秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1949/R・パイプス著・ロシア革命第11章第8節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
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 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
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 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 これでもって、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
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 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
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 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
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 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
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 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。

1948/R・パイプス著・ロシア革命第11章第7節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.477-p.482.
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 第7節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り(take over)。
 (1)第二回ソヴェト大会を偽装した、親ボルシェヴィキの集会は、ボルシェヴィキのクーを正当化することとなった。
 しかしながら、レーニンの執拗な主張では、クーは大会が開催される前に、軍事組織の指揮のもとにある突撃兵団によって達成されるべきものだった。
 この突撃兵団は首都の戦略上重要な地点を掌握し、政府は打倒されたことを宣言することとなっていた。これは大会に対して、不可逆的な既成事実を突きつけることになるだろう。
 この行動を、ボルシェヴィキ党の名前で行うことはできなかった。
 ボルシェヴィキがこの目的のために用いた装置は、10月早くの恐慌のときにペトログラード・ソヴェトが設立した軍事革命委員会だった。これの目的は、首都を予想されるドイツの攻撃から防衛することだとされていた。
 (2)ドイツ軍がリガ(Riga)湾で作戦行動をしたことで、事態は早まった。
 ロシア兵団がリガを撤退したあと、ドイツは偵察部隊をRevel(Tallinn)の方向へと派遣した。
 この行動は、300キロしか離れておらず、防衛に信頼を措けないペトログラードを脅かすことを装っていたので、ロシアの将軍幕僚たちは多大の関心を引いた。
 (3)首都へのドイツの脅威は、10月半ばにはますます不気味なものになった。
 9月6日/19日、ドイツの最高司令部はリガ湾にあるMoon、Ösel、およびDagoの各島の占拠を命令した。
 9月28日/10月11日に航行した小型艇隊はすみやかに機雷敷設地域を除去し、予期ししていなかった頑固な抵抗を抑えたあと、10月8日/21日にこれら三島の占領を完遂した。(135)
 敵は今や、ロシア軍の背後の地上に位置していた。
 (4)ロシアの将軍幕僚はこの海上作戦を、ペトログラード攻撃の予備行動だと見た。
 10月3日/16日、Revel からの退避が命じられた。ここは、ドイツ軍と首都の間に位置する、最後の大きい拠り所だった。
 その翌日、ケレンスキーは、危機に対処する方法に関する討議に加わった。
 ペトログラードはもまなく戦闘地帯に入ってしまう可能性があるので、政府と憲法制定会議はモスクワへと移転する、という提案がなされた。
 この考え方は一般に同意されたが、唯一の不一致は移動の時機の問題だった。ケレンスキーは、即座に行うことを望んだが、他の者たちは遅らせるのを支持した。
 政府は、広範な世論の支持を要請する会合として予備議会(Pre-Parliament)を10月7日に開催する予定でいた。この予備議会の同意を確保したあとで撤退することが、決定された。
 つぎの問題は、イスパルコムに関して何をするか、について生じた。
 合意があったのは、イスパルコムは私的な機構なので、その撤退は自分で行うべきだ、ということだった。(*)
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 (*) <Revoliutsiia>V, p.23. ケレンスキーによると、この議論は秘密のはずだったが、彼らはすぐにプレスに漏らした。同上, V, p.81.
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 10月5日、政府の専門家たちが、行政官署のモスクワへの撤退には二週間がかかる、と報告した。
 ペトログラードの諸産業を内陸部へと再配置する計画が、策定された。
 (5)このような予防措置は、軍事的かつ政治的な意味をもった。それは、フランスが1914年9月にドイツ軍がパリに接近したときにしたこと、ボルシェヴィキが1918年3月に同様の状況のもとですることになるだろうこと、だった。
 しかし、社会主義的知識人たちは、これらのうちに、「赤いペトログラード」、「革命的民主主義」の主要な基地を敵に明け渡す「ブルジョアジー」の策略を見た。
 プレスが政府の退避計画を公表する(10月6日)とすぐに、イスパルコム事務局は、自分たちの同意なくしていかなる撤退も行われてはならない、と声明した。
 トロツキーはソヴェトの兵士部門に向けて演説し、「革命の首都」を放棄しようとする政府を非難する決議を採択するよう、説得した。
 彼の決議は、こう言う。ペトログラードを防衛することができないのであれば、講和するか、別の政府に従うか、のいずれかだ。(137)
 臨時政府は、ただちに屈服した。
 同じ日に、臨時政府は、反対意見があることを考慮して撤退を一ヶ月遅らせる、と発表した。
 そのうちに、この退避の考えはすっかり放棄された。(138)
 (6)10月9日、政府は守備連隊の補充部隊に対して、予期されるドイツの攻撃を阻止するのを支援するために前線に向かうよう、命令した。
 過去の経験から予期され得たことだったが、守備連隊は、抵抗した。(139)
 この対立にかかる判断は、審判するためにイスパルコムに委ねられた。
 (7)その日遅くのイスパルコムの会合で、メンシェヴィキ派の労働者のMark Broido が、一つにペトログラード守備連隊に首都防衛に備えること、二つにソヴェトがこの目的の「計画遂行」をするための「革命的防衛の委員会」を設置(またはむしろ再構成)すること、を呼びかける決議を提案した。(140) 
 ボルシェヴィキと左翼エスエルは驚き、臨時政府の力を強くするという理由で、Broidoの決議案に反対した。
 これはしかし、際どい過半数(13対12)で採択された。
 票決のあとで、ボルシェヴィキは、過ちを冒したことに気づいた。
 ボルシェヴィキには、武装蜂起のために育ててきている軍事組織があった。それはボルシェヴィキ中央委員会に従属し、ソヴェトとは関係がなかった。
 このような地位の良さには、複雑な面があった。というのは、その軍事組織はボルシェヴィキ最高司令部の命令を忠誠心をもって遂行することができる一方で、一政党の一機関として、ソヴェトを代表して行動することはできなかった。ボルシェヴィキはその名前を用いて権力掌握を達成しようと意図していたのだったが。
 数年のちに、トロツキーはこう回想することになる。この不利な条件に気づいて、ボルシェヴィキは、1917年9月に、彼が「非党派『ソヴェト』機関」と称したものを蜂起を率いさせるために設立するよう、全ての機会を活用する、と決定していた。(141)
このことは、その軍事組織の一員だったK. A. Mekhonoshin によっても確認されている。この人物は、こう言う。ボルシェヴィキは、「守備連隊の部隊と連結する中枢部を、決定的行動のときにソヴェトの名前で前進することができるように、党の軍事組織からソヴェトへと移行させる必要がある、と感じていた」。(142)
 メンシェヴィキによって提案された組織は、この目的には理想的に相応していた。
 (8)メンシェヴィキの提案がソヴェトの総会での票決に付されたその夕方(10月9日)、ボルシェヴィキ代議員は保留の立場をとった。彼らはそのときには、ソヴェトがドイツからペトログラードを防衛するための組織を設立することに、それが「国内」の敵からも防衛するだろうかぎりで、同意していた。
 この「国内」の敵という後者によってボルシェヴィキが意味させたのは、つぎのことだ。すなわち、あるボルシェヴィキの言葉では、「臨時政府は皇帝に対する革命の主要な基地を陰険にも引き渡そうとしており、そして皇帝は、ボルシェヴィキの理解によれば、ペトログラードへの前進について、同盟する帝国主義者たちに支援されている」。(143)
こうした目的のために、ボルシェヴィキは、「軍事防衛委員会」はロシアの「反革命活動家」からはもちろんドイツ「帝国主義者」からの脅威に対して、首都の安全を確保する全ての責任を負わなければならない、と提案した。
 (9)ボルシェヴィキがBroido の提案を再定式化した内容に驚き、また何故彼らがそうしたのかを知って、メンシェヴィキはその修正に、断固として反対した。
 首都の防衛は、政府とその軍事幕僚たちの責任だった。
 しかし、総会はボルシェヴィキの案を選択し、「革命的防衛委員会」の形成に賛成する票決を行った。
 「労働者を武装させる全ての手段を講じることとともに、その手中にペトログラードとその近郊の防衛に関与する全ての力を結集すること。
 こうすることで、公然と準備されている軍および民間のコルニロフ一派の攻撃に対する、ペトログラードの革命的防衛と民衆の安全確保の二つをいずれも確実にすること」。(144)
 この異常な決議は巧妙に、ドイツ軍がもたらしている現実的な脅威に対応する新しく設立された委員会の責任と、コルニロフへの支持者による空想上の脅威とを、結びつけていた。コルニロフはどこにも、姿を見せていなかったのだが。
 メンシェヴィキとエスエルは、臨時政府は「ブルジョア」的性質をもつという悪宣伝的な強い主張と、反革命に対する強迫観念的な不安という彼らの収穫物を、このとき刈り取った。
 (10)票決の結果は、決定的に重要だった。
 トロツキーはのちに、これは臨時政府の運命を封じた、と述べた。
 彼の言葉では、これは10月25-26日に達成された勝利の10分の9でなくとも4分の3をボルシェヴィキに与えた、「静か」で「素っ気ない(dry)」革命だった。(145)
 (11)しかしながら、事態はまだ完全には終わっていなかった。総会での決定にはイスパルコムとソヴェト全体の同意が必要だったからだ。
 10月12日のイスパルコムの非公開会合で、2人のボルシェヴィキ議員がボルシェヴィキ革命を激しく攻撃した。しかし、彼らは再び敗れ、この二人以外の満場一致で、総会の決定はイスパルコムの支持を得た。
 イスパルコムは、新しい組織の名を「軍事革命委員会」と改めた(Voenno-Revoliutsionnyi Komitet。または略称してMilRevkom 〔ミルレヴコム〕)。また、これに首都の防衛の責務を付与した。(146)
 (12)問題は正式には、10月16日のソヴェトの会合で確定された。
 ボルシェヴィキは、注意を自分たちから逸らすために、ミルレヴコムを設立する決議の案文起草者に、無名の若い衛生兵である左翼エスエルのE. Lazimir を指名した。
 遅まきながらボルシェヴィキの策略(maneuver)の意味に気づいたエスエル(社会革命党)は、おそらくは欠席している同党の議員を集めるために、票決を遅らせようとしたが、失敗した。
 このエスエルの動議は却下され、彼らエスエルは棄権した。
 Broido はもう一度、ミルレヴコムは欺瞞だ、その真の使命はペトログラードを防衛することではなく、権力掌握を実行することだ、と警告した。
 トロツキーは、ロジアンコ(Rozianko)をインタビューした新聞記事を引用することで、ソヴェトの注意を逸らせた。ロジアンコは、かつての(今は政府の何の地位も占めていない)ドゥーマ議長はドイツによるペトログラード占領を歓迎する、と意味していると解釈することのできる語り口だった。(147)
 ボルシェヴィキは、Podvoiskii を副官に付けて、Lazimir をミルレヴコムの議長に指名した(十月のクーの前夜に、Podvoiskii はこの組織の長を正式に引き受けることになる)。(**)
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 (**) Lazmir はのちにボルシェヴィキに入党した。1920年にチフスによって死んだ。
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 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕のその他の委員を確定するのは困難だ。彼らはもっぱら、ボルシェヴィキか左翼エスエルだったと思われる。(+)
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 (+) N. Podvoiskii, <KL>No.18(1923年)所収, p.16-p.17.
 トロツキーは、1922年に、かりに生命が危うくなってもミルレヴコムのでき方を思い出すことはできない、と書いた。
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 しかし、誰がミルレヴコムにいたかは大きな問題ではなかった。それはクーの本当の組織者のための便宜的な旗にすぎなかったからだ。つまりは、ボルシェヴィキの軍事組織だった。//
 (13)トロツキーは今や、心理〔神経〕の戦いを始めた。
 ダン(Dan)がボルシェヴィキに、風聞があるように蜂起を準備しているのか否かをソヴェトで明確に表明するよう要請したとき、トロツキーは意地悪く、ケレンスキーとその対抗諜報機関の利益のためにその情報を欲しがっているのか、と尋ねた。
 「我々は権力掌握のための隊員を組織している、と言われている。
 我々はそのことを秘密にしていない。<略>」(148)
 しかしながら、二日後にトロツキーは、かりに蜂起が発生したとすれば、ペトログラード・ソヴェトは「我々はまだ蜂起を決定していなかった」との決定を下すだろう、と主張した。(149)
 (14)これらの言明には意識的な両義性があるにもかかわらず、ソヴェトは告知されていた。
 社会主義者たちは、トロツキーが何を語ったかを聞かなかったか、またはボルシェヴィキの「冒険」は不可避だと諦めていたかのいずれかだった。
 彼らは、レーニンの支持者たちと一緒に自分たちも一掃するだろう、あり得る右翼からの反応に対するほどには、ボルシェヴィキの行動を怖れなかった。
 ボルシェヴィキのクーの前夜(10月19日)、ペトログラード社会革命党の軍事組織は、予期される蜂起に対して「中立的」立場をとることを決定した。
 守備連隊内の同党員および共感者たちに送られてた回覧書は、示威活動からは離れたままでいること、黒の百人組、虐殺主義者および反革命の者たちからなされることがあり得る攻撃<中略>による容赦なき抑圧に十分に注意していること、を強く迫っていた。(150)
 これは疑う余地なく、エスエルの指導者たちはいったいどこに民主主義に対する主要な脅威を見ていたのか、を示している。//
 (15)トロツキーはペトログラードにずっといて、つねに緊張し、約束、警告、脅迫、甘言、激励をしている状態だった。
 スハノフ(Sukhanov)は、この時期の日々の典型的な情景を、つぎのように叙述する。
 「ホールに充満する3000人を超える聴衆の雰囲気は、明確に興奮のそれだった。
 彼らの一瞬の静けさは、つぎの期待を示していた。
 公衆は、もちろん主としては労働者と兵士だった。男女ともに、少しばかりの典型的なプチ・ブルジョア的様相も呈していなかったが。//
 トロツキーに対する熱烈な喝采は、好奇心と性急さで短く切られたように見えた。彼はつぎに何を語ろうとしているのか?
 トロツキーはただちにその巧みさと才幹でもって、会場の熱気を舞い上がらせ始めた。
 私は、彼が長い時間をかけてかつ異常なる力強さで、前線部隊が体験している…<中略>困難な状態を表現したのを憶えている。
 私の心にひらめいた思考は、その修辞的な言葉全体の諸部分にある、避けられない矛盾だった。
 しかし、トロツキーには、自分が何をしているかが分かっていた。
 根本的なのは、<ムード>〔雰囲気・空気〕だった。
 政治的な結論は、長い間にわたってお馴染みのものだった。<中略>//
 (トロツキーによると、)ソヴェトの権力は前線の戦場での損失で終末を迎えるべく運命つけられているだけではない。
 それは土地を提供し、国内の不安を止めるだろう。
 もう一度、飢餓に対処する昔からの秘訣が大きく持ち出される。どのようにして兵士、海兵および労働若年女性たちは裕福な者からパンを調達し、それを無料で前線に送るのだろう。<中略>。
 しかし、この決定的な「ペトログラード・ソヴェトの日」(10月22日)に、トロツキーはさらに進んだ。
 『ソヴェト政府は、国が貧者と前線の兵士のために有する全てのものを与えるだろう。
 きみ、ブルジョア、所有する二着の外套? 前線の塹壕で震えている兵士に一つをやれ。
 きみには、暖かい半長靴がある? きみの靴は労働者が必要としている。<中略>』//
 私の周りの雰囲気は、恍惚状態に近くなった。
 群衆はいつでも自発的に、求められることなく、突然に一種の宗教的な聖歌の中へと入り込んでいきそうに見えた。
 トロツキーは、『我々は最後の血の一滴まで、労働者と農民の根本教条を守るだろう』というのと似通った、短い一般的な決議を定式化し、あるいはいくつかの一般的な定式を宣告した。 
 誰に賛成か? 数千の群衆は、一人の男のようにその手を挙げた。
 私は、男性、女性、青年、労働者、兵士、農民そして典型的なプチ・ブルジョアの人物たちの挙げた手と燃える眼を見た。
 (彼らは)同意した。(彼らは)誓った。<中略>
 私はこの壮大な奇観を、異様に<重たい>心でもって眺めていた。」(151)//
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 (135) この作戦はM. Schwarte et al, <大戦 1914-1918: ドイツの戦争>(Leipzig, 1925), Pt. 3, p.323-7.で叙述されている。
 (136) <Revoliutsiia>V, p.30-p.31.
 (137) <Izvestiia>No.191(1917年10月7日), p.4; <Revoliutsiia>V, p.37.
 (138) <Revoliutsiia>V, p.38, p.67.
 (139) 同上, p.52.
 (140) 同上, p.52, p.237-8.
 (141) <PR>No.10(1922年), p.53-p.54.
 (142) 同上, p.86.
 (143) I. I. Mints, ed., <<略>>Ⅰ(Moscow, 1938), p.22.
 (144) <Rabochii put'>No.33(1917年). <Revoliutsiia>V, p.238. が引用。
 (145) トロツキー, <歴史>III, p.353.
 (146) <Rabochii put'>No.35(1917年). <Revoliutsiia>V, p.70-p.71. と<Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5. が引用。
 (147) Utro Rossi. Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.34n.が引用。
 (148) <Izvestiia>No.199(1917年10月17日), p.8.; <Revoliutsiia>V, p.101.
 (149) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
 (150) <Revoliutsiia>V, p.132.
 (151) N. Sukhanov, <Zapinski o revoliutsii>VII(nberlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.90-p.92.
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 第7節は終わり。第8節の目次上の見出しは、<10月10日の重大な決定>。

1947/R・パイプス著・ロシア革命第11章第6節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.473-p.477.
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 第6節・ボルシェヴィキのためのソヴェト大会の企て。
 (1)レーニンの切迫した意識は、かなりの程度は、憲法制定会議によって先手を打たれるのではないか、という怖れで大きくなっていた。
 8月9日、臨時政府はようやく最終的に、憲法制定会議の日程を発表した。
 選挙は、11月12日。最初の会合は、11月28日。
 ボルシェヴィキは数日間はこの会議で議席の多数派を獲得できるだろうと幻想していたが、心の裡では、かりに農民たちが確実にエスエルに投票するならばその機会はない、と分かっていた。
 ボルシェヴィキは都市と軍隊で強く、単独でソヴェト組織を握っていた。そしてボルシェヴィキの望みはただ、ソヴェトを通じて全国的な信任を勝ち得ることだった。
 さもなければ、全ては終わってしまう。
 民主主義的な選挙を通じて国家がいったんその意思を明らかにすれば、ボルシェヴィキが「民衆(people)」を代表しており、新しい政府は「資本主義者」だ、とはもはや主張できないだろう。
 したがって、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすれば、それは憲法制定会議の前に行わなければならなかった。
 ボルシェヴィキが制御している場合にのみ、選挙での反対の結果を帳消しにすることができる。ボルシェヴィキのある出版物が、憲法制定会議の構成は「誰がそれを招集するかに大きくかかっている」と述べたように。(113)
 レーニンも同意見だった。憲法制定会議の「成功」は、クーの<あと>でのみ最もよく確保されるだろう。(114)
 事態が示すことになるように、このことは、ボルシェヴィキが選挙結果に不正に手を加えるか、そうでなければ会議を解散させるだろう、ということを意味した。
 レーニンが辞任宣告で脅かしてまで同僚たちを急がせた主要な理由は、このことにあった。//
 (2)ボルシェヴィキには、憲法制定会議を操作して自分たちに権力を譲らせるという望みはなかった。しかし、考えられ得ることとしては、彼らはこの目的をもってソヴェトを、定期的にではなく選挙され、農民たちの代表者のいない、ゆるやかな構造をもつこの装置を、利用することができた。
 このことを意識しつつ、ボルシェヴィキは、第二回ソヴェト大会の迅速な招集のための煽動活動を行い始めた。
 彼らには、事情があった。
 6月の第一回会議以降、ロシアの情勢は変化し、都市ソヴェトの構成員も変化していた。
 エスエルとメンシェヴィキは次の大会には全く熱心ではなかった。その理由の一つは、ボルシェヴィキの割合が大きくなるのを怖れたことだ。別の理由は、憲法制定会議の邪魔をすることになるだろうことだった。
 地方ソヴェトと軍隊もまた、否定的だった。
 9月の末、イスパルコムは169のソヴェトと軍委員会に対してアンケートを実施し、第二回ソヴェト大会を開催することの賛否を問うた。
 そのうち63のソヴェトが回答したが、賛成したのは8ソヴェトだけだった。(115)
 兵士たちの間の感情は、さらに消極的なものだった。
 10月1日、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門は、ソヴェトの全国大会に反対する票決を行い、10月半ばにイスパルコムに報告書を提出した。それは、軍委員会の代議員たちは満場一致でそのような大会は「時期尚早(premature)」で、憲法制定会議の基礎を破滅させるだろう、と述べていた。(116)//
 (3)しかし、ペトログラード・ソヴェトで優勢であるボルシェヴィキは、圧力をかけ続けた。そして9月26日、イスパルコム事務局は、10月20日に第二回ソヴェト大会を招集することに同意した。(117)
 この会議の議事対象は、憲法制定会議に提出する立法草案を起草することに限定されるものとされた。
 ソヴェトの都市協議部署に対して、地方ソヴェトに代議員を派遣して招聘するよう、指令が発せられた。//
 (4)ボルシェヴィキはかくして勝利したが、ほんの第一歩にすぎなかった。
 国全体のソヴェトでのボルシェヴィキの立場は、6月よりははるかに強くなっていた。しかし、第二回ソヴェト大会で彼らが絶対多数を獲得しそうにはなかった。(118)
 第二回ソヴェト大会を自分たちの手で招集し、たいていは中央や北部ロシアにあるソヴェトかまたは多数派を占めている軍委員会のソヴェトのみをその大会に招くことによってのみ、彼らは絶対多数の獲得を確保することができる。
 今やボルシェヴィキは、このように進むこととなった。//
 (5)9月10日、ヘルシンキで、第三回フィンランド労働者・兵士ソヴェトの地方大会が開かれた。
 ここではボルシェヴィキは、堅い多数派を形成していた。
 この大会は地方委員会を設立し、この委員会は、フィンランドの民間人および軍人に対して、同委員会が同意した臨時政府の法令にのみ従うよう指令した。(120)
 このような動きが意図したのは、ボルシェヴィキが動かす似而非政府的中心機関を媒介として臨時政府の正統性を奪う(delegitimate)ことだった。
 (6)フィンランドでの成功によって、ボルシェヴィキは、全ロシア・ソヴェト大会を従順なものにして開催する同じような装置を使うことができる、と納得した。
 9月29日にボルシェヴィキ中央委員会は議論し、10月5日、ペトログラードで北部地方ソヴェト大会を開催することを決定した。(121)
 招聘状は、フィンランド陸海軍および労働者の地方委員会と自称する、ボルシェヴィキのその日限りのフロント組織の名前で発送された。
 イスパルコム事務局は、この会合は正式ではない方法で招集されている、と抗議した。(122)
 地方委員会はこれを無視し、代議員を派遣する多数派をボルシェヴィキが握っているおよそ30のソヴェトを招聘する手続を進めた。
 それらの中にはとくに、モスクワ地方の各ソヴェトがあった。北部地方の中に入ってはいなかったのだけれども。(123)
 何人かのボルシェヴィキ指導者たち、とくにレーニンは、この地方ソヴェト大会に権力のソヴェトへの移行を宣言させることを考えた、と有力に示唆するものが存在する。(124) しかし、この計画は断念された。//
 (7)北部地方ソヴェト大会は、10月11日にペトログラードで開かれた。
 この大会は、ボルシェヴィキとその同盟者である、社会革命党を跳び出た集団の左翼エスエルが、完全に支配した。
 この奇抜な「大会」では、あらゆる種類の扇動的な演説が行われた。その中には、「言葉のための時間」は過ぎたと明瞭に語った、トロツキーのものもあった。(125)
 (8)もちろんボルシェヴィキには、他の党派と同じく、全国的であれ地方的であれ、ソヴェト大会を開催する権限はない。そしてイスパルコムは、この会合は公式の立場を有しない、個々のソヴェトの「私的な集会」だと宣言した。(126)
 ボルシェヴィキは、この宣言を無視した。
 彼らは、この大会を、10月20日に集まることが決定されている第二回ソヴェト大会を直接に先駆けするものだと見なしていた。-トロツキーによると、可能ならば合法的な手段で、それが可能でないならば「革命的」方法で。(127)
 この地方ソヴェト大会の最も重要な結果は、「北部地方委員会」の設立だった。これは、11名のボルシェヴィキと6名の左翼エスエルで構成され、その任務は第二回全ロシア・ソヴェト大会の開催を「確実なものにする」こととされた。(128)
 10月16日、北部地方委員会は、連隊、分団および軍団レベルの軍委員会へとともに、各ソヴェトに対して電報を発した。それは、第二回大会がペトログラードで10月20日に開催されることを告げ、代議員を派遣するよう要請するものだった。
 大会では、休戦と農民たちへの土地の配分が達成され、かつ憲法制定会議が予定どおりに開かれることが確実にされるべきだ。
 電報は、第二回大会の招集に反対している全ソヴェトと軍委員会-これらはイスパルコムの調査から知られるように大多数だったが-に対して、ただちに「再選挙」を行うよう指示していた。「再選挙」とは、ボルシェヴィキの暗号符では、「解散」のことだった。(129)//
 (9)このボルシェヴィキの動きは、紛れもなく、ソヴェトの全国組織に対するクー・デタだった。そして、権力掌握の開幕を告げるものだった。
 このような方法でもって、ボルシェヴィキ中央委員会は、第一回ソヴェト大会がイスパルコムに付与した権限を不法に自分たちのものにした。
 これはまた、臨時政府の権能を奪うものだった。なぜなら、ボルシェヴィキがいわゆる第二回大会に設定した議事予定は、憲法制定会議が開催されるまでの政府の活動の中枢に関係していたからだ。(130)
 (10)ボルシェヴィキがしようとしていることを十分に知って、メンシェヴィキとエスエルは、第二回大会の正統性を承認するのを拒否した。
 10月19日、<イズヴェスチア>は、イスパルコム事務局のみがソヴェトの全国大会を招集する権限をもつとのイスパルコムの声明文を掲載した。
 「このような大会を開催する主導権を奪う権限や権利は、別のどの委員会にも存在しない。北部地方委員会は地方ソヴェトに関して定められた全ての規約を侵犯する、恣意的にかつでたらめに(at random)選出されたソヴェトを代表する、ということを一緒にまとめて行っているのであるから、この権利がこの北部地方大会に帰属することは、なおさらあり得ない。」
 イスパルコム事務局はさらに進んで、ボルシェヴィキによる連隊、分団および軍団の各委員会に対する招集は、代議員は軍集会で、これを開催できない場合には2万5000人ごとに1名を基礎にした軍委員会で選出された者を代議員とすると定める軍代表制に関する所定の手続を侵犯する、と述べた。(131)
 ボルシェヴィキの組織者たちは明らかに、第二回大会に反対していることを知って、軍委員会を無視していた。(132)
 三日のちに<イズヴェスチア>は、つぎのように明確に指摘した。ボルシェヴィキは不法な大会を招集しているのみならず、受容された代表制に関する規約を明らかに侵犯している。2万5000人以下の者を代表するソヴェトは全ロシア大会に代議員を送ることができず、2万5000人から5万人までの場合は2名を派遣すると定める選挙規程があるにもかかわらず、ボルシェヴィキは、500人のいるソヴェトに2名の代議員を招聘し、別の1500人のいるソヴェトには5名の派遣を求めている。これは、キエフ(Kiev)に割り当てられている数よりも多い。(133)
 (11)これらの指摘は全て、正しいことだった。
 しかし、エスエルとメンシェヴィキは、来たる第二回大会は正規に代表されていないことはむろんのこと、不法だ、と宣言したにもかかわらずなお、手続が進行するのを許した。
 10月17日、イスパルコム事務局は、二つの条件を付けて第二回大会の開催を承認した。
 第一に、第二回大会は、地方の代議員にペトログラードに到着できる時間を与えるべく、5日間、10月25日まで、延期されるべきこと。
 第二に、その議題は、憲法制定会議を準備すべく国内状況と、イスパルコムの再選出に限定されるべきこと。(134) 
 これは、驚くべき、そしてじつに不可解な屈服だった。
 ボルシェヴィキが心の裡にもつことを知っていたにもかかわらず、イスパルコムは彼らが欲するものを与えた。
 支持者とその同盟者たちで充たされた、お手盛りの(handpicked)組織〔大会〕。これが確実に、ボルシェヴィキによる権力掌握を正当化することになるだろう。
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 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDRP(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 (113) <SD>No.169(1917年9月28日), p.1.
 (114) レーニン, <PSS>XXXIV, p.403, p.405.
 (115) <Izvestiia>No.186(1917年10月1日), p.8.
 (116) <Revoliutsiia>V, p.53.; <Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5.
 (117) <NZh>No.138(1917年9月27日), p.3.
 (118) Leonard Schapiro, <ソヴィエト同盟共産党>(London, 1960), p.164.
 (119) <Revoliutsiia>IV, p.197, P.214.
 (120) 同上, p.256.
 (121) <Protokoly TsK>, p.73, p.76.
 (122) <Revoliutsiia>V, p.65.
 (123) <Protokoly TsK>, p.264.; <Revoliutsiia>V, p.63.
 (124) Alexander Rabinowitch, <ボルシェヴィキの権力奪取>(New York, 1976), p.209-p.211.
 (125) <Revoliutsiia>V, p.71-p.72.
 (126) 同上, p.70-p.71.
 (127) <NZh>No.138/132(1917年9月27日), p.3.
 (128) <Revoliutsiia>V, p.78.
 (129) 同上, p.246, p.254.
 (130) 9月25-27日の政府声明を見よ。<Revoliutsiia>IV所収, p.403-6.
 (131) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.7.
 (132) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (133) 同上, No.203(1917年10月21日), p.5.
 (134) <Revoliutsiia>V, p.109.; <NZh>No.156/150(1917年10月18日), p.3.
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 第6節は終わり。次節・第7節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の奪取>。

1946/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.161-p.166.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題②。
 (8-2)異端の考え方のゆえに訴追され投獄されたソヴィエトの歴史研究者のAndrey Amalrik は、<ソヴィエト同盟は1984年まで残存するだろうか?>の中で、ロシアでのマルクス主義の機能をローマ帝国でのキリスト教のそれと比較した。
 キリスト教の受容は帝国のシステムを強化し、その生命を長引かせたが、最終的な破滅から救い出すことはできなかった。これとちょうど同じく、マルクス主義イデオロギーの吸収(assimilation)によってロシア帝国は当分の間は存在し続けているが、それは帝国の不可避の解体を防ぐことはできない。
 帝国の形成は最初からマルクス主義の立脚点だった、またはロシアの革命家たちの意識的な目的だった、ということを意味させていないとすれば、Amalrik の考え方は受容されるかもしれない。
 諸事情が異様な結びつき方をして、ロシアの権力はマルクス主義の教理を信仰表明(profess)する党によって掌握された。
 権力にとどまるために、初期の指導者たちの口から真摯に語られたことが明瞭なそのイデオロギーのうちに含まれる全ての約束を、党は首尾よく取り消さざるをえなかった。
 その結果は、国家権力を独占し、その性質上ロシアの帝国主義の伝統に貢献する、新しい官僚機構階層の形成だった。
 マルクス主義はこの階層の特権となり、帝国主義的政策の継続のための有効な道具となった。//
 (9)これに関係して、多くの著述者たちは、「新しい階級」に関する疑問、つまり「階級」はソヴィエト連邦共和国やその他の社会主義諸国家の統治階層を適切に呼称したものかどうか、を議論してきた。
 要点は、とくにMilovan Djilas の<新しい階級>の1957年での出版以降、適切に叙述されてきた。
 しかし、議論にはより長い歴史があるが、ある程度はこれまでの章で言及してきた。
 例えば、アナキスト、とくにバクーニンのマルクスに対する批判は、その考えを基礎とする社会を組織する試みは必ず新しい特権階級を生む、と主張した。
 現存している支配者に置き換わるべきプロレタリアは自分の階級に対する裏切り者に転化し、彼らの先輩たちがしたように、嫉妬をもって守ろうとする特権のシステムを生み出すだろう。
バクーニンは、マルクス主義は国家の存在が継続することを想定するがゆえに、このことは不可避だ、と主張した。
 主にロシア語で執筆したポーランドのアナキストであるWaclaw Machajski は、この考え方を修正してさらに、はるかに隔たる結論を導き出した。
 彼は、こう主張した。マルクスの社会主義思想は、知識人たちがすでに所有する知識という社会的な相続特権を手段として政治的特権をもつ地位を得ようと望む知識人たちの利益を、とくに表現したものだ。
 知識人界の者たちが彼らの子どもたちに知識を得る有利な機会を与えることができるかぎりで、社会主義の本質である平等に関する問題は存在し得ないだろう。
 知識人たちに頼っている現在の労働者階級は、知識人たちの主要な資産、すなわち教育を剥奪することでのみ目的を達成することができる。
 いくぶんはSorel のサンディカリズムを想起させるこうした主張は、つぎのような相当に明確な事実にもとづいていた。すなわち、所得の不平等と、教育・社会的地位の間の強い連関関係のいずれもがある社会ではどこでも、教育を受けた階級の子どもたちは他の者たちよりも、社会階層を上昇する多くの機会をもつ。
 相続の形態が不平等であることは、文化の継続を破壊し、完全に均一の教育を行うべく子どもたちを両親から切り離してのみ、除去することができる。その結果として、Machajski のユートピアは、平等という聖壇に捧げるために文化と家族の両方を犠牲にすることになるだろう。
 教育は特権の根源だとしてやはり嫌悪するアナキストたちは、ロシアにもいた。
 Machajski はロシアに支持者をもったので、十月革命後の数年間は、彼の考え方に反対することは、党のプロパガンダの周期的な主題だった。彼らは、全く理由がないわけではなく、サンディカリズム的逸脱や「労働者反対派」の活動家たちと関連性(link)があった。//
 (10)しかしながら、社会主義のもとでの新しい階級の発展という問題は、別の観点からも提示された。
 プレハノフのようなある範囲の者たちは、経済的条件が成熟する前に社会主義を建設しようとする試みは新しい形態の僭政(despotism)を生むに違いない、と主張した。
 Edward Abramowski のような別の者たちは、社会の道徳的な変化が先行する必要性を語った。
 この者たちは、かりに共産主義が道徳的に改良されず、古い秩序が植え付けてきた要求と野心とまだ染みこんだままの社会を継承するならば、国有財産制のシステムのもとでは、多様な性質の特権を目指す闘いが繰り返されざるを得ないと、主張した。
 Abramowski が1897年に書いたように、共産主義は、このような条件下では、つぎのような新しい階級構造の社会のみを生み出すことができるだろう。すなわち、古い分立が社会と特権的官僚機構の間の対立に置き換えられ、僭政と警察による支配という極端な形態によってのみ維持される社会。//
 (11)十月革命の危機は、最初から、特権、不平等、僭政の新しいシステムがロシアで芽生えていることを明瞭に指摘していた。「新しい階級」とは、カウツキーが1919年にすでに用いた概念だった。
 トロツキーが国外追放中にスターリニスト体制批判を展開していたとき、彼は、彼に倣った正統派トロツキストたちの全てがしたのと同様に、「新しい」階級に関する問題ではなく、寄生的官僚制度の問題だと強く主張した。
 トロツキーは、革命なくしては体制は打倒できないという結論に到達したあとでも、この区別をきわめて重要視した。
 彼は、社会主義の経済的基盤、つまり生産手段の公的所有は、官僚機構の退廃には影響を受けない、従って、すでに起こった社会主義革命を行う余地はない、そうではなく、現存する政府機構を排除する政治装置こそが必要なのだ、と論じた。//
 (12)トロツキー、その正統派支持者およびスターリニズムに対する批判的共産主義者は、ソヴィエト官僚制の特権は自動的に別の世代へと継承されるものではない、官僚機構は生産手段を自分たち自身では持たが生産手段に対して集団的な統制を及ぼすにすぎない、という理由で、「新しい階級」の存在を否定した。
 しかしながら、このことは、議論を言葉の問題に変えた。
 その各員が、相続によって継承できる、一定の生産的な社会的資源に対する法的権能を有しているときにのみ、支配し、搾取する階級の存在を語ることができる、というようにかりに「階級」を定義するとすれば、ソヴィエト官僚機構はもちろん、階級ではない。
 しかし、なぜこの用語がこのような制限的な意味で用いられなければならないのか、は明瞭でない。
 階級は、マルクスによってそのようには限定されていない。
 ソヴィエト官僚制は、国家の全ての生産的資源を集団的に自由に処理する権能をもった。このことはいかなる法的文書にも明確には書かれていないが、単直に、システムの基本的な帰結だった。
 生産手段の支配は、かりに集団的所有者たちを現存システムのもとでは排除することができず、いかなる対抗者たちもそれに挑戦することが法的に不可能であれば、本質的には所有制と異なるものではない。
 所有者は集団的であるために個人的な相続はなく、政治的な階層内での個々の地位を子どもたちに遺すことは誰もできない。
 実際には、しかし、しばしば叙述されてきたように、特権はソヴィエト国家では、系統的に継承されてきた。
 支配層の者たちの子どもたちは明らかに、人生での、また限定された物品や多様な利益への近さでの有利な機会の多さという観点からすると、特権をもっていた。そして、支配層の者たち自身が、このような優越的地位にあることを知っていた。
 政治的な独占的地位と生産手段の排他的な統制力はお互いに支え合い、分離しては存在することができかった。 
支配階層者の高い収入は搾取的な役割の当然の結果だったが、搾取それ自体と同一のものではなかった。搾取(exploitation)は、民衆によって何ら制御されることなく、民衆が生み出す余剰価値の全量を自由に処分することのできる権能で成り立つ。
 民衆は、いかにして又はいかなる割合で投資と消費が分割されるべきかに関して、または生産された物品がいかに処理されるのかに関して、何も言う権利がない。
 こうした観点からすると、ソヴィエトの階級分化は、所有にかかる資本主義システムにおけるよりもはるかに厳格なもので、かつ社会的圧力に対して敏感ではないものだ。なぜなら、ロシアには、社会の異なる部門が行政組織や立法機構を通じて自分たちの利益に関して意見を表明したり圧力を加える、そういう方法は何もないからだ。
 確かに、階層内での個人の地位は、上位者の意思あるいは気まぐれに、あるいは、スターリニズムが意気盛んな時代には単一の僭政者の愉楽に、依存している。
 この点を考えると、彼らの地位は完全に安全なものではない。その状態は、高位にいる者たちはみな僭政主の情けにすがり、ある日または翌日に解任されたり処刑されたりした、東洋の僭政体制にもっと似ている。
 しかし、このような事情のある国家について観察者が何ゆえに「階級」という語を使ってはならないのかどうかは明瞭でない。トロツキーの支持者が主張するように、それを「社会主義」と「ブルジョア民主主義」に対する社会主義のはるかな優越性を典型的に証明するものだと何故考えてはならないのかどうか、については一層そうだ。
 Djilas はその著書で、社会主義国家の支配階級が享有する、権力の独占を基礎にしていてその結果ではない、特権の多様性に注目した。//
 (13)上に詳しく述べたように、社会主義官僚機構を何故「搾取階級」という用語で表現してはならないのかの理由は存在しない。
 実際に、この表現は次第に多く使われていたように見える。そして、トロツキーによる〔試訳者-「新しい」階級と寄生的官僚機構の間の〕区別は、ますます不自然なものになっていた、と理解することができる。//
 (14)James Burnham はトロツキーと決裂したあと、1940年に<管理(managerial)社会主義>という有名な著書を刊行した。そこで彼は、ロシアでの新しい階級の成立は、全ての産業社会で発生しかつ発展し続ける普遍的な過程の特有の一例だ、と論じた。
 彼は、こう考えた。資本主義も、同じ過程を進んでいる。正式の所有権はますます小さくなり、権力は生産を現実に統制している者たち、すなわち「管理する階級」の手へと徐々に移っている。
 このことは、現代社会の性格による不可避の結果だ。新しいエリートたち(élite)は、社会の諸階級への分化の今日的な形態に他ならない。階級分化、特権および不平等は、社会生活の自然な現象だ。
 過去の歴史を通じてずっと、大衆は異なる多様なイデオロギーの旗の下で、その時代の特権階級を打倒するために使われてきた。しかし、その結果は、ただちに社会の残余者を、先行者たちが行ったのと同様に効率的に、抑圧し始める新しい主人たちと置き代えるだけのことだった。
 ロシアでの新しい階級による僭政は、例外ではなく、こうした普遍的な法則を例証する一つだ。//
 (15)社会生活は何がしかの形態での僭政を含むというBurnham の言い分が正しいか否かは別として、彼の論述は、ソヴィエトの現実に関する適切な叙述だとはとうてい言えなかった。
 革命後のロシアの支配者たちは産業管理者ではなかったし、政治的な官僚機構だった。かつ現に、産業管理者ではなく政治的官僚機構だ。
 もちろん前者の産業管理者は社会の重要な部門ではある。そして、それに帰属する者たちは、とくにそれぞれの分野に関する上層の権威者による決定に、十分に影響を与えるほどに強いかもしれない。
 しかし、産業上の投資、輸入そして輸出に関するものも含めて、重要な決定は政治的なものであり、政治的寡頭制がそれを行っている。
 十月革命は技術と労働の組織化の過程の結果としての、管理者への権力の移行の特有な事例だ、というのはきわめて信じ難い。//
 (16)ソヴィエトの搾取階級は、何らかの形態で東方の僭政制度に似ている新しい社会的形成物だ。別の形態としては封建的な豪族階級、あるいはさらに別の形態としては後進諸国の資本主義植民者に似ているかもしれない。
 搾取階級の地位は、政治的、経済的かつ軍事的な権力が、ヨーロッパでは以前に決して見られなかったほどの程度にまで絶対的に集中したものによって、そしてその権力を正統化するイデオロギーのへの需要によって、決定される。
 構成員たちが消費の分野で享受する特権は、社会生活で彼らが果たす役割の当然の結果だった。
 マルクス主義は、彼らの支配を正当化するために授けられる、カリスマ的な霊気(オーラ)だった。//
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 第12節終わり。次節の表題は、<スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義>。

1945/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史01。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 むろん秋月瑛二の概念の使い方で、一般的ではないことは承知している。この問題には別に触れる。
 日本・天皇の歴史やこれに関連して日本の「宗教」、したがって、神道や仏教、そして当然ながら「神仏混淆」・「神仏習合」等々に、気ままに言及する。
 立ち入らないが、最近に何かで、天皇の「代替わり」、つまり新天皇就位の際には(おそらく明治維新以前の「仏教伝来」したある時期以降は)、<仏教式の>儀礼も仏教寺院で執り行われていた、という文章を読んだ。
 江戸時代の幕末までは、強弱はあれ、またそれぞれの役割分担があったとはいえ「神仏混淆」だったとすると、それも当然だっただろう。
 大嘗祭は「神道」式だと言われているが、神道といっても、その中には「皇室(天皇家)神道」という一種の分類も把握できるのではないか(しかも時代によって儀式内容等は一定していない)、という「しろうと」考えを持っている。
 また、そもそも新天皇就位(・皇位継承)に際して、「仏教」が全く無関係だった、ということは(明治期以降よりも長い)日本の歴史からするとあり得ないだろう。
 日本会議派諸氏が「本来は」とか言いつつ、天皇関連のことを語ったり、主張していたりしても、<本来は>という日本の歴史・伝統が明治期以降に新たに形成されたものもあるのだから、十分に注意して、騙されないようにしないといけない。
 近年の類似した典型例は、天皇は「終身在位」だとする櫻井よしこ等々の主張で、櫻井よしこはこれを明治期以降だということくらいは知っていて、「明治の元勲たち」の知恵に学ぶべきだとした。その際に、明治天皇即位後にすみやかにそうになったかのごとく理解される書き方をしていたが、実際の旧皇室典範は旧明治憲法の施行とともに策定されたのだった。
 この櫻井よしこも、江崎道朗と同様に、なぜか「聖徳太子の憲法十七条」を重視して、1868年の「五箇条の御誓文」以前で最も大切なもののごとくこの聖徳太子のものに論及している。
 他の日本会議派の者の文章にも、同種のものがある。
 これはいったい何故なのだろうと感じ、これら二人が自分で考えたり「発見」 したりした筈はないので、彼らなりの「経典」・「教典」的な指導的文献があるのだろう、と想像している。
 こんなことも、この連載?を始めようかという気になった、ごく小さなきっかけだ。
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 京都市に現在でも二条城の南にある「神泉苑」という寺院は、そこが発行している小冊子内によると、平安京創建時より「洛中」に現存している、東寺(教王護国寺)とともに数少ない二つのうちの一つらしい。
 その小冊子内の地図・図面と説明にとりあえず従うと、かつて平安京造営時は内裏の東南に「神泉苑」の大きな一画があった。これは別の本でも見て、その古さと往時の広さに驚いたことがある。
 京都の街の(中心部の)「通り」は現在でもかなりの程度、平安時代(平安京造営時以降)の道路区画あるいは道路にかかる「都市計画」の影響を残している。8-9世紀以降、今で1000年以上経っているので、このこと自体も驚くべきことではある。
 上の小冊子によると、当初の神泉苑は、東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間、南北は「三条」通りと「二条」通りにまで及ぶ。
 これは、現在でも(!)ほぼそのまま区画としては残っている東寺(教王護国寺)と全く同じだ。現在の東寺(教王護国寺)は東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間で、上と同じ南北は「九条」通りと「八条」通りの間で(数字でほぼ推定できるように各「条」の間で)「三条」通りと「二条」通りの間の懸隔と同じ(洛南高校や塔頭寺院を含む)。但し、北端の八条通り沿い等は宅地化されていて、往事の90パーセントくらいか。
 現在の東寺の区域(境内)を想像すると、現在の神泉苑はそれに比べて大幅に狭くなっている。
 一般の地図を見ると、まず南北は「御池」通りと「押小路」通りとの間に狭くなっている。
 かつての「三条」と「二条」の間はまず二つに分かれ、それぞれがさらに二つに分けられて、間に三つの通りがあった(名称は現在と同じではない場合があるようだ)。上の二つの旧<大路>間は三つの通りによって四つの区画に分けられていたことになる。そして、南から(現在は)「姉小路」、「御池」、「押小路」各通りなので、現在の「御池」通りと「押小路」通りとの間というのは、かつての「三条」と「二条」の間の四分の一になる。
 つぎに東西はきちんとした現在の「基幹」道路にすら沿っていなくて、東は「大宮」通りよりも西、西は「壬生」通りよりも東に、区画の境界がある。
 かつての(平安京・「都市計画」図面による)「大路」は上に触れたように、東西・南北ともに四つの区画に(三つの「小路」等によって)分けられていた。
 それぞれを「一コマ」と言うとすると、かつては、神泉苑も東寺も、東西は2コマ、南北は4コマあった。
 こういう表現の仕方を採用すると、南北は現在の東寺はほぼ4×0.9コマであるのに対して、現在の神泉苑は(「御池」通りと「押小路」通りとの間の)1コマしかない。
 東西は、現在の東寺は2コマを維持しているのに対して、現在の神泉苑は1コマ分もなく、1×0.8コマくらいだろう。
 往時は南北×東西が4×2=8だったとすると、ほぼ、現在の東寺は3.6×2コマ、現在の神泉苑は1×0.8コマになる。つまり、7.2に対して0.8しかない。
 つまりかつては東寺とほぼ同じ広さを誇った?神泉苑は現在は前者の9分の1くらいの広さしか持っていないことになる。
 これはもともと、神泉苑はきちんとした独立の寺院等(いわば宗教法人)ではなくて東寺の「預かり」地とされたこと(正確な言葉ではたぶんない。この由緒からだろう、現在の神泉苑の宗派は「東寺真言宗」だ)、北に秀吉により<聚楽第>が造営され、さらに家康がその南に<二条城>を建造したことによって(聚楽第も破棄されたが)、神泉苑の区域も相当に減じられたこと、によるのではないか、と「しろうと」は推測している。
 なお、余計なことを書くと、聚楽第の建築物の一部が竹生島神社(滋賀県・琵琶湖内)で使われて、今でも残っているらしい。実際にこの神社で見たはずだが、そのときはこの知識がなく、説明書き・掲示もまともに読まなかった)。
 さらについでに。朱雀大路(現在の「千本」通りの位置だとされる)のほかに、大路とか小路で道路の横幅が異なっていたようなので、単純に計算できないのだが、「しろうと・歴史好き」の地図の検討によると、1コマ(基幹道路間の距離)は<約135メートル>だ。京都御所の広さもこれでおおよその見当はつく。そして、間違っていると思われる御所の南北・東西の距離を記載している書物もある(御所は、東西が「寺町」と「烏丸」の間の5コマ、南北が「丸太町」と「今出川」の間のおよそ10コマのように思える)。
 さて、このように古く、かつかつてよりは狭くなった神泉苑だが、「くろうと」には著名なことであるらしいのは、ここで(日本で)初めて<御霊会>(ごりょうえ)が催された、ということだ。
 これは<怨霊>に、あるいは<怨霊信仰>に関係する。<御霊会>とは、いわば<怨霊>封じ、<祟り>封じの儀礼・儀式、あるいは宗教的?行事だからだ。
 上の小冊子によると、863年(貞観5年)。今から1150年余前という、気の遠くなるような?前の話。
 この「怨霊」関係の話題には、かつてから関心がある。
 人間は、日本人も、「理性」、「理屈」だけでは動かない。<死後の霊魂>の「存在」を感じて、行動することもある。自分がそうだ、というのではない。ヒト・人間、そして日本人の「心」、「精神」あるいは「感性」というのは面白いものだ、と想うことの一つであるからだ。第1回は、ここまで。

1944/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節①。

 なかなかに興味深く、従って試訳者には「愉快」だ。スターリンなら日本共産党も批判しているという理由で、スターリン時代に関するL・コワコフスキの叙述を省略する、ということをしないでよかった。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.157-.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題①。
 (1)共産主義者および共産主義に反対の者のいすれもが、スターリニズムの社会的根源と歴史的必然性に関して参加している論議は、スターリンの死後にすぐに始まり、今もなお続いている。
 我々はここで全てのその詳細に立ち入ることなく、主要な点のみを指摘しておこう。
 (2)スターリニズムという基本教条の問題は、その不可避性の問題と同一ではない。ともかくもその意味するところを解明するのが必要な問題だ。
 歴史の全ての詳細は先行する事象によって決定されると考える人々には、スターリニズムの特有な背景を分析するという面倒なとことをする必要がない。しかし、そういう人々は、その「不可避性」をあの一般的な原理の一例だと見なさなければならない。
 その「不可避性」原理は、しかしながら、受容すべき十分な根拠のない形而上学的前提命題だ。
 ロシア革命の行路のいかなる分析からしても、結果に関する宿命的必然性はなかった、と理解することができる。
 内戦の間には、レーニンが自身が証人であるように、ボルシェヴィキ権力の運命が風前の灯火だった、そして「歴史の法則」なるものはどういう結果となるかを決定しない、多数の場合があった。
 レーニンを1918年に狙った銃弾が一または二インチずれていてレーニンを殺害していれば、ボルシェヴィキ体制は崩壊していただろう、と言えるかもしれない。
 レーニンが党指導者たちをブレスト=リトフスク条約に同意するよう説得するのに失敗していたならば、やはりそうだっただろう。
 このような例は他にも、容易に列挙することができる。
 こうした仮定によって生起しただろうことに関してあれこれと思考することは、今日では重要ではなく、結論は出ないはずだ。
 ソヴェト・ロシアの進展の転換点-戦時共産主義、ネップ(N.E.P, 新経済政策)、集団化、粛清-は、「歴史的法則」によるのではなく、全てが支配者によって意識的に意図された。そして、それらは発生し「なければならなかった」、あるいは支配者はそれら以外のことを決定できなかった、と考えるべき理由はない。//
 (3)歴史的必然性の問題がこうした場合に提起され得る唯一の有意味な形態は、つぎのようなものだ。すなわち、その際立つ特質は生産手段の国有化とボルシェヴィキ党による権力の独占であるソヴェト・システムは、統治のスターリニスト体制により用いられて確立されたのとは本質的に異なる何らかの手段によって、維持することができていなかったのか?
 この疑問に対する回答は肯定的だ、ということを理性的に論じることができる。//
 (4)ボルシェヴィキは、講和と農民のための土地という政綱にもとづいてロシアで権力を獲得した。
 これら二つのスローガンは、決して社会主義に特有ではなく、ましてマルクス主義に特有なものでもない。
 ボルシェヴィキが受けた支持は、主としてはこの政綱のゆえだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの目標は世界革命だった。そして、これが達成不可能だと分かったときは、単一政党の権威を基礎とするロシアでの社会主義の建設。
 内戦の惨状のあとでは、何らかの主導的行為をする能力のある党以外には、活動力のある社会勢力は存在しなかった。このときまでに存在したのは、社会の全生活やとくに生産と配分に責任をもち得る、政治的、軍事的かつ警察的装置という確立していた伝統だつた。
 ネップは、イデオロギーと現実の妥協だった。第一に、国家はロシアでの経済的な再生に取り組むことができなかった、第二に、実力行使によって経済全体を規整する試みは厄災的な大失敗だった、第三に、市場の「自然発生的な」働きからのみ助けが得られることができた、ということを認識したことから生じたものだった。
 経済的妥協は、いかなる政治的譲歩も含むものとは意図されておらず、国家権力を無傷なままで維持させた。
 農民はまだ社会化されておらず、唯一つ主導的行為をする能力をもつのは、国家官僚機構だった。
 この階級は、「社会主義」を防護する堡塁だった。そして、そのシステムのさらなる発展は、膨張への利益と衝動を反映していた。
 ネップの結末と集団化の実施は、たしかに歴史の意図の一部ではない。そうではなく、システムとその唯一の活動的要素の利益によって必要とされた。
 すなわち、ネップの継続は、つぎのことを意味しただろう。第一に、国家と官僚機構が農民層の情けにすがっていること、第二に、輸出入を含む経済政策の大部分が、彼ら農民層の要求に従属しなければならないこと。
 もちろん我々は、かりに国家が集団化ではなく取引の完全な自由と市場経済へ元戻りするという選択をしていればどうなったか、を知らない。
 トロツキーと「左翼」が抱いた、ボルシェヴィキ権力を打倒しようとの意図をもつ政治勢力を発生させるだろう、との恐怖は、決して根拠がなかったわけではなかった。
 少なくとも、官僚機構の地位は強くなるどころか弱くなっていただろう。そして、強い軍事と工業の国家を建設するのは無期限に先延ばしされただろう。
 経済の社会化は、民衆の莫大な犠牲を強いてすら、官僚機構の利益であり、システムの「論理」のうちにあった。
 事実上は社会から自立していた支配階級と国家の具現者であるスターリンは、ロシアの歴史上は以前に二度起こっていたことを行った。
 彼は、社会の有機的な分節から自立した新しい官僚制階層が生じるように呼び寄せ、それを全体としての民衆、労働者階級、に奉仕することから、あるいは党が相続したイデオロギーから、最終的には全て解放した。
 この階層はすぐにボルシェヴィキ運動内の「西欧化」要素を破壊し、マルクス主義の用語法をロシア帝国の強化と拡張のための手段として利用した。
 ソヴィエト・システムは、それ自身の民衆たちに対する戦争を絶えず行った。それは民衆が多くの抵抗を示したからではなく、主としては支配階級が戦争状態とその地位を維持するための攻撃とを必要としたからだ。
 微小な弱さであっても探ろうとしている外国の工作員、陰謀者、罷業者その他の者にもとづく敵からの国家に対する永続的な脅威は、権力を官僚機構が独占していることを正当化するためのイデオロギー的手段だ。
 戦争状態は、支配集団自体に損傷を与える。しかし、これは統治することの必要な対価の一部だ。//
 (5)マルクス主義がこのシステムに適合したイデオロギーだった理由に関してはすでに論述した。
 それは疑いなく、歴史上の新しい現象だった。しばしば歴史研究者や共産主義批判者が論及するロシアとビザンティンの全ての伝統-市民的民衆に<向かい合う>国家がもつ高い程度の自律性や<chinovnik>の道徳的かつ精神的な特質等-があったにもかかわらず。
 スターリニズムは、ロシア的伝統とマルクス主義の適合した形態にもとづいて、レーニズムを継承するものとして発現した。
 ロシアとビザンティンの遺産の重要性については、Berdyayev、Kucharzewski、Aronld Toynbee、Richard Pipes(リチャード・パイプス)、Tibor Szamuely やGustav Wetter のような著述者たちが議論している。//
 (6)このことから、生産手段を社会化する全ての試みは結果として必ず全体主義的社会をもたらす、ということが導かれるわけではない。全体主義的社会とは、全ての組織形態が国家によって押しつけられ、個人は国家の所有物のごとく扱われる、そういう社会だ。
 しかしながら、全ての生産手段の国有化と経済生活の国家計画(その計画が有効か否かを問わず)への完全な従属は、実際には全体主義的社会へと至ってしまう、というのは正しい。
 システムの基礎が、中央の権威が経済の全ての目標と形態を決定する、そして労働分野を含む経済はその権威による全ての分野での計画に従属する、ということにあるのだとすれば、官僚機構は、活動する唯一の社会勢力になり、生活のその他の分野をも不可分に支配する力を獲得するに違いない。
 多数の試みが、国有化することなく、経済的主導性を生産者の手に委ねつつ財産を社会化する手段を考案するために、なされてきた。
 このような考え方は、部分的にはユーゴスラヴィアに当てはまる。しかし、その結果は微小で曖昧すぎるものであるため、成功する明確な像を描くことができていない。
 しかしながら、根本的なのは、相互に制限し合う二つの原理がつねに作動している、ということだ。
 経済的主導性が生産のための個々の社会化された単位の手に委ねられる範囲が大きければそれだけ、またこの単位がもつ自立性の程度が大きければそれだけ、「自然発生的」な市場の法則、競争および利潤という動機、これらがもつ役割は大きくなるだろう。
 生産単位に完全な自律性を認める社会的な所有制という形態は、全員に開かれた、完全に自由な資本主義に元戻りすることになるだろう。唯一の違いは、個人的な工場所有者が集団的なそれに、すなわち生産者協同組合に、置き換えられることだけだ。
 計画の要素が大きくなればそれだけ、生産者協同組合の機能と権能は大きく制限される。
 しかしながら、程度の違いはあるけれども、経済計画という考え方は、発展した産業社会で受け入れられてきた。そして、計画と国家介入の増大は、官僚機構の肥大化を意味している。
 問題は、現代の産業文明の破壊を意味するだろう官僚機構をどのようにして除去するかではなく、代表制的な機関という手段によってその活動をどのようにして制御するかにある。//
 (7)マルクスの意図に関して言うと、彼の諸著作から抽出することのできる全ての留保にかかわらず、マルクスは疑いなく、社会主義社会は完全な統合体(unity)、私的所有制という経済的基盤が排除されるにともなって利益の衝突が消失する社会、の一つだろうと考えていた。
 マルクスは、この社会は議会制的政治機構(これは不可避的に民衆から疎外した官僚制を生じさせる)や市民の自由を防護する法の支配(rule of law)のようなブルジョア的諸装置を必要としないだろう、と考えた。
 ソヴィエト専制体制は、制度的な方法によって社会的統合体を生み出すことができるという考えと連結して、この教理を適用する試みだった。//
 (8-1)マルクス主義は自己賛美的ロシア官僚制のイデオロギーとなるべく運命づけられていた、と語るのは、馬鹿げているだろう。
 にもかかわらず、偶然にとか副次的にとかいうのではなく、マルクス主義は、この目的のために適応させることのできる、本質的な特質をもっていた。
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 段落の途中だがここで区切る。②につづく。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
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 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
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 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
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 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
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 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
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  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
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 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
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 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
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 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
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 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1942/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.467-p.470.
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 第5節・隠亡中のレーニン①(Lenin in hiding)。
 (1)その間、レーニンは田舎に隠れていて、世界の再設計に没頭していた。//
 (2)ジノヴィエフとN. A. Emelianov という名前の労働者に付き添われて、レーニンは、別荘地域の鉄道接続駅Razliv に、7月9日に着いた。
 レーニンは髭を剃り落として、農業従事者のごとく変装していた。二人のボルシェヴィキは導かれて近くの、翌月の彼らの住まいとなる畑小屋に入った。//
 (3)備忘録を書くのが嫌いなレーニンは、その人生のうちのこの時期に関する回想録を残していない。しかし、ジノヴィエフの簡単な文書資料がある。(97)
 (4)彼らは潜伏したままで生活したが、伝達人を通じて首都との接触を維持していた。
 レーニンは彼と党への攻撃に立腹して、しばらくは新聞を読むのを拒んだ。
 7月4日の事態は、彼の心を苦しめていた。しばしば、ボルシェヴィキは権力を奪取できていたかどうかを思いめぐらしたが、いつも消極的な結論に達した。
 夏遅くに雨による洪水が彼らの小屋を浸したので、移動するときだった。
 ジノヴィエフはペトログラードに戻り、レーニンは、ヘルシンキへと進んだ。
 フィンランドを縦断するために、レーニンは労働者だとする偽造の書類を用いた。その旅券の、きれいに髭を剃って鬘をつけた写真で判断すると、颯爽とした外見を偽装していた。//
 (5)党を日常的に指揮することから離れ、おそらくは権力奪取の新しい機会はもうないだろうと諦念して、レーニンは、共産主義運動の長期目標に関心を向けた。
 彼は、マルクスと国家に関する論文を再び執筆し始めた。その論考を翌年に、<国家と革命>との表題で出版することになる。
 これは、将来世代への彼の遺産、資本主義秩序が打倒された後の革命戦略の青写真となるべきものだった。//
 (6)<国家と革命>は急進的虚無主義の著作であり、革命は全ての「ブルジョア」的制度を完膚なきまで破壊しなければならない、と論じる。
 レーニンは、国家は、どこでも、いつでも、搾取階級の利益を代表し、階級対立を反映する、という趣旨のエンゲルスの文章の引用で始める。
 彼はこれを証明済みのこととして受容し、もっぱらマルクスとエンゲルスのみを参照して、政治制度や政治実務の歴史にはいずれもいっさい参照することなく、さらに詳論する。//
 (7)この論考の中心的メッセージは、マルクスがパリ・コミューンから抽出し、<ルイ・ナポレオンのブリュメール十八日>で定式化した教訓から来ている。
 「議会制的共和国は、革命に対する闘いで、抑圧の手段や国家権力の集中化の手段を全て併せて、自らを強くすることを強いられた。
 全ての革命は、国家機構を粉砕するのではなくて完全なものにしてきた。」(*)//
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 (*) レーニン,<PSS>XXXIII, p.28.から引用。レーニンは最後の文章に下線を引いて強調した。
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 マルクスは、この議論をある友人への手紙で表現し直した。
 「私の<ブリュメール十八日>の最終章を見入れば、私がフランス革命のつぎの試みを宣言しているのが分かるでしょう。すなわち、今まで行われてきたように、手にあるひと組の全体を別の官僚制的軍事機構に移行させるのではなく、粉砕(smash)すること。」(98)
 マルクスが革命の戦略や戦術について書いたことのうちこれ以上に、レーニンの心に深く刻み込まれたものはなかった。
 レーニンはしばしば、この文章部分を引用した。彼の、権力奪取後の行動指針だった。
 彼がロシアの国家と社会およびこれらの全装置に向けた破壊的な怒りは、このマルクスの言明によって理論的に正当化された。
 マルクスはレーニンに、現在の革命家たちが直面している最も困難な問題の解決策を与えた。成功している革命を、いかにして、反革命の反動が生じないようにして守るか。
 解決策は、旧体制の「官僚制的軍事機構」を廃絶させることだった。反革命からそれを育んだ土壌を剥奪するために。//
 何が、古い秩序に置き代わるのか?
 パリ・コミューンに関してマルクスが書いたことを再び参照して、レーニンは、反動的な公務員や将校の安息所にならないコミューンや人民軍のような大衆参加組織を指し示した。
 これとの関係で、彼は職業的官僚機構が最終的には消滅することを予言した。
 「社会主義のもとでは、我々の<全て>が順番に統治して、すぐに誰も統治していない状態に慣れるだろう。」(99)
 のちに共産党の官僚機構が前例のない割合で大きくまっていたとき、この文章部分は レーニンの顔に投げ込まれることになるだろう。
 彼は、ソヴィエト・ロシアに巨大な官僚機構が出現したことに驚いて不愉快になり、かつ大いに困惑することになる。おそらくは彼の主要な関心は、人生の最終の日々にあった。
 しかし彼は、官僚機構は「資本主義」の崩壊とともに消失するだろうとの幻想は決して抱かなかった。
 レーニンは、革命の後の長期間にわたって、「プロレタリア独裁」が国家の形をとる必要がある、と認識していた。しかも、このように示唆した。
 「資本主義から共産主義への移行に際して、抑圧は<まだ>必要だ。
 しかし、その抑圧はすでに、多数者たる被搾取者による少数者たる搾取者に対するものだ。
 特別の装置、特別の抑圧機構、「国家」は<まだ>必要だ。」(100)
(8)レーニンは<国家と革命>を執筆している間に、将来の共産主義体制の経済政策にも取り組んだ。
 コルニロフ事件のあとの9月に、これを二つの論考でまとめた。そのときは、ボルシェヴィキの見通しは予期しなかったほどに良くなっていた。(101)
これらの論考のテーゼは、レーニンの政治的著述物とは大きく異なっていた。
 古い国家とその軍隊を「粉砕」すると決意する一方で、「資本主義」経済を維持し、革命国家に奉仕するように利用することに賛同した。
 この主題は、「戦時共産主義」の章で扱われるはずだ。
 ここではこう叙述しておくので十分だ。すなわち、レーニンの経済に関する考え方は、当時の一定のドイツの著作を読んだことから来ている。ドイツの著作者とはとくにルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)で、この学者は、先進的または「金融」資本主義は、銀行や企業連合の国有化という単純な方法で相対的には社会主義へと続きやすい集中のレベルを達成している、と考えていた。
 (9)かくして、古い「資本主義」体制の政治的および軍事的装置を根絶することを意図する一方で、レーニンはその経済的装置を維持すねることを望んだ。
 最終的には、彼は三つの全てを破壊することになるだろう。
 (10)しかし、これは先のことだ。
 直近の問題は革命の戦術で、この点でレーニンは彼の仲間たちと一致していなかった。
 (11)ソヴェトの社会主義派は七月蜂起を許しかつ忘れようとしていたにもかかわらず、また政府による嫌がらせからボルシェヴィキを防衛しようと彼らはしていたにもかかわらず、レーニンは、ソヴェトのもとでの権力追求という仮面を剥ぎ取るときがやって来ている、と決意した。
 すなわち、ボルシェヴィキはこれからは、武装暴動という手段によって、権力を直接にかつ公然と獲得すべく奮闘しなければならない。
7月10日、田舎へと隠れるようになった一日後に書いた<政治情勢>で、レーニンはこう論じた。
 「ロシア革命の平和的な進展への望みは全て、跡形もなく消え失せた。
 客観的な状況は、軍事独裁の究極的な勝利か、それとも<労働者の決定的な闘争><中略>のいずれかだ。
 全ての権力のソヴェトへの移行というスローガンは、ロシア革命の平和的進展のスローガンだった。それは、4月、5月、6月、そして7月5-9日まではあり得た。-すなわち、現実の権力が軍事独裁制の手へと渡るまでは。
 このスローガンは今では、正しくない。(権力の)完全な移行を考慮に入れておらず、じつにエスエルとメンシェヴィキによる革命に対する完全な裏切りを考慮していないからだ。」(102)
 レーニンは原稿の最初の版では「武装蜂起」という語を使って書いていたが、のちに「労働者の決定的な闘い」に変更した。(103)
 こうした論述の新しさは、権力は実力でもって奪取されなければならない、ということにあるのではない。-ボルシェヴィキ化していた労働者、兵士および海兵たちは4月や7月に街頭でほとんど歌や踊りの祭り騒ぎをしなかった。そうではなく、ボルシェヴィキは今や、ソヴェトのために行動するふりをしないで、自分たちのために闘わなければならない、ということにある。
 (12)7月末に開催されたボルシェヴィキ第6回党大会は、この基本方針を承認した。
 その決議はこう述べた。ロシアは今や「反革命帝国主義ブルジョアジー」によって支配されている。そこでは「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンは有効性を失ってしまった。
 新しいスローガンは、ケレンスキーの「独裁制」の「廃絶」を呼びかけた。これはボルシェヴィキの任務であって、その背後には、プロレタリアートに率いられ、貧しい農民たちに支持された全ての反革命グループが集結している。(104)
 冷静に分析すると、この決議の前提は馬鹿げており、その結論は欺瞞的だ。しかし、実際上の意味は、間違えようがない。すなわち、ボルシェヴィキはこれから、臨時政府とはもちろん、ソヴェトとも闘うだろう、ということだ。//
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 (97) <PR>No.8-9/67-68(1927), p.67-p.72.
 (98) レーニン,<PSS>XXXIII, P.37. から引用。
 (99) 同上, p.116
 (100) 同上, p.90.
 (101) レーニン「迫る危機。それといかに闘うか」同上, XXXIV, p.151-p.199, 「ボルシェヴィキは国家権力を掴みつづけるか?」同上, p.287-p.339.
 (102) 同上、p.2-p.5. 強調を施した。
 (103) レーニン,<Sochineniia>XXI, p.512, n18.
 (104) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.383-4.
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 ②へとつづく。

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
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 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
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 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
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 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
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両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
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 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
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次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1940/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 全体的に、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)をも照合して、試訳とした。抽象度、理論度・「哲学」度が(試訳者には)高いので、趣旨を把握し難い部分があるからだ。従って、必ずしも英語訳書の「試訳」ではない(英語版と独語版の違いの印象についてはいずれ言及する)
 Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 試訳者のいちいちのコメントは原則として行っていない。但し、前回と今回の<弁証法的唯物論>批判は、マルクス主義「哲学」の根本にかかわるので、マルクス・エンゲルスに関する部分は未読だが、L・コワコフスキ著の理解にとって重要な部分だろう。表現を少し変えると、L・コワコフスキによると、「弁証法的唯物論」は結局は、つぎの三つの部分(範疇)で成っている(前回①の(3))。
 1.自明のこと。当たり前のこと。誰でも経験上知っていること又は簡単な想起で気づくこと。
 2.科学的に証明され得ないドグマ・教条。ドイツ語訳語の直接邦訳では「信仰告白」。
 3.たわ言・ナンセンスなこと。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位②。
  (7)私が弁証法的唯物論のうちのたわ言の(ナンセンスな)主張だと称した第三の範疇の中に、感覚は事物をそれと同じように「反射(reflect)する」ものだとの言明が入る。
 これは、プレハノフを攻撃したレーニンの主張だ。
 神経細胞の中で生じている何らかの過程、あるいは外部世界に存在する客体や過程を感知する「主観的」行為は、神経細胞の中に対応する変化を因果関係的に呼び起こすものと「同じような」ものだ、というこの命題の主張は、何を意味することができているのか。これを理解することはできない。
 もう一つのナンセンスな(スターリンは特別に称賛しはしなかったが、プレハノフによって提示され、マルクス主義の叙述で規則的に繰り返された)主張は、形式論理は静止状態にある現象に「適用される〔当てはまる〕」が、弁証法の論理は変化に「適用される」、というものだ。
 この馬鹿げた主張は、たいていは形式論理による表現が何を意味するかを理解することができないマルクス=レーニン主義者の無知の結果だ。そして、論じるに値しない
 (8)その他の諸主張は、すでに記したように、どのように解釈するかによって上の三つの範疇のいずれかに含まれる。
 その中にはとくに、「矛盾」に関する「弁証法の法則」なるものがある。
 多数のソヴィエトの教科書が教示するように、かりにこれが意味するのは、運動と変化は「内部矛盾」によって説明することができる、ということだとすれば、これは意味のない言明の一つだ。なぜならば、「矛盾」とは諸命題の関係を読み解く論理的な範疇であり、「矛盾した現象」とは何を意味するかを答えることは不可能だからだ。
 (少なくとも唯物論の主張からは不可能だ。ヘーゲル、スピノザおよび論理的関係と存在論的関係を見分ける(identify)その他の者たちの形而上学では、矛盾を抱えた存在という観念は、無意味ではない。)
 一方で、かりに、この言明が意味するのは、現実は緊張状態とそれに対抗する傾向の一つのシステムだと理解されなければならない、ということであるとすると、これは自明のことにすぎず、科学的探求や実践的行動に役立つ特有の帰結を何らもたらさないと考えられる。
 多くの現象が相互に影響し合うということ、人間社会は対立し調和しない利害によって分断されること、人々の行動はしばしば、意図していなかった結果をもたらすこと。-これらは陳腐で当たり前のことだ。
 そして、これらを「弁証法的方法」とか、「形而上学」思考とは対照的な深遠さをもつものとか言って高く評価するのは、マルクス主義の典型的な傲慢さのもう一つの例に他ならない。その傲慢さは、マルクスまたはレーニンが世界に授けた記念碑的な科学的発見だと、古来から知られた自明のことを述べているのだ。
 (9)真実(truth)は相対的(relative)だという、ずっと前にこの著で論述した主張もまた、この範疇に入るものの一つだ。
 真実の相対性ということがかりに、エンゲルスが記したように、科学の歴史ではいったん受容された見解はのちの研究によってしばしば完全に放棄されるのではなく、その有効性は限定的にだが承認される、ということを語っているにすぎないのであれば、この言明の正確さに関して論じる必要はなく、それは決してマルクス主義に特有のものではない。
 これに対して、この言明がかりに、「我々は全てを知ることはできない」または「判断はある状況では正しい(right)が、別の状況では正しくない」、ということを意味するのだとすれば、これらもまた、古代から自明のことだ。
 例えば、雨は干魃の場合には有益だが、洪水の状況ではそうでない、ということを知るために、我々がマルクスの知性を必要とすることはなかった。
 もちろんこれは、これまでにしばしば指摘してきたように、「雨は有益だ」との言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりする、ということを意味するものではない。上の言明は両義的で曖昧だ、ということを意味している。
 「雨は全ての状況で有益だ」ということをそれが意味しているならば、明らかに虚偽だ。
 「雨は一定範囲の状況では有益だ」と意味させているならば、明らかに真実だ。
 しかしながら、マルクス主義の真実の相対性という原理的考え方を、その意味を変えることをしないで、ある言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりし得る、ということを表現するものと我々が解釈するとすれば、この言明もまた、たわ言〔ナンセンス〕という第三の範疇に入る一つだ。我々がレーニンもそうしていたように、真実を伝統的な意味で理解する、ということを前提にするとすれば。
 他方で、「真実(truthful)の判断」とは「共産党にとって有用だと承認する判断」と同じものを意味しているとすれば、真実の相対性というこの原理的考え方は、ここでもう一度、明白に陳腐な常套句になる。
 (10)しかしながら、「真実」という語を発生論的(genetic)または伝統的のいずれの意味で理解しているのかという疑問は、マルクス主義の歴史の中でかつて明瞭には回答されてきていない。
 すでに述べたように、マルクスの諸著作には、人間の必要(needs, Bedürfnisse)との関係での「有効性」だと真実という語を理解しなければならない、ということを強く示唆するものがある。
 しかしレーニンは、かなり明確に、伝統的な理解に立って真実とは「現実との合致」だと主張していた。
 弁証法的唯物論に関するほとんどの手引き書はこの点でレーニンに従っていたが、もっと実践的で政治的な見方を示す兆候もまた、しばしば見られた。その見方によれば、社会的進歩を「表現」するものが真実だ。このような理解によれば、むろん党当局の諸決定が、真実か否かの規準となる。
 混乱を助長するのは、ロシア語には「真実」という二つの言葉があることだ。
 <istina>と<pravda>。前者は<is〔存在する,である〕>という伝統的な意味を表現する傾向がある。後者は、道徳的な色彩がより強く、「正しくて公平なこと」〔right, just〕または「なされるべきこと」を示唆する。
 このような両義性が、「真実」の発生論的観念と伝統的観念の区別が曖昧になるのを助けている。//
 (11)「理論と実践の統一」という原理的考え方について言うと、これもまた、異なる意味で理解することができる。
 これはときどきは単純に、何らかの実際的有用性のある問題についてのみ思考すべきだ、ということを多少とも示す規範の意味で用いられている。
 この場合には、この命題は、上に挙げた三つの範疇のいずれにも、これらは規範的であるとは言えないので、含まれない。
 記述的な言明だとして考察すると、人々は一般に実際的な必要の影響を受けて理論的な考察を行っている、ということを意味している可能性もある。
 これはゆるやかな意味では正しい。しかし、マルクス主義に特有のものではない。
 再びかりに、理論と実践の統一とは、実際的な成果が我々が実践行動の基礎にした思考の正しさ(rightness, Richtigkeit)を確認する、という意味だとすれば、受容可能な真実の標識だ。但し、絶対的な通用力が要求されないかぎりで。なぜならば、知識や科学の多数の分野では、実際的な確認(verification)なるものは、全く明らかに存在しない。
 最後に、この原理的考え方は、特殊にマルクス主義的な意味で理解され得る。すなわち、思考は行為の一側面であって、このことに気づいているということによって「真実」になる、という意味で。
 しかし、このような意味での理論と実践の統一なるものは、ソヴィエトの弁証法的唯物論には存在しなかった。
 理論と実践の統一の意味は、マルクス、コルシュおよびルカチに関する章で検討されている。//
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 第11節、終わり。次の第12節の表題は<スターリニズムの根源と意義。「新しい階級」の問題。>

1939/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 ①のとくに後半について、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)も参照した。
 Leszek Kolakowski, Die Hauptstroemungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 原文の 'diamat'と'histmat'は途中から〔弁証法的唯物論〕や〔歴史的唯物論〕へと変えた。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位①。p.151-.
 (1)通称で言われた'diamat'〔弁証法的唯物論〕や'histmat'〔歴史的唯物論〕の、そしてソヴィエトのマルクス=レーニン主義一般の社会的機能は、それ自体を賛美し、帝国主義的膨張を含めたその諸政策を正当化するために、統治する官僚機構が用いたイデオロギーだ、ということにある。
 マルクス=レーニン主義を構成している全ての哲学的および歴史的原理は、わずかな単純な前提命題によって、その最高点と最終的な意味へと到達する。
 生産手段の国有制と定義される社会主義は歴史的には社会秩序の最高の形態であり、全ての労働人民の利益を代表する。
 ソヴィエト体制はゆえに進歩を具現化したものであり、そのようなものとして、いかなる異論に対しても当然に正しい(right)ものだ。
 公式の哲学と社会理論はたんに、特権をもつソヴィエト支配階級の自己賛美の修辞文に他ならない。
 (2)しかしながら、いったん社会的側面は考慮外として、宇宙〔世界〕に関する言明の集積である、スターリニズムの形態での弁証法的唯物論に関して考察しよう。
 マルクス、エンゲルスおよびレーニンの考え方との関係ですでに述べてきた多数の批判的論評は脇に置き、「弁証法的唯物論」にかかる主要な論点に集中するならば、以下のような考察をすることができる。//
 (3)弁証法的唯物論は、異なる性質の主張で成り立つ。
 ある部分は、マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truism)だ。
 つぎの別の部分は、科学的手段では証明することのできない哲学上のドグマだ。
 さらに第三にあるのは、全くのたわ言(nonsense, Unsinn)だ。
 最後の第四の範疇は異なる態様で解釈することのできる前提命題で成り立っており、その解釈次第で、上記の三分類のいずれかに含まれる。//
 (4)自明のことの中ではとくに、宇宙の全てのものは何らかの形で関係している、あるいは、全てのものは変化している、という言明のごとき「弁証法の法則」だ。
 誰一人として、これらの命題を否定しない。しかし、これらは認識論的または科学的な価値を全くほとんど有しない。
 第一の言明は、そのとおりだが、例えばライプニッツやスピノザの、形而上学という別の論脈では、確かな哲学上の意味をもつ。しかし、マルクス=レーニン主義ではそれは、認識上または実践上の重要性のある、いかなる帰結をも導かない。
 誰もが、現象は相互に関連すると知っている。しかし、世界を科学的に分析するという現存の問題は、我々には究極的には不可能なので、宇宙的相互関係をいかに考慮するか、にあるのではない。
 そうではなく、どのような関係が重要なもので、どの関係を無視することができるかを、いかにして決定するかが問題だ。
 マルクス=レーニン主義がこの点で我々に教えることができるのはただ、鎖でつながった現象にはつねに、把握されるべき「主要な連環」(main link, Hauptglied)がある、ということだ。
 これはたんに、実際には、追求している目的から見て一定の現象が重要であり、その他の現象は重要でないか無視できるものだ、ということを意味するにすぎない。
 しかし、これは認識上の価値のない、陳腐なこと(commonplace, triviale Alltagswahrheit)だ。我々は、いかなる規準でもってしても、全ての特定の場合について、重要性の程度の階層を確定することはできないのだから。
 「全てのものは変化している」という命題に関しても、同じことが言える。
 個々の変化、その本性、速さ等々に関する経験的な叙述にのみ、認識論上の価値がある。
 ヘラクレイトス(Heraklitus)の格言には、彼の時代の哲学的な意味があった。しかし、それはすみやかに誰でも知る一般常識、日常生活の知恵の範疇へと埋もれ込んだ。//
 (5)マルクス=レーニン主義者による、「科学」はマルクス主義を確証している、の信奉は、これらのような自明のことがマルクス主義による重大な発見だと叙述されたことにまさに依拠している。
 経験科学や歴史科学の真実というものは、一般論として言って、何かが変化しているとか、その変化が何か別のものと関係しているとか、を語るものであるので、全ての新しい科学的発見は、そのように理解される「マルクス主義」を確認することになるのだろう、と我々は認めることができる。//
 (6)証明することのできないドグマという第二の範疇に、話題を移す。これには、とりわけ唯物論それ自体の主要なテーゼが含まれる。
 マルクス主義の分析の低い水準によって、このテーゼはほとんど明瞭には定式化されておらず、その一般的に意味するところは十分に単純だ。
 すでに指摘したように、「世界はその性質において物質的だ」との言明は、レーニンの様態に倣ってたんに物理的固有性から抽出された「客観物」だと、あるいはレーニンが述べたように「意識から独立した存在」だと物質が定義されるのだとすれば、あらゆる意味を失う。
 意識という概念がまさにその物質という観念の中に含まれているということは別論として、「世界は物質的だ」との言明はたんに、世界は意識から独立したものだ、ということだけを意味することが分かる。
 しかし、これを全てに当てはめるならば、マルクス=レーニン主義自体が認めるように、一定範囲の現象は意識に依存しているのだから、明白に間違っている、というだけではない。それだけではなくて、唯物論にかかわる問題を解決することもしない。宗教的な人々の考えによれば、神、天使および悪魔もまた同様に、人間の意識から独立したものだ。
 他方で、物質は物理的固有性-外延範囲や貫通不可能性等々-だと定義されるとすれば、「物であると証明されない微小物体にはその規準-固有性の一定範囲-を当てはめることはできない、と論駁され得る。
 唯物論は、その初期の範型では、存在する全物体は日常生活のそれと同じ固有性をもつ、と考えた。
 しかしながら、基本的には、この命題は一定の消極的なものだ。すなわち、我々が直接に感知するものと本質的に異なる現実体は存在しない。また、世界は理性的存在によって生み出されたものではない。
 ちなみにこれは、エンゲルスが自ら定式化したことだった。すなわち、唯物論での問題の要点は、神は世界を創造したのか否か、だった。
 明らかに、神が存在した、または存在しなかったことの経験上の証拠は存在し得ないし、科学上の論議によって神が存在するか否かを決定することもできない。
 合理主義は、思考経済という(レーニンが否定した)考え方にもとづいて、経験上の情報の有力さにもとづいてではなく、神の存在を拒絶する。
 この考え方が前提とするのは、経験が我々に強いているとすれば、我々にはただ何かが存在することを受け容れる権利だけがある、ということだ。
 しかし、このような条件の明確化はそれ自体が論議を呼ぶもので、明瞭さからはほど遠い前提に依拠している。
 ここではこの問題に立ち入らないで、我々は、つぎのように確言することができる。すなわち、我々がこのように再定式化した唯物論のテーゼは、科学的な主張ではなく、ドグマ的な言明(dogmatic statement)〔信仰告白(Glaubensbekenntnis)〕だ。
 同じことは、「精神的な実体」や「人間の意識の非物質性」についても当てはまる。
 人間の意識はつねに肉体的な過程によって影響される、と人々は古い昔から気づいてきた。
 例えば、頭を棍棒で打って人を気絶させることができる、ということに気づくのに、長期の科学的な観察は必要でなかっただろう。
 だが、このことは、意識の過程が異なる肉体的条件に依存することに関してその後に研究しても、本質的なことを何も付け加えることはない。
 意識の非物質的な根底があると考える者たちは、意識と身体の間に連環はない、とはむろん主張しない。(かりにそうするとすれば、彼らは、デカルト、ライプニッツやマールブランシュ(Malebranche)のように、経験上の事実を考慮する複雑で技巧的な方策を考案しなければならない。)
 彼らはただ、身体上の過程は人間精神の働きを停止させることができるとしても、破壊することはできない、と主張する。-身体は、意識がそれを通じて作用するいわば媒体物だ。しかし、その意識の作用のための不可欠の条件ではない。
 こういう主張の正しさは、経験上は証明することができないが、反証することもできない。
 たんに、進化論は非物質的な精神を支持する議論に反駁したと、いかにしてマルクス主義の支持者たちは主張するのかも、一致していない。
 かりに人間という有機体が突然変異によって生命の下層から発生したのであれば、そのことから論理的には、精神の否定につながるわけではない。
 そうであるとすれば、現代的な進化論と意識の非物質的根底、または世界の目的論的見方すら、の間を同時に結びつける矛盾なき理論を生み出すのは、不可能だろう。
 しかし、そのような若干の理論が、ベルクソンを通じてフロシュアマー(Froschammer)からテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)まで、存在した。そして、それらには何らかの矛盾がある、ということは、全く明瞭ではなかった。
 キリスト教哲学者もまた、教義に進化論の効果からの免疫をつけるための様々な可能性をすでに見出した。そして、この哲学は異論に対して開かれていたかもしれないが、自己矛盾があった、と言うこともできない、
 科学的作業に応用できる有効性という規準で判断すれば、唯物論のテーゼは、その反対理論と同じ程度には恣意的なものだった。//
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 ②へとつづく。

1938/日本の「保守」・西尾幹二の2008年頃の主張。

 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008年)はきっとアホらしくて所持していない。
 万が一入手していたとしても(そしてどこか隅にあるとしても)、捲って読んだことはない。
 今のところ、特段の突発事がないかぎり、本年2019年5月1日に現在の皇太子が天皇に、現皇太子妃・雅子様が皇后になられる。
 この時期だからこそ今のうちに、<保守>派の少なくとも一部がかつて皇太子や同妃についてどう発言していたかをあらためて記録しておいてよいだろう。
 西尾幹二はどちらかというと肯定的にこの欄で言及することが多かったが(これもこの一年以上はやめている)、その天皇・皇室論のうちの現皇太子・同妃<批判>だけは賛同できなかった。
 冒頭に書いたとおり単行本は読んでいないが、ときどきの関係論考は読んだことがあって、この欄でも明確に批判または疑問視してきた。
 あらためて彼の文書を読み直す余裕はないので、自らのこの欄へのかつての記載から振り返ってみる。
一例になるだろうが、①2008/11/08付の、<0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい>によると、西尾幹二は月刊諸君!(文藝春秋)2008年12月号にこう書いた。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…、言論人がやらなきゃいけない」。
 この当時に秋月がすでに指摘しているが、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」との指摘はおかしい。
 「宮中祭祀」なるものがいつの頃からかあったとして、皇太子も、ましてや皇太子妃も、その<主体>ではあり得ない。
 また、上の「なさる」が参加する、関与する、という趣旨だったとしても、「宮中祭祀」への参加・関与が皇太子妃の「公務」とはどこにも定められていない。
 ②2008/06/13付の本欄<0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二>によると、西尾幹二は月刊WiLL2008年5月号(ワック)につぎの旨を書いた。
 1.小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」だ。(=おそらく皇太子との「離婚」が前提。)   
2.「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」。(=つまりは現皇太子は、次期天皇としてふさわしくないという見解の表明だ)。
 こうなると、論及する気もなくなる<アホらしい>ものだった。
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 今回はこの程度にするが、この頃、<保守派>の少なくとも一部は何を血迷っていたのだろうか。
 上の②の表題にも出てくるように、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は、<一致団結して>ではないが、それぞれに皇太子妃・雅子様を批判し、現皇太子の天皇就位資格を疑問視していたのだ。
 八木秀次も入っていることからすると、日本会議は(むろん正規の決定などしていないにせよ)このような論調に反対だった、八木のような主張を阻止しようとした、とは言い難い。容認していたのだろうと推察される。
 中西輝政、八木秀次の主張・発言内容には今回は触れないが、「平成」が終わろうとしている今、これら三人は、かつてのそれぞれの自分の主張・発言の内容の<適否>について、現時点での何らかの「総括」が必要なのではないか。
 なお、重視していなかったので当時はあまり取り上げなかったが、「アホ」の一人の加地伸行も当時に西尾幹二の主張を支持する論調だった。そして、のちに2016年になって明確に、皇太子・皇太子妃に対する<罵詈雑言>を吐く。その際の対談相手は、西尾幹二だ。
 その内容を分かり易く?列記したのが、以下だった。
 2017/07/16付の、<1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号>。
この上の最後の秋月の文章は以下。
 「この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ」。

1937/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節③。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂③。
 (25)ケレンスキーがコルニロフを訴追したことは、彼に制御できない激しい怒りをもたらした。彼の最も敏感な神経、つまり彼の愛国心に直接に触るものだったからだ。
 声明文を読んで、彼はもはやケレンスキーをたんなるボルシェヴィキの捕囚だとは考えず、自分とその軍隊を陥れるために仕組んだ、卑しむべき挑発の原作者だと見なした。
 コルニロフの反応は、Zavoiko が起草した抗議声明を全ての前線司令官に送ることだった。(+)//
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 (+) 政治的野心をもつ事業家だったZavoiko はネクラソフの対応相手者で、コルニロフを右翼側へと押した。彼について、Martynov,<コルニロフ>, p.20-p.22.
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 「首相による声明は、<中略>その最初の部分で、完璧なウソだ。
 私は、ドゥーマ代議員Vladimir・ルヴォフを臨時政府へと遣わさなかった。
 -彼は、首相からのメッセージの伝達者としてやって来た。<中略>
 かくして、この祖国の運命を賭けるごとき大きな挑発行為が行われた。
 ロシア人民よ。我々の偉大な母国が死にそうだ。
 死の瞬間は、もうすぐだ。
 公然と明確に語らざるを得ない。私、将軍コルニロフは、ソヴェト多数派ボルシェヴィキの圧力によって、臨時政府は、ドイツの将軍幕僚たちの企図と完全に一致して行動し、切迫しているリガの海岸への敵軍の上陸と同時に軍隊を破壊して、この国を内部から震撼させる<中略>、と宣告する。
 私、将軍コルニロフは、コサック農民の息子は、全ての者に対して、私は偉大なロシアを救うこと以外の何ものをも個人的に望んでいない、と宣告する。
 私は誓う、敵国に対する勝利によって人民を立憲会議(憲法制定会議)まで導く、と。その会議は、我々の運命を決定し、我々の新しい政治体制を選択するだろう。」(70)//
 (26)これは、結局は、反逆だった。コルニロフはのちに、公然たる反乱-すなわち大逆罪-だとして訴追されたがゆえに政府と明確に決裂することに決した、ということを認めた。
 Golvin は、ケレンスキーはその行為によってコルニロフを挑発して反乱を起こさせた、と考える。(71)
 この評価は、コルニロフは反乱したとして訴追されたあとで初めて反乱し始めたという意味で、正しい。//
 (27)ケレンスキーが亀裂を修復するのではなくて傷口を広げることを欲していることは、彼が8月28日に行ったいくつかの記者発表から明瞭になった。
 その一つで彼は、「祖国を裏切った」として訴追したコルニロフによる指令を無視するよう、全軍の司令官に命令した。(72)
 もう一つの中で彼は、コルニロフの軍団がペトログラードへと進んでいる理由に関して、公衆にウソをついた。以下のとおり。//
 「前最高司令官、将軍コルニロフは、臨時政府の権威に反抗して反乱を起こした。その電信通話では愛国心と人民への忠誠を表明しているものの、その行為はその欺瞞性(treachery)を明確に例証した。
 彼は前線から連隊を撤退させ、容赦なき敵であるドイツ軍に対する抵抗を弱め、それら全ての連隊をペトログラードに対して向けさせた。
 彼は祖国を救うと語り、意識的に兄弟殺しの(fratricidal)戦争を煽動した。
 彼は、自由の側に立つと言い、ペトログラード出身分団に対抗して軍団を送った。」(73)//
 ケレンスキーがのちに主張したのだが、彼は、ほんの一週間前には彼自身が第三騎兵軍団が自分の指揮下にあるペトログラードに来るように命令したことを、忘れていたのか?
 このような説明を説得力があると考えるのは、極度にひどい強引な軽はずみの信じ込み(credulity)だろう。//
 (28)その後三日間、コルニロフは、「ペトログラードを支配している欲得ずくのボルシェヴィキの手から祖国を救い出す」ために国民を結集させようとしたが、成功しなかった。(75)
 彼はコサックにとともに常備軍に訴えかけ、クリムロフに対してペトログラードを占拠するよう命じた。
 多数の将軍たちがコルニロフに精神的な支持を与え、最高司令官に対する措置に抗議する電信をケレンスキーに送った。(76)
 しかし、彼らも保守派政治家たちも、コルニロフに加わらなかった。ケレンスキーが広めた虚偽情報で混乱していたのだ。ケレンスキーによって、臆面もなく事態の背景を歪曲し、コルニロフは反逆者で反革命者とする情報が流れていた。
 高位の将軍たちの全員がコルニロフに従うことを拒否したことはむしろ、彼らがコルニロフとの陰謀に加わっていなかったことを示す証拠を追加する。
 (29)8月29日、ケレンスキーはクリモフに対して、つぎのように電信で伝えた。//
 「ペトログラードは完全に平穏だ。
 騒乱(vystupleniia)はありそうにない。
 貴下の軍は必要がない。
 臨時政府は貴下に対して、貴下自身の責任でもって、解任された最高司令官が命じた、ペトログラードへの進軍を停止し、軍をペトログラードではなくNarva の作戦目標値へと向かわせるよう、命令する。」(77)//
 このメッセージは、ケレンスキーはクリモフがボルシェヴィキの騒乱を鎮静化すべくペトログラードに進んでいると考えていたとしてのみ、意味をもつことになる。
 混乱していたけれども、クリモフは従った。
 Ussuri コサック分団は、ペトログラードに近いKrasnoe Selo で止まった。そして、8月30日に、臨時政府に対する忠誠を誓約した。
 明らかにクリモフの命令により、ペトログラード出身分団もまた、前進を停止した。
 ドン・コサック分団の行動は決まっていなかった。
 いずれにせよ、ペトログラードへと進軍しないように説得する、通常はソヴェトにより派遣された活動家が行う役割が格段に誇張された、ということを、利用可能な歴史資料は示している。
 クリモフの軍団がペトログラードを占拠しなかった主要な理由は、言われていたようにはペトログラードはボルシェヴィキの手に落ちておらず、自分たちの仕事は不必要だという、司令将校たちの認識だった。(*)//
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 (*) Zinaida Gippius は、かくして、コルニロフの騎兵軍団とそれを遮断するべくペトログラードから派遣された軍団の遭遇について、こう叙述する。
 「『流血』は、なかった。
 Lugaや別の場所で、コルニロフが派遣した分団と『ペトログラード人』はお互いに偶然にぶつかった。
 彼らは、理解できないままに、互いに向かい合った。
 『コルニロフ者たち』はとくに驚いた。
 彼らは、『臨時政府を守る』ために進み、やはり『臨時政府を守る』ために進んだ『敵』と遭遇した。<中略>
 彼らは立ったままで、思案した。
 事態を理解することができなかった。
 しかし、『敵と親しくすべきだ』との前線の煽動活動家の教示を思い出して、彼らは、熱烈に仲良くなった。」
 <Siniaia kniga>(Belgrade, 1929), p.181.; 1917年8月31日の日記への書き込み。
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 (30)クリモフはケレンスキーに招かれて、かつ身の安全を約束されて、8月31日にペトログラードに着いた。
 彼はその日の遅く、首相と会った。
クリモフは、ケレンスキーとその政府を助けるために軍団をペトログラードへと動かした、と説明した。
 政府と軍司令部との間にあった誤解について知るとすぐに、彼は、部下たちに停止を命じていた。
 クリモフには、反乱の意図はなかった。
 説明の詳細に進む前に、ケレンスキーは握手することすら拒んで、クリモフを解任し、軍事裁判所本部に報告するよう彼に指示した。
 クリモフはそうしないで友人のアパートへ行き、自分の心臓を銃弾で打ち抜いた。(**)
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 (**) ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.75-p.76.; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.143.; Martynov,<コルニロフ>, p.149-p.151.
 クリモフは、コルニロフに遺書を残した。それはコルニロフに衝撃と苦しみを与えた。
 Martynov,<コルニロフ>, p.151.
 クリモフは反動的君主制論者ではなく、1916年の反ニコライ二世陰謀に関与していた。
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 (31)コルニロフの職責を引き受けるよう頼んだ二人の将軍-ルコムスキーのあとはV. N. Klembovskii-が拒んだために、ケレンスキーは、公然と大逆罪で訴追した人物の手にあった軍事司令権限を自分に残さなければならないという厄介な状態にあるのに気づいた。
 コルニロフの命令を無視せよと軍司令部に従前に指示していたのだったが、今では逆に、当分の間はコルニロフの命令に従うことを許容した。
 コルニロフは、状況きわめて異常だと考えた。彼はこう書いた-「世界の歴史上に珍しい事件が起きた。大逆罪で訴追された最高司令官が、…他に誰も任命される者がいないために、司令し続けるように命じられている」。(78)//
 (32)ケレンスキーとの亀裂のあと、コルニロフは落胆し切っていた。首相とサヴィンコフが意識的に自分を罠に嵌めた、と確信していた。
 自殺するのを怖れて、彼の妻は、夫に回転式拳銃を引き渡すよう求めた。(79)
 アレクセイエフ(Alekseev)が司令権を引き継ぐため、9月1日にモギレフに到着した。ケレンスキーが彼をこの任務に就かせるまで、3日を要した。
 コルニロフは、この決定に抵抗することなく従った。ただ、政府は堅固な権威を確立し、彼を悪用しないようにだけ求めた。(80)
 コルニロフは、最初はモギレフのホテルに軟禁され、のちにBykhov 大要塞へと移された。そこには、「共謀」に関与したと疑われた30人の将校たちが、ケレンスキーによって幽閉されていた。
 どちらの場所でもコルニロフは、忠実なTekke Turkomans に護衛された。
 彼はBykhov から、ボルシェヴィキ・クーの直後に脱出し、ドンへと向かった。そこで彼は、アレクセイエフとともに、自主〔義勇〕軍を設立することになる。//
 (33)「コルニロフの陰謀」はあったのか?
 ほとんど確実に、なかった。
 利用可能な証拠資料はむしろ、「ケレンスキーの陰謀」を指し示している。それは、空想上のだが広く予期されていた反革命の首謀者だとしてコルニロフを貶めるために仕組まれたものだった。反革命を抑止することは首相を対抗者のいない人気と権力がある地位へと引き上げ、彼が増大しているボルシェヴィキの脅威に対処することを可能にするだろう、として。
 本当のクー・デタの要素は何も露見しなかった、というのは偶然ではあり得ない。共謀者の名簿、組織上の図表、暗号信号、計画といった要素だ。
 ペトログラードの将校たちとの通信や軍事単位への命令のような疑わしい事実は、予期されるボルシェヴィキ蜂起との関係では、全ての場合について完全に解明することができる。
 将校の陰謀が企てられていれば、確実に何人かの将軍は、その反乱に加われとのコルニロフの訴えに従っただろう。
 誰も、そうしなかった。
 ケレンスキーとボルシェヴィキのいずれも、コルニロフと結託していたことを認める、またはそれについて例証することのできる一人の人間も、特定することができなかった。一人による陰謀というのは、明らかに馬鹿げているのだ。
 1917年10月に指名された委員会は、1918年6月に(すなわち、すでにボルシェヴィキによる支配にあったときに)コルニロフ事件に関する調査を完了した。
 それは、コルニロフに向けられた訴追は根拠がない、と結論づけた。すなわち、コルニロフの軍事的動きは臨時政府を打倒するためではなくて、ボルシェヴィキから臨時政府を防衛することを意図していた、と。
 その委員会は、コルニロフの嫌疑を完全に晴らした。そして、「コルニロフ問題にかかる真実を意識的に歪曲したとして、また自分が冒した壮大な誤りについて罪があることを認める勇気が欠如しているとして」、ケレンスキーの責任を追及した。(***)(81)//
 --------
 (***) コルニロフ事件の全体が挑発だったのではないかとの疑念が、ネクラソフが不用意にプレスに対して行った言明で強くなった。
 ネクラソフは、事件後2週間のときに新聞に答えて、ルヴォフをコルニロフの陰謀を暴露したとして褒め讃えた。
 ルヴォフによる通告書をまるで確認したかのごとく感じさせるようにケレンスキーに対するコルニロフの回答を歪曲して、彼はこう付け加えた。
 「V. N. ルヴォフは革命を助けた。彼は二日前に用意された爆発するはずの地雷を破裂させた。
 疑いなく、陰謀はあった。ルヴォフは、ただ早めに発見しただけだ。」<NZh>No.55(1917
年9月13日), p.3.
 このような言葉は、あり得ることとしてはケレンスキーの黙認のもとで、ネクラソフがコルニロフを破滅させるためにルヴォフを利用した、ということを示唆する。
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 (34)コルニロフは特別に複雑な人間ではなく、1917年7月-8月の彼の行動は、陰謀理論に頼ることなくして説明することができる。
 彼の第一で最大の関心は、ロシアと戦争にあった。
 彼は、臨時政府の優柔不断な政策とそのソヴェトへの依存に、警戒心を抱いた。ソヴェトは軍事問題に干渉して、軍事作戦を展開することがほとんど不可能になっていたのだ。
 臨時政府には敵国の工作員が浸透している、と彼が考えた理由はあった。
 しかし、ケレンスキーはその職にふさわしくないと感じていてもなお、コルニロフには彼に対する個人的な敵意はなく、政府にとって不可欠の人物だと彼を見なしていた。
 8月のケレンスキーの行動によってコルニロフは、首相は自分の側の人間なのかという疑問をもつに至った。
 ケレンスキーが望んでいたはずだとコルニロフは知っている軍隊改革を実現することができなかったことは、コルニロフに、ケレンスキーはソヴェトの捕囚であり、ソヴェトの中にいるドイツ工作員の捕囚だという確信を抱かせた。
 サヴィンコフがボルシェヴィキの蜂起が切迫していると彼に伝え、それを鎮圧するための軍事的助力を求めたとき、コルニロフは、政府をソヴェト自体から解放するのを助ける機会がやって来たと考えた。
 ボルシェヴィキ蜂起を鎮静化しあとで「二重権力」状態は解消されるだろう、そして、ロシアは新しくて効率的な体制をもつだろう、と期待するあらゆる理由が、彼にはあった。
 その過程で、彼は役割を果たす一部になりたかった。
 こうした危機的な日々を通してずっと傍らにいた将軍ルコムスキーは、サヴィンコフのモギレフ訪問とケレンスキーとの決裂の間の短い期間の間のコルニロフの思考について、合理的な説明だと思えるものを提示している。つぎのとおりだ。//
 「私は、ペトログラードでボルシェヴィキの行動があり、それを最も仮借なく鎮圧する必要があると確信した将軍コルニロフは、このことが当然に政府の危機、新しい政府、新しい権威の設立へと導くだろうと考えた、と思う。
 彼は、現在の臨時政府の若干の構成員や全面的な支持を信頼できると考える理由のある公的に知られた政治家たちと一緒に、その権威を形成することに関与しようと決意した。
 彼の言葉から私が知るのは、将軍コルニロフは新しい政府の形成に関して議論したが、、A. F. ケレンスキー、サヴィンコフおよびフィロネンコとともに、最高司令官の資格でそれに加わろうとしていた、ということだ。」(82)
 (35)最高司令官が軍隊を再活性化して有効な政府を再興するのを助けようと努力したことを「反逆」だ理解するのは、ほとんど正当化できるものではない。
 述べてきたように、コルニロフは正当な根拠なく裏切り者として訴追された後で初めて反乱を起こした。
 彼はケレンスキーの際限のない野望の犠牲者であり、首相が行った政治的基盤が侵食されていくのを阻止しようとする虚しい追求のために、生け贄として供された。
 事態をすぐそばで観察していた、あるイギリスのジャーナリストは、コルニロフが欲し、そして達成できなかったことを、つぎのように公正に要約している。//
 「彼は、政府を弱めるのではなくて強化したかった。
 彼は、その権威を侵犯したかったのではなく、他者がそうするのを阻止したかった。
 彼は、つねに表明されるが決して現実にならなかったものを実現させたかった-統治権力の唯一で不可変の受託者(depository)。
 彼は、ソヴェトの不当で停滞させる影響からそれを解放したかった。
 結局のところ、その影響がロシアを破壊した。そして、コルニロフの政府に対する果敢な抵抗は、その破壊過程を押し止めようとする最後の絶望的な努力だった。」(83)
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 (70) Chugaev,<<略>>, p.445-6.
 (71) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.37.
 (72) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (73) 同上、p.115.
 (74) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.162n; ケレンスキー,<Delo>, p.80.
 (75) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (76) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.245.
 (77) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.125.
 (78) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71, p.101.
 (79) Khan Khadzhiev,<Velikii boiar>(Belgrade, 1929), p.123-p.130.
 (80) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71. 1917年8月30日-9月1日のアレクセイエフ、コルニロフ、ケレンスキーの間の会話のテープは、Denikin Archive, Box24, Bakhmeteff Archive(コロンビア大学)所収。
 (81) <NZh>No.107/322(1918年6月4日), p.3.; <NV>No.96/120(1918年6月19日), p.3.
 (82) Chugaev,<<略>>, p.431.
 (83) E. H. Wilcox,<ロシアの破滅(Ruin)>(New York, 1919), p.276.
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 第3節、終わり。次節は《ボルシェヴィキの好運》。

1936/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂②。
 (15)この簡単な対話は、勘違いのゆえの喜劇だった。しかし、最も悲劇的な結末をもたらした。
 ケレンスキーは、のちにこう主張した-そして人生の最後までこの見方に固執した-。すなわち、コルニロフは、コルニロフの名前で語るルヴォフの権限を肯定したのみならず、ルヴォフが彼の言ったとして伝えた言葉の正確さをも確認した。つまりは、コルニロフは独裁的権力を要求した、というのだ。(52)
 しかし、我々は、ヒューズ(Hughs)装置の一方の端での目撃証人から、コルニロフは会話が終わったときに、安堵のため息をついたことを知る。すなわち、彼にとっては、モギレフに来るというケレンスキーの同意は、首相は新しくて「強い」政府を形成するための作業に一緒に加わる気持ちがある、ということを意味した。
 その夜の遅く、コルニロフはルコムスキー(Lukomskii)と、そのような内閣の構成について議論した。その内閣では、ケレンスキーとサヴィンコフの両人は大臣の職を保持することになるだろう。
 コルニロフはまた、モギレフにいる自分と首相に加わるように指導的政治家たちを招く電報も発した。(53)
 (16)テープの有用性のおかげで、二人の人物は食い違って(cross-purposes)会話していたことを、確定することができる。
 コルニロフについては、彼がルヴォフのふりをしたケレンスキーに確認したことの全ては、実際のところ、ケレンスキーとサヴィンコフをモギレフに招いた、ということだけだ。
 ケレンスキーは、コルニロフが確認したことをもって、-熱にうかされた自分の妄想で生じたということ以外には何の根拠もなく-コルニロフは自分を捕囚にし、彼が独裁者だと宣言する意図をもつ、ということを意味するものと解釈した。
 ケレンスキーの側には、直接にまたは間接的にですら、コルニロフが実際にルヴォフに三点の通告を自分に伝達するように言ったのかに関して調査しなかったという、途方もなく大きい手抜かりがあった。
 コルニロフは、ケレンスキーとの会話で、内閣が職権を放棄し、軍事と民政の全権力がコルニロフの手へと置き換わることに関して、いっさい何も言わなかった。
 コルニロフの言葉-「そのとおり。私は、私が貴方(ここではルヴォフ)にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する」-から、ケレンスキーは、ルヴォフにより彼に提示された三項の政治的条件は真正なものだ、と推論する方を選択した。
 フィロネンコ(Filonenko)がテープからの文章を見たとき、ケレンスキーは尋ねていることを述べておらず、コルニロフは何に対して回答しているかを分かっていない、と彼は気づいた。(*)
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 (*) Miliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.213.
 ケレンスキーとは違ってコルニロフはのちに、自分は無分別にも、ルヴォフが自分に代わってケレンスキーにルヴォフが伝えた内容をケレンスキーに質問したなかったことを、認めた。A. S. ルコムスキー, <Vospominaniia>Ⅰ(Berlin, 1922), p.240.
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 ケレンスキーはルヴォフに成りすますことによって、理解可能な暗号でもってコルニロフと意思疎通していると考えたのだったが、じつは謎々話を語っていたのだ。
 首相の行動を弁護するために言うことができる最良のことは、彼は過度に緊張していた、ということだ。
 しかし、ケレンスキーは聞きたいと思っていたことをそのままに聞いたつもりだったのではないか、という疑念はくすぶり続ける。
 (17)かかる薄弱な根拠にもとづいて、ケレンスキーは、コルニロフと公然と決裂することに決意した。
 ルヴォフが遅まきに姿を現したとき、ケレンスキーは彼を拘束した。(+)
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 (+) 彼〔ルヴォフ〕はその夜を、首相が使っていたアレクサンダー三世スイートの隣の部屋で過ごした。首相は、大声のオペラ・アリアを鳴り響かせて、覚醒し続けさせた。彼はのちに自宅で軟禁され、精神病の医者によって治療された。<Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
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 重要なことをする前にもう一度コルニロフと通信してサヴィンコフの心の裡にあった曖昧な誤解を明確にすべきだとの彼の請願を無視して、ケレンスキーは、深夜に内閣の会議を招集した。
 ケレンスキーは閣僚たちに、何が明らかになったかを告げ、軍部のクー・デタに対処できるよう「全権限」を-つまり独裁的権力を-自分に与えるよう要請した。
 大臣たちは、「陰謀者・将軍」に立ち向かう必要がある、ケレンスキーは非常事態に対処すべく全権限を持つべきだ、として合意した。
 それに応じて彼らは、辞表を提出した。ネクラソフはこれを、臨時政府は事実上は存在することをやめた、と解釈した。(54)
 ケレンスキーは、この会議によって、名目上の独裁者となった。
 8月27日午前4時、閣議が休会となった以降、正規の閣議は開催されず、10月26日まで、ケレンスキーが単独で、またはネクラソフやテレシェンコ(Tereshchenko)と相談して行動する、との決定が下された。
 午前中早くに、大臣たちの同意があったのかなかったのかいずれにせよ-ほとんどがケレンスキーの個人的権威にもとづいていそうだが-、ケレンスキーは、コルニロフに対して、解任する、ただちにペトログラードへと報告することを命じる、との電報を打った。
 コルニロフの後継者が任命されるまでは、将軍ルコムスキーが最高司令官として仕えることとされた。(**)
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 (**) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99. サヴィンコフによると、午後9時と10時の間に-すなわち、閣議が開かれる前に-、ケレンスキーは彼に、コルニロフを解任する電報はすでに発せられたのだから、コルニロフの理解を得るには遅すぎる、と言った。<Mercure de France>No.503(1919年6月1日), p.439.
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 コルニロフと決裂したことにより、ケレンスキーは、革命の代表者を気取ることができた。ネクラソフによると、内閣の深夜会議の間にケレンスキーは、「私は彼らに革命を譲り渡すつもりはない」と発言した。-まるで、与えるか守るかの勝負であるごとくに。
 (18)このように事態が推移している間、簡単なやり取りに関するケレンスキーの解釈を知らないままのコルニロフは、想定されるボルシェヴィキ蜂起を政府が鎮圧するのを助ける準備を進めていた。
 午前2時40分、コルニロフはサヴィンコフと電信を繋いだ。//
 「一団が、8月28日夕方にかけて、ペトログラード郊外に集結する。
 ペトログラードが8月29日に戒厳令下に置かれることを要請する。」(56)//
 コルニロフが軍事蜂起にかかわらなかったということの証拠がもっと必要だとかりにしても、この電信記録こそ、その証拠を与えるに違いない。
 なぜなら、コルニロフがかりに第三軍団に対して政府を倒すためにペトログラードへと進むよう命令していたとすれば、彼が電信でもってあらかじめそのことを政府に警告することはしないだろう。
 言われるところのクーを彼は副次的なものと見なしていただろうとは、ますます信じがたい。
 Zinaida Goppius は、発生して数日後にコルニロフ事件の不思議さを想い、明白な疑問を抱いた。すなわち、「どのようにして、コルニロフが静かに最高司令部に座っている間に、彼は自分の兵団を「派遣した」のか?」(57)
 じつに、コルニロフが本当に政府を転覆させて独裁者たる地位を奪取することを計画していたとすれば、彼のような気質と軍人的態度をもつ人物は、本人自身がきっと、軍事行動を指揮しただろう。//
 (19)ケレンスキーがコルニロフを解任する電信通告は、8月27日午前7時、最高司令部に届いた。将軍たちに完璧な混乱が襲った。
 彼ら最初の反応は、電信文が10時間前にあったケレンスキー=コルニロフ会談から見てその内容が無意味であるばかりか、慣例の連続番号に欠け、表題なしで「ケレンスキー」との署名しかないので様式が適切ではないがゆえに、偽造されたものに違いない、というものだった。
 また、法制上は内閣のみが最高司令官を解任する権限をもつので、いかなる法的効力もなかった。
 (司令部はもちろん、前夜に閣僚たちは辞任してケレンスキーが独裁的権力を握ったことを知らなかった。)
 将軍たちはさらに考えて、この連絡はおそらく本当のものだが、ケレンスキーは強迫を受けて、あり得ることとしてはボルシェヴィキに捕らわれている間に送信した、と結論づけた。
 このように考えて、コルニロフは辞職を拒み、ルコムスキーが「状況が十分に明確になるまで」彼の職務を執行することとなった。(58)
 ボルシェヴィキはすでにペトログラードを掌握している、とコルニロフは確信し、ケレンスキーの指示に反してそれを無視し、クリモフ(Krymov)に彼の兵団が前進する速度を早めるよう命令した。(59)//
 (20)モギレフの誰も、ルヴォフを詐欺師だと疑っていなかった。そのルヴォフの質問に対するコルニロフの回答に関係してペトログラードで発生したかもしれない混乱について明確にするため、ルコムスキーは、自分の名前で政府に対して、軍隊の崩壊を阻止するためには強い権威が必要であることを再確認すべく電報を送った。(60) //
 (21)その日の午後、ルヴォフの策謀をまだ知らなかったが何か大きな過ちがあると疑っていたサヴィンコフは、コルニロフに接触した。
 V・マクラコフ(Vasilii Maklaov)は傍らに立っていて、終わりの方で会話に加わった。(61)
 サヴィンコフは、ルコムスキーの最新の電報を話題にして、モギレフを訪れることで自分は政治問題を全く起こさなかったと抗議した。
 コルニロフはこれに反応して、初めてV・ルヴォフに言及し、ルヴォフが自分の前に提示した三つの選択肢に言及した。
 さらに彼は、第三騎兵軍団は、サヴィンコフが伝えた政府の指示に従ってペトログラードに向けて進んでいる、とまで言った。
 コルニロフは完全に忠誠心をもって行動していて、政府の命令を履行していた。
 「(解任)決定は私には全く予期され得なかったもので、労働者兵士代表ソヴェトの圧力によってなされた、と確信していた。<中略>
 私は宣告する、<中略>自分の職から離れるつもりはない。」 
 コルニロフは、「個人的な説明を通じて、誤解はさっぱりとなくなるに違いない」と確信して、首相とサヴィンコフにこの最高司令部で会うのを幸せに思っている、と付け加えた。//
 (22)この時点では、亀裂の修復はまだ可能だった。
 ケレンスキーが一月前にレーニンの事案でとったのと同じ慎重な行動をコルニロフへの責任追及に関する対処で示し、コルニロフの「最終的形態での反逆」を証明する「文書上の証拠」を提示していたならば、これから発生したことの全ては、避けることができていただろう。
 しかし、ケレンスキーはレーニンを抑圧するのを怖れた一方で、将軍と宥和することには何の関心もなかった。
 Miliukovが事態の推移を知らされて調停者としての役割をすると提案したとき、ケレンスキーは、コルニロフとの和解はあり得ない、と回答した。(62)
 ケレンスキーは、連合諸国の大使たちからあった同様の提案も拒絶した。(63)
 この当時にケレンスキーを見た人々は、彼は完全に異常発作(hysteria)の状態にあると考えた。(64)
 (23)臨時政府と将軍たちとの間の完全な分裂を阻止するために必要だったのは、ケレンスキーまたはその代理者が、独裁的権力を要求する資格をルヴォフに対して与えたのかと、<コルニロフに>直接に尋ねることだけだった。
 ケレンスキーがこの明確な一歩を執らなかったことは、つぎのうちの一つでのみ説明することができる。
 第一に、あらゆる判断をすることのできない精神状態にあった。さもなくば第二に、革命の救済者との名誉を握りつづけ、そうして左翼からの挑戦を弱体化させる、ということを目的として、意識的にコルニロフと決裂することを選んだ。
 (24)サヴィンコフは、コルニロフからルヴォフの行動について知って、急いで首相の事務室の方へと走り戻った。
 途中でたまたまネクラソフと遭遇した。ネクラソフはサヴィンコフに、コルニロフとの友好関係を追求するのはもう遅い、反逆罪で最高司令官を訴追するとの首相の声明文をすでに自分が夕刊の新聞に送った、と語った。(66)
 ケレンスキーはサヴィンコフに、コルニロフと通信する機会をもつまではそのような文書を発表しない、と約束していた。しかし、にもかかわらず、それが行われた。(67)
 数時間のち、新聞は号外でもって、ネクラソフが草稿を書いたと言われている、ケレンスキーの署名の付いた衝撃的な声明文を発表した。(68)
 Golvin はこう考えている。サヴィンコフがコルニロフとの会話についての報告をする機会をもつ前に、ネクラソフが意識的に発表した、と。(69)
 その声明文は、つぎのとおり。
 「8月26日、将軍コルニロフは私へと、ドゥーマ代議員のVladimir Nikolaivich ルヴォフを遣わせて、臨時政府は将軍コルニロフに、民政および軍事の全権限を移行させるように、彼自身がその裁量でもってこの国を統治する新しい政府を任命するとの条件付きで、要求した。
 このような要求を行うドゥーマ代議員のルヴォフの権能は、直接の電信会話で将軍コルニロフによって、のちに私に対して確認された。」(69)
 声明文はつづく。「革命の成果に対して有害な政治体制<中略>を構築する」目的でもって困難時を利用しようとする「ロシア社会の特定の分野」による企てからこの国を防衛するために、内閣は、コルニロフを解任しペトログラードに戒厳令を布く権限を首相に与えた。//
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 (52) ケレンスキー,<Delo>, p.91.
 (53) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ,Pt.2, p.200.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.241.
 (54) この会合の資料は以下。N. V. Nekrasov, <RS>No.199(1917年8月31日), p.2. およびMartynov,<コルニロフ>, p.101.
 (55) <NZh>No.120/126(1917年9月13日), p.3.
 (56) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.98.
 (57) Gippius, Siniaia kniga, p.180-1.
 (58) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242.; ケレンスキー,<Delo>, p.113-4.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.33-p.34.
 (60) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242-3.
 (61) 全文は、Shugaev,<<略>>, p.448-p.452.
 (62) <NZh>No.114(1917年8月29日), p.3.
 (63) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.111.
 (64) Gippius, Siniaia kniga, p.187.
 (65) ケレンスキー,<Delo>, p.104-5.
 (66) サヴィンコフ, <K Delu>, p.26.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.35.
 (67) B・サヴィンコフ, <Mercure de France>所収、No.503/133(1919年6月1日), p.438.
 (68) Richard Abraham, <アレクサンダー・ケレンスキー: 革命への初恋>(New York, 1987), p.277.
 (69) Shugaev,<<略>>, p.445-6. ; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.101-2.
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 ③へとつづく。

1935/山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(2001)。

 数年前に社会主義・共産主義や日本共産党関係の文献を集中的に収集していたとき、つぎの本も手に入った。1990年-1994頃の共産党中央委員会報告集が1994年党大会直前のものも古書で意外に安価で入手できて、そちらの方をむしろ興味深く見ていたのだったが。
 山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(緑風出版、2001年)。
 「川端治」という名に、おぼろげな記憶があった。
 1927年生まれ、本名・山田昭。2000年2月12日死亡。満73歳になる直前。
 以上は、上の本の「年譜」による。
 さらに続けて、「年譜」から注意を惹いた箇所をほぼ書き写す。
 1948年4月、東京大学経済学部入学、同時に同大学日本共産党「細胞E班」に所属。
 6年間在学したが、この時期の「友人」に、不破哲三、上田耕一郎、高沢寅男、安東甚兵衛、堤清二、等々。
 1963年、発表文書が増え、共産党関係では「川端治」、それ以外では「山田昭」と使い分けるようになる。
 1970年、日本共産党「中央夏季講座」で「日本の政治と政党」を担当。
 1971年、東京大学入学式で(!)、90分間講演する。
1972年、日本共産党が突然に「拉致」して、「査問」。同様だった(らしい)高野孟の母親の尽力で「解放」された。この後に「離党を通告」。2年近く、「次の仕事の目処も生き方」も判然としない日々。
 1973年、月刊雑誌『現代の眼』に「山川暁夫」名で初めて執筆。
 1984年、<共産主義者の建党協議会>準備会発足に参加。<新困民党>委員長。
 1986年、<共産主義者の建党協議会>代表。
 1988年、大阪経済法科大学客員教授。
 1992年、有田芳生構成・短い20世紀の総括(教育史料出版会)で、田口富久治・加藤哲郎・稲子恒夫とともに座談会。
 1993年、山川暁夫=いいだもも=星野安三郎=山内敏弘編・憲法読本-改憲論批判と新護憲運動の展望(社会評論社)刊行。
 1995年、<共産主義者の建党同盟>代表。
 1996年、「共産主義者の団結のための『党』づくりへ」党機関誌。
 1998年、<日本労働者党>と合同、<労働者社会主義同盟>議長。
 1999年、「朝鮮有事を語る前に/歴史の真の精算と安保廃棄へ」党機関誌。
 2000年、逝去。
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 以上、知らないことばかりだった。
 1972年の「査問」とは、ひょっとすれば、川上徹の名も出てくる<新日和見主義>事件(?)に関係しているのではないか。むろん知らないし、詳細を知るつもりもないが。
 1971年の項。さすがに1971年、さすがに東京大学。あるいは、さすがに当時の日本共産党。
 東京大学の入学式運営関係者の中には、日本共産党の党員そのののか、熱烈な同党シンパがいたのではないか。そして、<日本共産党系>の者が講演するのであってもよいと周囲もたぶん問題視しなかった、という異様さ。
 他にも、より強く感じることがある。
 第一に、日本共産党を離党した者(または除名・除籍された者)であっても、「左翼」でなくなるわけでは決してない、ということは、この人物に限らず、名にいずれもっと言及してもよいが、よくあることだ。
 上に出てくる党は違うのだろうが、いわば<トロツキスト系>の反・日本共産党かつ「共産主義者」、少なくとも「左翼」者は、まだ少なくなく、日本に棲息している。
 死んでも絶対に*右翼*とか*保守反動*とか言われなくない者たち、あるいは、どんなに現世を世俗と体裁を気にして生きていても、絶対に自民党等には投票しないことを隠れた誇りのように思っている者たちがいる。
 第二に、ほぼ同世代のこの人物と不破哲三。いったい何が二人の人生を分けたのか。
 不破哲三が「正しかった」、「理論的にすぐれていた」、というわけでは、決して、全く、なかっただろう。この程度にする。
 不破哲三、1930年生まれ、1970年書記局長、1982年幹部会委員長、2000年中央委員会議長、のち今でも常任幹部会委員、存命。
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1934/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章②/四月テーゼ後。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)。
 第8章の試訳のつづき②、「四月テーゼ後」。p.131-p.136.
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 (16)これらの主張が真実なのかどうかはともかく、ドイツの対ロシア政策の重心がどこにあるのかは、間違えようがなかった。
 あらゆる党派(連合諸国の助けを望んだ親戦争のエスエル「防衛主義者」を除く)の追放社会主義者たちが、ドイツの費用で、ロシアへと送られた。ソヴェトと臨時政府の間の緊張関係を激化させるためだった。
 ウクライナ、フィンランド、ポーランド、エストニア各人の血を引くロシア帝制側の戦争捕虜たちは、独立を煽動させるために故郷に送られた。
 革命的ロシアに流れ込んだ不満分子たち大勢の中で、レーニンはたんなる一人にすぎなかった。
 しかし、その戦争に関する過激な考えとウクライナ分離主義の日和見主義的受容心によって、レーニンは混沌をさらに促進する危険人物であり、ロシアの戦争遂行を挫折させるために送られた一人だけの破壊員だった。
 パルヴゥス自身が3月遅くにコペンハーゲンにいたドイツの大臣に説明したように、臨時政府のもとでロシアの戦闘意欲が復活するのを阻止するためには、「無政府状態を増大させるべく過激な革命運動を支持しなければならないだろう」。
 あるいは、そのときコペンハーゲンを訪れていたドイツ社会民主党の指導者のP・シャイデマン(Philip Scheidemann)にパルヴゥスが説明したように、レーニンは、ロシア社会主義者で中で最も「無謀な狂乱者(raving mad)」だった。//
 (17)ドイツによるレーニンへの投資は、すぐにその配当を生み出した。
 ストックホルムで、レーニンの友人のカール・ラデク(Karl Radek)はペトログラードのレーニンと通信するためのボルシェヴィキ外国特命組織を設立した。そこにレーニンは途中下車したのち、ロシア人一団は列車による旅を続け、1917年4月3日のちょうど午後11時すぎにペトログラードのフィンランド駅に到着した。その列車はのちに、レーニンの英雄的時間を記念すべくガラスで覆われた(今もそこにある)。
 急いでボルシェヴィキ党の本部へ行き、レーニンは、「海賊たちの帝国主義戦争」を非難する2時間にわたる烈しい演説を行い始めた。そこには、戦争を継続している臨時政府を支持する堕落者たちもいた。
 レーニンが提起した基本方針は過激すぎたので、党機関誌<プラウダ>は最初はそれを印刷するのを拒否した。
 その「四月テーゼ」は、「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンで今日でもよく記憶されている。これはしかし、戦争に対するいかなる支持も否認し、ロシア軍の廃絶を主張する点で、外交政策としても同等に過激だった。
 数時間のうちに、レーニンの「極端に過激で平和主義の」方針はペトログラードの話題になった。Frank Golder は、その日記に、ドイツが「彼と彼の党が平和を宣伝して、戦意喪失をもたらす」ために、レーニンをペトログラードに送り込んだ、との風聞があることも記した。 
 ストックホルムのドイツ軍諜報機関は小さな驚きとともに、ドイツ軍最高司令部に、こう報告した。「レーニンのロシア入国はうまくいった。彼は、我々がまさに望んでいるように仕事をしている」と。(16)//
 (18)17年の間ほとんどロシアに足を踏み入れなかった追放者だったので、レーニンは、ロシアの社会主義仲間に対する礼儀その他の実際的な配慮を全く気に懸けることなく、自由に政治方針を考えた。
 彼の戦争に関する展望はかくして、ともに二月革命後にシベリア流刑を恩赦されて解放されていた、L・カーメネフ(Lev Kamenev)やJ・スターリン(Josef Stalin)のような、ロシアにいたボルシェヴィキとは異なるものになった。
 カーメネフは、<プラウダ>の編集長で戦争勃発時にはドゥーマのボルシェヴィキ議員団長だったが、1915年1月に逮捕された。
 スターリンは1913年に4年間の流刑(国内追放)を宣告され、北東シベリアのTurhansk近くにいて戦争を迎えた。-彼にはそのときまで最も離れた土地への追放で、逃亡するのは不可能な場所だった。
 戦争中の苦難によって指導者たる地位を得たと考えているカーメネフは、爆弾のごときレーニンの演説の後で、ボルシェヴィキ中央委員会は党の現在の基本方針を維持して、臨時政府と戦争をしかるべく支持し、「『革命的敗北主義』の士気を喪失させる悪影響や同志レーニンの批判に反対」すべきだと主張した。
 スターリンは<プラウダ>でより大胆に、レーニンの「戦争よくたばれ」のスローガンは「無用」だと非難した。
 ボルシェヴィキ中央委員会は、4月8日、レーニンの四月テーゼを13対2で、正しく徹底的に却下した。(17)//
 (19)しかし、レーニンは、切り札(エース・カード)を持っていた。すなわち、ドイツの金。 〔太字化は、試訳者による。〕
 二月革命後の最初の月の記念号である<プラウダ>3月12日号は、Moika 運河ぞいの政府が保有する印刷工場からは、限られた数しか発行されなかった。
 レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキは25万ルーブル(当時の12万5000ドル、現在のおよそ1250万ドルと同額)で、Suvorovsky 大通りに私有の印刷機を購入した。それは所有者から熟練工を(現在の150万ドルまたは一年で1800万ドルと同額、一カ月あたり3万ルーブル以上の)全額負担して雇う、という約束をしてのちのことだった。
 この最後の約定は、所有者の気乗り薄さを克服するために決定的なものだった。その所有者は、「労働者印刷集団」ふうの様子の影あるグループが手持ちの現金を用意しているのかどうか疑っていたからだ。(18)//
 (20)ボルシェヴィキは今や、事実上は無制限の量の、宣伝物を発行することができた。
 <プラウダ>の発行部数は急速に増えて、8万5000部に達した。
 4月15日、党はペトログラード守備連隊の兵士たちに向けて、新しい大判紙の<兵士のプラウダ>の発行を開始した。
 この新聞はもともと5万部の発行を予定していたが、そのとき7万5000部になった。
 つづいて、前線の兵士たちに宛てたもの(<Okopnaiaプラウダ>)、バルティック艦隊の海兵たち向けのもの(<Golos Pravdy>)も発行された。
 ほどないうちに、前線の兵団に届くボルシェヴィキの日刊紙部数は6桁〔10万以上〕に達した。
 特別の小冊子も、10万の単位で発行された。
 このような目覚ましい出版上の大成功は、ドイツの財政支援によって可能となった。このことを考慮するならば、カーメネフやスターリンによる声高の反対があったにもかかわらず、レーニンが最終的には、反戦争というまだ知られていない基本方針を<プラウダ>で伝搬させることができたのは、何ら驚くべきことではない。(19)//
 (21)ソヴィエト政府がのちに多数の文書の束を廃棄したために、歴史研究者がドイツ政府とペトログラードのボルシェヴィキの間の金の動きの軌跡をたどるのはきわめて困難だ。
 レーニンは、ストックホルムにいるラデクへの若干の暗示的な電報があるのを除いては、自分の手を汚さないままでいた。
 そのうちの一つで、レーニンは、4月21日、2000ルーブルを受領したことを確認していた。
 もう一つの電報では、レーニンは、「もっと資材(materials)を」と要請していた。(20)
 臨時政府で反対諜報活動に従事したB・V・ニキーチン大佐は、いくつかの刑事罰の対象になりうる電報をその回想録で再現した。それによると彼は、E・スメンソン(Evgenia Sumenson)というボルシェヴィキの工作員が尋問を受けて(彼女がドイツ製品輸入業で洗浄して合法化した)金銭をボルシェヴィキ党中央委員会の一員であるM・コズロフスキ(Miecyslaw Kozlovsky)という名のポーランドの弁護士に渡した、ということを自白した。
 ケレンスキーは、1917年にロシアを離れた後で、連合諸国の諜報機関から文書資料に関する報告を受けた。彼が見たと主張したその文書資料の中には、シベリア銀行のスメンソンの口座から75万ルーブルを引き出すための有名なものもあった。
 今日まで、ほとんどの歴史研究者たちは、ロシア側の文書庫から対応する証拠が出ていないために、このような論争の種となる資料は曖昧なままにしておかなければならない、と考えてきた。(21)//
 (22)しかしながら、臨時政府がボルシェヴィキ・ドイツ間の紐帯を明らかにする文書の全てが破壊されてしまったわけではない。
 共産党の文書庫の中にあった新しい証拠からは、つぎのことが明らかだ。すなわち、スメンソンは実際に、ナデジンスカヤ通り36番地にある大きくて家具が全て調えられたペトログラードのマンションから、かりに異様ではあっても本当に、輸入業を営んでいた
 (彼女の活動は、隣人たちの相当の好奇心の対象になった。未婚の、子どものいない女性が4つの寝室をもつ住戸に住み、多数の男性訪問者を迎えているのはどうしてだろう、と。)
 スメンソンは、ドイツ製の温度計、医薬品、長靴下、鉛筆、およびネスレ(Nestlé)の食料品を現金払いで販売していた。
 彼女はシベリア銀行と、さらにはロシア・アジア(Russo-Asiatic)銀行やAzov-Don 銀行に活動口座を有しており、そのいずれにも、裕福なロシア人にドイツの贅沢品を販売して蓄積した、数10万ルーブルの金を預けていた。
 複数の目撃者が、スメンソンが定期的に数千ルーブルを現金で、コズロフスキに個人的に渡していたのを見た。(22)//
 スメンソンはまた、ストックホルムとコペンハーゲンの各銀行から直接に電信を受け取っていた。それはふつうは彼女の従兄弟のヤコブ・フュルステンベルク-ハネッキ(Jakob. Fürstenberg-Hanecki)(革命運動上の別称は「クバ(Kuba)」)からのもので、彼は、レーニンが最も信頼する党同志の一人で、のちにソヴィエトの財務大臣となる人物だった。
 明白な証拠がある電信で、コズロフスキは、クバがストックホルムのNya銀行からペトログラードのスメンソンへ10万ルーブルを送るよう要請した。そして、数日後に、この正確な金額が、滞りなくロシア=アジア銀行の彼女の口座に振り込まれた。
 このような直接の電信による移動やスメンソンの輸入業から生じるルーブル立ての収益の洗浄によって、ドイツ政府は、莫大な金額をペトログラードのレーニンの党へと移すことができた。その額は最終的には5000万ゴールド・マルクに昇った。これは、現在の10億ドル余と同額になる。(23)//
 (23)ロシアの地下世界でその日暮らしの活動をした年月のあと、ボルシェヴィキは今や大勝利を収め、それにふさわしく行動した。
 フィンランド駅へと帰還したあと、レーニンはクシェシンスカヤ邸(Kshesinskaya Mansion)へと移った。これは市内の最大の邸宅の一つで、マチルダ(Mathilde)・クシェシンスカヤのために、1904-1906年にアール・ヌーヴォー様式で建築されていた。-クシェシンスカヤは最も有名なバレリーナで、皇帝ニコライ二世のあとは、二人のロシア大侯爵の愛人だった。
 その邸宅は戦略的に見るとペーター・ポール大要塞とちょうど正反対の場所に位置しており、レーニンの帰還後は、優美なバレリーナの住まいから、補強された軍事的複合施設、ボルシェヴィキの神経中枢へと変えられた。
 (ソヴィエト時代に革命博物館と改称され、今は政治史博物館になっている。)//
 (24)クシェシンスカヤ邸は、諸活動が集中する場所になった。党中央委員会の諸会合、<プラウダ>や<兵士のプラウダ>の編集部、そしてボルシェヴィキ「軍事組織」の最高司令部。ここからは、ロシア軍団を反戦争信条へと転換させるべくコミサールが派遣された。
 階下には会計部署があり、「高価な印刷装備」と並んでいた。のちにニキーチン(Nikitin)の人員が発見したところよると、この印刷施設は、信頼できる活動家や兵士たちのために個人識別カードや自動車運転免許証を大量に作成していた。
 小冊子や宣伝ビラが、通路に散乱していた。
 伝達人(クーリエ)が指令書をもって、あちらこちらへと急いで出て行った。(24)//
 (25)街路の視点から見ると、光景はもっと印象的なものだった。
 クシェシンスカヤ邸はすみやかにペトログラード市内の至る所から来る示威活動家の集会場となった。彼らは、興奮-と抗議の意思表示-を求めていた。
 情報宣伝に関するボルシェヴィキの熟達さは本当のことで、軍隊はレーニンのあからさまな政治方針によって、さらなる一撃を受けていた。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルはしぶしぶ、軍隊の紀律を回復すること(指令第二号によるような)への協力に同意したが、ボルシェヴィキは、単純に、「政府よくたばれ!」と宣言した。
 何人かの目撃者によれば、レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキのポスターには、こう書くものが出現した。すなわち、「ドイツ人は我々の兄弟だ」。(25)//
 (26)ドイツ軍はロシア領域内にいたので、このようなスローガンの力は、かりに叛逆的でなくとも、強烈だった。
 レーニンはドイツの工作員だとの噂が、すでにかけ巡っていた。
 このような状況にあったことを考慮すると、上のようなポスターを掲示しようとする者がいたことは注目に値する。
 この点についてもまた、新しい証拠によって手がかりが得られる。
 E. Shelyakhovskaya という名のロシア赤十字の看護婦は前線からペトログラードに戻ったばかりだったが、この女性によると、クシェシンスカヤ邸の玄関にいた身なりのよい何人かの男たちが(彼女は詳細に彼らの特徴を表現した)1917年4月遅くに反戦争と親ドイツのポスターを配布していた、その際に、そのポスターを貼るつもりのある誰に対しても10ルーブル紙幣を手渡していた。
 これは、今日の500ドルに近い現金だった。
 これらのボルシェヴィキの運び屋たちは、Shelyakhovskaya によると、カバンが空になるまで現金紙幣を渡し終えると、クシェシンスカヤ邸の中に再び入り、カバンに新しい10ルーブル紙幣を詰め込んですぐにまた現れた。
 二人めの目撃者は、このようなShelyakhovskayaによる観察の基本的な部分を、宣誓のもとで確認した。(26)//
 (27)看護婦の話に色どりを加えると、ニキーチン大佐によれば、これらの10ルーブル紙幣はドイツ政府によって作られた偽造のものだったらしくある。ドイツ政府は、戦争前に10ルーブル紙幣の型版を獲得していた。
 これら偽造紙幣には顕著な目印があり、それは、ニキーチンによれば、「通し番号の最後の二桁の下にうっすらと線が引かれていた」ことだった。
 こうした「ドイツ製」紙幣の多くは、のちに、逮捕されたボルシェヴィキ煽動活動家の所有物の中から発見された。(27)//
 (28)レーニンと彼へのドイツの財政支援者は、本気でゲームを続けた。
 臨時政府は、ロシアがかつて革命前に行うと約束していた春季攻勢を行うよう連合諸国から厳しい圧力を受けていた。また、軍隊の制御をめぐって、ソヴェトとの苦い闘いに没頭すらしていた。その臨時政府には今や、想定することのできるもう一つの敵が、出現した。
 ボルシェヴィキが臨時政府に血を浴びせるのに、長くはかからなかっただろう。//
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 以上で、第8章は終わり。

1933/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章/ドイツ縦断のレーニン。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)
 この著は序文とあとがきを除いて大きくは、つぎの三部で成る。
 第一部・ロマノフ家の黄昏、第二部・1917年の崩壊、第三部・権力にあるボルシェヴィキ。これが通し番号での「章」に分けられている。第一部/1-4章、第二部/5-17章、第三部/18-23章、計23章まで。
 この書物の章名では叙述対象の時期や事件がほとんど明らかにはならないのだが、レーニン・ボルシェヴィキとドイツに関係がありそうな箇所(章)を選んで、試訳してみよう。
 まず、第8章・ドイツの先札(Gambit)。p.125-p.136.
 Gambit はよく分からないが、最初の手札、切り出しとかの意味のようで、自信はないが試訳として「先札」としておいた。
 叙述対象の時期は、1917年の二月革命後、レーニンの(「封印列車」による)ロシア帰還の頃だ。
 各章はさらに「節」へと分けられてはおらず、段落の区切りしかない。日付間の/は、原文どおりで、旧暦/新暦。
 この著については、注番号だけ付して、その内容(後注)の紹介は、省略する。
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 第8章・ドイツの先札(Gambit)①。p.125-p.130.
 (1)ロシアでの二月革命の報せは、ニコライ二世の退位のあとですぐに世界中をかけ巡った。多くの詳細は、翻訳されなかったけれども。
 ロンドンとパリでは、反応は高揚感に溢れた。これらの都市には、帝政に反対する意見を生じさせるための政治報告があって、ロシアのリベラル派が要点を記述すべく作成していた。
 <ウェストミンスター新聞(Westminster Gazette)>は「重たい荷物の排除」、「劇的な一撃」だとして帝制の崩壊を祝賀し、専制的ロシアを「仲間的忠誠と経験」へと並ばせるものだとした。
 <ル・マタン(Le Matin)>は、二月革命は「連合国にとっての勝利」だとして祝賀し、「ロシアの解放は我々の敵国の外交計画を破滅させるだろう」と予言した。(1)
 (2)ワシントンほどにこの報せが熱狂的に歓迎された都市はなかった。そこではW・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領が、ドイツとの戦争に備えて議会-とアメリカ国民-を説得する突然に切迫した闘いに直面していた。
 1916年11月、ウィルソンは大部分は「戦争の圏外にとどまり続ける」と豪語したおかげで再選されており、ドイツの一連の非道行為にただ衝撃を受けていた。
 1917年2月1日の無制限の潜水艦製造の再開のあとでアメリカ合衆国の介入があり得ることを考慮して、ヴィルヘルム通り〔ベルリン・ドイツ帝国〕は、すぐに悪名高くなった「ツィンマーマン電報(Zimmermann Telegram)」を-アメリカの外交用電線を経て-メキシコ・シティのドイツ大使館に送り、いっそうの悪辣さを示した。
 この驚くべき文書で、ベルリンは、メキシコがアメリカに宣戦布告をすればメキシコがアメリカの南西部(テキサス、ニュー・メキシコ、およびアリゾナ)の<再征服(reconquista)>を支持すると約束していた。
 アメリカとこの突発情報を注意深く分有していたイギリスの暗号解読者たちが、ツィンマーマン電報を最初に読み解いた。その内容は、1917年2月15日/28日、まさにペトログラードでロシア革命が勃発するときに、プレスに発表された。(2)//
 (3)アメリカ世論に対する二月革命の影響は、電気に打たれたごとくだった。
 ウィルソン政権は2月初めに無制限潜水艦製造再開のあとですでにベルリンと厳しい外交関係に入っていたけれども、そのことはまだ宣戦布告にまでには至らせなかった。
 リベラルで学者風の理想主義者であるウィルソンは、「アメリカ例外主義」の信条を掲げており、国家の在来的な理由ではアメリカ合衆国を戦争へと突入させることを決して快くは考えていなかった。
 ツィンマーマン電報ですら、ウィルソンの「武装中立」の方針を変えさせることはなかった。
 ロシアが「リベラルで民主主義な」陣営に加わった後ではじめて、ウィルソンは刺激を受けて、1917年3月20日/4月2日の議会の合同会議の前で宣戦布告を行った。それは、「世界を民主主義を求めて安全なものにしなければならない」、「平和は政治的自由という吟味済みの基礎の上に築かれなければならない」、と述べた。(3)//
 (4)ウィルソンは、見たかったものを二月革命のうちに見た。
 彼が表明した高貴な理想は、アメリカや(より少ない程度で)イギリスのような、権力に余裕がある国の贅沢だった。これらの国は、ドイツのUボートによる公海上での攻撃を超えて、安全に対する生存にかかわる脅威に直面してはいなかった。
 パリから65マイルだけ離れたノヨン(Noyon)要塞をドイツが有しているフランスでは、生まれつつあるロシア民主主義に関する気分のよさは、ロシアの春季攻勢に対する革命の影響に関する実践的な関心に、大きな影響を受けていた。その攻勢はドイツの軍事力をフランスから逸らせることが期待されていたのだ。
 <ル・マタン>は、ペトログラード・ソヴェトの「過激主義者」について警告を発した。
 曖昧にだが指令第一号-連合諸国の通信員たちにはまだ知らされていなかった驚くべき布令-を示唆して、<ル・マタン>は、「その決定はタウリダ宮の1600人の代議員に行き渡っている。混乱状態にあると言われていることだけが分かる」と不満を漏らした。(4)
 (5)ベルリンでは愛国主義の記者たちは、肯定的な報せを軽視して、ペトログラードの革命が生み出す秩序混乱を強調しがちだった。
 <ベルリンLokal Anzeiger>は、「社会主義が溢れる。そして無政府状態になる」と一面の大見出しを掲げた。
 <ベルリンTagesblatt>は、ロシアにいるドイツの戦争捕虜たちはストックホルム経由で送られている、と肯定的に記した。
 <Tagesblatt>のコペンハーゲン通信員は、「フィンランドへの血なまぐさい革命の広がり」という不快な説明記事を掲載した。
 ドイツの立場からすると、革命がより混乱を増せば増すほど、それだけ良かった。(5)//
 (6)連合国側の観察者がロシアの戦闘能力に対する革命の影響に関して望ましい考え方をしてしまった一方、より暗いドイツの記事は、偏った見方に彩られていてはいたが、努めて真実により近いものを叙述していた。
 反乱がロシアの陸海軍をつうじて広がって<いた>(前線全てに対するのと同等の影響ではなかったけれども)。そして、無政府状態が国土じゅうに伝搬している。
 さらに加えて、ペトログラードの現地に工作員をもち、外国にいるロシアの革命家たちの世界と良好な接触をしてしてきたドイツは、理想的にロシアの混乱を利用できる-そしてそれを拡大することのできる-位置にいた。
 レーニン・カードを切る、そのときがやって来た。〔太字化は試訳者〕//
 (7)ボルシェヴィキ党の指導者は、努力に欠けていたわけではないが、ずっと静かな闘いをしてきた。
 1914年8月の大戦勃発のとき、レーニンは、ロシアの国境に近いオーストリア・ガルシアのクラカウのそばのポロニモ(Poronimo)にいて、地方のウクライナ人の間で煽動活動を行っていた。
 クラカウの警察は敵国外国人として彼を逮捕した。オーストリアの社会主義者の指導者がレーニンはツァーリ体制のスパイではなくロシアの憎い敵だと保証してくれた。
 レーニンの場合は、その住居を探索して本当の(bona fide)マルクス主義活動家に取り憑くかもしれない退屈な経済研究書の類だけしか発見されなかったことが、役立った。
 オーストリアの役人による尋問で、レーニンは公然とウクライナ分離主義を支持する革命的狂信者だと確認された。ウクライナの分離は、中央諸国の中心的な戦争目的だった。
 レーニンは9月初めに、ハプスブルク軍事省の特別の命令によって釈放され、軍事郵便列車で-妻のNadezhda Krupskaya と彼に忠実なボルシェヴィキの副官(aide-de-camp)のG・ジノヴィエフ(Grigory Zinovoev)と一緒に-スイスへと送られた。そこで彼は、ツァーリに対抗する戦争陰謀を練って過ごした。(6)//
 (8)すでにオーストリアの監視のもとにあったレーニンは、二つの別々の経路でドイツ外務当局の注意を引くことになった。
 第一は、我々がすでに言及した、アレクサンダー・「パルヴゥス(Parvus)」・ヘルファンドだった。この人物は1905年に、ペトログラードで面倒なことを起こしていた。
 シベリア追放から脱出したあと、パルヴゥスは、外国のドイツとそのあとトルコで、豊かで興味深い人生を送った。
 大戦が勃発したとき、彼は、ウクライナ分離主義者、アルメニアとジョージアの社会主義者その他の帝制に追放された者たちのためにボスポラスの政治サロンを運営していた。その仕事の中で彼は、1915年1月にオットーマン帝国駐在のドイツ大使であるヴァンゲンハイム(Hans von Wangenheim)男爵に出席を求めた。
 パルヴゥスはヴァンゲンハイムに対して、「ドイツ帝国政府の利益は、ロシアの革命家たちと同一だ」と語った。(7)//
 (9)第二の媒介者のA・ケスキュラ(Alexander Kesküla)も、同様に多彩だった。
 ケスキュラは、パルヴゥスのように1905年革命の被抑圧者だったエストニア人ボルシェヴィキだった。そして、より最近に全面的なエストニア民族主義の考えを抱いた(フィンランド人の友人にエストニアがペトログラードを支配した後でのペトログラードに関する計画を尋ねたところ、その諸宮殿は素晴らしい「採石場」になるだろう、と答えた)。
 のちに彼が想起したように、1914年9月にドイツの諜報機関の仕事に加わったケスキュラの動機は、単純だった。すなわち、「ロシアに対する憎悪」。
 1915年9月、ケスキュラはベルンにいるドイツ領事のGisbert von Romberg に、レーニンの考えやイデオロギー状況を知らせた。
 そのあとロンベルクはケスキュラに1カ月あたり2万マルクを、レーニンその他のボルシェヴィキに配るべく支払った。(8)//
 (10)レーニンの戦争に関する立場から見ると、それは追放社会主義者たちのツィンマーヴァルト(1915年)やキーンタール(1916年)での会議で彼が概述していたものだが、なぜドイツの外務当局がレーニンを養ったかを理解するのは困難ではない。
 これらの集会での多数派は(まだメンシェヴィキの)トロツキーが起草した決議を支持してはいたが、これに対する反対派は、戦争に反対し、労働するのを拒むか古い「ゼネ・スト」原理によって闘うよう訴えていた。
 レーニンは、「革命的敗北主義」という少数派の教理を定式化した。
 彼は、社会主義者は彼らの自国が敗北するように活動しなければならず-彼はこれを文字通りに意味させた-、そして、「帝国主義戦争を内戦に転化しなければならない」、と主張した。
 協議案による抵抗よりもむしろ、社会主義者は労働者に対して、軍隊に加入し、その中で反乱を行って軍隊を「赤」に変えるよう激励しなければならない。
 こうした考え方はツィンマーヴァルトでのマルクス主義多数派によって分裂の起因になると見られていたけれども、レーニンは、ウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier)の社会主義の歌の精神により近いところまで切り進んでいた。
 その歌、<インターナショナル>は、軍隊での反乱を推奨していた。
 「王公たちが、俺たちに煙を食わせる。
 俺たちは仲良くなって、専制者たちと闘おう。
 軍隊に対して、ストライキをしよう。
 銃砲を空中に放って、隊列をかき乱そう。
 彼ら人喰いたちがなおも抵抗するなら、
俺たちを英雄に仕立てたいのなら、
 すぐに知るだろう、俺たちの銃口は、
 俺たち自身の将軍さまに向けられていることを。」
 〔歌全体の一部。/大島博光訳を参照した。〕
 (11)このようにレーニンの「ツィンマーヴァルト左派」の教理は過激であるので、ロンベルク領事がその旨をベルリンに説明したとき、ドイツ外務当局は、レーニンの基本的な考え方の出版を抑えるべく介入した。オフラナ(Okhrana)〔ロシア帝制秘密警察〕がそれをロシアにいる社会主義者の大量拘束を正当化するために利用しないように。
 (12)二月革命の前の数カ月、レーニンはドイツの監視網からある程度は離れていた。
 パルヴゥスはロシアでの産業労働者を怠業させる自分の努力に集中しており、ケスキュラは、レーニンがエストニア問題に無関心であるためにレーニンに冷たくなっていた(ドイツの返礼は、1916年10月にケスキュラとの関係を絶つことだった)。
 レーニン自身は、ロシアの事情に疎遠になり始めていた。それについては彼は意気消沈していた。
 1917年1月9日/22日にチューリヒのVolkshaus で、集まっている若き社会主義者たちにこう語りかけた。「我々古い世代の者は、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないかもしれない」。(11)//
 (13)レーニンは革命について、1917年3月1日/14日にオーストリアの同志から聞いて初めて知った。
 レーニンは元気になり、ただちにペトログラードへと帰還したかった。西側と東側の前線を避けるためには、スイスからロシアへと最も近くて安全な経路をとることだったが、それにはドイツを縦断することが必要で、ロシア人には本国に戻ることができるのか、疑わしく思えた。
 ベルンのドイツ領事、ロンベルクは、何とか助けたいと思ったが、彼もレーニンも、慎重にことを進める必要があった。
 スイスの社会主義者、F・プラッテン(Fritz Platten)が仲介者として行動し、レーニンとスイスおよびドイツ両政府の間の全ての交渉を処理した。彼は全ての切符を購入し、列車がドイツを縦断する間は公的な「ホスト」と報道官として振る舞い、その結果としてロシア人は誰も、ドイツの役人たちと話す必要がなかった。
 偽装を追加するため、プラッテンはまた、レーニンと19人のボルシェヴィキ仲間-ジノヴィエフ、レーニンの妻のNadazhada、彼の愛人のInessa Armond、および煙草好きのポランド=ユダヤ人のK・ラデク(Karl Radek)ーには、その列車で年配メンシェヴィキ指導者のJ・マルトフ(Jurius Martov)と6人のユダヤ人同盟の非ボルシェヴィキたちが同行している、と明記した。
 プラッテンはさらに、結局は失敗したが、社会革命党(エスエル)の追放者も名簿に入れようとした。これらの愛国的ロシア人の誰も、レーニンと連携するのを望まなかった。
 最も重要な条件は「治外法権」にかかわっていた。プレスの電信で語られた、レーニンの列車は「封印」され、ドイツを縦断中はドアを開けようとしなかった、との物語があった。
 1917年3月23日/4月5日、ドイツ政府は500万ゴールド・マルクをロシアの革命化のために充当した。そしてその4日後に、レーニンは出立した。(12)//
 (14)誰もが封印列車のことを知らせようとしたのかもしれないが、物語はほとんどすぐに漏れ広がった。
 ロシア人はスイスの国境を越えたあとで、列車を交換しなければならなかった。このことは、彼らはドイツの土を、Gottmadingen で「踏んだ」ことを意味する。
 越えたあと、新しいドイツの列車がやって来た。二人のドイツ人将校、団長のvon Planetz と副官のvon Buhring が同行していた。二人とも、ドイツ軍最高司令部で直接に将軍E・ルーデンドルフ(Eeich Ludendorff)に属していた(Buhring は、ロシア語に流暢だったために選ばれた)。
 ドイツ側の記録によれば、我々はつぎのことも知る。第一に、ロシア人の一団は「フランクフルトでの接続を逃し」、そこで長い間、列車の間を、途中下車をしなければならなかった。第二に、ベルリンを通過する間に、四人めのドイツ人の「民間人の服を着た将校」がレーニンが乗る列車を訪れた。第三に、列車はベルリンに20時間停車し、食物と新鮮な牛乳が補給された。第四に、この二回目の遅延によって、ロシア人たちはのちにサスニッツ(Sassnitz)のドイツ・ホテルで、デンマーク行きの次のフェリーを持つ間、完全に一晩を過ごすことを余儀なくされた。
 (15)革命後にドイツから送還されたロシア人捕虜たちの宣誓証言書によると、レーニンの列車がドイツに止まったことが怒りの原因に何らならない、ということはなかった。
 彼らの一人、上級予備士官のF. P. Zinenko は、レーニンがドイツの助けを得たことは、レーニンがウクライナ分離主義を支持したこととともに、捕虜収容所で公然と議論された、と証言した。
 別の証言者、部隊長のE. A. Tishkin は、バルト海岸のStralsund にある収容所では1917年4月に「全員が突然にレーニンについて話し始めた」、サスニッツ近くに向かう途中でレーニンがStralsund を通過することに驚いてではなかった、と報告した。レーニンはサスニッツで、1917年3月29日/4月11日の夜を過ごしていた。
 Tishkin は宣誓して証言した。Stralsund 収容所では、ドイツを縦断している間にレーニンが政治的演説をするために列車を降りていたことは、一般的な知識だった、と。(14)//
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 ②へとつづく。

1932/R・パイプス著ロシア革命・第11章第3節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 今まで気づいたことがなかったが、1990年版とPaperback版(1996年)とで記載(注のごく一部)が異なっている部分がある。タイトルの一部の「1899-1919」の追記は、1990年版にはない。
 なお、これまでどおり、<>は原文が斜体字(イタリック体)のもの。ほとんどが文献名だが、今回の部分には筆者による<強調>らしき部分があるようだ。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂①。
 (1)このとき、首相と最高司令官との間の不一致を明確な分裂へと変える出来事が発生した。
 その触媒になったのは、自称国家「救済者」、V・N・ルヴォフ(Vladimir Nikolaevich Lvov)という名の、怒れる聖ペテロだった。
 ルヴォフは45歳の、裕福な土地所有家庭に生まれた、燃え立つ野心を持つがそれに相応した才幹はない人物で、落ち着かない人生を送ってきた。
 ペトルブルク大学で哲学を学んだのち、モスクワの神学校に入った。そして、とりとめのない研究をつづけ、しばらくの間は、修道僧になることを考えていた。
 彼は最終的には、政治を選んだ。
 オクトブリスト〔十月主義者〕となり、第三と第四のドゥーマでは議員を務めた。
 戦争中は、進歩ブロックに属した。
 幅広い社会関係のおかげで、第一次の臨時政府で、Holy Synod の検察官に任命された。その職に1917年7月まで就き、その月に解任された。
 彼は解任を悪く受け取り、ケレンスキーに怨みを抱いた。
 相当に個人的な魅力があったと言われているが、繊細で「信じがたいほど軽薄だ」と見なされた。George Katkov は、彼の精神状態(sanity)を疑問視している。(40)
 (2)ルヴォフは、8月、迫りつつある崩壊からロシアを救いたいと考えているモスクワの保守派知識人のグループに入った。
 7月初め以降、国には本当の内閣がなかった。ケレンスキーが独裁的権力を握った。
 ルヴォフと彼の友人たちは、コルニロフのように、臨時政府は事業や軍隊の代表者たちによって強化される必要があると感じていた。
 その考えをケレンスキーに伝えたらどうかと、ルヴォフは提案された。
 このような動きの主導者はA. F. Aladin だったように見える。彼は、陰から姿を一切見せることなく大きな影響力を発揮した、(N.V. Nekrasov やV. S. Zavoiko のような)ロシア革命での不思議な人物の一人だった。
 Aladin は、若いときは社会民主党の革命家で、第一ドゥーマでのTrudovik 会派を率いた。
 第一ドゥーマが解散したあと、彼はイギリスに移って1917年2月までとどまった。
 彼は、コルニロフに近かった。
 親しくてグループを形成したのは、赤十字の役人でルヴォフの兄のI. A. Dobrynskii や、著名なドゥーマ議員で、進歩的ブロックの指導的人物のニコラス(Nicholas)だった。//
 (3)ルヴォフの回想録(全体として信頼できないという特徴をもつが)によれば、国家会議のあとの8月17-22日の間に、コルニロフを独裁者にしてルヴォフを内務大臣にしようという陰謀が最高司令部にある、いう風聞を知った。(*)
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  (*) 1917年9日14日に作成されている、ルヴォフが最初に記したものは、Cguganov 編<<略>>, p.425-8.に収載。
 1920年11月と12月に<PN>に掲載されたルヴォフの回想は、A・ケレンスキー=R. Browder編<ロシア臨時政府1917>Ⅲ( Stanford, Califf., 1961), p.1558-68.
 Vladimir Nabokov <père>が彼との会話に関するルヴォフの説明を「ナンセンス」だとして否定する手紙を<Poslednie novosti >に書き送ったあとで、その掲載は終了した。
 ルヴォフは、パリの路上浮浪者として人生を終えたと言われている。
 (〔上の一行の初版の記述〕=ルヴォフは1921年または1922年にロシアに戻り、変節した「生(Living)教会」に加わった。) 
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 ルヴォフは、ケレンスキーに知らせる義務があると感じた、と主張した。
 二人は、8月22日午前中に、会った。
 ケレンスキーがのちに語るには、国の救い手になろうとする多数の訪問客がおり、その客たちにはほとんど気をかけなかった、しかし、ルヴォフの「伝言」は自分の注意を惹く脅威を伴っていた、と。(+)
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  (+) ケレンスキーは1917年10月8日に、コルニロフ事件調査委員会でルヴォフの交替に関する説明をした。のちに、注記をつけて、<Delo Kornilov>, p.83-p.86.を出版した。
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ケレンスキーによれば、ルヴォフは彼に、政府への世論の支持は基礎を浸食されるまでに至っており、軍部と良好な関係を築く公的人物たちを政府に入れることで政府を下支えすることが必要だ、と語った。
 ルヴォフはそれらの人物に代わって語っていると言ったが、それが誰々なのかを明らかにすることは拒んだ。
 ケレンスキーはのちに、自分の名前で交渉する権限をルヴォフに与えたことを否定した。ルヴォフの言葉に対して「意見を明確に述べる」ことができる前に彼の仲間たちの名前を知る必要はなかった、と言って。
 ケレンスキーはとくに、ルヴォフがコルニロフに助言するためにモギレフへと行く可能性について議論した、ということを否定した。(41)
 彼によれば、ルヴォフが役所を去ったあと、彼はルヴォフとの会話に特別の考えを抱かなかった。
 ケレンスキーを疑う理由はない。しかし、意識的か否かは別として、もっと多くのことを知りたいという印象を与えたというのは、本当らしくないでもない。その場合には、正規の代理人でなかったとしても、モギレフでの反政府陰謀という継続している風聞に実体があるのかどうかを知るための情報探索員(intelligence agent)としてルヴォフを使って、ということになる。(++)
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 (++) これはGolovin の<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.25.の見解だ。
 ルヴォフはのちに彼は要請してケレンスキーから、ルヴォフが大きな裁量をもちかつ完全に秘密に行動するという条件で、自分の仲間たちと交渉する権限を受け取ったと主張した。<PN>190号(1920年12月4日)p.2.
 ケレンスキーののちの活動からすれば、このような振る舞いは彼らしくなかったということにはならないだろう。
 ケレンスキーの側近であるNekrasov の黙認があったというのが、もっとあり得そうだ。彼は、二人〔ケレンスキーとコルニロフ〕の対立を誇張する大きな役割を果たした。
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 (4)ルヴォフは、首相との会話について友人たちに報告するためにモスクワへ戻った。会見は成功だった、と彼は友人たちに語った。そして、ケレンスキーは内閣の再組織を議論する用意がある、と。
 ルヴォフの説明を基礎にして、Aladin が、覚え書きを起草した。
 「1. ケレンスキーは最高司令部と交渉する意思がある。
  2. 交渉はルヴォフを通じて行われるものとする。
  3. ケレンスキーは国と軍部全体に信頼される内閣を形成することに同意する。
  4. これらのことを考慮して、特別の諸要求がまとめられなければならない。
  5. 特別の計画が作り出されなければならない。
  6. 交渉は、秘密に行われなければならない。」(*)
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 (*) Martynov, <コルニロフ>, p.84-p.85. この証言では、ルヴォフは、Aladin の覚え書きは「私の立場ではなくAladin の私の言葉から推論した結論」を示している、と言った。Chugaev,<<略>>, p.426.
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 この文書は、ケレンスキーとの会話を報告する際に、ルヴォフは自分の提案に対する首相の関心を誇張した、ということを示唆している。//
 (5)Dobrynskii に付き添われて、ルヴォフはモギレフへと向かった。
 彼は8月24日、ちょうどサヴィンコフが離れたときに到着した。
 コルニロフはケレンスキーの指令を実施するのに忙しすぎたので、ルヴォフはホテルに入った。ルヴォフはそのホテルでコルニロフがケレンスキーを殺害するとの風聞を聞いた、と主張した。
 恐怖にかられて、ルヴォフはケレンスキーに代わって行動するふりをしてケレンスキーを守り、内閣の再構成について交渉しようと決心した。
 彼は詳しく、こう語った。「ケレンスキーは私にコルニロフと交渉をする特別の権限を与えなかったけれども、私は、一般論として、政府の再組織に同意できるかぎりは、ケレンスキーの名前で交渉することができると感じていた。」
 彼はその夜と再び次の日(8月25日)の朝に、コルニロフと会った。
 コルニロフの証言と同席していたLukomoskii の回想録によれば、ルヴォフは自分自身は「重要な使命」に関する首相の代理人だと考えていた。(43)
 無謀にも警戒心を抱かず、コルニロフはルヴォフに信任状の提示を要請しなかったし、ペトログラードに対して首相に代わって語る権限が彼にあることの確認もしなかった。しかるにそうして、コルニロフはルヴォフとともに、ただちに最も微妙で潜在的には犯罪になり得る議論を始めてしまった。
 ルヴォフの任務はロシアの政府をいかにして堅固なものにするかに関するコルニロフの見解を知ることだ、と彼は語った。
 彼自身の意見では、このことは三つの方法のいずれかによって達成することができる。
 (1) ケレンスキーがかりに独裁的権力を掌握する。(2) 名簿がコルニロフを構成員として形成される。(3) コルニロフが独裁者になり、ケレンスキーとサヴィンコフは閣僚職を担当する。(44)
コルニロフはこの情報を額面通りにそのまま受け取った。彼は以前のいつかに、政府は戦争遂行の運営を改善するためのイギリスの小さな戦争内閣を範とする内閣制を検討していると公式に聞いていたからだ。(45)//
 (6)ケレンスキーは独裁的権力を彼に提示しているということを意味させていたルヴォフの言葉を解釈して、コルニロフは第三の選択肢が最もよいと反応した。
 彼は、自分は権力を欲しがりはしないし、国家のあらゆる長の職の者にに従うだろう、と言った。しかし、ルヴォフが提案したように主要な責任を引き受けることを求められたならば、拒否しないかもしれないし、拒否できないだろう、とも語った。(46)
 コルニロフはさらに進んで、ペトログラードで切迫しているボルシェヴィキ・クーの危険を見るならば、首相とサヴィンコフはモギレフに安全を求め、そこで新しい内閣の構成に関する議論にコルニロフとともに参加するのが賢明かもしれない、と言った。//
 (7)会見は終わった。ルヴォフはただちに、ペトログラードに向けて出立した。
 (8)政治的にはもっと明敏なLukomoskii は、ルヴォフの任務に関して疑念を表明した。
 コルニロフはルヴォフに信任状の提示を求めたのか?
 コルニロフは否と答え、ルヴォフは誠実な人物だと知っているから、と理由づけた。
 サヴィンコフはなぜ、内閣変更に関するコルニロフの意見を尋ねなかったのか?
 コルニロフは、この質問を、とるに足らぬものとして無視した。(47)
 (9)8月25日の夕方、コルニロフは電信で、ロジアンコ(Rodzianko)を別の公的指導者たちと一緒に、三日以内にモギレフに来るように、招聘した。
 ルヴォフは同様の伝言を兄に送った。
 会合は、新しい内閣の構成に対応するためだった。(48)
(10)次の日(8月26日)の午前6時、ルヴォフは冬宮でケレンスキーと会った。(*)
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 (*) この会見に関する資料は、ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.132-6. およびMiliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.204-5. ミリュコフは、首相との会見の前と後にすぐにルヴォフに話しかけた。
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 コルニロフとの会見の際には首相の代わりだとの姿勢をとっていたのと同じように、今はルヴォフは、最高司令官の代理人(agent)の役割を引き受けていた。
政府の再構築に関する三つの案に関するコルニロフの意見をルヴォフが尋ねた、ということは、ケレンスキーに言わないままだった。その件を彼は友人たちとまとめていたのだったが、首相から求められて提示した。彼は、コルニロフは独裁的権限を要求しているとケレンスキーに言った。
 ケレンスキーは、これを聞いて笑いはじけたことをのちに記憶している。しかし、愉楽はすみやかに警戒へと変わった。
 ケレンスキーはルヴォフに、コルニロフの要求を書き止めておくよう頼んだ。
 ルヴォフは、つぎのようにメモ書きをした。
 「コルニロフ将軍は提案する。
 1: 戒厳令がペトログラードに布かれること。
 2: 全ての軍事および内政当局は最高司令官の手のもとに置かれること。
 3: 首相を排除しない全ての大臣は退任し、最高司令官による内閣の形成までは、臨時の執行権限が副大臣へと移行すること。
     V・ルヴォフ」
 (11)これらの言葉を読んでただちに全てが明白になった、とケレンスキーは語る。(50)
 軍事クーが、行われつつある。
 彼は、コルニロフがなぜすぐに、サヴィンコフではなくHoly Synod の元検察官を選んだのかと自問し得ただろう。また、もう少しはましに、コルニロフかフィロネンコに、最高司令官は本当に自身の代理としてルヴォフに委託したのかと、急いで直近の電信で問い合わせることもなし得ただろう。
 ケレンスキーは、いずれもしなかった。
 コルニロフがまさに権力を奪取しようとしているとの彼の確信は、ケレンスキーとサヴィンコフがその日にモギレフに向けて出立するのを望んでいるとのルヴォフの主張によって、強められた。
 ケレンスキーは、コルニロフは二人を捕囚にしようとしいる、と結論づけた。//
 (12)ルヴォフがコルニロフによって提示されたとした三条件が、発令を強いるためにルヴォフとその友人たちによって捏造されたものであることを、ほとんど疑うことはできない。
 三条件は、コルニロフの回答を反映させていなかった。その回答は、首相がコルニロフに対してした質問だと言われたものに対してのものだった。
 しかし、それらの条件は、まさにケレンスキーがコルニロフと決裂するには必要なものだつた。
 コルニロフの陰謀の明白な証拠を獲得するために、ケレンスキーは、さしあたりは協力することに決めた。
 ケレンスキーは、電信機でコルニロフ将軍と通信するために、ルヴォフを午後8時に軍事大臣室に招いた。//
 (13)Miliukov と合間の時間を過ごしたルヴォフは、遅刻した。
 午後8時半、コルニロフを30分間待たせたままだった後で、ケレンスキーは、電信による会話を始めた。彼は、この会話中に、不在のルヴォフになりすまし続けた。
 ケレンスキーがのちに語るには、彼は、この偽装によって、ルヴォフの最終報告を確認するか、さもなくば「当惑したうえで」否定をするかを知ることを望んでいた。//
 (14)以下は、電信テープに記録されている、この祝福すべきやり取りの全文だ。
 「ケレンスキー: 首相がライン上。将軍コルニロフを待っている。
  コルニロフ: 将軍コルニロフがライン上。
  ケレンスキー: ごきげんよう、将軍。ケレンスキーとV. N. ルヴォフがライン上。
 我々は、Vladimir Nikolaivich 〔=ルヴォフ〕が伝えた情報に従ってケレンスキーは行動することができることを確認するよう、貴方にお願いする。
  コルニロフ: ごきげんよう、Aleksandr Fedorovich 〔=ケレンスキー〕。ごきげんよう、Vladimir Nikolaivich。
 この国と軍隊が置かれていると私が思う情勢の概略をもう一度確認する。その概略は、彼〔ルヴォフ〕が貴方に報告しなければならないという要請によりVladimir Nikolaivich に述べたものだ。さらにもう一度、明確に言わせてほしい、最近数日の事態、すでに差し迫っている事態は、可能なかぎり短時間のうちに完全に明確な決定を行うことを絶対に必要にさせている、と。
  ケレンスキー〔ルヴォフの声色で〕: 私、Vladimir Nikolaivichは、厳格に内密にして<貴方が私にAleksandr Fedorovich に知らせてほしいと頼んだ、行われなければならないこの明確な決定に関して>照会している。
 貴方からの個人的な確認がなくしては、Aleksandr Fedorovich は私を完全に信頼することを躊躇している。
  コルニロフ: そのとおり。私は、私が貴方にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する。
  ケレンスキー: 私、Aleksandr Fedorovich は、Vladimir Nikolaivich が私に報告した言葉を貴方が確認する、という回答を得た。
 私がそのことをするのは、今日ここを出発するのは、不可能だ。しかし、明日に出発することを望んでいる。
 サヴィンコフは必要だろうか?
  コルニロフ: 私は切実に、Boris Viktorovich が貴方と一緒に来ることを要請する。
 私がVladimir Nikolaivich に対して語ったことは、Boris Viktorovich に同等に当てはまる。
 私は、貴方がたの出立が明日以降にまで延期されないよう、真剣に乞い願うだろう。<以下略>
  ケレンスキー: 我々は、それに関する風聞が飛び回っている、示威活動(demonrtration)がある場合にかぎって、行くべきなのか、それとも、いかなる場合でもか?
  コルニロフ: いかなる場合でも。
  ケレンスキー: さようなら。我々はすみやかに会うべきだろう。
  コルニロフ: さようなら。」(51)
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 (40) I. G. Tsereteri, <<略>>Ⅰ(Paris, 1963), p.108-9.; <V. D. Navokov, <略>(1976)>; Katkov,<コルニロフ>, p.85.
 (41) ケレンスキー, <Delo>, p.85.
 (42) Chugaev,<<略>>, p.427.
 (43) Katkov,<コルニロフ>, p.179.; Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (44) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (45) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日)収載, p.3.
 (46) Katkov,<コルニロフ>, p.179-p.180.
 (47) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.239.
 (48) 同上, p.241.; Chugaev,<<略>>, p.432.
 (49) Chugaev,<<略>>, p.442.
 (50) ケレンスキー, <Delo>, p.88.
 (51) Katkov,<コルニロフ>, p.90-p.91. 強調〔試訳者注<>部分〕は補充した。原文のロシア語全文は、Chugaev,<<略>>, p.443.に収載。
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 ②へとつづく。

1931/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質②。
 (7)イデオロギー全体の礎石は、指導者に対する個人崇拝(cult)だった。これは、この時代にグロテスクで悪魔的な様相を見出したもので、のちの毛沢東に対する個人崇拝を例外として、おそらくは歴史上にこれを上回るものはない。
 スターリンを賛美する詩歌、小説および映画が、途切れない潮流の中に溢れ出た。彼の写真や肖像が全ての公共広場を飾った。
 作家、詩人、および哲学者はお互いに競って、新しい酒神礼賛的(dithyrambic)崇拝の形態を考案した。
託児所や幼稚園の子どもたちは、彼らの幸福な幼年生活について、スターリンに心溢れる感謝を捧げた。
 民衆の宗教心の形態は全て、歪められた形で復活した。すなわち、聖像(icon)、行列、声を揃えて朗読される祈り、(自己批判という名のもとでの)罪の告白、遺物崇拝。
 このようにしてマルクス主義は、宗教のパロディー(parody)となった。 但し、内容を欠いたパロディーだ。
 適当に選んで、以下は、この当時のある哲学上の著作にある、典型的な導入部だ。
 「同志スターリン、諸科学に関する偉大な指導者は、深さ、明瞭さ、および活力について無比の研究をして、弁証法的かつ歴史的唯物論の基礎の体系的論述を、共産主義の理論上の土台として、与えた。
同志スターリンの理論的諸著作は、全同盟共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会およびソ連邦閣僚会議により、彼の70歳の誕生日での同志スターリンへの挨拶で、尊敬の念をもって語られた。
 『科学の偉大な指導者!。帝国主義、わが国におけるプロレタリア革命と社会主義の勝利という新しい時代に関連させてマルクス=レーニン主義を発展させた貴方の古典的な諸著作は、人類の巨大な達成物であり、革命的マルクス主義の百科辞典である。
 ソヴィエトの男女および全国の労働人民の指導的代表者たちは、労働者階級の運動の勝利へと向かう闘いにおいて、知識、確信および新たな強さを、共産主義への今日の闘争に関する最も焦眉の諸問題についての解答を見出しつつ、これら諸著作から獲得している。』
 <弁証法的および歴史的唯物論>に関する同志スターリンの輝かしい哲学的全集は、知識と世界の革命的変革の力強い手段であり、不可避的に打倒される宿命にある、唯物論の敵および資本主義社会の衰亡していくイデオロギーと文化、に対抗する圧倒的な武器である。
 それは、マルクス=レーニン主義世界観の発展…<中略>における新しい、至高の段階である。
 同志スターリンはその全集において、無比の明瞭さと簡潔さをもって、マルクス主義の弁証法的方法の基本的特質を解説し、自然と社会の法則的な発展に関する理解の重要性を指摘した。
 同じ深さ、力強さ、簡潔さおよび党政治上の決意をもって、同志スターリンは、その諸著作で、マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質…<以下略>を定式化した。」
 (V. M. Pozner, <マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質に関するJ. V. スターリン>、1950年)
 (8)スターリンは、ロシア史上の偉大な英雄たちを通じて、間接的にも称賛された。
 ピョートル大帝、イワン雷帝およびアレクサンダー・ネフスキーに関する映画や小説が、スターリンの栄誉のために捧げられた。
 (しかしながら、イワン雷帝のほかにスターリンの明確な命令にもとづきその<oprichnina〔親衛隊〕>または秘密警察を賛美するアイゼンシュタイン(Eisenstein)の映画は、スターリンが生きている間は上映されなかった。そうした映画は、いかに雷帝が、たとえ気が重くても、最も執念深い陰謀家たちの手を切り落とさざるをえなかったかを描写していたからだ。-なるほど、観客たちには疑いなく、まさしく札付きの悪漢だが、イワンは思慮深い政治家には期待され得たことを何もしなかった、という気分が残っただろうけれども。
 身長の低いスターリンは、映画や劇では、レーニンよりもかなり身長のある、背の高い男前の人間のように描かれた。//
 (9)ソヴィエト官僚機構の階層的構造は、スターリン崇拝が下位の者たちにまで影を落としていたということに見られた。
 全てではないにせよ多数の分野で、スターリンの線上で公式に「最も偉大な者」として知られる者たちがいた。
 スターリン自身が最高位を占める多数の場合-哲学者、理論家、政治家、戦略家、経済学者-は別として、例えば、誰が最も偉大な画家、生物学者、あるいはサーカスの道化師なのか、が知られていた。
(ちなみに、サーカスは1949年に、この分野でのブルジョア形式主義を非難した<プラウダ>上の論文でイデオロギー的に改革された。
 ユーモアの世界主義的形態へと堕落して、イデオロギー的内容がなく、階級敵に対処するために教育するのではなく、たんに人々を笑わせようとしていた上演者が、どうやらいたようだ。)//
 (10)この時代に、歴史の偽造と歴史研究者に対する圧力が、クライマクスに達した。
 帝制ロシアの外交政策は基本的に進歩的だった、とくにロシアによる征服は他民族にロシア文明の恵みをもたらした、ということを示すのは、歴史家の任務になった。
 レーニン全集の第四版は新しい文書をいくつか含んでいたが、別のいくつかは削除されていた。その中には、一国での社会主義の建設の不可能性に関する、きわめて断定的(categorical)な論述があった。また、ジョン・リード(John Reed)の<世界を震撼させた十日間>への熱心な序言も、そうだった。
 十月革命の間はペトログラードにいたリードは、レーニンとトロツキーについては多くのことを語っていたが、スターリンには全く言及していなかった。したがって、レーニンが彼の書物を世界に推奨するのは、〔スターリンには〕許しがたい<失態(gaffe)>だった。
 新しい版はまた、ほとんど完全に、執筆者が粛清によって殺戮された者たちである、いくつかのきわめて貴重な歴史的な論評や記述を、削除した。
 (こうした過去の再編集の方法は、スターリンの死でもって終わった。
 ベリヤ(Beriya)が新指導者によって死刑に処せられたその数カ月のち、<大ソヴィエト百科辞典>の申込み者たちはその次の巻の注意書きが、こう求めていることに気づいた。以前の一定の頁分をカミソリ刃を使って切除し、注意書きに添えられた新しい頁の用紙をそこに挿入するよう求めていることに。
 読者たちは、指示された場所を開いてみて、ベリヤに関する記載部分だと分かった。
 しかしながら、補充する新しい頁の用紙は、ベリヤに関するものでは全くなく、ベーリング海(Bering -)の追加の写真が掲載されたものだった。)
 歴史的な資料は、警察が例外なく握っており、それらを利用するのは、今日でもそうであるように、厳格に制限されていた。
 これはしばしば、賢い手段で判明することだった。すなわち、例えば、女性ジャーナリストがかつて古い教会区の書庫でレーニンの母親はユダヤ人の血を引いていると発見したとき、彼女にはこの情報をソヴィエトのプレスに掲載しようと試みる馬鹿正直さ(naïvety)すらがあった。//
 (11)この雰囲気は、当然にあらゆる種類の、適切に愛国的言語を用いて彼らの偉業を宣言する科学的ぺてん師を培養した。
 ルィセンコが最も有名だったが、他にも多数いた。
 Olga Lepeshinskaya という名前の生物学者は1950年に、無生の有機物から生細胞を作り出すのに成功したと発表した。そして、プレスはこれをブルジョア科学に対するソヴィエトのそれの優越性を証明するものだとして拍手喝采した。
 しかしながら、すみやかに、彼女の実験は全て無価値であることが判明した。
 スターリンの死後、なお一層衝撃的な記事が<プラウダ>に出た。それは、消費するよりも大きなエネルギーを生み出す機械がSaratov の工場で製造されたというものだった。
 -かくしてこれは、ついに熱力学の第二法則を定めて、同時に宇宙に放散されたエネルギーはどこかに(Saratov の工場に特定される)集中するはずだというエンゲルスの言明を確認することになる。
 しかしながら、のちにすみやかに、<プラウダ>は恥じ入った撤回記事を掲載しなければならなかった。-知的雰囲気がすでに変化してしまっていた徴しだった。//
 (12)書き言葉の世界も話し言葉の世界も、スターリン時代の雰囲気を忠実に反映していた。
 公共に対して何かを発表する目的は知らせることではなく、教示し、啓発することだった。
 プレスの内容は、ソヴィエト体制を賛美する、または帝国主義者を非難する報告だけだった。
 ソヴィエト同盟は、罪からのみならず自然災害からも免れていた。これらはともに、帝国主義諸国家の不幸な特権なのだった。
 事実上は、いかなる統計も公表されなかった。
 新聞の読者たちは、公然とは語られないが全ての者が知っている特殊な符号(code)で情報を得るのに慣れていた。
 例えば、党の幹部たちがあれこれの場合に名前を呼ばれる順序は、彼らがその時点でスターリンの好みの中のいかほどの位置にいるかを知る指標(index)だった。
 表面的には、「コスモポリタニズムおよび民族主義と闘おう」は「民族主義およびコスモポリタニズムと闘おう」と同じだと思えるかもしれなかった。しかし、ソヴィエトの読者は、スターリンの死後に後者の表現を見つけるやいなや、「方針が変わった」、民族主義が現在の主要な敵だと気づいた。
 ソヴィエト・イデオロギーの言語は暗示で成り立っており、直接的な言明によってではなかった。すなわち、<プラウダ>の指導的論文の読者は、決まり文句の洪水の真ん中にさりげなく書かれた単一の文章が掴みどころだと知っていた。
 意味を伝えるのは特定の言明の内容なのではなくて、言葉の順序であり、文章全体の構造なのだった。
 官僚制的な言語の独占、死んでいるがごとき非人間的な文章、そして不毛な言葉遣いは、社会主義文化のこり固まった聖典(canon)となった。
 多数の語句が、自動的に繰り返された。したがって、一つの言葉から次の言葉を予測することができた。例えば、「帝国主義者の凶暴な顔」、「ソヴィエト人民の栄光ある偉業」、「社会主義諸国家の揺るぎない友情」、「マルクス=レーニン主義の古典執筆者たちの不滅の業績」。-このような類の無数のステレオタイプの語句は、数百万のソヴィエト民衆の、知的な規定食(diet)だった。//
 (13)スターリンの哲学は、成り上がり者的な官僚制的心性に、形式と内容のいずれについても見事に適合していた。
 彼の論述のおかげで、誰もが30分で哲学者になることができた。真実を完全に所有するに至るだけではなくて、ブルジョア哲学者たちの馬鹿げて無意味な思想を知ることができた。
 例えば、カントは何かを知るのは不可能だと言ったが、我々ソヴィエト人民は多数の事物を知っている。カントには多すぎたのだ。
 ヘーゲルは世界は変わると言い、世界は観念(idea)で構成されていると考えた。にもかかわらず、誰でも、我々の周りにあるものは観念ではなくて物(things)であることを理解している。
 マッハ主義者は私が座っている椅子は私の頭の中にあると言ったが、明らかに、私の頭と椅子とは別の場所にある。
 このような考え方をして、哲学は、全ての小役人の遊戯場になった。彼らは、若干の常識的で自明なことを繰り返すことによって哲学上の問題を全て片付けたと思って、満足していたのだ。//
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 つづく第11節の表題は、「弁証法的唯物論の認知状態」。

1930/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質①。
(1)この時代のソヴィエトの文化生活の独自性は、たんにスターリンに特有の独特な個性によるのではなかった。
 その独自性は一口で言うと、国家・国民の文化は成り上がり者(parvenu、成金者)のそれだった、と要約できるかもしれない。-全ての独自性はほとんど完璧に、初めて権力を享有した者の心性、信条、および好みを表現している。
 スターリン自身が、この独自性を高い程度に例証していた。しかし、統治機構の全体にも特徴的なもので、その成り上がり者性は、スターリンがそれを一方では隷属状態へと変えながらも、スターリンを助け続け、彼の至高の権威を維持し続けた。//
 (2)ボルシェヴィキの古い守り手たちや従前の知識人たちが連続して粛清され、絶滅したあと、ソヴィエトの支配階級は主として、労働者と農民の出自をもつ個人で構成された。彼らは乏しい教育しか受けておらず、文化的背景をもたず、特権を渇望し、純粋な「世襲の」知識人たちに対する憎悪と嫉妬を溢れるほどもっていた。
 成金者の本質的特性は「見せびらかす」ことへの絶え間なき切望感だ。したがって、彼らの文化は見せかけ(make-believe)であり、粉飾(window-dressing)だ。
 彼らは、従前の特権階層の知的な文化の代表的なものを自分の周囲に見ているかぎりは、心の平穏を持たない。それから遮断されていたがゆえに、彼らはそれを憎悪し、ブルジョア的または貴族的だとして貶す。
 成金者は狂信的な民族主義者で、その母国や環境は他の全てより優れているという考え方に飛びつく。
 自分たちの言語は、彼らによれば、(他の言語を通常は知らないが)<とくに優れた>言葉で、自分の微少な文化的資源でも世界で最も洗練されたものだと自分や他者の誰をも納得させようとする。
 彼らは、<アヴァン・ギャルド的(avant-garde)>な文化的実験の雰囲気があるものや、創造的な新奇さをひどく嫌悪する。
 限定された傾向の「一般常識」的格言でもって生活し、その格言類について誰かが説明を求めてきたときには、怒り狂う。//
 (3)成金者の心性のこうした特質は、スターリニスト文化の基本的なところにも感知することができる。すなわち、民族主義、「社会主義リアリズム」という美学、そして権力システムそれ自体にすら。
 彼らは、権威に対する農民に似た卑屈さを、権威を分有しようという大きな欲求と結びつける。ある程度まで階層が上がってしまうと、上位者にはひれ伏しつつ下位の者たちは踏みつけるだろう。
 スターリンは成金者たるロシアの偶像であり、栄光の夢の具現者だった。
 成金国家には権力の階層と、従属者をむち打ってもなお崇拝される指導者が存在しなければならない。//
 (4)既述のように、戦前に徐々に増大していたスターリニズムの文化的民族主義は、戦勝後には巨大な形をとった。
 1949年、プレスは「コスモポリタニズム」、明確には定義されていないが反愛国主義を明らかに含んで西側を称賛する悪徳、に対抗する宣伝運動を開始した。
 この運動が展開するにつれて、コスモポリタン〔世界主義者〕はユダヤ人と全く同一だということがますます理解されてきた。
 個々人が嘲笑されたり、ユダヤ的に響く従前の名前を持っていたときには、こうしたことが一般には言及されていた。
 「ソヴィエト愛国主義」はロシア排外主義と区別がつかないもので、公的な熱狂症(mania)になった。
 宣伝活動によって、全ての重要な技術的考案や発明がロシア人によってなされた、ということが絶え間なく語られ、この文脈で外国人に言及することはコスモポリタニズムおよび西側に屈服する罪悪だとされた。
 <大ソヴェト百科辞典>は、1949年末からそれ以降に出版された。これは、半分は滑稽で、半分は気味の悪い巨大熱狂症患者の、比類なき例だ。
 例えば、歴史部門の「自動車」の項は、こう書き始める。「1751-52年に、Nizhny Novgorod 地方の農民であるLeonty Shamshugenov(q.v.)が二人で動かす自己推進の車を作った」。
 「ブルジョア」文化、つまり西側文化は、腐敗と頽廃の温床だとして継続的に攻撃される。
 例えば以下は、ベルクソン(Bergson)に関する記述内容から抽出したものだ。〔以下のBは原文どおりで「ベルクソン」の意味〕//
 「フランスのブルジョア哲学者。-観念論者、政治と哲学について反動的。
 Bの直観主義(intuitionism)は理性と科学の役割を軽視し、社会に関する神秘主義理論は帝国主義者の哲学の土台として寄与している。
 彼の見方は帝国主義時代でのブルジョア・イデオロギーの退廃、階級矛盾の増大に直面したブルジョアジーの攻撃性の成長、プロレタリアートの階級闘争の深化に対する恐怖、…<中略>を鮮やかに示している。
 資本主義の初期の全般的危機とその全ての矛盾の激化の時期に、唯物論、無神論、科学的知識の狂気じみた敵、民主主義の敵および階級的抑圧からの被搾取大衆の解放の敵として、その哲学をえせ科学的切り屑で偽装して…<中略>、Bは出現した。
 Bは、観念論を『新しく』正当化するものとして、『内的映像』による認識について生活、実践と科学によって以前にとっくに反証されている…<中略>、古代の神秘主義者、中世の神学者の見方を、提示しようとした。
 弁証法的唯物論は、直観という観念論的理論を、世界と現実に関する知識は何らかのきわめて感覚的な方法によってではなく人間性に関する社会歴史的な実践を通じて生まれる、という論駁し難い事実でもって拒否する。
 Bの直観主義は、不可避的に迫り来る資本主義の崩壊を前にした帝国主義的ブルジョアジーの恐怖と、現実に関する科学的な知識、とくにマルクス=レーニン主義の科学が発見した社会発展の法則が抗し難く意味するもの…<中略>から逃亡しようとする切実さを、表現している。
 Bは、民族の至高性の敵として、ブルジョア的コスモポリタニズム、世界資本主義の支配、ブルジョア的宗教と道徳を擁護した。
 Bは、残虐なブルジョアの独裁や、労働者を抑圧するテロリストの手段に賛同した。
 第一と第二の大戦の間に、この戦闘的な反啓蒙主義者は、帝国主義的戦争は『必要』でありかつ『有益』だと主張した…<以下略>。」//
 (5)もう一つ、以下は、「印象主義(Impressionism)」に関する記述内容だ。〔以下のIは原文どおりで「印象主義」のこと〕
 「19世紀の後半のブルジョア芸術における退廃的傾向。
 Iは、ブルジョア芸術の初期段階の退廃の結果で(<デカダンス>を見よ)、進歩的な民族的諸伝統と断絶したものである。
 Iの支持者は、『芸術のための芸術』という空虚で反民衆的な基本綱領を擁護し、客観的現実の真実に合った現実的な描写を拒否し、芸術家は自分の主観的な印象によってのみ記録しなければならないと主張した…<略>。
 Iの主観的観念論的見方は、哲学における現在の反動的趨勢の基本原理と関係がある。-新カント主義、マッハ主義(q.v.)等。これらは現実と感覚を、印象と理性を分離させた…<略>。
 人類、社会現象および芸術の社会的機能には無関心のままで、客観的な真実の諸規準を拒否することによって、Iの支持者は、現実の実像を崩壊させ、芸術の形態を喪失している…<中略>、そのような作品を不可避的に生み出した。」
 (6)ソヴィエト同盟の世界の文化からの孤立は、ほとんど完璧だ。
 西側の共産主義者の若干のプロパガンダ的作業は別として、ソヴィエトの読者たちは、小説、詩作、戯曲、映画、そして言うまでもなく哲学や社会科学の形態で西側が生み出しているものに関して、全く無知の状態に置かれたままだった。
 レニングラードのエルミタージュ(Hermitage)にある20世紀絵画の豊かな貯蔵作品は、正直な市民を腐敗させないように、地下室に置かれたままだった。
 ソヴィエトの映画や戯曲は、戦争と帝国主義に奉仕するブルジョア学者たちの仮面を剥ぎ取り、ソヴィエトの生活の無類の愉楽さを称賛した。
 「社会主義リアリズム」が至高のものとして支配した。もちろん、ソヴィエトの現実をその現実のままに提示する-これは生硬な自然主義かつ一種の形式主義になっただろう-という意味でではなく、自分たちの国とスターリンを愛するようにソヴィエト人民を教育するという意味でだが。
 この時期の「社会主義リアリズム」の建築物は、スターリン主義イデオロギーの最も権威ある記念碑だ。
 ここでもまた、支配的原理は「形式に対する内容の優越性」だった。但し、この二つが建築物についてどう区別されるのか、誰も説明することができなかったけれども。
 その影響は、いかなる場合でも、誇張されたビザンティン様式の尊大な正面〔ファサード〕を造ることだった。
 住宅がほとんど建設されておらず、大中の市や町の数百万の民衆が汚い中で群がって生活しているときに、モスクワや他の都市を装飾したのは、虚偽の円柱と上辺だけの飾りに満ちた、かつその大きさは「スターリン時代」の荘厳さに釣り合う、巨大な新しい宮殿だった。
 こうしたことはまた、建築分野での、典型的な成り上がり者様式だった。要約するならば、つぎのモットーになるだろう。すなわち、「大きいものは美しい」。//
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 ②へとつづく。

1929/ロシア革命史に関する英米語文献②。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 上の新書本のいわゆる「オビ」にこうある。
 「日英米を戦わせて、世界共産革命を起こせ-。
 なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、
 これほど明確に描いた本はない

 中西輝政氏推薦」
 そもそも上の江崎の本は「なぜ日本が第二次大戦に追い込まれたか」を第一主題にしているものではない。しかし、かりにそうだったとしても、「これほど明確に描いた本はない」と評価できるような代物では全くない。悲惨で無惨な、体系性・完結性もない奇書だ。
 「オビ」の文章を書くと、あるいは考案すると、又は推薦者として名前を出すだけで、一件あたりいかほどの「収益」になるのだろう。
 中西輝政は、いくら本の中で「インテリジェンス」研究等について感謝されているとはいえ、中身をまるで読まないで、上のような「推薦」をしているに違いない。
 本の表紙等に自分の名前が出るのは、それほどに心地よいものなのか。
 ときには、きわめて恥ずかしいことになる(またはそう評価される)こともあるはずだ。ああ、恥ずかしい。
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 欧米の書物には日本的な「オビ」は付かないようだが、書物のカバー類に(通常は)肯定的な論評文、つまりは「推薦」になるような著者以外が執筆した文章を印刷していることがある。
 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 前回の①で言及した、2017年刊の「ロシア革命史」本の一つ。
 McMeekinは1974年生まれというから、1923年生まれのR・パイプスより50年以上後の人物で、1941年生まれのS・フィツパトリクよりも一世代ぶんは若い。
 この人の上の著の裏表紙カバーに4つの「論評」文が掲載されている。
 そのうち何と三つが、短い文章の中でロシア革命と「ドイツ」の関係にとくに言及しているのが気を惹いた。
 なお、①ではR・パイプスとO・ファイジズの各著に言及があることも、前回に述べたことを補強するものだ。
 ①フーヴァー研究所主任研究員のNiall Ferguson によるもの(全文/試訳)。
 「Richard Pipes がロシア帝国でのボルシェヴィキによる権力奪取に関する歴史書を刊行してから四半世紀、ソヴィエトの崩壊に続いてのOrland Figes の<人民の悲劇>から20年、これらは決定的(definitive)だと思われた
 しかしここに、Sean McMeekin が、新しい証拠資料を用い、独自の地政学的な見方を提示しつつ、生き生きとした新しい説明を加えて、登場する。
 レーニンがドイツの活動員(operative)だった、その完全で衝撃的な範囲が、ここに明瞭になる。『革命的敗北主義』が蔓延する前にボルシェヴィキを破滅させておかなかつたケレンスキーの過ちの重大さも明瞭になるとともに。
 McMeekin は、力強く歴史を叙述する。
 彼の<The Russian Revolution>は読者の心を<掴む(grip)>。」
 ②『ロマノフ一族』の著者のSimon Sebag Montefiore によるもの(一部/試訳)。
 「ロシア革命に関するSean McMeekin の新しい歴史書は、よく知られた物語を…叙述でもって、しかしそれだけではなく、とりわけドイツによるボルシェヴィキへの財政支援(funding)について、刺激的な〔魅惑的な〕新しい資料を明からにすることを付加して〔飾って〕、叙述している。」
 ③<A Mad Ctastrophe>の著者のGeoffrey Wawro によるもの(一部/試訳)。
 「…。McMeekin のレーニンは、英雄的ではなくて、いかがわしい(seedy)。
 彼によるボルシェヴィキの勝利は、ブルジョア亡命者がペトログラードでレーニンの最初の妨害物になる前にレーニンのポケットに10億ドルを詰め込んだドイツ軍によって設計された、裏切り行為だ。」
 レーニンまたはボルシェヴィキとドイツ(ドイツ帝国)との関係については、Richard Pipes の1990年著も(ソ連解体前の資料によりつつも)相当程度に立ち入って明確な第一次資料を使って記述しており(送金先のペトログラードの個人または商会など)、1917年4月にレーニンがロシア(・ペトログラード)に帰還する途上の某地で某と送金額・送金方法等の「協議」をしただろうとの「推測」まで記している(試訳済み。確認を省略する)。
 先行の研究がないわけではないだろうが、上のような紹介を含む論評からすると、ドイツとレーニン・ボルシェヴィキの関係に関する「新しい」情報を知りたくなる。
 もっとも、冒頭で記した日本での江崎道朗/中西輝政のような「推薦」の例もあるので、英米語圏でのこうした論評・紹介類によって多大な「期待」を抱かない方がよいのかもしれない、とは言える。
 なお、ドイツとの関係は、十月「革命」までのみならず、ブレスト=リトフスク条約、ラパッロ条約から独ソ不可侵協定(・対独「祖国大戦争」)まで、ロシア・ソ連史の重要な対象であるはずだろう。

1928/R・パイプス著ロシア革命・第11章第2節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第2節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ蜂起鎮圧への助けをコルニロフに求める。
 (1)8月半ば、ドイツ軍は予期されていたリガに対する攻撃を開始した。
 紀律不十分で政治化していたロシア兵団は後退し、8月20-21日にこの都市を放棄した。
 コルニロフにとって、このことはロシアの戦争行動が切実に再組織されなければならないこと、そうでなければペトログラード自体がやがてリガと同じ運命を味わうだろうことの決定的な証拠だった。
 コルニロフ事件があった雰囲気を理解するには、この軍事的後退を視野の外に置いてはならない。
 現代人は歴史家も、コルニロフとケレンスキーの対立をもっぱら権力闘争として扱ってきたけれども、コルニロフにとってそれはまず第一に、戦争に敗北しないようにロシアを救う、重要であるいは最後かもしれない努力だったからだ。//
 (2)8月半ば、サヴィンコフは信頼できるフランス諜報機関の情報源から、ボルシェヴィキが9月最初に新しい蜂起を計画しているとの情報を受け取った。その情報は8月19日に、日刊紙<Russkoe slovo>に掲載された。(*)
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 (*) 新聞によると(189号、p.3)、これはボルシェヴィキの総力挙げてのものだと政府は考えた。
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 その時期は、最高司令部がドイツの作戦の次の段階が始まり、リガからペトログラードへと前進してくるとと考えた時期と合致していた。(27)
 この情報の源は、知られていない。ボルシェヴィキの資料にはその時期にク-を準備していると示すものは何も存在しないので、誤りだったように見える。
 サヴィンコフは、この情報をケレンスキーに伝えた。
 ケレンスキーは動じなかったように見えた。彼はそのとき、のちと同様に、ボルシェヴィキのクーを自分の対抗者による空想の産物だと考えた。(28)
 しかし、言われるボルシェヴィキ蜂起に関する情報を、コルニロフを弱体化させるための言い分として利用することをすぐに思いついた。
 彼はサヴィンコフに、ただちにモギレフに行ってつぎの任務を果たすように頼んだ。
 1: フィロネンコが報告している、最高司令部での将校による陰謀を消滅させること。
 2: 軍最高司令部の政治部署を廃止すること。
 3: ペトログラードとその近郊をコルニロフの指揮から政府の指揮へと移して、そこに戒厳令を敷くことについて、コルニロフの同意を得ること。および-。
 「4: ペトログラードを戒厳令のもとに置いて臨時政府を全ての攻撃から、とりわけボルシェヴィキによる攻撃から防衛するために、コルニロフ将軍が騎兵軍団を派遣するよう頼むこと。ボルシェヴィキはすでに7月3-5日に反乱を起こし、外国の諜報機関の情報によれば、ドイツ軍の上陸とフィンランドでの蜂起と連結して、もう一度蜂起を準備している。」(29)//
 この第四の任務は、ケレンスキーがのちにはコルニロフが政府を打倒するためにペトログラードに対して騎兵軍団を派遣したと主張し、それは将軍を国家反逆罪によって追及する理由にされることになるので、とくに記憶されつづけるに値する。//
 (3)サヴィンコフのモギレフでの任務の目的は、そこで企てられているとされる反革命陰謀を終わらせ、かつそのようにして、ボルシェヴィキの蜂起に対抗する準備をしているふりをすることだった。
 ケレンスキーはのちに、「最高司令部に対する軍事上の自立性」が欲しかったので、自分の指揮下におく軍事力-すなわち、第三騎兵軍団-を求めた、ということを婉曲的ながら認めた。(30)
 ペトログラード軍事地区をコルニロフの指揮から除外することは、同じ目的に役立つものだった。//
 (4)サヴィンコフは8月22日にモギレフに到着し、24日までそこに滞在した。(31)
 彼はまずコルニロフとの会見から始め、全ての違いを乗り越えて将軍と首相が協力することがきわめて重要だと語った。
 コルニロフは、同意した。ケレンスキーについてその職責からすると弱くて適してもいないと考えてはいたが、彼が必要だった。
 コルニロフは、アレクセイエフ(Alekseev)将軍、プレハノフ(Plekhanov)やA A. アルグノフ(Argunov)のような愛国主義社会主義者を用いて政府の政治的基盤を拡大するようケレンスキーは十分に助言されるされるだろうと付け加えた。
 サヴィンコフはコルニロフの改革提案に話題を転じて、政府はそれに関して行動する用意があると保証し、最終的な改革草案を提示した。
 コルニロフは、軍事委員会やコミサールを残したままだったので、全体としては満足できないものだと考えた。
 これらの改革はすぐに行われるのか?
 サヴィンコフは、ソヴェトからの激しい反応を刺激する怖れがあるので、政府は今のところはまだこれを公にするつもりがない、と反応した。
 彼はコルニロフに、ボルシェヴィキが8月末か9月初めにペトログラードで新しい騒擾を起こすことを計画しているという情報があることを知らせた。軍隊改革の基本方針を早まって発表すると、ボルシェヴィキの即時の蜂起を惹起するだろう、軍隊改革に反対しているソヴェトもまたボルシェヴィキに同調する可能性がある、と言いつつ。//
 (5)サヴィンコフはついで、予期されるボルシェヴィキのクーへの対処方法に関する話題へと移した。
 首相は、ペトログラードとその近郊をペトログラード軍事地区から除外し、直接に自分の指揮のもとに置きたいと考えていた。
 コルニロフはこの要請に不満だった。しかし、従った。
 軍隊改革が提示された場合のソヴェトの反応を誰も予想することはできないので、また、ボルシェヴィキの蜂起が予期されることを考慮してサヴィンコフは、ペトログラードの守備連隊に追加して、信頼できる戦闘軍団を投入するのが望ましい、と続けた。
 彼はコルニロフに、二日以内に第三騎兵軍団をVelikie Luki から、政府の指揮が及ぶことになるペトログラード近接地へと動かすよう要請した。
 このことが行われればすぐに、自分は電報でペトログラードに知らせることになる。
 彼はまた、必要となれば、政府はボルシェヴィキに対する「容赦なき」行為を実行する用意がある、かりにボルシェヴィキに加勢するならばペトログラード・ソヴェトに対しても同様だ、と語った。
 この要請に対して、コルニロフはすぐに同意した。//
 (6)コルニロフはまた、最高司令部の将校たちの同盟に対して、モスクワへと移動するよう要請することに同意した。しかし、政治的部署を廃止することは拒否した。
 彼はさらに、注意を引く最高司令部での全ての反政府陰謀を消滅させることも約束した。
 (7)8月24日朝、ペトログラードへと出発しようとしていたときに、サヴィンコフは、二つの要請を追加した。
 コルニロフがこれらを実行しなかったことをのちにケレンスキーは重視しようとしなかったけれども、サヴィンコフの記録では、ケレンスキー自身がこれらの要請を主導的に行ったことが知られている。(33)
 一つは、第三軍団がペトログラードへと出立する前に、この軍団の司令官を将軍クリモフ(Krymov)が取って代わること。サヴィンコフの意見では、クリモフの評判は「望ましくない事態」を生じさせ得るというものだったが。
 もう一つは、コーカサス出身者にロシアの首都を「解放」させかねないので、土着分団を第三軍団から分離すること。//
 (8)コルニロフはケレンスキーの欺瞞を見抜かなかったのか?
 コルニロフの言葉や行動からは、彼はケレンスキーの指示を額面通りにそのまま理解した、という結論に達するに違いないだろう。ケレンスキーの危惧の本当の対象はボルシェヴィキではなくコルニロフ自身だった、ということに彼は気づかなかった。
 二人が別れを告げていたとき、コルニロフはサヴィンコフに、国家がケレンスキーを必要としているのだからケレンスキーを支えるつもりだ、と保障した。(34)
 欠陥が多々あったとしても、ケレンスキーは真の愛国者であり、そしてコルニロフにとって、愛国的社会主義者は貴重な財産だった。//
 (9)サヴィンコフと別れたのち、コルニロフは、その職責を与える将軍クリモフに対してつぎのような命令を発した。
 「1: 私からまたは現地で直接にボルシェヴィキの蜂起が始まったと連絡を受ければ、遅滞なく軍団をペトログラードへと動かし、ボルシェヴィキの運動に参加するペトログラード守備連隊を武装解除させ、ペトログラードの民衆を武装解除して、ソヴェトを解散させること。
 2: この任務を達成したならば、将軍クリモフは砲弾を装備する一旅団をOranienbaum へと分離すること。そこに到着したあとで、クロンシュタット連隊に対して要塞を武装解除し、中心場所へと移るように命令すること。」(35)
 これら二つの命令は、ケレンスキーの指示を補完するものだった。
 第一のもの-騎兵軍団のペトログラードへの派遣-は、サヴィンコフが口頭でした要請に従っていた。
 第二のもの-クロンシュタットの武装解除-は、8月8日にケレンスキーが発したが履行されなかった命令と、その基本趣旨が一致していた。(36)
 これら二つの任務は、臨時政府をボルシェヴィキから防衛するためのものだとされた。
 コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官の地位をクリモフに与えるのを拒否する姿勢を示した、と言われているかもしれない。これを正当化するために、コルニロフはLukomskii に、クリモフでは反乱に対処するのは苛酷すぎるだろうと政府は怖れた、と説明した。しかし、全てが終わってしまったときには、その方が彼には喜ばしいことだっただろう。(37)
 Lukomskii は、サヴィンコフがもたらした指令は一種の罠ではなかったかと、気をめぐらした。コルニロフは「Lukomskii は邪推をしすぎる」と言って、この疑念を却下した。(38)//
 (10)このとき、コルニロフに将校たちが近づいてきて、ペトログラードにはボルシェヴィキ鎮圧を助けるつもりの2000人の軍員がいる、と言った。
 彼らは、その軍員たちを指揮する100人の将校の派遣をコルニロフに要請した。コルニロフは、その人数を派遣すると約束した。
 コルニロフは、8月26日までには全員が準備できる状態になるはずだ、と語った。その日は、予期されるボルシェヴィキ蜂起の時期の最も早い日で、ボルシェヴィキが立ち上がったときにはクリモフが率いる騎兵軍団が接近していて、義勇兵たちがソヴェトの議場のあるスモルニュイ(Smolnyi)を掌握できるはずだった。(39)//
 (11)サヴィンコフは、8月25日にケレンスキーに報告した。ケレンスキーの指令は全て履行されるだろう、と。//
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 (27) N. N. Golovin,<<略>>(Tallin, 1937), p.15.
 (28) ケレンスキー,<Delo>, p.62.
 (29) サヴィンコフの供述書から。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.85. 所収。
 (30) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.158.
 (31) サヴィンコフが書き取った会見要領は、つぎに再録されている。Chugaev,<<略>>, p.421-3. コルニロフと二人の将軍が署名している別の要録書は、つぎにある。Katkov,<コルニロフ>, p.176-8. サヴィンコフの回想録である<K. delu Kornilova>, p.20-p.23.
 (32) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.175.; Chugaev,<<略>>, p.422.
 (33) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日), p.3.
 (34) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.178.
 (35) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.によるコルニロフの供述書から引用。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.91. 参照。
 (36) Martynov,<コルニロフ>, p.94.; Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.
 (37) Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.238.
 (38) 同上、p.237-8.
 (39) 同上、p.232.
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 第3節へとつづく。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
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 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1926/L・コワコフスキ著第三巻第四章第9節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第9節・ソヴィエト経済に関するスターリン。
 (1)スターリンの最後の理論的著作は、1952年9月に党機関誌<ボルシェヴィキ>に掲載した論文だった。これは「ソ連邦の社会主義の経済的諸問題」と題して、来る第19回党大会の基礎的文書となることを意図していた。
 その理論上の主張は、社会主義も「客観的な経済法則」に服する、計画立案に際してはその長所を生かさなければならず、それを恣意的に無視することはできない、ということだった。
 とくに価値の法則は、社会主義のもとで当てはまる。-この言明が意味したのはおそらく、金銭はソヴィエト同盟で有用だ、そして経済を作動させていくには利益や歳入と歳出の均衡について説明する責任が果たされなければならない、ということだつた。
 「社会主義の経済法則の客観性」という原理は、Nikolai Voznensky に対する非難を暗に含んでいた。この人物は、戦前は国家計画委員会の長で、のちに副首相となり、政治局員だった。
 彼は1950年に、裏切り者として射殺された。そして、対ドイツ戦争中のソヴィエト経済に関するその書物は、流通から排除された。
 その書物は含みとしては、社会主義が客観的経済法則に服することを否定し、その代わりに全経済過程が国家の計画権能に従属すると主張していた。
 しかしながら、スターリンは、価値法則を擁護し、読者に対して、資本主義は最大限の利潤を求める原理に支配されているが、社会主義経済の指針的規範は人間の必要性〔需要〕を最大限に充足させることだ、と保証した。
 (いかにして社会主義の利潤的効果がスターリンが主張するように国家計画立案当局の意思から独立した「客観的法則」であり得るのか、とくに、いかにしてこの「法則」が「価値の法則」と同時に作動するのかは、明瞭ではない。)
 スターリンの論文はまた、ソヴィエト同盟の共産主義段階への移行に関する基本綱領を概述した。すなわち、この移行のために必要なことは、都市と地方の対立や肉体的作業と精神的作業の対立を除去し、集団農場の財産を国有財産の地位へと高めること(言い換えると事実上は、集団農場を国有農場に変えること)、そして生産を増大させ、文化の一般的水準を高めることだ。
 (2)将来の完全な共産主義社会に関するスターリンの考え方は、伝統的なマルクス主義の主題の繰り返しだった。
 「経済の客観的法則」について言うと、その論文から導かれ得る唯一の実践的メッセージは明らかに、経済を職責とする者たちは民衆の必要性を最大限に充足しようと努力しているが、経済上の説明を明確にする責任(economic accountability)もまた見失ってはならない、ということだった。//
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 第10節の表題は、「スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質」。

1925/L・コワコフスキ著第三巻第四章第8節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第8節・スターリンと言語学(philology)。
 (1)国際的緊張が最高に達した朝鮮戦争の最初の数日間に、スターリンは、進歩的人類の指導者、至高の哲学者、科学者および戦略家等々という既存の名称に、さらに特記して世界で最大の言語学者なるものを追加した。
 (知られているかぎりで、彼が取得している言語能力はロシア語と母国のジョージア語に限られていた。)
 1950年5月、<プラウダ>は言語学、とくにNikolai Y. Marr(マル、1864-1934)の理論の理論上の諸問題に関するシンポジウム内容を掲載した。
 コーコサス諸言語の専門家のマルは、その晩年にかけてマルクス主義言語学の体系を構築しようと努め、ソヴィエト同盟ではこの分野の最高権威者だと見なされていた。すなわち、幻想者だとして彼を拒絶した言語学者たちは、嫌がらせを受け、迫害された。
 マルの理論は、言語は「イデオロギー」の一形態で、そのようなものとして上部構造の一つであり、階級システムの一部だ、というものだった。
 言語の進化は、社会的編成の質的な変化に対応した「質的跳躍」によって生じる。
 人類が話し言葉を開発する前は身振り言語を用いており、それは、原始的な階級なき社会に対応していた。
 話し言葉は、階級ある社会の特質だ。そして、将来の階級なき共同社会では、普遍的な思考(thought)の言語(確かに、マルはこれについて多くを説明することができなかったが)に取って代わられるだろう。
 こうした理論全体が偏執症的(paranoid)な妄想の兆候を示していた。そして、これが長年にわたって<とくに秀れた(par excellence)>言語学で、唯一の「進歩的」言語理論だ、と位置づけられたという事実自体が、ソヴェト文化の実態を雄弁に物語っている。//
 (2)スターリンは<プラウダ>6月29日号に掲載した論文で論議に介入し、さらに読者の手紙に四つの回答をして説明した。
 彼はマル理論を非難し、言語は上部構造の一つではなく、その性格においてイデオロギー的なものでもない、と宣告した。
 言語は土台の一部でもなく、創造的な諸力と直接に「連環」している。
 言語は全体としての社会の一部であり、特定の階級のものではない。階級により決定される諸表現は語彙全体のほんの断片にすぎない。
 言語が「質的跳躍」あるいは「暴発」によって発展するというのも、正しくない。ある特質が消失していき、新しい特質が発生してくるように、徐々に変化するのだ。
 二つの言語が競い合うとき、その結果は新しい合成言語なのではなく、他方に対する一方の勝利だ。
 将来での言語の「死滅」と思考による代替に関して、マルは根本的に間違っている。すなわち、思考は言葉と連結しており、言葉なくしては存在することができない。
 人々は、言葉によって思考する。
 スターリンは、この機会を利用して、土台と上部構造に関するマルクス主義理論を明確にすべく繰り返した。第一に、土台は生産力で成るのではなく、生産関係による。第二に、上部構造は土台に対して道具として「奉仕する」。
 彼は、マルクス主義が自由な議論や批判を抑圧することで獲得した独占的地位を、(アレクサンダー一世の時代の専制的大臣を暗に示唆しつつ)強い調子で非難した。それでは知識を適切に発展させることが明らかに不可能だ、として。
 (3)言語は階級に関係する問題ではなく上部構造の一つでもないということは、フランスの資本家も労働者もフランス語を喋り、ロシア人は革命後もロシア語を話している、ということをたんに意味するにすぎない。
 だがこの発見は、言語学やその他の学問の史上での歴史的に画期的なものとして歓呼して迎えられた。
 学術上の会合や論議の大波が、天才の新しい仕事を褒め称えるために、国土じゅうを覆った。
 実際には、スターリンが述べたことは、感取できる自明のこと(truisms)に他ならない。しかし、マル理論の馬鹿々々しさを一掃してしまうためには有益だった。また、形式論理学と意味論(semantics)の研究に、ある程度の利益をもたらした。これら二つの分野の論者たちは、それらも上部構造の一部ではなく、研究することは必ずしも階級敵に転化するわけではない、と主張することができたのだ。
 土台との関係での上部構造の「補助的(auxiliary)機能」に関するスターリンの言明について言うと、これは誰にもすでによく知られている基礎的な原理、社会主義国家の文化は「政治的な客観物」の下僕であって自立性を要求してはならないという原理、を反復しているものだ。
 スターリンが自由な議論や批判を求めたことは、他のどの文化分野にも何の影響をももたらさなかった、ということは言うまでもない。
マル主義者は言語学の支配的地位から外された(彼らが政治的弾圧を受けたとは知られていないけれども)。他の点では、事態は従前のままだつた。
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 第9節の表題は「スターリンとソヴィエト経済」。

1924/R・パイプス・ロシア革命(1990)第11章第1節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990)
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 なお、著者(R・パイプス)はアメリカで存命だったA・ケレンスキー(1881-1970)に直接に会って、インタビューしている。
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される②。
 (10)Boris Savinkov (B・サヴィンコフ)は、軍事省の部長代行で、ケレンスキーとコルニロフの二人の信頼を得ていたため、仲介者としての役割を果たすには理想的にふさわしい人物だった。彼は、8月初めにつぎを求める四項目の案を起草した。すなわち、後方兵団への死刑の拡大、鉄道輸送の軍事化、軍需産業への戒厳令の適用、〔ソヴェトの〕軍事委員会の権限の縮小に対応する将校の紀律権限の回復。(8)
 彼によると、ケレンスキーは文書に署名すると約束したが、それを引き延ばし続け、8月8日に、「いかなる状況にあっても、後方部隊への死刑については署名しない」と彼に言った。(9)
 コルニロフは欺されたと感じて、ケレンスキーに「最後通牒」を突きつけた。これがケレンスキーを憤激させ、コルニロフをほとんど解任しそうになった。(10)
 ケレンスキーが軍隊の再活性化に強い関心を持っているのを知って以降、コルニロフはケレンスキーの不作為によって、首相は自由な人間ではなく社会主義者たちの道具にすぎないという疑念を持たざるをえなかった。社会主義者たちのうちの何人かは、七月蜂起以降、敵と通じていると言われていた。
 (11)コルニロフの執拗な要求は、ケレンスキーを困難な状態に追い込んだ。
 ケレンスキーは5月以降、何とか政府とイスパルコムの間に股がってきた。立法に関するイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の拒否権に譲歩してそれが離反しないようにし、他方では同時に、力強く戦争を遂行して、リベラル派や穏健な保守派すらの支持を得ることによって。
 コルニロフは、ケレンスキーが是非とも避けたいと願っていること-つまり左翼と右翼のいずれかを、国際的社会主義の利益とロシア国家の利益のいずれかを、選択すること-をするように首相に迫った。
 ケレンスキーは幻想のもとにいることはできなかった。すなわち、多くは合理的だと考えていたコルニロフの要求に応じるのは、ソヴェトとの決裂を意味するだろう。
 ソヴェトの会議は8月18日、ボルシェヴィキの動議にもとづき、軍隊へ死刑を復活させる案について議論した。
 この案は事実上の満場一致で、すなわち4人(ツェレテリ、ダン、M. I. Liber、チェハイゼ)の反対に対するおよそ850人の賛成で、前線部隊への死刑の適用を拒否する決議を採択した。それの適用は、「司令幕僚たちに対する奴隷にする目的でもって兵士大衆に恐怖を与えようとする手段だ」として。(11)
 明白なことだが、戦闘地域にいない後方の兵団に対して死刑を拡大することにソヴェトが同意することはあり得なかった。防衛産業や輸送の労働者たちに軍事紀律を課すことについては、言うまでもない。//
 (12)理論的には、ケレンスキーはソヴェトに対抗して、リベラル派と保守派に運命を委ねることも考えられ得ただろう。
 しかし、とくに六月攻勢の失敗と七月蜂起に対する優柔不断な対応の後でこれらの社会勢力が彼に抱いている低い評価を考えると、ケレンスキーがこれを選択する可能性はあらかじめすでに排除されていた。
 8月14日のモスクワの国家会議にケレンスキーが姿を現したとき、彼は左翼側によってのみ強く称賛された。右翼側は石のごとき沈黙でもって迎えた。彼らが拍手喝采を浴びせたのは、コルニロフに対してだった。(12) 
 リベラル派と保守派のプレスは、包み隠さすことのない侮蔑をもってケレンスキーに触れていた。
 したがって彼には、左翼側を選択する以外の余地はなかった。イスパルコムの社会主義知識人たちに従順でありつつ、一方では確信と成功の見込みは減っていても、ロシアの国家利益を推進しようとしながら。//
 (13)ケレンスキーが左翼側と宥和したかったのは、約束した軍隊改革をしなかったことのみならず、ボルシェヴィキに対して断固たる措置をとらなかったことでも明らかだった。
 彼は大量の証拠を手にしてはいたけれども、イスパルコムとソヴェトに遠慮して七月蜂起の指導者たちを訴追しなかった。彼らは、ボルシェヴィキの責任を追及するのは「反革命的」だと考えていた。
 ケレンスキーは、右翼と左翼の両方の戦争遂行「妨害者」に保護されるべきとの軍事省からの提案に反応して、これと類似した先入観をもっていることを示した。
 彼は、右翼側の逮捕されるべき者の名簿を承認した。しかし、別の名簿が届けられたときには躊躇を示した。そして、結局は半分以上の名前を除外したのだった。
 それらの文書が、連署が必要な内務大臣でエスエルのN. D. Avksentiv に届いたとき、彼は最初の名簿を再確認したが、第二の名簿からは2名(トロツキーとコロンタイ)以外の全ての者の名前を削除した。(13) //
 (14)ケレンスキーは、民主主義的ロシアを指導すると運命づけられていると自認する、きわめて野心的な人物だった。
 この野心を実現する唯一の方法は、民主主義的左翼-すなわちメンシェヴィキとエスエル-の主張を管掌することだった。そして、そうするためには、その左翼がもつ「反革命」という強迫観念を分かち持たなければならなかった。
 彼は、コルニロフのうちに全ての反民主主義勢力が集中したものを見たのみならず、そう見る必要があった。
 ボルシェヴィキが4月、6月そして7月の武装「示威行動」で何を意図していたのかをよく知っており、またレーニンやトロツキーが将来に企てていることを容易に理解したけれども、ケレンスキーは、ロシアの民主主義は左翼からの危険ではなく右翼からの危険に直面していると、自らを納得させた。
 知識がなかったわけでも知的精神をもっていなかったわけでもなかったので、彼のこのような馬鹿げた評価は、それが彼には政治的にふさわしかったという前提でのみ、意味があることになる。
 コルニロフにロシアのボナパルトの役を割り当てて、ケレンスキーは無批判に-じつは進んで-、コルニロフの友人や支持者たちが巨大な反革命の陰謀を企てているという風聞に反応した。(14)
 (15)軍隊改革が実行されないままで、貴重な日々が過ぎ去った。
 コルニロフは、ドイツがまもなく軍事攻勢を再開しようとしていると知り、また事態を動かすことを意図して、内閣と会うことの許可を求めた。
 彼は8月3日に、首都に着いた。
 大臣たちに挨拶をして、彼は軍隊の状態の概略を述べ始めた。
 コルニロフは、軍隊の改革に関して議論したかった。しかし、サヴィンコフが軍事省がその問題に取り組んでいると言って、遮った。
 コルニロフはそのあと、前線の状況に話題を変えて、ドイツとオーストリアに対して準備している軍事行動について報告した。
 この時点で、ケレンスキーはコルニロフに寄りかかって囁いて、注意するように求めた。(15) 一瞬のちに、同様の警告がサヴィンコフからもあった。
 この出来事によって、コルニロフと彼の臨時政府に対する態度が、動揺した。
 彼はこのことに何度も言及して、その後の彼の行動を正当化するものだとした。
 彼はケレンスキーとサヴィンコフの警告を正しく解釈していたので、一人のまたは別の大臣は軍事機密を漏洩する疑いがあった。
 モギレフに戻ったときコルニロフは、衝撃を受けた状態のままで、Lukomskii に起きたことを語り、いかなる性格の政府がロシアを動かしていると考えるかと尋ねた。(16)
 彼は、自分が警告された大臣はチェルノフだと結論づけた。チェルノフは、ボルシェヴィキを含むソヴェトの仲間たちに秘密情報を伝えていると信じられていた。(17)
この日以降、コルニロフは臨時政府を国家と国民を率いるに値しない、と見なした。(*)
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 (*) 政府は忠誠心のない者やおそらくは敵の工作員に惑わされているとの彼の確信は、彼がこの時期に政府に提出した秘密のメモ文書がプレスに漏れたことで強められた。
 左翼のプレスは抜粋版を発行し、コルニロフに反対する運動を開始した。悪口のキャンペーンだった。Martynov <コルニロフ>, p.48.
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(16)この出来事からほどなくして(8月6日又は7日に)、コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官である将軍クリモフ(A. M. Krymov)に、その兵団をルーマニア地域から北方へ動かすよう命令した。そして、別の軍団を投入し、西部ロシアの大雑把にはモスクワとペトログラードと等距離にある都市のVelikie Luki で位置を整えるよう命じた。
 第三軍団は、二つのコサック分団とコーカサスからのいわゆる土着(または粗雑)分団で構成されていた。いずれも人員不足だったが(土着分団には1350人しかいなかった)、頼りになると見なされた。
 こうした命令に当惑して、Lukomskii は、これらの勢力をドイツ戦に用いるのだとするとVelikie Luki は前線から遠すぎる、と指摘した。
 コルニロフは答えて、モスクワかペトログラードのいずれかで発生する可能性が潜在的にあるボルシェヴィキの蜂起を鎮圧するための場所に軍団はいて欲しいと語った。
 彼はLukomskii に対し、臨時政府に対抗するつもりはない、だが必要だと分かれば、クリモフの兵団がソヴェトを解散し、その指導者たちを吊し、ボルシェヴィキを-政府の同意があってもなくても-簡単に片付ける、と付け加えた。(18)
 彼はまたLukomskii に、ロシアは国家とその軍隊を救うことのできる「確固たる権威」を絶望的にだが必要としている、と語った。
 つぎは、コルニロフの文章だ。
 「私は反革命家ではない。<中略>私は旧来の統治体制の形態が嫌いだ。それは私の家族を手酷く扱った。過去に戻ることはない。決して、あり得ない。
 しかし、我々は、本当にロシアを救うことのできる権威を必要としている。その権威は、戦争を栄誉をもって終わらせることを可能にし、立憲会議〔憲法制定会議〕へとロシアを指導するだろう。<中略>
 我々の現在の政府には、しっかりした個人はいるが、事態を、ロシアを、破滅させる者もいる。
 重要なことは、ロシアには権威がなく、そのような政府が設立されなければならないということだ。
 おそらくは私は、そのような圧力を政府に対してかけることになるはずだ。
 かりにペトログラードで騒擾が勃発すれば、それが鎮圧された後で私は政府に入り、新しい、強い権威の形成に参加しなければならないだろう。」(19)//
 (17)ケレンスキーがコルニロフに対して一度ならず自分も「強い権威」に賛成だと言っていたのを聞いていたので、Lukomskii は、コルニロフと首相は困難なく協力するはずだ、と結論した。(20)
 コルニロフはサヴィンコフの要請に応じて8月10日にペトログラードに戻った。しかしこれは、首相の望みには反していた。
 ケレンスキーの生命を狙う試みに関する風聞を聞いて、彼はTekke の護衛団とともに到着し、護衛団はケレンスキーの事務所の外側に機関銃を積み上げた。
 ケレンスキーは内閣全員と会いたいとのコルニロフの要請を拒否した。そしてその代わりに、顧問団であるNekresov とTereshenko が同席して、彼を迎えた。
 将軍の非常時意識は、ドイツが軍事攻勢をリガの近くで開始し、首都の脅威になりそうだ、という知識にもとづいていた。
 彼は改革の問題に話題を転じた。外国勢力のために働くロシア人に対する死刑も含めての、前線および後方での紀律の回復、および防衛産業や輸送の軍事化だった。
 ケレンスキーは、コルニロフが望んだことの多く、とくに防衛産業と輸送に関しては「馬鹿げている」と考えた。しかし、軍隊の紀律を強化することを拒否することはなかった。
 コルニロフは首相に、自分はまさに解任されそうで、軍での騒擾を刺激しそうな行動をしないように「助言されている」ということを分かっている、と言った。(22)
 (18)4日後、コルニロフは国家会議にあっと言わせる登場の仕方をした。その会議はケレンスキーがモスクワに国民の支持を集めるべく招集したものだった。
 まず最初に、ケレンスキーは会議で挨拶するのを許可せよとのコルニロフの要請を拒否した。しかし、軍事問題に限定するという条件つきで、容赦した。
 コルニロフがボリショイ劇場に着いたとき、彼は喝采を受け、群衆によって持ち上げられた。
 右翼の議員たちは、騒がしい歓迎の仕方で迎えた。
 むしろ素っ気ない演説でコルニロフは、政府の政治的な打撃になると解釈され得るものは何も語らなかった。ケレンスキーにとっては、この事態が、分岐点だった。すなわち彼は、将軍に対する共感を示すことはケレンスキーへの個人的な侮蔑だと解釈したのだ。
 ケレンスキーののちの証言によると、「モスクワ会議の後で、つぎの攻撃の試みは右翼から来るだろう、左翼からではない、ということは自分には明瞭だった」。(23)
 このような確信が彼の心の裡にいったん定着してしまうと、それは<固定観念(idée fixe)>になった。
 のちに起こることは全て、それを強化するのに役立つだけになる。
 右翼のクーが進行中だとの彼の確信は、将校たちや一般市民からの電信で強まった。それらは、コルニロフをその職のままにとどめておくことを求めるもので、また幕僚将校たちによる陰謀の軍事的中心部からの内密の警告だった。(24)
 保守派のプレスは、ケレンスキーとその内閣に対する連続的な批判を開始した。
 典型的だったのは右翼<Novoe vremia>の編集部で、ロシアを救う鍵は最高司令官の権威を疑いなく受容することだ、と主張した。(25)
 コルニロフがこの政治的キャンペーンを使嗾したという、いかなる証拠も存在しなかった。しかし、それを受け取る側には、彼は疑念の対象になった。//
 (19)冷静に観察すれば、司令官たる将軍への共感が高まるのは、ケレンスキーへの不満の表現であって、「反革命」の兆候ではなかった。
 国家は、しっかりとした権威の存在を切に必要としていた。
 しかし、社会主義者たちは、この雰囲気を敏感に気づくことはなかった。
 実際の政治ではなく歴史を詩文的に見て、社会主義者たちは保守派(「ボナパルティスト」)の反動は不可避だと堅く信じていた。(*)
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 (*) 著者〔R・パイプス〕との私的な会話でケレンスキーは、彼の1917年の行動はフランス革命の教訓に強く影響されていたことを認めた。
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 8月24-25日、何かがたまたまにでもそれを正当化する前に、社会主義派のプレスが反革命の存在を告げた。8月25日、メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、「陰謀」との見出しのもとに、真っ最中だ、政府が少なくともボルシェヴィキに対して示したのと同じだけの情熱をもってこれと闘うよう希望を表明する、と発表した。(26)
 かくして、筋書き(plot)は書かれた。
 残るのは、主人公を見つけることだった。//
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 (8) Boris Savinkov <K delu Kornilova>(Paris, 1919), p.13-14.
 (9) 同上、p.15. P. N. Miliukov <Istoriia <以下略>>(Sofoia, 1921), p.105.
 (10)ケレンスキー<Delo>p.23. Savinkov <K delu>p.15-16. Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.99.
 (11) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.69-70.
 (12) 同上、p.54.
 (13) Savinkov <K delu>p.15.
 (14) ケレンスキー<Delo>p.56-57. 同<Catastrophe>p.318.
 (15) Savinkov <K delu>p.12-13. Geprge Katkov <コルニロフ事件>(London-New York, 1980), p.54.
 (16) A. S. Lukomskii, <<略>>(Berlin, 1922), p.227.
 (17) Katkov <コルニロフ事件>, p.170.
 (18) Lukomskii, <<略>>, p.228, p.232.
 (19) Chuganov, <<略>>, p.429.
 (20) 同上、p.429-430.
 (21) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.37-38. Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.224-5.
 (22) Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.107-8. Trubetakoi<<略>>No.8(1917年10月4日)所収。Martynov <コルニロフ>p.53が引用。
 (23) ケレンスキー<Delo>p.81. Gippius, <Siniaia kniga>p.164-5.
 (24) ケレンスキー<Delo>p.56-57.
 (25) <DN>No.135(1917年8月24日), p.1 に引用。
 (26) <NZh>No.110(1917年8月25日), p.1.
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 第2節へとつづく。

1923/R・パイプス・ロシア革命第11章<十月クー>第1節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」)前後に関する全般的かつ詳細な、つぎの二つの大著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 いずれについても、邦訳書はない。
 但し、前者の2/3と後者を一つに併せたような簡潔版があり、これには、邦訳書がある。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)。
 上のうちAの一部を二年近く前から「試訳」してこの欄に紹介し始めたのだったが(その後Bの一部へも移動)、このAについて試訳の掲載を済ませているのは、第9章(レーニンとボルシェヴィズムの起源)と第10章(権力を目指すボルシェヴィキ)の二つの章にすぎず、本文だけで計842頁になる全体のうち98頁にすぎない。
 ある程度は黙読しかつCの邦訳書も参考にしているので、すでに多少の知識はある。しかし、きちんと日本語に置き換える作業をしておく必要があるだろう。
 トロツキーを長とするペトログラード・ソヴェトの軍事革命委員会の設立辺りから再開したいところだが(なお、確認しないが、ここでの「革命」はレーニンが考え抱く「社会主義革命」では決してなかっただろう)、R・パイプスのAの書物は急いでくれない。
 <コルニロフ事件>という<右への揺れ>があったからこそつぎに<左への揺れ>でレーニン・ボルシェヴィキに有利になった(偶然なのか必然なのか)ともされるので、じっくりとつぎの第11章(十月のクー)の冒頭から「試訳」作業を続けてみよう。
 各節の見出しは本文中にはなく、目次(内容構成)上のものを用いている。
 注記のうち(*)は本文の下欄(文字どおりの脚注)で数字番号付きの注は全体の後にまとめて掲載されている。ここでは前者は本文中に挿入し、後者は試訳掲載部分ごとに最後に記載する。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に、原著にはない数字番号を付した。注記のうちロシア文字が長くつづくものは記載を省略する。
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 Richard Pipes(R・パイプス)・ロシア革命1899-1919 (1990)。
 第11章・十月のクー。
 「捕食動物がその食する動物よりも賢くなければならないのは、自然の法則だ。」
 -自然史入門(Manual of Natyral History)。
 「我々がその当時に本当の危険に直面したのは、まさにその瞬間からだった。」
 -Alexander Kerensky. (1)
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 (1) A・ケレンスキー <The Catastrophe>(New York-London, 1927), p.318.
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 (はしがき)
 1917年9月、レーニンは隠れており、ボルシェヴィキ勢力の指揮権はトロツキーに渡った。トロツキーは、二ヶ月前に入党していた。
 即時の権力奪取というレーニンからの圧力に抗して、トロツキーはより慎重な戦略を採用した。ボルシェヴィキの企図は権力のソヴェトへの移行への努力だと偽装したのだ。
 ほぼ間違いなくその考案者だと言ってよいが、近代クーデタの技術にきわめて熟達しているトロツキーは、革命を勝利へと導いた。//
 トロツキーは、レーニンを補完する理想的な人物だった。
 より目立ち、より派手な、はるかに上手い演説者かつ著述者として、彼は群衆を魅了することができた。レーニンのカリスマ性は、その支持者たちの間に限られていた。
 しかし、トロツキーは、ボルシェヴィキ党員からは人気がなかった。一つには、ボルシェヴィキを辛辣に攻撃して数年のちに遅く党に加入したからだ。また一つには、耐えられないほどに傲慢だったからだ。
 いずれにせよ、ユダヤ人であるトロツキーは、革命であれ何であれ、ユダヤは外部者だと見なされた国での全国的な指導者になることを、ほとんど見込めなかった。
 革命と内戦の間、彼はレーニンの分身(alter ego)で、腕を組み合う不可欠の同僚だった。しかし、勝利を得たのちには、当惑の種になる。//
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される①。
 (1)ボルシェヴィキが七月の敗走から回復することを可能にしたのは、ロシア革命のうちでのもっと奇怪な出来事の一つによる。それは、コルニロフ(Kornilov)事件として知られる。(*)
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 (*) ロシア革命に関する歴史家にこれほどの関心を惹起した主題はほとんどない。したがって、これに関する文献はきわめて多い。
 主要な第一次資料は、D. A. Chugaev, ed., <以下、〔略〕>で公刊されている。
 ケレンスキーに関する資料は、Delo Kornilova所収(英語訳<ボルシェヴィズムへの前奏>、ニューヨーク、1919)、Boris Savinkovに関する資料は、K delu Kornilova所収(Paris, 1919)。二次的文献のうち、とくに教示的なものは以下。E. I. Martynov の党派的だが豊かな資料をもつ<コルニロフ>(Leningrad, 1927)、P. N. Miliukovの<〔略〕>(Sofia, 1922)、およびGeorge Katkov の<コルニロフ事件>(London-New York, 1980)。
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 (2)将軍Larv Kornilov (コルニロフ)は、1870年にシベリア・コサックの家庭に生まれた。
 父親は農民かつ兵士で、母親は家事従事者だった。
 コルニロフの庶民的出自は、ケレンスキーやレーニンの出自とは対照的だった。彼らの父親は公職貴族の上位階層に属していた。
 コルニロフは、カザフ・キルギスの中で幼年時代を過ごし、アジアとアジア人に対する終生の情愛を保持し続けた。
 軍事学校を卒業して、参謀学校に入り、栄誉を得てそこを修了した。
 彼はトルキスタンで活動任務を開始し、アフガニスタンやペルシアへの遠征隊を率いた。
 中央アジア語のトルコ方言を習得していてロシアのアジア地域の専門家になっていたコルニロフは、赤い外衣を身にまとってTekkeトルコ人の護衛兵に囲まれているのを好んだ。彼らとはその母国語で会話し、彼は「Ulu Boiara」あるいは「大ボヤール(Great Boyar)」として知られていた。
 彼は日本との戦争に参加し、その後に軍事随行員として中国に配置された。
 1915年4月、ある分隊を指揮していたときに重傷を負い、オーストリア軍の捕虜となった。だが、脱走して、ロシアに帰還した。
 1917年3月、ドゥーマの臨時委員会はニコライ二世に、コルニロフをペトログラード軍事地区の司令官に任命するよう求めた。
 4月のボルシェヴィキ反乱までこの地位に就いていたが、そのときに離任し、前線へと向かった。//
 (3)まず第一にかつ主としては政治家であるほとんどのロシアの将軍とは違って、コルニロフは戦闘する人間で、伝説的な勇気をもつ野戦の将校だった。
 彼には愚鈍との評判があった。アレクセイエフは、コルニロフは「獅子の心と羊の脳をもっていた」と語ったと伝えられている。しかしこれは、公正な評価ではない。
 コルニロフには、多量の実践的知識と一般常識があった。このタイプの他の兵士たちに似て、政治や政治家を軽蔑していたけれども。
 彼は、「進歩的」見解をもっていた、と言われた。そして、彼かツァーリ体制を嫌っていたことについて、疑う理由はない。(2)//
 (4)軍人としての履歴の最初の頃、コルニロフは不服従の傾向を示し、それは1917年二月以降にさらに強くなった。そのとき彼は、ロシア軍の解体と臨時政府の無能力さを観たのだった。
 彼に対する反対者はのちに、独裁的野心をもっていたと彼を責めるだろう。
 このような追及は、一定の条件をつけてのみ行うことができる。
 コルニロフは愛国者で、とくに戦時中に国内秩序を維持し勝利のために必要な全てのことを行ってロシアの国家利益を前進させる、そういういかなる政府に対しても、奉仕する心づもりがあった。
 1917年の夏遅く、彼は、臨時政府はもはや自由な活動者ではなくて社会主義インターナショナル派の捕囚になっており、敵の工作員がソヴェトの中に収まっている、と結論づけた。
 独裁的権力を掌握するという示唆を彼に受容させたのは、まさにこのような信念だ。//
 (5)ケレンスキーは七月蜂起の後でコルニロフに向き直って、コルニロフが軍隊の紀律を回復し、ドイツの反攻を抑えることを望んだ。
 7月7-8日の夜、ケレンスキーはコルニロフを戦闘の先端にある西南方前線の責任者に任命した。そして三日後に、補佐官のBoris Savinkov の助言にもとづいて、コルニロフに最高司令官の地位を提示した。
 コルニロフは、急いでは受諾しなかった。
 彼は政府がロシアの戦争努力全体を妨げている諸問題と真剣に取り組むまでは、かつそうでなければ、軍事活動の指揮を執る責任を負うのは無意味だと考えていた。
 その諸問題には、二つの性格のものがあった。狭くは軍事的なもの、より広くは、政治的および経済的なものだ。
 他の将軍たちと相談して、コルニロフは軍隊の戦闘能力を回復するには何がなされる必要があるかについて、幅広い合意を見出した。すなわち、指令第一号が権限を与えた軍事委員会は廃止されなければならず、または少なくともその権能が縮小されなければならない、軍事司令官たちは紀律に関する権能を再び取得しなければならない、後方の連隊への秩序を回復するために諸手段が用いられなければならない。
 コルニロフは、後方はもちろんのこと前線での脱走や反抗について有罪である軍隊人員に対して、再び死刑を導入することを要求した。
 しかし、そこに彼はとどまらなかった。
 他の交戦諸国の戦時動員計画について知っており、ロシアについても同様のものを望んだ。
 防衛産業および輸送-戦争努力にとって最も重要な経済部門-を担当する従事者たちが軍事紀律に服すべきことは、コルニロフには不可欠のことだと思えた。
 前任者たちよりも大きな権限を要求した範囲は、1916年12月にドイツの経済に対する事実上の独裁的権力を握った将軍ルーデンドルフと対抗するためだった。すなわち、国家が全面戦争を遂行することができるようにするためだ。
 コルニロフが主任幕僚の将軍A. S. Lukomski と共同で作り上げたこの計画は、彼自身とケレンスキーとの間の対立の主要な源泉になった。この計画は将校団および非社会主義者の意見を反映しており、ケレンスキーはソヴェトの監視のもとで行動しなければならなかったからだ。
 調整できないものがあるために、対立を解消するのは不可能だった。国際社会主義の利益に対して、一方にはロシア国家の利益があった。
 両人をよく知っていたサヴィンコフ(Savinkov)が、つぎのように述べるように。
 コルニロフは「自由を愛した。<中略> しかし、彼にとってロシアが第一で、自由はその次だった。一方、ケレンスキーにとって<中略>、自由と革命が第一で、ロシアはその次だった」。(3)//
 (6)7月19日、コルニロフは司令官を受諾するために用意している条件を、ケレンスキーに対して伝えた。
 1: 良心と国家に対してのみ責任を負う、2: 自分の活動命令と司令官任命のいずれについても何者も干渉しない、3: 政府と議論している紀律確保の手段は、死刑による制裁も含めて、後方の兵団にも適用される。4: 政府は自分の従前の提案を受け入れる。(4)
 ケレンスキーはこれらの要求に対して激しく怒り、コルニロフに対する提示を撤回することを考えたほどだった。しかし、翻って考え直したうえで、これを将軍の政治的な「無邪気さ(naïveté)」を表現したものだとして取り扱うことに決めた。(5)
 実際のところ、軍隊がなければ彼は無力であるため、ケレンスキーはコルニロフの助力に大きく依存していた。
 確かに、コルニロフの四条件のうち第一のものは、ほとんど無作法だった。しかしながら、将軍の望みはソヴェトによる介入を除去することにある、と説明することはできる。ソヴェトは、指令第一号で、軍事命令を取り消す権限を要求していたのだ。
 最高司令部にいるケレンスキーの副官でエスエル〔社会革命党〕のM. Filonenko がコルニロフに、「責任」とは臨時政府に対するものを意味させていないとすれば、この要求は「きわめて深刻な懸念」を呼び起こすだろう、と語った。これに対してコルニロフは、そのことはまさしく考えていることだ、と答えた。(6)
 そして、のちに見られるようにコルニロフがケレンスキーと最終的に決裂するまでは、彼の「不服従」はソヴェトに対して向けられていたのであり、臨時政府に対してではなかった。//
 (7)コルニロフが軍隊の司令権を掌握したいと考える条件は、おそらくはコルニロフの公的関連将校のV. S. Zavoiko によって、プレスへと漏らされた。
 各条件が<Russkoe slovo>7月21号で公にされた結果、大騒動が発生した。コルニロフは非社会主義の集団ではすぐに人気を獲得し、一方でそれに対応するだけの敵愾心を左翼に生じさせた。(7)
 (8)首相と将軍の間の交渉は、ゆっくりと二週間つづいた。
 コルニロフは、自分が提示した条件は充たされるだろうとの保障を得て、ようやく7月24日に新しい任務を引き受けた。
 (9)しかしながら、実際には、ケレンスキーは約束を守ることができなかつたし、その意思もなかった。
 彼は自由な人物ではなくイスパルコム(Ispolkom〔ソヴェト執行委員会〕)の意思の執行者だというのが、できない理由だった。イスパルコムはとくに後方での軍事紀律を回復しようとする全ての手段を「反革命的」だと考えており、それらを拒否していた。
 したがって、ケレンスキーが改革を実行するためには、彼の主要な政治的支持者である社会主義者たちと分裂することを強いられただろう。
 そして彼は、コルニロフは将来の危険な対抗者であることをすぐに理解するに至っただろうから、約束を断固として守ろうとはしなかっただろう。
 歴史研究者が歴史上の個人の心の裡を見通そうとするのは、つねに危険なことだ。しかし、7月と8月のケレンスキーの行動を観察すれば、彼は慎重に、自分の軍事官僚たちの不同意を惹起させ、妥協する機会をもつことを断固として拒否した、という結論以外のものを見出すのは困難だ。
 なぜなら、ケレンスキーは、ロシアの指導者かつ革命の擁護者としての自分の地位を脅かすいかなる者をも、打倒しようと考えていたからだ。(*)//
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 (*)これは、将軍Martynov の見解でもある。彼は、こうした事態をすぐ傍らで観察していて、文書上の証拠を研究した。すなわち、同<コルニロフ>, p.100。N. N. Golovin<<略>>(Tallin, 1937), p.37.参照。
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 (2) A・ケレンスキー <ボルシェヴィズムへの序曲>(New York, 1919),xiii. D. A. Chugaev, ed, <<略>>(Moscow, 1959),p.429.
 (3) Zinaida Gippius, Sinoaia kniga (Belgrade, 1929), p.152.
 (4) E. I. Martynov <コルニロフ>(Leningrad, 1927), p.33-34.
 (5) A・ケレンスキー・Delo Kolnilova (Ekaterinoslav, 1918), p.20-21.
 (6) Martynov <コルニロフ>p.36.
 (7) 同上、p.34.
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 ②へとつづく。 

1922/L・コワコフスキ著第三巻第四章第7節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第7節・ソヴィエト科学に対する影響一般。
  (1)ルィセンコの事件は、体制による文化との闘争の歴史を、幸いにもかなりの程度、例証している。
 獲得された特性の遺伝の問題よりも宇宙論の問題にイデオロギーが多くかかわり合った、と容易に理解することができる。
宇宙には時間の始まりがあるという理論を弁証法的唯物論と調和させるのは困難だ。
 しかし、遺伝に関する染色体理論の場合は、明らかにそうではない。誰でも容易に、この理論はマルクス=レーニン=スターリン主義という不朽の思想を完璧に確認するものだと、勝利感をもって宣言する、と想像することができる。
 実際には、イデオロギー的闘いは、遺伝学の場合の方がとくに激しかった。党による介入が最も残虐な形態をとったのはまさにこの遺伝学の分野だった。一方で、宇宙論に対する扇動的攻撃は、かなり穏健なものだった。
 このような違いに関する論理的な説明を行うのは困難だ。すなわち、多くは偶然による。反対運動を担当したのは誰だったのか、スターリン個人は論争になっている問題に関心があったのか否か、等々。//
 (2)にもかかわらず、この時代の歴史を概観するならば、イデオロギー的圧力の強さに、コントやエンゲルスが確立した諸科学の階層に大まかには対応した、一定の段階的差異があることを感知し得るかもしれない。
 数学については圧力はほとんどゼロで、宇宙論と物理学についてはかなり強かった。生物学については、さらに強かった。そして、社会科学や人文科学については、圧力は最大限に強力だった。
 年代史的順序も、大まかにはこうした重要性の程度の差異を反映していた。
 社会科学は、最初から統制管理の対象だった。一方で、生物学や物理学はスターリニズムの最後の段階までは統制されなかった。
 スターリン後の時代に最初に自立性を取り戻したのは、物理学だった。しばらくして、生物学が続いた。だが、人文社会系(humanistic)学問はかなり厳格な支配のもとに置かれたままだった。//
 (3)イデオロギー的監督の中でも幸運な要素は、高次の神経機能に関する心理学と生理学の場合にも、見出すことができる。
 この分野の特質は、ロシアが世界的に有名なパブロフ(Ivan P. Pavlov )の誕生地だったことだ。1936年に死んだこの人物には若干の弟子たちがおり、彼らはパブロフの実験を継続し、またイデオロギー的圧力とは関係なくその理論を発展させることが許されていた。
 典型的にも、体制側は反対方向の極端へと進み、パブロフの理論を、生理学者や心理学者が逸脱することを禁止される、公式のドグマにまで屹立させた。
 かりにパブロフがイギリス人あるいはアメリカ人であったならば、彼の考えは、ソヴェトの哲学者によって厳しく非難されていただろう。パブロフ理論は条件反射によって精神作用を説明するがゆえに機械主義者だ、という根拠でもって。
 パブロフはまた、人間と動物の「質的な違い」を無視する等々によって人間の精神を神経活動という最も下位の形態へと「矮小化(reduce)」した、と責め立てられただろう。
 実際には、パブロフ理論は公式に神経生理学の分野でのマルクス=レーニン主義を代表するものとされ、この分野でのイデオロギー攻撃は他のどの分野よりも酷くなかった。
 にもかかわらず、たとえ真摯で科学的な実験にもとづいてはいても、一つの理論が国家と党のドグマにまで持ち上げられたという、まさにその事実こそが、研究の進展に対して激痛を与えるごとき効果をもった。//
 (4)ソヴィエト国家の利益に反して動いたイデオロギーのとくに驚くべき事例は、サイバネティクス〔人工頭脳学〕、動態的過程統制システムに関する科学、に対する攻撃だった。
 サイバネティクス研究は、全ての技術分野、とくに軍事技術、経済計画等々での自動化の発展に大きな貢献をした。しかし、マルクス=レーニン主義の純粋性という権威は、しばらくの間は、ソヴィエト同盟での自動化の進展を完全に抑えることができた。
 1952-53年、サイバネティクスという帝国主義的「えせ科学」に対する反対運動が起こされた。
 ここにはじつに、本当の哲学上の問題または哲学に準じた問題が介在していた。
 すなわち、社会生活がサイバネティクスの範疇でもって記述され得るのか否か、および記述され得る程度、精神的活動はいかなる意味でサイバネティクスの図式へと「推論され得る」のか、あるいは逆に、いかなる意味で、人工的なメカニズムの一定の作用が思考と同等であり得るのか、等々。
 しかし、本当のイデオロギー上の危険性は、サイバネティクスは西側で発展してきた広い視野をもつ学問分野で、その当否はともあれ、<普遍的数学(mathesis universalis)>、動態的現象を全て包含する一般的理論だと自己主張しているものだ、ということにあった。そのような自己主張は、正確にマルクス=レーニン主義こそが行っていたものだったからだ。
 非公式の(むろん公的な情報で確認されていない)報告によると、最終的にサイバネティクスに対する反対運動を中止させたのは軍隊だった。軍はその主題の実践的重要性に気づいており、ソヴェトの根本的な国家利益を損傷する反啓蒙主義的攻撃と闘うに十分な強さを持っていた。//
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 つぎの第8節の表題は「スターリンと言語学」。

1921/L・コワコフスキ著第三巻第四章第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学。
 (1)マルクス=レーニン主義と現代科学との間の全ての闘いの中で、遺伝学に関する論争ほど外部世界の注目を集めたものはなかった。
 公式の国家教理が遺伝の問題に関して用いて、かつ「論議」一般に破壊的な影響をもったやり方というのは、実際にとくに悪辣だった。
 相対性や量子理論の場合は、イデオロギー正統派が研究を妨害し確実に非難することに成功して勝者となった。しかし、正統派は反対派を完全に破壊してしまったわけではなかった。また、遺伝学の場合に起きたようには、反対派の理論の公式かつ絶対的な禁止をもたらしたわけでもなかった。//
 (2)戦前の段階でのルィセンコ(Lysenko)の活動については、すでに言及した。
 事態は、1948年8月のモスクワでの農業科学レーニン・アカデミーでの論議で、絶頂点に達した。
このとき、「メンデル=モルガン=ヴァイスマン主義者」が最終的に非難され、ルィセンコ自身が会合に対して発表したように、彼の考え方が党によって是認された。
 党がマルクス=レーニン主義と合致する唯一のものだと宣告したルィセンコの理論は、遺伝は「究極的には」環境の影響によって決定される、したがって一定の条件のもとでは、個々の生物(organism)がその人生を通じて獲得する特性(traits)はその子孫たちに継承〔遺伝〕される、というものだった。
 遺伝子(gene)なるものはなく、「遺伝という不変の実体」はなく、「固定した、変更不可能な種(species)」もない。そして、原理的に言えば、科学、とりわけソヴィエト科学が、現存する種を変形させて新しい種を生み出すことを妨げるものは、何もない。
 ルィセンコによれば、遺伝とは一生物の一つの属性にすぎず、その属性は、その生物が生きていく特有の条件を必要とし、またその生物が特有の方法でその環境に反応するということから生じる。
 一個体はその生の過程で環境条件と相互に影響し合い、その環境条件を自分自身の特性へと変える。そしてそれを、子孫たちへと伝達していくことができる。-このことは、代わりに、自分たちの特性を失うか、または遺伝によって伝達できる新しい特性を獲得することでありうる。それはまた、外部条件が決定しうるものだ。
 永遠(immortal)の遺伝という実体の存在を信じる進歩的科学の擁護者は、マルクス主義に反して、突然変異(mutation)は制御不可能な偶然によって生じると主張する。
 しかし、ルィセンコがアカデミーの会合で論じたように、「科学は、偶然なるものの敵だ」。そして科学は、生命の全過程が法則に従っており、それを人間の干渉によって支配することができる、と想定するよう義務づけられている。
 生物は「環境との統合体(unity)」を形成する。ゆえに原理的には無制限に、その環境を通じて生物に影響を与えることが可能だ。//
 (3)ルィセンコが提示した理論は第一に、農学者のミチュリン(Michurin、1855-1935)の発想と実験を発展させたものだった。第二に、「創造的ダーウィニズム」の例だとして提示された。
 ダーウィン(Darwin)が道を誤っていたのは、自然にある「質的跳躍」を認識しなかったこと、および種内部の闘争(最適者生存)を進化の主要な要因だと考えたことだった。 彼は、目的論的解釈に頼ることをしないで、進化を純粋に因果関係の意味で説明し、進化の過程の「進歩的」性格を明らかにしなかった。//
 (4)ルィセンコ理論の経験上の根拠に関して、今日の生物学者たちは疑いなく、ルィセンコの実験は科学的には無価値であり、間違って行われているか全く恣意的な解釈が施されているかのいずれかだ、と判断している。
 ルィセンコは1948年の会合から、ソヴィエトの生物科学の疑いなき指導者となって登場した。そして、観念論的、神秘主義的、スコラ主義的、形而上学的、およびブルジョア的で形式主義的な遺伝学の学者たちは完璧に粉砕された。
 全ての組織、雑誌および生物学に関連する出版団体は、ルィセンコと彼の助手たちの権威のもとに置かれた。そして多年にわたり、遺伝に関する染色体(chromosome)の理論の擁護者(<仮説だが(ex hypothesi)>、ファシスト、人種主義者、形而上学者、等々)が公衆に語りかけまたは活字となって登場することが許される、などということは全くの論外だった。
 「創造的ミュチュリン主義生物学」が至高ののものとして支配し、プレスにはルィセンコを称賛し、メンデル=モルガン主義者たちの邪悪な策略を非難する記事が洪水のごとく溢れた。
 ソヴィエト科学の栄光ある勝利は、無数の会合や集会で祝福された。  
 哲学者たちはもちろん、ただちにそうした運動に加わり、会合を組織し、反動に対する進歩の勝利を歓呼して喜ぶ多数の論文を執筆した。
 娯楽雑誌は、観念論的遺伝学の支持者を嘲弄した。そして、ルィセンコを賛美する歌までが作られた。「ミチュリンの足跡にそってしっかりと前進しよう。メンデル=モルガン主義者の陰謀を挫折させよう」。//
 (5)ルィセンコの経歴は、1948年以後の数年間にわたり継続した。
 その間に、彼の指揮のもとで、ある範囲の大草原地帯には浸食から畑地を守るべく森林帯が植え付けられた。しかし、その実験は完全な失敗だったことが分かった。
 1956年、スターリン死後のイデオロギー的な部分的雪解けの間、科学者が圧力を加えた結果として、ルィセンコは農業科学アカデミーの院長から外された。
 数年のち、フルシチョフの好意によって彼はいくつかの地位を回復した。しかし、のちに長く続いた全体的な救いにはならず、ルィセンコは最終的には舞台から消えた。
 ソヴィエトの生物学がルィセンコの支配によって被った損失は、計り知れないものだ。//
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つぎの第7章の表題は、「ヴィエト科学に対する一般的影響」。

1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版、p.131-136。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第5節・マルクス=レーニン主義と物理学・宇宙論。
(1)スターリニズムによる攻撃のとくに露骨な例は、自然科学へのイデオロギー的侵攻だった。
 無傷のままだった数学は別として、マルクス主義による統制運動は、全ての科学分野にある程度は影響を与えた。理論物理学、宇宙論、化学、遺伝学、医学、心理学、およびサイバネティクス〔人工頭脳学〕は全て、介入によって荒らされ、その頂点は1948-1953年だった。//
 (2)ソヴィエト物理学は、たいていの部分では、哲学上の議論にかかわってくる懸念はなかった。しかし、ある領域では、関係することが避けられなかった。
 量子理論も相対性理論も、一定の認識論上の前提を明らかにすることなくしては、十分に深化させることができなかった。
 決定主義の問題、観察される客体に対する観察行為の効果の問題、は明らかに哲学的な様相を帯びており、そのことは、世界じゅうの論議で承認されていた。//
 (3)ソヴィエト・ロシアとナツィ・ドイツは、相対性理論が攻撃され、公式イデオロギーと矛盾するとして禁止された、二つの国だった。
 既に述べたように、ソヴィエト同盟では、その攻撃運動は第二次大戦以前から始まっていたが、戦後の数年間に強化された。
 ドイツでは、相対性理論に反対する明白な論拠は、アインシュタイン(Einstein)はユダヤ人だ、ということだった。
 ロシアではこの点は挙げられず、批判が根拠にしていたのは、時間、空間および運動は客観的なもので、宇宙は無限だ、とするマルクス=レーニン主義の教義に反するものだ、ということだった。
 ジダノフは1947年に哲学者たちに対する挨拶の中で、宇宙は有限だと明言したアインシュタインの弟子たちを痛烈に非難した。
 哲学的批判は、つぎのようにも論じた。時間は客観的であるがゆえに同時発生性(simultaneity)との関連は絶対的なもので、特殊相対性理論が主張するような相関の枠組みに依存しているのではない。
 同じように、運動は物質の客観的な属性であり、そのゆえに動体の経路は同格者(co-ordinate)の制度によって部分的に決定されるということはあり得ない(これはむろんアインシュタインと同じくガリレオに対しても当てはまる論拠だ)。
 一般論として、アインシュタインは時間的関係と運動を「観察者」に依存させるので、換言すれば人間という主体に依存させるので、彼は主観主義者であり、そして観念論者だ。
 この論議に参加した哲学者たち(A. A. Maksimov、G. I. Naan、M. E. Omelyanovskyその他)は、批判対象をアインシュタインに限定しないで「ブルジョア科学」の全体を攻撃した。すなわち、彼らの好みの攻撃対象は、Eddington、Jeans、Heisenberg、Schrödinger および名のある全ての物理学方法論者たちだった。
 さらに、アインシュタインがかりに相対性理論の最初のアイディアをマッハ(Mach)から得たことを認めていれば、どうだっただろう? レーニンは、マッハの反啓蒙主義(obscurantist)哲学を罵倒したのだったが。
 (4)しかしながら、(古くさいやり方で一般相対性理論や空間の同質性の問題にも触れていた)論議の本質的な論点は、アインシュタインの理論の内容とマルクス=レーニン主義の間の矛盾にあるのでは全くなかった。
 時間、空間および運動に関するマルクス主義の教理は、何らかの特別の論理的な困難さがなければアインシュタイン物理学と調和することができない、というほどに厳密なものではなかった。
 相対性理論は弁証法的唯物論を確認するものだと主張することすら、可能だった。このような擁護の主張は著名な理論物理学者のV. A. Fock がとくに行った。この人物は同時に、アインシュタインの理論は限定された有効性をもつ、という見方を支持する科学的な論拠を提示した。
 アインシュタインに-そしてじつに現代科学のほとんどの成果に-反対する運動には、しかしながら、二つの基本的な動機があった。
 第一に、「ブルジョア対社会主義」とは実際には「西側対ソヴィエト」と同じことを意味した。
 スターリニズムという国家教理はソヴィエト排外主義を含むもので、「ブルジョア文化」の重要な成果の全てを、系統的に拒否することを要求した。ブルジョア文化の中でもとりわけ、世界で唯一の国だけが進歩の根源となり一方では資本主義が衰退と崩壊の状態にある1917年以降に生じたものを。
 ソヴィエト排外主義に加えて、第二の動機があった。
 マルクス=レーニン主義の単純な教理は、多くの点で、教育を受けていない人々の一般常識的な日常的観念と符号している。例えば、レーニンが経験批判論に対する攻撃で訴えかけたのは、そのような諸観念だった。
 他方で相対性理論は、疑いなく、ある範囲において一般常識を攻撃するものだ。
 同時発生性、範囲と運動の絶対性および空間の画一性は、我々が当然のこととして受容している日常生活の前提だ。そしてアインシュタインの理論は、地球が太陽の周りを回転しているとのガリレオの逆説的主張と全く同じように、この前提を侵害する。
 かくして、アインシュタインを批判するのは、ソヴィエト排外主義のためだけではなくて、我々の感覚にある平易な証拠とは合致しない理論を拒否するという、ふつうの保守主義のゆえでもあった。//
 (5)「物理学における観念論」に対する闘いは、同様の動機で、量子(quantum)理論にも向けられた。
 コペンハーゲン学派が受容した量子力学の認識論的解釈は、ある範囲のソヴィエト物理学者の支持を得た。
 論議の引き金となったのは、すでに言及した1947年のマルコフ(M. A. Markov)の論文だつた。
 マルコフは二つの基本的な点でBohr とHeisenberrg に従っており、それらはマルクス=レーニン主義哲学者の反発を引き起こした。
 第一に、位置と微粒子(microparticle)の運動量とを同時に測定するのは不可能であるがゆえに、粒子が明確な位置と明確な運動量を<持つ>とか、観察技術に欠陥があるためにのみ両者を同時に測定することができないとか主張するのは、無意味だ。
 こういう考え方は、多数の物理学者の一般的な経験的見方と合致していた。すなわち、客体の唯一の現実的属性は、経験的に感知できるということだ。客体が一定の属性をもつがそれを確認する可能性はないと言うのは、自己矛盾しているか、無意味であるかのいずれかだ。
 したがって、粒子は明確な位置と運動量とを同時には有しておらず、測定する過程ではこれらのいずれかが粒子に帰属する、ということを承認しなければならない。
 同意されなかった第二の点は、微小物体(micro-object)の行動を文字で記述する可能性に関係していた。これは、大物体とは異なる属性をもち、ゆえに大物体を叙述するために進化してきた言語で性格づけることができない、とされた。
 マルコフによると、ミクロ物理現象を叙述する理論は不可避的にマクロ物理学の用語へと翻訳したものだ。したがって、我々が知って意味をもつものとして語ることのできる微小物理的実体は、部分的には測定の過程とそれを叙述するために用いる言語で構成されている。
 したがってまた、物理学理論は観察される宇宙の模写物を用意したものとして語ることはできず、マルコフは明確には述べなかったけれども、現実に関する全概念は、少なくとも微視物理学に関するかぎりは、認識するという活動の観点から逃れようもなく相対化される。-これは、明らかに、レーニンの反射(reflection)理論に反する。
 そのために、マルコフは、観念論者、不可知論者、そしてレーニンが批判したプレハノフの「象形文字」理論の支持者だとして、<哲学雑誌>の新しい編集者によって非難された。//
 (6)相対性理論とは違って、量子力学をマルクス=レーニン主義の意味での唯物論および決定論と調和させるのは困難だ、ということは強調しておかなければならない。
 粒子が一定の感知できない、その地位を明確にする物理的媒介変数をもつと言うことが無意味だとすれば、決定論という教理は根拠薄弱であるように見える。
 一定の物理的属性のまさにその存在が、それを感知するために用いる測定装置の存在を前提にしているのだとすると、物理学が観察する「客観的」世界という概念を意味あるものとして適用することは不可能になる。
 こうした諸問題は、決して想像上のものではない。その諸問題は、マルクス=レーニン主義とは全く無関係に、物理学で議論されてきたし、現に議論されている。
 ソヴィエト同盟では、とりわけD. I. Blokhintsev やV. A. Fock が理性的な議論をした。そして議論は、スターリン以後の時代へと継続してきている。
 1960年代、党のイデオロギストたちが科学理論の「適正さ」を決定すると言わなくなったときに、ほとんどのソヴィエト物理学者たちは決定論的見方を採用していことが明白になった。従前には潜在的な媒介変数の存在を執拗に要求したBlokhintsevも、そうだった。//
 (7)一般的に言って、物理学や他科学の哲学的側面に関するスターリン時代のいわゆる論争は、破壊的で、反科学的だった。それは非現実的な問題を扱ったからではない。学者たちと党イデオロギストたちの間の-よくあったことだが-対立では、国家とその警察機構の支持のある後者が勝利を得ることが保障されていたからだ。
 提示されている理論がマルクス=レーニン主義と合致していない、または合致していない疑いがある、という責任追及は、ときどきは刑法典のもとでの制裁へと転化し得たし、実際にそうなった。
 イデオロギストたちの大多数は、問題になっている争点について無知で、レーニンまたはスターリンの言葉に変化をつけた言明を見つけ出す技巧に長けていた。
 レーニンは物理学やその他の科学全てについての偉大な権威だと信じていない科学者たちは、党、国家およびロシア人民の敵だとして民衆むけプレスで「仮面を剥がされる」ことになった。
 「論議」はしばしば、政治的な魔女狩りへと退化した。
 警察が舞台に登場し、結論的な論難は理性的な議論と何の関係もなかった。
 現代的知的生活のほとんど全ての分野で、このような対応が進行し、党当局は決まって、学者や科学者たちに対する騒々しい無学者たちを後援した。
 「反動的」という語が何がしかの意味をもつとすれば、スターリン時代のマルクス=レーニン主義ほどに反動的な現象を考えつくのは困難だ。この時代は、科学やその他の文明の諸態様にある全ての新しくて創造的なものを、力ずくで抑圧した。//
 (8)化学も、別扱いではなかった。
 1949-1952年には、哲学雑誌や<プラウダ>で、構造化学と共鳴(resonance)理論が攻撃された。
 これは1930年代にPauling とWheland が提起してある範囲のソヴィエト化学者に受容されていたが、今や観念論、マッハ主義、機械主義、反動的等々と非難された。//
 (9)さらに微妙なイデオロギー上の主題は、宇宙論や宇宙発生学の現代的諸理論の哲学的側面に関する論議に関係していた。そこから明らかになるのは、基本的諸問題に対する現存する回答の全ては、マルクス=レーニン主義にとっては好ましくない、ということだった。
 膨張する宇宙に関する多様な理論を受容するのは困難だった。それは不可避的に、「宇宙はいかにして始まったのか?」という問題を惹起し、我々が知る宇宙は有限であって時間上の始まりがあると、いうことを示唆するからだった。
 このことは次いで創造主義(creationism、多数の西側の執筆者が受容した推論)を支持し、マルクス=レーニン主義の観点からはより悪いことは何も想像され得なかった。
 宇宙は膨張し続けるが新しい粒子が発生し続けるので物質の運命は同じであるままだ、という補足的な理論は、かくして、「自然の弁証法」と矛盾した。
 このゆえにそののちは、これら二つの仮説のいずれかを支持して主張する西側の物理学者や天文学者は、自動的にすぐに宗教の擁護者だと記述された。
 宇宙は膨張か収縮かの二者択一的段階を経由するという、脈動する宇宙に関する選択肢理論は、時間の始まりに関する面倒な議論から自由だった。しかしこれは、物質の単一方向的進化というマルクス=レーニン主義の教理と矛盾していた。
 「弁証法の第二法則」が要求するように、脈動する宇宙は「循環的」なもので、「発展」とか「進歩」とかと言うことはできないものだった。
 ディレンマを抜け出すのは困難だった。単一方向の原理は創造という観念を含んでいるように見える。一方では、反対の理論は「無限の発展」という原理と対立していた。
 宇宙論に関する討議に参加した者たちの一方には、天文学者や天文物理学者(V. A. Ambartsumian、O. Y. Schmidt)がおり、彼らは科学的な方法で結論に到達しており、そして弁証法的唯物論と調和していることを示そうと努力した。
 他方には、イデオロギー上の正統派の観点から問題を判断する、哲学者たちがいた。
 宇宙は時間も空間も無限だということ、そしてそれは永遠に「発展する」に違いないということは、マルクス=レーニン主義がそこから離れることのできない、哲学上のドグマだった。
 こうして、党という盾に守られたソヴィエトの哲学者たちは、教養ある人々をあらゆる分野で圧迫し、ソヴィエト科学の基本教条に対して莫大な害悪を与えた。//
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 第6節の表題は「マルクス=レーニン主義の遺伝学」、第7章のそれは「ソヴィエト科学に対する一般的影響」。
 下は、Leszek Kolakowskiが1960年代に離国前までワルシャワで住んだアパートメント。ネット上より。
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1919/L・コワコフスキ著第三巻第四章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版p.130-1. 短い節で、段落の区切りはない。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第4節・経済論議。
 ジダノフが哲学者たちに対処していたのと同じ時期に、経済学もまた、イデオロギー的迫害(purge)を受けた。
 この分野では、第二次大戦が資本主義経済に与えた影響に関して1946年に出版されたVarga の書物が事例となった。
 イェネ・ヴァルガ(Jenő Varga, 1879-1964)はハンガリー出自の著名な経済学者で、短命のベラ・クーン(Béla Kun)共産主義共和国の崩壊以降はソヴィエト同盟で生活し、経済動向を観察して資本主義体制の危機を予測することを目的とする、世界経済研究所の所長だった。
 この書物で彼は、戦争が資本主義経済にもたらした永続的変化を検証しようとした。
 戦争がブルジョア国家に強いたのは、ある程度の経済計画を導入し、国家の機能を格段に肥大化させることだった。とくに、イギリスとアメリカ合衆国で。
 生産に対する販路の問題は決定的ではなくなり、市場を求めての闘いは国際問題の基本的な要因ではもうなくなった。
 しかしながら、資本の輸出が、いっそう重要性をもつようになった。
 予想され得るのは、アメリカ合衆国での過剰生産と西側ヨーロッパの戦時中の破壊が結びついて、資本主義がアメリカ資本をヨーロッパへと大規模に輸出することで救いを見出そうとする、そのような危機を生じさせるだろう、ということだった。
 ヴァルガの理論は1947年に、また再び1948年10月に、論議の対象となった。
 批判者、とくにスターリン時代の主要経済学者のK. V. Ostrovityznovは、ヴァルガを責め立てた。計画は資本主義のもとでも可能だと考えており、経済を政治と分離させており、そして階級闘争を無視している、と。
 ヴァルガは資本主義の一般的危機を看取することができていない。そして、ブルジョア国家に対する資本の力を強調するのではなく、国家は資本による制御のもとにあると想定するという過ちを冒した、とされた。
 加えて、ヴァルガは世界主義者で、西側の科学、改良主義、客観主義に屈服しており、かつレーニンを過少評価している、と追及された。
 こうした批判の拠り所は在来的なものだった。しかし、ヴァルガの書物の要点は、じつに、スターリニスト・イデオロギーと合致していない、ということにあった。
 資本主義は危機的状況を乗り越える方法をますます開発してきているとのヴァルガの結論的主張は、資本主義の矛盾は毎日のごとくますます激しくなってきており、資本主義の全般的危機はいっそう深刻になっている、というレーニンの教えおよび過去30年間の党の基本的考え方とは明らかに真反対のものだった。
 ヴァルガは最初の論議の後では自己批判を行わなかったが、1949年についに屈した。
 彼はその主要な役職を解任され、彼が編集していた雑誌は閉刊となった。
 しかしながら、ヴァルガは、スターリンの死後に名誉回復した。そして、その考え方を1964年に出版した書物で反復しかつ発展させた。その本で彼は、以前に考えられていた図式と矛盾する事実を認識しようとしないスターリンおよびスターリン・イデオロギストたちの教条的な無能力さを批判した。
 ロシアで刊行されなかったが彼の死後に西側に伝わった草稿では、ヴァルガはさらに進んで、こう主張していた。ロシアで社会主義を建設するというレーニンの企図は誤りだと分かった、ソヴィエト体制の官僚化の原因は部分的にはレーニンの誤った前提にある、と。//
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 つぎの第5節の表題は、「物理学と宇宙論でのマルクス=レーニン主義」。

1918/L・コワコフスキ著第三巻第四章第3節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第3節・1947年の哲学論争。
 (1)文学のつぎは、哲学が戒めを受ける番だった。
 党による運動の対象は、1946年に出版された、G. F. Aleksandrov の<西洋哲学史>だった。
 この書物の内容は完全に正統派で、マルクス=レーニン主義からの引用で充ちており、党に真に献身する気持ちで書かれていた。
 これはほとんど歴史的な価値のない、民衆むけの陳列書だったが、叙述する諸教理の「階級的内容」に十分な注意を払っていた。
 しかしながら、党が嗅ぎつけたのは、この書は西洋哲学のみを対象にしており、その叙述が1848年で終わっており、ロシア哲学の比類なき優越性を十分に描写していない、ということだった。
 1947年6月、中央委員会は大がかりな議論を組織し、そこでジダノフは、哲学に関する著者に対する訓令を定式化した。
 彼は演説の一部でAleksandrov の書物に触れ、これは党の精神を叙述していない、と宣告した。この著者は、マルクス主義は哲学の歴史上の「質的な跳躍」をしたもので、哲学が資本主義に対する闘争でのプロレタリアートの武器となる、そういう新しい時代の始まりを画したものであることを指摘していない、と。
 Aleksandrov は腐敗した「客観主義」に堕している。すなわち、多様なブルジョア思想家の思索をたんに中立的な精神で記録したにすぎず、唯一の正しい(true)、進歩的なマルクス=レーニン主義哲学の勝利のために果敢に闘うことを行っていない。
 ロシア哲学を割愛していること自体が、ブルジョア的傾向に屈服している標識だ。
 Aleksandrovの仲間たちがこの明瞭な欠陥を批判してこなかったことは、同志スターリンの個人的な介在のおかげで明らかになった。そしてそのことは、彼ら全員が「哲学戦線」にいるのではなく、彼ら哲学者たちがボルシェヴィキの戦闘的精神を喪失していることの明白な証拠だ。//
 (2)ジダノフがソヴィエト同盟の哲学上の仕事について定めた規範は、三点に要約できるだろう。
 第一に、哲学の歴史は科学的唯物論の誕生と発展の歴史であり、かつ観念論がその発展を阻害している間は観念論との闘争の歴史だ、ということを絶対に忘れてはならない。
 第二に、マルクス主義は、哲学上の革命だ。すなわち、マルクス主義はエリートたちの手から哲学を奪い取り、哲学を一般大衆の財産にした。
 ブルジョア哲学はマルクス主義の成立以降は衰亡と解体の過程にあり、価値のある何物をも生み出すことができないでいる。
 過去百年の哲学の歴史は、マルクス主義の歴史だ。
 ブルジョア哲学と闘うために舵をとる羅針盤となったのは、レーニンの<唯物論と経験批判論>だった。
 Aleksandrov の書物は「歯抜けの菜食主義者」の精神を示している。重要問題は階級闘争ではなく、ある種の普遍的な文化のごとくだ。
 第三に、「ヘーゲルの問題」はマルクス主義によってすでに解決されており、それに立ち戻る必要はない。
 一般論として、哲学者は過去を掘り返すのではなく社会主義社会の諸問題に参加し、現今の諸論点に関係しなければならない。
 新しい社会では、もう階級闘争は存在しない。しかし、新しき者に対する古き者の闘いはまだ残っている。
 この闘いの形態は、ゆえに進歩の主導的力および党が選ぶ道具は、批判と自己批判だ。
 これこそは、進歩的社会の新しい「発展に関する弁証法的法則」だ。//
 (3)「哲学戦線」の主要な構成員は全てこの議論に参加し、党の訓令に不和雷同し、マルクス主義に対する創造的な貢献をしかつソヴィエト哲学にあった誤りを是正したことについて同志スターリンに感謝を捧げた。
 Aleksandrovは儀礼的な自己批判を実施し、自分の著作が重大な過ちを含むことを承認した。それでもしかし、まだ慰めになったのは、彼の仲間たちが同志のジダノフによる批判を支持したことだった。
 Aleksandrov は党に対する揺るぎなき忠誠を誓約し、彼の方向を改めることを約束した。//
 (4)討議の間、ジダノフは、哲学に関する特別の雑誌の発行という考え方に反対し(三年前に<マルクス主義の旗の下に>が出版をやめていた)、党が月刊で出版する<ボルシェヴィキ>がこの分野の基礎を完全に十分に包含する、と論じた。
 しかしながら、最終的には、彼は譲歩して、<哲学の諸問題>の創刊に同意した。その第一号はその後すぐに刊行され、速記記録による討議の内容の報告を掲載した。
 最初の編集者は、V. M. Kedrov だった。この人物は、自然科学の歴史を専門にしており、たいていのソヴィエトの哲学者よりは文化を深く知っていた。
  しかしながら、彼は、この雑誌の第二号に著名な理論物理学者M. A. Markovの 「物理学的認識の自然」と題する論文を掲載するという、重大な過ちを冒した。その論文は、量子物理学の認識論的側面に関するコペンハーゲン学派の考え方を擁護するものだった。
 この論文は公式の週刊誌<Literary Gazettea〔文芸週報〕>でMaksimov によって攻撃され、Kedrov は見当違いだとして職を失った。//
 (5)1947年の議論は、ソヴィエトの哲学者が何をどのように書くべきかに関して疑問とする余地を、何ら残さなかった。
 かくして、ソヴィエト哲学の様式は、多年にわたり固定された。
 ジダノフは、スターリン・ロシアの時代に長く最高の権威を維持しつづけたエンゲルスの定式を反復するだけに抑えたのではなかった。その定式とは、哲学史の「内容」は唯物論と観念論の間の闘争だ、というものだ。
 新しい定式によれば、その真の内容は、マルクス主義の歴史だ。すなわち、マルクス、エンゲルス、レーニン、そしてスターリンの諸著作だ。
 換言すると、過去の理論家を分析したりそれらの階級的起源を解明したりすることは、哲学の歴史家が行うべき仕事ではない。彼らが行わなければならないのは、目的意識をもちかつ完全に、とっくに過去のものになったもの全てに対するマルクス=レーニン主義の優越性を証明し、一方で観念論の反動的な機能の「仮面を剥ぐこと」に、寄与することだ。
 例えば、アリストテレスについて叙述する際には、アリストテレスはあれこれのこと(例えば、個別的弁証法と普遍的弁証法)を「理解することができず」、あるいは恥ずかしくも観念論と唯物論との間で「揺れ動いた」、ということを示さなければならない。
 ジダノフの定式がもった効果は、事実上は哲学者たちの間の違いを排除することだった。
 唯物論者でありかつ観念論者である者が、つまり「揺れ動いた」者または「一貫しない」者がいたのだ。そして、そうしたことがこの定式の目的だった。
 この時代の哲学の出版物を読む者は誰でも、つぎのような印象を確実にもつだろう。すなわち、哲学の全体が「物質が始原的」と「精神が始原的」という二つの対立する主張から成っており、前者の見方が進歩的で、後者は反動的で迷信的だ、とされていること。
 聖アウグスティヌスは観念論者で、B・バウアー(Bruno Bauer)も同様だった。そして、読者の印象に残るのは、これらの哲学者たちは多かれ少なかれみな同じだ、ということだった。
 長く引用しないままでは、この時代のソヴィエト哲学の成果が信じ難いほどに未熟だったと理解するのは、検証していない者にとっては困難だろう。
 全体的に、歴史的研究は壁に打ち当たった。哲学の歴史に関する書物はほとんど出版されず、哲学上の古典の翻訳書についてもそうだった。アリストテレスとLucretius の<De Natura>を除いては。
 受容された唯一の歴史は、マルクス主義の歴史、またはロシア哲学の歴史だった。
 前者は、四人の古典を薄めて叙述したもので成り立っており、後者は、ロシア哲学の「進歩的な貢献」と西側の著作に対する優越性にかかわっていた。
 かくして、Chernyshesky はいかにフォイエルバハよりもはるかに優れているかを示したり、ヘルツェン(Hertsen)の弁証法、Radishchev の進歩的美学、Debrolyubov の唯物論等々を称賛する論文や小冊子があつた。//
 (6)もちろん、イデオロギー的迫害は、論理の研究を省略したわけではなかった。マルクス=レーニン主義でのその位置は、最初から疑わしいものだったが。
 一方で、エンゲルスとプレハノフは、全ての運動と発展に内在する「矛盾」について語った。そして、彼らの定式からすると、矛盾の原理、ゆえに形式論理一般は、普遍的な有効性を主張できないもののように見えた。
 他方で、古典著作者の誰も、論理を明白には非難しなかった。レーニンも、論理は基礎的な次元で教示されるべきものということに好意的だった。
 ほとんどの哲学者が当然のこととしていたのは、「弁証法的論理」は思索のより高い形態であり、形式論理は運動という現象には「適用できない」、ということだった。
 しかしながら、いかにして、またいかなる程度にこの「限定された」論理を受容できるのかは、明白でなかった。
 哲学の著作者たちは、一致して「論理形式主義」を非難した。しかし、誰も、これと、狭い限定の範囲内では許される「形式論理」との間の違いを正確に説明することができなかった。
 1940年代遅く、基礎的論理は中高等学校の高学年や哲学学部で教育された。
 若干の教科書も出版された。一つは法学者のStrogovich のもので、もう一つは哲学者のAsmus のものだった。
 イデオロギー的な整理の仕方は別として、これらは旧態依然の手引書だった。アリストテレスの三段論法以上に進むことはほとんどなく、現代的な記号論理学(symbolic logic)を無視していた。つまり、いずれも19世紀の高等学校で用いられた教科書によく似ていた。
 しかしながら、Asmus のものは、党精神に欠け、かつ政治的意識が希薄で形式主義的でイデオロギーに問題があるとして、激しく攻撃された。こうした批判がなされたのは、高等教育省が1948年のモスクワで組織した討議でだった。
 政治を無視しているという追及がなされた主要な理由は、Asmusが三段論法的推論の例として、戦闘的イデオロギーの内容を欠く「中立的」前提を選択したことにあった。//
 (7)哲学者たちにとって現代論理学は、封印された分野だった。
 しかしながら、完全に無視されたのではなかった。それは、技術的諸問題に集中し、彼らに災厄を招いただけだろう哲学上の議論に巻き込まれないように気を配っていた、数学者たちの小集団のおかげだった。
彼らの尽力によって、記号論理学に関する二つの優れた書物の翻訳書が、1948年に出版された。すなわち、Alfred Tarski の<数学的論理学>と、Hilbert とAckermannの<理論論理学の基礎>だ。
 さもなければ無名だった者が執筆した論文<哲学の諸問題>は、これらの書物を「イデオロギー上の転換>だとして非難した。
 この分野でのある程度の改善は、1950年に哲学に関するスターリンの小論によってなされた。論理の擁護者たちが、言語のごとく論理には階級がない、つまり論理のブルジョア的形態とか社会主義的形態とかはなくて全人類に有効なただ一つの形態がある、とする見解を支持するために呼びかけたときに。
 形式論理の地位とそれの弁証法的論理との関係は、スターリン時代におよびその時代のあとで、しばしば議論された。
 ある者は、論理には形式的と弁証法的の二種があり、それぞれが異なる事情へと適用される、前者は「認識の低い次元」を示すものだ、と主張した。
 別の者は、形式論理だけが言葉の正しい意味での論理だ、論理は弁証法と矛盾はしないものだが、弁証法は科学的方法に関する別の、非形式的な規範を提供する、と考えた。
 全体としては、「形式主義」批判は、ソ連邦での論理研究の一般的水準を落とすのに役立った。それはすでに極めて低いものだったが。//
 (8)ソヴィエトの哲学は、スターリン支配の最後の数年に、どん底に落ちた。
 哲学に関する団体や定期刊行物を継続させたのは、奴隷根性、告げ口、その他類似の党に対する奉仕だけが資格であるような人々だった。
 この時期に出版された弁証法的唯物論や歴史的唯物論に関する教科書は、その知的貧困さにおいて悲惨なものだ。
 その典型的な例は、F. V. Konstantinov が編集した<歴史的唯物論>(1950年)と、M. A. Leonov の<弁証法的唯物論概要>(1948年)だった。
 Leonov の本は、別の哲学者で戦争で死んだF. I. Khaskhachikh の未出版の原稿から大部分を盗作(crib)したものだと暴露されて、流通しなくなった。
「哲学戦線」のすでに言及した以外の構成員たちは、D. Chesnokov、P. Fedoseyev、M. T. Yovchuk、M. D. Kammari、M. E. Omelyanovsky (Msakinovと同じく物理学での観念論に対する見張り役だった)、S. A. Stepanyan、P. Yudin、およびM. M. Rosental だった。
 最後の二人は、権威をもった<コンサイス哲学辞典>を編纂し、この本は数版を重ね、改訂版も出た。//
 (9)スターリン時代を通じてずっと、ソヴィエト同盟には言及すること自体に値する哲学に関する一冊の書物も出現しなかった、当時の知的文化の状態を指し示す者やその名前を記録する価値のある哲学著作者は一人も存在しなかった、と安全に言うことができる。//
 (10)つぎのことを追記しておこう。この時期には、哲学上の諸著作から独自性のある思想や個性的な様式を排除する、制度的な装置が存在した。
 ほとんどの書物は、出版の前に、一つのまたは別の哲学小集団によって討議された。そして、きわめておずおずと教理問答書(catechism)の拘束を超えようとすらして、それらの書物を責め立てて党の警戒心を示すのは、関係者の義務だった。
 このような活動はしばしば、同じ文章でもって履行された。その結果は、全ての書物が事実上は同一になる、ということだった。
 上で言及したLeonov の事例は、注目すべきだ。想像され得るかもしれないが、剽窃した叙述(plagiarism)は感知されることがなく、執筆者の書き方はお互いによく似ていたのだから。//
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 つぎの第4節の表題は「経済論議」。

1917/L・コワコフスキ著第三巻第四章第2節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊(瓦解、The Break Down)の、つぎの三つの章全体と四つめの章の第一節まではこれまでに、「試訳」をこの欄に掲載している。
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の第一段階-スターリニズムの開始。
 第2章・ソヴィエト・マルクス主義の1920年代の理論闘争。
 第3章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 および、
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
  第1節・戦時中という幕間。<№1893、2018/12/16>
 このあとに続く、第2節から再続行する。段落の冒頭に原書にはない数字番号を付す。なお、第5章の標題は「トロツキー」(分冊版でp.183-p.219)。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第2節・新しいイデオロギー攻勢。
 (1)戦争が終わったとき、ソヴェト・ロシアには莫大な人的損失があり、経済は破滅の状態にあった。
 だが、世界でのその地位は、したがってスターリンの個人的威厳は、きわめて高くなった。
 スターリンは、戦争の混乱の中から、偉大な政治家、優れた戦略家、そしてファシズムの破壊者として登場してきた。
 戦争が過ぎ去りヨーロッパでのソヴィエト征服地が確保されたため、独裁者は、戦時中の「リベラリズム」による有害な影響から転換させて、その権力を和らげる意図を政府は持たないとロシア民衆に教え込み、戦争によって世界のプロレタリアートの祖国以外の諸国を知った者たちにできる限り早くその光景を忘れることを強いるために、新しいイデオロギー攻勢を開始した。
 (この政策のとくに劇的な例は、解放されて西側連合により引き渡されたソヴィエトの戦争捕虜たちの全員を、強制収容所(concentration camp)へと追放したことだった。)
 テロルと戦争の「真正さ」は、これらで一緒になってマルクス主義のイデオロギー規準の緩和をもたらした。また、詩、映画その他の作品もそうだが、例えばV. P. Nekrasov やA. A. Bek の傑出した小説の登場でも示される、一定の文化的再生を生じさせた。//
 (2)1946年以降に始まった仮借なきイデオロギー運動は、かつてアレクサンダー二世が法王となるときに用いた「恍惚点!(- de rêveries)」との格言で要約されるかもしれなかった。
 目的はイデオロギーの純粋さを回復することだけではなく、新しい高さへとそれを挙げることだった。同時に、ソヴィエト文化を世界の外部との接触から離れさせることだった。
 全ての形態の知的生活は、これによって影響をうけた。文学、哲学、音楽、歴史学、経済学、自然科学、絵画および建築。
 それぞれの場合に、主題は同一だった。すなわち、西側に頭を下げるのをやめること、思想および芸術にある自立性の痕跡を全て破壊すること、スターリン、党そしてソヴィエト国家の称賛へと全ての形態の文化を集中すること。//
 (3)この政策の1946-48年の主任担当者は、ジダノフ(A. A. Zhdanov)だった。中央委員会書記の一人で、文化的自立性に対する闘争に熟達していた。
 1934年8月の全国作家同盟大会で党を代表して、ソヴィエト文学は世界で最も偉大であるのみならず唯一の創造的で発展する文学だ、一方で全てのブルジョア文化は衰亡と腐敗の状態にある、と述べたのは、この人物だった。
 ブルジョアの小説は、悲観主義に充ちていて、著者たちは資本主義に身を売っており、彼らの主人公はたいていは泥棒、売春婦、スパイ、不良少年だ。
 「ソヴィエト作家の大きな一団は今やソヴィエトの権力と党と一体となり、党の指導を受け、中央委員会の配慮と日常的な協力、および同志スターリンの絶えざる支援を得ている。」
 ソヴィエト文学は楽観的でなければならず、「前を向いて」いなければならず、労働者と集団的農民の根本教条に奉仕しなければならない。//
 (4)ジダノフ(Zhdanov)の戦後最初の重要な行動は、二つのレニングラードの雑誌、<Zvezda(星)>と<レニングラード>を攻撃することだった。
 これらの雑誌を非難する決議が、1946年8月の中央委員会によって採択された。
 主要な犠牲者は、著名な女性詩人のAnna Akhmatova(アフマトワ) とユーモア作家のMikhail Zoshchenko だった。
 ジダノフはレニングラードで演説を行い、この二人を激しく攻撃した。
 Zoshchenko は、ソヴィエト人民を悪意をもって中傷している。彼はレニングラードで自由に生活するよりも動物園の檻の中でいた方がよいと決める猿に関する物語を書いた。これは明らかに、Zoshchenko が人間を猿の水準に落とすのを欲していることを意味している。
 1920年代にすら、党の精神の欠如した非政治的な作品を作り出していた。そして、社会主義建設に関係しようとは何も欲しなかった。彼は「文字通りの不潔なネズミで、原則がなく、自覚もない」。
 Akhmatova について言うと、「カトリーヌの良き古き時代」を色狂って神秘的に懐かしんでいる。<中略>「修道女と堕落した女のいずれかと言うのは困難だ。おそらく、そのどちらでもあるという方がよい。欲望と祈りとが捻れ合っている」。
 レニングラードの雑誌がこうした者たちの作品を掲載したことは、文学が悪い方向にあることを示している。
 多数の作家たちは腐敗したブルジョア文学を真似ており、別の作家は今日的主題から逃れるために歴史を利用している。そして、ある者は、プーシキンを風刺すらした。
 文学の仕事は、青年たちに愛国心と革命的熱情とを喚起させることだ。
 レーニンが断定したように、文学は政治的で、かつ党の精神で染められたものでなければならない。ブルジョア文化の腐敗を暴き、ソヴィエト人民の偉大さを示さなければならない。今日にそうだとしてのみならず、将来にもそのようなものとして。//
 (5)ジダノフの明瞭な指令は、ソヴィエト文学のその後数年間の進路を設定した。
 イデオロギー的に無色の作家たちは、より悪くはならなかったとしても、沈黙を強いられた。
 Fadeyev のような正統派のほとんどは、新しい仕様書に合うように彼らの作品を修正した。
 「前向きの」文学でなければならないということは、実際には、ソヴィエト体制をそのままににではなく、イデオロギーがそうだと要求しているように表現する、ということだった。
 この結果として生じたのは、党を賛美しソヴィエトの生活の美しさを称揚する、奇妙に甘酸っぱい(saccharine)文学作品の洪水だった。
 印刷される言葉は、ほとんど完全に、ご都合主義者と阿諛追従者へと身を落とした。//
 (6)音楽が別のものとされたのではなかった。
 1948年7月、ジダノフは作曲家、指揮者、批評家の会議で演説を行い、ブルジョア音楽の腐敗を攻撃し、より多くの愛国的ソヴィエトがもつ多様性を呼びかけた。
 すぐに反応したのは、ジョージアの作曲家のMuradeli のオペラ<偉大な友情>だった。
 この作品は、最大限の意図としては、革命の直後にはロシアと闘ったがすみやかにソヴィエト体制に順応したコーカサスの民衆-ジョージア人、Lezgian 人およびOssetes 人-を表現していた。 
 ジダノフは、そのようなものでは全くない、と言った。すなわち、民衆たちは最初からソヴィエト権力のために闘ったのであり、ロシア人と協力してきたのだ、と。
 チェチェン人やIngush ではなかった唯一の者たちは-ジダノフはこのことに言及しなかったけれども誰もと同じくよく知っていた-、ナツィ=ソヴィエト戦争の間に<一塊で>追放された。そして、彼らの自治共和国は、地図から抹消された。
この例に満足しないでジダノフは、グリンカ、チャイコフスキーおよびムソルグスキーのごときロシアの偉大な伝統を継承することをしないで西側の新奇なものに霊感を求めている作曲家に対する一般的な攻撃を開始した。
 ソヴィエト音楽は、イデオロギーの他の様式よりも「立ち後れている」。作曲家たちは、「音楽の真実」や「社会主義リアリズム」から離れて「形式主義」に屈服している。
 ブルジョア音楽は反人民的であり、形式主義か自然主義かのいずれかで、どちらにせよ「観念論的」だ。
 ソヴィエト音楽は人民に奉仕しなければならない。すなわち、オペラ、歌、合唱曲には必要なものがあるにもかかわらず、形式主義に汚染された作曲家たちは些細なものだとしてそれを見下している。
 そのような作曲家は標題音楽(programme music)を横目で見ているが、ロシアの古典音楽のたいていは、その種から生まれている。
 党は絵画について、反動的で形式主義的な傾向をすでに克服し、VereshchaginやRepin の健康な伝統を再確立した。だが、音楽はまだ、後進的だ。
 ロシアの古典遺産は卓絶したものだ。そして、作曲家は、音楽劇の作者はもちろん、繊細な「政治的な耳」を持たなければならない。//
 (7)こうした説諭の結果は、遅滞なく表れた。
 ジダノフの演説の前に作曲されていたハチャトリアン(Khachaturian)のピアノ協奏曲をそのバイオリン協奏曲と比較すれば、そのことが分かる。
諸作品の中でも第九交響曲が批判されていたショスタコヴィチ(Shostakovich)は、スターリンの林業計画を称賛する一頌(ode)を作って修正を加えた。そして、多数のその他の音楽家が、彼らのイデオロギー上の障壁を修繕した。この当時に最も好まれた作曲様式は、党、国家そしてスターリンを賛美するオラトリオ(聖譚曲)だつた。//
 (8)文学や音楽に対しての運動は、この時期のスターリンの諸政策の全体的基本方針を反映していた。それは、戦争がかりに生起する場合に備えてのイデオロギー上の威嚇であり、物理的および精神的な再武装だった。
 この基本方針の基礎にあったのは、人間界を二つの陣営に分かつことだった。一つは、腐敗して、衰微している帝国主義の世界で、自己矛盾の重みでもってまもなく崩壊する運命にある。もう一つは「社会主義という平和の陣営」、進歩の城砦だ。
 ブルジョア文化はその定義上反動的で退廃的だ。そして、それに肯定的な価値を見る者は全て、大逆罪を犯しており、階級敵の利益に奉仕している。//
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 つぎの第3節の標題は、「1947年の哲学論争」。

1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり/第3節・テロル。(P)は大文字のPurge=「大粛清」。(p)=purgeは「粛清」または「浄化」とした。
 気づいていなかったが、最後に、一行の空白後に、この第3節ではなく書物全体を想定しているとみられる「むすび書き」がある。「おわりに」と勝手に名づけて、第3節の本文・注よりも後に紹介した。
 今回で、丸数字記号のある⑳回までを予定していた「試訳」が、予定どうり、いちおう終了する。翻訳が生業ではないこと、一つの言葉や文章の意味に一時間以上拘泥して呻吟したところでこの作業は一円・一銭の個人的利益にもならないのだから、不備・不正確さ等々があるのはむしろ当然のことだろう。
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 第3節・テロル(The Terror)。
 (1)「おお読者よ、我々は言おう。黄金時代はとば口まで押し迫っているが、-裏切り者がいるおかげで-収穫と言えるようなものは何もまだ獲得できていない、と想像してほしい、と。
 どんな勢いと力を使えば裏切り者たちを打倒することができるのか、あのような場合に! <中略>
 人間男女にある気質について言うと、つぎの一つの事実を挙げるだけで十分だろう。すなわち、<<猜疑心(SUSPICION)>>がいかほどまで大きくなったか、という事実だ。
 我々はしばしば、どうやら誇張した言葉遣いだったようだが、それを超自然的(preternatural)だと称した。しかし、目撃者の冷静な証言類に、耳を傾けてほしい。
 一人の音楽憂国者も、屋根の上にやさしく哀しげに座って、自分でフランス・ホルンを使って旋律を吹くことはできない。しかし、感謝心があれば、策略委員会が別の新しいものを作る合図だとそれに気づくだろう。<中略>
 奥深くまで見通すことのできるLouvet は、議員たちの請願によって我々が古い乗馬会館へ復帰するに違いない、そして、無政府主義者たちが歩いている途中の我々のうち22人を殺戮するだろうと、察知している。
 これは、Pitt 〔小ピット・イギリスの当時の首相〕とCobourg の策略だ。Pitt の金銀による策略なのだ。<中略>
 後ろで、周りで、前で、巨大で超自然的な操り人形の舞台劇が演じられている。Pitt が黒幕となって操っているのだ。」(27)
 (2)これは、フランス革命についてのカーライル(Carlyle)の文だ。だが、ソヴィエト同盟の1936-37年の気分を想起させるものとして、これよりも優れているのはほとんどない。
 1936年7月29日、党中央委員会は、全ての地方党組織に対して、「トロツキー=ジノヴィエフ派反革命ブロックに対するテロル活動に関して」という秘密文書を送った。これは、以前の反対派諸グループは、「スパイ」、挑発者、妨害者、白衛軍およびソヴェト権力を憎悪するクラクたちを惹き付ける磁場になっており、レニングラード党指導者であるセルゲイ・キーロフの殺害について責任がある、と言明するものだった。
 警戒心-いかほどに偽装がうまくとも、党の敵を見分ける能力-は、全ての共産党員の不可欠の態度だ。(28)
 この文書は、大粛清のうちの最初の見せ物裁判(show trial)への序曲だった。
 その最初の裁判は8月に行われ、二人の反対派指導者であるL・カーメネフ(Lev Kamenev)とG・ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)はキーロフ(Kirov)殺害の共犯者だとされ、死刑を宣告された。//
 (3)1937年初めに行われた第二回めの見せ物裁判では、工業分野での破壊や罷業に力点が置かれた。
 主要な被告人はYurii Pyatakov で、この人物はかつてトロツキー派、1930年代の当初以降は重工業人民委員部でOrdzhonikidze の右腕だった。
 同じ年の6月、元帥のトゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍事指導者たちが、ドイツのスパイだとして訴追され、秘密の軍事法廷のあとで直ちに処刑された。
 1938年3月に行われた最後の見せ物裁判では、ブハーリンと、以前の右派指導者のルィコフおよび以前は秘密警察の長だったGenrikh Yagoda が、被告人の中にいた。
 古いボルシェヴィキである被告人たちは、多彩で異様な犯罪を公的に自白し、法廷では状況の詳細を長く陳述した。
 彼らのほとんど全員が、死刑を宣告された。(29)//
 (4)キーロフや作家Maxim Gorky の殺害のような派手な犯罪とは別に、体制に対する民衆の不満を煽り体制打倒を促進するための経済的妨害となる多数の行為を、陰謀者たちは自白した。
 それらの中には、多数の労働者が死んだ鉱山や工場での事故の企画実行も含まれていた。そうした事故は賃金支払い遅延の原因となり、品物の配分を停止させた結果として、農村地帯の店には砂糖やタバコがなくなり、都市のパン屋は品切れになった。
 陰謀者たちはまた、習癖として欺瞞を行い、反対派とは縁を切ったふりをし、党の基本方針への貢献を宣言してはいたが、私的にはその間ずっと、同意せず、疑念をもち、批判してきた、と告白した。//
 (5)外国の諜報員たち-ドイツ、日本、イギリス、フランス、ポーランド各国の者たち-が、こうした陰謀の背後にいるとされた。彼らの究極的な目的は、ソヴィエト同盟への軍事攻撃を仕掛け、共産主義体制を打倒し、資本主義を復活させることだった、と。
 しかし、多数の陰謀の核心にいたのは、トロツキーだった。トロツキーは、ゲシュタポ(Gestapo)のみならず、(1926年以降!)外国諸勢力とソヴィエト同盟内部の彼の陰謀網との間を媒介した、イギリス諜報機関の一員だったと主張された。
 (6)大粛清は、ロシア革命でのテロルの、初めての出来事ではなかった。
 「階級敵」に対するテロルは、内戦の一部だった。テロルは、集団化や文化革命の一部でもあった。
 実際にMolotov は1937年に、、Shakhty 裁判や文化革命時の「工業党」裁判から現在の裁判まで、一つの線が繋がって続いている、と述べた。
 -但し、ソヴェト権力破壊の陰謀者たちは、今回は「ブルジョア専門家たち」ではなくて、共産党員たちだという重要な違いはあるのだが。すなわち、共産主義者(共産党員)たち、または少なくとも、「仮面を被って」、党や政府での上層の職へと何とかして這い上がってきた者たちだ、という違いが。
 (7)上級階層者の大量の逮捕は、1936年の後半に始まった。とくに工業の分野で。
 しかし、スターリン、モロトフおよびニコライ・エゾフ(Nikolai Ezhov)(秘密警察が1934年に改称したNKVDの新長官)が魔女狩りを本当に開始する合図を発したのは、1937年、中央委員会の2-3月会合でだった。(31)
 1937年と1938年のまる2年の間、共産党官僚の最上層の者たちが官僚機構の全ての分野で-政府、党、工業、軍事、財政およびさらに警察まで-非難され、「人民の敵」だとして逮捕された。
 ある者たちは、射殺された。別の者たちは、強制収容所へと消えた。
 フルシチョフは第20回党大会への秘密報告で、1934年の「勝利の大会」で選出された中央委員会委員および委員候補の139名のうちほとんど41パーセントが大粛清の犠牲者となつた、と明らかにした。
 指導部の継続性は、ほとんど完全に破壊された。粛清(P)が破壊したのは、古いボルシェヴィキ仲間のうちの残存者のほとんどだけではなく、内戦期および集団化の時期に形成された党の仲間たちの大部分だった。
 1939年の第18回党大会で選出された中央委員会委員のうち24名だけが、5年前に選出された元委員だった。(32)//  
(8)高い地位にいる共産党員たちは、大粛清(P)の唯一の犠牲者ではなかった。
 知識人層(古い「ブルジョア」知識人層と1920年代の共産党員知識人層、とくに文化革命の活動家たち、の両者を含む)は、酷い打撃を受けた。
 以前の「階級敵」-全ての革命的テロルのーに通例の、1937年のように特別には何も企図していなかったときですら、容疑者だ-、およびかつて何らかの理由でブラック・リストに掲載されたことのある他の誰もが、同様だった。
 国外に縁戚関係者をもつ者や外国との関係がある者は、とくに危険だった。
 スターリンは、再犯者、馬泥棒、および拘禁記録のある宗教聖職者たちも含めて、数万人の「旧クラクおよび犯罪者たち」を逮捕させる特別の命令すら発したことがあった。
 そして、射殺するか、または強制収容所へと送り込んだ。
 加えて、現時点で強制収容所で刑に服している1万人の常習犯者は、射殺されるものとされた。(33)
 大粛清(P)の全様相は長年にわたって西側での研究の対象だったが、研究者たちが従前は利用できなかったソヴィエト文書庫を探求するにつれて、より明確になり始めた。
 NKVD文書によれば、強制労働収容所での犠牲者数は、1937年1月初めからの二年間で、50万人に昇り、1939年1月1日に130万人に達した。
 あとの年、1939年に、強制収容所の40パーセントは、「反革命」罪の有罪者で、22パーセントは「社会的に有害又は危険な要素」だと分類されており、残りのほとんどは、通常の犯罪者だった。
 しかし、多数の大粛清(P)犠牲者は監獄(刑務所)で処刑されており、強制収容所まで行きついていない。
 NKVDが記録するところでは、そのような処刑は1937-38年に68万件を超えていた。(34)//
(9)何が大粛清の要点だったのか?
 <国益(raison d'état)>(潜在的な戦争中の第五列(Fifth Column)を根とする語)という意味からの説明は、納得し難い。
 全体主義的な必要性という趣旨からする説明は、何が全体主義的必要性なのかという問題に戻るだけだ。
 革命という文脈の中で大粛清という現象を考察するとすれば、問題は少しは当惑しないものになる。
 敵に関する猜疑心は、Thomas Carlyle がこの節の最初に引用した1794年のジャコバン・テロルに関する文章で生々しく描写する、革命の心性の標準的な特質だ。
 -敵とは、外国勢力の金銭を受け、しばしば仮面を被り、革命を破壊して人民に苦痛を負わせる継続的な陰謀に従事している者たちだ。
 正常な環境にいれば、人々は、一人の有罪の人間を解き放つよりも十人の無実の人間が殺される方が良い、という考え方を拒否する。
 革命という異常な情況のもとでは、人々はしばしば上の考えを受け容れる。
 卓越した性格をもつことは、革命の時期での安全を保障しない。むしろ、逆だ。
 大粛清が革命的指導者を偽装した多数の「敵」を曝け出したということは、フランス革命を学んだ者にとっては驚くべきことではないはずだ。//
 (10)大粛清の革命上の起源を跡づけるのは、困難なことではない。
 すでに記したように、レーニンは革命的テロルに対する良心の呵責を何らもっておらず、党の内部であれ外であれ、反対者たちに寛容ではなかった。
 にもかかわらず、レーニンの時代には、党の外部にいる反対者に対処するために許され得る手段と、党内部の異端者に対して用いることのできる手段との間には、明瞭な区別がなされていた。
 古いボルシェヴィキたちは、党内の意見不一致は秘密警察の射程の外部にある、という基本的考え方を支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキは、自分たちの同志に対してテロルを行使するというジャコバンの例に、決して従ってはならなかったからだ。
 この基本的な考えは立派なものだが、しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちがこのことを確認する必要があったという事実は、党内部の政治に関して、何がしかのことを語っている。
 (11)1920年代早く、ボルシェヴィキ党の外部からの組織的な反対が消滅して党内分派が公式に禁止されたとき、党内の反対派集団は事実上は、党外にいた旧来の反対派の位置を継承した。
 そうだとすると、党内反対派たちが同様の措置を被り始めたとしても、何ら驚くべきことではなかった。
 ともかくも、1920年代遅くにスターリンがトロツキー派に対して秘密警察を用い、そして(1922-23年のカデットとメンシェヴィキの指導者に対するレーニンの措置を模範として)トロツキーを国外に追放したとき、共産党内部には大きな抗議の声は何ら起こらなかった。
 文化革命の間、堕落した「ブルジョア専門家たち」と近接して仕事をした共産党員たちには、愚かさ以上の何がしかの悪に対する責任追及がされる危険があるように見えた。
 スターリンは右翼主義者たちを引き戻し、彼らが権威ある地位にとどまるのを許しすらした。
 しかし、これは不本意なものだった。つまり、スターリンが-そして共産党の多数の党員たちが-いったん反対派の者になった党員たちに対して寛容であるのは、明らかに困難なことだった。//
 (12)大粛清の起源を理解するために重要な革命的実務は、1920年代初頭から党が行った党員の定期的な「浄化(cleansing)」(<chistki>、または小文字の "p" の粛清(purges))だった。
 この党員浄化の頻度は1920年代末から増加した。すなわち、1929年、1933-34年、1935年および1936年に行われた。
 党員浄化では、党員の全員が粛清(p)委員会の前に立って、公然と委員たちの批判または告発を経由して秘密裏になされる批判に反駁して、自分の正当化をしなければならなかった。
 粛清〔p=浄化〕が繰り返されたことの結果として、後になって古い攻撃が蒸し返された。そして、これから逃れることは事実上不可能になった。
 望ましくない縁戚関係、革命前の別の政治諸党派との関係、党内反対派への帰属の経歴、過去の醜聞や譴責、そしてかつての官僚機構上の過失や帰属意識の混乱すら。-これら全てが党員たちの首の周りに掛かっていて、年を経るごとに重たくなっていった。
 党は不相応で信頼できない党員たちばかりだとの党指導者たちの猜疑心は、それぞれの連続した浄化〔粛清(p)〕によって沈静化するどころか、激化したように見えた。//
 (13)さらに加えて、各粛清(p)は、体制にとっての潜在的な敵をさらに多くした。
党から放逐することとなる粛清(p)は、社会での地位や上昇の見込みに対する逆風を受ける、という災難を被る蓋然性があったからだ。
 1937年、一人の中央委員会委員が隠れて、現在の党員数よりも多い<かつての>党員たちがたぶんこの国にはいる、と示唆した。これは明らかに、その人物およびその他の者たちはひどく不安に感じている、という考えだった。(35)
 党にはすでに、多数の敵がいたのだ!-その多数の者が隠れているのだ!
 革命の間に特権を失った者、聖職者等々の、かつての敵はいた。
 今では、階級としてのクラクやネップマンの絶滅という近年の政策の犠牲となった<新しい>敵がいた。
 個々のクラクが脱クラク化される前に確信的なソヴィエト権力の敵だったか否かは別として、そのクラクは確かに、その瞬間にはそれになっていた。 
 このことに関して最も悪悪だったのは、多数の収奪されたクラクたちが都市へと逃亡し、新しい生活を始め、彼らの過去を隠し(職を得るためにはこうしなければならなかった)、誠実な労働者のごとく見せかけたことだった。-要するに、革命に対する隠れた敵になったのだ。
 どれだけ多くの明らかに献身的な若いコムソモール団員(Komsomols)が、彼らの父親たちはかつてクラクまたは僧職者だったという事実を隠しているだろうか!
 スターリンが警告したように、個々の階級敵は、敵階級がいったん破壊されてしまったとすれば、<より危険にすら>なるのは、何ら不思議ではない。
 もちろん、破壊の行為は個人的に傷つけるものだったために、彼らはそうなった。
 彼らは、ソヴィエト体制に対する不服をもつ現実的でかつ具体的な基本的教条を与えられていた。//
 (14) 共産党管理機構員がもつ党員を告発する資料書の冊数は、年ごとに増大した。
 地方官僚による「職権濫用」を抑える運動が原因となったのだすれば、これは、通常の市民たちが告発文を書くよう奨励した、スターリン革命の大衆迎合的(populist)的側面の一つだった。
 そして、告発を契機とする調査は、しばしば地方官僚の解任を生じさせた。
 しかし、多数の苦情は、正義のためという誘因と同様程度には、悪意をもって対処する動機を与えることになった。
 一般化していた、特別の攻撃心が惹起したのではない不平不満の感情は、集団農場の経営者や農村地域の官僚の告発の多くを引き起こしたものだった。怒りにみちた集団農場員たちは、1930年代に莫大な数の告発書を書いた。(36)//
 (15)大粛清は、民衆の関与がなくしては実際のようには膨れ上がることはできなかっただろう。
 現実的な不満にもとづく上司たちに対する苦情と同等の役割を、自分本位の告発は果たした。
 スパイ狂が、突如として燃え上がった。過去20年間に頻繁にあったのと同様に。
 例えば、Lena Petrenko という若きピオネールの一人は、ドイツ語が話されるのを聴いて、夏キャンプからの帰路の列車上でスパイを捕まえた。別の注意深い市民は、宗教的托鉢者の顎髭を引っ張って手にそれが落ちたとき、前線から来ていたスパイを発見した。(37)
 役所や党細胞での「自己批判」集会では、恐怖と猜疑心が混じり合って、生け贄が作り出された。病的な(hysterical)追及の仕方であり、弱い者いじめだった。//
 (16)しかしながら、これは民衆によるテロルとは何かが異なっていた。
 フランス革命時のジャコバン・テロルのように、国家によるテロルであり、最もよく目に見える犠牲者は、かつての革命指導者たちだった。
 革命的テロルの先例とは対照的に、自然発生的な民衆によるテロルは、ごく一部だけだつた。
 さらに、テロルの対象は、元来の「階級敵」(貴族、聖職者およびその他の革命へり現実的対抗者)から、革命それ自体の隊列の中での「人民の敵」へと移行した。//
 (17)だが、二つの革命事例でのこのような違いは、類似点と同様に、些細なものだ。
 フランス革命では、革命煽動者ロベスピエール(Robespierre)は、その犠牲者として終末を迎えた。
 これとは対照的に、ロシア革命の大粛清では、主要なテロリストのスターリンは、無傷で生き延びた。
 スターリンは最終的には、忠実な道具だった者たちを殺した(1936年9月から1938年12月までNKVD長官だったエゾフ(Ezohov)は、1938年春に逮捕され、のちに射殺された)。
 しかし、スターリンが事態が制御外へとひどく離れていると感じ、彼自身がかつて危険にさらされていたというMachiavelliの慎重さ以外の何らかの理由によってスターリンはエゾフを排除した、といったことを示すものは存在していない。(38)
 1939年3月の第18回党大会での「大量粛清」との批判や警戒心の「行き過ぎ」の暴露は、静かに行われた。
 スターリンは、自分自身の演説の中で、そうした問題については注意をほとんど払わなかった、と述べた。大粛清(P)はソヴィエト同盟を弱めたという外国の報道についてはそれを論駁するために、わずかな時間を費やしたのだったが。(39)//
 (18)モスクワ見せ物裁判の文書や2-3月中央委員会会合でのスターリンやモロトフの演説原稿を読むと、事態の進行の劇的さのみに衝撃を受けるのではない。衝撃的なのは、それらにある芝居気分、謀りと計略の感覚、同僚者たちが裏切り者だったという報せに対しての、生々しい感情的反応の一切の欠落、だ。
 これは、明確な違いのある、革命的テロルだ。
 映画の原作家でかりにないとしても、その映画の監督の手の存在を、感じる。//
 (19)マルクスは<The 18 Brumaire of Louis Bonaparte(ルィ・ボナパルトのブリュメール十八日)>で、有名な論評を加えた。-偉大な全ての事件は、二度演じられる。一度めは悲劇として、二度めは笑劇(farce)として。
 ロシア革命での大粛清は笑劇ではないけれども、再演されるものの特徴を何がしかもっていた。記憶にある、最初の模範劇で演じられた何かを。
 ロシアのスターリン伝記の作者が示唆するように、ジャコバンのテロルはスターリンにとって一つの模範として役立った、と言うこは可能だ。確かに、スターリンが大粛清に関係するソヴィエトの論議に持ち込んだ「人民の敵」という言葉は、フランス革命での用語に、先立つ例がある。
 その光を当てれば、増大した告発書や民衆の疑心の蔓延というバロック仕立ての設定がなぜ、政治的な敵を殺すという比較的に単純な目的を達成するために必要だったか、を理解することが容易になる。
 実際のところ、さらに進んで、つぎのように記述したくなる。すなわち、古典的な革命の推移によればテルミドールに後続してはならずそれら先立たなければならないテロルを実施するにあたって、スターリンは、自分の支配は「ソヴィエトのテルミドール」になったとするトロツキーによる非難に自分は明確に反駁しているのだ、と感じていたかもしれない、と。(40)
 フランス革命のテロルを小さいものとすら思わせる革命的テロルが現実に行われたあとで、いったい誰が、スターリンはテルミドール的反動家だ、彼は革命に対する裏切り者だ、と言うことができるだろう?//
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 (27)Thomas Carlyle, <フランス革命>(London, 1906), ⅱ, p.362. SUSPITION の全て大文字はFitzpatrickによる。〔=カーライル=高橋五郎訳・佛國革命史/下巻279頁(第三巻第三編第八章)(春秋社松柏館、1942年ーkindle版)を参照した。該当部分に間違いはないと見られるものの、ここで引用される英文とはやや異なることもあり、そのままの書き写しではない。〕
 (28)J. Arch Getty & Oleg V. Naumov<テロルへの途: スターリンとボルシェヴィキの自己破壊, 1932-1939年>(New Heaven, 1999), p.250-p.255.〔=川上洸一・萩原直訳・ソ連極秘資料集/大粛清への道-スターリンとボルシェヴィキの自壊 1932-1939年(大月書店、2001)
 (29)Rovert Conquest<大テロル: 1930年代のスターリンによる粛清>(London, 1968)はこの裁判を生き生きと描写している。新しい版は、同<大テロル: 再評価>(New York, 1990)。
 (30)Molotov, <ボルシェヴィキ>1937, no.8(4月15日)所収、p.21-22.
 (31)会合の資料につき、Getty & Naumov <テロルへの途>p.369-p.411.を見よ。
 (32)<フルシチョフ回想録>, Strobe Talbott訳・編(Boston, 1970), p.572. Grame Gill<スターリン政治体制の起源>(Cambridge, 1990), p.278.
 (33)1937年7月2日の政治局決定「反ソヴィエト要素について」はスターリンによって署名され、7月30日の活動指令は(NKVD長官の)Ezhov により署名されている。Getty & Naumov <テロルへの途>p.470-1.
 (34)これらの数字は、Oleg V. Khlevnyuk<グラクの歴史: 集団化から大テロルへ>(New Heaven, 2004), p.305, p.308, p.310-p.312による。これらの数字は労働強制収容所だけのものであることに注意。この数字は、労働植民区、監獄および行政的追放を含んでいない。
 (35)中央委員会の2-3月会合の議論で、Eikhe。Rossiiskii gosudarstvennyi arkiv sotsial'nopoliticheskoi informatsii(RGASPI), f. p.17, op. 2, d. p.612, l. p.16.
 (36)告発書につき、Fitzpatrick<スターリンの農民>Ch. 9., 同<仮面を剝げ!>Chs. 11-12を見よ。
 (37)<Zvezda>(Dnepropetrovsk)1937年8月1日号, p.3. <Krest'yanskaia pravda>(Leningrad)1937年8月9日号, p.4.
 (38)Ezhov の衰退と没落につき、Marc Jansen & Nikita Petrov<スターリンの忠実な処刑者: 人民委員のNikolai Ezhov, 1895-1940年>(Stanford, 2002), p.139-p.193, p.207-8.を見よ。
 (39)J・スターリン<ソ連共産党(ボ)第18回党大会への中央委員会活動報告書>(Moscow, 1939),p.47-48.
 (40)ヴォルコゴノフ<スターリン>p.260, p.279.
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 (おわりに)
 (1)ロシア革命が遺したものは何だったのか? 
 1991年の末までは、ソヴィエト体制の存続自体がそれを表現するものだっただろう。
 赤旗や「レーニンは生きている!、レーニンは我々とともにいる!」と書いた横断幕は、まさにその終焉時まで、存在していた。
 支配党たる共産党は、革命の遺産だった。同じように、集団化、五カ年・七カ年計画も、消費用品の定例的な不足も、文化的孤立も、グラク〔強制収容所〕も、世界を「社会主義」陣営と「資本主義」陣営に二分することもそうだった。また、ソヴィエト同盟は「人類の進歩的勢力の指導者だ」との主張も。
 体制と社会はもはや革命的ではなかったけれども、革命は、ソヴィエトの民族的(national)伝統の礎石であり続けた。愛国主義への重点設定、学校で生徒たちが学ぶべき、そしてソヴィエトの民衆芸術によって祝福されるべき主題。//
 (2)ロシア革命はまた、複雑な国際的遺産を残した。
 20世紀の偉大な革命だった。そして、社会主義、反帝国主義およびヨーロッパの古き秩序の拒否のシンボルだった。
 良かれ悪しかれ、20世紀の国際的な社会主義および共産主義の運動はロシア革命の影のもとで活動した。戦後の第三世界解放運動がそうだったように。
 冷戦は、ロシア革命の遺産の一部だった。冷戦が持つ象徴的な力の継続に間接的に寄与したことはもちろんとして。
 ある人々には抑圧からの自由という希望を代表したのは、ロシア革命だった。別の人々には無神論的共産主義の世界的勝利という悪夢を呼び起こしたのは、ロシア革命だった。
 国家権力の奪取によって社会主義の定義を明確にし、経済的かつ社会的変革の道具としてのその用い方を確定したのは、ロシア革命だった。//
 (3)革命には二つの生命がある。
 第一に、現在の一部であると考えられ、現今の政治と不可分だ。
 第二に、現在の一部であることを止め、歴史と民族的伝説の中へと移っていく。
 歴史の一部だということは、フランス革命の例が示すように、政治から全面的に排除されることを意味しはしない。フランス革命は、二世紀後のフランスでの政治的論議でなお、一つの試金石のままだ。
 しかし、懸隔はある。そして歴史研究者に関するかぎりは、解釈するに際しての自由と離反が許されるものに、いっそうなってきている。
 1990年代まではすでに、ロシア革命が現在から抜け出して歴史の中に入っていくのが遅いほどだった。しかし、そう望まれた変化は、遅れたままだった。
 西側では、冷戦という遺物に固執する向きがあったにもかかわらず、政治家ではなくても歴史研究者たちは、ロシア革命はすでに歴史だと多かれ少なかれ判断していた。
 しかしながらソヴィエト同盟では、ロシア革命の解釈は政治的に重要なままであり、ゴルバチョフ時代にまで続く現代政治と連結していた。//
 (4)ソヴィエト同盟の崩壊によって、ロシア革命は徐々に歴史の中へと沈殿していった。
 熱烈な国民的拒絶の意識のうちに-トロツキーの言葉を借りると「歴史のごみ箱へ」の-放擲があった。
 1990年代初めの数年間、ロシア人は革命のみならず、ソヴィエト時代全体を忘れたいと願っているように見えた。
 しかし、過去を忘れるのは困難だ。とりわけ、良かれ悪しかれ外部世界からの注意を惹き付けた過去の一部分については。
 プーティン(Putin)のもとで、レーニン以上に「国家建設者スターリン」を必要とする、ソヴェトの遺産の選択的な再生が、ロシアで始まった。疑いなく、より多くのことがやって来るだろう。//
 (5)かりにフランスが-1989年の200周年記念のときにまだフランス革命の遺産について議論をしていた-何がしかの指針となるのであれば、ロシア革命の意味は、最初の100周年記念日やその後に依然としてロシアで熱く議論されるだろう
 こうしたことは拒絶されている。ロシア革命のみならずソヴィエト時代全体を忘れたいという望みが高くまで達しており、ロシア人の歴史意識の中には不思議な空虚さが残っている。
すぐに、一世紀半前の、ロシアの無名さに関するPeter Chaadayev の嘆きと同様に、ロシアの宿命的な劣等性、後進性および文明からの除外への悲嘆が湧き上がった。
 ロシア人、以前のソヴィエト人にとって、革命の神話の価値が貶められることで喪失したものは、社会主義への信条ではなく、世界でのロシアの重要性についての自信だったように思える。
 革命はロシアに一つの意味を、歴史的運命を与えた。
 革命を通じてずっと、ロシアは先駆者であり、国際的指導者であり、「全世界の進歩的勢力」の模範であり鼓舞者だった。
 今や、夜が明けたかのごとく、全ては過ぎ去っていた。
 党は、もう存在しない。
 74年後に、ロシアは「歴史の前衛」から滑落して、怠惰な後進性をもつ古い姿態のごとく感じられる何物かへと変化した。
 ロシアとロシア革命にとって痛恨のときに、「進歩的な人類の未来」は本当に過去のものだということが判明した。//
 (6)ソヴィエト後のロシアは、2017年が近づいているとき、そのトラウマにまだ藻掻き苦しんでいる。
 プーティン大統領は2014年に、評価は「深く客観的で<職業的>(斜字強調は著者〔Fitzpatrick〕)根拠でもって」なされなければならない、と述べた。明らかに、ロシア革命を現代政治の場に持ち込むことを欲していなかった。
 彼はまた、1917年の事件を「革命」からたんなる「転覆(overthrow)」(<perevorot>)にすぎないものへと分類することを示唆した。
 2017年3月、報道官は、外国の通信記者たちに対して、ロシア革命はロシアでは分裂した見解のある問題なので、100周年を祝賀する公的行事は何も計画されておらず、ロシア革命の解釈に関する公的な指針は何も発せられないだろう、と語った。(41)//
 (7)フランス革命の100周年記念に、フランス人はエッフェル塔を建設し、カルノー大統領〔Marie François Sadi Carnot〕は革命が専政体制を打倒して(彼は注意深く、選出された代議員たちを通じての、と付け加えた)人民主権の原理を確立したことを称賛した
 ロシアでは、2017年の記念物としてのエッフェル塔の類は何も計画されなかった。
 そして、国じゅうが、資本主義と自由市場を習得しようと苦しんでおり、革命がもった、社会主義の中心的な諸原理-とりわけ国家計画と工業化に重点をおくソヴィエト型の社会主義-は、完全に無意味だと考えられてきている。
 しかし、時代は変化する。そしてしばしば、その変化には周期的な要素が加わる。
 22世紀に200周年が近づいているときに、ロシア革命とその社会主義という目標はロシアと世界にどのように見えるのだろうかは、誰にも分からない。
 「全てを忘れるようにしよう」はフランス革命が1989年の基準年を通過するときになされた提案の一つだった。これは、フランスの政治がすでに十分に長く旧来の議論を繰り返してきたという考え(または希望)を反映するものだった。
 しかし、忘れることは容易でもなければ、国民的(national)展望からすると、そう思われるほどには望ましいものでもない。
 好むと好まざると、ロシア革命は20世紀の大きな経験だった。それはロシアにとってだけではなかった。
 そのようなものとして、ロシア革命は歴史書の中にとどまり続けるだろう。//
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 (41)Neil McFarquhar の報告記事「革命?、いかなる革命?、ロシア人は100年後に尋ねる」は、<ニューヨーク・タイムズ>2017年3月10号に出た。
 100周年に関するロシアの当惑についてさらに、Sheila Fitzpatrick 「ロシア革命を祝賀する(または祝賀しない)こと」<現代史雑誌>2017年に近刊、を見よ。
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 以上、シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)、本文p.1-p.174 および注p.175-p.186 の試訳終了。
 **下は、Sheila Fitzpatrick(フィツパトリク、又はフィッツパトリック)。
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1915/日本会議1月17日見解への疑問-新元号の決定・公表・公布・施行。

 日本会議機関誌『日本の息吹』本年2月号末尾(裏表紙の反対頁)に、同会見解「『新元号の制定に関する政府の方針』への見解」が掲載されている。
 まず、これは安倍首相による年頭記者会見のうちの新元号に関する部分につき、「遺憾の意を表明せざるを得ない」として、それ以外の部分の表現は穏便さを装いつつも、実質的には厳しく批判するものだ。
 にもかかわらず、上掲誌の同号に目立って特集が組まれ(建国記念日と「御即位三十年奉祝感謝のの集い」)、いくつかの者の文章があるにもかかわらず、上の論点に関するものは一つもない。会長・田久保忠衛に対するインタビュー記事も同様。
 「日本会議」とだけ名うつ「見解」であるからにはしかるべき機関決定手続を履践しているのだろうが、それにしては、最末の一頁とそれ以外の印象が違いすぎる。
 以上は、まだ表面的・形式的な印象であり、問題点だ。
 日本会議「見解」(以下、<見解>)の問題は、その内容・実質にある。
 かねて感じてきたことだが、日本会議の事務総局やら役員または幹事の中には、冷静かつ論理的に緻密に皇室・天皇に関する「法」的議論をすることのできる、同じことだが「法」的見解を作ることのできる人員が全くいないのだろう。
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 一 論点の前提の一つの整理。
 元号が「改め」られるとして、新元号については、時系列的に、つぎの4つの時点が経過していく。
 ①内閣による決定
 ②公表。これは③ではない、事実上、メディア等の報道等によって新元号が明からになること、又はメディア等が一般に明らかにすることをいう。本来は③も②の一部だろうが、分けておく必要があるだろう。
 ③公布。憲法上の国事行為としての正規の「公布」。今上陛下が在位中であれば現天皇が、皇位継承がすでになされていれば新天皇が行うこととなる。
 ④施行。公布されたとおりに新元号が法的にも正規に使用され始めるには、この「施行」が必要だ。<発効>と称する場合もある。
 日本の「国」等の年表示には日本の「元号」を用いることとされていめる場合が「法的にも」多いので、いつの時点から「発効」し、国・地方自治体等の使用義務が発生するかは重要な問題だ。

二 日本会議<見解>は上のどの点に関して、どのようなものか。
 1.新元号決定権限が「内閣」にあることは、<見解>も否定していないようにも解される。
 しかし、<見解>の基本前提は、引用すると、「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」というものだ。のちの文をも読んで善解したとしても、<「決定」は内閣がしてもよいが、その決定は新天皇ご即位後に行うべきだ>、という主張をこの日本会議は最低でも、又は少なくともしているものと理解することができる。
 2.そうなると、安倍内閣方針ではおそらく、上の④のみが新天皇の即位と同一時点になるのに対して、<見解>は、①~④のすべてが新天皇即位後になされるべきと主張していることになるだろう。
 これは政府方針との間の重大な対立であって、今頃に公にするのは遅すぎるという感が生じる。しかし、遅い、早いは、ここで書きたい当面の問題ではない。
 3.政府方針の背景に「国民生活に支障が生じることがないように」との配慮があるとされている。これに対して、<見解>は、「本来の在り方」と「国民生活への支障」発生の抑止の二つはつねに矛盾するのではないとして、つぎを提案していると解される。
 この部分をいちおう全文引用すると、以下。
 「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た。
 4.上に最初に用いた①~④を用いて理解すると、<見解>はおそらく少なくとも①~③は今年5月1日になされるもの(なされるべきもの)と主張しているのだろう。
 しかし、④の「時期を遅らせる方法もあり得た」とはいったい、いかなる意味で、いかほどの「遅らせた」時期を想定しているのかは、さっぱり分からない。
 <見解>によると、それは「国民生活への支障を回避」するために必要な期間であり、6月初頭、8月初頭、あるいは10月初頭であってよいのかもしれない。

 三 日本会議<見解>の奇妙さ・異様さ。
 かりに上の4で記したような<見解>理解が誤ってはいないとすると、日本会議はじつに不思議で矛盾した、したがって奇妙奇天烈な「見解」を出していることになろう。
 つまり、新天皇即位後の①~③よりも④新元号の「施行」が<遅れてよい>のだとすると、新天皇就位後、その新元号の施行時までは正規には「平成」がなお数カ月ほどは続くことになる。
 この「遅らせ」を日本会議は許容することで上記の二つの趣旨は矛盾しないようになる、と主張している、と解される。だが、それではそもそも、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならないではないか。
 ひょっとすると<見解>は5月1日の早い時期に①~③を全て実施したあと、5月1日-2日の深夜にでも「遅れて」施行する(発効させる)とでも想定しているのだろうか。
 そもそも<見解>が理解する「国民生活への支障を回避」とは何なのだろうか。1日程度「遅らせば」回避できるようなものなのか。それだと、①~④の全てを新天皇就位後に行うこととおそらく何ら、少なくともほとんど(98パーセントは)変わらないだろう。
 くり返すが、では<もっと遅らせてもよい>となると、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならない。新天皇は「平成」時代と新元号の二つにまたがって在位することになるだろう。こんなことを日本会議は本当に考えているのか。

 四 そもそも日本会議とは何か。 
 天皇に元号決定権があると正面から主張しているわけでもないことが、すでに胡散臭い。
 「本来のあり方」と現行元号法が矛盾しているならば、そのこと自体を今回のような「譲位」が予想され得た時点(つまり皇室典範付則改正・特別法制定のとき)以降に明確にかつ激しく主張しておくべきだった。
 「日本」、天皇・皇室制度の「本来のあり方」等々とこの人たちが語るわりには、本当に真剣には法的・制度的問題を考えていないし、運動もしてきていないのが、この日本会議だと私は感じてきている。ほぼスローガンだけ、精神論だけ。
 あるいは、決定・公布・施行の各語がもつ意味を、正確には理解していないままなのかもしれない。これも、信じ難いことだが。
 もっともそうした力不足があって、「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」と書いていることからすると、いわば<今回はまぁよいが、今後は反省してね>という類の言葉の上での「存在証明」(逆アリバイ作り)で、上で紹介したような日本会議「見解」もまともに「現実」になることはないと、とっくに諦めているのだろう。
 しかし、「現実化」する可能性がほぼ全くない「提案」または叙述であっても、何がしかの論旨と論理の一貫性をもって行われるべきだろう。
 この日本会議には(その役員たちにも)、その能力はないようだ。

1914/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑲。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり。
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 第2節・裏切られた革命(' Revolution betrayed ')。
 (1)<自由・平等・友愛>を掲げるのは、ほとんど全ての革命がすることだ。しかし、勝利した革命家たちがほとんど不可避的に汚すこととなる主張だ。
 ボルシェヴィキたちは、マルクスを読んでいたので、予めこのことを知っていた。
 彼らは、十月の高揚時ですら、ユートピア夢想家ではなく、実際的で科学的な革命家たろうと最善を尽くした。
 彼らは、階級戦争やプロレタリアート独裁に関連して<自由・平等・友愛>の約束を限定しようとした。
 しかし、古典的な革命のスローガンを拒絶するのは、熱狂なくして革命の成功はあり得ないだろうと同様に、困難だった。
 感情的には、古いボルシェヴィキ指導者たちはいくぶんは平等主義的で自由主義的であらざるを得なかった。
 そして、彼らのマルクス主義理論にもかかわらず、いくぶんは夢想家的だった。
 1917年と内戦の新しいボルシェヴィキ生成時には、知的な抑制のない、同様の感情的反応があった。
 ボルシェヴィキたちは、厳密に平等、自由主義および夢想家的な革命を始めたのではなかった。しかし、革命はボルシェヴィキを少なくとも間欠的には、平等主義的、自由主義的かつ夢想家的にした。//
 (2)十月後のボルシェヴィズムにあった極端に革命的な緊張は、第一次五カ年計画や文化革命の間にも支配的だった。それは行き過ぎたほどで、多少とも実験的な社会的および文化的政策への変化が後に続いた。
 これは、「偉大な退却」と呼称された。この言葉は1930年代のいくつかの重要な「革命的」特質を曖昧にしてしまう。つまり、農業はすでに集団化され、都市での私的取引は非合法となり、新しいテロルの波が文化革命からわずか5年後に発生しようとしていた。
 しかしながら、この言葉は、1930年代半ばに生じた移行期の何がしかを表現している。
 もちろん、多くは見方次第だ。
 外に出てMagnitogorsk やKomsomolsk-na-Amure で社会主義を建設する意気のあった若い熱狂者たちは、変化に大きな意味を認めず、また革命的「退却」の時代を生きているとも考えていなかったように見える。(14)
 他方では、古いボルシェヴィキたちは、とくにかつてのボルシェヴィキ知識人たちは、変化のうちの多くは神経に障るものだと感じていた。とくに、階層制の強調の増大、エリートの特権の承認、体制が初期にしたプロレタリアートとの一体視からの離反、について。
 このような人々は革命に対する裏切りが生じているとのトロツキーの批判に同意しなかったかもしれない。しかし、トロツキーが意味させたことを知っていただろう。//
 (3)「偉大な退却」が最も驚くほどに可視的だったのは、行儀作法(manners)の分野だった。トロツキーのような批判者はブルジョア化と称し、一方で支持者たちは「文化的」になったと叙述するような変化だ。
 1920年代、プロレタリアートの行儀作法はボルシェヴィキ知識人によってすら、洗練されたものになった。スターリンが自分のことを「粗暴な」人間だと党の聴衆に語ったとき、自虐というよりは自己宣伝の響きがあった。
 しかし、1930年代、スターリンは、ソヴィエトの共産党員や外国の質問者に対して、レーニンのような文化的な人間だと自分のことを提示し始めた。
 党の指導部の彼の同僚たちの中では、新しく昇進してきたフルシチョフ(Khrushchev )派は、数の上ではブハーリン派を上回り始めた。彼らは、プロレタリアートの出自に自信をもちつつ、農民のような挙措振る舞いをするのを怖れていた。
 一方でブハーリン派は、文化性について自信をもちつつ、ブルジョア知識人のように挙措振る舞いするのを怖れていた。
 官僚制の下位の層では、共産党員たちは上品な振る舞いの仕方を学び、軍靴や布帽子を捨てようとしていた。上昇志向のないプロレタリアートの一員だと間違われることを望んで、ではなかった。//
 (4)経済の分野では、第二次五カ年計画は冷静な計画への移行を画するもので、労働のための合い言葉は、生産性の向上と技術の獲得だった。
 物質的に誘導をする基本的考え方はしっかりと確立されていた。すなわち、技術に応じた労働者の賃金区別の増大、ノルマ以上の生産に対する報償。
 専門家たちの給料は上がり、1932年に設計者や技術者の平均給料は、ソヴィエト時代の前後を通じていつの時期でも、労働者の平均よりも高かった。
 Stakhanovite 運動(ドンバスの記録破りの炭鉱採掘者〔スタハノフ〕に由来する名前)は、集団的に出費するものだったが、個々の労働者に栄誉を与えた。
 Stakhanovite はノルマ破りで、その成果について惜しげなく報償され、メディアによって賛美された。しかし、現実の世界では、ほとんど不可避的に、仲間の労働者たちの怒りを招き、避けられた。
 彼らは、新しく考案する者および生産の合理化を図る者でもあった。また、専門家の保守的な知識に挑戦する意気があり、ノルマを上げろとの上からの恒常的な圧力に抵抗するために、工場管理者、技術者および労働組合の間の不文の取り決めを暴露した。(15)
(5)教育では、1920年代の穏健で進歩的な傾向とともに、文化革命の広く実験的な展開も、1930年代に突然に転換した。
 宿題、教科書および正式の教室での教育と躾けが、復活した。
 1930年代の遅く、学校の制服が再び出現し、ソヴィエトの高校生は帝制時代の高校(gymnasia)にいた先輩たちにとてもよく似て見えた。
 大学や技術学校では、入学資格は再び政治的かつ社会的な規準ではなくて学業成績にもとづくようになった。
 教授たちは、権威を回復した。そして、試験、単位、学位が復活した。(16)
 (6)現在の生活には意味がない、かつて愛国主義の喚起と支配階級のイデオロギーのために利用されていたという理由で革命後になくなっていた科目の歴史は、学校や大学の教育課程表の中に再び現れた。
 古いマルクス主義歴史研究者のMikhail Pokrovsky が関係していたマルクス主義の歴史は、1920年代には支配的だった。しかし、名前、日付、英雄または感情を掻き立てるものがない、階級闘争の抽象的な記録文書に歴史を貶めているとの理由で、その名声が失われた。
 スターリンは、新しい歴史教科書の作成を命じた。その多くは、Pokrovsky のかつての敵、つまりマルクス主義に口先だけの奉仕をする伝統的な「ブルジョア」歴史研究者が執筆したものだった。
 英雄たち-イワン雷帝やペーター大帝のような過去の帝政時代のロシアの指導者たち-が、歴史に戻ってきた。(17) //
 (7)性の解放については留保があったけれども、ボルシェヴィキは革命後すぐに堕胎と離婚を合法化し、女性の労働する権利を強く支持した。
 これらは一般に、家族や伝統的な道徳価値の敵だと見なされていた。
 母性と家族生活の美徳は、1930年代に復活した。これは反動的な動き、または世論への譲歩あるい同時にいずれも、だと理解されるかもしれない。
 金の結婚指輪が店頭に再び並び、自由な結婚は法的地位を失い、離婚をするのは困難になった。そして、家族に関する責任を少ししか取らない人間は、厳しく批判された(「ひどい夫や父親は、善良な市民になることはできない」)。
 堕胎は、公共的な討論の後で非合法化された。この討論は、親堕胎と反堕胎の両観点からのいずれの支持もあることを示した。(18)
 男性の同性愛は、一般的な注目を受けることなく、犯罪化された。
 初期の頃の開放的な雰囲気に慣れていた共産党員たちにとって、これらは全て小ブルジョアジーの恐るべき俗物根性にきわめて近いものだった。とくに、母性や家族がいま議論された雰囲気にはお涙頂戴的で偽善的なものがあったために。//
 (8)1929年と1935年の間に、ほとんど400万人の女性が、初めて賃金獲得者になった。(19)これが意味するのは、女性解放という元来の基本的な政綱が、無理矢理に実現された、ということだった。
 同時に、家族の価値をあらためて強調することは、かつての解放のメッセージとは矛盾しているように見えた。
 1920年代には想像すらできなかった運動により、ソヴィエトのエリート構成員たちの妻は、自発的にコミュニティ活動をするように示唆された。それは、ロシアの社会主義者たちおよびリベラルなフェミニストですらつねに軽蔑してきた、上流階級の慈善事業ときわめてよく似ていた。
 1936年、上級の産業管理者および技術者の妻たちは、クレムリンで自分たちの全国大会を開いた。そこにはスターリンおよび他の政治局員が出席して、夫たちの工場群で自発的な文化的かつ社会的な組織者として行ってきた彼女たちの栄誉を称えた。(20)//
 これらの妻たちおよびそれぞれの夫たちは、事実上のエリートたちだった。民衆の残余者に対する彼らの特権的な地位は、ソヴィエトの労働者たちの中に不満を、ある程度は党内部に当惑を、増加させるものだった。
 1930年代に、特権と高い生活水準はエリートたる地位には通常の、ほとんど義務的な付随物になった。このような状態は、1920年代とは対照的だった。その頃には、理論上は少なくとも熟練労働者の平均賃金よりも党員の給料は高くならないようにしていた「党の最大限度」によって、共産党員の収入は制限されていた。
 エリート-共産党員官僚たちとともに(党員または非党員の)専門家を含む-は、高い給料だけではなく役務や商品を利用できる特権をもったり多様な物質的かつ名誉上の報償を得ることで、一般民衆とは離れた別のところにいた。
 エリート構成員は、一般民衆には開かれていない店を使い、他の消費者は利用できない商品を買い、休日には特別の保養地や設備のよい別荘で休日を過ごす、そういうことができた。
 彼らは、しばしば特別のマンション地区に住み、お抱え運転手の車で仕事に出かけた。 このような状況の多くは、第一次五カ年計画の間に物不足が切迫したことの反応として発展した閉鎖的な配分制度から生じてきたものだったのだが、風土の永続的な特徴になったままだった。(22)
 (9)党指導者たちは、エリートの諸特権の問題にまだいくぶんは神経質だった。
 明瞭な見栄や貪欲さに対しては、叱責があり得た。あるいは、大粛清の間には生命を賭すものですらあった。
 ともかくも、一定の地点までは、エリートたちの諸特権は秘匿された。
 多数の古いボルシェヴィキたちは、禁欲的生活を好み、奢侈に屈服した者を批判した。 <裏切られた革命>でのこの問題についてのトロツキーの厳しい批判は、正統派スターリニストであるMolotov が私的に行ったものと大きくは異なるものではなかった。(23)
 そして、明瞭な消費や取得願望は権限濫用であり、不名誉な共産党員エリートたちは大粛清の時期にいつもの様に批判された。
 言う必要はないことだが、特権的な官僚階級、「新しい階級」(ユーゴスラヴィアのマルクス主義者のMilovan Djilas が一般化した言葉を使うと)または「新しいサービス上層者」(Robert Tucker の言葉)の出現に関しては、マルクス主義にとっては概念上の問題があった。
 この問題に関するスターリンの対処方法は、新しい特権階級を「知識人界」と称することで、こうして、社会経済的優先性から文化的優先性へと焦点を転換させることだったた。
 スターリンによる説明では、この知識人界(新しいエリート)は、政治に関する共産党のそれに対応する、前衛たる役割を与えられる。
 知識人界(新しいエリート)は文化的前衛として、当面は民衆のその他の者たちが利用できる以上に、広い範囲の文化的価値を不可避的に利用できる。(25)//
 (10)文化生活は、体制側の新しい方向づけに大きく影響される。
 第一に、文化的関心と文化的振る舞い方(<kul'turnost>)は、共産主義者が示すことが期待されているエリートたる地位の見える印の一つだった。
 第二に、非共産党員専門家-つまり、かつての「ブルジョア知識人」-は新しいエリートの一部であり、社会的には共産党員官僚たちと混合され、同じ諸特権を分け合っていた。
 このことは、党にある、文化革命を可能にした古い反専門家的偏見にもとづく拒絶を生じさせた。
 (スターリンは1931年の「六条件」演説で、ブルジョア知識人層よにる「破壊」の問題について方針を転換し、大胆にも、古い技術的知識人層はソヴィエト経済を妨害する試みを放棄したと語り、制裁は重すぎる、工業化の成功はすでに確保された、と分かっていると述べた。)(26)
 古い知識人層への好意が戻るとともに、文化革命時の活動家だった共産党員知識人の多くは、党指導部からは好まれなくなった。
 文化革命の基本的な想定の一つは、革命的時代はプーシキン(Pushkin)や<白鳥の湖>とは異なる文化を必要とする、ということだった。
 しかし、スターリン時代には、古いブルジョア知識人層は文化的遺産を忠実に守ろうとし、新しい中間階層の聴衆は理解できる接近可能な文化を探し求めていたが、プーシキンと<白鳥の湖>は勝利者だと分かった。//
 (11)しかしながら、正常さが本当に戻ってきたと語るのは、まだ早かった。
 外部的な緊張があり、それは1930年代にずっと着実に増えていた。
 1934年の「勝利の大会」では、討論の話題の一つは、ヒトラーが近年にドイツの権力へと到達しようとしていることだった。-従前に生じはじめたばかりの、西側資本主義諸国による軍事干渉の怖れに、具体的な意味を与える事態。
 多くの種類の国内的緊張があった。
 家族の価値について語ることは全てがうまくいった。しかし、都市と駅舎はもう一度、内戦期のように、遺棄されたまたは孤児の子どもたちで溢れた。
 ブルジョア化は、都市居住者のごく一部の少数者のみが利用することができた。
 残りの者たちは、「共同アパート」へと詰め込まれた。かつては一家族の住まいだった邸宅で、数家族がそれぞれ一つの部屋を占用し、台所と浴室を共用した。また、全ての基礎的商品の配給制度は、今なお機能していた。
 スターリンは、集団農場の者たちに、「同志たちよ、生活は良くなってきている」と語ったかもしれなかった。しかし、当時に-1935年に-、わずか二回の収穫期だけが、1932-33年の飢饉とは別に存在した。//
 (12)革命後の「正常さ」の中身が未決定なままであることは、1934-35年の冬に例証された。
 パンの配給は1935年1月1日から行われることになっていた。そして、体制側は、「生活は良くなっている」をテーマとする電撃的な情報宣伝活動をすることを計画した。
 新聞紙は、近いうちに(疑いなく、数店の高価な商業店舗でのみ)利用できる商品の豊富さについて祝賀し、モスクワっ子が新年を迎える仮装舞踏会の陽気さと優雅さを叙述した
 2月、集団農場の大会が、新しい集団農場憲章を祝福するために開かれた。この憲章は、私的区画地を保障し、農民たちに対するその他の譲歩を行っていた。
 これら全ては、滞りなく1935年の最初の数カ月には行われた。-しかし、緊張と予感の雰囲気があり、また12月の、レニングラード党組織の長、Sergei Kirov の暗殺によって暗鬱な空気が広がった。
 党と党指導部は、この事件によって痙攣状態に投げ込まれた。
 大量の逮捕が、レニングラードで続いた。
 革命後の「正常さへの回帰」の予兆や象徴はあったにもかかわらず、正常さは、まだはるか遠くにあった。//
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 (14) 1930年代に若者だった人々の日記や回想録は、「偉大な退却」という認識をほとんど示していない。例えば、Jochen Hellbeck, <記憶の中の革命>(Cambridge, MA, 2006)を見よ。
 (15) Lewis H. Siegelbaum, <Stakhanovismとソ連邦での生産性に関する政策, 1935-1941>(Cambridge, 1988).
 (16) Fitzpatrick,<教育と社会的流動性>p.212-p.233.; Timasheff, <偉大な退却>p.211-225.
 (17) David Brandenberger, <民族的ボルシェヴィズム: スターリニズム大衆文化と現代ロシアの国民的Identity の形成, 1931-1936>(Cambridge, MA, 2002), p.43-62.を見よ。
 (18) 堕胎論争につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>(New York, 1999), p.152-6.を見よ。
 (19) Wendy Z. Goldman, <門にいる女性たち: スターリン下のロシアの性と工業>(Cambridge, MA, 2002), Ⅰ。
 (20) 妻たちの運動につき、Fizpatrick,<スターリニズム下の毎日>P.156-163.を見よ。
 夫による抑圧に対する抵抗を含む、かつての解放メッセージは、「遅れた」女性たち(農民、少数民族)との関係で依然として称揚されていること、女性の仕事は重要な価値をもったままで、一定のエリート女性たちですら代わりに自発的(volunteerの)役割の方を選択しうることに注意。
 (21) Sarah Davies, <スターリン下のロシアでの世論>(Cambridge, 1997), p.138-144.を見よ。
 (22) エリートの諸特権につき、Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>p.99-109.を見よ。
 (23) トロツキー<裏切られた革命>p.102-5.; <モロトフは記憶する>p.272-3.
 (24) Milovan Djilas, <新しい階級: 共産主義体制の一分析>(London, 1966); Robert C. Tucker, <権力にあるスターリン>(New York, 1990).
 (25) この点に関する一つの考察として、Sheila Fitzpatrick「文化的になること-社会主義的リアリズムと特権や趣味の表現」同<文化戦線>所収p.216-237.を見よ。
 (26) 「新しい諸条件-経済建設の新しい任務」(1931年6月23日)スターリン全集第13巻p.53-82.所収、を見よ。〔=日本語版スターリン全集第13巻「新しい情勢-経済建設の新しい任務」72-99頁。〕
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 第3節(最終節)の表題は、「テロル」。

1913/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑱。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
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 第6章・革命の終わり(Ending the Revolution)。
 (はじめに)

 (1)Crane Brinton によれば、革命とは高熱(fever)のようなものだ。患者に取りつき、頂点にまで達し、最終的には平癒し、患者は正常な生活を取り戻す。
 -「おそらくは、経験によって強くなり、少なくともしばらくの間は似たような病気から免れる、といった側面で言えば。しかし確実に、完全に新しい人間に作り替えられるのではない」。(1)
 Brinton の比喩を用いれば、ロシア革命は、いくつかの高熱の発作期を経過した。
 1917年革命と内戦が、最初の発作だった。
 第一次五カ年計画による「スターリンの革命」は、二度めだった。
 そして、大粛清(the Great Purge)が、第三番めだ。
 このような図式では、ネップという幕間は再発の前の快方期だ。あるいは、ある人々は、ネップ期は不幸な患者に新しい病原菌(virus)を注射した、と主張するかもしれない。
 快方期の第二の時代は〔ネップ期を第一のそれとすると〕、1930年代半ばに始まった。トロツキーが「ソヴィエトのテルミドール」とレッテル貼りし、Timasheff が「偉大な退却」と称した、安定化政策による時代だ。
 1937-38年の新たな再発期の後で、高熱は治癒されたように見え、患者は正常な生活を取り戻そうとよろよろと寝台から起き上がった。//
 (2)しかし、その患者は、革命という高熱の発作の前と、本当に同じ人間だったのか?
 確かに、ネップという「快方」は、多くの点で1914年の大戦勃発、1917年の革命という転覆、そして内戦によって遮断された生活様式の回復を意味した。
 しかし、1930年代の「快方」の性格は異なっていた。この時期のために、旧来の生活との間の連環の多くは、破壊されてしまったからだ。
 事態は、旧来の生活の回復というよりも、新しい生活の始まりだった。
 (3)ロシアの日常生活の構造は、初期の1917-20年のの革命的経験は本当のものではなかったふうに、第一次五カ年計画という大動乱によって変わった。
 1924年のネップの幕間、モスクワっ子たちは10年間の不在から戻ってきて、自分の市電話帳(古い意匠と型式は戦前とほとんど変わっていなかったので、すぐに理解できた)とをひっぱり出すことができ、一覧表で自分のかつての医師、弁護士、そして株式仲買人や好みの甘菓子店ですら(電話帳には最も旨い輸入チョコレートの宣伝がまだあった)や、食堂、区の聖職者、むかし時計を修繕してくれ、建設素材や現金登録機を売ってくれた会社を発見する機会がまだあった。
 10年後の1930年代半ばには、これらのほとんど全てが消失することになった。そして、帰還した旅行者は、多数のモスクワの通りや広場が改名され、教会やその他のよく知る目印の建物が破壊されていたので、さらに当惑した。
 その後数年のうちに、電話帳自体がなくなり、半世紀の間、再発行されなかった。
 (4)革命とは人間のエネルギー、理想論および憤激が異常に集中するものなので、その集中力がいずれかの時点で鎮静化するのは、事物の本性的なことだ。
 しかし、革命は、それを否認することなくして、どのようにして終わらせるのか?
 長く権力のうちにいて革命的衝動が衰亡していくのを見る革命家たちにとって、これは厄介な(tricky)問題だ。
 かつての革命家たちはBrinton の比喩にほとんど従うことはできず、いまや革命の高熱から回復したのだ、と発表することもしないだろう。
 しかし、スターリンは、敢えてそうすることができた。
 スターリンによる革命の終わらせ方は、勝利を宣言することだった。//
 (5)勝利という飾り言葉が、1930年代前半の空気を覆った。
 作家のMaxim Gorky が創刊した<我々の偉業>と題する新しい雑誌は、この精神を顕著に例証していた。
 工業化と集団化の闘争に勝利した。ソヴィエトの宣伝者は呼号を上げた。
 階級敵は、絶滅した。
 失業は、なくなった。
 基礎的教育は一般的かつ義務的になり、(主張されたところでは)ソヴィエト同盟の成人の識字能力者は90パーセントまで向上した。(3)
 計画によって、ソヴィエト同盟は世界に対する人間の制御に関して巨大な前進を行った。人間はもはや、統制できない経済的諸力の、よるべなき犠牲者ではなかった。
 「新しいソヴィエト人間」が、社会主義建設の過程で出現していた。
 工場が広い草原に建ち上がりソヴィエトの科学者や技術者が「自然の征服」に精励するにつれて、身体的環境ですら、変化してきていた。//
 (6)革命に勝利したと言うのは、明らかに、革命はすぎ去ったと言うことだった。
 何かがまたは何らかの程度で、緊張に満ちた革命の遂行からの休息が見出され得るとすれば、勝利の果実を享受するときだった。
 1930年代半ば、スターリンは、生活が気楽になったと語り、「我々の街頭での休日」を約束した。
 秩序、中庸、予見可能性および安定といった美徳が、公的な好みへと再び変わってきた。
 経済領域では、第二次五カ年計画(1933-37)は、ひどく野心的だった第一次よりは、率直でかつ現実的だった。重工業基地を建設することを強調するのは変わらなかったけれども。
 田園地帯では、体制側は集団化の枠組みの範囲内で農民層に対して宥和的な提案をもちかけ、集団農場を作動させようとした。
 非マルクス主義論評者のNicholas Timasheff は、生起している事態を革命的な価値と方法からの「偉大な退却」だと肯定的に叙述した。
 トロツキーはこれに同意せず、「ソヴィエトのテルミドール」、革命に対する裏切りだと性格づけた。//
 (7)この最終章では、革命から革命後への移行について、三つの点を私は検証するつもりだ。
 第一節では、1930年代に体制側が主張した革命の勝利の性格を扱う(<達成された革命>)。
 第二節では、同じ時期のテルミドール的政策と傾向を検証する(<裏切られた革命>)。
 第三節の主題の<テロル(the Terror)>とは、1937-38年の大粛清(the Great Purges)のことだ。
 これは、第二節の「正常さへの回帰」に新しい光を当てるもので、正常性は革命と同様にほとんど理解し難いものであり得る、ということを想起させるだろう。
 体制側が行った革命の勝利宣言には空虚さがあるのと全く同様に、民衆が受け入れようと望んだ、生活は正常に戻ったという主張にも、大量の虚偽と作り事があった。
 革命を終わらせるのは、容易なことではない。
 革命という病原菌は体制の中にとどまり、緊張のもとでは再び発症させがちだ。
 これが生じたのが、大粛清だった。すなわち、革命に残されていた多くのもの-理想主義、変革への熱情、革命的用語集、そして最後に革命家たち自身-を燃え上がらせた革命的高熱の最終発作。//
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 (1) Cane Brinton, <革命の解剖学>(rev. edn, New York, 1965), p.17.
 (2) L. Trotsky, <裏切られた革命>(London, 1937)、Nicholas S. Timasheff, <偉大なる退却-ロシアでの共産主義の成長と衰退>(New York, 1946)。
 (3) 識字能力の必要につき、Fitzpatrick <教育と社会的流動性>p.168-176.を見よ。
 被抑圧民族の民衆の1937年調査では、9歳から49歳までの住民の75パーセントは識字能力がある(<略>, 1990)。50歳を超える者を含めると、この数字は明らかに低くなるだろう。
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 第1節・「達成された革命」(' Revolution accomplished ')。
 (1)1934年初めに開かれた第17回党大会は、「勝利の大会」と呼ばれた。
 彼らの勝利は、第一次五カ年計画の間に起きた経済の移行だった。
 都市経済は、小さな協同組合部門を除いて、完全に国有化された。
 農業は、集団化された。
 こうして、革命は、生産様式を変えるのに成功した。
 そして、マルクス主義者ならば誰でも知るように、生産様式はその上に社会、政治および文化という上部構造の全体が依拠する経済的土台(base)だ。
 ソヴィエト同盟には今や社会主義の土台があるとすれば、それに従って上部構造が適合しないことなどあり得るだろうか?
 共産主義者は、土台を変えることで、社会主義社会を生み出すためになすべき必要なことを全て行った。-そしておそらくは、マルクス主義の趣旨でなされ得る全てのことを。
 残りは、時間の問題だ。
 社会主義経済は、自動的に社会主義体制を生むだろう。資本主義がブルジョア的民主主義政体を生んだのと全く同じように。//
 (2)これは、理論上の定式化だった。
 実際には、ほとんどの共産党員は、革命の任務と勝利とを単純な意味で理解した。
 任務は、第一次五カ年計画が示した、工業化と経済の近代化だった。
 新しい煙突や新しいトラクターは全て、勝利の証拠だった。
 革命がソヴィエト同盟で、外部の敵から身を守ることのできる、力強い近代的な工業社会の基礎を設定するのに成功したとするならば、革命はその使命を達成した。
 このように言うとき、いったい何が達成されたのか?
 (3)誰も、ソヴィエトの工業化追求の可視的な兆候を、見逃すことはできなかった。
 建設中の場所は、いたるところにあつた。
 第一次五カ年計画の間には、急速な都市の成長があった。旧来の産業中心地は巨大に膨れ上がり、静かな地方の町は大きな工場の出現によって変わり、新しい工業や鉱業の開発地がソヴィエト同盟のいたるところで飛躍していた。
 巨大な新しい冶金や機械建設工場群が建設中であるか、またはすでに作動していた。
 トルコ・シベリア鉄道と巨大なDnieper 水力発電ダムが、建設されていた。(4)
 (4)第一次五カ年計画は、4年半後の1932年に、成功裡に達成されたと宣言された。
 公式の諸結果は、国内および国外でソヴィエトによって集中的に連発されたプロパガンダの対象になっていた。これらの信憑性は、きわめて注意深く取り扱われなければならない。
 にもかかわらず、西側の経済学者たちは、本当に経済成長があった、と一般的には受け容れた。そして、Walt Rostow がのちに工業上の「離陸」と呼んだほどになった。
 第一次五カ年計画の結果を要約して、あるイギリスの経済史学者は、つぎのように記す。
 「全体としてのその主張の真偽は明瞭ではないけれども、力強い技術工業が生まれつつあり、工作機械、タービン、トラクター、冶金機器等々の生産高は本当に印象的な割合で上がっていることは、全く疑いがない」。 
 鋼鉄生産はその目標高に比べてはるかに少なかったけれども、(ソヴィエトの数字によれば)ほとんど50パーセントずつ依然として上がっていた。
 計画上の増加はもっと上だったけれども、鉄鉱石の産出は二倍以上になった。そして、無煙炭や銑鉄の生産は、1927/28年から1932年までの間に二倍に近くなった。(5)//
 (5)工業化追求は、容赦なく単直にその速度と生産高を強調するものだった。しかし、上のような結果は、工業化に諸問題があったということを否定するものではない。
 産業上の事故はありふれたことで、資材の膨大な無駄使いがあった。
 品質は低く、欠陥のある産物の割合は高かった。
 ソヴィエトの戦略は財源および人的資源の観点からは高くつくものだった。そして、成長率という点ですら、必ずしも最適なものではなかった。ある西側の経済学者は、基本的にネップの枠組みから出発することがなくしても、1930年代半ばまでには同様の水準の成長をソヴィエト同盟は達成することができていただろう、と計算した。(6)
 「計画を実現する、上回って達成する」と頻繁に語られたことの意味は、理性的な計画を棚上げし、いかなる犠牲を払ってもいくつかの優先順位の高い生産目標に焦点を合わせる、ということだった。
 新しい工場はトラクターやタービンのような魅力的な製品を作っているかもしれなかった。しかし、第一次五カ年計画の間ずっと釘や包装資材が切実に不足していた。また、農民による牽引や荷車運搬の崩壊が集団化の予期せぬ結果として生じ、これが工業のあらゆる部門に影響を与えた。
 Donbass の石炭工業は1932年に危機に瀕し、その他の多数の重要工業部門が建設や生産に関する切迫した問題を抱えていた。//
 (6)こうした諸問題があったにもかかわらず、目立つものを達成する過程にあるとソヴィエトの指導者たちが純粋に信じた分野は、工業だった。
 事実上は全ての共産党員たちが、そのように感じていた。かつて左翼または右翼の反対派に共感を覚えていた者たちですら。
 そして同じような誇りと興奮が、党籍があるか否かに関係なく、若い世代の者たちには、そしてある程度は都市民衆全体にも、明らかにあった。
 以前の多数のトロツキー派の者たちは、第一次五カ年計画への熱狂を理由として反対派から離れた。トロツキー自身ですら、これを基本的には是認していた。
 1928-29年に右派へと傾いた共産党員たちは、公的に撤回し、工業化に完全に携わった。
 以前の懐疑者たちの心の内部では、Magnitogorsk やStalingrad のトラクター工場群およびその他の大きな工業上の計画の価値は、重い抑圧や過度の集団化のようなスターリンの政策方針にある否定的な側面を上回るものだった。//
 (7)集団化は第一次五カ年計画のアキレス腱であり、危機、対立や即席の解決方法のいつもの根源だった。
 肯定的な面では、集団化は、安くて交渉によらない価格で、農民が売りたい量よりも多く国家が穀物を調達する、望ましい仕組みになった。
 消極的な面では、集団化は、農民を憤激させ、働きたい気持ちを喪失させ、家畜の大量殺戮の原因となり、1932-33年の飢饉を引き起こした(経済と行政制度の全体的危機を刺激した)。そして、国家は、「農民層を搾り上げる」元来の戦略とは比べものにならないほどの多額の投資を農業部門に注ぎ込むことを余儀なくさせた。(7)
 理論上は、集団化はもっと多くのことを意味し得たはずだった。
 1930年代のソヴィエト同盟で実施されたように、集団化は国家による経済的収奪の極端な形態であり、理解できることだが、農民層はそれを「第二の農奴制」だと見なしていた。
 このことは農民層にとってのみならず最初に手がけた共産党の幹部たちにとっても、意気を挫くものだった。//
 (8)集団化に関しては、誰もが本当に幸福ではなかった。共産党員たちは集団化の闘争に勝利したと考えたが、多大な対価を払ってのことだった。
 さらに加えて、現実に存在した集団農場は、共産主義者が夢見たものとも、ソヴィエトの宣伝活動が叙述したものとも、異なっていた。
 現実の集団農場は、小さくて、村落を基盤とし、原始的だった。一方、夢見た集団農場は、大規模で、近代的な、機械化された農業の展示場だった。
 現実の集団農場には、地域の機械・トラクター基地へと移されたのでトラクターが不足していたばかりか、集団化の間に馬を殺戮したために、伝統的な牽引動力も切実に不足していた。
 村落での生活水準は集団化によって急速に落ち込み、多くの場所でぎりぎりの生存状態へと沈んでいた。
 電気は、1920年代にそうだったよりも、村落では一般的ですらなかった。「クラク」の粉引き屋が消失してしまったからだ。かつては、彼らのもつ水力発電のタービンが電気を発生させていたのだ。
 村落にいた多数の共産党官僚たちには無念なことに、農民たちには私的な小区画地の耕作が認められていたため、このことが集団化田畑で働くことに嫌気を起こさせたとかりにしても、集団化された農業は十分に社会化されてすらいなかった。
 スターリンが1935年に認めたように、私的区画地は農民家族の生存には不可欠だった。それこそが、農民たちの(そして国家の)ミルク、卵および野菜を提供していたからだ。
 1930年代のうちの長く、集団農場での労働について農民が受け取る唯一の支払いは、穀物収穫分の小さな分け前だった。(8)//
 (9)革命の政治的目標に関しては、1931年、1932年および1933年の不安な時期を体制が何とか生存し続けたこと自体が多くの共産党員にとっては勝利-おそらくは奇跡-だったように見える、と言って誇張ではないだろう。
 さらに、これは公衆が祝うような勝利ではなかった。
 もう少し何かが、必要だった。なるべくならば、社会主義に関する何かが。
 1930年代の初めには、「社会主義の建設」や「社会主義的構築」について語るのが流行していた。
 しかし、これらの語句は、決して厳密には定義されていなかったが、完成させることではなくて、過程を示唆していた。
 スターリンは、1936年に新ソヴィエト憲法を制定するに際して、「建設」段階は基本的には終了した、と述べた。
 これが意味するのは、社会主義は、ソヴィエト同盟で達成された事実だ、ということだった。//
 (10)理論的には、これは全くの飛躍だった。
 「社会主義」が正確に何を意味するかはつねに曖昧で、かりにレーニンの(1917年9月に書かれた)<国家と革命>を指針にするとしても、地方的(「ソヴィエト」)民主主義、階級対立や階級による搾取の消滅および国家の死滅という意味を含んでいた。
 この最後の要件は、躓きの石だった。最も楽観的なソヴィエト・マルクス主義者ですら、ソヴィエト国家が死滅した、あるいは近い将来にそうなるとは、ほとんど主張できなかっただろう。
 解決策として見出されたのは、新しい、または少なくともこれまでは無視されてきた、社会主義と共産主義の間の理論上の区別を導入することだつた。
 <共産主義>のもとでのみ国家は死滅する、ということが知られるに至った。
 社会主義は、革命の最終目的ではないけれども、ソヴィエト同盟が資本主義国に包囲された真ん中に存在する、相互に敵対し合っている国民国家で成る世界では、達成することができる最善のものだ。
 世界革命が起きて初めて、国家は消滅する。
 それまでは、世界で唯一の社会主義社会を敵から防衛するために、力強くあり続けなければならない。//
 (11)ソヴィエト同盟にいま存在している社会主義の特質は、いったい何なのか?
 この疑問に対する回答は、1918年のロシア共和国の革命的憲法以降の最初の、新しいソヴィエト憲法で与えられた。
 これを理解するためには、マルクス=レーニン主義によれば革命と社会主義の間にはプロレタリアート独裁という移行期があるねということを想起しなければならない。
 1917年十月にロシアで始まった段階の特徴は、古い所有者階級がプロレタリア国家による収奪と破壊に抵抗した、激しい階級戦争だった。 
 階級戦争の中止だと、スターリンは新憲法の制定に際して説明した。新憲法は、プロレタリアート独裁から社会主義への移行を画するものだ。//
 (12)新憲法によると、全てのソヴィエト公民は平等の諸権利をもち、社会主義に相応した公民的自由を保障される。
 資本主義ブルジョアジーとクラクは今や排除されたので、階級闘争は消失した。
 ソヴィエト社会にはまだ、階級がある-労働者階級、農民層および知識人層(厳密には階級ではなく層と定義される)。しかし、それらの関係は対立や収奪から自由だ。
 それらは地位について対等で、社会主義とソヴィエト国家に対する貢献についても対等だ。(9)//
 (13)このような主張は、数年にわたって、非ソヴィエトの論評者たちを憤激させた。
 社会主義者たちは、スターリン体制が本当の社会主義だというのを拒否した。
 別の者たちは、自由や平等に関する憲法上の約束は当てにならないと指摘した。
 欺瞞の程度または瞞着する意図の程度に関して議論の余地はあるが(10)、憲法はソヴィエトの現実との関係を曖昧にしか定めていないのだから、こうした反応は理解することができる。
 しかしながら、我々のここでの議論の文脈では、憲法をあまりに真面目に取り扱う必要はない。革命の勝利という主張に関するかぎりは、この憲法は、共産党や社会全体にある感情的な責務とはほとんど関係がない「後知恵」だった。
 たいていの人々は無関心で、ある人々は混乱していた。
 社会主義がすでにソヴィエト同盟に存在しているという報道に痛烈に反応したのは、若い報道記者たち、故郷の村落の原始的で悲惨な生活を知っている、社会主義の未来を本当に信じている者たち、だった。
 <これ>はそもそも、社会主義だったのか?
 「いや違う。このような失望と、このような悲しみを、以前も今後も、私は経験したことがなかった」(11) 。//
 (14)新憲法上の平等諸権利の保障は、ロシア共和国の1918年憲法からの実際的な変化を代表するものだ。
 1918年憲法は明らかに、平等諸権利を保障して<いなかった>。旧来の搾取階級の者たちはソヴィエトの選挙での投票権を剥奪され、都市労働者の投票権は農民のそれに比べて有利に扱われていた。
 これと関連して、階級差別の法令による手の込んだ構造が、労働者に特権的な地位を与え、革命以降にいたブルジョアジーを冷遇するために作られていた。
 1936年憲法の今では、階級に関係なく、全員に投票権がある。
 「公民権のない者たち」(<lishentsy>)という汚名的範疇は、消失した。
 階級差別的な政策と実務は、新憲法の導入以前にすでになくなっていた。
 例えば、大学入学については、労働者に有利な差別的措置は、数年前になくなった。//
 (15)こうして、階級差別からの離反は本当のことだった。決して、憲法が意味させるほどには完全ではなく、旧来のやり方で物事をするのに慣れていた共産党員たちから、相当の抵抗に遭遇したけれども。(12)
 こうした変化の意義は、二つの観点から解釈することができるだろう。
 一方で、階級差別の削除は、社会主義的平等のための必須要件だと見ることができる(「達成された革命」)。
 他方で、それは体制側によるプロレタリアートの放棄だと受け取ることができる(「裏切られた革命」)。
 労働者階級の地位やそれのソヴィエト権力との関係は、新しい秩序のもとで、不明瞭なままだった。
 プロレタリアート独裁の時代は終わったのか、に関して、率直な公式の言明は何らなかった(これは、ソヴィエト同盟がすでに社会主義の時代に入っているとすれば、論理的な推論だけれども)。しかし、言葉遣いは、「プロレタリアの主導性」から「労働者階級の指導的役割」という穏やかな定式へと、変化した。//
 (16)トロツキーのようなマルクス主義者の批判者は、党は、社会的支持の主要な根源である労働者階級に代わって官僚機構を置き換えることを認めることによって、精神的拠り所(mooring)を失った、と主張するかもしれなかった。
 しかし、スターリンは、異なる見方をしていた。
 スターリンの立場からすると、革命が達成した偉大なものの一つは、労働者階級および農民層から募って集めて「新しいソヴィエト知識人層」(本質的には新しい管理および職業上のエリート)を生んだことだった。(13)
 ソヴィエト体制は、もはや、忠誠心はつねに疑わしい、かつてのエリートたちの残滓に依存する必要がなかった。そうではなく、今や育て上げた「指導的幹部や専門家」という自分たちのエリート、彼らの昇進や経歴は革命のおかげであり、完全に体制(とスターリン)に忠誠心をもつと信頼することができる者たち、に依拠することができた。 
 体制側がいったんこの「新しい階級」-命令的地位へと昇進した「昨日」の労働者や農民たち-を社会的基盤としてもつならば、プロレタリアートの全ての問題とそれと体制との特別の関係などは、スターリンの目には重要ではないものにになる。
 結局は、1939年の第18回党大会で行ったスターリンの論評で示唆されていたように、旧来の革命的労働者階級の花は、実際には、新しいソヴィエト知識人層の中へと植え換えられていた。そして、昇進することができないで嫉妬する労働者には、そうしたことの多くはより悪いことだった。
 こうした観点が新しいエリートたちの中の「労働者階級の息子たち」の完全な意味となることはほとんど疑いがない。新しいエリートたち、つまりは、いたるところで上方に向かって移動し、不利な出身背景に誇りをもつとともにそれから離れたことが幸福な者たちのことだ。//
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 (4) トルコ・シベリア鉄道につき、Matthew J. Payne, <スターリンの鉄道-Turksib と社会主義建設>(Pittsburgh, 2001)を見よ。
 Dneprostroi につき、Anne Rassweiler, <電力の世代-Dneprostroi の歴史>(Oxford, 1988)を見よ。
 (5) Alec Nove <ソ連邦の経済史>(new edn; London, 1992),p.195-6.
 (6) Holland Hunter 「野心的すぎる第一次五カ年計画」<Slavic Review>32: 2(1973), p.237-p.257。
 より肯定的な読み方につき、Robert C. Allen, <農場と工場-ソヴィエト工業革命の再解釈>(Princeton, NJ, 2003)を見よ。
 (7) James Miller & Alec Nove 「集団化に関する討議」<共産主義の諸問題>(1976年7-8月号)p.53-55より、James R. Miller 「『標準的物語』のどこが間違いか?」を見よ。
 (8) 1930年代の現実の集団農場に関するより詳細な議論として、Fitzpatrick, <スターリンの農民>Ch. 4-5.を見よ。
 (9) J. Stalin <新ソヴィエト憲法上関するスターリン>(New York, 1936).
 1936年12月5日にソ連邦のソヴィエト第8回臨時大会で採択された憲法の条文につき、<憲法-ソヴィエト社会主義共和国同盟の基礎法典>(Moscow, 1938)を見よ。
 (10) ソヴィエトの選挙を民主化しようとの体制側の純粋な意図は、大粛清に関連する社会的緊張によって挫折した。このことにつき、J. Arch Getty 「スターリンのもとでの国家と社会-1930年代の憲法と選挙」<Slavic Review>50: p.1 (1991年春号).を見よ。
 (11) N. L. Rogalina <集団化: urki proidennogo puti >(Moscow, 1989)p.198.で引用されている。
 (12) Fitzpatrick<仮面を剝げ!>p.40-43, p.46-49.を見よ。
 差別の古いやり方は消失したけれども、新しい形態があったことに注意。
 集団農場員は他の公民との平等な諸権利を享受したのではない。追放されたクラクたちや、その他の行政上の追放者については言うまでもない
 (13) Fitzpatrick「スターリンと新エリートの形成」同<文化戦線>所収p.177-8.を見よ。
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 つぎの第二節の表題は、「<裏切られた革命>」。

1912/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑰。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 これまでどおり、原文の斜め体(イタリック)部分は<>で括っている。
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 第5章・スターリンの革命。
 第3節・集団化(collectivization)。
 (1)ボルシェヴィキたちはつねに、集団化された農業は個人農民の小農業よりも優れていると信じていた。しかし、ネップ期には、農民たちをこの見方へと転換させるには長くて面倒な過程が必要だろうと想定されていた。
 1928年、集団農場(<kolkhozy:コルホージ>)は播種面積全体の1.2パーセントしか占めておらず、国有農場では1.5パーセントだった。そして、残りの97.3パーセントは農民個人が耕作をしていた。(17)
 第一次五カ年計画は、その期間での大規模な集団化された農業への移行を、予定していなかった。
 そして実際に、急速な工業化は膨大な諸問題を抱えていたために、体制側が農業の根本的な再組織を行うことなくつぎの数年間は過ごしてゆくので全く十分だと思われた。//
 (2)しかしながら、スターリンは認識していたように-また、Preobrazhensky もブハーリンも数年前の議論でそうだったように-、工業化をめぐる問題は、農業と密接に結ついていた。
 工業化を達成するためには、国家には信頼できる穀物供給と穀物価格の安さが必要だつた。1927-28年の調達危機が明確にしたのは、農民たち-あるいは市場に出る穀物のほとんどを提供している比較的に裕福な農民たちのうちの少数者たち-は、自由市場が存在し、かつネップ期にそうだったように国定価格は事実上は交渉によって決まるかぎり、「国家を人質にする」ことができる、ということだった。//
 (3)スターリンは1928年1月に早くも、つぎのことを示唆した。すなわち、クラク〔富農〕は調達危機の際の悪人である隠匿者であり、農業の集団化は国家による統制の梃子になる、その梃子によって国家が求める時期と価格で穀物の適切な供給が行われるだろう、と考えている、ということ。
 しかし、1928年と1929年前半の自発的な集団化の奨励は、わずかばかりの成果しか生まなかった。そして、穀物調達の問題は、都市部での食糧不足のゆえだけではなく、外国から工業用品を購入する資金を獲得する手段として穀物輸出があるという関係があるゆえにも、依然として現実的なままだった。
 広く有力になってきたスターリンが支持したのは実力行使によって調達する方法だったので、体制側と農民層の間には対立が大きくなった。
 クラクを貶めて農民層内部での階級的対立の発生を刺激しようとの努力を集中的に行ったにもかかわらず、外部からの圧力はむしろ、村落共同体を内部から破壊するというよりは、その統一を促進したように見えた。//
 (4)1929年夏、穀物の自由市場を大きく削減して、体制側は、供給しないことに対する制裁を伴う調達割合を農民たちに課した。
 その秋には、クラクたちに対する攻撃はさらに烈しくなり、党指導者たちは抵抗できない農民の集団化に向かう運動について語り始めた。
 疑いなくこれは、体制と農民層の対立は後戻りできないほどに進んでいるという意識を反映していた。ほとんど誰も、苦しい闘いを経ずしてその過程は達成され得るという虚偽を信じることができなかったのだから。
 以前のトロツキー派の一人で第一次五カ年計画の熱心な支持者になっていたYurii Pyatakov はつぎのように述べた。//
 『個人的農作という枠の内部では、農業問題の解決はあり得ない。したがって、<我々は農業の集団化について、極端な速さを採用せざるをえない。<中略>
 その仕事では、我々は内戦期の速さを採用しなければならない。
 もちろん私は、内戦期の方法を採用しなければならないと言っているのではない。しかし、我々の誰もが<中略>、階級敵との軍事闘争の時期に行ったのと同じ緊張感をもって仕事することを義務づけられる。
 <我々の社会主義建設にかかる英雄的(heroic)時代>が到来したのだ。』(18)//
 (5)1929-30年の冬は狂乱の時期で、党の終末期的〔黙示録的〕雰囲気とひどく革命的な修辞はじつに、以前の「英雄的時代」-内戦と戦時共産主義の、1920年の絶望的な最悪状態のとき-を想起させた。
 しかし、1930年は、共産党員たちが農村地帯へと送り込んでいた修辞上の革命だけではなかった。内戦期に行ったように、たんに食糧を求めて村落を襲撃して立ち去っていくだけではなかった。
 集団化は、農民生活を再組織化する、そして同時に、村落のレベルまで及ぶ行政的統制を確立する企てだった。
 必要な再組織化の精確な性質は、地方の共産党員たちには不明瞭だった。中央からの指示は激しいものだったが、正確なものではなかった。
 しかし、統制が目標の一つであり、再組織化の方法は戦闘的に対決することであるのは明確だった。//
 (6)実際的な意味では、新しい政策は、クラクとの最終対決をすみやかに行う地方官僚たちを必要とした。
 これが意味したのは、地方の共産党員たちが村落に入り込み、貧しい又は貪欲な農民たちを集め、一握りの「クラク」(通常は最も富裕な農民たちだが、ときには村落ではたんに有名でない農民や何らかの別の理由で地方当局から嫌われていた農民)の家族を威圧し、彼らをその家から追い出して、その財産を収奪する、ということだった。//
 (7)地方官僚たちは同時に、残りの農民たちが自発的に集団を組織するのを奨励すると想定されていた。-1929-30年の中央からの指令の調子から、「自発的な」運動がすばやいかつ目立つ結果を生み出さなければならないことがはっきりしていた。
 これが通常は実際に意味したのは、官僚たちは村落会合を開催し、kolkhozy〔集団農場〕を組織し、十分な数の農民たちが自発的にkolkhozy の一員だとして彼らの名前を署名するのに同意するまで説教し、かつ威嚇する、ということだった。
 これがいったん達成されれば、新しい集団農場(kolkhozy)の設立者たちは村落の動物たち-農民の財産の中での主な移動道具-を奪い取り、それらは集団の財産だと宣言しただろう。
 共産党員(およびとくにコムソモル団員)たる集団化担当者は、適度の範囲内で、教会を世俗化し、聖職者や学校教師のような地方の「階級敵」の侮辱をしたがった。//
 (8)このような行動は、村落地帯にすみやかに憤激と混乱を生み出した。
 多くの農民は、動物たちを渡すのではなく、その場所で殺戮した。または、それらを売却するために最も近い町へと急いで走った。
 ある範囲の収奪されたクラクたちは、町へと逃亡した。だが別の者たちは、日中は森の中に隠れ、夜には村落を威嚇するために帰ってきた。
 悲嘆にくれる農民女性たちは、しばしば聖職者の仲間だったが、集団化追求者たちを侮蔑する罵詈雑言を投げつけた。
 官僚たちはしばしば打ち倒され、石を投げつけられ、あるいは村落に近づいたときやそこから離れるときに、見えない殺人者によって射殺された。
 多数の新しい集団農場の一員たちは、都市にまたは新しい建設計画に仕事を見つけるべく、急いで村落を去った。//
 (9)体制は、こうした明瞭な失態に直面して、二つの方法で反応した。
 第一に、OPGUは、収奪されたクラクやその他の迷惑者を逮捕し始め、ついにはシベリア、ウラルおよび北方への大量流刑を行った。
 第二に、党指導部は、春の種蒔き季節が近づいていたために、農民層との極端な対立からは数歩は引き下がった。
 スターリンは3月に、「成功に目が眩んで」と題する有名な論文を発表し、指示を過大に実行したとして地方当局を非難し、集団化に伴うほとんどの動物たちを(クラクのものを除いて)元の所有者に戻すよう命じた。(19)
 農民たちはそのときを掴まえて急いで、集団農場(kolkhozy)の一覧表から自分たちの名前を取り消した。その結果として、ソ連邦全体で、1930年の3月1日から6月1日の間に、公式に集団化された農地の割合は半分以上から四分の一以下に落ちた。//
 (10)「成功に目が眩んで」に裏切られ、辱められたある程度の共産党集団化担当者は、スターリンの肖像写真を壁に向かわせ〔=ひっくり返し〕、憂鬱な気分に陥った、と報告された。
 にもかかわらず、集団化追求が止まったのは、たんに一時的だった。
 数万の共産党員と都市労働者たち(モスクワ、レニングラードおよびウクライナの大工場群から主として募られた、よく知られる「二万五千人たち」を含めて)が、集団農場の組織者および管理者として田園地帯で働くために急いで動員された。
 村落民たちは徐々に、集団農場へともう一度署名するように説得されるか、強制させられた。このときは、雌牛や鶏を有しつづけた。
 1932年までに、ソヴィエトの公式の数字によると、農民所有地のうち62パーセントは集団化された。
 1937年までには、その数字は93パーセントに達した。//(20)
 (11)集団化は、疑いなく、農村地帯での本当の「上からの革命」だった。
 しかし、当時のソヴィエトの新聞が叙述したような、起きた変化の展望を大きく誇張した類のものでは全くなく、 ある点では現実には、かつての帝制期にStolypin が試みたもの(既述、p.37を見よ)ほどの劇的な農民生活の再組織化ではなかった。
 典型的な集団農場は、かつての村落だった。農民たちは、同じ木製小屋で生活し、以前にそうだったのと同一の村落畑を耕作した。-厳密に言うと、移住や追放の結果としてある程度は以前よりも少なかったし、牽引動物はかなり少なくなったけれども。
 村落で変わった主要なことは、村落の管理と村落による市場での取引過程だった。//
 (12)村落共同体<ミール(mir)>は1930年に廃止され、取って代わった集団農場管理者の長は、任命された議長だった(初期には通常は都市出身の労働者または共産党員)。
 村落/集団農場の内部では農民たちの伝統的な指導者は威嚇され、その一部はクラクの追放によって排除された。
 ロシアの歴史研究者のV. P. Danilov によると、38万1000の農民所有地-少なくとも150万人-が1930-31年に脱クラク化され、追放された。1932年と1933年の初めに同様の運命に陥った者たちを含めて算出してはいない。(21)
 (追放されたクラクの半数以上は工業や建設の仕事に就いた。そして、彼らの多くは数年以内に犯罪者(convict)労働よりは自由に働いたけれども、追放された地域から外へ移住することを禁じられ、故郷の村落に戻ることはできなかった。)//
 (13)集団農場は、設定された量の穀物と穀物製品を国家に供給しなければならなかった。支払い金は、集団農場員に労働の寄与分に応じて配分された。
 区画地での農民の小農業の生産物だけは、まだ個人で市場に出すことができた。そしてこの譲歩は、元来の集団化追求後の数年間後まで、公式には承認されなかった。
 一般的な集団農場生産については、供給率はきわめて高かった-穀物の40パーセントにまで、または農民たちが従前に市場に出していたものの二倍から三倍にまで上った-。そして、価格は低かった。
 農民たちは、あらゆる種類の消極的な抵抗を行い回避策を講じたけれども、体制側は拳銃に頼り、食糧や原種も含めて、発見した全てを取り上げた。
 その結果生じたのは、国家の大穀物生産地帯-ウクライナ、中央ヴォルガ、カザフスタンおよび北部コーカサス-が陥った、1932-33年の冬の飢饉(famine)だった。
 この飢饉によって、莫大な怒りの感情が残った。中央ヴォルガで収集された噂によれば、農民たちは、集団化に抵抗したために体制側が意図的に惹起した制裁だと飢饉を考えた。
 ソヴィエト公文書庫の資料にもとづく最近の計算では、1933年の飢饉による死者数は、300-400万人になる。(22) //
 飢饉の直接的な影響の一つは、1932年12月に体制側が国内旅券制度を再導入し、それは都市住民には自動的に発行されたが、田園地帯の者には発行されなかった、ということだった。危機が続いたために、飢えてゆく農民たちが田園地域から去って都市部に逃亡先と配給食を求めることのないようにする全ての努力がなされた。
 集団化とは二番めの農奴制だという農民たちの考えは、疑いなく強固なものになった。 そして、集団化の目的の一つは農民たちを農場に縛り続けることだとの印象を、西側の観察者たちにも与えた。
 体制側にはそのような意図はなかった(飢饉が生んだ特殊な事情がある場合を除いて)。1930年代の主要目的は急速な工業化であり、それは都市の労働力の急速な増大を意味していたのだから。
 長く真実だと受容されてきたのは、つぎのようなものだった。すなわち、ロシアの田園地帯は人口が多すぎ、ソヴィエトの指導者たちは集団化と機械化によって農業生産を合理化し、そうして農業に必要な労働者の数をさらに減らそうと望んでいた、のだと。
 機能的な観点からは、集団化とソヴィエトの工業化の関係は、一世紀以上前の囲い込み運動とイギリスの産業革命の関係にかなり共通していた。//
 (14)もちろん、これは、ソヴィエト指導者たちが導きたい対比ではなかった。すなわち、マルクスは結局は、囲い込みを原因とする被害とイギリスでの農民の根絶を強調したのだから。同じ過程が「田園生活の怠惰」から農民たちを救い出し、都市プロレタリアートへの転換によって長期間の社会的生存水準の向上をもたらしたのだけれども。
 ソヴィエト共産党は、集団化とこれに付随する農民の移住に関して、ある程度は似たような両義性を感じていたかもしれない。それは、新しく生まれた工業の仕事を求めての自発的な離反、つまり集団農場からの逃亡と、追放による非自発的な離反との両方の、混乱させるごとき混合物だった。
 しかし、集団化と関連性がある災害に関しては、彼らは明らかに防衛的であり、当惑を感じていた。そして、言い抜け、信じ難い主張および偽りの楽観主義でもって、状況の全体を煙幕で隠そうと試みた。
 こうして1931年、200-300万人の農民が都市部に永久に移住した年、スターリンは、つぎのような驚くべき声明を発した。すなわち、集団農場が魅力的なものだと分かったので、農民たちはもはや、伝統的にはあった悲惨な田園生活から逃げようとする切実な気持ちをもはや感じないようになった、と。(23)
 しかし、これは、スターリンがつぎの主眼点を言うのための前口上にすぎなかった。-自発的で予想できない農民の離反から、集団農場から労働力を集める組織的活動へと、転換しなければならない。//
 (15)1928-32年の時期、ソヴィエト同盟の都市人口はほとんど1200万人増加し、少なくとも1000万の人々が農業から離れて賃金労働者になった。(24)
 これは莫大な数字であり、ロシア史上に先行例のない、そしてこれだけ短い期間では他の諸国も経験したことのないと言われている、人口動態の大変化だった。
 移住者の中には、若くて頑健な農民たちが不釣り合いなほどに多かった。そしてこのことは、集団化農業の弱体化や農民層の意気減退の原因になった。
 しかし、その上さらに、移住はロシアの活力ある工業化の一部だった。
 第一次五カ年計画の間に集団農場に加入した農民の3人のうち1人は、村落を離れていずれかの都市で、ブルーまたはホワイト・カラーの賃労働者になった。
 村落からの離反は、集団化それ自体の一部であるのと同じ程度に、田園地帯でのスターリンの革命の一部だった。
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 (17) Alec Nove, <ソ連邦の経済史>(London, 1969), p.150.
 (18) R. W. Davis, <社会主義の攻勢>(Cambridge, MA, 1980), p.148.から引用。
 (19) スターリン全集第12巻、p.195-p.205.
 (20) これらの数字は、Nove, <ソ連邦経済史>, p.197, p.238.から引用。
 二万五千人たちにつき、Lynne Viola, <祖国の最良の息子たち>(New York, 1987)を見よ。
 (21) <Slavic Review> 50: i(1991), p.152.
 (22) 統計上の証拠に関する論述につき、R. W. Davis & Stephen Wheatcroft, <飢餓の年月-ソヴィエト農業、1931-33年>(Basingstoke & New York, 2004), p.412-5.
 (23) スターリン全集第13巻、p.54-55.
 (24) Sheila Fitzparick 「大いなる出立-ソヴィエト同盟での村落・都市間移住、1929-1933年」William R. Rosenberg & Lewis H. Siegelbaum 編<ソヴィエト工業化の社会的諸相>(Bloomington, IN, 1993)所収, p.21-22.
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 第4節・文化革命(Cultural Revolution)。
 (1)
内戦期もそうだったように、階級敵に対する闘争は、第一次五カ年計画の間に共産党が関心をもつ最大の問題だった。
 集団化運動のとき、「階級としてのクラク〔富農〕の廃絶」は、共産党員の活動の焦点だった。
 都市経済の再組織では、私的起業家(ネップマン)は、排除させるべき階級敵だった。
 同じ時期に、国際的共産主義者運動は、「階級に対する階級」という新しい戦闘的政策方針を採択した。
 この方針-ネップ期を支配したより宥和的な接近方法を全て否認すること-の対象となるのは、階級敵とはブルジョア知識人層である、文化および精神の分野だった。
 かつての知識人、ブルジョア的文化価値、エリート主義、特権、および機械的仕事の官僚機構に対する闘争は、この当時は「文化革命」と称された現象だった。(25)
 文化革命の目的は、共産党とプロレタリアートの「主導性」を確立することだった。これは実際には、文化生活に対する党の統制を主張し、新しい若き党員および労働者たちを行政上および職業上のエリートにする時代を始めることを意味した。//
 (2)文化革命は党指導部-またはより正確には指導部内のスターリン派-によって、1928年春に始められた。その頃に、Shakhty 裁判(既述p.123を見よ)が迫っているとの発表とともに行われたのは、村落にいる党員たちを文化領域へと召喚することだった。つまり、ブルジョア専門家たちの役割を再検討し、文化的な優越性や指導性があるとの知識人たちの主張を拒絶するために。
 この宣伝運動は、右派に対するスターリンの闘争と緊密に連結していた。
 右翼主義者はブルジョア知識人の保護者で、非党員専門家の助言に重きをおきすぎている、政府官僚機構内での専門家や以前の帝制官僚の影響について無頓着で、「赤いリベラリズム」やブルジョア的価値によって汚染される傾向がある、と叙述された。
 彼らには、革命的方法よりも官僚主義的方法を愛好し、党よりも政府機構を支持する傾向があった。
 さらに、彼らはたぶん、党のプロレタリアート的隊列の気分を喪失した、ヨーロッパ化された知識人たちだった。//
 (3)しかし、文化革命には、指導層内部での分派的闘争以上のものがあった。
 若い共産党員たちには、ブルジョア的文化支配との闘いは大きな意味があるように見えた。同様に、ネップ期の党指導部によって意気込みが殺がれた多数の戦闘的共産党員組織者にとっても。また、職業人たちの中の確立された指導層と一致していなかった、多様な分野の非共産党員諸集団にとってすら。
 ロシア・プロレタリア作家協会(RAPP)や戦闘的無神論者同盟のような集団は、1920年代にずっと、文化的闘争についてのより攻撃的な政策を求めて煽ってきていた。
 共産主義アカデミーや赤い教授研究所の中の若い研究者たちは、多くは非党員で多数の学術分野をいまだに支配している、保身的な年配研究者たちと闘うことを望んでいた。
 コムソモルの中央委員会とその書記局は、つねに革命的な「アヴァンギャルド主義」を志向し、政策形成に関する役割の拡大を望んでいたのだが、コムソモルとは政策方針が一致しない多数の研究施設は官僚主義的頽廃に陥っているのではないかと疑っていた。
 このような若い急進者たちには、文化革命は自分たちを擁護するものであり、ある観察者が述べたように、解放するものだった。//
 (4)この観点からすると、文化革命は因習打破的で戦闘的な青年たちの運動だった。そしてその活動家たちは、1960年代の中国文化革命の紅衛兵たちのように、党指導部の従順な道具では決してなかった。
 彼らは、強烈に党意識を抱いており、共産党員として他者を指導し、かつ指令する自分たちの権利を主張していた。一方で同時に、ほとんどの既存の権威や制度に本能的な敵愾心をもっていた。官僚主義的で「客観的には反革命的な」傾向がこれらにはあるのではないかと疑っていた。
 彼らは自覚的なプロレタリアートであり(活動家のほとんどは職業と同様に社会的出自もホワイト・カラーだったけれども)、ブルジョアジーに対して侮蔑的で、とりわけ、中年の、立派な「ブルジョアジー的俗物たち(Philistine)」に対してそうだった。
 彼らの意識の基礎にあったのは内戦であり、彼らの修辞文上の想像の多くの源泉も、内戦だった。
 資本主義という敵を罵ったが、にもかかわらず彼らはアメリカに敬意を表する傾向にあった。アメリカ資本主義は近代的で、大規模だとの理由で。
 全ての分野での急激な改革は、彼らにはきわめて魅力的だった。//
 (5)文化革命の名のもとで行われた諸提案の多くは自然発生的なものだったために、それらは予期されなかった結果をいくつか生んだ。
 戦闘的な者たちは彼らの反宗教的宣伝運動を集団化の頂点にある村落に持ち込み、集団農場(kolkhoz)は反キリスト教者が作るものだという農民たちの疑念をますます強いものにさせた。
 コムソモルの「軽騎兵(Light Cavalry)」による不意の攻撃は、政府職員たちの仕事を妨害した。
 コムソモルの「文化軍(Cultural Army)」(最初は無学(illiteracy)との闘いのために設立された)は、地方の教育部局を廃止することにほとんど成功した。その理由はそれが官僚主義的だというものだった。-だがこれは、確実に、党指導部の目的ではなかった。//
 (6)熱狂的な青年党員たちは、口笛を吹きブーイングをして、国立劇場での「ブルジョア」演劇の上演を停止させた。
 文学については、RAPP〔ロシア・プロレタリア作家協会〕は、(厳密にはプロレタリアートではなかったけれども)尊敬されていた作家のMaxim Gorky を攻撃する運動を開始した。それは、スターリンと他の党指導者たちが、イタリアへの逃亡中に帰国するように彼を説得しようとしているのとまさに同じ時期だった。
 政治理論の分野ですら、急進者たちは自分たちの主張を追求した。
 彼らは、内戦期に多数の熱狂共産党員がそうだったように、破滅的な〔黙示録的な〕変化が切迫している、と信じていた。法や学校のような馴染みある制度とともに、国家は消滅するだろう、と。
 1930年の半ば、スターリンは、こうした考えは誤りだ、ときわめて明確に言明した。
 しかし、スターリンのこの公式表明は、一年以上、党指導部が文化革命活動家たちを統制して彼らの「軽率な謀りごと」を終わらせようと深刻に試み始めるまでは、ほとんど無視された。//
 (7)社会科学や哲学のような分野では、若き文化革命家たちは、トロツキーまたはブハーリンが関係している理論の価値を貶め、かつてのメンシェヴィキを攻撃し、あるいは尊敬された「ブルジョア」的文化研究施設を党の統制に服させるのを容易にする、そういうことのために、スターリンや党指導部によって、利用された。
 しかし、このような文化革命の側面と共存していたのは、現実政治や党派的策略の世界からは遠く隔たった、幻影的なユートピア観を一時期に花咲かせることだった。
 夢想家たちは-しばしば自分の本来の仕事の外部者で、その考えは常軌を離れて非現実的だと以前には思われていたのだが-、新しい「社会主義都市」の計画を描くのに忙しかった。その計画とは、共同体的(communal)に生活し、自然の変化を瞑想する案であり、「新しいソヴィエト人間」の想像画だった。
 彼らは、「我々は新しい世界を建設している」との第一次五カ年計画の標語を、真剣にそのままに受けとめていた。そして、1920年代の末と1930年代初めの数年間、彼らの考え方も真剣に受け止められ、広くよく知られるに至り、そして多くの場合、多数の政府機関やその他の公的団体から資金も貰った。//
 (8)文化革命はプロレタリア的だと叙述されるけれども、これは高度の文化や学術の分野では文字通りには理解されるべきではない。
 文学では、例えば、RAPPの若い活動家は「プロレタリア」を「共産主義者」と同義のものとして使った。すなわち、彼らが「プロレタリアの主導権」の確立を語るとき、彼らは、文学の世界を支配し、共産党が唯一信任した文学諸組織の代表だと承認されたいという自分たちの願望を表現していた。
 RAPP活動家たちは、確かに、プロレタリアートという名前に頼ることに完全に冷笑的ではなかった。工場での文化活動を激励したり職業的作家と労働者階級との間の交流の場を設けたりするのに最大限の努力をしたのだから。
 しかし、こうしたことは、1870年代の人民主義者たち(Populists)の「民衆の中へ」という標語の精神にほとんど同じものが多くあった(既述、p.25-26を見よ)。
 プロレタリアートにとって、RAPP知識人たちはむしろ、そのようなものだった。//
 (9)文化革命のプロレタリア的側面が実質的にあったのは、この時期に体制側が熱心に追求した、プロレタリアの「昇進」政策-労働者や農民に有利なソヴィエト的「積極的な優遇政策(affirmative action)」-だった。
 スターリンはShafhy 裁判について折りよく、ブルジョア知識人の裏切りによって、可能なかぎり急いでプロレタリアの後継者を養成することが絶対的に必要になった、と語った。
 共産党員(Reds)と専門家へのかつての二分は、廃止しなければならない。
  ソヴィエト体制は自分たちの知識人層(スターリンの言葉遣いでは行政エリートと専門家エリートのいずれをも含む)を必要とする時代になった。そして、この新しい知識人層は、下位の階級から、とくに都市労働者階級から新しく集められなければならない。(26)//
 (10)労働者を行政上の仕事へと「昇進」させ、若い労働者を高等教育機関へと派遣する政策は、新しいものではなかった。しかし、文化革命の間のほどの緊急性をもって、かつこれほど大規模に実施されたことはなかった。
 莫大な数の労働者たちが、直接に工業管理者へと昇進し、ソヴィエトまたは党の職員になり、または中央政府や労働組合の官僚機構から追放された「階級敵」に代わる後継者として任命された。
 ソヴィエト同盟では1933年の末に、「指導的幹部および専門家」に分類される86万1000人のうち、14万人-6分の1以上-が、わずか5年前にはブルー・カラー労働者だった。
 しかし、これは氷山の先端部にすぎなかった。
 第一次五カ年計画の間にホワイト・カラーの仕事へと移動した労働者の総数は、おそらくは少なくとも150万人だった。//
 (11)スターリンは同時に、若い労働者や共産党員を高等教育の場へと送り込む集中的な運動を開始した。それは、大学や専門技術学校を大きく変革するもので、「ブルジョア」教授たちを大いに憤激させた。また、第一次五カ年計画の継続中には、ホワイト・カラー家庭出身の高校卒業生が高等教育の機会を得ることがきわめて困難になった。
 約15万人の労働者や共産党員が、第一次五カ年計画の間に高等教育機関へと進学した。彼らのほとんどは、今やマルクス主義社会科学よりも専門技術の方が工業化社会では最良の資格となると見られていたために、技術工学を学んだ。
 この者たちの中にはNikita Khurshchev (N・フルシチョフ)、Leonid Brezhnev (L・ブレジネフ)、Aleksei Kosygin (A・コスィギン)および将来の党や政府の指導者たちがおり、1937-38年の大粛清(the Great Purge)の後にスターリン主義政治エリートたちの中核になることになる。//
 (12)優遇された集団-後年になって自称するのを好んだ言葉では「労働者階級の息子たち」-の一員にとって、革命はじつに、プロレタリアートに権力を与え、労働者を国家の主人とするという約束を実現したものだった。
 しかしながら、労働者階級の別の者たちにとっては、スターリンの革命のバランス・シートは有利なものではなかった。
 たいていの労働者の生活水準と現実の賃金は、第一次五カ年計画の間に、急激に落ちた。
 労働組合はTomsky が排除された後では手綱が付けられて、経営者との交渉で労働者の利益をのために圧力を加えるいかなる現実的なの能力を失った。
 新しい農民の募集が(以前のクラクを含む)が工業上の仕事に溢れ込んだので、党指導部の労働者階級に対する特殊な関係意識と特殊な義務感は弱くなった。(27)
 (13)第一次五カ年計画の時期の人口動態上および社会的な大変動は巨大だった。
 数百万の農民たちが村落を去り、集団化と脱クラク化により、または飢饉によって追い出され、あるいは新しい仕事を取得できる可能性によっつて都市に惹き付けられた。
 しかし、これは、個人や家族にとって、定着した生活様式を損なう、多くの種類があった追い立ての一つにすぎなかった。
 都市の妻たちは、一枚の小切手ではもう十分でないために働きに出かけた。
 村落の妻たちは、都市部へと消えた夫から捨てられた。
 両親を見失うか放棄された子どもたちは、家のない若者たちのごろつき団(<besprizornye>)へと漂い込んだ。
 大学進学を予期していた「ブルジョア」高校生たちは、その途を遮断された。一方では、わずか7年の一般教育を受けた若い労働者が、技術工学を勉強すべく招集された。
 収奪されたネップマンとクラクたちは、知らない都市へと逃げ込んで、そこで新しい生活を始めた。
 聖職者の子どもたちは、両親と一緒に非難されるのを避けるために、故郷を離れた。
 列車は、追放者や犯罪者の荷物を、知らない、そして望まれてもいない目的地へと運んだ。
 熟練技術をもつ労働者は管理者へと「昇進」し、またはMagnitogorsk のような遠くの建設地へと「動員」された。
 共産党員たちは、集団農場を稼働させるために田園地帯へと派遣された。
 役所の労働者たちは、政府職員の「浄化(cleansing)」によって解雇された。
 10年ほど前の戦争、革命および内戦による大変動のあとで、定住する時期がほとんどなかった社会は、スターリンの革命によってもう一度、容赦なく振り混ぜられた。//
 (14)生活の水準と対等さの低下によって、ほとんど全ての階級の民衆が、都市であれ地方であれ、影響を受けた。
 集団化の結果として、最も被害を受けたのは、農民たちだった。
 しかし、都市での生活は悲惨だった。食糧の配給、行列、靴や衣服を含む消費用品の恒常的な不足、居宅でのひどい人口密集、私的取引の制限に関連している際限のない不便さ、およびあらゆる種類の都市公共サービスの悪化、によって。
 ソヴィエト同盟の都市人口は急速に増加し、1929年の初めの2900万人から、1933年の初めのほとんど4000万人にまで上がった-4年間で38パーセントの増加。
 モスクワの人口は、1926年末のちょうど200万人余から1933年初めには370万人に飛躍した。
 同じ期間に、ウラルの工業都市であるSverdlovsk (エカテリンブルク)の人口は、346パーセント増大した。(28)//
 (15)政治領域でも、小さくて遅々としたものだったけれども、変化があった。
 スターリンの個人崇拝は、彼の50歳誕生日の祝賀とともに、1929年末に本格的に始まった。 
 党の大会やその他の大きな集会では、大きな拍手喝采でもってスターリンの入場を歓迎するのが、共産党員の習慣になった。
 しかし、スターリンはレーニンの例を心得ていて、そのような熱狂を批判しているように見えた。
 そして、党の総書記という彼の地位は公式には変更されないままだった。//
 (16)左翼反対派に対する容赦のない攻撃は意識にまだ鮮明に残っていたので、「右翼主義」指導者たちは、慎重に歩んだ。
 彼らの敗北のあとの制裁は、比較的穏健だった。
 しかし、これは最後の公然たる(または公然に準じた)党内での党反対派だった。
 1921年以降に理論上は存在していた分派規制は、今や実際に存在した。その結果は、潜在的な分派も自動的に組織的な陰謀になる、ということだった。
 政策方針に関する明瞭な不同意は、今や党の会議では珍しくなっていた。
 党指導部は考えていることについてますます秘密的になり、中央委員会の会合に関する些細な情報は、もはや日常的に伝搬することはなく、党員たちが容易に知り得なかった。 指導者たち-とくに最高指導者-は、神秘さと探索不可能性をもつ神のごとき態度をとり始めた。(29)
 (17)ソヴィエトの新聞も、変化した。活発ではなくなり、192年代にそうだったようには、国内問題についての情報が少なくなった。
 経済的な成果はきわめて大きく報じられた。しばしば現実とは明確に離れて、また統計上の操作によって。
 後退や失敗は、無視された。そして1932-33年の飢饉に関する報道は、新聞からは完全に閉め出されていた。
 生産向上や「妨害者」に対する警戒心を高めることを推奨するのは、毎日の日常的な命令だった。新聞の不誠実さが、疑われた。
 新聞はもはや、最新のMary Pickford の映画についても西側タイプの宣伝広告をせず、交通事故、強姦や強盗などの些細な事件も伝えなんった。//
 (18)西側との接触はますます制限され、第一次五カ年計画の間には危険なものになった。
 外部世界からのソヴィエトの孤立は1917年革命とともに始まってはいた。しかし、かなりの量の交通や通信が1920年代にはあった。
 知識人たちはまだ外国で出版することができたし、外国の雑誌を注文することもできた。
 しかし、外国人に対する懐疑は、文化革命の見せ物裁判での主要な動機であり、これは指導部に増大している外国嫌悪症の反映だった。かつまた、疑いなく、民衆一般についてもそうだった。
 「経済絶対主義」という第一次五カ年計画の目標は、外部世界からの離脱をも意味していた。
 これは、国境が閉鎖され、包囲されているとの心理がある時代のことだった。そして、ソヴィエト同盟の特徴になることになる文化的孤立は、スターリン(およびスターリン後の)時代に確立された。(30)//
 (19)ペーター大帝の時代にように、国家が強く成長するにつれて、民衆は弱くなった。
 スターリンの革命は、都市経済全体に対する国家の直接的統制を拡張し、農民の農業を収奪する国家の権能を増大させた。
 それはまた、国家の警察組織を大きく強化し、グラク(Gulag、強制収容所)、工業化追求と密接に関連することになった労働者収容帝国、を創った(元来は自由な労働ではわずかに供給しかでききない地域での犯罪者労働による供給機関だった)。これは来たる数十年の間に、急速に拡大することになる。
 集団化および文化革命での「階級敵」に対する追及は、苦痛、恐怖および懐疑の、複合意識を遺産として残した。公的非難、迫害および「自己批判」のような実務を促進したことも含めて。
 全ての資源と全ての精神力が、スターリンの革命の行程で動員された。
 ロシアを後進状態から引き出すという目標からいかに隔たりがあるものが達成されたかを叙述することが、まだ残されている。//
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 (25) 以下の論述は、Sheila Fitzpatrick 編<ロシアの文化革命-1928-1931年>(Bloomington, IN, 1978)から引いた。
 (26) 以下の論述は、Sheila Fitzpatrick「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線>所収、および同・<教育と社会的移動>p.184-p.205. から引いた。
 同様の政策はウズベクやバシュキールのような「後進」民族のために用いられたことに注意。これについては、Martin,<積極的優遇措置帝国>, とくにCh. 4 を見よ。
 (27) 第一次五カ年計画の間の労働者の状況の変化につき、Hiroaki Kuromiya, <スターリンの産業革命>(Cambridge, 1988)を見よ。
 その後の展開につき、Donald Filtzer, <ソヴィエト労働者とスターリンによる工業化>(New York, 1986)を見よ。
 (28) 〔試訳者-二つのロシア語文献なので、略〕
 (29) この経緯につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリンのTeam について>p.91-95. を見よ。
 1930年代には「vozhd」(指導者)という語はスターリンのためのものではなかった、ということに注意。彼の政治局の同僚たちもまた、新聞では「vozhdi」と称されていた。
 (30) ソヴィエトの孤立につき、Jerry F. Hough, <ロシアと西側-ゴルバチョフと改革の政治>(2ed ed. New York, 1990),p.44-p.66.を見よ。
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 以上、第5章終わり。つづく第6章の表題は<革命の終わり>

1911/言葉・文章と「現実」④-革命。

 「法」よりも大切なものがある。
 これは、そのとおりだ。
 人の生命を最も尊重されるべきと考える人にとって、「法」よりも生命は重い。
 但し、「法」は、この場合は日本の刑事法だが、いろいろなことを配慮しているもので、例外的には「人殺し」を容認している。「死刑」、「正当防衛」等。
 「死」の定義も「脳死」問題も、おそらくは殺人罪(共犯を含む)・自殺幇助罪等との関係で問題になるのだろう。
 元にさっそく戻って、「法」よりも大切なものがある。これは、そのとおりだ。個々人にとって、「法」などが介在しない生活が望ましいかもしれない(しかし、かなりの程度は実質的、客観的に、そうでもないことは別に述べたい)。
 しかし、問題が「国家」の行動あるいは国政に関係する場合には-ここでの「国家」はいわゆる狭義の「政府」だけではなくて少なくとも立法・司法も含み、地方「自治」体も含む-、簡単に、「法」よりも大切なものがある、と主張してはいけない。
 花田紀凱が編集長している雑誌で、すでに月刊Hanada になっていただろう、ある号の読者投書欄の冒頭に、こんな主張が掲載されていた。
 ①<憲法よりも国家の方が大切だ。>
 この考え方は、法律レベルに落とすと、つぎと同じだろう。
 ②<情報公開「法」(法律)よりも軍事機密保持の方が大切だ。>
 これらの主張の趣旨は、私にもよく理解できる。
 だが、理解できる、というのは、そのとおりだと肯定する、という意味ではない。
 上の①に絞る。かつて、櫻井よしこは、「自衛隊は違憲だ」ということから出発しなければならないと明記していた。
 しかし一方で、2017年5月頃につぎの旨を、これまた明記した。
 <法理論的には問題があるが、現実的には、安倍晋三「自衛隊」明記提案も「したたか」で、容認できる。> これもこの欄で既述。
 そして、櫻井よしこが共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」とやら(正式名を確認しない)は、自衛隊員の名誉のためにも?<憲法に自衛隊明記を!>という運動をしているらしい(現実にはたぶん、日本会議派の活動員たちがしているものと思われる)。
 少し戻ると、<法的には問題があるが、現実的には>という櫻井よしこの発想は、<革命>を容認するものだ、と批判的に、この欄で指摘したことがある(2017年夏頃までに)。
 この考え方は、上の①とほとんど変わらない。
 本来の、この人が純粋には理解する「法」よりも「現実的政策」を優先させてよいことがある、ということを認めているからだ。
 国家・国政について、<国家の方が「法」よりも大切だ>と主張しはじめると、いったいどういうことになるか?
 これは「革命」を容認することだ。
 ここで「革命」は、「法」的正統性に関する<連続性>を絶つ、という意味でさしあたり用いる。
 「法」よりも「国家」が大切であるならば、「国家」のためには「法」を無視しても、同じことだが侵害しても、よい、つまり既存・現行の法・憲法との関係で「違法」・「違憲」であってもよい、ということになる。これは、<革命>を容認することだ。
 櫻井よしこの頭の中には、こういう<思想>が少なくとも一部にはある。
 そしてまた、花田紀凱も共感したのかもしれないが、<憲法よりも国家の方が大切だ。>という主張は、これを全面的・一般的に肯定する<思想>だ。
 なぜか、を少し叙述してみよう。
 問題はそもそも「国家」・「国益」とは何か、いったい誰が・どの機関が、どうやって判断するのか、にある。
 人によって「法」よりも大切だと考える「国家」・「国益」の意味内容は異なりうる。
 それを、自らの、又は自分たちの「国家」観、「国益」観でもって決定せよ、というのならば、そしてその場合には「法」>「憲法」を無視してよいという主張は、<革命>を、そして(曖昧な概念だが)<全体主義>の到来を容認するものだ。
 この点では、安倍晋三首相も、自民党も、<革命容認>思想に立ってはいないものとほぼ断定することができる。安倍首相は自らの地位が日本国憲法・公職選挙法・国会法等々に基づくことを当然に自覚・意識しており、「自衛隊」の存在とその組織や行動可能範囲が憲法(日本国憲法)に違反してはならないことを、十分に知っているものと思われる。
 だからこそ、憲法の現九条に関する内閣の「解釈」を変更したうえで、(安倍内閣は)いわゆる平和安全法制を国会に提案し、限定的集団的自衛権の<行使>を容認することに(内閣ではなく)国会も賛成して、諸法律が改正・制定された。
 この内閣・国会による「憲法解釈」を覆すことができるのは司法権(究極は最高裁判所)だが、そのような措置・判決は出ていないので、現在の状態は決して「違憲」ではない。
 従ってむろん、<立憲主義>に違反してもいない(正確には、そのような結論を、今の憲法上で出しうる権限ある国家機関が出していない)。
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 余計なことに(いつものように)立ち入れば、「立憲民主党」というのは奇妙奇天烈な名称の党だ。
 数十年前の内閣(内閣法制局)の憲法九条「解釈」だけが(またはそれまでが)合憲で、それ以外は憲法に違反し、「立憲主義」に違反すると(某一学者の影響を受けて?)考えているのだろうが、そもそも自分たちの「憲法解釈」だけが唯一正当だとする根拠はどこにもない。
 別途書いてもよいが、<立憲主義>にさほど深遠な意味があるわけではない、と秋月は理解している。
 これは要するに、「法律」=議会制定成文法よりも上位にある「憲法」が、法律制定機関(国会)・司法・行政権(地方「自治」体の立法・行政を含む)を制約し、拘束する、というだけのことだ。
 権力=政府(=安倍内閣?)だなどと理解してはならず、それよりも広い。
 核心的で最も重要な意味は、「国権の最高機関」・「唯一の立法機関」とされている国会=世俗的・一時的な「立法」者ですら、憲法には違反してはならない、ということだ。このような意味での「立憲主義」の採用はたしかに、「近代」以降のことだろう。
 かつてのソ連・現在の中国等は「立憲主義」国家か否かを、「立憲民主党」の諸氏には答えていただきたいものだ。
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 元に戻る。
 「国民」主権という場合の「国民」や、その「国民」による「国家」意思決定(・反映)手続は多様であり得る。したがって、何が「国民の意思」なのか「国民主権」に合致するかを簡単に答えることはできない。当たり前のことだ。
 興味深いかもしれない事例問題を作ってみよう。
 ①日本共産党とその党員・支持者たちが、ある程度の「実力」組織をもち、あるいは警察・「自衛隊」の内部にも党員・支持者を拡大して、これら組織の過半員は党員・支持者であるか積極的には同党に反対しない者になっている。
 ②日本共産党が現在または将来の「国会」、つまりは国民代表者であるはずの国会議員たちは、<真の>「国民」代表ではなく、<真の>「国民」の意思を示すものではないと判断・決定し、どこかで(国会議事堂前も使って?)数十万規模の大集会を開き、かつ地方各地で同様の集会を開く。
 ③かつそれが独自にもつ「実力」組織はもちろん、警察組織・「自衛隊」は、上の集会等を規制できず、少なくとも「実力」をもって解散させることができない。
 ④地方を含む上の集会参加者は事実上、首相官邸、多くの省庁の建物、警視庁および同類の地方の役所を(道府県警察本部も含めて)「制圧」する。
 ⑤日本共産党はあらかじめ<新政府>閣僚名簿を用意し、東京のどこかに<新内閣>が構成されたとし、集まったマスコミ等に今後の政策方針も発表する。
 ⑥これらに関して果敢な何らかの措置を首相・警察庁長官等の権限者は発することをせず、又はすることができず、国会(衆参の区別をしないで書く)の多数派の議員団が特別の法律を議決・公布・施行して対処しようとするが、躊躇する議員も与党内にいて、協議に時間を要する。そして、「新政府」樹立等の報道等に接したり、国会内の共産党議員の主張・意見に立腹したりして、動揺したり立腹したりした結果として、与党議員はかなり退席してしまう。
 ⑦残る国会議員たちだけでぎりぎり現行国会法等が定める定足数を充たすことが判明し、共産党議員団は現国会を「自主解散」をし、実質的には<真の>国民の意思を代表するものとして「新政府」を正統な内閣として承認し、「新政府」のもとで現公職選挙法にもとづく選挙によって新しい国会を構成する旨の提案をし、同党と共闘政党および与党内「日和見」議員を足すとぎりぎりの過半数はあったので可決される(過半数でよいかの議論は一部または相当にあったが、結果的には無視された)。
 ⑧共産党および同党議員団は国会の<過半数議員>が賛成した<有効な>議決であるとし、「新内閣」への行政権移行を宣言し、国内・国際的にも大きく宣伝・報道する。
 さて、この事態、あるいは<権力移行>は、「暴力」革命なのか「平和」革命なのか?
 そもそも「革命」にあたるのか、そうではないのか。
 <真の>「国民」の意思に基づくというのは本当か? しかし、出席国会議員の<過半数>は新政府をそれとして正当化した、ということはどういう意味をもつか?
 いろいろな場合・動きを(米軍とか天皇とかの言動等を)想定して記述すると複雑になるので、避けている。
 言いたいのは、「平和」革命か「暴力」革命か、あるいは「革命」か否かは、実際にはさほど明確になるのではないだろう、ということだ。
 これは、元々は「国民」とか「国民の意思」という言葉から書き出したのだったが、とりわけ最後の「暴力革命」という言葉・概念の理解の仕方になる。
 そして、日本共産党が「暴力革命」路線を捨てていないコワイ党だといくら主張したところで、その「暴力革命」の意味を明確にしておかないと、全く意味がない。この批判は絶対に概念的、理論的には、日本共産党にコタえていないだろう(そのおかげで票が減るのはイヤだろうとしても)。
 ロシアの十月革命(新暦11月)の<新政府設立>=「社会主義革命」と少なくとものちに言われた一日または数日間、「実力(=暴力)組織」は存在していたが、じつはほとんど「血」は流れていない、つまり旧体勢派(当時のケレンスキー首班の臨時政府側)に多数の死者が出たのでもない。大殺戮、大虐殺といったものは起きていない。
 しかし、どうもこれは<暴力革命>だとされているようでもある。
 しかし、上の日本の?事例は、現憲法下の「国会」が何とか機能しており、法的連続性を何とか認めようとしており、かつかりに抵抗する国民・旧大臣等の大殺戮等がなかったとすれば、ロシア革命よりはさらに穏便な<権力移行>なのではないか?
 ともあれ、基本的な言葉・概念の使い方によって、「現実」はいかようにでも形容され、表現され得る、という面がある。
 <真の国民の意思>が何かはむろん容易には具体的に判明しないが、<それを代表する>とする政党・同党議員がまさにそれを代表すると「思い込んで」、実力組織の用意も含めて、強力に上のような「事例」を生じさせることはあり得るのではないだろうか?? 彼らにとって、「国民主権」原理と、なんら矛盾していないのだ。もともと国会以外では、<多数者に支えられた>新政府なのだ。
 なお、1917年10月、第ニ回全国ソヴィエト大会でのメンシェヴィキ等の「退席」はボルシェヴィキ(のちの共産党)に明らかに有利になっており、たぶん<全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会>の名前でレーニンは<臨時政府は打倒された>等の声明を発した。
 長くなったがともあれ、「暴力革命」という概念の意味も明確ではなく、その範囲内に一定の「現実」が該当するか、という問題が生じることも当然にあり得るだろう、ということだ。
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 日本会議会長の田久保忠衛は昨年か一昨年の同会機関誌「日本の息吹」定例号かその特別号で、以下の旨を明言していた。
 <あらためて綱領・設立宣言等を読んでみたが、なかなかいいことを書いているではないかと思った。>
 会長が「あらためて」読んでこう感じた、というのも幼稚な感じがするが、これに関して言いたいのは以下だ。
 どの組織・団体もその設立趣旨・規約等々に<悪い>こと、一般的に<指弾されるようなこと>は書かないだろう。人を殺す団体です、とか日本の破壊を目指す団体です、とかはまず(前者はたぶん絶対に)書かない。
 設立宣言等に書いていることと、客観的にその組織・団体が行っている活動の効果や影響は(それがあるとして)同じであるとは全く限らない。「言葉・文章」と「現実」的機能が同じであるはずがない。
 日本共産党もまた、その綱領で、「社会主義」・「共産主義」という言葉を気にかけなければ、「なかなかいいこと」らしきものを書いている(以下、現行の綱領の一部)。
 ・「…さらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
 ・「二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とすることをめざして、力をつくす」。
 前者のうち、「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」。なかなか、美しい社会ではないか。とくに「真に平等で自由な人間関係からなる…」は気にいった。「真に」と書いてあるから、では「ニセ」は?という疑問が生じるし、「原則として」とあるのも、タマにキズだけれども。

1910/言葉・文章と「現実」③-元号。

 成文法とは別に不文法があるとは一般論として言えるし、より具体的には、憲法(日本国憲法)よりも高次にある日本に固有の「法」があるという主張が分からなくはない。
 しかし、それは具体的に何かは明確ではない。「法」とは必ずしも、日本に固有の歴史的伝統的価値と同義ではない。歴史的伝統的価値があるとしても(それは具体的に何かも問題だが)、それは倫理、習俗、宗教、世界観・死生観等として継続し得るもので、「法」である必然性はない。
 ここで当然に「法」とは何かが問題になる。マルクスが言ったという、究極的「共産主義」社会での<国家と法の死滅>に影響を受けているわけではないが、「法」をその他の諸規範と区別するのは、国家又は人間集団が帰属する共同体を何らかの意味で「現実に」規律しようとするもので、何らかの意味での「現実化」するための装置が国家又は共同体によって用意されている、ということだろう。
 幼稚なものだが、このようにでも解しておかないと、「法」が諸々の規範と同じものになってしまうか、残る諸規範と区別することができない。
 さて、憲法(日本国憲法)よりも高次の日本に固有の「法」があるという主張はそれとしてあり得ると思うが、具体的に何かは個別に検討されなければならない。
 急に具体的な話題になるけれども、中川八洋が最近に奇妙な、または不思議な主張を天皇・皇室問題について行っていて、その小さな一つは、「天皇の大権である元号制定権に従い、新元号は新天皇にしか制定できない」(2019.01.15)、というものだ。
 この主張はある程度は<日本会議>派とも共通していて、彼らの中には、新元号の発表は新天皇の即位後に新天皇によって行われるべき、と考えるものもあるらしい(その他のいくつかの論点はあるが、立ち入らない)。
 しかし、天皇自身による元号制定・施行が日本の「歴史的伝統的」価値あるいは「法」だったとしても、それが現在までそのまま続いているかどうかは問題になる。
 元号あるいは国歌・国旗の類は最高の(とされる)成文法である憲法典の中に関係条項があってもよいと思うが、現在の日本国憲法には関連条項はない。「世襲」天皇制度を現憲法が明文で認めていることを根拠にして、従前に天皇が有していた「大権」もそのまま継続して認められるという憲法解釈が全く成り立たないとは思えないが、従来の「大権」をほとんど実質的に否認する条項は現憲法上に数多い。そして、「元号」決定権または「元号」制度自体の継続それ自体についてすら、憲法上には明文規定がない。
 そして、この問題を解決したことになっているのは、憲法上の明記ではなく、<元号法>という、憲法よりは下位の<法律>だった。
 「 元号法(昭和54年法律第43号)
 1 元号は、政令で定める。
 2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
 附則
 1 この法律は、公布の日から施行する。
 2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」
 1979年(昭和54年)6月12日に公布・施行。
 これによると、元号法はさらに<政令>へと元号決定権を委ねている。
 政令とは現憲法上の「内閣」が制定するものだ(これにはいちおう明文規定がある)。
 とすると、これに従えば、元号決定権能は、内閣にある。
もちろん、これを認めず、不文法をこの法律・政令に優先させようとする議論はあり得る。
 しかし、もともとは、<元号法制化>運動は、「昭和」以降を憂慮しての、どちらかというと<保守>または<右派>が主導したものだった。そうだとすれば、元号法制化を推進した人々は、元号決定を天皇の権能とし(但し、現憲法では内閣の助言等に基づくことにはなろう)、上の第一項には断固として反対すべきだった。そのように賛成政党に対して、強力に働きかけるべきだった。
 中川八洋に責任があるとは言わないが、この元号法の制定と施行に大きな反対をしないでおいて、ほぼ40年も経ってから上の第一項と矛盾することを主張するのは奇妙なのだ。
 憲法以上の伝統的な日本の不文「法」または憲法に違反している、と1979年の時点において、元号法(という<法律>)の内容に反対する運動を激しくしておくべきだったのだ。
 しかして現在、今年の4月1日には新元号が「発表」されるらしい。
 ということは、内閣は新元号を3月31日の深夜か4日1日早くに「決定」するのだろう。前日「深夜」と書いたのは、前日の昼間の閣議で決定したのでは、翌日午前0時までにその内容(新元号)が「漏洩」する恐れがあるだろうからだ。そして、たぶんすみやかな公布ののちに施行は5月1日(午前0時)とされるのだろう。この施行によって元号は「改め」られることになる。
 こうして、(種々の運用の可能性のあることには立ち入らないが)、40年前の元号法が定めた「規範」の内容は「現実」化されようとしている。
 中川八洋は「天皇の大権である元号制定権」を剥奪した(しようとしている)のは安倍晋三だとのごとく主張しているが、そうではなくて、とっくに(「違法」・「違憲」だとは確定されていない)法律が天皇の「元号制定」大権を否定しているのだ。そして、今日までそれは、<現実>には、異論をたぶんほとんど挟まれずに推移してきた。
 中川八洋の主張は(それ以外の点も含めて)ひよっとすれば「正しい」のかもしれない。
 しかし、<言葉・文章>上の主張内容がいかに「正しい」ものであっても、あるいは最適なものであっても、それが<現実>になるとは限らない。
 また、<言葉・文章>上の主張内容がいかに正しく、いかに美しくとも、そのように<言葉・文章>を書いたり語ったりしている者が、本当に正しく美しい行動を<現実>に執るかどうかは全く分からない、という基本的論点もある。
 「言葉・文章」と「現実」の乖離は、あるいは前者による主張が後者につながるわけでは決してないことは、これまでの歴史上の(日本に限らず)、貴重な教訓でもあるだろう。
 ところで、中川八洋からかつて多くを教えられたし、その「保守」=「反共産主義」という明確な姿勢は貴重なものだ。
 しかし、最近のブログ欄の主張を読んでいると、上のほかにも、奇妙なものがある。
 例えば、退位式典が4/31で即位式典が5/1とされていることをもって「空位」が生じる、という主張もしていると解される。しかし、両者は近接した、又は継続した儀式である方が望ましいという主張は理解できるとしても、あくまで両者は「式典」なので、5/1の午前0時の一瞬間に退位(又は譲位)と即位が連続して行われる、と当然に理解することができるのではないか。こちらの方が、常識的・良識的な理解なのではないか。
 「きわめて賢い」中川八洋が、大正・明治以前の、あるいは光格天皇譲位の際以前の皇位継承の「実務」が、そのまま現在の「実務」を拘束するわけではないことは理解できるだろう。現憲法とそのもとでの法制によって「現実」は実現されていかざるを得ないことは理解できるだろう。
 この人は、現憲法「無効」論者だったのだろうか。
 日本会議派諸氏の「あほ」ぶりとはまた別だが、ひどく残念に感じざる得ない。

1909/言葉・文章と「現実」②。

 観念-現実、という主題のはずが、「文学部」・大学論へとすでに(いったん)逸れている。
 逸れついでに言うと、昨年に話題の一つになった<大学スポーツ>または<大学とスポーツ>も、奇妙な問題を含んでいた。
 体育やスポーツに関する学問の必要を否定しないし、そのような研究・教育のための大学や学部の存在を否定するものではない。しかし、元来は「文学」、「法学」、「経済学」等を勉強している、又はそうするために大学生になった(はずの)者たちにとってのスポーツとかサークル活動とは何なのだろう。
 あれこれと書くと長くなるので適当に切り上げるが、テレビ「報道」を見ていて不思議だったのは、以下だ。すなわち、同世代の半分程度に少なくなったとはいえ、大学に進学しないで、または進学することができないで(これは本人の「学力」・「かしこさ」とはしばしば関係がない)、<大学で(余暇に?)スポーツ活動をする>ことなどがそもそもできない、かつすでに勤労者となって自分で生活しているだろう、多くの高校出身者のことを、どう考えているのか?
 特定の大学生等々を問題にしているのではない。いろいろな論点、問題はあるだろう。しかし、<何と贅沢な>話題だろう、<何と贅沢な>批判だろう、という気がしてならなかった。
 それだけ、いまの日本がまだ<平和で豊か>なのかもしれない。
 大学もすでに<教育企業体>であり、<教育産業>の一角だ、という当たり前かもしれないことにも気づく。その企業体の被雇用者としての事務職員もいるし、被雇用者の中には、表向きは「学問・研究者」である大学教師という「教育(・研究)労働者」もいる。
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 「教養」がある、「知識」が多い、というだけで、なぜエライのか。教養や知識は「現実」に対して何らかの意味で<有用>であって初めて、有意味なものになる。
 こう前回に書いた。だがさらに、<何らかの意味での有用性>の意味も、むろん問われる。
 つまり、「教養」・「知識」、あるいはそれがより形式的に具現化されているとみられることがある「学歴」や現時点での<知識人>ふうの肩書き、といったものは、それだけでは本当は何の「有用な価値」もないのだと思われる。
 これは「有用」性の意味の問題でもあるが、「無用」である場合だけではなく、「有害」である場合もあり得る。
 つまり、「教養」・「知識」あるいは「知識人」が多数の人々または「社会」あるいは「歴史」に対して、<悪い>影響を与える(与えた)こともある、という明瞭な事実に目を塞ぐことはできない。
 物理学等の研究は大量殺戮兵器を生み出してしまった、という例でもよいかもしれない。
 あるいは、レーニンも、スターリンも、それなりに、あるいはきわめて、「賢かった」人物だつただろう。
 「教養」も「知識」も、それ以上の「学問研究」も、<現実>に対して与えた影響・効果でもって最終的には評価されなければならない。
 「知識人」ふうであることが、それ自体で有用な「価値」をもつわけではない。
 この辺りを勘違いしている人が少なくないような気がする。
 急にまた逸れるが、かつて清水幾太郎は<左>から<右>へと大旋回を遂げたようだ。<保守>派に転じた頃のこの人物の文章を読んだこともある。
 しかし、大旋回したとはいえ、清水幾太郎にとっては「知識人」として遇されることが最も重要なことで、「知識人」として目立ち、話題にされれば、その思考・発言内容は<左>でも<右>でもどうでもよかった、少なくとも第二次的なものではなかっただろうか。
 そのような「知識人」ふうの人々は、右にも左にも、斜め右上であれ斜め左であれ、手前にも奥にも、現在の日本にも多数棲息しているように見える。
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 多少とも「現実」に向き合わざるをえない学問研究分野と、直接的・経験的な「事実」そのものよりも「言葉・観念」を第一次的な研究対象とする学問研究分野がある。
 大雑把であることは十分に自覚して書いているが、経済学や法学は前者で、少なくとも狭い意味での「文学」は後者だ。
 法学部出身者(の多く)には当たり前のことを、以下に書く。
 「法」は規範の一種であって「現実」そのものではない、ということは、どの入門書でも最初の方に記述されていることだろう。
 「法」と「現実」が乖離していることがあることなど、当然の前提だ。
 また、「現実」が一定の「法」規範群に照らして正当な(または「適法な」)ものであるか否かを判断するためにこそ、「法解釈」論・学という<実用性>の高い議論も必要になってくる。
 もとより「法」規範の内容は変化するもので、それは「社会の現実」が要求することが多い。一方でまた、法」規範はそれに適合するように「社会の現実」が変化することを要求する機能も持っている。
 さらにもう一段階進んで言うと、「法」規範の内容はさしあたりほとんどの場合は<言葉・概念>で明文化されている(不文法に対する成文法)。
 この成文法自体が用いる言葉・概念・観念は一義的にその意味内容が明瞭であるとは限らない(そうでない場合がほとんどだろう)ために、上にいう「法の解釈」も必要になる。
 言葉・言語それ自体と「現実」の関係は、哲学的または理論的あるいは認識論的にいうと相当にややこしい議論があるようでもある。
 早い話が、「現実」そのものも、「直感」されないかぎりは「言葉」で叙述せざるをえない。「言葉」でこそ、「現実」に関する主体の「認識」も伝達することができる。
 法規範上の「言葉」と「現実」の関係は、F・ソシュールのいう<表現形式>(signifiant)と<意味内容>(signifié)の区別に単純に対応するのではないだろう。
 規範は特定の物・事象のみを表現しようとするものではない。それが持つ意味も幾層の段階があり、系統的な「構造」をもち得るもので、それらが同時にまた「現実」に関する何らかの意味づけをさらに前提にしている可能性がある。
 言語学・言語哲学あるいは法哲学の「しろうと」として書いている。
 しかし、よく言われるようにsollen とsein の違いを法学は当然の前提にしている。このような説明自体が、何らかの哲学・認識論を前提にしているのかもしれないのだが。
 いずれにせよしかし、「規範」ばかりでもない、事実を叙述するものも多い、「言葉・文章」を第一次には研究対象としている学問分野があって、それは不可避的に、生々しい「現実」からは遊離してしまう危険性・可能性がある、と考えられる。「文学」畑の人は注意しなければならない。
 この「現実」の中には「歴史的事実」、つまり「過去の現実」も含まれる。
 前回に名を掲げたような人々をじつは念頭に置いているのだが、この人たちには、「言葉・観念」があればそれが「現実」的な実体をもつと、あるいは新しい「言葉・観念」を作り出せば(正確には脳内作業にすぎなくとも)それは何らかの「現実」的な実体を持ち得るとでも誤解しているところがないだろうか。
 江崎道朗において、「保守自由主義」とは何か。
 櫻井よしこ、小川榮太郎において、(あるいは<日本会議>のいう)「日本」とは何か。
 これらは「歴史的事実」にも密接に関係する観念・概念だが、いかなる<実体>を持たせているつもりなのだろうか。
 これらの「意味内容」を明瞭にしないままで、たんに「歴史と伝統」とか言っても、ほとんど空論だ。少なくとも、自分たちで自己満足はできても、他者と議論できるようなものには決してならない。
 ある程度は、またはかなりの程度は、言葉・概念の用い方に関する厳密さ・丁寧さの<程度>の問題に大きくはなるのかもしれない。
 「歴史的事実」の認定とその評価について、際限もなく議論は発生し得るからだ。
 しかし、そうではあっても<度を超えて>はならないだろう。
 その部分を「精神論」だまたは「文学」だ、「物語」だなどと称して、曖昧にしてはならない。
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 L・コワコフスキの造語らしいのだが、彼はたぶん面白がって?、<保守的自由主義的社会主義>(conservative liberal socialism)という概念を使ったことがあるらしい。
 ナツィス党は<国家(国民)社会主義労働者党>。これでもnationalとsocial を併存させてかなり広そうだが、conservative 、liberal、socialの三語・三観念を包括する政党または主義・思想は、ほとんど何でも包括してしまうように見える。多種、多様、雑多な、異なる次元の、諸概念がある。
 再び、法学における言葉・文章と「現実」との関係に戻って、多少は具体的に散文つづりを続けてみよう。

1908/言葉・文章と「現実」①-「文学部」出身者。

 言葉・観念・文章・修辞と「現実」について、書こうと思う。
 そして、両者の違いについての意識・感覚が少ないかほとんど全くない場合があるのは、大学の出身学部でいうと相対的には(経済学・経営学・法学・政治学)ではなく「文学部」(・外国語学部または一部の「教育学」)の出身者であり、そういう人々がかなり多く日本の<(知的)情報産業界>の要職に就いているらしいがゆえに、必要だったまたは不可避だった以上に戦後日本は<悪くなった>、という面があることも、 書こうと思う。
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 渡部昇三(故人)、櫻井よしこ、小川榮太郎、江崎道朗、平川祐弘、加地伸行、長谷川三千子、花田紀凱
 こう並べただけで一定の<主張・思考>の傾向がある。(櫻井よしこが外国の「歴史」卒業とされている以外は)全て日本の大学の「文学部」出身者だ。外国語学部出身者を含む。
 文学部にもいろいろあるが、哲学/思想・(狭い)文学系に著しいかもしれない。
 本来は「社会学」は社会系のはずだし、「歴史学」も総合的な社会系のように思われるが、しかし、日本の悪しき<文学部>系の影響を、これらも受けている可能性がある(心理学、地理学は、理・文の両者にかかわるだろう)。
 いつぞや池田信夫が日本の人文社会系学部の廃止を主張しており、共感するところがある(極論としてはいったん指導教師-学生の関係を全て断ち切るべきだ)。しかし、では司法・行政の官僚または人文社会系の「専門家」・「技術者」をどう養成するかという重要な問題は残る。
 しかし、上に上げたような「文学」関係分野は、そもそも大学という「高等」教育機関には不要ではないか。人文社会系学部全体とはいえなくとも、人文系学部くらいは原則廃止くらいの方が、日本のためになる。
 これは「素養」・「教養」のようなものにかかわる。大学で本来、「素養」・「教養」のごときものを教育する必要があるのか?
 現実には通用しない主張であり、議論であることは承知している。
 より大きな問題は、「大学」なるものに、同世代人口の今や半分近くが進学しているという「現実」そのものにあるのだろう。
 この数は、-時期によって異なるが-戦前の「旧制中学」への進学者よりもはるかに多く、従ってまた、現代日本の「大学教授」様たちは、戦前の「中学」の教師たちよりもはるかに(相対的な)知的等のレベルは劣っている。大学の大衆化は、大学教師の大衆化・劣化でもある。
 それにそもそも、明治以降の「教養」重視教育も関係があるものと思われる。
 「教養」がある、「知識」が多い、というだけで、なぜエライのか??
 教養や知識は「現実」に対して何らかの意味で<有用>であって初めて、有意味なものになる。
 それでもしかし、(すぐに役立たなくとも)長期的に有益であればよい、あるいは、<役立たない学問にこそ意味がある>というような主張をする人がいるだろう。
 しかし、日本のいわゆる<リベラル・アーツ>教育・研究のあり方は、根本的に再検討されるべきだろう。
 本当に「何ら役に立たない」のであれば、存在しても無意味だと考えられる。
 役に立っているのは、某大学であれ、某々大学であれ、その「文学部」であれ、そこを卒業している、という<レッテル付け>でしか、もはやないのではなかろうか。
 しかし、似たようなことは、50パーセント近い大学進学率となると、経済学部や法学部についても、もちろん言える。
 しばしば思うのだが、現在の学校・教育制度の根本的な変化がないかぎりは、<戦後レジーム>の終焉はない、と考えられる。矛盾しているようでもあるが、逆に、<戦後レジーム>の終焉があってはじめて、六三三四制という学校・教育制度の変化も生じるのではないか、と思われる。
 しかし、ほとんど誰もそれを口にしないのは、いつか触れたが、右であれ左であれ、斜め右上であれ斜め左下であれ、手前であれ奥であれ、<戦後レジーム>の受益者たち(またはそう「感じて」または「思い込んで」いる者たち)が、日本の既成権益階層(establishment)を形成しているからだ、と思われる。
 その中には、少なくとも中堅以上の、新聞社、放送局、雑誌・書籍等の出版会社、簡単に言って<情報産業界>の社員等も含まれる。これらに登場したり、執筆したりしている者も含まれる。
 なお、別の論点だが、情報産業の中では「広告・宣伝」がむしろ最重要の業務であって、新聞社、放送会社のほとんどは、かなり、又はほとんど「広告・宣伝」業者でもある。「広告・宣伝」企業の一員であるにもかかわらず、<ジャーナリスト>などと自分を考えない方がよいと感じる者もいっぱいいる。
 一度誰かが調査・研究すればよいと思われる。
 テレビ番組の制作者・構成作家、新聞の論説委員・記者、雑誌の編集者等々には、かりに大学出身者だとして、いったいどの学部出身者が多いか? 「文学部」ではなかろうか。
 表向きのテレビ・コメンテイター類や論壇?雑誌の執筆者ではなくて、日本の「知的」雰囲気を形成しているのは、じつは、テレビ番組の制作者・構成者、雑誌の編集者等々、だろう。

1907/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑯。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). の試訳のつづき。
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 第5章・スターリンの革命。
 第1節・スターリン対右翼(the Right)。

 (1)1927-28年の冬、党指導者たちは、農民層に関する政策で、一方でスターリン、片方でのちに右翼反対派として知られる集団、の二つに分裂していた。
 直接の問題は、穀物の獲得だった。
 1927年秋の豊作にもかかわらず、農民による市場取引と国家の穀物取得は、想定よりもはるかに落ち込んだ。
 戦争の恐怖が一要因だったが、国家が穀物に提示する価格の低さもその要因だった。
 工業化追求がすでに見込まれていたので、体制側が農民たちからさらに搾り上げる政策を執るか、それとも金銭で全て買い取ってしまう経済的帰結を生じさせるかが、問題だった。//
 (2)ネップの間は、農民の農業生産物に相対的に安い価格を支払い、一方で同時に、国有産業が生産した工業製品には相対的に高い価格を支払って国家による資本蓄積を増大させるのは、体制側の経済哲学だった。
 しかし、実際には、穀物についての自由市場の存在によってこれはつねに緩和されていて、国家が定める価格は市場の水準に近いままだった。
 国家は、農民層との対立を欲しておらず、ゆえに、1923-24年の「鋏状危機」が発生して農業生産物価格と工業製品価格の差が大きすぎるに至ったとき、譲歩をした。//
 (3)しかしながら、1927年、工業化追求は、多くの点での均衡を変えた。
 穀物収穫高は信頼できなかったので、外国からの機械類輸入と均衡させるための大規模な穀物輸出の計画は危うくなった。
 穀物価格が高ければ、工業拡大のために用いることのできる資金は減少し、第一次五カ年計画の達成をおそらく不可能にするだろう。
 さらに、市場に出る全穀物のほとんど大部分はロシア農民の農業のごく一部にすぎないと推定されたので、穀物価格を高めることによる利潤は農民層全体ではなくて-体制の階級敵の-「クラク」に入るように思われた。//
 (4)1927年12月に開催された第15回党大会では、公的論点のうちの主要な話題は、第一次五カ年計画および(トロツキーとジノヴィエフの)左翼反対派の追放だった。
 しかし、これらの背後では、穀物取得問題が指導者たちの心理の中できわめて大きく、国の主要な穀物生産地帯の代議員から、懸念する議論が述べられた。
 大会の直後に、多数の政治局および中央委員会メンバーが、これら地帯に向けて、早急の調査の任務を帯びて出発した。
 内戦以来の数少ない地方旅行の一つだったが、スターリン自身が、シベリアの状況を調査するために出立した。
 党の有望な人物で、高い教育を受けた有能なSergei Syrtov が指導する党シベリア委員会は、収穫に関する農民層との対立を避けようとしていた。そして、最近ではRykov (ソヴィエト内閣の長および政治局員の一人)から、執るべき正当な政策だと承認されていた。
 しかしながら、スターリンの考えは、異なっていた。
 1928年早くにシベリアから帰って、スターリンは、自分の考えを政治局と中央委員会に知らせた。(7)//
 (5)スターリンが結論づけた根本問題は、クラクは穀物を収穫して隠匿し、ソヴィエト国家を人質にしようとしている、ということだった。
 クラクたちの要求は高まるだけだろうから、穀物価格を上げたり工業製品の田園地帯への供給を増やしたりする懐柔的手段は無意味だ。
 いずれにせよ、国家は彼らの要求に合わせることはできない。工業の改善こそが優先されるべきだからだ。
 短期的な解決(ときどきは農民層との間の「ウラル・シベリア方法」と称された)は、実力行使だ。すなわち、「収穫して隠匿する」農民は、元来は都市の投機者に対処するものとして立案された刑法典107条にもとづいて、起訴されなければならない、というものだ。//
 (6)スターリンが示唆した長期的解決は、農業の集団化を押し進めることだった。これは、都市部、赤軍および輸出の需要に対する穀物の信頼できる供給源を確保し、穀物市場でのクラクの支配もまた破壊するだろう。
 スターリンはこの政策はクラクに対する過激な手段だ(「脱クラク化」)または穀物の強制的徴発という内戦期の実務への回帰だ、ということを拒否した。
 しかし、この拒絶自体が、不吉な響きをもった。指針を求める共産党員たちにとって、ネップを想起させる標語が用いられないで内戦時の政策への言及があることは、攻撃の合図に等しいものだった。//
 (7)スターリンの政策-宥和ではなく対立、訴追、農民小屋の探索、農民が公定価格よりも高い価格で提供する取引人を見つけるのを阻止するための道路検問-は、1928年春に実行に移された。そして、穀物取得の水準を一時的に改善させた。同時に、農村地帯では、緊張が急速に増大した。
 しかし、新しい政策に関して、党内部にも、大きな緊張があった。
 1月、地方の諸党組織は、多数の、しばしば矛盾する指令文書を政治局と中央委員会からの訪問者から受け取っていた。 
 スターリンはシベリアの共産党員たちに頑強であれと語ったが、一方では、Mosche Frumkin (財政人民委員代理〔=財務副大臣〕)は南部ウラルの隣接地域を訪問旅行し、宥和および穀物に対する直接交換物として工業製品を提供することを助言していた。
 また、Nikolai Ulganov (モスクワ党組織の長で政治局員候補)は低地ヴォルガ地帯で同様の助言を与え、さらには、つぎのことに注目させていた。すなわち、中央からの過大な圧力は、いくつかの地方党官僚組織に、望ましくない「戦時共産主義の方法」を穀物取得のために用いるよう指導している、と。(8)
 偶然にか意図してか、スターリンは、Ulganov たちやFrumkin たちを愚かだと思わせるようにした。
 政治局の内部では、スターリンは合意を獲得するためのその初期の実務を捨てており、きわめて恣意的でかつ刺激的なやり方で、単直に自分の政策方針を押し通した。//
 (8)スターリンに対する右翼反対派は1928年初めに、党内での指導性を集め始めた。それは、左翼反対派が最終的に敗北してわずか数カ月後のことだった。
 右派の立場の根本は、ネップの政治的枠組と基本的な社会政策は変えずに維持しなければならない、それらは社会主義建設へと向かう真の(true)レーニン主義的接近方法を意味している、というものだった。
 右派は、農民に対する実力行使、クラクの危険性の行き過ぎた強調、そして貧農がより裕福な農民に対抗して行う階級戦争を刺激するのを意図する政策に反対した。
 農民層に対する実力行使は穀物配達のために(したがって穀物輸出と工業化追求ら要する財政のために)必要だという論拠に対しては、右派は、工業生産高と発展に関する第一次五カ年の目標は「現実的な」ままで、すなわち相対的に低いままであるべきだ、と反応した。
 右派はまた、The Shakhy裁判が例証するような、かつての知識人に対する攻撃的な階級戦争という新しい政策にも反対した。そして、戦争の切迫やスパイと罷業による危険を絶えず議論していることで発生している危機的雰囲気を除去しようとした。//
 (9)政治局にいる主要な二人の右派は、ソヴィエト政府の長であるRykov と、<プラウダ>の主席編集長、コミンテルン議長、傑出したマルクス主義理論家であるBukharin だった。
 彼らのスターリンとの間の政策不一致の背後にあったのは、スターリンはレーニン死後に演じられてきた政治ゲームのルールを一方的に変更したという意識だった。スターリンは、ネップという基本的政策の多数の前提を放棄すると見えたのと同時に、集団指導制のための会合をそっけなく無視していたのだ。
 トロツキー主義やジノヴィエフ主義の反対派との闘いではスターリンを支持した激しい論争家だったブハーリンは、個人的に裏切られたという特有の意識をもった。
 スターリンは彼を政治的に対等に扱い、自分たちは党の二つの「ヒマラヤ」だと保障はしたけれども、スターリンの行動は今や、ブハーリンに対する本当に政治的なまたは個人的な敬意をほとんど持っていないことを示していた。
 失望に血気早く反応したブハーリンは、敗北した左翼反対派の指導者たちと1928年夏に秘密の会合を開くという、政治的には破滅的な一歩を進んだ。
 ブハーリンがスターリンを革命を破壊する「チンギス・ハン」と私的に性格づけたことは、すみやかにスターリンの知るところとなった。しかし、スターリンのために彼が近年に攻撃した者たちに対する信頼が増大したわけでもなかった。
 スターリンの仲間たちは、その多数はブハーリンの個人的友人だったが、憤激し、彼らは躊躇していてブハーリンの側につくかもしれないとの彼の主張によって、不和になった。(9)//
 (10)ブハーリンは私的に主導性を発揮したけれども、政治局の右派は、反対派を組織する努力を何ら行わず(左翼が引き起こした「分派主義」に対する制裁を遵守していた)、その議論をスターリンとともに遂行し、政治局のスターリンの支持者たちはドアを閉鎖した。
 しかしながら、この戦術は厳しい不利益をもたらしたことが分かった。政治局の狭い部屋にいる右翼主義者たちは、党内にいる曖昧で匿名の「右翼の危険」--この意味は、気弱で優柔不断な指導性の傾向と革命的確信の欠如だった--に対する公共的な攻撃に参加することを余儀なくされた。
 党指導部の閉鎖的な集団の外にいる者たちには、何らかの種類の権力闘争が行われていることが明瞭だった。しかし、係争点が何かも、右翼として攻撃されている者が誰かも、長い月日の間、明確にはならなかった。
 政治局の右派は、党内に支持を広げるようとすることができなかった。そして、彼らの基本的主張は、歪められたかたちでその対抗者によって公にされ、右派自身によっては、ときどきの示唆かイソップ的な言及しか行われなかった。//
 (11)右派勢力の二つの主要な根拠は、Ugalnov を長とするモスクワの党組織と、政治局の右翼メンバーのMikhail Tomsky を長とする中央労働組合会議だった。
 前者は1928年秋にスターリン派に屈し、ついには、スターリンの古い同僚のVyacheslav Molotov が指揮する徹底的な粛清を受けた。
 後者は数カ月後にスターリン派に屈したが、こちらの場合に指導したのは、目立ってきているスターリン支持者のLazar Kaganovich だった。この人物は、まだ政治局員候補者にすぎなかったが、悪名高く面倒なウクライナ党組織に関して以前に割り当てられた仕事での頑強さと政治的狡猾さで、すでによく知られていた。
 政治局内の右派は孤立し、政治的策略に負け、最終的には氏名が識別され、1929年の初頭に裁判にかけられた。
 Tomsky は労働組合での指導力を失い、ブハーリンはコミンテルンおよび<プラウダ>編集部での地位を奪われた。
 Rykov は政治局内右派の最長老であり、ブハーリンよりも慎重で実際的な政治家だった。また、おそらくは党指導層内にもっと力があったと推定される。そして、右派の敗北後もほとんど二年間、ソヴィエト政府の長にとどまった。しかし、1930年の末には、Molotov と交替させられた。//
 (12)右派が党と行政エリートたちの間で現実にいかほど強かったのかは、査定するのが困難だ。公然たる論争や組織された分派が存在していなかったのだから。
 党と政府官僚機構からの集中的な粛清が右派の敗北後に続いために、右派はかなりの支持を得ていた(またはそう考えられていた)ように見えるかもしれなかった。(10)
 しかしながら、右派だとして降格された官僚たちは必ずしもイデオロギー的には右派ではなかった。
 右翼とのレッテルは、イデオロギー上の偏向者にも、官僚組織上の無用者にも、いずれにも貼られた。後者はすなわち、あまりに無能で無感情で、あるいはスターリンの上からの革命という攻撃的な政策をともに実行することに挑戦しようとの意欲がない、と判断された者たちだった。
 この二つの範疇は、明確には識別できなかった。同じ一つのレッテル貼りは、イデオロギー的右派の信用を貶めるための、スターリニストたちの方法の一つにすぎなかったのだ。//
 (13)スターリンに対するこれまでの反対派と同様に、右派は、スターリンが統制する党機構に敗北した。
 しかし、初期の指導者をめぐる闘争とは対照的に、今回のものは基本的考え方や政策に関する明瞭な論争点が関係していた。
 これらの論点は票決に付されはしなかったので、我々は全体としての党の態度を想像することができるにすぎない。
 右派の基本的考え方は、社会的および政治的な転覆の危険性をより少なく意識するものだった。そして、党幹部たちがネップ時代の習慣と志向を変更することを要求しなかった。
 一方で弱点は、右派はスターリンに比べて、はるかに少なくしか成果を見込んでいないことだった。
 そして、1920代後半の党は、何らかの成果に飢えていた。我々が後になって知っているそれに要した対価について、党には知識がなかった。
 右派は、結局のところは、穏健だが成果に乏しい、対立の少ない基本方針を党に提案していた。党は、憎悪に溢れるほどに革命的であり、外国や国内にいる敵の隊列から脅威を受けていると感じており、社会をなおも変形することができるし、そうしなければならないと信じ続けていた。
 レーニンは1921年に、〔右派のような〕基本方針を受諾させた。
 しかし、1928-29年の右派には、それを指導するレーニンがいなかった。
 そして、全体的な経済崩壊と民衆反乱の切迫は、退却というネップ政策を(1921年のようには)もう正当化することができなかった。//
 (14)かりに右派指導者たちがその基本方針を公に発表しなければ、または論点に関する党の広範な議論を要求しなければ、党の統一に関して彼らが明確に逡巡した以上に事は進んだかもしれない。
 右派の基本方針は合理的なもので、おそらくは(彼らが主張したように)レーニン主義的でもあった。しかし、共産党員たちの内部で運動をするには、適切な基本方針ではなかった。
 政治的な観点からすると、右翼主義者は、例えば、労働組合に対して大きな譲歩をすることに決したイギリスの保守党政治家たちや連邦の統制力を拡大し事業に対する政府の規制を増大させようとしたアメリカの共和党政治家たちが直面しただろう問題を抱えていた。
 そのような諸政策は、実際的(pragmatic)な理由で、政府の閉じられた会議の中では勝利したかもしれない(これは1928年の右派の望みであり基本戦略だった)。
 しかし、党員たちを奮い起こして結集させる、よいスローガンを、彼らは提示しなかった。//
 (15)初期の反対派たちと同様に、右派もまた、党内部での民主主義の拡大という信条を採用した。これはしかし、共産党員たちの心を掴む方法としては曖昧な価値しかもたなかった。
 党の地方官僚たちが不満に感じたのは、自分たちの権限をそれは弱めるのではないかとということだった。
 Rykov は、ウラルでのとくに明瞭な変化の際に、右派は「(地域の党の)書記局員たちから逃げだそう」としているように見える(11)、と言われた。つまり、何かが間違って行われていると責め、その組織の上部には、適切に選出されていないために仕事をする権利がないと主張していると見える、と。
 中級層の地方官僚の立場からは、右翼主義者は民主主義者というよりもエリートたちであり、おそらくはモスクワであまりに長く務めたために党の草の根の部分の気分を理解していない者たちだった。
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 (7) スターリンの調達危機(1928年1-2月)に関する言明は、スターリン全集第11巻p.3-22.
 Moshe Lewin, <ロシアの農民とソヴィエト権力>(London, 1968),p.214-p.240.も見よ。
 (8) Frukin の助言は<Za chetkuyu klassovuyu>(Novosibirsk, 1929),p.73-74.で報告されている。
 Uglanov の推薦は1月末のモスクワでの演説で述べられ、<Vtoroi plenum MK PKP(b),1.31-2.2.1928. Doklady i rezoliutsii>(Moscow, 1928),p.9-11, p.38-40.で公刊された。
 (9) Fitspatrick,<スターリンTeamについて>,p.55-57.を見よ。
 (10) Cohen,<ブハーリンとボルシェヴィキ革命>,p.322-3.を見よ。
 (11) このコメントはウラルの党書記のIvan Kabakov によってなされた。ルィコフが1930年夏にSverdlovsk で行った時機遅れの「右翼主義」演説に反応して。
 <X Ural'skaya konferentsiya Vsesoyuznoi Kommunisticheskoi Partii(b)>,(Sverdlovsk, 1930), Bull.6,14.
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 第2節・工業化(The industrialization drive)。
 (1)かつて帝制時代の最高位にあった近代化者のWitte 公にとってと同じく、スターリンにとって、ロシアの重工業の急速な発展は国力と軍事力の必須条件だった。
 スターリンは1931年2月に、こう語った。//
 『過去には、我々には祖国がなく、それをもち得なかった。
 しかし、資本主義を打倒して権力を我々の手中に、人民の手中にした今では、我々には祖国がある。そして、その祖国の独立を防衛しなければならない。
 きみたちは、我々の祖国が打ち負かされて、独立を失うのを望むか?
 そう望まないならば、きみたちは、できるかぎり短い期間内に後進国状態を終わらせて、本当のボルシェヴィキ的速さで、社会主義経済を建設しなければならない。』
 これは、絶対的に切実に必要なことだった。ソヴィエトの工業化の速さは、社会主義祖国が生き延びるか、それとも敵の前で崩壊するかを、決するだろうからだ。//
 『遅らせることは、後退することを意味する。
 そして、後退した者は打ち負かされる。
 いや。我々は敗北するのを拒む。
 これまでのロシア史の特徴の一つは、後進国であるがゆえの継続的な敗北だった。
 モンゴル・ハンに負けた。
 トルコの豪族様に負けた。
 ポーランドとリトアニアの地主紳士諸君に負けた。
 イギリスとフランスの資本主義者たちに負けた。
 日本の貴族たち(barons)に負けた。
 みんなロシアに、後進国だから勝ったのだ。軍事的後進性、文化的後進性、政治的後進性、産業の後進性、農業の後進性のゆえに。<中略>
 我々は、先進諸国から50年、あるいは100年、後れている。
 我々は、10年以内にこの隔たりを埋めなければならない。
 それをするか、敗北しなければならないのか、のいずれかだ。』(12)//
 (2)1929年の第一次五カ年計画の採択によって、工業化はソヴィエト体制の最優先の課題になった。
 工業化追求を担当する国家機構、重工業人民委員部(最高経済会議の後身)の長は、1930年から1937年まで、スターリン主義指導層のうちの最も強力で活力のある者の一人であるSergo Ordzhonikidze だった。
 第一次五カ年計画は、鉄と製鉄に焦点を当て、すでに存在したウクライナの冶金工場群の生産高を最大限にまで押し上げ、南部ウラルのManitogorsk のような大きくて新しい複合施設を最初から建設した。
 トラクター製造工場にも高い優先順位があったのは、集団的農業に直接に必要だった(集団化の過程で農民が牽引動物を殺戮したためにより切実になっていた)ばかりではなく、将来の戦車(tank)製造へと容易に転換することができたからだった。
 工作機械製造工業は、外国からの機械輸入への依存から脱するために、急速に拡大した。
 織物産業は、その発展のためにネップの時期に多額が投資されていたにもかかわらず、また多数の熟練ある労働力があったにもかかわらず、衰退した。
 スターリンが語ったと言われているように、赤軍は皮や織物とではなく、金属と闘うこととなった。(13)//
 (3)金属が優先されることは、国家の安全や防衛の考慮と緊密に結びついていた。しかし、スターリンに関するかぎりでは、それを超える重要性をもったように見える。
 つまるところ、スターリンはボルシェヴィキ革命家なのであり、その党での名前はロシア語の鋼鉄(<stal'>)から取ったもので、1930年代初めの製鉄と銑鉄の生産への狂信さ(cult)は、スターリン個人崇拝(cult)の出現よりも超えるものだった。
 全てが第一次五カ年計画での金属のために犠牲になった。
 実際、石炭、電力および鉄道への投資は十分でなかったので、燃料と力の不足と輸送手段の故障は、しばしば金属冶金工場群が停止する脅威となった。
 1930年まで国家計画委員会の長だった古いボルシェヴィキGleb Krzhinzhanovski の見解では、スターリンとモロトフは金属生産にあまりに夢中で、工場群は原料の鉄道輸送や燃料、水および電気の安定的供給に依存していることを忘れがちだった。//
 (4)だがなおも、供給と配分を組織することは、第一次五カ年計画の間に国家が想定していた、おそらくは最も手強い任務だった。
 これが10年前に戦時共産主義のもとで(失敗しつつかつ一時的に)行われたとき、国家は、都市での経済、配分および取引をほとんど全面的に統制することができた。
 そして、今度は、統制は永続的なものとされた。
 私的な製造工業と取引の削減は、ネップ時期の後半に始まった。そして、1928-29年には、ネップマンたちに対抗する圧力とともにその過程は速くなっていった。-プレスでの中傷、法的および財政上の嫌がらせおよび多数の私的起業者たちの「投機」を嫌疑とする逮捕。
 1930代の初めには、職人や小規模小売店は仕事からはじき出され、または国家が監督する協同組合へと強制的に編入された。
 同時期に行われた農業の実体的部分の集団化とともに、かつてのネップ時期の混合経済は早々と消滅していた。//
 (5)ボルシェヴィキにとって、中央指向の計画と国家による経済統制という原理的考え方は大きな重要性をもつもので、1929年の第一次五カ年計画の導入は社会主義へと至る重要な一歩だった。
 たしかに、ソヴィエトの計画経済が制度として確立されたのはこの10年のうちにだった。経済成長のうちの「計画」的要素をさほど文字通りには理解することはできない、そういう移行と実験の時代だったのだけれども。
 第一次五カ年計画と経済の現実的作動との関係は、のちの五カ年計画よりもはるかに少ないものだった。つまり、実際には、純粋な経済計画と政治的な奨励との混合物(hybrid)だった。
 この時期の逆説の一つは、こうだった。すなわち、計画の真っ最中の1929-31年に、国家の計画機関の人員たちは右翼主義者、元メンシェヴィキあるいはブルジョア経済学者という理由で容赦なく粛清され、彼らはほとんど機能することができなかった。//
 (6)1929年の導入の以前と以後のいずれにも、第一次五カ年計画には多くの版があり、多くの修正があった。政治家たちからの圧力の程度が異なるのに対応して、計画者たちが競い合ったのだ。(14)
 1929年に採択された基本版は大量の農業集団化を想定しておらず、工業が労働力を必要とすることを大幅に低く見積もっており、職人的生産と取引のような諸問題をきわめて曖昧にしか処理していなかった。これらについて、体制側の政策は、曖昧で不明瞭なままだった。
 計画は、生産目標を設定した-金属のような重要分野では計画が実施された後も頻繁に上げられたけれども-。しかし、生産増大のための資源をどこから入手するかに関しては、きわめて曖昧な指示しか与えなかった。
 後続したいずれの版も計画達成に関する最終的な叙述も、現実との関係には多くは言及していなかった。
 計画の表題すらが不正確であることが判明することとなった。第一次五カ年計画は第四年度で完成する(または完結する)と最終的には決定されたのだから。//
 (7)工業は計画をたんに履行するのではなく、「上回って達成する」ことが奨励された。
 換言すると、この計画が意図したのは、資源を配分したり需要を較量することではなくて、ともかくも向こうみずに経済を前進させることだった。
 例えば、Stalingrad のトラクター製造工場群は計画されていた以上に<多くの>トラクターを生産して、計画を最善に実現することができた。しかし、そのことが工場群がもつStalingradに金属、電気部品やタイヤを供給する工程表を全面的に狂わせるものだったとしても。
 供給が優先することは、計画の文章によってではなく、一連のそのつど(ad hoc)の重工業人民委員部、政府の労働・防衛会議、あるいはときには党の政治局、の指令によって決定された。
 最優先(<udarnye>)の公的リストにある事業体や建設企画者を覆っていたのは、激しい競争意識だった。それに含められているということは、供給するには従前の全ての約定や責務を最優先の指令を実現するまでは無視することが必要だ、ということを意味した。//
 (8)しかし、最優先リストは、危機、生起する災害あるいは重要な工業部門の一つの中での目標の新規引き上げに対応して、頻繁に変化していた。
 「工業戦線での停止」は予備の新しい人間や資材の投入を要求するものなので、ソヴィエトの諸新聞の第一面に、かつ実際にソヴィエトの工業家の日常生活に、劇の一幕を提供するようなものだった。
 第一次五カ年計画の間に成功したソヴィエトの工業管理者は、忠実な官僚ではなく、むしろ敏腕で有能な起業家だった。手を抜きつつ、競争相手に勝つあらゆる機会を掴もうとする意欲があった。
 目的-計画の実現または上回っての達成-は、その手段よりも重要だった。
 供給を強く望んだ工場群が貨物運送車両を突然に襲ってその中身を徴発する、という場合もあった。このようなことは、輸送に責任がある当局から不服と遺憾の旨の文書が送られたとしても、それよりは悪くない結果をもたらすものだった。//
 (9)しかしながら、工業生産高の迅速な増大が強調されたにもかかわらず、第一次五カ年計画の本当の目的は、建設することだった。
 新しく巨大な建設計画-Nizhny Novgograd (Gorky)の自動車、Stalingrad とKharkov のトラクター、Kuznetsk とMagnitogorsk の冶金、Dnieper (Zaporozhe)の製鉄、およびその他多数-は、第一次五カ年計画の間に膨大な資源を呑み込んだ。しかし、完全に生産を開始したのはようやく1932年より後の、第二次五カ年計画(1933-37年)のもとでだった。
 これらの建設計画は、将来のための投資だった。
 投資額の巨大さのゆえに、第一次五カ年計画の間になされた新しい巨大工業基地の位置に関する決定は、事実上はソヴィエト同盟の経済地図の中で描き直されていた。//
 スターリンがジノヴィエフ反対派と対立していた1925年の初めには、投資の問題は党内政治のある範囲の部分だった。スターリンの運動家たちは、工業化計画がそれぞれの特定地域にもたらす利益を各地域の党指導者が理解するように、取り計らったのだから。
 しかし、ボルシェヴィキたちが政治の新しい次元全体-発展の配置に関する地域間競争-に本当に目を開いたのは、1920年代の最後の年に、第一次五カ年計画の最終決定が迫ったことによってだった。
 1929年の第16回党大会では、演説者は多大なる関心をより実際的な問題に寄せたがゆえに、イデオロギー上の闘争に気持ちを向け続けることが困難だった。ある古きボルシェヴィキが、皮肉っぽくこう記したように。
 「演説は全て、こう終わる。
 『ウラル地域に工場を一つ寄こせ。そして、右翼よくたばれ!
 我々に発電所を寄こせ。そして、右翼よくたばれ!』」(15)//
 (10)ウクライナとウラルの党組織は、鉱業や冶金複合体および機械製造工場群に対する投資の配分に関して反目し合っていた。
 そして、それらの対立関係は、1930年代を通じてずっと継続した。-この対立を引っ張ったのは、ウクライナの前党書記のLazar Kaganovich と労働組合の全国的指導者の地位を得る前にウラル党組織の長だったNikolai Shvernik のような、国家的大政治家たちだった。
 緊張にみちた対立は、第一次五カ年計画の間の建設が予定された特殊な工場群の位置の問題にも発展した。
 ロシアとウクライナの六都市はトラクター工場群について入札したが、結局はKharkov に建設された。
 同様の争いは、おそらくこの種の最初のものだが、ウラルの機械製造工場群(Uralmash)の位置に関して1926年から激しく行われていた。最終的に勝利したSverdlovsk は、場所の決定にかかるモスクワの手を縛るために、中央による認可書なくして、地方の資金を使って建設を開始した。(16)
 地域間の強い競争(例えばウクライナとウラルの間のそれ)は、しばしば二つの勝利という結論をもたらした。-計画者の元来の意図は一つだけ建設することだったにもかかわらず、各地域それぞれに別々の二つの工場群を認める。
 こうしたことは、第一次五カ年計画の特徴である、目標の高揚や永続的な費用の増大の一要因だった。
 しかし、唯一の要因ではなかった。モスクワにいる中央の政治家や計画者たちは、明らかに「巨大症(gigantomania)」、つまり巨大さに対する妄想〔強迫観念〕、に陥っていた。
 ソヴィエト同盟は他国よりも、より多く建設し、より多く生産しなければならなかった。
 その工場群は世界で最も新しく、最も大きなものでなければならなかった。
 経済発展で西側に追いつくことだけではなくて、凌駕しなければならなかった。//
 (11)スターリンが飽くことなく強調したように、近代工業は、追いつき、追い越す過程にとって不可欠の条件だった。
 多くの専門家たちは反対する助言をしたけれども、新しい自動車とトラクターの工場は流れ組み立て作業(assembly-line)による生産用に建設された。伝説的な資本家であるフォードが、試合で敗北しなければならなかったからだ。
 実際には、第一次五カ年計画の間に新しいコンベア・ベルトがしばしば止まり、一方では、労働者たちは仕事場での伝統的な方法で、丹念に一台のトラクターを組み立てた。
 しかし、故障したコンベアにすら、その役割があった。
 実質的に見れば、それは第一次五カ年計画による将来の生産への投資の一部だった。
 象徴的な意味では、ソヴィエトの新聞に写真が掲載され、公式のかつ外国の訪問者に敬意を表されれば、スターリンがソヴィエト国民や世界が受け取るだろうと期待するメッセージを伝えたのだ。つまり、後進国のロシアはすみやかに「ソヴィエト式のアメリカ」になるだろう、というメッセージ。
 経済発展という大飛躍は、こうして進められていた。//
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 (12) スターリン全集・第13巻p.40-41.〔=日本語版全集13巻「経済活動家の任務について」p.59-p.61.(大月書店)〕
 (13) スターリンの言葉は<Puti industrializatsii>(1928), no.4, p.64-65. に引用されている。
 (14) E. H. Carr & R. Davis, <計画経済の形成, 1926-1929>(London, 1969), i, p.843-p.897.を見よ。
 (15) David Ryazanov, in: <XVI Konferentsiya VKP(b), aprel' 1929 g. Stenograficheskii otchet> (Moscow, 1962), p.214.
 (16) 第一次五カ年計画をめぐる政治につき、Sheila Fitzpatrick,「Ordzhonikidze によるVesenkha の継承-ソヴィエトの官僚的政治の事例研究」<ソヴィエト研究>37: 2(1984.4).
 地域的事例研究として、James R. Harris, <大ウラル-地域主義とソヴィエト体制の進展>(Ithaca, 1999), p.38-p.104. を見よ。
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 第3節、第4節へとつづく。

1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski (1927.10-)は存命だと今年で92歳になるが、彼もヒト・人間なので永遠には生存できず、2009年の誕生月前に81歳で亡くなっている。
 以下は、L・コワコフスキの逝去を伝えるNew York Times の記事。
 とくに目新しく感じるところは多くない。私の印象に残ったのは、以下だ。
 ①sudden, short illness の後の死だったとされていること。それ以外の子細は公表されていない。
 ②訃報に接して、ポーランド国会が「黙祷」の時間をもったこと。
 ③エッセイ集にL・コワコフスキの英語訳者として名が出てくるAgnieszka Kolakowska は実の娘だと分かったこと(年齢等不詳。後で追記、1960年生まれ )。
 ④一番最後に紹介されているL・コワコフスキの文章は、彼らしく思えること。
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 レシェク・コワコフスキ、ポーランド人哲学者、81歳で逝去。
 New York Times 2009年7月20日。
 記者/Nicholas Kulish。
 ワルシャワ--レシェク・コワコフスキ、マルクス主義を拒否して国外滞在中に母国の連帯運動を活発になるのを助力したポーランド人哲学者が、金曜日に、イギリス、オクスフォードで逝去した。81歳だった。//
 彼の家族は彼の死をポーランドの新聞 Gazeta Wyborza に発表し、彼はオクスフォードの病院で「突然の、短い病気のあとで」死去したと語った。
 それ以上の詳細は、伝えられていない。//
 ワルシャワでは、国会が、彼の栄誉のために、彼のポーランドの自由に対する貢献のために、黙祷をした。//
 長いかつ広範囲の経歴のあいだに、コワコフスキ氏は冷戦というイデオロギー的および軍事的武装競争が極みにあるときに、自分が若いときに支持した共産主義体制の知的な土台を詳細に分析した。
 彼はその影響力が学問の領域をはるかに超える研究者であり、その書いたものは陽気で風刺的で、しかしほとんどは理解しやすい学者だった。//
 ポーランド反対派の指導者の一人である、1985年にGdansk 獄房から執筆したAdam Michnikは、コワコフスキ氏を「現代ポーランド文化の重要な創造者の一人」だと述べた。//
 彼の最も影響力ある著作である、1970年代に出版された三巻本の"マルクス主義の主要潮流-その発生、成長および解体"は、「我々の世紀の最大の幻想」とその哲学を称する、歴史書であり、批判書だった。
 彼は、スターリニズムはマルクス主義からの逸脱ではなく、むしろその自然の帰結だと主張した。//
 きわめて真剣な文章に加えて、彼は戯曲や寓話および魔王が多数の有名な神話上および歴史上の人物と討論する"悪魔との会話"という本も書いた。//
 コワコフスキ氏は、50年以上にわたる経歴の中で30冊以上の書物を出版した。
 彼は、ポーランドの最高の栄誉である白鷲勲位(the Order of the White Eagle)を受け、天才にその資格があると広く知られているMacArthur Foundation 助成金を受けた。//
 2003年には、ノーベル賞がない分野に与えられる、人文社会科学の生涯の偉業に対する、連邦国会図書館の100万ドルのW. Kluge 賞の初代の受賞者になった。
 図書館長のJames H. Billington はこの賞の発表に際して、コワコフスキ氏の学問のみならず、「彼自身の時代での大きな政治的事件への明白な重要性」にも注目を向け、「彼の声はポーランドの運命にとってきわめて重要であり、全体としてのヨーロッパに影響力をもった」、と付け加えた。//
 レシェク・コワコフスキは1927年10月23日にワルシャワの南方のRadom 市で生まれた。その世代のほとんどのポーランド人と同様に、コワコフスキ氏は幼少時に困難な体験をした。
 第二次大戦中のドイツ占領間、コワコフスキと彼の家族は異なる町や村へと移り住むことを強制された。//
 ドイツはポーランドの学校を閉鎖したために、若きレシェクは独学をし、設立されていた地下の学校制度の試験を受けなければならなかった。
 戦争の後、彼は哲学を最初はLodz 大学で学び、のちにWarsaw 大学で博士の学位を得た。
 彼はその大学で教職の地位を得て、哲学史部門の長へと昇った。
 人生のはじめは、彼はナツィズムによる自分の国の破壊に対する反応として共産主義を受け入れ、赤軍をドイツによる数年間の抑圧後の解放者だとして歓迎した。
 しかし、有望な青年マルクス主義知識人への報奨として意図されたモスクワ旅行は、逆に、転換点となった。「スターリン体制が引き起こした巨大な物質的および精神的な荒廃」と彼が叙述したものを、しっかりと見たのだった。//
 2004年のNYタイムズとのあるインタビューで、コワコフスキ氏は、「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」と語った。//
 1956年のPoznan での労働者騒擾のあとで、コワコフスキ氏の著述は検閲と激しく衝突し始めた。
 彼のスターリニズム批判 "社会主義とは何か?" はとくに、公刊禁止となった。
 コワコフスキ氏は、ポーランド統一労働者党から1966年に除名され、Warsaw 大学での地位を1968年に失った。
 彼は、その年に、外国へと移住した。//
 コワコフスキ氏はポーランドを離れたあと、Montreal のMcGill 大学、California 大学Berkley校、Yale およびChicago 大学の社会思想委員会を含む、最高級の研究施設で教育した。しかし、彼の本拠となったのは、Oxford だった。//
 コワコフスキ氏は、妻のTamara と一人娘のAgnieszka を残して先立った。//
 1982年の著名な講義でコワコフスキ氏は、哲学の文化的役割について、こう語った。
 「精神のもつ知的欲求のエネルギーを決して眠らせないこと、明白で決定的だと見えるものを疑問視するのを決してやめないこと、常識がもつもっともらしい純粋な根拠につねに反抗してみること」、そして「科学の正統とされる範囲を超えて存在してはいるが、それでもなお他にも、我々が知るように、人間の生存にとっては致命的に重要な諸問題がある、ということを決して忘れないこと」。
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 以上。
 下は全てRadom 市に存在するのものだと思われる。ネット上から。
 
 Leszek_Kolakowski_grave_2 (2) Leszek_Kołakowski_ssj_20110627 (2)

 Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland1 (3) Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland2 (2)
 

1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル・ジバゴ。

  ノーベル文学賞が与えられたことになっている(本人は辞退)『ドクトル・ジバゴ』(1957年。映画化1965年)の作者であるB・パステルナーク(Boris Pasternak)について、無責任にも?<なぜこの人は亡命しなかったのだろうと思うときがある。よく分からない>とこの欄にかつて書いたことがある。1910年頃に留学していたドイツ・マールブルク(Marburg)について記したときだった。
 今でもよく分からないが、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』第三巻第二章第一節の<文化等の一般的状況>(この欄№1863/1918.11.02)の中で久しぶりにBoris Pasternak の名を見つけた。1920年代~1930年代の<作家・文筆家>の様子がある程度は分かる。
 L・コワコフスキによると、1930年代、作家(文筆家・詩人)たちは、こう分かれる。
 ①殺戮される-Babel、Pylnyak、Vesyoly。
 ②自殺する-Mayakovski、Yesenin。
 ③強制収容所で死ぬ-Mandelshtam。
 ④国外に逃亡(亡命)する-Zamyatin。
 ⑤スターリンを称賛する「物書き」になる-Fadeyev、Sholokhov、Olesha, Gorky。
 B・パステルナークはどこに入るのか。まだ、つぎがある。
 ⑥何とか「迫害と悲嘆の時代」を生き残る-Akhmatova、Pasternak。
 B・パステルナークは殺されもせず、亡命(国外移住)もせず、ロシア国内で「生き延びた」のだ。
 どのようにして? その詳細は分からない。何らかの「食って、生きる」ための仕事をし、詩作や文章書きを<隠れて>行っていた、という程度にしか分からない(もちろん、日本語本にあるこの人の評伝には正確なことが書かれているだろう)。
 それにしても、Pasternak と並んでいるAkhmatova (女性)は、第三者、とくに体制関係者に分からないように、<自分の脳内に詩作を記憶させ、蘇生させ反芻しながら、脳内で詩作を続けていた>と何かで読んだのだから、凄まじい<表現の自由>の否認状況だろう。脳内にしか、発表し、保存する媒体はないのだ。
 Boris Pasternak もまた、似たような状況にいたと思われる。
 "Doktor Zhivago" がふつうの小説ではなく、私が一読しても登場人物にかかるストーリーの現実性や連続性には疑問があり、長いものもある「詩」が何度か挿入されているのも、その作成や構成に要した時間と、取り囲んでいた「(とくに政治)環境」によるものと思われる。
  レーニン時代にせよ、スターリン時代にせよ、種々の政治的事件や制度等の歴史も重要だし(指導者、党、国政あるいは中央と地方、ロシアと他民族、外国との関係等々)、また、いかほどの数の人間が粛清やら大粛清あるいはテロルによって死んだのかも、もちろん重要な関心事だ。
 しかし、どうしても今日的には理解し把握し難い、あるいは実感し難い重要なものがあるということを意識しておかなければならないように思われる。
 それは、<イデオロギー>というものの役割、あるいはいささかどぎつい言葉を選べば「洗脳」というものはいかなるものか、だ。
 これは現在の日本人には、またほとんどの欧米人には、ほぼ理解不能なのではないか。
 そんなことを感じたのは、やはりL・コワコフスキの叙述による。
 うまく訳しきれていないが、L・コワコフスキによると(№1886/2018.12.08)、こんな状態があった。長くなるが、叙述の順序に従って、ほとんど再引用する。要約している部分もかなりある。
 ①人物や事件の評価が「修正」されたとき、人々はその「修正」の簡単な方法・経緯を知っていたが、それを公言すれば制裁を受けるので<何も語らなかった>。
 ②知っていても決して言及しない「公然の秘密」がある。
 ③人々は強制収容所についてしっかりと知っていたが、それはしかし(引用すると)、「そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつ、その事実に気づいていることを政府が望んでいた」からだ
 ④人々には「二重(dual)の意識」が作り出された。それは体制側の意図だった。
 ⑤人々はあちこちで「醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ」、かつ同時に、「十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた」。
 ⑥人々は、「党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって、ウソだと知りつつ発言することで、ウソについて党と国家の共犯者になった」。
 ⑦体制側の意図は、馬鹿馬鹿しい虚偽を「そのまま信じる」ことではなかった。
 ⑧「完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になる」。
 ⑨「党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。
 すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する
 一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている
 市民はかくして、『信じることなくして信じる』(believe without believing)ことをしなければならなかった」。
 ⑩上の「心理(mind)状態」こそが、、党が人々の中に「作り出して維持しようとしている」ものだった。
 ⑪人々は「政府のウソを繰り返して言った」。そして考え難いことだが、その人々は「自分たちが言っていることを半分は信じていた」。
 ⑫人々は何と言うのが「正しい」のか、つまり「何と言うことが彼らに要求されているか(=正しいか)」を知っていた。そして奇妙なことだが、彼らは「真実と正しさ」とを混同していた
 この辺りのL・コワコフスキの最後の文章はつぎのとおり。
 ○「このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった」。
 ソヴィエト体制下で生じたのは、たんなるテロル・大粛清や貧困・飢餓等だけではない。
 注目しておくべきなのは、人間の<自由で、誠実な精神>というものの破壊だっただろう。
 上の⑤⑥、⑧⑨あたりは、きわめて理解し難い「心理・精神」の状態だ。
 L・コワコフスキは二重(dual)意識と呼ぶが、G・オーウェル『1984年』には二重(double)意識という語が出てくるらしい。
 ともあれ、ソヴィエト体制下でのイデオロギー操作というのは、<ウソが真理だと信じ込ませる>ことでは全くない、と今日のわれわれも知っておくべきだろう。単純な?「洗脳」ではない。
 私にもまだ判然としないが、こういう心理・精神状態をどう理解すればよいのだろう。
 **ウソをつきつつそれが本当のことだと信じている<ふりをする>、かつまた、ウソであることを本当は知っていることも<匂わせる>。**
 何と複雑な、欺瞞に満ちた心理・精神状態だろうか。
 多くの人々が、こういう心理・精神状態の中で生きていたのではないか。
 「しろうと」ながら、ヒトラー・ナツィズム体制は、もっと大らかで率直で正直だったような気がする。唖然とする、悪辣なことを平然とかつ公然と語っていたような気がする。
 コミュニズム(共産主義)とナツィズムの違いだ。
  B・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』はレーニン時代を歴史的背景とする作品だ。
 1917年秋・冬から三回の冬のことを、この作品はこう叙述している(私の訳-№1548/2017/05/18)。
 「冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//」
 さらに、すでに新体制=ソヴィエト・ボルシェヴィキ体制の「人間」観を疑問視するこんな発言も、主人公の友人(ラーラの正式・形式上の夫でボルシェヴィキに入党したが、最後は自殺)にこう語らせている(私の訳-№1539/2017/05/13)。
 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
 あくまで小説上のものだが、これはスターリン下の言葉ではない。明らかにレーニン時代のものとして語らせている。
 ***
 最後に、この時代に、ロシア(・ソ連)の将来を悲観して、あるいはブルジョアジーとか「知識人」とかの<逆差別>を受けて(レーニン政権が追求したのは決して「平等」なのではない。「階級敵」の平等視があるはずもない)、国外に脱する直前のユリイの正式の妻・トーニャの手紙の一部を再度引用しておきたい。
 あくまで、作品上のものだ。しかし、他国へ行く当時の人々によってこういう文章は実際に書かれたのではないか(私の訳。同上)。
 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。Boris Pasternak, Doktor Shiwago〔独語版〕, p.521.

1904/NYタイムズ2004.02.14の記事-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski の第一回Kluge 賞受賞はアメリカのメディアの関心を惹いたようで、翌2004年の2月14日付The New York Times は、Oxford まで記者を派遣して(又はロンドン在住の記者によって)一部は明瞭にL・コワコフスキからのインタビューから成る記事を掲載している。
 上記期日のThe New York Times(Online)から試訳する。記者はSarah Lyall。
 L・コワコフスキの評価は彼の書物自体の内容によって行うべきことは明らかだ。
 しかし、その<人物>にも関心は向かうのはやむをえず、とくにL・コワコフスキの場合は、例えばつぎのような疑問が生じ、知りたくなる。
 ①ポーランド出国の詳細な経緯。
 ②例えば、強制的国外追放という制裁が「法的に」は想定し難いとすると(シベリア流刑とは異なる)、どのようにして国外に移ったのか。家族はいたのか。家族はいたとすれば、彼らも一緒だったのか、等々。
 ③L・コワコフスキの「連帯」運動への影響というのは、より詳細にはいかなる態様、内容のものだったのか。
 これらのうち、上の②の一部は、以下の記事によって判明する。
 その他の①について、相当に参考になる情報・知識をネット上で得たが、以下では明瞭ではない。
 さらに、上の③は私にはまだほとんど分からない。なお、ポーランド青年たちを「目覚ました」とされる1971年の小論<希望と絶望について>は、ネット上にフランス語→英語版が掲載されていたが、読んでいない。
 なお、以下で言及されている1960年代の"社会主義とは何か"は、長い論文ではなく標語の羅列のようなもので、のちの彼のエッセイ集にそのまま収載されている。
 また、手元で確認できていないが、日本では加藤哲郎が、何かの本でこの「社会主義とは何か?」に気づいてそのまま紹介、掲載していた。その元の本自体も不明なので、別の機会にこの欄に記す。
 加藤哲郎がその後ひき続いて、このポーランドの「レシェク・コワコフスキ」に対する関心を維持しなかったのは、間違いないように思える。
 その他のコメントは避ける。この記事の内容も、興味深いものがある。
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 The New York Times/2004年2月14日付。
 哲学者が変化をもたらすとき。

 記者・Sarah Lyall。
 連邦議会図書館が76歳のポーランド人哲学者のレシェク・コワコフスキに初めて語りかけたのは、100万ドルの新しい人文社会科学賞の候補に指名された、と伝えるためだった。
 のちに彼自身がその賞を受けたと伝えられたとき、彼はこのときのことを思い出した。//
 コワコフスキ博士は驚いたのだとすれば、ほとんどのアメリカ人はたぶん当惑しただろう。彼の名前は合衆国では十分に知られていなかったのだから。
 しかし、図書館長の James H. Billington 博士は、三ヶ月前の発表の際に、なぜこの哲学者が人文学および社会科学での生涯にわたる業績に対する初代のJohn W. Kluge 賞に選抜されたかを知りたい人々のために、つぎのように説明した。
 「これほどの広さで洞察しその時代の大きな政治的事件に重要な影響を与えた、奥深く熟考する思索家を、他にはほとんど誰も見出すことができない。」//
 ポーランドで生まれ、1960年代に、増大していた反正統派信条を理由として大学での地位と共産党から追放された。
 国外でのコワコフスキ博士は、1980年代のポーランド連帯運動の重要人物になった。
 三巻にわたるマルクス主義の分析作業、"マルクス主義の主要潮流" (1978年)は、その主題にかかる決定的著作だと考えられている。
 しかし、彼は明快で魅力あふれたエッセイ著述者でもあり、その書物や著作はSpinoza、Kant、モダニズム、権威と自由意志および日常生活での哲学の意味といった主題にかかわっている。//
 このような素晴らしい諸業績があるにもかかわらず、コワコフスキ博士は穏やかな人物のままであり、個人的な質問から逸らせた。
 「あなたは、私の人生について知らなくてもよいです」。
 彼は、数年前までAll Souls College の主任研究員だったOxford の北郊にある自宅の居間で、コーヒーをすすりながら、そう言った。//
 同じように、最近の受賞の報せにどう反応したかにも触れたくはないようだった。
 いや、そうだ。お金はどうしますか?
 彼はカップに目を落とし、悪戯っぽい笑いを浮かべて、言った。
 「金を使うことに、大きな問題は全くないです」。//
 コワコフスキ博士-その名は、LESH-ehk ko-wah-KUHV-skee と発音される-の人生は、二度、引き裂かれた。先ず、ナツィズムによって、次いで、共産主義によって。
 知識人の子息だった彼は、ドイツによる侵略のあと、家族とともに何度も中央ポーランドの町や村へと転居させられ、学校に通うことは禁じられた。彼は語った。
 「ドイツ人はポーランド人のための学校を閉鎖しました」。
 「ドイツ人のための豚飼いであるポーランド人を読み書きができないようにしておくというのは、素晴らしい考えでした」。//
 にもかかわらず、彼は多数の本をこっそりと読んで勉強し、戦後には、ワルシャワ大学から哲学で博士の学位を得た。
 最初は、ナツィズムの解毒剤として、そしてうむをいわさぬユートピア理想として、教条的マルクス主義を受け入れた。彼は、こう説明した。
 「私はポーランド文化にある一定の伝統-右翼、聖職主義、反ユダヤ-をひどく嫌いました。そして、戦争中に左翼の環境(milieu)の中に入りました」。
 「ドイツのもとでの恐怖の5年間のあと、われわれは、赤軍を解放者として歓迎しました」。//
 彼が語るには、そのあと、彼が信じて誓約したものはそう主張していたものではない、ということに気づくことができた。
 1950年に、有望な青年マルクス主義知識人のための企画の一環として三ヶ月の間モスクワに行って初めて、彼はイデオロギー的に目覚め、マルクス主義の豊かなイデオロギー上の修辞は薄っぺらで皮肉に満ちた現実と食い違っていることを発見した。//
 「文化的頽廃-ソヴィエトの科学とイデオロギーの指導的著名人の知的生活の貧しさ、芸術等々の貧しさ-が、分かった」、と彼は語った。//
 ポーランドに戻って、彼はワルシャワ大学での経歴を登り、最後には哲学史部門の講座長になった。一方では、マルクス主義を辛辣に攻撃した。また、しばしば風刺的に著述したことによって、彼はますます既成組織集団(establishment)には相容れないものになった。
 彼は人間主義的社会主義または社会主義的人間中心主義を擁護して議論することを始め、改革を支持して運動する知識人たちでが起こしていた「ポーランドの十月」運動を背後で支える指導的思考家になった。//
 コワコフスキ博士の影響力あるスターリン批判、"社会主義とは何か"は、多数ある著述の中でもとくに、政府によって発表が禁止された。しかし、幻滅していたその他の知識人たちの間には広く流通した。
 1966年に党から除名され、その二年後に、大学での仕事を奪われた。
 そして、精神病理学者の妻、妻との間の一人の娘とともに国を去り、Montreal のMcGill 大学の客員教授職を得た。彼は、つぎのように語った。
 「ポーランドにいなくなるのは2年だろうと想定していた。しかし、20年に延びた」。//
 1970年代および1980年代にポーランドで反対運動が力強くなり始めたとき、コワコフスキ氏の著作はポーランドの運動に対して中枢的な(pivotal)影響力をもち、とくに1981年に発布された戒厳令のあとでは、国外での運動を活気づける効果をもった。
 しかし、自分は著作物や政治的動きが影響力をもった多数の知識人の一人にすぎない、自分のしたことは「わずかな奉仕」だ、と言って、彼は自分の役割を軽く扱った。//
 あるときに、彼は英語で口挿んだ。-「私は一つの言葉しか持たない-ポーランド語だ。多数の言語で話すふりをしている(pretend)けれども」。
 (英語以外に、フランス語、ドイツ語およびロシア語だ。)//
 共産主義体制の解体について、コワコフスキ博士はこう語った。
 「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」。//
 コワコフスキ博士は、共産主義の崩壊とともに、Spinoza を含む初期の関心へと立ち戻った。
 彼は、哲学の歴史や宗教の歴史、倫理および形而上学に関する書物を執筆した。
 彼の著作は16世紀と17世紀のヨーロッパのキリスト教運動の歴史的検証から、風刺劇の脚本や寓話的童話にまで及んでおり、その寓話では彼はとくに、旧訳聖書から現代の弁証法的理性までの物語を主題にした。
 "悪魔との対話"(1972年)という初期の書物では、狡猾な魔王(Satan)は神話や歴史上の人物たちと討論する-Orpheus, Héloïse、Luther、St. Peter the Apostle、St. Bernard -。さらには「形而上学的新聞社大会」への参加者とも。
 最新の著作である"スピノザに関する二考と哲学者たちに関するその他のエッセイ"は、まもなく店頭に並ぶはずだ。//
 批評家のGeorge Gomori は、コワコフスキ博士について、こう書いた。
 「これが十分に、彼のメッセージの要点であるかもしれない。すなわち、真実と権威の双方を、貴方は愛することはできない
 ドグマに囚われず、貴方自身がもつ前提を頻繁に再思考して、貴方は選択しなければならない。
 コワコフスキは、大人のための哲学者だ」。
 その書いたものは実際上は難解であることがある多数の今日の哲学者たちとは対照的に、コワコフスキ博士は、学界に属していない者ですら平易に理解することができるように書く。//
 連邦議会図書館のScholarly programs の長であるProsser Gifford 博士は、コワコフスキ博士にKluge 賞を授賞することに最終的には決した選考過程を統括した。彼は、こう言った。
 「学界の仲間たちを、こき下ろしたくはない。
 しかし、ある範囲の側面での近年の人文社会科学は、きわめて奥義的(arcane)になっていて、専門家的隠語(jargon)でいっぱいだ。」
 「我々は、基礎的な諸問題を対象にして研究している。そしてそれらは、学界人ではなくそうした作業に職業的に関与していない人々にも理解可能なものであるべきだ。
 コワコフスキ博士は、それをしている」。//
 コワコフスキ博士はまた、答え難い質問にも尋ねる価値があると認める、無邪気とも言える率直さでも目立っている。
 例えば、"形而上学的恐怖(Metaphysical Horror)'' (1988年)で彼は、「ありえない疑問」に対する人々の恐怖を戯れ的に描き、ある意味では彼の生涯の作業を、この書物の最初の一行にまとめている。
 「似而非専門家(charlatan)だという感情を決して抱いたことのない今日の哲学者たちは、薄っぺらな心性しかもたないので、その著作はたぶん読むに値しない」。
 上のような見方について質問されて、彼は笑った。そして、ときどきは彼も似而非専門家のように感じるけれども、としつつ、こう語った。
 自分の似而非専門家的思考は、「似而非専門家ですら、有用な役割を果たすことができるという感情」でもって均衡が保たれている、と。
 コワコフスキ博士によると、根本的な諸問題を検討することは、それぞれの時点ではいかに無益で虚しいことのように見えるとしても、経験にとって根本的なことだ
 彼は語った。「形而上学上の、認識論上の、倫理上の諸問題を発するのは、人間の精神(mental)の抑え難い欲求だ。
 それについて思考するのが幸福だ、というのではない。そうした諸問題そのものが、抜け出すことが困難だからだ。」
 付け加える。「決定的に明確な回答はない。
 しかし、そうした諸問題に接近することによって、望む目標地点に到達しなかったとしても、正しい(right)途の上を進んでいるという感情を得ることができる」。
 彼は語った。「にもかかわらず、そうした場所(position)は、劇的で面白いものではない
 戦慄にみちたものでもない。
 人は、そうした場所で生きることができる。」
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 以上。

1903/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑮。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第4章までは済ませている。
 各節の前の見出しのない部分はこれまでどおり「(はじめに)」とここでは題しておく。しかし、正確な言葉ではなく、これまでの章もそうだが、章全体の内容をあらかじめ概述するような意味合いのものであるようにも見える。
 これまでと同様に、一文ごとに改行し、本来の改行部分には//を付す。但し、新規にだが、原文にはない段落番号を( )の中に記すことにした(但し、太字化はしない)。
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 第5章・スターリンの革命。
 (はじめに)
 (1)第一次五カ年計画(1929-1932)による工業化追求とそれに伴う強制的農業集団化は、しばしば「上からの革命」だと叙述されてきた。
 しかし、戦争の比喩的描写と同じようにするのが適切だった。そしてこの当時は、-ソヴィエトの注釈者たちが好んで行ったように「戦闘の真只中」のときには-戦争に関係する暗喩の方が、革命的な語法よりすら一般的だった。
 共産党員(共産主義者)は「戦闘員」だった。ソヴィエトの力は工業化と集団化という「戦線」へと「動員」されなければならなかった。
 ブルジョアジーやクラク〔富農〕という階級敵から「反撃」や「伏兵攻撃」がなされることが、想定され得た。
 ロシアの後進性に対する戦争だった。そして同時に、国の内部と外部にいるプロレタリア-トに対する階級敵との戦争だった。
 実際にこの時期は、ある範囲の歴史研究者ののちの見方によれば、「国民(the nation)」に対するスターリンの戦争の時代だった。(1)//
 (2)戦争で喩えるのは、明らかに、内戦と戦時共産主義の精神に立ち戻ることおよび非英雄的なネップという妥協を非難することを意味していた。
 しかし、スターリンはたんに表象を弄んでいたのではなかった。第一次五カ年計画の時代のソヴィエトは、多くの点で、戦争中の国家に似ていたからだ。
 体制の政策に対する政治的な反対と抵抗は裏切りだと非難され、ほとんど戦争中の厳しさでもって頻繁に罰せられた。
 スパイと破壊工作に対する警戒の必要性は、ソヴィエトの新聞の決まった主題になっていた。
 民衆一般は愛国的連帯意識を強く搔き立てられ、工業化という「戦争遂行」のために多大の犠牲を払わなければならなかった。すなわち、戦争時の条件や配給制をさらに進めたものが(意図せざるものであっても)都市部に再導入された。//
 (3)戦時中のごとき危機的雰囲気は、ときに純粋に工業化や集団化の失墜に対する緊張への反応として認められた。しかし、それはじつに、現実に起きたことに先行していた。
 戦争非常事態という心理状態は、1927年の大戦の恐怖でもって始まった。その頃、党や国家では全体として、資本主義諸国による新しい軍事干渉が近づいていると信じられていた。
 ソヴィエト同盟はその当時、その外交政策およびコミンテルンの政策が連続して拒絶されるという憂き目に遭っていた。-英国は突然にロンドンのソヴィエト通商使節団(ARCOS〔=All Russian Co-operative Society〕)を攻撃し、中国の国民党の蒋介石は、同盟者である中国共産党への攻撃を開始し、ポーランドではソヴィエトの外交幹部団の暗殺があった。
 トロツキーとその他の反対派たちは、このような外交政策の失敗に、とくに中国でのそれについてスターリンを非難した。
 多数のソヴィエトおよびコミンテルンの指導者たちは、こうした拒絶はイギリスが指導している積極的な反ソヴィエト陰謀の証拠だと大っぴらに解釈した。ソヴィエト同盟に対する計画的な軍事攻撃で終わるものと想定される陰謀なのだった。
 国内の緊張が増したのは、GPU(チェカの後継機関)が体制の敵である嫌疑者を探し回り始め、新聞が反ソヴィエトのテロルの事件や反体制の国内陰謀を発見したことを報道したときだった。
 戦争が始まるのを予期して、農民たちは穀物を市場に出すのを拒み始めた。そして、村落と都市の両方の住民はパニックを起こして、基礎的な消費用品を買い漁った。//
 (4)たいていの西側の歴史研究者は、干渉という現実的かつ即時の危険はなかった、と結論づける。これはまた、ソヴィエト外務人民委員部〔=外務省〕の見解であり、そしてほとんど確実に、陰謀の気持ちのないアレクセイ・ルィコフ(Rykov)のような政治局員たちの見解でもあった。
 しかし、党指導部のその他の者たちは、本当にもっと怖れていた。
 その中には、このときはコミンテルン議長だった興奮しやすいブハーリンがいた。コミンテルンには、不安を撒き散らす噂が溢れ、外国の政府の意図に関する真実(hard)の情報はほとんどなかった。//
 (5)スターリンの態度を推測するのは、むつかしい。
 戦争の危険に関する数ヶ月の間の憂慮的議論の間、彼は沈黙を保ったままだった。
 そして、1927年の半ば、スターリンはきわめて巧妙に、反対派たちへと論点を向き変えた。
 戦争が切迫していることを否定したが、にもかかわらず彼は、トロツキーを公然と批判した。第一次大戦の間のクレマンソー(Clemenceau)のようにトロツキーは、敵が資本の傍らにいるときでも国の指導部には積極的に反対すると言明した、として。
 忠実な共産党員やソヴィエト愛国者にとって、これは国家への大逆行為に近いものに受け止められた。そして、この批判は、スターリンが数ヶ月のちに反対派に対する最後の一撃を下すためにおそらくは決定的だった。そのとき、トロツキーと反対派指導者たちは、党から除名(expell)されたのだった。//
 (6)スターリンのトロツキーとの間の1927年の闘いは、政治的雰囲気を悪い方向に高める不吉な背景になった。
 ボルシェヴィキ党でのそれまでの禁忌(タブー)を犯して、指導部は政治的反対者の逮捕、行政的な追放、および反対派に対するGPUによる嫌がらせという制裁を課した。
 (トロツキー自身は、党から除名されたのちアルマ-アタ(Alma-Ata)へと追放された。
 1929年1月には、政治局の命令によってソヴィエト同盟から強制的に国外追放された。)
 1927年末に、反対派によるクーの危険があるとのGPUの報告に反応して、スターリンは政治局に、フランス革命期の悪名高き嫌疑令(Law of Suspects)とのみ対比することが可能な一体の提案を行った。(2)
 承認されたが公表はされなかったその提案は、つぎのようなものだった。//
 (7)『反対する見解を宣伝する者は、ソヴィエト同盟に対する外部および内部の敵の危険な共犯者(accomplices)だと見なされる。
 かかる者は、GPUの行政布令によって「スパイ」として処刑される。
 広くかつ枝分かれした工作員のネットワークが、その最高部まで含めて政府機構内部にいる、および党の最高指導層を含めて党内部にいる、敵対分子を探索する職責をもつものとして、GPUによって組織される。』//
 スターリンの結論は、こうだった。「微小なりとも疑いを掻き立てる者は全て、排除されなければならない」。(3)//
 (8)反対派との最後の対決と戦争への慄えによって一般化した雰囲気は、1928年当初の数カ月の間に、さらに悪化した。この頃に、農民層との大規模な対立が始まり(後述、p.125-7.参照)、忠誠さの欠如の追及が直接に古い「ブルジョア」知識人に対して行われたのだ。
 1928年3月、国家検察庁長官は、鉱業での意図的な罷業と外国勢力との共謀を訴因として、Donbass のShakhty 地方の技術者集団を裁判に処する、と発表した。
 これはブルジョア専門家に対するひと続きの見せ物裁判の最初だった。これらの訴追によって、階級敵による内部的脅威は外国資本主義勢力による干渉の脅威と連結された。(4)
 そして、被告人たちは罪状を自白し、陰謀劇ふうの活動に関する状況的説明を行った。//
 (9)毎日の新聞が決まり文句でその大部分を報道した諸裁判がもたらしたのは、つぎの明白なメッセージだった。すなわち、ブルジョア知識人たちは、ソヴィエト権力に対して忠誠心をもつと主張していても、階級敵のままなのであり、その定義上、信頼するに値しない。
 ブルジョア専門家たちと一緒に仕事をしている党管理者や行政職員にそれほどに明白ではなくとも明瞭に伝わったのは、党の幹部たちもまた、かりにより酷くはなくとも、間違って、専門家たちに欺されるという愚かさ又は軽々しさの罪を冒す、ということだった。(5)//
 (10)新しい政策方針は、ロシアの労働者階級と党員たちに独特の、かつての特権階層出身の知識人に対する懐疑と敵愾の感情を利用していた。
 ある程度はそれはまた、疑いなく、第一次五カ年計画らによって到達すべきものと設定された高い目標に対する、多数の専門家や技術者たちの懐疑心に対する反応だった。
 にもかかわらず、工業化という突貫的な計画に着手しようとする体制にとって、莫大な犠牲を伴う政策方針だったのだ。農業分野での「クラク〔富農〕」という敵に対する1928-29年の運動がそうだったのと全く同様に。
 国にはあらゆる種類の専門家が不足していた。とくに、工業化への途にとって決定的に重要な知識をもつ技術者たちが。(1928年でのロシアの有資格技術者の大多数は、「ブルジョアジー」で、非党員だった)。//
 (11)反専門家運動を始めたスターリンの動機が何だったかは、歴史研究者たちを困らせている。
 共謀や罷業という訴因は容易には信じ難く、被告人たちの自白は強制されたか欺されたものだったために、スターリンとその仲間たちは彼らを信じることができなかっただろうと、しばしば考えられている。
 しかしながら、公文書庫から新しい資料が出てきたために、ますます、(必ずしも政治局の同僚たち全員ではなく)スターリンは共謀の存在を信じていた、そう信じることが同時に政治的利益になると知りつつ、少なくとも半分は信じていた、ように見える。//
 (12)OGPU(GPUの後身)の長官、Vyachevlav Menzhinskii が「工業党」党員だと追及している専門家の尋問調書からする資料をスターリンに送った。この党の指導者はたちはエミグレ資本主義者たちにより支援されるクーを計画し、外国による軍事干渉を企図する計画を抱いて活動しているとされていた。これを送られてスターリンは、面前での自白をいずれも価値があるものとして受領した、切迫する戦争の危険はきわめて深刻だと思う、との趣旨の返答をした。
 スターリンはMenzhinskii に対して、最も興味深い証拠は、予定される軍事干渉の時期にかかわっていると、つぎのように語った。//
 (13)『干渉を1930年に意図していたが、1931年または1932年に延期した、ということが判る。
 これは全くありそうだし、重要なことだ。
 これが第一次な情報源から、つまりRiabinsky、Gukasov、DenisovおよびNobela (革命前のロシアの大きな利益をもつ資本主義者たち)という、ソ連および他国移住者たちの中に現存する全ての集団の中で最も有力な社会経済グループ、資本およびフランスやイギリス両政府との関係という観点からして最も有力なグループを代表しているグループから得られたがゆえに、より重要なものだ。』//
 証拠が手に入ったと考えて、スターリンは、こう結論づけた。
 ソヴィエト体制はこれを国内かつ国外で集中的に公にすることができるだろう、「そうすれば、つぎの一年または二年の間、干渉の企てを全て抑え、阻止することができる。これは、我々には最大限に重要なことだ」。(6)//
 (14)スターリンおよび他の指導者たちが反ソヴィエト陰謀の存在と直接的な軍事的脅威を信じたか否かとは関係なく、あるいはいかほどに信じたかとは関係なく、こうした考え方はソヴィエト同盟に広く行き渡るようになった。
 これは体制側のプロパガンダ活動によるだけではなく、すでにある先入観と恐怖を強めるこのような見方が、ソヴィエトの国民の大部分にとって信じ得るものだったことにもよる。
 1920年代の遅くに始まったことだが、食糧不足、工業、輸送および電力の故障のような経済的諸問題の発生を説明するために、このような内部的および外部的な陰謀は決まって言及された。
 戦争の危険もまた、この時期にソヴィエトの<心性(mentalité)>に深く埋め込まれた。
 政治局および新聞読者たちの注意は絶えず戦争の脅威へと向かい、それは1941年に実際に起きた戦争勃発まで続いた。//
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 (1) Adam B. Ulam, <スターリン>(New York, 1973), Ch. 8.を見よ。
 (2) ジャコバンの大会は、嫌疑令(Law of Suspects、1793年9月17日)によってつぎのことを命じた。その行動、人間関係、著述物または一般的な挙措に照らして革命に対する脅威となる可能性のある全ての人物を即時に逮捕すること。
 スターリンはフランス革命のテロルを称賛していたことにつき、Dimitri Volkogonov, <スターリン-栄光と悲劇>, Harold Shukman 訳(London, 1991), p.279. を見よ。
 (3) Reimann,<スターリニズムの誕生>, p.35-p.36. によるドイツ外務省政治文書庫の中の文書から引用した。
 (4) Shakhty 裁判およびその後の「工業党」裁判につき、Kendall E. Bailes, <レーニンとスターリンのもとでの技術と社会>(Princeton, NJ, 1978), Chs. 3-5.を見よ。
 (5) S・フィツパトリク「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線(The Cultural Front)>, p.153-4, p.162-5.を見よ。
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 第一節・スターリン対右派、へとつづく。

1902/秋月瑛二の想念⑥-2019年01月。

 Emotion を「情動」と訳している書物があった。Feeling は「感情」として区別されていたが、「想念」の英米語は何なのだろう。「情念」ではない。
 たんに想い抱くという程度の意味で用いているが、「想う」という語は分解し難い。きっと、感性と理性の両方が混じる言葉だ。
 ともあれ、秋月瑛二の「想念」のつづき。
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 自分の葬式には(数十人ということはないだろうから)何百人くらい、何千人くらい来るだろうと考えている者がいるかもしれない。
 年齢ではなくて死後叙勲というものもあるらしいから、自分が死ねばいかなる勲章が貰えるのだろうと想像する者もいるのかもしれない。
 どちらも秋月瑛二には関係がない話だが、どうやら自分の死後の報道のされ方まで思い浮かべて死ぬ人もいるようだ。
 来年の秋には50年になる。1970年11月に死んだ三島由紀夫であれば、自分の死後の報道ぶり等を想起しても何ら不思議ではなかっただろう。
 だからこそ、信頼できる一人か二人に「檄文」を預けて、公表してもらうために残していた。あの「檄文」自体が政治的意味をもつもので、あれが公表されること自体が三島の自裁の大きな目的だった、と思われる。
 三島由紀夫の「文学」作品と政治的(に見えていた)行動がいかほど理解されていたかは問題ではあるが、しかし三島ほどの高名だと、自分の死の何らかの影響を自ら想定していても何ら不思議ではない。
 しかし、三島ほどの怜悧な人物は、自分の「魂」あるいは「霊」が死後も残存するとは微小だに考えてはいなかった、と思える。
 「檄文」自体を他者に預けたのもそうで、自分の「霊魂」が残り続けるならば、それを通じて肉体の「死」後も思いを伝え続けることができたはずだろう。彼は、自分も所持していた「檄文」が自衛隊関係者によって奪い取られ、その意味内容が「現実」から消失するのを懼れていたのだ。
 三島由紀夫は最後に輪廻転生という仏教的観念を背景としたらしい作品を遺した(私も昔にたぶん一読した)ようだが、「転生」を本当に<信じて>いたのだろうか。そうは思えない。
 逸れかかっているが、ヒト・人間の「死後」にはそれぞれの「自己」は存在せず、「死後」のことを想像し、思い画いてみたところで、その正しさ、適確さを、自ら確認しようがない。
 自分の葬式に何人くる?、誰々が来る?
 そんなことを「死者」が分かるはずはないだろう。
 同様のことは、死後の<評価>とか<歴史的位置づけ>についても、当然に言える。
 何らかの意味で顕名、高名であり、何らかの<歴史>に残るかもしれない人間でかりにあったとしても、その人物はその評価や歴史的位置づけを生前に知ることができるはずはない。
 当たり前のことを書いている。1100年以上前に死んだ菅原道真は、自分が「天神」となり天満宮の「神」になっていることを、絶対に知っていない。
 150年以上前に死んだ吉田松陰は、「明治維新」なるものを知らないし、自分の大きな像が自分の墓地近くに建立されて自分を祭神とする「松蔭神社」の方を見ているなどと、全く想像もしなかっただろう。
 世俗的な「名誉」・「評判」がどうであれ、死んでしまえば、それが永続的に維持されるか否かなど、分かりはしない。
 多少は「名」のあった者でも、たいていは、一時期に話題にされただけで、そのうちにすみやかに、(何年も経てば多くは遺族からすら?)忘れられてしまう。
 まことにヒト・人間は、あるいは「生物」の個体というのは、<平等>なものだ。絶対的に平等だ。
 みんな、「死んでいく」。そして、永遠に「意識」はなくなる。
 そう考えると、一時的な、世間的な、世俗的な、あれこれの毀誉褒貶など馬鹿々々しいものだ。
 それでも、生きている間は<食って生きて>いかなければならない。それが<本性>、<本能>だ。また、意識とは無関係に、各臓器、各細胞は、生きようとしている。さらに、「死」を自己決定できても、通常は実践することができない。
 そしてまた、一時的な、世間的な、世俗的な、「名」や「肩書き」等々にこだわるのもある程度はヒト・人間の本性・本能かもしれない。
 しかし、これは多分に、社会、時代によって、あるいは国家や共同体によって、「名」や「肩書き」、あるいは「経歴」、「資格」等々にかかかわる<意識>は異なる、変わるものだ、と思われる。
 再び逸れるが、S・フィツパトリクの著・ロシア革命(2017)の既読(・試訳済)部分で興味深かった一つは、かつてのかの国の人々のIdentity-「帰属意識」・「自己認識」・「自己同一性」、「識別」等々と訳し得る-をとくに検討し、叙述していたところだった。これは、階級・階層か職業や地位かとかの問題にかかわる。
 戻ると、個々の人々の「帰属意識」は「名」、「肩書き」、「経歴」、「資格」等々によって生じ得るものだが、果たしてそれは<永遠>のものなのか?
 一時的な、世間的な、世俗的な類のもので、本当はどうでもよい、少なくとも瑣末なものではないか。
 「肩書」、「経歴」(「学歴」を当然に含む)、「資格」等々ではなくて、もっと大切なものがある。死後はともかく、少なくとも生きている間は、もっと大切なものがある。 
 そんなことを新しい年の初めにあらためて「想念」した。きっと、くだらないことだ。

1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。

 Leszek Kolakowski は、アメリカの連邦議会図書館によるクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。
 と言っても私は全く知らなかったのだが、このクルーゲ賞は、人文社会科学のうちでノーベル賞の対象になっていない分野(というと経済、文学(、平和)以外)の傑出した研究者に与えるべく設定されたもののようで、2003年が第一回。日本の人文社会科学の研究者は、はたして候補者にでもなったことがあるのかどうか。
 クルーゲ(John W. Kluge)というのは個人名で、以下によると、財政支援者のようだ。
 先走って書くと、L・コワコフスキが受賞したからといって<反共産主義>の鮮明な性格の賞ではないようで、のちにはドイツのJ・ハーバマス(Jürgen Habermas)も受賞している。
 以下に試訳を紹介しておくのは、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)への授賞と選考過程を伝える、同図書館報(Bulletin)。
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 アメリカ合衆国・連邦議会図書館報(Bulletin)2003年12月。
 /執筆者-Gail Finberg 〔館員で編集スタッフとみられる〕。
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 A/授賞式の模様。
 レシェク・コワコフスキ、76歳、学者、哲学者、歴史家および才幹溢れる著述者で、その諸著作が母国ポーランド内部での反全体主義の若者の運動を教示し喚起させた人物が、人文社会科学での生涯にわたる業績に対して、第一回のJohn W. Kluge 賞を授与された。//
 100万ドルの賞金が、人文および社会科学-ノーベル賞の対象でない分野-での生涯の業績に対して、連邦議会図書館によって与えられる。
 この分野は、哲学、歴史、政治学、人類学、社会学、宗教学、言語学および芸術・文学評論を含む。//
 <つぎの3段落省略-*要旨-図書館長は、この賞はアメリカで、ワシントンで、Kluge センターの本拠であるこの図書館で授与するのがふさわしい、と語った。>
 図書館長Billington は受賞者を紹介して、語った。
 「レシェク・コワコフスキは…人間の思想についての歴史家、…非常に広い範囲でのエッセイ著述者です。
 自由がポーランドに始まっていたとき、ようやくこの人物の名前を発することがその国で可能になったそのときに、国民たちは彼を『ヨーロッパ文化の理論家』だと称しました」。//
 受賞者は30以上の書物および、多様な方式と四つの言語-先ずはポーランド語、ついでフランス語、英語およびドイツ語-での400以上の「あらゆる種類の対象に関する」論文の執筆者だと、館長は述べた。
 受賞者の主要な研究対象は哲学の歴史および宗教哲学だった、とも。//
 「彼はソヴィエト体制の内部から、その体制の奥にあるイデオロギーの知的頽廃、自由と多様性に対する寛容、および卓絶への絶えざる追求の必要性を明らかにしてきました」、と館長は述べた。
 「この人物は、ほとんど全てのことに関して執筆し、つねに、人間の条件にとって根本的に重要な諸問題に焦点を当てました」。//
 館長は、「彼は、二〇世紀後半の最も重要な事件-ソヴィエト体制の内部崩壊と平和的で非暴力的な終焉-の背後にいた、最も重要な一人の思索者(single thinker)でした」、と続けた。
 「ポーランドの連帯運動は、彼を頼って見つめていました。
 彼は、絶望に対して希望を注入し、恐怖を希望に取り替える、甚大な影響力をもちました。
 希望に関する彼の偉大な1971年の小論は、ポーランドの若者たちの運動の決定的な開始点であり、それが<連帯>へと流れ込んでいきました。」//
 「彼はヒューマニストで、哲学者で、文化批評者で、知性の歴史家であり、大きな諸問題を知的誠実さと深さでもって探求しました。その知的な誠実さと深さこそが、我々がKluge 賞でもって栄誉を与え、この国の最古の連邦文化施設にあるKluge センターに歓迎しようとしてきたものです」、と館長は語った。//
 選考過程に簡単に論及して館長は、こう語った。世界じゅうからの候補指名者たちは、人文学またはその近接した関連分野での業績が同学者たち(peers)によって優れていると承認され、別の分野や公的世界の人々に対して訴えかけるもののある傑出した学者を推薦するように、求められた、と。
 館長は、賞の支援者であるKluge は選抜に関与しておらず、とりわけ最初の受賞者が誰なのかを知らないように求められた、と述べた。//
 コワコフスキは館長Billington およびKluge 賞の初代の選抜に責任ある全ての人々に対して謝辞を述べ、Kluge に暖かく挨拶した。
 「彼は『kluge(賢明な)』人です」と、彼は言った。//
 <つぎの4段落省略>
 コワコフスキは公式の挨拶を水曜の夜に行った。そのときに彼はKluge賞を受けたが、その儀式はCoolidge Auditorium で行われ、著名人の中ではとくに、ノーベル賞の母国であるスウェーデンの皇太子Victoria 〔女性〕が同席した。// 
 B/選考過程。
 レシェク・コワコフスキをKluge賞に選抜するまでの過程は、二年前から始まった。世界じゅうの2000人を超える人々による候補者指名の要請とともに。すなわち、大学や優れた研究所の学長または理事長、人文学および社会科学の英れた仕事を評価する地位にいる広くかつ多様な著名研究者の人たちへの要請によって。
 この候補者指名その他は、別の多数の研究者たちによって、確認(review)されていた。
 図書館の専門家職員たちは、被指名者に関する経歴や資料を提供した。そして、2002年9月に、図書館の研究者会議(Council of Scholars)は、その確認(review)を行った。
 特定の分野、科目、文化および言語に精通した外部の検討者たち(reviewers)は相談を受け、過程全体に関する評価書を書いた。//
 選考過程の最終段階は、賞候補者14名から成る被選抜者たちを評価するための、特別の外部的審査員団を招集した2003年9月の会合だった。
 多様な高度の学術的選考手続に習熟している5名の傑出した研究者が、最終的な審査員団を構成した。
 これらの人々は、つぎのとおり。// 
 David Alexander。Pomona College in California の名誉学長、the Phi Beta Kappa Fellows の副所長、かつてthe Rhodes Trust のアメリカ事務局長、Oxford からの博士学位は宗教と哲学。//
 Timothy Breen。Northwestern University の米国史の教授、Yale での博士学位取得ののち、Princeton, N. J. のthe Institute for Advanced Study およびthe National Humanities Center in Durham, N.C.で勤務してきた。//
 Bruce Cole。The National Endowment for the Humanities (NEH) の現在の議長。Indiana University in Bloomington で芸術と比較文化の優れた教授だった。博士学位は、Bryn Mawr College in Pennsylvania から。//
 Gertrude Himmelfarb。The Graduate School of the City University of New York の歴史の名誉教授で、17-18世紀の精神史および文化史の研究者、the British Academy and the Royal Historical Society の主任研究員。//
 そして、Amartya Sen。英国のTrinity College, Cambridge University の修士で、2004年にHarvard 大学の経済および哲学の教授になるだろう。ノーベル経済学賞の受賞者の一人。インド・カルカッタのPresidency College とCambridge で教育を受けた。//
これら5名の審査員団による討議と推薦は、館長に最終的な選抜を答申するうえでの決定的な要因(key factor )だった。
 第13代図書館長Billington は、かつてPrinceton University の歴史の教授で、the Fulbright 〔フルブライト〕Program を指揮する委員会の議長、かつthe Woodrow Wilson International Center for Scholars の理事長。//
 この図書館のScholarly Programs at the Library の長であるProsser Gifford は、Kluge賞の選考過程全体を統括した。
 彼は、三大学を、人文社会科学の三つの異なる分野で卒業し、かつてfaculty at Amherst College の学部長かつthe Wilson Center の副所長だった。//
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 以下は、連邦図書館サイト上のL・コワコフスキらと、同時期に訪れたホワイト・ハウスでの写真(これはWhite House が発表)。いずれも「公」的なものだ。2003年時点でのブッシュ大統領との写真は、ブッシュらを嫌悪する人たちがL・コワコフスキを「その仲間」だとして利用していることがある。
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1900/Leszek Kolakowski の写真。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)がどういう風貌の人物かは、「(レシェク・)コワコフスキ」の検索で容易に判るので、意識してこの欄に掲載したことはなかった。
 例外はあって、一つは、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の自伝的な書物の中にある、R・パイプスとL・コワコフスキが並んでしかも二人とも(I・バーリン等とは違って)顔を見せている写真だ。この二人が同時に写っているのは、私には貴重だった。これについては版権者からのクレームはないようだ。再掲。
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 もう一つは、L・コワコフスキ著のドイツ語版・第一巻のカバー裏袖にある写真(1978年刊だから50歳くらいの年)で、ネット上にない、珍しい、かつ理知的雰囲気の強い、よい写真だった。
 しかし、これはたぶん一ヵ月後くらいに画面から消失した。まさに版権者の「事前同意なく」載せたので、ドイツの出版社または写真版権者からクレームがあったのだろうと推測し、あえて再挑戦等はしていない(この写真はネット上ではその後も見たことがない)。可能性としては、当方のたんなる操作ミスも考えられるのだが。
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 以下の4枚は、L・コワコフスキの出身市であるラドム(Radom)市のウェブサイトと見られるものの中にある9枚のProf. Kolakowski の写真の中の4枚だ。したがって、版権上の問題は実質的にはない、と思われる。「(レシェク・)コワコフスキ」検索では、たぶん出てこない。
 順に、①時期が私には不明。
 ②1949-50年頃、22-23歳頃の写真。隣に立つのは、少なくとものちの配偶者で(つまりこのときに結婚していたかは不明で)医学博士の、個人名・Tamara 氏(で間違いない)。
 ポーランド、Lodz 大学で。
 かつてこの欄に経歴紹介でこのLodz 大学を「ロズ」大学と書き記したのは誤りで、l, o, dz の三つ全てが、原ポーランド語では英米語に対応していないようだ。正確には、「ウッチ」または「ウージ」。現在、人口ではワルシャワに次ぐポーランド第二の都市。
 ③・④1989年、62歳の頃、ポーランド・ワルシャワ大学での写真。③は、何か演説か講演か、あるいは多数者に対する挨拶かをしている。この1989年には、ポーランドに入国できたものと思われる。
 ***
 レシェク・コワコフスキ(1927〜2009)。
 Leszek-Kolakowski01-(2)1960 Leszek-Kolakowski02-(2)1949-50
 Leszek-Kolakowski-03-radom (2)1989warsawuni Leszek-Kolakowski-04-radom (2)1989warsawuni


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ギャラリー
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。