秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1847/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ③。

 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのだろうか。
 櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。
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 以上は、この欄の2017/04/05付、<1485/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ②>の最後の部分。
 上にいう根拠文献を見つけたので、以下に記して、関連したことを書く。
  櫻井よしこ編・あなたの個人情報が危ない!(小学館文庫、2002.11)。
 これは、住民基本台帳法の改正(・個人情報保護法の制定等)による住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の導入に反対するための「書き下ろし」の文庫本だ。
 櫻井よしこが編者として一人だけ名前を出し、櫻井よしこが「ジャーナリスト」という肩書きで「はじめに」を書いている。
 この「住基ネット」反対運動の書物に櫻井以外に21名が執筆している。そして、近年のいわゆる<保守系月刊三誌>に(しばしば)登場するするような論者は一人もいない。
 むしろ、私から見ると、「左翼」または「左派系リベラル」と感じる者の方が多い。
 例えば、澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信
 名前を現時点でも知らない人が8名いるので、21-8=13名のうちのこれら7名は、れっきとした「左翼」または「左派系リベラル」だと思われる。
 残る6名は、田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一、鈴木邦男、山田宏
 内容への細かな言及はしない。冒頭に記したように「住基ネット」導入に反対するもので、かつ実際にこのときは、上を含む関連法律の改正等はなされず、導入はされなかった、とだけ述べておく。
 気になるのは、櫻井よしこなる人物は、この頃いったい何をしていたかだ。
 現在も一貫しているようだが<自衛隊は違憲だ>から出発すべきだ、とも書いていた(憲法学者の大半と同じ?。だからこそ<九条2項存置自衛隊明記>論は「法理論的にはともかく」「現実的だ」という議論の仕方になる-2017年5月頃)。また2001年施行予定の情報公開法に対してもかなり技術的な点を指摘して批判をしていた。
 要するに、「澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信」といった人々のいわば代表者となり、「田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一」等の人々と共通する目的で仕事をすることを全く疎んじていなかった人物だ。
 2000年前後から2005-2007年頃の間に、櫻井よしこは<転身>した。それも、日本会議または日本会議関係者の「働きかけ」あるいは「引き抜き」によって、というのが秋月瑛二の拙い推測だ。
 なお、「左翼」・「左派系リベラル」から日本会議や櫻井よしこがいう意味での「保守」へと基本的立場を変えること自体を批判しているのではない。
 ①そのような<転身>を櫻井よしこ自身はいかほどに自覚・意識しているのか。
 ②そのような<転身>の理由・背景・原因をこの人自身はこれまでどのように説明しているのか。
 ③現在に櫻井よしこを「長」として又は「論壇の代表者」のごとく仰ぐ又は「かついで」いる人々は、櫻井よしこのこれまでの姿をいかほどに知っているのか。
 これらが気になり、危うい、と感じるだけだ。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1845/自民党<自衛隊憲法明記>案では自衛隊は合憲にならない。

 一 自民党の大勢または多数議員は2017年5月3日に突如打ち出された安倍晋三総裁私案に、またはその基本的趣旨に賛成し、日本国憲法9条を改正したいようだ。
 その際、現9条第1項と第2項はそのまま存置し、9条の2を新設して、そこに「自衛隊」を明記して、<自衛隊の合憲化>または<自衛隊の合憲性論争に終止符を打つ>ことを意図しているらしい。
 マス・メディアの報道によっても、しかし、まだ9条の2の正規の文案(条文案)は確定的には伝えられていないようだ。
 だが、おおよそのところ、例えば下のAまたはBのようなものらしい。①と②は項。
 A「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ② 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 B「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための必要最小限度の実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ②自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 このAとBの基本的な違いは、①で、自衛隊につきA「必要な自衛の措置をとる~ための実力組織」と書くか、B「~のための必要最小限度の実力組織」と書くかだ。
 しかし、どちらにせよ、第一に、そのように若干の説明または目的を記したうえで「自衛隊」なるものの「保持」を明記しようとするものに変わりはない。
 第二に、いずれも「法律の定めるところにより」として、「保持」の前提としての設立とその維持、つまり「保持」については「法律」が定めるとしている点で、変わりはない。
 二 このような案では自衛隊を合憲のものにすることは、絶対に不可能だ。
 昨年夏に諸案を批判したが、そのうち、上の案に最も近いのが、百地章の案・考え方だった。
 百地章に対する一年前の批判がそのまま、あてはまる。
 簡潔に記そう。
 ①自衛隊の正確な又は具体的な姿は上にいう「法律の定めるところ」を見なければ、憲法上はまださっぱり分からない。
  ②憲法上明確なのは、第一に、「軍その他の戦力」であってはならないこと(現9条2項)のほか、第二に、新設条文により、自衛のための「必要な実力組織」または「必要最小限度の実力組織」という性格づけに反してはならないこと。
 ③自衛隊の正確な又は具体的な姿(組織・編成・人員・活動等々)を定める「法律」は上の②の制約を受ける。とりわけ現9条2項にいう「軍その他の戦力」であってはならない、という制約を受ける。
 ④自衛隊関連法律が新設されるにせよ、自衛隊関連現行法律(および政令・省令等)が維持されるにせよ、それらが「軍その他の戦力」であってはならない、という制約の範囲内のものであるか否かは、永続的に問われ続ける。
 ⑤よって、上のような9条の2新設案で、自衛隊の合憲性の問題が解消するはずがない。
 なお、上の新設9条の2の②に明確には論及しなかったが、新設条の二項は「自衛隊の行動は、法律の定める~」と定めているのだから、上と全く同じことが妥当する。
 上にいう「法律」の現九条2項適合性が、つねに問われ続けるのだ。
 三 そうだとすると、「自衛隊」という概念と一定の説明・目的の言葉を残して、<法律の定めるところにより>という字句を削除すればよい、との考え方をすぐに思い浮かべる者もいるはずだ。
 しかし、これでも、「自衛隊」なるものを合憲視することはできず、合憲性論争は続く。
 日本会議の伊藤哲夫・小坂実等々の頭脳では理解不能なのかもしれないが、いちおう、簡潔に書いておく。
 ①憲法上の「自衛隊」は、当然のこととして現9条2項に抵触しないものである必要がある。そのようなものとしてのみ、新設条文は「自衛隊」を許容するはずである。
 ②よって、そのような憲法上の「自衛隊」の範囲内に、実際の、現実の(法令上の)自衛隊がとどまっているか否かは、永続的に問われ続ける。
  ③要するに、憲法上の「自衛隊」と、現行法制上の「自衛隊」または今後改正によってその具体的な態様は変動しうる「自衛隊」、とが同じであるはずがないのだ。
 四 一年前の夏に書いたことをいっさい変更する必要を感じていない。
 また、上の大きくは二点につき、ほとんど確信に満ちた自信をもっている。<ほとんど>とは一種の修辞で、実際には100パーセントだと言ってよい。
 少しでも憲法解釈、憲法と「法律」の関係、憲法・「法律」間解釈の作法を知っている者であれば、誰でも、こういう結論になるだろう。弁護士その他法曹資格を持つ者ならば分かるはずだ。
 しかし自民党の中でも大きな声になっていないようであるのは、<ともかく改憲>派、<できるだけ早く改憲>派に、政治的に遠慮しているからだろう。
 <改憲>という言葉・概念のトリック・魔力にひっかかっている政治運動団体があるからだろう。
 憲法に「自衛隊」という言葉さえ入れば<自衛隊>は(実際の自衛隊も)合憲になる、と考えている「アホ」丸出しの政治運動団体があるからだろう。
 大切なのは、<改憲か護憲か>ではない。<どのように改憲するか>だ。
 あるいはそもそも、現在の自民党案では<改憲>にならない。自衛隊の合憲性問題を、却って大きく意識させ、浮上させるだけだ。
 そしてまた、現在の自民党案では、「自衛隊」なるものが「軍・戦力」になることを半永久的に否定することになる。これも大きな弊害だ。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
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 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
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 以上。
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 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
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1843/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」②。

 レシェク・コワコフスキがのちの『マルクス主義の主要潮流』を執筆し始めたのは彼が41歳のときだとされ、ポーランド語版と英独語版のPreface が同じ時期に書かれているとすると、その1976-78年は、彼が49-51歳のときだった。
 そのPreface (緒言、はしがき)は大著を公刊・公表するに際しての緊張に打ち震えているうな印象もあり、(自信があるためもか)細かな釈明的な言辞をあらかじめ記している。2004年にそれがどうなったかは別として、彼が50-51歳である1977-78年頃に執筆されたと見られるEpilogue (エピローグ、あとがき)は、全三巻の執筆を終えてすでに印刷にかかっている時期で一定の安堵感があるためなのかどうか、緒言(はしがき)に比べると、L・コワコフスキの「本音」的部分がかなり明らかにされているように感じる。
 むろん、学術研究的文章ではないので、正確で厳密な意味は把握し難い。やや感情的に、簡潔に言いたいことを書いておこうとしたような印象がないでもない。
 それでもしかし、この人物の<基本的な>姿勢を感じ取ることはかなりできそうに思える。
 それにしても、以下の文章は1978年頃のもので、今は2018年。40年が経過している。
 この40年間、私の知る限りでは、以下の文章の邦訳はなく、上の書物全体の翻訳書も日本では刊行されなかった(但し、英文等で読んだ「知識人」・「専門研究者」はきっといただろう)。
 この日本の40年間の「現実」は、もはや変えることができない。
 以下、試訳のつづき。原文にはない段落ごとの番号を付している。
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 エピローグ(あとがき、Epilogue)②。第三巻523-530頁のうちの527頁以下。
 (7) マルクスはさらに、そのロマン派的夢想を、全ての必要は地上の楽園で完全に充たされるという社会主義の予想と結びつけた。
 初期の社会主義者たちは、「各人にその必要に応じて」というスローガンを限られた意味で理解したように見える。人々は寒さや飢えで苦しんではならず、あるいは極貧の中で空腹で生活してはならない。
 しかしながら、マルクスおよび彼に倣ったマルクス主義者は、社会主義のもとでは全ての欠乏が存在しなくなると想定した。
 全ての人間は、魔法の指輪か従順な精霊をもつかのごとく、全ての欲求を充たすことができる。このようにきわめて楽観的に考えて、希望を思い抱くのは可能だった。
 しかし、これを真面目に受け取ることはほとんどできないため、問題を熟考したマルクス主義者たちは、相当程度はマルクスの著作に支えられて、共産主義は、人間の本性と合致する、気まぐれや願望では全くない「本当の」または「真正の」必要を充足させるのだと決着させた。
 しかしながら、これは誰も明確には回答できない問題を生じさせた。すなわち、いかなる必要が「真正」なのかを誰が決定するのか、いかなる規準によってそれを決定するのか?
誰もが自分でこれを判断するのならば、実際に主観的に感じている全ての必要は平等に正しく供給され、区別をつける余地はない。
 一方、決定するのが国家であれば、歴史上最大の解放事業は全世界的な配給(rationing)制度であることになる。
 (8) 一握りの新左翼(New Left)の未熟者以外の全ての者にとって、今日ではつぎのことが明白だ。すなわち、社会主義は文字通りには「全ての必要を充足する」ことができず、不十分な資源の公正(just)な配分を企図することができるにすぎない。-このことが我々に残す問題は、「公正」の意味を明瞭にし、いかなる社会的機構によって、個々の各事案についてその企図を実現すべきかを決定することだ。
 完全な平等という観念、換言すると全員に対する全ての物資の平等な分配は、経済的に実施不可能であるばかりか、それ自体が矛盾している。なぜならば、完全な平等は極度の専制システムのもとでのみ想定することができるものだが、専制それ自体が、少なくとも権力への関与や情報の入手のような根本的利益に関する不平等を前提にしているからだ。
 (同じ理由で、現在の<左翼(gauchistes)>が平等の増大と政府の縮小を要求するのは支持できない立場だ。現実の生活では、大きな平等は大きな政府を意味し、絶対的な平等は絶対的な政府を意味する。)
 (9) かりに社会主義が全体主義的牢獄ではない何かだとすれば、相互に制限し合う多様な価値を妥協させるシステムでのみありうる。
 全てを包括する経済計画は、達成するのが可能だとしてすら-不可能だとするほとんど一般的な合意があるが-、小生産者や地域単位の自治(autonomy)とは両立し難い。そして、この自治は、マルクス主義的社会主義のそれでなくとも、社会主義の伝統的な価値だ。
 全ての者の生活条件を完全に確保することと技術の進歩は、共存できない。
 自由と平等の間に、計画と自治の間に、経済民主主義と効率的経営の間に、不可避的に矛盾が発生する。そして、妥協と部分的解決によってのみこうした矛盾を解消することができる。
 (10) 産業発展諸国では、不平等を除去し最小限の安全を確保するための社会制度(累進課税、医療サービス、失業対策、価格統制等々)は全て、巨大に膨張する国家官僚機構という対価を払って作り出され、拡張されている。いかにすればこの対価の支払いを避けることができるのか、誰も提案できない。
 (11) このような諸問題は、マルクス主義とほとんど関係がない。かつまた、マルクス主義の教理は実際上、これらを解決するには何の助けにもならない。
 歴史の到達点での黙示録的(最終予言的)信念、社会主義の不可避性、および「社会構成」の自然の順序。「プロレタリアートの独裁」、暴力の称揚、国有化産業がもつ自動的な効率性への信仰、対立なき社会と金銭なき経済に関する幻想。-これら全てが、民主主義的社会主義の観念と共通するところが何もない。
 民主主義的社会主義の目的は、生産が利潤に従属するのを徐々に減少させ、貧困をなくし、不平等を廃絶し、教育を受ける機会への社会的障害を除去し、国家官僚機構による民主主義的自由に対する脅威と全体主義への誘惑を最小限にする、こうした諸制度を創出することだ。
 これらの尽力と試みは全て、自由という価値に深く根ざしていないかぎり失敗するよう運命づけられている。マルクス主義はこの自由を、「消極的」自由、社会が個人に許容する決定領域だと非難した。
 この非難は当たらない。自由とはそれ自体以外に正当化を必要としない本質的価値だからだ。また、自由なくしては社会は自らを改良することができないからだ。
 この自己を規整するメカニズムを欠く専制体制は、過誤によって災厄が発生したときにだけその過誤を修正することができる。
 (12) マルクス主義はこの数十年間、全体主義的政治運動のイデオロギー的上部構造としては凍結し、機能しなくなった。その結果として、知的発展と社会的現実から乖離してしまった。
 再生してもう一度実りを生むという希望は、すぐに幻想(illusion)だと判明した。
 説明の「システム」としては、マルクス主義は死んでいる。また、現代生活を解釈し、未来を予見し、あるいは理想郷(ユートピア)の企図を培養すべく有効に使うことのできるいかなる「方法」も、マルクス主義は提示していない。
 現在のマルクス主義文献は、量的には多いけれども、純粋に歴史に関係していないかぎりでも、無味乾燥さと見込みなさの、気の滅入るような雰囲気をもつ。
 (13) 政治的動員装置としてのマルクス主義の有効性は、全く別の問題だ。
 論述したように、マルクス主義の言葉遣いは、きわめて多彩な政治的利益を支えるために用いられている。
 マルクス主義が現存体制によって公式に正当化されているヨーロッパの共産主義諸国では、マルクス主義は全ての確信を失っている。一方、中国では、見分けがつかないほどに醜悪化した。
 共産主義が権力を握っている国ではどこでも、支配階級はマルクス主義を、ナショナリズム、人種主義あるいは帝国主義が本当の源であるイデオロギーへと変形している。
 共産主義は、マルクス主義を用いることで権力を掌握しそれを維持するために、ナショナリズム・イデオロギーを強化すべく多くのことをした。そのようにして、共産主義は自らの墓穴を掘っている。
 ナショナリズムは、憎悪(hate)、嫉妬および権力への渇望のイデオロギーとしてのみ生きている。ナショナリズムはそのようなものとして共産主義世界での破壊的な要素だ。そして、共産主義世界の首尾一貫性は、実力(force)にもとづく。
 世界全体が共産主義国であれば、単一の帝国主義によって支配されるか、異なる諸国の「マルクス主義者」たる支配者間での際限のない戦争の連続だろう。
 (14) 我々は、その結合した効果を予見することのできない、重大で複雑な知的かつ道徳的な過程の目撃者であり、関与者だ。
 一方で、19世紀の人間中心主義(humanism)の多数の楽観的想定は瓦解し、文化の多くの分野には破綻の感覚がある。
 他方で、情報のこれまでにない早さと拡散のおかげで、世界じゅうの人間の諸願望はそれらを充足する手段よりも早く増大している。
 こうして急速に、欲求不満とその結果としての攻撃的心理が大きくなっている。 
共産主義者たちは、このような心理状態を利用する、攻撃感情を状況に応じて多様な方向へと流し込む、目的に適合したマルクス主義の用語法の断片を用いる、こうした技巧に長けていることを示してきた。
 メシア的希望を生じさせた対応物は、絶望と自分の過ちを見た人類を途方に暮れさせている無力の感覚だ。
 全ての問題と災難について既成のかつ即時の回答があり、それを適用する際には敵の悪意だけが立ちはだかっている、という楽観的信念は、マルクス主義という名前ののもとで移ろいゆくイデオロギー・システムに頻繁にみられる構成要素だった。-マルクス主義は一つの状況から別の状況へと内容を変化させ、別のイデオロギー上の伝統と混じっている雑種のもの(cross-bred)だ、と言うことができる。
 現在ではマルクス主義は世界を解釈しないし、世界を変化させることもない。多様な利益を組織するのに役立つ、たんなるスローガンの目録(repertoire)だ。それらのほとんどは、マルクス主義の元来の姿だったものから完全に遠ざかっている。
 第一インターナショナルの崩壊ののち一世紀、世界じゅうの抑圧された人間性の利益を守ることのできる新しいインターナショナルの見込みは、かつて以上に、ほとんどありそうもない。
 (15) マルクス主義が哲学的表現を与えた人類の自己神格化は、個人であれ集団であれ、そのような全ての試みと同じようにして終焉した。それは、人間の隷従という茶番劇の実体を露わにしたのだ。
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 以上。

1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
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 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
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 ②へとつづく。

1841/L・コワコフスキ・2004年合冊版の「新しい緒言」。

 1976-78年に先に(9/01に)試訳を紹介した「緒言」を書いていたL・コワコフスキは、内容は同じ自分の書物=『マルクス主義の主要潮流』について、およそ30年近くのちに、つぎの「新しい緒言」を記した。
 1976-78年と2004年。言うまでもなく、その間には、1989-1991年があった。
 最後の段落以外について、原文にはない、段落ごとの番号を付した。太字化部分は秋月瑛二。
 レシェク・コワコフスキ・2004年合冊版『マルクス主義の主要潮流』の「新しい緒言」。
――――
 新しい緒言(新しいはしがき、New Preface)。
 1 いまこの新しい版で合冊される諸巻が執筆されてから、およそ30年が経過した。この間に生起した事態は私の解釈を時代遅れの、無意味な、あるいは単純に間違ったものにしたのかどうか。こう問うのは、場違いなことではない。
 たしかに、私は賢明にも、いまでは虚偽だと判断されるような予言をするのを避けていた。
 しかしながら、むしろ、つぎの疑問が、依然として有効なままだ。私の諸巻が叙述しようと試みた精神または政治の歴史について、なおも興味深いものはいったい何なのか。
 2 マルクス主義は、哲学的または半哲学的な教理であり、共産主義国家で正統性と拘束的な信仰の主要な源として用いられた政治的イデオロギーだった。
 このイデオロギーは、人々(people)がそれを信じているか否かに関係なく、不可欠のものだった。
 共産党支配の最後の時期には、それは生きている信仰としてはほとんど存在していなかった。そのイデオロギーと現実の間の懸隔は大きく、共産主義者の楽園という愉しい未来の希望は急速に色褪せていたので、支配階級(換言すれば党機構)と被支配者のいずれも、その空虚さに気づいていた。
 しかし、それは、正確には権力システムの正統性の主要な装置であったために、公式には拘束的なままだった。
 支配者が本当にその人民と意思疎通することを欲したのであれば、支配者は「マルクス・レーニン主義」というグロテスクな教理を用いなかった。むしろ、ナショナリズム感情や、ソヴィエト同盟の場合には帝国の栄光に、訴えかけていた。
 最後には、帝国と一緒にそのイデオロギーは砕け散った。それの崩壊は、共産主義という権力システムがヨーロッパで死に絶えた理由の一つだった。
 3 知的には適切でなかったが抑圧と収奪の装置としては効率的だった複雑な機構が解体した後では、研究対象としてのマルクス主義は永遠に葬り去られたと見えるかもしれない。また、それを忘却の淵から引き摺り出す場所はないように見えるかもしれない。
 しかし、そう考えるには、十分な根拠がない。
 過去の諸観念(ideas)への関心は、その知的な価値や現在にある説得力にもとづくものではない。
 我々はずっと前に死んでいる諸宗教のさまざまの神話を研究するし、もはや信者がいないことがその研究を興味深くないものにするわけでもない。
 宗教の歴史の一部、および文化の歴史の一部としてのそのような研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察したり、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を洞察したりすることができる。
 宗教的、哲学的あるいは政治的のいずれであれ、諸観念(ideas)の歴史の洞察は、我々が自分自身を認識するために行う探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味を探求することなのだ
 夢想郷(utopia、ユートピア)の歴史は冶金学や化学工学の歴史よりも魅力的ではない、ということはない。
 4 マルクス主義の歴史に関するかぎりでは、それを研究に値するものにする、追加的で、より適切な理由がある。
 長い間相当の人気を博してきた哲学的教理(マルクス主義の哲学的経済学と呼ばれたものは今日の世界の意味での本当の経済学ではなく哲学上の夢だった)は、全体としては決して死に絶えていない
 それらは言葉遣いを変えているが、文化の地下で生き延びている。そして、しばしば見え難いけれども、なおも人々を魅惑することができ、あるいは脅かすことができる。
 マルクス主義は、19世紀および20世紀の知的伝統と政治史に含まれる。そのようなものとして、マルクス主義は明らかに関心を惹くものだ。際限なく繰り返された、しばしばグロテスクな、科学的理論であるという見せかけの主張(pretension)とともに。
 しかしながら、この哲学は、人類に対する描写できないほどの悲惨と損害をもたらす実際的効果をもった。私有財産と市場は廃棄され、普遍的で包括的な計画に置き換えられるべきだ、というのは、全く不可能なプロジェクトだった。
 マルクス主義教理は人間社会を巨大な収容所へと変形させる優れた青写真だと、19世紀の終わり頃に、主としてアナキストたちによって、気づかれていた。
 たしかに、そのことはマルクスの意図ではなかった。しかしそれは、彼が考案した栄光にみちた、最終的な慈愛あふれるユートピア思想の、避けられない効果(effect)だった。
 5 理論上の教義的マルクス主義は、いくつかの学術上の世界の通路に、その貧しい存在を長くとどめている。
 それがもつ容量はきわめて乏しい。だがしかし、つぎのことは想像に難くない。すなわち、実際には一体の理論としてのマルクス主義との接触を失っているが曖昧ながらも資本主義かそれとも反資本主義かという問題として提示することのできる論争点を探し求める、一定の知的には悲惨だが声高の運動に支えられて、その力を大きくするだろう。
 (資本主義かそれとも反資本主義かという考え方は、決して明瞭ではないが、マルクス主義の伝統に由来していると感じられるようにして採用される。)
 6 共産主義イデオロギーは、死後硬直の状態にあるように見える。そして、なおもそれを用いる体制はおぞましく、したがってその蘇生は不可能であるように見えるかもしれない。
 しかし、このような予言(または反予言)を慌ててしないでほしい。
 栄養を与え、このイデオロギーを利用する社会条件は、まだなお生き返ることがありうる。
 おそらくは―誰にも正確には分からないが―、ウィルスは眠りながら、つぎの機会を待っている
 完璧な社会を求める夢想は、我々の文明に永続的に備わっているものだ。
 ***
 これら三巻は、1968-1976年にポーランド語で執筆された。そのとき、ポーランドで出版することができるとは、夢にも思っていなかった。
 これらはパリで 1976-78年にInstitute Littéraire によって出版され、ポーランドでは地下で複写出版が行われた。
 その次のポーランド語版は、1988年にロンドンで、Aneks 出版社によって刊行された。
 2000年になってようやく、この書物はポーランドで合法的に出版された(Zysk 出版社による)。そのときには、検閲と共産主義体制が消滅していた。
 P. S. Falla により翻訳された英語版は、Oxford University Press により1978年に出版された。
 つづいて、ドイツ、オランダ、イタリア、セルビア、スペインの各語での翻訳版が出版された。
 中国語版が存在すると私は告げられたが、見たことは一度もない。
 二つの巻のみが、フランス語版として出版されている。なぜ第三巻のフランス語版は刊行されていないのか、出版社(Fayard)は説明することができない。私は、その理由をつぎのように推測している。
 第三巻は、出版者があえて危険を冒すのを怖れるほどの憤慨を、フランスの左翼主義者(Leftists)を刺激して発生させたのだろう。
 Leszek Kolakowski /Oxford /2004年7月
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 以上。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1839/レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の全巻「緒言」。

 レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ポーランド語、1976年)はフランス・パリで刊行され、翌1977年に原語からの直接訳として第一巻のドイツ語版が出版された(R.Piper & Co. Verlag, München & Zürich)。同じくハード・カバーで原語からの直接訳である英語版の第一巻はさらにその翌年の1978年に出版された(Clarendon Press・Oxford University Press)。
 これらには、第一巻以降の各巻の序言(Einleitung, introduction)とは別の、全巻を想定した「緒言(はしがき)」(Vorwort, Preface)目次(Inhalt, contents)よりも前に付されている。
 以下は、その試訳。ドイツ語版で最初に粗い翻訳をし、のちに英語版も含めた両者を見ていちおう確定した。
 少しは原文が違うのではないかと感じるほどに、文法構造や単語が異なっている部分もある。但し、基本的な趣旨が変わっているわけではないだろう。
 一文ごとに改行する。改行があるまでの各段落には、原文・独英訳書にはない番号((1)~)を付けた。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ドイツ語1977年, 英語1978年)。
 緒言(はしがき、Vorwort, Preface)。
 (1) 一冊の教科書を書くのが私の意図だった。
 こう言っても、私独自の見解、志向や解釈原則から自由に、争う余地のない方法でマルクス主義の歴史を叙述するのに私は成功した、という馬鹿げた主張をしているのではない。
 私はそれでただ、緩みのある論考の形でではなく、私の見解と一致するかどうかとは関係なく、この主題への手引きを探している全ての人々が利用できる重要な事項を含み込むことが可能な方法で叙述するよう努めた、ということを意味させている。
 私はまた、叙述の中に私の論評を隠し込むのではなく、私自身の見解を別の、明瞭に画定された文章部分で提示するように意を尽くした。
 (2) 当然のこととして、ある著者による素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性について、その著者の見解や志向が反映されるのは避けられない。
 しかし、政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ、かりに全ての事実の提示は著者の個人的な見解によって歪められ、実際に多かれ少なかれ恣意的に構成されたものだとすれば、したがってまた歴史的説明なるものは存在せずたんに一連の歴史的評価のみがある、ということを最初から前提にするとすれば、いかなる種類の歴史的手引書を編成することも、全く不可能だろう。
 (3) この書物はマルクス主義の歴史、すなわちマルクス主義という一つの教理(Lehre, doctrine)の歴史、を叙述する試みだ。
 社会主義思想の歴史ではなく、この教理を多様な版型で独自のイデオロギーとして採用した政治的党派や運動の歴史でもない。
 強調する必要がないことだが、こうした区別は単純には貫徹できない。とりわけ理論家や思想家の作業と政治的な闘争の関係が明白でありかつ緊密であるために、マルクス主義の場合には微妙だ。
 それにもかかわらず、いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を「生きている全体」から切り出すことを余儀なくされる。
 これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになるだろう。
 この書物に教科書たる性格を付与するもう一つの特徴は、教理の発展とその政治的イデオロギーとしての機能の間の関係をさし示す基礎的事実を、可能なかぎり簡潔にだが示した、ということだ。
 全体が、私の注釈の付いた説話だ。
 (4)  論争の対象ではないマルクス主義の解釈にかかわる問題は、ほとんど一つも存在しない。
 私はそうした議論のうち最も重要なものに着目するよう努めた。だが、著作を研究してその見解や解釈に私は与しない全ての歴史家や論評者の見解を詳細に分析しようとすれば、この書物の射程をすっかり超えてしまうだろう。
 この書物は、特別に新しいマルクス解釈の提示を主張するものではない。
 私のマルクスのテキストの読み方が他の解釈以上に多くルカチ(Lukács)の影響をうけたことも、容易に気づかれるだろう(このことは、私がルカチのマルクス理解に縛られていることを意味しない)。
 (5) 看取されるだろうように、この書物は単一の原理でもって小区分されてはいない。
 自己充足的な全体の一部として特定の人物または志向を叙述することが必要だと思われる場合には、純粋に年代的な叙述編成に執着するのは不可能だということが分かった。
 個別諸巻へのこの書物の区分けは基本的には年代史的だが、しかし、この点でも私は、マルクス主義の異なる傾向を分離した主題としてできるかぎりの範囲で論述するために、ある程度は一貫性が欠けるのを自らに許容せざるを得なかった。
 (6) 第一巻の最初の草稿を、私は1968年に書いた。その年、ワルシャワ大学での講座職から離れた後で利用できた自由な時間を活用した。
 数年のちに、この巻について多数の補足、訂正および変更が避けられないことが判った。
 私は第二巻を1970年から1973年までに、第三巻を1975年から1976年までに書いた。Oxford の All Souls College が与えてくれた研究員たる地位を利用した。そして、この研究員たる特権的地位なくしてはこれらの諸巻を書けなかっただろうことは、ほとんど確実だ。
 (7)  この書物は、委細を尽くした文献目録を含んではおらず、出典や主要な注釈書を参照したい読者のために言及だけを行っている。
 私が言及している諸著作の中に、今日では個々の読者が理解するには残念ながらもはやあまりに広範囲すぎる文献への参照を見出すのはどの読者にも容易だろう。
 (8)  私の二人のワルシャワの友人、思想史学者のAndrzeji Walicki 博士と数学者のRyszard Herczynski 博士は、第二巻の草稿を読んでくれた。多数の有益で批判的な言及と刺激について、二人に感謝する。
 全体の原稿は、私の他には、職業は医師であり精神科医である私の妻、Tamara Kolakowska 博士だけが目を通した。
 私が執筆する全てと同じように、この書物もまた、彼女の批判的な読み方と冷静な理解力にきわめて多くを負っている。
 Leszek Kolakowski
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 以上。

1838/2018年8月-秋月瑛二の想念④。

 月刊正論2017年3月号の「編集部作成」のチャート(マップ)は、「保守の指標」と題しつつ右上・左上・左下・右下という反時計回りの4象限をつぎのように示す。
 B/自虐・対米協調派 A/自尊・対米協調派
 C/自虐・対米不信派 D/自尊・対米不信派。
 月刊正論・産経新聞はAで、朝日新聞はCなのだそうだ。
 秋月瑛二が2017年の1/30や2/02で示したのは、つぎだった。
 B/リベラル・保守 A/ナショナル・保守
 C/リベラル・容共 D/共産主義(=ナショナル・容共)。

 対米協調・不信+自尊・自虐という二基準と保守・容共+リベラル・ナショナルという二基準とどちらが「優れて」いるか、あるいは少なくともどちらが<視野が広い>か、ということには再びたちいりはしない。
 ここで問題にしたいのは、こうした何らかの二つの要素だけを組み合わせた<社会思潮>の四分類程度で複雑・多岐にわたる「思想」・「意識」等を整理・把握できるのか、という問題設定の仕方そのものだ。
 なるほどある程度の「単純化」は必要で、そうしないと「知的」作業が成り立たない。
 しかし、わずかの四分類(四象限化)で済ませること自体が、タテ・ヨコ(上下・左右)の二次元しかない一枚の(平面の)紙の上の作業であることの限界を示しているだろう。
 つまり、三つ目の対立軸を立てて、平面四角形ではなく、サイコロの形のような立体的、三次元的四方型を想定しての思考方法を、最低でも、しなければならないだろう。
 ヒト・人間の本能に内在する感覚からしても、この程度の思考程度はかなり容易に行えそうな気がする。二次元の四象限化程度では、<簡略化>が行き過ぎている可能性がすこぶる高い。
 上のような四象限化を「公式に」示した月刊正論編集部は、その頭の単純さを暴露しているようなものだ。もっとも、それにお付き合いして対案を考えた秋月もおかしいかもしれない。
 もっと多様で柔軟な発想をすべきで、思考の方法や基準を「硬直」させてしまってはだめだ。
 ***
 例えば、「日本会議」と日本共産党は、真反対の側にいると相互に意識しているかもしれない。
 例えば平面上に一つの円があるとして、かりに前者が左端近くに、後者が右端近くにある、としよう(これも、あくまでかりにだ)。たしかに、両者は真反対の側にいて、対立しているように見える。
 しかし、その同じ円形を底面・上面とする円柱を、つぎに想定してみる。
 底から、または上からその円柱を覗いたとする。
 たしかに真下又は真上から見ると、両者は真反対側にいて対立しているようだ。
 しかし、例えば透明の円柱全体を横から眺めたとすると、「日本会議」と日本共産党はいずれも、底面部(下部)又は表面部(上部)に並ぶように存在していて、円柱全体の中ではきわめて近い位置にいる、ということが考えられる。
 対立していそうでいて、この両者は、それぞれの「観念」的な単純発想において、きわめてよく似ているのではあるまいか。
 いつか、つぎの趣旨を書いたことがある。
 不破哲三・日本共産党は「未来」にユートピアを求め、櫻井よしこ・「日本会議」は(日本の歴史・伝統/天皇という)「過去」に理想を求めようとする
 いずれも現在・現況に不満で、過去か未来の「空中の一点」に変革・回復目標を設定する点で、共通しているのではないか。
 むろん、これらは、現存勢力の支持・団結を維持し拡大するという、世俗的・卑近的な「政治的」目的をもつことでも共通するが、これは今回はさて措く。
 円柱を想定するとすれば、もちろんそれ以上に、円球、つまり地球のような丸い立体を想定し、かつその表面部分(地表面や海面)だけではなく、透明なガラス球のごとく内部・奥(地底・海底)も見える、という球形を想定することができるだろう。
 先だって、宇宙空間にいて眺めているような発想が必要だとも書いた。かりに上下・左右・前後について可視能力のある点的な物体の中に認識主体がいるとすれば、それ自体または他者の移動の方向が<上下・左右・前後>のいずれであるのは分からない、それらのいずれでもありうるのではないか、ということを書いた。
 だが、発想・思考のためには何らかの「軸」が必要だとすると、東経・西経/北緯・南緯の二つの軸で表現しうる地表面(・海面)に加えて、地球の中心(地核)までの距離(深さ)をも加えた三つの軸くらいはやはり必要かもしれない。そうでないと、全てが<相対的>になる。
 またこのように円球を想定した思考は、サイコロ的四方型を想定するよりも、はるかに複雑な思考をすることができる。
 上下・縦横・左右の三次元的発想によると、四象限ではなく、2×2×2の八象限化が可能だ。これでも線的(一次元)、平面的(二次元的)思考よりは、優れている。
 だが、所詮はまだ、<社会思潮>等を八つに分類することができるにすぎない。
 世の中には、もっと多数の、無数に近い論点、対立点がある。
 この点、その「内部」を含めた、表面ではなくてむしろ「内部」の位置こそに注目する円球・地球的発想では、ほとんど無限の位置を設定でき、かつ何らかの方法・基準・指標でそれを表現することが可能だ。
 もとより、ヒト・人間の一個体には、このような厳密で複雑な作業をする能力はない。しかし、発想としては、この程度に複雑・多様であることを意識して、「観念」化・「硬直」化を可能なかぎり回避する必要がある。
 唐突だが、では上の「厳密で複雑な作業」をITはすることができるか。将来的にも、絶対にすることはできないだろう。


1837/2018年8月-秋月瑛二の想念③。

 一 「知」的作業は何らかの「価値」をもち得るので、対価を受けることは当然にあり得る。そのこと自体を問題視しているのではない。
 ただ、指摘しておきたいのは、対価という「金」は自分自身や自分に頼る「身内」が食って生きていくための資力そのものなので、<食って生きて>ゆくために「知」的表現内容を微小とも(または大きく?)変えるというのは、十分にあり得る、ということだ。
 この原稿のままでは編集者は「いい顔をしないかもしれない」、この雑誌の読者には支持されそうにない、この新聞の読者層が関心をもってくれるだろうか、反論・批判が山のように編集部に届くとイヤだなあ、等々。
 こういうことを一切考慮しないで、日本の<言論人>・<評論家>たちは「自由」に、「独立」して、「知」的表現活動を行っているだろうか。
 誰でも最低限度<食って生きる>ことを考えるだろうから、このこと自体もまた、一概に非難することはできないだろう。
 しかし、読者としては、そういう考慮もして原稿を書き、「知」の作業をしている論者もいる、ということを意識しておくべきだろう。
 固有名詞は挙げないが、私にはつぎの趣旨の文章の記憶があって、印象に残っている。
 一つ。ある人が、某新聞紙上で<~と私をネットで批判する人がいるが、その当時は、これの他に見解発表媒体はなかったのだから、仕方ないではないか、という旨を書いていた。
 二つ。別のある人が、既発表のものを集めた某単行本の中で、この当時はこれが発表できるギリギリの線でした、という旨を書いていた。
 要するに、発表媒体を何とかして持ちたい「言論人」もいること、「知」的作業の発表内容を雑誌によって<自主規制>している「言論人」も明瞭に存在している、ということだ。
 そうした「言論」の内容が、完全に<自由>なものになっているはずはないだろう。
 関連して、前回に触れた、自己を<差別化>するための言論という例も思い浮かべることができるが、固有名詞を挙げるのがこの稿の目的ではない。
 別に「知」というものの虚像性には触れたい。
 ともあれ、現に世俗の世界で行われている「知識」や「理解」あるいは「評論」の作業は、生きているヒトの行動として、人間・ヒトの本能や限界から全く自由というわけではない。少なくとも、この秋月瑛二の書きものとは違って、「金」=対価や「名誉・顕名」と関係があるかぎりは。
 二 議場での議長席や演壇・演説者台から見るとたしかに、議場の「左翼」と「右翼」(およびその中間)という感覚が先立つだろう。
 だが、前回の述べ方には不十分さがある。すなわち、ヒトは二本脚を持ち、左右の二本の腕を(ふつうは)持つので、そうでなくとも<右と左>の感覚は本能的にあるだろう。
 そして、第一に、脚で地上に立つということ自体、下へと働く強い「引力」とそれがない「上」の区別の意識もまた、本能的に内在させていると思われる。
 第二に、脚で歩くのは「前を向いて」だから、人間の眼が前方しか見えない(真後ろが見えると怪人だろう)結果として、見えない「うしろ」の感覚も、要するに「前と後」を区別するという意識も、本能的に持つものと思われる。
 この第二の点は、重要なことだ。つまり、<前進と後退>、<進歩と退却>という意識は相当に強く人間に根ざしていて、前者をこそ、つまりは<前進>や<進歩>を後者と違って「良い」ものとする思考は、かなり本能に近いように見える。
 「前進」と題する機関紙をもつ政治団体もあるようだし、日本共産党中央委員会の月刊雑誌は「前衛」と題する。
 逸れかかるのかは止めるが、こうなってくると、<進歩>か後退・保守または反動かは、そもそも言葉の上で最初から勝負がついているようなものだ。
 もともと、「前進」は、前へと「進む」のは、ヒト・人間にとって必要不可欠で、「良い」ものにほとんど決まっているのだ。
 元に戻って、さらに続けよう。
 こうして、少なくとも三次元(左右・上下・前後)の意識を人間は本来有しているはずなのに、<右か左か>、<(共産主義を含む又は容認する意味での)民主主義かファシズム・軍国主義か>という左右線的、二項対立的思考がなおも強いように思われるのは、いったいどうしてだろうか。最も単純な「発想」を選びたいのかもしれない。
 <アベ政治を許さない>のか否か、<安倍政権の敵か味方か>(産経新聞社『月刊正論』のある号の目次・冒頭)という発想も全く同じのようなものだ。
 もっとも、月刊正論編集部はたぶん2016年末か2017年初頭に、公式に?四象限からなる「思想」チャートを示したことがあった。ヨコ軸とタテ軸を使う、線的思考ではない、平面的(二次元的)思考での整理だと言える。
 その内容の欠陥にいささか驚いて、私なりの四象限チャートをこの欄に示したこともある。
 それぞれを確認するために、ここで区切ろう。
 別の論脈だが、「自分」と「他者」、「自分たち」と「それ以外」、<内と外>、<味方と敵>。
 これらはかなり本能に根ざしているだろう。しかし、<内と外>や<味方と敵>という二分を狂熱的に意識してしまうと、いったいどうなるだろう。こんなことにも触れたい。

1836/2018年8月-秋月瑛二の想念②。

 一 「知識」や「思考」の作業やそれを発表する作業もまた、<食って生きて>いくことと無関係ではありえない。綺麗事や理念のために「知的」営為が行われてきたとは全く限らない。
 こう前回に書いた。ではこのブログ欄はどうなのかが問題になる。やはり昨年に何度かつぎのように書いていた。
 大海の深底に棲息する小さな貝の一呼吸が生じさせる海水の微少な揺れのようなものだ。
 全ての個人・組織(・団体)から「自由」であり、「自由」とは孤立している、孤独だ、いうことでもある。
 というわけで、かりに「知的」営為だとしても(少なくとも、単にうまい、きれい、かっこいいとだけ何かに反応しているのではない)、私の場合は<食って生きて>いくことと何の関係もない。生業・職業ではないし、何らかの経済的利益を生む副業でもない。誰かに命じられて書き込んで「小遣い銭」をもらっているわけでもない。
 しばしば何のためにこの欄を、と思ってきて、途中で止めようと思って放置したこともあった。せいぜい読書メモとしてでも残していこうかと思って1800回以上の投稿になったのだが、このブログ・サイトというのは自分が感じまたは考えたことを時期とともに記録し、検索可能なほどにうまく整理してくれる便利なトゥールだと徐々に明確に意識したからだろう。
 このような<自分のための>という生物の個体固有のエゴイズム以外に、この「知的」営為の根源はないだろう。
 ときに閲覧者数が数ヶ月にわたってゼロであれば(数字だけはおおよそ分かるが、かなり早くから-日本国憲法「無効」論者から「どアホ!」と貼り付けられてから-、コメント・トラックバックを遮断している)止めようかと思ったりする。それでもしかし、つまり読者ゼロでも、上の便利な機能は生きているので、やはり残して、気がむけば何かを表現しようとし思っている。
 最近はこういう秋月瑛二のような発信者も多いかもしれない。
 しかし、新聞・雑誌に活字になる文章やテレビ等で発言される言葉には「知的」作業そのものだったり、その結果だったりするものの方が多いだろう(政治・社会に直接の関係がなくとも)。
 二 そのような「知識」や「思考」の作業あるいは「知的」営為は、いかなる<情念>あるいは<衝動・駆動>にもとづいてなされているのだろうか。近年は従前よりも、こうしたことに関心を持つ。
 だいぶ前にJ・J・ルソーの<人間不平等起源論>を邦訳書で読み終えて、この人には、自分を評価しない(=冷遇した)ジュネーブ知識人界(・社交界?)への意趣返し、それへの反発・鬱憤があるのではないか、とふと感じたことがあった。
 ついでに思い出すと(この欄で既述)、読んだ邦訳書の訳者か解説者だった「東京大学名誉教授」は、その本の末尾に、「自然に帰れ!」と書いたらしいルソーに着目して、ルソーは自然保護・環境保護運動の始祖かもしれない旨を記していた。「アホ」が極まる(たぶんフランス文学者)。
 戻ると、「知的」文章書き等のエネルギーの多くは、①金か②名誉だろう。
 別の分類をすると、A・自分が帰属する組織(新聞社等)の仕事としてか、またはB・フリーの執筆者として(対価を得て)、「知的」文章書き等をしているのだろう。
 後者には、いわゆる評論家類、「~名誉教授」肩書者、現役大学教授や大手研究所主任等だが本来の仕事とは別に新聞や雑誌等に寄稿している者も含む。
 これらA・Bのいずれの場合でも、①金の出所にはなる(義務的仕事の一部か又は原稿料としてか)。
 また、Aの場合でも、自分が帰属する(何らかの傾向のある)組織の中で目立って社会的にはかりに別としても組織内で「出世」することは、つまるところは金または自分の生活条件を快適にする(良くする)ことにつながるだろう。組織・会社の一員としての文章であっても、<名誉・顕名→金>なのだ。
 Bの場合には、<名誉・顕名→金>という関係にあることは明確だろう。
 そして名誉又は顕名、要するに<名前を売って目立つ>ためには同業他者と比べて自分を<差別化>しなければならない。あるいは<角をつける>必要がある。
 そのような観点から、敢えて人によれば奇矯な、あるいは珍しい主張を文章化する者もいるかもしれない。
 但し、この場合、a文筆が完全に「職業・生業」であるフリーの人と、b別に大学・研究所等に所属していて決まった報酬等を得ているが、随時に新聞・雑誌等に「知的」作業またはその結果を発表している人とでは、分けて考える必要がおそらくあるだろう。
 食って生きる-そのための財貨を得る、ということのために、a文筆が完全に「職業・生業」の人にとっては、原稿等発表の場を得るか、それがどう評価されるかは直接に「生活」にかかわる。なお、おそらく節税対策だろう、この中に含まれる人であっても「-研究所」とかの自分を代表とする法人を作っている場合もある。
 櫻井よしこ、江崎道朗。武田徹、中島岳志の名前が浮かんできた。
 四人ともに、それぞれに、上に書いたことに沿って論じることもできる。
 それぞれについて、書きたいことは異なる。しかし、書き始めると数回はかかるだろう。

1835/2018年8月-秋月瑛二の想念。

 昨年、2017年の5-6月頃、つぎの「三相・三層・三面」の対立軸若しくは闘い又は目標を意識すべきだと記していたことがあった。
 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)との闘い。
 2) 「共産主義(communism)」と強いていえば「自由主義」の対立軸の措定。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」の追求
 説明をなお要するが、つぎを除き、基本的趣旨を繰り返さない。
 日本ではまだ全体として、1)の次元が解決されておらず、2)も明確ではなく、3)だけを肥大化させる、より基本的な論点を忘却させる傾向もある。2)で終わっただけでもまだ不十分なのではあるが。
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 さらに、この一年間、日本人も人間も「ヒト」という生物の種の一個体だということを意識すると、種々のことが私なりに理解できるようになった、と感じている。
 いくつかある。
 第一。産まれて、生きて、死んでいく。この、永続的な生命を何人も有しないということこそ、人間と社会を考えるための最も根幹的なことだ。つぎの付随的なことも出てくる。
 個々人が一生の間に理解し、思考できることには限界がある。限られた時間の中で得た知識、思考等は自動的に次の世代に「相続」されるわけではない。DNAの変化にはよほどの長い時間が要る。
 日本人または人類全体としては「知識」・「思考」量は増えていっている、というのは幻想で、<日本人または人類全体>としての知識・思考を、誰一人として個人的に有しはしない。個々のヒト、一個体としての人間には、絶対的な限界がある。
 第二。「偉大」とされる哲学者・思想家も凡人の秋月瑛二も、上の点では本質的な違いはない。
 まだ若かった頃は、天才あるいは傑出した人物は存在し、とても理解できない難解で優れたことを思考し、発言し、あるいは行動したのだろうと漠然と思っていた。
 もちろん、相対的には差違の程度はある。しかし、本質的に同じヒトたる者が思考したり、行動したりすることには絶対的な限界がある。。
 したがって、ギリシャ(?)から現代まで、「哲学」や「思想」が分からなくとも、少なくとも大きな劣等意識をもつ必要はない。哲学者・思想家らしき者たちもまた、全てを「理解」しているわけではない。多数の人それぞれが、それぞれの時代に、それぞれの言語で、何らかの目的のために懸命に<もがいてきた>
 第三。人間はヒトとして<食って生きて>いく必要があるので、「知識」や「思考」の作業やそれを発表する作業もまた、<食って生きて>いくことと無関係ではありえない
 真理のため、人類のため、国家社会のため、といった<綺麗事>で、あるいは何らかの<理念>に仕えるために、「知的」営為が行われてきた、行われている、とは全く限らない。
 第四。動物の多くが二つの眼を、かつ<前方向きに>持つのは不思議なことで、人間・ヒトにもまた、<前と後>あるいは<前進と後退>の意識が本能的に内在し、同時に前方を向いての<左と右>という内在的で本能的な意識もある。こうしたことは、社会認識・社会観にも影響を与えている。
 フランス革命期の議会に「左翼」・「右翼」の語源はあるらしい。
 ここで欠けているのは、前方の右・左ではない「うしろ」もある、という感覚だ。さらに、会場の「上」にある空も、「下」にある地底もある、という感覚も欠けている。
 単純な冒頭の1)の 「民主主義対ファシズム」という歴史観・社会観には、この名残りが色濃くある。
 そしてまた、冒頭の「三相・三層・三面」の対立軸で思考するのも、考慮要素がまだあまりにも少なすぎる。
 点的・線的思考ではなく、重層的・多次元的思考が必要だが、かりに<宇宙空間的>思考とでも言おう。
 宇宙空間のいずれかの、前後上下左右を全て見渡せる一点に認識主体がいてかつ移動しているとして、いったいどちらが<右・左>、<前・後>・<上・下>なのだろうか。右に進んでいるように見えて循環して左に向かっているかもしれない。前後、上下も同じ。
 強引にここで結びつければ、ヒト・人類の歴史は<不断に進歩している>という無意識の観念があるとすれば、それは誤った、一種の<願望>にすぎないだろう
 <進歩>か否か、<前進>か否か、<良く>なっているか否かははたして、何でもって「判断」できるのか。「正しい」か否か、「改良・改善」か否かの規準は、いったい何なのだろうか。
 当たり前かもしれない、漠然としたこういう想念を、少しは-日本の現実とも関連させて-記してみようか。

1834/T・ジャットによるL・コワコフスキ死後の追悼文。

 産まれて、生きて、死んでゆく。
 In the long run, we are all dead. 長く走ったあと、人はみんな、死んでいる。
 TONY JUDT の最後の著作である、つぎの書物の第5部は "In the Long Run, We Are All Dead." と題され、 Francois Furet (1927-1997, フランソワ・フュレ)、Amos Elon(1926-2009)およびLeszek Kolakowski (1927-2009, レシェク・コワコフスキ)という三人に対する追悼文で成っている。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015) .
 このうちL・コワコフスキに対するものはすでにこの欄で「哀惜感あふれる」印象的な文章だとコメントをしたことがあった。
 いずれきちんと日本語文に訳してみたいと思っていた。
 S・フィツパトリクの英語文だけ読んでいると別の人の文章も読みたくなる。
 R・パイプスやL・コワコフスキの文章を一瞥しているうちに、L・コワコフスキに関するTony Judt の追悼文を思い出した。
 (S・フィツパトリクの本の試訳は丸数字のある⑳回で完結させるべく続ける予定だ。)
 この追悼文は上の著全体の最後に位置づけられており、この欄で再度別に叙述するかもしれないが、公にされるTony Judtの<絶筆>であった可能性もある。この人は<自分の近づく死>については微塵も語っていないが、10年以上前のフランソワ・フュレの追悼文とは、かなり雰囲気又は叙述の仕方が違うように感じなくはない。実際に約1年後に、T・ジャットも逝去する。
 また、この文章は、Tony Judt が全身の麻痺のために口述しかできないときに書かれている。口述文章を妻や助手たちが文字入力を助けて、原稿にしたらしい。
 上のことは、以下の「追悼文」を書いたTony Judt の上の本の編者であり妻だった Jennifer Homans の序文に書かれている。この序文はまた、亡夫Tony Judtに対する「追悼文」にもなっている。
 こうした背景も知るだけでもいささかの心理的負担を感じる。さらに、ふつうの歴史叙述等でもない、故人に関する人格的な思い出・感想や評価が内容であるだけに、訳出は必ずしも容易ではなく、英語の言葉や文章を日本語に置き換える作業をしていて、何か重要な意味やニュアンスがつぎつぎと逃げ去っていくような感覚を拭い難い。
 しかし、このようなL・コワコフスキへの<追悼文>が存在していることだけでも、日本では知られてよいだろうと思われる。
 また、お互いの面識関係はなかったと思われる人物について、元来はヨーロッパ戦後史の歴史研究者で、<戦後フランスの左翼>をとくに専門分野としていたTony Judt が、L・コワコフスキについてこれだけの文章を書くことができるということから(あるいはマルクス主義や宗教等にも幅広い関心と知識をもつことから)、日本にはおそらく稀少な、「アメリカ」(これには注釈が要るが省略)にいる知識人の一種の<すごさ>を感じてもよいと思われる。
 以下、全体の試訳の紹介。//は本来の改行箇所。<>はイタリック体になっている部分。
 なお、以下の文章の最後に、「この論考はThe New York Review of Books の2009年9月号に最初に発表された」との注記がある。
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 レシェク・コワコフスキ(1927-2009)。//
 私は一度だけ、コワコフスキの講演を聴いた。
 それは1987年、Harvard でのことで、そのとき彼は、故Judith Shklar が教えていた政治理論の演習のゲストだった。
 <マルクス主義の主要潮流>はその近年にイギリスで刊行されていて、彼はきわめて高名だった。
 あまりに多数の学生たちが彼の話を聞きたかったので、講演場所は大きな公共の講堂に移され、客員たちは出席するのが許された。
 私はたまたまCambridge 〔Harvard 大学のある町〕にある会合のために来ていて、何人かの友人たちと一緒に続いた。//
 誘惑するごとく示唆的なコワコフスキの話のタイトルは、『歴史における悪魔』(The Devil in History)だった。
 しばらくの間は、学生、教授および聴衆たちが集中して聴いていて、静かだった。
 コワコフスキの著作はそこにいる多くの者によく知られていて、彼の反語や厳密な推論への強い嗜好には馴染みがあった。
 しかし、そうであっても、聴衆には明らかに、彼の論述に付いていくのが困難になった。
 いくらそう努力しても、彼の暗喩を解読することができなかった。
 多大な困惑の雰囲気が、講堂を覆い始めた。
 そのときだった。話の三分の一くらいのとき、私の隣にいた友人-Timothy Garton Ash-が凭りかかってきた。
 彼は、囁いた。『分かった。いま本当に、彼は悪魔について語っている』。
 そして、コワコフスキは実際にそうだった。//
 悪というものをきわめて真剣に考察するというのは、レシェク・コワコフスキの知的な軌跡の際立つ特質の一つだった。
 彼の見解によると、マルクスの前提命題の過ちの一つは、全ての人間の欠点は社会環境に根ざしている、という観念だった。
 マルクスは、『対立や憤激の源には人間という種の永遠の特性に固有のものがいくつかあるという可能性を、完全に見落とした』。(1)
 あるいは、彼がHarvard での講演でつぎのように表現したように。すなわち、『悪は…、偶発的なものではなく…、頑強な、くつがえすことのできない(unredeemable)事実だ』。
 ナツィによる占領とそれに続くソヴィエトによる支配を生き抜いたレシェク・コワコフスキにとって、『悪魔とは我々の経験の一部だ。極めて深刻に受け取るべきメッセージとして、我々の世代はそれを十分に見てきた』。(2)//
 近日の81歳でのコワコフスキの逝去の後に書かれた多くの追悼記事は、みな揃って、この人物のこの側面を惜しんだ。
 これは何ら、驚くべきことではない。
 世界の多くがまだなお神を信じ、宗教的慣習を行っているにもかかわらず、西側の今日の知識人たちや評論家たちにとって、信仰を明らかにするという考えには心が落ち着かないところがある。
 宗教に関して大っぴらに議論すると、自惚れに満ちた拒絶(たしかに『神』は実在しない。だがともかく、全ては神に原因がある)と盲目的な忠誠の間の不愉快な気分が突然に生じてしまう。
 コワコフスキのような才幹をもつ知識人かつ研究者が宗教や宗教的思想ばかりではなくまさに悪魔それ自体を真剣に考察した、というのは、そうでなくともこの人物を尊敬している人々にとってはミステリーであり、無視してしまいたいことだ。//
 コワコフスキの視野の射程はさらに、つぎのことでさらに複雑になっている。すなわち、公的な宗教(とくに彼自身のカトリック教)を無批判に特効薬だと見る考え方に懐疑的で距離を置いたこと、および宗教思想史の研究者としての卓抜さ(3) と同等に唯一の国際的に高名なマルクス主義研究者だ主張しうる彼の独特の地位によって。
 キリスト教の教派やその文献に関する研究でのコワコフスキの専門知識は、原典の権威が階層的構造のある大小の聖典をもち、異端的反対者もいるという、宗教的根本教条としてのマルクス主義に関する彼の影響力ある論述に、深さと痛烈さを加えている。
 レシェク・コワコフスキがOxfordの同僚たちや中央ヨーロッパの友人であるIsaiah Berlin(I・バーリン)と共有しているのは、全ての教条的な確信に対する、迷妄から離れた懐疑であり、政治的または倫理的な全ての意味を維持するための代償の必要性を承認することを哀しみをもって主張する点だ。すなわち、経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであることや、貨幣が自動的にさらに多くの貨幣を生み出すべきではないことには十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は厳密にそのようなことのために導入されるべきであって、より高次の自由の制限は導入されるべきではない。(4)//
 彼は、20世紀史の初めに急進的な政治改革は道徳的または人間的犠牲をほとんど払わずしてなされ得ると想定した者たち、あるいは、その対価は重要であったとしても、将来の利益のためには無視することができると想定した者たちには、ほとんど我慢することができなかった。
 一方で彼は、人間の永遠の真実を獲得すると偽って主張する全ての単純な定理に対して、一貫して抵抗した。
 他方でまた、それらがいかに不便なものであったとしても、人間の態様に関する自明の一定の特質はあまりに明白であって無視してよいものと見なした。//
 『我々は多くの陳腐な真実を示唆することに強く反対する、ということは何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは全ての知の領域で生じていることで、それは人間生活に関する自明なことのほとんどは不愉快なものだからだ。』(5) //
 しかし、このような考察は反動主義者または静寂主義者の反応を意味しているわけではない-そして、コワコフスキにとってもそうでなかった。
 マルクス主義は、世界史の範疇での過ちだったかもしれなかった。
 しかし、だからと言って、社会主義は完全な厄災だった、ということになるわけではなかった。また、我々は、人間の条件を改良すべく働くことができないとか働くべきではないとかの結論を導く必要はなかった。//
 『正義、安全保障、教育の機会、福祉および貧者や無力者への国家の責任の向上または拡大をもたらすために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは全て、社会主義イデオロギーと社会主義運動なくしては達成されることができなかった。未熟さや錯覚が多くあったとしても。…
 過去の経験が語ることは、一部は社会主義に味方し、一部は社会主義に反対している。』//
 社会の現実の複雑性に関するこの用心深い均衡のとれた評価-『人間の友愛は政治綱領としては災悪だが誘導する標識としてはなくてはなない』-はすでに、彼の世代の多くの知識人への接点にコワコフスキを位置づけるものだ。
 東でも西でも同様に、人間の改良には無限の可能性があるという過度の自信と、進歩という観念を未熟なままで放棄することの間で揺れ動くということが、いっそう共通の傾向になっている。
 コワコフスキは、この特徴的な20世紀にある見解の隔絶の筋違いに位置していた。
 彼の考えでは、人間の友愛は、『構成的観念というよりはむしろ調整的な観念』のままだ。//
 ここで得られる示唆は、我々が今日に社会的民主主義(social democracy)、あるいは大陸の西欧ではキリスト教民主主義の仲間たちと行っている一種の実際的な妥協だ。
 もちろん、今日の社会的民主主義はあまりにも偏愛されすぎて、敢えてその名前を出しはしないものだ、ということは別として。
 レシェク・コワコフスキは、社会的民主主義者(Social Democrat)ではなかった。
 しかし彼は、一度ならず、その時代の現実の政治史に批判的に関与した。
 共産主義国家の初期の時代に、コワコフスキは(まだ30歳でもなかったけれども)ポーランドでの指導的なマルクス主義哲学者だった。
 1956年以降、全ての批判的見解が遅かれ早かれ排除されることが運命づけられている地域で、異端的な思想を形成し、明瞭に唱えた。
 1966年に、ワルシャワ大学の哲学史の教授として、人民を裏切ったと共産党を強く非難する、有名な公開講演を行った。-これは、党幹部である自分の地位にかかわる、政治的勇気のある行為だった。
 予期されたごとく、彼は二年後に、西側へと追放された。
 コワコフスキはその後、国内にいる若い世代の反対派たちのための生き字引および目印として貢献した。彼らは、1970年代半ばからポーランドの政治的反対派の中核を形成することとなり、連帯(Solidality)運動を後援する知的エネルギーを提供し、1989年には現実の権力を握った。
 レシェク・コワコフスキはかくして、完全に知的に(知識人として)関与(engage intellectual)していたのだ。「関わり(engagement、アンガージュマン)」という偽善と虚栄を侮蔑していたにもかかわらず。
 第二次大戦後の世代の大陸ヨーロッパ人の思考では多く語られて理想化されていた、知識人の関与と「責任」は、コワコフスキには本質的に空虚な観念だった。//
 『知識人たちにはなぜ、特有の責任があるのか、なぜその他の人々とは異なる責任があるのか。そして、それは何を目的として? <中略>
 責任というたんなる感情は、それ自体は何の特有の義務意識も帰結しはしない形式上の美徳だ。すなわち、善の教条についても、悪の教条についてと同様に責任を感じることが可能なのだ。』
 この単純な考察は、フランスの実存主義者やそれのアングロ・アメリカンの崇拝者たちにはほとんど想いつかないもののように思える。
 他の点では責任感をもつ知識人がイデオロギー的確信および道徳的な一方的普遍主義の利益と同様にその対価(the cost)をも完全に理解するためには、完璧な悪の(左であれ右であれ)目標の魅力を生身で体験してみる必要があった、ということかもしれない。//
 上のことが示唆するように、レシェク・コワコフスキは、ハイデッガー、サルトルおよびこれらの追随者がとくに引き合いに出される、今日の学界での言葉遣いで通常は言われる意味でのふつうの「大陸哲学者」ではなかった。
 しかしまた、彼は、第二次大戦後に圧倒的に英語を用いる諸大学で見られるアングロ・アメリカンの思考方法と相当に共通していたのでもなかった。-このことは疑いなく、Oxford での彼の孤立と無視を説明するものだ。(7)
 カトリック神学に対する生涯にわたる疑問は別として、コワコフスキに特有の見方の射程は、認識の世界によりも、おそらくはむしろ十分に、体験に求められる。
 その最高傑作の著書の中で彼自身が観察したように、『あらゆる環境要因は、世界観の形成につながる。そして、<中略> 全ての現象は、尽きることのない無数の原因によるものだ。』(8)//
 コワコフスキ自身の場合は、無数の原因の中に、第二次大戦およびその後に続いた共産主義の厄災の歴史時代だけではなく、その厄災の数十年をくぐり抜けたポーランドの、そのまさに独特の環境が含まれている。
 というのは、コワコフスキの独自の思考が正確にいずこに向かうのかはつねに明白では必ずしもないけれども、その思考が「いずこにも存在ない場所」から生じたのでは決してない、ということは完璧に明瞭だからだ。//
 現代ヨーロッパ哲学者のうちで最も国際主義者(コスモポリタン)-主要な5カ国語とそれに付随する諸文化に習熟していた-であり、20年間以上国外に移住していたが、コワコフスキは決して「根なし草」ではなかった。
 例えばEdward Said (E・サイード)とは対照的に、彼は、あらゆる形態の共同体への忠誠を拒絶するというのは信義上可能であるのか、と問うた。
 どこかにいなくとも、どこかの外に完全にないときでも、コワコフスキは先天(居住民)主義の感情に対する終生の批判者だった。
 だがなお、彼の母国では称賛された。正しく、そうされた。
 骨格としてはヨーロッパ人だが、コワコフスキは汎ヨーロッパ主義者のナイーヴな幻想に対して公平な懐疑心をもって問い糾すことを決してやめなかった。汎ヨーロッパ主義者の同質化願望は、かつての時代の恐ろしい夢想家的ドグマを彼に思い起こさせるものだった。
 多様性は彼には、それがそれ自体で目標として偶像視されないかぎりでは、より慎重な主張であり、明確なナショナルな自己帰属意識(national identity)の維持によって確実にされることができるものであるように思えた。(9)
 コワコフスキは独特(unique)だったと結論づけるのは易しいだろう。
 アイロニー、道徳上の真剣さ、宗教的感性と認識論的懐疑主義、社会的関与と政治的疑念。彼がこれらの独特の混合体であるというのは、きわめて稀少なことだ。
 (彼は驚くべきほどにカリスマ性をもっていたことは語っておくべきだ。どのような集まりでも故Bernard Williams と同じ強さの磁力を発揮していた。同じ理由がいくつかあったからだ(10))。
 しかし、この理由によってこそ-カリスマ性も含めて-、彼はまた、まさに独特な血統の線上にしっかりと立っていた。
 彼がもつ完璧な広さの教養と知識、引喩家ぶり、迷妄なき機知、匿い場所となった好運な西側諸国の学問的偏狭さを辛抱強く受容したこと、いわば運命のいたずらによって明らかになる彼の特質を刻印したポーランドの20世紀の体験と記憶。これら全てが、亡きレシェク・コワコフスキを真の-おそらくは最後の-中央ヨーロッパ知識人だと識別(identify)させる。
 1890年と1930年の間のに生まれた男女二世代の人々にとって、20世紀の中央ヨーロッパに独特の経験は、ヨーロッパ文化の洗練された都市的中心地帯での多言語を用いる教育から成り立っていた。それは、全く同一の中心地帯(heartland)での独裁、戦争、占領、破滅、そしてジェノサイドという経験によって砥がれ、踏みつけられ、加えられたものだった。//
 正気のある人間ならば誰でも、このような心情的教育が生んだ思索と思想家の特性を正確に追体験するだけのためにのみ、この経験を繰り返したいとは望まないだろう。
 失われた共産主義東ヨーロッパの知的世界への郷愁を語ることは少しばかり不愉快なことだが、それ以上の何かがある。それは、他国民の抑圧による犠牲者に対する遺憾の想いと心地よくなく似たものによって覆われている。
 しかし、レシェク・コワコフスキが明瞭に主張した最初の人物だっただろうように、中央ヨーロッパの20世紀の歴史とその驚くべき知的な豊かさの間の関係は、それにもかかわらず、存在した。
 このことを、簡単に忘却することはできない。//
 生み出したものは、Judith Shklar が別の文脈でかつて「恐怖のリベラリズム」だと表現したものだった。すなわち、イデオロギーの過剰の結果を生身で経験したことで生じた、妥協せずして理性や穏健さを守ろうとすること。
 大厄災がある可能性を絶えず意識していること、好機または再生だと誤解されるときには最悪の形態をとる、自在に変幻する多様さのある全体支配的(totalizing)思考への誘惑についてのそれ。
 20世紀の歴史の軌跡で、<これ>こそが中央ヨーロッパの教訓だ。
 我々に幸運があるならば、これをしばらくの間は再び学ぶ必要はないはずだろう。そうするときには、それを教えてくれる人物が周りにいるだろうという希望をもつのがよい。
 そのときまで、我々は、コワコフスキを何度も読み返すだろう。//
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 (1) "The Myth of Human Self-Identity", L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>(New York, Basic Books, 1974)所収、p.32. *
 (2) L・コワコフスキ「歴史における悪魔」<My Currrent Views on Everything>(South Bend, IN, St. Augustine's Press, 2005)所収、p.133.
 (3) 宗教思想史へのコワコフスキの接近方法を代表的に実証するものとして、例えば、<God Owes Nothing: パスカルの宗教とヤンセン主義の精神に関する簡単な論評>(Chicago: University of Chicago Press, 1995)を見よ。コワコフスキが20世紀のPascalian で、慎重に、忠誠ではなくて理性を重視していることは多くを語る必要がないだろう。
 (4) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>(Chicago: University of Chicago Press, 1990)、p.226-7.
 (5) L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>、p.32.
 (6) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.144.
 (7) いたる所で、彼の功績は広く承認されている。1983年にエラスムス賞が授与された。2004年に彼は、20年前にそこでのジェファーソン講演者だった国会図書館(the Library of Congress)のクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。三年後に、イェルサレム賞を授与された。
 (8) L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流, 第三巻: 瓦解>(New york: Clarendon Press, Oxford University Press, 1978)、p.339.Leon Wieseltier がこの言及部分を思い出させてくれたことに感謝している。
 (9) コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.59.Edward Said について、<Out of Place: A Memoir >(New York, Vintage, 2000)を見よ。
 (10) Cambridge での講演の後の彼を祝してのパーティのとき、私は深い敬意と多大な羨望をもって、ほとんど全ての若い女性たちが、すでに疲れていて杖で支えられていた60歳の老哲学者のいるコーナーへと部屋を移り歩いているのを、眺めていたことを想い出す。彼は、彼女たちの尊敬の眼差しの前で、会話を仕切っていた。完璧な知識がもつ磁場的な魅力というものを、決して低く評価すべきではない。 
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 以上

1833/日本の邦訳書出版業界の<左傾>ぶりの一例。

 エリック・ホブスボーム著の邦訳書の多さは、驚くべきほどだ。
 以下は、私が知ることのできた全てではない。面倒になったのでかなり省略した。一部にすぎない。
 E・ホブスボーム・反抗の原初形態―千年王国主義と社会運動/青木保訳(中公新書、1971) 。
 E・ホブスボーム・匪賊の社会史―ロビン・フッドからガン・マンまで(グループの社会史〈3〉)/斎藤三郎訳(みすず書房、1972)。
 E・ホブスボーム・革命家たち―同時代的論集〈1〉/斉藤孝他訳 (未来社、1978)。
 E・ホブスボーム・イギリス労働史研究/鈴木幹久訳(ミネルヴァ書房、 改訂版1984)。
 E・ホブスボーム・市民革命と産業革命―二重革命の時代/水田洋他訳(岩波書店、1989/6)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 1―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1993/1/9)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 2―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1998/12/9)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈上巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈下巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・わが20世紀-面白い時代/河合秀和訳(三省堂、2004/7 )。
 E・ホブスボーム・破断の時代―20世紀の文化と社会/木畑洋一等訳(慶應義塾大学出版会、2015/3/21 )。
 E・ホブスボーム・いかに世界を変革するか―マルクスとマルクス主義の200年/水田洋監修(作品社 、2017/10/31 )
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-上/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/6/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-下/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/7/6)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 1<新装版>/柳父國近等訳(みすず書房、2018/7/10)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 2<新装版>/松尾太郎等訳(みすず書房、2018/7/10)。
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 上に比べて、日本でのレシェク・コワコフスキ、リチャード・パイプス、シェイラ・フィツパトリクの著書の翻訳書・邦訳書発行状況はどうだろうか。
 日本には日本の<ある勢力>にとって有益な外国文献は多く翻訳されるが、<危険な>書物はほとんど発行されない、という事実を、上のようなE・ホブスボーム著の扱いは強く実証しているように思える。
 レシェク・コワコフスキの主要著<マルクス主義の主要潮流>は40年間以上経っても邦訳されなかった。
 リチャード・パイプスのロシア革命に関する二巻の大著は、1990年以降にPaperback 版があるが、邦訳されていない。
 堅実な歴史叙述が見られる、最近この欄で試訳を紹介している、シェイラ・フィツパトリク(女性)のロシア革命(最新版2017年)は(および他のこの人の著書も)、いっさい邦訳されていない、と見られる。
 欧米語文献が(かりにフランスやドイツには流通していても)日本に十分に流通しているわけでは全くないことを、日本の「知的」または「情報」産業界にいる人々は、強く意識しておかなければならない、とあらためて強く感じる。
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 Tony Judtはつぎの遺稿論考集の冒頭のエッセイ(論考)で、E・ホブスボームをとり上げている。この人名義の最後の刊行物だ。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010.(edited & introduced by Jennifer Homans)
 明記されているように(その前の論考集でもTony Judt が記していたように)、エリック・ホブスボームはlife-long つまり、終生の、又は生涯にわたる「イギリス共産党員」だった。
 そのような人物の「歴史叙述」がマルクス主義の影響を受けていないはずはなく、この人を<20世紀最大の歴史家>などと喧伝しているようである上記の日本の出版社または翻訳者は、欺されているか、自分たちは知りながら、日本の読者を欺しているのだ。あるいは、日本の読者自体が、無意識にでも<容共>なのだ。
 以下、一部だけ、試訳して引用する。//は本来の改行箇所。
 最近にこの欄に名前を出したクリストファ・ヒルとエドワード・トムソンの名も出てくる。
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 エリック・ホブスボームが「短い20世紀」を扱う第四巻を加えるのを選んだのは驚きだった。
 彼が序文で「私はこれまでほとんど、1914年以降の時代について仕事をするのを避けた」と認めるとき、このような回避によくある理由を提示していた。すなわち、事件にあまりに接近しすぎていて、感情的にならざるをえないからだ(1917年生まれのホブスボームの場合は、その時代のほとんどを彼は生きた)、また、解釈の対象となる十分な素材の全部がまだ手に入っているわけではなく、それらの素材全てが何を意味するかを語るのはいかにも早すぎるからだ。//
 しかし、別の理由があることは明白だった。そして、ホブスボーム自身がその理由によって責任を拒否することはきっとしないだろう。すなわち、20世紀は、彼が生涯にわたって関与した政治的かつ社会的な理想と制度の明白な崩壊とともに終焉した、ということだ。 
 過ちと災悪に関する暗く重苦しい物語を、その中に見い出さないのは困難だ。
 他の多数のイギリス共産党員または元共産党員である歴史研究者の目立った世代人(クリストファ・ヒル、ロドニー・ヒルトン、エドワード・トムソン)と同様に、ホブスボームはその職業的な注目を革命的で急進的な過去に向けた。それは、党の基本方針が現在に近接した時期についてあからさまに書くのを事実上不可能にしていた、という理由によるだけではなかった。
 真面目な研究者でもある生涯の共産党員にとっては、我々の世紀の歴史には、解釈するにはほとんど克服し難い障害物がある。彼の最後の仕事が期せずして明瞭に示しているように。//
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1832/美しい日本-山岳・山稜②ー伊吹山。

 西国三十三カ所霊場の通称「よしみね寺」、いや正式にもたぶん「善峯寺」の北に、別に洛西三十三観音霊場の札所の一つがある。その理由だけで一度参拝したのだが(そして御朱印をいただいたのだが)、その寺院の本堂はたぶん東向きで、その前のテラス部分から、京都市内(盆地)の一部と山稜がよく見える。
 京都市街地からはどの程度よく見えるのかは知らないが、ここからは京都市街東方すぐの山稜で、目立ってすぐに分かるのが、比叡山だ。歴史の知識からすると無骨な印象もあるが、西方からのこの山の姿は、優美だ。頂上部が丸っこくどっしりとではなく、凜として、すっきりしている。
 ところがその左に頂上部に冠雪がまだはっきりと残っている独立峰があって、この山はいったい何なのかがよく分からなかった。比良山系の比叡山に連なる北側にある山だろうというのが、そのときの推測だった。
 ご朱印をいただく際に尋ねてもみたが、面倒くさく感じられたのか?、よく存じませんと言われた。
 そこでのちに地元の人に尋ねてみると、回答はすぐだった。
 伊吹山
 何と、京都市の西郊、長岡京市の北方辺りから、京都市街、京都・滋賀府県境の比良山系、さらに琵琶湖までをも越えて、伊吹山がはっきりと見えたのだった。
 もっと前のある年、JRと名鉄の共用の駅舎のある尾張一宮駅の西口から西方の山並みを眺めていると、穏やかな養老山系の右側(北)に遠く、白い雪が目立つ高い山らしきものが見えた。
 伊吹山だった。
 濃尾平野の西北端よりもさらに西部だと思うが(関ヶ原よりも西)、濃尾平野の中にある尾張一宮の市街からも、伊吹山がはっきりと見えるのだった。
 この地域の人々は、伊吹山の冠雪の程度によって季節の状態や変わり目を知るのだ、という(これは滋賀県等の地域でも同様かもしれない)。
 前回の「1727/美しい日本-山岳・山稜①」(2018/02/11)では、東海道新幹線の乗客を想定して、日本で最もよく近くで見られている幸福な山ではないかと伊吹山のことに触れた。
 しかし、この山は京都盆地の西郊の高台や濃尾平野の少なくともかなりの部分からも、明確に見分けて、眺められている。
 繰り返しになるが、熟達した登山家くらいしか近くで見ることのできない(ほとんど誰からも見られることのない)山岳は日本に多数あるだろう。やはり、伊吹山は特別だ。

1831/藤原かずえ(kazue fgeewara)の表向きだけの「論理」性。

 何やら論理学やら修辞学やらを持ち出してとくに立憲民主党あたりの野党議員の主張の仕方を批判している者に、最近知った、藤原かずえという人物がいる。読んだことはないが、月刊正論(産経)の執筆者になっているようだ。
 同・マスメディア報道のメソドロジーというブログサイトから、この人物の論述にある<突っ込みどころ>を指摘しておこう。読者は、一見は華麗な?論理的を装う叙述にごまかされてはいけない。
 今年3月18日付・「文書改竄問題の議論に騙されないための論理チェック」。
 第一。<安倍総理は「私や妻が関係していたら総理も国会議員も辞める」と言った。>ということからする某野党議員の推論を「誤った論証構造」だ等と批判している。
 この中で藤原は、のうのうとこう言う。-「安倍首相の『関係していたら』の意味は、『首相あるいは国会議員としての権力を使っていたら』の意味であることは自明です」。
 はたして「自明」のことなのかどうか。いつぞやも書いたが、「関係する」という語自体は、(政治・行政)権力を用いる、というような限定的な意味ではうつうは用いないのがむしろ自明のことで、その限定された趣旨ではなく広く、ふつうに理解されたとすれば、発言者自身の言葉遣いが問題になるだろう。
 藤原にとって「自明のこと」が万人に取って「自明のこと」ではないこともある。
 そのような謙虚さを欠如させた、そして別の論理的可能性を無視した、たんなる藤原の「思い込み」にすぎない可能性がある。
 第二。藤原によるとどうやら客観的に誤った報道は「誤報」で、悪意のある誤りによる誤報は「虚報」なのだそうだ。そんなに勝手に、この二つの語の意味を決めてもらっても困る。そのように理解して用いるのは自由だが、第三者にそのような違いがあるものとして両概念を用いよ、というのは傲慢だ。
 したがってまた、藤原によると、(決裁文書の)「書き換え」と「改竄」は悪意の有無によって区別すべきで、安直に後者を用いるべきではない、という。後者はすでに一定の価値評価がなされている言葉だ、という。
 趣旨は分からなくはないが、しかし、では、悪意のない「書き換え」というのはあり得るのか。「書き換え」が意識的になされていればやはり「悪意」によると言い得るのであって、「改竄」と何ら本質は変わらないとも言える。
 こんな言葉争いは、あるいは言葉の使い方を自分の感じるとおりにせよという文句のつけ方は、やはり傲慢だろう。
 第三。「関係」とか「改竄」と違って、「行政文書」および「決裁文書」は、法制上の概念だ。おそらく藤原もこの点はおさえているようだ。何らかの法令・行政内部基準による実務において問題になるこれらと、「関係」とか「改竄」とか、特段の明確な意味が法制上示されていない場合とを、きちんと分けなければならない。
 第四。藤原は、つづけて「『実行責任』と『結果責任』という言葉も分けて考える必要」がある、と言いはじめる。
 このあたり、たぶん藤原は、十分な知識が欠落しているか、非専門家であることを暴露する常識的な言い回しをしている。
 麻生財務大臣が書き換えを指示していれば「実行責任」が、指示していなければ「結果責任」がある、という。
 部下のミスは上司の、又はその部下が帰属する団体の、いかなる「責任」を生じさせるか。「結果責任」という語はあるだろうが、法学・不法行為の世界では「実行責任」なる概念は聞いたことがない。
 藤原は知らないのだろうが、不法行為上の(民事)責任につき、民法715条1項は「被用者の選任・監督」に「相当の注意」をした場合でないかぎりは、使用者が被用者によって第三者に生じさせた損害につき賠償義務を負う旨を定める。
 しかし、同規定をもつ民法の特別法とされる国家賠償法は、国家公務員個人の職務上の不法行為につき「国」自体には上の免責要件なく、直接に賠償義務を負うと定めている(と解釈されている)。
 「結果責任」というのは、例えば後者のような場合にこそ使われる概念であって、藤原のいうような、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」には<結果責任>も免ずべきという主張は、おそらく、法学上の概念用法には少なくとも適応したものではない。
 なお、「責任」とか「結果責任」という語には法学・政治学等の豊富な実例・蓄積があるのであって、上は一例にすぎない。藤原は、いわば<責任論>を学修したことがないのだ。
 「実行責任」のほかに、この意味では「結果責任」もまた藤原の造語であって、藤原のいう意味で第三者も用いるべきだ、ということにはならない。
 ここで藤原は「実行責任」もなく上の限定付きの「結果責任」もなければ麻生財務大臣は辞任する必要はない、という脈絡で、上の二つを使っている。
 何やら見知らぬ?専門的概念を使って深遠なことを述べていると読む人もいるのかもしれないが、この部分では要するに、藤原かずえは、麻生財務大臣は辞任する必要などはない、という「政治的」主張をしているのに他ならない。
 さらに、「責任」といっても種々のものがあるが、書き換えであっても改竄であっても財務大臣の「責任」がないわけではないことはむしろ常識的だ。したがって、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」を除くといった主張の仕方もかなり「政治的」で、通用しない議論だろう。
 大臣としていかに個人的な落ち度はなくとも、財務省内の(とりわけ職務執行にかかる)非違行為に対する責任は、大臣にある(上司である事務次官にだってある)。
 藤原は、安倍晋三首相が<行政(権)の長として責任を深く感じている>と明言していることを知っているだろう。
 むろん、この「責任」は辞職・辞任につながるようなものであるのか、は別の話。
 藤原かずえによる「論理チェック」一般がすべて奇妙だとは思わないが、しかし、現実的な話としては、立憲民主党等の<反アベの攻撃>の理屈・論法にのみ対象を絞ったのでは、たんなる野党たたきと安倍ガードになるだけだ。
 この人に、本当に言説の「論理」のごまかしを見抜く力があるのであれば、日本共産党が日刊赤旗や月刊前衛等で書いていることや日本会議あるいは櫻井よしこ等の言説を検討して、<論理破綻>や<論理矛盾>あるいは<論理一貫性のなさ>を分析してほしいものだ。

1830/L・コワコフスキ著-池田信夫による2017年秋紹介。

 昨年10月総選挙前後の同選挙に関する池田信夫のコメントを正確に記録しようと思って遡っていると、少なくとも一部、何らかの「会員」にならないとバックナンバーを読めないというブログ記事があった。
 秋月瑛二の文章とは違って、価値のあるものには「価格」がつくのだなあと、市場原理に納得した(?)。
 レシェク・コワコフスキ著・マルクス主義の主要潮流に言及していたものもあったはずなので、探してみると、これは全文が残っていて、読めた。
 池田信夫のブログの文章には、全文が①メール・マガジン(有料)、②たぶんアゴラ?の会員むけ(有料)、③フリーの三種があるようだ。
 L・コワコフスキの本の一部を試訳してきていながら、以下をきちんと読んだのは半年も遅れてだから、どうかしている。
 少しだけコメントを記して、ネット上から元が消失する前に、この欄にコピーしておく。
 1.「1978年にポーランド語で書かれた」は不正確で、ポーランド語の原書3冊は、パリで1976年に出版された。1978年というのは、英語版3冊がロンドン(Oxford)で刊行された年。
 1977年にドイツ語版の第一巻がドイツで刊行され、1978年、1979年で第三巻まで完結発行された。
 その後2008年に、三巻合冊本(1200頁以上)がたぶんアメリカとイギリスで(要するに英米語で)刊行された。L・コワコフスキは、New Preface と New Epilogue を元々のそれらを残しつつ、書き加えた。文献、注等は1978年版と同じと見られる。
 日本では、いっさい邦訳されていない。1978年からでも、なんと40年。
 2.一日4頁ずつ黙読しても300日、40頁ずつ読んでも30日かかる。忙しいはずの池田信夫は、全書を読んだのだろうか。要点読解にしても、以下のようにまとめることのできるのは卓抜した英語力と理解力だ。
 秋月瑛二はまだ一部試訳したのみでNew Preface とNew Epilogueを含む各巻の序文等もきちんと見ていないので、以下の読解の当否は判断しかねる。
 一部にとどまっているのはレーニンにとくに関心があったからだが、いずれ冥途話として、レーニンに関する叙述よりも大分量のマルクスに関する論述もきちんと読んでおきたいものだ、と考えている。
 なぜ、かくも、マルクス(主義)は今日まで影響力を残しているのか、という強い関心からだ。
 3. 池田は最後にこう書く。「今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない」。
 「マルクス主義には思想としての価値はない」とL・コワコフスキが考えていた、というのは大いにありうる。
 しかし、L・コワコフスキ個人の評価・「思想としての価値」の判断とは別に、マルクス主義の<現実的な力>の存在は別に語ることができる。秋月は、その「魅力」は「途上国などではまだある」という程度のものではない、と感じている。その本来の「価値」とは別に、Tony Judt の言った<時宜にかなった幻想>は十分に残り得る。
 以下、引用。  
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  2017年10月29日17:29
 マルクス主義はなぜ成功したのか
 最近の「立憲主義」は社会主義の劣化版だが、今では彼らさえ社会主義という言葉を使わないぐらいその失敗は明らかだ。しかしそれがなぜ100年近くにわたって全世界の労働者と知識人を魅惑したのかは自明ではない。本書は1978年にポーランド語で書かれたマルクス主義の総括だが、40年後の今もこの分野の古典として読み継がれている。
 マルクス主義は「20世紀最大のファンタジー」だったが、彼の思想は高度なものだった。それを社会主義という異質な運動と結びつけて「科学的社会主義」を提唱したのが、間違いのもとだった。目的を実現する手段が科学的だということはありうるが、目的が科学的だということはありえない。
 マルクスがその思想を『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の「科学性」が証明されると主張した。このように独特な形で共産主義の理論と実践を結びつけたことが、その成功の一つの原因だった。
 ロシア革命という脱線
 しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになり、マルクスの考えていた「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
 それでも社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にし、どう配分するかは労働者が決めればよいと考えていた。
 このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
 本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。
 彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
 このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
 日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
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 以上、引用終わり。

1829/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑭。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第14回
 第4章・ネップと革命の行く末。
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 第4節・一国での社会主義の建設。
 権力をもったボルシェヴィキの目標は、簡潔にいうと「社会主義の建設」だった。
 社会主義に関する考え方がいかに曖昧なものであっても、彼らに明白だつたのは、「社会主義の建設」のために最も重要なのは経済の発展と近代化だ、ということだった。
 社会主義になる前提要件として、ロシアには工場、鉄道、機械類および諸技術がもっと必要だった。
 都市化、田園地帯から都市への人口の移動、およびさらに大きくて永続的な都市的労働者階級が必要だった。
 民衆の識字能力が大きく向上すること、より多くの学校、より熟達した労働者と技術者が必要だった。
 社会主義の建設とは、ロシアを近代工業社会に変えることを意味した。//
 この変化について、ボルシェヴィキは明瞭な像を持っていた。それは基本的には、資本主義が西側の先進諸国で生じさせた変化だったからだ。
 しかし、ボルシェヴィキは「未成熟なままで」権力を奪取していた。-すなわち、ロシアでは、資本主義者の仕事をすることを始めたのだ。
 メンシェヴィキは、これは現実には危険を秘めており、かつ理論上きわめて不明瞭だと考えた。
 ボルシェヴィキたち自身が、どのようにすれば達成できるのかを本当には理解していなかった。
 十月革命後の最初の数年間、彼らは、ロシアが社会主義へと前進するためには産業化した西側ヨーロッパの助力が必要だろうとしばしば示唆していた。
 しかし、ヨーロッパの革命運動は挫折し、ロシアはどう前進すればよいか不確定なままに、しかし何とかして前進する途を自ら決定しなければならないままに、取り残された。
 かつての時期尚早の革命という議論を振り返って、レーニンは1923年に、メンシェヴィキの異論は「きわめて陳腐な文句」だと見なし続けた。(*秋月注)
 革命的情勢のもとでは、ナポレオンが戦争に関して述べたように、<仕事をせよ、そうすればつぎのことが分かる>(on s'engage et puis on voit )(**秋月注)。
 ボルシェヴィキは、危険を冒した。そしてレーニンは、-6年後に-「全体として」成功してきたことに今や疑いはありえない、と結論づけた。(22)//
 これはおそらく、勇敢さを装っている。最も楽観的なボルシェヴィキですら、内戦後に直面していた経済状態に動揺していたからだ。
 全てのボルシェヴィキたちの願望を嘲弄して、まるでロシアが20世紀をたくみに逸らして、全体的な後進性という類似性から逆に進んだかのごとくだった。
 町々は枯渇し、機械類は放棄された工場で錆びついていおり、鉱山は水浸しになり、工業労働者の半分は明らかに農民層へと再び吸収されていた。
 1926年の統計調査が示すことになるように、欧州ロシアは内戦直後の数年間に、1897年に比べて実際には都市化して<いなかった>。
 農民たちは伝統的な実体農業に戻り、農奴制出現以前の昔の黄金時代を再び獲得する意図をもっているように見えた。//
 1921年のネップの導入は、つぎのことの承認だった。すなわち、ボルシェヴィキはたぶん大資本家の仕事をすることができるが、当分の間は小資本家たちの存在なくしては生きていくことができない、ということ。
 都市部では、私的取引と小規模の私的産業の再生が許された。
 田園地帯では、ボルシェヴィキはすでに農民たちに土地を自由にさせていた。そして今ではボルシェヴィキは、都市的工業製品の消費者としてはもちろん、農民たちが都市市場のための信頼できる「小ブルジョア」生産者としての役割を果たしてくれるのかと気に懸けていた。
 農民たちの土地保有を強固にするという(ストリュイピンのもとで始まった)政策は、1920年代にソヴィエト当局によって継続された。<ミール>の権限を正面から攻撃するということはなかったけれども。
 ボルシェヴィキの立場からすれば、小資本家的農民の農業は村落の伝統的な共同体的かつ実体類似の耕作よりも好ましかった。そして、そう奨励することに全力を尽くした。//
 しかし、ネップ期の私的部門に対するボルシェヴィキの態度は、つねに両義的だった。
 内戦後に粉々になっていた経済を復興させるためには、ネップが必要だった。そして、復興に続く経済発展の初期の段階のためにもおそらく必要だろう。
 しかしながら、資本主義の部分的な復活ですら、多くの党員たちには不快でおぞましいものだった。
 製造業や採掘業の「免許」を外国企業に与えたとき、ソヴィエト当局は心配して当惑し、その免許を撤回して外国企業を買収できるほどに事業が安定するときが来るのを待った。
  地方の起業家(「ネップマン」)は、多大の疑念をもって処遇された。そして、彼らの活動に対する制限は1920年代の後半までにはきわめて強くなったので、多くの事業は消滅に至り、残っているネップマンたちには法の限界のところで活動する暴利商人のごとき翳りある様相があった。//
 農民層に対するボルシェヴィキのネップ期の方針は、いっそう矛盾すらしていた。
 集団的および大規模の農業は、ボルシェヴィキの長期的な目標だった。しかし、1920年代半ばの一般的な知識が教えたのは、その目標を達成する見込みは遠い将来のことだ、ということだった。
 その間に農民層を懐柔し、彼らが小ブルジョアの途を自由に進むのを許さなければならなかった。
 かつまた、農民たちが農業の方法を改善して生産を高めるように奨励することは、国家の経済的利益だった。
 これが暗黙にでも示すのは、懸命に働いて個々人の農業経営に成功する農民たちを、体制は許容し、推奨すらした、ということだ。//
 しかしながら、実際には、ボルシェヴィキは隣人たちよりも裕福になっていく農民たちをきわめて疑っていた。
 そのような農民たちは潜在的な搾取者であり村落の資本家だとして、しばしば「クラク〔富農〕」へと分類された。それが意味するのは、選挙権の剥奪を含む多様な形態で差別される、ということだった。
 「中産(middle)」農民(全農民の大多数が入る「裕福」と「貧困」の間にある範疇)との同盟を作出することを多く語りながらも、ボルシェヴィキは、農民層内部の階級分裂の徴候を継続的に見守り続けた。農民層を階級闘争へと投げ込み、裕福な農民に対する貧困な農民の闘いを支援する機会が来るのを心待ちしながら。//
 しかし、ボルシェヴィキが経済発展にとって最も重要と位置づけたのは、村落ではなくて、都市だつた。
 社会主義の建設について語るとき、彼らが心に抱く主要な過程は工業化だった。それは最後には都市経済のみならず村落経済をも変質させるはずのものだった。
 内戦の直接の影響で、1913年の水準にまで工業生産を復活させることだけでも、困難な任務であるように思えていた。レーニンの電力化計画は、事実上は1920年代前半の長期にわたる開発計画に他ならなかった。そして、よく周知されたにもかかわらず、元来の目標は全く控え目のものだった。
 しかし、1924-25年、予期しなかったほどの急速な工業および経済の復活によって、ボルシェヴィキ指導者の間には楽観的見方が急に沸きたち、近い将来での大工業の発展の可能性が再評価され始めた。
 内戦期のチェカの長であり党の最良の組織者の一人である Feliks Dzerzhinsky (ジェルジンスキー)は最高経済会議(Vesenkha)の議長職を継承し、その会議を強力な工業省へと作り替え始めた。彼は、帝政時代の先行者のように、冶金、金属加工および機械製造に焦点を当てた。
 急速な工業発展に関する新しい楽観主義は、1925年末のジェルジンスキーの自信に満ちた言明にも現れている。つぎのようなものだった。//
 『こうした(工業化という)新しい任務は、15年前あるいは20年前でも抽象的な言葉で考察していたようなものでは全くない。その当時に我々は、国家の工業化の行程を進み始めることなくしては社会主義の建設は不可能だ、と言っていた。
 今では我々は、一般的な理論のレベルで問題を設定しているのではなく、我々の全ての経済活動の明確で具体的な目標として設定しているのだ。』(23)//
 急速な工業化が望ましくないことについては、ボルシェヴィキ指導者の間で現実的な異論はなかった。しかし、この問題は不可避的に、1920年代半ばの党派闘争の中で論じられることになった。
 トロツキーは、ネップの初期の暗鬱なときですら国家経済計画を積極的に支持した数少ないボルシェヴィキの一人だった。そして、彼の政敵たちに対抗して工業化という根本的考え方を主唱したのは幸せなことだっただろう。
 しかし、1925年にスターリンは、工業化は今や<自分の>問題であり、自分の最も優先されるべき問題の一つだ、と明瞭に述べた。
 十月革命の八周年記念行事でスターリンは、経済の急速な近代化を推進するという党の最近の決定を、1917年のレーニンの、政治権力を奪取する重要な決定と照らし合わせた(24)。
 これは大胆な比較だった。スターリンが自分のために望んだ名声のみならず、経済近代化の達成に彼が付した重要性をも示唆していた。
 思うに、すでに彼は、レーニンの後継者としての歴史を密かに用意していたのだろう。すなわち、彼は工業化推進者(Industrializer)たるスターリンとなるはずだったのだ。//
 党の新しい方針は、スターリンの「一国での社会主義」というスローガンで表明された。
 これが意味したのは、自分の力だけで、ロシアは工業化し、強大になり、社会主義の前提条件を生み出そうとしている、ということだった。
 世界革命ではなく国家の近代化が、ソヴィエト共産党の第一次的な目標になった。
 ボルシェヴィキは、自分たちのプロレタリア革命を支えてくれるヨーロッパでの革命を必要としなかった。
 ソヴィエト国家を建設するためには、外国人の善意を-革命家のであれ資本家のであれ-必要としなかった。
 自分たちの力は、1917年十月にそうだったように、戦いに勝利するには十分だったのだ。//
 ソヴィエトが世界で孤立しているという否定できない事実やいかなる犠牲を払っても工業化するというスターリンの意図を考慮すれば、「一国での社会主義」は結集させるための有用な叫び声であり、よい政治的戦略だった。
 しかし、それはマルクス主義理論の厳格な教えに熟達した古いボルシェヴィキには、現実に反対する意向を大きくはもたないとしても、しばしば論争したくなるような戦略だった。
 結局のところ、国家的熱狂(愛国主義、chauvinism)という底流を掻き乱すものとして、<理論上の>問題は無視されることになった。まるで、ソヴィエトの政治的に遅れた国民大衆に、党が迎合しているかのごとくだった。
 先ずはジノヴィエフ(1926年までコミンテルン議長)が、次にトロツキーが毒餌に食いつき、「一国での社会主義」に反対の声を挙げた。イデオロギー的には誤っていないが、政治的には災悪だ、と。
 この反対によって、スターリンは反対者たちに汚名をつけることができた。そして同時に、スターリンは国家建設とロシアの国益を主唱しているという、政治的に有利な事実を強調した。(25)//
 ユダヤ人知識人のトロツキーがボルシェヴィキはつねに国際主義者だったと強く指摘したとき、スターリンの支持者たちは、トロツキーはヨーロッパ以上にロシアのことを気に懸けない世界主義者(cosmopolitan)だと描いた。
 トロツキーが自分はスターリンと同じく工業化論者だと適切に主張したとき、スターリンの仲間たちは、トロツキーは1920年に労働徴兵を支持し、従って、スターリンとは違って、おそらくロシアの労働者階級の利益を犠牲にする心づもりのある工業化論者だ、と想起させた。
 だがなお、工業化に要する資金が論争点となった。そして、トロツキーは、ソヴィエト国民が耐えられないほどに搾り取られるべきではないとすれば、外国取引と借款がきわめて重要だ、と主張した。このことは、トロツキーが「国際主義」者であることのもう一つの証拠になっただけだった。-大規模な外国取引と借款を獲得できそうではない情勢にますますなっていたのだから、トロツキーに現実的感覚が欠けていたことは言うまでもないとしても。
 スターリンは、対照的に、愛国的でありかつ同時に現実的な立場をとった。すなわち、ソヴィエト同盟は、資本主義の西側からの恵みを乞う必要はないし、そう望みもしない、と。//
 しかしながら、工業化のための資金融通は重大な問題で、言葉上の盛んな議論だけで終わらせるべきものではなかった。
 ボルシェヴィキは、資本の蓄積がブルジョア産業革命の前提条件だったことを、そして、マルクスはこの過程は民衆の受難を意味すると生々しく叙述していたことを、知っていた。
 ソヴィエト体制もまた、工業化するためには資本を蓄積しなければならない。
 ロシアのかつてのブルジョアジーはすでに収奪されてしまっており、新しいブルジョアジーであるネップマンとクラク(富農)には、多くを蓄積する時間と機会がなかった。
 革命の結果として孤立しているロシアがウィッテ(Witte)の例にもう従えないとすれば、体制は自分たちの資力を、民衆一般の資力を、そしてまだ圧倒的な数の農民から資力を引き出さなければならなかった。
 そうすると、ソヴィエトの工業化とは、「農民の搾取(squeezing)」を意味したのか?
 そうであるならば、体制はそれに続きそうである政治的対決から生き延びることができたのか?//
 1920年代半ば、この問題は、機会主義者であるプレオブラジェンスキーとブハーリン、およびスターリン主義者たちの間の論争の主題だった。
 <共産主義のイロハ>の共著者だった前者二人は、ともによく知られたマルクス主義者で、それぞれに対応して経済理論と政治理論の専門家だつた。
 プレオブラジェンスキーはこの論争で-経済学者として論じて-、工業化に使うために、主としては村落部門に対する取引条件を変えることによって、農民に「貢ぎ物」を要求する必要があるだろうと書いた。
 ブハーリンは政治的観点から、これは受け入れ難いと見なした。農民から反発されるだろうし、レーニンがネップの基礎だとした労働者・農民の同盟関係を破壊する危険を冒す余裕は体制側にはない、と異論を述べたのだ。
 この論争に、結論は出なかった。ブハーリンは工業化する必要、そのために何とかして資本を蓄積する必要を肯定したからであり、一方でプレオブラジェンスキーは、農民層と強制力や暴力をもって対立するのは望ましくないことに同意したからだ。(26)//
 スターリンは、この議論に関与しなかった。そのことで多くの者は、彼は味方であるブハーリンと同じ考えだと想定した。
 しかしながらすでに、スターリンの農民に対する態度はブハーリンのそれよりも優しくない、ということがある程度は示されていた。すなわち、スターリンはクラクの脅威に関して、より強硬な方針を採った。また、1925年には明示的に、農民層が「金持ちになる」ことを体制による祝福でもって奨励するブハーリンの考え方からは離れていた。
 さらに加えて、スターリンは、工業化追求をきわめて強く確言していた。そして、ブハーリン・プレオブラジェンスキー論争から導かれる結論は、ロシアは工業化を遅らせるか、それとも農民層と対立する大きな危険を冒すか、のいずれかだったのだ。
 スターリンは、不人気な政策を事前に発表するような人物ではなかった。しかし、後から見ると、どの結論をスターリンが選択したのかを推測するのはむつかしい。
 彼が1927年に記したように、工業生産高と産業プロレタリア-トの数字をほとんど戦前の水準にまで向上させたネップによる経済回復は、都市側の方へと、都市と田園地帯の間の力の均衡を変えていた。
 スターリンは工業化を目指し、それが田園地帯との政治的対立を意味しているとすれば、「都市」が-つまりは都市的プロレタリア-トとソヴィエト体制が-勝利するだろうと考えた。//
 ネップの導入に際して、レーニンは1921年に、これは戦略的な退却だ、いまはボルシェヴィキが新規に革命的な攻勢を行う前に勢力を結集させるときだ、と述べた。
 10年も経たないうちにスターリンは、ほとんどのネップ政策を放棄し、工業化を追求する第一次五カ年計画と農業の集団化によって、革命的変化の新しい段階を開始した。
 これは真の(true)レーニンの路線だ、レーニンが生きていれば彼自身が採用していただろう途だと彼は語ったし、疑いなくそう信じていた。
 ブハーリンやルィコフを含む他の党指導者たちは、次の章で論述するように、同意しなかった。レーニンは、ネップという穏健で懐柔的な政策は体制が社会主義に向かうさらなる決定的な一歩を踏み出す望みを持てるまで「真剣にかつ長い間」実施されなければならないと述べたのだと、彼らは強く指摘した。//
 歴史研究者たちは、レーニンの政治的遺産に関して、分かれている。
 ある者たちは、善意であれ悪意であれ、スターリンはレーニンの真の(true)後継者だったとする。一方、別の者たちは、スターリンは基本的にはレーニンの革命に対する裏切り者だと見る。
 もちろんトロツキーは後者の見方を採り、自分は匹敵し得る後継者だと考えた。しかし、彼は、スターリンによるネップの放棄と彼の五カ年計画の間の経済的かつ社会的な変化の追求に関して、原理的には何ら本当には反対していなかった。
 1970年代、そしてソヴィエト同盟でのゴルバチョフのペレストロイカの短い時期に、レーニン主義(または「元来のボルシェヴィズム」)とスターリニズムの間に根本的な違いを見た研究者たちを惹きつけたのは、スターリンに対する「ブハーリンという選択肢」だった。
 ブハーリンという選択肢とは、実際には、近い将来までの間のネップの継続だった。そして、それが力を持ったとすれば、ボルシェヴィキは漸進的な方法でその革命的な経済的かつ社会的目標を達成できるという可能性が少なくともあることを、意味していた。//
 レーニンが生きていれば1920年代末にネップを放棄していたのか否かは、誰一人決して明確には回答することができない、「かりに〜ならば、どうなっていたか」(what if)という歴史の問題だ。
 レーニンの晩年の1921-23年、彼は急進的な変化について-当時のボルシェヴィキ指導者たちと同様に-悲観的で、また、放棄したばかりの戦時共産主義政策への執着が党に心遺りとして続いているのを妨げたいと願っていた。
 しかし、彼は異様に気まぐれな思想家であり、政治家だった。彼の気分は-他のボルシェヴィキ指導者たちのように-、予期しなかった1924-25年の急速な経済回復に鋭く反応して変わったかもしれなかった。
 レーニンは、1917年4月に、「この革命の決定的な闘い」が生きている間にやって来るのは結局は不可能だと考えていた。しかし、同じ年の9月頃には、プロレタリア-トの名による権力奪取の絶対的な不可避性を主張した。
一般的にレーニンは、状況の消極的な犠牲者になりたくはなかった。この状況というのは、ネップのもとでの自らの位置をボルシェヴィキがどう理解しているかにとって、基本的に重要だつた。
 レーニンは気質において革命家なのであり、ネップは決して、経済的かつ社会的観点からするその革命的目標を実現するものではなかった。//
 1956年の第20回大会でのフルシチョフによるスターリンの悪に対する批判の後で、古い世代の多数のソヴィエト知識人は、1920年代の青年時代の回想録を執筆した。それらによると、ネップ期はほとんど黄金時代だったように見える。
 そして、西側の学者たちはしばしば、同じような見方を示した。
 しかし、遡って回顧してのネップの美点-社会内部での相対的な緩和と多様性、体制の側での比較的にレッセ・フェール的な態度-は、当時の共産党員たる革命家たちが褒め讃えた性質ではなかった。
 1920年代の共産党員たちは、階級敵を怖れ、文化的多元主義を許容せず、党の指導部の一体性の欠如に不安をもち、方向と目的意識の感覚を喪失していた。
 彼らは、その革命で世界を変えたかった。しかし、いかに多く古い世界が存続したかは、ネップ期に明瞭だった。//
 共産党員たちにとって、ネップは、偉大なフランス革命が堕落した時期であるテルミドールの匂いがした。
 1926-27年、党の指導部と反対派の間の闘争は、新しい次元の苦しみにまで達していた。
 どちらの側も他方を、革命の陰謀とか裏切りとか言って責め立てた。
 フランス革命との類似性が、しばしば引用された。ときには、「テルミドールの退廃」と関連させて。ときには-不気味にも-、ギロチンが持つ有益な効果に言及がなされて。
 (過去にボルシェヴィキ知識人たちは、革命を食い潰し始めたときに革命は瓦解するということを教える革命の歴史を知っていることを誇った。) (28)//
 また、病気の前の不快な感覚は党のエリートたちに限られてはいない徴候もあった。
 多数の一般党員や同調者たちは、とくに若者たちは、幻滅し始め、革命は行き詰まったと考える方向へと傾斜した。
 労働者たち(党員の労働者を含む)は、「ブルジョア専門家」やソヴェトの行政担当者の特権、悪徳な取引をするネップマンの利得、高い失業率、および機会と生活水準の不平等さの永続にひどく腹を立てていた。
 党の煽動者やプロパガンダ者は頻繁に、「我々は何のために闘ったのか?」という怒った疑問に対応しなければならなかった。
 党の空気を占めたのは、若きソヴィエト共和国がやっと静かな港に入ったという満足感の一つではなかった。
 あったのは焦燥感、不満感の空気であり、辛うじて戦闘気分が抑えられていた。そして、とくに若者の党員たちの間には、内戦期のあの英雄的な日々への郷愁が覆っていた。(29)
 共産党-革命と内戦の経験を通じて塑形され、(レーニンの1917年の言葉では)「腕を組む労働者階級」だと自己をまだ意識していた1920年代の若き党-にとって、おそらくは平和があまりにも早くやって来ていた。//
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 (22) レーニン「我々の革命」(N・スハノフの記録について), <全集>第33巻p.480〔=日本語版全集第33巻「わが革命について/1923年1月17日」500頁。下のとくに**を参照。〕
 *(秋月1) レーニン全集日本語版33巻498頁の訳では、「はてしのないほど」の又は「極端に」「紋切り型」。
 **(秋月2)レーニン全集日本語版33巻500頁の訳文は、こうなっている。
 「私の記憶では、ナポレオンは<On s'engage et puis …on voit>と書いた。ロシア語に意訳すれば、こうなる。『まず重大な戦闘にはいるべきで、しかるのちどうなるかわかる。』
 そこで、われわれもまず1917年十月の重大な戦闘……、しかるのち…がわかったのである。
 そして現在、われわれがだいたい勝利をおさめてきたことは、疑う余地がない」。
 (23) Yu. V. Voskresenskii, Perekhod Kommunisticheskoi Partii k osushchesvleniyu SSSR (1925-1927)(Moscow, 1969), p.162. から引用した。
 (24) スターリン「十月、レーニンおよび我々の発展の展望」, <全集>(Moscow, 1954)vii 所収, p.258〔=日本語版スターリン全集(大月書店)第7巻「十月革命、レーニンおよび、われわれの発展の見通し」261頁以下〕
 (25) こうした議論につき、E. H. Carr, <一国社会主義>, ⅱ, p.36-p.51.を見よ。
 (26) この論争の詳細な検証につき、A. Erlich, <ソヴィエト工業化論争-1924-1926年>(Cambridge, MA, 1960)を見よ。
 (27) Stephen F. Cohen「ボルシェヴィズムとスターリニズム」, Tucker ed. <スターリニズム、ブハーリンおよびボルシェヴィキ革命>(New York, 1973)所収、Moshe Lewin, <ソヴィエト経済論争の政治的底流: ブハーリンから現在の改革者まで>(Princeton, NJ, 1974), を見よ。
(28)テルミドールに関する党の議論につき、Deutscher, <武装していない予言者>(London, 1970), p.312-332. およびMichal Reiman, <スターリニズムの誕生>, 訳George Saunders (Bloomington, IN, 1987), p.22-23. を見よ。
 (29) 若者の疎外感に関する懸念につき、Anne E. Gorsuch, <革命ロシアの若者たち>(Bloomington, IN, 2000), p.168-181. を見よ。
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 第4章(ネップと革命の行く末)の第4節が終わり。第4章の全体も終わり。

1828/不破哲三の2017年11月・朝日新聞での妄言①。

 日本共産党前議長・現常任幹部会委員の不破哲三が、朝日新聞2017年11月17日朝刊の紙面に登場して、<ホラ話>を述べている。
 ロシア革命100年ということでこんなインタビュー記事を掲載する堂々とした全国紙があるのだから、日本の<左翼的>状況の程度をよく知らせてくれている。
 聞き手は「三浦俊章、池田伸壹」とされる。編集部の手が入っているだろうが、本人・不破哲三の不服・不満があるかたちで紙面になっているとは考え難い。したがって、不破哲三自身の言葉・表現だと理解して、以下、この<妄言>についてコメントする。
 最初に語られているテーマは、ロシア革命の意味・意義だ。
 最近に岩波書店のロシア革命・講座の「編集代表一同」の「刊行の言葉」に言及したが、そこで書かれていた三点のうち二点は、この朝日新聞での不破哲三発言と同じだ。
 似たようなデマゴギーが溢れている。
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 さて、不破は、つぎの三点を挙げていると読める。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 第二。「ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着した」。
 これのコロラリーのようなかたちで、つぎもある。
 「社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた」。
 第三。「革命政権は、〔第一次大戦〕大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。…。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」。
 以上の三点全てが<ホラ話>だ。<妄想>だ。つまり現実・事実に反する。あるいは、論証されていない命題にもとづいて何らかのことを「政治的に」主張している。あるいは、「観念・言葉」と「現実」の混同がある。
 たぶん一回ではすまない。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 資本主義からの離脱に初めて成功した、と不破哲三は理解する。
 かりにそうだとして、それが<良かった>、<進歩的だった>のかはもちろん別の問題だ。
 この人は、そしておそらく日本共産党員の全てが、資本主義→社会主義(・共産主義)という道筋を「人類」はたどる「はず」だと想定しているのだろう。そうだとすれば、ロシア革命は歴史上「初めて」の積極的な意義があることになる。ちなみに、何となくそう理解している、あるいはロシアの現実は別として、資本主義→社会主義(・共産主義)という方向自体は少なくとも理念として正しいのではないかと考えている、<容共>者もいるかもしれない。
 しかし、そもそも上の想定・前提は<正しい>、<適切な>ものなのか。
 一定の観念・想念・幻想があってはじめて、「資本主義に代わる新しい社会を目指す」のは良かったことだ、という評価が成り立つ。
 不破によると、「マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えた」。
 そのとおりかもしれず、「マルクスの理論」が現在でもなお影響力をもつのは「ロシア革命」が成功したこと、つまりは<理論が現実化>して、<理論の正しさ>が現実で証明された、と少なくとも「受け止められた」ことにあっただろう。
 その意味で、マルクス→レーニンによってこそ、マルクスは現にあるような形で歴史に残っているのだとも言える。
 それは、ルソー(ら)→フランス革命、吉田松陰→明治維新、という関係とも似ている
 しかし、レーニンによる「ロシア革命」は本当に<社会主義(を目指す)革命>だったのか。
 そのようにレーニンらボルシェヴィキ派が<宣伝>した、<言葉・概念で訴えた>だけかもしれず、本当に<マルクスの理論を現実化した>ものかどうかは別途の検討が必要だ。
 かりにレーニンらが「マルクスの理論」を現実化したもの、または現実化しようとしたものであったとしても、1917年~1922年の現実は、かりに「社会主義が現実化」したものだったとすれば、悲惨な現実だったと私には思われる。
 国家・行政の運営の仕方を知らない<しろうと>たちが、マルクスが簡単かつ抽象的に描く「共産主義」をさっそく実施しようとしたがゆえの悲惨な現実だった、と十分に理解することができる。
 不破哲三による<市場経済をつうじて社会主義へ>というレーニンの考えの確立という発見(?)の特徴は、この人はおそらくレーニン全集等で読むことのできるレーニンの<言葉・文章>だけでロシア革命等を、また十月革命直後の歴史を理解しようとしていることだ、と論評することができる。
 この人はいったい、どこまで、1917年~1922年くらい、要するに<レーニン時代>のロシアの現実を知っているのだろうか。
 かりに現実にしたのだったとしても、そこでの「社会主義」とは人間の本性には反した絵空事を描いたものではなかっただろうか。
 さらにもともと、マルクスらのいう封建主義→資本主義→社会主義(・共産主義) という「歴史的法則」自体の<正しさ・適切さ>も、何ら証明されていないものだ。
 <最初に資本主義から離脱した>。これがなぜ積極的意義・意味を持つのか、さっぱり分からない。
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 若い頃からマルクス、レーニン、(1980年くらいまでは)スターリンを読み、かつ日本共産党の幹部だった(である)人物の<思考・意識形態>というのは、ヒト・人間観察としても、すこぶる興味がある。
 続けざるを得ないだろう。

1827/読書しないでメモ。

 WiLL8月号増刊・歴史通(ワック、2018)。
 歴史通(ワック)というのはワックの季刊誌かと思っていたが、今は月刊誌の増刊号という扱いなのだろうか。
 表紙に、<朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ>とある。
 朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ、だとして、では、月刊Willの執筆者(・編集者)が撒き散らしている、いや失礼、適切に?伝播させている「歴史」には、「フェイク」はないのだろうか
 月刊正論、月刊Hanada、月刊WiLLの歴代編集者や執筆人の多くは、<日本会議史観>に染まってはいないのだろうか。「東京裁判史観」とか故渡部昇一のように言い出すと、すでにおかしい。
 櫻井よしこは国家基本問題研究所理事長だが、この「研究所」の評議員を務める編集者もいた。
 そして、伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかまず、聖徳太子の<十七条の憲法>を高く評価する。
 聖徳太子は皇族だったとされる。しかし、聖徳太子は神道よりも仏教に縁が深く、かつ政治的には敗北者だった。
 聖徳太子および近接の天皇・皇族たちの墓地(御陵)は飛鳥を含む奈良盆地にはなく、いまの大阪・南河内にある(太子町!)。伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかを説明できるのだろうか。
 日本にもかつて<憲法>があったなどという<言葉・概念>の幼稚なトリックに嵌まっていなければ幸いだ。
 つづいてなぜか、1000年も飛んで、後醍醐天皇も通過して、<五箇条の御誓文>を褒め讃える。
 そして、江崎道朗は、十七条の憲法・五箇条の御誓文・大日本帝国憲法は「保守自由主義」で一貫しているのだとのたまう。
 こういう単純化はたいていか全てそうだが、間違っている。<フェイク>の最たるものだ。
 ところで、こういう増刊ものは、新しい論考や座談だけではなくて、すでに発表されている論考等を再度掲載していることがある。
 <一粒で二度おいしい>のは出版社(・編集者)と執筆者(余分の収入になるとすれば)であり、迷惑なのはきっと<知的に誠実な>、新鮮な情報を期待している読者だろう。
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 八幡和郎・「立憲民主党」・「朝日新聞」という名の"偽リベラル"(ワニブックス、2018)。
 入手して、「はじめに」だけ一瞥した記憶がある。
 八幡和郎は文筆で「食って生きている」人物のようで、多数の安っぽい書物を敬遠してきたのだが、意外によいことを書いていることを、この半年くらいに、この人のブログで知った。したがって、現在は敬遠してはいない。
 池田信夫・所長とどういう関係にあるのか詳しく知らないが、親しくはあるようだ。
 そして、池田が八幡に対して「新手の皇国史観」だと批判したら、八幡が「それはそうかもしれないけれど」とか反論していたのが面白かった。
 面白かったというのは、内容もそうだが、たぶん同じ共同ブログサイトの執筆者でありながら、相互に批判し合っていたからだ。
 内容の当否に立ち入らないが、こういう<自由さ・率直さ>はなかなか面白く、よいと思われる。
 産経新聞の「正論」欄編集者が元原稿にあった特定の人物(批判された櫻井よしこ)の名を事実上削除した感覚とは、かなり異なるだろう。
 さて、上の本。「読まない」で書くが、第一に、望むらくは、秋月瑛二が<敵視している>勢力のことをやはり批判している、と理解したいものだ。立憲民主党と朝日新聞が明記されているところをみると、大いに期待できるだろう。
 第二、私は、「左翼」または共産主義(・社会主義)者・日本共産党および<容共>の者たちを、この欄で批判している。簡単には「左翼」または「容共」論者だ。
 しかして、八幡和郎のいう「偽リベラル」とはいったいどういうつもりの呼称なのだろう。
 もちろん、「本当の」・「真の」リベラルではない、ということは簡単に理解できる。
 中身を読めば書いているのかもしれないが(そう期待したいが)、リベラルまたはリベラリズムの概念論争に決定的な意味があるとも思えない。
 気になるのは、八幡和郎は「偽リベラル」を何と簡単に呼称しているかだ。立憲民主党や朝日新聞等でははっきりしない。要するに、共産主義(・社会主義)者・<容共>者ときちんと呼称して、対決しているか否かだ。
 私の理解では、立憲民主党と朝日新聞が「左翼」の中核にいるわけでは決してない。
 しかし、<特定保守>論壇もそうなのだが、商売として<左翼>をやっている気配がたぶんにある立憲民主党と朝日新聞を攻撃すればよい、というのでは不十分だろう。
 批判の矢はきちんと、日本共産党「等」の今に残る共産主義(・社会主義)者に向けられなければならない。
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 以上の二者。いずれも、本当に「読まないで」書いてしまった。
 八幡の本は入手して数ヶ月、本棚のどこかに置いたままだ。「本来の」リベラルの立場からするという、原理的「左翼」あるいは原理的護憲派、憲法九条死守派に対する批判など、簡単に想像できそうであるからでもある。大きく間違っていれば、幸いだ。

1826/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑱。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本が<レーニンの生い立ち>についてもっぱら、正確には一つだけの邦訳書として、「参考に」しているので、おかげで著書の執筆者、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)について、関心をもち、知識も得ることができた。
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 既述のようにヒルは、1945-46年にLenin and the Russian Revolution(1947)を執筆し、1947年に英国で刊行し、これが1955年にクリストファー・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)という邦訳書となって日本でも刊行された。これは、彼の43歳の年で、原書を執筆していたのは、33~34歳のとき。
 また、80歳をすぎた1994年1月の英国新聞紙上で、私に言わせればなお<レーニン幻想>をもつことを明らかにし、「スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blamming Lenin for Stalin)」に陥ってはならない旨を語った。
 なお、「スターリン以降の歴代指導者」が「社会主義の原則」を踏みにじったのであって、レーニンは社会主義に向かう「積極的努力」をした、というのは現在の日本共産党の歴史理解だ。したがって、Ch・ヒルは(も?)日本共産党と似たようなことを言っていることになる。
 但し、<レーニンはまだマシだった>くらいの議論は欧米にも(当然に?日本でも)あるようだが、レーニンは<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を確立した、とまで書いている欧米文献は見たことがない
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 さて、とりあえず、ネット上の情報によると、つぎのことは確実だろうと思われる。
 クリストファー・ヒル(Christopher Hill)、1912年2月~2003年2月。満91歳で死去、イギリス人。
 1930年代の前半、イギリス共産党に入党。共産党員となる。
 これはコミンテルンの支部としての、「共産党」と名乗ったイギリスの党だと思われる。一般的な言葉ではなく、私の造語かもしれないが、日本共産党とともに出自は<レーニン主義政党>だ。
 つづき。のち1956年に<ハンガリー事件(動乱)>をきっかけとして、離党した。
 マルクス主義歴史家としてイギリスで著名で、主要研究分野は17世紀のイギリス。
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 以上は英米語と日本語のWiki (ウィキ)でほぼ共通することを書いた(一部は私の文章だが)。
 英米語版Wikipedia は相当に詳しい。以下、それによる。
 ソ連による1956年のハンガリー侵攻の際に「多くの他の知識人たち〔党員〕」は離党したが、Ch・ヒルが離党したのは1957年の春で、「多くの他の知識人たち」と違っていた(unlike)。
 1931年にドイツ・フライブルクにいて、ナツィスの勃興を目撃。
 1934年にUniversity of OxfordのBalliol College を卒業。
 1932~1934年の間に、マルクス主義に馴染み、イギリス共産党に入党。
 1935年、OxfordのAll Souls Collegeの研究員になり、10箇月間のモスクワ旅行。
 1936年、the University College of South Wales and Monmouthshire(at Cardiff )の「助講師」。
 この年、コミンテルン設立の「国際旅団」に参加して「人民戦線」側で戦う(スペイン内戦)ことを応募したが却下された。代わりに、バスク難民救済事業に参加。
 1938年、University of Oxford/Balliol College の「研究員兼講師」(歴史学)。
1946年、<イギリス共産党・歴史家グループ>を結成。
 1949年、新設の Keele University の the chair of History に応募したが、共産党員であること(his Communist Party affiliations)を理由として、拒否される。
 以上が、江崎道朗が「参考」にした本が書かれる頃までの、かつ共産主義・共産党にかかわるCh・ヒルの「経歴」の一部だ。全くのウソではないだろう。
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 ハーヴェイ・J・ケイ(監訳/桜井清)・イギリスのマルクス主義歴史家たち(白桃書房、1989)という邦訳書がある。原書は、以下。
 Harvey J. Kaye, The British Marxist Historians (Polity Press, Cambridge, 1984).
 邦訳書によると、これはアメリカ人によるものだが、上では省略した邦訳書の副題に並べられているように、5人のイギリス・マルクス主義歴史家について叙述する。5人とは、以下。
 ①モーリス・ドップ(Maurice Dopp)、②ロドニー・ヒルトン(Rodony Hilton)、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)、④エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)、⑤トムソン(E. P. Thompson)
 ⑤のE. P. トムソンは、1970年代前半にL・コワコフスキを批判し、逆に後者から辛辣な反論を浴びた学者。L・コワコフスキの文章はこの欄で試訳した。トニー・ジャッㇳ(Tony Judt、1948-2010)による両者の論争?への言及についても紹介した。
 ④のE・ホブズボームについては、マルクス主義・共産主義と「ロマンス」をした、イギリス共産党員たることをやめなかった人物だと Tony Judt が描いていると、この欄で言及したことがある。
 そして、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)。1984年の時点で、元イギリス共産党員。
 上の本の著者自体が、マルクス主義者または明瞭な親・マルクス主義者だ。
 著者のハーヴェイ・J・ケイ(Harvey J. Kaye)はアメリカ人だが、イギリスのマルクス主義歴史学者の確かな流れ・系譜を上記の5人に見ている。
 例えば、序論で、つぎのように書く。
 彼ら(上の5人)は個別研究分野で優れているのは勿論だが「共に理論的伝統を支えてきた」。筆者(ケイ)の「論拠は、これらイギリス・マルクス主義歴史家たちが、共通の理論的問題設定に取り組んでいるという点に基礎」を置く。p.4。 
 その最終章(第7章)は「共通する貢献」と題しており、例えば、つぎのように書いている。
 彼らの研究は「総体的にみて、筆者の言う『階級闘争分析』と『底辺からの歴史』という視点から歴史研究と歴史理論の再構築をはかろうとする理論的伝統に立っている」。「特にマルクス主義との関連で言えば、彼らは、…マルクス主義あるいは史的唯物論を、階級決定論として発展させることに努めている」。p.249。  
 あくまでH. J. ケイによる見方だが、ともあれ、Ch・ヒルとは、1980年代前半の時点で、イギリス・マルクス主義歴史学者の(当時までの)5人の中の一人なのだ。マルクス主義内部の細部の論点には立ち入らない。
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 さて、江崎道朗は冒頭掲記の2017年8月の著で、いったい何ゆえに、<レーニンの生い立ち>に関して、このCh・ヒルが30歳台のとき、第二次大戦後すぐの1947年に刊行して1955年に日本語訳書となった古い本をもしかも岩波書店刊行(岩波新書・岡稔訳)の本を、<ただ一つだけ>「参考に」したのだろうか。
 大笑い、大嗤いだろう。
 <インテリジェンス>うんぬんを語る日本の<保守>派らしき人物が、当時はれっきとしたイギリス共産党員だった者が執筆したレーニン・ロシア革命に関する本を、何の警戒も、何の注意も払うことなく(まさか岩波新書だから古くても信頼が措けると判断したのではあるまい)、ただ一つの「参考」書として使っているのだ。
 この本刊行のあと晩年まで<レーニン幻想>を抱いていた人物であることは、私は突きとめた。
 なぜ、こんな安易な本の参考の仕方を江崎道朗はしているのか。
 要するに「無知」、「幼稚」の一言か二言でもよいのだろう。
 だが少し想像すれば、おそらく、レーニンの「生い立ち」を叙述する必要に迫られて、手頃に、簡単に入手できたCh・ヒル著(岩波新書)を見つけ、60年以上前に刊行された岩波新書であることも無視して、あえて使ったのだろう。
 この本以外に、レーニンの伝記的な部分を含むレーニンに特化しての研究書が邦訳書も含めて多数(しかも詳しいものが)あると想像すらしなかったようであることは、信じられないほどだ。
 江崎道朗の2017年8月著は悲惨であり、無惨だ。
 なぜ、この程度の人物が月刊正論(産経)の毎号執筆者なのか。
 なぜ、この程度の人物が<インテリジェンス>の専門家面しておれるのか。
 このような人を<培養している>のはいったいどういう情報産業界なのか。
 そして、<日本の保守>派とはいったいいかなる人たちで成っているのか。なぜ、これほどに頽廃した人々が<保守>を名乗っておれるのか。
 昨年8月に覚えた絶望的な気分を、再び思い出した。精神衛生によくない。

1825/日本の教育・大学制度-池田信夫7/6ブログを契機に。

 池田信夫の7/06ブログ掲載の資料によると、大学入学について「一般入試」、たぶん紙等での競争試験を受けて限定的な数の合格者が決定される方法、による入試方式での入学者数は、国立大学で83.1%、公立大学で71.6%、私立大学で47.9%らしい(2017年、旺文社調べとされる)。
 人数的に私立大学総計の方が多いとすると、「一般入試」以外で入学した学生の方が多いだろう。
 しかし、この「一般入試」以外は全て<裏口入学>というわけではないだろう。
 池田によると、「日本のように裏口入学が犯罪扱いされる国は珍しい」のだそうだ。
 そして、いかに「裏口入学」が日本でも多いかを示す資料として、上の資料を示している。
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 これは言葉・概念の問題だ。
 池田によると、「世界的にも一流大学は有力者や金持ちの子供が寄付金で入学するものというのが常識で、裏口入学は犯罪とは思われていない」。
 これはこれで興味深い、知見が豊かになる情報だ。
 しかし、「犯罪」=「悪」だとかりに前提にすると、日本で、一般入試以外=「裏口入学」=犯罪=悪だとは意識されていないと思われる。
 「裏口入学」という言葉・概念の使い方による。
 一般入試以外に、池田の資料によると、①公募制推薦入試、②指定校制推薦入試、③付属校・系列校推薦入試、④AO入試、がある。
 これらを「裏口入学」と観念するのは自由だが、私はそういう言葉遣いはしない。
 現行法制上許容されている入学方法だと思われ、情実・コネ等を一切排除できないのかもしれないが、これらによる入学は「悪」ではないだろう。
 そういう意味では、文部科学省前局長にかかる近日の<増収賄>とされる事例とは分けなければならない。
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 池田信夫にクレームをつけるのが、今回の元来の趣旨ではない。
 そのあとの文章のかなり多くは、共感する。一文ずつ改行。
 「日本の(特に文系の)大学は、教育機関としての機能をほとんど果たしていないが、その取り柄は、すべての受験生が同じ条件で競争する大学入試によるシグナリングの客観性だった。
 非裁量的なペーパーテストが、労働者の質を示す情報生産機能を果たしていた。
 その点数が『人格』をあらわしている必要はない。//
 企業からみると、終身雇用で採用する労働者に専門知識は必要なく、常識と忍耐力が大事だ。
 一流大学の卒業生には天才はいなくても常識があり、退屈な受験勉強を長期間やる忍耐力がある。
 人格やコミュニケーション能力は面接でみるので、大学入試は学力(学習能力)だけをみればいいのだ」。
 以上について、「一流大学の卒業生には天才はいなくても常識があり」を除いて、ほとんど全く同感する。
 これについて発展させたいが、とりあえず措いて先に進む。以下、抜粋的引用。
 池田によると、これを文科省が「改革」しようとした。
 しかし、①「入試が『人物本位』になり、面接のうまい学生が推薦で偏差値の高い私立大学に合格するようになった。彼らは人当たりがいいので営業には使えるが、学力がないので研究開発などのむずかしい仕事ができない」。
 一方、②「国公立大学は裏口が少ないので人事の評価が高いが」、③「私立文系の大部分はもはや学歴の意味をなさない」。
 この部分にはやや違和感がある。
 第一に、国立大学と私立大学の単純な二分があるように見える。たしかに、③では「大部分」とされているが。全私立大学と全国立大学について、このように簡単には言えないだろう。
 第二に、(ペーパー→)人物本位→人当たりよし→研究開発は困難、というのも、こう単純ではないだろう。
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 かねて感じてきたのは、国公私立を問わず(これらによってあるいは傾向的な差違はあるかもしれないが)、池田信夫もかねてから指摘している「日本の大学」、「特に文系の」大学や学部のひどさだ。
 これは立ち入らないが、「文系」大学・学部の教師=教授たちがいかに生産されるかにもかかわる。
 50%近くの進学率となって、いまさら旧制高校的<教養教育>に郷愁を感じるのは時代錯誤だ。
 「文系」といっても、大きくは人文系と社会系に分けることができるだろう。
 秋月によると<歴史学>はむしろ<社会系>だ。文学部に今あるかもしれない<心理学>や<地理学>は理系と人文系の両方がまじる。
 <教育学>だけは迷う。
 要するに、経済・経営・法学・歴史は<社会系>で、狭義の文学・哲学・外国語は<人文系>だ。
 むろん教育学のほかに、<法哲学>や<経済思想>等々、分類がむつかしいのはありうる。
 <社会系>に問題がないわけでは全くないが、私が感じてきたのは、相対的には、狭義の文学・哲学・外国語という<人文系>の方がひどい、ということだ。日本での英文学、独文学、仏文学、ドイツ哲学、フランス哲学、あるいは英語学、ドイツ語学、フランス語学、等々々。
 唐突だが、現在のマス・メディア、出版系の企業、つまりは情報産業の(技術または経営の観点からではなく)表舞台に立っているのは、狭義の文学・哲学・外国語という<人文系>学部の出身者ではないか。
 「文学・哲学・外国語」関係学部出身者こそが、戦後日本を奇妙なものにしてきて、きちんとした政策論・制度論をできにくくし、<精神論・観念論>的な論議を横溢させてきたように感じられる。
 もちろん、総体的かつ相対的な話として書いている。
 渡部昇一、加地伸行、小川榮太郞、江崎道朗、花田凱紀、長谷川三千子。全て、歴史以外の文学部出身だろう(外国語学部を含める)。桑原聡を含む月刊正論の代々編集代表者、月刊WiLLの編集者の出身学部を知りたいものだ。
 <歴史学>は社会系学部として位置づけられず、<文学部>の中に多くは吸収されているために、その他の狭義の文学系等の悪い影響を受けているようだ。典型例は、歴史系だとかりにしても、平川祐弘。元々、この人は狭義の文学・哲学系かもしれないが。
 上に限らない。例えば、以下の者たちは、東京大学文学部仏文学科出身だ。大江健三郎 1935年生、鹿島茂 1949年生、内田樹 1950年生。
 <左翼系>メディア・雑誌の編集者にも、圧倒的に文学部出身者が多いように推察される。
 彼らは、教育公務員試験を除いて国・地方の公務員試験をほとんどは(たぶん)目指そうとはせず(司法試験はもちろん)、企業のトップ「戦士」にもなりたくない(または、企業の方が経済学部や法学部系を優先する)。
 かくして残るは<マスコミ>(放送・新聞のほか文藝春秋・講談社等々を全て含む)だった、という人たちも多いのではないか。
 かくして、かなり単純化しているのは承知のうえだが、日本の<マス・メディア、出版系の企業、情報産業>はおかしくなっている。
 あまり書く機会または契機がないのだが、この点はより実証的に書いてみたい。
 ともあれ、<文系>といっても、多様なのだ。
 なお、法学・経済系は立派だ、などとは一言も言っていない。このことは、法学部出身官僚の劣悪化らしき様相を見ても感じられる。
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 より大きな問題は、日本の大学制度、ひいては教育制度そのものだ。
 戦後にいろいろと変わってきた。
 例えば、1990年にあった諸銀行のうち、とくに都市銀行と言われたもののうち、今もなお名をとどめているのはきっとないのだろう。
 唐突ではあるが、しかし、小・中・高校・大学という<6・3・3・4制>は、なぜ変わっていないのだろうか。
 むろん、工業専門学校、短大、大学院、中高一貫校など、これに含めることができないものはある。
 しかし、基本的な部分は変わっていない。種々の(大学入試制度も含む)「改革」がなされてきたが-ゆとり教育?、道徳の科目化?、小学校から英語?-根本的なところは変わっていないし、根本的なところから考え直そうという議論があることも、寡聞にして知らない。
 なぜか、それは戦後の<教育制度>または大学を含む<教育制度>によって「利益を受けた」と感じている者たちの方が多いからだと思われる。
 少なくとも、制度変更およびそのための議論に参画する者たちのほとんどは、戦後の<6・3・3・4制>と大学制度に「利益を受けた」と無意識にでも感じているからだと思われる。
 意識することもしないで、当然の<所与>と感じてしまっている可能性が高いかもしれない。
 国立大学と私立大学の違いも、池田信夫も言及している「偏差値」や「ランク」も、今ある大学制度、ひいては戦後の教育制度・学校制度を前提にした話だ。
 既存の基本制度を超えて構想することのできる大人物は、日本にはいないのだろうか。
 

1824/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑬。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第13回
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 第4章・ネップと革命の行く末。
 第2節・官僚機構の問題(The problem of bureaucracy)。
 革命家として、全てのボルシェヴィキは「官僚制」(bureaucracy)に反対だった。
 自分たちは党の指導者か軍事指令官だと幸せにも思ってきたのだが、彼らは真の革命家が新しい体制の一官僚(bereaucrat)、<chinovnik>になるのを受忍できたのだろうか?
 行政活動について議論したとき、彼らの言葉遣いは豊富な婉曲語法になった。すなわち、共産党員である行政担当者(officials)は「幹部(cadres)」で、 共産党官僚機構は「ソヴェト権力」の「装置」であり「機関」だった。
 「官僚機構」(bureaucracy)という語は、つねに侮蔑的なものだった。「官僚主義的方法」や「官僚主義的解決」は、何としてでも避けられるべきものだった。そして、革命を「官僚主義の頽廃」から守らなければならなかった。//
 しかし、こうしたことによって、ボルシェヴィキが独裁制を確立した意図は社会を支配しかつまた移行させることにあった、という事実を曖昧にすることはできなかった。
 行政機構なくしてこの目的を達成することはできなかった。彼らは最初から、社会は自主的にまたは自発的に変化を遂げることができる、という考え方を拒否していたのだから。
 かくして、疑問が出てくる。どのような行政機構が必要だったのか?
 ボルシェヴィキは、地方での基盤が解体してしまった中央政府の官僚機構(central government bureaucracy)を引き継いだ。
 彼らは、地方政府の機能を1917年に部分的に奪い取ったソヴェトを有してはいた。
 最後に残っていたのは、ボルシェヴィキ党自体だった。-革命を準備して実行するという従前の機能は、十月以降の状況には明らかに適合しなくなっていた組織だ。//
 かつての政府官僚機構は今はソヴェトの支配下にあったが、ツァーリ体制から継承した多数の行政担当者や専門家をなおも使っていた。そしてボルシェヴィキは、革命的諸政策の実施を拒否したり妨害したりする彼らの能力を怖れた。
 レーニンは1922年に、古いロシアの「被征服国民」は共産主義者という「征服者」に価値を認める過程にすでに入っている、とつぎのように書いた。。//
 『4700名の共産党員が責任ある地位に就いているモスクワについては、あの大きい政府官僚機構、あの巨大な堆積物については、「誰が誰を指揮しているのか?」と問わなければならない。
 共産党員はあの堆積物を指揮している、と本音で言われているのか否かを、私はひどく疑っている。
 本当のことを言えば、共産党員は指揮しておらず、指揮されている。<中略>
 その(かつての官僚制の)文化は悲惨でとるに足らないものだが、我々のそれよりもまだ高いレベルにある。
 現にそうであるように惨めで低くても、我々の責任ある共産党員行政担当者よりも高い。共産党員行政担当者には、行政の資質がないからだ。』(11)
 レーニンは、かつての官僚機構が共産主義の価値を破壊する危険を見ていた。しかし、共産党にはそれによって活動する以外の選択肢はないと考えていた。
 共産党員は、かつての官僚制の技術的な専門知識を必要とした。-行政上の専門知識だけではなくて、政府財政、鉄道運営、度量衡あるいは共産党員に可能であるとは思えない地理測量のような分野の特殊な知識をも。
 レーニンの考えでは、新体制が「ブルジョア」専門家を必要とすることを理解しない党員は全て、「共産主義者的傲慢」という罪を犯していた。この罪は、共産主義者は全ての問題を自分で解決できると考える無知で子どもじみた信念のことだ。
 十分な数の共産党員専門家を党が養成するには、だいぶ時間がかかるだろう。
 そのときまで、共産党員はブルジョア専門家とともに仕事をし、同時にしっかりと彼らを支配し続けることを学ばなければならなかった。//
 専門家に関するレーニンの考えは、他の党指導者たちも一般に受け入れていた。しかし、彼らは一般党員にあまり人気がなかった。
 たいていの党員は、政府の高いレベルで必要な専門技術的知識の性質や種類に関してほとんど何も知らなかった。
 しかし彼らは、旧体制からいる小役人がソヴェトで類似の仕事を何とか苦労してしているとき、あるいは主任会計士がたまたま工場施設の地方党員活動家に同意しないとき、あるいは村落の学校教師がコムソモルで面倒を起こしたり学校で教理問答書を教育する宗教信者だったときですら、地方レベルで専門知識がもつ意味を明確に理解していた。
 たいていの党員は、重要な何かをしなければならないときには党を通じてそれをするのが最善だと明白に思っていた。
 もちろん、日常の行政レベルでは、党中央の機構は巨大な政府官僚機構と競い合うことはできなかった。-党の機構は、あまりにも小さすぎたのだ。
 しかし、地方レベルでは、党委員会とソヴェトがともに最初から設立されており、状況は違っていた。
 党委員会は内戦後に主要な地方機関として出現してきており、一方でソヴェトは、かつてのゼムストヴォと似ていなくもない二次的な役割の担当者になっていた。
 党の命令系統を通じて伝達される方針の方が、大量の布令や非協力的でしばしば混乱しているソヴェトに対して中央政府から伝えられる指示文書よりも、実施される可能性が高かった。
 政府にはソヴェトの人員を採用したり解職するしたり権能がなかった。そして、より効果的な、予算による統制も及ぼすことができなかった。
 党委員会は、これと対照的に、党の上級機関からの指示に従うという党紀律に服する党員を揃えていた。
 委員会を率いる党の書記局員は、形式上は地方党機関が選出した者たちだったけれども、実際には、党中央委員会書記局が転任させたり、交替させることができた。//
 しかし、一つの問題があった。
 党組織-中央委員会書記局を頂点とする諸委員会と幹部の階層制-は、どの点から見ても明らかに、官僚機構(bureaucracy)だった。そして、官僚機構とは共産主義者が原理的に嫌うものだったのだ。
 1920年代半ばの継承者争い(後述、p.108-111)のときトロツキーは、党官僚機構を設立して自分の政治目的のために巧みにそれを操っているとして、党総書記のスターリンを非難した。
 しかしながら、この批判は党全体に対してほとんど影響を及ぼさなかったように見えた。
 その一つの理由は、党書記局員の(選出ではなく)任命は、トロツキーが主張するほどにはボルシェヴィキの伝統から離れているものだはなかった、ということだ。すなわち、地下活動をしていた1917年以前の古い時期には、委員会はつねに、ボルシェヴィキ中央から派遣された職業的革命家たちの指導に大きく依拠していた。そして、1917年に地上に出てきたときですら、委員会が自分たちの地方的な指導性を選択する民主主義的権利を主張するのではなく、ふつうは「中央から来た幹部たち」に執拗に要請した。//
 しかしながら、より一般的な観点からすれば、ほとんどの共産党員は党組織を侮蔑的な意味での官僚機構だとは考えていなかったように思える。
 彼らにとって(Max Weber にとってと同じく)、官僚機構は明確に定義された法令と先例群を適用することによって活動するもので、高い程度の専門性と職業的な専門技術や知識への敬意という特徴ももっていた。
 しかし、1920年代の党組織は顕著な程度には専門化されておらず、(治安や軍事問題は別として)職業的専門家を尊重していなかった。
 党組織の職員は「書物を見て仕事をする」ように指導されてはいなかった。すなわち、初期には、依拠することのできる党の諸指令を集めたものは存在せず、のちには、そのときどきの党の基本的政綱の精神に対応するというよりもむしろ、かつての中央委員会の指令を示す文書にすがっている書記局員は全て、「官僚主義の傾向」があると非難されそうだった。
 共産主義者が官僚機構を欲しないと言うとき、意味しているのは、革命家の命令に対応しようとしない又は対応することのできない行政機構を欲しない、ということだった。
 しかし、それと同じ理由で彼らは、革命家の命令に対応<しようとする>行政機構を大いに持ちたかった。-革命の指導者たちからの命令を進んで受け入れて、急進的な社会変革の政策を実施する意欲のある、そういう職員がいる行政機構をだ。
 そのようなことをするのは、党組織(または官僚機構)が遂行することのできる革命的な作用だった。そして、ほとんどの共産党員は本能的に、そのことを是認していた。//
 ほとんどの共産党員はまた、「プロレタリア独裁」をする機関はプロレタリアのものであるべきだと信じていた。これが意味するのは、従前の労働者が責任ある行政の仕事に就くべだ、ということだった。
 これは、マルクスがプロレタリア独裁でもって意味させたそのものではなかったかもしれない。そして、レーニンが意図したそのものでもなかったかもしれない。
 (レーニンは、1923年にこう書いた。
 労働者は、「我々のためにより良き機構を樹立したがっているけれども、その方法を知らない。
 労働者は、それを樹立することができない。
 労働者は、そのために必要な文化をまだ発展させていない。必要なのは、文化だ」。(12))
 にもかかわらず、全ての党内論議で当然の前提にされていたのは、つぎのことだった。すなわち、組織の政治的健全さ、革命的情熱および「官僚主義的頽廃」からの自由は、労働者階級出身の幹部の割合と直接に関係している、ということ。
 階級という標識は、党組織を含む全官僚機構に適用された。
 この標識は、党自体の新規加入者にも適用された。そして、将来におけるソヴィエトの行政エリートの構成に影響を与えることになる。//
 1921年、工業労働者階級は混乱状態にあり、それと体制との関係は危機に瀕していた。
 しかし、1924年までに、経済の再生によっていくぶんかは困難が落ち着き、労働者階級は回復と成長をし始めた。
 党が数十万の労働者を党員として新規に募集する運動であるレーニン募集(Lenin Levy)を発表し、プロレタリア一体性(proletarian identity)の確約を再確認したのは、その年だった。
 この決定で暗黙に示されていたのは、労働者が行政上の仕事に就くのを促進して「プロレタリア独裁」を生み出し続ける、という確約だった。//
 労働者階級出身党員の大募集から三年後の1927年までに、共産党には一般党員および幹部を含めて総じて数百万を超える党員がいた。そのうち39パーセントは職業上は当時の労働者で、56パーセントは入党したときの職業が労働者だった。(13)
 この二つの割合の違いは、行政上のまたはホワイトカラーの仕事へと永久に移行した労働者共産党員のおおよその数を示している。
 ソヴェト権力になってから最初の10年間に入党した労働者がその後に行政的職務へと昇進する可能性は、(1927年より後の昇進を除いても)少なくとも50対50だった。//
 労働者階級の党員にとって、党組織は、政府官僚機構以上に人気のある目的地だった。その理由の一つは、労働者は党という環境の方が安心感を抱いたからであり、また一つは、教育の不足が、まあ言えば政府の財務人民委員部の課長に比べて、地方の党書記局ではさほど問題にならなかったからだ。
 1927年に、党組織で責任ある地位に就く党員の49パーセントは、従前の労働者だった。これに対して、政府やソヴェトの中の党員の対応する数字は、35パーセントだった。
 こうした乖離は、行政階層の最上位のレベルではもっと顕著だった。
 上位の政府の職務に就く党員にはほとんど労働者階級出身の者はおらず、一方で、地域の党書記たち(<oblast'>、<guberniya>や<krai>といった組織の長)のほとんど半分はかつての労働者だった。(14)
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 (11) レーニン<全集>33巻p.288。
 (12) 「より少なく。しかし、より良く」(1923年3月2日), レーニン・<全集>33巻p. 288.
 (13) I. N. Yudin, <Sotsial'naya baza rosta KPSS>(Moscow, 1973), p.128.
  (14) <Kommunisty v sostave apparata gosuchrezdenii i obshchestvennykh organizatsii. Itogi vsesoyuznoi perepisi 1927 goda>(Moscow, 1929), 25;<ボルシェヴィキ>, 1928, no.15, p.20.
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 第3節・指導者争い(The leadership struggle)。
 レーニンが生きていた間、ボルシェヴィキは彼を党指導者だと認めていた。
 にもかかわらず、党は公式には一人の指導者を持たなかった。そして、党は必ず指導者を必要とすると考えるのは、ボルシェヴィキには不快だつた。
 政治的な混乱状態があったとき、党の同志たちがレーニンは個人的な権威でもって取引しすぎると彼を強く批判するのは、聞かれないではなかった。
 そして、レーニンは通常は自分の主張を押し通そうとする一方で、追従や特別の敬意をとくに示すこと要求することはなかった。
ボルシェヴィキは、ムソリーニや彼のイタリア・ファシストについては侮蔑以外の何ももっていなかった。喜劇オペラの制服で着飾り、統領(Il Duce)に忠誠を誓う政治的には原始的な連中だと見なしていたのだ。
 その上、ボルシェヴィキは歴史の教訓を学んでおり、ナポレオン・ボナパルトが皇帝だと自ら宣言したフランス革命のようにはロシア革命を衰退させるつもりはなかった。
 ボナパルティズム-革命戦争指導者の独裁者への変化-は、ボルシェヴィキ党内でしばしば論議された危険だった。その論議では通常は暗黙のうちに、赤軍創設者であり内戦中の若い共産主義者たちの英雄だったトロツキーが示唆されていた。
 想定されたのは、いかなる潜在的なボナパルトも、奮起させる演説力と壮大な展望力をもつ、おそらくは軍服をまとったカリスマ的人物だろう、ということだった。//
 レーニンは、1924年1月に死んだ。
 しかし、彼の健康は1921年半ば以降は深刻に悪化していて、その後は間欠的にしか政治上の活動をしなかった。
 1922年5月の発作によって部分的に麻痺し、1923年3月の二度めの発作で麻痺が増大して、言葉を発する能力を失った。 
 ゆえに、レーニンの政治的な死は漸次的な過程であり、彼自身は最初の結果を観察することができた。
 政府の長としてのレーニンの責務は、三人の代行者が引き継いだ。その中では、1924年にレーニンを継いで人民委員会議の議長になった Aleksei Rykov (ルィコフ)が最も重要だった。
 しかし、明白なのは、権力の主要な中枢は政府にではなく党の政治局にあり、この政治局はレーニンを含む総員七名で成り立っていた、ということだった。
 他の政治局員は、トロツキー(戦争人民委員)、スターリン(党総書記)、ジノヴィエフ(レニングラード党組織の長・コミンテルン議長)、カーメネフ(モスクワ党組織の長)、ルィコフ(人民委員会議初代副議長(副首相))および Mikhail Tomsky (トムスキー、中央労働組合会議議長)だった。//
 レーニンが病気の間-そして実際にはその死後も-政治局は集団指導制によって活動すると公式に確言し、誰かがレーニンと交代できるとか彼と同様の権限ある地位に就きたいとかいうことを、どのメンバーも強く否定した。
 にもかかわらず、1923年には、秘やかなというよりもむしろ激しい継承者争いが進展した。ジノヴィエフ、カーメネフおよびスターリンの三人組(triumvirate)が、トロツキーに対抗したのだ。
 トロツキー-ボルシェヴィキ党への加入の遅さとそれ以降の輝かしい業績の両方の理由で、指導層から外れた風変わりな人物-は、強く否定していたけれども、最上位を目ざす野心をもつ競争者だと受け止められていた。
 1923年遅くに書いた<新しい行路>(the New Course)でトロツキーは、ボルシェヴィキ党の古き前衛たちは革命的精神を喪失し、「保守的で官僚主義的な党派主義」に屈服し、地位を保つのが唯一の関心である小粒の支配エリートのごとくますます振る舞っていると警告することで、意趣返しをした。//
 レーニンは病気のために指導者として活動できなかったが、彼の継承者になる可能性のある者たちの策略(manoeuvring)をまだ観察することができた。そして、政治局に関して同様に偏見に満ちた見方を作り上げており、それを「少数独裁制」だと描写し始めた。
 1922年12月のいわゆる「遺書」で、レーニンは、-傑出していると認めたスターリンとトロツキーの二人を含む-多様な党指導者たちの性格を概述した。そして、わずかに称賛をしつつ事実上は彼ら全員を酷評した。
 スターリンについての論評は、党総書記として巨大な権力を蓄積しているが、その権力をつねに十分な注意を払って行使しているわけではない、というものだった。
 一週間後、スターリンとレーニンの妻のNadezhda Krupskaya (クルプシュカヤ)との間でレーニン病床体制に関する衝突が生じた後で、レーニンは、スターリンは「粗暴すぎる」、総書記の地位から排除すべきだ、と遺書の最後に書き加えた。(15)//
 この時期、多くのボルシェヴィキ党員は、スターリンがトロツキーと対等の政治的評価を得ていることに驚いただろう。
 スターリンは、ボルシェヴィキが傑出した指導者にふつうは連想する資質を一つも持っていなかった。
 スターリンはレーニンやトロツキーのようには、カリスマ性のある人物でも、優れた演説家でも、抜きん出たマルクス主義理論家でもなかった。
 スターリンは英雄ではなく、労働者階級の実直な息子でも、優れた知性の持ち主でもなかった。
 Nikolai Sukhanov (スハーノフ)はスターリンの印象を「よどんだ灰色」とした。-したたかな裏工作政治家で党内活動の専門家だが、個人的な特徴のない人物だと。
 スターリンよりもジノヴィエフの方が政治局三人組の中の第一のメンバーだと、一般に想定されていた。
 しかしながら、レーニンは、たいていの者よりもスターリンの能力をより十分に評価することができた。なぜなら、1920-21年の党内闘争の間、スターリンはレーニンの右腕だったからだ。//
 トロツキーに対する三人組の闘いは、1923-24年の冬に頂点に達した。
 党内分派が公式には禁止されているにもかかわらず、状況は1920-21年のそれに多くの点で似ていた。そしてスターリンは、レーニンが行ったのと同じ戦略に多く従った。
 第13回党大会に先立つ党内議論と代議員の選挙の際に、トロツキー支持者たちは反対派として運動を行った。一方で、党組織は、「中央委員会多数派」、すなわち三人組、を支持するために動員された。
「中央委員会多数派」が勝利した。中央政府官僚機構、大学および赤軍の党細胞に、トロツキーが支持されるという空白部分があったけれども。(16)
 最初の投票のあとで、親トロツキー諸細胞に対する集中的な攻撃があり、それは、その細胞の多くが多数派へと寝返ることを誘発した。
 わずか数ヶ月のち、そのときすでに近づいている党会議に備えて1924年春に代議員が選出されていたが、トロツキーへの支持はほとんど完全に消滅していたように見えた。//
 これは基本的に、党機構のための勝利だった。-すなわち、総書記であるスターリンのための勝利だった。
 総書記は、ある研究者が「権力の循環する流出物」(circular flow)と名付けたものを操作する地位にいた。(17)
 書記局は地方党組織を率いる書記局員を任命し、望ましくない分派的傾向を示せば彼らを解任することもできた。
 地方党組織は、全国的な党の大会や会議のために代議員を選出した。そして、〔地方の党の〕書記局員が地方代議員名簿の上位へと載せられるのが、ますます一般的になっていた。
 その代わりに、党の全国的会議は、党の中央委員会、政治局および組織局-もちろん書記局の-委員を選出した。
 要するに、総書記は、政治的反対者に制裁を加えるのみならず、その職務に在任することを確認する会議をも操作することができた。//
 1923-24年の深刻な闘いによって、スターリンは、その地位を強固にすることを系統的に進行させた。
 1925年、スターリンはジノヴィエフおよびカーメネフと決裂し、この二人が侵略者のごとく見える防御的な反対者の立場へと追い込んだ。
 のちにジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーと一緒になって統一した反対派となった。スターリンは、忠実で意思の堅い仲間たち〔チーム〕の助けを借りて、これを簡単に打ち破った。-その仲間の中には、将来の政府および工業の指導者となる Vyacheslav Molotov(モロトフ)や Sergo Ordzhonikidze (オルジョニキーゼ)もいた。彼らはこのとき、スターリンの周りに結集していた。(18)
 多数の反対派支持者たちは、遠方の州の仕事へと自分たちが任命されていることに気づいた。そして、反対派の指導者たちはまだ党の諸会議に参加することができたが、反対派の代議員はほとんどいなかったので、その指導者たちは党との接点を完全に喪失した無責任な<フロンド党員>のように見えた。
 1927年、反対派の指導者と支持者たちの多くは分派主義を禁止する規約を破ったという理由で党から除名された。
 トロツキーとその他の反対派の者たちは、そのとき、遠方の州へと行政的に〔判決によらずして〕追放された。//
 スターリンとトロツキーの間の論争で対立した争点は、とくに、工業化の戦略と農民に対する政策に関してだった。
 しかし、これらの現実的な問題について、スターリンとトロツキーの考えは大きくは離れていなかった(後述p.114-6)。すなわち、二人はいずれも、農民に対する特別の優しさを持たない、工業化論者だった。1920年代半ばのスターリンの公的立場の方がトロツキーのそれよりも穏健だったけれども。
 そして、数年後にスターリンは、急速な工業化のための第一次五カ年計画についてトロツキーの政策を盗んだとして追及されることとなった。
 一般党員たちは、彼らの個人的性格のいくつかほどには、論点に関する競争者の不一致を明確に感知することができなかった。
 トロツキーは、ユダヤの知識人で内戦時に無情さと華麗でカリスマ的な指導性を示した人物だと(必ずしも好ましいものとは限らなかったが)広く知られていた。
 スターリンは、より中庸的で陰の多い人物で、カリスマ性はなく、知的でもユダヤ人でもない、と知られていた。//
 党機構とその挑戦者の間の対立にあった真の争点は、ある意味では、機構そのものだった。
 こうして、支配的な党派と元々一致していない点が何であったにせよ、1920年代の全ての反対派集団は、同じ主要な不満をもって終焉することとなった。すなわち、党は「官僚主義化」した(bereaucratized)。そして、スターリンは、党内民主主義の伝統を死滅させた。(19)
 このような「反対派」の見方は、晩年のレーニンにすら起因していた。(20) そしてそれは、おそらくある程度は正当だった。レーニンもまた、指導者層の内部から閉め出されていたのだから。但し、レーニンの場合は政治的敗北ではなくて病気が原因だったけれども。
 しかし、多くの点でスターリンの政治的師匠だったレーニンは、党機構に反対して党内民主主義という原理的考え方へと本当に変わったのだ、と理解するのは困難だろう。
 レーニンに関心があったのは権力の集中それ自体ではなく、権力が誰の手に集中されているのか、という問題だった。
 同様に、1922年の遺書でレーニンは、党書記局の権力を減少させることを提案しなかった。
 彼はただ、スターリン以外の誰かが総書記に指名されるべきだと書いたのだ。//
 やはりなお、1920年代のレーニンとスターリンの間の継続性の要素が何であろうとも、レーニンの死と継承者争いは政治的な転換点だった。
 権力を追求するスターリンは、反対派たちに対抗してレーニン主義の方法を使った。しかし彼は、-党でのその個人的権威が長く確立していた-レーニンは決して到達し得なかった完璧さと冷酷さをもってそれを使った。
 一たび権力を握ると、スターリンは手始めにレーニンのかつての役割を果たした。まず最初は、政治局でだった。
 しかし、そうしているうちにレーニンは死んで、過ちや非難を超越したほとんど神のごとき性格を与えられた指導者(the Leader)になり、その遺体は防腐処理されて恭しく、民衆を喚起するためにレーニン霊廟に安置された。(21)
 死後に生じたレーニン崇拝(Lenin cult)は、指導者なき党というかつてのボルシェヴィキの神話を打ち砕いた。
 新しい指導者が抜きん出て初代のそれ以上になることを望んだとすれば、彼には構築しておくべき基盤がすでにあった。//
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 (15) 「遺書」のテキストは、Robert V. Daniels, ed., <レーニンからゴルバチョフまでのロシア共産主義に関する資料による歴史>(Lebanon, NH, 1993)に所収、p.117-8.
 (16) Robert V. Daniels, <革命の良心>(Cambridge, MA, 1960), p.225-230.を見よ。
 (17) この語句はDaniels のものだ。明瞭でかつ簡潔な議論につき、Hough & Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかにして統治されたか>, p.124-133, p.144.を見よ。
 (18) 1920年代の分派闘争の経緯におけるスターリンのチームの形成につき、S・フィツパトリク・<スターリン・チームについて-ソヴィエト政治における危険な生活の年代>(Princeton, 2015), ch. 1.を見よ。
 (19) これは1920年代の共産党内反対派の研究であるDaniels の<革命の良心>の統一テーマだ。-このタイトルが示すように、Daniels は、党内民主主義という抗弁は反対派の固有の機能ではなくて革命的な理想主義の表現だと見なしている。
 (20) Moshe Lewin, <レーニンの最後の闘い>(New York, 1968)を見よ。
 選択しうる別の解釈につき、Service, <レーニン>, Chs. 26-28.を見よ。
 (21) レーニン崇拝の出現につき、Nina Tumarkin, <レーニンは生きている!>(Cambridge, 1983)を見よ。
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 第4章(ネップと革命の行く末)の第2節と第3節の試訳が終わった。

1823/岩波書店のロシア革命・ソ連<講座>(2017-)。

 ロシア革命とソ連の世紀(岩波書店、2017~)という<講座もの>が出版されていることは知っている。その第1巻冒頭にある「編集委員一同」による「刊行にあたって」という二頁ぶんの文書を読んで、昨秋にすでに、個々の論考をまじめに熟読する気持ちが失せている。
 ロシア革命とソ連の世紀/1・世界戦争から革命へ(岩波、2017年6月)。
 おそらく各巻冒頭に掲載されているのだろう。
 「ソ連の『革命』は無意味ではなかった」と<意味>と<無意味>の違いを判別させないままで突如として断定して、つぎのように、<ロシア革命>または<社会主義(的近代化)>には<よい面もあった>と述べている。
 どうやら、三点を列挙しているようだ。以下、できるだけ直接に引用する。
 ①「少なくとも一時的にはソ連と東欧の生活水準を大きく向上させ、先進資本主義諸国の福祉国家化を促した」。〔正確には、「…促した面がある」。〕
 ② 「旧ソ連諸国に深い影響を残し」、「中国など新たに超大国・地域大国を目指す国々には参照材料を提供し続けている」。
 ③「ソヴィエト政権の『民族自決』『民族解放』の訴えとその実現への取り組みは、植民地下にあった諸民族を鼓舞し、…大戦後の旧植民地諸国の独立に大きな影響を及ぼした」。
 こう書いている「編集委員一同」とは、つぎの6人のようだ。
 
松戸清裕、浅岡善治、池田嘉郎、宇山智彦、中嶋毅、松井康浩
 上の三点には、強い疑問をもつ。
 第一に、上の②は果たして肯定的、積極的に評価できるものなのか自体が疑わしい。
 「超大国・地域大国を目指す国々」を肯定的に評価しないかぎりは、こんな文章にならないだろう。
 結局のところ、「編集委員一同」には中国(中華人民共和国、共産中国)は積極的・肯定的に捉えられているとしか思えない。
 そうでなければ、ここにいう「参照材料」の「提供」とは、悪い影響だろう。
 第二に、いずれまたこの点はこの欄で記述してみたいのだが、上の①は<真っ赤なウソ>だろう、と感じている。
「少なくとも一時的には」と書いているが、いつ、いったいどの時期・年代に「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したことがあったのだろうか?
これを歴史的に統計的かつ実証的に明らかにできなければ、歴史学者としては失格だろう。
 上のようなことがしばしば言われてきた(現にこの講座の編集者もそう書いている)ことは承知している。
 しかし、これはソヴィエト体制側による<プロパガンダ>であったのであり、実態・実体・実際とは異なっていただろう、と想定している。
 ソ連の場合、「生活水準」が「大きく向上」したことはあったのだろうか。
 1917年の<十月革命>後にただちに<内戦>が始まり、そして<ネップ期>だ。
 一部の「ネップマン」および正確な意味での「プロレタリア-ト」階層の一部はある程度生活・経済状態が良くなったかもしれないが、国民または民衆全体を見ると決してそうではないだろう。
 では、スターリンによる農業の<強制的集団化>の時期かそれとも<大テロル>の時期かそれとも<第二次世界大戦>の時期か。
 あるいは、「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したのは第二次大戦後だった、スターリン死後の「緩和期」だったとでも言いたいのだろうか。
 北朝鮮でも一般民衆・一般国民の「生活水準」など無関係に核兵器やミサイルの開発や建設をしているのだから、いかにソ連が<宇宙競争>でアメリカに先行した時期がかりにあったとしても、一般国民の「生活水準」とは直接の関係はない、と考えられる。
 それにもともと「生活水準」に関して、ソ連や東欧諸国が対外的に発表していた資料・統計数字等々は全くデタラメだった可能性が高い。
 「労働者・貧農の天国」などは真っ赤なウソ。プロパガンダの最たるものだろう。
 資本主義国に比べて失業がない(なかった)とよく言われる(言われた)が、少なくとも事実上<仕事を割り当てられる>のであれば、つまりそういう<強制労働>体制下では、「失業」など論理的にありえないのは当然だろう。
 また、<高福祉>などとも言われる(言われた)が、そもそも、何度にもわたる飢饉による厄災に体制側の責任はなかったのか。
また例えば、生存にギリギリの生活をしているふつうの庶民に子どもを学校に通わせる潤沢な経済的余裕があるはずはない。
また、幼少期から「共産主義」教育(ひとによれば<洗脳>とも言われる)を行いたい国家・体制側が、親や保護者から教育費用をまき上げるわけにもいかないだろう。
 かりに病気治療等々が「無料」だったとしても、それは現・旧の「社会主義」国の方が「福祉」が進んでいた(進んでいる)時期があったいうことの、何の論証にもなりはしない。まさに<治安>対策としての原始的<福祉>政策だったのではないか。
 上の③もおかしい。
 別にまた書くが、ソヴィエト連邦の解体して、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ジョージア、ウズベキスタン、カザフスタン等々が、ほとんど自然に、大した混乱もなく独立国家になったというのは、つまりは、ソヴィエト連邦時代に、これらの国家を形成する「民族」の自立性が抑制されていたことの明瞭な証拠だろう。
 レーニンらの言った「民族自決権」の意味については、すでにL・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリクも論及している。
 レーニンらソ連の歴代指導者が「民族自決権」一般を承認し、それでもって第二次大戦後に独立国家が増加した、などというのは真っ赤なウソだ。
何とかロシア革命と「社会主義」の夢を守りたいという一心が、この「編集委員一同」の「刊行」の言葉にはあるようだ。
 こんなに簡単に<結論>が提示されている<講座もの>も珍しいのではないか。
 もちろん、編集委員全員が熟考し何度も検討して作成されたものではないだろう。
 日本共産党の党員かもしれない上の6名のうちの誰かが(複数でありうる)、年齢または地位を利用して他の編集代表に事実上「押しつけた」可能性はある。
 また各巻の個々の論考がこのような<所定の結論>とは関係がない、またはそのまま採用することはしていない内容になっていることはありうる。
 しかし、何といっても、岩波書店がロシア革命100周年に当たって発行した<講座>ものだ。さすがに、<岩波書店>的だ。
 あるいはそもそも、日本の<ソヴィエト学>自体が全体として<岩波的容共>だつた(である)可能性も否定できない。
 上で日本共産党という言葉を出したのは、同党はこんなことを言っているようだし、また日本共産党員らしき学者の中には、上の三点と似たようなことを「社会主義」について書いている者もいるからだ。いずれ、この点にも立ち入るつもりだ。

1822/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文②。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)。
 この邦訳書の冒頭にある著者自身による「日本語版のための序文」で、A・ブラウンはさらにこんなことも書いている。一文ごとに改行する。
 ③(第四段落冒頭)「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である、より一層意義深い理由がある。
 今日のヨーロッパには共産主義国家は一つも残っていないが、現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる
 つまり、キューバはここでは措くとして、中国、ベトナム、ラオス、北朝鮮である。
 いくつかの共通の特徴はあるとしても、共産主義は異なった時代に異なった場所で、まったく異なった現れ方を示した。
 類似点と相違点、いかに…を主要な話題として、以下のページで探っていく。」
 このあと中国と北朝鮮に関するやや立ち入った言及をしたあと、つぎのようにまとめている。
 ④「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である
 このことはとりわけ、世界最大の人口を擁し、遠からず世界最大の経済規模となる中国に当てはまる。//
 共産主義の歴史--革命と戦争、悲劇と勝利、失敗と成功、イデオロギーの信奉者と殺戮者--は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう
 アジアの近隣に共産主義国家が存在することもあって、本書は今日のための洞察を含んでおり、また、過去への省察を提供するのみならず、未来への思索を誘発するであろう。
 本書が日本語に翻訳されることは私にとって大きな喜びである。」
 ** さて、上にある次の文章を、多くの日本人はそのとおりだと感じるだろうか。
 ・「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である」意義深い理由は、共産主義国家で「現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる」からだ。。
 ・「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である」。
 ・「共産主義の歴史は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう」。
 このように言われても、**それほどではありません、共産主義がさほど重要な主題だと感じていないしアジア近隣に四つの共産主義国家が現存しているという意識もないし、共産主義の歴史がさほど興味深いものとは思っていません**、という日本人の方が、知的産業・情報産業従事者も含めて、多いのではないだろうか。
 R・パイプス、S・フィツパトリクらは、日本共産党等も含めて日本のことをほとんど知らないし、日本国内での共産主義・ロシア革命等に関する議論を知らないままで、それぞれの研究をしてきただろう。
 それはA・ブラウンも同じで、日本国内のにある「異例な」<左翼>的雰囲気を-おそらく日本語が読解できないことを決定的な理由として-知らないままで、上のようなことを書いているのだろう。
 しかし、、欧米の「共産主義」研究者からするとおそらく、上のような推測が当然に生じてくるのに違いない。
 ソ連・東欧や欧米の「共産主義」史に詳しい日本以外の研究者にとっては、上のような指摘や推測は自然または当然であって、日本人の方がむしろ違和感を覚えるのだとすると、日本人の方が<奇妙>なのではないか、と思われる。
 <共産主義の恐ろしさ>を肌感覚では理解しておらず、中国も北朝鮮も海を隔てた<遠い国>であるかのごとく捉えられているのではないだろうか。
 そもそも、中国や北朝鮮のことを「非民主主義国」とか「党独裁国家」ということはあっても、日本人は、あるいは日本のメディアや論壇者は「社会主義国家」とか「共産主義国家」などと称すること自体がまずない(なお、日本共産党は北朝鮮は「社会主義国」ではないとする)。
 欧米のメディアや論壇者と比べて、どこか感覚が麻痺しているのではなかろうか。
 それは、日本に「社会主義(・共産主義)」幻想がまだ強く残り、日本共産党の存在もあって、公然と「社会主義」・「共産主義」を批判し難い雰囲気があるからだと思われる。
 「反共」はバカな「愛国・保守」の主張であって、理性的・知的な者は<日本会議的アホ>のような主張をするはずはない、という感覚の者もいるかもしれない。「反共」ではあるらしい<日本会議的アホ>も、江崎道朗らに見られるごとく、「共産主義」に関する知識・素養がまるでないのではあるが。
 A・ブラウンの日本人向け序文を読んで感じるのは、このようなもどかしさ、不思議さだ。
 <反共産主義>あるいはその意味での<自由主義>が、おそらく知的活動者にとっての<常識>になっている国と、そうではない国(日本、おそらく韓国も)の違いだろう。
 立ち入らないが、アメリカ合衆国を含むNATO締結国であることを当然のこととしていると思われる(ソ連解体後は例えばチェコも加入した)ほとんどのヨーロッパ諸国と、日米安保や日本の自衛隊の存在自体を危険視する意識をもつ勢力がなおもある程度存在し、あるいは「抑止力」を理解していませんでしたと平気で言える首相(鳩山由紀夫)がいた国との違いだ。
 D・トランプ現大統領は、R・パイプスのぶ厚い研究書を読んでいないかもしれない。
 しかし、この大統領も、R・パイプスの<共産主義の歴史>という一般人向けの簡潔な本くらいは読んでいて、<反共産主義>の基礎的な知識・常識くらいは持っているだろう。
 基礎的な知識・常識あるいは感覚レベルで、日本には独特の<雰囲気>があるようだ。
 いいも悪いもなく「現実」なのだから受忍する他はないが、このように指摘する者がいてもいけないということはないだろう。

1821/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑫。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第12回
 第4章。
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 日本共産党2004年綱領「三」〔章〕の「(八)」〔節〕は、次のように述べる。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、1917年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。//最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されたしかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて…」。
 また、不破哲三著にそのまま依拠する志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)は以下の趣旨を記述する。「」は直接の引用。
 ・レーニンは内戦勝利によって、「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった。
 ・「新しい時期」に入って、1921年3月に「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じたりして、「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられ、レーニンは「経済政策の大転換を始め」た。
 ・1921年3月に開始され、のちに「新経済政策(ネップ)」と呼ばれる政策は、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行を図るものだったが、農民に残る「余剰」部分の処理という「大問題」が生じて、それは「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・1921年10月にレーニンは「モスクワ県党会議」での報告で、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」、「本格的な転換」に踏み切った。つまり、「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ。
 ・レーニンはネップ期に「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいは、そういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」
 以上、p.174-8。
 なお、不破哲三らによると、この「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアに限らない、世界的に普遍的で不可避の<路線>だとされる。
 スターリンに対する日本共産党の悪罵は引用しないが、S・フィツパトリクの2017年版の著の試訳部分のうち、日本共産党の上の記述と最も対応する時期に関する記述は、おそらく今回試訳部分または今後の数回部分だろう。
 現在の日本共産党によるロシア革命とレーニンに関する「歴史認識」と叙述は事実・「真実」に沿っているのか、それともこの党は歴史の単純化と<政治的捏造>を平然と行っているのか。
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 第4章・ネップと革命の行く末(NEP and the Future of the Revolution)。
 (はじめに)
 ボルシェヴィキは内戦で勝利して、行政の混乱と経済の荒廃という国内問題に対処することを迫られた。
 町々は飢えて、半分空っぽだった。
 石炭生産は破滅的に落ちこみ、鉄道は止まり、産業はほとんど静止状態だった。
 農民たちは、食糧徴発(food requisitioning)にきわめて憤激していた。
 収穫のための種蒔きは落ち込み、干魃が二年続いて、ヴォルガ地帯その他の農業地域には飢餓が迫ってきた。
 1921-22年での飢饉と流行病による死者数は、第一次大戦と内戦での死傷者の総合計数を上回った。
 革命と内戦の数年間に、およそ200万の人々が国外へと亡命し、ロシアの教養あるエリートたちの多くがいなくなった。
 積極的な人口配置上の進展は、数十万人のユダヤ人たちの群れの移住だった。彼らの大多数は、首都の区画に定住していた。(1)//
 赤軍には500万人を超える男たちがいた。そして、内戦が終わるとは彼らの多くが除隊されることを意味した。
 この動員解除は、ボルシェヴィキが予想していたよりもはるかに、困難な仕事だった。すなわち、十月革命後に新体制が建設しようとしたものの多くの部分を分解することを意味した。
 赤軍は、内戦と戦時共産主義経済の時期でのボルシェヴィキの行政の脊柱部分だった。
 さらに、赤軍の兵士たちは、国の最大の「プロレタリア」の一団を成していた。
 プロレタリア-トは、ボルシェヴィキが選んだ社会的支持の基盤だった。そして、ボルシェヴィキは、現実的な目的をもってプロレタリア-トを、ロシアの労働者、兵士と海兵および貧農だと定義していた。
 今や兵士と海兵集団の大部分が、消失しようとしていた。
 そして、さらに悪いことに、除隊された兵士たちは-職を失い、飢えて、武装し、交通の遮断によって故郷から遠い場所で立ち往生し-、騒擾を引き起こした。
 1921年の初めの月々までに200万人以上が除隊して、革命のための戦闘員が一夜にして盗賊団に変わるのを、ボルシェヴィキは見た。//
 工場にいる核心的プロレタリア-トの運命もまた、同様に警戒すべきものだつた。
 工業の閉鎖、軍事徴用、行政の業務への昇格、そしてとりわけ、飢餓を理由とする都市からの逃散によって、工業労働者の数は、1917年の360万人から、1920年には150万人に減少した。
 こうした労働者の大部分は、村落へと戻った。そこには、家族がまだいて、彼らは村落共同体の一員として小土地(plots)を受け取った。
 ボルシェヴィキには、村落にいる労働者の数の多さが、あるいは滞在期間の長さが、分からなかった。
 労働者たちはおそらく農民層に吸収されてしまい、都市にはもう帰ってこないだろう。
 しかし、長期的見通しはともあれ、直近の状況は明瞭だつた。すなわち、ロシアの「独裁階級」の半分以上が消え失せたのだ。(2)//
 ボルシェヴィキは元々は、ヨーロッパのプロレタリア-トによるロシア革命に対する支援を計算に入れていた。彼らは第一次大戦の終末期にはまさに革命を起こす準備をしているように見えていたのだ。
 しかし、ヨーロッパでの戦後の革命運動は弱体化し、ソヴィエト体制は、永続的な同盟者だと見なし得るようなヨーロッパでの仲間を全くもたずして、取り残された。
 レーニンは、外国からの支援がない状況ではボルシェヴィキがロシア農民層からの支持を獲得することが致命的に重要だ、と結論づけた。
 だが、食糧徴発と戦時共産主義のもとでの市場の崩壊によって農民たちは離反しており、いくつかの地域では彼らは公然たる反乱を起こした。
 ウクライナでは、Nestor Makhno(マフノ)が率いる農民軍がボルシェヴィキと戦っていた。
 ロシア中心部の重要な農業地域であるタンボフ(Tambov)では、農民の反乱が起こり、5万人の赤軍兵団の派遣によってようやく鎮圧された。(3)//
 新体制に対する最悪の衝撃は、1921年3月にやって来た。その月、ペテログラードで労働者のストライキが勃発した後で、近郊のクロンシュタット(Kronstadt)海軍基地の海兵たちが反乱を起こした。(4)
 クロンシュタット海兵たち(Kronstadters)は、1917年七月事件の英雄で、また十月革命のときのボルシェヴィキの支援者であって、ボルシェヴィキの神話からするとほとんど伝説的な人物群になっていた。
 彼らは今は、ボルシェヴィキの革命を否認し、「人民委員の恣意的な支配」を非難し、労働者と農民の真の(true)ソヴェト共和国の建設を呼びかけた。  
 クロンシュタット蜂起が起きたのは、〔ボルシェヴィキ/共産党〕第10回党大会が開催中のことだった。そしてかなりの数の代議員たちは、蜂起と戦って鎮圧するために突如として赤軍とチェカ兵団の先鋭部隊に加わるべく、退場しなければならなかった。
 この事態はほとんど劇的なものではなかったし、ボルシェヴィキの意識の中にさほど強く刻み込まれたわけではなかった。
 ソヴィエトの新聞は、蜂起はエミグレ(亡命者)たちが引き起こし、見知らぬ白軍将校たちが指導した、と主張した。不愉快な真実を隠そうとする最初の重要な努力だったと思える。
 しかし、第10回党大会で広まった噂は、違うことを告げていた。//
 クロンシュタット蜂起は、労働者階級とボルシェヴィキ党の間の、進む途の象徴的な別離であるように見えた。
 労働者は裏切られたと考えた者たち、党が労働者に裏切られたと感じた者たち、いずれにとっても悲劇だった。
 ソヴィエト体制は初めて、その銃砲を、革命的プロレタリア-トに対して向けた。
 さらに、クロンシュタットの悪夢はほとんど同時に、革命にとってのもう一つの厄災とともに生じていた。
 モスクワのコミンテルン指導者によって励まされたドイツ共産党は、革命の蜂起を試み、惨めな失敗を喫した。
 その敗北は、最も楽観的なボルシェヴィキですらがヨーロッパ革命は接近しているという望みを打ち砕かれることを意味した。
 ロシア革命は、自分だけの支援なき努力でもって、生き延びていかなければならないことになった。//
 クロンシュタットとタンボフの反乱は政治的不満はもちろんのこと経済的なそれによっても火を注がれていて、戦時共産主義政策に代わる新しい経済政策の必要性を痛感させた。
 1921年春に採択された最初の一歩は、農民の生産物の徴発を終わらせ、現物税〔食糧税〕を導入することだった。
 これが実際に意味したのは、国家は農民が手放せる全ての物ではなくて一定の割合で奪う、ということだった(のちに1920年代前半に通貨が再び安定した後ではいっそう、現物税は在来的な金銭税になった)。//
 食糧税は農民に市場に出せるかなりの余剰を生むと想定されたがゆえに、つぎの論理上の歩みは、合法的な私的取引の再復活を許して、繁茂しているブラック市場を閉鎖しようとすることだった。
 レーニンは、1921年春、取引の合法化に強く反対していた。共産主義の原理を否認するものだと考えたからだ。しかし、最終的には私的取引の自然の復活(しばしば地方当局は是認した)がボルシェヴィキ指導部に対する既成事実(fait accompli)となり、指導部も受け容れた。
 こうした歩みが、頭文字をとってNEP(ネップ)として知られる新しい経済政策の始まりだった。(5)
 これは絶望的な経済情況に対する即興的な反応であり、元々は党とその指導部によってほとんど議論されることなく(またほとんど明確な反対もなく)採用された。
 経済に対する影響の良さは、急速でありかつ劇的だった。//
 経済の変化は、さらに続いた。遡及して「戦時共産主義」と称され始めた諸制度が、全般的に放棄されるに至ったのだ。
 産業については、完全な国有化への動きは放棄され、私的部門の再構築が許された。大規模工業と融資業を含む経済の「管制高地」の支配権は国家が維持したけれども。
 外国の投資者が、工業や鉱山企業および開発プロジェクトに関する免許(concessions)を取得するようにと招かれた。
 財務人民委員部と国有銀行は、かつての「ブルジョア」財務専門家の助言に注意を払い始めた。彼らは、通貨の安定と政府および公共部門の支出の制限を求めた。
 中央政府の予算は厳しく削減され、徴税による国家歳入を増大させる努力がなされた。
 以前は無料だった学校教育や医療は、今や個々の利用者が対価を支払うことになった。
 老人の年金や療養給付および失業給付を利用することは、拠出金の基盤にかかわることとして制限された。//
 共産主義者の観点からすれば、ネップは退却(retreat)であり、失敗を部分的に認めることだった。
 多くの共産主義者は、大きな幻滅を感じた。すなわち、革命はほとんど何も変えなかったように見えた。
 1918年以降の首都でありコミンテルン司令部の所在地であるモスクワは、ネップの最初の年月に再び活力に充ちた都市になった。外見的な印象だけではまだ1913年のモスクワだったけれども。農民女性が市場でジャガ芋を売り、教会の鐘や髭を生やした僧侶が信者たちを呼び集め、街頭や駅舎では娼婦、乞食やスリが活動し、ナイトクラブではジプシー歌が流れ、制服姿のドアマンが紳士たちへとその帽子を取り、劇場に行く者は毛皮をまとって絹の靴下を履いていた。
 このモスクワでは、皮ジャケットの共産党員たちは物憂げな外部者のように見え、赤軍退役者は職業安定所の行列に並んでいそうだった。
 クレムリンやホテル・ルクセにばらばらに集まった革命のリーダーたちは、不吉な予感をもって革命の行く末に向かいあっていた。//
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 (1) 1912年と1926年の間に、モスクワとレニングラードのユダヤ人の人口は4倍以上に増大した。そして、同様の規模の増加がウクライナの諸首都、キエフやハルコフ(Kharkov)でもあった。Slezkine, <ユダヤ人の世紀>, p.216-8 を見よ。
 (2) 消失しつつある労働者階級につき、D. Koenker, <ロシア革命と内戦時の都市化と脱都市化>, D. Koenker, W. Rosenberg & R. Sunny, eds, <ロシア内戦時の党、国家および社会>所収、およびS・フィツパトリク「ボルシェヴィズムのディレンマ-党の政治と文化における階級問題」S・フィツパトリク・<文化の前線>(Ithaca, NY, 1992)所収、を見よ。
 (3) Oliver H. Radkey, <ソヴェト・ロシアの知られざる内戦>(Stanford, CA, 1976), P.263.
 (4) Paul A. Avrich, <クロンシュタット>(Princeton, NJ, 1970)およびIsrael Getzler, <クロンシュタット・1917-1921年>(Cambridge, 1983)を見よ。
 (5) ネップにつき、Lewis H. Siegelbaum, <革命の間のソヴェト国家と社会-1918-1929年>(Cambridge, 1992)を見よ。
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 第1節・退却という紀律(The disciplin of retreat)。
 レーニンは、こう語った。ネップという戦略的退却は、絶望的な経済状態と革命がすでに勝ち得ていた勝利を確固たるものにする必要性によって強いられた、と。
 その目的は、疲弊した経済を回復させ、非プロレタリア国民の不安を鎮静化することだった。
 ネップは、農民層、知識人層および都市の小ブルジョアに対する譲歩を意味した。すなわち、経済や社会的、文化的生活に対する統制の緩和、社会全体に対する共産主義者の対処の仕方のうちにあった実力的強制の要素を宥和に代えること。
 しかし、レーニンには完全に明白なのは、この緩和は政治的分野にまで及ぼすべきではない、ということだった。
 共産党の内部では、「紀律に対するきわめて微少な抵触であっても、厳しく、断固として、容赦なく罰せられなければならない」。彼は、以下のように述べた。//
 『軍隊が退却するときには、それが前進しているときの百倍もの紀律が必要だ。前進している間は、誰もが押し合って前にかけて行くからだ。
 誰もが今、急いで後退し始めるならば、災厄の発生はすぐでかつ不可避的になるだろう。<中略>
 本物の軍隊が退却するときは、機関銃を据えつける。そして、秩序立った退却が無秩序な退却になってしまうときには、銃を撃てとの命令がくだされる。そしてそれも、全く正当なことだ。』
 その他の政党に関しては、彼らの見解を公的に発表する自由は、内戦の間以上に厳しくすら制限されなければならない。とくに、ボルシェヴィキの新しい立場は自分たちのものであるように主張しようとするならば。
 『あるメンシェヴィキが「諸君はいま退却している。私はこれまでいつも退却を主張してきた。私は諸君に同意する。私は諸君の仲間だ。一緒に退却しよう」と言うならば、我々は答えてこう言う。
 「メンシェヴィズムを公然と表明する者には、我々の革命裁判所は死刑の判決を下さなければならない。もしそうでなければ、革命裁判所は我々の裁判所ではなく、神が知るようなもの〔訳の分からないもの〕だ」、と。』(6)//
 ネップの導入に伴って、メンシェヴィキ党中央委員会委員の全員を含めて、数千人のメンシェヴィキ党員が逮捕された。
 1922年には、エスエルの右翼派が国家反逆罪で公開の審問にかけられた。
 そのうちのある範囲の者たちには、死刑判決が下された。死刑判決は実施されなかったように思われるけれども。
 1922年と1923年、数百人の著名なカデット党員とメンシェヴィキ党員が、ソヴェト共和国から出国することを強いられた。
 統治する共産党(今でも通常はボルシェヴィキと呼ばれた)以外の全ての政党が、この時点以降、事実上は非合法のものになった。//
 現実的なまたは潜在的な政治的反対派を粉砕しようとのレーニンの意欲は、1922年3月19日の政治局あて秘密書簡でもって、衝撃を受けるほどに明らかにされている。その文書で彼は、飢饉によって提供された正教会の力を破壊する機会を同僚たちが利用することを強く要求した。
 『飢餓にある地域の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を収奪する〔そして名目上は飢えた人々に分ける〕運動(campaign)によって暴力的示威活動が刺激されて生じたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンはこう結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と。//
 『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒の百人組を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない。
 その都市だけでもモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけでもなく、…反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちをその理由によって処刑することを我々がより多く達成すればするほど、それだけ結構なことだ。
 我々は今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』(7)//
 同時に、共産党<内部>の紀律の問題が、再検討されていた。
 ボルシェヴィキはもちろん、つねに党の紀律を重視してきていた。それは、レーニンの1902年の冊子<何をなすべきか>にまで溯る。
 ボルシェヴィキたちは全員が、民主集中制の原理を受け入れた。その原理は、党員は政策決定に至るまでは自由に議論することができるが、党大会または中央委員会で一たび最終的な票決がなされればその決定を受容するよう拘束される、というものだった。
 しかし、民主集中制原理それ自体は、内部的な議論に関する党の慣例を明瞭に決定するものではなかった。-どの程度の議論が許容され、どの程度厳しく党指導者たちを批判することができ、その批判は特定の論点に関する「分派」または圧力集団を組織してよいのか、等々。//
 1917年以前では、多くの実際的目的はあったが、党内論争はボルシェヴィキ知識人層の中のエミグレ集団の内部での論争を意味した。
 レーニンが圧倒的な地位を占めたために、ボルシェヴィキのエミグレたちは、メンシェヴィキやエスエルのそれよりもはるかに一体的で均質的だった。これらの者たちには、それぞれの個々の指導者と政治的帰属意識をもつ多数の小集団で群れをなす傾向があった。
 レーニンは、ボルシェヴィキの中でそのようなものが形成されることに強く抵抗した。
 もう一人の有力なボルシェヴィキの人物だった Aleksandr Bogdanov (ボグダノフ)は、1905年後の亡命者たちの中に彼の哲学的および文化的考え方を支持する弟子たちの集団を作り始めたが、そのときレーニンは、ボグダノフと彼の集団がボルシェヴィキ党から離脱するように強いた。その集団は現実には、政治的分派も党内反対派も形成してはいなかったけれども。//
 二月革命後に、状況は急激に変化した。以前よりも多様な党指導者たちの中にエミグレと地下のボルシェヴィキの一団が出現し、全党員たちに大きな影響を与え始めた。
 1917年、ボルシェヴィキは党の紀律よりも革命の波に乗ることを重視した。
 党内の多くの党員とグループは、十月の前でも後でも、重要な政策上の論点についてレーニンに同意しなかった。そして、レーニンの意見がつねに優勢であるのではなかった。
 ある範囲のグループは、半永続的な党内集団を固めていた。それらの基本的主張が、中央委員会または党大会の多数派によって拒否されたあとでもなお。
 少数派集団(多くは旧ボルシェヴィキの知識人で成る)はふつうは、1917年以前ならばしたように党を離れることはなかった。
 彼らの党は今や、事実上の一党国家で権力を有していた。そのゆえに、党を離れることは政治生活をすべて止めてしまうことを意味した。//
 しかしながら、、このような変化にもかかわらず、党の紀律と組織に関するレーニンの理論的な前提命題は、内戦が終わるまでなおもボルシェヴィキのイデオロギーだった。そのことは、モスクワに本拠をおく新しい国際的共産主義者組織であるコミンテルンをボルシェヴィキがどう操縦したか、からも明白だった。
 1920年に第2回コミンテルン大会がコミンテルンへの加入条件を討議したとき、ボルシェヴィキ指導者たちは明らかに1917年以前のロシアのボルシェヴィキ党をモデルにした条件を課すよう強く主張した。このことが大きくて人気があったイタリア社会党を排除し、ヨーロッパでの再生社会主義インターの対抗者としてのコミンテルンを弱くするものであったとしても(イタリア社会党は、その右派および中央派集団を追放しないでコミンテルンに加入するのを望んでいた)。
 コミンテルンが採択した加入のための「21条件」は、事実上、つぎのことを要求するものだった。すなわち、コミンテルンを構成する諸党は高い使命感をもつ革命家のみを党員とする極左の少数派であるべきで、残るその党が「改良主義」の中心部や右派から明瞭に分かれる(1903年でのボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂と同様の)分裂によって形成されることが望ましかった。
 一体性、紀律、非妥協性および革命的職業人主義は、敵対者がいる環境の中で活動する全ての共産党の本質的な性格だった。//
 もちろん、これと同じ考え方がボルシェヴィキ自体にそのまま適用されたわけではなかった。ボルシェヴィキはすでに権力を掌握していたからだ。
 一党国家での支配党は、第一に、大衆政党にならなければならない。第二に、多様な意見に適応し、それらを組織化すらしなければならない。
 これは実際に、1917年以降のボルシェヴィキ党に生じたことだった。
 党内集団が特定の政策的論点に関して党指導層の中で発展し、(民主集中制原理に反して)最終の票決後ですら存在を保ち続けた。
 1920年までに、労働組合の地位に関する当時の論争に関与した党内諸集団は、巧く組織された集団となり、矛盾し合う政策基盤を提示したのみならず、第10回党大会に先立つ議論と代議員選挙の間には地方の党委員会の支持を得るための働きかけ活動(lobby)も行った。
 言い換えると、ボルシェヴィキ党は、それ自身の範型の「議会制」政治を発展させていた。党内集団が、複数政党システムでの政党の役割を果たしていたのだ。//
 西側ののちの歴史研究者-そして、リベラルな民主主義の価値観もつ外部からの観察者の-立場からは、これは明らかに称賛されてよい進展であり、良い方向への変化だった。
 しかし、ボルシェヴィキは、リベラルな民主主義者ではなかった。
 ボルシェヴィキの党員たちの中には、党が分解していて、目的をもつ一体性と方向意識を喪失しているのではないかという相当の懸念があった。
 レーニンは確実に、党内政治の新しい様式を是認しなかった。
 第一に、労働組合論争-内戦後にボルシェヴィキが直面している重大で切迫した問題に比べて全く末梢的な論争-によって、莫大な量の指導者たちの時間とエネルギーが奪われた。
 第二に、党内集団は、明らかに、党におけるレーニンの個人的な指導力に挑戦している。
 労働組合論争での一つの党内集団を率いたのは、トロツキーだった。彼は、比較的に新しい入党だったにもかかわらず、レーニンに次ぐ党内の大物だった。
 別の党内集団である「労働者反対派」は、Aleksandr Shlyapnikov (シュリャプニコフ)に率いられて、労働者階級党員との特別の関係を強く主張した。この主張は、レーニンが率いるエミグレ知識人層から成る指導部の古い中核部分には、潜在的にはきわめて有害なものだった。//
 かくしてレーニンは、党にある党内集団(factions, 分派)と分派主義を破滅させることを開始した。
 これをするためにレーニンが用いた戦術は、分派的(factional)であるのみならず完全に陰謀的なものだった。
 Molotov (モロトフ)とレーニン派の若きアメリカ人党員の Anastas Mikoyan(ミコヤン)はのちに、1921年初めの第10回党大会に際して作戦を開始したレーニンの熱意と思い入れを描写した。その作戦とは、レーニン支持者の秘密会合を開き、反対分派に言質を与えている大きな地方の代議員を分裂させ、中央委員会の選挙で否決されるべき反対派の者たちの名簿を作成する、といったものだった。
 レーニンは、こっそりとビラを撒くために「タイプライターや手動印刷機をもつ、地下にいる古き共産主義者同志」を呼び込もうとすら欲した。-この秘密のビラ配布という考えは、分派主義だと解釈されうるという理由でスターリンが反対した。(8)
 (こうしたことは、レーニンがかつての陰謀的な習癖へと立ち戻った初期のソヴィエト時代だけのことではなかった。
 モロトフが内戦の暗鬱な時期だと思い起こしたのは、レーニンが指導者たちを召集して、ソヴィエト体制の崩壊が近づいていると告げた、ということだった。
 出所が虚偽の文書と秘密の住所録がその指導者たちに用意されていた。その文書には「党は地下に潜るだろう』とあった。(9))//
 レーニンは第10回党大会で、トロツキー派と労働者反対派を打ち負かした。そして、新しい中央委員会でのレーニン派の多数派を確保し、トロツキー派の二人の中央委員会書記局員に代えてレーニン派のモロトフを指名した。
 しかし、これで全てでは、決してなかった。
 党内集団の指導者たちを突然に驚かせた動議をレーニン派集団が提案して、第10回党大会は、「党の一体性(統一)について」という決議を承認した。それは、現存している党内集団に解散を命令し、党内部での全ての分派活動をそれ以上することを禁止するものだった。//
 レーニンは、党内集団(分派)の禁止は一時的なものだと述べた。
 これは正直なものだった、と想像できるかもしれない。しかし、分派の禁止が党で承認されないことが分かった場合の逃げ道を自分のためにたんに用意していたにすぎない、ということの方がありえそうだ。
 実際に生じたように、そのようなことではなかった。すなわち、党全体が、一体性(統一、団結)のために党内集団(分派)を消滅させるつもりであるように見えた。おそらくは、党内分派は一般党員にまで深く根づいておらず、多くの党員にはそれは知識人である<先進党員(frondeurs)>の特権だと考えられていたがゆえに。//
 「党の一体性」決議は、頑固な分派主義者を党が除名し、分派主義という罪を犯したと判断する被選出委員を中央委員会が排除することを認める秘密条項を含んでいた。
 しかし、党政治局はこの条項をかなり疑っていた。そして、レーニンが生存中は、これは形式的には発動されなかった。
 しかしながら、1921年秋、レーニンが主導して、大規模な党の粛清〔purge, =党員再審査〕が行われた。
 これが意味したのは、党員であり続けるために、全党員が粛清委員会の前に出廷して革命家としての適性を正当化し、必要があれば批判から自分を防御しなければならない、ということだった。
 この1921年の党粛清について言われた主要な目的は、「出世主義者」や「階級敵」を見つけ出して排除することだった。つまり、形式上は、敗北した党内集団の支持者だった者に向けられてはいなかった。
 レーニンは、それにもかかわらず、「ほんの僅かでも疑念があり信用を措けない全てのロシア共産党員は、…排除されるべきだ」(すなわち、党から除名(expell)されるべきだ)ということを強調した。
 T. H. Rigby が論評するように、無価値で不用だと判断された全党員のほとんど25パーセントの中に反対集団の者たちはいなかった、と信じるのは困難だ。(10)//
 この粛清で、著名な反対派の者は党から除名されなかった。その一方で、1920-21年の反対派党内集団の一員たちは、全員が制裁を免れたのではなかった。
 この当時にレーニン派の一人が長だった中央委員会書記局には、党組織員の任命と配置の職責があった。
 そして、モスクワから遠方に囲い込む指示書にもとづいて多くの労働者反対派の者たちを派遣するに至り、そうして、指導者層内の政治に積極的に関与するのを事実上排除した。
 指導部の一体性を確保するためのこのような「行政的手法」は、のちにスターリンが、1922年に党の総書記(General Secretary)(すなわち、中央委員会書記局の長)になった後で、大いに発展させた。
 研究者たちはしばしば、これをソヴィエト共産党における党内民主主義の本当の弔鐘(死滅の標し)だと見なしてきた。
 しかし、これはレーニンが創始し、第10回大会での闘争から発生した実務だった。そのとき、レーニンはまだ主人たる戦略家であり、スターリンとモロトフはレーニンの忠実な子分(henchmen)だった。//
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 (6) レーニン「第11回党大会に対する中央委員会の政治報告」(1922年3月), レーニン・<全集>(Moscow, 1966), 33巻p.282。
 (7) Richard Pipes, ed., <知られざるレーニン>, Catherine A. Fitzpatrick訳(New Haven, 1996), p.152-4.
 (8) A. I. Mikoyan, <Mysli i vospominaniya o Lenine>(Moscow, 1970), p.139.
 (9) <モロトフは回顧する>, Resis 訳, p.100.
 (10) Rigby, <共産党の党員>, p.96-100, p.98.
 地方レベルでの1921年党粛清に関する生々しい再現として、F. Gladkov, <セメント>, A. S. Arthur & C. Ashleigh 訳(New York, 1989), Ch. 16.を見よ。
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 *上の注(6)に関する試訳者・秋月の注記。これは日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会/ロシア共産党中央委員会の政治報告/3月27日」p.287に邦訳があり、これを参照しつつ、ある程度は変更した。
 また、これの上の箇所(注番号はない)の原文引用部分は、レーニン・日本語版全集同巻「同」p.286を参照して訳した。但し、ある程度は内容が異なると思えるので、日本語版全集上掲p.286頁の訳をそのまま以下に引用して紹介しておく。
 「攻撃のばあいには、規律がまもられないでも、みなが押し合って、まえにかけて行く。退却のばあいには、規律は自覚的なものになければならず、百倍もの規律が必要である。というのは、全軍が退却するときには、<中略>。このばあいには、わずかの狼狽の声があげられただけで、全員が潰走することさえ、ときどきある。<一文、略>本物の軍隊でこういう退却がおこると、機関銃をすえつける。そして、正常な退却が無秩序な退却になっていくと、『撃て!』との命令がくだされる。そして、これは正当である。」以上。
 **上の注(7)の<秘密書簡>部分は、R・パイプス著の方から逆に接近して、この欄の2017年4月1日付・№1479「レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32」ですでに訳出している。今回は、訳をある程度、変更した。
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 第4章(ネップと革命の行く末)のうち、「はじめに」と第一節(退却という紀律)が終わり。
 なお、「退却」=retreat は後退・譲歩とも訳される。しかし、レーニンらは<軍事用語>に模して使っているので、より軍事・戦闘用語的な「退却」が適切だろう。

1820/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文①。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 この邦訳書の原書はつぎで、その下に挙げる、ドイツ語訳書もある。
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)
 =Archie Brown, Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein, 2009)
 これらの原書、独訳書には(当然だが)ない著者自身による「日本語版のための序文」というのが、上掲の邦訳書の冒頭に付いている。
 英国人研究者であるA・ブラウンが共産主義と日本や日本共産党との関連について言及していて、秋月瑛二にはすこぶる興味深い。
 英国の一研究者による共産主義と日本の関係の理解そのものもそうだ。しかしさらに、日本人と日本の「知識人」または知的産業従事者たちはどの程度に、このA・ブラウンの指摘または言明に共感するのか、またはそれらと同様の感覚を共有しているのか、かなりの程度の疑問を感じるからでもある。
  いくつかの点をそのまま引用しつつ、若干の感想、コメントを記したい。一文ずつ区切る。
 ①(冒頭すぐ)「共産主義は日本にとっても大きな意義を持っていた。
 たとえこの国が共産主義の支配下に入る可能性はほんのわずかもなかったとしても、である。
 第二次世界大戦後の全期間を通じて、ソヴィエト連邦からの脅威があったし、中国への不安が日本外交に影響を与えた。
 潜在的な共産主義からの攻撃に対する不安こそ、アメリカ合衆国との緊密な外交関係と軍事的協力の主要な理由であった
。」
*この四つめの文の意味を理解できないか、共感できない人々が日本の「左翼」には今でもいるに違いない。
 対等な「関係」や「協力」ではなくて「対米従属」ではないかという論点はさておき、 「潜在的な共産主義からの攻撃」、つまりかつてのソ連、中国、北朝鮮等、現在の中国・北朝鮮等による「潜在的な」または顕在的な攻撃に対する不安・恐怖を示す以上に<アメリカ帝国主義>あるいは<覇権主義・アメリカ>を批判し、攻撃する心性の人々が日本にはまだ相当数存在していると思われる。
 簡単にいって、<左翼>であり、スターリンは別としてもレーニンまたは少なくとも<マルクス>には幻想を持っている人々だ。
 ②(第三段落冒頭)「ヨーロッパで共産主義が崩壊したとき、たいていの共産党は崩壊するか、社会民主主義政党として再出発した。
 日本では、…、共産党がその党名を保ち、議会に代表を有しているという点でやや異色である

 しかしながら、…、議席ははるかに少なくなっている。
 とはいえ、日本共産党はかつてヨーロッパや北米の共産主義研究者の注目を集めていた。
 …『ユーロ・コミュニズム』として知られる改革派傾向の一翼を担ったからである。<一文略>
 地理的な隔たりがあったにもかかわらず、日本共産党はイデオロギー的に、モスクワのソビエト正統派の守護者ではなく、改革に取り組みつつあったイタリア共産党やスペイン共産党に接近したのである」。
 *上の第一・第二文のような認識・感覚を日本の多くの人または日本共産党員およびその支持者たちが有しているかは、疑わしいだろう。
 日本にまだ「共産党」が存続していることは「やや異例」だとされる。但し、私にいわせれば「かなり異例」、または少なくともふつうに「異例」なのだ。
 共産主義とか「共産党」の意味それ自体にかかわるが、この問題は、日本共産党は「共産主義」を実質的には捨てたとか、カウツキーの路線にまで戻ったとかの論評でもって無視することはできないはずだ。
 なぜなら、現在の日本共産党は今でも<ロシア革命>と<レーニン>をの積極的意味を否定していないし、自分の存在の根本である1922年に存在した<コミンテルン>の意味を否定しているわけでもない。そして「社会主義・共産主義」の社会を目指すと、綱領に公然と明記しているのだ。
 但し、著者も現時点のこととして書いているのではないだろうが、上の後半のように「ユーロ・コミュニズム」の一環、イタリアやスペインの共産党と似た類型の党として現在の日本共産党を理解することはできないだろう。すでに「ユーロ・コミュニズム」なるものはおそらく存在せず、少なくともイタリアでは1991年のソ連解体後すみやかに(当時にあつた)イタリア共産党は存在しなくなったからだ。
 日本に「共産党」と名乗る政党が存在し続け、国会に議席まで有していることの不思議さ・異様さを、より多くの日本人が意識しなければならない、と思われる。
 **関連して、<左翼のお化け>のような感が(私には)する和田春樹は、つぎのように2017年に発言していた。
 和田春樹「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しいのですが、それは元をたどればコミンテルンの影響が強かったことに起因しています」。
 現代思想2017年10月号/特集・ロシア革命100年(青土社)p.48。
 江崎道朗が2017年8月著でいう「コミンテルンの謀略」とは中身を見ると、要するに「共産主義(者)の(日本への)影響」ということなのだが、そんなことくらいは、知的関心のある日本人なら誰でも知っていたことで、珍しくも何ともない。
 ゾルゲがソ連の赤軍の「スパイ」で尾崎秀実が日本国内で工作員として働いたことくらいは日本史または共産主義に関心をもつ者ならば誰でも知っていることだ。そして、尾崎秀実の法廷での最終陳述書等もまた、戦後にとっくの昔に公表・公刊されている。
 (江崎道朗が2017年8月になってゾルゲや尾崎秀実がしたことを確認したとしても、何の新味もないだろう。それとも、江崎は自力で?新資料でも発掘したのだったのだろうか。)
 戻ると、日本の「左翼」の和田春樹もまた、(江崎道朗とは異なる意味での)「コミンテルン」の日本に対する影響の、現在にまで残る強さを認めているのだ。また、「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しい」ことも、つまりは日本の「異例」さも認めている。
 上に引用部分にはないが、和田春樹は「日本共産党」にも言及する。しかし、江崎道朗は、少なくとも戦後の共産主義や日本共産党への論及はパタリと止めて<逃げて>いる。
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  アーチー・ブラウンによる「日本語版のための序文」には、あと少し紹介・コメントしたい部分がある。

1819/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑰。

 レーニンに関する記述のうち、その範囲は不明確だが、つぎの書物は、「…を参考に、レーニンの生い立ちを見てみよう」と明記している(p.45)。少なくともレーニンの「生い立ち」について、「参考」文献を一つだけ挙げているわけだ。その文献を、つぎの書物名の下に記す。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 クリストファ・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)。
 この岩波新書は、先だってその文章をこの欄でとり上げたクリストファ・ヒル(Christopher Hill)の若い頃の書物の邦訳書だ。
 のちに1994年になって、ソ連解体後にこのCh・ヒルがどのような文章を書いていたかは、江崎道朗著による「参考」の仕方と直接の関係はない。ただ、「1945-46年に」執筆して1947年に(英米語で)出版したときの基礎的な考え方をその後50年近くも<珍しくも>維持し続けたようであることは、少しは驚かされる。
 上の点はともあれ、江崎道朗がCh・ヒル著の邦訳書をレーニンの「生い立ち」についてはただ一つ「参考」にしたようであることは、ただちに、つぎの疑問を生じさせる。
 原著は1947年、岩波新書として邦訳されて日本で(日本語となって)出版されたのは1955年。
 なんとまぁ。レーニンの生涯については、「生い立ち」も含めて、おそらくは100冊以上は出版されていて、どんなに少なくとも10冊以上は日本語文献もあるだろう。なぜこの本が利用されているかについて、より具体的には、つぎの疑問が<即時に>出てくるのだ。
 第一。原著1947年、邦訳書1955年、というのはいくら何でも、古すぎるだろう。
 レーニンの党・ボルシェヴィキ(共産党)と「国家」そのものとの関係が問題になおなり得たかもしれない、あるいは「マルクス=レーニン主義」と称してマルクスと同等の地位にまでレーニンを「持ち上げた」スターリン体制のもとでは実質的に「党」=「国家」または「党」>「国家」だったかもしれない、その国家・<ソ連>の創設者だったといえるレーニンについては、とりわけ1991年12月(ソ連解体)以降は、従前とは異なる<レーニン像>が、ロシア・旧ソ連も含めて、種々に語られ、論じられている可能性がある。
 なぜ、江崎道朗は、邦訳書刊行が1955年という、とんでもなく<古い>書物をただ一つ「参考」にしたのか?
 1955年とは、宮本顕治=不破哲三を指導部とする日本共産党はまだ存在していないほどの、60年以上も前の年だ。
 第二。この1955年当時すでに、岩波書店は月刊雑誌・世界等を通じて、例えば「全面」講和か否か等の問題について、明らかに「左翼」(当時は「革新」?、「平和」系?、親ソ派?)の代表的な出版者であり、当時の「左翼」たちにとっての代表的な出版社だったと思われる。
 なぜ、<インテリジェンス>の専門家を少なくとも装っているらしい江崎道朗は、岩波書店の出版物を、こんなに安易に「参考」にするのか
 秋月瑛二もまた岩波新書等の岩波の出版物に言及することがあるが、決して<警戒>を怠ったことはない。どこかに、あるいは、ともすれば、<左翼>臭があるのではないかと、いちおうは用心する。
 この欄にすでに<岩波書店検閲済み>の近年のファシズム関係邦訳書を取り上げたことがある。さすがに岩波書店だと感じたものだ。
 要するに、なぜ江崎道朗は①1955年の②岩波書店出版物を「レーニンの生い立ち」についてのただ一つの「参考」文献にしているのか。
 つぎに、古くてかつ岩波の本であっても、内容に問題がなければ、あるいは公平に見て適正といえる範囲内にあれば、それはそれでよいのかもしれない。
 しかし、江崎道朗の叙述は、戦後・1940年代後半に執筆されたCh・ヒル著の影響を受けているに違いなく、つぎのような記述を江崎道朗の<自分自身の>文章として、つまり直接の「引用」ではなく、行っている。
 以下は、ほぼ上の江崎道朗著p.46-p.47からの「引用」。
 ①「両親ともに開明的な思想の持ち主であり、貧民救済に強い関心を持っていた。レーニンはその影響を受けて育っている」。
 ②レーニンは「極めて頭脳優秀であった」が父親の死と実兄がロシア皇帝暗殺陰謀への「連座」により「処刑」され、「テロリストの弟」とレッテルを貼られて「進路を閉ざされて苦労することになった」。〔この直後にCh・ヒル著からの引用が二文ある。〕
 ③「カザンの田舎大学の法学部にしか入れなかった」〔Ch・ヒル〕が「その大学も、学生騒動に関わって四ヶ月後に放校に」なった。
 ④「ほかの大学からは軒並み入学を断られ」、「校外生」として入ったペテルブルク大学で「成績はここでも極めて優秀だったが、常に警察の監視下にあった」。
 ⑤「出世の道を断たれたレーニンは、社会主義を学び、反帝国主義・反帝制ロシアの活動にのめりこんでいく」。
 ⑥レーニンはのち、第二インター活動家として活動し「帰国しては警察の追及を受け、脱出、亡命を重ねている」。
 ⑦「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど、帝政ロシアに弾圧されるという繰り返しだった」。
 このあとの別の書物を「参照」したうえでのレーニンの「主張」内容の紹介も、レーニン側に立っているかのごとく<優しい>。
 上の最後の点はともかくとして(いつか触れるかもしれない)、上のような第二インターでの活動を含む「生い立ち」についての江崎の叙述もまた、まるで(Ch・ヒルと全く同じく?)じつに<穏便>で<優しく>、レーニン、そしてロシア革命、そして「社会主義・共産主義」の擁護者であるがごとき口吻がある。
 事実関係には、おそらく<ほとんど>間違いはないのかもしれない(もちろん、書かれていないことのなかに重要な「事実」が隠されていることはある)。
 しかし、「出世の道を断たれた」という記述は(Ch・ヒルを真似たのだろうが)、おそらく間違っている。
 R・パイプスの同時期のレーニンの記述も読んでいるが(この欄で試訳を昨年中に掲載している)、R・パイプスによると(記憶にさしあたり頼るが)、当時の<司法試験>に合格して<専門法曹>の資格を、レーニンは得ている。
 活動家としてしか「生きて」いけなかった、というごとき叙述は誤りだろうと思われる。
 上の⑦も、正確ではない。帝政ロシアが「弾圧」したのはそこに書いていることではなくて、帝政を敵とする刑罰法令違反行為を行ったり、大戦勃発後はロシアが敗北することを望む運動をしたから、というのがまだ正確だろう。
 つぎに、「レーニンの側」に立ったような、「進路を閉ざされて苦労」した、「成績はここでも極めて優秀だった」とかの一定の価値判断を含むような叙述がある。この二箇所だけではない。
 最後に、A/両親の影響を受けて「貧民救済に強い関心を持っ」た、B/「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど…」という叙述の仕方は、江崎による「共産主義」なるものの理解と同様に、レーニンに極めて<優しい>もので、間違いだと考えられる。
 レーニンが目指したのは「貧民救済」あるいは「貧民や労働者の救済」だったのか?
 あるいは別の箇所での江崎によれば、「格差是正」という<平等>だったのか?
 こうした叙述を読んでいると、レーニンの<動機>は、あるいは<掲げた理念・理想>は、間違っていなかった、素晴らしいものだった、という<動機は純粋だった>論のごとくだ。
 たまたま、この欄に最近に試訳を掲載したS・フィツパトリクの本の一部に、ボルシェヴィキは<革命および共産主義(社会主義)への移行期に平等主義だと主張したことは一度もない>という旨の叙述があった。彼らが夢見た究極の(国家も法も階級もない)「共産主義」社会ではともかく、レーニンらが目指したのは決して「貧民や労働者の救済」・「平等」ではない。
 長くは立ち入らないが、これらは<ロシア帝政>打倒のための<一つの方便>だった。 
 革命成功後は<旧搾取階級>・<資本主義の階層>を<逆に>虐げたのであって、その意味では不平等に(差別的に)取り扱ったのだ。
 レーニンのそもそもの<動機>・<気分>は何だったかの解明はなかなかむつかしいだろう。
 50歳すぎるまでのあの<活力>、死後に50巻近くの全集が刊行される(20歳以降だとして1年あたり1巻以上になる)ほどの文章を書きまたは演説をした<活力>の根源をたどるのは専門家でもむつかしいかもしれない。感情、意欲の元の問題だ。
 しかし、「貧民や労働者の救済」・「平等」といった<綺麗事>・<美辞麗句>にあったのではないことは明確だと思われる。
 人間としてのレーニンの「ルサンチマン」を、江崎道朗は理解しようとは何らしていないのだ。
 この機会に私見を少し書いておくと、つぎのようだ。
 否定的または消極的に捉える(欧米の)歴史研究者もいるようだが、やはり実兄が処刑=死刑とされたことは若きレーニンにとって大きかった。
 兄の死に様も、死体そのものも、弟・レーニンは見たのだろう。
 その前のこととして、R・パイプスか誰かの記述の中に、収監されている兄を「見舞う」または「接見」?するためにウラル近辺へと母親が向かおうとしたとき、父親に代わる随行者を母親が近隣で探し、若きレーニンも同行していたが、近隣の人々は「皇帝暗殺グループの一員だった」ことを理由として、無碍に?断った、というのがあった。
 そのときの母親の様子を、レーニンは見ていただろう。自分を含む<みじめさ>を、感受性が高いときに感じただろう。
 兄を「殺し」、自分を<ひどく惨めな>気持ちにさせたロシア帝政に対して、いつか仕返し(復讐)をしてやる-これがレーニンの根本的な「怨念」の少なくとも重要な一つではなかったかと思える。
 以上は全くの、文献上の根拠はない<推測>にすぎない。
 だが、そのための手段として、まずは「人民主義者」または「人民の意思」派に接近し、アナキストからも種々学んだうえで、西方のドイツを含む欧州の<マルクス主義>を知り、これを<イデオロギーとして利用>しようと感覚的に判断したのではなかっただろうか。
 ともあれ、江崎道朗はすでに、「共産主義者」に屈服している。
 この人に、反共産主義のインテリジェンスを語る資格などはない。
 上に言及した邦訳書が岩波書店から刊行された時点で、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)は、種々の情報からおそらく確実に、イギリス共産党の党員だった。
 <マルクス主義歴史学者>だったくらいのことは、クリストファ・ヒルに関する人物情報のどこにでも書かれているだろう。だからこそ、すなわちそういう人物が書いた「レーニンとロシア革命」だからこそ、内容的にも問題はないと確認したうえで、岩波は新書としたのだ。
 江崎道朗著は悲惨で、無惨だ。もう少しだけ、Ch・ヒルについては触れる。

1818/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑪。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第11回。
 第3章・内戦。
 例外的にコメントを付す。すでにS・フィツパトリクは「十月革命」の勝利者は①ソヴェトか②ボルシェヴィキかという問題設定をしていたが、以下の第4節の中で革命後の権力の所在につき、①政府(人民委員会議)、②ソヴェト中央執行委員会、③ボルシェヴィキ党〔1818年3月以降は公式には共産党〕中央委員会(・政治局)の三つを挙げたうえで論述している。この辺りは、とくに①と②の関係は微妙なようで、すでに読んでいる(試訳を掲載していないかも知れない)R・パイプスの理解または「解釈」と、S・フィツパトリクのそれは完全に同一ではないようだ。
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 第3章・内戦/第3節・新世界の見通し(Visions of the new world)。
 内戦期のボルシェヴィキの多くの思考の中には、きわめて非現実的で夢想家的な傾向があった。(19)
 疑いなく、勝利した革命家にはこの特質がある。すなわち、革命家はつねに狂熱的で非理性的な希望によって駆動しなければならない。そうでなければ、革命のための危険と損失がありうる利益を上回るなどという常識的な判断をするはずはないだろう。
 ボルシェヴィキは、自分たちの社会主義は科学的であるがゆえに空想主義(夢想、utopianism)から免れていると考えていた。
 しかし、マルクス主義の本来的に科学的な性格に関して彼らが正しかった(right)かはともかくとしても、科学ですら、主観的な判断をして自分の感性とする人間の解釈を必要とする。
 ボルシェヴィキは革命的狂熱者であって、図書館の司書ではなかった。//
 ボルシェヴィキがマルクス主義の社会科学理論を支えとして引用したとしても、1917年のロシアにプロレタリア革命の準備があったというのは、主観的な判断だ。
 世界革命が切迫しているというのは、科学的な予言ではなく、一種の信仰だ(マルクス主義の観点からは結局、ボルシェヴィキは誤謬を冒し、権力を奪取するのが早すぎた、のかもしれなかった)。
 戦時共産主義というのちの経済政策の基礎にある、ロシアは共産主義への明確な移行の寸前にあるという信念には、マルクス主義理論上はいかなる正当化根拠もほとんどない。
 現実の世界についてのボルシェヴィキの感覚は、1920年までに多くの点で、ほとんど滑稽なほどに倒錯したものになった。
 ボルシェヴィキは、赤軍をワルシャワへと前進させた。多くのボルシェヴィキには、ポーランド人がその兵団をロシアの侵略者ではなくてプロレタリアの兄弟だと是認することが明らかであるように思えたからだ。
 母国ロシアは、共産主義のもとでの貨幣の衰退による激しいインフレと通貨下落で混乱していた。
 内戦中に戦争と飢饉によって家なき子どもたちの群れが生じたとき、ある範囲のボルシェヴィキたちは、これをすら、姿を変えた天恵だと見なした。国家が子どもたちに真の(true)集団主義的なしつけをし(孤児院で)、子どもたちは古い家族からのブルジョア的影響にさらされることがないだろう、と考えたからだ。//
 同じ精神は、国家と行政の任務に関するボルシェヴィキの初期の考え方の中にも認めることができた。
 ここでの夢想家的文章は、共産主義のもとでは国家は衰亡するだろうというマルクスとエンゲルスの言明だった。また、レーニンの<国家と革命>にある文章だった。後者でレーニンは、国家行政は最終的には全日を働く職業人の仕事ではなくなり、公民層全体の持ち回りの義務になるだろう、と述べていた。
 しかしながら、実際には、レーニンはつねに、統治に関する堅固な現実主義者であり続けた。すなわち、1917-1920年の行政機構の崩壊を見て、ロシアが共産主義に接近するほどに国家が衰亡していると結論づけるような、ふつうのボルシェヴィキではなかった。//
 しかし、<共産主義のイロハ>の執筆者であるボルシェヴィキのBukharin と Preobrazensky は、はるかに興奮していた。
 この二人は、没個性的で科学的に整序された世界を展望(vision)していた。その世界とは、当時のロシア人作家の Evgenii Zamyatin が<我々(We)>(1920年の著)で風刺し、のちに、George Orwell が<一九八四年>で描写したようなものだった。
 その世界は、過去、現在あるいは未来の全ての現実にあるロシアの正反対物(antithesis)だった。そして、内戦という混沌の中で、とくに魅力的なものになるはずのものだった。
 国家が衰亡した後で中央志向での計画経済をいかに作動させることが可能であるかを説明して、Bukharin と Preobrazensky はつぎのように書いた。
 『主要な指揮は、多様な簿記係または統計部に任されるだろう。
 日常的に、それらのもとで、生産とそれへの全需要に関する資料が保管されるだろう。
 また、それらによって、労働者を派遣しなければならない場所や派遣元、そしていかなる程度の労働が必要であるかが決定されなければならない。
 そして、幼年時代以降に全員が社会的労働に習熟しているかぎり、また、つぎのように理解するがゆえに、全員が統計部の指示に完全に従って働くだろう。その労働が必要であることや予め編成された計画に従って全てがなされる場合に生活は容易に過ごせるということ、そして社会秩序はよく整えられた機械のようなものだということ、を理解するだろうがゆえに。
 警察または監獄、法令について-何についても-、特別の国家の大臣は必要ないだろう。
 管弦楽団で演奏者全員が指揮者の棒を見て、それに従って演奏するのと全く同じように、全ての者が統計報告書に情報を求め、それに従って彼らの仕事をするだろう。』(20)
 これは、Orwell の<一九八四年>のおかげで、我々には不吉な響きをもつかもしれない。しかし、当時の観点からすると、大胆で革命的な思考であって、未来主義芸術のようにきわめて現代的だつた(そして世俗的現実からは離れていた)。
 内戦期は知的および文化的な実験が盛んな時代だった。そして、若い急進的知識人たちの中では、過去に対する因襲破壊的態度がお決まりのこと(de rigueur)だった。
 未来社会の「よく整えられた機械」を含む機械は、芸術家と知識人たちを魅惑した。
 感性、精神性、人間劇および個人の心理への過大な関心は流行ではなくなり、しばしば「小ブルジョア的」だと非難された。
 詩人 Vladimir Mayakovsky や劇場支配人 Vsevolod Meyerhold のような前衛芸術家は、革命的芸術と革命的政治とは、古いブルジョア社会に対する同じ抗議の一面だと考えた。
 彼らは十月革命を受容し、新しいソヴェト政府のための尽力を提供した知識人層の最初の者たちの中にいた。彼らは、キュービストや未来主義様式の宣伝ポスターを作り、以前の宮殿の壁に革命的スローガンを描き、街頭で革命的勝利を大衆的に再現する上演を行い、政治的に重要なメッセージに加えて曲芸を在来の劇場に持ち込み、そして過去の英雄たちの非具象的な像をデザインした。
 かりに前衛芸術家たちが自由に振る舞えば、伝統的なブルジョア芸術は、ブルジョア諸政党よりもはるかに急速に、消失していただろう。
 しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちは、芸術上の未来主義とボルシェヴィズムが分かち難い同盟関係にあるとは、全く考えていなかった。そして、古典的芸術文化について、より慎重な立場をとった。//
 革命による自由化という精神は、女性と家族に関するかぎりは、ボルシェヴィキによって(または少なくともボルシェヴィキの知識人によって)全面的に受け入れられた。
 ボルシェヴィキは、ロシアの1860年代以降の急進的知識人層のたいていの者がそうだったように、女性の解放を支援した。
 F・エンゲルスは、近代家族では夫は「ブルジョアジー」で妻は「プロレタリア」だと書いていた。ボルシェヴィキは彼のように、女性を被搾取集団だと見なした。
 内戦の終わりまでに、離婚を容易にする法令が制定された。それはまた、非合法という汚名を取り除いて妊娠中絶を許し、女性の対等な権利と対等な支払いを要求した。//
 最も急進的なボルシェヴィキ思考家だけが家族の解体について語った一方で、女性と子どもたちが家族内での抑圧の潜在的な被害者で、家族はブルジョア的価値を教え込みがちだと、一般的に想定されていた。
 ボルシェヴィキ党は特別に女性部を設置した(zhenotdely)。女性を組織して教育し、利益を保護し、そして自立した役割を果たすのを助けるためだった。
 若い共産党員たちは、自分たちの独立した組織をもった-青年および若年成人のためのコムソモル(Komsomol)と(数年後に設置された)10歳から14歳までの集団のための少年ピオネール(Young Pioneers)。これらは、その構成員に家庭や学校でのブルジョア的傾向に注意を払うよう指導した。また、古き日々を郷愁をもって振り返ったり、ボルシェヴィキと革命とを嫌ったり、あるいは「宗教的迷信」にすがりつく両親や教師たちを再教育するように努めるよう指導した。
 内戦中に報告されたスローガン、「親の資本主義的専制よ、くたばれ!」は古いボルシェヴィキには少しばかりは元気すぎるものだったとしても、若者の反骨精神は、初期の党では一般的に称賛され、配慮された。//
 しかしながら、性の自由化は、ボルシェヴィキ指導部を悩ませた若い共産党員の主張だった。
 妊娠中絶や離婚に関する党の立場からして、ボルシェヴィキは無分別のセックスを意味する「自由恋愛」を擁護していると広く受け止められた。
 レーニンは確実に、そうではなかった。すなわち、彼の世代はブルジョアジーのペリシテ人的道徳に反対したが、両性間の同志的関係を強調し、乱交は軽薄な性質を示すものだと考えた。 
 性の問題に関して最も多くを執筆し、いくぶんかはフェミニストである Aleksandra Kollontai (コロンタイ)ですら、しばしば彼女に原因があるとされたセックスの「一杯の水」理論ではなくて、愛を信じる者だった。//
 しかし、一杯の水という考え方は、若い共産党員の間では人気があった。とくに、赤軍で共産主義イデオロギーを学び、気まぐれなセックスをほとんど路上での共産主義者の儀式のように見なした、男たちにとっては。
 このような態度は、他のヨーロッパ諸国よりもロシアでより顕著ですらあった、戦時中および戦後における道徳の、一般的な弛緩を反映していた。
 年配の共産党員は、これを我慢しなければならなかった-彼らは性は私的事項だと考えたが、結局は革命家であってブルジョア的ペリシテ人ではなかった-。キユービスト、エスペラントの主張者、裸体主義者(nudist)を、彼らが我慢しなければならなかったように。裸体主義者は、イデオロギー上の確信的行為として、ときにはモスクワの混み合う路面電車の中へと裸で飛び込んだ。
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 (19) Richard Stites, <革命の夢-ロシア革命における夢想家的見通しと実験的生活>(Urbana, IL, 1971), p.32-35 を見よ。
 (20) Bukharin & Preobrazensky, <共産主義のイロハ>, p.118.
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 第4節・権力にあるボルシェヴィキ(The Bolsheviks in power)。
 権力を奪取して、ボルシェヴィキは統治することを学ばなければならなかった。
 ほとんど誰にも、行政の経験がなかった。すなわち、従前の職業でいうと、ほとんどが職業的革命家、労働者またはフリーランスの報道者だった(レーニンは自分の職業について「文筆家」(literator)と載せた)。
 ボルシェヴィキは官僚層を軽侮しており、官僚たちがどう仕事をしているかについてほとんど知らなかった。
 予算についても、何も知らなかった。啓蒙人民委員部の長だったAnatolii Lunacharsky が、彼には最初の財務官についてこう書いたように。
『彼が銀行から我々に金を運んできたとき、彼の顔は大きな驚きの色をつねに見せていた。
 彼にはまだ、革命と新しい権力組織は一種の魔術のように、また、魔術では現金を受け取るのは不可能であるように、思えていた。』(21)
 内戦の間、たいていのボルシェヴィキの組織上の能力は、赤軍、食糧人民部およびチェカへと注ぎ込まれた。
 地方の党委員会やソヴェトからの能力ある組織者は、絶えず、赤軍へと送り込まれるか、または面倒な問題の解決のためにどこかへと派遣された。
 かつての中央政府の各省(このときは人民委員部)は、主として知識人で成るボルシェヴィキ小集団によって動いた。そして、相当に広い範囲で、かつては帝制政府や臨時政府のために働いた役人たちが補佐していた。
 中央の権威は、混乱するほどに、政府(人民委員会議)、ソヴェト中央執行委員会およびボルシェヴィキ党中央委員会に分けられていた。この党中央委員会には事務局(Secretariat)と、組織と政治に関する部局である、組織局(Orgburo)と政治局(Politburo)があった。//
 ボルシェヴィキはその支配を「プロレタリア-ト独裁」と称した。これは、活動上の観点からは、かなり多く、ボルシェヴィキ党の独裁と一致していた。
 他の諸政党の存在余地がほとんど残されないことは、最初から明瞭だった。すなわち、諸政党は白軍を支持したりまたは(左翼エスエルの場合のように)反乱を起こしても非合法化されることはなかったけれども、内戦中は嫌がらせを受け、逮捕によって脅迫され、1920年代には自己消滅を強いられた。
 しかし、統治の形態の観点からして独裁が何を意味するかは、相当に明瞭でなかった。
 ボルシェヴィキは元々は、自分たちの党組織が政府の装置となる潜在性があるとは考えていなかった。
 党組織は政府とは別にあり、行政活動から離れたままだろう、と想定していたように見える。複数政党制のもとでボルシェヴィキが政権党になった場合にそうだっただろうと全く同じように。//
 ボルシェヴィキはまた、その支配を「ソヴェト権力」と称した。
 しかし、これは決して正確な叙述ではなかった。第一に、十月革命は本質的に党のクーであって、ソヴェトのクーではない。第二に、(ボルシェヴィキ中央委員会が選出した)新しい政府はソヴェトとは関係がない。
 新政府は、さまざまの省庁官僚機構を臨時政府から引き継いだ。その官僚機構はまた、ツァーリの閣僚会議から継承されたものだった。
 しかし、旧行政機構が完全に崩壊していた地方レベルでは、ソヴェトが一定の役割を獲得した。
 ソヴェト(あるいは正確にはその執行委員会)は、中央政府の地方機関となった。そして、財務、教育、農業等々に関する自分たちの官僚部局を設立した。
 この行政機能は、ソヴェトの選挙が形式にすぎなくなってしまった後ですら、ソヴェトの利点となった。//
 中央政府(人民委員会議)は、最初は、新しい権力システムの結節部(hub)であるように見えた。
 しかし、内戦の終わり頃までに、ボルシェヴィキ党中央委員会と政治局がその政府の権力を奪い取りつつある兆しがあった。一方で地方レベルでは、党委員会がソヴェトを支配しつつある兆しも。
 国家機関に対する党の優越は、ソヴェト体制の永続的な特質になることとなった。
 しかしながら、レーニン(1921年に重病になり、1924年に死亡)は病気で舞台から退場しなかったならばいかなるこのような傾向にも反対しただろう、そして党ではなく政府が主要な役割を果たすべきだと考えていたのだ、と議論されてきた。(22)
 確かに革命家であり革命的な党の創設者にしては、レーニンには組織に関して奇妙に保守的な傾向があった。
 彼は、即席の幹部会のようなものではなく、真の(real)政府が欲しかった。真の軍隊、真の法制、さらにおそらく、最終的に分析すれば、真のロシア帝国を欲したのと全く同じように。
 しかしながら、この政府の構成員はつねに事実上はボルシェヴィキの中央委員会と政治局によって選ばれた、ということを想起しなければならない。
 レーニンは政府の長だったが、また同時に事実上は中央委員会と政治局の長だった。
 そして、内戦期の重要な軍事政策および外交政策に対処したのは、政府ではなくこれらの党機関だった。
 レーニンの観点からは、このシステムの政府側の大きな利点はおそらく、官僚機構が多数数の技術的専門家(財務、工学、法制、公共の健康等々)をがもっていたということだった。彼らの技術を利用するのがきわめて重要だと考えていたのだ。
 ボルシェヴィキ党はそれ自体の官僚機構を発展させたが、党員ではない外部者を採用することはなかった。
 党には、とくに労働者階級の党員の間には、「ブルジョア専門家」に対する大きな疑念があった。
 このことはすでに、職業的軍人(以前の帝制期の将校たち)を軍が使うことにボルシェヴィキが1918-19年に強く反対したことによって明確に示されていた。//
 ボルシェヴィキによる権力奪取後に出現した政治システムの性格は、組織編成という観点でのみならず、ボルシェヴィキ党の性質という観点からも説明されなければならない。
 ボルシェヴィキは権威主義的性格の党であり、つねに一人の強い指導者をもつ党だつた。-レーニンに対する反対者によれば、独裁的な党ですらあった。
 党の紀律と一体性が、つねに強調されてきた。
 1917年以前は、何らかの重要な論点についてレーニンに同意できないボルシェヴィキたちは、通常は党を去った。
 1917-20年、レーニンは党内部での異論やさらに組織的反対派にすら対処しなければならなかった。しかし、レーニンはこれを不正常で苛立たせる状況だと考えたと見られる。そして、最終的には、これを変える決定的な一歩を進んだ(後述、p.101-3)。
 党外部からの反対または批判については、革命の前も後も、いずれであれ容赦することがなかった。
 レーニンとスターリンの若いときからの仲間であるVyacheslav Molotov(モロトフ)は、のちに敬意をもって、つぎのように論評した。レーニンは1920年代初期に、スターリンすらより強固な心性をもっていた。彼はかりにそれが一つの選択肢だったとしてすら、いかなる反対をも容赦しなかっただろう、と。(23)//
 ボルシェヴィキ党のもう一つの重要な特性は、党は労働者階級だ、ということだった。労働者階級-その自己像において、社会での支持の性質からして、そして党員の大多数という意味で。
 党に関する俗っぽい知識では、労働者階級のボルシェヴィキ党員は「強固」で、知識人層出身の党員は「軟弱」だつた。
 このことにはたぶん、ある程度の真実がある。ともに知識人であるレーニンとトロツキーは、顕著な例外だったけれども。
 党の権威主義的で非リベラルで粗雑な、そして抑圧的な特徴は、1917年と内戦時代に労働者階級と農民の党員が大量に流入したことでさらに強くなったのかもしれない。//
 ボルシェヴィキの政治的思考は、労働者階級を中心に動いた。
 彼らは、社会は対立する階級に分けられ、政治的闘争は社会的闘争の反映であり、都市的労働者階級とその他の以前の被搾取階級の構成員たちは自然な革命的同盟者だ、と考えていた。
 その上さらに、かつての特権的で搾取する階級の構成員たちは当然の敵だと、見なした。(24)
 ボルシェヴィキのプロレタリア-トとの結びつきは彼らの感情形成の重要部分だった一方、彼らの「階級敵」-従前の貴族、資本家の一員、ブルジョアジー、クラク(富農)等-に対する憎悪と疑念は同様に強く、長期的視野で見るとおそらく、より重要だった。
 ボルシェヴィキからすれば、かつての特権階級は、その定義上たんに反革命の者たちというのではない。
 その者たちが存在しているという事実だけで、反革命の陰謀が行われていることになった。
 この国内の陰謀は、理論も内戦時の外国の干渉という現実も示したように国際資本主義勢力が支援しているがゆえに、それだけ一層、脅威だった。//
 ボルシェヴィキの考えによると、ロシアでのプロレタリアの勝利を確実にするためには、階級的搾取の従前の態様を排除するだけではなくて、逆転させることが必要だった。
 この逆転の方法は、「階級的正義」の原理を用いることだった。//
 『かつての法廷では、搾取者という少数者階級が多数者の労働者に対して判決を下した。
 プロレタリア独裁の法廷は、多数者の労働者が搾取少数者階級に対して判決を下す場所だ。
 それは、特別にその目的のために設立される。
 裁判官は、労働者のみによって選抜される。
 裁判官は、労働者の中からのみ選抜される。
 搾取者たちにただ一つ残っている権利は、判決を受けるという権利だ。』(25)//
 こうした原理的考えは、明らかに平等主義的(egalitarian)ではない。
 しかし、ボルシェヴィキは、革命および社会主義への移行の時期に平等主義であるとは一度も主張しなかった。
 ボルシェヴィキの立場からは、ある範囲の者は体制の階級敵であるときに全ての公民が平等(equal)だと考えるのは不可能だった。
 かくして、ロシア共和国の1918年憲法は全ての「勤労者(toilers)」(性や民族と関係なく)に選挙権を認めたが、搾取階級とその他のソヴェト権力に対する識別可能な敵たちを除外した。-識別可能な敵とは、雇用労働者の雇用主、不労所得または賃料で生活している者たち、クラク、聖職者、かつての警察官および一定範囲の帝制期の憲兵や白軍の将校たちだ。//
 「誰が支配しているのか?」という問題は、抽象的には設定されうる。しかし、これは「どの民衆が仕事を得ているのか?」という具体的意味も持っている。
 政治権力は担い手を変えた。そして、(ボルシェヴィキは一時的な応急措置だと考えたが)古い主任者(bosses)に代わる新しい主任者が見出されなければならなかった。
 ボルシェヴィキの気風からして、不可避的に階級こそが選抜の規準だった。
 ある範囲のボルシェヴィキたちは、レーニンを含めて、教育が階級と同じように重要なだと論じたかもしれなかった。他方で、より少ない範囲の者たちは、工場から長いあいだ離れている労働者たちはそのプロレタリアという自己認識を喪失しているのではないか、と気に懸けた。
 しかし、党全体として堅固な合意があったのは、新しい体制が権力を本当に委ねることのできる唯一の民衆は、古い体制のもとでの搾取の犠牲者であるプロレタリアだ、ということだった。(26)
 内戦が終わるまでに、数千人の労働者、兵士および海兵たちが-ボルシェヴィキ党員と最初には1917年にボルシェヴィキとともに戦った者たちで、のちには赤軍や工場委員会で傑出した者たち、若くて比較的に学歴の高い者たち、および世の中で出世しようという野心を示す者たちが-、「幹部」(cadres)、すなわち、責任ある仕事、通常は行政上のそれ、に就く者たちになっていた。
 (そして、多数の非プロレタリア-トの支持者たちもいた。その中には、革命が帝制による制約からの解放と新しい機会を意味したユダヤ人たちも。(27))
 「幹部」たちは、赤軍司令部、チェカ、食糧行政部および党とソヴェトの官僚機構にいた。
 多くの者は、通常は地方の工場委員会または労働組合で働いたあとで、工場の管理者に任命された。
 1920-21年には、この「労働者の昇進」過程が大規模に続くのか否か、あるいはどの程度に続くのかは、党指導者たちに完全に明瞭ではなかった。党の元々の貯蔵層である労働者党員が相当に消耗し、内戦中の工業の崩壊と都市での食糧不足によって、1917年の工業労働者の階級が解体し、麻痺していたからだ。 
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは、「プロレタリア-トの独裁」でもって何を意味させたのかを、経験によって見出した。
 それは、工場での仕事にとどまり続けた労働者たちによる、集団的な階級独裁ではなかった。
 「プロレタリア-トの独裁」は、全日勤務する「幹部」または主任たちが作動させる独裁だった。そこでは、新しい主任たちのうち可能な限り多数は、従前のプロレタリアだった。//
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 (21) S・フィツパトリク・<啓蒙人民委員部>(London, 1970), p. 20.から引用した。
 (22) T. H. Rigby, <レーニンの政府-ソヴナルコム・1917-1922年>(Cambridge, 1979)。
 最近の、権力にあるレーニンに関する資料を基礎にした説明として、Robert Sercive, <レーニン-伝記>(London, 2000), Chs. 15-25. を見よ。
 (23) <Sto sorok besed s Molotovym . Iz dnevnikov F. I. Chueva>(Moscow, 1991), p. 184. これは、私の訳だ。
 <モロトフは回想する>の英語版、Albert Resis 訳(Chicago, 1993), p. 107 は不正確だ。
 (24) 個人の階級帰属意識は自明のことだというボルシェヴィキの想定は、すぐに誤っていると分かった。しかし、ボルシェヴィキは10-15年にわたって、実際上かつ観念上の困難さを無視して、社会階層によって民衆を区分する努力をし続けた。
 困難さにつき、S・フィツパトリク・<仮面を剥ぎ取れ!>(Princeton, 2005), Chs. 2-4. および(ドン地方での「階級敵」としてのコサックにつき)Holquist, <戦争を起こす>, とくにp.150-p.197. を見よ。
 (25) Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>, p.272.
 (26) S・フィツパトリク・<ソヴィエト同盟における教育と流動性・1921-1934年>(Cambridge, 1979), Ch. 1.を見よ。
 (27) ユダヤと革命につき、Yuri Slezkine, <ユダヤ人の世紀>(Princeton, NJ, 2004), とくにp.173-p.180 とp.220-226 を見よ。
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 第3章の第3節・第4節まで終わり。

1817/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑩。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第10回。
 第3章・内戦。
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 第2節・戦時共産主義(War Communism)。
 ボルシェヴィキは、崩壊に近い状態で戦争中の経済を引き継いだ。その最初でかつ重大な課題は、経済を作動させることだった。(12)
 これは、内戦時の経済政策という現実的な脈絡の中で、のちに「戦時共産主義」という名称が与えられた。
 しかし、イデオロギー上の意味ももっていた。
 ボルシェヴィキは、長期的観点からは、私有財産と自由市場の廃止および必要に応じての生産物の配分を意図していた。そして、短期的には、これらの理想に近いものを実現させる政策を望んだかもしれなかった。
 戦時共産主義における現実主義とイデオロギーの間の均衡関係は、長いあいだ論争の対象になってきた。(13)
 問題は、国有化と国家による配分といった政策は戦争という非常事態への現実的な対応だとするか、それとも共産主義が指示するイデオロギー上の要求だとするか、これらのいずれによって、もっともらしくし説明することができるのか、だった。
 この論議では、両派の学者たちが、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者の公的文章を引用することができる。ボルシェヴィキたち自身が、確実な回答をすることができないからだ。
 新しい経済政策のために戦時共産主義が頓挫した1921年時点でのボルシェヴィキの見方からは、明らかに現実的な解釈が選好された。すなわち、戦時共産主義がいったん失敗したとするなら、そのイデオロギー上の土台に関してはなるべく語らない方がよかったのだ。
 しかし、初期のボルシェヴィキの見方からは-例えば、Bukharin と Preobrazensky の<共産主義のイロハ>の見方からは-、それの反対が真実(true)だった。
 戦時共産主義が実施されている間、ボルシェヴィキがその政策にイデオロギー上の正当化を与えるのは自然だった。-マルクス主義という科学的イデオロギーで武装した党は、たんに保ち続けるようもがいているのではなく、事態を完全に掌握している、と主張するために。//
 論議の背後にある問題は、ボルシェヴィキはどの程度すみやかに共産主義へと移行できると考えていたのか、だ。
 これに対する答えは、1918年について語るのか、それとも1920年について語るのか、によって異なる。
 ボルシェヴィキの最初の歩みは用心深く、将来に関する公式説明もそうだった。
 しかしながら、1918年半ばでの内戦勃発から、ボルシェヴィキに初期にあった用心深さは消え失せ始めた。
 絶望的な状勢を見渡して、ボルシェヴィキはより急進的な政策へと変化し、徐々に中央政府の支配がおよぶ範囲を、元々は意図していたよりも広くかつ急速に拡張しようとした。
 1920年、ボルシェヴィキが内戦での勝利と経済での崩壊へと向かっていたとき、高揚感と絶望感とが定着した。
 多くのボルシェヴィキには、古い世界が革命と内戦の炎の中へと消え失せるとともに、新しい世界がその燃え滓の中から不死鳥のごとく起ち上がるように思えた。
 この希望はおそらく、マルクス主義というよりも無政府主義的イデオロギーにもとづくものだった。しかし、そうではあっても、マルクス主義の言葉遣いで表現された。すなわち、プロレタリア革命の勝利と共産主義への移行は、おそらく数週間後あるいは数箇月後にまで切迫している、と。//
 経済政策の領域で最重要なものの一つである国有化は、このような帰結を例証するものだ、とされた。
 優秀なマルクス主義者として、ボルシェヴィキは、十月革命後にきわめて速やかに銀行と信用機関を国有化した。
 しかし、工業全体の国有化に、ただちには着手しなかった。すなわち、最初の国有化布令は、プチロフ工業所のような、防衛生産と政府契約を通じて国家に緊密に関与していた個々の大コンツェルンにのみ関係するものだった。//
 しかしながら、情勢は多様で、ボルシェヴィキの元来の短期的意図をはるかに超える範囲で、国有化が行われることになった。
 地方ソヴェトは、その権限にもとづいて工場施設を収奪した。
 ある範囲の工場施設は、所有者または経営者が放棄した。別のいくつかの工場施設は、かつて経営から排除されていたその労働者たちの請願によって、あるいは無秩序の労働者たちからの保護を求める経営者の請願すらによって、国有化された。
 1918年夏、政府は、全ての大規模工業を国有化する布令を発した。そして、1919年秋までに、この布令の対象となった企業の80パーセントが実際に国有化された、と推算された。
 これは、新しい経済最高会議(Supreme Ecconomic Council)の組織能力をはるかに超えるものだった。すなわち、実際には、かりに労働者たち自身が原料の供給や最終製品の配分を調整して工場施設を作動させ続けることができなければ、その工場施設はしばしばすぐに閉鎖された。
 だが、そのようであっても、ボルシェヴィキは、さらに進めなければならないと感じていた。
 1920年11月、政府は少なくとも紙の上では、全ての大規模工業を国有化した。
 もちろん実際には、ボルシェヴィキには、それらを管理することはもとより、新しい獲得物をどう呼び、どう分類するかも困難だった。
 しかし、理論上は、生産の領域全体が今やソヴィエト権力の手中にあり、工芸品店舗や風車ですら、中央が指揮する経済の一部になった。//
 同じような経緯によって、ボルシェヴィキは内戦が終わる頃まで、自由取引のほとんど完全な廃絶と事実上の貨幣なき経済に向かって進んだ。
 町での配給(1916年に導入)、および理論上は農民層がその余剰の全てを渡すことが必要な穀物の国家独占(臨時政府が1917年春に導入)を、先任者たちから継承していた。
 しかし、町にはパンや他の食糧がまだ不足していた。市場で買える工業製品がほとんどなかったので、農民たちが穀物等を売りたくなかったからだ。
 十月革命のすぐ後でボルシェヴィキは、金銭ではなく工業製品を農民たちに代わりに提供して、穀物の配達量を増加させようとした。
 彼らはまた、取引き全体を国有化し、内戦勃発後は、基礎的な食糧および工業製品の自由な小売り販売を禁止し、消費者協同組合を国家の配分組織網の中に編入しようとした。(14)
 これらは、町での食糧危機および軍隊への供給の問題を見ての緊急措置だった。
 しかし、明らかにボルシェヴィキは、これらをイデオロギー上の言葉で正当化できた-また、実際にそうした。//
 町での食糧危機が悪化するにつれて、物々交換が取引の一般的形態になった。そして、貨幣は、その価値を失った。
 1920年までに、労賃と給料は部分的には現物(食糧と製品)で支払われており、貨幣ではなく商品を基礎にした予算を案出する試みすらなされた。
 衰亡していく都市でまだ機能していた範囲でも、公共サービスは個々の利用者が対価を支払う必要がもうなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキは、これをイデオロギー上の勝利だとして褒め讃えた。-この「貨幣に対する見下し」は、社会がすでに共産主義にきわめて接近していることを示すものだったのだ。
 しかしながら、楽観的ではない観察者には、それは悪性のインフレのように見えた。//
 ボルシェヴィキにとっては不運なことに、イデオロギー上の命題と現実上のそれは、つねにそう都合よく一つになるものではなかった。
 それらの分裂は(そのイデオロギーが実際にはどういう具体的な意味をもつのかに関して、ある範囲のボルシェヴィキには曖昧さがあったこととともに)、とりわけ、労働者階級に関する政策について明確だった。
 例えば労賃に関して、ボルシェヴィキには実務での厳格な平等主義的(egalitarian)政策以上の平等主義志向があった。
 生産を最大限にまで高めるために、ボルシェヴィキは、工業での出来高払いを維持しようとした。しかし労働者たちは、そうした支払い制度は本質的に不平等で不公正だと考えた。
 不足分と配給制によっておそらく、内戦期の都市内の不平等さは減らされていった。しかし、そのことがボルシェヴィキによる成果だとは、ほとんど見なされなかった。
 実際に、戦時共産主義のもとでの配給制度は、赤軍の兵士、重要工業の熟練労働者、共産党員の行政公務員およびある範囲の知識人など、一定の範疇の国民の利益になった。//
 工場の組織は、別の厄介な問題だった。
 工場は、中央の計画や調整機関の指導に従って、労働者たち自身によって(「労働者による統制」に対するボルシェヴィキの1917年の是認が示唆すると思われるように)、それとも、国家が任命した経営者によって、運営されることとされたのだろうか?
 ボルシェヴィキは後者を支持した。しかし、戦時共産主義の間の事実上の結果は、妥協的な、かつ場所によってかなりの変動のあるものだった。
 ある工場群は、選出された工場委員会によって稼働されつづけた。
 別の工場群は、しばしば共産党員だがときどきは従前の経営者、主任技師である、任命された管理者によって稼働された。任命される者の中には、工場施設の従前の所有者すらがいた。
 だがまた別の場合には、工場委員会または労働組合出身の一人の労働者や労働者集団が、工場施設の管理者に任命された。そして、このような過渡的な編成が-労働者による統制と任命管理者制度の中間が-しばしば、最もうまくいった。//
 農民層に対処するについて、ボルシェヴィキの最初の問題は、食料を取り上げるという現実的なものだった。
 国家による穀物の収奪は、私的な取引を非合法することや金銭に代わる代償として工業製品を提供すること、これらのいずれかで成し遂げられたのではなかった。すなわち、国家には、提供できる品物がほとんどなかった。そして、農民層は生産物を手渡したくないままだった。
 町々や赤軍に食料を供給する緊急の必要があったので、国家には、説得、狡猾、脅迫または実力行使によって農民たちの生産物を取り上げるしか方法はほとんどなかった。
 ボルシェヴィキは、穀物の徴発(grain requisitioning)という政策を選んだ。これは、-通常は武装した、かつ可能ならば物々交換のできる品物をもった-労働者および兵士の部隊を派遣して、退蔵穀物を農民の食料小屋から取り上げる、というものだった。(15)
 明らかにこれは、ソヴィエト体制と農民層の間に緊張関係を生み出した。
 しかし、占拠している軍隊がかつてずっとそうだったように、白軍も同じことをした。
 ボルシェヴィキが土地に頼って生きていかなければならないことは、おそらく農民たちを驚かせた以上に、自分たちを驚かせた。//
 しかし、明らかに農民層を驚かせて警戒させたボルシェヴィキのこの政策には、別の側面があった。
 第一に、ボルシェヴィキは、村落に対立集団を作って分裂させることで、穀物収奪を容易にしようとした。
 村落での資本主義の発展によって農民たちの間にはすでに明確な階級分化が生じていると信じて、ボルシェヴィキは、貧農や土地なき農民からの本能的な支持と裕福な農民に対する本能的な反感を得ることを期待した。
 そのことからボルシェヴィキは、村落で貧農委員会を組織し始め、富裕農民の食料小屋から穀物を取り出していくソヴェト当局に協力するようにその組織に促した。
 この試みはひどい失敗だったことが分かった。一つの理由は、外部者に対する村落の正常な連帯意識だった。別の理由は、以前の貧農および土地なき農民の多数は、1917-1918年の土地奪取とその配分によって彼らの地位を向上させていた、ということにあった。
 さらに悪いことに、田園地帯での革命に関するボルシェヴィキの理解は自分たちのそれと全く異なるということを、農民たちに示してしまった。//
 人民主義者と論争したかつてのマルクス主義者のようにまだ考えているボルシェヴィキにとっては、<ミール>は衰亡している組織であって、帝制国家によって堕落させられ、出現している村落資本主義によって掘り崩されており、そして社会主義の発展にはいかなる潜在的能力も持たないものだった。
 ボルシェヴィキはさらに、村落地域での「第一の革命」-土地奪取と平等な再配分-は、すでに「第二の革命」、つまり貧農の富農に対する階級戦争へと継承されている、と考えた。この階級戦争は、村落共同体の統一を破壊しており、最終的には<ミール>の権能を破壊するはずのものだった。(16)
 一方で農民は、歴史的には国家によって悪用されたが、最終的には国家の権力を放擲して農民革命を達成していた真の農民組織だと、<ミール>を理解していた。//
 ボルシェヴィキは1917-1918年には農民層に好きなようにさせたけれども、田園地帯に関する長期方針は、ストリュイピンのそれと全く同じく破壊的なものだった。
 ボルシェヴィキは、<ミール>および土地を分割する細片地(strips)の仕組みから家父長制的家族まで、村落の伝統的秩序のほとんど全ての点を是認しなかった。
 (<共産主義のイロハ>は、農民家族が各家庭で夕食を摂るという「野蛮」で贅沢な習慣を放棄し、村落共同体の食事室で隣人に加わるときを、期待すらしていた。(17))
 彼らは、ストリュイピンのように、村落への余計な干渉者だった。
 そして、原理的に彼の小農的プチ・ブルジョアジーへと向かわせたい熱意には共感はできなかったけれども、農民の後進性に対する深く染みこんだ嫌悪感を持っていたので、各世帯の分散した細片地を近代的な小農業に適した四角い画地にして安定させようとするストリュイピンの政策を継続した。(18)
 しかし、ボルシェヴィキの本当の(real)関心は、大規模農業にあった。そして、農民層に対する勝利という政治的命題からだけ、1917-18年に起きた大きな土地の分解は大目に見て許した。
 残っている国有地のいくつかで、ボルシェヴィキは国営農場(<ソホージ(sokhozy)>)を始めた。-これは事実上は、大規模な資本主義農業の社会主義的な同等物で、労賃のために働く農業従事者の作業を監督する、管理者が任命されていた。
 ボルシェヴィキはまた、集団的農場(<コルホージ(kolkhozy)>)は伝統的なまたは個人的な小保有農業よりも優れている、と考えていた。
 そして、内戦期に、通常は動員を解除された兵士や食うに困って町々に逃げ込んだ労働者たちによって、いくつかの集団的農場が設立された。
 集団的農場では、伝統的な農民村落のようには、土地が細片地に分割されるということがなかった。そうではなく、集団的に(collectively)土地で働き、集団的に生産物を市場に出した。
 初期の集団農場の農民には、しばしば、アメリカ合衆国その他での夢想家的な(ユートピアン)農業共同体の創始者のイデオロギーに似たものがあった。そして、資産や所有物のほとんど全てを貯蔵した。
 かつまた彼らは、夢想家たちに似て、ほとんど稀にしか、農業経営に成功したり、平穏な共同体として長く存続したりすることがなかった。
 農民たちは、疑念をもって国家的農場や集団的農場を見ていた。
 それらは、あまりにも少なくてかつ力強くなかったので、伝統的な農民の農業に対する重大な挑戦にならなかった。
 しかし、それらのまさに存在自体が、ボルシェヴィキは奇妙な考えを抱いていて、とても信頼できるものではない、ということを農民たちに思い起こさせた。
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 (12) 経済につき、Silvana Malle, <戦時共産主義の経済組織・1918-1921年>(Cambridge, 1985)を見よ。
 (13) Alec Nove, <ソヴィエト同盟の経済史>(London, 1969), Ch. 3. を見よ。
 (14) 商取引に関する政策につき、Jule Hessler, <ソヴィエト商取引の社会史>(Princeton, NJ, 2004),Ch. 2. を見よ。
 (15) 食料収奪につき、Lars T. Lih, <ロシアにおけるパンと権力・1914-1921年>(Berkley, 1990)を見よ。
 (17) N. Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>、E. & C. Paul訳(London, 1969)p.355.
 (18) ストリュイピン改革の時期と1920年代の間の継続性につき、とりわけ田園地帯での土地安定化の作業をした農業専門家の存在を通じての、George L. Yaney, 「ロシアにおけるストリュイピン土地改革から強制的集団化までの農業行政」、James R. Millar, <ソヴィエトの村落共同体>(Urbana, IL, 1971)所収, p.3-p.35.を見よ。
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 第3章(内戦)のうち、「はじめに」~第2節(戦時共産主義)までが終わった。

1816/クリストファ・ヒル(英国)のレーニン「幻想」。

 英国の歴史研究者・クリストファー・ヒル(Christopher Hill、1912~2003)は、80歳を過ぎて、英国紙Independent の1994年1月15日号の<文化>面らしきところに、以下の文章を寄せている。同紙のサイトによる。全文を訳してみる。一文ごとに改行して、本来の改行箇所には//を付す。
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 「私は1945-46年に、<レーニンとロシア革命>を執筆した。今日では考え難いけれども、戦争中の英国とソ連との間の友好関係が成長し続けるかのごとく見えた、短い期間の間にだった。//
 外務当局が政府の承認を得て、両国の学生たちを定期的に交換留学させるという大規模な企画を考えるために、学識者の有力な委員会を立ち上げていた。
 冷戦によって、これは終わった。そして、ソ連に関して何か良いことを発言するのは、流行らない、かつある分野ではその人の評判を危うくするものになった。
 冷戦の終焉によって、イギリスとロシアの関係をより良く修復し、レーニンと彼の革命を再評価することが、いずれも可能になった。//
 本を執筆しているとき、私は、17世紀のイギリス革命、1789年のフランス革命および1917年のロシア革命の間にある共通性を抽出することを旨としていた。
 1660年の後のイングランド、1815年の後のフランスには、先立つ革命に対する苛酷な反動があった。
 しかし、イングニンドで1688年、フランスで1830年に、それらは旧体制の復活ではないことが示された。
 イギリスの革命は存続して、18世紀のヨーロッパ啓蒙時代の基礎を形作った。クロムウェルのもとでイングランドがアイルランドに従属するという恐怖があったにもかかわらず。
 テロルがあったにもかかわらず、フランス革命の理念(理想)は世界を覆い尽くした。//
 ロシア革命の元来の理念(理想)-男女の平等、諸民族の平等、働いてそれが生んだ富の配分を公正に分け合うという誰もが有する権利、怠惰な遊休階級は望ましくないこと-、これらの理念(理想)のいくつかは、ソヴィエトの現実では見られなくなった。しかしなお、これらは有効性を保っている。
 スターリニズムの虚偽と歪曲が忘れられるときに、それらの理念(理想)は思い起こされるだろう。-とくに、第三世界では。//
 毛沢東がフランス革命について語ったように、ロシア革命を適切に評価するにはまだ早すぎる。
 しかし、すでに我々には、西側資本主義の最悪の特質を真似ようとする猪突猛進行動はロシアで継続していないことが確実だ。
 失業、急騰する物価、社会保障の欠如、富のひどい不平等、統制されない民族および人種の敵対感、財産と人身に対する犯罪-これらの全てが、多くの者を、ソヴィエト体制がもったより良き展望を郷愁をもって(nostalgically)回顧させている。
 安定が最終的にやって来たときにはじめて、レーニンと彼の革命の公正な評価に至ることが可能だろう。
 スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blaming Lenin for Stalin)に陥らないようにするのが重要だ。二人の間に、いかなる連環(links)を見ようとも。//」
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 このCh. Hill は1947年(35歳の年)に<レーニンとロシア革命>と題する書物を刊行した。
 もっとも、ロシア・ソ連史が専門ではなく、17世紀イギリス史がそれだとされる。
 しかし、上の<レーニンとロシア革命>は邦訳されて、岩波新書の一つとして1955年に刊行された。
 この岩波新書を、レーニンの「生い立ち」やその青年時代の思考を記述するために使っているのが、つぎの本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 上のように、ロシア革命やレーニンをなお見ているヒルの本を、江崎はどのように<参照>しているだろうか。
 実質的に、江崎著指弾へと続く。

1815/レーニン・ロシア革命「幻想」と日本の右派。

 いくつかを、覚書ふうに記す。
 一 欧米人と日本人にとっての<冷戦(終焉)>の意味の違い。
 欧米人にとって<冷戦終結>とは、世界的な冷戦の終焉と感じられても不思議ではなかっただろう。
 なぜなら、彼らにとって欧米がすでに<世界>なのであって、ソ連・東欧に対する勝利あるいはソ連・共産主義圏の解体は、1989-1991年までの<冷戦>がもう終わったに等しかったと思われる。
 欧州に滞在したわずかな経験からもある程度は理解できるが、東方すぐに地続きで隣接していた、ソ連・共産主義圏の消滅は、まさに<世界的な冷戦の終焉>と受け止められても不思議ではなかった。
 しかし、正確に理解している「知識人」はいるもので、R・パイプスはアジアに「共産主義」国が残っていることをきちんと記していたし(<同・共産主義の歴史>、フランソワ・フュレの大著<幻想の終わり>も冒頭で、欧米だけを視野に入れている、という限定を明記している。
 <冷戦が終わった>としきりと報道し、かつそう思考してしまったのは日本のメディアや多くの知識人で、それこそこの点では表向きだけは欧米に依存した<情報環境>と<思考方法>が日本に強いことを明らかにした。
 二 日本にとって<冷戦>は終わり、それ以降の新時代に入っているのか。 
 日本のメディアや多くの知識人は、共産主義・資本主義(自由主義)の対立は終わった、あるいは勝負がついた、これからは各国のそれぞれの<国家の力>が各<国益>のために戦い合う新しい時代に入っている、などという<新しいかもしれないが、しかし間違った>考え方を広く言い募った。
 しかし、L・コワコフスキの大著にある<潮流(流れ)>という語を使えば、現在のチャイナ(中国)も北朝鮮も、そして日本にある日本共産党等も、れっきとした<マルクス主義の潮流(流れ)>の中にある。
 マルクス主義がなければレーニン・ロシア革命もなく、コミンテルンはなく、中国共産党、日本共産党等もなかった。例えば、L・コワコフスキが<潮流(流れ)>最終章で毛沢東に論及しているとすれば、現在の習近平もまたその<潮流(流れ)>の末にあることは明瞭だろう。
 1990年代以降も日本共産党は国政選挙で500-600万の票を獲得しつづけ、しかも近隣に北朝鮮や共産・中国が現にあるというのに、日本近辺でも<冷戦は終わった>などという基本的発想をしてしまうのは、日本共産党や北朝鮮や共産・中国が<望む>ところだろう。共産主義に対する<警戒心>を解いてくれるのだから。
 三 <冷戦後>の新時代に漂流する右派と<冷戦後>意識を利用して喜ぶ左派。
 そういう趨勢の中に明確にいるのは1997年設立の右派・「日本会議」で、この団体やこの組織の影響を受けている者たちは、共産主義あるいはマルクス主義に関する<勉強・研究>などもうしなくてよい、と考えたように見える。
 <マルクシズムの過ちは余すところなく明らかになった>(同・設立趣意書)のだから、彼らにとって、共産主義・マルクス主義に拘泥して?、ソ連解体の意味も含めて、共産主義・マルクス主義を歴史的・理論的に分析・研究しておく必要はもうなくなったのだ。
 こうした<日本>を掲げる精神運動団体などを、日本共産党や日本の<容共・左翼>は、プロパガンダ団体として以上には、怖れていないだろう。むしろ、その単純な、非論理的、非歴史的な観念的主張は、<ほら右翼はやはりアホだ>という形で、日本の「左翼」が利用し、ある程度の範囲の知的に誠実な日本国民を正当で理性的な反共産主義・「自由主義」から遠ざける役割を果たしている、と見られる。
 そのかぎりで、「日本会議」は、日本共産党を助ける<別働隊>だ。
 四 産経新聞主流派とは何か。
 産経新聞主流派もその「日本会議」的立場にあるようで、元月刊正論編集代表・桑原聡に典型的に見られるが、共産主義や日本共産党についてまともに分析する書物の一つも刊行せず、もっぱら「日本」を、あるいは<反・反日>、したがって民族的意味での<反中国や反韓国>を主張するのを基調としている。
 この人たちにとっての「日本」とは、別言すれば皇紀2600年有余に及ぶ、観念上の「天皇」だ。
 これは、かなりの程度は「商売」上の考慮からでもある。
 日本会議やそれを支える神社本庁傘下の神社神道世界の<堅い>読者、購買者を失いたくないわけだ。
 したがって、産経新聞は、コミンテルンや共産主義よりも、<神武東征>とか<楠木正成>とかに熱を上げ、そしてまた、聖徳太子(なぜか不思議だ)、明治天皇、明治維新とそれを担った「明治の元勲」たちを高く評価し(吉田松陰も五箇条の御誓文も同じ)、明治憲法の限界・欠点よりは良かったとする点を強調する。
 小川榮太郞は、その範囲内にある、れっきとした<産経(または右派)文化人>になってしまったようだ。
 なお、江崎道朗との対談で、江崎が「100年冷戦史観」というものを語ると、「なるほど」と初めて気づいたように反応していたのだから、この人の知的または教養または政治感覚のレベルも分かる。
 いつかきちんと、出所を明記し、引用して、小川榮太郞の幼稚さ・過ちを指摘しようとは思っているのだが。
 五 以上、要するに、反共・自由主義/共産主義の対立に、日本/反日という本質的でない対立点を持ち込んで、真の対立から逃げている、真の争点を曖昧にしているのが、日本会議であり、産経新聞主流派だ。
 六 <民主主義・ファシズム>と<容共・反共産主義>
 <民主主義・対・ファシズム>という、左(中?)と右に一線上に対比させる思考(二項対立的思考でもある)が、依然として、強く残っている。
 何度も書くが、この定式・対比のミソは、共産主義(・社会主義)を前者の側に含めることだ。(「民主主義」者は、共産主義者・社会主義者に対しても「寛容」でなければならないのだ)。
 そして、とくに前者の側の中核にいるふりをしている日本共産党は、F・フュレも指摘していたことだが、つねに<ファシズムの兆し>への警戒を国民に訴える。
 日本では「軍国主義」と言い換えられることも多い。
<ファシズム・軍国主義の兆し>への警戒を訴えるために現時点で格好の攻撃対象になっているのは、安倍晋三であり「アベ政治」だ。
 この定式・対比自体が、基本的に、<容共と反共の対立>の言い換えであることを、きちんと理解しておかなければならない。
 また、<民主主義・対・ファシズム>(容共・対・反共)は日本国憲法についていうと、とくに同九条(とくに現二項)の改正(・現二項の削除)に反対するか(護憲)と賛成するか(改憲)となって現れている。二項存置のままの「自衛隊」明記という愚案?は、本当の争点の線上にあるものでは全くない。
 七 再び「日本・天皇」主義-<あっち向いてホイ>遊び
 共産主義・マルクス主義への警戒心をなくし、<日本・対・反日>を対立軸として設定しているようでは、日本の共産主義者と「左翼」は喜ぶ。<日本・対・反日>で対立軸を設定するのは、かつてあった遊びでいうと、<あっち向けホイ>をさせられているようなものだ。
 産経新聞主流派、小川榮太郞、日本会議、同会関係の長谷川三千子、櫻井よしこらはみんな、きちんと「敵」を見分けられないで、<あっち向いてホイ>と、あらぬ方向を向いている。あるいは客観的には、向かされている。
 八 残るレーニン・ロシア革命「幻想」。
 そうした「右」のものたちに惑わされることなく、日本共産党や「左翼」は、後者については人によって異なるだろうが、程度はあれ、レーニンとロシア革命に対する<幻想>をもっており、かりに結果としてソ連は解体しても、レーニンとロシア革命に「責任」があったのではないとし、あるいは彼とロシア革命が掲げた理念・理想は全く誤ったものではないとする。そのような、マルクス主義・共産主義あるいはレーニン・ロシア革命に対する<幻想>は、まだ強く日本に残っている、と理解しておかなければならない。
 不破哲三が某新書のタイトルにしたように、<マルクスは生きている>のだ。
 この日本の雰囲気は、詳細には知らないが、明らかにアメリカ、イギリス、カナダと比べると異質であり、イタリアやドイツとも異なると思われる。おそらくフランスよりも強いのではないか。そしてこの日本の状況は、韓国の「左翼」の存在も助けている。
 先日に日本の知的環境・知的情報界の<独特さ>を述べたが、それは、先進諸国(と言われる国々)にはない、独特の<容共>の雰囲気・環境だ。共産主義・社会主義あるいはそのような主張をする者に対して厳しく対処しない、という日本の「甘さ」だ。
 日本に固有の問題は日本人だけで議論してもよいのだが、マルクス主義・共産主義、ファシズム、全体主義あるいは日本にも関係する世界史の動きを、-出版業やメディアの「独特」さのゆえに-狭隘な入り口を入ってきた欧米に関する特定の、または特定の欧米人の主張だけを参照して、それだけが世界の「風潮」だとして、日本列島でだけで通じるかもしれないような議論をしているように思われる。
 また、容共の、あるいはレーニン・ロシア革命「幻想」を残しているとみられる出版社・編集者の求めに応じて、同じく「幻想」を抱く内田樹、白井聡、佐高信らのまだ多数の者が<反安倍・左翼>の立場で「全くふつう人として、とくに奇矯な者とも思われないで」堂々と<知的情報>界で生きているのは、その範囲と程度の広さと強さにおいて、日本に独特の現象ではないか、と思われる。
 むろん、その基礎的背景として、日刊紙を発行し月刊誌も発行している日本共産党の存在があることも忘れてはいけない。
 九 イギリスのクリストファー・ヒル(Christopher Hill)
 イギリスあたりは日本に比べて、<取り憑かれたような左翼>はきわめて少ないのかとも思っていたが、レーニンとロシア革命への「幻想」をもつ者はまだいるようだ。
 17世紀イギリスの歴史家とされるクリストファー・ヒル(Christopher Hill)だ。次回は、この人物の1994年(ソ連解体後)の文章を紹介する予定。

1814/江崎道朗2017年8月著の無惨⑯。

 うっかりして(よくあることだ)、前回に以下を先に挿入するのを忘れていた。
 既公表のものの大幅な修正も数字等の変更もしたくないので、前回の追加の扱いとする。
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 悲惨で、無惨だ。これは、月刊正論(産経新聞社)毎号<せいろん時評>とやらを執筆している人物が<出版>した書物なのだ(評論家?、物語作家?、著述業者?、運動団体組織員?)。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 何度目かになるが、p.95の末尾を再び引用する。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 第一に、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報」だというのは誤りの文ではないかもしれない。
 しかし、「それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩」だなどと豪語するのは、明らかに自分は上の「公開されている情報」を「しっかり読み込んで理解」している(した)ということを含意しており、またはそう読解されてもやむをえないものだ。そして、そうだとは全く思えない。
 すなわち、「しっかり読み込んで理解」しているのでは全くなく、数十頁の間に基礎的で致命的な「誤った」理解や不十分な理解、あるいは意味不明の叙述等をしていて、むしろ<しっかり読み込まなくて、間違って、見当違いに、理解(誤解)している>というのが正鵠を射ている。
 第二。「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報」だというのは誤りの文ではないかもしれない。
 しかし、この文は、コミンテルンの資料で「公開されている情報」は、少なくとも相当部分は、自分は「使っている」=この書で「使った」、というふうに読者の理解を誘導するものだ。
 実際に江崎道朗が「使っている」コミンテルン関係資料というのは、既述のように、「公開」されているもののうち(これを日本語に翻訳されて公に出版されているもののうち、と理解するが)、ほんの僅かにすぎない。
 すでに詳しく、述べたとおり。

1813/江崎道朗2017年8月著の無惨⑮。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 前回に触れたように、後掲の邦訳書の「付録資料」の冒頭に訳者・萩原直が注記を施して、この「付録資料」の大半の翻訳は村田陽一の編訳書によることを明記している。
 つぎのものだ。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)。
 従って、江崎道朗は日本語によるこの6巻本が30年以上も前までに「公開」されているのを、(仮に以前は知らなくとも少なくともこの注記によって)当然に知ったはずなのだ。
 しかし、詳細で網羅的ふうに感じられるこの<コミンテルン資料集>に江崎がいっさい接近しようとした気配がないのは、何故なのだろうか。
 <コミンテルンの陰謀>を主題の一つとするかのごとき表題を付けながら、コミンテルンについて、この村田陽一編訳書を参照しようとせず、「コミンテルン」に関する叙述で萩原直の訳書に最も依拠しているのは、何故なのだろうか。
 日本の読者を馬鹿にしているか、本人の「無知」によるとしか考えられない。
 ちなみに、村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)は、この数年内の私でも簡単に入手できている。
 コミンテルンそれ自体が作成・発表した文書・資料がすでに日本語になっていることは何ら不思議ではない。おそらくは戦前から存在しており(日本に関する有名な27年や32年テーゼもある)、戦後のスターリンの死やフルシチョフ秘密報告があってもまだスターリンが日本の(トロツキストら以外にとっての)<容共・左翼>の「輝きの星」だった時期に、(レーニン全集やスターリン全集等もそうだが)スターリン期を含む戦前の<国際共産主義組織>の諸文書・資料の邦訳がないと想定すること者がいるとすれば、よほどの「無知」か「しろうと」だろう。
 萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(1998)の「付属資料」の大半が本当に村田陽一の訳と同じなのかを確認する手間はかけない。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻/1918-1921年(大月、1978)の概要は、つぎのとおり。
 資料件数-総数101。江崎道朗が<抜粋>だけの邦訳を見て、とんでもない誤解・無知をも示している全てで計4の文書の<全文>を含む。これらを江藤が一見すらしていないことは明白。
 以下、前回に記した江藤言及の4資料と対照させておく。右端はこの資料集第1巻での最初の頁と最終の頁だけから見た総頁数。
 ①1919.01.24/招待状-資料2(4頁)
 ②1920.07.28/民族植民地テーゼ-資料45a, 45b(8頁)。
 ③1920.08.04/規約-資料40(4頁)
 ④1920.08.06/加入条件-資料39(5頁)。
 その他、資料部分総頁-二段組み、538頁。「注解」総頁-54頁、「解説」総頁-24頁。数字つき最終頁-628(横書の頁が他にp.12まで)。
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 江崎道朗がコミンテルンについて最も依拠した、つぎの本・邦訳書の原著者はいったいどういう人物なのか。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。

 まず明確なのは、日本語版の<ウィキペディア>には、いずれの氏名でもヒットしない。
 不十分、不正確なところはあっても、L・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリックは、日本語版の<ウィキペディア>にも出てくる。
 つぎに明確なのは、英米語版<Wikipedia>でもKevin McDermott または Jeremy Agnew はの項目または欄はない。前者より著名らしき同名の者が、football-player や singer-song writer にはいる。後者と同名のより著名らしき、映画関係著述者はいる。
 結局のところ、Jeremy Agnew(ジェレミ・アグニュー)の現在については、かつて上の著の共著者らしいことは分かっても、それ以上に明らかにならないようだ。
 つぎに Kevin McDermott は少し前にどこかの高校の歴史の教師という知識を得たのだったが、<Kevin McDermott+historian>で、現在探してみると(といっても今日ではない)、つぎが分かった。<Wikipedia>ではなく、イギリスの大学教員紹介のサイトからだ。
 イギリス・シェフィールド大学とは別のシェフィールド・ハラム大学の「上級講師」(senior lecturer)。「20世紀東欧・ロシアの歴史家。共産主義チェコスロヴァキアとスターリニズムソ連が専門」とある。出生年不明。所属学部等には面倒だから立ち入らない。
 1998年刊行の邦訳書にはどう紹介されているかというと、K・マクダーマットは「チェコ労働運動史」、G・アグニューは「イタリア共産主義運動」の各「研究家」とカバー裏にあるだけで、訳者自身の文章(訳者あとがき)でも(本の内容ではなく)二人に関しては何も触れられていない。
 以下で触れる点も参照すると、1998年時点ではおそらく、二人ともに大学、研究所等の正規構成員ではなかったように見える。当時の推定年齢は30歳台だ。G・アグニューは20歳代後半だった可能性もある。
 いずれにせよ、K・マクダーマットは「博士」の学位はあるようだが、おそらくは50歳台以上でも(イギリスの教育・研究制度をよく知らないが)<教授職>を有しない。
 要するに、<コミンテルン史>を共著として刊行しているが、イギリスおよび英米語圏諸国でさほどに著名な、あるいは評価の高い研究者ではなく、当時はほぼ全く無名だったように推察される。
 原書刊行1996年以降のロシア革命やコミンテルン関係書物について詳しくないが、少なくとも今のところ、この著が参照されているのに気づいたことはない。
 それに、内容にもかかわるが、二人が書いている冒頭の「謝辞」によると、「まえがき」と「おわりに」を除く計6章のうち第5章は別の人物(原書によって正確に綴ると Michael Weiner, シェフィールド大学東アジア研究センター所長)が執筆しており、およそ二つの章は(二人の共同執筆なのかどちらかのものなのか不明だが)既発表の論文を修正・追加等をしてまとめたものだ。二人にとって最初の書籍公刊だった可能性が高い。
 したがつて、いちおうは年代を追って「コミンテルン史」を叙述しているが、この書で初めて体系的に整理して叙述したものでもなさそうだ。
 追記すると、20歳代(または30歳代)の若い研究者が論文類をまとめて初めて一冊の本にするのは日本でもあることだと思うが、共著というのは珍しいだろう。しかも、かりに指導教授だつたとはいえ?、一部をその別の人物が書いているのも、日本ではあまり例を知らない(「まえがき」くらいで意義を語る、というのはあるかもしれない)。
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 こんなことを書いても、江崎道朗は本文を何ら読まず、「付録資料」だけを(致命的な誤読・誤解をしつつ)利用しているにすぎないと思われるので、江崎道朗にはきっと、何の意味もないだろう。
 ただ、関心を惹くのは、第一に、大月書店が、なぜこの本の訳書を刊行したのか、ということだ。これはこの本の内容にかかわる。
 また、第二に、日本共産党直系の新日本出版社や学習の友社でなくとも、(マル・エン全集、レーニン全集等の出版元で)<容共・左翼>であって、1990年以前は明らかに日本共産党系だったと思われる大月書店の刊行物を、なぜ簡単に?江崎道朗が利用したのか、というのも不思議だ。
 加藤哲郎が<左翼>であることを多分知らないほどだから、大月書店という出版社名を何ら気に懸けなかった可能性はある。しかし、この邦訳書の巻末には、同社刊行のマル・エン全集CD-ROM版等の宣伝広告も載っていて、この社の<左翼>性に-常識的には-気づかないはずはないのだが。
 より決定的で明確な、江崎道朗の<反・反共>インテリジェンスに対する<屈服>、したがって、江崎に<共産主義者のインテリジェンス活動>を警戒すべきとするような文章を書く資格はないだろうという、江崎のこの著に現にある叙述については、さらに別に書く。

1812/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑨。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第9回。 
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 第三章・内戦(The Civil War)。
 (はじめに)
 十月の権力奪取はボルシェヴィキ革命の終わりではなく、始まりだった。
 ボルシェヴィキはペテログラードを征圧し、一週間の路上戦闘ののち、モスクワでもそうした。
 しかし、たいていの州中心地で起ち上がったソヴェトはまだ、ブルジョアジーの打倒(地方レベルではしばしば、町のしっかりした市民層が設置した「公共安全委員会」の排除を意味した)のために資本家の指導に従わなければならなかった。
 そして、地方ソヴェトが弱くて権力を奪えないとしても、資本家から支援が与えられそうにはなかった。(1)
 各州のボルシェヴィキは、中心地と同様に、当時にメンシェヴィキとエスエルが支配して成功裡にその権限を主張する地方ソヴェトに対する方針を案出しなければならなかった。
 さらに、田園地帯のロシアでは、町が持った権限による拘束が大幅になくなっていた。
 旧帝国内の遠方の非ロシア領域には、複雑に混乱した、さまざまの状況があった。
 いかなる在来の意味でも国家を統治する意図をもってボルシェヴィキが権力を奪取したのであれば、ある程度は長くて困難な、アナーキーで非中央志向の、分離主義的な傾向との闘いが前方に横たわっていたのだ。//
 実際、ロシアの将来の統治形態の問題は、未決定のままだった。
 ペテログラードでの十月革命で判断して、ボルシェヴィキはその「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンを留保した。
 一方で、このスローガンは1917-18年の冬の州の雰囲気には適合しているように見えた。-しかし、これはおそらく、中央政府の権威が一時的に崩壊したことを言い換えたものにすぎない。
 ボルシェヴィキは「プロレタリア-トの独裁」という別のスローガンで正確に何を意味させたかったのか、を見分ける必要がまだあった。
 レーニンがその最近の著述物で強く示唆したように、これが旧所有者階級による反革命運動を粉砕することを意味しているとすれば、新しい独裁制は、帝制期の秘密警察と類似の機能をもつ実力強制機関を設立することになっただろう。
 それがボルシェヴィキ党の独裁を意味しているとすれば、レーニンに対する政治的反対者の多くが疑ったように、その他の政党が継続して存在することは大きな問題を生じさせた。
 だがまだ、新体制は旧ツァーリ専制体制のように抑圧的に行動することができただろうか?、そしてそうしてもなお、民衆の支持を維持しつづけることができただろうか?
 さらに、プロレタリア-ト独裁は、幅広い権力と労働組合や工場委員会を含む全てのプロレタリアの組織の自立を意味しているようにも思われた。
 もしも労働組合や工場委員会が労働者の利益について異なる考え方をもっていれば、何が起こっていたのか?
 もしも工場での「労働者による統制」が労働者による自主管理を意味するとすれば、それは、ボルシェヴィキが社会主義者の根本的な目標だと見なしていた経済発展に関する中央志向の計画と両立したのだろうか?//
 ロシアの革命体制はまた、全世界でのその位置を考慮しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちは国際的なプロレタリア革命運動の一部だと考えており、ロシアでの勝利はヨーロッパじゅうに同様の革命を誘発するだろうと期待していた。
 彼らはもともとは、新しいソヴェト共和国は他国と在来の外交関係を保たなければならない国家だとは思っていなかった。
 トロツキーが外務人民委員に任命されたとき、彼は若干の革命的宣告を発して、「店終い」をしようと考えていた。
 1918年初めのドイツとのブレスト=リトフスク講和の交渉でのソヴィエト代表者として、彼は(成功しなかったが)過去のドイツの公的代表者たちにドイツ国民、とくに東部戦線のドイツ兵士たちについて語って、外交過程の全体を覆そうとした。
 伝統的な外交には必要な承認が遅れたのは、ボルシェヴィキの指導者たちが強く、ロシア革命はヨーロッパの発展した資本主義諸国での労働者の革命によって支えられないかぎり長くは存続できない、と信じていたからだ。
 革命的ロシアは孤立しているという事実が徐々に明らかになってようやく、ボルシェヴィキは、外部世界に対する彼らの地位を再査定し始めた。そして、その時期までは、革命的な呼びかけを伝統的な国家間の外交と結合させる習癖が、堅く揺るぎないものだった。//
 新しいソヴェト共和国の領土的境界と非ロシア諸民族に対する政策は、別の大きな問題を成していた。
 マルクス主義者にとってナショナリズム(民族主義)は虚偽の意識の一形態だったけれども、レーニンは戦前に、民族の自己決定権の原理を用心深く擁護した。
 ナショナリズムが有する実際上(pragmatic)の意味は、それが脅威にならないかぎりは残ったままだ。
 1923年、のちにソヴィエト同盟の結成が決定されたときに採択された政策は、「民族性の形態を認める」ことによってナショナリズムを解体することだった。民族性を認めるとは、分離した民族共和国、少数民族の保護および民族的言語や文化、民族エリートたちへの支援といったものだ。(2)//
 しかしながら、民族の自決には限界があった。従前のロシア帝国の領土を新しいソヴェト共和国に編入することに関して明確になったように。
 ペテログラードのボルシェヴィキが、ハンガリーについてそうだったように、アゼルバイジャン(Azerbaijan)のソヴェト権力が革命的勝利をするのを望むのは自然だった。以前はペテルブルクを首都とする帝国の臣民だったアゼルバイジャンは、そのことを高く評価するようには思えなかったけれども。
 ボルシェヴィキがウクライナのソヴェトを支持してウクライナの「ブルジョア」的民族主義者に反対したのも、自然だった。そのソヴェトは(ウクライナの労働者階級の人種的構成を反映して)ロシア人、ユダヤ人および民族主義者だけではなくウクライナの農民層にも「外国人」だったポーランド人で支配されている傾向にあったけれども。
 ボルシェヴィキのディレンマは、プロレタリア的国際主義の政策が実際には旧式のロシア帝国主義と、当惑させるほどに類似していた、ということだった。
 このディレンマは、赤軍(the Red Army)が1920年にポーランドに侵入し、ワルシャワの労働者が「ロシアの侵略」に抵抗したときにきわめて劇的に例証された。(3)
 しかし、十月革命後のボルシェヴィキの行動と政策は全くの空白から形成されたのではなく、内戦という要因がほとんどつねにそれらを説明するためにきわめて重要だった。
 内戦は、1918年半ばに勃発した。それは、ロシアとドイツの間のブレスト=リトフスク講和が正式の結論を得て、ロシア軍がヨーロッパ戦争から明確に撤退した、数ヶ月だけ後のことだった。
 内戦は、多くの前線での、多様な白軍(すなわち、反ボルシェヴィキ軍)との戦闘だった。白軍は、ヨーロッパ戦争でのロシアの従前の連盟諸国を含む諸外国の支援を受けていた。
 ボルシェヴィキは内戦を、国内的意味でも国際的意味でも階級戦争だと見なした。すなわち、ロシアのブルジョアジーに対するロシアのプロレタリア-ト、国際的資本主義に対する(ソヴェト共和国が好例である)国際的な革命。
 1920年の赤軍(ボルシェヴィキ)の勝利は、したがってプロレタリアの勝利だった。しかし、この闘いの苦しさは、プロレタリア-トの階級敵がもつ力強さと決意を示していた。
 干渉した資本主義諸国は撤退したけれども、ボルシェヴィキは、その撤退が永続するとは信じなかった。
 彼らは、より適当な時期に国際資本主義勢力が戻ってきて、国際的な労働者の革命を根こそぎ壊滅させようとするだろうと予期した。//
 内戦は疑いなく、ボルシェヴィキと幼きソヴェト共和国に甚大な影響を与えた。
 内戦は社会を分極化し、長くつづく怨念と傷痕を残した。外国の干渉は「資本主義の包囲」に対する永続的なソヴェトの恐怖を作り出した。その恐怖には、被害妄想(paranoia)と外国恐怖症の要素があった。
 内戦は経済を荒廃させ、産業をほとんど静止状態にさせ、町を空っぽにした。
 これは経済的でかつ社会的な意味はもちろん、政治的な意味をもった。工業プロレタリア-ト-ボルシェヴィキがその名前で権力を奪取した階級-の少なくとも一時的な解体と離散を意味したのだから。//
 ボルシェヴィキが初めて支配することを経験した、というのが内戦の経緯にはあった。そして、これは疑いなく、多くの点で党のその後の展開の型を形成した。(4)
 内戦中のある時期には、50万人以上の共産党員が赤軍で働いた(そして、この集団の中の大まかには半分が、ボルシェヴィキに入党する前に赤軍に加わっていた)。
 1927年のボルシェヴィキの全党員のうち、33%が1917-1920年に入党した。一方、わずかに1%だけが、1917年以前からの党員だった。(5)
 こうして、革命前の地下生活-「古参」ボルシェヴィキ指導者たちの揺籃期の体験-は1920年代のほとんどの党員にとっては風聞によってだけ知られていた。 
 内戦中に入党した集団にとって、党とは最も文字どおりの意味で、戦闘する仲間だった。
 赤軍の共産党員たちは、党の政策の用語に軍事専用語彙を持ち込み、軍の制服と靴をほとんど1920年代および1930年代初めの党員の制服にした。-かつてはふつうの職に就いていた者や若すぎて戦争に行けなかった者たちすら身につけた。//
 歴史研究者の判断では、内戦の経験は「ボルシェヴィキ運動の革命的文化を軍事化した」。そして、「強制力に簡単に頼ること、行政的指令による支配(administrirovanie)、中央志向の行政や略式司法」といった遺産を党に残した。(6)
 ソヴィエト(とスターリニズム)の権威主義の起源に関するこのような見方は、党の革命前の遺産やレーニンの中央志向の党組織や厳格な紀律の主張を強調する、西側の伝統的な解釈と比べて、多くの点でより満足できるものだ。
 にもかかわらず、党の権威主義傾向を補強した他の要因もまた、考察しなければならない。
 第一に、少数者による独裁はほとんど必然的に権威主義的になり、その幹部として働く者たちは、レーニンが1917年の後でしばしば批判した上司気分やいやがらせの習癖を極度に大きくしがちだった。
 第二に、ボルシェヴィキ党の1917年の勝利は、ロシアの労働者、兵士と海兵の支持による。そして、これらの者たちは、古いボルシェヴィキ知識人たちよりも、反対者を粉砕し、如才のない説得ではなく実力でもって権威を押しつけることを嫌がる傾向が少なかった。//
 最後に、内戦と権威主義的支配の連環を考察するには、ボルシェヴィキと1918-20年の政治的環境の間には二つの関係があった、ということを想起する必要がある。
 内戦はボルシェヴィキに何ら責任のない、神の予見できない行為だったのではない。
 反対に、ボルシェヴィキは、1917年の二月と十月の間の月日に、武装衝突や暴力と提携した。
 そして、ボルシェヴィキの指導者たちは事態の前に完璧に十分に知っていたように、十月蜂起は多くの者によって、明白に内戦へと挑発するものだと見られていた。
 内戦は確かに、新体制に対して戦火による洗礼を施した。そして、それによって新体制の将来の行く末に影響を与えた。
 しかし、その洗礼の受け方はボルシェヴィキが危険を冒して採用したものであり、彼らが追求したものですらあったかもしれない。(7)
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 (1) 地方での革命のその後に関する資料につき、Peter Holquist, <戦争開始、革命案出-危機のロシア共産主義、1913年-1921年>(Cambridge & London, 2002)(ドン地域について)、およびDonald J. Raleigh, <ロシア内戦の経験-Saratov での政治、社会と革命的文化、1917年-1922年>(Princeton, NJ, 2002)を見よ。
 (2) Terry Martin, <積極的差別解消(Affirmative Action)帝国>(Ithaca, 2001), p.8, p.10.
 (3) この論点に関する議論につき、Ronald G. Suny, 「ロシア革命におけるナショナリズムと階級-比較的討論」、E. Frankel, J. Frankel & B. Knei-Paz, eds, <革命のロシア-1917年に関する再検証>(Cambridge, 1992)所収、を見よ。
 (4) 内戦の影響につき、D. Koenker, W. Rosenberg & R. Suny, eds, <ロシア内戦における党、国家と社会>(Bloomington, IN, 1989)を見よ。
(5) T. H. Rigby, <ソヴィエト同盟の共産党員, 1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), p.242.<Vsesoyuznaya partiinaya perepis' 1927 goda. Osnovnye itogi perepisi>(Moscow, 1927), p.52.
 (6) Robert C. Tucker, 「上からの革命としてのスターリニズム」、Tucker, <スターリニズム>所収p.91-92.
 (7) こうした議論は、Sheila Fitzpatrick「形成期の経験としての内戦」、A. Gleason, P. Kenez & R. Stites, eds, <ボルシェヴィキ文化>(Bloomington, IN, 1985)所収、で詳しく述べた。
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 第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
 ボルシェヴィキの十月蜂起の直後、カデットの新聞は革命を救うために武装することを呼びかけ、コルニロフ将軍の愛国者兵団は親ボルシェヴィキ兵や赤衛隊と衝突してペテログラード郊外のプルコヴォ高地どの戦闘に敗れ、モスクワでは大きな戦闘があった。
 この第一次戦闘で、ボルシェヴィキは勝った。
 しかし、ほとんど確実に、彼らはもう一度戦闘をしなければならなかった。
 ドイツおよびオーストリア-ハンガリーと戦争中の南部戦線にいる大ロシア軍には、北西部のそれによりも、ボルシェヴィキは人気がなかった。
 ドイツはロシアと戦争を継続中であり、東部戦線での講和についてはドイツには有利だったにもかかわらず、連盟諸国から得た支援以上のドイツによる酌量を、ロシア新体制はもはや計算することができなかった。
 東部戦線のドイツ軍司令官は、1918年2月早くの日記にこう書いた。そのときは、ブレスト=リトフスクでの講和交渉の決裂後に、ドイツ軍が新規に攻勢をする直前だった。
 『逃げ出すことはできない。さもなくば、この野蛮者たち〔ボルシェヴィキ〕はウクライナ、フィンランドとバルトをなぎ倒し、新しい革命軍と穏やかに一緒になり、ヨーロッパ全体を豚小屋のごとき陋屋に変えるだろう。<中略>
 ロシア全体が、うじ虫の巨大な堆積物だ。-汚らしい、大挙して脅かすゴロツキたちだ。』(8)
 1月〔1918年〕のブレストでの講和交渉の間、トロツキーはドイツ側が提示した条件を拒み、「戦争はなく、平和もない」という戦略をとるのを試みた。これは、ロシアは戦争を継続しないが、受容できない条件での講和に署名しもしない、ということを意味した。
 これは全くの虚勢だった。ロシア軍は前線で融解しつつあり、一方で、ボルシェヴィキは同じ労働者階級の連帯を訴えたにもかかわらず、ドイツ軍はそうではなかったからだ。
 ドイツはトロツキーの虚勢に対して開き直り、その軍は前進し、ウクライナの大部分を占拠した。//
 レーニンは、講和することが不可欠だと考えていた。
 ロシアの戦力とボルシェヴィキが内戦を闘う蓋然性からすると、これはきわめて理性的だった。
 加えて、ボルシェヴィキは十月革命前に、ロシアはヨーロッパの帝国主義戦争から即時に撤退すべきだと言明していた。
 しかしながら、十月でもってボルシェヴィキは「平和政党」(peace party、平和主義の党)だと理解するのは、相当の誤解を招くだろう。
 十月にケレンスキーに対抗してボルシェヴィキのために闘う気持ちのあったペテログラードの労働者たちには、ドイツ軍に対抗してペテログラードのために闘う気持ちもあった。
 この戦闘的な雰囲気は、1918年の最初数ヶ月のボルシェヴィキ党へ強く反映されていた。そしてこれはのちには、内戦を闘う新体制にとって大きな財産になることになった。
 ブレストでの交渉の時点でレーニンには、ドイツとの講和に調印する必要についてボルシェヴィキ中央委員会すらをも説得することが、きわめて困難だった。
 党の「左翼共産主義者」は、侵略者ドイツに抵抗する革命的ゲリラ戦争を主張した。-「左翼共産主義者」とは若きブハーリン(Nikolai Bukharin)らのグループで、のちにブハーリンは、指導層内部でのスターリンの最後の対立者として歴史上の位置を占めた。
 そしてこの当時はボルシェヴィキと連立していた左翼エスエルも、同様の立場を採った。
 レーニンは最後には、退任すると脅かして、ボルシェヴィキ党中央委員会による票決を迫った。それは、じつに苦しい戦いだった。
 ドイツが攻撃に成功してその後で課した条件は、1月に提示したものよりも相当に苛酷なものだった。
 (しかし、ボルシェヴィキは好運だった。ドイツはのちにヨーロッパ戦争に敗れ、その結果として東部の征圧地を失ったのだから。)//
 ブレスト=リトフスクの講和によって、軍事的脅威からの短い息抜きだけが生じた。
 旧ロシア軍の将校たちは南部のドンやクバンのコサック地帯に兵を集結させており、提督コルチャク(Kolchak)は、シベリアに反ボルシェヴィキ政権を樹立していた。
 イギリスは兵団をロシア北部の二つの港、アルハンゲルスク(Arkhangelsk)とムルマンスクに上陸させた。表向きはドイツと戦うためだったが、実際には新しいソヴェト体制に対する地方の反対勢力を支援する意図をも持って。//
 戦争の不思議な成り行きで、非ロシア人の兵団ですら、ロシア領土を通過していた。-およそ3万人のチェコ人軍団で、ヨーロッパ戦争が終わる前に西部前線に達する希望をもっていた。チェコ軍団はそうして、連盟諸国の側に立って旧宗主国のオーストリアと戦い、民族の独立という彼らの主張を実現したかったのだ。
 ロシアの側から戦場を横切ることができなかったので、チェコ軍はシベリア横断鉄道で<東>へとありそうにない旅をしてウラジオストクにまで行き、船でヨーロッパに帰ろうと計画した。
 ボルシェヴィキは、そのような旅を公式に認めなかった。しかし、地方のソヴィエトは武装した外国人の一団が経路途上で鉄道駅に着くのに敵意をもって反応していたが、こうした反応がなくなったのではなかった。
 1918年5月、そのチェコ軍は、ボルシェヴィキが支配していたチェリャビンスク(Chelyabinsk)というウラルの町のソヴィエトと初めて衝突した。
 別のチェコ軍の一団は、ボルシェヴィキに対抗してエスエルが短命のヴォルガ共和国を設立しようと起ち上がったとき、サマラのロシア・エスエルを支援した。
 チェコ軍はロシアの外で多少とも戦いながら進んで、終わりを迎えた。そして、全員がウラジオストクを去って船でヨーロッパに戻ったのは、多くの月を要した後だった。//
 内戦それ自体は-ボルシェヴィキの「赤軍」対反ボルシェヴィキの「白軍」-、1918年夏に始まった。
 この時期にボルシェヴィキは、首都をモスクワに移転させた。ドイツ軍が攻略するという脅威をペテログラードは逃れていたが、将軍ユデニチ(Yudenich)が指揮する白軍の攻撃にさらされたからだ。
 しかし、国家の大部分はモスクワの有効な統制のもとにはなかった(シベリア、南部ロシア、コーカサス、ウクライナおよび地方ソヴェトを間欠的に都市的ソヴェトが支配したウラルやヴォルガの地域の多くをも含む)。そして、白軍は、東部、北西部および南部からソヴェト共和国を脅かした。
 連盟諸国の中で、イギリスとフランスはロシアの新体制にきわめて敵対的で、白軍を支援した。それらの直接的な軍事介入は、かなり小さな規模だったけれども。
 アメリカ合衆国と日本は、シベリアに兵団を派遣した。-日本軍は領域の獲得を望んで、アメリカ軍は混乱しつつ、日本を抑え、シベリア横断鉄道を警護しようとした。またおそらくは、アメリカの民主主義の規準で推測すれば、コルチャクのシベリア政権を支援するために。//
 ボルシェヴィキの状況はじつに1919年に、絶望的に見えた。そのとき、彼らが堅く支配している領土は、大まかには16世紀のモスクワ大公国(Muscovite Russia)と同じだった。
 しかし、対立者〔白軍側〕もまた、格別の問題を抱えていた。
 第一に、白軍はほとんどお互いに独立して活動し、中央の指揮や協力がなかった。
 第二に、白軍が支配する領域的基盤は、ボルシェヴィキのそれ以上に希薄なものだった。
 白軍が地域政府を設立したところでは、行政機構を最初から作り出さなければならず、かつその結果はきわめて不満足なものだった。
 歴史的にモスクワとペテルブルクに高度に集中していたロシアの輸送や通信制度は、周縁部での白軍の活動を容易にはしなかった。
 白軍は赤軍だけではなくて、いわゆる「緑軍」にも悩まされた。-これは農民とコサックの軍団で、いずれの側にも忠誠を与えず、白軍が根拠にしていた遠い辺鄙な地帯で最も行動した。
 白軍は旧帝制軍隊出身の将校たちを多く有していたが、彼らが指揮をする兵士の新規募集や徴用によって兵員数を確保するのは困難だった。//
 ボルシェヴィキの戦力は、1918年春に戦争人民委員となったトロツキーが組織した赤軍だった。
 赤軍は最初から設立されなければならなかった。旧ロシア軍の解体が早く進みすぎて、止められなかったからだ(ボルシェヴィキは権力奪取後すぐに、全軍の動員解除を発表した)。
 1918年最初に形成された赤軍の中心は、工場出身者による赤衛隊および旧軍や艦隊出身のボルシェヴィキの一団で成っていた。
 この赤軍は自発的な募兵によって膨らみ、1918年夏からは、選抜しての徴兵になった。 労働者と共産党員は、初めて徴兵されることになった。そして、内戦の間ずっと、戦闘兵団のうちの高い割合を提供した。
 しかし、内戦の終わりまでに、赤軍は、主としては農民徴兵者の、500万以上の入隊者のいる大量の組織になった。
 これらの約10分の1だけが戦闘兵団で(赤軍と白軍の両派が配置した戦力は、ある特定の前線では10万人をほとんど超えなかった)、残りの者は供給、輸送または管理的な仕事に就いた。
 赤軍はかなりの範囲で、民間人による行政が破壊されて残した空隙を充填しなければならなかった。すなわち、そのような行政機構は、ソヴェト体制が近年に持つ、最大でかつ最もよく機能する官僚制を伴っていた。また、全ての利用可能な資産の中で最初に欲しいものだった。//
 多くのボルシェヴィキは、赤衛隊のようなmilitia(在郷軍、民兵)タイプの一団をイデオロギー的に好んだ。しかし、赤軍は最初から通常の軍隊の方向で組織され、兵士は軍事紀律に服し、将校は選挙されないで任命された。
 訓練をうけた軍事専門家が不足していたので、トロツキーとレーニンは旧帝制軍出身の将校たちを使おうと強く主張した。この政策方針は、ボルシェヴィキ党内でかなり批判され、軍事反対派は連続する二つの大会で反対にしようとしたけれども。
 内戦の終わりまでに、赤軍には5万人以上の以前は帝制軍将校だった者がいた。そのほとんどは徴兵されていて、上級軍事司令官の大多数はこのグループの出身だった。
 旧将校たちが忠実であるのを確保するために、彼らは通常は共産党員である政治委員に付き添われた。政治委員は、全ての命令に副署して、軍事司令官と最終的責任を共有した。//
 この軍事力に加えて、ソヴェト体制はすみやかに治安機構を設立した。-反革命、怠業および投機と闘争するための全ロシア非常時委員会で、チェカ(Cheka)として知られる。 この組織が1917年12月に創立されたとき、その直接の任務は、十月の権力奪取後に続いた、強盗団、略奪および酒類店の襲撃の発生を統制することだった。
 しかし、それはすぐに、保安警察というより幅広い機能を有して、反体制陰謀に対処した。また、ブルジョア的「階級敵」、旧体制や臨時政府の役人たちおよび反対政党の党員などの、忠誠さが疑わしい集団を監視した。
 チェカは、内戦開始後はテロルの機関になり、処刑を含む略式の司法的機能をもち、白軍の指揮下にあるか白軍へと傾いている地域で、大量に逮捕し、手当たり次第に人質に取った。
 1918年および1919年前半での欧州ロシアの20州に関するボルシェヴィキによる統計数によると、少なくとも8389人が審判を受けることなくチェカによって射殺され、8万7000人が拘束された。(9)
 ボルシェヴィキのテロルと同等のものは白軍にあり、ボルシェヴィキ支配下の領域で反ボルシェヴィキ勢力によって行われた。そして、同じような残忍さが、どちらの側にもあった。
 しかしながら、ボルシェヴィキは自分たちがテロルを用いていることについて率直に認めていた(このことは、略式司法だけではなくて、特定の集団または民衆全体を威嚇するための、個々の罪とは関係がない無作為の制裁があったことを示唆する)。
 ボルシェヴィキはまた、暴力行使について精神的に頑強であることを誇りにしていた。ブルジョアジーの口先だけの偽善を嫌がり、プロレタリア-トを含むいかなる階層の支配に対しても、別の階層に対する強制力の行使に関係させることを認めたのだ。
 レーニンとトロツキーは、テロルの必要性を理解できない社会主義者に対する侮蔑を明言した。
 レーニンは、「怠業者や白軍兵士を射殺する意欲がなかったならば、革命とはいったいどんな種類のものなのだ?」と新政府の同僚たちに説諭した。(10) 
 ボルシェヴィキが歴史上にチェカの活動との類似物を探し求めたとき、彼らはふつうに、1794年のフランスの革命的テロルに論及した。
 彼らはいかなる類似性も、帝制下の秘密警察には見出さなかった。西側の歴史研究者はしばしば、それを引き合いに出すけれども。
 チェカは実際に、旧警察よりもはるかに公然とかつ暴力的に活動した。そのやり方は、一つには1917年にその将校に対処したバルト艦隊の海兵たちによる階級的復讐、あるいは二つには1906-7年のストリュイピンによる田園地帯の武力による鎮圧とはるかに共通性があった。
 帝制期の秘密警察との類似性は内戦後について語るのが適切になった。内戦後にチェカはGPU(国家政治保安部)に置き換えられ-テロルの廃止と合法性の拡大への動き-、保安機関はその活動方法についてより日常的で官僚的で、慎重なものになった。 
 長期的観点から見ると、帝制秘密警察とソヴィエトのそれの間には、明らかに継続性の要素が強くあった(明らかに人員上の継続性はなかったけれども)。
 そして、それが明瞭になるにつれて、保安機能に関するソヴィエトの説明は捕捉し難い、偽善的なものになった。//
 赤軍とチェカはともに、内戦でのボルシェヴィキの勝利に重要な貢献をした。
 しかしながら、この勝利を単純に軍事力とテロルの観点から説明するのは適切でないだろう。とりわけ、赤軍と白軍の間の戦力の均衡度を査定する方法を誰も見出していなかったのだから。
 社会による積極的な支援と消極的な受忍が考察されなければならない。そして、これらの要因が、おそらくは最も重要だった。
 赤軍は積極的支持を都市的労働者階級から得て、ボルシェヴィキはその組織上の中核部分を提供した。
 白軍は積極的支持を旧中間および上層階級から得て、その一部は主要な組織活動家として働いた帝制時代の将校団だった。
 しかし、均衡を分けたのは確実に、人口の大多数を占める農民層だった。//
 赤軍も白軍もいずれも、それらが支配する領域で農民を徴兵した。そしていずれの側にも、かなりの割合で脱走があった。
 しかしながら、内戦が進展するにつれて、農民の徴兵が顕著に困難になったのは、赤軍以上に白軍だった。
 農民たちは穀物徴発というボルシェヴィキの政策に憤慨していた(後述、p.82-83を見よ)。しかし、この点では白軍の政策も変わりはなかった。
 農民たちはまた、1917年のロシア軍での体験がたっぷりと証明していたので、誰かの軍で働く大きな熱意がなかった。
 しかしながら、1917年に農民の支持が大きく低下したのは、土地奪取と村落による再配分と密接に関係していた。
 この過程は1918年末までには、ほぼ完了した(このことは軍役に対する農民の反感を減らした)。そして、ボルシェヴィキはこれを是認した。
 一方で白軍は、土地奪取を是認しないで、従前の土地所有者の要求を支持した。
 かくして、土地というきわめて重大な問題について、ボルシェヴィキの方が、より小さい悪だった。(11)//。
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 (8) J. W. Wheeler-Bennett, <ブレスト=リトフスク、忘れられた平和-1918年3月>(New York, 1971), p.243-4. から引用した。
 (9) 数字は、Aleksander I. Solzhenitsyn, <収容所列島、1918年-1956年>、訳・Thomas P. Whitney(New York, 1974),ⅰ-ⅱ, p.300. から引用した。
 ペテログラードでのチェカの活動につき、Mary McAuley, <パンと正義-ペテログラードにおける国家と社会、1917年-1922年>(Oxford, 1991), p.375-393. を見よ。
(10) テロルに関するレーニンの言明の例として、W. Bruce Lincoln, <赤の勝利-ロシア内戦史>(New York, 1989)を見よ。
 トロツキーの考え方につき、彼の<テロルと共産主義: カウツキー同志に対する返答>(1920)を見よ。
 (11) 農民の態度につき、Orland Figes, <農民ロシア、内戦: 革命期のヴォルガ田園地帯・1917年-1921年>(Oxford, 1989)を見よ。
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 第三章・内戦のうち「はじめに」と第1節(内戦・赤軍・チェカ)が終わり。

1811/リチャード・パイプス逝去。

 リチャード・パイプスが今年5月に亡くなっていたようだ。満94歳、享年96。
 Richard Pipes/1923年7月11日~2018年5月17日。
 R・パイプスの<ロシア革命>の一部の試訳を始めたのは2017年2月末か3月初めで、あれからまだ2年も経っていない。
 実質的には日本の公立高校卒業時の英語力でこの欄に自分の英訳文を何回も掲載することになるとは、その直前まで、全く想定していなかった。
 きちんと和訳してみたいと思ったのは、R・パイプス<ロシア革命>原書(1990)のボルシェヴィズムの生起から「レーニンの生い立ち」あたりを読み進んでいると(むろん意味不明部分はそのままにしつつ)、レーニンの党(ここではボルシェヴィキのこと)が活動資金を得るために銀行強盗をしたり相続人だと騙って大金を窃取するなどをしていた、といった記述があったからだ。
 のちにも、レーニンは、あるいはボルシェヴィキ党員は<どうやって食っていたのか>、つまり基礎的な生活のための資金・基礎をどうやって得ていたのか、という関心からする記述もあった。
 R・パイプスによると、少なくとも十月革命までの「かなりの」または「ある程度」の彼らの財源は、当時のドイツ帝国から来ていた。アレクサンダー・パルヴス(Parvus)は<革命の商人>と称される。
 1917年の七月事件後に成立したケレンスキー政権はその(国家反逆罪の)確証らしきものを掴んではいたが、ボルシェヴィキよりもカデットを嫌って、換言するとボルシェヴィキは<左翼>の仲間だが(ボルシェヴィキもエスエル等とともに、7月までは第三順位だが「ソヴェト」の一員の党ではあった)、カデット(立憲民主党)の方が臨時政府にとっての<敵>だと考えて、断固たる措置を執らなかった。
 戻ると、銀行強盗というのは、日本共産党も戦前にかつて行った<大森銀行ギャング事件>を思い起こさせる。
 なかなか興味深いことを多々、詳細に書いてあると感じて、この欄に少し訳出しようと思ったのが、1年余り前のことだった。
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 つぎの本は、実質的に、リチャード・パイプスの<自伝>だ。80歳の年の著。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non-Belonger (2003)。
 Non-Belonger の意味に立ち入らないが、VIXI とはラテン語で<I have lived>という意味らしい(Preface の冒頭)。
 すでにこの欄に記したが、この著のp.124とp.125の間の複数の写真の中に、R・パイプス、レシェク・コワコフスキ、アイザイア・バーリンら4人が立って十字に向かい合って何かを語っている写真がある。
 昨年当時にきっと名前だけは知っていたL・コワコフスキとR・パイプスが同時に写っているのはなかなか貴重だ。
 機会があれば、上の本の一部でも試訳してこの欄に載せたい。
 何箇所かを捲っていると、<ロシア革命>執筆直前の話として、E・H・カーに対する厳しい批判もある。
 1980年代前半の数年間、アメリカ・レーガン政権の国家安全保障会議のソ連担当補佐官としてワシントンで勤務した(そして対ソ「冷戦」解体の下準備をした)ことは、すでに記した。
 p.115以降にこんな文章があった。試訳。
 「ソヴィエト同盟に対する非妥協的な強硬派(hard-liner)だという私の評判は、ベイジング(北京)にまで達していた。そして、1977-78年の冬に、中国国際問題研究院からの招待状を受け取った。//
 1978年4月3日に、北京に着いた。
 街は全体として憂うつそうな印象で、ソヴィエト式のように醜かった。
 幹線道路を見渡す私のホテルの窓から、自転車をこぐ民衆の大群が見えた-それは青と緑のアリの群れに似ていた-。そして、絶え間ない自動車の警報音を聞いた。」
 北京でのセミナーで語った内容等は省略。
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 リチャード・パイプスの著で邦訳書があるのはほぼ、簡潔な<共産主義の歴史>と<ロシア革命の簡潔な歴史>だけで、しかも前者は日本では「共産主義者が見た夢」というタイトルに変えられている。
 <共産主義の消滅=共産主義・消失した妖怪>も<ロシア革命に関する三つ謎>の邦訳書もない。
 そして、重要な<ロシア革命-1899~1919>、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>という「十月革命」前後に関する大著二つの邦訳書もない。
 「対ソ冷戦終焉」あるいはソ連解体後に、断固たる反ソ連(反共産主義)だった論者として日本の新聞、雑誌等に論考・解説が載ったり、あるいは日本のどこかで講演会くらい企画されてよかった人物だったと思うが(東欧では講演等をしたようだ)、そんなことはなかったようだ。
 L・コワコフスキは日本を訪れたことがあるらしい(軽井沢と大阪、ネット情報による)。
 しかし、R・パイプスは日本に来たことがあったのだろうか。
 いつぞや、ピューリツァー賞を受けたアメリカのジャーナリスト、Anne Applebaum による<グラーク(強制収容所)>のロシア革命(十月革命あたり)叙述が参照元としているのはこのR・パイプスとオーランド・ファイジズ(Orlando Figes, <人民の悲劇>)の二著だけだ、と記したことがある(アプルボームの邦訳書がないとしたのは誤りだった)。
 ピューリツァー賞なるものの<政治的性格>はよく知らないが(たぶん極右でも極左でもない)、その受賞作の最初の方の、グラーク(強制収容所)に関する本格的叙述に至る前の<ロシア革命>記述の基礎とされているので、R・パイプス著が決してアメリカで<無視>あるいは<異端視>されているのではなく、むしろ<かなり受容された概説書または教科書>的扱いを受けているのではないか、という趣旨だった。
 しかして、日本で、日本人の間で、日本の「論壇」で、リチャード・パイプスはいかほど知られていたのだろうか(<アメリカ保守>の専門家面していても、江崎道朗が知っている筈はない)。
 中国共産党はどうやらよく知っていたらしい(離れるが、中ソ対立の時期、米ソ中という三極体制が語られた時代もあったことを日本人は想起すべきだ)。
 日本の<知的>環境には独特なものがある。世界または欧米の種々の思想・主義・見解等々がすべて翻訳されて日本語になって<自由に流通している>と考えるのは、そもそも大間違いなのだ。
 欧米最優先とか欧米を基準とすべきなどの主張をする意図はないが、欧米とりわけ英米語圏の方が知的情報産業界は大きく、<市場>も広く、競争は激しいものと思われる。欧米の「識者」から見るとおそらく、日本の知的情報環境が(ガラパゴス的に?)<閉ざされている>のは異様だろう。しかし、日本語の読解ができないためにそのことが知られていないだけだ、日本の「識者」はそのことを意識・自覚していない、と思われる。
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 左は著書・VIXI(2003)の扉裏の写真、右は1974年2月、Oxford で、右からI・バーリン、R・パイプス、L・コワコフスキ。
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1810/西部邁という生き方①。

 西部邁(1939.03~2018.01)の名は「保守」論客として知っていたし、少しはその文章を読んだが、教えられるとも、尊敬できるとも、ほとんど感じなかった。
 私の勉強不足といえばその通りだろう。しかし、かつての全学連闘士でのちに「保守」派に転じたというわりには、-以下の点では佐伯啓思も同じだが-共産主義に対する批判、日本共産党に対する批判・攻撃が全くかほとんどないのは不思議だ、と考えてきた。
 西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)や同・保守の遺言(平凡社新書、2018)は、「保守」をタイトルに冠しているが、所持すらしていない。
 西部邁・ファシスタたらんとした者(中央公論新社、2017)は購入したが、一瞥したのみ。
 但し、これが連載されていたときの月刊雑誌はとくに最初の方を少しはきちんと読んだことがある。しかし、熟読し続けようとは思わなかった。
 単行本を一瞥してもそうだが、<オレが、オレが>、<オレは、オレは>という自己識別意識・自己中心意識で横溢していて、何やら見苦しい感がするところも多い。
 きっとよく勉強して(共産主義・コミュニズムについては勉強は終わったつもりだったのかもしれない。これは<日本会議>も同じかもしれない)、よく知っているのだろう。
 しかし、何故か惹かれるところが、自分の感受性にフィットするところがなかった。
 それよりも、記憶に残るのは、つぎの二点だった。月刊雑誌掲載時点の文章によるのだと思われる。以下、記憶にのみよるので、厳格な正確さは保障しかねるが。
 第一。マルクスやレーニンの本を読まないうちに、つまりはマルクス主義・共産主義の具体的内容を知らないままで、東京大学(経済学部)に入学した直後に、日本共産党への入党届(加入申請書?)を提出した。いわゆる浪人をしていないとすると、満18歳で、1957年4月以降の、その年度だろう。
 第二。いわゆる<1960年安保騒擾>に関係するだろう、すでに日本共産党は離れていたとき、何かの容疑で逮捕され、かつ起訴されて有罪判決を受けた(これは彼が付和雷同した一般学生はもちろん、ふつうの活動家学生でもなかったことの証しだろう)。
 しかし、有罪判決であっても、<執行猶予>が付いた
 第一点も興味深いがさておき、この第二の、<執行猶予>付き有罪判決というのが、印象に残った。
 なぜなら、<執行猶予>付きというのは単純な罰金刑ではなくて身体拘束を伴う人身刑だと思われるが、執行猶予が付いたからこそ、収監されなかった。
 そして、収監されなかったからこそ、完全に「自由」とは言えなくとも、大学に戻り、学生として卒業し、大学院へも進学することができた(そのうちに、<執行猶予>期間は経過し、そもそも実刑を科される法的可能性が消滅する)。
 ここで注目したいのは、おそらくは当時の大学(少なくとも国公立大学)での通例だったのだろう、有罪判決を受けた学生でも休学していれば復学を認め、休学中でなければそのまま在籍を認めた、ということだ。
 つまり、学生に対する正規の(日本の裁判所の)有罪判決は、少なくとも当時の東京大学では、その学生たる地位を奪う、または危うくする原因には全くならなかった、ということだ。
 執行猶予付きではなくて実刑判決であれば(当時の状況、司法実務の状況を知って書いているのではないが)、その後の西部邁はあっただろうか
 収監が終わったあとで彼は経済学を改めて勉強し、大学院に進み、研究者になっていただろうか。
 一般的な歴史のイフを語りたいのではない。
 大学あるいは一般社会にあった当時の(反・非日本共産党の)学生の「暴力」的活動に対する<寛容さ、優しさ>こそが、のちの西部邁を生んだのではないだろうか。
 当時の(少なくとも東京大学という)大学の学生に対する<寛容さ、優しさ>というのは、要するに、当時の、少なくとも東京大学を覆っていた<左翼>性のことだ。余計だが、当時の東京大学には、法学部だと、宮沢俊義も、丸山真男もいた。
 しかして、西部邁は自分の人生行路を振り返って、<反左翼だったらしい>彼は、かつての大学、国公立大学、東京大学にあった<反体制・左翼>気分によって「助けられた」という想いはあっただろうか。
 東京大学教養学部に教員として就職して以降の方がむろん、西部邁の重要な歴史なのだろう。
 だが、それよりも前に、彼にとって重要な分岐点があったようにも思われる。これは、「戦後日本」の特質、あるいはそれを覆った「空気」に関係する。
 こんなことは西部邁の死にかかわって言及されることはないが、何となく印象に残っていたので、記す気になった。

1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第8回。
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 第4節・夏の政治危機
 6月半ば、今は臨時政府の戦時大臣であるケレンスキーはロシア軍に、ガリシアの前線での大規模な攻撃を命じた。
 それは二月革命以降の最初の、重大な軍事行動だった。ドイツ軍は自分たちがさらに東部へと侵入することなくしてロシア軍隊が解体していくのを見守っているので満足しており、ロシア軍の最高司令部は敗北を怖れ、主導性を発揮せよとの連盟諸国からの圧力に早くに抵抗していたときだったから。
 ロシアのガルシア攻撃は6月と7月初頭に行われ、積算で20万人の死傷者を出して失敗した。
 これは、あらゆる意味での厄災だった。
 軍隊の志気はいっそう低下し、ドイツ軍は反抗に成功し始めて、夏から秋の間じゅう続いた。
 土地略奪の報せに反応して農民兵士になっているロシア軍側の脱走兵は、異常な割合にまで達した。
 臨時政府の信用は地に落ち、政府と軍指導者の間の緊張が高まった。
 7月初め、政府の危機が、カデット(リベラル派)の全閣僚が去り、臨時政府の長のルヴォフ公が辞任したことで急に発生した。//
 この危機のさ中、ペテログラードで再び大衆の集団示威行動、街頭での暴力、そして七月事件(the July Days)として知られる民衆騒擾が突如として起こった。(15) //
 同時代の目撃者は50万人にまで達するとする群衆は、クロンシュタットの海兵の派遣団、兵士、ペテログラード工業施設からの労働者を含んでいた。
 臨時政府には、ボルシェヴィキによる蜂起の試みのようだった。
 ペテログラードに到着して騒擾を開始したクロンシュタットの海兵たちは、その指導者の中にボルシェヴィキがおり、「全ての権力をソヴェトへ」というボルシェヴィキのスローガンを記した旗を持った。そして、最初の目的地は、ボルシェヴィキ党の司令部があるクシェシンスカヤ宮(Kseshinskaya -)だつた。
 だが、示威行進者がクシェシンスカヤ宮に着いたとき、レーニンの挨拶は抑制的なもので、ほとんど無愛想だつた。
 レーニンは、臨時政府または現在のソヴェト指導部に対して暴力的活動をするように勇気づけはしなかった。
 そして、群衆はソヴェト〔の所在地〕へと動いて威嚇しつつ、暴力的活動を行わないで周りをうろつき回った。
 混乱し、指導部と特定の計画を持たず、示威行進者たちは市内を歩き回り、酔っ払って略奪し、そして最後に解散した。//
 七月事件は、ある意味では、4月以降のレーニンの揺るぎない立場を証明するものだった。臨時政府と二重権力に反対する民衆の強い感情、連立する社会主義者に耐えられないこと、そしてクロンシュタット海兵その他の一部にある暴力的対立意識およびおそらくは蜂起への熱意を示したものだったからだ。
 しかし、別の意味では、七月事件はボルシェヴィキにとっての災難だった。
 レーニンとボルシェヴィキ中央委員会は明らかに、動揺していた。
 彼らは蜂起について一般的には語り合ったが、それを企画することはなかった。
 海兵たちの革命的雰囲気に反応したクロンシュタットのボルシェヴィキは、実際にはボルシェヴィキ中央委員会が承認していない主導性を発揮した。
 事件全体は、ボルシェヴィキの志気と革命指導者としてのレーニンの信頼性を損なった。//
 指導者たちの躊躇と不確実な対応があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは七月事件について臨時政府とソヴェトの穏健な社会主義者たちから非難されたため、損失はそれだけ大きかった。
 臨時政府は、二月革命以来全政党の政治家たちが享有してきた「議員免責特権」を撤回して、厳罰に処することを決定した。
 いく人かの著名なボルシェヴィキが逮捕された。その中には、5月にロシアに帰って以降はレーニンに近い極左の立場を採り、8月に正式にボルシェヴィキ党員になる予定のトロツキーもいた。
 レーニンとボルシェヴィキ指導部の中の彼の緊密な仲間であるジノヴィエフの逮捕状が発せられた。
 さらに、七月事件の間に臨時政府は、ある噂の信憑性を支持する証拠があるという示唆を握った。その噂とは、レーニンはドイツの工作員だというものだった。そして、ボルシェヴィキは、新聞の愛国主義的論調による非難にさらされ、一時的に軍隊や工場での人気を落とした。
 ボルシェヴィキ党中央委員会は(そして疑いなくレーニン自身も)、レーニンの身柄の安全を気遣った。
 レーニンは潜伏し、8月早くに作業員に変装して境界を越え、フィンランドに逃亡した。//
 しかしながら、ボルシェヴィキが困難な状況にあったとすれば、それは七月初めから首相になったケレンスキーが率いる臨時政府についてもそうだった。
 リベラル派と社会主義派の連立は恒常的な混乱に陥り、社会主義者はソヴィエトの支援者たちによって左へと動き、リベラルたちは実業家、土地所有者および軍事司令官たちの圧力をうけて右へと動いた。後者の者たちは、権威の崩壊と民衆騒擾でもってますます警戒心を強めていた。
 ロシアを救うという使命を気高く意識していたにもかかわらず、ケレンスキーは本質的には中庸を行く、政治的妥協への交渉者だった。大しては信頼もされず尊敬もされず、諸大政党のいずれにも政治的基盤がなかった。
 彼が悲しくも、こう愚痴をこぼしたように。
 「私は左翼のボルシェヴィキと右翼のボルシェヴィキの両方と闘っている。
 しかし、民衆はそのどちらかに凭り掛かれと要求する。<中略>
 私は真ん中の途を進みたい。しかし、誰も私を助けてくれようとしない」。(16)//
 臨時政府はますます、いずれかの方向に崩壊しそうに見えた。しかし、問題はどの方向にか?、だった。
 左翼からの脅威は、ペテログラードでの民衆蜂起および/またはボルシェヴィキのクーだった。
 このような挑戦は7月に失敗したが、北西前線でのドイツ軍の活動は、最も不吉な徴候としてペテログラードの周りの軍隊に対してきわめて強い緊張を強いていた。そして、憤慨し、武装した、働き場のない脱走兵たちの大量流入が、間違いなく市自体の中での街頭暴力を生じさせる危険を増大させた。
 臨時政府に対するもう一つの脅威は、法と秩序の独裁制を樹立しようとする右翼からのクーの可能性だった。
 夏までに、この方策は軍隊上層部で論議されており、ある範囲の実業家たちから支持を得ていた。
 徴候としては、このような動きに事前にかつ公共的言明によって明らかに反対しなければならなかっただろうカデットですら、少なからず安堵して既成事実を受け入れるかもしれなかった。//
 8月、ついに将軍コルニロフ(Lavr Kornilov)が右翼からのクーを試みた。ケレンスキーは最近に彼を、ロシア軍の秩序と紀律を回復させるという指示のもとで軍最高司令官に任命していた。
 コルニロフの動機は明らかに、個人的野心にではなく、国家の利益に関する意識にあった。
 実際、強力な政府を確立して騒ぎを起こす左翼に対処するために軍が干渉するのをケレンスキーは歓迎するだろうと、コルニロフは考えていたかもしれなかった。ケレンスキーはある程度はコルニロフの意図を知っていて、奇妙に迂回したやり方で彼を処遇したのだから。
 二人の主要な役者の間にあった誤解は事態を混乱させ、コルニロフが動く直前にドイツ軍がリガ(Riga)を掌握したという予期しなかったことも、狼狽に輪をかけた。そして、疑念と絶望の気分がロシアの民間および軍隊の指導者たちに広がっていた。
 8月の最終週、将軍コルニロフは、当惑しつつも決断して、表向きは首都の不安を鎮静化して共和国を救うために、兵団を前線からペテログラードへと派遣した。//
 クーの企図が挫折した理由の大部分は、兵団に信頼がなかったこととペテログラードの労働者の旺盛な行動だった。
 鉄道労働者たちは兵団列車の方向を変えて、妨害した。
 印刷工たちは、コルニロフの動きを支持する新聞の発行を止めた。
 金属労働者たちは近づく兵団を迎えるために外に飛び出し、ペテログラードは平穏で、兵団は将校たちに欺されているのだと説明した。
 このような圧力をうけて兵団の志気は減退し、大きな軍事的成功は何もないまま、ペテログラードの郊外でクーは終わった。そして、コルニロフの指令で行動していた指揮官の将軍クリモフ(Krymov)は臨時政府に降伏し、自殺した。
 コルニロフ自身は軍司令部に逮捕され、抵抗することなく、全責任を甘受した。//
 ペテログラードでは中央と右翼の政治家たちが、ケレンスキーが引き続き率いる臨時政府への忠誠を再確認した。
 しかし、ケレンスキーの立場はそのコルニロフ事件への対応の仕方のためにさらに傷つき、政府は弱体化した。
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会もまた、信頼を低下させた。コルニロフに対する抵抗は、多くは地方の組合や工場レベルのものにすぎなかったからだ。
 そして、これらによって、ボルシェヴィキへの支持は急上昇し、ボルシェヴィキがソヴェト内のメンシェヴィキ・エスエル指導部をすみやかに解任することが可能になった。
 軍司令部は最大の打撃を受けた。最高司令官の逮捕とクーの失敗によって、志気は喪失し、混乱に陥ったのだ。
 将校たちと兵士たちの間の関係は、明瞭に悪化した。そして、これだけでは不十分であるかのごとく、ペテログラードを明らかに目指して、ドイツ軍が前進し続けていた。
 9月半ば、コルニロフの後継者の将軍アレクセイエフが、コルニロフの高潔な動機を称える気持ちを言明して、突然に辞任した。
 アレクセイエフは、紀律が崩壊してしまい「我々の将校たちは殉教者である」軍隊についての責任をもう負うことはできない、と感じていた。//
 『現実に、この戦慄すべき危険があるときに、私は恐怖に脅えて、我々には軍は存在しない(この言葉の際に将軍の声は震え、彼は数滴の涙を零した)、一方でドイツ軍は、いつでも我々に最後のかつ最大の強力な一撃を放つように準備をしている、と言明する。』(17)//
 左翼が、コルニロフ事件によって最も多くを得た。この事件は右翼による反革命の脅威という以前は抽象的だった観念に実体を与え、労働者階級の強さを証明し、同時に多くの労働者たちに、自分たちの武装した警戒だけが革命をその敵から守ることがでるきと確信させた。
 まだ投獄されているか潜伏中の指導者が多くいるボルシェヴィキは、コルニロフに対する実際の抵抗には特別の役割を何ら果たさなかった。
 しかし、民衆の意見の新しい揺れの方向はボルシェヴィキであり、そのことはすでに8月初めには感知されていたが、コルニロフがクーに失敗した後で急速に明らかになった。
 そして、実際的な意味で言うと、コルニロフの脅威に対する反応として始まった労働者の軍団、あるいは「赤衛隊」(the Red Guards)、の設立により、将来の収穫を刈り取るのはボルシェヴィキであることになった。
 ボルシェヴィキの強さは、ブルジョアジーや二月体制との連携へと妥協しなかった唯一の政党だということだった。そしてこの党は、労働者の権力と武装蜂起という考え方と最も緊密に結びついていた。//
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 (15) 七月事件につき、A. Rabinowitch, <革命への序曲-ペテログラード・ボルシェヴィキと1917年7月蜂起>(Bloomington, IN, 1968)を見よ。
 (16) A. Rabinowitch, <ボルシェヴィキが権力に至る>(New York, 1976).p.115. から引用した。
 (17) 将軍アレクセイエフへの新聞インタビュー(Rech', 1917年9月13日付、p.3)、Robert Paul Browder & Alexander Kerensky 編, <1917年のロシア臨時政府: 資料文書>Stanford, 1961), ⅲ, p.1622に収載。
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 第5節・十月革命。
 4月から8月まで、ボルシェヴィキのスローガン「全ての権力をソヴェトへ」は本質的には挑発的なものだった。-ソヴェトを支配した穏健派に向けられた皮肉であって、全ての権力を奪うつもりはなかった。
 しかし、穏健派に支配権がなくなったコルニロフ事件の後では、状況は変わった。
 8月31日、ボルシェヴィキはペテログラード・ソヴェトの多数派を握った。9月5日、モスクワ・ソヴェトでもそうなった。
 かりに10月に予定されていた全国ソヴェト第二回大会で首都でと同じ政治的趨勢が続いていたとすれば、いったい何が意味されただろうか?
 ボルシェヴィキは、臨時政府はもはや支配する権能を持たないとするその大会の決定にもとづいて、法に準じた(quasi-legal)ソヴェトへの権力の移行を望んだだろうか?
 それとも、そのかつてのスローガンは、実際に暴力的蜂起への呼びかけだったのか、あるいはボルシェヴィキは(他とは違って)権力を奪取する勇気があることの宣言だったのか?//
 9月、レーニンはフィンランドの潜伏場所からボルシェヴィキ党に対して、武装蜂起の準備をするように迫る手紙を書き送った。
 革命のときは来た、遅くなる前に、奪取しなければならない、と彼は述べた。
 遅れるのは、致命的だろう。
 ボルシェヴィキは、ソヴェトの第二回〔全国〕大会の会合の<前に>行動を起こして、大会がするかもしれないいかなる決定をも阻止しなければならない、と。//
 レーニンによる即時の武装蜂起の主張は情熱的なものだったが、指導部にいる仲間たちの確信を完全には抱かせはしなかった。
 潮目が明らかに我々に向かっているときに、なぜボルシェヴィキは絶望的な賭けを冒す必要があるのか?
 さらに言えば、レーニン自身が帰ってきておらず、責任を取れなかった。レーニンが本当に真剣であるならば、確実に彼はこれをしたのか?
 夏にレーニン向けられた責任追及によって、疑いなくレーニンは過分に疲れていた。
 可能性としては、彼は七月事件の間の彼と中央委員会の躊躇について思い悩み、権力を奪取する希有の機会を失ったと考えていた。
 いずれにせよ、全ての大指導者たちと同じく、レーニンは気まぐれだった。
 この雰囲気は、過ぎ去るかもしれなかった。//
 この時点でのレーニンの行動は、確かに矛盾していた。
 一方では、ボルシェヴィキによる蜂起を強く主張した。
 他方では、臨時政府が7月に収監されていた左翼政治家を釈放し、今やボルシェヴィキはソヴェトを支配していて、レーニンに対する切迫した危険があった時期は確実に過ぎていたにもかかわらず、彼は数週間もフィンランドにとどまった。
 彼がペテログラードに戻ったとき、おそらくは10月の第一週の末、ボルシェヴィキすらから離れて潜伏し、怒りと激励の一連の手紙によってのみ党中央委員会に連絡通信をした。//
 10月10日、ボルシェヴィキ中央委員会は、蜂起は好ましいということに同意した。
 しかし、ボルシェヴィキたちの明らかに多くは、ソヴェトの自分たちの立場を使って法に準じた、非暴力的に権力を移行させることに傾斜していた。
 あるペテログラード・ボルシェヴィキ委員会の一員の、のちの回想録はつぎのように語る。//
 『ほとんど誰も、ある特定の時期での、統治の全装置を武装奪取することの始まりだとは考えていなかった。<中略>
 我々は、蜂起とはペテログラード・ソヴェトによる権力の掌握のことだと単直に考えていた。
 ソヴェトは、臨時政府の命令に従うことをやめ、ソヴェト自体に権力があると宣言し、これを妨害しようとする者は誰でも排除するだろう、と。』(18)
 監獄から最近に解放されてボルシェヴィキ党に加入していたトロツキーは、今やペテログラード・ソヴェト多数派の指導者の一人だった。
 トロツキーはまた、1905年のソヴェト指導者の一人でもあった。
 公然とはレーニンに反対しなかったけれども(のちには二人の見解は一致していたと主張した)、彼も蜂起を疑問視し、ソヴェトが臨時政府を除去する課題に対処することができるし、そうすべきだ、と考えたというのは、ありうるように思われる。(19)
 ボルシェヴィキが行う蜂起に対する強い反対が、レーニンの古くからのボルシェヴィキの同僚だった二人、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)とカーメネフ(Lev Kamenev)から挙がった。
 彼らはボルシェヴィキがクーによって権力を奪取するのは無責任であり、その権力を単独で保持できるとするのは非現実的だ、と考えた。
 ジノヴィエフとカーメネフがこうした主張を自分たちの名前を出して非ボルシェヴィキの日刊新聞紙(マクシム・ゴールキの<Novaya zhizn>)に公表したとき、レーニンの怒りと憤激は新しい次元へと高まった。
 これは理解できるものだった。二人の行為は果敢な抵抗だったのみならず、ボルシェヴィキは秘密裡に蜂起を計画しているということを公的に発表するものだったからだ。//
 このような状勢からすると、ボルシェヴィキの十月クーが巧くいったのは驚くべきことのように見える可能性がある。
 しかし、実際には、積極的な公表があったことは、レーニンの基本的考えを妨げたのではなく、むしろ助長した。
 そのことは、ボルシェヴィキたちが事前に逮捕されたり、ペテログラード地域の労働者、兵士・海兵がいかなる革命的行動をも非難するという強い徴候を知らされないかぎり、ボルシェヴィキが行動<しない>のは困難な立場へと、ボルシェヴィキを追い込んだ。
 しかし、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対する果敢な反抗措置を取らなかった。そして、ペテログラード・ソヴェトの革命軍事委員会(Military-Revolutionary Committee)をボルシェヴィキが支配していることは、クーを組織するのを比較的に容易にした。
 革命軍事委員会の基本的な目的は、コルニロフのような反革命に対する労働者の抵抗を組織することだった。そして、ケレンスキーは明らかに、そのことに干渉する立場にはいなかった。
 戦争の情勢もまた、重要な要因だった。すなわち、ドイツ軍は前進しており、ペテログラードは脅かされていた。
 労働者たちはすでに、大工業施設を引き渡して市から避難するようにとの臨時政府の命令を拒否していた。彼らは革命に対する政府の意向を信用しておらず、そのゆえにまた、政府のドイツ軍と戦う意思をも信用していなかった。
 (逆説的にだが、ボルシェヴィキの「平和」スローガンに労働者が賛同していたので、労働者たちもボルシェヴィキも、ドイツの脅威が切迫しかつ現実的になったときに戦闘的に反応した。かつての平和スローガンは、リガの陥落後の1917年の秋と冬にはほとんど聞かれなくなっいた)。
 ドイツ軍が接近してきたときにケレンスキーが労働者を武装解除していたならば、彼はおそらく、裏切り者で降伏主義者だとしてリンチを受けて殺されていただろう。//
 10月24日、第二回ソヴェト大会の会合の直前に、ソヴェトの軍事革命委員会の実力部隊が枢要な政府組織を占拠し始めて、蜂起が始まった。彼らは、電信施設と鉄道駅舎を奪い取り、市の橋梁で路上封鎖を開始し、臨時政府が会合をしている冬宮を取り囲んだ。//
 彼らは、ほとんど実力による抵抗に遭遇しなかった。
 街頭は平穏なままであり、市民は日常の仕事をし続けた。
 10月24-25日の夜、レーニンは潜伏場所から現れて、スモルニュイ(Smolny)研究所で同志たちに合流した。スモルニュイは、かつては若い女性たちの学校で、今はソヴェトの最高司令部があった。
 彼もまた静穏で、神経質な不安の状態から回復しているように見えた。そして、当然のこととして、かつての指導者としての地位を取り戻した。//
 10月25日の午後までに、クーはほとんど成功した。-刺激的なことに、中にいる臨時政府の構成員たちをまだ取り囲んでいる冬宮の制圧を除いては。
 その日の夕方遅く、冬宮は陥落した。徐々に減っていく防衛者の一団に対する、いくぶんは混乱した攻撃によって。
 これは、のちのソヴィエトの資料が示唆するよりも英雄的でない事態だった。ネヴァ川の冬宮の反対側に停泊していた戦艦<オーロラ>は、一発の実弾も撃たなかった。そして占拠した部隊はケレンスキーを脇の出入口から抜け出させ、車でうまく市から逃亡させた。
 政治ドラマの観点からすると、これもいくぶん不満足なものだった。ソヴェト大会-ボルシェヴィキの強い主張にもとづいて数時間も最初の会議を延期していた-は、冬宮の陥落の前についに手続を開始した。こうして、劇的な開会の宣言をしようとのボルシェヴィキの意向は打ち砕かれることとなった。
 だがなお、基本的な事実は残ったままだ。すなわち、二月体制は打倒され、権力は十月の勝利者の手に移った。//
 もちろん、このことも、一つの問題を未解明のまま残した。
 いったい誰が、十月の勝利者<だった>のか?
 ソヴェト大会よりも前の蜂起をボルシェヴィキに迫ることで、レーニンは明らかに、この資格がボルシェヴィキに与えられることを望んでいた。
 しかし、ボルシェヴィキは実際には、ペテログラード・ソヴェトの軍事革命委員会を通じて蜂起を組織した。
 そして、偶々なのか企図してか、軍事革命委員会はソヴェト全国大会の会合の直前まで、遅らせた。
 (トロツキーはのちに、これはボルシェヴィキの権力奪取を合法化するためにソヴェトを用いるという輝かしい-明らかにレーニンのそれではないので推測するに彼自身の-戦術だったと描写した。(20))
 報せが地域の外に伝わったとき、最も共通した見方は、ソヴェトが権力を奪取した、というものだった。//
 この問題は、10月25日にペテログラードで開かれたソヴェト大会で十分には明らかにされなかった。
 分かったとき、大会代議員の明確な多数派は、全ての権力のソヴェトへの移行を支持するよう委任(mandat)を受けて出席していた。 
 しかし、これはもっぱらボルシェヴィキ派だったのではなかった(670人の代議員のうち300人がボルシェヴィキで、最大の位置を占めていたが、多数派ではなかった)。そして、そのような委任は、必ずしもボルシェヴィキによる先立つ行動を是認することを意味しはしなかった。
 そのボルシェビキの行動は最初の会合で、メンシェヴィキとエスエルの大集団によって厳しく批判された。この両派は、そのあと、抗議するために大会に出席しなくなった。
 レーニンの古い友人であるマルトフが率いるメンシェヴィキの宥和的姿勢については疑問が出されている。しかし、トロツキーはこのような批判を、思い出しての文章の中で、「歴史のごみ函」に送ってしまった。//
 ソヴェト大会では、ボルシェヴィキは全国すべてについての権力の労働者、兵士、農民のソヴェトへの移行を呼びかけた。
 中央権力に関するかぎりで、論理的に意味するところは、確かに古い臨時政府の場所がソヴェトの常勤の中央執行委員会に奪われるだろう、ということだった。このソヴェト中央執行委員会はソヴェト大会によって選出され、多数の政党の代表者を含むものだった。
 しかし実際は、こうではなかった。
 多くの代議員が驚いたのだが、中央政府の機能は新しい人民委員会議(Council of People's Commissars)が獲得する、と発表された。ソヴェト大会のボルシェヴィキ派全員は、10月26日の大会でボルシェヴィキ党の報道員が読み上げたことによって知った。
 新政府の長はレーニンで、トロツキーは外務人民委員(大臣)だった。//
 ある歴史研究者たちは、ボルシェヴィキの一党支配は意図してではなく歴史的偶然の結果として出現した、と主張してきた。(21)-すなわち、ボルシェヴィキは自分たちだけで権力を奪うつもりはなかった、と。
 しかし、問題にしている意図がレーニンのものだとすれば、この論拠は怪しいように見える。
 そしてまた、レーニンは、党の他の指導者の反対を無視したのだ。
 9月と10月、レーニンは明らかに、複数政党のソヴェトではなくてボルシェヴィキが権力を奪うことを望んでいたと思われる。
 彼は、ソヴェトをカモフラージュとして用いることすら望まず、明確なボルシェヴィキのクーを演じることを選好していただろう。
 確かに、地方では十月革命の直接の結果はソヴェトが権力を掌握した、ということだった。そして、地方のソヴェトはつねにボルシェヴィキが支配していたわけではなかった。
 ボルシェヴィキの十月後のソヴェトに対する態度については異なる諸解釈に開かれているけれども、原理的には、ソヴェトがボルシェヴィキを信頼しているかぎりで地方レベルでソヴェトが権力を行使するのに反対しなかった、と言うのがおそらく公平だろう。
 しかし、この要件を他の政党と競い合う民主主義的選挙と一致させるのは困難だつた。//
 確かにレーニンは新しい中央政府、人民委員会議での連立問題については、全く頑固だった。
 1917年11月、全員がボルシェヴィキの政府からより広い社会主義者の連立へと移行する可能性についてボルシェヴィキ党中央委員会が討議したとき、レーニンは断固としてそれに反対した。異論を受けて若干のボルシェヴィキですら、政府から離れたのだったけれども。
 のちに数人の「左翼エスエル」〔左翼社会革命党、社会革命党左派〕(十月クーを受容したエスエル党の分裂集団の一員たち)が、人民委員会議に加わった。しかし、彼らは、強い党基盤をもたない政治家だった。
 彼らは1918年半ばに政府から除外された。そのとき左翼エスエルは、その最近にドイツと調印された講和条約に反対する暴動を起こしていた。
 ボルシェヴィキは、他政党と連立政府を形成する努力をもはやしなかった。//
 ボルシェヴィキが単独で支配すべきという民衆からの委任(mandate)を得ていたのか、それとも、ボルシェヴィキはそう信じていたのか?
 立憲会議の選挙で(十月のクー以前の予定だったが、1917年11月に実施された)、ボルシェヴィキは民衆による投票数の25パーセントを獲得した。
 これは投票総数の40パーセントを獲得したエスエル党に次ぐ多さだった(クーの問題ではボルシェヴィキを支持した左翼エスエルは、投票リストでは〔エスエル全体と〕区別されなかった)。
 ボルシェヴィキは、より良い結果を期待していた。そしてこれは、投票結果をもっと詳細に検証するならば、おそらく解明できる。(22)
 ボルシェヴィキはペテログラードとモスクワで、そしておそらく都市的ロシア全体では勝利した。
 500万の票をもつ軍隊では別々に計算され、ボシェヴィキは北部および西部の前線とバルト艦隊で絶対多数を獲得した。-ボルシェヴィキが最もよく知る支持者たちであり、ボルシェヴィキが最もよく知られている場所だった。
 南部戦線と黒海艦隊では、ボルシェヴィキはエスエルとウクライナ諸党に敗北した。
 エスエルの全体的な勝利は、農民層の票を村落で獲得したことの結果だった。
 しかし、これに関して一定の不明瞭さはあった。
 農民たちはおそらく単一争点の投票者であり、エスエルとボルシェヴィキの土地に関する基本政策は、ほとんど同じだった。
 しかしながら、エスエルは農民層にははるかによく知られていて、農民はエスエルの伝統的な支持層だった。
 農民がボルシェヴィキの基本政策を知っていたところでは(ふつうは、ボルシェヴィキがより多くの宣伝活動を行った、町、軍駐屯地または鉄道の近くである結果として)、彼らの票は、ボルシェヴィキとエスエルに割れた。//
 にもかかわらず、民主主義的選挙による政治では、敗北は敗北だ。
 ボルシェヴィキは、立憲会議についての選挙が示す見方を採用しなかった。つまり、選挙で勝利できなかったことを理由として権力を手放しはしなかった(そして、会議が招集されて敵だと分かったとき、ボルシェヴィキはそれを素っ気なく解散させた)。
 しかしながら、支配すべきとの委任(mandate)の観点からは、ボルシェヴィキは、自分たちが代表すると主張しているのは民衆全体ではない、と議論することができたし、そう議論した。
 ボルシェヴィキは、労働者階級の名前で権力を奪取した。
 第二回〔全国〕ソヴェト大会と立憲会議の二つの選挙から導き出すことのできる結論は、ボルシェヴィキは、1917年10月から11月にかけて、労働者階級については他のどの党よりも多くの票を獲得した、ということだった。//
 しかし、のちのある時期に、労働者がその支持を撤回することがあれば、いったいどうなるのか?
 プロレタリア-トの意思を代表するというボルシェヴィキの主張は、事実の観察はもとより信念にもとづいている。すなわち、レーニンの見方からすれば、つぎのことは全くあり得ることだ。将来のある時期に労働者プロレタリア-トの意識はボルシェヴィキ党のそれよりも劣っていると分かってしまうが、支配すべきとの党への委任を変更する必要は必ずしもない、ということ。
 おそらくはボルシェヴィキは、このようなことが起きるとは想定していなかった。
 しかし、1917年のボルシェヴィキに対する反対者の多くは想定し、そしてレーニンの党はかりに労働者階級の支持を失っても、権力を放棄することはないだろう、と考えた。
 エンゲルスは、未成熟のままで権力を奪う社会主義政党は、孤立して、抑圧的な独裁制へ向かうこと強いられる可能性があるという警告を発していた。
 明らかにボルシェヴィキの指導者たちは、とくにレーニンは、そうした危険を冒すのを厭わなかった。//
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 (18) Robert V. Daniel, <赤い十月>(New York, 1967), p.82. から引用した。
 (19) 十月革命に関与した大物ボルシェヴィキの行動と意図は、のちに大量に自己に役立つ修正と政治神話の形成を行う主題になった。-公式のスターリニズム的歴史書でのみならず、トロツキーの古典的な<回顧録つき>歴史書である、<ロシア革命の歴史>でも。
 Daniels, <赤い十月>, Ch. 10. を見よ。
 (20) Leon Trotsky, <ロシア革命の歴史>, Max Eastmanによる訳書(Ann Arbor, MI, 1960), ⅲ, Chs. 4~6. 1976
 (21) 例えば、Roy Medvedev, <歴史に判断させよ: スターリニズムの起源と帰結>(1st ed.; New York, 1976), p.381-4. を見よ。
 (22) 以下の分析は、O. Radkey, <ロシアが投票箱に進む-全ロシア立憲会議・1917年>(Ithaca, NY, 1989)にもとづく。
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 第二章の第4節(夏の政治危機)と第5節(十月革命)の試訳が終わり。
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 この著の表紙/左-第4版、右-第3版。
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1808/江崎道朗2017年8月著の無惨⑭。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)のp.38-39が記す「共産主義」に関する説明なるものは、マルクス(・エンゲルス)が言ったものか、レーニンのそれか、それとも「マルクス=レーニン主義」という語の発案者でその正当な継承者だと主張したいらしいスターリンが説いたものか、あるいは日本共産党・不破哲三らが述べているものに依っているのか、分からない。
 何かを参照しながら、<江崎道朗的>理解をしているのだろう。
 しかし、明確なのは、「共産主義」を説明しながら、「歴史の発展法則」への言及も「搾取」という語の使用も(むろん「剰余価値」も)、「階級」や「階級闘争」への言及も、したがってまた<支配者(抑圧・搾取)階級-被支配(被抑圧・被搾取)階級>を区別する語句の使用も、まるでないことだ。「土台(下部構造)」と「上部構造」の別あるいは「生産力」と「生産関係」の矛盾とかの話になると、江崎には関心すら全くないのかもしれない。
 格差の是正、徹底した平等の実現等々というだけでは、江崎道朗のいう「社会民主主義」と、あるいは辻元清美的?「社会主義」といったいどこが違うのか。
 人類の歴史は「階級闘争の歴史」だとマルクスらは書いた(1848年)。
 この全歴史的な展望?の中で江崎道朗は「共産主義」を位置づけているか? おそらくきっと、そうではないだろう。
 それにまた、1919-20年あたりの「コミンテルン」文書を利用して<共産主義>とはどういうものかを説明しようとしているようだ。これは既述のとおり。
 1917年以前にレーニンが語った「共産主義」もあれば、1930年代以降にスターリンが語った「共産主義」もある。
 「コミンテルン」いう一組織の(この当時はレーニン時代の)1919-20年あたりの文書の内容によって、何ゆえに「共産主義」なるものを説明できるというのだろうか?
 江崎道朗が「コミンテルン」と共産主義(者)・ソヴィエト連邦等をほとんど区別していないことは既に何度か記した。無知というものは、恐ろしい。
 その江崎道朗が「コミンテルンの一次資料(の邦訳)」として利用しているのは、つぎだった。これも既述。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 しかも既述のとおり、この本全体ではなく、江崎が利用した「付属資料」の部分は計304頁の原書で見るとそのうち計30頁だ(p.220~p.249)。邦訳書では計33頁(p.295~p.327)。
 かつまた、これも既述だが、江崎道朗が参照して上の書物で用いているのは、収載されている計19の資料件数のうちわずかに4件でしかない。つぎのとおり。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつまた、全19件に共通なのだが、これらの一次資料の(邦訳)全文ですらなく、全て「一部抜粋」にすぎない。
 この部分だけではないが(しかし、上の本の中では比重は高い)、こういう邦訳資料を見て、江崎道朗はこう<豪語>した。
 唖然としたので、再記しておく。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 上のたった四つだけで、1930年代以降の、とりわけ<日本の戦争>との関係での「コミンテルン」の役割・方針を理解できるはずはないだろう。とこう書いたが、この部分は江藤に注文を付けても無意味だろうので、削除してもよい。
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 さて、江崎道朗が参照する上掲英語文献末尾の資料部分の邦訳の冒頭には、訳者・萩原直の理解し易くはない注記が小さく書かれている。
 それを読み解くと、つぎのようになる。「抜粋」資料件数は計19。
 A・萩原直自身が原書(念のために言うが、コミンテルン自体の資料文書ではなく上掲英語書籍)から訳出したもの-資料⑨・⑰・⑱。
 B・別の邦訳資料/ディミトロフ・反ファシズム統一戦線(大月、1967)の村田陽一らによる訳文をそのまま借りたもの-資料⑮。
 C・別の邦訳資料/村田陽一訳編・コミンテルン資料集1-6巻(大月、1978-85)の村田陽一の訳文をそのまま借りたもの-上以外、つまり資料①~⑧、⑩~⑭、⑯・⑲。
 これで明らかなのは、江崎道朗が参照している訳文は原書訳者・萩原直ではなく、村田陽一による訳文だということだ(資料①・③~⑤、江崎道朗に言及した部分の上の①~④)。
 しかも、相当に興味深いことも、すぐ上のB・Cについて萩原直は注記している。つぎのとおり。
 「以上の訳文の出典は、本書の著者が示した英語版の出典とは異なる」。p.293。
 これはどういうことか。
 第一に、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニューの上掲英語書籍が付録として掲載する諸資料の英語版の「出典」。
 第二に、村田陽一(ら)が訳出した際の資料の「出典」。
 これらが同じではない、ということだ。
 マクダーマット=アグニューはいずれかの英語資料から抜粋してその書物に掲載したに違いない。一方、村田陽一訳の少なくともコミンテルン資料集1-6巻は、ロシア語原典に依っているだろう。
 この点だけによるのではないが、掲載・収載の仕方としては、後者の方が信頼性が高いものと思われる。
 (なお、レーニン全集類の邦訳者は特定されていないが、村田陽一(本名かどうかも不明)は翻訳者グループの重要な一人ではなかったかと秋月は推測する。そしておそらく、1960年頃は日本共産党員だっただろう。)
 換言すると、マクダーマット=アグニューの選抜・資料選択の出所は100%は信頼できない、ということだ。
 いや、出典は違っても、内容が同一ならばそれでよいかもしれない(もっとも、レーニン全集掲載の同一又は類似の資料とこの英語書籍の資料の内容とが全く同一ではないことは私も確認している)。
 しかし、上のような注記がとくに訳者によって冒頭に記されている以上、その点もふまえて「付録資料」の邦訳も参照するのが、ふつうの、まともな日本語書籍執筆者の姿勢というべきだろう。
 しかるに、その点は公然と?無視して、再度書くが、江崎道朗は、こう言った。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 では、ケヴィン・マクダーマットとジェレミ・アグニューというのはいったい、どのような人物なのか。
 ようやく、1ヶ月以上も前にここで書いておきたかったことに到達したようだ。

1807/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑦。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第7回。
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 第二章/第2節・ボルシェヴィキ。
 二月革命のとき、事実上全てのボルシェヴィキ指導者は、外国に亡命しているかロシア帝国の遠い地方に追放されていた。ボルシェヴィキがロシアの参戦に反対しただけではなくてロシアの敗北が革命のために利益になると主張したたために、一まとめになって拘束されたのだ。
 スターリンやモロトフを含むシベリアに追放されたボルシェヴィキ指導者は、中では最初に首都に戻った。
 しかし、ヨーロッパに亡命していた指導者たちが帰るのははるかに困難な状況にあった。何しろ、ヨーロッパは戦争中だったからだ。
 バルト地域を経て帰還するのは危険で、連盟諸国の協力を必要とした。一方で、陸上のルートは敵国の領土内を走っていた。
 にもかかわらず、レーニンとエミグレ社会の他の者たちは、切実に戻りたかった。
 そして、仲介者によって行われた交渉の後で、ドイツ政府は彼らに封印列車でドイツを縦断する機会を与えた。
 戦争に反対しているロシアの革命家たちをロシアに帰還させるのは、明らかにドイツの利益だった。しかし、政治的に妥協する危険を冒して帰ってよいのかと革命家たちは慎重に衡量しなければならなかった。
 レーニンは、主としてボルシェヴィキのエミグレの一団とともに、危険を冒すことを決断し、3月末頃に出発した。
 (スイスにいたロシア革命家たちのより多数のグループは、ほとんど全てのメンシェヴィキを含んでいたが、慎重に考えて待つことに決めた。-これは、レーニンの旅が引き起こした論争と責任追及を全て回避できたので、賢明な行動だった。
 このグループは、一ヶ月のちに、ドイツとの同様の取り決めによって、第二の封印列車でつづいた。)//
 4月初めにレーニンがペテログラードに戻る前に、シベリアに追放されていた者たちはすでにボルシェヴィキ組織を再建し、新聞を発行し始めていた。
 この時点で、他の社会主義者グループのようにボルシェヴィキは、ペテログラード・ソヴェトの周囲にある緩やかな連携の中で漂っている徴候を示していた。
 しかし、ソヴェトのメンシェヴィキとエスエルの指導者たちはレーニンが悶着の種だったことを忘れておらず、憂慮しつつレーニンの到着を待った。
 それは正当なことだったと分かることなる。
 4月3日、レーニンがペテログラードのフィンランド駅で列車から降りたとき、彼はソヴェトの歓迎委員会に素っ気なく反応し、群衆に向かって反対者を不快にする耳障りな声で若干の言葉を発した。そして突然に離れて、ボルシェヴィキ党の仲間たちとの私的な祝宴と会合に向かった。
 レーニンは明らかに、かつての党派的な習癖を失っていなかった。
 かつての政治的対立者を革命の勝利という栄光の仲間だと受け容れる、この数ヶ月にはしばしばあった愉快な感情の一つの徴候も、彼は示さなかった。//
 歴史上四月テーゼとして知られる、政治情勢に関するレーニンの評価は、戦闘的で、非妥協的で、明らかにペテログラードのボルシェヴィキたちを不安にさせるものだった。彼らは、躊躇しつつも社会主義の一体性というソヴェトの基本方針を受容し、新政府を批判的に支持する立場にいた。
 二月に達成したことを承認すべく立ち止まることをほとんどしないで、レーニンはすでに、革命の第二の段階、プロレタリア-トによるブルジョアジーの打倒、を目指していた。
 レーニンは、臨時政府を支持してはならない、と述べた。
 団結という社会主義者の幻想や新体制への大衆の「無邪気な信頼」を、破壊しなければならない。
 ブルジョアの影響力に屈服している現在のソヴェト指導部は、使い物にならない(ある演説でレーニンは、ローザ・ルクセンブルクによるドイツ社会民主党の戯画化を借用して、ソヴェト指導部を「腐臭を放つ死体」だと呼んだ)。//
 にもかかわらずレーニンは、ソヴェトは-再活性化した革命的指導部のもとで-ブルジョアジーからプロレタリア-トへの権力の移行にとってきわめて重要な組織になるだろうと予見した。
 レーニンの四月テーゼのスローガンの一つである「全ての権力をソヴェトへ!」は、実際には、階級戦争の呼びかけだった。
 「平和、土地、パン」は四月の別のスローガンだったが、同様に革命的な意味合いがあった。
 レーニンの言う「平和」は、帝国主義戦争から撤退することだけではなくて、その撤退は「資本主義の打倒なくしては…<不可能>だ」と認識することをも意味した。
 「土地」は、土地所有者の資産を没収し、農民が自分たちにそれを再配分することを意味した。-農民の随意による土地取得にきわめて近いものだった。
 「革命的民主主義のど真ん中で内戦の旗を掲げている」というレーニンに対する批判が生じたのは、不思議ではなかった。(10)//
 レーニンの見方と指導性を尊重してきたボルシェヴィキは、彼の四月テーゼに衝撃を受けた。ある者は、レーニンは国外にいる間にロシアの生活の現実に関する感覚を失ったのではないかと考えた。
 しかし、レーニンの訓戒と叱責を受けて数ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは社会主義者の連立から離脱するという、より非妥協的な立場へと移行した。
 しかしながら、ボルシェヴィキなくしてもペテログラード・ソヴェトの多数派は形成されていたので、「全ての権力をソヴェトへ!」というレーニンのスローガンはボルシェヴィキに実践的な行動指針を与えはしなかった。
 レーニンの戦略は秀れた政治家のそれだったのか、それとも偏頗な過激主義者-古い社会主義者のプレハノフの左翼側の対応者-のそれだったかは、未解明の問題であるままだ。プレハノフは、戦争問題に関する留保なき愛国主義のために、ロシアの社会主義者政治家の主流から外された。//
 かつての偏狭な不一致を抑えることを誇りとする、ソヴェトに関係するたいていの政治家には、社会主義者の一体性の必要は自明のことだと思われた。 
 6月、ソヴェトの第一回全国大会の際、ある発言者が否定の返答を想定して修辞的に、いずれかの政党に単独で権力の責任を負う用意があるだろうかと問うたとき、レーニンは「その政党はある!」と言って遮った。
 しかし、ほとんどの大会代議員にとって、それは真面目な挑戦ではなく虚勢のように聞こえた。
 しかしながら、、ボルシェヴィキは民衆の支持を得つつあり、連立する社会主義者は失いつつあったので、真面目な挑戦の言葉だった。//
 6月のソヴィエト大会の際にはボルシェヴィキはまだ少数派で、大都市での選挙でさらに勝利しなければならなかった。
 しかし、ボルシェヴィキの強さが大きくなっていることはすでに草の根レベルで-労働者の工場委員会、軍隊内の兵士・海兵委員会および大きな町の地方的地区ソヴェトで-明白だった。
 ボルシェヴィキの党員数も、劇的に増加していた。党は大衆的に入党させる運動をする正式の決定をしておらず、多数の流入にほとんど驚いたように見えたけれども。
 党員の数は、確実なものではなくておそらく実際よりも誇張されてはいるが、その拡大をある程度は示している。すなわち、二月革命のときのボルシェヴィキ党員は2万4000人(この数字は、ペテログラードの党組織は2月には実際には約2000人だと識別しており、モスクワの組織は同じく600人なので、とくに疑わしい)、4月の終わり頃に10万人以上、そして1917年十月には総計で35万人だった。これには、ペテログラードおよびその近郊地方の6万人、モスクワおよびそこに近い中央工業地域での7万人が含まれる。(11)
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 (10) V. I. レーニン, 全集(Moscow, 1964)24巻p.21-26。レーニンが引用する批判者は、Goldenberg。
 (11) 党員の数字に関する注意を払った分析として、T. H. Rigby, <ソヴェト同盟の共産党員-1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), Ch. 1.を見よ。
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 第3節・民衆の革命。
 1917年の初頭に、軍には700万の男たちがおり、200万人の予備兵もいた。
 軍隊は多大な損失を被り、脱走率の増大や前線でのドイツ人との交流への反応から見て戦争疲れのあることは明確だった。
 兵士たちから見て二月革命とは戦争がまもなく終わるという暗黙の約束で、彼らは臨時政府が-主導しなくともペテログラード・ソヴェトの圧力によって-それを実現するのを辛抱強く待った。
 1917年の早春に、選出された委員会という新しい民主主義的構造をもち、不十分な供給という昔からの問題を抱え、そして不安で不確実な雰囲気のあった軍は、せいぜいのところ、有効性の疑わしい戦闘部隊だった。
 前線では、志気が完全に喪失していたというわけではなかった。
 しかし、予備兵団が駐留している、国の周囲の守備軍団の状況は、かなり険悪なものだった。//
 1917年のロシアの兵士と海兵たちは、伝統的に、制服を脱いだ場合の職業を無視して、「プロレタリア-ト」に分類されてきた。
 実際には入隊している者たちのたいていは、農民だった。バルト艦隊や北部および西部の前線の部隊では、彼らが入隊した地域が比較的に工業化されていたために、不均衡に労働者が多かったけれども。
 マルクス主義の概念上は、軍隊の兵士たちは現在の仕事を理由としてプロレタリア-トだということは、議論の余地がある。しかし、より重要なのは、この問題は明らかに、彼らはどのように自分たち自身のことを意識していたのか、だ。
 Wilderman の研究が示すように (12) 、1917年春に前線にいた兵士たちは-革命と新しい行動規範を受け入れる将校たちと協力する心づもりがあったときですら-、将校と臨時政府は一つの階級、「ご主人」の階層に属していると考え、自分たちの利益は労働者やペテログラード・ソヴェトのそれと一体のものだとみなしていた。
 5月までに、最高司令官が警戒して報告したように、将校と兵士たちの間の「階級対立」が軍の愛国的連帯精神の中に深く浸入していた。//
 ペテログラードの労働者は2月に、革命的精神をすでに力強く示した。「ブルジョア」的臨時政府の設立に抵抗するほどに十分に戦闘的で、その心理的な用意があったわけではなかったけれども。
 二月革命後の最初の数ヶ月、ペテログラードその他で表明された不満は経済的なもので、一日八時間労働(戦時という非常時を根拠にして臨時政府はこれを拒否した)、賃金、超過勤務、および失業に対する保護のような日常的問題に焦点を合わせていた。(13)
 しかし、ロシア労働者階級にある政治的戦闘性の伝統からして、この状態がつづいていく保証はなかった。
 戦争が労働者の構成を変えたというのは本当のことだ。労働者の全体数がいくぶんは増大したのはもちろんだが、女性の割合も大きく増えた。
 女性労働者は男性よりも革命的ではないと、通常は考えられてきた。
 だが、国際女性日でのストライキが二月革命のきっかけになったのは、女性労働者だつた。また、前線に夫をもつ女性労働者たちは、戦争の継続に反対する傾向がとくに強かった。
 ペテログラードは、熟練技術をもつ男性労働者が徴兵義務を免除された軍需産業の中心地として、戦前からの男性労働者階級のうちの比較的に大きな割合を、工場に雇用していた。 
 戦争初期のボルシェヴィキの摘発にもかかわらず、また、その後の、工場にいる多数の政治的問題者の逮捕や軍事召集にかかわらず、ペテログラードの大きな冶金や防衛の工業施設は、ボルシェヴィキや他の革命的諸政党に所属する、驚くべきほどに多くの労働者を雇用し続けていた。戦争勃発の後でウクライナやその他の帝国部分から首都にやって来た、ボルシェヴィキの職業的な革命家をもすら。
 他の革命的労働者たちは、二月革命後に工場に戻った。そのことは、さらなる政治不安の潜在的可能性を増大させていた。//
 二月革命は、ロシアの工業中心部全てに、とくにペテログラードとモスクワに、労働者の力強い陣容を生み出した。
 労働者ソヴェトはペテログラード・ソヴェトのような都市レベルだけではなく、より下位の都市的地域でも設立された。後者では、指導部が社会主義的知識人ではなくて、通常は労働者自身で成っており、その雰囲気はしばしばより急進的だった。
 新しい労働組合も、結成された。そして、労働者たちは、工業施設レベルで、経営にかかわるべく工場委員会を設立し始めた(これは労働組合組織の一部ではなく、ときには地方の労働組合支部と共存した)。
 最も草の根に近い工場委員会は、全ての労働者組織の中で最も急進的になる傾向にあった。
 ペテログラードの工場委員会では、ボルシェヴィキが1917年5月までに、支配的地位を獲得した。//
 工場委員会の元来の機能は、資本家による工業施設の経営に対する労働者のための監視者(watchdogs)であることだった。
 この機能を表現するために使われた言葉は「労働者による統制(control)」(rabochii kontrol)で、経営上の意味での統制(支配)ではなくて監視(supervision)を含意させていた。
 しかし、工場委員会は実際には、しばしばさらに進んで、経営上の機能も奪い取り始めた。
 ときには、これは雇用や解雇の統御をめぐる紛争にかかわった。あるいは、いくつかの工業施設で労働者が人気のない作業長や幹部を手押し車に押し込んだり、川に投げ込んだりするに至る一種の階級対立の産物になった。
 別の例で言うと、工場委員会は、所有者または経営者が金がかかるとの理由で工業施設を放棄したり、閉鎖すると脅かしたときに、労働者を失業から守るために事業を引き継いだ。
 このような事例がより一般的になってくるにつれて、「労働者による統制」の意味は、労働者による自己経営のようなものに接近してきた。//
 労働者の政治的雰囲気がより戦闘的になり、ボルシェヴィキが工場委員会での影響力を獲得するにつれて、このような変化が生じた。
 戦闘性とは、ブルジョアジーに対する敵意と労働者の革命における優越性を意味した。変化した「労働者による統制」の意味が、労働者は彼らの工業施設の主人であるべきだというのと全く同じように。こうして、「ソヴェトの権力」とは労働者は地区、都市およびおそらくは国家全体の単一の主人であるへきだということを意味するという考えが、労働者階級に出現してきた。
 これは政治理論としては、ボルシェヴィズムよりもアナキズムやアナクロ・サンディカリズムに近いものだった。そして、ボルシェヴィキの指導者たちが、工場委員会やソヴェトを通じての労働者による直接民主主義は党が指導する「プロレタリア-トの独裁」という彼ら自身の考え方に至るあり得るまたは望ましい選択肢の一つだという見方に、実際に賛同したのではなかった。
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは現実主義者だった。そして、1917年夏の政治的現実はその党が工場委員会の強い支持を得ているということであり、彼らはその支持を失うのを欲しはしなかった。
 その結果として、ボルシェヴィキは、何を意味させるのかを厳密には定義しないままで、「労働者による統制」を擁護した。//
 使用者たちは、大きくなる労働者階級の戦闘性に対して警告を発した。多くの工業施設が閉鎖され、ある著名な実業家は用心深く、「飢えて痩せた手」は最後には都市労働者が秩序を回復する手段になるかもしれない、という意見を表明した。
 しかし、田園地域では、土地所有者の農民層に対する警戒と恐怖の方がはるかに強かった。
 二月のときに村落は平穏で、若い農民の多くは、兵役へと徴用されていたためにいなかった。
 しかし、5月までに、明らかに田園地域は、都市革命に反応して1905年にそうだったように、騒乱に陥った。
 1905-6年でのように、地主の邸宅は略奪されて燃やされた。
 加えて、農民たちは私有地や国有地を自分たちが使うために奪取していた。
 夏の間、騒擾が多くなったときに、多数の土地所有者が資産を放棄して田園地域から離散した。//
 ニコライ二世は、1905-6年反乱の後でも、地方の役人や土地所有貴族の意見がどうであれロシアの農民はツァーリを敬愛しているという考えに縋りついていた。しかし、多数の農民は君主制の崩壊と二月革命の報せに、それと全く異なる反応をした。
 農民ロシア全体で、新しい革命は貴族たちのかつての不当な土地に関する権限を破棄したことを意味する-または意味させるべきだ-と想定されていたように見える。
 土地は耕作する者に帰属すべきだと、農民たちは春に、臨時政府に対する夥しい請願書で書いた。(14)
その具体的言葉で農民たちが意図したのは、農奴のごとく貴族のために耕作してきた、そして農奴解放の取り決めによって土地所有貴族が保有している土地を自分たちが取得すべきだ、ということだった。
 (この土地の多くは当時には土地所有者から農民に賃貸されていた。別の事例では、雇用労働者として地方の農民を使って、土地所有者が耕作していた。)//
 農民たちが半世紀以上前の農奴制時代に溯る土地に関する考え方を抱いていたとすれば、ストリュイピンが第一次大戦前に実施した農業改革が農民の意識にほとんど影響を与えなかったというのは、何ら驚くべきことではない。
 まだなお、1917年に、農民の<ミール>が明らかに活力を有していることは、多くの人々には衝撃だった。
 マルクス主義者たちは1880年代以降、<ミール>は基本的には内部的に解体しており、国家がそれを有用な装置だと考えただけの理由で存続している、と主張してきた。
 紙の上では、ストリュイピンの改革の効果によって欧州ロシアの村落の相当程度に高い割合で<ミール>は解体することになっていた。
 だが、それにもかかわらず、<ミール>は明らかに、1917年の農民の土地に関する思考における基本的な要素だった。
 請願書で彼らは、貴族たち、国家および教会が保有している土地の平等な再配分を求めた。-つまり、<ミール>が村落の田畑に関して伝統的に行ってきた村落世帯間での平等な再配置と同じ種類のものを。
 1917年夏に非合法の土地略奪が大規模で始まったとき、その略奪は個々の農民世帯のためではなくて村落共同体のために行われた。そして、一般的な態様は、かつての土地を伝統的に分割してきたように<ミール>がすみやかに村民へと新しい土地を分割する、というものだった。
 さらに加えて、しばしば<ミール>は、かつての構成員に対するその権能を、1917-18年にあらためて主張した。すなわち、戦前に<ミール>に自立小農民として身を立てる力を残したストリュイピンの「分割者」は、多くの場合は彼らの保有物をもう一度、村落の共有地に戻して、それと一体となるように強いられた。//
 土地問題の深刻さや1917年春以降の土地奪取に関する報告にもかかわらず、臨時政府は、土地改革の問題を先送りにした。
 リベラルたちは、原理的には私有地の収奪に反対ではなかった。そして、一般的には農民の要求は正当なものだと考えていたように見える。
 しかし、いかなる急進的な土地改革も、明らかに重大な問題を惹起させただろう。
 第一に、政府は、土地の収奪と譲渡のための複雑な公職機構を設定しなければならなかっただろう。それはほとんど確実に、当時の行政上の能力を超えるものだった。
 第二に、政府は、たいていのリベラルたちが必要だと考えていた土地所有者に対する多額の補償金を何とかしでも支払うことはできなかっただろう。
 臨時政府の結論は、立憲会議が適正に解決するまで、問題を棚上げするのが最善だ、というものだった。
 その間に、政府は農民に対して(ほとんど役に立たなかったけれども)、かりにでも一方的に制裁することはない、と通告した。//
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 (12) Wilderman, <ロシア帝国軍隊の終焉>。1917年2月-4月の軍というその中心主題に加えて、この書物は、二月の権力移行に関する利用可能な最良の分析の一つを提供している。
 (13) Marc Ferro, <1917年2月のロシア革命>, J. L. Richards 訳(London, 1972), p.112-121.
 (14) 多様な民衆の反応について、Mark D. Steinberg, <革命の声-1917年>(New Haven & London, 2001)にある資料文書を見よ。
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 第二章(二月と十月の革命)のうち第2節(ボルシェヴィキ)と第3節(民衆の革命)の試訳が終わり。

1806/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑥。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第6回。
 注記-the (a) Constituent Assembly は「憲法制定会議(-議会)」とするのが<定訳>のようでもあるが、ここでは「立憲会議」という語で訳出する。予定されていた会議(集会)は「憲法」制定を目的にしたものではなく(正確には「国制」の基本的あり方を決定するためのものであり)、ボルシェヴィキを含む各政党・党派が各党独自の「憲法草案」を用意して競った、というものでは全くないからだ。
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 第二章・二月と十月の革命。
 (はじめに)

 1917年2月、民衆の集団示威行進と体制への支持の撤退を見て、専制体制は崩壊した。
 革命の高揚感からして、政治的解決の方策は簡単であるように見えた。
 ロシアの将来の統治形態は、もちろん民主政的(democratic)だっただろう。
 この曖昧な言葉とロシアの新しい国制(constitution)の性格の正確な意味は、情勢が許すかぎりですみやかにロシア民衆が選出する立憲会議(the Constituent Assembly)が決定するだろう。
 それまでの間は、エリートの革命と民衆の革命とが共存するだろう。1905年の国民の革命的連帯という栄光の日々にそうだったように。-前者の範疇にはリベラル政治家たち、有資産階層と専門家階層、および上級官僚層が入り、後者の範疇には、社会主義政治家たち、都市的労働者階級および兵士や海兵という軍人たちが入る。
 制度の観点から言うと、新しい臨時政府(Provisional Government)はエリート革命を代表し、新たに再生したペテログラード・ソヴェトは民衆の革命を代弁するだろう。
 これら二つの関係は、競争的ではなくて補完し合うものだろう。そして、「二重権力」(dual power)(この語は臨時政府とソヴェトの共存を示すために使われた)は、弱さではなくて強さの淵源になるだろう。
 ロシアのリベラルたちは結局のところ、社会主義者たちを同盟者だと見なす傾向に伝統的にあった。社会主義者たちの社会改革への特別の関心は、政治的民主主義化というリベラルたち自身の特別の関心と類似していて、併存可能だったのだ。
 同じように、ロシアのたいていの社会主義者には、リベラルたちを同盟者だと見なす心づもりがあった。リベラルたちは、ブルジョア的でリベラルな革命が政治課題の第一段階で、社会主義者は専制体制に反対する闘いでそれを支援せざるを得ないという、マルクス主義の考え方を受容していたのだから。//
 だが8ヶ月以内に、二月の希望と期待は、朽ち果てた。
 「二重権力」は、権力の真空を覆い隠す幻想だと分かった。
 民衆革命は、徐々に過激になっていった。一方でエリート革命は、財産、法と秩序を守ろうとする不安気で保守的な立場の方向へと動いた。
 臨時政府は、将軍コルニロフ(Kornilov)による右からのクーの試みを辛うじて生き延び、10月のボルシェヴィキによる左からの成功したク-には屈服した。後者は一般的には、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを連想させた。
 長く待った立憲会議は召集されたが、1918年1月にボルシェヴィキが無作法に解散させたので、何ごとも達成されなかった。
 ロシアの周縁部では、旧帝制軍の将校たちがボルシェヴィキと闘う勢力を集結させていた。ある範囲の者たちは、1917年に永遠に消失したと思われた君主制の旗のもとにいた。
 革命は、リベラルな民主政体をロシアに生み出さなかった。
 その代わりに、アナーキー〔無政府状態〕と内戦とをもたらした。//
 民主主義の二月から赤い十月への一気の推移は、勝者と敗者のいずれをも驚かせた。
 ロシアのリベラルたちには、衝撃は巨大だった(traumatic)。
 革命がついに起きた-<彼らの>革命は、西側ヨーロッパの歴史が明確に例証し、正当に思考するマルクス主義者すら同意するように正しいはずのものだった。しかしその革命は、彼らの手中から、邪悪で理解し難い勢力が奪い去っていっただけだった。
 メンシェヴィキとその他の非マルクス主義者たちは、同様にひどく憤慨した。すなわち、プロレタリア-トの社会主義革命には、時機がまだ成熟していない。マルクス主義政党がルールを破って権力を奪取するなどとは、釈明することができないことだ。
 ヨーロッパでの戦争の仲間である連盟諸国は、突然の政府崩壊に呆然として新政府の承認を拒絶した。このことは、ロシアを戦争から一方的に閉め出す用意をすることだった。
 外交官たちは、ロシアの新しい支配者の名前すらほとんど知らなかった。しかし、最悪のことの発生を疑い、彼らが2月に歓迎した民主政の希望がすみやかに復活するようにと祈った。
 西側の新聞の読者は、文明化から無神論の共産主義(Communism)という野蛮な深みへとロシアが崩落したことを、恐怖とともに知った。//
 十月革命が残した傷痕は深かった。そしてそのことは、ボルシェヴィキの勝利に続いた内戦の間または直後に国外逃亡した多数の教養あるロシア人によって、外部世界にもより痛ましくかつより理解できるようになった。
 エミグレたちにとって、ボルシェヴィキ革命はギリシャの意味での悲劇だというよりもむしろ、予期していない、不当で、本質的には不公正な災難だった。
 西側の、とくにアメリカの世論にとって、ロシアの民衆はそのために長く高潔に闘ってきたリベラルな民主主義に欺されたように思えた。
 ボルシェヴィキの勝利を説明することのできる陰謀論が、広い範囲で信憑性を獲得した。
 そのうち最も知られているのは、国際的なユダヤ人による陰謀だとの説だった。トロツキー、ジノヴィエフおよび多くの他のボルシェヴィキ指導者はユダヤ人だったのだから。
 だが、Solzhenitsyn の<チューリヒのレーニン>が蘇らせた別の論は、ボルシェヴィキはドイツの人質だったと描き、ドイツは〔ボルシェヴィキを使って〕ロシアを戦争から追い出す策略に成功した、とする。
 もちろん歴史研究者は、陰謀論には懐疑的な傾向にある。
 しかし、このような議論が盛んになることを可能にした感じ方は、この問題に対する西側の学問的接近方法にも影響を与えた。
 ほんの最近まで、ボルシェヴィキ革命に関する歴史的説明は、何らかの方法でその非正統性を強調した。まるで、事件とその結末について、ロシアの民衆をいかなる責任からも免れさせようとしているかのごとく。//
 ボルシェヴィキの勝利とその後のソヴィエト権力の展開に関する西側の古典的解釈によると、<問題解決の神>(deus ex machina)は、党の組織と紀律という、ボルシェヴィキの秘密兵器だった。
 レーニンの小冊子<何をなすべきか>(上述、p.32参照)は非合法の陰謀的政党が成功するための組織に関する必要条件を述べたもので、基本的なテキストとしてつねに引用された。
 そして、<何をなすべきか>が示した考え方は成長期のボルシェヴィキ党の型を形成し、1917年2月の地下からの最終的な出現の後ですらボルシェヴィキの行動を決定し続けた、と主張された。
 ロシアでの二月以降の開かれた民主主義的な多元主義的政治は、それゆえに弱体化し、陰謀組織による十月のクーによるボルシェヴィキの非合法の権力奪取でもって頂点に達したのだ、と。
 中央志向の組織と厳格な党紀律というボルシェヴィキの伝統によって、新しいソヴィエト体制は抑圧的な権威主義の方向へと向かい、のちのスターリンの全体主義的独裁制の基礎を設定した、と。(1)
 だが、ソヴィエト全体主義の起源というこの一般的な考えを1917年の二月と十月の間に展開した特有の歴史的状況へと適用するのは、つねに問題があった。
 第一に、かつての秘密結社的ボルシェヴィキ党には新しい党員が大量に流入した。とくに工場や軍隊からの新規加入は、他の全ての政党を凌駕していた。
 1917年の半ばまでに、ボルシェヴィキ党は開かれた大衆政党になっていて、<何をなすべきか>で叙述された一日中を働く革命家たちの紀律あるエリート組織とはほとんど似ていなかったのではないか?
 第二に、党全体も党指導者も、1917年の最も基本的な政策問題に関して一致していなかった。
 例えば10月に、蜂起が望ましいか否かに関して党指導者内部に大きな不一致があったために、その論点についてボルシェヴィキは、日刊新聞上で公的に議論した。//
 1917年のボルシェヴィキの力強さは厳格な組織と規律にあるのではなく(当時はほとんど存在しなかった)、政治の射程での極左に位置する頑強な急進主義だった、と言えるかもしれない。
 他の社会主義やリベラルのグループは、臨時政府やペテログラード・ソヴィエト内での地位を求めて競い合った。一方でボルシェヴィキは、選任されるのを拒み、連立と妥協の政策を非難した。
 従前は急進的だった他の政治家は節度と責任を、そして政治家らしい指導力を求めた一方で、ボルシェヴィキは、責任がなくかつ戦闘的な革命的群衆とともに街頭に出ていた。
 「二重権力」構造が解体し、臨時政府とペテログラード・ソヴェト指導層に代表される連立諸党派への信頼が失墜したとき、ボルシェヴィキだけが利益を得る立場にあった。
 社会主義諸政党の中で、ボルシェヴィキだけがマルクス主義者としての良心の咎め(scruples)を抑制し、群衆の空気を掴み、プロレタリア革命の名のもとで権力を奪取する気概があることを宣言した。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの「二重権力」関係は、階級の観点から、ブルジョアジーとプロレタリア-トの間の同盟だとつねに考えられてきた。
 それの存続は、これら両階級やそれらを代表すると主張する政治家たちの間の継続的な協力関係に依存していた。
 しかし、二月の脆弱な合意は、1917年夏までには深刻なほどに掘り崩されていた。
 都市社会が法・秩序の右派と革命的左派にますます分極化していったとき、民主主義的連立という中間的な基盤は、粉々になり始めた。
 7月、労働者、兵士および海兵はペテログラードの街頭に出現して、ソヴェトが労働者階級の名前で権力を奪取することを主張し、臨時政府の「10人の資本主義大臣」を非難した。
 8月、コルニロフ将軍のクーが失敗した月、指導的な実業家はリベラル派に対して、自分たちの階級利益を守るためにもっと断固であれと、つぎのように迫った。
 『我々は…、現在の革命はブルジョア革命であり、現に存在しているブルジョア秩序は不可避だ、と言うべきだ。そして、不可避であるがゆえに、完璧に論理的な結論を導出しなければならず、国家を支配する者はブルジョア的様式で思考し、ブルジョア的様式で行動しなければならない。』(2)
 「二重権力」は立憲会議が招集されるまでの暫定的な仕組みだと考えられていた。
 しかし、左派と右派からの攻撃を受けてそれが解体し、ロシアの政治がいっそう分極化したことは、1917年半ば頃、現時点に関してはもちろんのこととして将来に関する憂慮すべき問題を生じさせた。
 ロシアの政治的諸問題は民衆により選出される立憲会議と西側モデルによる議会制民主主義の形式的な制度化によって解決することができる、という望みは、まだ合理的だったのか?
 立憲会議による解決は、暫定的な「二重権力」のように、ある程度の政治的な一般的合意と妥協が必要であることについての了解を必要とした。
 合意と妥協に至る、気づかれていた代替選択肢は、独裁制や内戦だった。
 しかしながら、これらの代替案は、政府の手綱を放り捨てた、動揺して鋭く分極化した社会によって選択されそうに見えた。//
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 (1) この議論に関する批判的な歴史編集的考察として、Stephen F. Cohen, <ボルシェヴィズムとスターリニズム>, in: Robert C. Tucker, ed., <スターリニズム>(New York, 1977)を見よ。
 (2) W. Rosenberg, <ロシア革命におけるリベラル派>(Prinston, NJ, 1974)p.209 から引用した。
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 第1節・二月革命と「二重権力」。
 2月の最終週、食糧不足、ストライキ、ロックアウト、そして最後にヴィボルク地区での女性労働者による国際女性日記念の集団示威行進が、群衆をペテログラードの街頭へと送り込んだ。これを当局は、解散させることができなかった。
 会期の最後に達していた第四ドゥーマは皇帝に対して、責任ある内閣の再度の設置と危機存続中の会期延長とを懇願した。
 いずれの要望も、拒否された。
 しかし、カデット党内リベラル派および進歩派が支配していたドゥーマの無権限の委員会は、実際は開会中のままだった。
 皇帝の閣僚たちは最後の、何も決定しない会合を開き、そして逃げ去った。彼らのうちの用心深い者は、即時に首都を離れた。
 ニコライ二世自身は出席しておらず、モギレフ(Mogilev)にある軍最高司令部を訪れていた。
 危機に対する彼の反応は、騒擾はただちに終焉させるべしという、電報でのわずかな言葉による指示だった。
 しかし、警察は解体しつつあり、ペテログラード守備軍から群衆を統制すべく市内に派遣された兵士たちは、群衆に同調し始めた。
 ペテログラードの軍司令官は、革命的群衆が全鉄道駅、全銃砲施設、そして知る限りで市の全体を奪い取った、と報告しなければならなかった。
 彼の指示を受け入れる信頼できる兵団はほとんど残っていなかった。そして、彼の電話ですら作動しなくなっていた。//
 軍の最高司令部には、二つの選択肢があった。一つは新しい兵団を送り込むことだが、彼らは結束するかもしれないけれども、そうしない可能性もあった。もう一つは、ドゥーマの政治家の助けを借りて政治的解決を追求することだった。
 軍最高司令部は、後者を選択した。
 モギレフからの帰路にあったプスコフ(Pskov)で、ニコライの列車に最高司令部とドゥーマからの使者がやって来た。彼らはニコライに恭しく、皇帝位を放棄するように示唆した。
 若干の議論のあとで、ニコライは穏やかに同意した。
 しかし、最初は彼の子息へと譲位するという提案を受け容れたのだったが、皇太子アレクセイの健康をもう一度考えて、自分と子息のために退位するのではなく、弟のミハエル大公に譲位すると決断した。
 つねに家庭的だったニコライは、驚くべき平穏さをもって、また自分の私人としての将来に関する政治的無邪気さをもって残りの旅を過ごした。//
 『〔対ドイツ戦争という〕対立が続いている間は外国へ行こう、そしてロシアに戻り、クリミアに定住して、子息の教育に完全に没頭したい、と彼は言った。
 彼に対する助言者のある者は、彼はそうするのを許されるだろうかと疑った。しかし、ニコライは、子どもの世話をする権利を否定する親はどこにもいない、と答えた。』(3)//
(ニコライは首都に到着したあと、家族と一緒になるためにペテログラードの外に送られた。そのあと、臨時政府と連盟諸国が彼の処遇を決めようとしている間は、軟禁状態で静かにしていた。
 のちに家族全員がシベリアに、ついでウラルに送られた。まだ軟禁状態で、かつ状況はますます困難になっていたが、ニコライは強い精神力でそれに耐えた。
 1918年7月、内戦開始のあとで、ニコライとその家族は、ボルシェヴィキのウラル・ソヴェトの指令にもとづいて処刑された。(4)
 退位からその死のときまで、ニコライは実際に私人として振る舞い、積極的な政治的役割はいっさい果たさなかった。)
 ニコライの退位につづく日々、ペテログラードの政治家たちは、高度に興奮し熱狂的に行動する状態だった。
 彼らの元来の意図は、君主制ではなくてニコライを取り去ることにあった。
 しかし、ニコライのその子息への譲位は、アレクセイが未成年の間の摂政政治の可能性をも奪い取った。
 そして、賢明な人物のミハエル大公は、兄を嗣ぐという誘いに乗り気ではなかった。
 したがって、ロシアは事実上もはや君主制国ではなかった。//
 国家の将来の統治形態はいずれ開催される立憲会議(a Constituent Assembly)で決定される、それまでの間は自己任命の「臨時政府」が従来の帝国閣僚会議の責任を引き継ぐ、と決定された。
 ゼムストヴォ連盟の長で穏健なリベラルのルヴォフ(Georgii Lvov)公が新政府の長になった。
 彼の内閣には、歴史学者でカデット党の理論家のミリュコフ(Pavel Milyukov)が外務大臣として、二人の著名な実業家が財務大臣および通商産業大臣として、社会主義者の法律家であるケレンスキー(Aleksandr Kerensky)が司法大臣として入った。//
 臨時政府には選挙による委任(mandate)がなく、その権威は、今は消滅したドゥーマ、軍最高司令部の同意およびゼムストヴォ連盟や戦時産業委員会のような公共的組織との非公式の合意に由来した。
 旧帝制の官僚機構はその執行的機能を提供したが、先立つドゥーマの解体の結果として、臨時政府にはそれを支える立法機関がなかった。
 脆弱でありかつ形式上の正統性が欠けていても、新政府が権力を掌握することはきわめて容易であると思われた。
 連盟諸国はただちに、それを承認した。
 ロシアで一夜にして君主主義感情が消滅したように見えた。第十軍の全体と二人の将校だけが、臨時政府に忠誠を誓うことを拒否したのだ。
 リベラルのある政治家は、のちにこう振り返った。//
 『多くの個人や組織は、新権力への忠誠を表現した。
 Stavka〔軍司令部〕は全体として、それに続いて全ての司令官たちも、臨時政府を承認した。
 帝制期の大臣たちや副大臣の何人かは、収監された。しかし、その他の官僚たちはそれぞれの職にとどまった。
 各省、役所、銀行、実際にはロシアの政治機構の全体が、作動するのを止めなかった。
 この点では〔二月の〕クー・デタは順調に過ぎ去ったので、その当時ですら、これは終わりではない、こんな危機がこれほど平和裡に過ぎ去ることはありえない、という漠然とした胸騒ぎを覚えたほどだった。』(5)//
 実際、まさに最初から、権力移行の有効性を疑うことのできる理由はあった。
 最も重要なのは、臨時政府には競争相手があった、ということだ。すなわち、二月革命は、全国的な役割を主張する、一つではなく二つの自己形成的権威を生んだ。
 第二のものはペテログラード・ソヴェトで、労働者、兵士および社会主義政治家による1905年のペテルブルク・ソヴェトを範型として形成された。
 3月2日に臨時政府の設立が発表されたとき、ソヴェトはすでにタウリダ宮で会合をしていた。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの二重の権力関係は自然に明らかになってきたもので、政府はそう選択するしかなかったためにこれを広く受け容れた。
 最も現実的な面から述べると、自由にできる力を持たない10人ほどの大臣は、むさ苦しい労働者、兵士および海兵たちの群れから王宮(政府とソヴェト両者の最初の会合場所)を無事に通過することがほとんどできなかった。彼らは中をどしどしと歩き回り、外に向かって演説し、食べて、寝て、議論し、宣言文を書いていた。
 断続的にソヴェトの部屋に突入してきて、捕まえた警察官やかつての帝制期大臣を〔ソヴェトの〕代議員のもとに残していく、そのような群衆の雰囲気は、何とか通り過ぎようとの意図を萎えさせたに違いない。
 もっと広い観点からは、戦時大臣だったグチコフ(Guchkov)は3月初めに、軍の最高司令官に対してこう説明していた。//
 『臨時政府は、本当の(real)権力を何も持っていない。
 その公的な命令は、労働者・兵士代表ソヴェトが許す範囲でのみ実施される。ソヴェトは、本当の権力の本質的な要素を全て享有している。兵団、鉄道、郵便および電信、これらは全て、彼らの手中にあるからだ。
 平易に言うと、臨時政府は、ソヴェトが許容しているかぎりでのみ存在している。』(6)//
 最初の数ヶ月、臨時政府は主としてリベラルたちで構成されていた。一方、ソヴェトの執行委員会は社会主義者の知識人によって、党派所属上は主としてメンシェヴィキとエスエルによって占められていた。
 臨時政府の一員でありかつ社会主義者でもあるケレンスキーは、二つの組織を結び合わせるめに活動し、両者の間の連絡者として働いた。
 ソヴェトの社会主義者たちは、ブルジョア革命がその行程を終えるときまで労働者階級の利益を守るために、臨時政府に対する監視者(watchdogs)として行動するつもりだった。
 このようなブルジョアジーに対する敬意は、一つには、社会主義者が良きマルクス主義教育を受けていたからであり、二つには、警戒と不確実さの産物だった。
 ソヴェトのメンシェヴィキ指導者の一人であるスハノフ(Nikolai Sukhanov)が記したように、先には厄介なことが起きそうだった。そしてリベラルたちが責任をもち、必要ならば責めを甘受した方がよかったかもしれない。//
 『ソヴィエトの民主政は、権力を階級敵である有資産要素に託さなければならなかった。その者たちの関与がなければ、解体という絶望的状況で行政の技術を急に修得することはできなかったし、帝制主義者やそれと一体となったブルジョアジーをうまく処理することもできなかっただろう。
 しかし、この移行の<条件>は、近い将来での階級敵に対する完全な勝利という民主政体を確実にするものでなければならない。』(7)
 しかし、ソヴィエトを構成した労働者・兵士・海兵は、さほどに用心深くはなかった。
 臨時政府の公式の樹立またはソヴィエトでの「責任ある指導者層」の出現よりも前の3月1日、悪名高い命令第一号がペテログラード・ソヴェトの名前で発せられた。
 命令第一号は革命的文書で、ソヴィエトの権力を主張するものだった。
 それは、選挙された兵士委員会の設立による軍の民主主義化、将校の懲罰権限の削減、軍隊に関する全ての政策問題に関するソヴィエトの権限の承認を要求した。すなわち、ソヴィエトの副署がないかぎりは、いかなる政府のまたは軍の命令も有効ではない、と述べていた。
 命令第一号は、現実に将校をその地位に確保するための選挙の実施を要求するものではなかった。また、そのような選挙は実際には、より規則に則らない単位で組織されてきていた。
 そしてまた、数百人の海軍将校たちがクロンシュタットとバルティック艦隊の海兵によって二月の時期に拘束されて殺害された、という報告があった。
 ゆえに、命令第一号は、階級戦争を強調する意味をもつもので、階級の協力という展望についての保障を提供することは全くできなかった。
 これは、二重権力という最も機能できない形態を予兆した。つまり、軍隊に入った者たちはペテログラード・ソヴェトの権威だけを承認し、一方で将校団は臨時政府の権威だけを承認する、という状況の予兆だった。//
 ソヴィエトの執行委員会は、命令第一号が意味させていた急進的立場から退却をすべく最大限の努力をした。
 しかし、スハノフは4月に、執行委員会が事実上臨時政府と連立していることが生んだ「大衆からの孤立」について論評した。
 もちろんそれは、部分的な連立だった。
 ソヴィエト執行委員会と臨時政府の間では、労働政策や農民の土地要求の問題について、対立が頻出していた。
 また、ヨーロッパの戦争へのロシアの関与に関して、重要な不一致もあった。
 臨時政府は、戦争努力をしっかりと行い続ける立場だった。そして、外務大臣のミリュコフによる4月18日の覚書は、コンスタンチノープルとその海峡に対するロシアの支配の拡大(ツァーリ政府と連盟諸国とで調印された秘密条約で同意されていた)に利益を持ち続けることすら意味させていた。大衆的な抗議と新しい街頭示威行進によって、ミリュコフは辞任を余儀なくされた。
 ソヴィエト執行委員会は「防衛主義」の立場を採った。ロシアの領土が攻撃されている間は戦争継続に賛成するが、併合主義的戦争意図や秘密条約には反対する、というものだ。
 しかし、ソヴェトの側では-そして街頭、工場、とくに守備軍団では-、戦争に対する態度はより単純でかつ強烈なものになる傾向にあった。すなわち、戦闘をやめよ、戦争から抜け出せ、兵士たちを故郷に。//
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会と臨時政府の間に進展した関係は、1917年の春と夏には熱心で、親密で、そして議論を嫌がることがなかった。
 執行委員会は、その別々の主体性を用心深く守った。しかし、最終的には、二つの組織は緊密に結びついていたために、お互いの運命に無関心ではおれなくなり、あるいは、悪い事態が発生したときに相手から離れることができなくなった。
 連携は5月には強化された。その月に、臨時政府がリベラル派のものであることをやめ、ソヴェト執行委員会で最も重要な影響力をもつ大きな社会主義政党(メンシェヴィキとエスエル)の代表者たちを引き込むことによって、リベラル派と社会主義者との連立政権になったのだ。
 社会主義者たちは、政府に加わることに乗り気ではなかった。しかし、国民的な危機の時期に、ぐらつく体制を強化するのは自分たちの義務だと結論づけた。
 彼らは、ソヴェトは自分たちが政治行動をする、より自然な分野だと見なし続けた。とりわけ、社会主義者である新しい農務大臣と労働大臣がリベラル派の反対によって彼らの政策を実施することができないと明らかになったときには。
 しかしながら、象徴的な選択が行われていた。すなわち、臨時政府とより緊密に連携し合ううちに、「責任のある」社会主義者たちは(そして広く言えばソヴェト執行委員会は)、「責任のない」民衆革命から離れていっていた。//
 「ブルジョアの」臨時政府に対する民衆の反感は、戦争の疲労が増大し、都市の経済状況が悪化していたので、春遅くには高まった。(8) 
 7月に発生した街頭での集団示威行動(七月事件)の間、示威行進者たちは「全ての権力をソヴェトへ」と呼びかける旗を掲げていた。これが実際に意味したのは、臨時政府から権力を奪い取ることだった。
 逆説的にだが-政府に参加する趣旨からすると論理的にだが-、ペテログラード・ソヴェト執行委員会は、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを拒絶した。
 そして、実際、集団示威行進は、政府に対してと同様に現在のソヴェト指導部に対して向けられた。
 ある行進者は「おまえたち、与えられているときに、権力を奪え!」と社会主義政治家に向かって、拳を振り上げながら叫んだ。(9) 
 しかしこれは、「二重権力」の支持を誓った者たちには返答することができない訴え(あるいはおそらく脅迫?)だった。//
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 (3) George Katkov, <ロシア・1917年-二月革命> (London, 1967), p.444.
 (4) ニコライの最後の日々に関する資料的文書として、Mark D. Steinberg & Vladimir M. Khrustalev,<ロマノフ王朝の最後>(New Haven & London, 1995), p.277-366. を見よ。
 (5) A. Tyrkova-Williams, <自由からブレスト・リトフスクへ>(London, 1919), p.25.
 (6) Allan K. Wildman, <ロシア帝国軍隊の終焉>(Princeton, NJ, 1980), p.260. から引用した。
 (7) Sukhanov, <ロシア革命・1917年、i> p.104-5.
 (8) 地方での展開する状勢に関する生き生きとした説明として、Donald J. Raleigh, <ヴォルガでの革命>(Ithaca & London, 1986)を見よ。
 (9) Leonard Schapiro, <共産主義専制体制の起源>(Cambridge, MA, 1955), p.42, n.20. から引用した。
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 第二章(二月と十月の革命)のうち「はじめに」と第1節(二月革命と「二重権力」)の試訳が終わり。

1805/江崎道朗2017年著指弾⑬。

 つぎのものは、ひどい本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 既述だが、わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの「致命的」な間違いがある。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 他にもあるが、ああ恥ずかしい。
 これらの一つだけでもすでに致命的で、出版停止し全面的書き直しか絶版にすべき程度のものだと考えられる。
 いずれにせよ、江崎道朗に、対共産主義「インテリジェンス入門」を執筆する資格はない。
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 これまた既述だが、江崎道朗は、共産主義(者)・共産党と「コミンテルン」を明確に区別する必要を感じていない。ロシア共産党、ソ連共産党、ソ連国家(赤軍であれチェカであれ)、これら全てを「コミンテルン」と表現しているのではないかとすら疑われる。
 「コミンテルン」を使う理由はおそらく、日本の一般的読者には共産主義等ほどの馴染みがない言葉で、かつ何やら「陰謀組織」めいた印象を与えることができるからだろう(政治文書、プロパガンダ文書には、どのような「言葉」を使うかも重要なのだ)。
 したがって江崎道朗には、コミンテルン初期の「加入条件」等文書は国際的共産主義組織一般と「共産主義者」との関係を規律するものであると理解されることになるようで、換言すると、「共産主義者」であるための要件を示すものと理解されていそうで、<コミンテルン(国際共産党)-「共産党」と名乗って加入して一員・一支部になってもよいと考える各国の社会主義的政党>の関係を規律するものと正確には理解されていないようだ。
 「コミンテルン」を本の表題の一部に使いながら、ひどいものだろう。
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 では江崎道朗には、「共産主義」自体はどう理解されているのか。
 上掲書p.38-39で、こう説明する。「マルクス主義」・「マルクス・レーニン主義」・「社会主義」との異同に全く言及はない。のちに離れたところで「社会主義」という語を登場させているが、そこでも「社会主義」と「共産主義」の異同に関するコメントは何もない。
 全文を引用する。//は改行。
 「共産主義とは、突きつめて単純化するならば、『生産手段を国有化して一党独裁のもとで徹底した経済的平等をめざす考え方』だ。//
 資本主義社会では、土地や資金、工場などの『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる。地主と小作人、会社経営者と労働者といった具合である。//
 そこで労働者による政党、つまり共産党が政権をとり、共産党主導で『武力によって強制的に』土地を取り上げ、会社経営者から資金と工場を取り上げ、国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され、労働者天国の社会が実現できる--このような労働者、小作人主体の社会を実現しようというのが共産主義だ。
 よって共産主義者は、基本的に武力革命を支持し、議会制民主主義に対して否定的なスタンスをとる」。
 以上が、この箇所での全文。この部分には「下敷き」にしているかもしれない参照文献の摘示がない。しかし、何らかの文献を読んで参照していることは間違いないだろう。
 第一の問題は、これは、「共産主義者たち」が主張している考え方の紹介なのか、それとも江崎道朗の理解はある程度は含めているのかが不明瞭だということだ。おそらく、前者を踏まえつつ、後者も混じっている、ことになるのだろう。
 かりにそうだとしても、あるいは前者なのだとしても、相当に違和感がある。以下、重要な点をコメントする。
 ①「徹底した経済的平等をめざす考え方」。
 これは誰がどこで主張したのか。なぜ「経済的」という限定がつくのか。かつ根本的には、共産主義では「平等」ではなく「自由」という理念はどうなっているのか。
 ついでに記そう。現在の2004年日本共産党綱領は、「真に自由で平等な共同社会」を目指す、そうなる筈だ、と明記している。「共同社会」とは、元来のドイツ語では、Gemeinwesen だと見られる。 
 ②「資本主義社会では、…『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる」。
 つぎの③とも密接不可分だが、「私有化」→「格差」という論理関係があるのかどうか。
 そのような旨を共産主義者は主張しているかもしれない。
 しかし、この点は重要なこととして強調しておきたいが、「格差」などという言葉・概念は、ロシア革命や共産主義等関係の書物を種々読んできたかぎりで、一度も見たことがない
 江崎においては単純に「不平等」という意味かもしれないが、「格差」という語を江崎が使うのは、昨今の日本の状況に大きく影響されている可能性がすこぶる高い。
 ③「国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され…」。
 江崎は読者に迎合して、あるいは現在の日本に合わせて、「格差」(是正?)という言葉を採用しているのだろう。
 一言挿入しておくが、共産主義とは<格差解消>を目ざす主義・考え方などでは全くない
 それよりも、なぜ<国有化→労働者全員の共有>なのか。さっぱり分からない。
 そのように共産主義者は主張している、という趣旨かもしれない。しかし、論理的・概念的にも歴史の現実でもそうではない(なかった)、ということは明確だ。紹介のつもりならば江崎著のどこかで厳しく批判しておいても不思議ではないが、そのような箇所はないようだ。
 ④「労働者による政党、つまり共産党」という説明または紹介も奇妙だ。少なくとも正確ではない。ロシア共産党・ソヴィエト共産党は本当に「労働者による政党」だったのか?
 紹介だとしても、それきりでは、①から④の全てが、共産主義者の「宣伝」を鵜呑みで紹介し<拡散>することになってしまう。
 以上の諸点よりももっと重大なのは、なぜ共産主義が<悪魔の思想>とまで称されるかが、まるで分かっていないように見える、ということだ。
 この点を、ハーバート・フーヴァー(元アメリカ大統領)の回顧録の第一章にある文章と比べてみよう。
 ハーバート・フーバー/渡辺惣樹訳・裏切られた自由-上巻(草思社、2017)。
 第一編・第一章のタイトルは「共産主義思想の教祖、指導者、主義・主張およびその実践」で、そのうちのp.165以下。
 一文ごとに改行する。
 「共産主義思想は第一に、人々の心を燃え立たせる病の思想である。
 信じる者の熱情は、キリスト教徒やイスラム教徒のそれと同じである。
 共産主義思想は、救済思想であるが、それに反抗する者を許さない。
 時とともにその思想体系、(拡散の)手段、組織体系を進化させてきた。
 その本質は強烈な拡張意識と、人間の感情(たとえば信仰心)の徹底的な抑圧である。
 その思想は、残酷でサディスティックでさえある。」
 このあと、(マルクスはないが)レーニン又はスターリンの文章を引用しつつの、「独裁について」、「宗教とモラルについて」、「国際関係について」、「共産主義革命は暴力による」、「労働組合とストライキによる破壊工作」、「議会に対する破壊工作について」、「国家間あるいはグループ間抗争の煽動について」、「講和不可能について」という諸項目がある。
 2017年の江崎道朗と遅くとも1960年代前半のH・フーヴァーと、どちらが「共産主義」の<本質>に迫っているだろうか。

1804/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑤。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第5回。
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 第一章・初期設定/第3節・1905年革命とその後/第一次大戦。
 かつてのツァーリ・ロシアは膨大な帝国で、ヨーロッパ諸大国の中で最大の常備軍を持っていた。
 その外部世界に対する強さは誇りの源であり、国内の政治的、社会的諸問題を静めることのできる達成物だった。
 20世紀初めのある内務大臣の言葉によれば、「勝利した小戦争」は国内の不安を抑える最良の治療薬だった。
 しかしながら、歴史的に見ると、これはかなり疑わしい命題だ。
 過去の半世紀の間、ロシアの戦争は成功したものでなければ、政府への社会の信頼を強くする傾向にあるものでもなかった。
 クリミア戦争での軍事的屈辱によって、1860年代の急進的な内政改革が行われた。
 1870年代遅くのバルカン地域への軍事介入の後でロシアは外交上の敗北を喫したが、それは国内の政治危機を生み、アレクサンダー二世暗殺でようやく終わった。
 1900年代の初め、ロシアは極東にまで膨張し、その地域のもう一つの膨張国家である日本と衝突した。
 ニコライ二世の閣僚たちの何人かは警告を発したけれども、宮廷や上層官僚層は、極東で簡単に略奪できる、日本-結局は劣った非ヨーロッパ勢力だ-は恐れるほどの敵ではないだろう、という雰囲気で覆われた。
 日本が始めたが、ほとんど同等にロシアの極東政策が挑発して、1904年1月にロシア-日本戦争が勃発した。//
 ロシアには、この戦争は陸と海での一連の敗北と屈辱だった。
 社会に初期にあった愛国主義的熱狂は急速に静まり、そして、ゼムストヴォのような公的組織が非常時の政府を助けようとしても-1891年飢饉の間にそうだったように-、官僚層との対立や不満だけが生じた。
 このことはリベラルな運動に油を注いだ。無能で不完全だときわめて明白に感じられているときに、官僚層は最も弱いように思えたからだ。
 そして、ゼムストヴォ上層と専門家たちは非合法の自由主義運動の背後に集まり、ペーター・ストルーヴェその他のリベラルな活動家によってヨーロッパから指導された。
 1904年の最後の数ヶ月、戦争はまだ進行中だったが、ロシアのリベラルたちは(1847年にフランス国王ルイ・フィリップに対して用いられたのを摸倣して)祝宴運動を行い、これによって社会的エリートたちは、立憲的改革という考えを支持することを強く表現した。
 同時期に政府は、官僚へのテロリストの攻撃、学生の示威行進および労働者のストライキを含む、その他の種々の圧力を受けていた。
 1905年1月、ペテルブルクの労働者は、彼らの経済的不満にツァーリの注意を向けようと、平和的な示威行動を行った(戦闘的な者や革命的な者にではなく、警察との関係をもつ背教的聖職者の父ガポン(Father Gapon)によって組織された)。
 血の日曜日(1月9日)、軍隊は冬宮の外から示威行進者に対して発砲し、1905年革命が始まった。(18)//
 専制体制に対する国民的連帯意識は、1905年の最初の9ヶ月はきわめて強かった。
 革命運動の指導をリベラル派が行うことについては、真剣な反対がなかった。
 そして、体制側と交渉する彼らの地位は、ゼムストヴォや中層専門家の新しい同盟からの支持のみならず、学生の示威行動、労働者のストライキ、農民の騒擾、軍隊での反逆および帝国の非ロシア領域での動揺に由来する多様な圧力にももとづいていた。
 体制の側は一貫して防御的で、恐慌と混乱に陥り、明らかに秩序を回復することができなかった。
 ウィッテがやっと、1905年8月遅くにきわめて有利な条件で日本との講和条約(ポーツマス条約)の交渉をはじめたときを画期として、体制は生き残る展望をもち得た。
 しかし、体制には数百万人の兵団が満州に残っており、ストライキをしている鉄道従業員たちが再び統制のもとにおかれるまで、彼らはシベリア横断鉄道で故郷に戻ることはできなかった。//
 リベラルな革命の頂点だったのは、ニコライ二世の十月宣言(1905年)だった。ニコライ二世はそれによって、立憲制原理へと譲歩し、全国的に選出される議会であるドゥーマの設置を約束した。
 この宣言書はリベラルたちを分断した。十月主義者たち(Octobrists)はこれを受容したが、立憲民主党(カデッツ)は受容を拒絶して、いっそうの譲歩を望んだ。
 しかしながら、実際には、このときにリベラルたちは革命運動から撤退し、その活動力を新しい十月主義者やカデットを組織いること、および近づいているドゥーマ選挙の準備へと集中させた。//
 一方で、その年の末まで労働者は積極的で革命的なままでいて、以前よりもいっそう知名度を獲得し、ますます戦闘的にになった。
 10月に、ペテルブルクの労働者たちは「ソヴェト」、あるいは工場で選出された労働者代表の評議会、を組織した。
 ペテルブルク・ソヴェトの実践的な役割は、他の諸装置が麻痺してゼネラル・スイライキが行われているときに、市に一種の非常時都市政府を提供することだった。
 しかし、そのソヴェトは革命諸党からの社会主義者の政治的なフォ-ラムになった(そのときメンシェヴィキだったトロツキーは、ソヴェトの指導者の一人になった)。
 数ヶ月の間、帝制当局はソヴェトを慎重に扱い、そして同様の機関がモスクワや他の都市で出現した。
 しかし、12月の初めに警察の作戦が巧くいって、それは解散させられた。
 ペテルブルク・ソヴェトが攻撃されたとの報せを受けて、モスクワ・ソヴェトは武装蜂起を起こした。ボルシェヴィキはこれに対して相当の影響力をもっていた。
 この蜂起は兵団によって弾圧されたが、労働者は闘い直したため、多数の犠牲者が出た。//
 1905年の都市革命は、18世紀遅くのプガチェフ一揆以来の最も深刻な農民蜂起をまき起こした。
 しかし、都市の革命と農村のそれは同時に発生したのではなかった。
 農民の反乱は-大家屋の破壊と燃焼、地主や役人に対する攻撃で成っていた-1905年の夏に始まり、秋遅くに頂点に達し、沈静化し、また1906年に大規模に再開した。
 しかし、1905年遅くですら体制は強大で村毎の静穏化運動に兵団を使い始めることができた。
 1906年の半ばまでに全兵団が極東から戻り、軍隊の紀律は回復した。
 1906-7年の冬、農村ロシアの多くは戒厳令下にあり、略式の司法手続(千を超える処刑を含む)が現地での軍事裁判所によって実施された。//
 ロシアの土地所有上層者は1905-6年の事態から教訓を得た。すなわち、その利害は専制体制とともにあり(それは復讐心に満ちた農民層からおそらく守ってくれる)、リベラルたちとではない。(19)
 しかし、都市では、1905年革命によってこのような階級分極化の意識は生まれなかった。すなわち、多くの社会主義者にとってすら、これは1848年のロシアではなく、リベラル派の裏切り体質とブルジョアジーとプロレタリア-トの間の本質的な敵対意識をあからさまにした。
 リベラル派-資本主義中産階級ではなくて職業人をむしろ代表する-は、十月には傍らに離れて立っていたが、労働者の革命に対する激しい攻撃をする体制側にも加わらなかった。
 彼らの労働者と社会主義運動に対する態度は、多くのヨーロッパ諸国でのリベラル派たちのそれよりもはるかに温和で優しいものだった。
 労働者の側では、リベラル派について、裏切る同盟者ではなくて臆病な同盟者だと気づいたように見える。//
 1905年革命の政治的結果は両義的で、全ての関係者にとっていくぶんは不満足だった。
 1906年の基本的諸法律-閉ざされたロシアが立憲体制へと至る-によってニコライは、ロシアはまだ専制体制だという彼の信念を知らしめた。
 確かに、僭政者は今や選出された議会に諮問するようになり、諸政党が合法になった。
 しかし、ドゥーマの権能は限定されていた。大臣たちは依然として君主に対してのみ責任を負った。そして、最初の二回のドゥーマは命令に従わないことが判明して恣意的に解散された後で、社会主義派を事実上は選出されにくくし、土地所有上層者を過大に反映させる新しい選挙制度が導入された。
 ドゥーマの主要な意味は、おそらく、政治的討論のための公共のフォーラムを提供して、政治家の基礎を訓練することにあった。
 1905-7年の政治改革は、1860年代の司法改革が法曹を生んだのと全く同様に議会政治家を生み育てた。
 そして二つのグループには、専制体制が不変のままでは残ることができない価値と希望を発展させるという内在的な傾向があった。//
 1905年革命が変え<なかった>一つは、1880年代に完成に至っていた警察体制だった。
 法の適正な手続は(野戦軍事裁判所の場合のように)まだ当時のほとんどの民衆にとっては宙に浮いたままだった。
 もちろん、このことについては理解できる根拠があった。
 比較的に平穏だった1908年に1800人の官僚たちが殺戮され、2083人が政治的動機をもつ攻撃によって負傷した (20) ということは、社会がいかほどに騒然としていたのかを、そして体制がいかほどに防御の側に回ったままであったかを、示している。
 しかし、このことは、政治改革が多くの点で表面的なものにすぎなかったことを意味した。
 例えば、労働組合は、原理的に合法化されたが、警察によってしぱしば閉鎖させられた。
 政党は合法になったが、そして革命的社会主義諸政党ですらドゥーマ選挙で争って若干のの議席を得たが、しかし、革命的社会主義政党の党員は以前よりも拘束されやすくなり、党の指導者たち(多くは1905年革命の間に帰還していた)は、収監や流刑を避けるために国外逃亡を再び強いられた。//
 後になって見れば、1905年を体験して1917年にすでに地平上で活躍していたマルクス主義革命家たちは労働者たちの劇的な革命家としてのデビューを祝福し、自信をもって将来へと向かっていたように思えるかもしれない。
 しかし、実際には、彼らの雰囲気は全く違った。
 ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、1905年労働者革命では足がかりすらなかった。すなわち、労働者たちは彼らと同じように進むことを拒絶した。これは、深刻に考えるべきことだった。とくに、レーニンには。
 革命はやって来た。しかし、体制は闘いから立ち直って、生き延びた。
 知識人層の間では、革命的夢想と社会の完全性という旧い幻想を放棄しようかとの会話が多くなされた。
 革命家の立場からすれば、法的な政治制度という表向きや尊大でお喋りのリベラルな政治家たち(これに関するレーニンの見方を要約すると、ニコライ二世のそれと大きくは異ならなかった)を新しく育てただけでは、何の収穫もなかった。
 革命的指導者たちにとって慣れてはいるが殺伐としたエミグレ生活に戻ることもまた、深い、かつほとんど耐えがたい失望だった。
 エミグレたちは、1905年と1917年の間ほど、簡単に怒り、かつ論争好きだったことはない。
 実際に、ロシア人が小さな口論をし続けていることは、ヨーロッパの社会民主主義のスキャンダルの一つになった。そして、レーニンは、最悪の反則者の一人だった。//
 戦争前の悪い報せの中にあったのは、体制側が農業改革の大きな綱領の設定に着手した、というものだった。
 1905-7年の農民一揆によって、政府は、<ミール>は農村的安定の最良の保障だとの初期の前提を放棄すべきことを理解した。
 政府の望みは今では、小さい自立した農民階層-ニコライの首相であるペトロ・ストリュイピン(Petr Stolypin)が述べた、「穏健で強い」ものへの保障-を生み出すことにあった。
 農民たちは今や土地保有を確固たるものにして<ミール>から離れることができると勇気をもち、土地委員会がその手続を容易にするために各地方に設置された。
 この前提にあるのは、貧しい者は売り払って都市へ行くだろう、豊かな者は保有地を改良し拡大して保守的な、言ってみればフランスの農民のようなプチ・ブルジョアジーの心性をもつだろう、という考えだった。
 1915年までには、ロシアの農民が何らかの形での個人的な保有権(tenure)を持っていたのは全農民の四分の一と半分の間くらいだった。法的および実際的な手続が複雑で、およそ十分の一だけが手続を完了させ、土地を囲い込んだけれども。(21)
 ストリュイピンの改革はマルクス主義用語では「進歩的」だった。農業の資本主義的発展の基礎を設定するものだったのだから。
 しかし、都市的資本主義の発達とは対照的に、ロシア革命の短期および中期的見通しから見て意味するところは、きわめて憂うつなものだった。
 ロシアの伝統的農民層は、反抗しがちだった。
 ストリュイピンがもしも改革を実行していれば(誰よりもレーニンがそうなりはしないかと恐れたように)、ロシアのプロレタリア-トは革命のための重要な同盟者を失っていただろう。//
 1906年、ロシアの経済は多額の借款(22億5000万フラン)で支えられていた。これについてウィッテは、国際銀行団と交渉したのだった。
 そして自国および外国所有の産業が、戦争前の年月には急速に膨張していた。
 このことはもちろん、工場労働者階級もまた膨張したことを意味した。
  しかし、1905-6年の労働者革命的運動が激しく弾圧された後の数年間は労働者騒擾は大きく落ちこみ、ようやく1910年頃に再び発生し始めた。
 戦争直前の年には大規模なストライキがますます頻発し、1914年夏のペテログラードでの一斉ストライキがその絶頂だった。このゼネ・ストは、何人かの観察者がロシアはその軍を戦争むのために総動員する危険を冒すのではないかと疑うほどに十分に深刻だった。
 労働者の要求は、経済的であるとともに政治的だった。
 彼らの体制に対する不満は、労働者自身に対して強制力を用いることについてはもちろんだが、ロシアの多くの産業部門で外国が支配していることについての責任をも含んでいた。
 ロシアでは、労働者が暴力的で戦闘的になるにつれて、メンシェヴィキはその支持を失っていくのを意識した。一方でボルシェヴィキは、支持を獲得しているのに気づいた。
 しかし、このことは、国外にいるボルシェヴィキ指導者の気持ちを顕著に亢進させはしなかった。なぜなら、ロシアとの連絡通信は不足し、おそらくはそのことを十分には知らなかった。また、彼ら自身の地位が、ヨーロッパでのエミグレ・ロシア人と社会主義者の社会でますます弱くなり、より孤立していたからだ。(22)//
 1914年8月、ヨーロッパで大戦が勃発し、ロシアはフランスとイギリスと同盟してドイツとオーストリアに対抗したとき、政治的エミグレはほとんど完全にロシアから遮断された。一方で、戦時中の異邦人たる生活についての通常の諸問題にも直面した。
 全体としてのヨーロッパ社会主義運動では、以前の大多数の国際主義者が、戦争が布告されるや、一夜にして愛国者になった。
 ロシア人は他国人と比べて完璧な愛国主義者になることは少なかったが、たいていは「防衛主義」(defensists)の立場を採った。それは、戦争がロシアの領土を守っているかぎりで、ロシアの戦争努力を支持する、というものだ。
 しかしながら、レーニンは、自国の大義を全体として非難する「敗北主義」(defeatists)の小集団に属した。すなわち、レーニンから見ると帝国主義戦争であり、最良の展望はロシアが敗北することであって、それは内戦と革命とを刺激して生み出すかもしれない。
 これは社会主義運動内部ですらきわめて論争を巻き起こす立場で、ボルシェヴィキは、きわめて冷たくあしらわれていることを感じた。
 ロシアでは、名のあるボルシェヴィキは全員が-ドゥーマ代議員を含む-、戦争を継続するために拘禁された。//
 1914年に、ロシアの宣戦布告は急速で広い愛国主義の熱狂、勝利を願う旗振り、国内の論争の一時停止を生み出した。また、ふつうの社会分野や非政府組織が政府の戦争努力を助けようとする真面目な取り組みも。
 しかし、また再び、雰囲気はすぐに悪くなった。
 ロシア軍の遂行能力と志気は、今や学者たちが感じていた以上に悪くなっているように見えた。また、軍は破滅的な敗北を喫し、損失を被った(1914-1917年の総計で500万の死傷者)。一方でドイツ軍は、帝国の西方深部に侵攻し、避難民がロシア中央へと混乱して流入するに至った。(23)
 敗北は上層部に裏切り者がいるのではないかとの懐疑心を生んだ。主要な対象の一つは皇妃アレクサンドラで、彼女は生まれはドイツの王女だった。
 醜聞はアレクサンドラのラスプーチン(Rasputin)との関係にも及んだ。この人物はいかがわしいがカリスマ性があり、皇妃はその子息の血友病を統御できる神のごとき者として信頼していた。
 ニコライがロシア軍の最高司令官の任を引き受け、長いあいだ首都から離れているとき、アレクサンドラとラスプーチンは各大臣の任命について大きな影響力を行使し始めた。
 政府と第四ドゥーマの関係が、劇的に悪化した。ドゥーマや全体としての知識人界の雰囲気は、政府の欠陥を批判する演説でカデット〔立憲民主党〕のパヴェル・ミリュコフが何度も口にした語句、「これは愚劣なのか、それとも裏切りか」でうまく表現されていた。
 1916年の遅く、帝室に近い若い貴族たちとドゥーマの右派代議員によって、ラスプーチンは殺害された。彼らの動機は、ロシアとその皇帝体制の名誉を救うことだった。//
 第一次大戦の圧力は-そして疑いなくニコライとその妻の個性や子息の血友病という家族の悲劇は (24)-、ロシア専制体制の無政府的特質には大きな休息になった。そして、ニコライは専制的伝統を期せずして執筆する風刺作家ではなくてその専制的伝統の保持者であるとは見えにくくなった。
 内閣での無能な人気者による「大臣への飛び級」、帝室での無教養な農民の信仰療法者、ラスプーチン殺害を指導した上層貴族の策略、そして毒薬、銃弾や溺水による殺害に強硬に抵抗するラスプーチンの英雄的物語ですら-これら全ては昔にあったことのように思われ、兵団の列車、塹壕での戦闘、大量動員という20世紀の現実に対する奇妙でとるに足らない随伴物であるように見えた。
 ロシアにはこのことに気づく教養ある公民がいたばかりではなく、ドゥーマ、諸政党、ゼムストヴォおよび産業家たちの戦時産業委員会のような組織もあった。これらは、古い体制から新世界への移行を行う潜在的な主導者だった。//
 専制体制の状況は、第一次大戦の前には危なかしいものだった。
 社会は大きく分裂し、政治と官僚機構の構造は脆弱で、無理をしすぎていた。
 体制は急な揺らぎや後退で容易に傷つきやすかったので、かりに戦争がなくともそれが長く生き延びただろうと想像するのは困難だ。情況が違っていれば明らかに、1917年に実際に起こったのよりも暴力的ではなく、かつ過激な帰結を伴わないで変化が起こったかもしれないけれども。//
 第一次大戦は、ロシア旧体制の脆さを暴露し、かつ増大させた。
 民衆は勝利を賞賛したが、敗北を耐え忍ぶつもりはなかった。
 敗北をしたとき、社会は政府を支持して集結することがなかった(これは、とくに敵が故郷に対する侵略者になるならば正常な反応で、1812年およびのちに再び1941-2年にあったロシア社会の反応だ)。しかし、政府に厳しく対抗するのではなくて、侮蔑心と道徳的優越さをもつ調子で、無能さと後進性を批判した。
 これが意味するのは、体制の正統性はきわめて脆弱であり、その存続は目に見える成果か、そうでなければ完璧な幸運に密接に関係している、ということだった。
 相対的には素早くかつ名誉を保って戦争から脱出したがゆえに、敗戦が革命へと突入したかつての1904-6年の場合には、旧体制は好運だった。また、ヨーロッパから多額の戦後借款を得ることができ、そして講和に至った。
 1914-17年には、そのように好運ではなかった。
 戦争は長く続き、ロシアだけではなくてヨーロッパ全体を消耗させた。
 ヨーロッパでの休戦協定より一年以上も前に、ロシアの旧体制は亡んでいた。//
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 (18) 1905年革命につき、Abraham Ascher, <1905年の革命/二巻本>(Stanford, CA, 1988 & 1992)を見よ。
 (19) Roberta Thompson Manning, 'Zemstvo and Revolution: The Onset of the Gentry Reaction, 905-1907' in : Leopold Haimson, ed., <農村ロシアの政治-1905-1914>(Bloomington, IN, 1979)を見よ。
(20) Mary Schaeffer Conroy, <ペトロ・アルカデヴィチ・ストリュイピン-帝制ロシア晩年の政治の実際>(Boulder, CO, 1976), p.98.
 (21) Judith Pallot, <ロシアの土地改革 1906-1917年-ストリュイピンの農村改革への農民層の対応>(Oxford, 1999),p. 8.
 (22) この孤立が心理状態に対してもった意味を小説で生々しく描写したものとして、Alexander Solzhenitsyn, <チューリッヒのレーニン>(New York, 1976)を見よ。
 (23) Peter Gatrell, <全帝国の歩み-第一次大戦の間のロシア難民>(Bloomington, IND, 1999)を見よ。犠牲者の数については、Peter Gatrell, <ロシアの第一次大戦-社会経済史>(Harlow, 2005), p.246 を見よ。軍の戦争中の実績の再評価について、David R. Stone, <大戦でのロシア軍-東部戦線・1914-1917>(Lawrence, KS, 2015)を見よ。
 (24) 家族の悲劇は、同情と理解をもって Robert K. Masse, <ニコライとアレクサンドラ>(New York, 1967)で描かれている。
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 第一章・初期設定の全体が終わり。
 

1803/言葉・概念のトリック②。

 記憶に残る、世界史的にも画期的だったのではないかと思われる新しい言葉・概念に、「社会主義(的)市場経済」というものがある。
 市場経済=market economy というのは「自由(自由主義)経済」と同じで、「計画経済」とは異なる資本主義経済とほとんど同義だとずっと思ってきた。
 ところが、日本共産党ではなくて中国共産党(・鄧小平)が1991年12月のソヴィエト連邦解体の後で「市場経済」の導入を謳い始めて、中国の経済上の「社会主義的市場経済」というものを打ち出した。
 これとソヴィエト連邦の解体<=ソ連との関係での冷戦終焉>は無関係ではなかっただろう。
 ソ連解体後の日本共産党は綱領をかなり重要な点について大きく変え、新綱領採択の1994年の党大会以降、<①ソ連はスターリン以降「社会主義国」ではなかった。②そういうスターリン・ソ連と日本共産党は闘ってきた>とヌケヌケと言い始めた。
 そして、<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を歩む、と明言した。
 かつまた、<③レーニンは<ネップ>(1921~)の時期にこの新しい路線を確立して積極的に動いたが、全てをスターリンが台無しにした>、という破天荒な「物語」を作り出した。
 現在の日本共産党によると、中国・ベトナム・キューバの三国は<市場経済を通じて社会主義へ>の途を進んでいる「社会主義国」あるいは少なくとも資本主義からは離脱した国だとされる(北朝鮮については、同党ですらこれを否定する)。
 日本共産党の「大ウソ・大ペテン」には今回は立ち入らない。
 興味深いのは、市場経済=資本主義経済という概念設定を崩して、「市場経済」には資本主義的なそれと社会主義的なそれがある、という新しい二分が生まれたことだ。
 要するに、(中国や日本共産党によるとだが)「市場経済」=資本主義的市場経済+社会主義的市場経済になったのであって、「市場経済」という語・概念の範囲は従来よりも拡張された、と思われる。
 これは、<民主主義>の中に<プロレタリア民主主義>あるいは<人民民主主義>も含めるという、一種の概念のトリックなのではないだろうか。
 むろんこれは、中国や日本共産党が追求する(または現に国家として追求しているはずの)「市場経済」の意味にもかかわる。
 日本共産党のいう資本主義国内での(とりあえずの)「市場経済」路線はともかくとして、国家権力全体を共産党が掌握している中国での「市場経済」政策とはいったい何なのだろうか。
 つまり本当に、資本主義的「市場経済」とともに、それは「市場経済」という上位概念で括れるようなものなのだろうか。
 中国経済はもとより中国自体の専門家でもないから、よく分からない。
 つぎに、「保守」または「保守的」という語・概念は欧米世界でもほぼ一般に存在するようだが(conservative、the Conservatives)、日本でのこの言葉の使い方は、「リベラル」(リベラリズム、あるいは「自由主義」)のそれと同様に、かなり日本に独特なものがある。
 正確には、端的にいって「保守」=「天皇」又は「日本主義」と主張している、またはこれを前提としている、有力かもしれない潮流がある。
 これは用語法の大きな誤りではないか、と感じてきている。
 「尊皇」・「天皇制度肯定」あるいは(「反日」と対決するという)「日本」主義は、ナショナリズムではあっても、私に言わせれば「保守」の不可欠の価値・要素ではないだろう(立ち入らないが、ここでの「尊皇」・「天皇」は彼らの観念上のもので、現憲法上のものではないし、まして今上陛下を意味してはいない)。
 「保守」という語・概念のワナに嵌まって、反日本共産党=一部の者たちにいう「保守」と理解してしまうと、とんでもないことになる。かなり長い間、秋月瑛二は、日本でいう<保守>は(も)、当然に反共産主義・反日本共産党を最大の「要素」とするものだろうと漠然と考えてきた。
 数年前から感じてはいるのだが、これは、完全に誤解であり、言葉・概念のトリックに欺されていたのだった。恥ずかしいものだ。さらに書く。

1802/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)④。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第4回。
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 第一章・初期設定/第2節・革命的伝統
 ロシアの知識人たちが自分たちに課した任務はロシアをより良くすることで、まずはこの国の将来の社会的政治的な青写真を描き出し、ついで可能ならば、現実へとそれを実施する行動を起こすことだった。
 ロシアの将来の目安は、西側ヨーロッパの現在だつた。
 ロシア知識人層は、ヨーロッパで見られた多様な現象を受容することも拒否することも決定し得えただろう。しかし、全てがロシア人の議論の論点であり、ロシアの将来計画に組み入れる可能性があるものだった。
 19世紀の最後の四半世紀、そうした議論の中心的主題の一つは、西側ヨーロッパの工業化とその社会的および政治的帰結だった。//
 一つの見方によれば、資本主義的工業化は西側に、人間の堕落、大衆の貧困化および社会構造の破壊を生んだ。そのゆえに、それはロシアでは是非とも避けられるべきだった。
 この見地に立つ急進的知識人たちは「人民主義(Populists)」という旗印のもとに集まった。この名称は、実際には存在していない組織の論理上の程度を示すにすぎなかったけれども(この言葉はもともとは、ロシアのマルクス主義者たちが彼らに同意しない多様な知識人集団を自分たちと区別するために用いたものだった)。
 人民主義は基本的には、1860年代から1880年代にかけてのロシア急進思想の主流だった。//
 ロシア知識人層は一般的に、最も望ましい社会組織の形態だとして(ヨーロッパのマルクス主義以前の社会主義者、とくにフランスの「空想家」のように)社会主義を受け容れた。このことが政治的変革のイデオロギーとしてのリベラリズムを受容することと矛盾しているとは、考えられていなかったけれども。
 知識人たちはまた、その孤立状態に反応して、自分たちと「人民(民衆)」(ナロード、narod)の間の溝を埋めようという強い熱意をもった。
 知識人たちの考え方の性質から、人民主義とは資本主義的工業化への抵抗とロシア農民層の理想化とが結合したものだと理解された。
 人民主義によれば、資本主義はヨーロッパの伝統的農村共同体に対して破壊的影響を与えた。農民たちを土地から切り離し、土地なき都市に移り住むのを強制し、産業プロレタリア-トを搾取した。
 人民主義者は、資本主義の暴虐からロシア農民の伝統的な村落組織、共同体またはミール(mir)を守ろうとした。ミールはロシアがそれを通じた社会主義への別の途を見出すかもしれない平等な制度-おそらく原始共産制が生き延びているもの-だと考えたからだ。//
 1870年代初め、知識人たちによる農民層の理想化と彼らの状況や政治改革の見込みについての不満によって、自発的な大衆運動が生まれた。これを最もよく示すのが、人民主義の目標-1873-74年の「人民の中へ」だった。
 数千人の学生と知識人たちが都市を離れて村落へ行き、ときには自分たちを農民層に対する啓蒙者だと思い描き、ときにはさもしく民衆に関する単純な知識を得ようとし、ときには革命的な組織とプロパガンダを指揮するという望みをもって。
 この運動には、ほとんどの参加者に関するかぎりは、中心的な目標はなく、明確に定められた政治的意図はなかった。政治的宣伝活動というよりも、宗教的な巡礼行為だった。
 しかし、農民たちにも帝制警察にも、このいずれであるかを把握して区別するのは困難だった。
 当局は大きな警戒心をもち、大量に逮捕した。
 農民たちは疑い、招かれざる客たちを貴族か階級敵の子どもたちだと見なし、彼らをしばしば警察へと突き出した。
 この災難によって、人民主義者のあいだには深い失望感が生まれた。
 民衆を救おうという決意は揺るがなかった。しかし、ある範囲の者たちは、こう結論づけた。外部者として民衆を救うのは自分たちの悲劇的な宿命だ、革命的な無謀行為の英雄性は死後にはじめて賞賛されるだろう、と。
 1870年代遅くに、革命的テロリズムが急に頻発した。部分的には収監されている同志のために報復したいという感情からだった。部分的には、狙いを定めた一撃が専制ロシアの上層構造全体を破壊して、ロシア民衆が自由に自分の運命を見いだせるようにする、という見込みなき希望からだった。
 1881年、人民主義テロリストの中の「人民の意思」集団が皇帝アレクサンダー二世の暗殺に成功した。
 これがもった効果は専制体制の破壊ではなくて、脅かすことによって、恣意性と法の無視が増したより強圧的な政策を、そして近代警察国家に近いものを生み出したことだった。(10)。//
 暗殺への民衆の反応の中には、ウクライナでの反ユダヤ人虐殺があり、また、農民を農奴から解放したがゆえに貴族が皇帝を殺害したのだというロシアの村落での風聞もあった。//
 空想的な理想主義、テロリスト的戦術および従前は革命的運動の特徴だった農民志向を批判して、ロシアの知識人層の中の明確に区別された集団として、マルクス主義者が出現してきた。それは、1880年代、二つの人民主義者の災難の結果としてだった。
 ロシアの不適切な政治風土のために、また自分たちのテロリズム非難のゆえに、マルクス主義者が最初に影響を与えたのは、革命的行動によってではなく、知識人たちの議論に対してだった。
 彼らマルクス主義者は、ロシアでの資本主義的工業化を避けることはできない、農民のミールはすでに内部的解体の途上にあり、国家とそれに拘束された責任者たちによって徴税と償還金納付のためにだけ支えられている、と主張した。
 また、資本主義は唯一の可能な社会主義への途を内包しており、資本主義の発達が生んだ工場プロレタリア-トは真の社会主義革命を起こすことのできる唯一の階級だ、と主張した。
 彼らが主張したこうした命題は、マルクスとエンゲルスが彼らの著作で叙述した歴史発展の客観的法則によって科学的に証明されるはずのものだった。
 倫理的に優れているとの理由でイデオロギーとして社会主義を選択する者たちを、彼らは嘲弄した(この点は、もちろん中心問題ではなかった)。
 社会主義に関する中心論点は、社会主義は資本主義のように、人間社会の発展の予見可能な段階だ、ということだった。//
 ロシア専制体制に対する「人民の意思」の闘いを本能的に称賛したカール・マルクスには、国外移住中のゲオルギー・プレハノフの周囲に集まる初期のロシアのマルクス主義者は、根本教条のために闘って死んでいる者がいるのに、あまりに消極的で衒学的な革命家たちであって革命の不可避性に関する論文を書いて満足しているように見えた。
 しかし、ロシア知識人層に対する影響は異なっていた。その理由は、マルクス主義の科学的予測の一つがすみやかに実現されたからだ。彼らはロシアは工業化し<なければならない>と言ったが、ウィッテの熱心な指揮のもとで、そうなった。
 本当に、工業化は自発的な資本主義の発達の所産であるごとく、国家の財政援助と外国の投資の産物であり、その結果として、ロシアはある意味では西側と異なる途を歩んだ。
 しかし、同時代者たちにとって、ロシアの急速な工業化はマルクス主義の予見が正しい(right)ことを劇的に証明するものだと、またマルクス主義は少なくともロシアの知識人たちの「大きな疑問」に対するある程度の回答だと、思われた。//
 ロシアでのマルクス主義は-中国、インドおよびその他の発展途上国でのように-、西側ヨーロッパの発展諸国とは異なる意味をもった。
 それは革命のイデオロギーであるとともに、近代化のためのイデオロギーだった。
 革命的消極性を責められたことがほとんどないレーニンですら、<ロシアでの資本主義の発達>という有力な論稿でマルクス主義者としての名をなした。その研究は、経済的近代化過程を分析して擁護するものだった。
 そして、ロシアでの彼の世代の指導的マルクス主義者たちは、事実上ほとんど、同じような著作を書いた。
 確かに、マルクス主義者のやり方で弁護された(「私は支持する」のではなく「きみにこう語った」)。そして、レーニンは反資本主義の革命家だとだけ知っている現代の読者は驚くかもしれない。
 しかし、19世紀遅くのロシアはマルクス主義の定義上まだ半封建的な後進社会だったので、マルクス主義者にとって、資本主義は「進歩的な」現象だった。
 イデオロギーの観点からすれば、資本主義は社会主義に到達する途上の必要な段階であるがゆえに、彼らは資本主義を支持した。
 しかし、感情の点からいうと、傾倒度は低くなってくる。
 ロシアのマルクス主義者は近代的で工業化した都市的世界に感嘆し、古い田園的ロシアの後進性に気分を害していた。
 レーニン-歴史を正当な方向へと一押ししようとする積極的革命家-は、かつての人民主義の伝統である革命的自発性をある程度もっている非正統のマルクス主義者だった、としばしば指摘されてきた。 
 これは本当のことだ。しかし、それは主として、1905年および1917年という現実的な革命の時期での彼の行動と関連があるものだ。
 1890年代に彼が人民主義ではなくマルクス主義を選んだのは、近代化の側に立っていたからだ。
 そして、この基本的な選択によって、レーニンと1917年の党による権力奪取以降のロシア革命の行程に関する多くのことを説明することができる。//
 人民主義者との間での資本主義をめぐる初期の論争で、マルクス主義者はもう一つの重要な選択を行った。すなわち、基礎的な支援者および革命のためのロシアの主要な潜在勢力として、都市的労働者階級を選んだのだ。
 これは、マルクス主義を、農民に一方的な恋愛感情をもつ(人民主義者が支持し、のちにその設立から1900年代初めまで社会主義革命党(エスエル)が支持した)ロシアの革命的知識人層の古い伝統と明確に区別するものだった。
 それはまた、(ある範囲は以前のマルクス主義者である)リベラルたちとも、マルクス主義者を区別した。リベラルたちの自由化運動は政治勢力としては、「ブルジョア革命」を望んで新しい専門家階層とリベラルなゼムストヴォ貴族の支持を得たために、1905年の少し以前に出現することとなった。//
 マルクス主義者の選択は、当初は、とくに有望だとは見えなかった。労働者階級は農民層と比較すると小さくて、都市の上層階級と比較すると地位、教育および財政源が欠けていた。
 マルクス主義者の労働者との初期の接触は基本的に教育的なものだった。それは、知識人たちが一般的な教育にマルクス主義の要素を加えて労働者に提供するサークルや学習会集団で成り立っていた。
 このことが革命的労働者運動の発展にいかに寄与したかについて、評価は歴史研究者によって異なる。(12)
 しかし、帝制当局は相当の政治的脅威を感じ取った。
 1901年の警察報告書は、こう記載した。(13)
 『目標を達成しようとして煽動者たちは、不運にも、政府に対して闘う労働者を組織することにある程度は成功した。
 最近の3年か4年、家族と宗教を軽蔑し、法を無視し、構築された権威を拒絶して愚弄するのを余儀なく感じている、半ば識字能力のある知識人の特別の類型へと、暢気なロシアの若者たちは変わってきている。
 幸いにもそのような若者は工場では多数ではない。しかし、このごく少数の一握りの者たちが、労働者の不動の多数派をそれに従うように脅かしている。』
 マルクス主義者たちは明らかに、大衆との接触を探している初期の革命的知識人たちよりも優れていた。
 マルクス主義者は、聴こうとする大衆の部門を発見していた。
 ロシアの労働者は農民層から大して離れていなかったけれども、はるかに識字能力のある集団で、少なくも彼らのある程度は、近代的で都市的な「自分を良くする」可能性という意識をもっていた。
 教育は、革命的知識人層と警察の両者が予見した革命の方向への途であるとともに、社会流動性上の上昇の手段だった。
 初期の人民主義者の農民に対する宣教とは違って、マルクス主義の教師は、警察が学生たちに圧力を加える危険を冒す以上のものをもっていた。//
 労働者教育から、マルクス主義者-1898年以降に非合法でロシア社会民主労働党として組織されていた-は、より直接に政治的な労働者の組織化、ストライキ、そして1905年の革命への関与へと進んだ。
 党の政治的組織と現実の労働者階級の抗議の間の結婚は決して厳格なものではなく、1905年の社会主義諸政党には、労働者階級の革命的運動を維持していくのが大いに困難だった。
 にもかかわらず、1898年と1914年の間に、ロシア社会民主労働党は知識人層の集まりという性格をやめ、文字どおりの意味での労働者運動団体になった。
その指導者は依然として知識人層の出身で、その活動時間のほとんどをヨーロッパの国外逃亡先でロシアから離れて過ごしていた。
 しかしロシアでは、党員と活動家の大多数は労働者だった(または、職業的な革命家の場合は以前の労働者だった)。(14)
 彼らの理論からすると、ロシアのマルクス主義者は革命上大きな不利だと思われることから出立した。すなわち、来たる革命ではなく、その次の革命のために活動しなければならなかった。
 正統なマルクス主義者の予見によると、ロシアが資本主義の段階に入ることは(これは19世紀末にようやく起こったが)、不可避的にブルジョア的リベラルな革命による専制体制の打倒につながる。
 プロレタリア-トはその革命を支援するかもしれないが、補助的な役割を果たす以上のことはしないように思われた。
 資本主義が成熟の地点に到達した後でようやくプロレタリアの社会主義革命のときが熟する、そのときは将来のはるか遠くにある。//
 1905年以前は、この問題が切迫しているとは見えなかった。いかなる革命も進展しておらず、マルクス主義者は労働者階級を組織する若干の成功を収めていたのだから。
 しかしながら、小集団-ペーター・ストルーヴェ(Peter Struve)が率いる「合法マルクス主義者」-は、マルクス主義が設定した項目である最初の(リベラルな)革命という目標との自分たちの一体性を強く主張し、社会主義革命という究極的な目標への関心を失うにいたった。
 ストルーヴェのような専制体制内の近代化志向の構成員が1890年代にマルクス主義者となっていたことは、驚くべきことではない。当時には彼らが参加できるリベラルな運動はなかったのだから。
 また同様に、彼らが世紀の変わり目にマルクス主義を離れてリベラルたちの自由化運動の設立に関与したことも、自然なことだった。
 にもかかわらず、合法的マルクス主義の異端的主張は、ロシア社会民主主義の指導者、とくにレーニンによって完璧に非難された。
 レーニンの「ブルジョア・リベラリズム」に対する激烈な敵意は、マルクス主義の趣旨からはいくぶん非論理的で、彼の仲間たちにある程度の混乱を巻き起こした。
 しかしながら、革命という観点からは、レーニンの態度はきわめて合理的だった。//
 おおよそ同じ時期に、ロシア社会民主主義の指導者は、経済主義(Economism)の主張、つまり労働者運動は政治的目標ではなく経済的目的に重点を置くべきだという考え方、を非難した。
 ロシアには実際には、明瞭な経済主義の運動はほとんどなかった。理由の一つは、ロシアの労働者の異議申立ては賃金のような純粋に経済的問題から急速に政治的問題へと進展する傾向にあったことだ。
 しかし、国外にいる(エミグレの)指導者たちはしばしば、ロシア国内の状況によりもヨーロッパの社会民主主義内部での動向に敏感であり、ドイツの運動の中で発達していた修正主義や改革主義の傾向を怖れた。
 ロシアのマルクス主義者は、経済主義や合法マルクス主義との教理上の闘争で、 自分たちは改良主義者ではなくて革命家だ、そして根本教条は社会主義の労働者の革命であってリベラルなブルジョア革命ではない、との主張を明確に記録した。//
 ロシア社会民主労働党が第二回党大会を開いた1903年、指導者たちは明らかに小さな論点に関する対立へと陥った-党新聞<イスクラ>編集局の構成に関して。(15)//
 現実的で実体のある問題は含まれていなかった。対立がレーニンの周囲で回っている限りで、レーニン自身こそが基礎的な問題であり、またレーニンは支配的地位を求めて攻撃的すぎると彼の同僚は考えた、と言うことができたかもしれないけれども。
 大会でのレーニンのやり方は傲慢だった。そして彼は近年に、多様な理論上の問題点についてきわめて決定的に規準を設定してきていた。とくに、党の組織や役割に関して。
 レーニンと年上のロシア・マルクス主義者であるプレハノフの間に、緊張関係があった。
 また、レーニンと彼の同世代のユリイ・マルトフ(Yulii Martov)の間の友好関係は、破裂にさし掛かっていた。//
 第二回大会の結末は、ロシア社会民主労働党の「ボルシェヴィキ」派と「メンシェヴィキ」派への分裂だった。
 ボルシェヴィキは、レーニンの指導に従う者たちだ。メンシェヴィキ(プレハノフ、マルトフおよびトロツキーを含む)は、大きくてより多い、レーニンは度を外していると考える党員の多様な集団で成り立った。
 この分裂は、ロシア内部のマルクス主義者にはほとんど意味がなかった。そしてこれが発生した当時は、エミグレたちによってすら取り消すことができないものと見なされていた。
 しかしながら、この分裂は永遠のものになるのが分かることになる。
 そして月日が経つにつれて、二つの党派は1903年にそれぞれがもっていた以上に明確に異なる自己一体性(identity)を獲得した。
 のちにレーニンはときおり、「分裂者」だったことの誇りを表現することになる。これが意味するのは、大きい、大雑把に編成された政治組織は小さい組織よりも効果的ではない、紀律ある急進的集団には高い程度の義務とイデオロギー上の一体性が必要だ、とレーニンが考えた、ということだ。
 しかし、ある範囲の人々は、不一致に寛容であることができないこのレーニンの特性に原因があった、とする。不一致への不寛容、これはトロツキーが革命前の論争の際に「ジャコバン派の不寛容性ついての風刺漫画」だと称した「悪意溢れる懐疑心」のことだ。(16)//
 1903年後の数年間、メンシェヴィキはそのマルクス主義についてより正統的なものとして登場した(1917年半ばまでメンシェヴィキ党員だったが、つねに〔党のどの派についても〕無所属者だったトロツキーを考慮しない)。そして、革命に向かって事態の進展を急がせようとあまり思わず、堅く組織されて紀律ある革命党を作るという関心も乏しかった。
 メンシェヴィキは、帝国の非ロシア領域での支持を得ることに、ボルシェヴィキ以上に成功した。一方、ボルシェヴィキは、ロシアの労働者たちの間で優勢だった。
 (しかしながら、いずれの党でも、ユダヤ人その他の非ロシア人が知識人層の支配する指導者層内で圧倒的だった。)
 戦争前の最後の数年、1910-14年に、労働者の空気がより戦闘的になったとき、メンシェヴィキは労働者階級の支持を失ってボルシェヴィキに譲った。
 メンシェヴィキは、ブルジョアジーと近接した関係をもつ「まともな」政党だと認知されていた。一方で、ボルシェヴィキは、より革命的であるとともにより労働者階級的だと見られていた。(17)//
 メンシェヴィキと違ってボルシェヴィキは、単一の指導者をもち、その自己認識は大部分が、レーニンの考えと個性によって形成されていた。
 マルクス主義理論家としてのレーニンの第一の明確な特質は、党組織に重点を置くことだ。
 レーニンは、党はプロレタリア革命の前衛であるのみならず、ある意味ではその創作者でもある、と考えた。プロレタリア-トだけでは労働組合意識を獲得するのみで、革命的意識をもつことはない、と論じたのだ。//
 レーニンは、党員たちの中核は、全日働く職業的な革命家で構成されるべきだと考えた。それは知識人層と労働者階級双方から選抜されるものだが、どの社会集団よりも労働者の政治組織へと集結するものだとされた。
 <何をなすべきか?>(1902年)で彼は、中央集中化、厳格な紀律および党内部でのイデオロギーの一体性の重要性を強調した。
 もちろん、これらは警察国家で密かに活動する政党の論理上の規範だった。
 にもかかわらず、レーニンの同時代者(そしてのちに多くの歴史研究者)には、多様性と自発性をより多く認める緩やかな大衆組織をレーニンが嫌悪するのは、たんに政略的なものではなくて、生まれつきの権威主義的性向(natural authoritarian bent)を反映するもののように思われた。//
 レーニンは、ロシアの他の多くのマルクス主義者とは異なる。プロレタリア革命が究極的には起こるとたんに予言するのではなくて、能動的にプロレタリア革命を望んでいると見える点で。
 これは、きっとレーニンがカール・マルクスに気に入られた特性だっただろう。正統なマルクス主義の何らかの修正が必要だったということはあるけれども。
 リベラルなブルジョアジーがロシア反専制革命の自然の指導者でなければならないという考え方は、レーニンには決して本当に受容し難いものだった。
 レーニンは1905年革命の真只中で書いた<社会民主主義者の二つの任務>で、プロレタリア-トは-ロシアの反抗的な農民と同盟して-支配的な役割を果たすことができるし、果たすべきだ、と強く主張した。
 真剣に革命を意図するロシアのマルクス主義者の誰にとっても、ブルジョアが革命指導者だという教理を迂回する途を見出すことが明らかに必要だった。そして、トロツキーは、同様のかつより成功した努力を行って、「永続革命」論を発表した。
 1905年以降のレーニンの論考では、「独裁(dictatorship)」、「蜂起(insurrection)」および「内戦(civil war)」という言葉が急に頻出するようになる。
 レーニンが将来における権力の革命的移行を心に抱いたのは、これらの、苛酷で暴力的でかつ現実主義的な言葉遣いによってだった。
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 (10) Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (New York, 1974), Ch. 10.を見よ。
 (11) この問題に関する人民主義者の見方につき、Gerschenkron, Economic Backwardness [経済的後進性], p.167-176.を見よ。
 (12) 消極的見解につき、Richard Pipes, <社会民主主義とペテルブルクの労働運動, 1885-1897>(Cambridge, MA, 1963) を見よ。より肯定的な見解は、Allan K. Wildman, <ロシアの社会民主主義, 1891-1903>(Chicago, 1967) を見よ。
 (13) Sidne Harcave, <最初の血-1905年のロシア革命>(New York, 1964), p.23. から引用した。
  (14) 1907年のボルシェヴィキとメンシェヴィキ党員の構成分析につき、David Lane, <ロシア共産主義のルーツ>(Assen, The Nietherlands, 1969), p.22-23, p.26. を見よ。
 (15) 分裂に関する明快な議論について、Jeffry F. Hough and Merle Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかに統治されているか>(Cambridge, MA, 1979), p.21-26. を見よ。
 (16) トロツキー, 'Our Political Tasks' (1904), Isaac Deutscher, <武装せる予言者>(London, 1970)所収, p.91-91. から引用した。
 (17) Haimson, 'The Problem of Social Stability', p.624-633.
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 第一章の第2節が終わり。

1801/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)③。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第3回。
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 第一章・初期設定/第1節・社会。
 ロシア帝国の領土は巨大で、西はポーランドから東は太平洋にまで及び、北は北極海に、南は黒海やトルコとアフガニスタンの境界に届いていた。
 帝国の中心部である欧州ロシア(今はウクライナである領域を含む)は1897年に9200万の人口をもち、帝国の総人口はその年の公式調査で1億2600万を記録した。(1)
 しかし、欧州ロシアや比較的に進んでいた帝国の西部ですら、全体としては田園的で、都市化されていなかった。
 一握りの大都市の産業センターがあり、そのうちの多くでは近年に生産が急速に増大していた。
 第一次大戦中にペトログラードと、1924年にレニングラードと改称された帝国の首都のサンクト・ペテルブルク、かつての、そして(1918年以降の)将来の首都のモスクワ。いずれも今はウクライナの、新しいドンバスの採鉱および冶金の中心であるキエフ、ハルコフおよびオデッサ。西部では、ワルシャワ、ロズおよびリガ。南部では、ロストフと石油都市のバク。
 しかし、20世紀初めには、ほとんどの地方の町はまだ眠るがごとく沈滞していた。-小規模の住民用小売店、若干の学校、農民市場およびおそらくは鉄道駅のある、地方行政の中心地。//
 村落には、伝統的な生活様式の多くが残っていた。
 農民はまだ共同体所有(tenure)の土地をもち、村落の土地は細長く区切られ、それは多様な農民家族によって別々に耕作されていた。
 <ミール>(mir、村落会議)はまだ、細長い土地(strips)を各世帯が同等の分け前をもつように定期的に再区分していただろう。
 木鋤は共同使用で、近代的な農耕技術は村落では知られていなかった。そして農業生産は、食べて生きる水準をさして超えていなかった。
 農民の小屋は村落の通りに沿って揃って並んでおり、農民は暖炉で寝て、家屋の中で家畜を飼った。そして、農民家族のかつての家父長制的構造が残存していた。
 農民たちは、農奴状態から離れて一世代以上も経っていなかった。すなわち、世紀の変わり目に60歳だった農民は、1861年の農奴解放のときにはすでに若き成人だった。//
 解放はもちろん、農民の生活を変えた。しかし、解放は、変化を最小限にし、少しずつ広がるように注意深く立案されていた。
 解放の前、農民は村落の細長い土地で働いた。彼らはまた、主人の土地で働くか、自分たちの労働との同等額を金銭で主人に払った。
 解放の後、農民は自分の土地で働き続け、ときどきは以前の主人の土地に雇われて働いた。一方で、即時の代償金として地主に与えられていた一時金を相殺するために、国家に「償還金」(redemption)を支払った。
 償還金の支払いは49年間つづくものと予定され(国家は実際には数年は早く放棄したけれども)、村落共同体には、各構成員の債務に対する集団的な責任があった。
 このことは、個々の農民はまだ村落に縛られていることを意味した。農奴制にではなく、債務とミールの集団責任に拘束されていたのだとしても。
 解放は、農民が都市に大量に流入してくることや公的秩序に対する危険の予兆である土地なきプロレタリア-トが生まれることを抑止するという意図をもっていた。
 また、ミールや古い共同体の土地所有を補強する効果ももっていて、農民がその細地(strips)への力を強固にすることやその保有を拡張したり改良すること、あるいは自立した小農へと移行することはほとんど不可能だった。//
 村落から永遠に離れることは解放後の数十年は困難だったが、一方で、農業、建設または採鉱、あるいは都市で雇われて働くために一時的に離れるのは容易だった。
 このような仕事は実際に、多くの農民家族にとって不可欠だった。納税や償還金支払いのために、現金が必要だったのだ。
 季節労働者(otkhodniki)として働く農民は、村落で土地を耕す家族を残して、しばしば年の多くの月々を離れていた。
 旅をする期間が長ければ-中央ロシアの村落から来てドンバス炭鉱で働く農民にはよくあったが-、<季節労働者>は収穫時とたぶん春の播種の間だけ戻ることもできただろう。
 季節労働をすべく離れるという現実は長く確立されたものだった。とくに、地主が農奴の労働よりも金銭による支払いを求めた、欧州ロシアの肥沃ではない地域では。
 しかし、これは19世紀の遅くや20世紀初めにはますます一般的になっていた。その理由の一つは、都市での仕事を求められやすくなったからだ。
 第一次大戦の直前の数年に、およそ900万の農民が出身である村落の外に出る季節労働のための旅券を毎年もっていて、そのほとんど半分は、農業以外の仕事のためだった。(2)//
 欧州ロシアで家族のどの一人であれ農民二世帯のうち一世帯が出稼ぎで村落を離れていた-そしてこの割合はペテルブルク、中央の工業地域や西部地方ではより高かった-ことからすると、村落には古いロシアがほとんど変わらずに残っていたという印象は、十分に当てにはならなかったかもしれない。
 多くの農民は実際に伝統的な村落内でほとんど生活していて、それ以外の者は、近代的な産業都市という全く異なる世界で生きていた。
 農民が伝統的世界にとどまっている程度は、地理的な位置だけではなく、年齢や性によって異なった。
 若者は仕事をするために離れやすく、加えて、兵役に召集されたときに近代世界と接触した。
 女性と年配者は、村落と農民の生活様式だけを知っている傾向にあった。
 農民の経験についてのこの違いは、1897年の公的調査での識字率の数字が鮮やかに示している。
 若者は老人よりも識字率が高く、男性は女性よりも高い。そして、あまり肥沃ではない欧州ロシア-つまり、季節的な移動がごく普通の領域-の方が、肥沃な黒土(Black Earth)地域よりも高くかった。(3)//
 都市の労働者階級は、まだ農民層ときわめて近かった。
 永続的な工業労働者の数(1914年で300万人をいくぶん超える)は、非農業の季節労働を求めて毎年に村落を離れる農民の数よりも少なかった。そして実際に、永続的な都市居住労働者と一年のほとんどを都市で働く農民とを厳密に区別するのはほとんど不可能だった。
 永続的な労働者ですら、多くの者が村落に土地を保有し、そこで生活する妻や子どもたちを残していた。
 あるいは別の労働者たちは、村落自体に住んで、日毎または週毎の基準で工場へと通勤した。
 サンクト・ペテルブルクだけは、大部分の工場労働者たちが、農村地帯との全ての縁を断ち切っていた。//
 都市的労働者階級と農民層の間にこのような緊密な関係がある主な理由は、急速なロシアの工業化はごく近年の現象だった、ということだ。
 1890年代になってようやく-イギリスよりも半世紀以上遅く-、ロシアは大規模な工業の成長と都市の膨張を体験した。
 そのときですら、1860年代の農奴解放制度は永続的な都市的労働者階級を生み出すのを妨げた。それは、労働者を村落に縛りつづけた。
 第一世代の労働者は農民層出自が圧倒的で、ロシアの労働者階級の大部分を占めた。そして、第二世代労働者や都市住民はほとんどいなかった。
 ソヴェトに関する歴史研究者は、第一次大戦の直前に、工場労働者の50パーセント以上が少なくとも第二世代だった、と主張する。しかし、この計算結果は明らかに、労働者の他に父親が<季節労働者(otkhodniki)>だった<季節労働者>の農民を含めている。//
 発展途上というこの特性にもかかわらず、第一次大戦の頃までにいくつかの点では、ロシアの工業はきわめて発展した。
 近代的な工業部門は小さかったが、地理的にも(とくにペテルブルク、モスクワおよびウクライナのドンバスを中心とする地域に)工業施設の規模の点でも、きわめて高度に集中化していた。
 Gerschenkron が指摘するように、相対的な後進性には利点もある。すなわち、工業化が遅く、外国からの大規模な投資と国家による活発な関与の助けがあって、ロシアは初期段階のいくつかを省略して進むことができた。また、相対的に低い技術のおかげで、すみやかに大規模な近代的生産へと向かった。(4)
 ペテルブルクの有名なプチロフ金属加工および機械建設工場のような企業やドンバスの多くは外国資本の冶金工場は、多数の数千人の労働者を雇用した。//
 マルクス主義の理論によれば、前進した資本主義的生産のもとで高度に集中した産業プロレタリア-トは革命的になりがちちであり、一方、農民層との強い紐帯を保持する前近代的労働者階級は、そうでない。
 そうすると、マルクス主義者がその革命的な潜在力を診断するには、ロシアの労働者階級は矛盾する性格をもっていた。
 しかしなお、1890年代から1914年までの経験からして、農民層と緊密な関係をもつにもかかわらず、ロシアの労働者階級は例外的に攻撃的で革命的だった、ということが明らかだ。
 大規模のストライキがしばしばあり、労働者は経営者や国家当局に対抗して相当に連帯した。そして、労働者の要求は経済的なものであるとともにつねに政治的なものだった。
 1905年の革命のとき、ペテルブルクとモスクワの労働者は自分たちの革命的装置であるソヴェトを組織し、10月のツァーリによる立憲上の譲歩と専制体制に対する中層リベラル派の運動の挫折を目ざして闘い続けた。
 1914年の夏、ペテルブルクその他での労働者のストライキ活動は脅威的な広がりを見せ、何人かの観察者は、政府は戦争に向けての総動員を宣言する危険を冒すまでのことはできないと考えたほどのものだった。//
 ロシアの労働者の革命的感性が強いことは、いくつかの異なる方法で説明できるかもしれない。
 第一に、限定的にせよ雇用者に対して経済的な異議申し立てをすること-レーニンが労働組合主義と称したもの-が、ロシアの条件のもとではきわめて困難だった。
 政府はロシアの自国工業に多額の資本金をもち、外国からの投資を保護していた。そして、私企業に対するストライキが手に負えなくなる徴候を示すと、国家当局はすぐに兵団を派遣したものだった。  
 これが意味したのは、経済的なストライキ(賃金や条件についての抗議)でも政治的なものに変化しがちだ、ということだ。
 また、ロシア労働者が外国の経営者や技術要員に対して広くもった憤懣も、似たような効果をもった。
 労働者階級は自分たちの力では革命意識ではなく「労働組合意識」だけを成長させることができると言ったのは、ロシアのマルクス主義者、レーニンだった。しかし、ロシア自身の経験は(西側ヨーロッパでとは対照的に)、彼を支持しなかった。//
 第二に、ロシアの労働者階級にある農民的要素は、そのもつ革命的性格を弱くではなく、むしろ強くした。
 ロシアの農民は、例えばフランスの農民のような、本来的に保守的な小土地所有者ではなかった。
 1770年代の大プガチェフ(Pugachev)一揆が鮮やかに例証する、地主や役人に対する暴力的で無政府的な反乱というロシア農民の伝統は、1905年とその翌年の農民蜂起でも再び明らかになった。
 1861年の農奴解放令は、農民の反乱精神を永遠に鎮静化させたものではなかった。農民たちはそれを公正なまたは適切な解放だとは思わなかった。そしてますます土地に飢えて、抑えられた土地に対する権利を主張した。
 さらに、都市に移住して労働者になった農民たちはしばしば若く、家族の制約から自由で、かつ工場の紀律にまだ慣れていなかった。そして、憤懣と欲求不満の感情は、転位意識と見知らぬ環境に完全には同化できない意識を伴っていた。(5)
 ある程度は、ロシアの労働者階級はまさにつぎの理由で、革命的だった。
 レーニンが言った「労働組合意識」を取得する時間が、なかった。そして、非革命的方法でその利益を守ったり、近代的都市社会が教育や技術で与える上昇移動をする機会があるのだということを理解したりする力のある、落ち着いた産業プロレタリア-トになる時間が、なかったのだ。//
 しかしながら、都市部や上層の教養ある人々ですら、ロシア社会の「近代」性はまだきわめて不十分だった。
 事業や商業の階層は相対的に弱かった。専門家、諸協会その他の、市民社会が出現してくる兆しを感知することはできたけれども。(6)
 国家官僚制の専門化の増大にもかかわらず、その上層部は伝統的に公職に就く階層である上層者(the nobility)で占められたままだった。
 公職者の特権は、農奴制の廃止の後に地主集団の経済的な衰退があったので、上層者にとってはますます重要になった。上層の地主たちのうち少数者だけが、資本家、市場志向の農業への移行を成功裡に行うことができた。//
 20世紀初めのロシア社会の分裂症気味の性質は、ロシアで最も大きくかつ近代的だったサンクト・ペテルブルクの市電話帳への登録者が提供している自己認識(self-identifications)がきわめて多様であることによって十分に実証される。
 ある範囲の登録者は伝統的な形式を維持して、社会的身分と階層によって自分を分類した(「世襲貴族」、「第一ギルドの商人」、「名誉市民」、「国務委員(State Counsellor)」)。
 別の者たちは明らかに新しい世界に属していて、職業や雇用形態で自分たちを表現した(「株式仲買人」、「機械技師」、「会社経営者」あるいはロシアの女性解放が達成した代表である「女性医師」(woman doctor))。
 第三の集団はどこに帰属しているのかが不確実な人々で、ある年の電話帳には身分で、その翌年には職業で、自分を表現した。あるいは、「貴族、歯科医師」と風変わりに自分のことを載せた登録者のように、二つの自己認識表現を同時に用いて。(7)//
 いくぶん形式的でない文脈でいうと、学歴あるロシア人はしばしば自分を知識人の一員だと考えていただろう。
 社会学的には捉え難い概念だが、「インテリゲンチア」(intelligentsia)という言葉は広い意味では、ロシア社会のそれ以外の者たちとは受けた教育によって、ロシアの専制体制とはそのラディカルなイデオロギーによって区別される、教育ある西欧化したエリートのことだった。
 しかしながら、ロシアの知識人は自分をエリートだとは思っておらず、社会をより良くすることへの道徳的関心によって結ばれた階級のない集団の一員だと考えていた。また、「批判的思考」をすることのできる能力、とくに批判的で体制に対する少し反抗的な態度、によって。
 この言葉は19世紀の半ば頃に一般的に用いられたが、観念の発生史ではこれを18世紀の後半に見い出すことができる。その当時に貴族は義務的な国家への奉仕から解放されたが、教養はあってもそれを十分に活用できない貴族たちの一定範囲の者は、「民衆への奉仕」という代替的な義務の気風を発展させた。(8)
 理念的には(全部が実際ではなかったが)、知識人界と官僚制上の公職は、両立できなかった。
 19世紀後半のロシア革命運動は専制体制と闘って民衆を解放する小規模の共謀組織であることを特徴とし、大部分は知識人界の急進的で政治的な不満の産物だった。//
 高い地位の専門職業の発展がかつて存在したよりも広い範囲の職業選択を可能性を生み出したこの世紀の終わりまでには、<知性的(intelligent)>という個々人の自己定義はしばしば、政治的変革への積極的で革命的な関与というよりも、相対的に受動的でリベラルな態度を意味した。
 ロシアの新しい知識人層はまだ、意識的な革命家たちへの共感と敬意という古い知識人の伝統を十分に継承しており、そして、官僚たちが政治改革を追求したり、革命的テロリストによって暗殺されたときですら、体制側に共感することがなかった。//
 さらに、ある類型の範囲の専門的職業は専制体制への全面的な支援と結び合うことが困難な特有さがあった。
 例えば、法律家という仕事(legal profession)は1860年代の司法改革の結果として流行した。しかし、その改革は長い期間に法の支配をロシア社会と国家行政に広げることにさほど成功さなかった。とくに、1881年に革命的テロリスト集団によって皇帝アレキサンドル二世が暗殺された後の反動の時代には。
 教育を受けて法の支配を信頼するようになった法律家は、恣意的な行政実務や無制限の警察権力に、そして司法改革の作動に影響を与えようとする政府の試みに、反対する傾向にあった。(9)
 同様に継承された体制との対立関係は、ゼムストヴォ(zemstvo)、すなわち制度上は国家官僚制度とは全く別でしばしば後者と対立した、選出される地方統治機構とも関連し合っていた。
 20世紀の初めには、ゼムストヴォはおよそ7万の職業人(医師、教師、農学者等々)を雇用していたが、彼らの急進さへの共感は悪名が高かった。//
 国家または私企業で働く技師その他の技術専門たちは、とくに経済近代化と工業化のために1890年代のセルゲイ・ウィッテ(Sergei Witte)が指揮した財務省やその後の通商産業省による財政支援を受けていて、体制から疎遠になる明白な理由は乏しかった。
 実際にウィッテは、体制やロシアの技術専門家や実業家によるその近代化傾向への支援をかき集めることに尽力した。
 しかし、問題は、ウィッテの経済および技術の発展への熱意が大部分のロシア官僚エリートたちに共有されていないことだった。むろん、それは皇帝ニコライ二世の個人的な好みにも合っていなかった。
 近代化志向の専門家や起業者たちは、原理的には、専制政府の考えに反対しなかったかもしれない(実際には、〔ペテルブルク〕工科大学の学生たちの批判に晒された結果としてそうしたけれども)。
 しかし、彼らがツァーリ専制体制は近代化のための効果的な仲介者だと判断するのはきわめて困難だった。それに関する記録は一貫しておらず、そのイデオロギーはきわめて明瞭に、将来に関する論理的な展望ではなく、過去への郷愁を反映していた。//
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 (1) Frank Lorimer, <ソヴィエト同盟の人口>(Geneva, 1946), p.10, p12.
 (2) A. G. Rashin, Formirovanie rabochego klassa Rossi (Moscow, 1958), p.328.
 (3) Barbara A. Anderson, <19世紀末ロシアの近代化の間の内部移住>(Prinston, NJ, 1980), p.32-38.
 (4) A. Gerschenkron, <歴史の観点からする経済的後進性>(Cambridge, MA, 1962), p.5-p.30.
 (5) 農民の反乱意識と労働者階級の革命につき、Leopold Haimson, 'The Problem of Social Stability in Urban Russia, 1905-17' , 23, no.4 (1964), p.633-7. を見よ。
 (6) Edith W. Clows, Samuel D. Kassow and James L. West, ed., <ツァーリと民衆-ロシア帝国後期の教養社会と公的自己認識の問題>(Princeton, NJ, 1991)を見よ。
 (7) Alfred Rieber は、ロシアの社会的自己認識の新旧両類型の共存を叙述するために、「堆積的(redimentary)」という用語を使った。その論文「堆積的な社会」<ツァーリと民衆の間>所収p.343-366. を見よ。
 (8) Marc Raeff, <ロシア知識人の起源-18世紀の貴族>(New York, 1966)を見よ。
 (9) これは Richard S. Wortman, <ロシアの法意識の発展>(Chicago, 1967) p.286-9とその他随所で論じられている。
 大改革に関するより幅広い問題につき、Ben Eklof, John Bushnell and Larissa Zakharova,ed.,<ロシアの大改革>(Bloomington, IN, 1994)を見よ。
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 第一章の第1節、終わり。

1800/言葉・概念というもののトリック。

 言葉あるいは概念はふつうは何らかの現実や現象を把握して何らかの意味があるものとして作られ、用いられるものであって、一定の現実や現象そのものを複雑な諸要素・諸側面を全て網羅したものとして意味させているのではない。
 当然のこととして、何らかの捨象と抽象化・単純化が行われているものとして、言葉あるいは概念は理解されるべきものだ。
 そうであるにもかかわらず、言葉・概念が一人歩きする、言葉・概念の正確な意味についての正確な合致がないままに(異なる意味を持たしていることを意識しないままに)議論が行われることもある。
 また、そもそも、重要で議論の多い言葉・概念であるにもかかわらず、その正確なまたは厳密な意味を明らかにしないままで、何らかの論述や評論等を行っている者も多い。
 以上だけでは足りないが、このような言葉・概念の特性を利用して、種々の政治的主張も行われてきている。
 「社会民主主義」という語の由来は知らないが、おそらくは「民主主義」または「民主政体」をいちおうは是とできるものであることを前提として、それに「社会的」または「社会主義的」という限定を付したものだろう。
 レーニンのボルシェヴィズムはのちに「レーニン主義」または「レーニン的マルクス主義」とも言われる。
 しかし、レーニン・ボルシェヴィキもまた一時期は(ロシア)「社会民主労働党」の一員だったのだから、むろんマルクス主義=社会主義ではないとしても、少なくとも広い意味での「社会民主主義」者だったことはあった、と言ってよいだろう。
 「社会民主労働党」から分派して(当時はレーニン自体が積極的な「分派」活動者だった)<ボルシェヴィキ>派と名乗ったのもロシア語での「多数派」・「少数派」にかかわる語感とその利用という興味深い点はある。
 それはともかく、この当時およびそれ以降のレーニンの「民主主義」・「民主政体」という言葉又は観念に対する態度も興味深い。
 資本主義をもたらす革命が「自由・民主主義」の革命だとすれば、そこでの「民主主義」はブルジョア的なものであって、究極的には(あるいは社会主義社会)では否定されるべきものであるかもしれない。
 そのような趣旨で、レーニンは「民主主義」・「民主政体」の欺瞞的なブルジョア性を厳しく批判したとされる。
 しかし一方で、「民主主義」・「民主政体」は良いものだとする広範な空気?をも、おそらく(政略的判断として)意識したのだろう。
 いつ頃か、どの論考からかは確認しないが、レーニンが目ざすのは「真の民主主義」、「プロレタリア-トの民主主義」、「民衆・人民の(people's)民主主義」だとも主張し始めた。
 この点以外にもレーニンの発言・記述には独特の一貫性のなさ、不整合性があるので、レーニン全体をその全集類等を通じて過不足なく理解するのはほとんど困難だろうと、私は感じている。そのつど、そのつどの、現実の情勢に応じた?「適当な」言い回しがあるのだ。
 さて、上により、「民主主義」・「民主政体」には、ブルジョア的・市民的なものと「プロレタリア-ト的」・「人民的」の二種があるとになる。
 これは、言葉・概念の大きな進展と「分化」だ。
 このことによって、かつての「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)、現在の「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)という国名もありうる(ありえた)ことになる。
 日本共産党の現在の立場は、<ブルジョア的・市民的>民主主義・民主的制度を最大限利用して「プロレタリア-トの」・「人民の」民主主義・民主政体へと移行させることだろう。同党が最初の段階として目ざすと綱領上明記するのは、そのような「民主主義革命」だ。つまり、直接の「社会主義革命」を標榜しているのではない。
 つぎに、「議会制」・「代表議会制」・「議会主義」についても似たようなことが言える。
 ロシアの1905年「革命」後に設立された<ドウーマ>(選挙による議員で成る)に対する態度についても、ボルシェヴィキ党内部で対立があった。レーニンは、参加する(ボルシェヴィキの議員を送り込む)こと自体を否定はしなかったはずだ。
 マルクス主義者を自認する者にとって、現存する「議会制」・「代表議会制」にどう対応するかは一つの重要論点だ。ブルジョア(・市民)のための<欺瞞>装置ではないのか。
 1960年代に日本共産党・不破哲三は<人民的議会主義>というのを主張した(論考類をまとめたものだろう、同名の著書がある)。
 これによって、<議会主義>には「人民的議会主義」とそうではない体制的な・ブルジョア的な?「議会主義」があることになった。
 これは言葉・観念の大きな意味をもつ<分化>だった。
 これによって当時以降の、1961年綱領以降の日本共産党は、<議会議員のための選挙>を安心して、かつ熱心に行うようになった。
 個々の日本共産党員に対してこそ、自分たちは「人民的議会主義」に立っているのであって、体制側の「議会主義」とは異質なのだという自信と誇り?をもつことは、あるいは釈明?が与えられていることは、少なくない意味をもっただろう。
 新しい言葉・概念を「作り出す」ということには少なくなく大きな政治的・社会的意味を持つことがある。それを意識して、つまりは意図して、新しい用語を使ったり、大々的に宣伝することもある(「新自由主義」という語にはその、つまり政治的・政略的な側面が少なくとも日本にはあったように思われる。より普遍的な概念ならば今日でももっと使われているだろう)。
 予期していなかった長さになった。
 「左翼」・「右翼」、「保守」・「リベラル」、「全体主義」、あるいは江藤道朗が何気なく使う「保守自由主義」、井上達夫が「リベラル」とは違うという「リベラリズム」、あるいは「真正保守」・「自称保守」、「反米」・「反米ポチ」等々、言葉・概念の意味(内包)・射程範囲(外延)は明確にしておく必要がある、ということ、そして言葉・概念の作成や使用もきわめて実践的で政治的であることがある、ということを書きたかったにすぎない。
 なお、冒頭に言葉・概念は何らかの現実や現象を意味するという趣旨のことを書いたが、言葉・概念そしてそれらが紡ぎ出す「論理」の中で、いわば下底の言葉・概念を基礎にして、言葉・観念の世界の中で、新しい概念や観念が生み出されることもある。これもまた、おそらくとくに思想家・哲学者(哲学学者ではない)・思弁的論述者といわれる者たちにはよくあることだ。冒頭に「ふつうは」と記しているように、このような形而上の?<現象>が<存在>することを否定しているのではない。

1799/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)②。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017).
 2017年版の試訳の第二回。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。
 №1794の内容構成(目次)の紹介には欠けているが、序説以外の各章のはじめにも、見出し文字のない「まえがき」部分がある。「(まえがき)」と記しておく。
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 序説/第3節・革命の解釈。
 全ての革命は<自由、平等、友愛>(liberté, égalité, fraternité )その他の高尚なスローガンをその旗に刻んでいる。
 全ての革命家は、熱狂者で狂信者だ。全てが、不公正や腐敗のない、旧世界にある無感情は永遠に除去される新世界を創ろうという夢をもつユートピアンだ。
 全ての革命家は、内輪もめを許すことができず、妥協をすることもできず、大きくて遠い目標に魅せられており、暴力的で、懐疑的で、そして破壊的だ。
 革命家たちは、非現実的で統治に習熟していない。制度や手続は、思いつきで作られる。
 彼らは、民衆の意思を具現化するという幻想に酔っている。民衆の意思は、彼らの想定では一枚岩だ。
 彼らはマニ教徒(Manicheans)で、世界を二つの陣地に分ける。光と闇、革命とその敵。
 彼らは、伝統、在来の知識、聖像(icons)および迷信を嫌う。
 彼らは、社会は革命がそこに書き記そうとする<無色の白板(tabula rasa)>のはずだ、と信じている。//
 幻滅や失望で終わるのは、革命家の本性だ。
 熱狂は、衰える。狂熱は、強いられるものになる。
 狂気 (7)と高揚の時間は、過ぎ去る。
 民衆と革命との関係は、説明し難いものになる。民衆の意思は必ずしも一体のものではないし、よく見通せるものでもない。
 富と地位への誘惑が戻ってくる。人は隣人を自分のごとく愛しはしないし、そう欲してもいないと気づくとともに。
 全ての革命家は事物を破壊し、すぐにその損失を後悔する。
 彼らが創るものは全て、予期したものよりも小さくて、違うものだ。//
 しかしながら、属性的な共通性とは別に、全ての革命には固有の性格がある。
 ロシアの位置は周縁にあり、そこでの教養のある階層は、ヨーロッパと比べての後進性に覆われていた。
 革命家とは、「プロレタリア-ト」を「民衆」にしばしば置き換え、革命は道徳的に強いられるものではなくて歴史の必然だと主張するマルクス主義者だった。
 革命が起きる前のロシアに、革命的政党はあった。戦争の真只中に革命がやって来たとき、その諸政党は、周辺にいる自発的な革命的群衆の献身ではなくて、民衆革命の既成の一団(兵士、海兵、ペテログラードの大工場の労働者)の支援を求めて競い合った。//
 この著では、三つの主題が特別の重要性をもっている。
 第一は、近代化という主題だ。-後進性から脱却するための手段としての革命。
 第二は、階級という主題だ。-プロレタリア-トとその「前衛」であるボルシェヴィキ党の使命としての革命。
 第三は、革命的暴力とテロルという主題だ。-革命はいかにその敵を処理し、それはボルシェヴィキ党とソヴィエト国家にとって何を意味したのか。//
 「近代化」という用語は、後近代(ポストモダン)としばしば表現される時代には通過点だったかのごとく響き始めた。
 しかし、ボルシェヴィキが追求した工業と技術の近代性は今では見込ないほど古くさかったがゆえに、これは我々の主題とするのに適切だ。すなわち、その当時は、汚染を撒き散らす恐竜の一群のように、従前のソヴィエト同盟から東ヨーロッパまでの風景を切り刻む巨大な煙突群は、革命の夢を実現するものだった。
 マルクス主義者たちは革命よりもだいぶ前から、西側の工業化との恋に落ちていた。
 彼らは資本主義(第一義的には資本主義的工業化を意味した)の不可避性を強く主張したが、これは19世紀遅くの人民主義者(the Populists)との議論の対立の核心だった。
 ロシアでは、のちに第三世界でそうだったように、マルクス主義は革命のイデオロギーであるとともに経済発展のイデオロギーだった。//
 ロシアのマルクス主義者にとって、工業化と経済の近代化は理論上は、目的のための手段にすぎなかった。目標は、社会主義になることだった。
 しかし、ボルシェヴィキがこの手段に明白にかつ集中的に焦点を当てれば当てるほど、目標はますます曖昧になって遠ざかり、ますます非現実的になった。
 「社会主義の建設」という用語が1930年代に一般に用いられるに至ったとき、その意味を、まさに進行中だった新しい工場や工業都市の現実の建設と区別するのは困難だった。
 あの世代の共産主義者たちにとっては、大草原に煙を吐き出す新しい工場群は、革命が勝利しつつあることを最もよく誇示するものだった。
 Adam Ulam が述べたように、いかに苦痛を伴いいかに強制的であっても、スターリンが促進した工業化は、「マルクス主義の論理の完成物であって、『裏切られた革命』ではなく『達成された革命』」だった。(8)//
 第二の主題である階級は、それ自体として最重要の当事者だと受け止められたがゆえに、ロシア革命で重要だ。
 マルクス主義の分析的範疇は、ロシアの知識人層に広く受け容れられた。そして、ボルシェヴィキは、より広い社会主義諸党派の中の例外ではなくて代表的なものだった。階級闘争という観点から革命を解釈し、工業労働者に特別の役割を割り当てるならば。
 権力をもったボルシェヴィキは、プロレタリアと貧農は彼らの自然の同盟者だと想定した。
 ボルシェヴィキはまた、「ブルジョアジー」-以前の資本家、以前の貴族的土地所有者、役人たち、小規模小売店主、クラク(富んだ農民)および一定の文脈ではロシアの知識人層を広く含む-の一員たちは彼らの自然の敵対者だと完全に想定していた。
 ボルシェヴィキはこのような者たちに「階級敵(class enemies)」という用語を使った。初期の革命的テロルがまず第一に向かったのは、こうした者たちに対してだった。//
 この時期に関して最も激しく議論される階級問題の一つは、労働者階級を代表するというボルシェヴィキの主張は正当なものだったか否かだ。
 ペテログラードとモスクワの労働者階級が急進化して他のどの諸政党よりも明らかにボルシェヴィキを選好した1917年の夏と秋を一見するならば、これはおそらく、十分に単純な問題だ。
 労働者階級の支持を得てボルシェヴィキが権力を掌握したということは、その支持を永続的に維持し続けた、ということを意味しなかった。-あるいは実際には、権力掌握の前であれ後であれ、その党を工場労働者のたんなる吹き口(mouthpiece)と見なしたのだ。//
 ボルシェヴィキは労働者階級を裏切ったとの非難は最初は1921年のクロンシュタット反乱(the Kronstadt revolt)に関係して国外から行われたもので、生じざるをえない、本当であるように思える非難だった。
 しかし、いかなる裏切りなのか-いつの時点での、誰との、いかなる結果をもつ裏切りなのか?
 労働者階級との婚姻関係は内戦の終わりの時期には解体に近そうに見えたが、ボルシェヴィキは、ネップ期に継ぎ当てをしてそれを守った。
 第一次五カ年計画の間に、実際の賃金と都市の生活水準が落ちこんで、また体制が生産性のさらなる向上を強く要求したために、関係は再び悪化した。
 正式の離婚ではなくとも、労働者階級との事実上の離別は1930年代に生じた。//
 しかし、これで物語の全部が終わったのではない。
 ソヴィエト権力のもとでの労働者それ自体の状況は、一つの問題だ。
 労働者が自分をより良くする(労働者以外の何者かになる)ために利用できる機会は、別の問題だ。
 ボルシェヴィキは十月革命後の15年間、主としては労働者階級から党員を集めることによって、労働者の党だというその主張をきわめて巧く確証した。
 ボルシェヴィキはまた、労働者階級が上方へと移動する広い経路を生み出した。労働者を新たに党員にすることは、共産主義者たちをホワイトカラーの行政や経営の地位へと昇進させることと関連していたのだから。
 1920年代末の文化革命の間、体制は、多数の若い労働者や労働者の子どもたちをより高等な学校へと送り込むことによって、上昇移動への新しい経路を切り拓いた。
 困難度の高い「プロレタリアの昇進」という政策は1930年代初めに弱まったが、その影響は残った。
 スターリン体制にとって重要なのは労働者ではなく、<以前の>労働者だった。-経営および職業上のエリートの中にいる新しく昇進した「プロレタリア-トの中核」だった。
 厳密なマルクス主義の立場からすれば、このような労働者階級の上への流動は、おそらく大した関心の対象ではなかった。
 しかしながら、受益者からすると、彼らの新しいエリートとしての地位は、革命が労働者階級に約束したことを実現したことの紛れもない証拠だと思われがちだった。//
 この著で一貫している最後の主題は、革命的暴力とテロルという主題だ。
 民衆の暴力は、革命に内在的なものだ。
 革命家たちは、後の時期には留保を増やしつつも、革命の初期の段階でそれをきわめて好意的に考える傾向にある。
 テロルとは、一般民衆を脅かし恐怖に陥れる、革命集団または体制による組織的な暴力を意味する。これは、近代諸革命に特徴的なものでもあり、フランス革命がその典型を設定した。
 革命家の目からするとテロルの主要な目的は、革命の敵や変革への障害を破壊することだ。
 しかし、革命家たち自身の純粋性や革命的意識を維持するという、二次的な目的がしばしばある。(9)
 敵と反革命者は、全ての革命できわめて重要だ。
 敵は公然とはもちろん密かにも抵抗する。彼らは、策略や陰謀を企む。彼らはしばしば、革命家の仮面を身につけている。//
 マルクス主義者の理論に従って、ボルシェヴィキは階級という観点から階級の敵という観念を生み出した。
 貴族(noble)、資本家またはクラクであることは、<そのこと自体で(ipso facto)>、反革命同調者の証拠だった。
 たいていの革命家たちと同様に(地下の党組織と策略という戦前の経験があったことを考えるとおそらくたいてい以上に)、ボルシェヴィキは反革命の陰謀に神経質だった。
 しかし、彼らのマルクス主義はこれに、特殊な捻りを加えた。
 かりに革命には本来的に有害な階級があれば、一つの階級全体を敵の共謀者だと見なすことができた。
 その階級の個々の構成員は、「客観的に」反革命共謀者であり得た。主観的には(つまり彼らの心の裡では)共謀に関して何も知らず、自分たちは革命の支持者だと考えているとしてすら。//
 ロシア革命で、ボルシェヴィキは二種のテロルを用いた。すなわち、党の外部にいる敵に対するテロルと、党内部の敵に対するテロル。
 前者は革命の初期の時代に支配的だったが、1920年代に少なくなった。そして再び、集団化と文化革命の10年間の末に急に激しくなった。
 後者は最初は、内戦の終末期に党の分派闘争の間にあった可能性として散見された。だが、1927年までには消失した。その当時、左翼反対派に対する小規模のテロルが行われた。//
 そのとき以降、党内部の敵に対して大規模のテロルを行う誘惑があることが明瞭になった。
 これの一つの理由は、体制は党外部の「階級敵」に対して相当規模のテロルを用いているということだった。
 もう一つの理由は、党員たちに対する党の定期的な粛清(chistki, 字義どおりには洗浄(cleansing))が、痒い部分を引っ掻くのと似た効果を持ったことだ。
 1921年に全国的規模で最初に行われた粛清(purges)は、その忠誠性、能力、出身および社会的関係を判断する公開の場に全ての共産党員を個人的に呼び集めて、再審査するというものだった。そして、望ましくないと判断された者たちは党から除名されるか、党員候補へと引き下げられた。
 1929年に全国的な党の粛清があり、1933-34年にもう一回あった。そしてそのあと-党の粛清がほとんど偏執狂的な活動になった-、1935年と1936年にさらに二回の党員再審査が素早く続いて行われた。
 除名(expulsion)は拘禁または国外追放のような重い制裁を伴う蓋然性はあったけれども、まだ比較的に穏やかだった。この党粛清のたびに、重くなっていったけれども。//
 テロルと党の粛清(purging, 「p 」は小文字)は最終的に、結合して大規模になって、1937-38年の大粛清(the Great Purges)に至った。(10)
 これは、通常の意味での粛清ではない。党員に対する系統的な再審査は含まれていないからだ。
 しかし、これは第一段階では党員に、とくに高い地位の公職にある党員に対して向けられた。そして、拘禁と恐怖が非党員の知識人にすみやかに広がった。より少ない程度でだが、広く一般民衆にも。
 より正確には大テロル(the Great Terror)と称されることになる大粛清では、疑念はほとんど確信と同じであり、犯罪行為の証拠は必要でなかった。そして、反革命罪に対する罰は、死または労働強制収容所送りの宣告だった。
 多数の歴史研究者に、フランス革命のテロルとの類似性が思い起こされた。そして、大粛清の組織者にも同様に、明らかに類推がなされていた。大粛清の間に反革命者だと判断された者に適用される「民衆の敵」という用語は、ジャコバン派のテロリストから借りたものだったのだから。
 この、示唆的な歴史的借用の意義については、〔この著の〕最後の章で検討する。//
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 (7) この語は、Aristide R. Zolberg, '狂気のとき' <政治と社会>2:2 (1972 冬号)p.183-p.207 から借用した。
 (8) Adam B. Ulam, The Historical Role of Marxism. ウラムの <ソヴィエト全体主義の新しい顔>(Cambridge, MA(USA), 1963)所収 p.35。
 (9) このテーマにつき、Igal Halfin の<私の精神におけるテロル-裁判に関する共産主義者の自伝> (Cambridge, MA, 2003)を見よ。
 (10) 「大粛清」とは西側の用語で、ロシアのものではない。
 長年にわたってロシア語で事件に言及する公的な方法は受け入れられなかった。公式にはこれは発生していなかったからだ。
 私的な会話では、決まって遠回しに「1937年」と言及されていた。
 「粛清(p-)」と「大粛清」という名称の間の混乱は、ソヴィエトの婉曲語法に由来する。テロルが1939年の党第18回大会での半ばの拒絶によって終わったとき、表向きで拒否されたのは「大量の粛清」(massovye chistki)だった。実際には、厳密な意味での党の粛清は1936年以降は行われなかったけれども。
 婉曲語法はロシア語では短い間使われたが、それもやがて消えた。一方、英語では、それは永続的に注意を惹き続けた。
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 第4節・第四版に関するノート。
 以前の各版と同様に、この第四版は、ロシア帝国とソヴィエト同盟の一部だった非ロシアの領域でではなく、基本的にロシアで経験されたロシア革命の歴史だ。
 この限定は、今や非ロシア圏域とその民衆に関する活発で価値ある研究が発展しているので、それだけ一層、強調しておかなければならない。
 中心的な主題に関しては、この版では、最近の国際的な学界の成果はもちろん1991年以降に利用できるようになった新しい資料も取り込む。
 この著の議論の仕方や構成に大きな変更はないが、新しい情報と新しい学問上の解釈に対応して、一定の小さな変更がある。
 脚注を利用したのは、英語に翻訳されたロシアの研究書はもちろん、最近の重要な英米語の研究書にも注意を向けるためだ。ロシア語での書物や資料からの引用は、最小限にとどめた。
 選んだ参照文献一覧は、さらに読書するための簡単な案内になるだろう。
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 第一章・初期設定(The Setting)。
 (はじめに)
 20世紀の初め、ロシアはヨーロッパの大国の一つだった。
 しかし、イギリス、ドイツおよびフランスと比較すると後進的だと一般的に見られていた大国だった。
 これは経済的な観点でいうと、封建体制から抜け出してくるのが遅れており(農民層は1860年代にようやく地主または国家による法的な拘束から解放された)、工業化も遅れていた、ということを意味した。
 政治的な観点でいうと、1905年までは合法的な政党も選挙された中央の議会もなく、弱くはない権力をもつ専制体制が残存していた、ということを意味した。
 ロシアの都市は政治的組織や自己統治という伝統を持たず、貴族階層も同様に、君主に対して譲歩を強いるだけの力をもつ一体的な自己意識を発達させることができなかった。
 法的には、ロシアの臣民はまだ「身分(estate)」(都市、農民、聖職者および貴族)の一つだった。身分制度は職業人や都市労働者に関する条項を何ら定めていなかったし、聖職者だけは、自己完結的な階層の特徴に似たものをもっていたけれども。//
 1917年の革命以前の30年間、窮乏化はなく、国富は増大した。
 政府の工業化政策、外国からの投資、銀行や信用構造の近代化および国内の起業活動の緩やかな発展の結果として、ロシアが急速な経済成長を経験したのは、この時代だった。
 革命の時期にロシアの総人口の80パーセントをまだ構成していた農民層は、その経済的地位に関して目立った改善を経験していなかった。
 しかし、当時のいくつかの見解とは対照的に、農民層の経済条件が絶え間なく悪化していくということは、ほとんど確実に、なかった。//
 ロシアの最後の皇帝であるニコライ二世は悲しくも、専制体制は知らぬ間に迫り来る西側からのリベラルな影響と闘っていることに気づいた。
 政治的変化の方向-西側の立憲君主制のようなものに向かう-は明確であるように見えた。教養ある階層の多くの構成員たちは変化の遅さに耐えられず、頑固な障害物は専制体制の側の態度だったけれども。
 1905年の革命の後、ニコライは譲歩して全国的に選出される議会、ドゥーマ(the Duma)を設置し、同時に政党と労働組合を合法化した。
 しかし、古い専制体制の支配の恣意的な習慣と継続した秘密警察の活動は、こうした譲歩を骨抜きにした。//
 1917年の十月革命の後で、多くのロシア人亡命者(エミグレ)は革命前の時代は前進していた黄金の時代だったと、だがこの時代は(こう思われたのだが)第一次大戦または手に負えない暴徒、あるいはボルシェヴィキによって妨害されたのだと、振り返った。
 進展はあったが、それは社会の不安定さと政治的変革の蓋然性に大きく寄与した。すなわち、社会の変化が急速であればあるほど(その変化が進歩的か逆行的かのいずれであれ)、社会はますます安定性を失っていく趨勢にあった。
 もしも我々が革命前のロシアの偉大な文学作品を思い浮かべれば、最も生々しいイメージは、転位感、疎外感および自己の運命を支配できないこと、といったものだ。
 19世紀の作者の Nikolai Gogol にとって、ロシアは見知らぬ目的地へと暗闇の中を疾走している馬車だった。
 ニコライ二世とその閣僚たちを公的に批判したドゥーマの政治家の Aleksander Guchkoiv にとっては、ロシアは狂った運転手が運転して断崖の縁に沿って進んでいる車だった。その車の中で恐怖に怯える乗客は、車輪を抑える危険性について議論している。
 1917年に、危険は冒された。そして、前方向へのロシアの大胆な動きは、革命へと突入することになる。//
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 以上、序説の第3節と第4節、および第一章の「はじめに」が終わり。

1798/内閣の法律案提出権-池田信夫の5/08ブログ。

 一 国会-行政権(内閣以下)-司法権(最高裁判所以下)、権力分立または三権分立。
 上を<水平的分立>といい、<国-地方>または<国-都道府県-市区町村>のことを<垂直的分立>と称することがある。
 後者は「国」といっても、実質的には国の行政権を意味することが多いだろう。
 というのは自治体(法令用語では「地方公共団体」またはその一部)は国の立法(法令)に原則として拘束され、自治体には裁判所はなく、国の司法権(裁判所)の判決に服するしかないからだ。
 以上にはすでに現行法制を前提とした説明が入っているが、ゼロから「国制」(constitution, Verfassung=憲法という語の別の訳語)を考え直す場合は、種々の基本設計があり得る。
 例えば、内閣総理大臣(首相)とは別に実質的に最高行政権者としての大統領を置くか、裁判所制度内に通常の裁判所系統とは異なる憲法裁判所を置くか(ドイツ・韓国にはある)、あるいは軍事裁判所は必要ないのかどうか、等々。
 二 池田信夫の5/08「劣化した国会を正常化する二つの方法」は、部分的には憲法改正の問題にも発展するが、現行法制の問題にも関係する。
 池田のいう二つの一つは、議員立法を増やすことだ。野党は憲法違反の「閣法」はやめよと主張してはどうか、とすら書く。
 「閣法」とは内閣が(国会に)提案した法律案または成立した法律のことで、衆議院議員・参議院議員(但し、一議員では現行法制上はダメ)が提案した法律案または法律は「衆法」・「参法」とかいうらしい。
 これらはたんに第三者的または便宜的な呼称ではなく、国会に上程されている法律案の種類を示すために国会またはその議事運営にかかる実務上の用語として使われているのではないかと思われる。
 内閣が法律案提案権を有するか否かは、池田が言及するように憲法41条との関係で問題になる。
 現憲法は内閣の「予算」作成・国会提出権を明記するが(73条5号)、「法律案」または「法案」に関しては沈黙しているようだ(同1号は法律を「誠実に執行」することを内閣の権能の第一に挙げる)。
 しかし、現在は(現憲法下ずっと)法律レベルでこれを明記して認めている。
 内閣法5条内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し、一般国及び外交政策について国会に報告する」。
 この条項は、内閣の「法律案」国会提出権能を明示的に認める。
 したがって、「閣法」が違憲という主張は、この現内閣法5条の一部が違憲だという主張になる。
 この点はすでに現憲法施行時に議論があり、内閣が提出するのはあくまで「案」で、国会は最終的に可決も否決もできるので、憲法41条が定める国会の「唯一の立法機関」性に反するわけではないと、政府もおそらくは憲法学界の大勢も解釈してきた。
 これは戦前の実際を連続させたものなのだろう。
 法律の制定「過程」に行政権が関与しても「結果」自体は国会が生み出すならば、国会はなお「唯一の立法機関」だ、と説明されることになる。
 この解釈はなかなか動かし難いように見える。
 三 そうなると、いわゆる議員立法をもっと増やすよう運用することが大切で(上の条項はもちろん内閣の排他的な法案提出権を認めるものではない)、そのための衆議院法制局・参議院法制局の強化、何よりも、国会議員の「立法」技術と能力の向上が必要だ。
 しかし、法制局等の力を借りてでも「法案」を書ける、作れる議員が実際にいかほどいるかは、現在では、相当に疑わしい。「法案」作成のための見識・能力などによって有権者は議員候補を選択しているわけではないし、それを「売り」にする候補がいたというのも聞いたことがない。
 <国会-行政>のやりとりが<野党-政府・与党>のやりとりになって久しい。ほとんどずっとそうだろう。国会・行政の間の<権力分立>の理念は実際には形骸化している。
 立法府・議会優位の建前とは異なる「行政権」の実質的優位はどの国でも広く見られるようで、政治学・行政学では「行政国家」化現象と言うらしい。
 これを改善する妙策はあるだろうか。
 現状にどっぷりと浸かって、それを前提に<生きていく>ことを考えている者たちは、現状とは異なる世界もあり得る、という発想がそもそも湧かないだろう。
 議会-行政の関係についてもそうだ。
 そしてまたこれは、日本の国会議員なるものの成り立ち・出身にも大いに関係しているに違いない。一概に「二世」議員がいけないということはできないが、数的に多すぎる感じがあるのは事実だろう。また、落選しても困らない(生活に支障が出ない)職を持つ者、とくに弁護士は、とくに野党に多いようだ。この点、落選すればいちおう困るだろうが、上級官僚出身者はどちらかというと自民党の方に多い。
 職業選択の自由を持ち出さなくとも、国会議員への「新規参入」の途を広げる工夫が必要だ。しかし、国会自体に期待することはたぶん全くできず、これは日本の「政党」、とくに自民党の<リクルートの仕方>の問題なのかもしれない。
 地方議会の議員については、また別の問題もある。
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  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
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