秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1802/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)④。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第4回。
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 第一章・初期設定/第2節・革命的伝統
 ロシアの知識人たちが自分たちに課した任務はロシアをより良くすることで、まずはこの国の将来の社会的政治的な青写真を描き出し、ついで可能ならば、現実へとそれを実施する行動を起こすことだった。
 ロシアの将来の目安は、西側ヨーロッパの現在だつた。
 ロシア知識人層は、ヨーロッパで見られた多様な現象を受容することも拒否することも決定し得えただろう。しかし、全てがロシア人の議論の論点であり、ロシアの将来計画に組み入れる可能性があるものだった。
 19世紀の最後の四半世紀、そうした議論の中心的主題の一つは、西側ヨーロッパの工業化とその社会的および政治的帰結だった。//
 一つの見方によれば、資本主義的工業化は西側に、人間の堕落、大衆の貧困化および社会構造の破壊を生んだ。そのゆえに、それはロシアでは是非とも避けられるべきだった。
 この見地に立つ急進的知識人たちは「人民主義(Populists)」という旗印のもとに集まった。この名称は、実際には存在していない組織の論理上の程度を示すにすぎなかったけれども(この言葉はもともとは、ロシアのマルクス主義者たちが彼らに同意しない多様な知識人集団を自分たちと区別するために用いたものだった)。
 人民主義は基本的には、1860年代から1880年代にかけてのロシア急進思想の主流だった。//
 ロシア知識人層は一般的に、最も望ましい社会組織の形態だとして(ヨーロッパのマルクス主義以前の社会主義者、とくにフランスの「空想家」のように)社会主義を受け容れた。このことが政治的変革のイデオロギーとしてのリベラリズムを受容することと矛盾しているとは、考えられていなかったけれども。
 知識人たちはまた、その孤立状態に反応して、自分たちと「人民(民衆)」(ナロード、narod)の間の溝を埋めようという強い熱意をもった。
 知識人たちの考え方の性質から、人民主義とは資本主義的工業化への抵抗とロシア農民層の理想化とが結合したものだと理解された。
 人民主義によれば、資本主義はヨーロッパの伝統的農村共同体に対して破壊的影響を与えた。農民たちを土地から切り離し、土地なき都市に移り住むのを強制し、産業プロレタリア-トを搾取した。
 人民主義者は、資本主義の暴虐からロシア農民の伝統的な村落組織、共同体またはミール(mir)を守ろうとした。ミールはロシアがそれを通じた社会主義への別の途を見出すかもしれない平等な制度-おそらく原始共産制が生き延びているもの-だと考えたからだ。//
 1870年代初め、知識人たちによる農民層の理想化と彼らの状況や政治改革の見込みについての不満によって、自発的な大衆運動が生まれた。これを最もよく示すのが、人民主義の目標-1873-74年の「人民の中へ」だった。
 数千人の学生と知識人たちが都市を離れて村落へ行き、ときには自分たちを農民層に対する啓蒙者だと思い描き、ときにはさもしく民衆に関する単純な知識を得ようとし、ときには革命的な組織とプロパガンダを指揮するという望みをもって。
 この運動には、ほとんどの参加者に関するかぎりは、中心的な目標はなく、明確に定められた政治的意図はなかった。政治的宣伝活動というよりも、宗教的な巡礼行為だった。
 しかし、農民たちにも帝制警察にも、このいずれであるかを把握して区別するのは困難だった。
 当局は大きな警戒心をもち、大量に逮捕した。
 農民たちは疑い、招かれざる客たちを貴族か階級敵の子どもたちだと見なし、彼らをしばしば警察へと突き出した。
 この災難によって、人民主義者のあいだには深い失望感が生まれた。
 民衆を救おうという決意は揺るがなかった。しかし、ある範囲の者たちは、こう結論づけた。外部者として民衆を救うのは自分たちの悲劇的な宿命だ、革命的な無謀行為の英雄性は死後にはじめて賞賛されるだろう、と。
 1870年代遅くに、革命的テロリズムが急に頻発した。部分的には収監されている同志のために報復したいという感情からだった。部分的には、狙いを定めた一撃が専制ロシアの上層構造全体を破壊して、ロシア民衆が自由に自分の運命を見いだせるようにする、という見込みなき希望からだった。
 1881年、人民主義テロリストの中の「人民の意思」集団が皇帝アレクサンダー二世の暗殺に成功した。
 これがもった効果は専制体制の破壊ではなくて、脅かすことによって、恣意性と法の無視が増したより強圧的な政策を、そして近代警察国家に近いものを生み出したことだった。(10)。//
 暗殺への民衆の反応の中には、ウクライナでの反ユダヤ人虐殺があり、また、農民を農奴から解放したがゆえに貴族が皇帝を殺害したのだというロシアの村落での風聞もあった。//
 空想的な理想主義、テロリスト的戦術および従前は革命的運動の特徴だった農民志向を批判して、ロシアの知識人層の中の明確に区別された集団として、マルクス主義者が出現してきた。それは、1880年代、二つの人民主義者の災難の結果としてだった。
 ロシアの不適切な政治風土のために、また自分たちのテロリズム非難のゆえに、マルクス主義者が最初に影響を与えたのは、革命的行動によってではなく、知識人たちの議論に対してだった。
 彼らマルクス主義者は、ロシアでの資本主義的工業化を避けることはできない、農民のミールはすでに内部的解体の途上にあり、国家とそれに拘束された責任者たちによって徴税と償還金納付のためにだけ支えられている、と主張した。
 また、資本主義は唯一の可能な社会主義への途を内包しており、資本主義の発達が生んだ工場プロレタリア-トは真の社会主義革命を起こすことのできる唯一の階級だ、と主張した。
 彼らが主張したこうした命題は、マルクスとエンゲルスが彼らの著作で叙述した歴史発展の客観的法則によって科学的に証明されるはずのものだった。
 倫理的に優れているとの理由でイデオロギーとして社会主義を選択する者たちを、彼らは嘲弄した(この点は、もちろん中心問題ではなかった)。
 社会主義に関する中心論点は、社会主義は資本主義のように、人間社会の発展の予見可能な段階だ、ということだった。//
 ロシア専制体制に対する「人民の意思」の闘いを本能的に称賛したカール・マルクスには、国外移住中のゲオルギー・プレハノフの周囲に集まる初期のロシアのマルクス主義者は、根本教条のために闘って死んでいる者がいるのに、あまりに消極的で衒学的な革命家たちであって革命の不可避性に関する論文を書いて満足しているように見えた。
 しかし、ロシア知識人層に対する影響は異なっていた。その理由は、マルクス主義の科学的予測の一つがすみやかに実現されたからだ。彼らはロシアは工業化し<なければならない>と言ったが、ウィッテの熱心な指揮のもとで、そうなった。
 本当に、工業化は自発的な資本主義の発達の所産であるごとく、国家の財政援助と外国の投資の産物であり、その結果として、ロシアはある意味では西側と異なる途を歩んだ。
 しかし、同時代者たちにとって、ロシアの急速な工業化はマルクス主義の予見が正しい(right)ことを劇的に証明するものだと、またマルクス主義は少なくともロシアの知識人たちの「大きな疑問」に対するある程度の回答だと、思われた。//
 ロシアでのマルクス主義は-中国、インドおよびその他の発展途上国でのように-、西側ヨーロッパの発展諸国とは異なる意味をもった。
 それは革命のイデオロギーであるとともに、近代化のためのイデオロギーだった。
 革命的消極性を責められたことがほとんどないレーニンですら、<ロシアでの資本主義の発達>という有力な論稿でマルクス主義者としての名をなした。その研究は、経済的近代化過程を分析して擁護するものだった。
 そして、ロシアでの彼の世代の指導的マルクス主義者たちは、事実上ほとんど、同じような著作を書いた。
 確かに、マルクス主義者のやり方で弁護された(「私は支持する」のではなく「きみにこう語った」)。そして、レーニンは反資本主義の革命家だとだけ知っている現代の読者は驚くかもしれない。
 しかし、19世紀遅くのロシアはマルクス主義の定義上まだ半封建的な後進社会だったので、マルクス主義者にとって、資本主義は「進歩的な」現象だった。
 イデオロギーの観点からすれば、資本主義は社会主義に到達する途上の必要な段階であるがゆえに、彼らは資本主義を支持した。
 しかし、感情の点からいうと、傾倒度は低くなってくる。
 ロシアのマルクス主義者は近代的で工業化した都市的世界に感嘆し、古い田園的ロシアの後進性に気分を害していた。
 レーニン-歴史を正当な方向へと一押ししようとする積極的革命家-は、かつての人民主義の伝統である革命的自発性をある程度もっている非正統のマルクス主義者だった、としばしば指摘されてきた。 
 これは本当のことだ。しかし、それは主として、1905年および1917年という現実的な革命の時期での彼の行動と関連があるものだ。
 1890年代に彼が人民主義ではなくマルクス主義を選んだのは、近代化の側に立っていたからだ。
 そして、この基本的な選択によって、レーニンと1917年の党による権力奪取以降のロシア革命の行程に関する多くのことを説明することができる。//
 人民主義者との間での資本主義をめぐる初期の論争で、マルクス主義者はもう一つの重要な選択を行った。すなわち、基礎的な支援者および革命のためのロシアの主要な潜在勢力として、都市的労働者階級を選んだのだ。
 これは、マルクス主義を、農民に一方的な恋愛感情をもつ(人民主義者が支持し、のちにその設立から1900年代初めまで社会主義革命党(エスエル)が支持した)ロシアの革命的知識人層の古い伝統と明確に区別するものだった。
 それはまた、(ある範囲は以前のマルクス主義者である)リベラルたちとも、マルクス主義者を区別した。リベラルたちの自由化運動は政治勢力としては、「ブルジョア革命」を望んで新しい専門家階層とリベラルなゼムストヴォ貴族の支持を得たために、1905年の少し以前に出現することとなった。//
 マルクス主義者の選択は、当初は、とくに有望だとは見えなかった。労働者階級は農民層と比較すると小さくて、都市の上層階級と比較すると地位、教育および財政源が欠けていた。
 マルクス主義者の労働者との初期の接触は基本的に教育的なものだった。それは、知識人たちが一般的な教育にマルクス主義の要素を加えて労働者に提供するサークルや学習会集団で成り立っていた。
 このことが革命的労働者運動の発展にいかに寄与したかについて、評価は歴史研究者によって異なる。(12)
 しかし、帝制当局は相当の政治的脅威を感じ取った。
 1901年の警察報告書は、こう記載した。(13)
 『目標を達成しようとして煽動者たちは、不運にも、政府に対して闘う労働者を組織することにある程度は成功した。
 最近の3年か4年、家族と宗教を軽蔑し、法を無視し、構築された権威を拒絶して愚弄するのを余儀なく感じている、半ば識字能力のある知識人の特別の類型へと、暢気なロシアの若者たちは変わってきている。
 幸いにもそのような若者は工場では多数ではない。しかし、このごく少数の一握りの者たちが、労働者の不動の多数派をそれに従うように脅かしている。』
 マルクス主義者たちは明らかに、大衆との接触を探している初期の革命的知識人たちよりも優れていた。
 マルクス主義者は、聴こうとする大衆の部門を発見していた。
 ロシアの労働者は農民層から大して離れていなかったけれども、はるかに識字能力のある集団で、少なくも彼らのある程度は、近代的で都市的な「自分を良くする」可能性という意識をもっていた。
 教育は、革命的知識人層と警察の両者が予見した革命の方向への途であるとともに、社会流動性上の上昇の手段だった。
 初期の人民主義者の農民に対する宣教とは違って、マルクス主義の教師は、警察が学生たちに圧力を加える危険を冒す以上のものをもっていた。//
 労働者教育から、マルクス主義者-1898年以降に非合法でロシア社会民主労働党として組織されていた-は、より直接に政治的な労働者の組織化、ストライキ、そして1905年の革命への関与へと進んだ。
 党の政治的組織と現実の労働者階級の抗議の間の結婚は決して厳格なものではなく、1905年の社会主義諸政党には、労働者階級の革命的運動を維持していくのが大いに困難だった。
 にもかかわらず、1898年と1914年の間に、ロシア社会民主労働党は知識人層の集まりという性格をやめ、文字どおりの意味での労働者運動団体になった。
その指導者は依然として知識人層の出身で、その活動時間のほとんどをヨーロッパの国外逃亡先でロシアから離れて過ごしていた。
 しかしロシアでは、党員と活動家の大多数は労働者だった(または、職業的な革命家の場合は以前の労働者だった)。(14)
 彼らの理論からすると、ロシアのマルクス主義者は革命上大きな不利だと思われることから出立した。すなわち、来たる革命ではなく、その次の革命のために活動しなければならなかった。
 正統なマルクス主義者の予見によると、ロシアが資本主義の段階に入ることは(これは19世紀末にようやく起こったが)、不可避的にブルジョア的リベラルな革命による専制体制の打倒につながる。
 プロレタリア-トはその革命を支援するかもしれないが、補助的な役割を果たす以上のことはしないように思われた。
 資本主義が成熟の地点に到達した後でようやくプロレタリアの社会主義革命のときが熟する、そのときは将来のはるか遠くにある。//
 1905年以前は、この問題が切迫しているとは見えなかった。いかなる革命も進展しておらず、マルクス主義者は労働者階級を組織する若干の成功を収めていたのだから。
 しかしながら、小集団-ペーター・ストルーヴェ(Peter Struve)が率いる「合法マルクス主義者」-は、マルクス主義が設定した項目である最初の(リベラルな)革命という目標との自分たちの一体性を強く主張し、社会主義革命という究極的な目標への関心を失うにいたった。
 ストルーヴェのような専制体制内の近代化志向の構成員が1890年代にマルクス主義者となっていたことは、驚くべきことではない。当時には彼らが参加できるリベラルな運動はなかったのだから。
 また、彼らが世紀の変わり目にマルクス主義を離れてリベラルたちの自由化運動の設立に関与したことも、同様に自然なことだった。
 にもかかわらず、合法的マルクス主義の異端的主張は、ロシア社会民主主義の指導者、とくにレーニンによって完璧に非難された。
 レーニンの「ブルジョア・リベラリズム」に対する激烈な敵意は、マルクス主義の用語上はいくぶん非論理的で、彼の仲間たちにある程度の混乱を巻き起こした。
 しかしながら、革命という観点からは、レーニンの態度はきわめて合理的だった。//
 おおよそ同じ時期に、ロシア社会民主主義の指導者は、経済主義(Economism)の主張、つまり労働者運動は政治的目標ではなく経済的目的に重点を置くべきだという考え方、を非難した。
 ロシアには実際には、明瞭な経済主義の運動はほとんどなかった。理由の一つは、ロシアの労働者の異議申立ては賃金のような純粋に経済的問題から急速に政治的問題へと進展する傾向にあったことだ。
 しかし、国外にいる(エミグレの)指導者たちはしばしば、ロシア国内の状況によりもヨーロッパの社会民主主義内部での動向に敏感で、ドイツの運動の中で発達していた修正主義や改革主義の傾向を怖れた。
 ロシアのマルクス主義者は、経済主義や合法マルクス主義との教理上の闘争で、 自分たちは改良主義者ではなくて革命家だ、そして根本教条は社会主義の労働者の革命であってリベラルなブルジョア革命ではない、との主張を明確に記録した。//
 ロシア社会民主労働党が第二回党大会を開いた1903年、指導者たちは明らかに小さな論点に関する対立へと陥った-党新聞<イスクラ>編集局の構成に関して。(15)//
 現実的で実体のある問題は含まれていなかった。対立がレーニンの周囲で回っている限りで、レーニン自身が基礎的な問題であり、またレーニンは支配的地位を求めて攻撃的すぎると彼の同僚は考えた、と言うことができたかもしれないけれども。
 大会でのレーニンのやり方は傲慢だった。そして彼は近年に、多様な理論上の問題点についてきわめて決定的に規準を設定してきていた。とくに、党の組織や役割に関して。
 レーニンと年上のロシア・マルクス主義者であるプレハノフの間に、緊張関係があった。
 また、レーニンと彼の同世代のユリイ・マルトフ(Yulii Martov)の間の友好関係は、破裂にさし掛かっていた。//
 第二回大会の結末は、ロシア社会民主労働党の「ボルシェヴィキ」派と「メンシェヴィキ」派への分裂だった。
 ボルシェヴィキはレーニンの指導に従う者たちで、メンシェヴィキ(プレハノフ、マルトフおよびトロツキーを含む)は大きくてより多い、レーニンは度を外していると考える党員の多様な集団で成り立っていた。
 この分裂は、ロシア内部のマルクス主義者にはほとんど意味がなかった。そしてこれが発生した当時は、エミグレたちによってすら取り消すことができないものと見なされていた。
 しかしながら、この分裂は永遠のものになるのが分かることになる。
 そして月日が経つにつれて、二つの党派は1903年にそれぞれがもっていた以上に明確に異なる自己一体性(identity)を獲得した。
 のちにレーニンはときおり、「分裂者」だったことの誇りを表現することになる。これが意味するのは、大きい、大雑把に編成された政治組織は小さい組織よりも効果的ではない、紀律ある急進的集団には高い程度の義務とイデオロギー上の一体性が必要だ、とレーニンが考えた、ということだ。
 しかし、ある範囲の人々は、不一致に寛容であることができないこのレーニンの特性に原因があった、とする。不一致への不寛容、これはトロツキーが革命前の論争の際に「ジャコバン派の不寛容性の風刺漫画」だと称した「悪意溢れる懐疑心」のことだ。(16)//
 1903年後の数年間、メンシェヴィキはそのマルクス主義についてより正統的なものとして登場した(1917年半ばまでメンシェヴィキ党員だったが、つねに〔党のどの派についても〕無所属者だったトロツキーを考慮しない)。そして、革命に向かって事態の進展を急がせようとあまり思わず、堅く組織されて紀律ある革命党を作るという関心も乏しかった。
 メンシェヴィキは、帝国の非ロシア領域での支持を得ることに、ボルシェヴィキ以上に成功した。一方、ボルシェヴィキは、ロシアの労働者たちの間で優勢だった。
 (しかしながら、いずれの党でも、ユダヤ人その他の非ロシア人が知識人層が支配した指導者層内で圧倒的だった。)
 戦争前の最後の数年、1910-14年に、労働者の空気がより戦闘的になったとき、メンシェヴィキは労働者階級の支持を失ってボルシェヴィキに譲った。
 メンシェヴィキは、ブルジョアジーと近接した関係をもつ「まともな」政党だと認知されていた。一方で、ボルシェヴィキは、より革命的であるとともにより労働者階級的だと見られていた。(17)//
 メンシェヴィキと違ってボルシェヴィキは、単一の指導者をもち、その自己認識は大部分が、レーニンの考えと個性によって形成されていた。
 マルクス主義理論家としてのレーニンの第一の明確な特質は、党組織に重点を置くことだ。
 レーニンは、党はプロレタリア革命の前衛であるのみならず、ある意味ではその創作者でもある、と考えた。プロレタリア-トだけでは労働組合意識を獲得するのみで、革命的意識をもつことはない、と論じたのだ。//
 レーニンは、党員たちの中核は、全日働く職業的な革命家で構成されるべきだと考えた。それは知識人層と労働者階級双方から選抜されるものだが、どの社会集団よりも労働者の政治組織へと集結するものだとされた。
 <何をなすべきか?>(1902年)で彼は、中央集中化、厳格な紀律および党内部でのイデオロギーの一体性の重要性を強調した。
 もちろん、これらは警察国家で密かに活動する政党の論理上の規範だった。
 にもかかわらず、レーニンの同時代者(そしてのちに多くの歴史研究者)には、多様性と自発性をより多く認める緩やかな大衆組織をレーニンが嫌悪するのは、たんに政略的なものではなくて、生まれつきの権威主義的性向(natural authoritarian bent)を反映するもののように思われた。//
 レーニンは、ロシアの他の多くのマルクス主義者とは異なる。プロレタリア革命が究極的には起こるとたんに予言するのではなくて、能動的にプロレタリア革命を望んでいると見える点で。
 これは、きっとレーニンがカール・マルクスに気に入られた特性だっただろう。正統なマルクス主義の何らかの修正が必要だったということはあるけれども。
 リベラルなブルジョアジーがロシア反専制革命の自然の指導者でなければならないという考え方は、レーニンには決して本当に受容し難いものだった。
 レーニンは1905年革命の真只中で書いた<社会民主主義者の二つの任務>で、プロレタリア-トは-ロシアの反抗的な農民と同盟して-支配的な役割を果たすことができるし、果たすべきだ、と強く主張した。
 真剣に革命を意図するロシアのマルクス主義者の誰にとっても、ブルジョアが革命指導者だという教理を迂回する途を見出すことが明らかに必要だった。そして、トロツキーは、同様のかつより成功した努力を行って、「永続革命」論を発表した。
 1905年以降のレーニンの論考では、「独裁(dictatorship)」、「蜂起(insurrection)」および「内戦(civil war)」という言葉が急に頻出するようになる。
 レーニンが将来における権力の革命的移行を心に抱いたのは、これらの、苛酷で暴力的でかつ現実主義的な言葉遣いによってだった。
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 (10) Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (New York, 1974), Ch. 10.を見よ。
 (11) この問題に関する人民主義者の見方につき、Gerschenkron, Economic Backwardness [経済的後進性], p.167-176.を見よ。
 (12) 消極的見解につき、Richard Pipes, <社会民主主義とペテルブルクの労働運動, 1885-1897>(Cambridge, MA, 1963) を見よ。より肯定的な見解は、Allan K. Wildman, <ロシアの社会民主主義, 1891-1903>(Chicago, 1967) を見よ。
 (13) Sidne Harcave, <最初の血-1905年のロシア革命>(New York, 1964), p.23. から引用した。
  (14) 1907年のボルシェヴィキとメンシェヴィキ党員の構成分析につき、David Lane, <ロシア共産主義のルーツ>(Assen, The Nietherlands, 1969), p.22-23, p.26. を見よ。
 (15) 分裂に関する明快な議論について、Jeffry F. Hough and Merle Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかに統治されているか>(Cambridge, MA, 1979), p.21-26. を見よ。
 (16) トロツキー, 'Our Political Tasks' (1904), Isaac Deutscher, <武装せる予言者>(London, 1970)所収, p.91-91. から引用した。
 (17) Haimson, 'The Problem of Social Stability', p.624-633.
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 第一章の第2節が終わり。

1801/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)③。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第3回。
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 第一章・初期設定/第1節・社会。
 ロシア帝国の領土は巨大で、西はポーランドから東は太平洋にまで及び、北は北極海に、南は黒海やトルコとアフガニスタンの境界に届いていた。
 帝国の中心部である欧州ロシア(今はウクライナである領域を含む)は1897年に9200万の人口をもち、帝国の総人口はその年の公式調査で1億2600万を記録した。(1)
 しかし、欧州ロシアや比較的に進んでいた帝国の西部ですら、全体としては田園的で、都市化されていなかった。
 一握りの大都市の産業センターがあり、そのうちの多くでは近年に生産が急速に増大していた。
 第一次大戦中にペトログラードと、1924年にレニングラードと改称された帝国の首都のサンクト・ペテルブルク、かつての、そして(1918年以降の)将来の首都のモスクワ。いずれも今はウクライナの、新しいドンバスの採鉱および冶金の中心であるキエフ、ハルコフおよびオデッサ。西部では、ワルシャワ、ロズおよびリガ。南部では、ロストフと石油都市のバク。
 しかし、20世紀初めには、ほとんどの地方の町はまだ眠るがごとく沈滞していた。-小規模の住民用小売店、若干の学校、農民市場およびおそらくは鉄道駅のある、地方行政の中心地。//
 村落には、伝統的な生活様式の多くが残っていた。
 農民はまだ共同体所有(tenure)の土地をもち、村落の土地は細長く区切られ、それは多様な農民家族によって別々に耕作されていた。
 <ミール>(mir、村落会議)はまだ、細長い土地(strips)を各世帯が同等の分け前をもつように定期的に再区分していただろう。
 木鋤は共同使用で、近代的な農耕技術は村落では知られていなかった。そして農業生産は、食べて生きる水準をさして超えていなかった。
 農民の小屋は村落の通りに沿って揃って並んでおり、農民は暖炉で寝て、家屋の中で家畜を飼った。そして、農民家族のかつての家父長制的構造が残存していた。
 農民たちは、農奴状態から離れて一世代以上も経っていなかった。すなわち、世紀の変わり目に60歳だった農民は、1861年の農奴解放のときにはすでに若き成人だった。//
 解放はもちろん、農民の生活を変えた。しかし、解放は、変化を最小限にし、少しずつ広がるように注意深く立案されていた。
 解放の前、農民は村落の細長い土地で働いた。彼らはまた、主人の土地で働くか、自分たちの労働との同等額を金銭で主人に払った。
 解放の後、農民は自分の土地で働き続け、ときどきは以前の主人の土地に雇われて働いた。一方で、即時の代償金として地主に与えられていた一時金を相殺するために、国家に「償還金」(redemption)を支払った。
 償還金の支払いは49年間つづくものと予定され(国家は実際には数年は早く放棄したけれども)、村落共同体には、各構成員の債務に対する集団的な責任があった。
 このことは、個々の農民はまだ村落に縛られていることを意味した。農奴制にではなく、債務とミールの集団責任に拘束されていたのだとしても。
 解放は、農民が都市に大量に流入してくることや公的秩序に対する危険の予兆である土地なきプロレタリア-トが生まれることを抑止するという意図をもっていた。
 また、ミールや古い共同体の土地所有を補強する効果ももっていて、農民がその細地(strips)への力を強固にすることやその保有を拡張したり改良すること、あるいは自立した小農へと移行することはほとんど不可能だった。//
 村落から永遠に離れることは解放後の数十年は困難だったが、一方で、農業、建設または採鉱、あるいは都市で雇われて働くために一時的に離れるのは容易だった。
 このような仕事は実際に、多くの農民家族にとって不可欠だった。納税や償還金支払いのために、現金が必要だったのだ。
 季節労働者(otkhodniki)として働く農民は、村落で土地を耕す家族を残して、しばしば年の多くの月々を離れていた。
 旅をする期間が長ければ-中央ロシアの村落から来てドンバス炭鉱で働く農民にはよくあったが-、<季節労働者>は収穫時とたぶん春の播種の間だけ戻ることもできただろう。
 季節労働をすべく離れるという現実は長く確立されたものだった。とくに、地主が農奴の労働よりも金銭による支払いを求めた、欧州ロシアの肥沃ではない地域では。
 しかし、これは19世紀の遅くや20世紀初めにはますます一般的になっていた。その理由の一つは、都市での仕事を求められやすくなったからだ。
 第一次大戦の直前の数年に、およそ900万の農民が出身である村落の外に出る季節労働のための旅券を毎年もっていて、そのほとんど半分は、農業以外の仕事のためだった。(2)//
 欧州ロシアで家族のどの一人であれ農民二世帯のうち一世帯が出稼ぎで村落を離れていた-そしてこの割合はペテルブルク、中央の工業地域や西部地方ではより高かった-ことからすると、村落には古いロシアがほとんど変わらずに残っていたという印象は、十分に当てにはならなかったかもしれない。
 多くの農民は実際に伝統的な村落内でほとんど生活していて、それ以外の者は、近代的な産業都市という全く異なる世界で生きていた。
 農民が伝統的世界にとどまっている程度は、地理的な位置だけではなく、年齢や性によって異なった。
 若者は仕事をするために離れやすく、加えて、兵役に召集されたときに近代世界と接触した。
 女性と年配者は、村落と農民の生活様式だけを知っている傾向にあった。
 農民の経験についてのこの違いは、1897年の公的調査での識字率の数字が鮮やかに示している。
 若者は老人よりも識字率が高く、男性は女性よりも高い。そして、あまり肥沃ではない欧州ロシア-つまり、季節的な移動がごく普通の領域-の方が、肥沃な黒土(Black Earth)地域よりも高くかった。(3)//
 都市の労働者階級は、まだ農民層ときわめて近かった。
 永続的な工業労働者の数(1914年で300万人をいくぶん超える)は、非農業の季節労働を求めて毎年に村落を離れる農民の数よりも少なかった。そして実際に、永続的な都市居住労働者と一年のほとんどを都市で働く農民とを厳密に区別するのはほとんど不可能だった。
 永続的な労働者ですら、多くの者が村落に土地を保有し、そこで生活する妻や子どもたちを残していた。
 あるいは別の労働者たちは、村落自体に住んで、日毎または週毎の基準で工場へと通勤した。
 サンクト・ペテルブルクだけは、大部分の工場労働者たちが、農村地帯との全ての縁を断ち切っていた。//
 都市的労働者階級と農民層の間にこのような緊密な関係がある主な理由は、急速なロシアの工業化はごく近年の現象だった、ということだ。
 1890年代になってようやく-イギリスよりも半世紀以上遅く-、ロシアは大規模な工業の成長と都市の膨張を体験した。
 そのときですら、1860年代の農奴解放制度は永続的な都市的労働者階級を生み出すのを妨げた。それは、労働者を村落に縛りつづけた。
 第一世代の労働者は農民層出自が圧倒的で、ロシアの労働者階級の大部分を占めた。そして、第二世代労働者や都市住民はほとんどいなかった。
 ソヴェトに関する歴史研究者は、第一次大戦の直前に、工場労働者の50パーセント以上が少なくとも第二世代だった、と主張する。しかし、この計算結果は明らかに、労働者の他に父親が<季節労働者(otkhodniki)>だった<季節労働者>の農民を含めている。//
 発展途上というこの特性にもかかわらず、第一次大戦の頃までにいくつかの点では、ロシアの工業はきわめて発展した。
 近代的な工業部門は小さかったが、地理的にも(とくにペテルブルク、モスクワおよびウクライナのドンバスを中心とする地域に)工業施設の規模の点でも、きわめて高度に集中化していた。
 Gerschenkron が指摘するように、相対的な後進性には利点もある。すなわち、工業化が遅く、外国からの大規模な投資と国家による活発な関与の助けがあって、ロシアは初期段階のいくつかを省略して進むことができた。また、相対的に低い技術のおかげで、すみやかに大規模な近代的生産へと向かった。(4)
 ペテルブルクの有名なプチロフ金属加工および機械建設工場のような企業やドンバスの多くは外国資本の冶金工場は、多数の数千人の労働者を雇用した。//
 マルクス主義の理論によれば、前進した資本主義的生産のもとで高度に集中した産業プロレタリア-トは革命的になりがちちであり、一方、農民層との強い紐帯を保持する前近代的労働者階級は、そうでない。
 そうすると、マルクス主義者がその革命的な潜在力を診断するには、ロシアの労働者階級は矛盾する性格をもっていた。
 しかしなお、1890年代から1914年までの経験からして、農民層と緊密な関係をもつにもかかわらず、ロシアの労働者階級は例外的に攻撃的で革命的だった、ということが明らかだ。
 大規模のストライキがしばしばあり、労働者は経営者や国家当局に対抗して相当に連帯した。そして、労働者の要求は経済的なものであるとともにつねに政治的なものだった。
 1905年の革命のとき、ペテルブルクとモスクワの労働者は自分たちの革命的装置であるソヴェトを組織し、10月のツァーリによる立憲上の譲歩と専制体制に対する中層リベラル派の運動の挫折を目ざして闘い続けた。
 1914年の夏、ペテルブルクその他での労働者のストライキ活動は脅威的な広がりを見せ、何人かの観察者は、政府は戦争に向けての総動員を宣言する危険を冒すまでのことはできないと考えたほどのものだった。//
 ロシアの労働者の革命的感性が強いことは、いくつかの異なる方法で説明できるかもしれない。
 第一に、限定的にせよ雇用者に対して経済的な異議申し立てをすること-レーニンが労働組合主義と称したもの-が、ロシアの条件のもとではきわめて困難だった。
 政府はロシアの自国工業に多額の資本金をもち、外国からの投資を保護していた。そして、私企業に対するストライキが手に負えなくなる徴候を示すと、国家当局はすぐに兵団を派遣したものだった。  
 これが意味したのは、経済的なストライキ(賃金や条件についての抗議)でも政治的なものに変化しがちだ、ということだ。
 また、ロシア労働者が外国の経営者や技術要員に対して広くもった憤懣も、似たような効果をもった。
 労働者階級は自分たちの力では革命意識ではなく「労働組合意識」だけを成長させることができると言ったのは、ロシアのマルクス主義者、レーニンだった。しかし、ロシア自身の経験は(西側ヨーロッパでとは対照的に)、彼を支持しなかった。//
 第二に、ロシアの労働者階級にある農民的要素は、そのもつ革命的性格を弱くではなく、むしろ強くした。
 ロシアの農民は、例えばフランスの農民のような、本来的に保守的な小土地所有者ではなかった。
 1770年代の大プガチェフ(Pugachev)一揆が鮮やかに例証する、地主や役人に対する暴力的で無政府的な反乱というロシア農民の伝統は、1905年とその翌年の農民蜂起でも再び明らかになった。
 1861年の農奴解放令は、農民の反乱精神を永遠に鎮静化させたものではなかった。農民たちはそれを公正なまたは適切な解放だとは思わなかった。そしてますます土地に飢えて、抑えられた土地に対する権利を主張した。
 さらに、都市に移住して労働者になった農民たちはしばしば若く、家族の制約から自由で、かつ工場の紀律にまだ慣れていなかった。そして、憤懣と欲求不満の感情は、転位意識と見知らぬ環境に完全には同化できない意識を伴っていた。(5)
 ある程度は、ロシアの労働者階級はまさにつぎの理由で、革命的だった。
 レーニンが言った「労働組合意識」を取得する時間が、なかった。そして、非革命的方法でその利益を守ったり、近代的都市社会が教育や技術で与える上昇移動をする機会があるのだということを理解したりする力のある、落ち着いた産業プロレタリア-トになる時間が、なかったのだ。//
 しかしながら、都市部や上層の教養ある人々ですら、ロシア社会の「近代」性はまだきわめて不十分だった。
 事業や商業の階層は相対的に弱かった。専門家、諸協会その他の、市民社会が出現してくる兆しを感知することはできたけれども。(6)
 国家官僚制の専門化の増大にもかかわらず、その上層部は伝統的に公職に就く階層である上層者(the nobility)で占められたままだった。
 公職者の特権は、農奴制の廃止の後に地主集団の経済的な衰退があったので、上層者にとってはますます重要になった。上層の地主たちのうち少数者だけが、資本家、市場志向の農業への移行を成功裡に行うことができた。//
 20世紀初めのロシア社会の分裂症気味の性質は、ロシアで最も大きくかつ近代的だったサンクト・ペテルブルクの市電話帳への登録者が提供している自己認識(self-identifications)がきわめて多様であることによって十分に実証される。
 ある範囲の登録者は伝統的な形式を維持して、社会的身分と階層によって自分を分類した(「世襲貴族」、「第一ギルドの商人」、「名誉市民」、「国務委員(State Counsellor)」)。
 別の者たちは明らかに新しい世界に属していて、職業や雇用形態で自分たちを表現した(「株式仲買人」、「機械技師」、「会社経営者」あるいはロシアの女性解放が達成した代表である「女性医師」(woman doctor))。
 第三の集団はどこに帰属しているのかが不確実な人々で、ある年の電話帳には身分で、その翌年には職業で、自分を表現した。あるいは、「貴族、歯科医師」と風変わりに自分のことを載せた登録者のように、二つの自己認識表現を同時に用いて。(7)//
 いくぶん形式的でない文脈でいうと、学歴あるロシア人はしばしば自分を知識人の一員だと考えていただろう。
 社会学的には捉え難い概念だが、「インテリゲンチア」(intelligentsia)という言葉は広い意味では、ロシア社会のそれ以外の者たちとは受けた教育によって、ロシアの専制体制とはそのラディカルなイデオロギーによって区別される、教育ある西欧化したエリートのことだった。
 しかしながら、ロシアの知識人は自分をエリートだとは思っておらず、社会をより良くすることへの道徳的関心によって結ばれた階級のない集団の一員だと考えていた。また、「批判的思考」をすることのできる能力、とくに批判的で体制に対する少し反抗的な態度、によって。
 この言葉は19世紀の半ば頃に一般的に用いられたが、観念の発生史ではこれを18世紀の後半に見い出すことができる。その当時に貴族は義務的な国家への奉仕から解放されたが、教養はあってもそれを十分に活用できない貴族たちの一定範囲の者は、「民衆への奉仕」という代替的な義務の気風を発展させた。(8)
 理念的には(全部が実際ではなかったが)、知識人界と官僚制上の公職は、両立できなかった。
 19世紀後半のロシア革命運動は専制体制と闘って民衆を解放する小規模の共謀組織であることを特徴とし、大部分は知識人界の急進的で政治的な不満の産物だった。//
 高い地位の専門職業の発展がかつて存在したよりも広い範囲の職業選択を可能性を生み出したこの世紀の終わりまでには、<知性的(intelligent)>という個々人の自己定義はしばしば、政治的変革への積極的で革命的な関与というよりも、相対的に受動的でリベラルな態度を意味した。
 ロシアの新しい知識人層はまだ、意識的な革命家たちへの共感と敬意という古い知識人の伝統を十分に継承しており、そして、官僚たちが政治改革を追求したり、革命的テロリストによって暗殺されたときですら、体制側に共感することがなかった。//
 さらに、ある類型の範囲の専門的職業は専制体制への全面的な支援と結び合うことが困難な特有さがあった。
 例えば、法律家という仕事(legal profession)は1860年代の司法改革の結果として流行した。しかし、その改革は長い期間に法の支配をロシア社会と国家行政に広げることにさほど成功さなかった。とくに、1881年に革命的テロリスト集団によって皇帝アレキサンドル二世が暗殺された後の反動の時代には。
 教育を受けて法の支配を信頼するようになった法律家は、恣意的な行政実務や無制限の警察権力に、そして司法改革の作動に影響を与えようとする政府の試みに、反対する傾向にあった。(9)
 同様に継承された体制との対立関係は、ゼムストヴォ(zemstvo)、すなわち制度上は国家官僚制度とは全く別でしばしば後者と対立した、選出される地方統治機構とも関連し合っていた。
 20世紀の初めには、ゼムストヴォはおよそ7万の職業人(医師、教師、農学者等々)を雇用していたが、彼らの急進さへの共感は悪名が高かった。//
 国家または私企業で働く技師その他の技術専門たちは、とくに経済近代化と工業化のために1890年代のセルゲイ・ウィッテ(Sergei Witte)が指揮した財務省やその後の通商産業省による財政支援を受けていて、体制から疎遠になる明白な理由は乏しかった。
 実際にウィッテは、体制やロシアの技術専門家や実業家によるその近代化傾向への支援をかき集めることに尽力した。
 しかし、問題は、ウィッテの経済および技術の発展への熱意が大部分のロシア官僚エリートたちに共有されていないことだった。むろん、それは皇帝ニコライ二世の個人的な好みにも合っていなかった。
 近代化志向の専門家や起業者たちは、原理的には、専制政府の考えに反対しなかったかもしれない(実際には、〔ペテルブルク〕工科大学の学生たちの批判に晒された結果としてそうしたけれども)。
 しかし、彼らがツァーリ専制体制は近代化のための効果的な仲介者だと判断するのはきわめて困難だった。それに関する記録は一貫しておらず、そのイデオロギーはきわめて明瞭に、将来に関する論理的な展望ではなく、過去への郷愁を反映していた。//
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 (1) Frank Lorimer, <ソヴィエト同盟の人口>(Geneva, 1946), p.10, p12.
 (2) A. G. Rashin, Formirovanie rabochego klassa Rossi (Moscow, 1958), p.328.
 (3) Barbara A. Anderson, <19世紀末ロシアの近代化の間の内部移住>(Prinston, NJ, 1980), p.32-38.
 (4) A. Gerschenkron, <歴史の観点からする経済的後進性>(Cambridge, MA, 1962), p.5-p.30.
 (5) 農民の反乱意識と労働者階級の革命につき、Leopold Haimson, 'The Problem of Social Stability in Urban Russia, 1905-17' , 23, no.4 (1964), p.633-7. を見よ。
 (6) Edith W. Clows, Samuel D. Kassow and James L. West, ed., <ツァーリと民衆-ロシア帝国後期の教養社会と公的自己認識の問題>(Princeton, NJ, 1991)を見よ。
 (7) Alfred Rieber は、ロシアの社会的自己認識の新旧両類型の共存を叙述するために、「堆積的(redimentary)」という用語を使った。その論文「堆積的な社会」<ツァーリと民衆の間>所収p.343-366. を見よ。
 (8) Marc Raeff, <ロシア知識人の起源-18世紀の貴族>(New York, 1966)を見よ。
 (9) これは Richard S. Wortman, <ロシアの法意識の発展>(Chicago, 1967) p.286-9とその他随所で論じられている。
 大改革に関するより幅広い問題につき、Ben Eklof, John Bushnell and Larissa Zakharova,ed.,<ロシアの大改革>(Bloomington, IN, 1994)を見よ。
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 第一章の第1節、終わり。

1800/言葉・概念というもののトリック。

 言葉あるいは概念はふつうは何らかの現実や現象を把握して何らかの意味があるものとして作られ、用いられるものであって、一定の現実や現象そのものを複雑な諸要素・諸側面を全て網羅したものとして意味させているのではない。
 当然のこととして、何らかの捨象と抽象化・単純化が行われているものとして、言葉あるいは概念は理解されるべきものだ。
 そうであるにもかかわらず、言葉・概念が一人歩きする、言葉・概念の正確な意味についての正確な合致がないままに(異なる意味を持たしていることを意識しないままに)議論が行われることもある。
 また、そもそも、重要で議論の多い言葉・概念であるにもかかわらず、その正確なまたは厳密な意味を明らかにしないままで、何らかの論述や評論等を行っている者も多い。
 以上だけでは足りないが、このような言葉・概念の特性を利用して、種々の政治的主張も行われてきている。
 「社会民主主義」という語の由来は知らないが、おそらくは「民主主義」または「民主政体」をいちおうは是とできるものであることを前提として、それに「社会的」または「社会主義的」という限定を付したものだろう。
 レーニンのボルシェヴィズムはのちに「レーニン主義」または「レーニン的マルクス主義」とも言われる。
 しかし、レーニン・ボルシェヴィキもまた一時期は(ロシア)「社会民主労働党」の一員だったのだから、むろんマルクス主義=社会主義ではないとしても、少なくとも広い意味での「社会民主主義」者だったことはあった、と言ってよいだろう。
 「社会民主労働党」から分派して(当時はレーニン自体が積極的な「分派」活動者だった)<ボルシェヴィキ>派と名乗ったのもロシア語での「多数派」・「少数派」にかかわる語感とその利用という興味深い点はある。
 それはともかく、この当時およびそれ以降のレーニンの「民主主義」・「民主政体」という言葉又は観念に対する態度も興味深い。
 資本主義をもたらす革命が「自由・民主主義」の革命だとすれば、そこでの「民主主義」はブルジョア的なものであって、究極的には(あるいは社会主義社会)では否定されるべきものであるかもしれない。
 そのような趣旨で、レーニンは「民主主義」・「民主政体」の欺瞞的なブルジョア性を厳しく批判したとされる。
 しかし一方で、「民主主義」・「民主政体」は良いものだとする広範な空気?をも、おそらく(政略的判断として)意識したのだろう。
 いつ頃か、どの論考からかは確認しないが、レーニンが目ざすのは「真の民主主義」、「プロレタリア-トの民主主義」、「民衆・人民の(people's)民主主義」だとも主張し始めた。
 この点以外にもレーニンの発言・記述には独特の一貫性のなさ、不整合性があるので、レーニン全体をその全集類等を通じて過不足なく理解するのはほとんど困難だろうと、私は感じている。そのつど、そのつどの、現実の情勢に応じた?「適当な」言い回しがあるのだ。
 さて、上により、「民主主義」・「民主政体」には、ブルジョア的・市民的なものと「プロレタリア-ト的」・「人民的」の二種があるとになる。
 これは、言葉・概念の大きな進展と「分化」だ。
 このことによって、かつての「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)、現在の「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)という国名もありうる(ありえた)ことになる。
 日本共産党の現在の立場は、<ブルジョア的・市民的>民主主義・民主的制度を最大限利用して「プロレタリア-トの」・「人民の」民主主義・民主政体へと移行させることだろう。同党が最初の段階として目ざすと綱領上明記するのは、そのような「民主主義革命」だ。つまり、直接の「社会主義革命」を標榜しているのではない。
 つぎに、「議会制」・「代表議会制」・「議会主義」についても似たようなことが言える。
 ロシアの1905年「革命」後に設立された<ドウーマ>(選挙による議員で成る)に対する態度についても、ボルシェヴィキ党内部で対立があった。レーニンは、参加する(ボルシェヴィキの議員を送り込む)こと自体を否定はしなかったはずだ。
 マルクス主義者を自認する者にとって、現存する「議会制」・「代表議会制」にどう対応するかは一つの重要論点だ。ブルジョア(・市民)のための<欺瞞>装置ではないのか。
 1960年代に日本共産党・不破哲三は<人民的議会主義>というのを主張した(論考類をまとめたものだろう、同名の著書がある)。
 これによって、<議会主義>には「人民的議会主義」とそうではない体制的な・ブルジョア的な?「議会主義」があることになった。
 これは言葉・観念の大きな意味をもつ<分化>だった。
 これによって当時以降の、1961年綱領以降の日本共産党は、<議会議員のための選挙>を安心して、かつ熱心に行うようになった。
 個々の日本共産党員に対してこそ、自分たちは「人民的議会主義」に立っているのであって、体制側の「議会主義」とは異質なのだという自信と誇り?をもつことは、あるいは釈明?が与えられていることは、少なくない意味をもっただろう。
 新しい言葉・概念を「作り出す」ということには少なくなく大きな政治的・社会的意味を持つことがある。それを意識して、つまりは意図して、新しい用語を使ったり、大々的に宣伝することもある(「新自由主義」という語にはその、つまり政治的・政略的な側面が少なくとも日本にはあったように思われる。より普遍的な概念ならば今日でももっと使われているだろう)。
 予期していなかった長さになった。
 「左翼」・「右翼」、「保守」・「リベラル」、「全体主義」、あるいは江藤道朗が何気なく使う「保守自由主義」、井上達夫が「リベラル」とは違うという「リベラリズム」、あるいは「真正保守」・「自称保守」、「反米」・「反米ポチ」等々、言葉・概念の意味(内包)・射程範囲(外延)は明確にしておく必要がある、ということ、そして言葉・概念の作成や使用もきわめて実践的で政治的であることがある、ということを書きたかったにすぎない。
 なお、冒頭に言葉・概念は何らかの現実や現象を意味するという趣旨のことを書いたが、言葉・概念そしてそれらが紡ぎ出す「論理」の中で、いわば下底の言葉・概念を基礎にして、言葉・観念の世界の中で、新しい概念や観念が生み出されることもある。これもまた、おそらくとくに思想家・哲学者(哲学学者ではない)・思弁的論述者といわれる者たちにはよくあることだ。冒頭に「ふつうは」と記しているように、このような形而上の?<現象>が<存在>することを否定しているのではない。

1799/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)②。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017).
 2017年版の試訳の第二回。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。
 №1794の内容構成(目次)の紹介には欠けているが、序説以外の各章のはじめにも、見出し文字のない「まえがき」部分がある。「(まえがき)」と記しておく。
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 序説/第3節・革命の解釈。
 全ての革命は<自由、平等、友愛>(liberté, égalité, fraternité )その他の高尚なスローガンをその旗に刻んでいる。
 全ての革命家は、熱狂者で狂信者だ。全てが、不公正や腐敗のない、旧世界にある無感情は永遠に除去される新世界を創ろうという夢をもつユートピアンだ。
 全ての革命家は、内輪もめを許すことができず、妥協をすることもできず、大きくて遠い目標に魅せられており、暴力的で、懐疑的で、そして破壊的だ。
 革命家たちは、非現実的で統治に習熟していない。制度や手続は、思いつきで作られる。
 彼らは、民衆の意思を具現化するという幻想に酔っている。民衆の意思は、彼らの想定では一枚岩だ。
 彼らはマニ教徒(Manicheans)で、世界を二つの陣地に分ける。光と闇、革命とその敵。
 彼らは、伝統、在来の知識、聖像(icons)および迷信を嫌う。
 彼らは、社会は革命がそこに書き記そうとする<無色の白板(tabula rasa)>のはずだ、と信じている。//
 幻滅や失望で終わるのは、革命家の本性だ。
 熱狂は、衰える。狂熱は、強いられるものになる。
 狂気 (7)と高揚の時間は、過ぎ去る。
 民衆と革命との関係は、説明し難いものになる。民衆の意思は必ずしも一体のものではないし、よく見通せるものでもない。
 富と地位への誘惑が戻ってくる。人は隣人を自分のごとく愛しはしないし、そう欲してもいないと気づくとともに。
 全ての革命家は事物を破壊し、すぐにその損失を後悔する。
 彼らが創るものは全て、予期したものよりも小さくて、違うものだ。//
 しかしながら、属性的な共通性とは別に、全ての革命には固有の性格がある。
 ロシアの位置は周縁にあり、そこでの教養のある階層は、ヨーロッパと比べての後進性に覆われていた。
 革命家とは、「プロレタリア-ト」を「民衆」にしばしば置き換え、革命は道徳的に強いられるものではなくて歴史の必然だと主張するマルクス主義者だった。
 革命が起きる前のロシアに、革命的政党はあった。戦争の真只中に革命がやって来たとき、その諸政党は、周辺にいる自発的な革命的群衆の献身ではなくて、民衆革命の既成の一団(兵士、海兵、ペテログラードの大工場の労働者)の支援を求めて競い合った。//
 この著では、三つの主題が特別の重要性をもっている。
 第一は、近代化という主題だ。-後進性から脱却するための手段としての革命。
 第二は、階級という主題だ。-プロレタリア-トとその「前衛」であるボルシェヴィキ党の使命としての革命。
 第三は、革命的暴力とテロルという主題だ。-革命はいかにその敵を処理し、それはボルシェヴィキ党とソヴィエト国家にとって何を意味したのか。//
 「近代化」という用語は、後近代(ポストモダン)としばしば表現される時代には通過点だったかのごとく響き始めた。
 しかし、ボルシェヴィキが追求した工業と技術の近代性は今では見込ないほど古くさかったがゆえに、これは我々の主題とするのに適切だ。すなわち、その当時は、汚染を撒き散らす恐竜の一群のように、従前のソヴィエト同盟から東ヨーロッパまでの風景を切り刻む巨大な煙突群は、革命の夢を実現するものだった。
 マルクス主義者たちは革命よりもだいぶ前から、西側の工業化との恋に落ちていた。
 彼らは資本主義(第一義的には資本主義的工業化を意味した)の不可避性を強く主張したが、これは19世紀遅くの人民主義者(the Populists)との議論の対立の核心だった。
 ロシアでは、のちに第三世界でそうだったように、マルクス主義は革命のイデオロギーであるとともに経済発展のイデオロギーだった。//
 ロシアのマルクス主義者にとって、工業化と経済の近代化は理論上は、目的のための手段にすぎなかった。目標は、社会主義になることだった。
 しかし、ボルシェヴィキがこの手段に明白にかつ集中的に焦点を当てれば当てるほど、目標はますます曖昧になって遠ざかり、ますます非現実的になった。
 「社会主義の建設」という用語が1930年代に一般に用いられるに至ったとき、その意味を、まさに進行中だった新しい工場や工業都市の現実の建設と区別するのは困難だった。
 あの世代の共産主義者たちにとっては、大草原に煙を吐き出す新しい工場群は、革命が勝利しつつあることを最もよく誇示するものだった。
 Adam Ulam が述べたように、いかに苦痛を伴いいかに強制的であっても、スターリンが促進した工業化は、「マルクス主義の論理の完成物であって、『裏切られた革命』ではなく『達成された革命』」だった。(8)//
 第二の主題である階級は、それ自体として最重要の当事者だと受け止められたがゆえに、ロシア革命で重要だ。
 マルクス主義の分析的範疇は、ロシアの知識人層に広く受け容れられた。そして、ボルシェヴィキは、より広い社会主義諸党派の中の例外ではなくて代表的なものだった。階級闘争という観点から革命を解釈し、工業労働者に特別の役割を割り当てるならば。
 権力をもったボルシェヴィキは、プロレタリアと貧農は彼らの自然の同盟者だと想定した。
 ボルシェヴィキはまた、「ブルジョアジー」-以前の資本家、以前の貴族的土地所有者、役人たち、小規模小売店主、クラク(富んだ農民)および一定の文脈ではロシアの知識人層を広く含む-の一員たちは彼らの自然の敵対者だと完全に想定していた。
 ボルシェヴィキはこのような者たちに「階級敵(class enemies)」という用語を使った。初期の革命的テロルがまず第一に向かったのは、こうした者たちに対してだった。//
 この時期に関して最も激しく議論される階級問題の一つは、労働者階級を代表するというボルシェヴィキの主張は正当なものだったか否かだ。
 ペテログラードとモスクワの労働者階級が急進化して他のどの諸政党よりも明らかにボルシェヴィキを選好した1917年の夏と秋を一見するならば、これはおそらく、十分に単純な問題だ。
 労働者階級の支持を得てボルシェヴィキが権力を掌握したということは、その支持を永続的に維持し続けた、ということを意味しなかった。-あるいは実際には、権力掌握の前であれ後であれ、その党を工場労働者のたんなる吹き口(mouthpiece)と見なしたのだ。//
 ボルシェヴィキは労働者階級を裏切ったとの非難は最初は1921年のクロンシュタット反乱(the Kronstadt revolt)に関係して国外から行われたもので、生じざるをえない、本当であるように思える非難だった。
 しかし、いかなる裏切りなのか-いつの時点での、誰との、いかなる結果をもつ裏切りなのか?
 労働者階級との婚姻関係は内戦の終わりの時期には解体に近そうに見えたが、ボルシェヴィキは、ネップ期に継ぎ当てをしてそれを守った。
 第一次五カ年計画の間に、実際の賃金と都市の生活水準が落ちこんで、また体制が生産性のさらなる向上を強く要求したために、関係は再び悪化した。
 正式の離婚ではなくとも、労働者階級との事実上の離別は1930年代に生じた。//
 しかし、これで物語の全部が終わったのではない。
 ソヴィエト権力のもとでの労働者それ自体の状況は、一つの問題だ。
 労働者が自分をより良くする(労働者以外の何者かになる)ために利用できる機会は、別の問題だ。
 ボルシェヴィキは十月革命後の15年間、主としては労働者階級から党員を集めることによって、労働者の党だというその主張をきわめて巧く確証した。
 ボルシェヴィキはまた、労働者階級が上方へと移動する広い経路を生み出した。労働者を新たに党員にすることは、共産主義者たちをホワイトカラーの行政や経営の地位へと昇進させることと関連していたのだから。
 1920年代末の文化革命の間、体制は、多数の若い労働者や労働者の子どもたちをより高等な学校へと送り込むことによって、上昇移動への新しい経路を切り拓いた。
 困難度の高い「プロレタリアの昇進」という政策は1930年代初めに弱まったが、その影響は残った。
 スターリン体制にとって重要なのは労働者ではなく、<以前の>労働者だった。-経営および職業上のエリートの中にいる新しく昇進した「プロレタリア-トの中核」だった。
 厳密なマルクス主義の立場からすれば、このような労働者階級の上への流動は、おそらく大した関心の対象ではなかった。
 しかしながら、受益者からすると、彼らの新しいエリートとしての地位は、革命が労働者階級に約束したことを実現したことの紛れもない証拠だと思われがちだった。//
 この著で一貫している最後の主題は、革命的暴力とテロルという主題だ。
 民衆の暴力は、革命に内在的なものだ。
 革命家たちは、後の時期には留保を増やしつつも、革命の初期の段階でそれをきわめて好意的に考える傾向にある。
 テロルとは、一般民衆を脅かし恐怖に陥れる、革命集団または体制による組織的な暴力を意味する。これは、近代諸革命に特徴的なものでもあり、フランス革命がその典型を設定した。
 革命家の目からするとテロルの主要な目的は、革命の敵や変革への障害を破壊することだ。
 しかし、革命家たち自身の純粋性や革命的意識を維持するという、二次的な目的がしばしばある。(9)
 敵と反革命者は、全ての革命できわめて重要だ。
 敵は公然とはもちろん密かにも抵抗する。彼らは、策略や陰謀を企む。彼らはしばしば、革命家の仮面を身につけている。//
 マルクス主義者の理論に従って、ボルシェヴィキは階級という観点から階級の敵という観念を生み出した。
 貴族(noble)、資本家またはクラクであることは、<そのこと自体で(ipso facto)>、反革命同調者の証拠だった。
 たいていの革命家たちと同様に(地下の党組織と策略という戦前の経験があったことを考えるとおそらくたいてい以上に)、ボルシェヴィキは反革命の陰謀に神経質だった。
 しかし、彼らのマルクス主義はこれに、特殊な捻りを加えた。
 かりに革命には本来的に有害な階級があれば、一つの階級全体を敵の共謀者だと見なすことができた。
 その階級の個々の構成員は、「客観的に」反革命共謀者であり得た。主観的には(つまり彼らの心の裡では)共謀に関して何も知らず、自分たちは革命の支持者だと考えているとしてすら。//
 ロシア革命で、ボルシェヴィキは二種のテロルを用いた。すなわち、党の外部にいる敵に対するテロルと、党内部の敵に対するテロル。
 前者は革命の初期の時代に支配的だったが、1920年代に少なくなった。そして再び、集団化と文化革命の10年間の末に急に激しくなった。
 後者は最初は、内戦の終末期に党の分派闘争の間にあった可能性として散見された。だが、1927年までには消失した。その当時、左翼反対派に対する小規模のテロルが行われた。//
 そのとき以降、党内部の敵に対して大規模のテロルを行う誘惑があることが明瞭になった。
 これの一つの理由は、体制は党外部の「階級敵」に対して相当規模のテロルを用いているということだった。
 もう一つの理由は、党員たちに対する党の定期的な粛清(chistki, 字義どおりには洗浄(cleansing))が、痒い部分を引っ掻くのと似た効果を持ったことだ。
 1921年に全国的規模で最初に行われた粛清(purges)は、その忠誠性、能力、出身および社会的関係を判断する公開の場に全ての共産党員を個人的に呼び集めて、再審査するというものだった。そして、望ましくないと判断された者たちは党から除名されるか、党員候補へと引き下げられた。
 1929年に全国的な党の粛清があり、1933-34年にもう一回あった。そしてそのあと-党の粛清がほとんど偏執狂的な活動になった-、1935年と1936年にさらに二回の党員再審査が素早く続いて行われた。
 除名(expulsion)は拘禁または国外追放のような重い制裁を伴う蓋然性はあったけれども、まだ比較的に穏やかだった。この党粛清のたびに、重くなっていったけれども。//
 テロルと党の粛清(purging, 「p 」は小文字)は最終的に、結合して大規模になって、1937-38年の大粛清(the Great Purges)に至った。(10)
 これは、通常の意味での粛清ではない。党員に対する系統的な再審査は含まれていないからだ。
 しかし、これは第一段階では党員に、とくに高い地位の公職にある党員に対して向けられた。そして、拘禁と恐怖が非党員の知識人にすみやかに広がった。より少ない程度でだが、広く一般民衆にも。
 より正確には大テロル(the Great Terror)と称されることになる大粛清では、疑念はほとんど確信と同じであり、犯罪行為の証拠は必要でなかった。そして、反革命罪に対する罰は、死または労働強制収容所送りの宣告だった。
 多数の歴史研究者に、フランス革命のテロルとの類似性が思い起こされた。そして、大粛清の組織者にも同様に、明らかに類推がなされていた。大粛清の間に反革命者だと判断された者に適用される「民衆の敵」という用語は、ジャコバン派のテロリストから借りたものだったのだから。
 この、示唆的な歴史的借用の意義については、〔この著の〕最後の章で検討する。//
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 (7) この語は、Aristide R. Zolberg, '狂気のとき' <政治と社会>2:2 (1972 冬号)p.183-p.207 から借用した。
 (8) Adam B. Ulam, The Historical Role of Marxism. ウラムの <ソヴィエト全体主義の新しい顔>(Cambridge, MA(USA), 1963)所収 p.35。
 (9) このテーマにつき、Igal Halfin の<私の精神におけるテロル-裁判に関する共産主義者の自伝> (Cambridge, MA, 2003)を見よ。
 (10) 「大粛清」とは西側の用語で、ロシアのものではない。
 長年にわたってロシア語で事件に言及する公的な方法は受け入れられなかった。公式にはこれは発生していなかったからだ。
 私的な会話では、決まって遠回しに「1937年」と言及されていた。
 「粛清(p-)」と「大粛清」という名称の間の混乱は、ソヴィエトの婉曲語法に由来する。テロルが1939年の党第18回大会での半ばの拒絶によって終わったとき、表向きで拒否されたのは「大量の粛清」(massovye chistki)だった。実際には、厳密な意味での党の粛清は1936年以降は行われなかったけれども。
 婉曲語法はロシア語では短い間使われたが、それもやがて消えた。一方、英語では、それは永続的に注意を惹き続けた。
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 第4節・第四版に関するノート。
 以前の各版と同様に、この第四版は、ロシア帝国とソヴィエト同盟の一部だった非ロシアの領域でではなく、基本的にロシアで経験されたロシア革命の歴史だ。
 この限定は、今や非ロシア圏域とその民衆に関する活発で価値ある研究が発展しているので、それだけ一層、強調しておかなければならない。
 中心的な主題に関しては、この版では、最近の国際的な学界の成果はもちろん1991年以降に利用できるようになった新しい資料も取り込む。
 この著の議論の仕方や構成に大きな変更はないが、新しい情報と新しい学問上の解釈に対応して、一定の小さな変更がある。
 脚注を利用したのは、英語に翻訳されたロシアの研究書はもちろん、最近の重要な英米語の研究書にも注意を向けるためだ。ロシア語での書物や資料からの引用は、最小限にとどめた。
 選んだ参照文献一覧は、さらに読書するための簡単な案内になるだろう。
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 第一章・初期設定(The Setting)。
 (はじめに)
 20世紀の初め、ロシアはヨーロッパの大国の一つだった。
 しかし、イギリス、ドイツおよびフランスと比較すると後進的だと一般的に見られていた大国だった。
 これは経済的な観点でいうと、封建体制から抜け出してくるのが遅れており(農民層は1860年代にようやく地主または国家による法的な拘束から解放された)、工業化も遅れていた、ということを意味した。
 政治的な観点でいうと、1905年までは合法的な政党も選挙された中央の議会もなく、弱くはない権力をもつ専制体制が残存していた、ということを意味した。
 ロシアの都市は政治的組織や自己統治という伝統を持たず、貴族階層も同様に、君主に対して譲歩を強いるだけの力をもつ一体的な自己意識を発達させることができなかった。
 法的には、ロシアの臣民はまだ「身分(estate)」(都市、農民、聖職者および貴族)の一つだった。身分制度は職業人や都市労働者に関する条項を何ら定めていなかったし、聖職者だけは、自己完結的な階層の特徴に似たものをもっていたけれども。//
 1917年の革命以前の30年間、窮乏化はなく、国富は増大した。
 政府の工業化政策、外国からの投資、銀行や信用構造の近代化および国内の起業活動の緩やかな発展の結果として、ロシアが急速な経済成長を経験したのは、この時代だった。
 革命の時期にロシアの総人口の80パーセントをまだ構成していた農民層は、その経済的地位に関して目立った改善を経験していなかった。
 しかし、当時のいくつかの見解とは対照的に、農民層の経済条件が絶え間なく悪化していくということは、ほとんど確実に、なかった。//
 ロシアの最後の皇帝であるニコライ二世は悲しくも、専制体制は知らぬ間に迫り来る西側からのリベラルな影響と闘っていることに気づいた。
 政治的変化の方向-西側の立憲君主制のようなものに向かう-は明確であるように見えた。教養ある階層の多くの構成員たちは変化の遅さに耐えられず、頑固な障害物は専制体制の側の態度だったけれども。
 1905年の革命の後、ニコライは譲歩して全国的に選出される議会、ドゥーマ(the Duma)を設置し、同時に政党と労働組合を合法化した。
 しかし、古い専制体制の支配の恣意的な習慣と継続した秘密警察の活動は、こうした譲歩を骨抜きにした。//
 1917年の十月革命の後で、多くのロシア人亡命者(エミグレ)は革命前の時代は前進していた黄金の時代だったと、だがこの時代は(こう思われたのだが)第一次大戦または手に負えない暴徒、あるいはボルシェヴィキによって妨害されたのだと、振り返った。
 進展はあったが、それは社会の不安定さと政治的変革の蓋然性に大きく寄与した。すなわち、社会の変化が急速であればあるほど(その変化が進歩的か逆行的かのいずれであれ)、社会はますます安定性を失っていく趨勢にあった。
 もしも我々が革命前のロシアの偉大な文学作品を思い浮かべれば、最も生々しいイメージは、転位感、疎外感および自己の運命を支配できないこと、といったものだ。
 19世紀の作者の Nikolai Gogol にとって、ロシアは見知らぬ目的地へと暗闇の中を疾走している馬車だった。
 ニコライ二世とその閣僚たちを公的に批判したドゥーマの政治家の Aleksander Guchkoiv にとっては、ロシアは狂った運転手が運転して断崖の縁に沿って進んでいる車だった。その車の中で恐怖に怯える乗客は、車輪を抑える危険性について議論している。
 1917年に、危険は冒された。そして、前方向へのロシアの大胆な動きは、革命へと突入することになる。//
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 以上、序説の第3節と第4節、および第一章の「はじめに」が終わり。

1798/内閣の法律案提出権-池田信夫の5/08ブログ。

 一 国会-行政権(内閣以下)-司法権(最高裁判所以下)、権力分立または三権分立。
 上を<水平的分立>といい、<国-地方>または<国-都道府県-市区町村>のことを<垂直的分立>と称することがある。
 後者は「国」といっても、実質的には国の行政権を意味することが多いだろう。
 というのは自治体(法令用語では「地方公共団体」またはその一部)は国の立法(法令)に原則として拘束され、自治体には裁判所はなく、国の司法権(裁判所)の判決に服するしかないからだ。
 以上にはすでに現行法制を前提とした説明が入っているが、ゼロから「国制」(constitution, Verfassung=憲法という語の別の訳語)を考え直す場合は、種々の基本設計があり得る。
 例えば、内閣総理大臣(首相)とは別に実質的に最高行政権者としての大統領を置くか、裁判所制度内に通常の裁判所系統とは異なる憲法裁判所を置くか(ドイツ・韓国にはある)、あるいは軍事裁判所は必要ないのかどうか、等々。
 二 池田信夫の5/08「劣化した国会を正常化する二つの方法」は、部分的には憲法改正の問題にも発展するが、現行法制の問題にも関係する。
 池田のいう二つの一つは、議員立法を増やすことだ。野党は憲法違反の「閣法」はやめよと主張してはどうか、とすら書く。
 「閣法」とは内閣が(国会に)提案した法律案または成立した法律のことで、衆議院議員・参議院議員(但し、一議員では現行法制上はダメ)が提案した法律案または法律は「衆法」・「参法」とかいうらしい。
 これらはたんに第三者的または便宜的な呼称ではなく、国会に上程されている法律案の種類を示すために国会またはその議事運営にかかる実務上の用語として使われているのではないかと思われる。
 内閣が法律案提案権を有するか否かは、池田が言及するように憲法41条との関係で問題になる。
 現憲法は内閣の「予算」作成・国会提出権を明記するが(73条5号)、「法律案」または「法案」に関しては沈黙しているようだ(同1号は法律を「誠実に執行」することを内閣の権能の第一に挙げる)。
 しかし、現在は(現憲法下ずっと)法律レベルでこれを明記して認めている。
 内閣法5条内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し、一般国及び外交政策について国会に報告する」。
 この条項は、内閣の「法律案」国会提出権能を明示的に認める。
 したがって、「閣法」が違憲という主張は、この現内閣法5条の一部が違憲だという主張になる。
 この点はすでに現憲法施行時に議論があり、内閣が提出するのはあくまで「案」で、国会は最終的に可決も否決もできるので、憲法41条が定める国会の「唯一の立法機関」性に反するわけではないと、政府もおそらくは憲法学界の大勢も解釈してきた。
 これは戦前の実際を連続させたものなのだろう。
 法律の制定「過程」に行政権が関与しても「結果」自体は国会が生み出すならば、国会はなお「唯一の立法機関」だ、と説明されることになる。
 この解釈はなかなか動かし難いように見える。
 三 そうなると、いわゆる議員立法をもっと増やすよう運用することが大切で(上の条項はもちろん内閣の排他的な法案提出権を認めるものではない)、そのための衆議院法制局・参議院法制局の強化、何よりも、国会議員の「立法」技術と能力の向上が必要だ。
 しかし、法制局等の力を借りてでも「法案」を書ける、作れる議員が実際にいかほどいるかは、現在では、相当に疑わしい。「法案」作成のための見識・能力などによって有権者は議員候補を選択しているわけではないし、それを「売り」にする候補がいたというのも聞いたことがない。
 <国会-行政>のやりとりが<野党-政府・与党>のやりとりになって久しい。ほとんどずっとそうだろう。国会・行政の間の<権力分立>の理念は実際には形骸化している。
 立法府・議会優位の建前とは異なる「行政権」の実質的優位はどの国でも広く見られるようで、政治学・行政学では「行政国家」化現象と言うらしい。
 これを改善する妙策はあるだろうか。
 現状にどっぷりと浸かって、それを前提に<生きていく>ことを考えている者たちは、現状とは異なる世界もあり得る、という発想がそもそも湧かないだろう。
 議会-行政の関係についてもそうだ。
 そしてまたこれは、日本の国会議員なるものの成り立ち・出身にも大いに関係しているに違いない。一概に「二世」議員がいけないということはできないが、数的に多すぎる感じがあるのは事実だろう。また、落選しても困らない(生活に支障が出ない)職を持つ者、とくに弁護士は、とくに野党に多いようだ。この点、落選すればいちおう困るだろうが、上級官僚出身者はどちらかというと自民党の方に多い。
 職業選択の自由を持ち出さなくとも、国会議員への「新規参入」の途を広げる工夫が必要だ。しかし、国会自体に期待することはたぶん全くできず、これは日本の「政党」、とくに自民党の<リクルートの仕方>の問題なのかもしれない。
 地方議会の議員については、また別の問題もある。

1797/「前衛」上の日本共産党員⑮-2018年03月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2018年03月号による。
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 本 秀紀/名古屋大学教授-安倍改憲の特質。
 山口智美/モンタナ州立大准教授-政権・「右翼」の「歴史戦」孤立と改憲。
 丹波史紀/立命館大学准教授-福島県双葉避難住民。
 鳥畑与一/鳥取大学教授-成長戦略と地域銀行。
 建部正義/中央大学名誉教授-ビットコインの「実像と虚像」。
 久保田和志/弁護士-埼玉九条俳句訴訟。
 神川喜夫/教育ジャーナリスト-大学入試改革迷走と高校教育改革。
 村田 武/九州大学・愛媛大学名誉教授-日本農業の構造改革。
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 以上。別の号につづく。

1796/池田信夫5/04ブログと「国民党」・憲法九条。

 池田信夫5/04「平和憲法が野党をダメにした」によると、新しい「国民党」の綱領には「違憲の安保法制の白紙撤回」や「解釈改憲を許さない」があるそうだ。
 池田とともに、やれやれという感じがする。
 昨年9月、もう半年以上も前になるが、毎日新聞の第二面あたりに、「保守かリベラルか」という大きなタテの見出しがあった。
 それは当時の民主党の代表選挙が前原誠司と枝野幸男の闘いになると報じるもので、前原=「保守」、枝野=「リベラル」と旧民主党内を位置づけ又は「色分け」していたわけだ。
 保守とリベラルという語のこういう使い方が印象に残ったのだった。それはともかく、9月から10月にかけての民主党や総選挙に関するコメントの中で共感できたのは、池田信夫によるものだった。
 原典、ソースの確認は厳密に行って、典拠は示してきたつもりだが、ここでは端折る。
 池田は、民主党が割れて反共・非共と容共の違いが明瞭になるだけでも意味がある、そういう形で選挙が行われるだけでも今回の(昨秋の)総選挙の意味はある(それだけてもよい)という趣旨のことをブログで(どの欄だと特定しないが)書いていた。
 これに秋月瑛二が同感できるのは、<反共・非共>対<容共+共産党>こそが現在の日本の最大の対立軸だと考えているからだ。後者は、私のいう「左翼」だ(とくに菅直人が首相のときの民主党は、民主党全体が「左翼」だと考えてきた)。
 そして、より具体的には、国会等々において日本共産党と「共闘」してもよい、又はそうすべきだ、とするのが「容共」=「左翼」だ(旧社民党で小選挙区当選のために旧民主党に移った辻元清美、何と東京大学名誉教授の上野千鶴子等々、いっぱいまだいる)。
 そういう民主党の中で<反共・非共>の旗幟を明確にしたい議員たちがいたのはよいことで、前原が代表となり、総選挙も想定して、小池百合子の「希望の党」と合流することとなった。
 このとき、安倍晋三首相・自民党総裁は、こう皮肉り、あるいは挑発した。
 <選挙目当ての野合ではありませんか!
 この言葉は、正確には奇妙なことだ。
 なぜなら、自民党こそが、最大の「選挙目当ての」、あるいは議員やそれになりたい者たちが「選挙での当選」を最優先にして入党し、そのような者を軸にしていくつかの集団を作って「野合」している政党だからだ。
 この安倍晋三発言(・演説)のたぶん翌日だっただろう、小池百合子はこの発言を意識していたに違いない。そこで、こう言った。
 民主党議員を<丸ごと受け入れるのではない。(一部は)排除します。
 新党・希望の党に吹いていた風向きがここで変わったようだ。
 しかし、どう真面目に考えても、(旧)民主党内の明確な<容共>または明確な<反・保守または自民党>の議員全てを取り込んだ新しい党というのは想定し難い。
 小池百合子は「改革保守」、「しがらみのない保守」を目指すと、明確に発言していた。
 したがって、「排除」であれ「拒否」、「区別」であれ、論理的には全く問題はないものだった。
 しかし、この言葉に<傲慢さ>を感じたのだろうか、「言葉」の揚げ足取りを好む日本のマスコミは「排除」という語をしきりと報道した。
 そしてむしろ関心は、新党ではなく、新々党である「立憲民主党」へとさらに移ってゆき、野党の中では枝野幸男を党首とする立憲民主党が第一党になってしまった。
 当時、池田信夫のブログをよく見ていたのだが、こうした状況の変遷をよく感じ取れた。
 そして、いつだったか、池田は、<今回の総選挙は、政治的には一回休み(だった)>と書いた。
 これにもまた、同感できた。
 ほとんど変わらなかった。大きくは変わらなかった。
 しかし、重要な一つは、上記のように「改革保守」・「しがらみのない保守」を標榜した<希望の党>が惨敗したことだ。なぜだったのだろうか。
 この「保守」色が<なんとなく左翼>を含む一般有権者に嫌われた可能性もあり、また立憲民主党に新鮮さを感じた人たちも多くいたのかもしれない。
 しかし、その理念から見て、<希望の党>と立憲民主党は基本的に異質だったはずなのだ。同じ<新党>という名で括れるようなものではなかった。
 また、昨年前半にはあった小池百合子ブーム的なものは、<本来の保守>だと自らを考えている日本会議や産経新聞主流派には気にくわなかった可能性がすこぶる高い。
 日本会議・産経新聞主流派は政治運動の中での「保守」運動の主流・中心だという(自分たちはそう考えている)位置を奪われてしまう危険を感じたのだ。
 危険は、小さいときに摘み取っておくにかぎる。
 そこで、<保守系>月刊雑誌にも、立憲民主党や共産党よりもむしろ<小池百合子>を批判し警戒する論考や記事が多くなった。
 いちいち立ち入らないが、当時の月刊正論、月刊Hanada等を見れば明らかだろう。
 櫻井よしこはこの当時以前から、小池百合子に対する敵意を丸出しにしていた。
 政治運動団体・日本会議の基本的な考えにそったものだと思われる。
 また、中国問題等々でかなりよい発言等をしていた有本香までもが、編集者・出版者に依頼されたからだろう、反小池百合子の論考や書物を書くに至った。
 日本会議・産経新聞主流派の<保守系>評論家に対する影響は大きい、と言わなければならないだろう(その例は、江崎道朗にも見られる)。
 産経新聞の表向きの姿勢は別として、少なくとも日本会議の幹部たちの関心は、共産党でも立憲民主党でもなく、自民党を大きくは減らさないこと、そして小池百合子(=希望の党)を大きくさせないことにあった、と推察させる。
 日本会議という特殊な政治団体という「ピース」に気づいてそれを嵌めて、初めて理解できることが秋月にはある。
 なぜ、産経新聞社発行の月刊正論の編集代表者・桑原聡は、あれほどまでに橋下徹を危険視したのか
 さらに別の機会に書く。要するに、彼らは自分たちの影響力の外で「保守」と名乗る又は「保守」だと評される者の存在を認めたくないのだ。
 小池百合子のいった「しがらみのない保守」とは何だったのか?
 自民党にいた小池だから、いろいろなことを知っているに違いない。そしてすでに当時に秋月はこう意識したものだ。すなわち、「しがらみ」=日本会議の影響ではないとしても、「しがらみ」の中には安倍晋三等(日本会議関係国会議員)と日本会議の間のそれも含まれているに違いない、と。
 安倍内閣が昨8月頃に支持率を落としていた背景の一つは、「お友だち」つまりは稲田朋美等の日本会議と親近的な議員を閣僚や自民党の要職の就けている、という印象だったと思われる(そして、小池百合子は安倍総裁のもとでの自民党では「疎外」されていた)。
 なお、これまた特定の手間を省くが、八幡和郎は選挙後に、「希望の党」がもっと増えていた方が憲法改正は容易になったとだろうブログで書いていた。この感想も、池田信夫のそれとともに的確だろう。
 総選挙結果に関するもう一つの重要なことは、日本共産党は議席を減らしたが大敗したわけでもなく、日本共産党が候補者を立てなかった選挙区でかなりの立憲民主党の候補者が当選したことだ。つまり、現在の立憲民主党国会議員には共産党員や本来は同党支持者の票が入っている。
 そして、日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、こう明言した。
 <志を同じくする候補が多く当選したのはよいことだった(決して悲観しない)>、と。
 日本共産党からすれば、立憲民主党は<志を同じくする>党と見られていることに注目しなければならない。
 この「志」というのは、社会主義(・共産主義)への道というわけではなく、現時点では、2015年成立の平和安全法制は違憲だと言い続け、<九条改憲を許さない>と主張する姿勢に間違いないだろう。立憲民主党というのはこの点では日本共産党と同じで、紛れもなく<容共>政党であると認識しなければならない。
 かくして、憲法問題では、共産党・立憲民主党・社民党・自由党という共産党と「左翼」政党が明確に揃い組みすることになった。
 ここで今回の冒頭に戻るが、玉木雄一郎らの「国民党」なるもの所属の議員たちが、昨年の民主党分裂の意味を忘れ、一体何のための分党で、何のための「希望の党」設立だったのかを放念しているのだとすれば、見識と良識、人としての倫理感の欠如を疑わせる。
 池田信夫が指摘するように、「憲法」でしか自民党と差別化できない野党というのは、きわめて存在意義が薄い。
 あらためて書いてもよいが、九条をめぐる「改憲」か「護憲」(または改悪阻止)かは、現在の日本の基本的な対立軸では全くない、と考えるべきものだ。
 そのように対立軸を設定してきたのは、憲法学界に党員や支持者を多く獲得することを地道に?積み上げてきた日本共産党の戦略そのものだ。
 日本共産党は、「憲法」を利用して、あるいはそのいう「平和と民主主義」を利用して、党員や支持者、そして選挙での票を獲得し、拡大しようとしてきたのだ(その長い闘争のわりには、それはまだ完全には成功していない、とは言える)。
 憲法九条をめぐる対立は現在の日本にとって決して最大の、あるいは本質的な問題ではない。いや、正確に言えば、九条二項の廃止・国防軍の設置に賛成か反対かではなく、二項存置「自衛隊」明記に賛成か反対かというのは、全くとるに足らない、馬鹿馬鹿しい、非本質的な、「とんちんかんな」議論を生じさせている、ニセの対立点だ。
 すでに内閣法制局、そして内閣の憲法解釈が変わり、2015年の国会・両議院もまた、その解釈を支持して平和安全法制を成立させ、施行させた。<フルスペックではない>にしても現憲法下でも限定的な集団的自衛権の行使はできることに、法制上なっており、現在の国会も内閣もこれは違憲ではないと判断している。
 新しい「国民党」は、これをいったいどうしたいのか?
 かつまたこれを論じることに、いま、どのような意味があるのか。
 日本共産党が今でも自衛隊の存在自体が違憲だと主張し続けているように、立憲民主党同様に「国民党」もまた、2015年平和安全法制について「違憲の安保法制の白紙撤回」と主張し続けるつもりなのか。バカバカしい。
 ついでに追記しておく。
 枝野幸男は自衛隊の憲法明記は2015年平和安全法制による「集団的自衛権行使の容認」を憲法が容認することになるから(二項存置)自衛隊明記に反対する、と言った。
 また、小池百合子は、自信たっぷりではなかったが、現在防衛省の中の重要だが一部署であると言うしかない自衛隊を(防衛省設置法を飛び越えて)憲法上のものにするのは奇妙だ、と昨秋に述べていた。
 この二つの議論は、いずれもおかしい。憲法・法律の関係、憲法解釈というものが分かっていない。「とんちんかんな」議論がすでにいっぱい始まっている。
 今回は立ち入らない。
 青山繁晴、高市早苗のように、二項存置「自衛隊」明記論に反対し、二項自体の削除を支持することを明確にしている自民党国会議員もいる。こちらの方が「正しい」方向だろう。
 (二項存置)「自衛隊」憲法明記についての自民党の条文案では、「自衛隊」に関する違憲・合憲論争に「終止符を打つ」ことは絶対にできない。かつまた、違憲・合憲論争をかえって刺激して大きくすることになる。自信をもって、確言できる。
 この点は機会があればまた書きたいが、国民投票の現実的可能性等々も勘案すると、大きな関心はなくなっている。

1795/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)①。

 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 =Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 これの2017年版によって、訳を試みる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。<>内は斜字体になっている書物のタイトル。なお、連続して掲載することは予定していない。
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 序説
 (はじめに
 アメリカのニクソン大統領が1972年に中国を訪れていたとき、会話がほとんど二世紀前のフランス革命に移った。
 周恩来首相は革命の影響を論評するように求められて、語るのは早すぎる、と答えた、という伝説がある。
 彼はおそらく質問を誤解し、1968年のパリ事件のことを尋ねられていると考えた、ということが判明した。しかし、どんな場合でもそう語るのは、よい答えだっただろう。
 大きな歴史的事件の影響について語るのは、つねに早すぎる。その影響は静態的でなく、現在の状況や我々自身の過去の変化に関する立脚点に応じて恒常的に変化しているのだから。
 同じことはロシア革命についても言える。これに関する記憶はすでに長い季節の移ろいを通り抜けており、かつ疑いなく将来にもまたもっと多く通り抜けるだろう。
 この著<ロシア革命>の第二版(1994年)は、劇的な事件の荒波-共産主義体制の崩壊と1991年末のソヴィエト同盟の解体-の中で出版された。
 この事件は、ロシア革命に関する歴史学者にとってあらゆる種類の重要な意味をもった。
 これは以前は閉ざされていた書類庫を開き、引き出しの中に隠されていた回想録を持ち出し、あらゆる種類の、とくにスターリン時代とソヴィエトによる抑圧の歴史に関する、洪水のごとき新しい資料を解放した。 
 その結果として、ソヴィエト後を含む歴史学者は1990年代と2000年代はとくに生産的で、また国際的な学術世界と改めて再連結した。
 第三版(2008年)で増加させた文献一覧は、殺到したこの新しい情報を反映している。
 今やこの第四版とともに、ロシア革命後一世紀(100年)に到達した。
 一世紀後というのは、再評価するには分かりやすい時期だ。しかし、奇妙だが、そのような試みをしようという熱意は、ロシアにはほとんどない。
 ソヴィエト後のロシアは、新しい国民の一体性の根拠としての有用な過去を必要としている。
 問題は、どの程度に革命がそれに適しているかを見分けることだ。
 スターリンは、比較的容易に、国家建設者だと、そして、第二次世界大戦で偉大な勝利を収めたロシア(ソヴィエト同盟)の指導者で、戦後の超大国への上昇の監督者だと、説明をつけることができる。
 しかし、現代のロシア人がレーニンとボルシェヴィキについてどう考えるべきかを知るのは、そう簡単ではない。//
 ロシア人とその他の旧ソヴィエトの市民にとって、ソヴィエト同盟の崩壊は革命の意味を根本的に再検討することを意味したはずだ。(1)
 以前はこの革命は、世界の「最初の社会主義国家」を生んだ基底的事件だったと称揚され、今は多くの者によって、74年間も正当な道からロシアを逸脱させた過ちだったと見られている。
 西側の歴史学者は難なく適応したが、彼らの見方は、ソヴィエト同盟の崩壊によるのと同様に冷戦の終わりによって微妙に変わった。
 砂塵はまだなお、精神上の再設定によって静められなければならない。
 しかし、一つのことだけは、明白だ。
 ロシア革命の意義に関するかぎりは、明確に語るのはまだ早すぎる。そして、この革命が現代ヨーロッパと世界の歴史の重大な分岐点だったと真面目に考察され続けているかぎりは、ずっとそうだろう。
 この著書は、ロシア革命の物語を叙述し、当事者によって観察された諸事態を明確にしようとする。
 しかし、ロシア革命の意味は、フランス革命のそれのように、際限なく議論されていくだろう。//
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 (1) 革命と名づけることすら、複雑になった。「ロシア革命」という用語は、ロシアでは決して使われなかった。多くのロシア人が今では避けるソヴィエトの用語法では、それは「十月革命」またはたんに「十月」だった。ソヴィエト後に好まれる用語は「ボルシェヴィキ革命」であるように見える。
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 第一節・革命の時期的範囲。
 革命とは複雑な社会的政治的大変革なので、革命に関して執筆する歴史学者は最も基本的な問題について-原因、革命の目標、社会に対する影響、政治的結果、そして革命の時間的範囲自体についてすら-、異なってこざるをえない。
 ロシア革命の場合は、開始時点を提示することに問題はない。
 ほとんど誰もが、1917年の「二月革命」のときだと考える。これは皇帝ニコライ二世の退位と臨時政府の成立をもたらした。(2)
 しかし、いつロシア革命は終わったのか?
 ボルシェヴィキが権力を掌握した1917年10月に全てが終わったのか?
 あるいは、ボルシェヴィキが内戦に勝利した1920年に革命は終わるに至ったのか?
 スターリンの「上からの革命」はロシア革命の一部だったのか?
 それとも、革命はソヴィエト国家が生存し続けている間ずっと継続していた、と我々は理解すべきなのか?//
 Crane Brinton はその著<革命の解剖学>で、革命は急激な変化を求める情熱と熱狂が増大する段階を経て、強烈さが最頂点に到達し、その後に幻滅という「テルミドール」段階がつづき、革命の活力は減少し、秩序と安定の回復への緩やかな移行となる、という考え方を述べた。(3)
 Brinton の分析の基礎にあるのと同じフランス革命モデルを抱いていたロシアのボルシェヴィキは彼ら自身の革命の「テルミドール」的衰亡を怖れ、内戦の終期にそれが起こったのではないかと半分は懸念した。そのとき彼らは、経済の破綻によって、1921年の「新経済政策」(NEP)の導入が画する「戦術的退却」をすることを強いられた。//
 しかしなお、ロシアは1920年代の終わりに、新しい大変革に突入した-スターリンによる「上からの革命」であり、第一次五カ年計画、農業の集団化、および最初は古い知識人に対して向けられた「文化革命」による産業化への強い志向を伴っていた。
 これの社会への影響は、1917年の二月革命、十月革命や1918-20年の内戦よりすらも大きかった。
 古典的なテルミドールの徴候を明瞭に認識することができたのは、この大変革が1930年代早くに終わってようやくのことだった。すなわち、革命的な情熱と戦闘性は減退した。そして、新しい政策は、秩序と安定の回復、伝統的な価値と文化の再生、新しい政治的社会的構造の強化をしようとした。
 しかしこのテルミドールですら、革命による大変革の終わりを告げるものではまったくなかった。
 最終の内部的激動、初期の革命的テロルの大波よりすらも激しい破壊があり、1937-1938年の大粛清(the Great Purge)が、多数の古いボルシェヴィキ革命家を一掃し、政治上、行政上および軍事上のエリートたち内部での大規模の人的な再編成をもたらし、百万以上の人々を殺し、またはグラクへと投獄した。(4)//
 ロシア革命の時期的範囲を決定するに際しての第一の論点は、1920年代のネップという「戦略的退却」の性質だ。
 これは革命の終わりだったのか、あるいは、そのように考えられていたのか?
 ある範囲の研究者たちは、レーニンは最後の日々に(彼は1924年に死んだ)、社会主義に向かうロシアの更なる前進は、徐々に、民衆の文化レベルを高めることによってのみ達成できると信じるようになった、と考える。
 しかしながら、ロシア社会はネップ期の間、きわめて移ろいやすく不安定であり続けた。
 ボルシェヴィキは反革命を怖れ、国内および国外の「階級敵」による脅威を懸念したままでいて、ネップへの不満足やネップを革命の最終的成果だとする理解への気乗り薄さを恒常的に表明していた。//
 考察すべき第二の論点は、1920代遅くにネップを終わらせたスターリンの「上からの革命」の性質だ。
 ある範囲の研究者たちは、スターリンの革命とレーニンのそれとの間には本当の(real)継続性は何らなかったという考えを拒否する。
 別の研究者たちは、スターリンの「革命」はその名に値しない、と感じる。民衆的蜂起ではなく、急進的な変化を狙う支配政党による社会に対する攻撃のようなものだ、と考えるからだ。
 私はこの著で、レーニンの革命とスターリンのそれの間にある、継続する線をたどる。
 スターリンの「上からの改革」をロシア革命に含めることについて言えば、これは歴史研究者によって異なって当然の問題だ。
 しかし、ここでの論点は、1917年と1929年は似たものか否かではなく、共通する過程の一部なのか否か、だ。
 ナポレオンの革命戦争は、フランス革命に関する我々の一般的観念の中に含めることができる。それを1789年の精神を具現化したものだと見なさないとしても。
 同様の接近方法は、ロシア革命の場合について正当であるように思える。
 常識的な用語法では、革命は、旧体制と新しい体制の確立との間の大変革と不安定の時期という意味とつながる。
 1920年代遅くには、ロシアの永続する外形はまだ明らかになる必要があった。//
 判断すべき最後の論点は、1937年-1938年の大粛清はロシア革命の一部だと考えるべきか否か、だ。
 これは革命的テロルだったのか? それとも、根本的に異なる種類の-おそらくは固く揺るぎない体制の体系的な諸目的に役立つテロルを意味する、全体主義的テロルという種類の-テロルだったのか?
 私の見解では、これら二つの性格づけのいずれも、大粛清を十分には描写していない。
 それは独特の現象であり、まさしく革命と革命後のスターリニズムの境界に位置するものだ。
 それは修辞、攻撃対象および加速していく進展の点で言えば、革命的テロルだ。
 しかし、構造ではなく人身を破壊し、指導者個人そのものを脅かさなかった点では、全体主義的テロルだ。
 スターリンによって始められた国家テロルだということは、ロシア革命の一部であるとすることを妨げはしない。結局のところは、1794年のジャコバンのテロルも同じ観点から描写することができる。(5)
 二つの事件のもう一つの重要な類似性は、どちらの場合も革命家たちが主要な破壊対象の中にいた、ということだ。
 劇的な理由だけでも、ロシア革命の物語は大粛清を必要とした。フランス革命の物語がジャコバンのテロルを必要としたのとちょうど同じように。//
 この著では、ロシア革命の時期的範囲は、二月革命から1937-1938年の大粛清までだとする。
 異なる諸段階-1917年の二月革命と十月革命、内戦、ネップという幕間、スターリンの「上からの革命」、その「テルミドール」的余波、および大粛清-は、20年間の革命の過程での別々の期間として扱われる。
 この20年が終わるまでに、革命のエネルギーは完全に費やされ、社会は疲れ切った。支配する共産党ですら、変革に飽きて、「正常さへの回帰」という一般的な切望を共有した。
 確かに、正常さ(Normalcy)は、まだ回復可能だった。ドイツの侵略とソヴィエトの第二次大戦への参戦開始は、大粛清のようやく数年後にやって来たのだから。
 戦争はさらなる激変を生んだが、少なくともソヴィエト同盟の1939年以前の領域に関するかぎりでは、もはや革命ではなかった。
 それは、ソヴィエトの歴史上の、革命の後の新しい時代の始まりだった。//
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 (2) 1918年に暦が変わる前の日付は旧歴で示す。この旧暦は1917年では、ロシアが1918年に採用した西欧暦よりも13日遅れる〔秋月注=進むのが遅い。=数字は少ない。〕
 (3) Crane Brinton, The Anatomy of Revolution (rev. ed; New York, 1995).
 (4) 後述、p.167 参照。
 (5) 私の国家テロルに関する考え方は、かなりの程度 Colin Lucas の論文、「革命的暴力、民衆とテロル」、in : K. Baker (ed.), The French Revolution and the Creation of Modern Political Culture [フランス革命と近代政治文化の創出], Vol. 4; The Terror [テロル], (Oxford, 1994) に負っている。
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 第二節・革命に関する書物。 
 解釈者にとって、革命ほどイデオロギー上の論争を刺激するものはない。
 1989年のフランス革命200周年に注目を向けさせたのは、例えば、何人かの研究者と評論者が、革命を歴史という塵の堆積物にすべく、解釈の長い対立を終わらせようと果敢に試みたことだった。
 ロシア革命についてはより少ない歴史文献しかないが、しかしそれはおそらくたんに、それに関して書くには一世紀半もまだ経っていないことによる。
 この著の最後にある選抜参照文献一覧で、私は最近の研究作業に注目し、ロシア革命に関するこの10-15年間の西側による研究の進展を反映させた。
 ここで、時代に関する歴史的展望についての最も重要な変化を概述し、ロシア革命とソヴィエトの歴史に関するいくつかの古典的著作の特徴を述べよう。//
 第二次大戦前の西側では、職業的歴史研究者がロシア革命について書くことは多くはなかった。
 多数の目撃者の報告資料や回想録があったが、その中で最も有名なのは、John Reedの<世界を震撼させた10日間>だった。もちろん、W. H. Chamberlin や Louis Fischer のような評論者が書いた、秀れた歴史叙述書はいくつかあった。彼らの<世界情勢の中のソヴィエト>は、一つの古典であるままだ。
 最も長いあいだ影響を与えた解釈に関する著作は、レオン(レフ)・トロツキー(Leon(Lev) Trotsky)の<ロシア革命の歴史>と、同じ著者の<裏切られた革命>だった。
 第一のものはソヴィエト同盟から追放された後だが政治的論争書として書かれておらず、当事者の視点からする1917年の分析を生き生きと描写している。
 第二のものは1936年にスターリンの犯罪を追及すべく書かれたもので、明らかになっていたソヴィエトの官僚主義階層の支持をうけた、かつ本質的にはブルジョア的価値観念を反映する、テルミドール的なものとしてスターリン体制を描写する。//
 戦前にソヴィエト同盟で書かれた著作の中で栄誉ある地位を占めるのは、スターリンの厳密な監視のもとで書かれて1938年に出版された、悪名高き<ソヴィエト共産党の歴史に関する短期講座>だ。
 読者は推測するだろうように、これは学問的著作ではなく、ソヴィエト史の全ての論点に関する正しい「党の基本方針」-すなわち、全党員によって学び取られ、全学校で教育されるべき正統(the Orthodoxy)-を設定することを意図したものだ。その論点の範囲は、ツァーリ体制の階級的性質や内戦で赤軍が勝利した理由から、「ユダヤのトロツキー」が率いて外国の資本主義勢力が支援した、ソヴィエト権力に対する共謀にまで及ぶ。
 ソヴィエト時代には、<短期講座>のような作品の存在は、生産的な学問研究の余地を多くは残さなかった。
 厳格な検閲と自己検閲は、歴史に関するソヴィエト職業人にとって日常のことだった。//
 ソヴィエト同盟で1930年代に確立するようになり、少なくとも1950年代半ばまで権威をもち続けたボルシェヴィキ革命の解釈は、ありきたりの公式的なマルクス主義だ、と叙述してよい。
 鍵となる要点は、十月革命は真のプロレタリア革命で、ボルシェヴィキはプロレタリア-トの前衛として奉仕した、そして革命は未成熟なものでも偶然でもなかった-それが生起したのは歴史法則に支配されている-ということだ。
 歴史法則(zakonomernosti)は、重要だとしてもうまく明瞭にできないが、ソヴィエト史上の全てを決定した。このことは実際上は、大きな政治決定は全て正当(right)だった、ということを意味した。
 現実ではない政治史が書かれた。レーニン、スターリンおよび若くして死んだ数人以外の全ての革命指導者は、革命に対する反逆者だと暴露され、「人に非ざる者」に、すなわち活字で言及することのできない者になったのだから。
 社会史は、事実上はこれらだけが演者であり題目である、労働者階級、農民層および知識人層という階級の用語法で書かれた。//
 ソヴィエトの歴史は西側で、第二次大戦の後にようやく強い関心事になった。主としては、敵を知るためという冷戦の文脈の中でだった。
 基調を設定した二つの書物は小説で、George Owell の<一九八四年>と Arthur Koestler の(1930年代遅くの年配のボルシェヴィキに対する大粛清裁判に関する)<真昼の暗闇>だった。しかし、学問の分野を圧倒したのは、アメリカ政治学だった。
 ナチ・ドイツとスターリンのロシアをいくぶん悪魔化して合成した全体主義モデルは、最も知られた解釈上の枠組みだった。
 これは、全体主義国家の全能性とそれがもつ「支配のための梃子」を強調し、イデオロギーや虚偽宣伝活動にかなりの注意を向けた。そして(消極的で、全体主義国家によって断片化されたと見られた)社会の分野はかなり軽視された。
 西側のたいていの研究者は、ボルシェヴィキ革命は少数党によるクー(coup)だ、いかなる種類の民衆の支持も受けず、正統性もない、ということで一致した。
 革命は、そしてそのためのボルシェヴィキ党の前史は、主としてソヴィエト全体主義の起源を説明するために研究された。//
 1970年代以前には、ロシア革命を含むソヴィエト史を敢えて研究する西側の歴史学者はほとんどいなかった。それは一つは、主題がとても政治的な負荷を帯びているからであり、また一つは、公文書や第一次資料に接近するのがきわめて困難だったからだ。
 イギリスの歴史研究者による二つの先駆的な著作は、記しておくに値する。
 E. H. Carrの<ボルシェヴィキ革命 1917-1923>は彼の複数巻の<ソヴィエト・ロシア史>の最初のもので、1952年に刊行された。そして、Isaac Deutscher のトロツキーに関する古典的人物伝の最初の巻である<武装せる予言者>は、1954年に出版された。//
 ソヴィエト同盟では、1956年の第20回党大会でのフルシチョフによるスターリン弾劾とそれに続く部分的な脱スターリン化によって、歴史再評価の入り口がある程度は開かれ、学問研究の水準が高められた。
 公文書にもとづく1917年や1920年代の研究が出現し始めた。但し、例えば労働者階級の前衛だというボルシェヴィキ党の地位に関して、遵守されるべき制約と教条がまだあったけれども。
 トロツキーやジノヴィエフのような人に非ざる者(non-persons)に論及することも可能になったが、それは侮蔑的な文脈でのみだった。
 フルシチョフの秘密報告が歴史研究者に提供した大きな機会というのは、レーニンとスターリンを分別する、ということだった。
 ソヴィエトの改革志向の歴史研究者たちは1920年代に関する多数の書物と論文を生み出して、様々な分野での「レーニン主義規範」はスターリン時代の実際よりも民主主義的で多様性により寛容で、強制性と恣意性がより少なかった、と論じた。//
 西側の読者にとって、1960年代および1970年代の「レーニン主義」傾向を示す代表例は<歴史に判断させよ>の著者、Roy Medvedev であり、<スターリニズムの起源と帰結>は西側では1971年に発行された。
 しかし、Roy Medvedev の著作はブレジネフ時代の雰囲気のためにスターリンに関して厳しすぎ、明らかに批判的すぎる。そして彼は、ソヴィエト同盟ではこれを出版することができなかった。
 これは、samizdat (原稿のソヴィエト同盟内部での非公式の流通)や tamizdat (外国での書物の非合法出版)が花咲いた時代でのことだった。
 この時期に現れた最も有名な反体制著作者は、Aleksander Solzhenitsyn だ。偉大なノーベル賞作家で歴史論争者の<収容所列島>は、1973年に英語版で出版された。//
 何人かの反体制的学者の仕事が1970年代に西側の読者に届き始めている一方で、ロシア革命に関する西側の学問的研究は「ブルジョア的歪曲」を被っているとなおも見なされ、事実上USSR〔ソヴェト同盟〕から排除された(Robert Conquest の<大テロル>を含むいくつかの著作はSolzhenitsyn の<列島>とともに密かに流通していたけれども)。
 それでもやはり、西側の学者の条件は改善した。
 制限されたかつ厳格に統制された公文書の利用を通じてではあるが、ソヴィエト同盟での調査研究を行うことが今やできるようになった。これに対して、初期の条件は非常に困難だったので多くの西側のソヴィエト学者は二度とソヴィエト同盟を訪れなかったし、別の者たちはスパイだとして追放されるか、多様な種類の嫌がらせを受けた。
 ソヴィエト同盟での公文書や第一次資料の利用が1970年代および1980年代に改善し、ロシア革命とその後に関する研究を選択する若い西側の歴史学者が増加したので、歴史、とくに社会史は、アメリカのソヴィエト学の重要な学問分野として、政治学にとって代わり始めた。
 学問研究の新しい章は、1990年代初頭に始まった。その当時に、ロシアの公文書庫の利用についての制限はほとんど撤廃され、以前に分類されていたソヴィエト文書によって描く最初の書物が出現し始めた。冷戦が過ぎ去るとともに、ソヴィエト史の分野は西側ではより政治的でなくなった。それはとてもよいことだつた。
 ロシアの、そしてソヴィエト後のその他の歴史研究者たちはもはや西側の対応者たちから孤立してはおらず、「ソヴィエト」、「亡命者(エミグレ)」および「西側」の学問研究という昔の区別は大きく消失した。
 ロシアとその外側で大きな影響力のある書物を刊行している学者の中に、モスクワを出身地とする(実際にはウクライナ人として生まれた)、公文書にもとづく党政治局に関する研究の先駆者である Oleg Khlevnyuk がいる。
 モスクワで生まれたかつてのエミグレで1980年代以降はアメリカ合衆国に住んでいる Yuri Slezkine は、<ユダヤ人の世紀>で革命とソヴィエト知識人界でのユダヤ人の位置に関する再解釈を行った。//
 公文書にもとづく新しいレーニンやスターリンの人物伝が現れ、グラクや民衆の抵抗のような、以前は公文書による仕事では達し得なかったテーマは多くの歴史研究者を惹きつけている。
 ソヴィエト同盟の解体と旧同盟共和国諸国を基礎とする独立国家の誕生に反応して、Ronald Suny や Terry Martin のような学者は、歴史学の分野としてソヴィエトの民族や境界諸国の問題を発展させた。
 Stephen Kotkin によるウラルのマグニトゴルスク(Magnitogorsk)に関する<磁場山岳>を含む、地域研究も盛んになった。この書物は、1930年代での異なるソヴィエト文化の出現(「スターリニズム的文明化」)について、明らかに革命の産物だと論じた。
 社会史学者はふつうの市民の当局に対する手紙(苦情、非難、訴え)を豊富に公文書庫で発見し、歴史人間学と多く合致する日常生活に関する研究を急速に発展させた。
 1980年代とは対照的に(そして歴史関係職業人内部での全体的な進展を反映して)、現今の若い世代の歴史研究者は社会史と同様に、ソヴィエトの経験の主観的で個人的な側面を照らし出す日記や自叙伝を用いる文化史や思想史にも惹かれている。//
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 以上、序説の、はじめに、第1節、第2節を済ませた。

1794/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)の構成。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)は1941年生まれのオーストラリアのロシア・ソ連史の専門研究者で、のちイギリスやアメリカに移る(前回にイギリスの、としたのは正確ではない)。
 Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 =シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 これの(本文の)内容構成は、つぎのとおり。()は明記されていない。「第*節」という語もなく、見出しだけがある。「章」という語もないが、こちらには数字はある。
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 序論
  (はじめに)
  第1節・革命の時期的範囲。
  第2節・革命に関する著作物。
  第3節・革命の解釈。
  第4節・第四版への注記。
 第一章・初期設定(The Setting)。
  第1節・社会。
  第2節・革命的伝統。
  第3節・1905年革命とその後、第一次大戦。
 第二章・二月革命と十月革命。
  第1節・二月革命と「二重権力」。
  第2節・ボルシェヴィキ。
  第3節・民衆の革命。
  第4節・夏の政治的危機。
  第5節・十月革命。
 第三章・内戦。
  第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
  第2節・戦時共産主義。
  第3節・新世界の見通し。
  第4節・権力にあるボルシェヴィキ。
 第四章・ネップと革命の未来。
  第1節・退却という紀律。
  第2節・官僚制の問題。
  第3節・指導者をめぐる闘い。
  第4節・一国での社会主義建設。
 第五章・スターリンの革命。
  第1節・スターリン対右翼。
  第2節・工業化への衝動。
  第3節・集団化。
  第4節・文化の革命。
 第六章・革命の終焉。
  第1節・「達成された革命」。
  第2節・「裏切られた革命」。
  第3節・テロル
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 以上。試訳なので、正確さを期すためには本文を読んでの再検討が必要な語がありうる。

1793/ロシア革命に関する邦訳書等々。

 ロシア「10月革命」100年が経過した。
 ロシア革命に関する手頃な日本語文献はないものか、と考える。
 昨年につぎの二著が新書版で刊行されたが、異なる意味で、問題がある。
 広瀬隆・ロシア革命史入門(集英社インターナショナル、2017)。
 これはおそらく評論家でも「左翼」によるもので、レーニンらが「反戦平和」のために革命をしたと冒頭に書いているのだから、笑ってしまった。イデオロギーは、あるいは反共産主義=保守反動という「刷り込み」は、恐ろしい。
 池田嘉郎・ロシア革命-破局の8か月(岩波新書、2017)。
 これには一度この欄で触れた。上と違ってアカデミズム界のもので、ロシア革命自体に関する強い「歪み」はないと思われる。しかし、いかんせん、この書が扱っているのは-よく見ると副題が示すように-ほとんど二月革命と十月革命のあいだで、二月革命・臨時政府樹立後の政府要職者等の人生が中心だ。
 ロシア革命といえば先ずは想起するだろうボルシェヴィキによる「10月革命」を-その終期には議論があるだろうが-「内戦」または「戦時共産主義」以前についても概述してくれるものではないようだ。
 詳細と思われる共産主義・ロシア史に関する邦訳書は、-江崎道朗はこれらを一瞥すらしないでコミンテルンや「共産主義」について2017年8月の新書を刊行したようだが-ある。
 私でも、つぎの二著を所持する。それぞれの下掲は、原書。
 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism (2010).
 マーティン・メイリア/白須英子訳・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史-上・下(草思社、1997)。
 =Martin Malia, Soviet Tragedy: A History of Socialism in Russia (1995)。
 後者はリチャード・パイプスと同窓という著者によるもので、ネップ期の叙述も興味深い。
 しかし、これらはタイトルにも見られるように、ソヴィエト共産主義の歴史をソ連の解体まで叙述するもので、広・狭義のいずれであれ、「10月革命」の経緯を概述することを主題にしていない。
 リチャード・パイプスの意味での「ロシア革命」とネップ期を含む「ボルシェヴィキ体制下のロシア」については、同の二著があり、その簡潔版もあって-何度も記したように-その簡潔版の邦訳書はある。
 リチャード・パイプス/西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。
 =Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1995).
 他になくはない。よく読まれているのかも知れない一冊本に、つぎがある。
 ロバート・サーヴィス/中島毅訳・ロシア革命1900-1927(岩波書店、2005)。
 長くはない概説書だ。そして、この書によるロシア革命記述は、日本語版「ウィキペディア」の「ロシア革命」の項の基礎になっている(示される参考文献を見れば分かる)。
 しかし、さすがに岩波書店が邦訳書として発行する本だ。レーニン・ロシア革命・共産主義についてなおも宥和的で甘い、と感じられる。そのようなものでないと、つまりひどくは日本共産党や日本の「左翼」に悪影響をもたらさないようなものでないと、岩波は出版しないのだろうと推察される。
 古くは、つぎがあった。
 菊地昌典・ロシア革命(中公新書、1967)。
 岩波新書でもない中公新書にこんな内容のロシア革命本があったとは、日本に独特の時代性を感じさせる。
 この本は、著者が日本共産党員なのかいわゆるトロツキストなのかという詮索はしないが、いずれにせよ、レーニンの「ロシア革命」を美しく讃えるものだ。その文体の熱情ぶりは、日本にもいずれ(民主主義革命-?)社会主義革命が起きるとの確信に満ちているようだ。そして、自分はその進歩的・積極的な方向に関与しているのだという陶酔感も。
 上のうち優れていると思われるのは、リチャード・パイプスの簡潔版の本だ。
 しかし、これの邦訳書でも二段組で本文408頁まであり、読み通すのは簡単ではない(なお、原書も計ほぼ同頁だ)。私自身も一日では読み終わっていない。
 ロシア・ソ連史学界(アカデミズム)にはむろん多数の論文等があるのだろうが、ふつうの「しろうと」には細かすぎ、専門的すぎて、分かりにくい。
 となると思いつくのが、イギリスの専門学者によるものだが、二月革命から1930年代の「大粛清」(the Great Purge)までの概述書である、つぎだ。第三版の原書で本文だけだと172頁。パイプスのものよりも短い。
 Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(第3版2008,第4版2017)。索引を含めて、p.224まで。
 しかし、2017年の第4版ではなくとも、この書には邦訳書が(なぜか)存在しない。

1792/ネップと20年代経済⑥-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.41~p.44。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑥完。

 スターリンは、なぜそうしたのか? <この文、前回と重複>
 第一の選択肢が「歴史の法則」によって排除されていたわけではない。また、第二の途を進むべき宿命的な強制が働いたわけでもない。
 そうであるにもかかわらず、現実に選択された方向へと強く作動する論理(logic)が、ソヴィエト体制にあった。
 力をもったイデオロギーは、国家による統制のもとにあってすら、市場条件へと回帰することよりもはるかに、テロルを基礎とする奴隷経済と適合するものだった。
 巨大な民衆が経済的に多少とも国家から自立すれば、またある程度の自立性を自分たちのために国家に守らせたとしてすら、分かち難い独裁という理想(ideal)は、完全には実現され得ない。 
 しかしながら、マルクス=レーニン主義の教理は、完全に中央集権的な政治的および経済的な権力によってのみ社会主義を建設することができる、と教えた。
 生産手段に関する私的所有制の廃止は、人間の至高の任務であり、世界の最も進歩的な体制の主要な義務だ。
 マルクス主義は、プロレタリア-ト独裁を通じての、公民社会と国家の融合または同一化という展望を提示した。
 そしてそのような単一化へと至る唯一の方法は、全ての自発的な形態をとる政治的、経済的および文化的生活を絶滅させ(liquidate)、国家が押しつける形態へと置き換えることだ。
 スターリンはかくして、社会に対する彼の独裁を強固にすることにより、また、国家が課していない全ての社会的紐帯と労働者階級自体を含む全ての階級を破壊することにより、唯一の可能性のあるやり方でマルクス=レーニン主義を実現した。
 もちろんこの過程は、一夜にして終わったのではない。
 まず最初に、労働者階級を政治的に従属させること、次いで党をそうすること、が必要だった。ありうる全ての抵抗の粒を粉砕しなければならず、プロレタリア-トから自己防衛の全ての手段を剥奪しなければならなかった。
 党はこれを、最初に大多数のプロレタリア-トによって支持された権力をもつがゆえに行うことができた。
 政治的意識が高く闘争に習熟した古い労働者階級が内戦で死亡した、戦後の荒廃と窮乏が諦念と疲労を生み出した、とドイチャー(Deutscher)は強調する。しかし、そう単純ではない。
 党の成功はまた、プロレタリア-トの支持を得た時期を二つの方法で利用したことにもよる。
 第一に、党は、最も有能な労働者階級の一員を国家の職務の特権的な地位に昇らせた。そうして彼らを、新しい支配階層に変えた。
 第二に、党は、労働者階級の組織の現存形態全てを、とくに他の社会主義政党や労働組合を、破壊した。そして、そのような組織が生き残る物質的な手段を労働者が届く範囲から閉め出した。
 これらは全て、初期の段階でかつまったく手際よくなされた。
 労働者階級はかくして無力にされ、疲労だけではなく全体主義に進む急速な過程が、ときたま絶望的な試みはあったが、すぐ後に効果的な行動を起こすのを妨げた。
 この意味で、ロシアの労働者階級は、その個々の階級的出自とは無関係に、自らの専制君主を生み出した。
 同じようにして、知識人層も長年の間に、極左からの絶え間ない脅迫に直面して躊躇し、屈服することで、無意識に自分たちを破壊することとなった。//
 かくして、メンシェヴィキの予言は実現された。メンシェヴィキは1920年に、トロツキーによって表明された勇敢な新世界をエジプトの奴隷によるピラミッド建設になぞらえたのだった。
 トロツキーは、多くの理由で、自分のプログラムを達成するには適していなかった。
 スターリンが、トロツキー<を現実にしたもの>(in actu)だった。//
 新しい政策は、ブハーリンとその同盟者の政治的敗北を意味した。
 論争の最初の時点で、右翼はまだしっかりした政治的地位を占め、かなりの支持を党内に広げていた。
 しかし、彼らの全資産は総書記(the Secretary General)の権力とはまったく比べものにならないことがすぐに分かった。
 「右翼主義偏向」は、スターリンとその取り巻きが攻撃する主要な対象になった。
 ブハーリン派(the Bukhrinites)-たんなる個人的権力ではなく統治の原理のために闘った最後の反対集団-は、1929年のうちに、国家の官僚機構で占めていた全ての役職から排除された。
 このことは、左翼反対派が復活したということを決して意味しなかった。
 スターリンは数人には微少な義務を負わせたが、左翼反対派の誰も、元の役職に復帰しなかった。仕事のできるラデクは、数年間、政府の賛辞文作成者に据え置かれた。
 ブハーリン派は、左翼がかつてしたほどには、あえては党外に見解を公表しようとしなかった(彼らのときはそうする可能性がもっとあったけれども)。
 ブハーリン派はまた、「分派」活動を組織しようともしなかった。彼らが分派主義を痛罵し、党の一体性を称賛してトロツキーやジノヴィエフと闘って以降、「分派」活動は結局は短い期間だけのものだった。
 一党支配について言えば、左翼反対派も右翼もそれを疑問視しなかった。
 全ての者が、自分の教理と自分の過去に囚われていた。
 全ての者が、自分たちを破砕する暴力装置を創る意思をもって活動した。
 カーメネフとの連合を形成しようとのブハーリンの見込みなき試みは、彼の経歴の痛々しい終章にすぎなかった。
 1929年11月に、偏向者たちは悔悛を示す公開行動を演じたが、これすら、彼らを救わなかった。
 スターリンの勝利は、完全だった。
 ブハーリン反対派の崩壊は、党と国にある専制体制の勝利を意味した。
 1929年12月、スターリンの50歳誕生日は大きな歴史的行事として祝祭された。この日以降を我々は、「個人カルト」の時代と呼んでよい。
 1903年のトロツキーの予言は、現実のものになった。党の支配は中央委員会の支配になり、これはつぎに、一人の独裁者の個人的専制になった。//
 人口の4分の3を占めるソヴィエト農民の破壊は、世紀全体につづく経済的のみではない道徳的な厄災だった。
 数千万人が半奴隷状態へと落とし込まれ、数百万人以上がその過程を実行する者として雇われた。
 党全体が制裁者と抑圧者の組織になった。誰も無実ではなく、全ての共産党員が社会に強制力を振るう共犯者だった。
 かくして、党は新しい種の道徳上の一体性を獲得し、もはや後戻りできない途を歩み始めた。//
 このときにまた、残っていたソヴィエト文化と知識人界は系統的に破壊された。体制は、最終的な統合の段階に入っていた。//
 1929年から判決にもとづき殺害される1938年までのブハーリンの個人的運命は、ソヴィエト同盟やマルクス主義の歴史にとって重要ではない。
 敗北したあと彼は、最高経済会議のもとで調査主任としてしばらく働き、ときどき論文を発表した。それによって彼は、-ステファン・F・コーエン(Stephen F. Cohen)がその優れた人物伝で指摘するように-押し殺した批判をときおりは発しようとした。
 ブハーリンは中央委員会委員のままであり、公的に自説をさらに撤回した後で1934年に、<イズヴェスチヤ(Izvestiya)> の編集者になった。
 その年の8月の著述家大会で、当時にしては「リベラル」な演説を行い、1935年には、新しいソヴィエト憲法を起草する委員会の事実上の議長だった。この憲法文書は1936年に公布され、1977年まで施行された。この文書は、全部がではなくとも主に、ブハーリンの仕事だった。
 1937年2月に逮捕され、一連の怪物的な見せ物裁判の最後に、死刑が宣告された。
 伝記作者は彼を「最後のボルシェヴィキ」と呼ぶ。
 この叙述が本当なのか誤りなのかは、それに付着させる意味による。
 ボルシェヴィキという言葉で、新しい秩序の全ての原理-一つの政党の無制限の権力、党の「一体性」、他者の全てを排除するイデオロギー、国家の経済的独裁-を受諾する者を意味させるとすれば、本当だ。
 また、この枠の中で寡頭制または一個人による専制を避けること、テロルの使用なくして統治すること、そしてボルシェヴィキは権力を目ざす闘争の間に擁護した諸価値-すなわち、労働民衆またはプロレタリア-トによる統治、自由な文化の展開、芸術、科学および民族的伝統の尊重-を維持することは可能だと信じる者、を意味させているとすれば。
 しかし、かりに「ボルシェヴィキ」がこれら全てを意味するとすれば、その自らの前提から論理的帰結を導き出すことができない人間のことを、たんに意味している。
 他方、もしかりにボルシェヴィキのイデオロギーが一般論の問題にすぎないのではなく、自分の原理からする不可避の結果を受容することを含むとすれば、スターリンは、全てのボルシェヴィキやレーニン主義者と最も合致していた、と自らを正当に誇ることができる。//
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 以上で、第5節は終わり、第1章全体も終わり。叙述は第2章<1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立>へと移っている。

1791/旧西独で-「ベルリンを想え!」。

 この欄にたんなる紀行文、旅行記を書き記すつもりはない。
 以下の内容からして、まだドイツは再統一されていなかった頃だ。
 前日にローテンブルク(Rotenburg od. Tauber)に宿泊して、ニュルンベルクの市中見学を経てフュッセン(Füssen)まで鉄道で行き、翌朝にノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城を見てみようと計画した。若さゆえの無理をした算段だが、実際にそのとおりになった。
 ローテンブルクには鉄道駅はなく30分ほどはバスに乗ってシュタイナハ(Steinach)という駅まで行く必要があった。この駅は都市の入口または中央駅というふうで全くなかったが、そこからニュルンベルクまで直接に進めるわけではなく、アンスバッハ(Ansbach)駅で別の電車(汽車?)に乗り換える必要があった。
 シュタイナハはもちろん、都市としてはローテンブルクよりも大きいのではないかと駅前まで出て感じた(よく知られているように「改札」というのはないので、切符を持って自由に構外に出ることができる)。
 アンスバッハの駅の北側で、現在でも明確な記憶として残っているものを見た。
 それは石碑だったのか、たんなる木版だったのか不明になってしまったが、「ベルリンを想え!」と刻まれるか、記されていた。-Denkt an Berlin !
 意味、趣旨は明確だと思われた。東西にドイツが分割され、ベルリンもむしろ枢要部は「東ベルリン」と呼ばれる社会主義ドイツ(東独、ドイツ民主共和国)の首都になっているという現実のもとで、社会主義国で生活しているベルリン市民を、そして東独の市民を想え、ということだっただろう。
 当時にヘルムート・コール(Helmut Kohl)が野党党首だったのかすでに首相だったのか、東ドイツ国民は「ソ連の人質として取られている」という趣旨のことを演説で言ったのを直接に聴いたことがある(但し、遠くに彼の姿を見たのは確かだが、H. Kohl の演説を聴き取れたのかは怪しいので、翌日あたりの新聞で内容を読んだのかもしれない)。
 そういう時代だから、アンスバッハ市民がまたはそこの公的団体が、ドイツは分断されていることを忘れるな、という趣旨で、「ベルリンを想え!」と駅前に記したのだろう(なお、アンスバッハはバイエルン州)。
ところで、余談になるが、ドイツ語に苦しんでいた頃だったから、denkt という語の文法上の位置づけもおそらく当時にすでに気になったに違いない。
 これは、<万国の労働者、団結せよ!>という場合の後段の vereinigt (euch) に相当する、敬称ではない場合の複数者に対する命令形だと思われる。
 この使い方は表向きの会話や新聞ではあまり出てこないので、印象に残ったのかもしれない。
 しかし、そうしたドイツの<言語、言葉>に関する記憶は山ほどある(理解不能だったり、恥ずかしかったり…。それでも当時(現在でもだが)、英米語よりはるかにドイツ語の方がマシだった)。
 この Denkt an Berlin ! を今でも憶えているのは、その内容によるだろう。
 のちに再訪はしなかったが、あの石版か木版は、おそらくとっくに除去されているに違いない。

1790/ネップと20年代経済⑤-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.40~p.41。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑤。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。<以上、前回と重複>
 何人かのマルクス主義思想家たちは、ルカチ(Lukács)からロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)まで、同じ見地からこの状況を理解した。
 しかしながら、トロツキーは、スターリンの政策は自分のそれと同一だとは考えていなかった。(トロツキーは1926年秋に政治局から排除され、1928年初めにアルマ・アタ(Alma Ata)へと追放され、トルコ政府の同意を得て1929年2月にトルコに亡命した。)
 彼は、こう書いた。スターリンの官僚機構は実際に反対派の圧力によって左翼の目標を採用するように強いられたのではなく、容赦のないかつ日和見主義的なやり方で自分たちで実行した、と。
 反対派は集団化に賛成したが、大量の強制的手法にではなかった。クラクを抑制して、「経済的手段によって」それと闘うべきだつたのだ。
 こうしたことはまた、のちに全てのトロツキー支持者が採った考え方だった。//
 しかしながら、このような論じ方は、きわめて薄弱なものだ。
 トロツキーは強制的集団化について語らなかった、というのは本当だ。しかし、当時はスターリンも語らなかった。
 スターリンの演説や論文だけからあの年代の歴史を知る者は誰でも、疑いなくつぎのように想定するだろう。農民たちはより良き生活のために集団農場へと押し寄せた、「上からの革命」は無制限の喜びでもって歓迎された、厳格な措置の被害者はたんに一握りの度し難い怠業者たち、労働者民衆とその民衆の利益を過ちなく表現する政府の敵にすぎない、と。
 本当(true)はどうだったかと言うと、スターリンが唯一の可能な方法で反対派のプログラムを実行に移した、ということだ。
 彼らが提示していた全ての経済的な誘導策は、スターリンが公然たる強制力行使に訴える前に、すでに試みられていた。
 税と価格による動機づけ、そしてテロルを制限するという政策は、その前の二年間に実施されていた。しかし、その唯一の結果は、穀物の配送量が低下し、さらにもっと悪化しそうだ、ということだった。
 経済的圧力という手段はもはや残っておらず、つぎの二つの選択肢だけがあった。
 すなわち、第一に、完全な形態でのネップ(「新経済政策」)に戻り、自由取引を許し、食糧生産と配分を確保すべく市場を信頼する。
 第二に、すでに着手していた路線を追求し、軍隊と警察を大量に用いることで自立農民層の全体を廃絶させる。
 スターリンは後者の政策を選択して、実現可能に思えたやり方でのみ、左翼の要求を実行した。//
 スターリンは、なぜそうしたのか?
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 ここで区切る。⑥へとつづく。

1789/ネップと20年代経済④-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.37~p.40。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 今回の部分にスターリン時代の農村地域の飢餓・困窮等に関する叙述があるが、レーニン時代にも、干魃という自然的要因も(ボルシェヴィキによる食糧徴発政策の他に)あったが、類似の状態があったことを想起させる。試訳をこの欄に掲載しているR・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1995)/ネップ期のうちの「1921年の飢饉」にはより生々しく具体的な描写があり、「人肉喰い」があった確実な最少の件数も記している。この欄の、2017年4月、No.1515; 1516; 1518; 1520を参照。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争④。
 経済および財務政策はネップ期の間に実際に変わらないままだったのではなく、農民層に対する圧力を増加させる方向へと動いた。
 ブハーリンは別として、党の最高幹部層の中でのネップの擁護者は、首相としてレーニンを継いだルィコフ(Rykov)と労働組合担当の職責にあったトムスキー(Tomsky)だった。
 この二人はいずれも自分自身の力による秀れたボルシェヴィキで、決してスターリンの操り人形ではなかった。
 しかしながら、初期の時代からスターリンはモロトフ(Molotov)、ヴォロシロフ(Voroshilov)、カーリニン(Kalinin)およびカガノヴィチ(Kaganovich)のような者たちを指導層に送り込んだ。これらは自分では何も表現せず、スターリンに対して無条件に服従した。
 経済政策が不確定で曖昧だったため(ネップ熱烈支持者ですら最後の拠り所としての「田園地帯ての階級闘争」という考えをすっかり放棄することはできなかった)、行き詰まり、満足できる出口がなくなった。
1925年の農民に対する実質のある譲歩によって農業生産は増大したが、1927年までは穀物生産高は1914年以前の高さまでまだ達していなかった。一方では、工業の発展と都市化とともに食糧需要が増した。
 小土地所有者には処分できる穀物かなく、クラクは急いで売ることもしなかった。クラクが受け取る金で買える物が何もなかったのだから。
 このゆえにこそスターリンは1927年に、没収と強制という極端な手段を採用することを決意した。
 ブハーリンは最初からこの政策を承諾し、自分自身の基本的考え(プログラム)を修正して、計画化や重工業への投資の増大、国家による市場への干渉の強化、そして最後にクラクに対する「攻勢(offence)」の方向へと進んだ。
 これは左翼反対派を十分に満足させるものではなかったが、このことは大した意味がない。その間に彼らの地位は破壊されてしまっていたのだから。//
 農民層に対する経済的および行政的な圧力が高まることで、分配の劇的な下落、すでに深刻だった食糧事情のいっそうの悪化が生じた。
 スターリンは何度も繰り返して、クラクの危険性と階級敵の力の成長について語った。しかし、1928年2月にはまだ、ネップの廃止やクラクの粛清という風聞は反革命的なたわ言だと強く主張していた。
 しかしながら、ほんの四ヶ月のちに、集団農場を大量に組織化する「ときが成熟した」と発表した。
 7月の中央委員会会議で、そのときまでは激しく攻撃していたプレオブラジェンスキーの諸主張(テーゼ)の全てを是認した。
 ロシアは国内での蓄積によってのみ工業化を達成することができる。唯一の解決策は、農民が工業製品を求める鼻を通じて支払うことができるような額に価格を固定することだ。
 スターリンは同時に、「中産農民との永遠の同盟」を支持しつづけ、小規模の農業生産はまだ不可欠だと断言した。
 にもかかわらず、ブハーリン、ルィコフおよびトムスキーは、この新しい政策に反抗した。これに対してスターリンは、新しい右翼反対派だとの烙印を捺した。
 スターリンは1929年の初めにこの悲しい展開を政治局に報せ、のちにすみやかに世界全体に知らせた。
 (1928年秋の諸演説で「右翼主義(rightist)の危険」に触れていたが、政治局は全員が一致していると明言していた。)
 説明によれば、右翼偏向は、工業化を遅らせる、不確定の将来へと集団化を延期する、取引の完全な自由を再構築する、クラクに対する「非常手段」の使用-換言すると、徴発、逮捕、警察による圧力-を貶す、といったもので成り立つ。
 「右翼主義者」は国際情勢の見方に関して誤りがある、ということもすぐに示された。すなわち、彼らはまだ世界資本主義の安定化を信じ、社会民主主義的左翼と闘うのを拒否しているのだ、と。//
 スターリンはこの時期に一連の演説も行い(最初は1928年7月)、新しい原理を表明した(これは理論家としての名声に加わった)。
 それは、共産主義が発展し続けるとき、階級闘争と搾取者の抵抗はますます暴力的になる、ということだった。
 つづく25年の間、ここで新たに述べられたことは、ソヴィエト同盟およびその支配に服する諸国家での大規模の抑圧、迫害および虐殺の根拠として役立つことになった。//
 こうしたことが、ソヴィエト農業の大量集団化を始める設定条件だった。-おそらくは、国家が自らの公民に対してかつて行なった最も大規模な、戦争に似た作戦行動だった。
 強制的手段を緩やかに用いる試みが成果をもたらさないことが分かって、スターリンは1929年の終わりに、大量の「階級としてのクラクの粛清」を伴う、完全な集団化をただちに開始することを決定した。
 数ヶ月のちの1930年3月、この政策がすでに厄災的な結果を生じさせたとき-農民たちは大規模に穀物を粉砕して家畜を殺戮した-、スターリンは一時的に落ち着かせて、「成功による目眩み」という論考で、党官僚にある過度の熱狂と焦りや「自発性の原理」違反を非難した。
 これは党と警察機構にためらいを生じさせ、多くの集団農場は自分たちで合意して解散した。
もはや強制力を用いる政策へと転じるほかはなく、それは国をこの世の地獄に変えた。
 数十万の、最終的には数百万の農民たちが、恣意的に「クラク」と張り札をされてシベリアまたは他の離れた地域に追放された。
 村落での絶望的な一揆は軍隊や警察によって血をもって弾圧され、国は混乱、飢餓と困窮に陥った。
 ある場合には、いくつかの村落の住民全員が追放されるか、飢餓によって死んだ。
 大急ぎで編成された大量の護送車の中で、数千人が殺されるか、寒さと窮状に追い込まれた。
 半死の犠牲者たちは救援を求めて田園地帯を放浪した。そして、人肉喰い(cannibalism)行われた場合もあった。
 飢えていく農民が都市へ逃亡するのを防ぐために、国内旅券制度が導入され、許可されていない住居の変更には投獄という制裁が課されることとされた。
 農民には、この旅券が少しも発行されなかった。そしてそのために、封建的農奴制の最悪の時代のように、土地に縛りつけられた。
 このような物事の状態は、1970年代まで変わらなかった。
 集中強制収容所(concentration camp)は、重労働を宣告された新しい囚人の群れで満ちた。
 農民たちの自立を拒絶して彼らを集団農場へと追いたてる目的は、奴隷である民衆を生み出すことだった。その労働の利益は、工業を増加させるだろう。
 直接の効果は、多数の再組織化や改革の手段をとったにもかかわらず、まだ回復していない減退の状態にソヴィエト農業をしたことだった。
 スターリンが死んだとき、大量の農業集団化が始まってからほとんど四半世紀の後に、人口一人当たりの穀物生産高は、1913年のそれよりもまだ低かった。
 この期間のあいだずっと、困窮と飢餓があったにもかかわらず、農場生産のうちの大量部分はソヴィエト工業のために全世界へと輸出された。
 この年月のテロルと抑圧は、実際のとおり桁外れだが、たんに人命の損失数だけで表現することはできない。
 集団化とは何を意味したのかを最も生々しく描いているのは、おそらくヴァシリ-・グロスマン(Vasily Grossman)の、その死後に出版された小説、<永遠に流れる>(Forever Flowing)だ。//
 「新路線」と強制的集団化の政策を採用したのは、スターリンがたんにトロツキー=プレオブラジェンスキーのプログラムを、その執筆者を排除したあとで取り上げたにすぎない、と広く考えられている。
 このことは最初からブハーリンの責任だったとされる。そして、もはや政策の根本的な衝突はないという理由で急いでスターリンに許しを乞うた、以前の反対派の多くも、そう信じた。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1788/ネップと20年代経済③-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 この著には、邦訳書がない。日本語版スターリン全集の全巻を所持していないが、レーニン時代との関係で1920年代のものはおおよそ所持しているので、今回は該当部分を探し出してみた。レーニン全集の場合と同じく、L・コワコフスキが使っている全集の巻数は、日本語版と同じだ(なお、この点、リチャード・パイプスは別のタイプの英語版レーニン全集を用いていると見られ、参照しにくい)。
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.33~p.37。三巻合冊本、p.814~p.817。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争③。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。<この一文、前回と重複>
 貧農と農場従事者は、クラク(富農)を破壊することによってではなく、後者の資産を利用する国家によって助けられなければならない。国家はクラクに、最初に蓄積するのを認めるのだ。
 消費者と市場取引との協働関係はやがて自然に消費者と生産者の協働関係の発展につながるだろう。
 他方、トロツキストの政策は農業と工業をともに破滅させることを意味するだろう。
 農民全体を国家から遠ざけ、プロレタリア-トの独裁を破壊するだろう。
 さらに、プレオブラジェンスキーやピャタコフ(Pyatakov)が提案する、田園地帯を利用するために工業製品の価格を高い額にまで人為的に上げることは、農民層にだけではなく、労働者にも同様に打撃になるだろう。大量の商品を消費するのは都市の民衆だからだ。
 政府機構の官僚主義的退廃に対する反対者たちの攻撃について言うと、たしかにこの危険は実際に存在する。しかし、農民層に向けられた彼らの政策が採用されれば、それは100倍も悪くなるだろう。
 戦時共産主義の諸手段への回帰は、田園地帯で強制力を用いることを主要な目的として、特権的な官僚機構という一つの階級を生み出すことを意味するだろう。そして、この巨大な装置は、農業が組織化されないことによる損失の全てよりもはるかに多くの出費を要求するだろう。
 官僚主義を治療するためには、民衆に生活の多様な分野での自発的な社会組織の設立を働きかけることが必要だ。
 反対派が提案する治療方法はこれと真反対で、病気よりも悪いものにするだろう。//
 こうした左翼反対派との論争で、ブハーリンは、国家または党の内部での民主主義の拡大を導くことになるいかなる一歩も、擁護しなかった。
 逆に、分派の指導者であり党の一体性を分裂させる者だとして、トロツキー、ジノヴィエフおよびカーメネフを攻撃した。
 ブハーリンは彼らに思い起こさせた。プロレタリア-ト独裁は単一の支配党の存在を含意している、また党は結束しなければならず、別々の党の形成に発展するに違いない「分派」の存在を許してはならない、というのはレーニン主義のイロハだ、と。
 反対派の者たちは全て、つい最近まではこのことをよく知っていた。そして誰も、彼らが突然に民主主義者に変わることに欺されはしないだろう。//
 工業化に関する議論で、両派の論者たちはいずれももちろん、相手の政策は「客観的に」資本主義の復活につながるだろうと主張した。
 ブハーリンによれば、プレオブラジェンスキーは、小規模生産者を搾取して破壊することによって蓄積を達成し、社会主義国家が資本主義を真似ることを意図した。
 その基盤である農民との同盟、とくに中間層農民とのそれが掘り崩されれば、プロレタリア-ト独裁は消失するだろう。あるいはまた、農民たちの全体が工業製品の価格と農業生産物の価格の比率(ratio)に同等に影響されるという理由だけでも、「内部的植民地化」は、クラクのみならず田園地帯全体に対する攻撃を意味する。
 左翼はこれに反対して、スターリン=ブハーリンの政策は、私的所有者、とくにクラクの経済的な力を着実に増大させるだろう、社会主義的工業と労働者階級を弱めることはプロレタリア-ト独裁の終焉にのみつながる、と論駁した。
 反対派はまた、工業、とくに重工業が社会主義の発展の鍵だ、と考えた。
 ブハーリンはこれに対して、都市と地方の間の商品交換が主要な梃子だ、生産はそれ自体が目的ではなく消費に至る手段にすぎない、と主張した。また、反対派は、生産が需要の量とは無関係にそれ自体でつねに増え続ける市場を創出しつづける経済がありうるとの(資本主義制度との関係での)トゥガン-バラノフスキー(Tugan-Baranovsky)の理論をそのまま繰り返している、とも。
 この当時のロシアでの問題なので、村落地域の蓄積は決して労働者の利益に反しておらず、合致していた。
 この点について反対派は、搾取者と被搾取者の利益が合致することはありえない、その定義上クラクは搾取者であるので、クラクが富を蓄積するのを助けるのは階級敵を育てることだ、と答えた。//
 このようにして、いわばボルシェヴィズムの二つの変種が姿を現してきた。もちろんいずれも、決まってレーニンが言ったことに頼った。
 レーニンは、中間農民層と同盟しなければならないと語っており、クラクが示す危険についても述べていた。
 大まかに言うと、ブハーリンは、クラクは同時に中産農民を破壊することなくして廃棄することはできない、とするものだ。一方の反対派は、中産農民はクラクの助力なくしては援助することができない、と考える。
 反対の政治的意図をもつが、同じことを二つの異なる方法で表現したものだった。
 反対派は、労働者は惨めな状態にあるのに裕福な「ネップマン」(Nepman)の階層が勃興していることに憤慨している、あるいはまた平等主義とプロレタリア-ト独裁のスローガンを真面目にかつ文字通りに理解している、多くの共産党員の中に支持を求めた。
 (したがって、トロツキー=ジノヴィエフ派が以前の「労働者反対派」の残片たちと結局は共通する考え方を採ったのは自然なことだった。)
 反対派は主として、権力、独裁および権力の指標としての重工業に関心をもった。
 ブハーリンは一方で、福祉の有効な増大に関心をもち、その活動が労働者階級を含む全民衆にとってよい取引ならば、物質的な特権をもつネップマンを許容する用意があった。//
 数百万の個々人の運命を決めることとなった論争の間ずっと、スターリンはブハーリンの立場を支持した。しかし彼自身は完全には関与しないで、イデオロギー上の宣明をブハーリンまたはルィコフ(Rykov)に任せた。
 スターリンは、ブハーリンがうっかりと農民たちが「金持ちになる」よう呼びかけた過ちに気づいた-生硬な多くの共産党員には印象的な表現だった-。しかし、反対派による邪悪な犯罪行為とは比べものにならない、口滑らしだと見なした。
 彼は議論に決して深く立ち入らなかった。しかし、1928年まで、ブハーリンとの間に経済政策に関する不一致はなかった、ということが分かる。
 スターリンも、農民中間層との間の永続する同盟の必要性に関するレーニンの言葉を繰り返し、「革命的冒険主義」や「内部的植民地化」という衝撃的な考えについて「極左」の反対派を攻撃した。
 彼は反対派との政治上および組織上の論争については拳を振り上げた。それは、党機構に占める有利な地位によるのではなく、最近に反対派の者たちが公然と叫んできている原理を彼ら全員がいかほど侵犯していたかを示すのは容易だったからだ。
 何の困難もなく、トロツキーの民主主義への選好はきわめて最近になってからだと証明することができた。そして、トロツキーとジノヴィエフが協力してスターリンに反抗したときは、彼らがその日の前にお互いに傷つけ合っていた罵詈雑言を引用するだけでよかった。
 党内民主主義について言えば、それを今は防御している者は誰も、ばつの悪さを感じないままで自分の過去に言及することができなかった。
スターリンが1925年12月の第14回党大会で、つぎのように語ったように。
 『反対派の同志たちは、形式的民主主義は我々ボルシェヴィキにとって中身のない貝(empty shell)であって党の利益こそが全てだ、ということを知らないのか?』
 (スターリン全集・英語版7巻(1954年)p.394〔=日本語版スターリン全集7巻(1954年)「ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会/中央委員会の政治報告の結語」388-9頁<注1>〕。)
 数ヶ月のちに、彼は党内民主主義について、より厳密な定義を行った。
 『党内民主主義とは何を意味するのか? 党内民主主義とは、一般党員の活動を向上させ、党の一体性を強化し、そして党の自覚的なプロレタリア紀律を強化することを意味する。』
 (スターリン全集・英語版8巻(1954年)p.153〔=日本語版スターリン全集8巻(1954年)「ソ同盟の経済情勢と党の政策について/1926.4.13」173頁<注2>〕。)
 しかしながら、スターリンは「党の独裁」に関して語るほど無謀でなかった。レーニンも、おそらくはブハーリンも、そのことを躊躇しなかったけれども。
 1926年12月7日のコミンテルン執行委員会の一部会や別の機会に、彼はこう述べた。トロツキーは、社会主義は一国では建設することができないと主張することによって、党が権力を放棄するのを招来している、と。//
 トロツキストの歴史家たちは、1920年代の諸事件についてまだ考えており、トロツキーはどのようにしていれば様々の偽った動きを回避して何らかの政治的同盟または連携でもって権力を再び握っていたのだろうかと、思いめぐらしている。
 しかしながら、1923年より後のどの時期にもそのような現実的可能性があったとは思えない。
 トロツキーは実際、公的にレーニンの「遺言」を時期に適して利用して、スターリンの威信を落とすことができたかもしれなかった。
 彼はそうしなかったのみならず、のちに外国で公表されたときに「遺言」の真正さを否定して、自らその可能性を摘み取った。
 可能性としては、スターリンは1924年に打倒されていたかもしれなかった。しかし、そうであってもトロツキーの利益にはほとんどならなかっただろう。他の指導者から嫌われていたからだ。その指導者たちは、権力から追い出されたあとでようやくトロツキーと協力する心づもりがあることを示したのだった。//
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 (秋月注1)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「反対派の諸君には、われわれボルシェヴィキにとっては、形式的な民主主義は無に等しく、党の現実的利益こそすべてだということが、わかっていないのだろうか」。上掲箇所。
 (秋月注2)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「党内民主主義とはなにか。党内民主主義とは、党員大衆の積極性を高め、党の統一をかため、党内の意識的なプロレタリア的規律を強化することである」。上掲箇所。
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 ④へとつづく。

1787/ネップと20年代経済②-L・コワコフスキ著1章5節。

 この著には、邦訳書がない。かつての西ドイツでは原ポーランド語からのドイツ語直訳書が1977年~79年に一巻ずつ出版されたようだ。第一巻に限ると、英語版よりも1年早い。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.29~p.33。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争②。
 トロツキーが1920年のしばらくの間は、テロルに他ならないものを基礎とする経済の有効性を疑っていた、そして穀物の徴発を現物税〔食糧税〕に変えるべきだと彼は提案した、というのは本当(true)だ。
 しかし、まもなく彼は考えを変え、ネップ期の間は、「緩やかな」経済に対する、主要な反対者の一人になった。反対したその経済とは、農民層に物質的に譲歩し、自由取引を都市部と村落地域の間の取引の主な態様にするものだった。//
 ブハーリンの考えは一方で、反対の方向へと進展した。
 1920年には、計画経済という考えは幻影(fantasy、お伽ぎ話)の世界に属していた。
 ロシアの産業は破滅していて、輸送はほとんどなく、まさしく苦悩する問題は、共産主義の新世紀をどう始めるかではなくて、迫り来る飢餓から都市をどう救うかだった。
 この悲惨な状況でレーニンがその経済上の教理から退却する号砲を鳴らし、農業生産物の自由な取引、小規模の私的企業の許容によって農民的経済と長期間を共存していこうと決意したとき、ブハーリンも同様にその初期の立場を放棄し、ネップの熱烈な支持者とイデオロギストになった。これはまずはトロツキーに、次いでジノヴィエフ、カーメネフおよびプレオブラジェンスキーに反対するものだった。
 1925年以降、ブハーリンは、反対者に対するスターリンの主要なイデオロギー上の支持者だった。
 彼はレーニンのように、<過渡期の経済学>で説いたプログラム全体が妄想(delusion)だったということを認識するに至った。 そして、指導者たちが逆上(frenzy)した短い間に生命を贖った数百万の犠牲者のことを気にかけなかった。//
 市場経済へと回帰するのを支持するブハーリンの根拠は、-もちろん銀行や主要産業の国有は維持するのだが-主としては経済上のものだが、ある程度はまた政治的なものだった。
 主要な論点は、農業がほとんど全体的に小農民の手にある状況のもとで、経済的手段によって望ましい蓄積のレベルを達成して産業を発展させるために、国家はいかにして商品経済への影響力を行使できるか、だった。
 市場条件のもとで農民から必要な量の食糧を獲得するためには、生産者および消費者の商品と同等の価値のものを村落地域に供給することが必要だ。
 これは、不可能ではなくとも、産業が破滅している国家では困難だ。しかし、そうしなければ、農民たちは産物を売らないだろう。売って収益を得ても買うことのできる商品が何もないのだから。
 付け加えれば、これは、国家経済が農民の慈悲にすがるしかないとすれば、「プロレタリア-ト」、つまりはボルシェヴィキ党、はいかにして支配的な地位を維持できるのか、という問題だった。 
 市場が発展していけば、農民たちの地位はそれだけ強くなるだろう。そうすると、彼らは最後には「プロレタリア独裁」を脅かすかもしれない。//
 プレオブラジェンスキーは、経済問題ではトロツキストだと見なされていて、農民層に譲歩するスターリンとブハーリンの政策に反対した。彼は、つぎのように論じた。
 最初の段階での社会主義国家の主要な任務は、産業の強い基盤を作り出し、蓄積の必要な程度を確保することだ。
 これ以外の全ての経済目的は工業に、とくに産業装置を備えた製造業の発展に従属しなければならない。
 資本主義的蓄積は植民地の強奪によって容易になったが、社会主義国家は植民地を持たず、自分の資源でもって工業化を達成しなければならない。
 しかしながら、国家産業は、それ自体は十分な蓄積の基盤を作り出すことができず、小生産者から、すなわち現実には農民層から資源を吸い取らなければならない。
 私有の耕作地は、国内の植民地化の対象にならなければならない。
 プレオブラジェンスキーは、工業への投資を増大させるために農民の労働から最大限の量の余剰価値を抽出することによる、農民の搾取であることを率直に認めた。
 この「植民地化」の過程は主としては、工業生産物の価格を国家が農業生産物に支払う価格と釣り合う最高限度までに固定することによって、達成するものとされた。
 これは、可能なかぎり短い期間のうちに最大限の援助を奪い取るために、農民層に対する別の形態での経済的圧力によって実施された。
 他方で党指導者たちは、小生産者の側での蓄積を促進し、農民層の福利のために工業を、とくに重工業を軽視する政策を追求した。
さらには、この政策の主要な利得者は、クラク(富農)だった。
 というのは、全てが産業の側からの、これは相対的に強い階級、プロレタリア-トの独裁の側からということになるが、これからの要求を無視して農業の生産性を向上させるためになされていたので、自然のこととして、最大の配当を約束する豊かな農民たちが選択するように貸金や設備が動いたからだ。
 このことは不可避的に、最初は経済的でのちにすみやかに政治的にもなった富農の力を強くした。彼らは、プロレタリア-トの権力を掘り崩し始めるだろう。
 当時の現存の政府のように全ての農民層の経済的要求を充足させて、食糧を売却するよう誘導したい者たちは、交流のある外国との通商政策を押し進め、工業のための生産物の代わりに農民層のために消費用商品を輸入しなければならないだろう。
 このような展開の全趨勢はプロレタリア-ト以外の階級の利益のために歪曲され、その結果は、社会主義国家の存在に対する脅威になるだろう。//
 このような基本的考え方に添って主張して、プレオブラジェンスキーおよび左翼反対派は、農業の集団化に向けて攻め立てた。どのような方法によってそれが達成されるのか、彼らは明瞭には説明しなかったけれども。//
 トロツキーは、これと同じ基本的考え方だった。
 1925年に彼が書いたように、国有工業が農業よりも少ない早さで発展すれば、資本主義の復活は不可避だ。
 農業は国有産業の一部門になるように機械化され、電気化されなければならない。
 こうしてのみ、社会主義は異分子の要素を放逐し、階級対立を解消することができる。
 しかし、このこと全てが、工業が適切に発展するということにかかっていた。
 結局のところは、新しい形態の社会の勝利は、その社会での労働の生産性が果たす。
社会主義は、徐々に資本主義よりも高い生産性を達成する力をもつことを理由として、勝利するだろう。
 こうして、社会主義の勝利は、社会主義的工業化に依存する。
 社会主義とはじつに、その側にあらゆる利点をもつのだ。技術の進歩はすみやかにかつ全般的に応用することができ、私的所有制が生んだ障壁によって遮られることはない。
 経済の中央集中化は、競争に由来する無駄の発生を妨げる。
 産業は消費者の気まぐれに左右されるものではない。そして、国民全体の志気が、高い次元の生産性を保障する。
 中央集中化と標準化は自発的主導性を駄目にするもので、いっそう仕事を単調にすることを意味すると苦情を述べるのは、前工業時代の生産への反動的な憧れに他ならない。
 経済全体が「単純で画一的な自動的機械構造」へと変わらなければならない。そしてそのためには、資本主義的な要素、すなわち小農民生産者に対して絶えざる批判的宣伝運動をしなければならない。この闘いを放棄することは、資本主義への回帰を黙って認めることになる。
 トロツキーは、プレオブラジェンスキーと違って、「社会主義的蓄積の客観的法則」や産業投資のために農民層から最大限に余剰価値を強要する必要性を語りはしなかった。しかし、資本主義に対する経済的な攻勢を呼びかけたので、同じことに帰一した。
 反対者たちがブハーリンを非難したのは、根本的に豊かなクラク(富農)の利益のためのもので、「テルミドールの反動」だ、という理由でだった。
 ブハーリンの政策は社会主義に対する階級的敵対意識を高め、経済における資本主義的要素に特有の危険性を増大させるだろう、と彼らは主張した。
 スターリン、ブハーリンおよびこれらの支持者は答えて、「超(super)工業化」を呼びかけるのは非現実的だ、反対者たちの政策は富農だけではなく巨大な農民中間層を体制の敵に回す、と主張した。
 それは「プロレタリア-トと貧農および中農との同盟」というレーニンの神聖な根本規範に反する。そして、ソヴィエト国家の存在そのものを脅かすだろう、と。
 反対派は継続的に、資本主義的要素を阻止し続けるべきだと要求しているが、-たとえ経済的だけでも-政府からの圧力が強まって農民層の意欲(incentive)が奪われたらどうすべきなのかを語っていないし、国家は警察による強制以外のどんな方法によって食糧の生産と分配を確保できるかについても、何ら語っていない。//
 この当時にスターリンが支持したブハーリンの論拠は、戦時共産主義の時代が十分に証明するように、国家の農民層に対する徹底的な闘いは経済的に非効率で政治的には厄災だ、ということだった。
 国家の経済発展は農民層の最大限の搾取に依存すべきではなく、国家と村落地域の間をを、ゆえに労働者階級と農民層の間を連結する市場を保持することによるべきだ。
 蓄積の程度は流通の効率性と速度にかかっており、このことにこそ尽力は向けられるべ きだ。
 農民が強制または経済的手法によって余剰の全てを剥奪されるならば、自分が食べる以上の食糧を産出しないだろう。
 そのゆえに、農民に強制力を用いることは、国家とプロレタリア-トの瞭然たる利益に反する。
農業生産を増大させる唯一の方法は、物質的な動機づけを与えることだ。
 これは確かに、クラク(富農)に有利になることだろう。しかし、商取引上の協働関係の発展によって、クラクを含む農民全体を、全体としての経済成長を推進する国家統制体制の中に組み込むことが可能になる。//
 工業の発展は、村落の市場にかかっていた。農民層による蓄積は工業製品への需要の増大を意味した。そしてそのゆえに、全ての範疇の農民による蓄積を許容することは、国家全体の利益だった。
 こうしたことから、ブハーリンは1925年に農民に対して「金持ちになれ(Get rich)!」と訴えかけた。-これは、後年にはこの人物の非正統性を紛れもなく示す証拠として、しばしば引用されるスローガンだ。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1786/「前衛」上の日本共産党員⑭-2018年05月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2018年05月号による。
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 山内敏弘/一橋大学名誉教授-安倍九条改憲。
 西谷 修/立教大学特任教授-安倍改憲。
 丹羽 徹/龍谷大学教授-教育無償化論。
 田中 隆/弁護士-安倍改憲と改正手続法。
 鈴木達治郎/長崎大学核兵器廃絶研究センター長-核。
 桜田照雄 /阪南大学教授-カジノ実施法案。
 斉藤敏之/農民連副会長-卸売市場法。
 大日方純夫/早稲田大学教授-明治150年と自由民権。
 中村晋輔/弁護士-米兵殺人国家賠償。
 佐貫 浩/法政大学名誉教授-教育政策と新自由主義。
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 以上。別の号につづく。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
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 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1783/「前衛」上の日本共産党員⑬-2017年10月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2017年10月号による。
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 小林 武 /沖縄大学客員教授-辺野古・法治主義・憲法。
 徳田博人/琉球大学教授-辺野古・法治主義・憲法。
 中野晃一/上智大学教授-安倍政権。
 渡辺 治 /一橋大学名誉教授-安倍政治。*またもや登場。
 岩見良太郎/埼玉大学名誉教授-アベノミクス。
 中山 徹 /奈良女子大学教授-アベノミクス下の大型開発。
 山田博文/群馬大学名誉教授-アベノミクス・シムズ理論。
 牧野富夫/日本大学名誉教授-安倍政権・働き方改革。
 立石雅昭/新潟大学名誉教授-柏崎刈羽原発再稼働。
 長澤成次/千葉大学名誉教授-地方自治体の社会教育行政。
 格地悦子/相模原市民-公民館活動。
 宮永弥四郎/教育研究者-貧困。
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 *以下、別の号につづく。 

1782/西尾幹二と「日本会議」-2009年対談書。

  西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)の中に、平田文昭との対談の一部が「『日本会議』について」と題して、2頁分だけ収載(再録)されている。
 その元になっているのは、つぎの、p.280~p.282。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)
 この本を昨秋に広大な書庫(?)で探してみたが見つからないので購入したところ、いつだったか、同じこの本が二冊あることに気づいた。すでに所持していたのだ。
 西尾幹二全集だけは巻順に並べて(飾って?)いるが、他の同著書類は一箇所に集めているわけではないし、さすがに対談書までは所持していないのかと思っていた。
 さて、上の2017年著に再収されている部分ではないが、「日本会議」について、元の対談書には興味深い部分もある。
 その辺りにさらに関心をもったのは、ネット上で、この西尾幹二=平田文昭の対談書を、「正誤表」をつけて修正してるのに、出版停止にも絶版にも、修正版の新しい本の刊行もしていないと、それこそ罵倒している文章を見つけたからだった(たぶん昨秋)。
 おそらくは第一刷以降に挿入された一枚の「正誤表」によって西尾幹二発言についての「正誤」訂正の前後を正確に比較してみると、つぎのとおり。
 Aは「正誤表」による修正前、Bは修正後。冒頭に「家」とあるのは「生長の家」で、「生長の」が省略されている。<後日追記ーちょうどページの切れ目だった。>
 違いを明確にするために、ここでは敢えて、原書および「正誤表」とは異なり、一文ずつ改行する。この点と一部の太字化、下線、色づけは秋月によるものであることを明記しておく。
 A「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 B「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったとも聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 以上が(改行を除き)正確な引用で、訂正の前後の違いは、上のBの太い黒字下線の一文が追加挿入されているにすぎない。
 (なお、椛島有三は、現在も日本会議事務総長。
 「四人」とはp.263によると「新田均、松浦光修、勝岡寬次、内田智」で、Bにだけ(正誤表では)出てくる「松浦氏」とは松浦光修であることが分かる。「宮崎事務局長」とは、同頁によると、話題にしている時期の<新しい歴史教科書をつくる会>事務局長だった宮崎正治。) 
 こう見ると、この訂正は松浦光修のために(?)厳密さ、正確さを期したものであって、第一刷本を絶版にするほどの「誤り」では、社会通念上は、または常識的には全くない。
 もっとひどい書物はいくらでも出版、流布されている。
 かりに問題があれば「松浦氏」が仮処分等の申し立てをして法的に争えばよいだけで、わざわざ「正誤表」をつけて発行しているのだから、まだはるかに良心的な方だろう。
 しかるに、私の目を惹いたネット上の書き込みは何だったのだろう。
 現在も掲載されているのかは確認しないが、一枚の「正誤表」が封入されているこだけをもって、それによる訂正・追記の内容に立ち入ることなく、上記の西尾幹二=平田文昭の対談書の全体を非難し、貶めようとするものだ。
 そして、納得がいく。これをネット上に書き込んだのは、椛島有三を事務トップとする「日本会議」または同会もしくは椛島有三に親近的な組織・団体の活動員なのだろう。
 この対談書が「日本会議」に正面から批判的である(西尾幹二もそうだが、平田文昭の方がより厳しい)ことが<気にくわなかった>に違いない。
 2009年時点で「日本会議」や椛島有三等が公式にどういう対応をこの対談書の中身についてしたのかは知らないが、ネット上での書き込みの内容は-このとおり秋月瑛二の貴重な時間をのちに費やさせるごとく-相当に陰湿で、「気味が悪い」ものだった。
 なお、私には特別の関心はないが、上の訂正の仕方だと、<新田均、勝岡寬次、内田智>の三人は「家活動家」だと書かれて、事実誤認だとは考えなかったように見える。おそらく、きっと。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1778/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑪。

 江崎道朗のつぎの本について「悲惨と無惨」と形容するのは、決して誇張した表現ではない。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)からの直接引用部分に限って、その引用の仕方とその引用内容に対する江崎自身のコメントを詳しく見てみよう。以下、<マクダーマット・アグニュー本>とでも略記する。
 まず、前回に江崎はこの本の「付属資料」部分のみから引用していると理解して記述したのは誤りだった。数や全頁数は少ないが、何と執筆者二人によるコミンテルン又はレーニンの政策方針に対する評価・論評をそのまま引用して叙述している箇所がある。
 ①p.50-レーニンの「社会民主主義」批判。
 ②p.58-ロシア革命の当時の民衆にとっての意味。
 ③p.58-9-レーニンの「社会民主主義」批判。
 これらは、江崎自身が理解・了解でき、(意味を)納得できたからこそ、直接引用しているのだろう。
 しかし、マクダーマット=アグニューのように簡単にコメントできるのか自体が問題だ。和洋合わせて必ず数百冊以上は関係文献が存在しているレーニン等の考え方について、<マクダーマット・アグニュー本>というたった一冊のコメントでもって叙述してしまうというのは、恐ろしく信じ難い。
 その内容が客観的に見てレーニン側に立ったもの、ソ連解体以前の公式的論評の仕方に似ていること、したがってかつて日本共産党党が述べた又は強調した点と酷似することについては、直接引用部分の内容に関係するので、さらに別に言及する。
 少し先走って書けば、これらはマクダーマット・アグニューの二人が共産主義・コミンテルンについてまだなお「宥和的」であることによるだろう。
 別に言及するのは、<レーニンの生い立ち>に関する叙述等も含めて、江崎は「左翼的」または共産主義になお「宥和的」な書物(外国の共産党員とみられる者によるものを含む)を、吟味することなく<下敷き>として使っているので、これらは併せてコメントした方がよい、との判断による。
 さて、上以外の18箇所は「付属資料」からの直接引用だが、これらの引用部分は、邦訳書で計31頁、原書で計30頁('Documents')あるうちのごく一部にすぎない。江崎のp61-p.80 は18箇所で引用するが、引用元の資料はつぎの4つ。①~⑱は箇所の順番。
 A<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>-計2箇所で引用。①、②。
 B<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>-計3箇所で引用。③~⑤。
 C<コミンテルン「規約」>-計2箇所で引用。⑥、⑦
 D<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>-計11箇所で引用。⑧~⑱。
 既述のように<マクダーマット・アグニュー本>は計19件の「資料」を、しかも全てそれぞれの「抜粋」を収載しているが(「規約」すら全文ではなくごく一部だ)、江崎道朗が「利用」(引用)しているのは計4資料でしかない。
 かつまた、興味深いことに、邦訳書・原書の「付属資料」番号でいうと、№1、№3、№4、№5であって、最初の部分に集中している。
 今回も上に書いたように「資料」部分は邦訳書・計31頁、原書・計30頁だが、江崎が利用しているのは、そのうちの8頁の範囲の部分だけだ。
 改めて書くと、江崎道朗がたった一冊の本が掲載する「資料」のうち「利用」(引用)しているのは、計19資料のうち4資料、計30-31頁のうち約8頁にすぎない
 これでもって、江崎道朗はこう「豪語」するのだ。再掲する。
本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 唖然とするほかはない。この人の「神経」は私とはまるで異なる。
 つぎに、「しっかり読み込んで理解」しているのかどうかを、検討してみよう。丸数字は、私が付した上に記載の引用箇所番号。以下で言及する文章は、「引用」との明記がない部分は、江崎道朗自身による。
 第一に、つぎのように簡単に書くこと自体が、レーニンら「共産主義者」の術中に嵌まっていることにならないか。
 ①p.61-62のあと。第一次大戦後の「多くの」「…途方にくれていた」人々にとって、「レーニンの言葉は、大いなる説得力をもった」。
 ③p.67のあと。「残念なことに、欧米列強の支配に苦しんでいたアジア・アフリカの独立運動の指導者たちは、このコミンテルンの呼びかけに積極的に呼応していった」。
 第二に、「民族・植民地問題についてのテーゼ」からの引用とコメントの趣旨に疑問がある。なお、前回に記したように、これの全文、およびレーニンのテーゼではないコミンテルン第二回大会での関係演説全文はレーニン全集に収載されているはずだ。江崎が利用(引用)するために見ているのは、そのごく一部だ。
 ④p.68の引用-「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家や民族…」
 ⑤p.69の引用-「後進国における…」、「植民地…」。
 なぜ、江崎道朗はこれらを引用するのか。これは、興味深い論点にかかわる。というのは、江崎は日本と関係していると考える又は判断するからこそこれらを引用しているはずだ。そして、そうなのだとすると、江崎は1920年代の日本を「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家」または「後進国」・「植民地」と見ていることになる。「植民地」は度外視するとしても、こうした日本についての見方はいわゆる<講座派マルクス主義>史観に立つもので、このこと自体について検討・論証が必要だ。
 まさか、コミンテルンをタイトルの一部とする著書を書く江崎道朗が、日本マルクス主義内での<講座派>と<労農派>の対立を知らないままで、執筆しているはずはないだろう。
 第三に、読解または解釈に無理がある、又は強引すぎる部分がある。こう単純化してはいけないだろう。
 ⑤p.69のあと。「…共産党員にすべきであって、仮に共産党員にならないのであれば、容赦なく粛清、つまり殺してしまえと言外に示唆している」。
 ⑨p.73のあと。「排除して置き換える-すなわち場合によっては殺せという意味だ。…コミンテルンに従わない人間はすべて根こそぎにせよという」。
 ⑯p.78のあと。「コミンテルンに入るなら」、「定期的粛清」をせよ。「共産主義が一億人近い人々を殺害した背景には、こうした一方的な粛清を正当化する方針がある」。
 ⑱p.80の前後。「最後の第21条で、再び粛清を義務づけている」。「コミンテルンに従わぬ者は粛清されなければならない-排除、粛清、殺戮が『義務』として課されている」。
 江崎道朗のために少し教示しておこう。
 共産主義・共産党が<思想・意見が異なることを理由として人間を殺してもよい>とする思想であり組織であることは認めよう。
 しかし、「排除」または「粛清」=<殺害>ではない、と理解しておくべきだ。一部に(=ある程度は)含むとしても、等号ではつなげないだろう。
 <テロル>という語もなお多義的で、<粛清>も同じだ。「排除」だと、または「粛清」ですら、除名・党外への追放もまた十分に含みうる。
 The Great Terror (大テロル)ではなくThe Great Purge (大粛清?)という語を同じ意味・内容としておそらく使っている外国語文献を最近に見た。Purge は「パージ」で、(公職からの)「追放」の意味でも日本ではかつて使われた。パージ=粛清=殺害ではない。
 また、purgeよりも、liquidate(liquidation)の方が「粛清」という語感に近いようだが、しかしこれとて、殺戮以外の「排除」・「一掃」という意味ももちうる。
 要するに、「排除」、「粛清」という訳語が使われているからといって、そこに<殺害>の意味をただちに持たせようとするのは、早計だろう。こう強引に「解釈」してしまえるのは、文学部出身の評論家らしい。
 念のため、原書収載の「テーゼ」上の英語はどうなっているかを確認してみる。
 上の⑤(民族11e)-cannot merge with- . 「言外に示唆」しているのかは確言できないが、これは要するに「…とは融合できない」と述べているだけ。邦訳書も同旨。
 上の⑨(規約2条)-remove, replace. これらに明示的または直接の「殺戮」の意味はない。邦訳書では「排除」、「おきかえる」。
 上の⑯(規約13条)- from time to time carry out purges (re-registrations). ()内の語には「殺戮」の意味はないだろう。引用のとおりに邦訳書では「定期的粛清(再登録)」。
 上の⑱(規約21条)- expell. これは「追放」・「除名」の意味であって、明示的または直接には「殺戮」の意味はない。邦訳書も「追放」と訳出している(邦訳書p.304.)
 以上のとおりで、江崎道朗は、無理やり「排除」、「追放」等を<殺戮>の意味だと<言外>以上に明示的に説明?している。
 このような江崎の読解の仕方を知って、この本を信頼できるだろうか。
 すでに上記の中にも含まれているが、第四に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎の説明・コメントには、明確な<間違い>もある。
 悲惨・無惨だ。ひどく中途半端だが、回を改める。/つづく。

1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
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 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
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1776/諸全体主義の相違②完-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)
 試訳のつづき。第5章第6節。p.280-1。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違②。
 要するに、ロシアは社会構造が同質で民族的構造が異質だったので、熱望をもつ独裁者は階級間の敵意に訴えることが想定されえたのだが、状況が反対の西側では、訴えかけは民族主義(ナショナリズム)になったのだろう。//
 とは言え、今きちんと、つぎのことを記しておかなければならない。
 階級にもとづく全体主義と民族にもとづく(nation-based)全体主義は、一つに収斂しがちだ。
  スターリンはその政治的経歴の最初から、大ロシア民族主義と反ユダヤ主義を用心深く奨めていた。
 第二次大戦の間と後で彼は、おおっぴらに、明瞭な熱狂的愛国主義の言葉を使った。
  ヒトラーの側について言うと、彼はドイツ民族主義は制限的すぎると考えていた。
 彼は「私は世界革命を通じてのみ、自分の目的を達成することができる」とラウシュニンクに語り、ドイツ民族主義をより広い「アーリア人主義」へ解消するだろうと予言した。
 『民族(nation)という観念は無意味になってきた。…
 我々はこの偽りの観念から抜け出して、人種(race)の観念へと代えなければならない。…
 歴史的過去を帯びる人々の民族的区別の言葉遣いで新しい秩序を構想することはできない。だが、この区別を超える人種にかかる言葉遣いによってならそうすることができる。…
 科学的意味では人種というものは存在しないと、私は素晴らしく賢い知識人たちと全く同様に、完璧によく知っている。
 しかし、農民で牧畜者であるきみは、人種という観念なくしてはきみの生育の仕事をうまくは成し遂げられない。
 政治家である私は、今まで歴史の基盤の上に存在した秩序を廃棄して全般的で新しい反歴史的な秩序を実施し、そしてそれに知的な根拠を与える、そういうことを可能とする観念を必要としている。…
 そして、人種という観念は、私のこの目的のために役立つ。…
  フランス革命は、国民(民族、nation)という観念を国境を超えて伝播させた。
 国家社会主義は、人種という観念でもって広く革命をもたらし、世界を作り直すだろう。…
 民族主義(ナショナリズム)という常套句には多くのものは残らないだろう。我々ドイツ人には、ほとんど何も。
 その代わりに、善良な一つの支配する人種についての多様な言葉遣いが、理解されるようになるだろう。』(120)//
 共産主義と「ファシズム」は、異なる知的起源をもつ。一方は啓蒙哲学に、他方はロマン派時代の反啓蒙的文化に、根ざしている。
 理論については、共産主義は理性的、構築的で、「ファシズム」は非理性的、破壊的だ。このことは、共産主義がつねに知識人たちに対してきわめて大きい魅力を与えた理由だ。
 しかしながら、実際には、こうした区別もまた、不明瞭になっている。
 じつにここでは「存在」が「意識」を決定するのであり、全体主義諸制度はイデオロギーを従属させ、それを意のままに再形成するのだ。
 記したように、両者の運動は思想(ideas)を、際限のない融通性をもつ道具だと見なす。それは、服従を強制して一体性の見せかけを生み出すために、臣民たちに押しつけられる。
 結局のところ、レーニン主義-スターリン主義の全体主義とヒトラー体制は、いかに知的な起源が異なっていても、同じように虚無主義的(nihilistic)で、同じように破壊的なのだ。//
 おそらく最も語っておくべきなのは、全体主義独裁者たちがお互いに感じていた、称賛の気持ちだ。
 述べてきたように、ムッソリーニはレーニンに大きな敬意を払っていたし、「隠れたファシスト」に変わったことについてスターリンを惜しみなく賞賛した。
 ヒトラーはごく親しい仲間に、スターリンの「天才性」に対して尊敬の念を抱いていることを認めた。
 第二次大戦のただ中でヒトラーの兵団が赤軍との激しい戦いで阻止されていたとき、彼は両軍が一緒になって西側の民主主義諸国を攻撃し、破滅させることを瞑想した。
 このような両軍の協働に対する一つの重大な障害は、ソヴィエト政府の中のユダヤ人の存在だった。これは、ヒトラーの外務大臣のヨアヒム・リッベントロップ(Joachim Ribbentrop)にソヴィエト指導者が与えた、非ユダヤ系の適切な幹部の地位に就けば指導的部署から全てのユダヤ人を排除するとの保証、を考慮すれば解消できるように見えた。(121)
 そしてその代わりに、最も過激な共産主義者の毛沢東は、ヒトラーとその方法を称賛した。
 きわめて多くの同志の生命を犠牲にした文化革命のさ中に非難が加えられたとき、毛沢東は、「第二次大戦を、ヒトラーの残虐さを見よ。残虐さが強ければ強いほど、革命への熱狂はそれだけ大きくなる」、と答えた。(122)//
 根本のところで、左と右の様式がある全体主義体制は、類似した政治哲学と実践によってのみならず、それらの創設者の共通する心理によって結び合わされている。
 すなわち、搔き立てる動機は憎悪であり、それを表現したのが暴力だ。
 彼らの中で最も率直だったムッソリーニは、暴力は「道徳的な治癒療法」だ、人々を明白な関与に追い込むのだから、と述べた。(123)
 この点に、そして自分は疎外されていると感じている現存の世界を、どんな犠牲を払ってでも全ての手段を用いて徹底的に破壊しようとの彼らの決意のうちに、彼らの親近性(kinship)があった。//
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 (120) Rauschning, Hitler Speaks, p.113, p.229-230.
 (121) Henry Picker, ed., Hitlers Tischgespräche im Führerhauptquartier, 1941-1942 (Bonn, 1951), p.133. 
 (122) NYT(=New York Times), 1990年8月31日号, A2.
 (123) Gregor, Fascist Persuasion, p.148-9. 
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 第5章第6節、そして第5章全体が、これで終わり。

1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1773/三全体主義の共通性⑨-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.276~p.278。
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 Ⅲ・党と社会③
 ムッソリーニは、ヒトラーが従った様式を基礎にした。
 彼は、「自然の」、ゆえに不可侵の権利だと承認することはしないで、私有財産はファシスト国家で存在する余地があると感じていた。つまり、彼にとっては財産所有権は条件つきの権利であって、国家の利益に従属する。国家はそれに介入し、生産手段に関するかぎりは国有化によって廃止する権限をもつ。(104)
 ファシスト政府はしきりに、経営が下手なため、労働関係が悪いためあるいはその他の理由の何であれ、政府の期待に添って活動しない私企業に介入した。
 政府当局はしばしば、労働組合を対等な協力者と見なさなければならなったことに怒りをもつ企業経営者たちと激論した。
 また、利益を「調整」し、経営者を交替させることで、生産や配分の過程にも介入した。
 このような実務に言及して、当時のある人は、ファシズムのもとでは私企業は労働者と同様に統制されるのだから、それを「成功した資本主義」と見なすのは適切でない、と観察した。(105)//
 ナツィスもまた、私企業を廃止する根拠はないと考えた。私企業は協力的で、ヒトラーが主要な経済目標として設定していた再軍備を助けようとしていたから。
 私的事業を許すのは一時的対応措置で、信念の問題ではなかった。
 ファシスト党のように、ナツィス党は私有財産の原理を承認したが、人的資源のごとく生産手段は「共同体」の利益に奉仕しなければならないという理由で、その神聖性を否定した。
 あるナツィの理論家の言葉によれば、「財産権は…もはや私的事柄ではなく、一種の国家による特権であって、『適切な』用法で使われるべき条件次第で制限される」。(106)
 もちろん、「私的事柄」ではない「財産権」は、もはや私的財産ではない。
 国民精神を体現化する総統は、「『共同体の任務』と合致する場合には、意のままに財産権の制限または収奪を行う」権利を有する。(107)
 ドイツ国家社会主義労働党が唯一の合法政党だと宣言した1933年7月14日に、ある法律が党と国家の「利益」に反する全ての財産を没収する権限を与えた。(108)
 共産主義者の実務から直接に借用して同じ目的、つまり急速な再軍備、を意図するナツィの四カ年計画は、国家が経済活動に介入する権能を大きく高めた。//
 『マルクス主義やネオ・マルクス主義の神話をもつ世代の者は、やはりおそらくは、1933年と1939年の間のドイツ経済のような非資本主義的な、または反資本主義的な方向にすら向かう、表向きは資本主義経済なるものを、平和時には決して知らなかった。…
 第三帝国での企業の地位はよくても、屈服することが成功の条件である、不平等な相手同士の社会上の契約の産物だった。』(109)
 土地を処分する農民の権利は、農民を家族の中に守るという考えから、厳格に規制された。
 事業に対する干渉は恒常的にあり、株主配当金として支払うことのできる収益の高さを制限するまでになった。
 ラウシュニンクは、西側の妥協者に対して1939年に、「ナツィスによるユダヤ人財産の収奪は第一歩にすぎず、ドイツの資本家と以前の支配階層の経済的地位を全体的にかつ不可逆的に破壊することの始まりだ」と警告した。(111)//
 ナチズムを「ブルジョア」的性格のものだとするのは、いずれも歴史上の証拠がないと反証される二つの論拠に依拠している。
 ヒトラーが権力への途上にあるときに、彼は産業界や銀行界から経済的な支援を受けた、と広く信じられてきた。
 しかしながら、文書記録上の証拠が示すのは、大企業はヒトラーにわずかの金額しか与えておらず、社会主義的スローガンに疑念をもったために、ヒトラーに対抗する保守諸政党へのそれよりもはるかに少なかった、ということだ。//
 『まったくの事実の歪曲のゆえにのみ、大企業者は(ワイマール)共和国の崩壊について深刻な、あるいは重大ですらある役割を果たしうることになった。…
 共和国解体についての大企業の役割が誇張されてきたとすれば、そのことはヒトラーの権力掌握についてのその役割について、もっと本当のことですらある。…
 国家社会主義労働党の初期の成長は、大規模な企業界からのいかなる大きな援助にもよることなく、生起した。』(112)
 第二に、ナツィ体制の期間のいつのときでも大企業は政策をナツィに押しつけるのは別としてナツィの政策に抵抗できた、ということを示すことはできない。
 あるドイツのマルクス主義歴史家は、ヒトラーのもとでの資本家階層の地位を、つぎのように叙述する。
 『ファシズムの自己認識からすると、ファシストの統治制度の特徴は政治の優越性にある。
 政治の優越がきちんと守られるかぎり、どの集団がその体制から利益を得ているかは関心のない事柄だった。
 ファシストの世界観によれば、経済秩序は二次的な重要性しかもたず、したがって彼らは現存する資本主義秩序も受け入れた。』(*)
 別の学者はこう書く。
 『国家社会主義運動は最初から、政治決定に対して現実的な影響を与えない地位に満足しているかぎりでのみ実業家や特権階層を許容する、そういう新しくて革命的なエリートたちによる統治を目指した。』(113)
 そして彼らは、余裕のある国家秩序やそれが与える収益に満足した。//
 これとの関係では、レーニンはドイツ帝国政府からはもちろんロシアの富裕層から金銭を貰ことに何の呵責も感じなかった、ということを忘れるべきではない。(114)
 権力へと向かっているとき彼は、資本家たち諸団体が新体制と協調関係をもって活動できるように交渉を開始して、喜んでロシアの大企業と協力した。
 その計画は、共産主義を進行させようと強く主張する左翼共産主義者たちの反対によって無意味になった。(115)
 しかし、意図はそこにあった。そして、かりにレーニンが新経済政策を始めた1921年にロシアの大規模な資本主義工業や商業のうちの何かが生き延びていたとするならば、彼はほとんど確実に、それと交渉を始めていただろう。//
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 (104) A. James Gregor, Ideology of Fascism (New York, 1969), p.304-6.
 (105) Beckrath, Wesen und Werden, p.143-4.
 (106) Theodor Maunz, in: Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.146-7.
 Feder, Der deutsche Staat, p.22 も見よ。
(107) Schoenbaum, 引用同上, p.147.
 (108) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.247.
 (109) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.114, p.116.
 (110) Neumann, Permanent Revolution, p.160-p.170.
(111) Rauschning, Revolution of Nihilism, p.56.
 (112) Henry A. Turner, Jr., German Big Business and the Rise of Hitler (New York, 1985), p.340-1.
 (*) Axel Kuhn, Das faschistishe Herrschaftssystem (Hamburg, 1973), p.83.
 この著者は、「ファシスト」をナツィの意味で用いている。
 ワイマール共和国では産業界は「…統治形態に対する驚くべき無関心さを示した」、ということが指摘されてきた。Henry A. Turner , in: AHR(=American Historical Review), Vol. 75, No. 1 (1969), p.57.  
 (113) Neumann, Permanent Revolution, p.170.
 (114) リチャード・パイプス・ロシア革命, p.193, p.369-372, p.410-2。
 (115) 同上、p.676-9。
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 第5節「三つの全体主義体制に共通する特質」終わり。第6節「…相違」へとつづく。

1772/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑨。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 この本での、江崎道朗の大言壮語、つまり「大ほら」は、例えば以下。
 ①p.7「本書で詳しく描いたが、日本もまた、ソ連・コミンテルンの『秘密工作』によって大きな影響を受けてきた」。
 ②p.7-8「コミンテルンや社会主義、共産主義といった問題を避けては、なぜ…、その全体像を理解するのは困難なのだ。本書は、その『全体像』を明らかにする試みである」。
 ③p.15「ソ連・コミンテルンによる『謀略』を正面から扱った本書が、…ならば、これほど嬉しいことはない」。
 ④p.95「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 秋月瑛二のコメント。番号は上に対応。
 ①-「本書で詳しく描いた」というのは本当か?
 ②-「全体像を明らかに」する<試み>をするのはよいが、どの程度達成したと考えているのか。
 ③-「謀略」を「正面から扱った」? いったいどこで?
 ④-なるほど「本書で使っている」資料は全て公開されているのだろう。しかし、コミンテルンに関する「公開」資料のうち、いかほどの部分を江崎は「使って」、「しっかり読み込んで理解」しているのか。江崎のコミンテルンに関する資料・史料の使い方・読み方は、後記のとおり、かなり偏頗だ。
 「公開」資料の全てまたはほとんどを「しっかり読み込んで理解」しているとは思われないので、江崎道朗は「インテリジェンスの第一歩」も踏み出していないことになるだろう。
 この部分はまるで、江崎が「公開」コミンテルン資料を全て又はほとんど読んでいるかの印象も与えるが、これは<大ウソ>。
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 1919年に設立された共産主義インターナショナル(コミュニスト・インター)=コミンテルンについて、「しろうと」にすぎない秋月瑛二ですら、次のようなことは指摘できそうだ。
 第一。共産党-国家(社会主義ロシア・ソ連)-コミンテルンという関係・連関の中で理解する必要がある。
 コミンテルンは共産党や国家(1922年以降のソ連)の対外・外交・戦争政策と深い関係がある。したがって、コミンテルンのみに関して著述がされていなくても、レーニン、スターリンあるいはロシア・ソ連共産党あるいはソヴィエト共産主義に関する(主として歴史)叙述の中で併せてコミンテルンにも言及される、ということがしばしばある。
 江崎道朗は「コミンテルン」をタイトルにする書物だけを検索し参照したとすれば、根本的に間違っている、と言うべきだろう。
 上のことは、共産党やロシア国家の基本的政策・方針が変われば、あるいは揺れれば、コミンテルンのそれも容易に変動するという関係にある、ということでもある。コミンテルンだけを独自の「変数」として取り扱うのは危険だ。
 しかし、共産党=(1922年以降の)ソ連=コミンテルン、と単純に理解することもできない。
 平井友義・三〇年代ソビエト外交の研究(有斐閣、1993)というソ連史アカデミズム内とみられる書物がある。
 目次から安易に引用すると、まず、「第一章/ナチス政権の出現とソ連の対応」の第一節は「ソ連、コミンテルンおよびナチズム」という見出しだ(p.17)。
 当然のようだが、「ソ連、コミンテルン」と<別に>語っていて、両者を一括していないことを確認しておきたい。(江崎道朗とは違って)研究者・学者では常識的なことなのだろう。
 つづくのは、「第二章/コミンテルンにおけるソ連ファクター」だ(p.68-)。そしてここでは、コミンテルンの戦術・方針が「ソ連ファクター」内部での論争によって揺れ動いていることが叙述・分析されているように見える。
 ともあれ、江崎道朗が叙述するのとはまるで異なる次元の、研究・分析の世界があることを、江崎は知らなければならない。
 第二。コミンテルンもまた、歴史的に変遷している可能性がむろんあるのであって、単色で一貫させることはできない。
 「しろうと」的には、少なくとも、①レーニン時代、②スターリン時代の1935年頃まで、③スターリン時代の、1935年のコミンテルンの大きな方針転換(議長はディミトロフ)-「人民戦線」・「反ファシズム統一戦線」への転換-以降。
 すでに書いてしまうと、上の本での江崎のコミンテルンに関する叙述は、ほとんどが上の①、部分的には②あたりにまで焦点を当てすぎているようだ。
 そして、江崎が下記の資料・史料を用いるのはこのあたりの時期のコミンテルンについてであって、重要な上の③については、論及はあるが(江崎p.231以下)、本格的には、あるいはきちんとは叙述していない、と考えられる。
 大雑把には、1920年代、1935年まで、1935年以降と三期に分ける必要があるかもしれない。だが、江崎の上の本のコミンテルンの叙述の仕方には、こうした注意深さはない。
 さらについでに書いてしまうと、前回触れたようにコミンテルンの現在まで続く「流れ」に触れながら、おそらくどこにも、これの後継組織に近いと常識的には理解できる<コミンフォルム>への言及がないようだ。
 戦後の日本共産党史にとって、つまりは1950年頃に同党に対して重要な影響を与えた<コミンフォルム>への言及がおそらく全くないとは、いかに戦前の歴史に対象を限っているとしても、不思議なことだ。
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 江崎道朗が上の本で参照している、または「下敷き」にしている、コミンテルンに関する史料・資料となる書物は、おそらく以下に限られている。しかも、多くは①によっている
 ①ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)
 ③ステファヌ・クルトワら・共産主義黒書-犯罪・テロル・抑圧-<コミンテルン・アジア篇>/高橋武智訳(恵雅堂出版、2006)
 上記のとおり、江崎道朗は「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」と豪語?しているが、何のことはない、この人が読んで(見て)いるのは、これらだけだと思われる。しかも、繰り返せば、ほとんどは、上の①だ。
 江崎道朗による①への依拠ぶりを、<マクダーマットら/萩原直訳・コミンテルン史(大月)>からの直接引用らしき行数をメモしておこう。
 p.50-10行、p.58-2行、p.58-59-4行、p.61-62-3行、p.65-66-9行、p.67-5行、p.68-8行、p.69-70-8行、p.71-72-計16行、p.73-74-計8行、p.75-76-計11行、p.77-5行、p.78-79-計10行、p.80-2行。
 コミンテルンの大会決定・規約等々のそのままの引用だが、これらを単純に合計すると、合計で102行になる。1頁が15行分なので、合計するとほとんど7頁が、つまりは30頁ほどの範囲の約4分の1がこの本からの直接引用で占めているようだ。
 もちろん、この前後に、この本を参照した、または<下敷き>にした、江崎道朗自身の文章が挿入されている。これを合わせると、大雑把にはやはり30頁ほど以上はこの本の影響を受けている。
 たしかに-以下のソースの問題はあるが-引用部分は重要かもしれない。しかし、既述のように、初期の(レーニン時代の)、かつ表向きだけのコミンテルンの公式文書だけを見て、コミンテルンを理解することはできない、と考えられる。
 それにもともと、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)とは、いかなる、いかほどに信頼できる書物なのだろう。
 史料・資料自体は、引用部分に限っては、正確なのかもしれない。
 しかし、この邦訳書を見ると、江崎が引用する典拠としている<付属資料>部分は33頁しかない(p.295~p.327。本文等も含めて、この著の邦訳書自体は計380頁足らず)。
 また、コミンテルンの19の文書だけが資料として添付、掲載され、かついずれも「抜粋」でしかない。
 要するに外国人(イギリス人)著者の二人が選抜した決定等文書19のうちの、かつ彼らが行った「抜粋」なのだ、と思われる(日本人訳者の介在・関与の程度・部分は必ずしも明瞭でない、p.295を参照)。
 その選別や「抜粋」に江崎道朗の判断、選択が加わっているはずはないだろう。
 そういう<狭い>範囲の中から、さらにその一部を江崎は<引用>し、おそらくは自分の説明や叙述の<下敷き>にしている。
 では、この二人は何者なのか(なぜ、大月書店が萩原直訳で出版したのか)、かつまた、コミンテルンに関する「公開」の、つまり日本語で読める翻訳資料・史料は、これ以外になかったのか。要するに、いかほどに江崎道朗は、コミンテルンに関する(日本語のものに限っても)資料・史料の探求を試み、「読み込んで」、「理解」しているのか。
 「政治」評論家・江崎道朗の<安直さ>が-見方によれば、悲惨さと無惨さが-この部分についても、明らかになるだろう。/つづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1770/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑧。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)
 この本のp.95にこうある。コミンテルンの「流れは、現在に至るまで脈々と続いている」。
 そしてつづけて、「国際共産主義運動による様々な工作」を防ぐ必要のあることを、現在の日本の問題として叙述している。
 これはよし、と言ってよい。<現在の日本と共産主義>という問題意識が全くないか、きわめて薄い<保守>なる人物が、日本にはきわめて多数いるのだから。
 しかし、次のように記す江崎道朗はいかほどに共産主義・コミンテルン等々の「理論」を「理解」できているのか。
 「国際共産主義運動による様々な工作を防ぐ必要があると思うのなら、彼らがこのような理論に基づいて戦っていることを理解する必要がある」-p.95。 
 本格的に上掲著に論及し始めた最初に、たしか、この人は国家・党・コミンテルンの区別ができていない、と指摘した。
 今思うに、江崎道朗にとっては、高次すぎる問題だったような気がする。
 はたして江崎は、中国共産党の党大会と中国(国家)の全人代の区別ができているのだろろうかと、はなはだ疑問に思っている。
 さしあたりここでの結論的指摘を書いておくと、この人、つまり江崎道朗は、「コミンテルン」という語を単色の符号のようなものとして用いていて、ソ連や同共産党等といちおうは区別しなければならない、という意識がない、と想定される。
 「ソ連」と「コミンテルン」を混用していることはすでに例・頁数を示して指摘した。
 こんな例もある。
 p.33-「近衛政権の中枢にソ連のスパイがいた…」。
 同-「ゾルゲは…、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた」。
 いずれも、「コミンテルン」のスパイではないことを自ら書いているに等しいが、おそらく江崎には、何ら気にならないのだろう。 
 要するに、ソ連も共産党も「コミンテルン」も全てが、彼には「コミンテルン」という語で一括できるものなのだ。
 そしてまた、タイトルに「コミンテルンの謀略」と掲げながら、積極的な「工作」がなくとも自ら進んでソ連等のためになるような行動を客観的にはすることもまた江崎は「謀略」活動の一環としてかなり強調して叙述しているので、「コミンテルンの謀略」とは、江崎道朗にとっては、要するにロシア・ソ連以外の日本やアメリカにもいる(ある)「共産主義(者)」の親共産主義的活動のことなのだ。
 とすると、タイトルは正確には、<共産主義と(日本の)戦争>という意味であることになる。
 こうなると、江崎の本自体が(ようやく?)後半になって参照文献として登場させている、三田村武夫・戦争と共産主義(1950年。改題、1987年。呉PASS出版・復刻2015年)と主題は同一で、江崎の本は60年以上前の本の指摘・叙述をいかほどに上回っているのか、という問題も出てくるだろう。
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 ロシア・ソ連、共産党(ボルシェヴィキが1918年に改称)、コミンテルンの関係は微妙で、むろん江崎道朗のように一括して単純化することができなくはない。
 しかし、最近に試訳したアメリカのロシア史学者(但し、R・レーガン政権で対ソ連政策補佐官)のR・パイプスの本が「党」=ボルシェヴィキ又は共産党のことを明確に「私的組織」と記述しつつ、近代以降の欧米政治思想の「標準的範疇・概念」にうまくフィットしない旨をと述べているように、また問題がなくはないが<一党国家>(one-party state)という語もあるように、<共産党>はたんなる一政党ではなく、しかし国家そのものでもないという、独特な位置を占める。
 そもそもは江崎道朗が何ら知らないと見られる、つぎのことに由来するかもしれない。
 10月「革命」直後にソヴィエト執行委員会のもとにソヴナルコム(人民委員会議)が形成されて、レーニンは「人民委員会議の議長」(実質的に「首相」とも言われる。外務大臣=外務人民委員はトロツキー、民族問題長官はスターリン)だった。これは、(ソヴェトとは何だったかが本当は疑問になるが)いちおうは<国家>の機構だ(但し、実質的に「布令」・「布告」という立法権も有したので単純に今日の日本の「内閣」と理解すると間違い)。
 一方、レーニンはボルシェヴィキ党(1918年に共産党に改称。ゆえに「共産党(ボ)」という表記がのちのちにまで続く)の中央委員会の長(「委員長」という語は文献上は出てこないようだ)であり続けた。
 国家・「内閣」の長であり、党の長でもある。しかし、両者は形式的にはずっと「別」のものではあった。中国の習近平は中国の国家主席かつ中国共産党のトップだ。
 余計なことも書いたが、要するに、江崎道朗は、こうしたことにまるで関心がないと思われる。<国家と党>の関係に立ち入ることなくして、今日の「国際共産主義運動」を語れるのだろうか(なお、北朝鮮における国家・党(北朝鮮と労働党)の関係も興味深い)。
 また、ロシア「革命」と「ソ連」設立の時期、ロシア・ソ連国家内部の機構の関係にまるで関心がないか無知な江崎の本だからこそ、つぎのような叙述もできる。
 p.61はつぎのように明記する。コミンテルンが「1919年3月にモスクワで結成される」、と。
 ところで、「ソ連」設立は1922年で、コミンテルン(第三インター)創設よりも後。
 事実はそうなのだが、つぎの文章はどういう意味だろう。
 p.81-チェカは「ボルシェヴィキ(ソ連共産党)が権力を掌握してから6週間足らずのうちに設立」された。
 p.83-チェカは「ソ連共産党(ボルシェヴィキ)が奪取した権力を維持する上で不可欠の装置だった」。
 江崎はボルシェヴィキ=ソ連共産党だと「思い込んで」いる。
 ソ連設立前に「ソ連共産党」がある筈はない。
 時期を確かめないが、ロシア社会民主(労働)党がメンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に決定的に分裂したときが「ボルシェヴィキ」党創立だとすると、1917年よりもとっくの前から、レーニンが指揮するボルシェヴィキ党は存在している。上に触れたが、1918年春に「共産党」と改称したが、むろんそのときは「ロシア共産党」。
 江崎道朗の関心のなさまたは無知は、チェカと赤軍(情報部)に関する叙述にも見られる。
 チェカと赤軍(情報部)はもともと別の目的を持つ機関のはずだが、江崎の本のp. 84は「国外からの反革命に対しても、当初はチェカーが対応していた」と記して何とかつないでいるようだ。
 但し、外国やその組織の「策略」・「使嗾」による<国内での>反革命運動・人物ならば当然にチェカの監視等の権限の範囲になる。
 それはともかくとしても、p.81-p.82のチェカやジェルジンスキーに関する叙述はいったい何なのだろう。
 「コミンテルン」なるものの中に、江崎は当然にロシア・ソ連国内の「政治秘密警察」部門も含めることになる。全てが<ごちゃごちゃ>だ。
 また、ジェルジンスキーが強く関与することになったと江崎が書く「赤軍・情報部」とはどういう組織なのか。
 江崎道朗はトロツキーの主張として叙述する中で、p.84に「赤軍(ソ連共産党軍)参謀本部に情報部門を設置すべきだ」と彼は主張した、旨を記している。
 トロツキーが赤軍=「ソ連共産党軍」と理解しているはずはない。
 江崎に尋ねたいものだ。ソ連共産党には「軍」があり、ロシア革命後の国家であるロシア・社会主義共和国連邦やソ連には「軍隊」はなかったのか?
 いや,江崎道朗には、どうでもよいことなのだろう。
 社会主義ロシアもソ連もボルシェヴィキ・共産党もどうだってよいのだ、この人には。さらに、これらと「コミンテルン」の区別もまた、この人にはどうだってよいのだ。
 今回の冒頭に記したように、共産主義(者)=「コミンテルン」なのだ、江崎道朗にとっては。ああ、恥ずかしい。/つづく。

1769/三全体主義の共通性⑦-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.272~p.274。
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 Ⅲ〔第三款〕・党と社会①。
 民衆を独裁者の手中にある本当に黙従する素材にするためには、政治に関する意見発表を剥奪するのでは十分でない。 
 彼らの公民的自由-法による保護、集会・結社の自由そして財産権の保障-を剥奪することも必要だ。
 この「権威主義」(authoritarianism)を「全体主義」と分かつ線上にある途へと、独裁制は進んだ。
 合衆国で1980年にジーン・カークパトリック(Jean Kirkpatrick)が最初に広めたのだが、また、彼女から引用してレーガン政権がよく使う、それゆえにある者は冷戦のための修辞だとして拒否する用語法になったのだが、この区別の先行例は、1930年代の初期にさかのぼる。
 ナツィによる権力奪取の直前だった1932年に、一人のドイツ人政治学者が<権威主義国家か全体主義国家か?>というタイトルの本を書いた。そこで彼は、この区別を明瞭にした。(96)
 ドイツの亡命学者のカール・レーヴェンシュタイン(Karl Loewenstein)は、1957年に、このように二つの体制を区別した。
 『「権威主義的」(authoritarian)という語は、単一の権力保持者-一人の個人または「独裁者」、集団、委員会、軍事政権(junta)、あるいは党-が政治権力を独占する政治組織を意味する。
 しかしながら、「権威主義的」という語はむしろ、社会の構造よりも統治の構造に関連する。
 通常は、権威主義体制は、共同体の社会経済生活を完全に支配しようとする欲求を持たないで、国家を政治的に統制することに自らを限定する。…
 これと対照的に、「全体主義的」という語は、社会の社会経済上の活力、生活の態様に関連する。
 全体主義体制の統治技法は、必ずや、権威主義的だ。
 しかし、この体制は、国家意思の形成に正当に関与する権能を相手方たる民衆から剥奪すること以上のはるかに多くのことをする。
 この体制は、私的な生活、精神、感情、そして市民の習俗を鋳型に入れて、支配的イデオロギーに合うように作り上げようとする。…
 公式に宣明されたイデオロギーは、社会の隅々と裂け目の全てに浸透する。
 そのもつ野望は、「全体的」(total)だ。』(*)//
 二つの類型の反民主主義体制の区別は、20世紀の政治を理解するためには基礎的なものだ。
 見込みなくマルクス主義-レーニン主義の用語法の陥穽に嵌まった者だけが、ナツィのドイツと、まぁ言ってみると、サラザール(Salazar)のポルトガルまたはピルズドスキ(Pilsudski)のポーランドとの違いを理解することができないだろう。
 権威主義体制は、現存する社会を過激に変えて人間自体を作り直そうとすら懸命に努める全体主義体制とは異なり、防衛的なもので、その意味では保守的だ。
 権威主義体制は、調整のつかない政治的社会的利害に翻弄されて、民主主義諸制度がもはや適切に機能を果たすことができなくなったときに、出現する。
 それは、基本的には、政治的な意思決定を容易にするための手段だ。
 統治するにあたって、それは、支えてくれる伝統的な淵源に依拠する。そして、社会を「設計して構築する」(engineer)よう努めるのでは全くなくて、現状を維持しようと努める。
 知られるほとんど全ての場合で、権威主義的独裁者が死亡するか追放されたのがいつであっても、それらの国々は民主政体を再建する困難さをほとんど経験しなかった。(**)//
 このような基準で判断すると、スターリニズムを最頂点とするボルシェヴィキ・ロシアだけが、完全に発展した全体主義国家だと性質づけられる。
 なぜなら、イタリアとドイツは、社会を原子化するのを意図するボルシェヴィキの方法を摸倣したが、最もひどいとき(戦争中のナツィ・ドイツ)ですら、レーニンが意図しスターリンが実現したものには及ばなかった。  
 ボルシェヴィキの指導者たちはほとんどもっぱら強制力に頼ったのに対して、ムッソリーニは、そしてヒトラーですら、強制を合意と結合すべきとのパレート(Pareto)の助言に従った。
 彼らは命令が疑いなく遵守されている間は、社会とその諸制度を無傷なままで残そうとした。
 この場合には、歴史的伝統の相違が決定的だった。
 ボルシェヴィキは、数世紀にわたる絶対主義体制のもとで政府を専制的な権力と同一視することに慣れていた社会で活動した。そして、社会を奪い取ってそれを管理しなければならなかっただけではなく、責任を果たしていると示すために厳密には必要だった以上の抑圧を行った。
 ファシストもナツィスも、それぞれの国の社会構造を破壊しはしなかった。それが理由で、第二次大戦で敗北した後に、それらの国は速やかに正常状態に戻ることができた。
 ソヴィエト連邦では、1985年と1991年の間のレーニン主義-スターリン主義体制の全ての改革の試行は、社会的であれ経済的であれ、全ての非政府諸制度が最初から建設されなければならなかったために、行き着くところがなかった。
 その結果は、共産主義体制の改革でも民主政体の確立でもなく、組織的な生活の継続的な瓦解だった。//
 ロシアで自立した非政府諸制度の破壊が容易だったのは、形成されつつあった社会制度の全てが1917年のアナーキー(無政府状態)によって分解されたことによっていた。
 いくつかの(例えば、労働組合、大学および正教教会の)場合には、ボルシェヴィキは既存の管理者を自分たちの党員で置き換えた。それ以外では、単純に解体させた。
 レーニンが死亡する頃までには、共産党の直接の支配のもとにないいかなる組織も、ロシアには事実上は存在していなかった。
 生活に必要な一時的な借地が認められた農村共同体を例外として、個々の公民と政府との間を取り持つことのできるものは何も存在しなかった。//
 ファシスト・イタリアとナツィ・ドイツでは、私的団体ははるかによく活動できた。とくに、党の統制のもとに置かれてはいたけれども、労働組合は、民主主義社会の市民には取るに足らないと思われるほどのものでもソヴィエト同盟では労働者の届く範囲から完全に除外された、ある程度の自治と影響力とを享受し続けた。//
 ムッソリーニは、イタリア社会に対する自分の個人的な権威を強く主張しつつ、政治組織に関して示したのと同じ用心深さをもって、ことを進めた。
 ムッソリーニの革命は、二つの段階を経て進展した。
 1922年から1927年まで、彼は典型的な権威主義的独裁者だった。
 彼の全体主義への動きが始まったのは、私的団体の自立性を奪った1927年だった。
 その年に彼は、全ての私的団体に対して、その規約と構成員名簿を政府に提出することを要求した。
 この方法は、それらの団体を隊列に取り込むことに寄与した。それ以降にファシスト党に順応しようとしない諸組織の構成員は、個人的なリスクを冒すことになったのだから。
 これと同じ年に、イタリアの労働組合は伝統的な諸権利を剥奪され、ストライキが禁止された。
 そうであってすら、ムッソリーニが私的企業への対抗機構として利用したので、労働組合はある程度の力を維持した。ファシストの法制のもとでは、企業は、党による全般的な指導のもとで、労働組合の代表者たちに意思決定に関与する同等の権利を与えなければならなかったのだ。//
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 (96) H. O. Ziegler, Autoritaeter oder totaler Staat ? (Tübingen, 1932).
 (*) Loewenstein, Political Power and the Government Process (Chicago, 1957), p.55-p.56, p.58.
 不適切なことだが、レーヴェンシュタインは、1942年にファシスト後のブラジルの独裁者、ジェトリオ・ヴァルガス(Getulio Vargas)に関する本でこの区別を導入したという名誉を求めた(同上、p.392、注3)。
 (**) その例は、フランコ(Franco)のスペイン、サラザールのポルトガル、軍事政権排除後のギリシャ、ケマル・アタテュルク(Kemal Atatürk)のトルコ、そしてピノチェト(Pinochet)のチリだ。
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 党と社会②へとつづく。

1768/「前衛」上の日本共産党員⑫-2013年10月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。少なくともこの時点では。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2013年10月号による。
 党員であることが当然の国会議員等の議員、党役員・専従職員(赤旗記者等)等は省いている。
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 尾藤廣喜/弁護士・生活保護問題対策全国会議代表幹事。
 立石雅昭/新潟大学名誉教授-原発再稼働新基準。
 児美川孝一郎/法政大学教授-若者の就職活動。
 大内裕和/中京大学教授-奨学金問題。
 吉田好一/国際人権活動日本委員会代表委員-日本の人権。
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 *以下、別の号につづく。

1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。p.269~p.271。
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 Ⅱ・支配党と国家③。
 〔目次上の見出し-「群衆の操作とイデオロギーの役割」〕
 「人々を全ての政治領域から排除すること」、およびその帰結である政治的生活の廃絶は、ある種の代用物を要求する。
 民衆のために語るふりをする独裁制は、単純に前民主政的な権威主義モデルに変えるというわけにはいかない。
 全体主義体制は、アメリカのおよびフランスの革命以降に投票者の10分の9またはそれ以上だと広く承認されている、民衆の意思を反映していると主張する意味では、「民衆的」(demotic)だ。 そして、大衆の積極的関与という幻想を生み出す、荘大な見せ物だ。//
 政治ドラマの必要はすでにジャコバン派によって感じ取られていて、彼らは、「至高存在」を讃えたり、7月14日を祝ったりする、手の込んだ祝祭でもって独裁制を偽装した。
 全権をもつ指導者たちと力なき庶民たちが一緒に世俗的儀式を行うことで、ジャコバン派は、その臣民たちとともにあるのだという意識を伝えようとした。
 ボルシェヴィキ党は内戦の間に、その乏しい資源をパレードを実施することや、バルコニーから数千の支持者に呼びかけることに使った。そして、近時の出来事にもとづいて、青空下の舞台で演劇を上演すること。
 このような見せ物の演出者は、観衆から役者を、そして民衆から指導者を、隔てる障壁を、かなりの程度まで壊した。
 大衆は、フランスの社会学者のギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)が19世紀後半に定式化した原理に合致して、動かされた。ル・ボンは、群衆とは、心霊的(psychic)な操作を喜んで受ける客体に自分たちをする、まるで異なる集団的人格体だと述べた。(*)
 ファシスト党は最初に、1919-20年のフューメ(Fiume)占領の間にこうした方法を使って実験した。そのときこの都市を支配したのは、詩人政治家のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio)だった。
 『ダヌンツィオが主役を演じた祭典の成功は、指導者と指導される者の境界を廃棄するものと想定された。そして、公会堂のバルコニーから下にいる群衆に向けた演説は(トランペット演奏が付いて)、同じ目的を達成することとなった。』(94)
 ムッソリーニと他の現代の独裁者は、このような方法は必須のものだと考えた-娯楽としてではなく、支配者と支配される者の間の分かち難い結びつきに似る印象を反対者や懐疑者に対して伝えるために考案された儀式として。//
 このような演出については、ナツィスを上回る者はいなかった。
 映画や演劇の最新の技巧を使い、ナツィスは止まることを知らない根本的な力に似た印象を参加者や見物者たちに伝える集会や無宗教儀礼でもってドイツ人を魅了した。
 総統とその人民との一体性は、大群の幹部兵士のごとき制服姿の男たち、群衆のリズミカルな叫び声、照明および炎や旗によって象徴された。
 きわめて自立した精神の持ち主だけが、このような見せ物の目的を認識できる心性を保持することができた。
 多くのドイツ人にとって、このような生き生きとした見せ物は、投票数を機械的に算定することよりもはるかによく、民族の精神を写し出すものだった。
 ロシア社会主義者の亡命者だったエカテリーナ・クスコワ(Ekaterina Kuskova)は、ボルシェヴィキと「ファシスト」両方による大衆操作の実際を観察する機会をもった。そして、強い類似性を1925年に記した。//
 『レーニンの方法は、<強制を通じて納得させること>だった。
 催眠術師、煽動者は、相手の意思を自分自身の意思に従わせる-ここに強制がある。
 しかし、その相手たる主体は、自分の自由な意思で行動していると確信している。
 レーニンと大衆の間の紐帯というのは、文字通りに、同一の性質をもつものだ。…
 まさしく同じ様相が、イタリア・ファシズムによって示されている。』(95)
 大衆はこのような方法に従い、実際には自分たちを非人間的なものにした。//
 これとの関係で、全体主義イデオロギーに関して何ほどかを書いておく必要がある。
 全体主義体制は、私的および公的な生活上の全ての問題への回答を与えると偽称する考え方を体系化したものを定式化し、かつ押しつけるものだ。
 このような性格の世俗的イデオロギーは、党が統御する学校やメディアによって履行されたもので、ボルシェヴィキとそれを摸倣したファシストとナツィスが導入した新しい考案物(innovation)だ。
 これは、ボルシェヴィキ革命の主要な遺産の一つだ。
 現在のある観察者は、その新基軸さに驚いて、これのうちに全体主義の最も際立つ特質を見た。そして、それは人々をロボットに変えるだろうと考えた。(**) //
 経験が教えたのは、このような怖れには根拠がない、ということだ。
 当局にとって関心がある何らかの主題に関して公共に語られ印刷される言葉の画一性は、三つの体制のもとで、じつにほとんど完璧だった。
 しかしながら、いずれも、思考(thought)を統制することはできなかった。
 イデオロギーの機能は、大衆的見せ物のそれと類似していた。すなわち、個人の共同体への全体的な没入(total immersion)という印象を生み出すこと。
 独裁者自身はいかなる幻想も持たず、服従者たちが考える一つの表面体の背後に隠れている私的な思考について、ひどくではないが多くの注意を向けた。
 ヒトラーが認めるところだが、かりに彼がアルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の<20世紀の神話>をわざわざ読まなければ、そしてそれが国家社会主義の理論的な根拠だと公式に宣言しなかったとすれば、我々はいかほど真面目にナツィの「イデオロギー」を受け止めるだろうか?
 そしてまた、いかほど多くのロシア人に、難解で瑣末なマルクスとエンゲルスの経済学を修得することが、本当に期待されていたのか?
 毛沢東のチャイナでは、洗脳(indoctrination)はかつて知られた最も苛酷な形態をとり、十億の民衆が教育を受ける機会や僭政者の言葉を収集したもの以外の書物を読む機会を奪われた。
 しかしなお、瞬時のムッソリーニ、ヒトラーおよび毛沢東は舞台から過ぎ去り、彼らの教えは薄い空気の中へと消失した。
 イデオロギーは、結局は、新しい見せ物であることが分かった。同じように、はかない見せ物だった。(+)
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 (*) La Psychologie des foules (Paris, 1895). 〔群衆の心理学〕リチャード・パイプス・ロシア革命、p.398 を見よ。
 ヒトラーと同じくムッソリーニがル・ボンの本を読んでいたことは知られている。A. James Gregor, The Ideology of Fascism (New York, 1969), p.112-3. および George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.24, No.1 (1989), p.14.
 レーニンはこれをつねに彼の机の上に置いていたと言われる。Boris Bazhanov, Vospominaniia byvshego sekretia Stahna (Paris & New York, 1983), p.117.
 (94) George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.14, No.1 (1989), p.15. さらに、George Mosse, Masses and Man (New York, 1980), p.87-p.103 を見よ。
 (95) Carl Laudauer and Hans Honegger, eds., Internationaler faschismus (Karlsruhe, 1928), p.112.
 (**) 全体主義に関する研究者はしばしば、このイデオロギーを押しつけることを全体主義体制の決定的な性質だとして強調する。
 しかしながら、イデオロギーは、三つの体制において、大衆操作に役立つ大きな道具の役割を果たす。
 (ナチズムについて、ラウシュニングはこう書いた。
 『綱領、公式の哲学、献身と忠誠は、大衆のためのものではない。
 エリートは何にも関与していない。哲学にも、倫理規準にも。
 それらは一つの義務にすぎない。同志、秘伝を伝授されたエリートである党員にとっての絶対的な忠誠の義務だ。』(Revolution of Nihilism, p.20.)
 同じことは、適用については限りなき融通性をもつ共産主義イデオロギーについて語られてよい。
 いずれにしても、民主政体もまた、そのイデオロギーを持つ。
 フランスの革命家たちが1789年に『人間の権利の宣言』を発表したとき、バーク(Burke)やドゥ・パン(de Pan)のような保守的な同時代人は、それを危険な実験だと考えた。
 「自明のこと」では全くなくて、不可侵の権利という考えは、その当時に新しく考案された、革命的なものだった。
 伝統的なアンシャン・レジームだけは、イデオロギーを必要としなかった。
 (+) ハンナ・アレント(Hannah Arendt)やヤコブ・タルモン(Jacob Talmon)のような知識人歴史家は、全体主義の起源を思想(ideas)へと跡づける。
 しかしながら、全体主義独裁者は、思想を吟味することに熱心な知識人ではなく、人々に対する権力を強く渇望する者たちだった。
 彼らは、目的を達成するために思想を利用した。彼らの規準は、いずれが実際に働くか、だった。
 彼らに対するボルシェヴィズムの強い影響は、彼らに適したものを借用するそのプログラムにあるのではなく、ボルシェヴィキが従前には試みられなかった手段を用いて絶対的な権威を確立するのに成功したという事実にある。
 こうした手段は、世界的な革命に対してと同様に、国家の(national)革命にもまさしく適用できるものだった。
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 ⑦/Ⅲ・党と社会、へとつづく。
 下は、R・パイプスの上掲著。
rpipes02-01

1766/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑦。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)-①。
 この本は秋月瑛二にある種の大きな「諦念」と「決意」を裡に抱かせたものなので、全体を読むに値しない本だとは思いつつ、もう少しコメントを続けよう。
 江崎道朗は、昨年に上に続いてつぎの本もある。
 ②江崎・日本は誰と戦ったのか(KKベストセラーズ 、2017.11)
 前者には末尾に参考文献のリストはないが、後者は末尾にじつに多数の文献を列挙している。
 その中には、前者①で当然に参考文献として明示されていても不思議ではない、(もとは月刊正論(産経)に連載されていたはずの)福井義高・日本人が知らない最先端の「世界史」(祥伝社、2016)も挙げられている。
 この福井著は「第5章/『コミンテルンの陰謀』は存在したか」を含む。そして江崎の①よりもはるかにこの主題をよく知っていて興味深いのだが、江崎の①はこれを完全に無視している、と言ってよい。
 後者②で名前だけ(?)列挙しつつ、じつはきちんと読んでいないのではないかと推測されるのは、この福井著以外にも多数ある(なお、福井義高は上掲書の続編の「2」も昨年に出版している)。 
 また、後者の参考文献リストを見て不思議に思ったのは、http//: 等々のいわゆる電子情報の所在を記したものが、少なくなくあったことだ。ウェブ上の関係情報も自分(江崎)は見ているぞ、ということなのだろう。
 しかし、江崎道朗がウェプまたはネット上の関係電子情報を少なくともきちんと読んでいるのかは、全く疑わしい。
 なぜなら、昨年の夏の上の①では、コミンテルンの「謀略」をテーマの重要な一つにしながら、レーニン全集やスターリン全集等々のとっくに邦訳書がある中で、レーニンやスターリン等のコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会や同執行委員会での報告・演説にすら全く目を通していないことが、ほとんど明瞭なのだ。
 したがってむろん、福井・上掲著p.93-96のレーニン全集からの引用部分など、「共産主義」と日本の間に密接に関係しているにもかかわらず、江崎は知らないことになる。
 江崎道朗の仕事のキー・パーソンは、山内智恵子という人物かもしれない。
 この人名は前者①の「はじめに」に世話・支援への感謝の対象として出てくる。
 一方、この山内智恵子という名は、後者②ではいわゆる「奥付け」の中に「構成・翻訳」として記載されている。
 推測されるのは、後者②で列挙されている多数の(少なくとも)英語文献はすべてこの山内が翻訳したものであって、その邦訳文書を江崎は見たかもしれないが自分自身は直接に原書を読んでいないこと、そして上に言及した)http//: 等々のいわゆる電子情報は全て山内が気づいたものであって、おそらくは翻訳メモ類を見る以外には、江崎道朗は何ら関与していない、ということだ。
 それに、「構成」とはいったい何のことだろう。江崎道朗は、章や節の組み立て自体も山内智恵子に任せているのではないか。
 そしてまた推測するに、後者②は、特定の一つまたは二つの(邦訳書がない)英米語文献を-櫻井よしこがしばしばするように-「下敷き」にして、自分の文章のごとく<巧く>まとめたものだろう。
 江崎道朗は、いったいどんな自分の本の出版の仕方をしているのだろう。
 出版不況とか言われている中で、<悪書は良書を駆逐する>(これはどこか違ったかもしれない)。
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 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08) 
 この本が決定的に間違っていて、全体としては<政治的プロパガンダ>=政治宣伝のアジ・ビラにすぎない点は、聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法という単直な流れを「保守自由主義」なるもので捉え、かつ明治天皇と昭和天皇をこの流れの上に置いていることだ。
 上にすでに、少なくとも三つの論点が提示されている。
 ①聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法、とつなぐのは適切か、いかなる意味で適切か。平安、鎌倉、江戸等々の時代には何もなかったのか。
 ②「保守自由主義」と理解するのは適切か。そして、そもそも「保守自由主義」とは何か。
 ③上の中心?線上に明治天皇・昭和天皇を位置づけるのは適切か。いかなる意味でそうなのか。これは、明治天皇と昭和天皇を本来は分けて検討する必要もある。
 江崎道朗のこの本が提起している論点は、こんなものだけではない。
 基本的な論点になるが、江崎は「保守自由主義」を「左翼」と「右翼」の「全体主義」とは別のものとして位置づける。
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 回を改めるが、じつにいいかげんなことに、江崎道朗は、「保守自由主義」、「左翼全体主義」、「右翼全体主義」そして「左翼」・「右翼」および「全体主義」のきちんとした定義、理解の仕方をほとんど示していない
 決定的な、致命的な大欠陥だ。文学部出身者らしく?、イメージ・ムード・雰囲気・情緒だけで書いているのだ。 ほとんど<むちゃくちゃ>な本だと言える。
 次回以降により丁寧には書くが、また、例えば、「共産主義」と「社会民主主義」には最初の方で意味の説明をいちおうはしつつ、のちに急に「社会主義」という言葉を登場させるが、「社会主義」という語の解説はない。
 なぜこんな不思議な、奇妙キテレツの本が、新書として販売されているのだろう。
 江崎道朗が参照する文献のきわめて少ないことおよび「左翼」文献があること、これらによってレーニンまたは共産主義・社会主義に関する記述がきわめて「甘い」、「融和的」なものになっていることは別に触れる。

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
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 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
 --------
 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
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 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
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 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
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 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
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 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
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 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
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③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1759/ヒトラーと社会主義①-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)の試訳のつづき。p.258~p.260.
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 第4節・ヒトラーと社会主義①。
 政治現象として言えば、ナチズムとはつぎの二つのことだった。政治過程に民衆が参加するという装いを与える大衆操作の技巧、ドイツ国家社会主義労働党が権力を独占して国家制度をその道具に変える統治のシステム。
 これら二つのいずれについても、その始源的およびボルシェヴィキ的な両者の意味でのマルクス主義の影響は明白だ。//
 青年ヒトラーが社会民主党はいかにして群衆を操縦しているかを綿密に研究した、ということが知られている。
 『ヒトラーは、社会民主党から大衆政党と大衆プロパガンダ〔虚偽宣伝〕に関する考え方を引き出した。
 彼は<我が闘争>に、ウィーンの労働者の大衆示威活動での行進で四列の絶えることのない隊列を凝視したときの印象を叙述している。
 「私はほとんど二時間、私の前にまっすぐにゆっくり進んでくるその巨大な龍のごとき人々を眺めながら、物を言えないまま立ちつくした」。』(*)
 ヒトラーは、このような観察から大衆の心理に関する彼の理論を発展させた。のちにそれを使用して、彼は目を見張る成功を遂げた。
 彼は、ラウシュニンクとの会話で、社会主義に対する自分の負い目(debt)をつぎのように認めている。
 『私は、認めるのを躊躇しないほど、多数のことをマルクス主義から学んだ。
 その退屈する社会理論や歴史の唯物論的理解を意味させているのではない。あるいはその馬鹿げた「限界効用」論(!)等々でもない。
 しかし、彼らの方法を学んだ。
 彼らと私自身との違いは、陳腐な商品売り(peddlers)や退屈な簿記係(penpushers)がおずおずと開始したことを、私は現実に実践した、ということだ。
 国家社会主義の全体は、それから始まった。
 労働者の体育クラブ、工場内の細胞、大衆デモ、大衆に理解しやすく書いた宣伝パンフレットを見ろ。
 政治闘争のためのこれらの新しい方法は全て、本質的にはマルクス主義に根源がある。
 私がしなければならなかったのは、これらの方法を奪い取って我々の目的に適合させることだ。
 私はただ、民主政体の枠の中で進展を実現しようとしたために社会民主主義が何度も失敗したことを、論理的に発展させなければならなかった。
 国家社会主義とは、民主主義秩序との馬鹿げたかつ人工的な絆を断ち切ることができていればマルクス主義がなっていたかもしれないものだ。』(58)
 この最後には、ボルシェヴィズムがしたもの、そしてボルシェヴィキがそうなったもの、と追記されてよい。(+)
 共産主義のモデルをナツィス運動へと送り込む一つの交信手段は、「民族的(national)ボルシェヴィキ」として知られる(++)、ヒトラーに跪いている左翼との間の右翼知識人のそれだった。
 彼らの主要な理論家、ヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とオットー・シュトラサー(Otto Strasser)は、ロシアでのボルシェヴィキの成功に大きな感銘を受けた。そして、ソヴェト・ロシアがその経済を建設するのをドイツが助けて、その見返りにフランスとイギリスに対抗する政治的支援を得ることを望んだ。
 彼らは、モスクワは国際的なユダヤ人の陰謀の司令塔だとの、ヒトラーが採用したローゼンベルクの論調に、共産主義は隠されたロシアの伝統的民族主義の表むきの顔(facade)だ、と反応した。
 『彼らは、世界革命と語り、ロシアのことを意味させている』。(**)
 しかし、「民族的ボルシェヴィキ」は、共産主義ロシアとの協働以上のことを願った。すなわち、政治的権力を集中し、対抗する政党を絶滅させ、自由市場を規制することによって、ロシアの統治システムをドイツが採用することを望んだ。
 ゲッベルスとシュトラサーは、1925年にナツィの日刊紙である Voelkischer Beobachter に、「社会主義独裁(socialist dictatorship)」の導入だけが混沌からドイツを救い出すことができる、と主張した。
 ゲッベルスはこう書いた。-『レーニンは、マルクスを犠牲にした。その代わりに、ロシアに自由を与えた』。(59)
 彼自身のナツィ党についてゲッベルスは、1929年に、「革命的社会主義者」の党だ、と書いた。(60)//
 ヒトラーは、こうしたイデオロギーを拒んだ。しかし、ドイツの労働者を社会民主党から離脱させるために社会主義的スローガンを用いるという範囲では利用した。
 ナツィ党の名にある「社会主義」および「労働」という形容句は、たんに人気のある言葉を詐欺的に使用したものではない。
 この党は、この世紀の初めの年代にチェコ人出稼ぎ労働者と競争するためにボヘミアで形成されたドイツ人労働者の団体から、成長した。
 ドイツ労働党(Deutsche Arbeiter Partei)、この組織はもともとはこう称していたのだが、この党の綱領は、社会主義、反資本主義および反聖職者主義をドイツ民族主義(nationalism)と結びつけたものだった。
 ドイツ労働党は、1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗った。
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 (*) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.44.
 1919-20年の冬に社会民主党の演説を聴く群衆の中のヒトラーを撮した写真が、Joachim Fest, Hitler (New York, 1974) の144~145頁の間に再掲されている。
 (58) Rauschning, Hitler Speaks, p.185.
 (+) ヒトラーは1941年月の演説で、率直にこう述べた-「根本的には(basically)、国家社会主義はマルクス主義と同一のものだ(the same)」。
 The Bulletin of International News (London), XVIII, No.5 (1941年3月8日)、p.269.
 (++) この用語は、1919年にラデックによって、侮蔑的な意味で作られた。
 この傍流的であっても興味深い運動に関する最良の研究書は、Otto-Ernst Schueddekopf, Linke Leute von Rechts (Stuttgart, 1960) 〔右からの左の者たち〕だ。
 (**) Schueddekopf, Linke Leute, p.87.
 共産主義は本当はロシアの民族的利益を表現するものだとの考えは、N. Ustrianov および1920年代初頭のロシア移住者のいわゆる「Smena Vekh」運動の理論家から始まる。同上、p.139 を見よ。
  (59) 以下からの引用。Max H. Kele, Nazis and Workers (Chapel Hill, N.C., 1972)、p.93.
 (60) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.25.
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1758/ナチスの反ユダヤ主義③-R・パイプス別著5章3節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク、1995)、第5章の試訳のつづき。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義③。
 
これら国外移住者(emigre)の中で最も悪名高いのは、ドイツ系出自のロシア将校、F・V・ヴィンベルク(Vinberg)だった。この人物のユダヤ人に対する強迫観念は、病的な程度にあった。(48)
 彼はロシア革命をユダヤ人人の、かつユダヤ人だけによる手仕事だと見なした。その出版物の一つの中に彼は、ほとんど全てはユダヤ人だと言われているとする、間違ったソヴィエト将官のリストを載せた。(49)
このような見方はたちまちにドイツの右翼グループに受け容れられた。彼らは、ドイツの敗北という苦渋をなめ、共産主義者の反逆に怯えていた。
 悪名高いユダヤ恐怖症のドイツ人と一緒に、<議定書>の最初の翻訳書をドイツで発行したのは、ヴィンベルクだった。
 1920年1月に発刊され、すぐに人気を博した。
 のちの数年の間にドイツには、数十万冊のこの本が溢れた。
ノーマン・コーンは、ヒトラーが権力を奪うまでにドイツで少なくと<も28版までが流通していた、と見積もる。(50)
 ほどなく、翻訳書がスウェーデン語、英語、フランス語、ポーランド語で出版され、その他の外国語版が続いた。
 1920年代に、<議定書>は、国際的なベスト・セラー本になった。//
 <議定書>のメッセージにとくに敏感だったのは、駆け出したばかりのドイツ国家社会主義党だった。この党は1919年の最初から病的な反ユダヤ主義を表明していたが、そのための理論的根拠を欠いていた。
 1919年に発表された最も初期のナツィ(Nazi)の綱領は、ドイツの敵として、第一にユダヤ民族、第二にベルサイユ条約、第三にマルクス主義者を掲げた。このマルクス主義者は共産主義者ではなく社会民主党を意味しており、ナツィス(Nazis)は、共産党とは友好的な接触を保っていた。(51)
 ユダヤと共産主義との連結は、<議定書>の助けで確立された。これがヒトラーの注目を惹いたのは、アルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)による、と言われている。
 ロシアで建築設計を勉強したバルト系ドイツ人の一人は、ロシアの旅券を持ち、ドイツ語よりも流暢にロシア語を話した。このローゼンベルクは、ヴィンベルクの考え方を支持するように変わり、それをナツィの運動へと接ぎ木した。そして彼は、ナツィ運動の主なイデオロギストとなった。
 ヴィンベルクによって彼は、ロシア革命はユダヤ民族が世界制覇をするために設計したものだった、と確信した。
 <議定書>は、未来の総統(Fuehrer)に対して圧倒的な印象を与えた。
 ヒトラーは、初期の同僚だったヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、こう語った。
 『「シオン賢者の議定書」を読み終わった。-全く唖然とした。敵が秘密的なこと、そして、いたる所にいること!
 私はすぐに、我々はこれを真似なければならないと分かった。-もちろん、我々の方法で。』(52)
 ラウシュニンクによると、<議定書>は、政治的な思いつき(inspiration)をする主要な情報源としてヒトラーに役立った。(53)
 こうしてヒトラーは、世界征服のためにユダヤ人の戦略に関する本当ではない手引き書を利用した。ユダヤ人はドイツの不倶戴天の敵だと叙述するためのみならず、その方法を採用して世界支配という彼自身の願望を実現するために。
 彼は、世界制覇の追求へのユダヤ人のいわゆる狡猾さに敬意を払ったので、彼らの「イデオロギー」と「プログラム」を完全に採用することに決めた。(54)//
 ヒトラーが反共産主義へと転じるのは、彼が<議定書>を読んだ後のことにすぎない。//
 『ローゼンベルクは、ナツィのイデオロギーの上に永遠の痕跡を残した。
 党は、1919年のその創立のときから病的な反ユダヤ主義だった。
 しかし、1921-22年だけは、ロシアの共産主義に夢中になった。
 そして、これは多くはローゼンベルクがしたことだったように思われる。
 ローゼンベルクは、ロシアの黒い百人組(the Black Hundred)のタイプの反ユダヤ主義と、ドイツの人種主義者の反ユダヤ主義とを、連結させた。
 もっと細かく言うと、ボルシェヴィズムはユダヤ人の陰謀だとするヴィンベルクの考え方を彼は採用したうえで、民族的・人種主義的(voelkisch-racist)な用語でもって再解釈した。
 それが帰結させた夢想は、数多くの記事や冊子で説明されているように、ヒトラーの思考とナツィ党の見解やプロパガンダにおける強迫観念的(obsessive、偏執症的)主題となった。』(55)//
 ヒトラーには大きくはつぎの二つの政治目標しかなかった、と言われてきた。ユダヤ民族の破壊と東ヨーロッパの生存空間(Lebensraum)への膨張。彼の政綱のその他の要素は全て、社会主義であれ資本主義であれ、これらの目標に達する手段にすぎなかった。(56)
 このようにして、祖国を襲った厄災についての生け贄(scapegoat、贖罪者)を世界ユダヤ民族の「隠された手」のうちに探して見出したロシアの過激派君主主義者たちの狂信は、やがてドイツの全権力を獲得することとなる党の政治イデオロギーへと注入された。
 ナツィによるユダヤ人絶滅のための理由づけは、ロシアの右翼グループに由来した。
 ユダヤ人の肉体的な絶滅を最初に公然と呼びかけたのは、ヴィンベルクとその仲間だった。(57)
 ユダヤ人のホロコーストは、こうして、予期されも意図されもしなかった、ロシア革命の多くの帰結の一つだったことが分かる。//
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 (48) この人物については、Walter Laqueur, Russia and Germany (ロンドン、1965年)、p.114-8. を見よ。〔ワルター・ラカー・ロシアとドイツ〕
 (49) F. Vinberg, Krestnyi put' I, 2nd ed. (ミュンヘン、1922年)、p.359-p.372.
 (50) Cohn, Warrant, p.293.
 (51) Laqueur, Russia and Germany, p.55.
 (52) Rauschning, Hitler Speaks, p.235.
 (53) 同上、p.235-6。
 (54) Alexander Stein, Adolf Hitler, Schueler der "Weisen von Zion" (カールスバート、1936年).〔アレクサンダー・シュタイン・ヒトラー-『シオンの流儀の生徒』〕
 (55) Cohn, Warrant, p.194-5.
 (56) Eberhard Jaeckel, Hitlers Weltanschauung〔ヒトラーの世界観〕 (テュービンゲン、1969年)。Kuhn, Das faschistische Herrschaftsystem 〔ファシストの支配体制〕のp.80 から引用した。 
 (57) Laqueur, Russia and Germany, p.115.
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 第4節へとつづく。つぎの表題は、「ヒトラーと社会主義」。

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
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 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
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 ③へとつづく。

1756/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書⑤。

 小川榮太郞の昨年の著というのは、つぎだ。
 小川榮太郞・徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪(飛鳥新社、2017.10)。
 小川はまた、同じく飛鳥新社を出版元とする、花田紀凱編集長の姓を名とする月刊Hanadaでしきりと朝日新聞を攻撃している。後者は、別に、<日本の保守>の項あたりで触れたい。
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 小川榮太郞もまた、言葉の厳密な使い方をしていないように見える。
 もまた、というのは、安倍晋三首相と同様に、という意味だ。
 3/19・20あたりの安倍首相国会答弁は、1年余り前の「かかわる」・「関係する」を「関与する」に変えているように感じる。
 関係すると、関与するは、意味・ニュアンスが異なる。
 つまり、<関与>の方が主体的・積極的だ。
 <関係>だと、意に反して<関係させられた>、<かかわったことになった>ということが語義上は認められると思われるが、<関与>の場合は、そのような語法が適切である可能性はより低いと考えられる。
 上の小川榮太郞著は、p.29で昨年2月17日のいまや有名な「間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」の発言部分を引用している。
 一方で、小川は、こういう表現の仕方をする。
 p.1-①「森友学園問題、…は、いずれも安倍とは何ら関係のない事案だった。」
 p.5-②「朝日新聞自体が、…安倍の関与などないことを知りながらひたすら『安倍叩き』のみを目的として、疑惑を『創作』した」。 
 p.25-③「現実の政治を知れば関与などあり得ない-そういう地方案件が今回の森友の土地払い下げ問題」だ。
 安倍晋三首相の昨年の発言中の「かかわる」・「関係する」の真の意味は、<働きかけ>を含みうる「関与」だった可能性はあるだろう。対象を「この認可にもあるいは国有地払い下げにも関係していない」と明言していて、「日本会議」との関係を否定しているのでもない。
しかし、言葉それ自体としては、「関係」と「関与」は同じではない、というべきだ。これらを同じ意味で使ったのだとすれば、厳格さが足りないし、総理答弁としては不用意で、これに限っても「問題視」されうるのではないかと思われる。
 これと同様に、小川榮太郞もまた、上の①~③のように、「関係」と「関与」を意識的にかどうか、混用している。文学部出身の文芸評論家<あがりの政治評論家?>だとは思えない。
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 つぎに、前回に論及した、小川による佐川局長答弁の(結果としての)擁護・支持部分はつぎのとおり。p.43~p.44。小川が引用する佐川答弁(2017年2月24日)も、そのままここでも引用する。
 小川-「佐川は、交渉の詳細を幾ら質問されても、全て交渉記録は破棄して残っていないの一辺倒で通した」。
 A・佐川局長(当時)「…確認しましたところ、近畿財務局と森友学園の交渉記録というのはございませんでした。/面会等の記録につきましては、財務省の行政文書管理規則に基づきまして保存期間一年未満とされておりまして、具体的な廃棄時期につきましては、事案の終了ということで取り扱いをさせていただいております。」
 (同・つづき)「本件につきましては、平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていないということでございます。」 
 B・小川榮太郞<いくつかに分け、適宜番号を付す>①「国の行政文書は、よほどの特例でない限り一年未満に破棄する規則がある。」
 ②「この規則は、森友、加計の二例に鑑みれば明らかに問題だ。二例とも国政と関係のない細かな行政事案で、記録がない為に国会が重大な遅滞を呈した。行政文書の保存基準は大幅に見直すべきだろう。」
 ③「だが、現状では佐川の答弁は規則通りで、特例ではない。」
 小川は財務省に対して批判的な記述もするが、ここの文書管理部分では明らかに、財務省・理財局・佐川局長を擁護・支持している-③。「現状」ではやむをえない旨を明記している。
 既述のように、不審をもったのは、奇妙だと「直感」したのは、この部分だ。
 立ち入っていくと、佐川答弁についてもいろいろと不思議なことが出てくる。
 しかし、とりあえず書けば、小川榮太郞は、財務省の行政文書管理規則あるいは現状である「行政文書の保存基準」を見て、きちんと精査したうえで、昨年秋に上の文章を書いたのか?(同じことは、この答弁を聞いたメディア関係者もなぜ吟味しなかったのか、と言える。)
 上の①は、対象を「行政文書」全体にまで拡張していて、文書管理のあり方自体を知らない、全くのウソだ。「行政文書」の定義もおそらく知らず、つぎの規則も見ず、堂々と書いているのが怖ろしい。
 財務省行政文書管理規則(・同細則)の読み方(解釈の仕方)は別の機会にでもさらに触れるだろうとして、「面会等の記録」は「一年未満」だとは前回言及の「別表第一」には少なくとも明記されていない(同細則でも同じ)。
 「別表第一」は正確にはまだあくまで「基準」であるので、大臣官房文書課または理財局内部での「文書管理者」が(局長であることがありうる)かなり個別的な決定をして「面会等の記録」は「一年未満」だと定め可能性がある。
 つぎを参照-「別表」 の「備考」/「六 本表が適用されない行政文書については、文書管理者は、本表の規定を参酌し、当該文書管理者が所掌する事務及び事業の性質、内容等に応じた保存期間基準を定めるものとする。」
 もう一つの不審は、「面会等の記録」と「売買契約締結」に関する文書を明確に分けることができるのか、だ。まず、面会「等」の「等」は何を含むのか不明瞭だが、貸付または売買(予定者又は具体的にその方向である者)の一方当事者と会うことや、話を聞くことを、ふつうはたんなる「面会」とは言わないように感じられる。すでに「交渉」だ。
 つぎに、より重要なのは、「売買契約締結」に関する文書の中に、「面会」を含めてもよいが、交渉過程、つまり当該契約締結に至るまでの過程はいっさい含まれないのか?だ。 
 これは、<含む>と解される。なぜなら、前回言及の財務省行政文書管理規則・別表第一の「28」の項の一つめの列の見出しは「…の実施に関する事項」だが、二つめの列には「国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用 をいう。) 及び処分の実施に関する重要な経緯」 とある。そして保存期間30年とされる取得・処分にかかる文書の例として明記されるのが「売払決議書」だ。なお、貸付にかかる文書(例、貸付決議書)については、保存期間は、貸付期間終了後の10年とされている。
 小川榮太郞は佐川局長の言い分をそのまま信じて、本の叙述の前提にしているのだが、前提自体が怪しいと感じるべきだろう。感じないのは「ど素人」の証拠だ。すなわち、「面会等」あるいは「交渉」にかかる文書と「売買契約締結書」またはそのための「決裁文書」は明確に区別されてはいないし、区別してはいけないのだ(上記のとおり規則「本文」と一体である「別表」上に「重要な経緯」と書かれている。)
 前回にこの欄で紹介した、2017年2月24日午後の-佐川答弁より後の-菅官房長官発言は、すでに?なかなか的確だ(あるいは意味深?)だと思われる。
 「基本的には、決裁文書についてはは30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 佐川局長のつぎの言い分も、したがってまた、奇妙だ。
 「平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていない。」
 2017年2月は「平成28年6月の売買契約締結」後の半年余の後だ。
 佐川局長は「面会等の記録」は「1年未満」で廃棄してもよいからそうしたのだ、という趣旨を言いたかったのだろう。
 しかし、「平成28年6月の売買契約締結」に関する文書自体は30年とされていることを、局長クラスが全く知らないとは想定し難い。
 この時点の佐川氏について、推測できるのは、つぎの二つのいずれかだ。
 A「売買契約締結」文書・決裁文書に「交渉過程・経緯」まで書かれていることを知らなかった。そして、迂闊にか、意識的にか、「面会等の記録」の中には書かれていたかもしれないが、廃棄して今はない、というストーリーにした。
 B 上のこと及びその詳細な内容をすでに知って驚き?、書き直し・改竄をすでに指示して、「交渉過程・経緯」を含む(前の)決裁文書が存在しないようにしていた(答弁時点で完璧に終了していたかは別として)。だからこそ、かなりの自信を持って、断定的に答弁できた。
 いずれについても、不思議さは残る。さらに言及する。
 小川榮太郞に戻ると、この人は、現実の政治や行政についての知識が乏しい、ということを自覚した方がよいと思われる。今回は書かなかったことで、そういう例、言葉遣いがまだ多くある。

1755/R・パイプス別著(ボルシェヴィキ体制下のロシア)第5章第3節。

 リチャード・パイプス『ボルシェヴィキ体制下のロシア』。計587頁。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (Vintage/USA, 1995).
 この本のうち、すでに試訳の掲載を済ませているのは、以下だ。
 ①p.240-p.253。第5章:共産主義・ファシズム・国家社会主義ー第1節・全体主義という概念。/第2節・ムッソリーニの「レーニン主義者」という出自。
 ②p.388-p.419。第8章:ネップ・偽りのテルミドールー第6節・強制的食糧徴発の廃止とネップへの移行。/第7節・政治的かつ法的な抑圧の強化。/第8節・エスエル「裁判」。/第9節・ネップのもとでの文化生活。/第10節・1921年の飢饉。
 ③p.506-p.507。終章:ロシア革命に関する考察ー第6節・レーニン主義とスターリニズム。
 上の①のつづきの部分(ヒトラーと社会主義との関係等)について、試訳を続行する。
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 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義①。
p.253~。
 ボルシェヴィキとファシズムの出自は、社会主義だった。
 国家社会主義(National Socialism)は、異なる種子から成長した。
 レーニンの出身が位置の高いロシアの官僚階層の出身で、ムッソリーニのそれは疲弊した工芸職人階層であるとすると、ヒトラーは小ブルジョアの背景をもち、社会主義への敵意とユダヤ人への憎悪で充満した雰囲気の中で、青年時代をすごした。
 当時の政治的、社会的な理論に通じた熱心な読者だったムッソリーニやレーニンとは違って、ヒトラーは無知で、観察やときたまの読書や会話から知ったものを拾い上げた。
 ヒトラーには理論的な基礎がなく、意見と偏見だけはあった。
 そうだったとしてすら、最初にドイツの自由を排除し、つぎにヨーロッパじゅうに死と破壊を植え込んだ、そのような致命的な効果を与えて彼が用いることとなる政治的イデオロギーは、消極的にも積極的にも、ロシア革命によって奥深く影響されていた。
 消極的には、ロシアでのボルシェヴィズムの勝利とヨーロッパを革命化する企ては、ヒトラーの本能的な反ユダヤ主義と、ドイツ人を恐れさせる「ユダヤ共産主義」の陰謀という妖怪とを正当化した。
 積極的には、ロシア革命は、大衆操作の技術をヒトラーに教え、一党制の全体主義国家のモデルを提供することによって、ヒトラーが独裁的権力を追求するのを助けた。//
 反ユダヤ主義は、国家社会主義のイデオロギーと心理において、中心的で逸れることのない目標として独特の位置を占める。
 ユダヤ人恐怖症の起源は古典的太古にさかのぼるけれども、ヒトラーのもとで不健全で破壊的な形態を帯びたそれは、歴史上かつて見ないものだった。
 このことを理解するには、ロシアおよびドイツの民族主義運動に対するロシア革命の影響について記しておくことが必要だ。//
 伝統的な、20世紀以前の反ユダヤ主義は、もともとは宗教上の敵意によって強くなった。つまり、キリスト殺害者で、キリスト教の福音を頑強に拒む邪悪な人々だというユダヤ人に対する先入観。
 カトリック教会や一部のプロテスタント教派のプロパガンダのもとで、この敵意は、経済的な争いや金貸しで狡猾な商人としてのユダヤ人への嫌悪によって補強された。
 伝統的な反ユダヤ主義者にとって、ユダヤ人は「人種」でも民族を超える共同体でもなく、誤った宗教の支持者であり、人類への教訓として、故郷を持たないで(homelss)苦しみ、漂流するように運命づけられていた。
 ユダヤ人は国際的な脅威だとの考えが確立されるためには、国際的な共同社会が存在するに至っていなければならなかった。
 これはもちろん、世界的な商業と世界的な通信の出現とともに19世紀の過程で発生した。
 これらの発展は、地域と国家の障壁を超えて、近代までは相当に保護された自己完結的な存在だった共同体や国家での生活に対して、直接に影響を与えた。
 人々は、突然にかつ訳が分からないままに、自分たちの生活を支配することができなくなる感覚を抱き始めた。
 ロシアでの収穫が合衆国の農民の生活状態に影響を与え、あるいはカリフォルニアでの金の発見がヨーロッパでの価額に影響を与え、国際的な社会主義のような政治運動が全ての既存体制の打倒を目標として設定したとき、誰も、安全だと感じることはできなかった。
 そして、国際的な出来事が持ち込む不安は、全く自然なこととして、国際的な陰謀という考えを発生させた。
 ユダヤ人以上に誰がその役割をより十分に果たすのか?。最も可視的な国際的集団であるのみならず、世界的な金融とメディアで傑出した位置を占めている集団は誰か?。//
 ユダヤ人を、見えざる上位者の一団が統轄する、紀律のとれた超国家的共同社会とする見方は、最初はフランス革命の騒ぎの中で登場した。
 フランス革命への役割は何もなかったけれども、反革命のイデオロギストたちはユダヤを容疑者だと見なした。一つは、公民的平等を与えた革命諸法律によって彼らは利益を得たとの理由で、また一つは、フランスの君主主義者が1789年の革命についての責任があると追及したフリーメイソン(Masonic)運動と彼らは広くつながっているとの理由で。
 ドイツの急進派は、1870年代までに、全てのユダヤ人はどこに公民権籍があろうと秘密の国際組織によって支配されている、と主張した。この組織はふつうは、実際の仕事は慈善事業だった、パリに本拠がある国際イスラエル連合(the Alliance Israelite Universelle)と同一視された。
 このような考えはフランスで、ドレフュス(Dreyfus)事件と結びついて1890年代に一般的になった。
 ロシア革命に先立って、反ユダヤ主義は、ヨーロッパで広汎に受容されていた。それは主としては、パリア・カスト〔最下層貧民〕として彼らを扱うことに慣れていた社会で対等なものとしてユダヤ人が出現してきたことへの反作用だった。また、解放された後にすら同化することを拒むことへの失望によっていた。
 ユダヤ人は、その同族中心主義や秘密主義、いわゆる「寄生的」な(parasitic)な経済活動や「レバント」的(Levantine)挙措だと受け止められたことで、嫌悪(dislike)された。
 しかし、ユダヤ人に対する恐怖(fear)は、ロシア革命とともに生じた。そして、その最も厄災的な遺産であることが判明することになる。//
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 (秋月)今回の部分には注記はない。
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 ②へとつづく。

1754/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書④。

 今夕の日本テレビ/読売テレビ系番組で、しっかりと報道されていた。
 2017年2月24日午後の記者会見で、菅官房長官は、財務省の国有地売却等「決裁文書」の保存期間について、つぎのように明言していた。
 秋月瑛二が前回に「すでに私自身は判明させたつもりでいる」と書いたとおりだ。30年だ。
 そして、なぜこんな単純なことに誰も気づいていなかったのだろう、財務省の文書管理関係職員はきっと知っていたに違いない、と思っていた。
 私は知らなかったのだが、一年も前に政府高官・菅官房長官が、つぎのように語っていた。
 したがって、第一に、佐川元理財局長が、交渉に関する記録は「残ってございません」と答弁していたのは、虚偽だったと思われる。実際の決裁文書に「交渉過程」も記されていることを知らなかったのか?
 第二に、小川榮太郞著の<政治的偏見に満ちた>叙述も、間違いだったことが判明する。
 小川は、昨年の書物で、森友文書関連質問を受けて「面会等の記録(の保存期間)は1年未満だ」旨の佐川答弁をそのまま支持し、<廃棄してしまっていたことに何ら問題はない>と昨年の本で叙述していた。
 以下、菅官房長官・2017年2月24日午後記者会見にかかる、ネット上の映像・動画情報による。 http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201702/24_p.html -首相官邸ホームページ。
 記者質問「今日の予算委員会の方で、財務省の佐川理財局長が、森友学園と財務局側の交渉記録について、記録は残っていないと、事案が終了したのですみやかに廃棄されていると思うと答弁しているが、その点について、これは適当だと思うか」。
 菅官房長官「財務省においては公文書管理法の規定にもとづいて制定されている。
 そして、その財務省の行政文書管理規則にもとづいて国有財産の取得および処分に関する決裁文書については、30年の保存期間が定められている。
 ですから、30年間は保存するのです。
 一方で、面会等に関する記録文書については、その保存期間は1年未満とされている。そこで、具体的な廃棄がされている。その時期については説明したとおりだと思っている。」
 記者質問要旨/<面会等に関する記録についての1年未満を再検討する考えはないか>。
 菅官房長官「いずれにせよ、各省庁とも公文書管理法の規定にもとづいて行っているのだろう。そのことで、著しい弊害があるのであれば、また見直しする必要があると思うが、基本的には、決裁文書については30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 これの基礎にある、財務省側からこの日に資料提供を受けたのではないかと見られる、財務省行政文書管理規則の定めは、つぎのとおり。
 「第13条1項 文書管理者は、別表第1に基づき、標準文書保存期間基準を定めなければならない。
 2項 第11条第1号の保存期間の設定については、前項の基準に従い、行うものとする。」
 「別表第1・行政文書の保存期間基準」。
 <秋月注-以下は一部で、全体が表の形式をとっているため、表の最上部にある「列」の見出し-事項・業務の区分・当該業務に係る行政文書の類型・保存期間・具体例-を書き加え、かつ後の三者は一括して同じ行で記載する。いずれによ、実質的に原文ママ。> 
 『28・事項/国有財産の管理及び処分の実施に関する事項。
 業務の区分/国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用をいう。)及び処分の実施に関する重要な経緯。
 当該業務に係る行政文書の類型 (令別表の該当項)/保存期間/具体例/
 ①国有財産(不動産に限る。)の取得及び処分に関する決裁文書/30年/・引受決議書 ・売払決議書。
 ②国有財産の貸付けその他の運 用に関する決裁文書で運用期間を超えて保有することが必要な文書/運用終了の日に係る特定日以後10年/・貸付決議書。
 ③国有財産の管理及び処分(① 及び②に掲げるものを除く。 )に関する決裁文書又は管理及び処分に関する重要な実績が記録された文書/10年/・行政財産等管理状況等監査報告。』
 この<保存期間>に関心をもったのは、小川榮太郞著が<「面会等の記録」は1年未満とされているのだから、文書が残っていなくとも何ら問題はない>と書いているのを、不審に思ったことによる。
 国有地の貸付・売却(処分)に関する「決裁文書」が「面会等の記録」の中に含まれるのか、1年未満というのはこの「決裁文書」についてはいかにも短かすぎるだろう、という直感による。
 小川榮太郞著の正確な引用と批判は、別の回に行う。

1753/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書③。

 一 「普通財産」とは、国公有財産のうち「行政財産」以外のものをいう(国有財産法。公有財産については、地方自治法)。以下は国有地に対象を限る。
 「行政財産」とは違って、原則的には民事上(の私人間取引)と同じ処理がなされる。しかし、「国有」であり「行政」権者としての「国」が管理・処分をするので、一私人のそれとは異なり、それなりの法的制約がある。
 だがしかし、一方で、対等当事者の契約によるというのが建前なので、厳格なまたは厳密な法的規制があるわけではない。
 「法治国家」、「法治行政」あるいは「法の支配」も具体的様相は多様であり、これらから、行政官による「法の機械的な執行」というイメージを導くのは誤り。「法の機械的な執行」でなければ<政治の圧力による>と理解するのも誤り。
 相手方の選択、価額、諸条件等について、関係法令を適正にかつ「機械的に執行」すれば、一律の結論が出てくる、というものではない。<それなりの法的制約>の具体的内容は、それこそ関係法令を見なければわからないし、正規の法令ではないがほとんど実務慣行の規準となっているような「内部規則」類も存在する。それらは、財務大臣あるいは実質的には局長等々のレベルで(実務の必要を充たすために)定められている。
 <忖度(そんたく)>というとすれば、その意味を明確にさせて、本来は用いるべきだろう。最も広く理解すれば、これは、考慮、斟酌、参酌、配慮等々と同じ意味だ。そして、<それなりの法的制約>の範囲内では、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>が実際には行われているし、それは場合によっては、あるいはむしろ通常は、必要なことだ。
 だからといって、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>がつねに適正で合理的とは限らず、種々の観点から、政治的観点からも(政治家による圧力等々が重要な動機となっている場合のように)、その合理性・正当性は検証されてよい。
 二 つぎに、「決裁文書」という概念について。
 <公文書管理法>(略称)という法律自体が、前回にも触れた<(行政機関)情報公開法(略称)を補完する重要な役割をもつものとして制定・施行された。
 この法律がいう「行政文書」の定義は、後者と全く同じ(公文書管理法2条4項)。
 情報公開(行政文書の開示)請求に対して、その情報・文書が存在しなければそもそも公開・開示できない。存在しない場合に非公開・不開示とすることを、情報公開法自体が認めている。
 それはそうだろう。ないものを、見せるわけにはいかないし、見せたくとも見せることができない。
 しかし、存在・不存在の判断自体が奇妙だと、存在してはいるが、<存在していないことにして>公開しない、というむろん本来許されない決定がなされる可能性がある。
 森友文書問題でも、都合の悪い(書き換え・改竄前の)文書を「存在しない」ものとして公開・非公開の判断をした事例があった、と報道されている。
 そうすると、「存在」するか否かは重要な問題だ。そして、行政機関に「行政文書」が<存在するように>、つまりは<作成>したり<保存>したりする義務を課すのが、情報公開法を補完するものとしての公文書管理法の重要な機能だ(それだけではないとしても)。
 しかし、この法律自体は「基本精神」と<公文書管理の基本的仕組み>を定めるだけで、「保存」についても、詳細は各省大臣等が定めるものとされる「行政文書管理規則」に委ねている(10条)。
 そして、おそらく全省庁について同様だろうが、この各省庁の「行政文書管理規則」の中に、「決裁文書」という概念が出てくる。しかも、本体の別表のかつ「備考」の欄で。
 財務省行政文書管理規則(大臣訓令。最新改正、2015年4月)は、上記の微妙な?箇所でこう定義する。
 「4 決裁文書 行政機関の意思決定の権限を有する者が押印、署名又はこれらに類する行為を行うことにより、その内容を行政機関の意思として決定し、又は確認した行政文書」。
 ここで「行政機関」とは財務省のことを意味する。「行政機関の長」は財務省の場合、財務大臣。
 この「決裁」の<内部委任>が通常の行政の多くの場合になされていることは、すでにこの欄に書いた。
 「決裁文書」という日本語をどのような意味で使おうともそれは自由なのだが、このように行政的?または公的には?定義されていることは知っておいても悪くないだろう。
 しかして、(決裁文書に限っても)いわゆる森友文書なるものの「保存期間」は、この「規則」(訓令)上はどう定められていたのか。廃棄されていて(=一定期間以上は保存する必要がなくて)存在しない、と言えるものなのか?
 これについては、たぶん次回に書く(すでに私自身は判明させたつもりでいる)。
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 資料・史料。2017年2月19日、安倍晋三首相・衆議院予算委員会答弁。 
 「私や妻」は、「もちろん事務所も含めて」、「この認可あるいは国有地払い下げ」に、「一切かかわっていない」。「もしかかわっていたのであれば」、「私は総理大臣をやめる」。/「繰り返」すが、私や妻が「関係していたということになれば」、「間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」。「全く関係ない」。
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