても反応する必要がないと考える者にとって、そんなものは無視してまったく差し支えない。
 もともとはしかし、「神は死んだ」というのはニーチェの「問い」なのか?(上の西尾の書き方だと、そのように読める)、という疑問もある。
 
 上の部分を含む遠藤浩一との対談は『西尾幹二全集』の「刊行記念」とされていて、2011年10月の第一回配本の直後に行われたようだ。
 したがって、西尾幹二の個別の仕事についてというよりも、<全体>を視野に入れたかのごとき対談内容になっている。
 そのような観点からは、つぎの西尾幹二の自らの発言は、すこぶる興味深い。p.245。
 「(遠藤さんもご存知のように、)私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした。
 …を皮切りに、…まで、『私』が主題でないものはありません
 私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません。」
 自分が書いたものは全て①「自己物語」で、②「『私』を主題」にしており、③「『私小説的な自我のあり方』」を問題にしてきた。
 上の③の要約はやや正確さを欠くが、いずれも同じ、またはほとんど同じ趣旨だろう。
 西尾幹二の発言だから、多少の<てらい(衒い)>があることは、差し引いておくべきかもしれない。
 しかし、ここに、西尾幹二の<秘密>あるいは、西尾幹二の文章(論説であれ、評論であれ、研究的論述もどきであれ)を読む場合に読者としてはきちんと把握しておかなければならない<ツボ>がある。
 瞞されてはいけないのだ。
 つまり、西尾自身が明記するように「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語」だ、というつもりで、読者は西尾幹二の文章を読む必要がある。
 この辺りの西尾自身の発言が興味深いのは、西尾の「論述」に、「自我=自己肥大」意識、その反面での厳密な「学術性・学問性」の希薄さをしばしば感じてきたからだ。
 少し飛躍してここで書いてしまえば-これからも書くだろうが-、政治や社会やあるいは「歴史」を<文学評論>的に、あるいは<文芸評論>的に論じてはならない。
 政治・社会・国家を<文学的・文芸的>に扱いたいならば、小説等の<創作>の世界で行っていただきたい。三島由紀夫のように、「戯曲」でもかまわない。
 「オレはオレは」、「オレがオレが」の気分で溢れていなくとも、それが強く感じ取れるような「評論」類は、気持ちが悪いし、見苦しいだろう。西尾幹二個人の「『私小説的な自我のあり方』」などに、日本や世界の政治・社会等の現状・行く末あるいはそれらの「歴史」に関心をもつ者は、関心を全く、またはほとんど、持っていない。
 
 レシェク・コワコフスキにつぎの書物があり、邦訳書もある。
 Leszek Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing - Quetions from Great Philosophers(Penguin Books, 2008/原著2004ー2008).
 =レシェク・コワコフスキ(藤田祐訳)・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014.01)。本文p.244まで。
 後者の邦訳書の藤田祐「訳者あとがき」も参照して書くと、この書はつぎのような経緯をたどったようだ。
 まず、ポーランドで(ポーランド語で)2004年、2005年、2006年に一部が一巻ずつ計3巻刊行された。
 そして、2007年に1冊にまとめての英訳書が出版された。但し、この時点では23人の哲学者だけが対象とされていて、副題も含めて書くと、英訳書の表題はこうだった。
 Leszek Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing - 23 Quetions from Great Philosophers(Allen Lane/Basic Books, 2007)。
 2008年版では、扱っている哲学者の数が、30にふえている。2007年以降に著者がポーランド語で追加したものも含めて、2008年の英訳書にしたものと見られる。
 なお、英訳者は、2007年版も2008年版も、Agnieszka Kolakowska。父親のLeszek Kolakowski は2009年に満81歳で逝去した。
 2008年版と上記のその邦訳書は30人の哲学者を取り上げている。
 つぎの30名だ。横文字で、全てを列挙する。()内の7名は追記版で加えられた人物。
 01-Socrates, 02-Parmenides of Elea, 03-Heraclitus of Ephesus, 04-Plato, (05-Aristotle), 06-Epictetus of Hierapolis, 07-Sextus Empiricus, 08-St. Augustlne, 09-St. Anselm, (10-Meister Eckhard), 11-St. Thomas Aquinas, 12-William of Ockham, (13-Nicholas of Cusa), 14-Rene Descartes, 15-Benesict Spinoza, 16-Gottfried Wilhelm Leibniz, 17-Blaise Pascal, 18-John Locke,(19-Thomas Hobbes), 20-David Hume, 21-Immanuel Kant, 22-George Wilhelm Friedrich Hegel, 23-Arthur Schopenhauer, 24-Sören Aabye Kierkegaard, 25-Friedrich Nietzsche, 26-Henri Bergson, 27-Edmond Husserl, (28-Martin Heidegger, 29-Karl Jaspers, 30-Plotinus)
 原著・第一の英語版では23名で、つぎの7名が後で加えられた(この説明は日本語版「訳者あとがき」にはない)。再掲する。
 05-Aristotle, 10-Meister Eckhard, 13-Nicholas of Cusa, 19-Thomas Hobbes, 28-Martin Heidegger, 29-Karl Jaspers, 30-Plotinus.
 さて、西尾幹二と比べてL・コワコフスキは遥かによく知っているなどという当たり前のことを記したいのではない。
 上に(25-)Friedrich Nietzsche があるように、L・コワコフスキはニーチェも当然ながら?読んでいる。30人の哲学者を一冊で扱っているので(但し、簡易辞典類のものでは全くない)、ニーチェについても邦訳書で8頁しかない(文庫本のごとき2007年版英訳書では、計10頁)。
 それでも、L・コワコフスキのニーチェに関する記述を参考にして(幸いにもすでに邦訳書がある)、ニーチェが西尾幹二に対して与えた深い?影響は何かを、少しは探ってみたい、と思っている。
 つづける。

2248/東京大学・大学院情報学環・学際情報学府の「処分」(2020.01)。

 以下の東京大学(・大学院情報学環・学際情報学府)の措置については、だいぶ前にネット上で目にして、<直感的に>疑問を感じた。
 資料掲載だけにとどめたいが、詳細を知らないままで、つぎのことを書いておく。
 第一。懲戒にかかる<要件>規定は一義的明確ではなく、要件認定に際しては濫用されるおそれがある条項になっている。つまり、<多数派>によってどのようにでも認定できる可能性を排除できない。
 第二。「被差別者」、「人格権被侵害者」が訴えを起こしたのちの司法判断ではなく、大学という組織がこうした問題にどのようにかかわるべきかは、教員個人の関係でも、微妙な問題を含んでいる。一般論として、今回の被処分者が特定大学・大学院所属を明確にしていても、それがただちに<特定大学・大学院>の名誉等を傷つけたことになるとは限らないだろう。「感覚」で判断してはならない。
 ちなみに橋下徹は京都大学(・大学院工学研究科)の藤井聡のマスコミ上の言論活動についてかつて、「京都大学は何とかしろ」旨をしきりと言っていたが、当然ながら京都大学は何の措置も執っていない。むろん、上の件とは、言論活動自体の内容が同じでないだろうことは認める。しかし、まったく共通性がないとも思われない。
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 東京大学HP(本部広報課)
 掲載日:2020年1月15日
 懲戒処分の公表について(記者発表)
 
東京大学は、大学院情報学環 大澤昇平特任准教授(以下「大澤特任准教授」という。)について、以下の事実があったことを認定し、1月15日付けで、懲戒解雇の懲戒処分を行った。
 <認定する事実>
 大澤特任准教授は、ツイッターの自らのアカウントにおいて、プロフィールに「東大最年少准教授」と記載し、以下の投稿を行った。
 (1) 国籍又は民族を理由とする差別的な投稿
 (2) 本学大学院情報学環に設置されたアジア情報社会コースが反日勢力に支配されているかのような印象を与え、社会的評価を低下させる投稿
 (3) 本学東洋文化研究所が特定の国の支配下にあるかのような印象を与え、社会的評価を低下させる投稿
 (4) 元本学特任教員を根拠なく誹謗・中傷する投稿
 (5) 本学大学院情報学環に所属する教員の人格権を侵害する投稿
 大澤特任准教授の行為は、東京大学短時間勤務有期雇用教職員就業規則第85条第1項第5号に定める「大学法人の名誉又は信用を著しく傷つけた場合」及び同項第8号に定める「その他この規則によって遵守すべき事項に違反し、又は前各号に準ずる不都合な行為があった場合」に該当することから、同規則第86条第6号に定める懲戒解雇の懲戒処分としたものである。
<添付資料>
 ・東京大学短時間勤務有期雇用教職員就業規則(抄) (PDFファイル: 68KB)
 ・東京大学における懲戒処分の公表基準 (PDFファイル: 12KB)
 東京大学理事(人事労務担当)
 里見朋香 
 東京大学では、大学の依って立つべき理念と目標を明らかにした「東京大学憲章」の前文で、『構成員の多様性が本質的に重要な意味をもつことを認識し、すべての構成員が国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別されることのないことを保障し、広く大学の活動に参画する機会をもつことができるように努める。』と明記しています。この東京大学憲章の下、東京大学は「東京大学ビジョン2020」を策定し、誰ひとり取り残すことのない、包摂的(インクルーシブ)でより良い社会をつくることに貢献するため、全学的に教育・研究に取り組んでまいりました。
 東京大学の構成員である教職員には、東京大学憲章の下で、それぞれの責任を自覚し、東京大学の目標の達成に努める責務があります。そのような中で、対象者により、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上で、「東大最年少准教授」の肩書きのもとに国籍・民族を理由とする差別的な投稿がなされたこと、また本学の元構成員、現構成員を根拠なく誹謗・中傷する投稿がなされたこと、それによって教職員としての遵守事項に違反し、ひいては東京大学の名誉又は信用を著しく傷つけたことは誠に遺憾です。このような行為は本学教職員として決して許されるものではなく、厳正な処分をいたしました。
 東京大学としては、その社会的責任にかんがみ、今回の事態を厳粛に受け止めております。今後二度とこのような行為がおこらないよう、倫理規範を全教職員に徹底するとともに、教員採用手続や組織運営の在り方を再検証するなど、全学を挙げて再発防止に努めます。また、世界に開かれた大学として、本学の教職員・学生のみならず、本学に関わる全ての方々が、国籍や民族をはじめとするあらゆる個人の属性によって差別されることなく活躍できる環境の整備を、今後も進めていく所存です。
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 東京大学大学院情報学環・学際情報学府HP
 January 15, 2020
 大澤昇平特任准教授に対する懲戒処分について
 この度は大澤昇平特任准教授による一連のSNSへの書き込み等により、大変なご迷惑をおかけしました。そこには、差別や誹謗、中傷、虚偽の数々があり、それによって多くの方々を傷つけ、不快感や不安を与え、また多方面から激しい憤りを頂戴することとなりました。心よりお詫び申し上げます。まことに申し訳ございませんでした。2020年1月15日、情報学環・学際情報学府における調査等を経て、東京大学により、大澤特任准教授に対し懲戒解雇の懲戒処分がなされたことをご報告いたします。
 〔以下、上の大学全体の公表資料-略〕
 東京大学は学問の府であり真理を探求する場です。そのために、多様な人々がそれぞれの立場から自由闊達に議論できることが本質的に重要であるのは言うまでもありません。しかしそれは、SNS等のメディアを含む公の場において、いわれなき個人攻撃や差別をまき散らしてよいことを意味しません。そのような行為は、むしろ自由闊達な議論や言論を封殺し、侵害するものです。一連のSNSへの書き込みについて、私たちはこれを決して許されるものではないと考えています。
 真理探求の環境は、放っておけば自然とできあがるようなものではありません。東京大学の構成員である私たち自身が高い理想と倫理観を常に携え、たゆまぬ努力を積み重ねていくことが不可欠です。私たちは今回の事案を厳粛に受け止めます。問題は書き込みをした本人だけにあるのではなく、情報学環・学際情報学府の対応の不十分さ、努力不足にも起因するものと考え、深く反省しています
 私たちは今回のような問題を二度と起こさぬために、以下の活動を計画的かつ迅速に進めます。まずなにより学生や教職員との対話を深めます。当該寄付講座については、本年度末で廃止する予定です。そして原因究明と再発防止策に関する調査委員会を設置するとともに、倫理規定の整備、寄付講座や社会連携講座の設置方法の見直しを進めます。また情報学環・学際情報学府における教員採用手続や組織運営の在り方の検討を含め、本部とも連携をとりつつ根本的な改革に全力を挙げて取り組んでいくつもりです。
 東京大学大学院情報学環長・学際情報学府長
 越塚登
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 後者の、上の傍線部あたりは、なかなかに<怖ろしい>見解だとも感じる。-自主規制的「全体主義」の萌芽でなければよいが。あるいは、<多数のクレーマー>への事なかれ主義的な対応(・屈服)か。
 例えば、「いわれなき個人攻撃や差別」だと、あるいは「高い理想と倫理観」に反すると、「越塚登」や当該学府(→東京大学)は、どうして認定・判断できるのか。地裁の複数の裁判官あるいは最高裁判所の多数裁判官がそう判断するなら、まだいちおうは納得しもするが。

2247/R・パイプス・ロシア革命第13章第12節~第14節(1990年)。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。最適な訳出だと主張してはいない。一語・一文に1時間もかけるわけにはいかない。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第12節・ロシアがドイツの提示条件で降伏。
 (1)ドイツがボルシェヴィキとの交渉で風を得たのはフランスによってだったのか、それともたんなる偶然だったのか、ドイツがもどかしく待っていた回答が届いたのは、ボルシェヴィキの中央委員会とソヴナルコムが連合諸国の助けを求めると票決した、まさにその朝だった。(66)
 それはレーニンの最悪の怖れを確認するものだった。
 ベルリンは今では、戦争の推移の中でドイツ軍が掌握した領域だけではなく、ブレスト交渉が決裂した後の週に占拠した領域をも要求した。
 ロシアは動員解除するとともに、ウクライナとフィンランドを明け渡さなければならないものとされた。また、負担金を支払い、多様な経済的譲歩をするものとされた。
 通告書には、48時間以内での回答を要求する最後通牒の語句があり、その後で条約の調印には最長で72時間が許容されるとされていた。//
 (2)つぎの二日間、ボルシェヴィキ指導部は事実上は連続した会合をもった。
 レーニンは、何度も少数派であることを感じた。
 彼はついには、党と国家の全ての役職を辞任すると脅かすことで、何とか説き伏せた。//
 (3)ドイツの通告書を読むや否や、レーニンは中央委員会を招集した。
 15人の委員が現れた。(67)
 レーニンは言った。ドイツの最後通告書は無条件に受諾されなければならない。「革命的な言葉遊び(phrasemongering)は、もう終わりだ」。
 主要な事柄は、ドイツは屈辱的なことを要求しているが、「ソヴィエトの権威に影響を与えない」-すなわち、ボルシェヴィキが権力にとどまることをドイツは許容している、ということだ。
 かりに同僚たちが非現実的な行動方針に固執するならば、彼らは自分たちでそうしなければならないだろう、なぜなら、レーニンは政府からも中央委員会からも去ってしまっているだろうから。//
 (4)レーニンはそして、賢明に選択した言葉遣いで、三つの決定案を提示した。
 ①最新のドイツの最後通牒が受諾される、②ロシアは革命戦争を中止すべく即時の準備を行う、③モスクワ、ペトログラードおよび他都市の各ソヴェトは、それぞれの自らの事態に関する見方でもって票決を確認する。
 (5)辞任するとのレーニンの脅かしは、効いた。レーニンがいなければボルシェヴィキ党もソヴナルコムも存在しないだろうと、誰もが認識した。
 最初のかつ重大な決定では、レーニンは多数派を獲得しなかった。だがそれは4委員が棄権したからで、動議が7対4で採択された。
 二度めと三度めの決定では、問題がなかった。
 投票が終わると、ブハーリンと他の3人の左翼共産主義者は、党の内部や外部にある条約反対派を自由に煽動するために党と政府の全ての「責任ある役職」を辞任するという動議をもう一度経験した。//
 (6)ドイツの最後通告を受諾する決定にはまだ〔全国ソヴェトの〕中央執行委員会(=CEC)の同意が必要だったけれども、レーニンはその結果に十分に自信があり、ツァールスコエ・セロにいる無線連絡の操作者に対して、ドイツに対する連絡のために一チャンネルを空けておくよう指令した。//
 (7)その夜レーニンは、CEC で状況報告を行った。(68)
 その後の票決で、ドイツの最後通牒を受諾する決議案について技巧的な勝利を得た。それはしかし、反対するボルシェヴィキの議員たちは退出し、その他の多数の反対議員は棄権したからだった。
 最終票数は、レーニン案に賛成116、反対85、棄権26だった。
 この満足にはほど遠い、しかし形式的には拘束力をもつ結果にもとづいて、レーニンは、午前中の早い時間に、〔全国ソヴェト〕中央執行委員会の名前で、ドイツの最後通告を無条件で受諾する文章を執筆した。
 それはただちに、ドイツへと無線で伝えられた。//
 (8)2月24日朝、中央委員会は、ブレストへ行く代表団を選出した。(69)
 今や、国家と党の役職から辞任する多数の者の氏名が、手渡された。
 すでに外務人民委員を離任していたトロツキーは、他の役職も同様に辞した。
 彼はフランスとイギリスはソヴェト・ロシアとの協力に気を配ってくれ、ロシアの領土への意図をもっていなかった、という理由で、これら両国と緊密な関係をもつことを支持した。
 何人かの左翼共産主義者たちは、ブハーリンに倣って、辞職願いを提出した。
 彼らは、公開書簡で、動機を明確に述べた。
 彼らは、こう書く。ドイツへの降伏は、外国の革命的勢力に対する重大な打撃であり、ロシア革命を孤立させる。
 さらに、ロシアがドイツ資本主義と行うよう要求されている譲歩は、ロシアの社会主義にとって災難的な影響を与えるだろう。すなわち、「プロレタリアートの立場の外部的な屈服は不可避的に、内部的な屈服の道を切り拓く」。
 ボルシェヴィキは、中央諸国に降伏してはならず、また、連合諸国と協力してもならない。そうではなく、「国際的な規模での内戦を開始」しなければならない。(70)//
 (9)欲しいものを得たレーニンは、トロツキーと左翼共産主義者たちに、ソヴィエト代表団がブレストから戻るまでは辞任という行動をとらないように懇願した。
 最近の苦しい日々のあいだ、レーニンは顕著な指導性を発揮し、支持者たちに甘言を言ったり説得したりしながら、忍耐力も、決定力も、失わなかった。
 彼の生涯の中で、おそらく最も苛酷な政治闘争だった。//
 (10)恥辱的な<命令文書(Diktat)>に署名するために、誰がプレストへ行こうとするだろうか?
 誰も、その名前を、ロシアの歴史上最も屈辱的な条約に関係して残したくなかった。
 ヨッフェは、にべもなく拒んだ。一方、辞職していたトロツキーは、舞台から身を引いた。
 古いボルシェヴィキで一時は<プラウダ>編集長だったG・Ia・ソコルニコフは、ジノヴィエフを指名した。それに応えてジノヴィエフは、ココルニコフを逆指名して返礼した。(71)
 ソコルニコフは、指名されれば中央委員会を去ると、反応した。
 しかしながら、結局は、ソコルニコフが、ロシアの講和代表団の長を受諾するように説得された。この代表団の中には、L・M・ペトロフスキ(Petrovskii)、G・V・チチェリン(Chicherin)、L・M・カラハン(Karakhan)がいた。
 代表団は、2月24日にブレストに向けて出発した。//
 (11)ドイツに降伏するという決定に対していかに反対が強かったかは、レーニン自身の党内ですら、ボルシェヴィキ党のモスクワ地域事務局が2月24日にブレスト条約を拒み、全員一致で中央委員会を不信任する票決を通過させた、という事実で示されている。(72)
 (12)ロシアが降伏したにもかかわらず、ドイツ軍は前進をし続けて、司令官が引いていた限界線まで進み、その線を両国の永続的な国境にしようと意図した。
 2月24日、ドイツ軍はDorpat(Iurev)〔エストニア〕とプスコフを占拠し、ロシアの首都から約250キロメートル離れた場所に陣取った。
 翌日に彼らは、Revel〔ラトヴィア〕 とボリソフ(Borisov〔ベラルーシ〕)を掌握した。
 彼らは、ロシア代表団がブレストに到着した後でも前進し続けた。すなわち、2月28日、オーストリア軍はベルディチェフ(Berdichev〔ウクライナ〕)を奪取し、ドイツ軍は3月1日にホメリ(Gomel〔ベラルーシ〕)を占拠した後、チェルニヒウ(Chernigov〔ウクライナ〕)とモギレフ(Mogilev)を奪いに向かった。
 3月2日、ドイツの戦闘機は、ペトログラードに爆弾を落とした。//
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 (66) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.341-3.
 (67) Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)(Moscow, 1958), p.211-8.
 (68) Lenin, PSS, XXXV, p.376-380.
 (69) Protokoly TsK, p.219-p.228.
 (70) Lenin, Sochineniia, XXII, p.558.
 (71) Lenin, PSS, XXXV, p.385-6.
 (72) 同上, p.399.
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 第13節・ソヴィエト政権のモスクワ移転。
 (1)レーニンは、ドイツに対する冒険はしなかった。-彼は3月7日にこう言った。ドイツ軍がペトログラードを占拠する意図をもつことに「微塵の疑いもない」。(73)
 そして彼は、首都をモスクワに避難させることを命令した。
 ニゼール将軍によると、物資のペトログラードからの移転は、フランスの軍事使節が手配した専門家の助けで行われた。(74)
 移転の趣旨で発せられた公式の布令がないままに、3月初めに人民委員部はかつての首都への移転を開始した。
 <Novaia zhizn'>で「逃亡(Flight)」と題された記事は、パニックにとらわれたペトログラード、市民たちが鉄道駅に殺到していること、そして彼らがもしも鉄道に乗り込めなければ車または徒歩で逃亡しようとしていることを描写した。
 ペトログラード市は、やがて静寂に変わった。電力も、燃料も、医療サービスもなかった。学校や交通は機能するのを止めた。
 射殺やリンチ攻撃が、日常の出来事になった。(75)//
 (2)ペトログラードの露出した状態やドイツの意図の不確定性を考えると、共産主義国家の首都をモスクワに移転させる決定は、理にかなっていた。
 しかし、臨時政府が半年前に同じ理由でペトログラードから避難することを考えたとき、同じボルシェヴィキこそがその考えは裏切りだと最も激烈に非難した、ということを、完全に忘れることはできない。//
 (3)移転は、多大の安全確保に関する準備のもとで実行された。
 党と国家の官僚たちが先ずは移るものとされた。中央委員会の委員たち、ボルシェヴィキの労働組合官僚、および共産党系新聞の編集者たちを含む。
 彼らは、モスクワでは、没収した私的所有物(建築物)の中に入った。
 (4)レーニンは、3月10-11日の夜に、こっそりとペトログラードを出た。同行したのは、妻と秘書のボンチ=ブリュエヴィチだった。(76)
 この旅は、最高の秘密として計画された。
 一同は特別列車で、ラトヴィア人に警護されながら旅行をした。
 翌朝の早い時間に、逃亡者たちの意図不明の荷物を積んだ列車に衝突して、停車した。停止中にボンチ=ブリュエヴィチは、彼らの武装を解除させて、準備した。
 列車は進み続け、夕方遅くにモスクワに到着した。
 この旅については、誰も語られなかった。自称世界のプロレタリアートの指導者は、妹だけに迎えられて、どのツァーリもかつてしなかったやり方で、首都にこっそりと入ったのだ。//
 (5)レーニンはその住居を、仕事場とともにクレムリンに構えた。
 そこが、15世紀にイタリアの建築家によって建設された要塞の、石壁と重たい門の内部が、ボルシェヴィキ政府の新しい所在地となった。
 人民委員たちも家族とともに、やはりクレムリン内部に安全を求めた。
 この要塞の警護はラトヴィア人に委ねられた。彼らは、修道僧のグループも含めて、多数の居住者をクレムリンから追い出した。//
 (6)安全という観点から考え出されたものだったけれども、ロシアの首都をモスクワに移して、自分をクレムリンに落ち着かせるというレーニンの決定は、深い意味をもった。
 それはいわば、かつてのモスクワ公国の伝統を好んだピョートル一世が始めた親西側路線を拒否することの象徴だった。
 「一時的」だと宣言されたにもかかわらず、モスクワの首都化は永続的なものになった。
 首都移転はまた、個人的・人身的な安全を求める、新しい指導者たちの病的な恐怖心も反映していた。
 レーニンらのこの行為を評価するには、イギリスの首相がダウニング通りから転居して、その住居と仕事場を閣僚たちと同様にロンドン塔に移し、そこでシーア派の者たちの警護のもとで政治を行うことを想像してみなければならない。//
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 (73) Lenin, PSS, XXXVI, p.24.
 (74) Niessel, Triomphe, p.229.
 (75) La Piletskii in: NZh, No.38/253(1918年3月9日), p.2.
 V.Stroev, NZh, No.40/255(1918年3月12日), p.1.も見よ。
 (76) Bonch-Bruevich, Pereezd V. I. Lenina v Moskvu(Moscow, 1926).
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 第14節・ブレスト=リトフスク条約の諸条件。
 (1)ロシア人たちは3月1日にブレストに着き、その2日後、議論をいっさいすることなく、ドイツとの条約に署名した。
 (2)条件は、きわめて負担の大きいものだった。
 これを知ると、かりに連合諸国が負けていれば待ち受けていた講和条約がどういうものだったか、が分かるだろう。また、ドイツがヴェルサイユの<命令(Diktat)>に不満をもったのが根拠のないことも示している。ヴェルサイユ講和条約は、多くの点で、ドイツが無力のロシアに押しつけた条約よりは優しいものだったのだから。
 (3)ロシアは、領土に関する大きな譲歩を要求された。ロシアが17世紀半ば以降に征服した土地のほとんどの割譲だった。
 西方、北西そして南西と、ロシアの国境は、モスクワ公国時代のそれまでに縮まった。
 ロシアは、トランス・コーカサスの他に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、およびリトアニアを放棄しなければならなかった。これらの全てがドイツの保護する主権国家となるか、またはドイツに併合された。
 モスクワはまた、ウクライナを独立の共和国として承認しなければならなかった。(*)
 これらの条項は75万平方キロメートルの国土の譲渡を要求するもので、その広さはドイツ帝国のそれのほとんど2倍だった。ブレスト講和のおかげで、ドイツの規模は3倍になったのだ。(77)
 (4)ロシアがかつてスウェーデンやポーランドから獲得していた、今次の割譲領土は、ロシアの最も豊かで最も人口密度の高い土地だった。
 この地域に、ロシアの住民の26パーセントが生活していた。その住民たちは、都市人口の3分の1以上を含んでいた。
 当時の概算では、この領域で、ロシアの農業収穫物の37パーセントが産出されていた。(78)
 また、この地域に工業企業の28パーセントが立地し、鉄道線路の26パーセント、石炭と鉄の堆積層の4分の3があった。//
 (5)しかし、たいていのロシア人がもっと苛立たしく感じたのは、付属文書に明記された、ドイツにソヴィエト・ロシアでの例外的な地位を認める経済的条項だった。(79)
 ドイツは、経済的利潤を獲得するだけではなくロシア社会主義を窒息死させるためにこれらの権利を利用するつもりだ、と多数のロシア人は考えた。
 理論上はこれらの権利は相互主義的なものだったが、ロシアは自分の取り分を要求できる立場になかった。//
 (6)中央諸国の市民と企業は、ボルシェヴィキが権力掌握後に発布した国有化布令の適用免除を事実上は受けた。ソヴィエト・ロシアで商業、工業および職業的活動を行うことはもとより、動産および不動産を所有することが認められたのだ。
 彼らは、厳しい税金を支払う必要なく、ソヴィエト・ロシアから本国に資産を送ることができた。
 この決まり事は遡及効をもった。すなわち、戦争中に署名国の市民から徴発した不動産、土地や鉱山の使用権は、元の所有者に返還されるものとされた。
 かりに国有化されていれば、元権利者に適正な補償金が支払われることになっていた。
 同じ決まりが、国有化された企業の有価証券保有者にも適用された。
 一つの国から他国への商品の自由な運送のための条項が、設けられた。各国はまた、お互いに最恵国待遇の地位を承認した。
 ロシアの公的および私的債務を否認した1918年1月布令にもかかわらず、ソヴィエト政府は、中央諸国との関係での債務を尊重する義務のあること、それらに付す利息の支払いを再開すること、を承認した。そのための詳細は別の協定で決定されるものとされた。//
 (7)こうした諸条項は、中央諸国に-実質的にはドイツに-、ソヴィエト・ロシアでの前例なき治外法権の特権を付与した。経済的規制を免除し、社会化された経済へと一層進展していたところで私的企業を経営することを認めた。
 ドイツ人は事実上、ロシアの共同経営者になった。
 彼らは私的部門を掌握する立場が与えられ、一方でロシア政府には、国有化された部門の管理が委ねられた。
 ブレスト=リトフスク条約の条件のもとでは、ロシアの工業企業、銀行、証券会社の所有者がその所有物をドイツに売却することが可能だった。この方法で、それらは共産党による統制から免れることができた。
 のちに述べるように、この可能性を封じるために、ボルシェヴィキは1918年6月にソヴィエトの全ての大企業を国営化した。//
 (8)条約の他の箇所では、ロシアは陸海軍の動員解除を明記した。-言い換えれば、国防力をないままにした。また、他の調印諸国の政府、公的機関および軍隊に対する煽動やプロパガンダ活動をやめることを約束した。アフガニスタンとペルシアの主権を尊重することも。//
 (9)ソヴィエト政府がブレスト=リトフスク条約の諸条件を国民に公にしたとき-それは民衆の反応を怖れて数日遅れて行われたのだが-、全ての政治諸階層から、極左から極右までに、憤激が巻き起こった。
 J・ウィーラー=ベネット(John Wheeler-Bennett)によれば、レーニンはヨーロッパで最も貶された(vilified)人物になった。(80)
 初代ソヴィエト・ロシア駐在ドイツ大使のミルバッハ公は、5月に自国外務省に、ロシア人は一人残らず条約を拒否しており、条約をボルシェヴィキ独裁に対してよりすらも憤懣の的だと感じている、とこう通信した。
 「ボルシェヴィキによる支配は飢餓、犯罪、名前のない恐怖のうちでの隠れた処刑でロシアを苦しめているけれども、ブレスト条約を受諾したボルシェヴィキに対しては、どのロシア人も喜んでドイツの助けを求めるふりすらするだろう。」(81)
 かつてどのロシア政府も、これほど広い領土を割譲しなかったし、これほど多くの特権を外国に認めることもなかった。
 ロシアは、「世界のプロレタリアートを売り払った」だけではなかった。ロシアは、ドイツの植民地となる長い道程を歩んでいた。
 ドイツは条約によって与えられた権利をロシアでの自由な起業のために用いるだろうと、-保守派の界隈では喜んで、急進派の界隈では怒りとともに-広く想定されていた。
 こうしてペトログラードでは、3月半ばに、ドイツは三つの国有化された銀行の所有者への復帰とそのあとの迅速な全銀行の非国有化を要求している、との風聞が流布された。
 (10)新国家の国制法(憲法)は、条約は2週間以内にソヴェト大会で批准されることを求めていた。
 それを行うソヴェト大会は、3月14日にモスクワで開催されることが予定として決定された。//
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 (*) この講和条件の履行のために、モスクワは4月半ばにウクライナ政府に対して、相互承認のための交渉を開始することを提案した。種々のウクライナ国内の政治事情のために、交渉はようやく5月23日に始まった。
 1918年6月14日、ソヴェト・ロシア政府とウクライナ政府は暫定的講和条約に署名した。そのあとで最終的な講和交渉を行うことになっていたが、結局それは行われなかった。
 The New York Times, 1918年6月16日付, p.3. 
 (77) Hahlweg, Diktatfrieden, p.51.
 (78) Piletskii in: NZh, No.41/256(1918年3月14日), p.1.
 (79) これらは、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.370-p.430. に資料として収載されていおり、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.269-p.275. で分析されている。
 (80) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.275.
 (81) W. Baumgart in: VZ, XVI, No.2(1968年1月), p.84.
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 第12節・第13節・第14節、終わり。

2246/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第10節・第11節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第10節・ボルシェヴィキに勝とうと連合国は努力する。
 (1)レーニンは同僚たちに、ドイツが軍事行動を再開すれば、ボルシェヴィキはフランスとイギリスの助けを求めなければならないだろうと警告していた。それこそが、今行うべきことだった。
 (2)ドイツは何を最優先するかを決定していなかったけれども、少なくとも、戦争と結びついているロシアでの短期的利益と、ドイツにとってのロシアの長期的な地政学的意味とを、区別していた。
 連合諸国には、ロシアにはただ一つの関心しかなかった。それは、ロシアを戦争にとどまらせることだった。
 ロシアの崩壊と分離講和の見込みは連合諸国にとっては最大級の惨事であり、ドイツに勝利をもたらしそうだった。ドイツ軍は、十数の分団が西部前線へと移動して、アメリカ軍が相当の規模の兵団でもって到着する前に、消耗しているフランスとイギリス各軍を粉砕するだろう。
 したがって、連合諸国にとってロシアに関して最大に優先されるべきことは、可能ならばボルシェヴィキの協力によって、それが可能でなければ利用し得る何らかの別の勢力によって、東部戦線を再び活性化させることだった。別の勢力とは、ロシアの強制収容所にいる反ボルシェヴィキのロシア人、日本人、チェコ人、あるいは最終的には、これら自体の軍団のことだ。
 ボルシェヴィキとはどういう者たちで、何を目ざしているかは、連合諸国には関心がなかった。この諸国は、ボルシェヴィキ体制の国内政策にも国際的な目標にも、関心を示さなかった。そうしたことは、ドイツの注意をますます惹いていたものだった。 
 ボルシェヴィキの「友好」政策や、労働者にストライキを、兵士たちに反乱を呼びかけていることは、連合諸国にはまだ何の反応を生じさせておらず、ゆえに警戒心を呼び起こすこともなかった。
 連合諸国の態度は、明確で単純だった。すなわち、ボルシェヴィキ体制は中央諸国と講和をするならば敵であり、戦闘し続けるならば味方であり同盟者だ。
 イギリスの外務大臣(Foreign Secretary)の A・バルフォア(Arthur Balfour)の言葉では、ロシアがドイツと戦っているかぎりはロシアの信条は「我々の信条(cause)」だった。(58)
 アメリカの在ロシア大使のD・フランシス(David Francis)は1918年1月2日の教書でこれと同じ感情を表現しており、レーニン政府に伝わることが意図されたが、送信されなかった。
 「ロシア軍が人民委員部の指揮のもとで戦闘を開始して真摯にドイツ軍とその同盟軍に対する敵意を行動に移すならば、私は私の政府に対して、人民委員部の事実上の政権を正式に承認するよう働きかけるつもりだ」。(59)
 (3)対象に関心がなかったために、ボルシェヴィキ・ロシアの国内状況に関して連合諸国にはきわめて不適切な情報しかなかった。
 各国の外交使節は、ロシアでとくに好遇されたわけでもなかった。
 イギリス大使のG・ブキャナン(George Buchanan)は、有能だが在来的な外交官だった。一方、セントルイスの銀行家のフランシス〔アメリカ大使〕は、イギリスのある外交官の言葉によると「魅力的な老紳士」だった。だけれども、推測するにそれだけのことだった。
 この二人ともに、彼らがその渦中にあった事態の歴史的な重要性に気づいていなかったように見える。
 元戦時大臣でかつ社会主義者のフランス公使のJ・ヌーラン(Joseph Noulens)は、仕事の準備をより十分にしていたが、ロシアを嫌悪していたのとその無愛想で権威的な流儀のために、影響力を発揮できなかった。
 さらに悪いことに、連合諸国の外交団は1918年3月に、ボルシェヴィキ指導者たちと直接に接触しなかった。彼らはボルシェヴィキ指導者に従ってモスクワに行こうとしなかったからだ。ペトログラードからまずヴォログダ(Vologda)へと、そしてそこから7月にアルハンゲル(Archangel)へと移った。(*)
 このことによって、彼らは、モスクワにいる代理人がくれる間接的な報告に頼らざるを得なくなった。
 (4)その代理人たちは、心身ともにロシアのドラマに入り込んでいた若い男たちだった。
 B・ロックハート(Bruce Lockhart)はモスクワのかつてのイギリス領事で、ロンドンとソヴナルコム間の連絡役として仕事した。R・ロビンス(Raymond Robins)はアメリカ赤十字使節団の代表で、ワシントンのために上と同じ仕事をした。そして、J・サドゥール(Jacques Sadoul)はパリのために。
 ボルシェヴィキはこれら媒介者たちをとくに真摯に待遇したというわけではないが、有用性をよく理解していた。親交を築き、お世辞を言い、信頼の措ける者として扱った。
 そのようにして、ロックハード、ロビンス、サドゥールを、彼ら諸国がロシア軍に軍事的および経済的な援助を提供すれば、ロシアはドイツと決裂しておそらくは再び戦争するとまで、まんまと説得した。
 利用されていることに気づかないで、三人は、この見方を自分のものに変え、元気よく自国政府に主張した。
 (5)サドゥールは母親がパリ・コミューンに参加した社会主義者で、ボルシェヴィキに対して強いイデオロギー的魅力を感じていた。彼は1918年8月に、ボルシェヴィキへと寝返り、そのことで逃亡者かつ反逆者として欠席のまま死刑判決を受けることになる。(+)
 ロビンスは風変わりな人物で、レーニンやトロツキーとの会話でボルシェヴィキへの情熱を表明したが、アメリカ合衆国に帰国するとボルシェヴィキに反対しているふりをした。
 社会主義に傾斜した裕福な社会的労働者かつ労働組合組織者であり、また自分の様式をもつ大佐は、ロシアを出立する前夜に、レーニンに、別れの言葉を送った。その中で、彼はこう書いた。
 「あなたの予言的見解と指導の天才性は、ソヴィエト権力をロシア全域で確固たるものにしました。そして私は、人類の民主主義の新しい創造的な体制が世界中の自由(liberty)のための事業を活発にし、前進させるだろうと、確信をもっています。」(**)
 彼は帰還する際にさらに、「新しい民主主義」をアメリカ人民に対して解釈し説明する「継続的な努力」を行うと約束した。
 しかしながら、のちにすぐにソヴィエト・ロシアの状況に関する上院の委員会で証言したとき、ロビンスは、「ボルシェヴィキ権力を混乱させる」方法だといううその理由で、モスクワへの経済的援助を強く主張した。
 (6)ロックハードは三人の中では最もイデオロギー的関心がなかったが、彼もまた、ボルシェヴィキの政策追求の道具に自分がなることに甘んじていた。(+++)
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 (58) R. Ullman, Intervention and the War(Princeton, NJ., 1961),p.74.
 (59) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.65.
 (*) 三国の各大使は回想録を残した。George Buchanan, My Mission to Russia, 2 vols.(London, 1923).; David Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1921).; およびJoseph Noulens, Mon Ambassaade en Russie Sovietique, 2 vols.(Paris, 1933).  
 (+) サドゥールが帰国後、この判決は執行されなかった。そして彼は、フランス共産党に加入した。
 彼の革命的経験は面白い書物に記録され、Albert Thoma への手紙という形式で、最初にモスクワで出版された。Sadoul, Note sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920)。これは、Quarante Letters de Jacques Sadoul(Paris, 1922)により補充されている。
 (**) 1918年4月25日付手紙。つぎに所収。The Raymond Robins Collection, State Historical Society of Wisconsin, Madison, Wisconsin.
 レーニンは返答して、「プロレタリア民主主義は、…、新旧両世界の帝国主義的資本主義体制を粉砕するだろう」と自信を表明した。
 (++)George F. Kennan, The Decision to Intervene(Proinceton, NJ., 1958), p.238-9.
 上記の証拠に照らすと、ロビンスの「ソヴィエト政府への敬意にみちた感情は教義としての社会主義に対する特別の愛着があったのではなかった」とか、ロビンスは「共産主義への先入的愛好心をもっていなかった」とかのKennan には同意するのは困難だ。同上, p.240-1.
 ロビンスはのちにスターリンを賛美し、1933年にスターリンに受け入れられた。
 Anne Vincent Meiburger, Efforts of Raymond Robins Toward the Recognition of Soviet Russia and the Outlawry of War, 1917-1933(Washington, D.C., 1958), p.193-9. を見よ。
 (+++) 彼の回想録である、Memoirs of a British Agent(London, 1935)とThe Two Revolutions: An Eyewittness Account(London, 1967)を見よ。
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 第11節・モスクワが連合国の助けを乞う。
 (1)サドゥールとロビンスはボルシェヴィキ・クーの後で、ときおりレーニン、トロツキー、その他の共産党指導者たちと逢った。
 1918年2月の後半には、逢う回数が増えた。それは、ボルシェヴィキによるドイツの最後通牒の受諾(2月17日)とブレスト=リトフスク条約の批准(3月4日)の間の時期だった。
 この二週間、ボルシェヴィキはドイツが自分たちを権力から排除するのを怖れて、連合諸国に対して、助力を求める切実な要請を訴えていた。
 連合諸国は、肯定的に反応した。
 フランスはとくに、その意欲があった。
 フランスは今では、ドン地方に形成されていた反ボルシェヴィキの義勇軍を放棄した。これは、ヌーランがその反ドイツの立場を理由として財政的に支援していた軍だった。
 彼の推奨意見にもとづいて、フランス政府はこれまでに将軍アレクセイエフに対して5000万ループルを、新しいロシア軍を組織するのを助けるべく拠出していた。
 1918年1月の初め、ロシアでのフランスの軍事使節の新しい代表であるH・ニゼール(Henri Niessel)は、アレクセイエフは「反革命」軍を率いているとの理由で、彼との関係を断つよう進言した。
 この助言は、採用された。アレクセイエフへの支援は終わり、ニゼールにはボルシェヴィキとの交渉を始める権限が与えられた。(*)
 ロックハルトも同様に、義勇軍への支援に反対した。彼もまた外務省への連絡文書で、義勇軍は反革命だと叙述した。
 彼の判断では、ボルシェヴィキこそがロシアの最も信頼できる反ドイツ勢力だった。(60)
 (2)ドイツの攻撃作戦が再開したあとの忙しい期間に、ボルシェヴィキの最高司令部は、連合諸国に助けを求めると決定した。
 2月21日、トロツキーは、サドゥールを通じて、ニゼールとともに、フランスはドイツの攻撃をソヴィエト・ロシアが抑えるのを助けるつもりがあるかどうかを問い合わせる通信を発した。
 ニゼールはフランス大使と接触し、肯定的な反応を得た。
 ヌーランはその日、ヴォログダからトロツキーに電報を打った。「あなたたちがドイツに抵抗する場合、フランスの軍事的および財政的協力を頼りにしてよい」。(61)
 ニゼールは、トロツキーにソヴィエト・ロシアがドイツ軍を妨害する方法を助言し、軍事顧問になることを約束した。
 (3)2月22日の夕方遅くの中央委員会で、フランスの反応の件が議論された。
 トロツキーはこのときまでに、フランスがロシアを助けようとする手段を概略するニゼールの覚え書を持っていた。(62)
 喪失したと言われているこの文書は、フランスによる金銭的および軍事的助力の具体的な諸提案を含むものだった。
 トロツキーはこれを受諾するよう強く主張し、その趣旨での方針を提案した。
 出席することができなかったレーニンは、簡潔な注記をつけて不在投票をした。「アングロ・サクソン帝国主義者の強盗どもから喇叭や兵器を奪うことに賛成する私の一票を加えてほしい」。(63)
 ブハーリンやその他の「革命戦争」の主張者が反対の立場をとったために、この動議は辛うじて、賛成6票、反対5票で採択された。
 ブハーリンは票決に敗北したあとで中央委員会と<プラウダ>編集局からの辞任を申し出たが、結局はそうならなかった。//
 (4)中央委員会が検討を終えるや否や-2月22-23日の夜間のことだった-、問題はソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕に移された。
 トロツキーの動議はここでも、左翼エスエルの反対を押し切って、通過した。//
 (5)翌日、トロツキーはサドゥールに、ロシア政府がフランスの助けを受け入れる気のあることを伝えた。
 彼はニゼールをスモルニュイに招いて、ポドゥヴォイスキ、ボンチ=ブリュエヴィチ将軍やボルシェヴィキのその他の軍事専門家たちと反ドイツ作戦に関して協議させた。
 ニゼールは、ソヴィエト・ロシアは、愛国主義に訴えることのできる帝制時代の従前の将校の助けを借りて、新しい軍隊を建設しなければならない、という意見だった。(64)
 (6)ボルシェヴィキは今や、ドイツが自分たちを転覆しようとしている事態の中で態度を変更した。
 連合諸国はボルシェヴィキの国内および対外政策にほとんど関心がなく、東部前線での戦闘の再活性化の見返りとして寛大に助けてくれるのだと分かっていた。
 かりにドイツがルーデンドルフとヒンデンブルクの意見を最後まで貫いたとすれば、ボルシェヴィキは権力にとどまり続けるために、連合諸国と共闘し、中央諸国に対抗する軍事行動のために連合諸国がロシア領土を使うことを許しただろう、ということをほとんど疑うことはできない。
 (7)ロシア・連合国関係がいかほどにまで進展していたかは、2月遅くにレーニンがカーメネフをソヴィエトの「外交代表」としてパリに派遣したことで、分かる。
 カーメネフはロンドン経由で到着したが、それは彼の政府がブレスト=リトフスク条約をすでに裁可してしまっていた後でだった。
 彼は、冷淡な対応を受けた。
 フランスは、カーメネフが入国するのを拒否した。それに従って、彼は母国へと向かった。
 彼はロシアへの途上で、ドイツに取り押さえられた。ドイツはカーメネフを、4カ月間拘留した。(65)//
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 (*) A. Hogenhius-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.53.
 ニゼールは、その回想録でこうした事実に言及していない。Les Triomphe des Bolsheviks.
 (60) Ullman, Intervention, p.137-8.
 (61) Lenin, Sochineniia, XXII, p.607.; Gen.[Henri A.] Niessel, Les Triomphe des Bolsheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs(Paris, 1940), p.277-8.
 (62) J. Sadoul, Notes sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920), p.244-5.
 (63) Lenin, PSS, XXXV, p.489.
 (64) Niessel, Triomphe, p.279-280.
 (65) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.284-5.; Sadoul, Notes, p.262-3.; Ullman, Intervention, p.81.
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 第10節・第11節、終わり。

2245/西尾幹二批判001。

 小分けすると面倒くさいので、まとめる。
 
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018.10)は比較的最近の西尾の<哲学・思想>畑の本だ。
 この書名は編集者(湯原法史)の発案によるらしいとしても、この書名から「自由」が種々に論じられているという期待または幻想は、はかなくも瞬時に破れる。
 既述のように、A・スミスは「経済学者」だから、そこでの「自由」はfreedom ではなくliberty だ、などというとんでもない叙述が最初の方にある。「経済学とはそういう学問です」(p.36)という珍句?まであるのだが、A・スミスもF・ハイエクも(フリードマンも)、「たんなる経済学者」ではなく「哲学者」、少なくとも「経済哲学(思想)」、「社会哲学(思想)」、「歴史哲学(思想)」等にまたがる人物だったことは、むしろ常識に属するだろう。
 西尾幹二が『自由』を問題にしながら、古今東西の「自由」に関する多数の哲学者・思想家・歴史家等々の文献を渉猟して執筆しているわけではないことは、すぐ分かる。
 世に「哲学者」として知られている者の著書のうち、参照しているのはほとんどF・ニーチェだけだろう。後半にルター、エラスムスが出てきているが、「自由」論とのかかわりは未読なのでよく分からない。
 きりがないが、ロックも、ホッブズも、ルソーも、カントもヘーゲルもマルクスも、ベルクソンもフッサールもサルトルも、ハーバマス等々々も、ついでにトニー・ジャットもジョン・グレイもL・コワコフスキも、西尾幹二の頭の中にはない。きっとまともに読書したことがないのだ。また、日本で現在もよく使われる<リベラリズム>も、liberal 系とはいえ、「自由主義」とも訳されて、当然に「自由」に関係するが、この言葉自体が西尾著にはたぶん全く出てこない。
 そんなだからこそ「深み」はまるでなく、「自由」と「平等」との関係をけっこう長々と叙述したあと、こんなふうに締めくくられる(p.154)。
 オバマは「平等」にこだわり、トランプは「自由」にこだわり続けるだろう。二人のページェントが「これから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません」。
 ?? 何だ、これは。
 
 西尾幹二は若いときはニーチェ研究者だったようで、おそらくは、ドイツ語・ドイツ文学・ドイツ哲学あたりの<アカデミズム>をこれで通り抜け、あとは<アカデミズム(学界)>にとどまってはいない。
 この<アカデミズム(学界)>からの離脱は多少の痛みは伴いつつも、彼にとっては<自慢>だったかにも見える。自分は狭いアカデミズムの世界の中にいる人間ではない、広く<世間>、<社会>を相手にしているのだ。
 「論壇」に登場する「評論家」というのは、たんなる「~(助)教授」よりは魅力的で<えらい>存在だと彼には思えたのではないか。
 余計な方向に滑りかけたが、ともかく、西尾幹二はニーチェ研究者だった。
 そして、ニーチェを良く知っていること、反面ではそれ以外の哲学者についてはろくに知らないことは、のちのちにまで影響を与えているようだ。
 その証拠資料たる文章があるので、以下に書き写す。表題がむしろ重要だが、次回以降に言及する。
 西尾幹二(聞き手・遠藤浩一)「私の書くものは全て自己物語です」月刊WiLL2011年12月号(ワック、編集長・花田紀凱)p.242以下。
 ・遠藤「先生のニーチェ論を読んでいると、ご自身の自画像をなぞっておられるのでは、との印象を受けることがあるのですが」。
 西尾「実は私を知るある校正者からも『これは先生自身のことを書いているのではないですか』と告げられました(笑)」。
 ・遠藤「『江戸〔のダイナミズム〕』がニーチェの続篇?」
 西尾「私の心のなかではそうです」。
 西尾「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです」。
 この直後に「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」という一文が続く。なんというニーチェ傾倒だろうか。
 おそらくは現在にまで続くニーチェの影響の大きさと、その反面として、その他の種々の「哲学・思想」に、「日本の思想」も含めて取り組んだことがこの人はなかった、ということも、この一文は示していそうだ。
 なお、遠藤浩一はこの欄で論及したこともあったが、故人となった。1958~2014。

2244/宇都宮健児と八幡和郎-2016年。

 2016年の東京都知事選に宇都宮健児はいったん立候補表明をしたが、鳥越俊太郎が民進党・日本共産党・社民党等に推される共同候補となって、宇都宮は立候補しなかった。
 選挙後に、宇都宮は鳥越を応援しなかった理由を明らかにした、という。
 4年前のいきさつや今回(2020年)の選挙のことに触れたいのではない。
 八幡和郎が4年前に<アゴラ>欄に登載した文章が印象に残っており(2016年8月2日付)、そこに垣間見える八幡和郎という人物の<意識・気分>に関心をもつので、以下を書く。また、八幡の文章のタイトルは「宇都宮氏の応援拒絶真相と女性議員の不甲斐なさ」で、私が関心をもつのは、主題全体でもない。
 さて、2016年の選挙(投票)後に宇都宮が明らかにした鳥越を応援しなかった理由は、「女性問題」にあったという。
 その中身や真否に立ち入らない。
 八幡和郎は、その理由をおそらくそのまま詳しく紹介している。ここでは引用しない。
 興味を惹くのは、八幡のつぎの文章だ。
 「まことに法律家として筋の通った論旨である。私も10年余りあとに同じ大学の同じ学部で学んだ者として、我々が学んだ法の精神はこういうものだったと気分が良かった。法学を学ぶと言うことは、法務知識を駆使し正義を無視して自己の利益を図る技術を獲得することではないと教えられたものだ。
 これを見て、この宇都宮氏にこそ知事になって欲しかったという声も高まっているくらいだが、いくら立派な人でもめざす政策が正しいか、経済的な裏付けがあるかなど別の問題だから飛躍は困るが、宇都宮氏のこの意見表明が、こんどの都知事選挙を締めくくる一服の清涼剤となったことは間違いない。」
 上の後段は、宇都宮が知事になって欲しかった、と書いているわけではない。
 しかし、前段に、八幡和郎の<意識・気分>が現れているだろう。
 いわく、「法律家として筋の通った論旨」だ、「私も10年余りあとに同じ大学の同じ学部で学んだ者として、我々が学んだ法の精神はこういうものだったと気分が良かった」、「法学を学ぶということは、」…うんぬん。
 果たして、この部分で、八幡和郎は何を言いたいのか。言いたいというよりも、基礎にある<意識・気分>は何か。
 それは、大雑把には、宇都宮健児は自分が卒業した大学・学部の「先輩」であり、その彼の今回の(2016年の)発言は「気分が良かった」、というものだ。
 宇都宮健児は2020年都知事選挙に立憲民主党・共産党・社民党等に推されて候補者になっている者で、2012年以前にも(いわば「野党」統一候補として)立候補したことがある。
 そのような<政治信条>を無視するわけではないが、しかし、八幡和郎は、宇都宮は自分の「先輩」で「法学」を学んだ者だ(日弁連会長経験者だから当たり前のことだ)、とわざわざ記したかったのだろう。
 些細なことに言及していると感じられるかもしれない。
 「知(知識)」習得の結果としての大学または「学歴」というもののうさん臭さに近年は関心がある。「知」それ自体では、何ものも保障しないし、判断できない。
 また、「自己帰属意識」ないし戦後日本人の<アイデンティティ>というものにも以前から強い関心がある。出身大学・「学部」等々は、いかほどの「自己意識」を形成しており、かつまたその<機能>はどう評価されるべきか。
 あくまで推測になるが、八幡和郎は、場合によっては、自分以外の者の出身大学を他の何らかの要素よりも優先して考慮・配慮するのだろう。そうでないと、上のような文章を書かない。
 また、ここでは立ち入らないが、八幡和郎の「自己意識」を形成していると見られるのは<経済産業省官僚出身者>(かつフランス・ENA留学組)ということだろうと推察される。しかし、これはあくまで<過去>に関するものなので、現在と論理的には直接の関係はない(はずだ。この点、弁護士資格という国家「資格」は永続するのと異なる)。
 国家公務員(かつての)上級職試験合格者という「資格」があるのではない。あっても、数年間だけのはずだ。(特定の?)大学入学試験合格も卒業も、それだけでは、それ自体では、何の意味もないはずだ。何らかの「知識」の学習・修得が証されたとしても、それだけでは、つまりその「知識」を保持するだけでは、利用しなければ、人間社会・現実の社会にって、何の「役にも立たない」。その辺りが、きわめて曖昧になり、かつ異様な方向へと転じている<雰囲気>がある。これは戦後日本がたどり着いた現在の一つの特徴だろう。だが、何らかの「秩序づけ」と「安定」に役立っているかもしれない。しかし、何となくの緩やかな秩序化は、種々の意味と段階でのく既得権者>をも生み、必要な変化と変革を遅らせるだろう。
 余計ながら、何か勘違いをしているのではないか、なぜそんなに大胆かつ傲慢なことを単純に書けるのか、と感じる文筆家業者は多い。八幡和郎だけでは、もちろんない。

2243/R・パイプス・ロシア革命第13章第8節・第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原著、p.584-8。
 今回部分の最後のRichard Pipes によると、<共産主義テロル(Communist terror)>は1918年2月に始まる(<テロル>と「暴力(violence)」の違いも何となく理解できる)。レーニン時代からなのであり、間違ってもスターリン以降なのではない。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 第8節・ドイツの堅い決意(Germans decide to be firm)。
 (1)トロツキーの異様な行動は、ドイツ関係者たちを全くの混乱に落とし込んだ。
 今では誰も、ロシアは講和交渉を注意を逸らす方策として利用していることを疑わなかった。
 しかし、この点はその通りだとしても、ドイツがどう反応すべきかは決して明瞭ではなかった。
 無意味な交渉を継続する?
 最後通告を受諾するよう、軍事行動によってボルシェヴィキに迫る?
 あるいは、ボルシェヴィキを権力から排除して、受け入れやすい体制に変える?
 (2)ドイツの外交官たちは、耐え忍んだ。
 キュールマンは、ドイツの労働者たちは東部前線で敵対行動を再開するのを理解できず、面倒なことが起きるだろう、と怖れた。
 彼はさらに、オーストリア=ハンガリーが戦争から離脱するのではないかと憂慮した。(44)//
 (3)しかし、1917-18年の政策を支配していた軍部は、別の考えだった。
 決定的な行動として西部に大量の戦力を注ぐことを3月半ばに予定していたので、東部前線が安全であるか兵団を西部前線に転換させ続けることはできないことが軍部には完全に確実でなければならなかった。
 軍部はまた、ロシアの食糧や原料を利用する必要があった。
 ロシアからの軍事諜報が示すところでは、ボルシェヴィキはドイツに対して最悪の意図をもつが、きわめて不安定な立場にあった。
 海軍付作戦長官でミルバッハ使節団とともにペトログラードに行ったW・v・カイザリンク(Walter von Kaiserlingk)は、警告する報告を返してきた。(45)
 間近でボルシェヴィキ体制を観察して、彼は、「権力をもつ狂気(insanity in power)」(<regierender Wahnsinn〔統治する狂気〕>)だと結論づけた。
 ユダヤ人に動かされているボルシェヴィキ体制は、ドイツのみならず文明世界全体に対する、致命的な脅威だ。
 彼は、ドイツをこのペスト菌から遮蔽するためには自国のロシアとの前線をさらに東へと移さなければならない、と力説した。
 カイザリンクはさらに、ドイツの企業上の利益でロシアを貫通することを提案した。
 その歴史上二度目のことだが(ノルマン人のことを示唆する)、ロシアは植民地化される用意がある。
 別の直接的報告書は、ボルシェヴィキ体制は弱体で軽蔑されていると述べていた。
 レーニンはきわめて不人気で、これまでのツァーリ以上に手厚く暗殺者から守られている、と言われていた。
 キュールマンが依拠した報告類によると、ボルシェヴィキを唯一支持しているのはラトヴィア人ライフル部隊だった。かりに彼らが金銭を使って追い払われれば、体制は崩壊するだろう。(46)
 このような証言者の説明は、皇帝に強い印象を与えた。そして、皇帝を将軍たちの見方へと接近させることとなった。//
 (4)ルーデンドルフは、ボルシェヴィキ体制の不安定さについて受け取った情報をドイツ軍の意気を削ごうとするボルシェヴィキの系統的な運動という証拠と結びつけた。そして、ヒンデンブルクの支持を得て、ブレストでの交渉は決裂されるべきだ、そのあとでドイツ軍はロシアに侵入してボルシェヴィキを打倒し、ペトログラードに受容し得る政府を樹立する、と強く主張した。(47)//
 (5)外務省と幕僚たちの意見は、2月13日のバート・ホンブルク(Bad Homburg)で皇帝が主宰した会合で、衝突した。(48)
 キュールマンは、宥和的方針を強調した。
 彼は、刀剣は「革命的熱狂(plague)の中心」を切り取ることはできない、と論じた。
 かりにドイツ軍がペトログラードを占拠したとしても、問題はなくならないだろう。フランス革命が雄弁に示すように、外国の干渉は民族主義と革命的熱情を燃え立たせるだけだ。
 最良の解決方策は、ドイツの助力のもとでロシア人が実行する反ボルシェヴィキのクーだろう。しかし、キュールマンがこのような政策を支持していても、彼は明確には語らなかった。
 外務大臣は、副首相のF・v・パイア(Friesrich von Payer)から支持された。この人物は、ドイツ国民の中に広がっている平和願望と軍事力によってボルシェヴィキを打倒することの不可能性について話していた。//
 (6)ヒンデンブルクは、同意しなかった。
 東方で決定的な行動をしなければ、西部戦線での戦闘が長期にわたって引き続くだろう。
 彼は、「ロシアを粉砕し、その政府を転覆させる」のを欲した。//
 (7)皇帝は、将軍たちの側についた。
 彼はこう言った。トロツキーは、講和するためにではなく、革命を促進するためにブレストに来ている。そして、連合諸国の支援を得て、そうしている。
 ロシアにいるイギリス公使は、ボルシェヴィキは敵だと告げられるべきだ。
 「イギリスはドイツと一緒に、ボルシェヴィキと戦うべきだ。
 ボルシェヴィキは野獣(tigrers)だ。何としてでも、絶滅しなければならない。」(49)
 ともあれ、ドイツは行動しなければならない。さもないと、イギリスとアメリカ(合衆国)がロシアを奪い取るだろう。
 ゆえに、ボルシェヴィキは「去らなければなない」。
 「ロシア人民は、世界中の全ユダヤ人-そう、フリーメイソンたち-と結びついているユダヤ人の報償品として引き渡されている」。(*)//
 (8)この会議は、停戦は2月17日に終了し、その後でドイツ軍はロシアに対する攻撃を再開する、と決定した。
 ドイツ軍の使命は、明確には示されなかった。
 ボルシェヴィキを打倒するという軍事作戦は、すみやかに放棄された。それは、しかしながら、文民の当局者が異議を唱えたからだった。//
 (9)この決定に従って、ブレストにいるドイツの幕僚たちはロシア人たちに、ドイツは東部前線での軍事行動を、2月17日正午にやり直す、と知らせた。
 ペトログラードのミルバッハ使節団は、帰国するよう命じられた。//
 (10)ドイツ人は虚勢を張っていたにもかかわらず、このときにドイツが何を欲していたかは明瞭ではない。つまり、ドイツの講和条件を受諾するようボルシェヴィキに強いるためか、それとも、ボルシェヴィキを権力から排除するためか。
 その当時ものちにも、ドイツは自分の最優先事項を決定することができなかった。最初はロシアの領土をより広く獲得することに関心があった。だが、それとも、ロシアにもっと普通の政権を樹立することに関心は移ったのか。
 結局は、領土への渇望が優ることとなった。//
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 (44) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.314-5.
 (45) VZ, XV, No.1(1967年1月), p.87-p.104.に再掲されている。
 (46) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (47) 同上, p.289-p.290, p.318-9.
 (48) 議事録は、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.322-9. Baumgart, Ostpolitik, p.23-p.26.も見よ。
 (49) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.326-7. ドイツ語では、Baumgart, Ostpolitik, p.25.
 (*) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, ot peregovo v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skogo degovora, I(Moscow, 1968), p.328.
 カイザリンクをペトログラードから派遣したことで喚起されたけれども、この反ユダヤの論及は、いわゆる<シオン賢者の議定書>からの影響が大きい。無邪気で単純な人々は世界大戦と共産主義に関する「説明」を求めていたが、この書物はすみやかに、そのような人々に人気のある読み物になることになる。
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 第9節・ソヴィエト・ロシアへの進軍。
 (1)ドイツによる軍事行動の切迫の通知は、2月17日の午後にペトログラードに届いた。
 直後に開かれた中央委員会の会合で、レーニンはあらためて、ブレストに戻って降伏することを申し立てた。しかし、5対6で、再び際どい敗北を喫した。(50)
 多数派は、ドイツが威嚇を実施するか否かを、待って見ていたかった。かりにドイツが本当にロシアへと侵入して来て、かつドイツとオーストリアで革命が勃発しないとしても、必然的な流れに従う時間はまだあるだろう。//
 (2)ドイツ人は、自分たちの言葉に忠実だった。
 2月17日、ドイツ兵団は前進して、抵抗に何ら遭うことなくドヴィンスク(Dvinsk)を占領した。
 将軍ホフマンは、この作戦行動を、つぎのように描写した。//
 「いまだ経験したことのない、漫画的(comic)な戦争だった。-ほとんどもっぱら、列車と自動車で行われた。
 機関銃をもつ若干の歩兵部隊と大砲一台が列車に乗り、次の鉄道駅へと進み、そこを掌握し、ボルシェヴィキを拘束し、別の部隊を乗せ、さらに進んだ。
 この手順は、いずれにしても、物珍しくて魅惑的だった。」(51)//
 (3)レーニンには、これが我慢の限界だった。
 全く予期していなかったわけではないが、ロシア軍団の抵抗のなさに、彼は唖然とした。
 戦闘する気がまるでなかったので、ロシアは敵の前進に身をさらしたままだった。
 レーニンは、ドイツ政府の決定に関する最も機密的な情報を持っていたと思われる。それはたぶん、ドイツの同調者からスイスまたはスウェーデンにいるボルシェヴィキ工作員を通じてもたらされたものだった。
 彼はこの情報にもとづいて、ドイツはペトログラードを、そしてモスクワもすら、奪取しようと考えている、と結論づけた。
 レーニンは、同僚たちの自己満足気分に激高した。
 彼が判断したように、ドイツがウクライナでのクーを再現するのを阻止できるものは何もなかった。-そのクーはつまり、レーニンを右翼の傀儡に代えて、革命を鎮圧することだ。//
 (4)しかし、2月18日に中央委員会が再度開催されたとき、レーニンはまたもや多数派となることができなかった。
 ドイツへの降伏を支持する彼の提案は6票を得たが、7人の反対票が、トロツキーとブハーリンが共同して提案した動議に投じられた。
 党指導部は、救いようもなく暗礁に乗り上げた。
 対立によって、党全体が分裂する危険があった。それは、党の強さの根源である紀律ある統一を破壊するものだった。//
 (5)この決定的に重大な時点で、トロツキーがレーニンの側に回った。立場を変え、自分の意見を主張しないで、レーニンの提案に賛成票を与えた。
 トロツキーの伝記作者によると、彼がこうした理由は、一つは、ドイツがロシアに侵入した場合にレーニンに約束していたことを履行すること、もう一つは、党に生じる大きな亀裂を回避すること、にあった。(52)
 あらためて票決が行われたとき、7名がレーニンの提案に賛成し、6名が反対した。(53)
 この辛うじての多数派獲得にもとづき、レーニンは、ロシア代表団はブレストに戻っているとドイツに知らせる電報文を起草した。<+>
 何人かの左翼エスエルが文案を示された。そして、彼ら左翼エスエルが同意したあと、無線通信でその内容が伝えられた。//
 (6)衝撃が訪れた。
 ドイツとオーストリアの両軍は、すみやかに攻撃を中止することをしないで、ロシア内部へと侵入し続けた。
 北部ではドイツ軍団はリヴォニア(Livonia)〔エストニア〕に入り、中央部では、依然として抵抗されることなく、ミンスクとプスコフへと進軍した。
 南部ではオーストリア軍とハンガリー軍が、こちらも前進し続けた。
 このような外面はあるけれども、ロシアがドイツの条件を受諾する意向を伝えた後で行われたこのような作戦行動は、一つの意味だけを持っていただろう。すなわち、ベルリンは、ロシアの首都を奪取して、ボルシェヴィキ政権を転覆させる決意だった。
 これはレーニンが想定していたことだった。I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、レーニンは2月18日に、ドイツが自分に権力を放棄するよう要求する場合にのみ自分は戦うつもりだ、と言った。(55)
 (7)数日が経ったが、前進するドイツ軍からの反応はまだなかった。
 この時点で、ボルシェヴィキ指導者たちにパニックが襲った。彼らは緊急措置を決定した。そのうちの一つは、とくに重大な意味をもっていた。
 2月21-22日、ドイツから一言の反応もまだないときに、レーニンは、「社会主義祖国が危機にある」と題する布令を執筆して、署名した。(56)
 その前文には、ドイツ軍の行動はドイツがロシアの社会主義政府を弾圧して君主制を再建しようとしていることを示す、と書かれていた。
 「社会主義祖国」を防衛するために、「非常の措置が必要だ」。
 このうちの二つは、永続的な意味をもつこととなった。
 第一に求めたのは、塹壕を掘るために「労働能力のあるブルジョア階級の全ての者から成る」強制労働大隊(battalions of forced labor)を設置すること。
 抵抗する者は、射殺されるものとされた。
 これは強制労働(forced labor)を実際に導入したもので、やがて数百万の市民に影響を与えることとなる。
 第二を定める条項は、こうだった。「敵の工作員、相場師、窃盗犯、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイは、その場で処刑されるものとする」。
 この条項は、取り返しのつかない刑罰〔=死刑〕を導入した。これは明確には定義されてもおらず、また、その当時までに全ての法令が失効していたために、制定法上の根拠もないものだった。(57)
 裁判については、何も語られなかった。また、極刑(capital punishment =死刑)になりそうな被追及者からの意見聴取の手続についてすら、同じだった。
 この布令は事実上、チェカに殺人許可証を付与した。チェカはすみやかに、これを全面的に活用した。
 これら二つは、共産主義テロルの時代が幕を開けたことを明確に示した。//
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 (50) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677.
 (51) K. F. Nowak, ed., Die Aufzeichnungen des General Majors Max Hoffmann, I(Berlin, 1929), p.187.
 (52) Deutscher, Prophet Armed, p.383, p.390.
 <+> 秋月注記-日本語版レーニン全集26巻541頁「ドイツ帝国政府あての無線電話の最初の草案」1918年18-19日夜執筆、<イズヴェスチヤ>同20日付発表。
 (53) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677. およびPSS, XXXV, p.486-7.
 (54) Dekrety, I, p.487-8.; Lenin, PSS, XXXV, p.339.
 (55) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.206-7.
 (56) Dekrety, I, p.490-1.
 =日本語版レーニン全集27巻16-17頁「社会主義の祖国は危険にさらされている!」。<プラウダ>2018年2月22日付。
 (57) 後述、第18章〔<赤色テロル>〕を見よ。
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 第8節・第9節、終わり。この章は16節まである。

2242/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第5節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第5節②。
 (7)〔1921年〕7月までに、労働農民同盟の組織は破壊され、その指導者たちは殺されるか、または逮捕された。
 チェカはその地帯に残っている社会革命党の中心地を一掃し、周辺の地域もまた駆除した。
 捕えられた数人の反乱者は、故郷に帰って残余グループの中に〔スパイとして〕浸透するよう説得された。
 10月までに、占拠-駆除の運動は徐々に収まった。
 しかしながら、アントーノフと彼の弟のドミトリ(Dmitrii)が最終的に捕獲されて殺戮されたのは、6月になる前のことだった。
 この二人はある村落に隠れ、女性二人の世話を受けていた。ところが、そのうちの一人が薬を求めて薬局に行ったとき、何気なく場所を漏らしてしまった。
 チェカの狙撃兵の一グループに包囲され、彼らは手榴弾をもって家屋から飛び出して来た。そのとき、銃弾に撃たれて倒れた。
 二人はタンボフの以前の修道院に埋葬された。そのときそこは、地方チェカの建物になっていた。
 二人の死体の写真は、彼らが解体していることの証拠として、新聞に公表された。(85)//
 (8)タンボフ反乱を絶滅させる際、共産党支配者は、自分たちのために本来は協力する必要がある住民たちを破壊する意欲を示した。
 殺戮の方法は、ある次元ではうまくいくものだった。
 軍隊とテロルによって、組織的な抵抗は終焉した。
 別の次元では、その方法は彼ら自身の教条に反するものだった。
 穀物生産地域と民衆の力を強制的徴発や軍事的征圧によって破壊することは、経済全体に対して、大厄災となる影響をもたらした。
 ソヴナルコムは、悪循環に陥っていた。
 ソヴナルコムはまず、国家の存在自体を守る軍隊を建設するために必要な、農業地域の人々や馬を穀物を使ってそれらを消耗させた。 
 この取り立てによって、その忠誠さと協力が体制の存続にとって軍隊が重要であるのと同じく重要な民衆の間には、激しい反応が巻き起こった。
 取り立てられた資源にもとづいて建設された軍隊は、次いで、騒擾を鎮圧するために用いられた。しかし、継続的に略奪行為にいそしむ多数の兵士を有する兵団がたんに存在すること自体が、その地域に対して甚大な物理的かつ経済的な損害を与えた。そして、その結果生じたのは、継続する社会不安といっそうの超過支出だつた。(86)//
 (9)1921年、ロシアの農村地帯は、軍事力と政策変化の連携によって静かになった。政策変更とは、強制食料徴発からの離脱のみならず、取引と商業に対する統制の緩和のことだった。後者は、かつては脆弱で危険の多い生活必需品供給手段だったもの、つまり闇市場(black market)を承認することとなつた。
 しかし、損害はすでに発生しており、1921年春の危機は深かった。
 飢饉が、決定的な要因だった。
 ソヴィエト・ロシアでの1918年と1919年の収穫高は、1913年の帝制時代で戦争前の最後の収穫高の4分の3だった。
 1920年の収穫高は、半分をわずかに上回る程度で、1921年のそれは半分もなかった。
 1920年の最初の干魃の兆候を見て、農民たちは、配送する仕事からの解放を求めた。
 アメリカ救済委員会(Ammerican Relief Administration, ARA)のハロルド・H・フイッシャーは、「春は暑くて、ほとんど雨が降らなかった。そして、その春の時期の土地は固くて乾いていた」と書いた。
 夏と秋もまた、渇いていた。しかし、1920年に用いられた圧力は、従来よりも寛容ではなかった。(88)
 以前の富裕なドイツ人定住者の入植地にはカテリーヌ大帝の御代以来のタンボフ地方の住民がいて、50万人を数えるになっていた。この者たちへも、攻撃の矛先が向かった。
 武装労働者たちが、テュラ(Tula)から急襲した。彼らの無慈悲さは、「鉄のほうき」という通称を生じさせた。
 ドイツ人牧師は、こう思い出す。「唸りを上げるライオンのように、彼らは居留地にやって来た。家屋、家畜小屋、地下貯蔵室、屋根裏は全て探索されて、彼らが包み込める物はみな、乾いたりんごや卵まで一つも残さず、文字通りに一掃して行った。」
 抵抗する者はみな、叩きのめされるか、笞打たれた。
 組織的抵抗をしようとの無駄な試みに対しては、数百人がまとめて射殺された。
 最後には、定住者の10パーセントは死に、多くの者が逃亡した。そして、その共同体は以前の規模の4分の1にまで解体した。(89)
 (10)1921年夏に最悪に達した干魃はヴォルガ低地、南ウクライナ、クリミアを覆い、ウラルまで進行し、そして災難が終わった。
 フィッシャーは、こう報告した。「夏の初め、膨大な数の農民たちにはもう食糧がなかった。そして農民たちは、ヴォルガの至る所で、東のウラルまで、穀物に麦藁、雑草、樹皮を混ぜ始めた。
 食糧がなく自分たちの食べ物について見極めをつけた農民たちは、パニックを起こして、焦げ付いた土地から逃亡する、膨れ上がっている多数者の中に入り込んだ。」(90)
 飢饉は、総人口5710万の36地方の190地区を襲った。(91)
 クリミアとカザンを先に支配していたトルコ語を話すムスリムは、とくに厳しい被害に遭い、ある地域では人口の半分を失った。
 カザン自体は、絶望的になっている避難民で溢れた。
 水道供給と下水道の施設は壊れており、人間のぼろ屑と死体とが、街路に積み重ねられていた。
 遺棄された子どもたちが市内をさまよい歩き、病気が蔓延した。犯罪も、売春も行われた。(92)
 (11)アメリカや他の外国の救済組織の助けがあったために、飢饉による総被害者数は、それがなかったよりもまだ少なかった。
 飢餓や病気による飢饉関連死者数は、ソヴィエトと訪問中の外国の救済執務者によって種々に計算されている。
 見積もりは、150万人から1000万人にまで及ぶ。
 ソヴィエトの1922年の公式の数字は、500万人だった。(93)
 飢饉の規模はまた、死者率という観点からも叙述することができる。
 1913年の通常年と比較して、ペトログラード、モスクワおよびヴォルガのサラトフ市の1919年の死亡率は、2倍から3倍、高かった。
 1919年についての欧州ロシア全体の死亡率は1000分の39、ペトログラードとサハロフで約1000分の70だった。
 飢饉の地域全体での死亡率は、1920年が1000分の50-60、1921年が1000分の80、だった。(94)//
 (12)飢饉はソヴィエト体制の政策決定によってのみ悪化したのではなく、反応がきわめて政治的だったことにもよる。
 アメリカ救済委員会(ARA)はのちの大統領のH・フーヴァー(Herbert Hoover)の指揮のもとで1919年に設立され、戦後ヨーロッパの空腹の子どもたちに食料を提供した。
 ソヴィエトの場合、ARA は、食料は必要に応じて、社会主義的な階級範疇とは無関係に配分されるべきだ、と主張した。
 1921年に妥協が成立して、ヨーロッパに基盤を置く組織を含む外国の救済作業者は現地へと旅行することが許され、一方でソヴィエト当局が地理的な配分の権限をもつ、ということとなった。
 この協定が締結される直前に、ソヴィエトは自らの飢餓救済委員会(Committee for Aid to the Starving, Komitet pomoshchi golodaiushchim)を設立した。これはM・ゴールキを含む43人の著名人で構成されていたが、書類に署名がなされるやただちに、ゴールキを除く全員が逮捕された。(95)
 (13)外国による救済が、全体の姿を変えることはなかった。
 農民たちは結局のところ、軍隊の力によってのみならず、飢饉の絶望によって征圧された。(96)
 1917年8月に引き合いに出された、工業主義者のP・リャブシンスキ(Pavel Riabushinskii)の言葉である「飢えた骨ばった手」は、騒擾を抑圧するための究極的な武器だった。
 1921年飢饉は、ソヴィエト体制が自分たちの民衆との間にもつ人肉喰い主義的(cannibalistic)関係の初期の例だった。これは、スターリン時代に増大するという代償を払うこととなる。
 人口統計上および人的被害という観点から見てソヴィエト社会がどの程度大きい損失を被ったかは、顕著なものがある。その多くは自己による被害だが、一方ではイデオロギー的傾倒という強い気風も生み出した。
 内戦期に実践された包括的な対破壊行動は、スターリン時代の欺瞞的な反破壊活動へと成長した。そのときじつに、「民衆は、階級敵となった」。//
 (14)たがしかし、専門的で創造的な知識人階層の多くは、彼らをとり囲む恐怖があったにもかかわらず、新しい体制に賭けた。
 ある者たちは、とどまることを許されなかった。
 ソヴィエトの意図に批判的な200人以上の知識人たちは、あらかじめ1922年に国から排除された。その多数がペトログラードから乗るドイツ船舶は、「哲学者船」として知られるようになった。(97)
 未来主義者がこぞって乗り込む近代の船ではなく、失われた価値の航行船だった。
 多数の職業人と知識人が-一般庶民はもちろんのこと-、自分の意思で国外に脱出した。
 他の者たちは、離れたくなかったか、または何とかそうすることができなかった。
 とどまった者たちの中には、敵対的なまたは愛憎相半ばする感情の者もいた。
 E・ザミアチン(Evgenii Zamiatin)は、自分の原理的考え方と皮肉精神を維持した。スターリンは1931年に、国外に去るのを許した。
 マヤコフスキ(Mayakovsky)は、未来への偉大な跳躍のために金切り声をあげたが、絶望して、自殺した。
 にもかかわらず、無数の芸術家や文筆家たちが自分たちの才能を用いる機会を見つけ、ある者はソヴィエトの実験は創造的刺激を与えると感じた。
 自分たち自身の信条から芸術家や文筆家たちが追求した文化に関する原理をめぐって、イデオロギー上の戦いが行われた。
 他の者たちにとっては、ソヴィエトの実験とは、美学上および精神上の死刑判決だつた。
 多くの者が死に、あるいは殺戮された。それは、内戦が終焉して15年後に始まった狂乱の中で起きた。
 1930年代の犠牲者たちのある程度は、初期の抑圧に模範的な情熱を示しつつ協力していた者たちだった。//
 (15)期待に充ちた大きな昂揚感の中で1917年に始まったものの結末にもかかわらず、何か新しい展望、市民が-権利と権力をもつ責任とをもつ-市民であるような政治システムへの展望は、古い帝国の以前の臣民の多数の想像力を掴んだままだった。
 この夢は、1980代に復活したように見えた。そして、1991年にレーニンの国家主義的(statist)野望がその疲れ切ったイデオロギーの旅を終えた後では、新しい状況のもとで、少なからぬユーラシアと中東の諸社会が同様の希望を抱いた。
 しかし、より近年の世界は、我々にこう思い起こさせながら進展しているように見える。すなわち、民主主義の希望と民主主義の諸制度は、つねに何と脆弱(fragile)であることか。//
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 第5節②、終わり。第6部第2章(p.606-p.624)も終わり。あとに続くのは、<結語>(Conclusion)のみ(原書、p.625-p.632)。

2241/西尾幹二・西部邁と「天皇」の変容。

 
 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008/2012)。
 西尾幹二「皇太子さまへの御忠言/+第2弾!」月刊WiLL2008年5月号/6月号(ワック)。
 西尾幹二「女性宮家と雅子妃問題」月刊WiLL2012年3月号(ワック)。
 こうした西尾幹二の発言・主張に対して、西部邁は2013年秋にこう批判的にコメントしていた。なお、これら月刊WiLLのこの時期の編集長は花田紀凱。
 西部邁「天皇は世襲の法王なり」月刊WiLL2013年10月号(ワック)。p.283-4。
 「…。しかし、戦後に進んでいるのは、日本の伝統を全て天皇に預けて国家の歴史には無関心でいる、という伝統に関する無責任体制です。//
 そう考えると、僕には西尾幹二さんのように、皇太子さまや雅子妃殿下に対して『御忠言申し上げる』という態度には出られない。
 …全面否定しているわけではありません。国民が皇室のあり方について発言するというのは、最低限のエチケットを守っているかぎりにおいて許されることだと思いますし、『畏れを知らずに皇室にもの申すとはけしからん』などいう意味で疑問を呈しているわけではない。
 国民の責任をまず問えと言いたいだけです。//
 しかし、今日の国民を見ればわかるように、これほどまでに伝統を無視し、つまりは、天皇の地位の基盤となるものを破壊しておきながら、しかも皇室に様々な問題が生じている時に皇室批判に立ち上がるというのは、僕にはどうしても本末転倒だと思う。」
 上の西部邁論考全体ではなく、上のコメント・感想のかぎりで、西部の言いたい趣旨もよく理解できる。
 そして、「(今日の国民は)天皇の地位の基盤となるものを破壊しておきながら、…」という部分に関して、別に長く書こうと思っていたのだが、よく調べて確認しないままで以下に記しておくことにする。
 
 上で西部の言う「天皇の地位の基盤となるもの」の「破壊」の具体的意味ははっきりしない。
 だが、「破壊」された「天皇の地位の基盤」を無視して、まるで旧憲法下の「天皇」制度が戦後に継承されているかのごとき<錯覚>を、自称あるいは「いわゆる保守」派はしていることが多いと見られる。あるいは、<錯覚>していることを意識しながら、その点を無視して、一生懸命に女系天皇排除とか容認とかに焦点を当てて論じているのようにも見える。
 女系天皇・女性天皇うんぬんの議論が全く無意味だとは思えない。
 しかし、旧憲法下と現憲法下と、「天皇」をめぐる環境は大きく変容していることを十分に意識しておく必要があるだろう。
 世襲天皇制の現憲法上の容認でもって、「天皇」制の連続を語る者は多いだろう。125代とか126代とか言われる。
 しかし、江戸時代の「天皇」と明治憲法下の「天皇」とが大きく変化したように、戦後の「天皇」もまた、戦前とは大きく変わっている。この「現実」をまずは明確に認識しなければならない。以下、立ち入った確認作業を省略して書く。
 第一。戦前の、「皇族」・「華族」・「士族」・「平民」・…という<身分>制度が、「皇族」を除き、全て消滅した。
 「天皇」制度はなぜ長く残ってきたのか、武家政権はなぜ「天皇」を許容したのか、といった問題が設定されることがある。これについては、「天皇」一身または天皇「一族」程度ならば、世俗武家政権は<廃絶>あるいは露骨には<一族根絶>くらいのことはすることのできる実力(・暴力)機構を有していたかと思われる。
 それをしなかった、またはそうできなかった理由は、「天皇」をとり囲む「貴族」あるいは「公家社会」の存在だ。天皇個人や天皇一族を殺しても、「公家社会」全体を廃絶することはできず(皇位主張者はおそらく途切れず)、むしろ大きな反発を喰い、重大な「社会不安」の原因となる。
 専門家ではないから、一種の思いつき的なものだが、上のような事情が少なくともあったことを否定できないのではないか。
 明治以降も「華族」制度は残った。それには公家に加えて新しく、<廃藩置県>後に旧藩主階層まで入ってきた(公卿に加えての諸侯)。これらかつての<貴族・公家>にあたる階層は、明治以降も、「天皇」、そして「皇族」を(現在よりも)厚く取り囲み、心理的・精神的面を含めて保護する役割を果たしていたかに見える。
 そのような「華族」(公爵・伯爵・侯爵・子爵・男爵)は現在にはない。あるのは「皇族」とそれ以外(あるいは「皇族」と「旧皇族の末裔」とそれ以外)だけだ。
 「天皇(家)」は、孤独なのだ。「皇族」の数も減ってきた。この減少、そして敗戦後の「旧皇族」の多くの皇籍離脱の実質要求がGHQの「陰謀」だとする見方も多いようだが、今のところそうは感じない。
 「皇族」以外についての<法の下の平等>、それ以外の<身分>制の廃止にこそ根源があると見るべきだ。
 そして、<いわゆる保守>派も、日本会議も、「華族」・「士族」の廃止を批判してこれらの復活を主張しているわけでは、全くないだろう。明治憲法下への<郷愁>があるとするなら、この点はいったいどうなのか??
 第二。上野「恩賜」公園という名前で現在でも残っているが、戦前は、天皇および「天皇家」は大資産家だった。<天皇財閥>という語もあったと読んだことがある。
 もともと一般の「公家」一家以上には天皇「家」は少しは裕福だったようだが、明治維新後の近代<所有権>制度の確立とともに、「国(国家)」とともに「天皇(家)」も大資産家になったのではないか。神宮(・外苑)もまた、天皇(家)の「私」有地だった。
 戦後憲法下ではどうなったか。
 国有財産法(法律)に「皇室用財産」という言葉・概念がある。しかしこれは「国有財産」の一種であって、「皇室」または「天皇」の<私有>財産ではない。
 皇居の土地も建物も、逗子や那須の「御用邸」も皇室用財産としてもっぱら皇室または天皇家の利用に供されているようだが、全て国有財産であって、排他的に利用できる地位・権能が「皇室」であるがゆえに実質的に認められているにすぎない。
 三種の神器は天皇家に伝わる「由緒ある」ものとされて国有財産ではないようだが、天皇(家)あるいは秋篠宮家等が<私的に・個人的に>所有している>財物というのは(外国賓客からの個人的贈答品は含まれるかもしれない)、相当に限られているのではないか。
 かつて現在の上皇陛下が皇居内で某ホンダ製自動車を運転される映像を見たことがある。皇居内の公園・緑地ならば<運転免許証>は不要だろうと感じたものだが、はてあの自動車は「誰の所有物」だったのか? 当時の天皇個人の所有だったのか、宮内庁(・国)から「借りて」いたのか。
 要するに、ここで言いたいのは、現在の天皇(家)はまともな?私有財産をほとんど所有していない、ということだ。国からの「内廷費」から、個人的な支出も行われている、ということだ。天皇(家)は「ほとんど裸の」状態にある、との叙述を読んだこともある。
 以上、少なくとも二点、旧憲法下から現在へと憲法上「世襲天皇制」が、そして皇室典範(法律)上原則としての?<終身在位>制が明治憲法下の皇室典範においてと同様に継承されているとは言え、「天皇」(家)をとりまく環境は、大きく、決定的と言ってよいほどに変容している。
 そのような天皇(家)だけに対して日本の「伝統」を守れ、と主張するのは、西部邁も指摘するように、「本末転倒」という形容が適切かどうかは別として、やや異常なのだ。あるいは、何らかの「政治上」または「商売上」の目的・意図を持つものと思われる。

2240/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第4節・第5節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第4節。
 (1)クロンシュタットの海兵たちは、全ての意味での聖像(icon)だった。
 ボルシェヴィキは、バルト艦隊の海兵たちを、革命の初期に果たした役割のゆえに褒めそやした。
 1921年反乱のパルチザンたちは、抑圧の新しい形態に反対する暴徒たちを称揚し、彼らを自由を愛する「アナキスト」、民衆の解放のための闘士だと叙述した。
 ヴィルナ(Vilna)〔リトアニアの都市〕出身のアメリカのアナキスト、A・バークマン(Alexander Berkman)は、その当時、ロシアに住んでいた。彼は事件の一年後に、こう書いた。
 「クロンシュタットは陥落した。
 だが、その理想主義と道徳的純粋さでは、勝った。その寛容さとと高い人間性において。
 クロンシュタットは、立派だった。…。
 素朴な、洗練されていない海兵たちは、振る舞いと言説は粗野だったが、あまりに高貴すぎて、ボルシェヴィキによる復讐の見せしめとして屈従することはできなかった。彼らは、嫌われた人民委員ですら射殺しようとはしなかった。」
 バークマンは、つづける。
 「ボルシェヴィキの勝利は、それ自体の中に敗北を抱えていた。
 その勝利は、共産主義者独裁の真の性格を暴露した。…。
 クロンシュタットはボルシェヴィキとその党の独裁に、狂った中央集権主義に、チェカのテロリズムと官僚主義階層制に、弔鐘を響かせた。
 クロンシュタットは、共産主義者〔共産党〕独裁のまさに心臓部分を突いた。」(67)//
 (2)バークマンの書いたのとは反対に、ボルシェヴィキは敗北しなかった。
 革命に対する脅威を、党を強化するために利用することができた。そして、本当の反対派は、そのときまでに衰退していた。
 社会革命党とメンシェヴィキは、革命を敗北させる「白軍将軍」コズロフスキと協力したと非難された。
 反乱は外国勢力によって使嗾され、財政援助された、と言われた。
 実際には、左翼に対する党の批判者の中の多数は、反乱に対抗して立ち上がるのは気が進まなかった。
 メンシェヴィキ指導者たちは、すでに記したように、労働者たちがその抵抗運動を増大するのを思いとどまらせた。
 アナキストのV・セルジ(Vivtor Serge )は、クロンシュタットは「人民民主主義のための新しい、解放する革命の始まり」だと考えた。しかし、それにもかかわらず、最後の瞬間には、「混乱と、その混乱を通じての農民蜂起と共産主義者の虐殺に、エミグレたちの帰還に」、「とどのつまりは純然たる実力行使による、別の独裁制、今度は反プロレタリアの独裁制が生まれる」ことに反対して、ボルシェヴィキ独裁を擁護した。(68)//
 (3)多くのエミグレたちは、旧体制に復帰する望みをなお捨てていなかった。
 何人かは、立憲主義を基礎にした権力の再構築をなお夢見ていた。
 1918年、カデットの一グループはモスクワで自分たちで国民センター(National Center)と称した団体を設立しており、今では多様なヨーロッパの都市にも根拠を置いていた。そして、1919年には、ユーデニチ(Iudenich)将軍への支援を提供した。
 この団体はクロンシュタットでの騒擾を歓迎し、食糧や武器のかたちでの支援を結集させようとした。
 この活動は、赤十字とフランスのそれに巻き込まれることとなった。
 ある程度の資金が集められたが、反乱者たちにはほとんど何も届かなかった。
 イギリスは当時はロシアとの商取引の交渉に追われていて、これには無反応だった。(69)//
 (4)要するに、反革命陰謀という咎を負わせるのは、あらゆる意味で間違っていた。
 コズロフスキ将軍は、片方の将校たちとは何の関係もなかった。
 反ボルシェヴィキのリベラル反対派は、かつてはユーデニチ(Iudenich)と同盟したが、今では外国に離散して、介入する力がなかった。
 メンシェヴィキは、国内でも外国でも、ソヴィエト体制に根本的な挑戦をすることに、一貫して反対し続けた。彼らはソヴィエト体制のうちに、社会主義の未来の最良の希望を依然として探し求めたのだった。//
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 第5節①。
 (1)1921年初頭、ソヴナルコムはこうして、かつて革命の中枢的基盤-産業プロレタリアートと急進的クロンシュタット海兵-と称したものによる戦闘的な反対に直面した。
 対照的に、農民たちはつねに、懐疑的に「ブルジョア」だと考えられてきた。
 クロンシュタット反乱者が弾圧され、示威的に報復的な制裁を受けると、今度はついに、農村地帯を統制下に置くときがやって来た。
 農民たちはぎこちなくマルクス主義の教条に適合していたけれども、彼らもまた、より良き生活に憧れ、新しい種類の自由としての革命を夢見た。19世紀の人民主義者(Populists)やそれを継承した社会革命党が理解したような革命を。
 飢えは彼らの憤激の唯一の根源ではなかった。
 農民たちは、新しい権力が課す要求と、彼らに向けられる暴力に憤慨した。
 タンボフ(Tambov)地方で長引いている暴動に関係して、ボルシェヴィキの最後の戦闘の残虐さは、誰が目標を定める者で、誰が主人であるかを、明確に示そうとする気概によっていた。
 ボルシェヴィキのタンボフ作戦は反暴動の運動であり、究極的には征服(conquest)と言ってよい行為だった。//
 (2)1921年春、クロンシュタット兵が鎮圧されて第10回党大会が新経済政策を開始した後でも、農村地帯はまだ沈静化していなかった。
 V・アントノフ-オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)はA・アントーノフの反乱の残滓を絶滅させる権能をモスクワに付与された特別全権委員会の長をしていたが、軍事増援を求めた。
 彼は訴えた。「強盗分子たちが戻ってきて、我々に忠実な農民たちの制裁を始めた」。
 赤軍が撤退すればいつでも、「強盗たちがもう一度やって来て、状況を支配する主人面をしている」。(70)
 党はタンボフを、スター司令官のミハイル・トゥハチェフスキに委ねた。トゥハチェフスキは、最も信頼できる赤軍の大分隊、自動車部隊、偵察用航空機、および軍団を指揮するための1000人の政治委員とともに、5月6日にタンボフに到着した。(71)
 この戦闘でトゥハチェフスキが強く主張したのは、固有の軍隊を制御する制約は-表面的にすにら-存在していない、ということだった。(72)
 反乱者アントーノフはせいぜいのところ、パルチザン-非正規兵-として扱われることとされた。
 最悪の言い方をすると、「強盗」、無法者、犯罪者だった。
 活動中のある点で、森の中に潜んでいる反乱者たちに対して毒ガスを用いる権限すら、トゥハチェフスキに与えられた。
 毒ガスが実際に用いられたかどうかは、明瞭ではない。しかし、毒ガスの脅威は、威嚇の手段として公表された。(73)//
 (3)しかしながら、戦場でアントーノフを敗北させるだけでは十分でなかった。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「盗賊団という病気蔓延から地方住民を守って治癒するには、熟達した手段を用いなければならない」。(74) 
 5月の一連の布告が、この手段がどのようなものであるかを明らかにした。(75)
 一ヶ月のち、指令171号は、農民世帯に深く入り込む戦争に着手した。それは、人質取りや集団責任という悪辣な実務を拡張し、社会的連帯を-家族的紐帯すらも-根こそぎ破壊し、いかなる形式的手続もなしで済ませるものだった。
 「1) 自分の名前を述べるのを拒否する市民は、裁判なくしてその場で射殺する。
 2) 武器が隠匿されている村落では、政治委員は人質を取り、武器が譲り渡されないときは人質を射殺する。
 3) 隠匿された武器が発見されたとき、家族中の最年配の労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 4) 盗賊を匿う家庭では、全家族が拘束され、その地方から放逐され、資産は没収され、最年配労働者は裁判なくして射殺される。
 5) 盗賊の家族を匿う、または盗賊の資産を隠す農民世帯は、盗賊として扱われ、家族中の最年配労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 6) 盗賊の家族が逃亡した場合、その資産はソヴェト権力に忠実な農民たちで分けられ、その家屋は焼却するか、解体する。
 7) この指令は、厳格かつ容赦なく適用される。」(76)
 実際に、そのとおりだった。(77)
 ある司令官は6月遅くに、「農民大衆を盗賊と非盗賊に分離する」技術に関して報告した。
 彼は村落に対して、犯罪者の存在を明らかにするために30分を猶予した。その後で、人質-男はむろんのこと女も-を、第三者の面前で射殺した。
 「この方法は、積極的な結果を生んだ」、と彼は報告した。(78)//
 (4)系統的な運動は、抵抗を鎮圧することのみならず、ソヴィエト諸制度を強化することも意図していた。
 地方チェカは数の上では、反乱の過程で少なくなっていた。しかし、アントノフ-オフセエンコは一掃と拘束を呼びかけた。
 A・アントーノフは、信頼することのできる農民世帯のリストを作っていた。
 チェカの工作員も今では、人質を取る誘導指針として、忠実な村民と疑わしい村民のリストをまとめた。
 パルチザン軍は、地方ソヴェトを破壊し始めていた。
 アントノフ-オフセエンコは、既存のソヴェトに代わって地方の党員たちで構成される「革命委員会」を設置した。彼らは、殺害されることを怖れて、都市部の比較的な安全さを捨てるのは気が進まなかったけれども。(79)
 (5)もちろん、農民にとって、作戦行動はつねに簡単に選択できるものではなかった。
 労働農民同盟は、共産党員の家族たちや赤軍に屈従している者たちに対して、復讐をした。
  一方で、チェカは仕事をしていて、同盟の表面部分の委員の跡をつけ、その指導者たちを捕獲し、同盟の村落での支持者の記録を残した。
 地方の司令官たちは人質を射殺することの有効性を正当化したけれども、7月までにモスクワの指導者は、村落でのテロル運動の心理的な影響に疑問を投げかけた。(80)
 ある者たちは、指令171号を廃棄することを望んだが、結局はアントノフ-オフセエンコとトゥハチェフスキは、アントーノフの軍隊の残りを多数殺戮したとして、褒め称えられた。(81)
 トゥハチェフスキ自身は、「強盗たち」への支援の淵源を根絶するのみならず、村落の「ソヴィエト化」(sovietization, sovetizatsiia)を達成するという困難な任務をもやり遂げたことを、誇った。(82)
 (6)しばらくの間は、沈静した状態が実際に続いた。
 7月に指令171号は公式には撤回されたけれども、その有効性は称賛され、「全ての厳格さをもって」一定の地域に適用され続けた。(83)
 人質を住まわせるために用いる強制収容所(この語はすでに述べたように戦争中にすでに流布していた)の数は、女性や子どもを含む収容者の数と同じく、増加し続けた。
 8月頃に、タンボフ地方での10の強制収容所は、1万3000人の収容者を住まわせていた。それらの中には、チェカまたは革命審判所によって「強盗」または「投機者」として有罪とされた者もいた。またもちろん、ポーランドの戦争捕虜、以前の義勇軍兵士たち、実際の犯罪者たち、クラク〔富農〕と想定された農民もいた。
 生活条件は、別に驚くほどのことではないが、きわめてひどかった(dreadful)。(84)
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 第5節②へとつづく。

2239/西尾幹二の境地・歴史通/月刊WiLL11月号別冊⑥。

 
 西尾幹二(1935~)の遅くとも明確には2019年以降の<狂乱>ぶりは、戦後「知識人」または「評論家」、少なくとも<いわゆる保守>のそれらの「行く末」、最後あたりにたどり着く「境地」を示しているだろう。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)=月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 何度めかの引用になるが、西尾幹二は、こう明言した。
 ①「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。
 大げさにいえば超越的世界観を信じるか、可視的世界観しか信じられないかの岐れ目がここにあるといってよいでしょう。
 …、少しは緩めて寛大に…と考える人…。しかし残念ながらそれは人間世界の都合であって、神々のご意向ではありません」。p.219。
 ②「日本人には自然に対する敬虔の念があります。…至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。
 …、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。決して科学の国ではない。だから、それを守らなくてはなりません。」p.225。
 上の最後に「天皇家」への言及がある。
 ところでこれを収載する雑誌=歴史通・月刊WiLL11月号別冊(2019)の表紙の下部には、現天皇と現皇后の両陛下の写真が印刷されている。
 ところが何と、広く知られているはずのように、西尾幹二は、中西輝政や八木秀次・加地伸行らとともに、現皇后が皇太子妃時代に皇后就位資格を疑い、西尾は明確に「小和田家が引き取れ」と書き、秋篠宮への皇統変化も理解できる旨を書いた人物だ。
 平成・令和代替わり時点での他の雑誌に西尾幹二は登場していた。むろん、かつての皇太子妃の体調等と2019年頃以降とは同一ではないとは言える。状況が変わったら、同じ事を書く必要はないとも言える。
 しかし、誠実で真摯な「知識人」・「評論家」であるならば、西尾幹二は編集部からの執筆依頼にホイホイと乗る前に、あるいは乗ってもよいがその文章や対談の中で、かつての皇太子妃(・現皇后)、ひいては皇太子(・現天皇)について行った自分の言論活動について、何らかの感想を述べ、態度表明をしておくべきだろう(かつてはそれとして正当な言論活動だった、との総括でも論理的には構わない)。
 西尾幹二は、自らに直接に関係する「歴史」についても、見ようとしていないのではないか。別に触れるようにこれは<歴史教科書問題>についても言えるが、自らに関係する「歴史」を無視したり、あえて触れないようにしているのでは、とても「歴史」をまともに考察しているとは思えない。むろん「歴史家」でも、「歴史思想家」でもない。「歴史」に知識が多い「評論家」とすら言えないだろう。
 
 上掲の対談部分できわめて興味深いのは、西尾は「神話」に何度も言及しつつ、以下の二点には論及しようとはしていないことだ。
 第一。「神話」とか「神々のご意向」と、西尾は語る。
 ここでの神話とは日本で日本人として西尾は発言しているのだから、「日本(の)神話」あるいは「日本(の)神話」上の「神々」のことを指して、上の言葉を使っていると理解する他はないだろう。まさか、キリスト教「神話」またはキリスト教上の「神々」ではないだろう(仏教の「神」はふつうは「神」とは言わない)。
 しかるに、西尾幹二は、「日本神話」という語も、また、<古事記>という語も<日本書記>という語も(その他「~風土記」も)、いっさい用いない。
 これは異様、異常だ。使われていない言葉にこそ、興味深い論点が、あるいは筆者の意図があったりすることもある。
 そしてもちろん、「女系天皇は史上例がない」という西尾の<歴史認識>の正しさを根拠づける「日本(の)神話」上の叙述を一句たりとも、一文たりとも言及しないし、引用もしない。
 これもまた、異様、異常だ。なお、p.223では対談相手の岩田温が、<天照大御神の神勅>に言及している。これにすら、西尾幹二は言及することがない。
 だが、しかし、この「神勅」はかりに「天皇(家)」による日本統治の根拠になり得るとしても(もちろん「お話」として)、女系天皇の排除の根拠には全くならない。(さらには、天照大御神は古事記や日本書紀上の「最高神」として位置付けられているというのも、疑わしい一つの解釈にすぎない。)
 第二。「神話」というのは、世界でどの程度がそうなのかの知識はないが、何らかの「宗教」上のものであることが多い。または、何らかの「宗教」と関係していることが多い。ここでの「宗教」には、自然や先祖への「信仰」を含む、<民俗宗教>的なものも含めておく。
 さて、西尾幹二の発言に特徴的であるのは、「神話」を熱心に語りながら、「宗教」への言及がいっさいないことだ。
 上に一部引用した中にあるように、「神社」に触れている部分はある。また、<宮中祭祀>にも言及している。
 しかし、何故か、西尾幹二は、「神道」という語・概念を用いない。「神社神道」という語はなおさらだ。
 かと言って、もちろん「宗教」としての「仏教」に立ち入っているわけでもない。
 これまた、異様、異常だ。 いったい、何故なのだろうか。
 抽象的に「神話」で済ませるのが自分のような「上級かつ著名」な「知識人・評論家」がなすべきことで、「神道」(・「神社神道」)といった言葉を使うのは「下品」だとでも傲慢に考えているのだろうか。
 それとも、かなりの推測になるが、「神道」→「神社神道」→「神道政治連盟」→日本会議、という(相当に常識化している)連想を避けたいのだろうか。
 西尾幹二は櫻井よしこ・日本会議は<保守の核心層>ではないとそのかぎりでは適切な批判をし、日本会議・神道政治連盟の大多数が支持している安倍晋三政権を「保守内部から」批判したりしてきた。そうした経緯からして、日本会議・神道との共通性または自らの親近性、西尾幹二自身もまた広く捉えれば日本会議・櫻井よしこらと同じ<いわゆる保守>の仲間だ、ということを感じ取られたくないのだろうか。
 
 神話について叙述しながら、かつまた「神話と歴史」の関係・異同を論じながら、つまり「神話」と「歴史」という語・概念は頻繁に用いながら、<宗教>に論及することがない、またはきわめて少ないのは、西尾幹二のつぎの1999年著でも共通している。
 西尾幹二・国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 ここで扱われている「歴史と神話」は日本に固有のそれではなく、視野は広く世界に及んでいるようだ(と言っても、欧州と中国が加わっている、という程度だと思われる)。
 しかし、この主題は日本の「神話」と中国の「歴史(書)」=魏志倭人伝の比較・優劣に関する論述の前段として語られていること、または少なくともつながっていることを否定することはできない。
 そして、きわめて興味深いのは、日本または日本人の「神話」あるいは古代日本人の「精神世界」に立入りながら、西尾幹二は決して「神道」とか「仏教」とかを明確には論述していないこと、正確にいえば、「日本の神道」と「日本化された仏教」を区別して叙述しようという姿勢を示していないことだ、と考えられる。
 西尾幹二は「神道」と「仏教」(や儒教等)の違いを知っているだろうが、この点を何故か曖昧にしている。
 これは不思議なことだ。
 しかし、西尾の主眼は<左翼>ないし<左派>歴史観に対して『ナショナリズム』を対置することにあるのだとすると、上のことも理解できなくはない。
 この書には(原書にも文庫本にも)「日本文明(?)」の粋と西尾が思っているらしき日本の彫像等による「日本人の顔」の写真が掲載されている。文庫本に従うと(原著でも同じだった筈だが)、つぎの16だ。
 ①四天王・増長天像(当麻寺金堂)、②四天王・広目天像(同)、③塔本四面具・八部衆像(法隆寺五重塔)、④塔本四面具・十大弟子像(同)、⑤八部衆・五部浄像(興福寺)、⑥八部衆・沙羯羅像(同)、⑦十大弟子・目犍連像(同)、⑧十大弟子・須菩提像(同)、⑨四天王・広目天像(東大寺戒壇院)、⑩無著菩提立像(興福寺北円堂)、⑪世親菩薩立像(同)、⑫重源上人坐像(東大寺俊乗堂)、⑬二十八部衆・婆藪仙人像(三十三間堂)、⑭二十八部衆・摩和羅女像(同)、⑮護法神像(愛知・荒子観音寺)、⑯十二神将・申像(愛知・鉈薬師堂)。
 なお、口絵上の上記以外に、本文途中に、つぎの写真もある。便宜的に通し番号を付す。p.395以下。
 ⑰宮毘羅像頭部(新薬師寺)、⑱持国天像邪鬼(興福寺東金堂)、⑲雷神(三十三間堂)、⑳風神(同)、21梵天坐像(東寺講堂)、22十二神将・伐析羅大将像(興福寺東金堂)、23金剛力士像・吽(興福寺)。
 一見して明らかなように、これらは全て<仏教>上のもので、現在は全て仏教寺院の中にある。口絵部分の最後の2つの⑮・⑯が見慣れた仏像類とやや異なるが、あとは紛れもなく「仏像」または「仏教関連像」と言ってよいものだと考えられる。
 しかし、興味深いのは、西尾幹二が関心をもってこれらに論及して叙述しているのは、日本人の「精神」や日本の「文化」・「美術」であって、<仏教という宗教>(の内容・歴史)では全くない、ということだ。
 妙法院三十三間堂は平清盛が後白河法皇のために建設して献じた、とされる。
 それはともかく、上のような「日本人の顔」を描く像を「文化」ないし「美術」、広くは日本「精神」の表現とだけ捉えて論述するのは、大きな限界があるように考えられる。
 つまり、諸種・各種の「仏教」・「仏典」等に立ち入って初めて、これらの意味を真に理解できるだろう。
 もちろん、日本「文化」・「文明」や「美術史」上、貴重なものではあるだろう。
 だが、それ以上に踏み込んでいないのが、さすがに西尾幹二なのだ。
 出典を明らかにできないが、西尾幹二は<特定の宗教に嵌まることはできない>と何かに書いていたことがある。
 この人は、仏教の各宗派にも諸仏典にも、何の興味も持っていないように見える。
 おそらくは、日本の仏教または仏教史をきちんと勉強したことがない。あるいは多少は勉強したことがあっても、深く立ち入る切実な関心をこの人は持っていない。
 同じことは、じつは、日本の「神道」についても言えるのではないか、と思っている。
 西尾幹二は、神道の内実に関心はなく、その<教義>にも<国家神道なるものの内実>にもさほどの関心はない。
 そのような人物が何故、「神社」に触れ、「宮中祭祀」に触れ、女系天皇を排除すべき「天皇の歴史」を語ることができるのだろうか。
 「神社」とは神道の施設ではないのか? 「宮中祭祀」は無宗教の行為なのか? 宮中三殿に祀られている「神」の中に、仏教上の「神」に当たるものはあるのか。
 結局のところ、「神社」も「宮中祭祀」も、「天皇」も、かつての皇太子妃(・皇太子)批判も、<神道-天皇>を永続的に守りたいという気持ち・意識など全くなく、西尾幹二は文章を書いている、と思われる。
 <天皇>に触れても、少なくとも明治維新以降、「仏教」ではなく「神道」が<天皇の歴史>と密接不可分の関係を持たされた、というほとんど常識的なことにすら、西尾幹二はまともに言及しようとしない。
 いったい何故か? いったい何のためか?
 おそらく、西尾幹二の<名誉>あるいは<業界での顕名>からすると、そんなことはどうだってよいのだろう。戦後「知識人」あるいは「評論家」という自営文章執筆請負業者の末路が、ここにも見えている。

2238/秋月瑛二の想念⑧01-2020年6月。

 秋月瑛二の想念-2020年6月①。
 いろいろなことを考える。
 最も深くは、人間にとっての、正確には現在の人間や社会にとっての「知」・「知識」の意味だ。脳内の一定部分に強くか弱くか、継続的か一時的にか蓄積される<認識>の束のようなもので、「教養」とか言われるものを含む。
 ヒトと人間の「進化」に<精神>活動、<知識獲得・継承>活動が不可欠だったことは論じるまでもなく、「精神」活動・「知的」活動一般を否定するつもりはないし、否定できるはずもない。
 だが、世界の国や地域で同じ程度ではないとはいえ、いずれかの時代から、「教養」を含む「知」の意味は、あまりに高く、大きく評価されすぎになってしまって、ほとんど誰も疑問視していない(つまり当然視している)。
 これは人間または国民・住民に一様に言えることでもない。
 「専門知識」・諸概念を伴う「理論」を知っている者たちが、人間の世界の中にいることは必要だ。しかし、どの程度の人が、どの範囲の数の人々が、「知識」や「理論」を知っている、身に付けている必要があるのか。
 「知識」は個人的にも獲得でき、「家庭」でも教えることができるが、「知識」提供がおおむね<社会化>(・国家化)されたのは大雑把に言って<近代>以降のことだろう。
 「国家」自体が強く大きくなるために、「国民」自体に対する「公教育」が必要だった。
 日本に限ればもともと日本人の識字率は高かったところ、明治以降の「義務教育」制度等々によって、基礎的な素養・教養程度において、日本人は高いとか言われている。
 しかし反面で止目しておいてよいと思われるのは、本来は、もともとは、-その意味が<本来は>問題になるが-必要ではない「知識」も<教え込まれた>ということだ。
 それぞれの人々、ある程度の範囲の人々には<本来は不要>だったとすると、その人たちに対する「教育」にかけたエネルギーは、浪費、無駄だったことに論理的にはなる。
 戦後日本もまた、<高教育>の方向へとつき進んだ。
 戦前は小学校・高等小学校までくらいが<ふつうの庶民>の最終学歴だったところ、新制高校への進学率は100パーセント近くになり、かつての旧制中学への進学率以上にするかに高く、同一学年の45-50パーセントが「大学生」になっている、とされる(旧制度期の実際については時代・時期により異なるだろうが、こだわらずに書いている)。
 彼らは、4-6年を「大学生」として過ごす。
 この「大学教育」の現在の日本での意味はいったい何か。
 大学教授等の大学教師たちがいて、一方では「研究者」でもあるようだが、おそらく少なくとも過半数はろくに「研究」もせず、「論文」もほとんど書かず、「教育」だけをしている(正確には、「教員」人事を含む大学・学部運営への関与もある)。
 彼ら「大学教師たち」の今日での存在意義は、いったいどこにあるのか。
 彼ら「大学教師たち」こそ、「知識」や諸概念を伴う「理論」について、あくまで<大衆>と比べて相対的に見てというだけだが、かつまた一定の「分野」に限ってのことだが、<より高く、広く>知っている、とされる。
 だが、彼らの「知識」等とそれをいちおうは享受する「学生」たちにとって、そもそも具体的な「知」や「精神活動」はいったい何のために役立っているのか。
 大学進学・卒業の意味が実質・実体ではなく<レッテル・ブランドの獲得>に代わったと指摘されて久しいだろう。むろん一部は除外して、総体としては、という意味だ。
 馬鹿馬鹿しい<レッテル・ブランド>のために、壮大な精神的・物理的エネルギーが無駄に使われている、という感触を拭いがたい。当然に、膨大な数の親・保護者、学校教育関係者を巻き込んでいる。
 医師、あるいは専門法曹、専門技術者等々、必要な職業・資格があることは否定できない。
 しかし、そうした職業に就かない、資格を獲得しない、おそらくは最少でも過半数の学生たちにとって、「大学教育」とは何なのか、何のために「大学教師」が必要なのか。
 <レッテル・ブランドの獲得>が第一で、第二は(社会人としての?)「教養」だとすると、こんな馬鹿馬鹿しい、無駄なものはない。
 クイズ番組で優勝することができるほどの多数で雑多な「知識」を各人が持つ必要はない(アメリカで諸種の辞典類を全て詰め込んで必要語句を探索できるAIが優勝したとの話を読んだことがある。勝利しても彼=AIロボットは「喜ばなかった」そうだ)。
 現実社会を「現実に」生活していくためには何ら役に立たない「教養」も、-あるいは「教養」をそういう限定された意味で使うと-それを習得することは無意味で、無駄だ。
 最近のコロナウイルス禍に引きつけて言うと、ウイルス・細菌・生命といった基礎的概念、産まれ落ちたときにすでにある、あるいは生後に社会的に獲得した「免疫」(遺伝、自然免疫)、そうした「機構」をもつ「細胞」やその集積体について、基礎的にではあれ、何らかの「知識」を持っている方が、はるかに有益ではないだろうか。
 あるいは広げると、<何故、見えるのか(脳は外界を画像として知覚するのか>、<何故、皮膚は感じるのか(触覚)>等々といったヒト、人間(あるいは多くの生命体)そのもの全員に関係がある、まさに<自分自身のこと>に関する「知識」をもっていることの方が、はるかに意味があるのではないだろうか。
 とある外国の歴史上の王朝名・国王名を知らなくとも、外国での「~戦争」やその勃発年について知らなくとも、まさに<自分自身のこと>である人体・脳・細胞・生命に関する「知識」を持っている方が、はるかに有益だ。
 明治以降のどこかで、<教育・教養>政策には、根本的な見直しが必要だったかに見える。
 だが、これを<変革>するにはよほどの大きな<時代意識>の変革が必要だろう。
 単純に言えば、<無駄な知識・精神活動>よりも<健全なヒト・人間としての活動>だ。「知」ではなく、「感性」あるいは今日に必要な「人間的な=同種の生命体への共感を持つ感情」や適度に鍛えられた健康な身体の培養により意識と配慮をむけて重視することだ。
 むろん、むつかしい。意味・内容自体も問題だが、そのような基礎的な関心自体に乏しいだろう。
 現在の日本で<知的精神活動>を行っている者たちの大半は、明治以降・戦後日本へと続いた<教養教育>の優等生・少なくとも劣等生ではなかった者、で占められている。彼らはほぼ「知育」に限っての<学校での成績・順位>を自己存在の根拠にしているゆえに、根本的に「知」のありようを問うたりするのは、<自己否定>につながる危険性がある。従って、「知識」にかかわる教育の意義を、根本的に疑問視することはない。大まかな分類のもとで差異がもうけられても、全員が、又はほぼ全員が、真の必要性を問うことなく、<同じような>教育を受けるべきだと考える。
 コロナ禍が「終息」して「日常」に回帰するという場合の「日常」は近代日本と戦後日本が作り上げてきた相当程度に人為的なものなので、例えば現在の<学校>のあり方や<学校制度>は、日本人にとっても、当然の「日常」であるはずはない。
 つづく。

2237/L・コワコフスキ著第一巻第6章④・第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第一巻第6章の試訳のつづき。
 ドイツ語訳書を第一に用い、英訳書も参照する。注記はドイツ語訳書にのみ付いている。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第3節・労働の疎外・非人間化される人間〔Die Entfremdung der Arbeit. Der entmenschte Mensch〕①。
 (1)マルクスは、労働の疎外過程を、資本主義的諸関係の発展形態を土台にして考察した。その資本主義的諸関係では、土地所有権も市場経済の全法則に服している。
 彼の見解によれば、私的所有権は、疎外された労働の帰結であって、その原因ではない。
 伝えられている草稿には、この疎外の始まりに関する説明は含まれていない。
 資本主義的所有の発展した諸関係では、労働者の活動もその生産物も労働者には疎遠なものだ、ということに労働の疎外が表現されている。
 労働は、どの他商品とも同じく一つの商品となった。これが意味するのは、労働者自身が商品となり、市場価格で売られるよう強いられた、ということだ。その市場価格は、生存するための最小限の費用によって決定される。
 ゆえに、労賃が最低限の水準にまで下がっていく、絶えざる傾向がある。その労賃は、一人の労働者が生命を維持し、生殖活動を保持するためにちょうど十分なものだ。
 こうして生じる生産過程では、フォイエルバハが人間の意識での神の創出過程を分析して論述したのと同様の状況が再生産される。
 労働者は富を多く生むほど、それだけ貧しくなる。
 物的世界の価値の増加に応じて、それを生産する人間の価値は下落する。
 労働の対象は、生産者から独立し、自立した、外部の物としての労働過程自体から外れている。
 労働者が自然をより多く我が物にすれば、それだけ多く、労働者は生活手段を奪われる。
 しかし、主体から疎外されるのは、<労働生産物>だけではない。
 労働自体も、疎外される。労働自体は自己確認ではなく、反対に、破壊的過程となってその主体の不幸の源泉となるからだ。
 労働者は自分の労働需要を充足するために労働するのではなく、生命を維持するために労働する。
 労働者は、労働過程にいることを本当に感知しているのではない。つまり、人間に特有な活動を遂行しているという感覚はない。そうではなく、喰い、眠り、子どもを生むというその動物的な活動をしているという感覚だけがある。
 だが、労働が人間の顕著な徴表であるならば(動物とは違って、『人間は肉体的必要から自由なときに生産をし』、『その必要から自由なときに初めて、本当の意味で(wahlhaft)生産をする』(9))、従って労働の疎外が同時に労働者の疎外であるならば、労働は人間から、人間である可能性を、すなわち人間的な態様での生産者である人間となる可能性を、奪う〔非人間化する〕。
 労働者は人間的生活を喪失し、労働はたちまちに外部的過程となり、そしてその人間的本質は、純粋に生物的な活動へと削減される。
 種としての生活(Gattungsleben, life of the species)-労働-は、これによってもっぱらその個々の動物的生活のための手段となり、人間の社会的な本性は、その個々の存在のための道具たる役割へと落ちこんでしまう。
 疎外された労働は人間から種としての生活を奪い取る。そうして生じるのは、他者たる人間がその人間には疎遠な者となり、人間的な共同性が否定され、生活が相争うエゴイズムの世界とと化してしまう、ということだ。
 疎外された労働から発生する私的所有権は、一方では疎外の増大の源泉であるが、疎外を際限なく新たに再生産しもする。//
 (2)労働者の物象化(Verdinglichung, reification)、すなわち、物に対するその人格的性質、筋肉と脳髄、活動と願望が売買と交換のために提供される商品となるという状態は、所持者がそのことによって自由と人間性を保障される、というようには決して働かない。
 その反対に、物象化の過程は、別の態様で資本主義者をも包摂し、その人格に幻影を与える。
 労働者がその動物的性質へと減退するように、資本主義者は不可避的に金銭の抽象的な力に成り果てて、金銭の人格的代表者となり、その人間的特性は金銭に内在している力の形態を帯びる。
 「金銭の力が大きければ、私の力も大きい。
 金銭の特性は、私-金銭の所持者-がもつ特性であり、私の本質的な力だ。
 ゆえに、私が何<であり>何が<できる>かは私の個人性によって決定されるのではない。
 私は醜い。しかし、<最も美しい>女性を購うことができる。
 ゆえに、私は<醜くは>ない。なぜなら、<醜さ>のもつ効果、他人を怯ませる力は、金銭によって無効となっているからだ。
 私は-私の個人性からすると-<足が不自由>だ。しかし、金銭は私に、24本の足を提供してくれる。
 ゆえに、私は<足が不自由>ではない。
 私は、性悪の、不誠実な、良心のない、愚かな人間だ。しかし、金銭は尊敬されており、ゆえにその所持者も尊敬されている。
 金銭は最高に良きものであり、ゆえにその所持者も善良なのだ。」(10)
 (3)疎外にもとづいて、人間の種としての生活と人間の共同社会は、そしてそれらによって個人的生活もまた、麻痺してしまう。
 発展した資本主義社会では、社会的な不自由の<総体>が、疎外の全ての形態が、労働者の生産に対する関係のうちに含まれている。そのゆえに、労働者の解放はたんに、細分化した利益がある一階級としての<彼らの>解放であるのみならず、全体としての社会や人類それ自体の解放なのだ。
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 (9) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 517.
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、437頁〔第一草稿四〕。
 (10) 同上, S.564. =同上、486-7頁〔第三草稿六〕。
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 第3節②へとつづく。

2236/R・パイプス・ロシア革命第13章第6節・第7節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第6節・ブレストでのトロツキー。
 (1)ブレストでの交渉は、12月27日/1月9日に再開した。
 ロシア代表団を率いたのは、今度はトロツキーだった。
 彼は、時間稼ぎを継続してプロパガンダを拡散しようと考えて、やって来ていた。
 レーニンは、この戦術にしぶしぶ同意していた。
 トロツキーは、かりにドイツがそれを見越して最後通牒を発すれば、ロシア代表団は屈従する、と約束しなければならなかった。(28)
 (2)トロツキーは到着し、交渉の休止の間にドイツがウクライナの民族主義者たちと別の連絡手段を確立していることを知って、不愉快な驚きをもった。
 12月19日/1月1日、若い知識人たちから成るウクライナ代表団は、公開の分離交渉を行おうとのドイツの招きで、ブレストに着いていた。(29)
 ドイツの目標は、ウクライナを切り離して、ドイツの保護国にすることだった。
 1917年12月に、ウクライナ評議会(Council)、あるいはRada は、ウクライナの独立を宣言した。
 ボルシェヴィキはこの承認を拒み、自分たちが公式に宣言した「民族の自己決定権」の権利を侵害して、その地域を再征服するために軍隊を派遣した。(30)
 ドイツの見積もりでは、ロシアは、食糧の3分の1、石炭と鉄の70パーセントをウクライナから受け取っていた。ウクライナが分離することは明らかに、ボルシェヴィキを弱体化し、ドイツへの依存をさらに高めることを意味した。同時に、ドイツ自身の逼迫する経済的必要を、徐々に充足させるものだった。
 トロツキーは、伝統的外交官の役割を演じて、ドイツの行動はロシアに対する内政干渉だ、と宣告した。しかし、彼に可能だったのは、それだけだった。
 12月30日/1月12日、中央諸国は、ウクライナのRada を国の正統な政府だと承認した。
 これによって、ウクライナとの分離講和条約の締結への歩みが始まった。//
 (3)そのとき、ドイツによる領土要求の提示があった。
 キュールマンはトロツキーに対して、我々はロシアの「併合と賠償金なし」の講和要求は受け入れ難いと考えており、ドイツが占領している領土をロシアから引き離すつもりだ、と知らせた。
 全ての征圧地を譲ろうというチェルニンの提案について言うと、この提案は、連合諸国が講和交渉に加わることを条件としており、かつその参加は行われなかったので、有効性を失っていた。
 1月5日/18日、マックス・ホフマン将軍は地図を開いて、不審がるロシア人に対して、両国の間の新しい国境線を示した。(31)
 それによると、ポーランドの分離と、リトアニアおよび南部ラトヴィアを含むロシア西部の広大な領域のドイツへの併合が、求められていた。
 トロツキーは、我が政府はこのような要求を絶対に受け入れることができない、と答えた。
 その1月5日/18日はたまたまボルシェヴィキが立憲会議を解散させたまさにその日だった。その日、トロツキーは無謀にも、こう言った。ソヴィエト政府は、「最も肝要なのは新しく形成される国家の運命だ、住民投票(referendom)が人民の意思を表明する最良の手段だ、という考え方になお執着する」、と。(32)
 (4)トロツキーは、ドイツが提示した条件をレーニンに伝え、その後で、政治的交渉を12日間延期することを要請した。
 彼は同日にペトログラードへと出立し、ヨッフェは残された。
 この延期についてドイツがいかに神経質だったかは、つぎのことからも知られる。すなわち、キュールマンはベルリンに情報を伝えて、ボルシェヴィキによる延期要請を交渉の決裂だと理解してはいけない、と強く要望した。(33)
 ドイツには、講和交渉の破綻は同国の産業中心地域での市民の騒擾を巻き起こすのではないかと怖れる、十分な理由があった。
 1月28日、社会主義運動の左翼が組織し、100万人以上の労働者が加わった政治的ストライキの波が、勃発した。ドイツの多数の都市で、すなわちベルリン、ハンブルク、ブレーメン、キール、ライプツィヒ、ミュンヘン、そしてエッセンで起こった。
 あちこちで、「労働者評議会」が設立された。
 ストライキ活動家たちは、併合と賠償金なしの講和と東ヨーロッパ諸民族の自己決定を要求した。-これは、ロシアの講和条件の受容を意味した。(34)
 ボルシェヴィキが直接に関与していたとの証拠資料は存在していないが、ストライキに対するボルシェヴィキのプロパガンダの影響は明白だつた。
 ドイツ当局は、強い、ときには残虐な弾圧でもって対処した。そして、2月3日までには、ドイツ政府は状況を統制下に置いた。
 しかし、ストライキは厄介なことを示す証拠となった。前線で何が起きていようとも、国内での状況を当然のこととは考えることができなかったのだ。
 人々は、平和を切望していた。そして、ロシアがそのための鍵を握っているように見えた。//
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 (28) Lenin, PSS, XXXVI, p.30.
 (29) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.183, p.190.; Fischer, Germny's Aims, p.487.
 (30) 私の Formation of the Soviet Union: Communism and Nationalism, 1917-23(Cambridge, Mass., 1954), p.114-p.126 を見よ。
 (31) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229.; J. Weeler-Bennet, Brest-Litovsk: The Forgotten Peace(London-New York, 1956), p.173-4.
 (32) W. Hahlweg, Der Diktatfrieden von Brest-Litovsk(Münster, 1960), p.375.
 (33) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229-p.230.
 (34) 1918年1月ストライキにつき、G. Rosenfeld, Sowjet-Russland und Deutschland 1917-1922(Köln, 1984), p.46-p.55.; Weeler-Bennet, Forgotten Peace, p.196.
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 第7節・ボルシェヴィキ内の激しい対立とドイツの最後通牒〔bitter divisions among Bolsheviks and the Geman ultimatum〕。
 (1)ドイツの要求によって、ボルシェヴィキ指導部は相争う3分派に分裂した。これらは、のちの経緯で、2分派へと融合した。
 (2)ブハーリン派は、交渉をやめて、ドイツ革命の炎を煽りつつ主として遊撃部隊的戦闘によって軍事作戦を継続させることを望んだ。
 この立場は、ボルシェヴィキ党員たちの大多数派の支持を受けた。ペトログラードとモスクワのいずれの党官僚たちも、この趣旨での決議を採択した。(35)
 ブハーリンの伝記著作者たちは、のちに「左翼共産主義」と称された彼の政策方針はボルシェヴィキの多数派の意向を反映していた、と考えている。(36) 
 ブハーリンとその支持者たちは、西ヨーロッパは社会革命の瀬戸際にあると見ていた。その革命こそがボルシェヴィキ体制の存続にとって不可欠だと認められているのだから、「帝国主義者」ドイツとの講和は、彼らには反道徳的のみならず、自己欺瞞に他ならなかった。
 (3)トロツキーは、第二の派の代表だった。この派は左翼共産主義者とは、戦術上の微妙な違いだけがあった。
 トロツキーは、ブハーリンのようにドイツの最後通告を拒みたかったが、それは「戦争でも講和でもない」という耳慣れないスローガンのもとでだった。
 ロシアはブレストでの交渉をやめ、一方的に(unilaterally)戦争の終止を宣言する。
 そうすればドイツは、したいこと、つまりロシアが何をしても抑止できないことを自由に行うだろう-西部および南西前線部の広大な領土の併合。しかし、ロシアの承諾なくしてそれを行わなければならない。
 トロツキーが主張するには、こう進展することで、人気のない戦争を遂行するという重荷からボルシェヴィキは解放され、自由になるだろう。そして、ドイツ帝国主義の残虐性を暴露することとなり、ドイツの労働者を反乱へと鼓舞して立ち上がらせるだろう。//
 (4)レーニンはカーメネフとジノヴィエフに支持されて、ブハーリンとトロツキーに反対した。
 彼の切迫感覚およびロシアは取引できる立場にはないという考えは、戦争大臣のクルィレンコ(Krylenko)が12月31日/1月13日にソヴナルコムに提出した報告によって強化された。
 動員解除(復員)に関する全軍会議の代表者たちに配布されたアンケート回答書にもとづいて、クルィレンコは、ロシア軍は、あるいはそれだとして残っているものは、戦闘能力をもっていない、と結論づけていた。(37)
 レーニンは、こう思考した。紀律と十分な装備のある敵に抵抗することはできない、と。
 (5)レーニンは1月7日/20日に、「併合主義的分離講和の即時締結問題に関するテーゼ」で、彼の考え方を定式化した。(38)
 これによると、彼はつぎの諸点を挙げている。
 (1) 最終的な勝利の前に、ソヴィエト体制はアナーキーと内戦の時期に直面する。これは「社会主義革命」のために必要な時期だ。
 (2) ロシアは少なくとも数カ月の余裕が必要だ。その過程で「体制は、まずは自分の国で始めてブルジョアジーに対して勝利する」、そして自分たちの諸勢力を再組織する、「完全に自由な時間的余裕を獲得しなければならない」。
 (3) ソヴィエトの政策は、国内事情を考慮して決定されなければならない。外国で革命が勃発するか否かは不確実だからだ。
 (4) ドイツでは、「軍事党」が上層部を握った。ロシアは、領土割譲と財政的制裁金を要求する最後通告を提示されるだろう。
 政府は、交渉を長引かせるべく全力を尽くしたが、この戦術は自然消滅した。
 (5) ドイツの条件での即時講和に反対する者たちは、このような講和は「プロレタリア国際主義」の精神を侵犯すると、間違って論じている。
 彼らが望むように政府がドイツとの戦闘継続を決定するならば、別の「帝国主義陣営(Bloc)」からの助力を求める以外に選択の余地はないだろう。その協商諸国(Entente)は、フランスとイギリスの代理人へと変わるだろう。
 かくして、戦争の継続は「反帝国主義」の動きではない。二つの「帝国主義」陣営の間での選択を呼びかけるものだからだ。
 しかしながら、体制がいま果たすべき責務は、「帝国主義諸国」の間で選択することではなく、権力を確固たるものにすることだ。
 (6) ロシアは実際に外国の革命を推進しなければならない。しかし、「諸勢力の相関関係」を考慮することなくしてこれを行うことはできない。
 現時点でのロシア軍は、ドイツ軍の前進を食い止めるには無力だ。
 さらに言えば、ロシアの「農民」軍隊の大多数は、ドイツが要求する「併合主義」講和を支持している。
 (7) ロシアが現在のドイツの講和条件の受け入れ拒否に固執するならば、いずれもっと負担の大きい条件を受諾せざるを得なくなるだろう。
 しかし、これはボルシェヴィキではなくその継承者たちが行うことだ。その間にボルシェヴィキは、権力を剥奪されているだろうから。
 (8) 政府は小休止によって、経済(銀行と重工業の国有化)を組織する機会をもつだろう。経済の組織化は、「社会主義をロシアと全世界でで揺るぎないものにし、そして同時に、強力な労働者・農民赤軍を築く堅固な経済的基礎を生み出すだろう」。
 (6)レーニンには、彼の異議にもかかわらず本当は世界大戦が継続することを望んでいることを暴露してしまうだろうがゆえに明言することのできない、別の理由があった。
 レーニンは、中央諸国と協商諸国の「ブルジョアジー」が講和をすればすぐに、彼らは勢力を合体してソヴィエト・ロシアを攻撃するのは確実だと感じていた。
 彼は、ブレスト条約に関する討議の間に、この危険性を暗示した。
 「我々の革命は、戦争から産まれた。
 戦争がなかったならば、全世界の資本主義者たちの統合を目撃していただろう。この統合は、我々に対する闘いを基礎とするものだ。」(39)
 レーニンは、彼自身の政治的闘志を反映して、「敵たち」の巧妙さや果断さをきわめて高く評価していた。
 実際には、1918年11月の停戦以降に、このような「統合」は発生しなかった。
 しかし、彼は危険が本当にあると考えたので、想定される「資本主義者」の攻撃に抵抗することのできる軍隊を建設するための時間を稼ぐために、戦争を長引かせなければならなかった。
 (7)1918年1月8日/21日、ボルシェヴィキは、三つの本拠地で、党指導者たちの会議を開いた。ペトログラード、モスクワ、そしてウラル地域。
 レーニンは、ドイツの最後通告の受諾を求める決議を提案した。
 この提案は、全63票のうち僅か15票の支持しか受けなかった。
 トロツキーの「講和でも戦争でもない」妥協的決議は、16票を獲得した。
 多数派(32代表者)は、左翼共産主義者の決議に賛成投票をし、妥協なき「革命」戦争を要求した。(*)//
 (8)議論はつぎに、中央委員会に移った。
 トロツキーはここで、敵対行動の即時かつ一方的な停止およびロシア軍の一斉の動員解除の動議を提出した。
 この動議は、9対7の過半数で辛うじて通過した。
 レーニンは、ドイツの条件での即時講和を支持する情熱的な演説でこれに反応した。(40)
 しかし、レーニンは少数派のままだった。そして、翌日にボルシェヴィキ中央委員会が左翼エスエルの中央委員会と合同の会合をもったときには、さらに支持者数を減少させた。左翼エスエルは、レーニンの講和提案に激しく反対していたのだ。
 この日、ここでも再び、トロツキーの決議が通過した。
 (9)この信任を受けたトロツキーは、ブレストに戻った。
 交渉は、1月15日/28日に再開した。
 トロツキーは、意味の乏しい発言やプロパガンダ的演説を行って、時間稼ぎを継続した。
 これには、さすがの自制心のあるキュールマンですら、苛立ち始めた。//
 (10)ロシア・ドイツ間交渉が修辞学的言葉の遣り取りにはまり込んでいた一方で、ドイツとオーストリアは、ウクライナと合意に達した。
 2月9日、中央諸国はウクライナ共和国との間に分離講和条約を締結した。これはウクライナを事実上はドイツの保護国とするものだった。(41)
 ドイツとオーストリアの兵団は、ウクライナへと移動した。そこで彼らは、ある程度の法と自由を回復した。
 この歓迎されるべき行為の対価は、船によってウクライナの食糧が西方へと大量に輸送されたことだった。//
 (11)ロシア・ドイツ間政治交渉の膠着状態を破ったのは、ドイツ皇帝からの電報だった。皇帝は、将軍たちの影響をうけて、2月9日にブレストに電報を発した。
 彼はその中で、最終通告書をロシアに与えるよう命じていた。//
 「本日、ボルシェヴィキ政府はラジオで私の兵団に en clair を伝え、立ち上がって軍部上官に公然と反抗するように迫った。
 私もフォン・ヒンデンブルク元帥閣下も、このような事態をこれ以上受け入れたり、甘受したりすることはできない!
 可能なかぎり迅速に、このようなことを終わらせなければならない!
 トロツキーは、明日、(2月)10日の午後8時までに、…<遅滞なく、我々の条件での講和>に署名しなければならない。…。
 拒否する場合または遅滞その他の釈明を企てる場合には、10日夜の8時に、交渉は決裂し、停戦は終わる。
 そうなれば、東部前線部隊は、事前に定められた線へと前進するだろう。」(42)
 (12)翌日、キュールマンはトロツキーに対し、ドイツ政府の最終通告を伝えた。
 トロツキーはそれ以上の議論をすることなくまたはその他の遅延を行うことなく、講和条約のドイツ語文に署名すべきものとされた。
 トロツキーは、ソヴィエト・ロシアは戦争から離れており、軍隊の動員解除を進めていると言って、そうするのを拒んだ。(43)
 しかしながら、ペトログラードへとその間に移った経済的、法的な議論は、そう望まれていたとすれば、継続することができただろう。
 トロツキーは列車に乗り込み、ペトログラードへと向かった。//
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 (38) Lenin, PSS, XXXV, p.243-p.252.
 =レーニン全集第26巻「併合主義的単独講和の問題についてのテーゼ」452頁~460頁(大月書店、1958)。
 (39) 同上, p.324.; Hahlweg, Diktatfrieden, p.48.
 (*) Lenin, PSS, XXXV, p.478.; LS, XI, p.41.; Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.22.
 レーニンを支持したスターリンは、西側での革命は見えていない、と語った。
 この会議の議事録は消失したと言われている。Isaac Steinberg は、左翼エスエルは「戦争でも講和でもない」定式を好み、それを定式化したものを手にしていた、と語る。
 Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.190-2.
 (40) Lenin, PSS, XXXV, p.255-8.
 (41) ロシア語文、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.298-p.308.
 英語訳文、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.392-p.402.
 (42) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.311-2.
 (43) Soviet Declaration in Lenin, Sochineniia, XXII, p.555-8.
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 第13章第6節・第7節、終わり。

2235/R・パイプス・ロシア革命第13章第4節・第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第4節・ボルシェヴィキ上層部の分裂。
 (1)ベルリンとウィーンがロシアとすみやかに合意するのは望ましくないと一致していたとすると、ペテログラードでは、意見は真っ二つに分かれていた。
 細かな差違を別にすると、ボルシェヴィキ内部に、ほとんどどんな条件であっても即時の講和を望む者たちと、ヨーロッパ革命を引き起こす手段として講和交渉を用いたいという者たちの対立があった。
 (2)第一の見解の主導者であるレーニンは、しばしば少数派に属することがあり、ときには一人だけの少数派だった。
 彼は、国際的な「諸勢力の相関関係」に関する悲観的な評価から出発した。
 レーニンもまた西側での革命を期待していたが、反対者たちよりも、「ブルジョア」政府が革命を粉砕する能力を高く想定していた。
 彼は同時に、ボルシェヴィキが権力を掌握し続けることについて、同僚たちほどには楽観的でなかった。
 レーニンは、講和交渉に付随した議論の間に、ヨーロッパではまだ内乱が発生していないが、ロシアではすでに起きている、と注意深く観察していた。
 この時期に関する見通しの点では、彼は、中央諸大国にある国内事情の困難さやすみやかに妥協する必要性を低く評価するという過ちを冒していたかもしれない。つまり、こうした点でのロシアの立場は、彼が思っていた以上に強かったのだ。
 しかし、ロシアの内部情勢に関する彼の見方は、完璧に適切だった。
 レーニンは、戦争を継続すれば国内の対抗者たちかドイツかのいずれかによって権力を奪われる危険がある、と分かっていた。
 また、権力を保持し続ける欲求を現実のものにするために、小休止が切実に必要であることも、分かっていた。
 そのためには、政治的、経済的、軍事的な組織的努力が必要だったが、いかほど負担が大きくて屈辱的であろうとも、平和という条件のもとでのみそれは可能だった。
 これが当面は西側「プロレタリアート」を犠牲にすることは、たしかに本当だ。しかし、レーニンの見方では、ロシアでの革命が完全に成功するまでは、ロシアの利益こそが最優先だ。//
 (3)レーニンに反対する多数派は、ブハーリンが先頭にいて、トロツキーが続いて加わった。この多数派の見地は、つぎのように要約された。//
 「中央諸国は、レーニンが小休止するのを許そうとしないだろう。
 彼らはウクライナの穀物と石炭、コーカサスの石油をロシアと遮断するだろう。
 ロシア住民の半分を支配下に置くだろう。
 反革命運動を財政支援し、革命を転覆させるだろう。
 ソヴィエトも、小休止の間に新しい軍を建設することはできないだろう。
 ソヴィエトは、まさに戦闘中に、軍事力を強化しなければならない。そうしてのみ、新しい軍隊を誕生させることができるのだ。
 確かに、ソヴィエトはペトログラードを、ひょっとすればモスクワをすら、放棄せざるを得ないかもしれない。だが、退却して再結集するだけの区域は十分にまだある。
 人民がかつて旧体制と闘うことができたほどには革命のために戦う意欲がないと分かったとしても-そして戦争派の指導者たちがこれを承認するのを拒むとしても-、全ゆるテロルと略奪を行って進出してくる全ドイツ軍によって、人民は疲労と無気力から呼び覚まされ、抵抗へと駆り立てられ、ついには広範で真に民衆的な革命戦争の熱狂が発生するだろう。
 この熱狂の流れに乗って、新しく畏怖すべき軍隊が立ち上がるだろう。
 下劣な屈服という恥を知らぬ革命は、復興を達成するだろう。
 革命は、世界の労働者階級の精神を掻き立てるだろう。
 そして最後には、帝国主義という悪魔を放逐するだろう。」(20)//
 このような意見の対立によって、1918年初めに、ボルシェヴィキ党の歴史上最大の危機が生じた。//
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 (20) Isaac, Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
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 第5節・初期の交渉(initial negotiations)。
 (1)1917年11月15日/28日、ボルシェヴィキは再び、交戦諸国に対して交渉を行うことを呼びかけた。
 この訴えは、連合諸国の「支配階級」が平和布令に反応しなかったために、ロシアは積極的に反応したドイツやオーストリアと停戦にかかる即時の交渉を行う用意がある、と述べた。
 ドイツは、ボルシェヴィキの提案をすみやかに受諾した。
 11月18日/12月1日、ロシアの代表団が、ドイツの東部戦線最高司令部があるブレスト=リトフスクに向けて出発した。
 この代表団を率いたのは、元メンシェヴィキでトロツキーの親密な友人の一人である、A・A・ヨッフェ(Ioffe)だった。
 カーメネフも含まれていた。これは、兵士、海兵、労働者、農民および女性という「勤労大衆」の代表という象徴的表現だった。
 ロシアの代表団を運ぶ列車がブレストに向かっている途中ですら、ペトログラードは、ドイツ兵団に対して反乱を呼びかけた。
 (2)停戦交渉は、11月20日/12月3日に、以前はロシアの将校用クラブだった建物で始まった。
 ドイツの代表団の長はキュールマン(Kühlmann)で、この人物はロシア事情の専門家だと自認しており、1917年にレーニンと協定するに際して最も重要な役割を果たしていた。
 両当事者は11月23日/12月6日に停戦を開始すること、11日間は有効とすることに合意した。
 しかしながら、この期限が満了する前に、相互の合意にもとづいて、1918年1月1日/14日まで延長するものとされた。
 この延長の表向きの目的は、連合諸国に対して再考慮して交渉に加わる機会を与えることだった。
 しかしながら、双方ともに、連合諸国がこれに応じる危険はない、と踏んでいた。キュールマンが首相に対して助言したように、ドイツが提示した停戦条件は重たいものなので、連合諸国がそれを受け入れるとは考えられなかった。(21)
 延長の本当の目的は、双方の側に対して、講和交渉へと至るそれぞれの立場を考え出す時間を与えることだった。
 このことが進行している以前にすでに、ドイツ軍は6分団を西部前線へと配置換えし、これにより停戦条件に違反していた。(*)//
 (3)ボルシェヴィキがいかにドイツとの関係の正常化を熱心に求めていたかは、停戦後すぐにヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(W. v. Mirbach)候が率いるドイツ代表団をペトログラードで歓迎したという事実でも、分かる。
 その代表団は、民間人の戦争捕虜の交換や経済的、文化的交流の再開について調整することとされていた。
 レーニンは、12月15日/28日に、ミルバッハを接受した。
 ベルリンがソヴィエト・ロシアの状態に関する目撃証言を初めて得たのは、この代表団からによってだった。(+)
 ドイツはミルバッハから伝えられて初めて、ボルシェヴィキはロシアの外国債務を放棄しようとしてることを知った。
 この情報を受けてドイツ国有銀行は、ドイツの利益には最小限度の負担で、連合諸国の利益は最大限度となるように処理する覚書の草案を作成した。
 この趣旨での提案は、レーニンの古い仲間で今はストックホルムのソヴィエト外交代表者のV・V・ヴォロフスキ(Volovskii)によって概略が描かれていた。この人物は、ロシア政府は1905年以降に発生した負債だけを消滅させる、と提案していた。ロシアに対するドイツの貸付はほとんどが1905年以前に行われていたので、債務不履行(default)の大部分は、連合諸国の側の負担になるものだった。(22)(**)
 (4)ブレストでの会談は、12月9日/22日に再開した。
 キュールマンが、ドイツ代表団を再び率いた。
 オーストリア使節団の代表は、外務大臣のチェルニン(Czernin)候だった。
 トルコとブルガリアの外務大臣も、同席した。
 ドイツの講和提案は、コートランド(Courland)とリトアニアとともにポーランドのロシアからの分離も要求した。これらの地域はこのとき、ドイツの軍事占領のもとにあった。
 ドイツ側はこれらの条件は合理的だと考えていたに違いない。なぜなら、彼らは希望に充ちた宥和的な気分でブレストに来ていて、クリスマスまでには原則的な合意に達するだろうと予想していたからだ。
 しかし、彼らはすぐに失望した。
 訓令にもとづいて交渉を長引かせていたヨッフェは、曖昧で非現実的な(レーニンが起草した)対案を提示し、「併合と賠償金のない」講和と植民地と同様のヨーロッパ諸民族の「民族の自己決定」を求めた。(23)
 ロシア代表団は、事実上はまるでロシアが戦争に勝利したかのごとく振る舞い、中央諸国に対して、戦争中の全ての征圧地を放棄するよう求めた。
 この態度によって、ドイツに初めて、ロシアの意図に関する疑念が生じた。//
 (5)講和交渉は、非現実的な雰囲気の中で進められた。つぎのとおりだ。
 「ブレスト=リトフスクの会議室の情景は、誰か偉大な絵画家が描く芸術に値するものだった。
 一方には、落ち着いて警戒心を怠らない中央諸国の代表たちがいた。彼らは黒い上着を着て相当にリボンで飾っていて、輝いていてかつきわめて丁重だった。…。
 その中で注目されたのは、まずキュールマンの細い顔と油断のない眼だった。この人物の議論中の礼儀正しさはいつも変わりがなかった。
 堂々とした風格のチェルニンは、彼の無邪気な温良さのために、観測気球を上げさせらていた。また、小太りの風貌のホフマン将軍がいて、軍事上の問題に関する発言が求められたときは、しばしば顔を紅くして意気高く発言した。
 ゲルマン系(Teutonic)の代表者たちの背後には、多数の一群をなした幕僚たち、文民公務員たち、眼鏡をかけた職業的専門家たちがいた。
 各代表団は母国語を話した。そして、そのゆえに討議は長くなりがちだった。
 ゲルマン系諸代表団の反対側に、ロシア人が座っていた。ロシア人のほとんどは汚らしく、衣服が粗末で、討議の間じゅう長いパイプで煙草を吸っていた。
 討議のほとんどは、彼らの興味を惹いていないように見えた。そして、政治に関する精神の問題に入ってとりとめのない形而上学的発言を洪水のごとく行う場合を除いて、ぶっきらぼうに討議に割って入った。
 会議の雰囲気は、ある程度は、品のよい使用者たちが特別に鈍感な労働者たちの代表と交渉をしている集会のごとくだった。ある程度は、村の学校の遠足に付き添う上品な主催者が開く会合のごとくだった。」(24)
 (6)会場の雰囲気が乗ってきたクリスマスの日、ドイツ人たちを大いに当惑させたことに、チェルニン候が、連合諸国が講和交渉に加わらないならば、オーストリアが戦争内に征圧した全領土を譲渡しようと申し出た。彼は、停戦合意の決裂を何としてでも回避し、必要ならば分離した講和条約に署名する用意があることを示すよう、訓令を受けていた。(25)
 ドイツ人たちは、より強い立場にいると感じた。迫り来る春の西部攻勢によつて勝利することができると期待していたからだ。
 中央諸国は占領したポーランドやその他のロシア領域の定住者に自己決定権を認めよというロシアの要求に対して反応して、キュールマンは、その地域はすでにロシアから分離することでその権利を行使していると辛辣に答えた。//
 (7)手詰まり感に陥って、交渉は12月15日/28日まで延長された。しかし、大きくは報道されなかったが、法的、経済的な委員会の「専門家たち」の間での交渉は続いた。
 (8)ドイツは結果を評価して、ロシアは平和を望んでいるのか、それともたんに西ヨーロッパに社会不安を発生させるために時間を稼いでいるのかと、ある程度は不思議に思い始めた。
一定のロシアの行動は、こうした疑念を支えるものだった。
 ドイツの諜報機関は、トロツキーからスウェーデンの協力者に宛てた手紙を途中で盗み見した。そこには、外務人民委員〔トロツキー〕が「ロシアを含む分離講和は考え難い。最も重要なのは、一般的平和を促進する国際的社会民主主義勢力が結集するのを覆い隠すために交渉を長引かせることだ」と書いていた。(26)
 まるでこのようなことを意図しているのを示すがごとく、12月26日に、ソヴィエト政府は、国際関係では先行例のないことを行った。ツィンマーヴァルト・キーンタール政綱を支持している外国のグループに対して、公式に200万ルーブルの予算を計上したのだ。(*)
 ブレストでの政治的会談の速記録を出版してドイツ政府はロシア政府に見倣うべきだというヨッフェの主張でもって、ドイツ側の懐疑が緩和することはなかった。その速記録は、ロシアの側で、ドイツの労働者にボルシェヴィキのプロパガンダを伝えるために意図的に作られたものだった。//
 (9)この時点で、ドイツの軍部が介入した。
 ヒンデンブルク(Hindenburg)は、皇帝宛ての1月7日(12月25日)付の手紙で、ドイツ外交部がブレストで採っている「弱気の」、「宥和的な」戦術はドイツが強く講和を必要としているという印象をロシアに与えている、と不満を述べた。この手紙は、皇帝に対して、大きな影響力をもつこととなった。
 ドイツの戦術は、軍部の士気には悪い効果を持った。
 心の裡を明確に語ることをしないで、ヒンデンブルクは、ボルシェヴィキが停戦中の前線で推進している、ロシアとドイツの両兵団の「友好(fraternization)」政策がもつ驚くべき効果について示唆した。
 強力に行動するときだ。ドイツが東部で強い決意を示さないならば、ドイツの世界的地位を獲得するのに必要な講和を、どのようにして西側連合諸国に対して押しつけることを期待することができようか?
 ドイツは、将来の戦争を抑止することができるように、東部の国境線を引き直すべきだ。(27)//
 (10)ブレストでの優柔不断な外交を我慢できなかった皇帝は、同意した。
 その結果として、ドイツの態度は、明瞭に察知できるほどに硬化した。
 交渉による平和を追求する「見せかけ」は、口述されたものに従って放棄された。//
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 (21) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.153-4.
 (*) J. Buchan, A Hiatory of the Great War, IV(Boston, 1922), p.135.
 停戦協定は、その有効期間中にロシア前線から兵団を「大規模に」移動させることを禁止していた。
 (+) フランスの将軍のアンリ・A・ニーセル(Niessel)によると、連合諸国は、ペトログラードからブレストへのドイツの電信を傍聴していた。そしてそれから、ドイツが切実に講和を望んでいることを知った。
 General (Henri A.)Niessel, Le Triomphe des Bolcheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs, 1917-1918(Paris, 1940), p.187-8.
 (22) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.66-p.67.
 (**) ソヴィエト政府の国内および外国に対する全ての国家債務の不履行は、1918年1月28日に発表された。
 これによって消滅した外国負債の総額は、130億ルーブルまたは65億ドルと見積もられた。
 G. G. Shvittau, Revoliutsiia i Narodnoe Khoziaistvo v Rossi(1917-1921)(Leipzig, 1922), p.337.
 (23) 同上, p.59-p.60.; Fischer, Germany's Aims, p.487は、6項を挙げる。
 (24) Buchan, A History of the Great War, IV(Boston, 1922), p.137.
 (25) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.148-p.150.; Fischer, Germany's Aims, p.487-p.490.
 (26) Gerald Freund, Unholy Alliance(New York, 1957), p.4.
 (27) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-7, p.208.
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 第4節・第5節、終わり。

2234/福田恆存・企画監修・憲法のすべて(1977年)。

 安倍晋三現首相は、わが党(自由民主党)は結党以来一貫して憲法改正を唱えてきた、と述べて、継続してずっと自民党が憲法改正運動を積極的に行ってきたかのごとき口吻を漏らしているが、実態はそうではないだろう。
 自民党が<憲法改正>を積極的には言い出さない時代も長かった。
 それでも民間では、憲法改正または「自主憲法制定」の運動は一貫して継続してきている、という印象がないではない。
 しかし、おそらくは1990年代の半ば頃、つまり<いわゆる保守>の運動の主導権を形・表面だけでも<日本会議>が奪取した頃あたりを境にして、民間の、あるいは国民・市民の側の<改憲>運動は継続性を失った、いったん途切れた、というのが秋月の見立てだ。
 このことを感じたのは、すでにこの欄で記したが、つぎの書を見たときだった。
 自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議編・日本国憲法改正草案-地球時代の日本を考える-(現代書林、1993)。
 その改正案内容は、9条についていうと現1・2項のあとに、新3項-「前二項の規定は国際法上許されない侵略戦争ならびに武力の威嚇または武力の行使を禁じたものであって、自衛のために必要な軍事力行使を持ち、これを行使することまで禁じたものではない」-を追記するものだ。
 これは、「自衛隊」という語を明示的に使用するらしい現在の自民党等の案とは異なる。
 そして、現2項を存置するとはいえ、現在の案よりも<スジ>がよい。現2項があっても、国家に固有の権利としての「自衛権」を現憲法も否定していない、との解釈を前提とすると思われ、論理的にも十分に成り立つ。
 日本会議設立、1997年。櫻井よしこ・田久保忠衛らを代表とする美しい日本の憲法をつくる国民の会の設立、2014年10月
 上記の1993年時点での自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議らの運動とは、<つながって>いない、と思われる。
 **
 上のことをあらためて感じさせる、別の書物がある。但し、1970年代までさかのぼる。といっても、今日での<改憲>派の議論や<憲法無効論>と比べて、はるかに上質で、真摯な、かつ冷静な議論・検討がなされているように見える。
 書名とその概要だけ、メモして紹介しておく。
 福田恆存(企画監修)・日本の将来/憲法のすべて(高木書房、1977)。
 日本文化フォーラムまたは日本文化会議等の団体名は出てこない。
 全体が対談・座談で構成されている。主題・テーマと座談会参加者の名前は、つぎのとおり。
 ***
 第一部・日本国憲法の成立過程
 /児島襄・三浦朱門・渡部昇一・原田統吉・福田恆存。
  一・憲法について思うこと
  二・ポツダム宣言と新憲法
  三・東京裁判と日本国民
  四・防衛・戦争・平和
 第二部・新憲法・不可解な内容
 /川上源太郎・ゲプハルト・ヒルシャー・土田隆・原田統吉・福田恆存。
  一・民定憲法という名の欽定憲法
  二・元首ではなぜいけないか
  三・第九条のもたらす不条理
 第三部・近代憲法の本質
 /奥原唯弘・香山健一・志水速雄・原田統吉・福田恆存。
  一・日本人と憲法意識
  二・なぜ留保期間をおかなかったか
  三・国民をまどわす憲法
 <資料>①大日本帝国憲法と日本国憲法の生まれるまで、②大日本帝国憲法と日本国憲法、③世界各国の憲法比較、④世界各国の憲法改正年表、⑤日本・イギリスの統治機構図、⑥アメリカ合衆国・ソ連の統治機構図。
 ***
 以上
 ソ連解体、バブル崩壊、非自民連立内閣の成立等々の1990年~1995年頃、社会・政治の継続性自体の全体に大きな亀裂ができたのだろう。日本共産党が必死になってソ連は1930年代半ばから社会主義国ではなかったと言い張り始めた頃でもある。
 それまでにあった、まだ健全で知的な<改憲>運動を継承しなかった責任者は、いったい誰か。その後の<改憲>運動を、上の福田恆存著に一回も言及せず、伊藤哲夫等の本を「手本」にしているらしい櫻井よしこのように、<歪めて>しまった「アホたち」は、櫻井の他に、いったい誰々なのか?

2233/江崎道朗2017年8月著の無惨27。

 <ゾルゲ事件>に関する文献で、秋月瑛二が所持しているものに、以下がある。原資料と言えるものから、一部は小説仕立てのものもある。
 ***
 ①現代史資料(1)・ゾルゲ事件(一)〔小尾俊人編〕(みすず書房、第一刷/1962)。
 ②現代史資料(2)・ゾルゲ事件(二)〔小尾俊人解説〕(みすず書房、第一刷/1962)。
 ③現代史資料(3)・ゾルゲ事件(三)〔小尾俊人解説〕(みすず書房、第一刷/1962)。
 ④チャルマーズ・ジョンソン=萩原実訳・尾崎・ゾルゲ事件(弘文堂、1966)。
 =⑤チャルマーズ・ジョンソン=篠崎務訳・ゾルゲ事件とは何か(岩波現代文庫、2013)。
 ⑥NHK取材班・下斗米伸夫・国際スパイ・ゾルゲの真実(角川文庫、1995/原著1991)。
 ⑦F.W.ディーキン・G.R.ストーリィ=河合秀和訳・ゾルゲ追跡(上)(岩波現代文庫、2003)。
 ⑦F.W.ディーキン・G.R.ストーリィ=河合秀和訳・ゾルゲ追跡(下)(岩波現代文庫、2003)。
 ⑧尾崎秀実・ゾルゲ事件/上申書(岩波現代文庫、2003)。
 ⑨リヒアルト・ゾルゲ・ゾルゲ事件/獄中手記(岩波現代文庫、2003)。
 ⑩ロバート・ワイマント=西木正明訳・ゾルゲ-引き裂かれたスパイ(上)(新潮文庫、2003/原著1996)。
 ⑩ロバート・ワイマント=西木正明訳・ゾルゲ-引き裂かれたスパイ(下)(新潮文庫、2003/原著1996)。 
 ⑪モルガン・スポルテス=吉田恒雄訳・ゾルゲー破滅のフーガ(岩波、2005)。
 ⑫加藤哲郎・ゾルゲ事件-覆された神話(平凡社新書、2014)。
 ⑬太田尚紀・尾崎秀実とゾルゲ事件-近衛文麿の影で暗躍した男(吉川弘文館、2016)。
 ***
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 「コミンテルンの謀略」を書名とするこの本が<ゾルゲ事件>を扱っていないはずはない。
 しかし、この江崎道朗著が、ゾルゲや尾崎秀実および事件関係者等の調書・発言等に関する第一次史料を見ていないこと、あるいは見ようとすらしていないことは明瞭だ。
 なお、上掲のうち岩波現代文庫のうち二つ(尾崎とゾルゲ)は、みすず書房・現代史資料を元にして抽出しているようだ。
 そして、ゾルゲ・尾崎秀実等の発言や事件の推移等々について参照にしているのは、参考文献の指摘からすると、つぎの三文献だと見られる。
 ①チャルマーズ・ジョンソン=萩原実訳・尾崎・ゾルゲ事件(弘文堂、1966)。上の④に掲出。
 ②春日井邦夫・情報と謀略(国書刊行会、2014)。
 ③小田村寅二郎・昭和史に刻む我らが道統(日本教文社、1978)。
 ゾルゲ事件に関する江崎道朗の叙述は多くかつ長くて、この書の第一の重要部分かもしれない。しかし、所詮は、上の二、三を読んで、高校生ないし大学生のレポート感覚で、要領よくまとめて、さも自分がきちんと理解しているように<見せかけた>ものにすぎない。
 この人物は平気で<孫引き>をする、すなわち上の本で紹介・引用されている部分をさも自分も直接に見た・読んだかのごとく執筆できる、という人なので、いかに多数の史資料を見ているかの印象を与えても、本人が読んだものではない。上のような書物が、要領よく?すでにまとめてくれている部分を(江崎道朗が描く「物語」にとって支障のないかぎりで)、「」つき引用ではなくとも、そのまま引用またはほとんど要約しているにすぎない。
 なお、平気で<孫引き>できる感覚は、上の③の小田村寅二郎著に依拠して、他の何人かの<聖徳太子>論をまるで自らも読んだごとく(よく確かめると、小田村著によると、とはかすかに書かれていても)行う叙述にも示されている。
 この書の執筆のおそらく後半になって、上掲文献のうち原史資料ではないものは他にもあるのだが、江崎道朗はつぎの書の存在を知って、追記したようだ。
 ④加藤哲郎・ゾルゲ事件-覆された神話(平凡社新書、2014)。
 しかし、悲しいかな、加藤哲郎は<左派>からの「インテリジェンス」論に取り組んでいる人物であることを江崎は知らない。あるいは、加藤の新書のオビに「崩壊した『伊藤律スパイ説』」とか「革命を売ったのは誰であったか?」とかあることでも示されているように、ゾルゲ事件の「真相」に対する関心が、江崎道朗と加藤哲郎とではまるで異なっている。このことも、江崎は全く無視している。
 にもかかわらず、最新関係書で言及が必要とでも思ったのかもしれない江崎道朗は、自分のそれまでの叙述に矛盾しない加藤著の部分だけを抜き出して、引用・紹介している。
 思わず、苦笑してしまう。
 この程度の、せいぜいよく勉強しましたね、いいレポートが書けましたね程度の<ゾルゲ事件>、そして「コミンテルンの謀略」の叙述について、この書のオビにはこうあった。
 再度、明記して記録に残しておく。
 「日英米を戦わせて、世界共産革命を起こせ-。なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、これほど明確に描いた本はない。/中西輝政氏推薦」。
 コミンテルンまたはレーニン・共産主義(・社会主義)諸概念の理解について、江崎道朗は決定的・致命的誤りをしていることはすでに何度か書いた。
 ゾルゲ事件についての江崎の叙述・説明は中西輝政が書くように「なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、これほど明確に描いた本」なのかどうか。
 中西輝政こそ、いや中西輝政もまた、恥ずかしく感じなければならない。
 なお、三点追記。第一、小田村著の戦後の発行元の日本教文社は、少なくとも戦後当初は<成長の家>関係の文献を出版していたらしい。
 第一の二。聖徳太子関係の文章を戦前に小田村寅二郎が掲載したのは、彼自身が会員だったわけではないだろうが、<成長の家>の雑誌か新聞だった。この点は、江崎は何ら触れていないが、小田村著の中に書かれている。
 第二。江崎道朗、1962年~、由緒正しく、さすがに「文学部」卒。
 第二の二。現在、月刊正論に「評論家」として毎号執筆中。日本会議元専任研究員、日本青年協議会月刊誌元編集長。
 第三。ネット上の書評・コメント欄に、江崎道朗著について、この書もだが、やたらと肯定的・賛美的なものが目立つ。こうした<書き込み>もまた、きっと動員されているのだろう。西尾幹二の近年の書についてもまた、江崎道朗の著に対するほどではないが、「読むに値する」とかの明瞭な<ちょうちん>書評・コメントがネット上で見られる。  
 正しさ・合理さ・清廉さ、等々ではない。<ともかく勝てばよい、売れればよい、煽動できればよい>の類のレーニン・ボルシェヴィキまがいの人たちが、現在の日本にもいる。
 ついでに、こうした「動員」組が最近によく書いていたのは、天皇にかかわる、<権威・権力二分論が一番よく分かる>、だ。

2232/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第3節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 以下、上の著の一部の試訳。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第3節。
 (1)攻撃されると考えて、クロンシュタット臨時革命委員会は、島の奪取を計画した。
 海兵たちは、武器庫、電話交換所、行政部署の建物を占拠した。
 委員会は-公式のソヴィエト機関紙のごとく<Izvestiia>と称する-新聞を発行した。その新聞は、秩序の維持を訴え、流血に至ることを警告した。(35) 
 大衆の示威行動の3日後の3月3日、労働者騒擾がペトログラードで衰えていたときであっても、当局は市とその周辺地域に戒厳令を敷いた。
 レーニンとトロツキーがその翌日に署名した布令は、「反乱」を非難し、反抗は「法の外にある」と宣告した。
 首謀的指導者の家族の間には、人質となった者がいた。
 交渉は、拒否された。
 選択できるのは、降伏するか、戦うか、だけだった。
 3月5日、クロンシュタットの将校たち(コズロフスキのような「軍事専門家たち」)は、武装防衛を組織化して、反乱者たちを助けることに同意した。(36)
 (2)同じ日、モスクワは、攻撃する決定を下した。
 トロツキーは、「最終警告」を発した。-「社会主義祖国」に刃向かった者は全員が、「直ちに武器を捨て」なければならない。「無条件で降伏した者だけが、ソヴェト共和国の寛大な措置を期待することができる」。
 「反乱と反乱者を軍隊によって粉砕する」よう、諸指示が発せられた。
 「これによって民間住民に対して生じる損害に対する責任は、あげて白軍反乱兵たちにある」。(37)
 この警告は、ラジオでクロンシュタットに伝えられた。
 ビラ(leaflets)が飛行機から撒かれた。そのビラは、白軍とコズロフスキ将軍を非難していた。
 反乱者たちは、自分たちは「革命が獲得した自由」を防衛していると、強く主張した。
 クロンシュタット兵団のある会合は、こう決議した。
 「我々は、死んでも、屈服しはしない。
 労働者人民の自由なロシアよ、永遠なれ」。(39)
 (3)最後通牒は、24時間延長された。
 3月7日、臨時革命委員会は、「労働者大衆の革命」は「ソヴェト・ロシの顔を冒涜した卑劣な中傷者や屠殺者たちを排除する」心づもりだ、と発表した。
 「トロツキー氏よ、我々はきみたちの寛大さなど必要としない!」。(40)
 ミハイル・トゥハチェフスキが指揮をとる第七軍は、3月8日に攻撃を開始することになっていた。その日は第10回党大会がモスクワで開催される予定の日で、攻撃の成功をその大会で発表することができるようにだった。(41)
 チェカの工作員はこう警告した。「外科手術によって広がる病気を除去する」ときだ。「内科的治療では、もう遅すぎる」。(42)
 (4)クロンシュタット兵士たちは他の要求の中で、強制的徴発(forced requisitions)の中止を主張した。
 1年前の1920年2月、トロツキーは、穀物の徴発(grain levy)、すなわち<razverstka>〔穀物徴発〕に関する知見を再考するようになっていた。これは、厄災的<貧民委員会(kombedy)>に取って代わったものだった。
 ウラルでの経験が示したのは、<razverstka>は収穫物の増大をもたらさなかったこと、そして農民たちが消費高割り当て(comsumption norm)に合わせて種を撒くように自ら制限する原因になっただけだったこと、だった。
 トロツキーは、代わりに一種の現物税(<prodnalog>)、収穫される量の一定割合、を提案し、農民たちがより多く植え付ける誘因にしようとした。(43)
 しかしながら、1920年3月、レーニンは、「数百万を数える、…戦争の気構えをもつ小ブルジョア財産所有者、小規模の投機者」に対する党の方針を再確認した。
 ほとんどのボルシェヴィキは、強制の増加を呼びかけることに同意した。(44)
 1年後、1921年2月頃、レーニンと党の最上層部、およびチェカは、<razverstka>の再検討をようやく開始した。(45)
 <prodnalog>〔食糧税〕導入の問題は実際に第10回大会の議事事項だったが、クロンシュタットに対する攻撃がすでに進行するまでは発表されなかった。
 反乱者たちの要求は、あらかじめ回答が回避されていたのだ。
 問題は、力だった。
 レーニンは、こう言った。「まさに今が、我々がこの民衆たちに教訓を教え込むときだ。そうすると数十年の間は、彼らは抵抗のことなどをあえて考えつこうとすらしないだろう」。(46)
 (5)かりに2日早く、3月6日に第10回大会が始まっていれば、反乱者側は政策変更を知って、おそらくは正しさが認められたと感じて、撤退したかもしれなかった。しかしそれは、レーニンが望んだことではなかった。(47)
 農民の大量の暴動は、党が穀物徴発の方法を緩和することを強いていた。
 労働者たちの抗議は、党内の労働者反対派と呼ばれるグループが労働組合の経済問題に関する役割をより大きくすることを主張するようになる原因となった。 
 しかしながら、レーニンは、党内についてすら、政治的統制を強化する必要性に固執した。
 党の統一を擁護して「アナキストとサンディカリスト的逸脱」を非難する決議は、重大な異見を党内で、上層部内ですら、表現することのできた時代に終焉を告げるものだった。
 こうして、民衆による騒擾の影響が引き起こした経済的譲歩に伴ったのは、新たなイデオロギー上の厳格な締め付けだった。//
 (6)敵に対する党の決定への草の根的挑戦を非難するのは容易だ。敵-黒の百、白軍将校、メンシェヴィキあるいは社会革命党。
 しかし、バルト艦隊の革命的海兵たちが自分たちの信条にもとづいて行動していることは、何ら秘密ではなかった。
 しかしながら、「この民衆たちに教訓を教え込む」のはさほど容易ではなかった。
 3月8日、反乱は、外科的な整然さをもってしても鎮圧されなかった。
 その時点で、およそ1万3000人の海兵と兵士、さらに2000人の武装民間人が、攻撃を退ける準備をしていた。
 彼らはいくぶんかは、大陸と隔てる11マイルの氷の覆いで守られていた。攻撃者たちは、銃火を浴びながらそこを横断しなければならなかっただろう。
 しかしながら、彼らは長期間の包囲に耐えることができなかった。弾薬、燃料、そして食糧が限られていたからだ。(48)
 じつに、飢えこそが、彼らに対して用いられた武器だった。
 「空腹のために、クロンシュタットはボルシェヴィキの力に屈服するのを余儀なくされるだろう」と、公式の報告書は予測していた。(49)
 (7)攻撃の第一局面は、3月7日の夜から8日にかけて始まった。
 銃砲が響く音を、ペトログラードで聞くことができた。だが、雪と霧のために、すぐに戦闘行動が中止された。
 翌朝、冬仕様で身を包んだ赤軍の兵団が、明け方の雪嵐の中を突き進んだ。
 機関銃が、氷を砕いた。
 何人かの兵士が海に落ち、何人かは歩み続けるのを拒んだ。
 陽光が9時頃に輝いたとき、雪の上に死体が横たわっているのが見えた。(50)
 この夜、3月8日の未明、赤軍兵士のグループが、白旗を掲げて島に接近した。
 非武装の〔クロンシュタット側の〕指導者二人が馬から降り、彼らと会おうとした。
 その一人のS・ヴァシニン(Sergei Vershinin)は26歳の<Sevastopol>の電気技師で、明確に使者たちに対して、共産党に対する闘争に加わるよう訴えた。
 のちのあるソヴィエト文献は、ヴァシニンは「一緒になって、Yids(ユダヤ人)をやっつけよう」と言って彼らを誘った、と主張している。
 彼が本当にこの俗語を使ったのだとすれば、驚くべきことだっただろう。
 しかし、この説明が叙述しようとしているのは、彼は「遅れて」、「堕落して」いるが幻滅していない忠実な革命の息子だ、ということもあり得る。
 いずれにせよ、ヴァシニンはたたちに逮捕された。もう一人の仲間は、何とか逃げのびた。(51)//
 (8)3月10日、トロツキーは、湾の氷が解けて反乱者たちがフィンランドへ行けるようになる前に、早く攻撃せよと、主張した。
 彼は苛立っていた。「緊急的手段が必要だ。怖れることだが、党も中央委員会も、クロンシュタット問題がきわめて深刻であることに十分に気づいていない」。(52)
 問題の一つは、彼らを鎮圧するに必要な軍隊の状況に関係していた。
 どちらの側にも、士気(morale)という問題があった。-そう、じつに誰もが、二つの側ではない、と分かっていた。
 同じ者たちだった。革命の同じ戦闘部隊が、相互に対して戦闘隊列を敷いていたのだ。//
 (9)同じ日、トゥハチェフスキはレーニンに書き送った。面倒なのは、反抗がバリケードの向こう側で起きていることだ、と。
 司令官は愚痴をこう述べた。「ペトログラードの労働者は信頼できない。クロンシュタットの労働者は、海兵たちを支持している。…多数のメンシェヴィキが、スモレンスク市ソヴェトに選出された」。
 経済条件が長く困難なままなので、労働者たちはいつでも、「ソヴェト権力に反抗する」かもしれない。
 体制側には本当の、十分に訓練した軍隊が必要だ。そうした軍隊ならば、戦争の挑発、内部に対する戦争に対処することができるだろうから。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「平時にあるようなものではないだろう」。(53)
 (10)トゥハチェフスキのこの時点での任務は、内部からの反抗を軍事的に弾圧することだった。
 空軍と砲兵隊による爆撃が3月10日に始まり、濃霧の妨げがないときに間欠的に続いた。さらに4日間が過ぎたとき、トゥハチェフスキは再編成すべく中断させた。
 彼が気づいていたように、状況は安定していなかった。
 鉄道労働者の中には、兵団を輸送するのを拒む者たちもいた。
 ある兵団は、配置に就くことを拒否した。
 男たちは、躊躇を示していた。
 「前線に行くつもりはない」、「戦争には飽きた、パンをくれ」、そしてよく見られた、「ユダヤ人をやっつけろ」。
 彼らは、仲間たちと戦闘しようとはしなかった。(55)
 (11)兵士たちは溺死させられるために氷の上に連れて行かれる、という風聞が流れた。
 二つの連隊が兵舎から武器を手にして出てきて、「氷の上には行かない」、「村落へと展開されてくれ」、「別の一団を呼び集めよう」と叫んだ。(56)
 司令部はこのとき、外科的手段を自分たちの部隊にも適用した。
 200人の兵士が逮捕され、74人の指導者たちが射殺された。そして連隊は、秩序ある状態に戻った。
 まさにこのような場合に、「臆病さや退却の試みが生じた場合」のために、特殊部隊が至るところに配置された。(57)
 実際に、苛酷な紀律が導入された。-野戦審判所、不服従や脱走に対する死刑、公開の処刑。
 反抗的な分団は拘束され、その場で処刑された。
 兵士の男たちは、一度に30人または40人が、射殺された。(58)
 紀律が回復した。ペトログラードの労働者たちは、静かになった。(59)//
 (12)3月15-16日の夜、クロンシュタット爆撃が再び始まった。
 攻撃側が予想したように、クロンシュタットの防衛者たちには燃料、武器、衣料品が、そして食糧が乏しくなってきていた。
 圧倒的に数は多かったが、特別の食料配給を受け、電線切断機を装備し、その側では反革命者だったと責められている帝制時代と同じ将校によって指揮されている兵団と、彼らは直面していたのだ。
 3月16日夕方、<Sevastopol>が一発の砲弾を受けた。(60)
 その1日後、ペトリチェンコを含む革命委員会全体が、氷上を横切ってフィンランドへと逃亡した。
 総計で8000人のクロンシュタット兵士たちが、これを安全に行わせた。(61)//
 (13)3月18日の朝までに、赤軍が統制権を握った。
 その日は、1871年3月18日のパリ・コミューン開始の第50周年記念日と一致していた。
 ペトログラードの新聞は、喜んだ。
 二隻の裏切り戦艦は、<Marat(マラー)>および<パリ・コミューン>と改名された。
 残っている海兵たちと参加していた赤軍兵団は、再配置され、そして解散させられた。
 死者数の見積もりは、様々だ。
 死体は、街頭や氷上に放っておかれていた。
 この月の末に、ロシアとフィンランドの代表団が、解氷しつつある表面にある死体の処理について、討議した。(62)
 (14)<Petropavlovsk>と<Sevastpol>の乗員兵士たちは、とくに苛酷に扱われた。
 逮捕された者たちのうちほとんどは、この事件に何らの役割を果たしていなかった。しかし、全員が公的な審判で、反乱および武装蜂起の罪があるとして訴追された。
 1921年夏頃までに、チェカと多数の野戦審判所は、2000名以上の者に対して死刑、6000人以上の者に対して収監(懲役)を言い渡した。
 1年後、数千人の家族が要塞都市から追放され、従前の住民たちから離れた。(63)
 処刑された兵士たちの多くは、20歳代には農民だった。(64)
 ヴァシニンはクロンシュタットの使者で攻撃の第一日めに白旗を掲げた計略で拘束されていたのだが、尋問を受ける一人となり、射殺された。(65)
 (15)トロツキーには、形式的な訴訟手続の目的に関する骨格的構想などなかった。
 審判は「重要な煽動的意義」を持ち得るだろう。
 「いずれにせよ、処刑に関する報告、演説等々は、小冊子やビラよりもはるかに力強い影響力をもつだろう」。(66)
 目標は、トロツキーがクロンシュタットの事態と一体視していた社会革命党の影響を排除することだった。そして、元々はマフノ(Makhno)と連携していたが、海兵たちの反乱にも関係したアナキストたちの残滓のそれをも。
 革命家仲間の内部から共産党の権威に反対すること-あるいはそれを疑問視すること-は、率直かつ明快に論証されなければならない。これが、この事態の帰結だった。//
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 第3節、終わり。

2231/L・コワコフスキ著第一巻第6章③・第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳をつづける。
 ドイツ語訳書を第一に用いる。英訳書も参照する。注記はドイツ語訳書にのみ付いている。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第2節・認識の社会的性格と実践的性格②。
 (3)カントの二元論に代わってヘーゲルの観念論が提示した解決方法の恣意性と観想性(Spekulativität)をマルクスに最初に感得させた者は、フォイエルバハだったと思われる。
 ヘーゲルは全く単直に、現実の存在は疎外された自己意識であって、外部化した自己意識のために世界を回帰させるためのものにすぎない、ということから出発する。
 しかし、自己意識は、それを疎外することでは、現実の事物ではない、それの抽象的な見せかけ以上のものを生むことができない。
 そして、人間生活でこの自己疎外の産物が人間を支配するに至って、その支配に人間が服するときには、我々人間の任務は、それを本来の場所へと立ち戻らせて、実際の姿の抽象物だとそれを見分けることだ。
 人間はそれ自体が自然の一部であり、人間が自然のうちにある自らを認識するならば、それは、人間がそのうちに、絶対的に自然に優先する自己意識の働きを再認識するという意味でではない。そうではなく、労働を通じた人間の自己創出の過程で、自然は人間<のための>対象となるという意味でのみだ。これは人間的方法で知覚された対象であり、人間の必要という規準に従って認知的に構造化されており、種の実際的な働きかけと連結してのみ生じる。
 「しかし、自然もまた、人間と切り離されて固定され、抽象的に把握されると、人間にとっては<何ものでもない(nichts, nothing)>」。(5)
 人間という種と自然との間の能動的な対話が出発点だとすれば、また我々が認識する自然も自己意識も純粋に固有の意味でではなくこの対話によってのみ生まれるのならば、人間は、我々人間が知覚する自然を人間化された自然(vermenschlichte Natur)と称することができる。同様にまた、自己意識を自然の自己意識と称することもできる。
 人間は、自然の産物および自然の一部として、自然を自らの一部に変える。自然は、人間の実践の素材(主体的事項)であり、同時に、人間の物理的身体を延長したもの(Verlängerung, prolongation)だ。
 このような観点からすると、世界の創造者に関する問題を設定するのは無意味だ。そういう問題設定は、自然と世界は存在しない(Nicht-Seins)という、人間が本当は架空の出発点としてすら設定することのできない、非現実的な状況を想定しているのだから。
 「きみが自然と人間の創造に関して問うとき、人間と自然を抽象化している。
 きみは人間と自然は<存在しない>ものと考えつつ、私がそれを存在しているときみに証明することを望んでいる。
 そうなら、こう言おう。きみは抽象化を止めよ、そうすればきみはその問題も捨て去るだろう。」(6)
 「しかし、社会主義的人間にとって<いわゆる世界史全体>は人間の労働による人間の創出に他ならず、人間のための自然の生成に他ならないがゆえに、社会主義的人間は、自分の誕生それ自体に関する、つまり自分の<発生過程>に関する、直想的で異論の余地のない証拠を有していることになる。
 人間と自然の<本質性>が、つまり人間が人間のための自然の存在としてあり、自然が人間のための人間の存在としてあることが実践的、感覚的に直観することができるようになっていれば、<外部(fremd)の本質>に関する問題設定、自然と人間を超える本質に関する問題設定は、…実践的には不可能になっている。
 この非本質性を否認する<無神論(Atheismus)>は、もはや意味を有しない。なぜなら、無神論は<神の否定>であり、その否定によって<人間の存在>を設定するものだからだ。
 しかし、社会主義は社会主義として、そのような媒介物をもはや必要としない。
 社会主義は、人間と自然は<本質>だという<理論的かつ実践的に感覚的な意識>から出発するのだ。
 社会主義は、積極的な、宗教の止揚にもはや媒介されることのない人間の自己意識だ。<現実の生活>が、積極的な、私的所有権の止揚、つまり共産主義、に媒介されることのない人間の現実であるのと同様に。」(7)
 (4)ここから見て取れるように、マルクスにとって、認識論上の問題設定は、形而上学上の問題設定とともに、正当性を失う。
 人間は、自分がまるでその外にいるように世界を見ることはできないし、人間の行為の全体性から純粋に認識行為だけを取り出すことはできない。なぜなら、認識する主体は、自然への積極的な関与者である全的な統合的主体の一面だからだ。
 自然が人間についてそうであるように、人間の係数(Koeffizient, coefficient)は自然のうちに現存する。そして、他方では、人間は世界との交渉から人間自身に固有の受動性という要素を排除することはできない。
 この点で、マルクスの思考は、伝来的な唯物論の諸範型と対立するとともに、固有の外部化として対象を構成するヘーゲルの自己意識の理論とも同等に対立している。マルクスが衝突する伝来的な唯物論では、根源にある認識行為は対象の受動的な反応であり、対象を主観的な内容へと変形させる。
 マルクスは自分の立場を、「徹底した(durchgeführt, consistent)自然主義」、あるいは人間主義(humanism)と称した。これらは、彼が言うには、「観念論とも唯物論とも同等に区別され、両者を同時に統合した真実(Wahrheit, truth)だ」。(8)
 これは人類学的な立場であり、人間化された自然のうちに実践的な人間の意図の反対項(Gegenglied, counterpart)を見ている。人間の実践が社会的な性格をもつように、その認識上の効果、つまり自然に関する像は、社会的な人間が作り出した物なのだ。
 人間の意識はたんに自然との社会的関係に関する思考に表現された物であり、共同社会的な種の活動の所産だと、把握されなければならない。
 従って、意識の変形もまた、意識自体の逸脱または不備によるものとして説明されるべきではなく、その根源はより固有の過程のうちに、とくに労働の疎外のうちに探し求められなければならない。//
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 (5) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 587
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、510頁。
 (6) 同上, p.545. =同上、466-7頁。
 (7) 同上, p.546. =同上、467頁。
 (8) 同上, p.577参照。=同上、500頁。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<労働の疎外・脱人間化される人間>。

2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳をつづける。
 ドイツ語訳書を第一に用いる。英訳書も参照する。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第2節・認識の社会的性格と実践的性格①。
 (1)マルクスにとって、人間を根本的に性格づけるのは労働だ。労働は、人間が能動的あるいは消極的に同時にかかわる、自然との接触だ。そのゆえに彼は、伝統的な認識論上の諸問題について、新しい観点からその考え方を検討しなければならなかった。
 マルクスは、デカルトやカントが設定した諸問題の正統性を承認することができない。
 自己意識という行為が対象へと移行するのがどのようにして可能であるのか、という問題を探求するのは間違っている、とマルクスは主張する。なぜなら、出発点たる行為として純粋な自己知覚を前提とすることは、自然と社会でのその主体の存在から完全に自立して自分自身を把握することができるという、主体に関するフィクションにもとづいているからだ。
 他方で、彼は、自然をすでに知られている現実だと見なすことや、人間とその人間の主体性を自然の産物だと見なすことも、同様に間違っていると考える。あたかも、人間の自然との実際的な関係を無視して、自然それ自体を考察することが可能であるかのごとくなのだから。
 正しい出発地点は、人間の自然との能動的な接触(aktiver Kontakt, active contact)にある。そして、この接触を、一つに自己意識をもつ人間、二つに自然へと分別することは、抽象化によってのみ成り立つことだ。
 世界に対する人間の関係は、元来は観想(Kontemplation, contemplation)や受動的な感知ではない。事物が主体に対して表相を伝えたり、あるいはその本来の存在を主体が感知し得るものへと変換させることによって可能となるような、観想や感知ではない。
 知覚(Wahrnehmung, perception)とは最初から、自然と人間存在の実際的な指向とが結びついた、協力の結果なのだ。人間存在は社会的意味での主体なのであり、事物を適正な対象だと、「何かのために」役立つものとして作られたものだと、見なすのだ。//
 「人間は、多面的(allseitig, many-sided)なやり方で、ゆえに全面的(total, whole)人間として、自分の多面的な存在を我が物とする(aneignen, assimilate)。
 世界に対する<人間的>関係の全ては、つまり、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、感じる、思考する、直観する、看取する、意欲する、活動する、愛すること等々は、簡単には、人間の個性(Individualität, personality)たる全ての諸器官が、直接に共同体的器官の形態である諸器官のごとく、それらの<対象的>関係またはそれらの<対象に対する関係>において、その同一物たる対象を我が物とすることなのだ。
 <人間的>現実を我が物とすること、人間が対象と関係するということは、<人間的現実を確証すること(Bestätigung)>だ。」(2)
 「眼は、<人間的>眼になってきた。眼の対象が社会的で<人間的>で、人間によって人間のために由来する対象になってきたのにつれて。
 人間の感覚(Sinn)はゆえに、直接にその実践の中で<理論家>になってきた。
 感覚は、物事それ自体のために<物事>と関係するが、しかし、物事それ自体は、物事自体や人間に対して<対象的で人間的な>かかわり方をするのであり、また逆のことも言える。」(3)
 「対象は、眼に対しては耳に対するのとは異なるものになる。眼の対象は、耳の対象とは別のものだ。
 それぞれの本質的力がもつ特有性がまさしくその<特有の本質>(eigentümliches Wesen)であり、ゆえにまた、対象化する特有の仕方や、生き生きとした<対象的で現実的な存在>でもある。<中略>
 最も美しい音楽であっても非音楽的な耳に対しては何の意義をも有しないように、それだけでは対象にはならない。なぜなら、私の対象は私の本質的力を確証するものでのみあり得るからだ。
 また、私には、私の本質的力が主体的能力であるような場合にのみそうなのだ。なぜなら、私にとって対象がもつ意義は、私の感覚が非社会的人間の感覚とは異なる社会的人間の感覚となるような場合にこそ生じるからだ。」(4)
 (2)看取できるだろうように、マルクスは、カントおよびヘーゲルが哲学的著作で設定した認識論上の関心方向を取り上げている。すなわち、どのようにすれば、人間の意識(Bewußtsein, mind)は世界を「手元に」(bei sich, at home)再現することができるのか。
 合理的意識(rational consciousness)と、直接に非合理的な形で単直に存在している世界の間の外部性(Fremdheit)を止揚することは可能なのか、可能ならばどのようにして?
 我々がこの問題に一般的内容を与えるとすれば、マルクスはこの問題を古典的ドイツ哲学から継承した、と言うことができるだろう。
 しかし、マルクスが問う特有の問題は、詳しく立ち入れば異なり、とりわけカントが設定する問題とは区別される。
 カントの教説においては、自由で理性的な主体と向かい合う自然の外部性(Fremdheit, alienness)を克服することができない。
 認識する主体的事項の二元性、すなわち所与のものと<先験的>(a priori)形態との間の基本的な区別は、現実の条件のもとでは除去することができないし、経験的データの多様性が合理化されることもない。
 自己決定をする、そのゆえに自由な主体は、必然性によって制約される自然と向かい合う。自分とは別個のものとして、耐え忍ばなければならない非合理性と。
 同様に、理想や倫理的要請も、非合理な世界から派生することはあり得ない。このことで、理想と現実の対立は避けられないものになる。
 世界の統合は、すなわち主体と客体、人間的自由と自然の必然性、感覚と思考とを含む統合は、理性が効果的には達成することのできない限界的仮定(Grenzpostulat)だ。それは、理性が現実には決してどこにも生成させることができず、止むことなく追い求めなければならないものだ。
 かくして、現実は主体にとって、その精神的能力や倫理的理想にとって、到達することのできない限界(Grenze, limitation)だ。
 ヘーゲルの見方では、カントの二元論は合理主義の放棄を意味しており、止むなき努力では達成できない限界である統合という仮説は、反弁証法的な世界観(Weltsicht)の例だ。
 人間が帰属している二つの世界の分裂が全ての個々の認識上および道徳上の行為についてやはり同等に甚だしいものであれば、それの止揚を目指す際限なき努力は、不毛なまま無限に続くもの(Unendlichkeit, infinitude)であり、内部的分裂を自分で治癒することのできない人間を際限なく再生産するだろう。
 ゆえに、ヘーゲルは、主体が存在を漸次的に我が物とする過程を提示しようとする。主体がもつ元来は隠れている理性を、つまりその精神的本質を、連続的に再認識するものとして。
 存在しているというまさにその事実のうちに理性を発見できないならば、理性は無能だ。また、理性がそれ自体の完全さを押し包んで、同時に非理性的な世界の重荷を負うならば。
 しかし、理性がその世界に出現している理性を発見するとき、現実を自己意識の産物だと、絶対的なものが自己限定する活動の結果だと理解するとき、世界を主体のために我が物として回復することができる。
 哲学は、その作業を行う責任をもつものだ。//
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 (2) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 539f.
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、460頁。
 (3) 同上, S. 540. =同上、461頁。
 (4) 同上, S. 541. =同上、462頁。
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 ②へとつづく。 


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2229/史料・資料-神社本庁憲章(一部)。

 神社本庁憲章(一部)。
 一部の太字化は、掲載者。
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 神社本庁憲章/昭和55年5月21日 評議員会議決
 第1条 神社本庁は、伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の彌栄を祈念し、併せて四海万邦の平安に寄与する。
 第2条 神社本庁は、神宮を本宗と仰ぎ、奉賛の誠を捧げる。
2 <略>
 第3条 神社本庁は、敬神尊皇の教学を興し、その実践綱領を掲げて、神職の養成、研修、及び氏子・崇敬者の教化育成に当る。
 第4条 神社本庁は、総裁を推戴する。
 2 総裁は、神社本庁の名誉を象徴し、表彰を行ふ。
 第5条 神社本庁に統理以下の役員、その他の機関を置く。
 2 統理は、神社本庁を総理し、これを代表する。
 3 <略>
 第6条 祭祀は、報本反始の誠を捧げ、古来の伝統と、別に定める制規に従って厳修する。
 第7条 神社本庁は、幣帛促進の伝統を重んじ、神社に本庁幣を献ずる。
 第8条 神社は、神祇を奉斎し、祭祀を行ひ、祭神の神徳を広め、以て皇運の隆盛と氏子・崇敬者等の繁栄を祈念することを本義とする。
 2 霊代の神聖は、厳に護持しなければならない。
 3以下<略>
 第11条 神職は、ひたすら神明に奉仕し、祭祀を厳修し、常に神威の発揚に努め、氏子・崇敬者の教化育成に当ることを使命とする。
 2以下<略>
 <以下、略>
 出所-神社本庁総合研究所監修・戦後の神社・神道-歴史と課題-(神社新報社、2012年2月)
 ***
 さしあたりの感想・コメント。
 第一。「大御代の彌栄を祈念」(1条)、「敬神尊皇」(3条)。「皇運の隆盛」(8条1項)。つまり、<天皇・皇室>を崇敬・尊重する、ということが明記されている。やや失礼かもしれないが、神社本庁系神社=「神道」・「天皇」教なのだ。8条1項によると氏子・崇敬者よりも「皇運」は優先するごときだ。
 第二。「神社本庁は、神宮を本宗と仰ぎ」。厳密な意味を問題にする余地はあろうが、「神宮」=<伊勢神宮>(そして内宮の祭神は<天照大御神>)が「本宗」と明記されている。
 歴史的・由緒的にはアマテラスではなくスサノヲ・大国主命系の神を主祭神とする神社も多く、かつまた稲荷神社系、八幡系(応神天皇・神功皇后)、天神・天満系(菅原道真)もあり、日吉・日枝系(日吉大社、日枝神社等)もあるが、神社本庁を「包括法人」としているかぎりは、「本宗」は、伊勢神宮=アマテラス系だ、とされている。したがって、「天皇・皇室」との縁が遠いと思われる神社も、神社本庁系あるいは「神社神道」であるかぎりは、<世界で最古の王朝・日本の皇室>などというノボリを立てたり、看板を立てたり、冊子を頒布していることになる(神社本庁から配布されたのだろう)。
 

2228/L・コワコフスキ著第一巻第6章・経哲草稿①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳を行う。
 上のうち、これまでのL・コワコフスキ著の試訳とは異なり、ドイツ語訳書を第一に用いる。適宜、英訳書も参照する。いずれによるかによって、文構造や表面上の訳語はかなり異なる。いずれも分冊版で、独訳書、p.151~。英訳書、p.132~。
 第6章の第1節にあたるものの前には見出しがないので、たんに「(序)」とした。
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 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
 (序)
 (1)1844年、マルクスはパリで、論考を執筆していた。それは政治経済学を批判し、経済学上の基本概念を一般的哲学的に分析しようとするものだった。経済学上の基本概念とは、資本、地代(Grundrente, rent)、労働、所有権(Eigentum, property)、貨幣、需要(Bedürfnisse, needs)、賃金(Arbeitslohn, wages)。
 この論考は完成せず、1932年に初めて公刊され、「1844年の経済学哲学草稿」という表題で知られる。そして、マルクスがスケッチ風に叙述したものだったにもかかわらず、公刊後には、マルクス主義の進展に関する研究者が依拠する、最も重要な典拠の一つになった。
 マルクスは実際に、社会主義を一つの総体的世界観として叙述しようとしている。社会主義を社会改革の綱領としてのみならず、経済学の諸範疇を自然と人間の間の哲学的に解釈される関係へと統合しようとしている。その際、この関係は、認識論上の問題と形而上学上の問題を論述するための基礎にもなっている。//
 (2)マルクスは、ドイツの哲学者や社会主義著作者だけではなく、彼がそれらの著作の研究を開始していた、政治経済学の創設者たちも、その出発点としていた。すなわち、ケネー(François Quesnay)、A・スミス、リカルド、セイ(Jean-Baptiste Say)、ジェイムズ・ミル(James Mill)。//
 (3)自明のことだが、『草稿』から『資本』の全内容を抽出することができるというのは、完全に誤っている。
 それでもしかし、『草稿』は、マルクスが生涯の終わりまで書き続け、最終型が『資本』と称される書物の、輪郭(Umriß)だ。
 最終型は決して初めの型を否定しておらずその発展型だ、ということを支持する重要な根拠がある。
 「成熟した」形でのマルクス主義の基礎だと考えられている価値理論も剰余価値理論も、『草稿』には存在しない。
 特殊マルクス的内容をもつ価値理論は(すなわち抽象的価値と具体的価値の区別や労働力の商品性の承認と連結させたものは)、しかし、疎外労働の理論の明確な範型に他ならない。//
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 第1節・ヘーゲルへの批判・人間の基礎としての労働。
 (1)ヘーゲルの『精神現象学』は、とりわけ疎外(Entfremdung, alienation)の理論と疎外過程としての労働の理論は、マルクスにとっての消極的な準拠点(Bezugspunkte)だった。
  マルクスにとって、ヘーゲルの否定の弁証法の偉大さは、人間の自己生産の過程を疎外とその止揚(Aufheben, transcendence)の連続的段階だと把握する、という点にある。
 ヘーゲルによると、人間はその種としての本質をつぎのようにして明らかにする。まずは具象的な状態での自分に固有の諸力と関係づけ、次いで言わば外部からそれらを再び自己のものとする(=同質化する)ことによって。
 人間の本質(menschliches Wesen, essence of man)を実現するものとしての労働は、ヘーゲルにとってはそのゆえに、もっぱら積極的な意義をもつ。それ自身の外部化を通じて人間性が発展する、そのような過程なのだ。
 しかしながら、ヘーゲルによっては、人間の本質は自己意識と同一視され、労働は精神的活動と同一視される。
 したがって、その本来の形態での疎外は自己意識の疎外であり、全ての具体的実在は疎外された自己意識だ。
 ヘーゲルによると、人間が自分の本質を改めて我が物とすることは、具体的対象の止揚であり、それを人間の精神的本質へとそれを帰還させることなのだ。
 人間の自然との統合は、精神の次元で行われる。その理由で、マルクスにとっては、抽象的で表面的なものになる。//
 (2)マルクスはこれに対し、人間を考察するに際して、フォイエルバハに従って、自然との肉体的(sinnlich, phiysical)な交渉という意味での労働を、出発点に据えた。
 労働は人間の全ての精神活動の条件であり、人間は労働のうちに自己の創造力の対象である自然はもとより、自分自身を創り出す。
 人間が必要とする対象は、ゆえに人間がその本質を発見して実現する対象は、人間とは別個のものだ。すなわち換言すれば、人間は被る(leidend, passive)存在でもある。
 だが、人間はたんに自然的存在であるのではなく、人間自体のための存在(Fürsichsein, being-for-himself[対自存在])だ。したがって、事物は人間にとって、人間・対象・存在という状況を考慮しないで済む(=人間の対象であるということとは無関係の)単純なものとして、存在しているのではない。
 「ゆえに、<人間の>対象は、人間に直接に提示される自然的対象ではない。また、直接的な<人間の感覚(Sinn)>は、<人間的感覚(Sinnlichkeit)>や人間的な対象でもない。」(1)
 従って、疎外されたものとして対象を止揚することは、ヘーゲルが言うのとは反対に、対象たるものの止揚では全くあり得ない。
 人間が自然と対象を再び我が物とする可能性は、疎外労働のメカニズムを通じて明らかになる、疎外という現実の現象が発生する態様を明確にすることによって、初めて生まれる。//
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 (1) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 579.〔マルクス=エンゲルス全集補巻第一部、579頁〕
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 「序」と第1節、終わり。

2227/日本の<防衛・国防>法制-諸文献。

 2015年にいわゆる平和安全法制が成立し、2016年に施行された。この「法」案は正確には関係諸法律の「(一部)改正」部分をまとめて一本にした法案で、その中には旧法律の名称自体を変更(改正)するものもあった。独自に<…にかかる平和安全法>とかがあるのではない。
 この頃、日本の防衛・平和安全法制をきちんと勉強しておこうと思って(いわば<有事法制>の積み重ねの内容だ)、いくつか文献を買い求めた。
 ほとんど利用することなく、今日まで来てしまった。一覧表でも書いて、遺しておこう。
 最初の00杉村著は、以前から所持していたもの。
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1958年
 00-杉村敏正・防衛法/法律学全集12(有斐閣、1958.05)。
1974年
 01-吉岡吉典・有事立法とガイドライン(新日本出版社、1979.04)。=共産党系。
1997年
 02-田村重信・日米安保と極東有事(南窓社、1997.03)。
 03-安田寛監修・平和・安全法制と法/補綴版(内外出版、1997.04)。
2001年
 04-西修=浜谷英博=高井晋ほか・日本の安全保障法制(内外出版、2001.04)。
2002年
 05-小針司・防衛法概観-文民統制と立憲主義(信山社2002.05)。
 06-水島朝穂編(+馬奈木厳太郎執筆)・知らないと危ない「有事法制」(現代人文社、2002.05)。
 07-田村重信・急げ!有事法制/日本の平和と人権を守る武力攻撃事態対処法案(朝雲新聞社、2002.09)。
2003年
 08-森本敏=浜谷英博・有事法制-私たちの安全はだれが守るのか(PHP新書、2003.01)。
 09-水島朝穂編・世界の「有事法制」を診る(法律文化社、2003.05)。**
 10-常識/日本の安全保障(文春新書、2003.11)。
2004年
 11-田村重信=杉之尾宜生・教科書・日本の安全保障(芙蓉書房出版、2004.03)。
2005年
 12-森本敏=浜谷英博・有事法制-早わかり国民保護法(PHP新書、2005.08)。
2007年
 13-丸茂雄一・概説/防衛法制-その政策的課題(内外出版、2007.08)。
 14-防衛知識普及会編・テロ特措法(内外出版、2007.10)。
2008年
 15-防衛知識普及会・防衛省改革(内外出版、2008.11)。
2009年
 16-丸茂雄一・概説/基地行政法-基地行政のデュー・プロセス(内外出版、2009.06)。
2010年
 17-眞邉正行編・防衛法令根拠辞典/全改訂版(内外出版、2010.06)
2012年
 18-田村重信=高橋憲一=島田和久・日本の防衛法制・第2版(内外出版、2012.05)。
 19-田村重信編・日本の防衛政策(内外出版、2012.06)。
2013年
 20-西修・有事法制の解説(内外出版、2013.07)。
 21-防衛省・平成25年版/日本の防衛・防衛白書(2013.07)。
2014年
 22-田村重信・安倍政権と安保法制(内外出版、2014.07)。
2015年
 23-西修監修・詳解有事法制/増補版(内外出版、2015.07)。
 24-日米安保法令集(内外出版、2015.08)。
 25-読売新聞政治部編・安全保障関連法-変わる安保体制(信山社、2015.09)。
 26-田村重信・平和安全法制の真実ー冷戦後の安全保障・外交政策-(内外出版、2015.10)。
 27-鈴木和之・日本の安全保障法制入門(内外出版、2015.12)。
2016年
 28-緊急事態関係法令集・2016(内外出版、2016.03)。
 29-軍事研究・2016年07月号(Japan Military Review、2016.06)。
 30-田村重信=丹羽文生・政治と危機管理(内外出版、2016.09)。
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 +++ここから記載の4文献は、2020年5/26に追記。+++
 ①水島朝穂・この国は「国連の戦争」に参加するのか-新ガイドライン・周辺事態法批判(高文研、1999.03)。
 ②憲法再生フォーラム編・有事法制批判(岩波新書、2003.02)。
 ③森本敏=石破茂=西修・国防軍とは何か(幻冬舎ルネサンス新書、2013.06)。
 ④戦争をさせない1000人委員会編・すぐにわかる/戦争法・安保法制ってなに?(七ツ森書館、2015.07)。
 +++
 若干のコメントを付記する。
 第一。杉村敏正・防衛法(有斐閣、1958.05)は、公法(・行政法)研究者によるもので、1958年刊行のものとして、歴史資料としても貴重だろう。
 杉村敏正、1918年9月~2011年9月。京都大学名誉教授。
 杉村敏正先生追悼文集・杉村敏正先生の人と学問(有斐閣、2014)参照。
 つぎのような章構成になっている。体系としてはオーソドクスだ。
 第1章/序説、第2章/防衛組織法、第3章/防衛公務員法、第4章/防衛作用法。
 序説では、「自衛隊」・「防衛庁設置法」に至るまでの経緯・変遷もまとめられている。
 歴史あるいは当時の学界の雰囲気を想起させるのは、つぎの文章だろう。
 「尤も、私個人としては、防衛庁設置法、…、自衛隊法などは日本国憲法に違反するものと判断しているが、国会の制定した法律であるので、一応、適憲性の推定の下に、防衛法令を体系的に説明した」(p.1)。
 第二。防衛・軍事は大学の法学部・経済学部等でまとまって教育されることはおそらくほとんどなく、<防衛・国防・軍事法>に関する学界(少なくとも大学所属研究者によるもの)も存在しない。
 そして当然のごとく、この分野は司法試験や国家公務員試験の対象にならない。むろん、憲法(学)の中で憲法9条に当然のごとく論及されるだろうが、憲法履修が必須であるはずの教員免許取得試験も含めて、憲法9条の具体的解釈はむろんのこと「現行自衛隊法制」の内容を前提とする設問などは戦後ずっとない、と言われている(試験に出ないとされるもう一つは、1条以下の<天皇>条項だ)。
 従って、法曹・公務員・私立を含む学校教員は、<防衛・国防・軍事>に関する素養がほとんどないままに、それぞれの職に就いている。むろんその後で、自力で知識を得たものはいるだろう。
 それはむろん、自衛隊=違憲論が強い(強かった)ことが理由の重要な一つで、したがって自衛隊=「自衛」のための実力部隊の組織・活動等について知って論じようとする姿勢自体を希薄なものにしてきた。現実には「ある」が、「見たくない」もの・「見てはならない」ものにしてきた。
 上の文献列挙でも明らかだが、一部「左翼」ないし「左派リベラル」の者を除き、学者・研究者による<防衛・国防・軍事>法研究は全く乏しい、と言い得る。
 その中では、子細には知らないが、小針司(1949~)による研究の継続は貴重ではないかと感じられる。
 第三。必要とあらば、上記のものを参照することはできる。一見ないし概読しても、とり立てて難解というものではない。但し、法制だから<積み重ね(改正・追記等)>をきちんと理解しなければならない。

2226/R・パイプス・ロシア革命第13章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第3節・ドイツとボルシェヴィキが講和交渉へ。
 (1)既述のように、レーニンには、中央諸国が要求する条件を受け入れる心づもりがあった。しかし、レーニンはドイツの工作員だとする疑いが広がっていたために、慎重に事を進める必要があった。
 したがって、ただちにドイツやオーストリアとの交渉に入るのではなく、あらかじめ考えていただろうように、全交戦諸国に対して、会合して講和しようとの訴えを発した。
 実際には、ヨーロッパの一般的平和は、彼が最も望んでいないことだった。
 述べてきたように、十月での権力奪取を急いだ一つの理由は、そのような平和がまさに訪れるのを怖れたからだった。そうなってしまえば、ヨーロッパに内乱を発生させる機会を永遠に封じてしまうからだ。
 明らかに、これまでのいくつかの訴えが聞く耳を持たれなかったために、レーニンは平和を呼びかけることに怖れを感じなかったと思われる。従前の訴えには、1916年12月のウィルソン大統領の提案、1917年7月のドイツ帝国議会の講和決議、1917年8月の書面上の諸提案が含まれる。
 想定したとおりにレーニンの提案が連合諸国に拒否されれば、彼は自由に手筈を整えることができるだろう。//
 (2)レーニンが起草して第二回ソヴェト大会が採択した、奇妙な名前の「平和に関する布令」は、交戦諸国に対して3ヶ月の停戦を提案した。
 この提案は、イギリス、フランスおよびドイツの労働者に対する訴えと一対のものだった。後者は各国労働者について、こう言う。
 「その多方面からする決定的で、無私の旺盛な活動は、平和の任務を、同時に、各人民の勤労被搾取大衆を全ての奴隷化と搾取から解放する任務を、我々が成功裡に達成するのを、助けている」。(7)
 G・ケナン(George Kennan)は、この「布令」を「示威的(demonstrative)外交」と名付けた。彼によると、「諸政府間の、自由に受容されかつ相互の利益となる合意達成を促進するのでなく、他政府を当惑させかつ各国の国民内部での対立を掻き立てることを意図する」外交だ。(*)
 ボルシェヴィキは、同じ趣旨の諸宣言を発して、交戦諸国の国民に対して、反乱を起こすよう強く訴えた。(8)
 レーニンは国家の長として、今やツィンマーヴァルト(Zimmerwald)左翼の綱領を推進することができた。//
 (3)ボルシェヴィキは、11月9日/22日に、平和布令を連合諸国外務部局に伝えた。
 連合諸国政府はただちに、これを拒否した。トロツキーはこのあと、中央諸国に対して、停戦交渉を開始する用意があることを知らせた。
 (4)ボルシェヴィキの取り込み政策は、ドイツにとって相当の利益となるものだった。
 ロシアの分離講和の提案がドイツのある範囲の者たちに思い出させたのは、1763年の「奇跡」だった。その年、親フランスのエリザベトの死と親プロイセンのピョートル三世の即位によって、ロシアは七年戦争から撤退した。そのことがフリートリヒ大帝を敗北から、プロイセンを解体から救ったのだった。
 ロシアの連合諸国からの離脱意欲は、ドイツには二つの利益があった。すなわち、①数十万人の兵団を西へと移動させる、②イギリスの海上封鎖を突破する。
 このような見込みは、ドイツが再び勝利を手元に引き寄せるように思わせた。
 ペトログラードでのボルシェヴィキの権力掌握を知って、ルーデンドルフ(Ludendorff)は、1918年春に、東側前線から移ってくる分団の助力でもって西側前線で決定的な攻撃を行う作戦を練り上げた。
 皇帝は、その計画を承認した。(9)
 この段階でルーデンドルフは、親ボルシェヴィキ志向の設計者であるR・v・キュールマン(Richard von Kühlmann)が追求している外務当局の、ロシアとすみやかに停戦して、講和へと進む、という政策方針にすっかり同意していた。//
 (5)ボルシェヴィキと中央諸国の間の知恵比べでは、後者の側が圧倒的に有利であるように見えた。一方には数百万人の紀律ある軍をもつ安定した政府があり、これと比べると他方には、解体過程にある寄せ集めの軍をもつ、ほとんどの外国が承認していない素人と簒奪者の政治体制があったのだ。
 しかしながら、現実には、力の均衡はさほどに一方的ではなかった。
 1917年末頃、中央諸国の経済状況は絶望的になっていて、戦争継続を行うことができそうでなかった。
 オーストリア=ハンガリーはとくに、心許ない状態だった。その外務大臣のO・チェルニン侯(Count Ottokar Czernin)は、ブレスト交渉での間にドイツに対して、自分の国はたぶん次の収穫期まで持ちこたえることができない、と語った。(10)
 ドイツは好かったが、辛うじてにぎなかった。ある範囲のドイツの政治家たちは、 1918年4月半ばまでに食糧を使い果たすだろうと考えていた。(11)//
 (6)ドイツとオーストリアは、民間人の戦意という問題を抱えていた。ボルシェヴィキによる平和の訴えが民衆の間に大きな希望を掻き立てていたからだ。
 ドイツの宰相は皇帝に対して、ロシアとの交渉が決裂すればオーストリア=ハンガリーはおそらく戦争から離脱し、ドイツは国内騒擾に巻き込まれるだろう、と助言した。
 ドイツの(戦争を支持した)社会主義多数派の指導者であるP・シャイデマン(Philipp Scheidemann)は、ロシアとの講和交渉が失敗すれば「ドイツ帝国の終焉となる」だろうと、予見した。(12)
 こうした全ての-軍事、経済、および心理上の-理由で、中央諸国は、ボルシェヴィキが必要とするのとほとんど同じ程度にロシアとの講和を必要とした。
 ロシア側が十分には知っていなかったこの事実は、ドイツとオーストリアに接近するレーニンの降伏主義政策に反対する者たちは、ふつうは言われているほどには非現実的ではなかった、ということを示している。
 敵もまた、自分の頭に銃砲を向けて交渉していたのだ。//
 (7)ボルシェヴィキにはまた、別の有利さもあった。すなわち、相手側に関する詳細な知識があった。
 西側で数年間生活していたので、ドイツの国内問題、政治上および取引上の人々の性格、党派的配列状態等によく通じていた。
 彼らのほとんど全員が、西側の言語の一つまたはそれ以上を話した。
 ドイツは社会主義の理論と実践の第一の中心地だったために、自国以上ではなくとも同等に、ドイツのことを知っていた。そしてかりに必要とあれば、ソヴナルコムは喜んでそこで権力を掌握しただろう。
 知識がこのようにあったことで、事業家を将軍たちと、左翼を右翼社会主義者と競わせたり、ドイツの労働者たちを容易に理解可能な言語で革命へと喚起させたりすることによって、彼らは、敵側陣営内部にある不和を利用することができた。
 対照的に、ドイツは、交渉に入ろうとしている相手方について、ほとんど何も知らなかった。
 脚光を浴びてきたばかりのボルシェヴィキは、ドイツにとっては、無骨かつ饒舌で実用的でない知識人の一群だった。
 ドイツ人は一貫してボルシェヴィキの行動を誤解し、その狡猾さを過少評価した。
 ある日、ボルシェヴィキは性急な革命家たちで、意のままに操作できるように見えた。
 次の日、ボルシェヴィキは、自分自身のスローガンを信じないで実務的(businesslike)な取引をする用意のある、現実主義者だった。
 1917-18年の両者の関係では、ボルシェヴィキは、ドイツ人を当惑させ、その欲求を刺激する保護色を纏うことによって、何度もドイツを出し抜いた。//
 (8)ドイツのソヴィエト政策を理解するために、そのいわゆる<ロシア政策(Russlandpolitik)>について、少しばかり述べておこう。
 しばらくの間、ロシアと講和をする直接の利益は、軍事的な考慮にもとづくものだった。ドイツもロシアについて、長期的な地政学的企図を有していた。
 ドイツの戦略家たちは伝統的に、ロシアに強い関心を示してきた。第一次大戦以前にドイツほどにロシア研究の伝統を積み重ねていた国がなかったのは、偶然ではなかった。
 保守派は、自国〔ドイツ〕の国家的安全保障には弱いロシアが必要だ、ということを自明のことと考えていた。
 第一に、ロシアが第二戦線でドイツを脅かすことができない場合にのみ、ドイツ軍は自信をもって、世界の覇権をめぐる戦いでフランスや「アングロ=サクソン」に立ち向かうことができる。
 第二に、<世界政治(Weltpolitik)>での重要な競争国となるためには、ドイツは、食糧を含むロシアの自然資源を利用することができることが必要だ。ドイツはこの自然資源を、ロシアがドイツの服属者になってのみ、満足できる条件で獲得することができる。
 ドイツはきわめて遅くに国民国家として確立したがゆえに、帝国主義略奪競争に入らなかった。
 競争相手諸国の経済的力量に対抗するドイツの唯一の現実的機会は、東方へと、広大なユーラシアへと、膨張することにあった。
 ドイツの銀行家や産業家は、ロシアに、潜在的な植民地を、アフリカの代用物を見た。
 彼らはドイツ政府の文書の草稿を書いて、その中で、ドイツが無関税でロシアの良質な鉄鉱石とマンカン鉱石を輸入すること、そしてロシアの農業と炭鉱を利用すること、の重要性を強調した。(13)//
 (9)ロシアを服属国家に変えるためには、二つのことがなされなければならなかった。
 ロシア帝国は解体して、大ロシア人が居住する領域へと縮小されなければならない。
 このことの意味の一つは、ドイツがバルト地方を併合して、表向きは主権をもつが実際にはドイツが支配する保護領である<防疫線(cordon sanitaire)を生み出す、ということだった。保護領とは、ポーランド、ウクライナ、およびジョージア。
 大戦前および戦争間に政治評論家のP・ロールバハ(Paul Rohrbach)が主張していたこの基本方針は(14)、とくに軍部に対して、強い訴求力をもった。
 1918年2月、ヒンデンブルクは皇帝に対して、ドイツの利益のために必要なのは、ロシアの国境線を東に移し、人口が多くて経済的力のあるロシアの西部地方を併合することだ、と書き送った。(15)
 これが本質的に意味したのは、ロシアを大陸ヨーロッパから追放することだった。
 ロールバハの言葉によれば、問題は「我々の将来の安全が確保されるべきだとすれば、ロシアは今日までにそうだったのと同じ意味でのヨーロッパの大国にとどまるのが許容されるのか、<それとも、そうであることが許容されないのか?>」だった。(16)//
 (10)第二に、ロシアはドイツに、全ての経済的な権利や特権をドイツに譲りわたして、ドイツの浸透を、究極的にはドイツの覇権を認めなければならなかった。
 ドイツの企業家たちは戦争中に政府に対して、ロシアの西部地方を併合し、ロシアを経済的に利用することを強く要望していた。(17)//
 (11)こうした観点からすると、ロシアにボルシェヴィキ政府があること以上に好都合のものはなかった。
 1918年からのドイツ国内の情報通信は、つぎの理由でボルシェヴィキが権力ある地位にとどまるのを助けるべきだ、という議論で充ちていた。すなわち、ボルシェヴィキは、膨大な領土的経済的な譲歩を行う用意がある、またその無能力さと不人気のゆえにロシアが永続的な危機にあるのを続けさせる、ロシアの唯一の政党だ。
 国家補佐官だった大将P・v・ヒンツェ(Paul von Hintze)は、つぎのような合意を表明した。それは、1918年秋に、信頼できない危険な相棒だと見てボルシェヴィキを拒絶しようとしていた者たちに立ち向かっていたときのことだった。
 ボルシェヴィキを排除することは、「ロシの軍事的弱体化を目指していた、東方領域での我々の戦争指導力と我々の政策のこれまでの全作業を覆してしまうだろう」。(18)
 P・ロールバハも、類似の調子で、こう論じた。//
 「ボルシェヴィキは、大ロシアを破滅させている。ロシアが潜在的にもつ将来の危険の根源を、根こそぎ破壊している。
 ボルシェヴィキは、大ロシアについて我々が感じてきた不安のほとんどを、すでに解消した。
 そして我々は、彼らが可能なかぎり長くその仕事を継続することができるよう、全てのことを行うべきだ。それは我々に有益だ。」(19)//
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 (7) Dekrety, I, p.16.
 (*) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N. J., 1956), p.75-p.76.
 11月早くに、ボルシェヴィキは、外務省の書類から、ロシアと連合諸国間の秘密条約を公表し始めた。
 ボルシェヴィキは、訴えを発することで、1792年11月に自由の「再獲得」を熱望する全ての国民に対して「兄弟愛と助力」を誓約したフランスの革命家たちに見倣った。
 (8) E. G. Revoliutsiia, V, p.285-6.
 (9) Fritz Fischer, Germany's Aims in the First World War(New York, 1967), p.477.
 (10) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (11) 同上, p.108.
 (12) 同上, p.184.
 (13) 一例は、同上, p.68-p.75。Fischer, Germany's Aims, p.483-4.も見よ。
 (14) 例えば、Paul Rohrbach's Russland und Wir(Stuttgart, 1955)を見よ。
 (15) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-6.
 (16) Paul Rohrbach, Russland und Wir, p.3.
 (17) Fritz Fischer, Griff nach den Weltmacht(Düsseldorf, 1967), passim〔多数箇所〕.
 (18) Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.245-6.
 (19) Isaac Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
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 第3節、終わり。

2225/田中二郎・行政法の基本原理(1949年)①。

 A/田中二郎・行政法の基本原理(勁草書房/法学叢書、1949年)。
 日本国憲法施行後2年のこの書物は、書名のとおり、「行政法の基本原理」を論述する。最終表記の頁数は297。
 4つの章で構成されていて、つぎのとおり。第二章のみ、節も紹介する。旧漢字は新漢字に改める。
 第一章・序論。
 第二章・行政法の基本原理の変遷。
  第1節・旧憲法の下における行政法の基本原理。
  第2節・新憲法の下における行政法の変遷の概観。
 第三章・新憲法の下における行政法の基本原理。
 第四章・連合国の管理における行政法の特質。
 **
 第三章(およびすでに第二章第2節)で著者が示す現憲法下での「行政法の基本原理」はつぎの四つだ。各節の表題とされている。p.58~p.264.
 ①地方分権主義の確立。
 ②行政組織の民主化。
 ③法治主義の確立。
 ④司法国家への転換。
 これらにそれぞれ(ほぼ)対比されるものが、第二章第1節で「旧憲法の下における行政法の基本原理」とされている。p.11以下。
 ①中央集権主義。
 ②官僚行政主義。
 ③警察国家主義。
 ④行政国家主義。
 従って、①中央集権主義→地方分権主義、②官僚行政主義→行政組織の民主化、③警察国家→法治主義、④行政国家→司法国家、という<行政法の基本原理>の<変化>も語られていることになる。
 「警察国家」は必ずも語感どおりのものではないし、「行政国家」・「司法国家」の対比は大まかに<行政事件>または<行政訴訟>をとくに行政裁判所(東京に普通裁判所とは別に一審かぎりのものとして、かつてあった)に管掌させるか、現在の最高裁判所以下の<司法裁判所>が一括して扱うかの違いなので、上の諸概念自体について説明や叙述が必要だろうが、立ち入らない。
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 上のような「行政法の基本原理」は、当時のとくに公務員志望の学生たちが教科書・参考書にしたかもしれない、つぎの田中二郎著では、少しく変更されている。
 B/田中二郎・行政法総論-法律学全集6(有斐閣、1957)。
 これのp.188-p.195によると、「現行行政法の基本原理」は、つぎの4つだ。
 ①民主主義の原理。
 ②法治主義の原理。
 ③福祉国家の原理。
 ④司法的保障の原理。
 上のA、つぎのCで出てくる「地方」行政上の「原理」は、この①の中で、新憲法にいう「地方自治の本旨に基づ」く地方行政は「団体自治」・「住民自治」の保障を意味し、これは地方自治法等の法律による首長主義による「代表制民主主義」と直接請求等の「直接民主主義の諸制度」によって実現されている(p.189)というかたちで、<①民主主義の原理>の中に包含されているようだ。
 **
 教科書としてはより詳しくなったつぎの田中二郎著は、上のAよりはBを継承しつつ、全く同じでもない。この書が、<田中二郎行政法>としては最も読まれた(利用された)かもしれない。
 C/田中二郎・新版行政法上-全訂第一版(弘文堂/法律学講座叢書、1964年)、p.33-p.44。
 ①地方分権の原理。
 ②民主主義の原理。
 ③法治国家・福祉国家の原理。
 ④司法国家の原理。
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 むろん一人の学者・研究者の<変化>を問題にしたいのではいない。
 また、「自由主義」との関係・関連も含めたそれぞれの説明・叙述を批判的に検討したいのでもない(その能力はない)。
 最も関心を惹くのは、そもそも一法(学)分野の「基本原理」とは何か、だ。
 これについて論じるまたは検討する意味が多少ともあるのは、田中二郎著について言うと、上のB・Cが「原理」とする、①地方分権、②民主主義、③法治主義(・法治国家)・④福祉国家、⑤司法国家、の諸「原理」の<法的意味・機能>ということになるだろう。
 だが1980年代はおろか2020年代に入っている今日に、これについて議論する意味または価値がいかほどあるかは、別途の説明が必要だろうが、疑わしいようにも見える。
 また、そもそも、田中二郎以降の次世代・次々世代等が、どれほどに、あるいはどのように、<行政法の基本原理>を論じ、あるいは叙述してきたか、きているか、という問題もある。
 但し、現在から70年以上前の、1949年に刊行された上のAについては少なくとも、そこでの「行政法の基本原理」の意味を検討してみる価値が、少なくとも<歴史>ないし<法史>の探求の一つとして、なおあるようだ。
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 結論として、上のAでの「行政法の基本原理」には、つぎの三つがあると解される。
 第一。日本国憲法上の(明文規定上の)「行政」に関する諸規定が示す、<行政に関する憲法原理>
 概念上、憲法と行政法は相互に排他的ではない。法学上の説明にはしばしばこういうのがあるが、憲法(典)の中にも<実質的意味での行政法>はある。この第一は、このことをおそらくは前提とする。
 第二。日本国憲法施行と同時に、またはその後1949年春頃までに制定(または改正)された、諸行政関係法律が有している、もしくは担っている、あるいは基礎にしている「基本原理」
 これを明らかにするためには簡単には戦後(正確には日本国憲法施行後)の行政関係立法の内容(とくに前憲法下との違い)をフォローしなければならない。子細・詳細ではないにしても、上の田中二郎著もこれを行っているだろう。
 第三。上の二つもふまえた、今後に行政関係法制を整備・改正していくための基本的な方向を示すための<基本原理>
 しかして、かりにこうだとして、かつまた1949年ないしその後数年に限ったとして、<行政法の基本原理>は誰の、どんな異論を受け付けないほどの<適正>なものとして、きちんと「把握」され得るものなのか?(だったのか?)。
 これはむろん、田中二郎の直接には1949年著による「把握」の適正さに論理的にはかかわる。
 しかしてさらに、「(法)原理」の「把握」とはいったい何のことか?
 また、その「把握」の「適正さ」の有無や程度は、いったいどのようにして<評価>され、あるいは<論証>されるのか?
 こうした論点には、純粋「文学」畑の幼稚な論者たちがおそらくは全く想定しておらず一片も理解することのできない、あるいは法学者ですら無自覚であることがあるかもしれない、<法学(的)>議論の特性、があるように見える。

2224/R・パイプス・ロシア革命第13章第1・第2節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 試訳をつづける。第13章に入る。第1節に当たる部分に目次上の表題がないので、たんに「序」とする。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 「党の煽動活動家は、わが党はドイツとの分離講和を支持している、という資本主義者が投げつける汚い中傷に対して、何度も、何度も、抗議しなければならない」。
 レーニン、1917年4月21日。(1)
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 第1節・序。
 (1)十月以降のボルシェヴィキの主要な関心は、その権力を確固たるものにし、全国土へと拡張することだった。
 彼らはこの困難な任務を、現実的な外交政策の枠組みの中で行わなければならず、その中心に位置したのは、対ドイツ関係だった。
 レーニンの判断では、ロシアがすみやかにドイツとの停戦に署名しなければ、自分が権力を維持することのできる機会は皆無に近い。
 逆に言えば、停戦とそれに続く講和は、ボルシェヴィキが世界制圧を始めるドアを開けるだろう。
 1917年12月、ほとんどの支持者がドイツが提示した条件を拒否していたとき、レーニンは、ドイツの言うがままにする以外の選択の余地は党にはない、と論じた。
 問題は、きわめて単純だ。ボルシェヴィキが講和をしなければ、「戦争に耐えられないほど消耗している農民軍は、…社会主義労働者政権を打倒するだろう」。(2)
 ボルシェヴィキには、権力を堅固にし、行政運営を管理し、自分たち独自の軍隊を建設するために、<peredyshka>あるいは休息時間(breathing spell)が必要だ。
 (2)このような想定から進めて、レーニンには、自分に権力基盤が残されるかぎりはどんな条件でも中央諸国と講和を締結する心づもりがあった。
 党員たちの抵抗は、ボルシェヴィキ政府は西ヨーロッパで革命が勃発する場合にだけ生存し続けることができるという考え(レーニンも同じ)や、 それは今にも発生するに違いないとの確信(レーニンは完全には同じでない)によっていた。
 「帝国主義」中央諸国との講和、とくに屈辱的な条件でのそれは、レーニンの反対者たちからすると国際社会主義に対する裏切りだった。
 講和は、長期的には革命ロシアの死を意味するだろう。
 彼らの見方では、国際プロレタリアートの利益よりも、ソヴェト・ロシアの短期的でナショナルな利益を優先させてはならない。
 レーニンは、これに同意しなかった。
 「我々の戦術は、どうすれば、自らを強固にし、あるいは他諸国が加わるまで<一国で>あっても生き抜く可能性を、社会主義革命に関して、より信頼できより希望がある方途で確実なものにすることができるか、という基本的な考えにもとづいている。」(3)
 ボルシェヴィキ党は、1917-1918年の冬、この問題で、真っ二つに分かれた。
 (3)ボルシェヴィキ・ロシアの中央諸国との関係の歴史、とりわけ十月のクー以降の12ヶ月間のドイツとの関係の歴史は、そのときに共産主義者がその外交政策の戦術と戦略を理論上定式化し、実務で作り上げていくものだったため、きわめて興味深いものだ。
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 (1) Lenin, PSS, XXXI, p.310.
 (2) 同上, XXXV, p.250.
 (3) 同上, p.247. <>は挿入した。
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 第2節・ボルシェヴィキと伝統的外交。
 (1)西側諸国の外交の起源は、15世紀のイタリア都市国家に遡る。
 そこから外交実務が残りのヨーロッパに拡がり、17世紀には国際法の編纂が見られた。
 外交は主権国家間の関係を調整し、紛争を平和的に解決することを意図するものとされた。
 外交が失敗して武力行使に訴えられれた場合には、国際法の任務は暴力の程度を可能な限り小さいものにし続け、敵対関係をすみやかに終わらせることだった。
 国際法が成功するか否かは、全ての当事者が一定の原理を受け容れているかによる。
 1.主権国家は、生存の権利を疑いの余地なく有することが承認される。どんな見解の差異が諸国家にあろうとも、それぞれの存在自体は決して問題になり得ない。
 この原理が1648年のウェストファリア条約を支えた。
 この原理は18世紀の終わりにポーランドの第三次分割によって侵犯され、国の消滅をもたらしたが、例外的な場合とされた。
 2.国際関係は、政府間の接触に限定される。ある政府が別の政府の頭越しにその国民に対して直接に訴えるのは、外交上の規範を侵犯する。
 19世紀の実務では、国家は通常は外務省を通じて意思や情報を連絡し合う。
 3.外務当局間の関係は、正式合意の尊重も含めた、一定レベルの誠実さと善意を前提とする。これらなくして相互信頼はなく、信頼がなければ、外交は無意味な活動となるからだ。
 (2)15世紀から19世紀の間に発展したこうした原理と実務は、キリスト教諸国の超国家的共同社会の存在はむろんのこと、自然法の存在を想定している。
 自然法に関するストア派の観念は永遠で普遍的な正義の規準を想定しているが、H・グロティウス(Hugo Grotius)以降のその国際法の理論家たちが、国家間関係にその観念を適用した。
 キリスト教徒の共同社会という観念は、どんな差異があってもヨーロッパ諸国とその海外地は一つの家族の一員だ、ということを意味した。
 20世紀以前に、国際法の観念は、ヨーロッパ共同社会の外にいる人々に適用されるとは考えられていなかった。-この姿勢が植民地征服を正当化した。
 (3)明らかに、こうした「ブルジョア」概念の全複合体が、ボルシェヴィキには不快だった。
 革命家は既存の秩序を転覆しようと決意しているので、国際的国家システムの神聖さを承認するとはほとんど期待されていなかっただろう。
 政府の頭越しにその国民に訴えることは、革命戦略のまさに根本だった。
 かつまた、国際関係での誠実さと善意について言えば、ボルシェヴィキは、その他のロシア急進派と共通して、道徳という規準は運動内部でのみ、同志間の関係についてのみ義務的なものになると見なしていた。すなわち、階級敵との関係には、道徳ではなく戦争の規則が当てはまる。
 戦争の場合と同じく革命では、重要な原理はただ一つ、<kto kogo>、誰が誰を喰うか、だった。//
 (4)十月のクー以後の数週間、ほとんどのボルシェヴィキは、ロシアの例がヨーロッパ全域に革命を始動させると期待していた。
 産業ストライキや暴動に関する外国からの全ての報告が、「始まり」だと歓迎された。
 1917-1918年の冬、ボルシェヴィキの<Krasnaia gazeta>やこれと類似の党機関紙は、毎日のごとく、横大見出しで、西ヨーロッパでの革命的爆発を報告した。
 ある日はドイツ、つぎはフィンランド、そして再びフランス。
 このような期待が生き続けているかぎりは、ボルシェヴィキには、外交政策を作り上げる必要がなかった。
 しなければならないのは、いつもやってきたことの繰り返しだった。つまり、革命の炎を燃え立たせること。//
 (5)しかし、この希望は、1918年春に、いくぶんか衰えた。
 ロシア革命にはまだ、競争する仲間相手がいなかった。
 西ヨーロッパでの反乱やストライキはどこでも弾圧され、「大衆」は「支配階級」を攻撃しないで、お互いに殺戮し合った。
 このような事態を認識しはじめたとき、革命的な外交政策を作り出すことが喫緊となった。
 この点で、ボルシェヴィキには指針がなかった。マルクスの書物も、パリ・コミューンの経験も、大した助けにならなかったからだ。
 この困難さは、主権国家の支配者としての利益と世界革命の自認の指導者としての利益と、これら二つの矛盾する条件があることからも生じていた。
この後者の点での理解では、ボルシェヴィキは他の(「非・社会主義的」)政府の存在する権利を否定し、外交関係を国家の長や閣僚たちに限定する伝統を拒否した。
 ボルシェヴィキは、ナショナルな「ブルジョア」国家の構造全体を完膚なきまで破壊するのを欲した。そうすることで彼らは、外国の「大衆」が反抗するように激励しなければならなかった。
 だが、しかし、彼ら自身が主権国家を今では率いているために、他の政府との関係を避けることはできなかった。-少なくともその政府が世界革命によって打倒されるまでは。
 そして、他政府と関係をもつには、「ブルジョア」国際法の伝統的基準に合致して行動しなければならなかった。
 彼らはまた、自分たちの内部問題に外国が干渉することを排除するため、こうした基準による保護を必要とした。//
 (6)共産主義国家の二重性(dual nature)、つまり党と国家の形式的分離、が有用だと分かるのは、まさにこの点だ。
 ボルシェヴィキは、二つのレベルの外交政策を構築することで、問題を解決した。一つは、伝統的。二つは、革命的。
 「ブルジョア」諸政府と交渉する目的で、外務人民委員部を設立した。部員は全員が信頼できるボルシェヴィキで、党中央委員会からの指令に服従した。
 この機関は、少なくとも表面的には、外交に関する受容された規範に合致して、機能した。
 相手国で許されるかぎりで、ソヴィエトの外交使節団の長は「大使」や「公使」ではなく「政治代表者」(polpredy)と呼ばれ、旧ロシアの大使館の建物を受け継ぎ、cutawayを着用し、シルク・ハットを被り、「ブルジョア」大使館の仲間たちとよく似た振る舞いをした。(*)
 革命的外交-厳密に言えば、用語法上の矛盾がある-は、コミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)のような、党が自らまたは特殊機関の工作員を通じて行う場所になった。
 工作員たちは革命を刺激し、外務人民委員部が適切な関係を維持している、まさにその外国政府に反対する地下活動を支援した。//
 (7)このような機能の分離はソヴェト・ロシア内部での党と国家の類似の二重性(duality)を反映しており、スヴェルドロフ(Sverdlov)はボルシェヴィキ第七回党大会で、ブレスト=リトフスク条約の方向に関して述べた。
 署名国が敵対的な煽動活動やプロパガンダを行うことを禁じる条項に言及して、こう言う。
 「我々が署名した、そしてすみやかにソヴェト大会で批准させなければならない条約から、つぎのことが完全に明確になる。すなわち、政府、ソヴェト権力の権能者として、我々は今まで行ってきた広範な国際的煽動活動をすることができなくなるだろう。
 しかし、これは、我々が煽動活動を微小なりとも削減しなければならないことを意味していない。
 今からはたんに、ほとんどつねに、人民委員会議の名前によってではなく、党中央委員会の名前によって行わなければならない。…」(4)
 党を私的組織と見なすというこの戦術によって、悪辣な行動については「ソヴィエト」政府には責任がなく、ボルシェヴィキは、むしろ興味深い決定を着実に押しすすめた。
 例えば、1918年9月にベルリンがロシアの新聞(その頃まで完全にボルシェヴィキが統制していた)による反ドイツ・プロパガンダについて抗議したとき、外務人民委員部は、いたずら気に、こう回答した。
 「ロシア政府は、ドイツの検閲部とドイツの警察が、ロシアの政治的組織-つまりソヴェト制度-について悪意ある煽動活動をしているとして…ドイツの新聞を訴追していないことを、遺憾には思っていない。…
 ソヴィエト諸制度についての政治的社会的な反対意見を自由に表現しているドイツのプレスに対して、ドイツ政府の側がいかなる抑圧的な措置もとっていないことを、十分に許容し得るものだと考えるならば、ドイツの制度に関するロシアの私人や非公式新聞の同様の行動も、同等に許容し得るものだ。…
 最も断固として抗議する必要があるのは、ドイツ総領事館が、つぎのように提示していることだ。すなわち、ロシア政府は警察的手段によってロシアの革命的プレスをあれこれの方向へと指揮することができ、官僚機構の影響でもってその中にあれこれの見方を注入することができる、と頻繁に述べている。」(5) //
 (8)ボルシェヴィキ政府は、外国がロシアの内部問題に干渉したとき、きわめて多様に反応した。
 早くも1917年11月、外務人民委員のトロツキーは、同盟国の大使たちがロシアの正統な政府の所在に確信がなくて軍最高司令官のN・N・ドゥホーニン(Dukhonin)に外交書簡を送ったあとで、ロシアの問題に関する同盟国の「干渉」に抗議した。(6)
 ソヴナルコムは、機会があるごとに、内政不干渉の原則を侵犯していると諸外国に対して抗議した。まさにその原則を自らがくり返して侵犯しているときにあってすら。//
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 (*) 最も早いロシアの<polpredy>は、中立国に配置された。ストックホルムにV. V. Vorovskii、ベルンにIa. A. Berzin。
 ブレスト条約が批准された後、A. A. Loffe がベルリンでの任務を受け継いだ。
 ボルシェヴィキは、先ずリトヴィノフを、次いでカーメネフをイギリス(The Court of St. James)に任命しようとしたが、いずれも拒否された。
 フランスもまた、内戦の後まで、ソヴィエトの代表を受け入れようとしなかった。
 (4) Sed'moi Ekstrennyi S"ezd RKP(b)(Moscow, 1962), p.171.
 (5) Sovetsko-Germanskie Otnoshennia ot peregovorov v Brest-Litvske do podpisaniia Rapall'skogo dokovora, I(Moscow, 1968), p.647-9.
 (6) C. K Cumming & W. W. Pettit, eds., Russian-American Relations 1917年3月-1920年3月(New York, 1920), p.53-p.54.
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 第1節・第2節、終了。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
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 第2節、終わり。

2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
 章の下位に「節」はないが、一行空けよりも明確に、各章の中に横線を挿入している箇所がある。その部分までを、便宜的に「節」と見なすこととする。
 一行ごとに改行する。段落の最後に//を付し、段落に原文にはない番号を頭書する。
 注番号は記すが、注記の内容そのものは、省略する。
 第6部・第2章は、<結語>直前の最終の章だ。
 章は省略して各部の表題(とp.の範囲)だけ記しておくと、以下のとおり。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。     **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。      **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。      **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第1節
 (1)赤色テロルが前提にしていたのは、つぎのことだ。すなわち、裏切りはつねに隠れている。体制による統制を免れるいかなる集団行動も、体制の存在に対する潜在的な脅威だ。全ての社会的主体は見かけ上のものではない。色を変更することができないグループまたは個人はどこにも存在しない。ゆえに、抑圧は前もってのみならず、専断的に行われなければならない。
 内戦時代を終わらせた1921年2月から3月の事態は、革命を出発させた民衆動員の力学を再びくり返したものだった。
 この事態によって、前線がないような戦争では安全な前線はない、ということが分かった。//
 (2)ペトログラードのプロレタリアート〔工業労働者〕とバルト艦隊は、ボルシェヴィキがもつ草の根の戦闘性の聖像(icon)だった。
 1917年2月、ペトログラードのストライキと街頭示威行動が、事態の懸崖を打ち破った。そこには、海兵と兵士の反乱も含まれていて、それらが、君主制の崩壊の原因となった。
 4年後の1921年2月、ストライキと抗議運動が、再び、ペトログラードを振動させた。
 首都は、モスクワに移っていた。レーニンが、ニコライに取って代わっていた。
 旧体制の終焉を歓迎しソヴェト権力から利益を得ようと期待していた大工業プラントの労働者たちは、今ではその指導者たちに反抗した。自分たちの名のもとで統治すると主張しているが、その政策は社会的経済的危機をもたらし、彼らの生存自体を脅かしている、として。
 工場地区での騒擾は、クロンシュタット要塞近くにいる海兵たちを、彼ら自身の抗議の声を上げるように喚起させた。
 1917年10月の熱心なボルシェヴィキ軍団が、今ではその憤激を、「共産党独裁」に対して向けた。//
 (3)クロンシュタットは、ペトログラードから約20マイル離れた、フィン湾の中の島だ。
 18世紀初頭にピョートル大帝が、彼の新首都の防衛のために要塞を構築した。
 島の東端に都市があり、その中央広場は、2万5000人の兵士たちが整列することのできる広さがあった。
 夏には、ペトログラードから船が着いた。11月遅くから3月初めまでは、湾が凍っていた。
 島は全体でおよそ5万の人口をもっており、半分は軍事関係者で、半分は民間人だった。(1)//
 (4)バルト艦隊の海兵たちはずっと、革命の最も急進的部分を代表してきた。
 彼らは1917年2月には、50人以上の自分たちの将校を半殺しにした。その中には4人の大将(admiral)も含まれていた。
 七月事件のときにはペトログラードにやって来て、動員されたペトログラードの労働者を支援し、ほとんどエスエル〔社会革命党〕の指導者のV・チェルノフ(Viktor Chernov)を殺害するところだった。
 メンシェヴィキのF・ダン(Fedor Dan)が回想するように、「あの記念すべき日々に、彼らは、自発的に射撃をし続け、かつほんの数名しか負傷させなかった」。(2)
 8月、将軍コルニロフに反対するよう世論に訴え、彼の逮捕と処刑を要求した。
 クロンシュタットの将校たちの多くもまた、コルニロフに反対した。しかし、うちの4名は、処刑の呼びかけを拒んだ。
 海兵たちは、この4人の身柄を拘束し、射殺した。(3)
 カデットのA・シンガレフ(Andrei Shingarev)とF・ココシキン(Fedor Kokoshkin)は、1918年2月、病院のベッドで、赤衛兵とクロンシュタット海兵たちによって殺害された。(4)
 彼らは、怒れば危険な男たちだった。//
 (5)1921年2月頃までには、元々いた海兵たちのある程度は、新補充兵に代わっていた。
 最近に加わった者たちはおそらくより熱心でなく、より職業的でなかったけれども、以前と同様に暴力を好む傾向と権威に対する敵意をもっていた。たぶん、いく分かは別の理由からだったが。(5)
 かつてボルシェヴィキの力の淵源だった者たちが、今では脅威だった。しかし、忠誠心をもつ前衛部隊だという神話は、放棄されていなかった。
 党は、クロンシュタットの反乱を白軍の反革命陰謀の傀儡だと非難した。-これは、ソヴィエトの時代を通じて、公式の解釈であり続けた。(6)
 十月以後の他の反乱の場合と同様に、反乱兵士には旧体制を復活させようとする意図は実際になかった。
 今度は、革命の名において、彼らは戦時共産主義と関連する諸政策に異議を唱えた。-強制労働、徴発、多数の者が食料について依存している小規模取引の抑圧、村落からの略奪。
 彼らは不平等の復活に憤激した。-食糧配給量は地位によって異なり、新体制の役人たちが特権を享受していた。
 「共産党(共産主義者)」を彼らが非難するとき、それは反動的白軍に取り憑かれたのが理由ではなかった。
 彼らはこのときにはボルシェヴィキを、かつて歓迎したのと同じ理由で、拒否したのであり、革命的でなくなったのが理由ではなかった。(7)//
 (6)ある者には、まるで1917年二月が再び「空中にある(in the air)」ように見えた。(8)
 1917年2月のように、抽象的な原理ではなく、飢えと貧困が、示威行進者を極端へと走らせた。
 1921年初めには、体制に対する民衆の抵抗が、ロシアの中核部全体に蔓延していた。
 都市部、すなわちボルシェヴィキを支持する中心部で、食糧が稀少になり、工場は燃料と原資材不足で閉鎖し、労働者は街頭へと出た。-飢餓が迫っていた。
 1月下旬、当局は食料配給量を削減した。(9) 
 ペトログラード連隊ですら、食糧が不足した。兵士たちは、飢えで気を失っていると言われた。
 ある者は、物乞いに出かけた。
 モスクワの兵士と労働者たちも、不安だった。彼らは、相次いで集会に集まった。(10)//
 (7)2月11日、体制は、ほとんど100のペトログラードの工場を近く閉鎖する、と発表した。その中には、プティロフ(Putilov)作業場、セストロレツク(Sestroretsk)武器工場、巨大なレンガ造りのTreugolnik 地区のような、急進派運動の温床だったところもあった。総計で2万7000人の労働者が、仕事を失うことになる。
 10日後のトルボシニュイ(Trubochnui)・プラントでの集会から、抗議運動が始まった。この集会は、非ボルシェヴィキ左翼反対派の標語である、純粋な民衆支配(<narodovlastie>)を支持することを宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、その集会を中止させた。
 工場から閉め出されることにより、労働者たちは賃金だけではなく、食料配給も失った。
 2月24日、街頭はトルボシニュイその他の工場から来た労働者で埋め尽くされ、ヴァシリェフスキ(Vasilevskii)島の工業地区では2万5000人に膨れ上がった。(11)//
 (8)ペトログラード当局は、緊急防衛委員会を設立し、戒厳令を敷いた。(12)
 2月27日、バルト艦隊の人民委員は、2万6000のクロンシュタットの海兵たちの中にある騒乱について報告した。(13)
 その翌日、運動は戦闘的なプティロフ作業場へと拡がった。従前の規模からすると影のようなものだが、なおも6000人の強さがあつた。
 抗議者たちは、工場からの共産主義者〔共産党・ボルシェヴィキ〕軍団の撤退、過剰人員の廃止、政治的権利の回復、を要求した。(14)//
 (9)こうした政治的要求は、メンシェヴィキと社会革命党の煽動活動家の影響を反映していたかもしれない。彼らは工場に、ビラを撒いてきていた。
 社会革命党〔エスエル〕は、反乱(revolt)を呼びかけていた。一方、メンシェヴィキは、忠誠心ある反対派のままだった。
 彼らは政策の変更を求めたのであり、この騒擾の時期が1917年の再演だとは考えていなかった。
 今では労働者は疲れ、組織から離れ、数自体が減っていた。
 彼らは、政治的理想ではなく、肉体的な生存を気にかけた。
 工場が燃料や原資材の不足で閉鎖される場合に、作業が止まるのは何ら脅威ではなかった。
 当局はある程度の譲歩を行い(特別の配給、糧食探しの許可、食糧没収の中止)、メンシェヴィキ中央委員会の委員を逮捕した。(15)
 3月3日頃までに、抗議運動は消滅した。//
 (10)F・ダンは、自分自身が逮捕された状況を思い出した。
 2月26日、抗議運動が始まったばかりのとき、彼はマリインスキ劇場へ行った。そこで、有名なバス歌手のF・シャリアピン(Feodor Chaliapin)がニコライ・リムスキ=コルサコフのオペラ<プスコフの娘>で歌うのを聴くためだった。
 つぎの細部が、語られている。
 ダンはそのようなときでも、劇場に関心があった。入場券はもう売られていなかった。だが、諸関係を通じて入手することができた。上演は早めに終わった。
 家に帰っているとき、夜の10時に、チェカの機関員に迎えられた。
 「シャリアピンが歌うのを楽しく聴くことのできる最後となった運命に感謝」したのだったが、ダンは、暗くて誰もいない街路を通って連れ去られた。(16)//
 (11)かつては帝制秘密警察のオフラーナ(Okhrana)が所在した建物、ダン自身が社会民主党の運動の初期だった25年前に拘禁された建物の中で、彼は服の上から調べられ、衣服を脱がされ、尋問を受けた。
 彼の捕獲者たちは冷酷な職業官ではなかったが、教育をほとんど受けていない者たちで、自分たちの新しい権力に誇りをもち、臆面もなく党のスローガンを捲し立てた。
 彼らは、ストライキをする者は社会主義の根本に対する裏切り者だと非難した。
 本当の労働者ならば、自発的に進んで前線へ行くか、または食糧旅団に加わるべきだ、と。
 あいつらは「くずで、利己主義者で、小商人で、戦争中に徴兵を免れようと工場へと逃げ込んだのだ」。(17)
 メンシェヴィキもまた、裏切り者だ。
 ダンは、このような、「プロレタリアートをくずと呼び、社会主義を海兵たちに押しつけてあてにする共産主義者(共産党員)たち」に、絶望した。//
 (12)一年の拘禁のあと、ダンは国から追放され、最終的にはニューヨークに落ち着いた。(18)
 1905年以降ずっと自分は革命の友人だと考えてきたシャリアピンは、1922年に自分の力でロシアを離れ、最後にパリで死んだ。//
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 第1節、終わり。


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2221/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.136-9。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)
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 第5節・ホメロスのハゲタカ(Homer's Vultures)。
 ・「ニーチェの超人は、人類が…奈落の底に落ちこむのを見る。絶大な意志の行使によって、超人は人間をニヒリズムから救い出す。」
 「ニヒリズム」が掲げる理念は「人間が無意味の深淵から救われる」ことだが、「キリスト教が登場する以前、世にニヒリストはいなかった」。
 ・ホメロス・イーリアスには「ニヒリズム」はない。そこでの神々は、「ハゲタカ」になっても「人間を救わない」。「もとより救うべきほどの何もない」。
 *
 第6節。死すべき運命(In Search of Mortality)
 ・「仏陀は自己の滅却(extinction of the self)に救いを求めた」が、「自己のないところ」での「救い」とは何か。
 「涅槃(Nirvana)は煩悩を離れた悟りの境地」だが、「自然に任せておけばだれもが…手にする以上のもの」を約束しない。
 「死は、生涯の苦行の後に仏陀が約束した平穏を万人にもたらす」。
 ・「動物はなぜ、煩悩から解脱する」のを願わないのか。「輪廻転生」(the round of rebirth)を知らないからか。「考えるまでもなく、生死をくり返すことはないと知っているからか」。
 ・「仏教は、死すべき運命の模索」で、仏陀は「輪廻転生の迷いから脱する悟りの道」を説く。
 「死すべき運命を知っている人間」は、仏陀が追求した道に「すぐ手の届く」ところにいる。「救いが約束されている以上、人生の快楽を否定することはない」。
 *
 第7節・死にゆく動物(Dying Animals)
 ・「自分の死を思い描ける」ことで人間は動物と異なるとされる。だが、「死んでどうなるか」を動物以上に知らない。「生命活動の停止」と理解しても、「それが何を意味するか」を知らない。
 「時の経過」を人間が恐れないのは、「いずれ死が訪れる」ことを知っているからだ。「時間に抵抗」するのは「死を恐れて」いるからだ。
 「動物が人間ほどには死を恐れない」のは、「時間に縛られていない」からだ。
 ・「自殺」は「人間の特権」だと言うのは、「人間と動物の死に方になんの違いもない」ことを理解していない。肺炎、麻酔薬、…、ほんの少し前まで人間は「進んで死に向かい合っ」て、「多くは猫が静かな場所を捜して息を引き取るのと同じ本能で死を願った」。
 ・「道徳」が生まれて、「そのような死に方は忌避される」に至った。「選択の自由が一種の信仰」である現代では「死を選ぶことは許されない」。
 人間と動物の違いは、「人間が異様なほど生に執着する」に至ったことだ。
 *
 第8節・クリシュナムルティの重荷(Krishnamurti's Burden)
 ・19世紀末以降のカルト集団が「現代の救世主」に祭り上げたクリシュナムルティは、「重荷を一身に引き受け」られないとしてその役割を否定した。彼の教えは「古来の神秘主義」と多々共通する。
 ・「人間は動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。
 不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来(natural)の心情である。
 自身のうちにある獣性を脱却したと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。」
 ・クリシュナムルティの生涯は「並はずれたエゴイズムの貫徹」で、他人には「無私無欲を説き」、自分は「神秘的な陶酔」を「ありきたりの癒やし」と結びつけた。
 ・彼の生き方は何ら不思議ではない。「獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てる」だけだ。
 「よくしたもので」、「大衆は聖人君子(the saints)を崇める反面、同じ程度に忌み嫌う」。
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 第9節以降につづく。

2220/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動②。
 (18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
 メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
 しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
 5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
 社会革命党が、これに続いた。//
 (19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
 しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
 彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
 メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
 このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
 「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152) 
 また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
 「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
 しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
 ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
 (20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
 (21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
 彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
 (22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
 彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
 このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
 チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
 治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
 モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
 モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
 (23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
 多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
 (24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
 モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
 6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
 この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***) 
 したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
 (25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
 君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
 非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
 6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
 白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
 本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
 (26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
 この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
 (27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
 殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
 ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
 最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
 (28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
 選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
 どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
 オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
 セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
 その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
 (29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
 彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
 7月2日、「選挙」結果が、発表された。
 新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
 このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
 その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
 (30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
 6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
 社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
 (31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
 その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
 (32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
 すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
 国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
 (33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
 帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
 労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
 ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
 オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
 他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
 (34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
 すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
 (35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
 1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
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 (*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
 (152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
 (153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
 (**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
 そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
 そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
 A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
 プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
 ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
 (154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
 (155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
 (156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
 (***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
 (157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
 (158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 (159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
 (160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
 (****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
 ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
 (+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
 少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
 これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
 (161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
 (162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
 (163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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 第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
 第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。

2219/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨ー25・26の再掲。

 再掲するが(よって27ではない)、一部は割愛。
 26ーNo.2125/2020年01月18日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
 この書物(らしきもの)は「コミンテルン」を表題の重要な一部とするもので、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」(p.95)と豪語している。
 「悲惨・無惨」、「ああ恥ずかしい」と書いてきたとおりだ。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある」。
 また、1.上の書物(らしきもの)は<コミンテルンと日本の敗戦(第二次大戦)>を主題とするのだから、1939年~1945年の「コミンテルン」の資料を用いなければならないはずだ(但し、1943年に解散)。少なくとも1930年初頭以降~1940年代初頭までの活動が直接に関係しているはずだ。しかし、江崎道朗が「史料・資料」らしく利用しているのは、結成・設立時の1919-20年だけのコミンテルン文書で、しかも原史料(の邦訳)ではなく全く無名の英米の研究者(らしき人物)二人の書物の邦訳書(大月書店、1998)の「付録」として掲載された上の時期のレーニンまたはコミンテルン文書のうちの4件(かつ各々の一部)だけだ。日本共産党の27年・31年テーゼとの関係も出てこない。
 なお、上の邦訳書の訳者・「萩原直」は<プロレタリアート独裁>を<執権>に変えているので日本共産党関係者だと見られるが、言うまでもなく、そんなことは江崎道朗の関心内には入っていない。
 2. 加えて、のち1935年7回大会での<統一戦線(人民戦線)戦術>がコミンテルン設立の当初からまたは1920年頃にあったかのごとき叙述もしている。
 上のような誤りや決定的不備に気づかなかった推薦者・中西輝政(1947~)もまた、決定的に<知的に不誠実>だろう(おそらく本文内容を読まないままでオビに「名」を出している)。
 竹内洋(1942~)もまた<知的に不誠実>で、この欄で中休みしている主題部分での江崎道朗の決定的な誤りまたは不備を、産経新聞紙上での「書評」で、指摘することができず、素通りしている。
 「素通り」どころか、竹内洋はつぎのように、江崎道朗書(らしきもの)の「功績」を認める(産経新聞2017年9月17日、Web 上による)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 以上、<犯罪>に加担する<保守派?知識人(?)>が、ここにもいる。
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 25ーNo.2060/2019年10月12日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。<2020年5月に引用割愛>
 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著に依拠している。以下の書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする。
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
 <一部、割愛>…、、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>
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 以上。

2218/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動①。
 (1)そして、ボルシェヴィキはなお一層、残忍さに訴えなければならなかった。権力掌握後わずか数カ月だけ経つと、彼らへの支持が浸食されはじめたからだ。
 ボルシェヴィキが民衆の支持に依拠していたのだとすると、臨時政府と同じ途をたどっただろう。
 秋には連隊兵士たちとともに最も強い支持基盤だった工業労働者たちは、たちまちに幻想から醒めるようになった。
 このような雰囲気の変化にはいくつかの理由があったが、主要なものは、食料事情の悪化だった。
 穀物やパンの私的取引を全て禁止した政府は、呆れるほどに安い価額を農民に支払ったので、農民たちは収穫物を貯蔵するか、闇市(black market)で売った。
 政府は都市住民たちに、ぎりぎりの最小限度だけの食糧しか供給できなかった。
 1917-18年の冬、ペトログラードでのパンの配給量は、一日につき4から6オンスの間を行き来した。
 闇市場で1ポンドのパンを買うには3ないし5ルーブルを要したが、それはふつうの民衆の手の届く額ではなかった。
 大量の失業者も生まれたが、それは主としては燃料不足のためだった。
 1918年5月には、ペトログラードの労働人口の12-13パーセントだけが、職に就いていた。(138)
 (2)飢えと寒さから逃れるために、数千人の市民が、縁戚者がいて食料および燃料事情がまだましな地方へと、疎開した。
 ペトログラードの労働人口は、この集団移住が原因で、1918年4月頃には二月革命の直前の57パーセントに低下した。(139)
 地方移住にしないで残った、腹が空いて、寒い、しばしば失業中の人々には、不満が沸き立った。
 このような事態を生んだボルシェヴィキの経済政策に、彼らは怒った。しかしまた、立憲会議の解散、中央諸国との屈辱的な講和条約(1918年3月に署名)、ボルシェヴィキの人民委員たちの生意気な態度、および政府の最上層部以外の全ての官僚たちの醜悪な汚職にも腹を立てた。
 (3)このような展開はボルシェヴィキにとっては危険な兆しで、さらに悪化するならば、これまでは信頼していた軍部も春が近づくにつれてほとんど離れて行きそうだった。
 故郷に帰らなかった兵士たちは、民衆にテロルを加え、ときにはソヴェトの役人たちを襲撃する略奪団を結成した。//
 (4)幻滅気分や堅くボルシェヴィキの手中にある現存諸機構からは救済を得られないという感情の増大によって、ボルシェヴィキとそれが支配している諸機構(ソヴェト、労働組合、工場委員会)から自立した、新しい組織をペトログラードの労働者たちが設立しようとする動きが促進された。
 1918年1月5日/18日-立憲会議が開会した日-、ペトログラードの諸工場の代表者たち、または「幹部会」委員たち(plenipotentiaries)は、目下の情勢を議論するために会合をもった。
 ある者は、労働者の態度の「分裂」を語った。(140)
 「幹部会」委員たちは、定期的に会合を開催し始めた。
 不完全な証拠資料だが、それによると、会合は3月に1回、4月に4回、5月に3回、6月に3回、開かれている。
 記録が存在する(141)、56の工場を代表する委員たちの3月の会合には、強い反ボルシェヴィキの言葉が見られる。
 その会合は、労働者と農民のために統治をすると主張している政府は独裁的権力を行使し、ソヴェトの新しい選挙の実施を拒んでいる、と抗議していた。
 また、ブレスト=リトフスク条約の拒否、ソヴナルコムの解散、および立憲会議の即時召集を呼びかけていた。//
 (5)3月31日、ボルシェヴィキは、チェカに労働者幹部会会議の本部を捜査させ、そこにあった諸文献を押収させた。
 別の状況であれば、おそらく労働者の動揺を刺激するのを怖れて、そのような介入はまだしなかっただろう。//
 (6)都市労働者は自分たちに反対していることを知って、ボルシェヴィキは、ソヴェト選挙の実施を遅らせた。
 いくつかの独立派ソヴェトが無視して選挙を行い、非ボルシェヴィキが多数派を形成したとき、ボルシェヴィキは実力でもってそれを解体させた。
 ソヴェトを用いることができないことは、労働者の欲求不満を醸成した。
 5月初め、多くの者が、自分たちで問題に対処しなければならない、と結論づたけた。
 (7)5月8日、二つの火急の問題を議論すめるために、プティロフ(Putilov)とオブホフ(Obukhov)工場群で、労働者の集会が開かれた。二つとは、食糧と政治だ。
 プティコフでは、1万人以上の労働者たちが、政府を非難した。
 ボルシェヴィキの発言者は反発を受け、諸決議に敗北した。
 その集会は、「社会主義かつ民主主義の勢力の即時の再合同」、パンの自由取引の制限の撤廃、立憲会議の再選出、および秘密投票によるペトログラード・ソヴェトの再選挙を要求した。(142)
 オブホフの労働者たちは、事実上の満場一致で、同様の決議を採択した。(143)//
 (8)翌日、ペトログラード南方の工業都市であるコルピノ(Kolpino)で、労働者の不満に油を注ぐ事件が発生した。
 コルピノへの政府機関による供給の状況は、とくに悪かった。この都市の1万の労働人口のうち300人だけが雇用され、闇市場で食料を買う金をほとんど持っていなかった。
 さらに、食糧配達の遅延によって、女性たちの市域全体の抗議運動が発生した。
 ボルシェヴィキの人民委員はうろたえて、兵団に対して示威行進者に対して発砲するように命じた。
 それによって生じた恐慌状態の中で、のちに判明したのは1人が致命傷で6人が負傷したのだったけれども、多数の者が死んだ、という印象が広がった。(144)
 この時期の標準からすると、とくに異常なことではなかった。
 しかし、ペトログラードの労働者たちが鬱積した怒りの捌け口を見出すのに、大した理由は必要ではなかった。//
 (9)コルピノで起こったことについて使者から知らされたペトログラードの大工場は、稼働を停止した。
 オブホフの労働者たちは、政府を非難し、「人民委員による支配」(komissaroderzhavie)の廃止を要求する決議を採択した。
 ペトログラード(3月に政府はモスクワに移っていた)の長〔ソヴェト議長〕のジノヴィエフが、プティロフに現れた。
 労働者に対して、彼は語った。
 「誤った政策を追求しているとして政府を非難する決議がここで採択された、と聞いた。
 しかし、いつ何時でも、ソヴェト政府を変更することはできない!」
 この言葉を聞いた聴衆に、大きな騒ぎ声が起こった。
 「ウソだ!」
 Izmailov という名のプティロフの労働者が、文明世界全体の目からすればロシアの労働者を馬鹿にしながら、ボルシェヴィキは労働者のために語るふりだけをしていると、非難した。(145)
 軍需工場での集会は、1500対保留2で、立憲会議の再招集を求める動議を可決した。(146)//
 (10)ボルシェヴィキは、背後にいて、なおも慎重さを維持した。
 しかし、このような煽情的な決議が伝搬されるのを阻止すべく、無期限にまたは一時的に、多数の新聞を廃刊させた。そのうちの4つは、モスクワの新聞だった。
 この諸事態を広く報道していたカデットの<Nash vek>は、5月10日から6月16日まで、停刊となった。//
 (11)ボルシェヴィキは7月初めに第五回ソヴェト大会を開催しようと計画していたので(第四回大会はドイツとの講和条約を批准するために3月に開かれていた)、ソヴェト選挙を実施しなければならなかった。
 この選挙は、5月と6月に行われた。
 その結果は、彼らの最悪の予想以上のものだった。
 労働者階級の意思に対する敬意をボルシェヴィキが持っていたならば、彼らは権力を放棄していただろう。
 どの町でも続いて、ボルシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に敗れた。
 「選挙があって数字資料のある、欧州ロシアの全ての州都で、メンシェヴィキと社会革命党は、1918年春の都市ソヴェトで多数派を獲得した」。(147)
 モスクワ・ソヴェトの投票では、ボルシェヴィキは、選挙権に関する明白な操作やその他の不正選挙によって、見せかけの過半数を達成した。
 観察者たちは、迫っているペトログラード・ソヴェト選挙でもボルシェヴィキは少数派になり(148)、ジノヴィエフは議長職を失うだろうと、予想した。
 ボルシェヴィキも、悲観的な見通しを持っていたに違いなかった。彼らは、ペトログラード・ソヴェト選挙を可能なかぎり遅くに、6月末に延期したからだ。//
 (12)この驚くばかりの展開は、ボルシェヴィキを拒絶するメンシェヴィキと社会革命党への称賛を大して意味してはいなかった。
 支配党から権力を奪おうとした選挙民たちには、社会主義諸党に投票する以外に選択肢はなかった。社会主義諸党だけが、反対派候補者の擁立が許されていたのだ。
 諸政党全ての中から完全に選択することができていればどういう投票行動になったかは、もちろん確定的に言うことはできない。//
 (13)レーニンが最近に「民主主義の本質的条件」だと叙述していた「リコール」の原理を実行に移す機会が、ボルシェヴィキにやって来ていた。その場合には、ボルシェヴィキ代議員をソヴェトから引き上げて、メンシェヴィキと社会革命党で埋め合わさせることになる。
 しかし、彼らは、結果を操作するのを選択した。つまり、指名委員会を利用して、選挙は違法だと宣言させた。
 (14)労働者の関心を逸らせるために、当局は階級敵を持ち出した。今度は、「田舎のブルジョアジー」に反対するように誘導した。
 5月20日、ソヴナルコムは、「食糧供給派遣隊」(prodovol'stvennye otriady)の設立を命じる布令を発した。その派遣隊は武装労働者で構成され、村落を行進して「クラク〔富農〕」から食料を徴発することとされていた。
 この手段によって(もっと詳細は第16章で述べるだろう)、当局は、食糧不足に対する労働者の怒りを自分たちから農民に転化させるのを望んだ。そして同時に、まだ社会革命党の強い支配のもとにあった田園地帯に地盤を築くことも。//
 (15)ペトログラードの労働者たちは、関心を逸らされることがなかった。
 5月24日、彼らの労働者幹部会は、労働者と農民の間に「深い亀裂」を生じさせる原因になるという理由で、食糧供給派遣隊という考えを拒否した。
 ある発言者たちは、その派遣隊に加わるような労働者はプロレタリアートの隊列から「追放(expell)される」と主張した。(149)//
 (16)5月28日、ペトログラードの労働者たちの昂奮は、さらに最高度にまで大きくなった。プティロフの労働者たちが、国家による収穫物の独占の廃棄、自由な言論の保障、自立した労働組合を結成する権利、そしてソヴェトの再選挙、を要求したときのことだ。
 同様の決議を採択する抗議集会がモスクワや多数の地方都市でつづいた。その中には、トゥラ、ニージニ(Nizhnii)、ノヴゴロード、オレルおよびトヴェリ(Tver)も含まれていた。//
 (17)ジノヴィエフは、経済的な譲歩をすることでこの嵐を沈静化させようとした。
 彼はおそらくはモスクワに対して、ペトログラードへの食糧輸送の追加を要請した。5月30日に、労働者へのパンの配給は8オンスへと引き上げられると発表することができたからだ。
 このような素振りでも、目的を達成することができなかった。
 6月1日、労働者幹部会の会合は、市域全体の政治的ストライキを呼びかける決議を下した。//
 「ペトログラードの工場や工場群の代表者たちから労働大衆の気持ちと要求に関する報告を聞いて、幹部会会議は、労働者の政府だと僭称する政府からの労働者の大量離反が急速に進行していることに、喜びをもって留意する。
 幹部会会議は、政治的ストライキの訴えに従おうとする労働者の意欲を歓迎する。
 幹部会会議は、現在の体制に反対する政治的ストライキを、ペトログラードの労働者が力強く準備することを、呼びかける。現体制は、労働者階級の名のもとで労働者を処刑し、牢獄に投げ込み、言論、プレス、労働組合、およびストライキの自由を圧殺している。また、民衆の代表者機関を絞め殺してきた。
 このストライキは、権力の立憲会議への移行、地方自治諸機関の復活、ロシア共和国の統合と独立のための闘いを、スローガンとするだろう。」(150)
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 (138) Dewar, Labour Policy, p.37.
 (139) A. S. Izgoev in NV, No. 94/118(1918年6月16日), p.1.
 (140) G. Aronson, "Na perelome, " Manuscript, Hoover Instituion, Nikolaevskii Archive, DK 265.89/L2A76 が、これらの事件に関する最良の史料だ。
 (141) Kontinent, No. 2(1975年), p.385-p.419.
 (142) NV, NO. 91/115(1918年5月9日), p.3.
 (143) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (144) NS, NO. 23(1918年5月15日), p.3.
 (145) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (146) 同上。
 (147) Vladimir Brovkin, in PR 1983年, p.47.
 Aronson, "Na perelome, " p.23-p.24. はこの見通しを確認している。
 (148) B. Avilov in NZh, No. 96/311(1918年5月22日), p.1.
 (149) 同上, No. 96/311(1918年5月22日), p.4.
 (150) Otro, 1918年6月3日。"Na perelome, ", p.15-p.16.が引用する。
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 第10節②へとつづく。

2217/岡田英弘「歴史と神話」(1998年)-著作集Ⅲより。

 岡田英弘「歴史と神話をどう考えたらよいか」同著作集Ⅲ・日本とは何か(藤原書店、2014)p.490以下。初出、月刊正論(産経)1998年・シンポジウム/古代史最前線からの眺望・基調報告(著作集によるとこれの「採録」)。
 なお、翌年刊行された西尾幹二・国民の歴史(扶桑社、1999)も、「歴史/神話」問題に触れている。
 以下、岡田論考の抜粋的引用。上掲書、p.493~p.502。
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 ・「中世」という時代区分には「歴史には一定のゴールがある、という考え方が潜んでいる。「歴史には法則性がある、という考え方」はこれから派生している。
 「この世で起きることは、すべて偶発事件であり、その偶発事件の積み重なりで、この世界はあちらへよろよろ、こちらへよろよろする。歴史に法則などあるわけがない」。
 ・「歴史家の仕事は、歴史に法則を見つけ出すことにあるのではなく、さまざまな史料から取捨選択して筋道を立て、過去の世界に合理的な解釈を施すこと、世界を理解することにある」。
 「要するに、歴史は、世界を理解する仕方の一つ」だ。「世界とは、もちろん人間の住む世界」だ。
 「世界を理解するための道具として、たとえば物理学も数学も哲学も使えるだろうが、歴史という見方もそうしたアプローチの一つなのだといえる」。
 「歴史家の存在を危うくする暴論」ではなく、先に「歴史は世界に対する解釈」だと記したように、「歴史とは一つの文化なのである」。
 ・「本来、歴史を持っている文明は、シナ文明と地中海文明の二つだけであり、他の文明はみなこの二つのどちらかから、歴史という文化をコピーしている。
 日本文明の歴史というのは、もちろんシナ文明のコピーである」。
 シナでは「変化しない世界」、地中海世界では「変化する世界」をそれぞれ書くのが「歴史」だ。「水と油」だが、「この世界を空間だけではなく、時間の軸に沿っても捉えよう」とする点でどちらも「歴史」だ。
 「時間の軸に沿い、今見えなくなった世界も実在する世界であると見て、まとめて理解しようとするのが歴史なのだ」。
 ・「では、『理解する』とは、どういうことなのか」。
 「ストーリーを受け入れる、ということ」だ。「ストーリー(物語と言ってもいい)」は頭に入りやすく、「因果関係」で結ぶと受け入れられる。
 「この世界は、本当は偶発的事件ばかりの積み重ねで、なんの筋書きもないのだが、歴史はそれにストーリーを与える機能を持っている。
 言ってしまえば、文学なのである。だから歴史をつくっているのは言葉であって、ものではない。」
 ・「18世紀末までが古代、19世紀以降は現代」だ。「国民国家」の登場は後者で、それ以前にはなかった。
 ・ヘロドトスの歴史叙述は「ギリシア神話」を利用した。
 司馬遷も、「天上の神々であった五帝を地上の人間のように書き直し、そうすることで皇帝権の起源を説明」した。
 「日本最初の歴史書『日本書記』も同様である」。編纂過程は「日本の建国の時期」だったので、「建国事業の一環」として、「なるべく古いところに日本国と天皇の起源を持ってゆく必要があった。
 そのために、「神武天皇以下、16代応神天皇に至る架空の天皇を発明した」。また、「壬申の乱に際し天武天皇が伊勢で発見した地方神」の「アマテラスオホミカミを中心とした神話を新たにつくり、神武天皇の話の前にくっつけ」た。「神様を人間に」し、「幽冥界から死んだ天皇を呼び出してくる」といったやり方で、「歴史をつくった」。
 「どんな国の歴史」も初めて書かれるときはそんなもので、「神話が歴史に読み替えられるのである」。
 ・「『日本書記』が建国の時期をなるべくむかしに持ってゆこうとしたのは、シナを意識してのことである」。
 シナは紀元前221年・秦の始皇帝のときに国が初めてできたので、「シナに対抗するには、それよりも建国を古くしなければならない。日本の天皇のほうが、シナの皇帝よりも古い起源を持っているのだ、と言わねばならない」。
 「シナ文明圏では、王権の正統性を保障するのは歴史であり、そのパターンから日本は抜け出せない」。神武天皇の建国を紀元前660年で、秦より400年以上古い、という「操作に神話は使われた」。
 ・「今でも歴史を論じるとき、なにかと神話に戻りたがる人がいる。
 神話から史実を読み取ろうとするのだ。
 しかし、歴史で神話を扱う際には、こうした神話の性質を充分わきまえておかねばならない」。
 「もっとも、一般の人たちが神話に戻りたくなる気持ちも、わからないではない。
 古代というのは、いまだに神代と同意義に使われていて、なんでもありの異次元空間なのである。そこでは現実世界の法則は通用せず、なんでもできる。…。
 そういう神話が与えてくれるロマンは、現実からの逃避には都合がいいだろうが、そうした情緒的ニーズと合理的な歴史を混同してもらっては困る。」
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2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
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 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
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 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

2215/Laura Engelstein のロシア革命通史 (2018年)。

 Laura Engelstein, Russia in Flames: War, Revolution, Civil War, 1914-1921 (2018年).という書物がある。
 著者(ローラ・エンゲルシュタイン)はアメリカの大学のロシア史専門の教授(名誉教授?)。
 書名を訳すのはむつかしいが、燃えるロシア、燃えさかるロシア、炎の中のロシア、炎上するロシア、といつた意味だろう。
 書名よりも、2018年出版のこの書は<ロシア革命>の通史を叙述している、ということが重要だろう。
 巻末に参考文献または参照文献に言及する<Biographic Essay>というのがあって、たんなる文献列挙に終わってはいない。
 ロシア語に習熟しているようで、先にロシア語文献に言及がある。
 そのあと英米語文献に移っている。ドイツ語・フランス語文献は出てこない。
 英米語文献として、個別事件・特定時期・特定主題のものが多数挙げられている。
 <ロシア革命>通史と言えそうなもので、かつ1990年以降の刊行の、ある程度長い単著としては、つぎの4つだけが挙げられている。
 ①Richard Pipes, Russian Revolution(New York, 1990)。
 ②Orlando Figes, A People's Tragedy: Russian Revolution: 1891-1924 (London, 1996)。
 ③Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, 3rd ed.(Oxford, 2008)。
 ④S. A. Smith, The Russian Revolution: An Empire in Crisis, 1890-1928(Oxford, 2017).
 このうち①のパイプス著の一部はこの欄に試訳中で、③のフィツパトリク著は第4版のものを、この欄でいちおう全て、試訳した。
 ②は長く所持だけはして、ときに眺めている。この②の著者はこの欄で言う<レフとスヴェトラーナ>の執筆者でもある。
 ④には、一度か二度この欄で言及したが、まとまった試訳を始めてはいない。
 2017年(ロシア革命100年)という近著のためもあってか、上の書の④への評価は高いようで、「…諸問題と…その解釈に関するおそらく最良の入門書」と記している。
 これら以外の通史ものとして列挙されている単著は、つきの3つで、いずれも戦前のものだ(1997年の編著=複数の者の共著が1つ挙げられているが、単著でないので省略)。
 ①John Reed, Ten Days that Shook the World(1919)。
 ②Leon Trotzky, History of the Russian Revolution(1932)。
 ③William H. Chamberlin, The Russian Revolution, 1917-1921(1935, 再1965)。
 これらの中に、E. H. Carr のものがないのが興味深い。
 今日では、かつてのようには、E. H. Carr の<ロシア革命>本は基本書では全くなくなっている、ということなのだろう。
 **
 ロシア革命といっても-日本の「明治維新」も同様だろうが-、その始期と終期の捉え方は論者、執筆者によって一様ではない。
 ③S・Fitzpatrickはその著で「二月革命」が始期であることには一致があるとたしか書いていたが、<ロシア革命>概念に含まれるか否かを問わず、それ以前から書き起こすことは少なくないだろう。
 L・Engelstein の著は書名に「1914-1921」と付けているので、第一次大戦辺りから始めている。
 ①Richard Pipes の著はのちの別の大著(1994年)の刊行後に「1899-1919」と書名に追記したようで、この記載のとおり、もっと早くから始めている(元々は十月「革命」以前のStruve あたりが彼の最初の研究主題だった)。
 ②Orlando Figesの著も書名の副題に「1891-1924」とあるように、やはり旧帝制時代から始める。
 上に挙げられていないが、岩波書店刊行の邦訳書(2005年)がある、Robert Service, The Russian Revolution 1900-1927(3rd ed., 1999) は(初版は1986)は、書名のとおりで大戦前の1900年辺りからのようだ。
 なお、このRobert Service 著はレーニン・ボルシェヴィキらにまだ寛容だ。岩波が邦訳書を発行するような内容のためか、他のものよりも分量が少ないためか、L. Engelstein がこの著に言及していない理由ははっきりしない。
 終期も上のとおりで、S・Fitzpatrickは1936-37年辺りの「大テロル」までを叙述するが、Richard Pipes の著は別著にかなり譲って、1919年までとしている。したがって、ネップ(新経済政策)は前者・Fitzpatrickの対象に含まれ、後者・ Pipes には含まれない。
 ②・④のOrlando Figes、S. A. Smith の著もN.E.Pも含めて、前者と同じだ。
 1921年の「新経済政策」導入決定からスターリンへの権力移行までを<レーニン時代>とすると、1921-24年あたりまで、従って内戦・戦時共産主義の時代(+対独講和・コミンテルン結成・飢饉)を含めるのが、当欄の執筆者のような者には分かりやすい気もする。
 但し、一般の歴史書ではないが、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第二巻・第三巻(1976、英訳1978)では、ネップ(新経済政策)は<スターリン時代>の最初の方に出てくる。
 以上、この機会に追記しておいた。 
 

2214/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散②。
 (9)ボルシェヴィキは、単純な戦術をとった。
 実質的には立憲会議の正統性を否定する決議によって、会議に対決しようとする。
 ほとんど確実にそれがうまく行かなければ、退出する。そして、正式には解体することなく、立憲会議がそれ以上議事を進めるのを不可能にする。
 クロンシュタット選出のボルシェヴィキ軍人、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)は、この戦術に従って、動議を提出した。
 「勤労被搾取大衆の権利の宣言」と呼ばれたが、1789年の先例とは違って、権利よりも義務について多くを語るものだった。
 ボルシェヴィキが普遍的な労働の義務(obligation)を提示したのは、これだった。
 ロシアは「ソヴェトの共和国」だと宣言される。また、ボルシェヴィキがそれまでに通過させた多数の措置があらためて確認される。とりわけ、土地に関する布令、生産に対する労働者による統制、銀行の国有化。
 立憲会議に求められた重大な条項は、その立法(legislate)する権限を放棄することだった。-この権能のためにこそ、立憲会議は選出されていたのだが。
 こういう文章だ。「立憲会議は、社会主義にもとづく社会の再組織化のための基礎的な原理(fundamental base)を一般的に策定することに、その任務が限定されることを、承認する」。
 立憲会議は、ソヴナルコムが以前に発した全ての布令類を採択し、それらの効力を延長させるものとされた。(125)
 (10)ラスコルニコフの動議は、136対237で却下された。
 この票決が示すのは、ボルシェヴィキ代議員の全員が、そして彼らだけが賛成し、左翼エスエルは保留したと見られることだ。
 この時点でボルシェヴィキ議員団は、会議は「反革命者たち」に支配されていると宣告し、退出した。
 左翼エスエル代議員たちは、当分の間は座席にとどまっていた。//
 (11)レーニンは、午後10時までは彼の「政府席」にいたが、そのときに彼も退出した。
 彼は、いかなる正統性の外装も与えないように、会議に対して発言をしなかった。
 ボルシェヴィキ中央委員会がタウリダ宮の別の部屋で開かれ、立憲会議を解散する決議が採択された。
 しかしながら、左翼エスエルに敬意を表して、レーニンは、タウリダ宮護衛兵に対して、暴力を行使しないよう指令した。
 タウリダ宮から離れようとする代議員たちは全員が立ち去らされ、戻ってくるのを許されなかった。(126)
 午前2時、状況が統制されていることに満足して、レーニンはスモルニュイに帰った。//
 (12)ボルシェヴィキが立ち去ったあと、タウリダ宮には際限のない発言が飛び交った。それらを中断させたのはしばしば護衛兵たちで、彼らは、バルコニーから降りてきて、ボルシェヴィキが空にした座席を占めていた。
 彼ら護衛兵の多くは、酔っ払っていた。
 何人かの兵士たちは、発言者に銃砲の照準を定めて愉しんでいた。
 午前2時30分、左翼エスエルが退出した。そのときに、安全を保つ責任がある人民委員のP・E・ドゥィベンコは、護衛兵の指揮官である海兵でアナキストのA・G・ジェレズニャコフ(Zhelezniakov)に、会議を閉鎖(close)するよう命令した。
 午前4時少し過ぎ、議長のV・チェルノフが土地の私的所有権の廃棄を宣言しているとき、ジェレズニャコフは舞台の上に昇って、彼の背中を軽く叩いた。(*)
 つづく光景は、議事録につぎのように記録されている。
 「海兵、『護衛兵が疲れているので、今ここにいる者はみな会議ホールを去らなければならない、と指令されました』。
 議長、『どんな指令? 誰からの?』
 海兵、『私はタウリダ宮護衛兵の指揮官です。人民委員から指令を受けました』。
 議長、『立憲会議代議員たちも疲れている。だが、疲労があるからといって、ロシアの全てが待っている法を我々が宣言するのを、中断することはできない』。
 (騒がしい声。『もういい、もういい!』)
 議長、『立憲会議は、実力行使の脅迫のもとでのみ解散することができる』。
 (騒音。)
 議長、『貴方たちは宣言する』。
 (騒がしい声。『チェルノフ、降りろ!』)
 海兵、『会議ホールからただちに立ち退く(vocate)よう、要請します』。」(**)
 (13)このようなやり取りが行われている間に、多数のボルシェヴィキ兵団が群をなして、きわめて威嚇的に、会議ホールに入ってきた。
 チェルノフは何とか、もう20分間、会議を続行しつづけた。そして、その日(1月6日)の午後5時までの延会(adjourn)を宣言した。
 しかし、会議は二度と開かれなかった。午前中にスヴェルドロフが、ボルシェヴィキが提案した立憲会議を解散させる決議を、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕に採択させたからだった。(127)
 その日の<プラウダ>は、つぎの大きな見出しつきで発行された。
 「銀行家、資本家、そして地主、カレーディンとドゥトフ一派、アメリカ・ドルの奴隷たち、裏切り者たち-右翼社会革命党-が、立憲会議で自分たちとその主人-人民の敵-のために全ての権力を要求する。
 土地、平和、(労働者による)統制という人民の要求に口先だけで好意を示しつつ、しかし、彼らは実際には、社会主義権力と革命の首の周りを、縄で縛ろうとしている。
 しかし、労働者、農民、兵士たちは、社会主義の最も邪悪な敵がつくウソの罠に落ち入りはしない。
 社会主義革命と社会主義ソヴェト共和国の名のもとに、彼らは公然たるまたは隠然たる殺し屋どもを全て一掃するだろう。」(128)//
 (14)ボルシェヴィキは従前から、ロシアの民主主義勢力を「資本家」、「地主」および「反革命者」と結びつけてきた。だが、この見出しで、彼らは初めて、外国資本とも連結させた。
 (15)ボルシェヴィキは2日後に彼らの対抗集会を開き、「第三回ソヴェト大会」との名称を付けた。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルで94パーセントの議席を占めたのだから、この名称に反対することのできる者はいなかっただろう。(129) この割合は、立憲会議選挙の結果で判断すれば、しかるべき資格者数よりも3倍の人数にあたる。
 残り僅かは、左翼反対派に割り当てた。-悪態をついて馬鹿にするにはちょうどよい数だった。
 その会議は予定通りに、政府代理人が提出した全ての議案を採択した。その中には、「権利の宣言」もあった。
 ロシアは、「ロシア・ソヴェト社会主義共和国」として知られる、「ソヴェト共和国連邦」になった。この名称は1924年まで維持されたが、その年に「ソヴェト社会主義共和国同盟」と改称された。
 会議はソヴナルコムを国の正統な政府として承認し、その名前から「臨時の」という形容詞を削除した。
 また、普遍的な労働の義務という基本的考え方(principle)も是認した。//
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 (125) Dekrety, I, p.321-3.
 (126) Lenin, Khronika, V, p.180-1.; Malcevskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.217.
 (*) ジェレズニャコフは前年にPeter Dunomovo 邸を占拠し、この人物の逮捕が1917年6月のクロンシュタット海兵たちの反乱を引き起こしていた。
 Revoliutiia, III, p.108.
 (**) I. S. Malchevskii, Vserossiiskoe Uchreditel'noe Sobranie(Moscow-Leningrad, 1930).
 ジェレズニャコフは翌年に、赤軍と戦闘をして、殺された。
 (127) Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.384-6.
 (128) Pravda, No. 4/232(1918年1月6日/19日), p.1.
 (129) NV, No. 7(1918年1月12日/25日), p.3. in Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.389.
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 第8節、終わり。次節の目次上の表題は、<影響と意義>。

2213/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
 (1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
 社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
 「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
 代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
 タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
 近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
 彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
 舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
 誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
 「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
 機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
 タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
 武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
 左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
 監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
 至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
 彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
 武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
 (2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
 レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
 会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
 ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
 「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
 顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
 じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
 (3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
 示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
 しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
 示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
 社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
 (4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
 正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
 タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
 (5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
 兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
 ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
 (6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
 弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
 示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
 「立憲会議、万歳!」
 このとき、兵団の火が噴いた。
 何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
 しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
 Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
 そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
 ここで混乱が発生した。
 ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
 ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
 もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
 (7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
 暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
 それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
 このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
 犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
 労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
 「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
 ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
 (8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
 選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
 開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
 通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
 この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
 「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
 『同志たち、もう午後4時だ。
 最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
 (左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
 左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
 立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
 ミハイロフ、鐘を鳴らす。
 (左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
 騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
 ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
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 (116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
 (117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
 (118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
 (119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
 (120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
 (121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
 (122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
 (123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
 (*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
 ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
 リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
 調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
 (+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
 出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
 同上のp.340では410名とされているようだ。 
 (124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
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 第8節②へとつづく。

2212/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
 (9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
 その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
 そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
 オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
 レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
 オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
 行動は、クリスマスの日に予定された。
 しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
 オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
 彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
 オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
 その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
 レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
 (10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
 立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
 彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
 主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
 (11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
 同党中央委員会は、再び拒絶した。
 中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
 誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
 ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
 危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
 (12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
 同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
 しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
 「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
 『同志よ、我々を愚弄しているのか?
 貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
 では、ボルシェヴィキは?
 彼らは小さな子どもたちか?
 ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
 そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
 そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
 兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
 この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
 レーニンが、個人的な指揮を執った。
 (13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
 兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
 その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
 彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
 ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
 これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
 どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
 そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
 しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
 彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
 このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
 (14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
 ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
 この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
 ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
 (15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
 そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
 最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
 (16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
 1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
 同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
 <プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
 「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
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 (108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
 (109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
 (110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
 (111) 同上, p.61.
 (112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
 (113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
 (114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
 (*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
 (*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
 (115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
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 第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。

2211/塩野宏・行政法Ⅰ・行政法総論(有斐閣,第6版2015)。

 塩野宏・行政法Ⅰ・行政法総論(有斐閣、初版1991・6版2015)。
 この中に、「行政スタイル」についての、つぎのような叙述がある。
 第6版、p.390以下。第二部・行政上の一般的制度/第5章・「行政情報管理」の中の第3節・「補論」。
 ***
 ・ここで「行政スタイル」とは「行政が私人との関係において行政を遂行する実際上のあり方」といい得る。
 各国にそれぞれの「行政上の法制度」があるように、それぞれの「行政スタイル」がある。
 「法制度」と「行政スタイル」が照応していない、というのも「一つのあり方」だ。
 日本の「行政スタイル」の態様を「厳密に規定する」のは困難だが、「ごく大まかには」、「次のような特徴を備えている」と言えるだろう。
 ・「①」。まず、「行政指導の活用」だ。全行政過程で用いられている。
 「申請-処分の場合」は「申請に至る前段階で」行政指導がなされ(「事前指導」)、これに従った「申請書」だけを「受理」することが「よく行われる」。その間に「返戻」が反復されることもある。
 私人の「違法行為」について行政が「監督上の権限」もつ場合でも、直ちに発動することなく「勧告、警告等のよりマイルドな手法」が用いられる。
 「法律上の監督権限や規制権限がないとき」も、「適切な行政指導」がむしろ要請されることもある。
 ・「②」。日本では「相手方との一定のコンセンサスの下に行政がなされていく」。行政指導は形式上は一方的行為だが、「実務上には」「相手方との交渉の余地を残していることが多い」。交渉結果は「契約ないし申合わせ」ではなく「行政指導という形でまとめられる」。
 ・「③」。かりに不本意でも「一応、相手方の納得」があると、紛争が裁判所に持ち込まれ」ない。日本の「行政訴訟の数は欧米諸国に比較すると極めて小さい」。
 日本の裁判そのものに関係するが、日本の「行政のあり方にもよるものと解される」。
 これに対応して、行政は「訴訟の提起を予想せずになされる」。「行政部内における文書管理が必ずしも十分に整理されていない」こともこれと関係があるだろう。
 ・「④」。このような「行政スタイル」のもとでは、「行政過程は、…、とりわけ局外にある者にとっては不透明である」。「基準」が公表されることもあるが、当事者間でも「文書」によらず、従って「記録として残されていないことも多い」。
 ・「インフォーマルな形式」の行政はどの国にもあって、「複雑な現代の行政需要」に対応するには「必要なこと」だ。しかし、日本では、「インフォーマルな行政活動の比重が極めて大きい」。また、相手方私人・私企業も、「かかる方式になじんできた」。
 ・日本の「行政スタイル」を「一概に前近代的であるとか、パターナリズムの現れであると批判することはできない」。
 「現代行政に必要な柔軟性、機敏性もみられる」。しかし、これに頼りすぎると、相手方だけでなく「国民一般の信頼を失い、紛争をこじらせる」だろう。「行政スタイルも変化していかなければならない」。
 ・行政手続法制、情報公開法制、行政機関個人情報保護法制はそれぞれ、憲法上の根拠・法体系上の位置づけ・具体的機能が異なる。
 「しかし、これらは、…日本の行政スタイルに対して、それぞれの仕方において、変革を迫るものであることに注意しなければならない」。
 ***
 秋月瑛二にはとくに珍しくもない指摘であり、文章だ。しかし、さしあたりはつぎの点で興味深いものがある。
 第一。行政を含む日本「社会」のとくに欧米と比べての遅れ、前近代性は、戦後早くの川島武宜の研究?にも見られるように、しばしば指摘されてきた。ある程度は、明治維新=「近代」革命ではなく、半封建的絶対王制の確立といった、「講座派」ないし日本共産党的歴史観が反映されていたのかもしれない。
 しかし、そのような認識・理解の仕方は<法社会学>は別論として、「法解釈学」を中心とする大方の法学分野では共有する必要はなく、そういう次元での議論に関与しなくとも、大方の法学者たちは「仕事」を継続することができた(もっとも、潜在意識または基礎的感覚として、「進歩的」・「民主的」法学者には重要な意味と機能をもったかも知れない)。
 だが、上の塩野宏の叙述は、行政法学という「法解釈学」を中心とする法学分野の教科書・概説書であるにもかかわらず、「行政スタイル」という観点から、上の論点に立ち入っている。
 もちろん、行政法学のみならず他の「法解釈学」を中心とする大方の法学分野の教科書・概説書を全て見ているわけではないが、行政法学分野に限ったとしてすら、このような指摘または叙述自体が数少ない、あるいは稀少なものだろう。
 第二。単純に前近代的として批判しているのでも、「日本的」として是認しているのでもないことは上のとおりで、柔軟な思考がここでも垣間見える。
 しかしむしろ、「日本的」だとして称賛するのではなく、「変革」が必要である旨が強調されているとも読めることが-行政手続法や情報公開法と関連させてはいるが-、注目に値するだろう。
 第三。「わが国の行政スタイル」について、どのような観点または規準でもって、議論し考察すればよいのか。これはもちろん、法学分野の問題に限らないし、その中の行政法学に固有の問題でもない。
 「わが国」・「日本」という特定は、事の性質上(国民国家の成立ないし「日本」という一国家の存在を前提にすれば)当然だろう。
 上の塩野宏の叙述に出てくるのは、まずは「(行政に関する)法制度」とは必ずしも同一ではない、という当然だが至極重要で適切な前提だ(「インフォーマル」うんぬんも基本的にはこれにかかわる)。他に、「欧米諸国」との対比、「前近代」・「パターナリズム」とは一概には言えないこと、「(複雑な)現代」といった、基本的なタームや論述がある。
 また、「コンセンサス」・「納得」とか、「たとえ不本意なものではあっても」とか、「マイルドな手法」とかの語も出てくる。余計ながら、「こころ」・「意思」は、一部<文学>畑の無知な学者たちが想定している以上にはるかに、社会系学問分野では重要なのだ。
 私には特段の困難なく理解できる(意味・趣旨を判別できる)内容だが、これらを用いた叙述以上にどこまで詳細に書けるかというと、著者にもまた覚束ないところがおそらくあるだろう。
 行政指導についても、多数の判決例が別の箇所で言及されている。最高裁判決を含むそのような諸判決にも触れることなくして、上の主題を全て語ることは不可能だ。
 ***
 戦前からあったわけではないし、戦後すぐに定式化されたわけでもないが、1970年代には法学あるいは行政法学上は「行政指導」は一定の学術上の概念としても用いられてきたと見られる(のちに制定法律上の概念・言葉にもなる)。当然に、議論があり、判決例の蓄積もある。
 そのようなこと自体が広く国民一般、マスメディア従事者等にはほとんど知られていないこともまた、「日本的」かもしれない。
 法的拘束力の有無、一方的か「申請」が必要か、といった関心・観点すら乏しい、少なくとも不十分だ、というのが実態かもしれない。
 行政指導にも法律に根拠があるものとないものもある。法律上の(明文の)根拠がない場合、行政指導を行うことができるのは、憲法上の「行政権」に由来するのか、それとも大臣を含む個々の官署の行政組織法制上列挙されている「所掌事務」にもとづいているのか。
 法律上の(明文の)根拠がなくとも、行政指導に従わない私人(・民間企業)の名前を「公表」することができるのか。その「公表」は<制裁>(「不利益処分」?)か、それとも一般公共ないし国民・住民一般のための<情報提供>か。
 指導・要請と「指示」はどう違うのか。
 ……。……。
 

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
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 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
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 第7節②へとつづく。

2209/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。

 折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。
 折口信夫全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。②はp.464以下。原出/1949年06月。
 ***(つづき)
 ②。
 ・「只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思っていられる方が、随分世の中にあるだろうと思います。
 それについて、なお反省して戴かなければならない。
 相変わらずそうして行けば、われわれは遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活を、続けて行かなければならないのです。
 思うて見れば、日本の神々は、かつては仏教家の手によって、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。
 仏教教理の上に、そういう意味において、従来の日本の神と、その上に、仏教的な日本の神というものが現れてまいりました。
 しかし同時に、そういう二通りの神をば信じていたのです。
 しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられていたのではないのです。
 たとえば法華経では、これに附属した教典擁護の神として、わが国の神を考え、崇拝せられて来たにすぎません。
 日本の神として、独立した信仰の対象になっていた訳ではありません。
 だから日本の神が本道に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になって来たという事実は、今までの間になかったと申してよいと思います。」
 ・「日本の神々の性質」は「多神教なものだという風に考えられて来ておりますが、事実においては日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」。
 例えば、多数の神があっても「天照大神」、「高皇産霊神」、「天御中主神」のいずれかを感じるというように、「一個の神だけをば感じる考え癖」がある。
 「最卑近な考え方では、いわゆる八百万の神というような神観は、低い知識の上でこそ考えておりますが、われわれの宗教的あるいは信仰的な考え方の上には、本道は現れてはまいりません」。
 日本の信仰にはそういう風があると見えて、「仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちながらも、その時代時代によって、信仰の中心はいつでも移動いたしておりまして、二三あるいは一つの仏・菩薩が対象として尊信されてまいりました。
 釈迦であり、観音であり、あるいは薬師であり、地蔵であり、そういう方々が中心として、信じられていたのです。
 これが同時に日本人の信仰の為方でと思います」。
 ・日本人が「数多の神」を信じているように見えても、「やはり考え方の傾向は、一つあるいは僅かの神々に帰してくるのだと思います」。
 「植民地に神社を造った」経験からは「皆まづ天照大神を祀っております」。この考え方は「間違った考え」を含んでいた、または「指導する神道家が間違った指導をしていた」ことを意味するのだろうが、「その間違いの根本に、そういう統一の行われる一つの理由があった。
 つまりどうしても、一神に考えが帰せられなければならならぬというところがあったのだと思います」。
 ・「神社において、あんなに尊信を続けられて来たという風な形に見えていますけれども、神その方としての本道の情熱をもっての信仰を受けておられたかということを、よく考えて見る必要があるのです。
 千年以来、神社教信仰の下火の時代が続いていたのです。
 ギリシア・ローマにおける『神々の死』といった年代が、千年以上続いていたと思わねばならぬのです。」
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 ③につづく。
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 現在読みかけの本を4つだけ。
 1. 飯倉晴武・地獄を二度も見た天皇-光厳院(吉川弘文館/歴史文化ライブラリー、2002)。
 2. 及川智早・変貌する古事記・日本書記(ちくま新書、2020)。
 3. 安西祐一郎・心と脳認知科学入門(岩波新書、2011)。
 4. 松岡正剛・心とトラウマ(角川ソフィア文庫、2020)。

2208/レフとスヴェトラーナ13-第4章①。

 レフとスヴェータ、No.13。
 (New York, 2012)

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 第4章①。
 (01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
 この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
 受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
 (02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
 これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
 1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
 「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
 検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
 書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
 おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
 (03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
 彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
 実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
 しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
 検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
 しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
 (04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
 これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
 8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
 収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
 木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
 食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
 そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
 「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
 安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
 外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
 (05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
 「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
 受け取った?」
 レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
 スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
 スヴェータは、その日の午後に書き送った。
 「私もまた、運命論者になりました。
 私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
 でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
 そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
 -<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
 レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
 レフはその夕方にスヴェータに書いた。
 「私にはプレゼントでした。
 この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
 (06) こうして、二人の会話が始まった。
 しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
 スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
 「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
 そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
 でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
 レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
 私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
 (07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
 検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
 どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
 レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
 「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
 だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
 頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
 レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
 営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
 (08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
 友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
 (09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
 スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
 スヴェータは回答した。
 「局留めにする必要は全くありません。
 私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
 のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
 しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
 (10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
 草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
 スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
 彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
 スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
 彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
 「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
 これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
 (11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
 彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
 スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
 これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
 スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
 実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
 「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
 私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
 それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
 心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
 『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
 感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
 彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。 
 「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
 脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
 空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
 魂のすべてが解き放たれる
 兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
 医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
 自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
 これが、心を全て開くためには不可欠だ」
 (12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
 自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
 「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
 工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
 冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
 灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
 まだ他にどうなっているか、知っていますか?
 買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
 私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
 -あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
 (13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
 スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
 彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
 ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
 「今日は、灰色で、一面に曇っています。
 秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
 モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
 全てが、何と遠く感じることでしょうか。
 でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
 そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
 そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
 ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
 これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
 スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
 9月10日に、こう書いた。
 「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
 モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
 人々の数が、多すぎます。
 街路電車では、それは愉快ではありません。
 人々は、苛立っています。
 人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
 メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
 あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
 (14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
 研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
 これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
 スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
 彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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 第4章②につづく。
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  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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