秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1872/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.69、2004年合冊版p.841-p.843。
 英語訳書で文章構造の読解が不可能だと感じた二カ所でのみ、独語訳書を参照した。
 ----
 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義②。
 (9)Deborin の<序論>は、マルクス主義のプレハノフ学派の典型的な産物だ。
 諸概念の分析は何もなく、マルクス以前の哲学を悩ませた全ての問題を解決するものだと想定された、支持されない一連の主張だけを含んでいる。
 しかしながら、Deborinはプレハノフのように、Bacon、Hobbs、Spinoza、Locke、KantおよびとくにHegelの意義を弁証法的唯物論への途を準備するものと称えて、マルクス主義と過去の哲学全体との連環(link)を強調する。
 彼は、エンゲルスとプレハノフが定式化した線にもとづいて、観念論、経験主義、不可知論および現象主義を批判する。以下に示す部分的抜粋によって明らかになるように。//
 『さて、形而上学は、全ては存在する、しかし何も成らない、と主張し、現象主義は、全ては成る、しかし何も存在しない、つまり、無が現実に存在する、と主張する。
 弁証法が教えるのは、存在と非存在の統合は成りつつある、ということだ。
 具体的な唯物論的用語ではこれの意味は、全ての根拠は継続的な発展の状態にある物質だ、ということだ。
 かくして、変化は現実的かつ具体的であり、他方で、現実的かつ具体的なものは変化し得る。
 この過程の主体は絶対的に現実の存在であり、現象主義的な無に反対するものとしての「実体的な全て」(substantive All)だ。<中略>
 形而上学のいう性質なき不可変の実体と、実体の現実を排除することを想定する主観的かつ可変の状態との間の矛盾は、つぎの意味での弁証法的唯物論によって解消される。すなわち、実体、物質は動きと変化の永続する状態にある、性質または状態は客観的な意味をもつ、物質は原因と根拠づけ、質的な変化と状態の「主体」だ、という意味での弁証法的唯物論によって。』
 (<弁証法的唯物論哲学序論>第4版、1925年、p.226-7.)
 (10)この文章部分は、引用した本での、および他の彼の著作で見られる、Deborin のスタイルの典型だ。
 「弁証法的唯物論が教えるのは、…」、あれこれの哲学から「弁証法的唯物論は正しい部分を継受する」。
 主観的観念論者は物質を理解しないがゆえに間違っており、客観的な観念論者は物質が第一次的で精神は第二次的なものであることを認識しないがゆえに間違っている、等々。
 全ての場合に、通常は極端に曖昧に個々の結論が述べられる。そして、それを論拠で支える試みはない。
 彼らの対敵がそうである以上に、いかにして現象主義者が間違っているかを我々が知るのかは説明されない。 
 弁証法的唯物論はそのように我々に語るのであり、それが存在する全てなのだ。
 (11)弁証法論と「形而上学」の対立は、前者は我々に全ての物は連結し合っており、孤立している物は何もない、ということを教える、ということだ。
 全ては恒常的な変化と発展の状態にある。この発展は現実それ自体に内在する現実の矛盾の結果であり、質的な「跳躍」の形態をとる。
 弁証法的唯物論が述べるのは、我々は全てを知り得る、我々の知識を超える「物それ自体」は存在しない、人は世界の上で行動することで世界を知るに至る、我々の概念は「客観的」であって「事物の本質」を包摂する。
 我々の印象も「客観的」で、すなわちそれは客体を真似ることはないけれども、「反映」する(ここでDeborinは、レーニンが非難した誤りについてプレハノフを引き継ぐ)。
 印象と客体の合致は、客体にある同一性と相違が、主観的な「反射」での同一性と相違とに、適合していることにある。
 これは、Mach およびロシアでの彼の支持者たちであるBogdanov やValentino が拒否したものだ。
 彼らによれば、精神的な(psychic)現象だけが現実であり、「我々の外」の世界は存在していない。
 しかし、その場合に、自然の法則は存在せず、したがって何も予見することはできない。
 (12)彼らの著述は教義的で単純で、かつ実質に乏しいものだったが、Deborin とその支持者たちには、歴史的研究の必要を強調し、古典的文献に関する公正な知識で一世代の哲学者たちを訓練する、という長所があった。
 さらにまた、マルクス主義の「質的な」新しさを強調しつつも、伝統にあるその根源に、とくにヘーゲルの弁証法との連環に、注意を向けた。
 Deborin によれば、弁証法的唯物論はヘーゲルの弁証法とフォイエルバハ(Feuerbach)の唯物論を統合したもの(synthesis)だった。弁証法的唯物論には、これら二つの要素が変形され、かつ「高い次元へと止揚され」ている。
 マルクス主義は「統合的な世界観」で、知識に関する一般的方法論として弁証法的唯物論を、また、別の二つの特有の見地をも、すなわち自然の弁証法と歴史の弁証法、あるいは歴史的唯物論を、構成した。
 エンゲルスが述べたように、「弁証法」という用語は三重の意味で用いることができる。
 「客観的」弁証法は、諸法則または現実の「弁証法」的形態と同じものだ。
 「弁証法」はまた、これら諸法則を叙述したものを意味する。
 あるいは第三に、普遍世界〔=宇宙〕の観察方法、すなわち広義での「論理」を意味する。
 変化は、自然と人間史のいずれにも同等に適用される一般的な規則性をもつ。そして、この規則性の研究、すなわち哲学は、したがって、全ての科学を統合したものだ。
 科学者がこの方法論的観点から正しく出発し、自分たち自身の観察の意義を理解するためには、哲学の優先性を承認しなければならない。科学者はその哲学に対して、「一般化」のための素材を提供するのだ。
 かくして、マルクス主義は、哲学と正確な科学との間の恒常的な交流を求めた。
 自然科学や社会科学により提供される「素材」なくしては、哲学は空虚なものだ。しかし、諸科学は、それらを指導する哲学なくしては盲目だ。
 (13)この二重の要件がもつ目的は、十分に明確だった。
 哲学が科学の結果を利用する意味は、粗く言って、自然科学者たちは自然の客体が質的な変化を進行させている仕方を示し、そうして「弁証法の法則」を確認する、そのような例を探し求めなければならない、ということだ。
 哲学が科学を自らの自然へと覚醒させ、盲目にならないよう保たせるのは、科学の内容を監視する、およびその内容が弁証法的唯物論に適合するのを確保する、そういう資格が哲学にはある、ということを意味する。
 後者〔弁証法的唯物論〕は党の世界観と同義語であるがゆえに、Deborin とその支持者たちは、自然科学であれ社会科学であれ、全ての科学の内容に関する党の監督を正当化する理由を提供した。
 (14)Deborin は、自然科学での全ての危機は物理学者がマルクス主義を習得しておらず、弁証法の公式を適用する仕方を知らないことによる、と主張した。
 彼は、レーニンのように、随時的にであれ継続的にであれ、科学の発展はマルクス主義哲学の出現へと至るだろう、と信じた。
 (15)このような理由で、Deborin とその支持者たちは、機械主義者たちは科学の自律性と哲学的諸前提からの自立に固執することで致命的な誤りに陥っている、と糾弾した。
 このように理解される唯物論は、他の存在論的(ontological)教理以上に経験論的中立主義と共通性があり、いかなる外界の要素も全てなくしての自然の観察に他ならないとする、唯物論の性質に関するエンゲルスの論及を想起させる。
 Deborin は、自然科学は何らかの哲学的な根拠を承認しなければならない、ゆえに哲学から誘導的役割を剥奪し、またはそれを全く無視するいかなる試みも、実際には、ブルジョア的で観念論的な教理に屈服することを意味することになる、と主張した。
 全ての哲学上の観念はブルジョア的であれプロレタリア的であれ階級に基礎があり、機械主義者は哲学を攻撃することで、社会主義と労働者階級の敵を支援しているのだ。
 「質的な跳躍」の存在が否定され、全ての発展は継続的だと主張されるとしても、そうしたことは、結局は「跳躍」の例である革命の理念を実現することを意味しはしなかったのではないか?
 要するに、機械主義者たちは、哲学的に間違っているのみならず、政治的には修正主義者でもあったのだ。//
 ----
 ③へとつづく。

1871/資料・史料-民科法律部会という「学会」による橋下徹批判/2012年。

 民科法律部会(民主主義科学者協会法律部会)というのは、法学研究者のうち、日本共産党員、同党シンパ、日本共産党シンパだと思われても痛痒を感じない人、日本共産党系か否かといった関心がおそらくなくただ「民主主義」に賛同している、又は種々の人間関係を考慮している、そういった人々、を会員とする「学会」だ。
 この民科法律部会は、この組織・団体の名前で、橋下徹大阪市長(当時)の施政を批判する「市民と一緒に大阪から民主主義のあり方を考える」と題するシンポジウムを2012年7月に行い、その内容を一冊の書物にまとめていた。
 なお、ここでも?「ポピュリズム」という語が使われているが、この点には立ち入らない。
 以下、その書名とシンポジウム報告者の氏名等を資料・史料として記録しておく。
 **
 浦田一郎=白藤博行編・橋下ポピュリズムと民主主義(自治体研究社、2012年10月)
 以下、編者と報告者。浦田は編のみ。所属は当時。テーマらしきものは秋月による。
 浦田一郎(明治大学、当時・理事長)。
 白藤博行(専修大学、当時・事務局長)/民主主義。
 小松 浩(立命館大学)/憲法上の民主主義。 
 榊原秀訓(南山大学)/自治体民主主義。
 市川須美子(獨協大学)/教育と自治体民主主義。
 西谷 敏(大阪市立大学(名誉教授))/労働組合と自治体民主主義。
 ----
 以上。

1870/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 ----
 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義①。
 (1)ブハーリンの意図とは別に、彼の書物は1920年代に、対立する二つの派、「弁証法論者」と「機械主義者」の間の活発な論争に貢献した。
 この論争は、定期雑誌<Pod znamenem Marksizma >(マルクス主義の旗の下で)の頁上で繰り広げられた。
 1920年創刊のこの雑誌は、ソヴィエト哲学の歴史上重要な役割を果たした。また、党の理論的機関の一つだった。
 (創刊号はトロツキーからの手紙も載せていた。しかしながら、それはたんに一般論から成るにすぎなかった。)
 発表された諸論考は全て公称マルクス主義者のものだったが、最初の数年間は、例えば、Husserl のような、ロシア外部の当時の哲学に関する情報を読者は得ることができた。そして、論述の一般的なレベルは、後年の標準的な哲学著作よりもはるかに高かった。
 (2)かりに論争の要点を一つの文章で表現してよいとすれば、機械主義者は自然科学の哲学の介入への対抗を代表し、一方で弁証法論者は科学に対する哲学の優越性を支持した、そしてソヴィエトのイデオロギー的発展の特徴的傾向を映し出した、と記し得るだろう。
 機械主義者の考え方は否定的だと称し得る一方で、弁証法論者は哲学に大きな重要性を与え、自分たちはその専門家だと考えた。
 しかしながら、科学とはどのようなものであるかに関して、機械主義者はより十分に考えていた。
 弁証法論者はこの分野については無学であり、科学を「一般化」して統合する哲学上の必要性に関して一般論的定式化をすることに限定していた。
 他方で彼らは、哲学の歴史については機械主義者よりもよく知っていた。
 (党は結局は両派をともに非難し、無知の両形態の弁証法的な統合を生み出した。)
 (3)機械主義者はマルクス主義を受容したが、哲学はたんに自然科学と社会科学の全ての総計を示すものなので、科学的世界観には哲学の必要はない、と主張した。
 雑誌の最初の諸号の一つに、O. Minin による論考が掲載されている。この人物については他に何も知られていないが、機械主義者の反哲学的偏見を示す極端な例として、しばしば引用された。
 Minin がきわめて単純な形で述べた考えは、封建領主はその階級利益を増大させるために宗教を用い、ブルジョアジーは同様に哲学を用いる、というものだった。他方で、プロレタリアートはいずれも拒否し、その力の全てを科学から引き出す。
 (4)多かれ少なかれ、このような哲学に対する嫌悪は、機械主義派の者たち全体によく見られるものだった。
 最もよく知られた支持者は Ivan I. Skvortsvov-Stepanov (1870-1928)と、著名な物理学者の子息の Arkady K. Timiryazev (1880-1955)だった。
 すでに別の箇所でその考え方に論及したA. Akselrod も自称「機械主義的世界観」を公言していた。しかし、彼女はプレハノフの弟子として、この派の別の者たちよりも穏健な立場を採った。
 (5)機械主義者たちは、エンゲルスの著作にある程度は支えられて、マルクス主義の観点からは、特定の科学を指示し、発見物の正否を判断する権利を要求する「科学の中の科学」のようなものは存在しない、と考えた。
 対立派が理解する弁証法なるものは、余計なものであるばかりか科学的考究とは矛盾している。それは科学の知らない世界観の全体や範疇を持ち込むもので、マルクス主義の科学的な革命精神と社会主義社会の利益といずれとも疎遠なヘーゲル的な継承物だ。
 科学の当然の意図は、全現象を物理的または化学的過程へと整理することで全ての現象をできるだけ正確に説明することだ、他方で質的な飛躍、内部的矛盾等があるという弁証法論者は、反対のことをしている。弁証法論者たちは、実際には現実の多様な分野の間のその言う質的な相違を、観念論者から虚偽の全体性を借用することによって確認しているのだ。
 全ての変化は最終的には質的な条件へと切り縮めることができる。そして、例えばこのことが生きている現象に適用されないという考え方は、もはや観念論的な生気論(vitalism)にすぎない。
 確かに、正反対の物の間の闘いを語ることはできるが、概念の内部的分裂というヘーゲル的意味においてではない。すなわち、その闘いは物理学や生物学で、あるいはいかなる特定の弁証法的論理に頼る必要のない社会科学で、観察され得るような矛盾する力の間のものだ。
 科学的考究は完全に経験にもとづいていなければならない。そして、全てのヘーゲル的な弁証法の「範疇」は、経験上のデータへと単純化することはできない。
 弁証法論者の立場は明らかに自然科学の進展によって掘り崩されているのであり、そのことは、宇宙での全ての現象は物理的および化学的な用語で表現することができるということを徐々にだが着実に明らかしてきている。
 切り縮めることのできない質的な相違と自然過程の非継続性を信じるのは全く反動的だ。弁証法論者が、「偶然」は主観的なもので個別の原因に関する我々の無知を示す語にすぎない、と論じているように。//
 (6)「弁証法論者」の立場は、1925年にエンゲルスの<自然の弁証法>が公刊されたことでかなり強くなった。この著作は、機械主義と哲学的ニヒリズムに対抗し、かつ科学の哲学的および弁証法的な解釈を擁護するための十分な武器を提供した。
 1929年にレーニンの<哲学ノート>が出版されて、さらに強い支援になった。この著作は、ヘーゲル弁証法の唯物論的範型の必要性を強調し、弁証法の「範疇」の長いリストを列挙し、対立物の闘争と統合の原理はマルクス主義の中心にある、と宣告した。//
 (7)二つの対立する派のうちでは弁証法論派が多数になり、科学的な諸装置をより十分に備えることになった。
 彼らの指導者で最も活動的な執筆者は、Abraham Moiseyevich Deborin (1881-1963) だった。
 彼はKovno で生まれ、若いときに社会民主主義運動に参加し、1903年以降はスイスにいた<エミグレ>だった。
 彼は最初はボルシェヴィキで、のちにメンシェヴィキ派に加わった。
 革命後には数年の間は非党員マルクス主義者だったが、1928年に再入党した。
 1907年に彼は<弁証法的唯物論哲学序論>を執筆し、1915年になって出版された。、
 この書物は何度も重版されて、1920年代でのロシアの哲学教育の主要な文献だった。
 彼は党員ではなかったけれども共産主義アカデミーや赤色教授研究所で講義をし、若干の著作を発表した。
 1926年以降は<Pod znamenem Marksizma >の編集長で、この雑誌はこのときから、機械主義者の論考を掲載するのを中止し、純粋な弁証法論者のための雑誌機関になった。
 (8)自分で執筆しはしなかったが、Deborin は哲学に精通していた。
 例えばプレハノフには見出せない考えを、彼はほとんど発していない。しかし、のちのソヴィエトの哲学者たちと比べると、彼とその支持者たちは哲学の歴史に関する公正な知識をもち、それらを論争上の目的のために巧く用いることができた。//
 ----
 ②へとつづく。

1869/宮地健一HPによる日本共産党の異様性・稀少性。

 <宮地健一のホームページ>の中の、コミンテルン型共産主義運動の現状-ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り→1/ヨーロッパの発達した資本主義国における転換・終焉の3段階・2/ヨーロッパ各国・各党の終焉の経過と現状→3)/発達した資本主義国での運動…ユーロ・コミュニズムといわれた諸党、の中につぎの表が掲載されている。宮地作成のものと思われる
 <(表1)レーニン型前衛党の崩壊過程と割合
 この表は、「レーニン型前衛党」の要素として、①プロレタリア独裁理論、②民主主義的中央集権制、③前衛党概念、④「マルクス・レーニン主義」、⑤政党名=「共産党」を挙げ、ヨーロッパ各国および日本と<社会主義4国(中国・北朝鮮・ベトナム・キューバ)>の各<共産党>がどのように維持したり、放棄等をしたりしているのかの「現状」を示している。
 これによると、社会主義4国は北朝鮮の党名が「労働党」である以外は全て「堅持」している。
 ヨーロッパ(東欧は除外)各国の共産党は、⑤の政党名(政党形態)の項によると、1.イタリア-「左翼民主党」に1991年に改称、2.イギリス-1991年に解党、3.スペイン-1983年に分裂、4.フランス-「共産党」維持、5.ポルトガル-「共産党」維持。
 以上と日本(日本共産党)をすでに比べてみると、日本と同じなのはフランスとポルトガルだけ。
 ④「マルクス・レーニン主義」の堅持状況は、1.イタリア-放棄、2.スペイン-放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。
 そして宮地は日本(日本共産党)は「訳語変更堅持」だとする。これは、「科学的社会主義」という語・概念への言い換えのことを意味するとみられる。
 以上までで日本(日本共産党)を比べてみると、日本と同じなのは、すでにポルトガル(ポルトガル共産党)だけ
 ③の前衛党概念の堅持状況も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。宮地によると日本は「隠蔽・堅持」。
 ②の民主主義的中央集権制という組織原則については、1.イタリア-1989年に放棄、2.スペイン-1991年に放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。宮地によると日本は「略語で堅持」。おそらく「民主集中制」だろう。
 この点も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。
 ①のプロレタリアート独裁理論については、1.イタリア-1976年放棄、2.スペイン-1970年代前半放棄、3.フランス-1976年放棄、4.ポルトガル-1974年放棄
 ここで、初めて、日本とポルトガルの違いが出てくる。
 日本共産党は「プロレタリアート独裁」という言葉(訳語)を変更しているが、実質的には維持しているからだ。宮地健一も、日本共産党につき「訳語変更堅持」と明記している。
 宮地健一は、この表の上すぐと下で、つぎのように日本共産党の基礎的な現状についてまとめ、コメントしている。一文ごとに改行。
 「資本主義諸国において、残存するレーニン型前衛党は、2党だけになってしまった。
 ただ、ポルトガル共産党は、1974年12月、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論は誤りだとして、放棄宣言をした。
 よって、5つの基準・原理のすべてを、『訳語変更、略語方式、隠蔽方式』にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。

 「21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。」 
 ----
 「世界で日本共産党ただ一つ」、「日本共産党という一党だけが」ということは<誤り・間違い>であることの論拠にはならない。
 しかし、日本には<左翼>または<容共>者が欧米各国に比べて異様に多いということの根本的な原因を、この日本共産党という独特の政党・政治組織の存在に求めることは誤りではない、と考えられる。
 上に記されているような意味で「世界でただ一つ」の共産党がある程度の組織を維持しつつ存在するがゆえに、安心して?、朝日新聞社等々の「左翼」メディアがあり、また、立憲民主党等の「左翼」政党がある。岩波書店(・日本評論社法学系)等の「左翼」出版社もある。
 立憲民主党はともあれ、朝日新聞社、岩波書店等々の中には、当然のごとく日本共産党員もいる。
 また、日本共産党の路線が<先ず民主主義革命>であるために、「民主主義」という旗印(これに近いのが「平和」・「護憲」)を支持して日本共産党の周囲に、ある程度の範囲の者たちが集まってくる(そして入党勧誘の候補者になる者もいる)ということになる。
 こうしたことの背景にはさらに、日本はほぼ日本語だけで社会が動き、(共産主義・共産党に関するものも含めて)英語等の外国語による世界の情報が十分に正確には入っていない、ということがある。
 上の宮地健一が示すような現状は、日本ではほとんど知られていないだろう。
 そうした外国語情報の流入は意図的に阻止されていることがある、と考えられる。
 明らかに<反共産主義>の文献は、どの分野であれ、日本語に訳されて出版されることが全くないか、ほとんどない。少なくとも大手出版社はそのような文献の邦訳書を出版しない。
 欧米では意見・感想の違いはあっても読書されて当然の、例えばレシェク・コワコフスキの大著、リチャード・パイプスの二著の邦訳書がいまだに日本に存在していないのは、その顕著な例だろう(一方で、欧米の若手<親マルクス主義系>研究者の本が簡単に邦訳されたりしている)。

1868/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第2節・哲学者としてのブハーリン②完。合冊版、p.836~p.838。
 ----
 (14)一般的には、弁証法全体は平衡状態(equilibrium)に対する妨害と復活の無限の過程へと簡略化されてよい。
 諸現象の「機械主義的」見方に対して「弁証法的」見方を対峙させることには、もはや何の目的もない。現代では、機械それ自体が弁証法的になっているごとく。すなわち、我々は物理学から、全てが他の全てに影響を与える、そして自然界に孤立しているものはいっさい存在しない、ということを学習しなかったのか?
 全ての社会現象は、人間の自然との闘いを原因とする、対立する力の闘争だとして説明することができる。 
 (にもかかわらす、ブハーリンは、共産主義が最終的に建設されればそれを最後に平衡状態は確立されてしまう、と考えたように見える。
 しかしながら、今のところは、技術的問題についての後退をも不可避的に含む革命的な時代に我々はいるのだ。)
 生産関係は単直に言って、「生きている機械」だと見なされた人間たちの、労働過程にかかる共同作用だ。
 この過程に従事している間に人々が考えたり感じたりしているということは、生産関係はその性質上精神的(spiritual)なものだということを意味しはしない。すなわち、精神的なものは全て、それらが存在するのは物質的な必要性があるからであり、生産と階級闘争に奉仕している。
 例えば、Cunow とTugan-Baranovski が主張するように、ブルジョア国家が全階級の利益となる働きをする、ということはあり得ない。
 ブルジョアジーはたしかに、自分たちのために、公共的業務の分野で活動することを強いられる。例えば、道路の建設、学校の維持、科学知識の普及。
 しかし、これらは全てが純粋に資本主義者の階級利益の観点から行われるのであり、そうして、国家は階級支配のための道具に他ならなくなる。//
 (15)ブハーリンは<史的唯物論>の中で、「平衡状態の法則」以外に、社会生活に関する他のいくつかの法則を定式化した。
 そのうちの一つ、「社会現象の物質化の法則」は、イデオロギーと精神生活の多様な形態は、それ自体の実存性があって一層の進化の出発地点となる、そういう物体に-書籍、図書館、美術画廊等に-具現化される、というものだ。
 (16)ブハーリンのこの書物は極端に単純なもので、ある範囲ではそれはレーニンの<経験批判論>を上回りすらする。
 レーニンの論拠は論理的に無価値のものだったが、それでも彼は少なくとも論じようとした。しかし、ブハーリンは論じようとすらしていない。
 ブハーリンの著作は、教義的にかつ無批判に、使われる概念を分析する試みをいっさいすることなく明言される「諸原理」、「根本的諸点」の連続だ。また、それらは、諸教理を定式化するとすぐに生じる、そして繰り返して批判的に進められた、史的唯物論に対する反対論を論駁しようともいっさいしないで語られている。
 彼がピアノが存在していなければ誰もピアノを弾けないということで芸術が社会条件に依存していることが証明される、と我々に述べていることは、その推論のレベルを明らかに例証している。
 思考の未熟さの例は、つぎのように幼稚に信じていることだ。すなわち、未来の科学は技術的発展の光を当てて社会革命の日付を「客観的に」予言することができるだろう。
 さらには、人々が書物を執筆する「科学的法則」、あるいは宗教の起源に関する根拠なき幻想、等々。
 この「手引き書」の特質は、のちのマルクス主義文献の多くのそれのように、「科学的」という語を絶え間なく使用していることでありり、それ自体の言明がこの性格を特別の程度に有すると執拗に主張していることだ。//
 (17)ブハーリンの書物の凡庸さを、グラムシ(Gramsci)やルカチ(Lukács)のような知的なマルクス主義批判者は見逃さなかった。彼らはとくに、ブハーリンの「機械主義」の傾向に注意を向けた。
 ブハーリンは社会を、生起する全てはそのときどきの技術の状態によって説明することのできる、結び合った全体だと考えた。、
 人々の思考や感情、人々が表現する文化、人々が作り出す社会制度、これらは全て、自然法則がもつ不変の規則性を伴う生産力によって生み出される。
 ブハーリンは、「平衡状態の法則」でもって何を明瞭には意味させたいのかを、説明しない。
 社会での平衡状態は継続的に攪乱されかつ復活されている、そして平衡状態は技術のレベルと生産関係の「合致」に依存する、と我々は語られる。
 しかし、ある所与のときにこの合致が存在するか否かを決定する際に用いる規準(criteria)に関する示唆は、いっさい存在しない。
 実際にブハーリンは、平衡状態の攪乱を革命または全ての社会転覆と同一視しているように見える。
 かくして「平衡状態の法則」が意味するのは、危機と革命は歴史上に発生した、そして疑いなくもう一度発生するだろう、ということのように見える。
 社会現象の研究はそれ自体が社会現象で、そのようなものとして歴史的な変化を発生させるのを助ける、ということをブハーリンの頭は思いつかなかった。
 ブハーリンは、天文学が惑星の運動を我々に教えるのと同じ方法で、未来に関する「プロレタリアの科学」は歴史的事象を分析して予言するだろうと信じていた。//
 (18)ブハーリンの政治的地位のおかげで、彼のマルクス主義に関する標準版は長らく、党の「世界観」を最も権威をもって言明したものと見なされた。スターリンの著作がそうなったほどには、忠誠者に対する拘束力あるものにはならなかつたけれども。
 彼の<史的唯物論>は実際、スターリンが自分自身の手引きとしたほとんど全てのものを含んでいた。
 スターリンは、「平衡状態の法則」に言及しはしなかった。
 しかし彼は、ブハーリンの「弁証法の法則」を継受して、歴史的唯物論について哲学上の唯物論の一般原理の「適用」または特殊な場合であると説明した。
 その基礎をエンゲルスに、とくにプレハノフに見出すことができるこのような接近方法は、ブハーリンによって経典的マルクス主義の本質部分だとして提示された。//
 (19)のちにブハーリンがその栄誉ある地位から転落して「機械主義」が非難されたとき、つぎのことを示すのが、党哲学者たちの仕事になった。すなわち、彼の「機械主義」的誤りとその政治上の右翼偏向は分かち難く結びついている、そしてレーニンが正当に譴責した弁証法の無知こそが彼が富農(kulak)を防衛し集団化に反対した根本原因だ。
 しかしながら、この種の哲学と政治の連関づけは全く根拠がなく、わざとらしい。
 ブハーリンの著作にある曖昧な一般論は、特定の政治的結論の根拠を何ら提供していない。
 但し、当時にまたはのちに誰も論難しなかったつぎのような前提命題は除く。例えば、プロレタリアートの社会主義革命は、最終的に世界を制覇するはずだ。宗教とは闘わなければならない。プロレタリア国家は、産業の成長を促進するはずだ。
 より厳密な結論について言えば、最も矛盾する趣旨が、同じ論理を使って同じ理論上の定式から演繹されている。教理(doctrin)は事実上、政治に従属している。
 「一方で」土台は上部構造を決定するが、「他方で」上部構造は土台へと反作用するのだとすれば、いかなる程度であっても、またいかなる手段をとるのであっても、「プロレタリア国家」は経済過程を規整するだろうし、つねに教理と合致して行動することになるだろう。
 ブハーリンは、都市と田園地帯の間の経済の均衡を混乱させるとスターリンを責め立てた。しかし、彼の「平衡状態の法則」は、いつそしてどのような条件のもとであれば現在の平衡状態が維持されるのかそれとも破壊されるのかに関する手がかりを、何ら提供しなかった。
 最終的な安定が共産主義のもとで達成されるまでは、平衡状態は攪乱されつづけるだろう、そしてスターリンの「上からの革命」(revolution from above)、換言すると農民層の強制的収奪、のごとき政策は、平衡状態へと向かう社会の一般的趨勢と完全に合致しているかもしれない。なぜならば、国有産業と私的農業の間の矛盾を除去すること、そのことで不均衡の要因を取り除くことは、政策の目標だからだ。
 Cohen はつぎのことを正しく(rightly)観察している。すなわち、ブハーリンが手引書を執筆したのは、党の言葉遣いでは極端に「主意主義的な」(voluntaristic)ものと称される経済現象に対する態度の実例を彼自身が示したときだった。ブハーリンは、経済生活の全ては行政的かつ強制的な手段によって完全に十分に規整され得る、プロレタリアートの勝利ののちには全ての経済法則が弁証法的に取り替えられるだろう、と信じた。
 ブハーリンはのちに戦時共産主義の考えを放棄し、ネップのイデオロギストになった。
 しかし彼は、<史的唯物論>の諸テーゼを変えることはなかった。
 そのゆえに、彼の著作の中に1929年の彼の政策のための着想を探し出そうというのは馬鹿げたことだ。
 ついでに言えば、戦時共産主義という観念もまた、それから演繹することはできない。
 我々は、もう一度、かかる曖昧な哲学的言明はいかなる政策を正当化するためにも用いることができる、とだけ言おう。あるいは、同じことに帰一するのだが、かかる曖昧な哲学的言明は、いかなる政策もいっさい正当化しはしない。
 ----
 第2節終わり。

1490再掲/レーニンとスターリン-R・パイプス1994年著終章6節。

 ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳する。 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。
 
章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節だ。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
 ---
 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
 ------
  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
 ---
 結章6節終わり。

1867/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節/ブハーリン①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 ----
 第2節・哲学者としてのブハーリン①。合冊版、p.833~p.836。
 (1)共産主義の際立つ特質の一つは、政治生活における哲学の重要性についての確信だ。
 まさに最初から、換言すればプレハノフの初期の著作から、ロシア・マルクス主義は、哲学、社会学および政治学に関する諸問題の全てを包摂しそれらに回答を与える統合的「システム」へと発展する傾向を示した。
 「真の」哲学はいったい何を構成要素とするのかについて個々人で異なってはいたけれども、彼らはみな、党には明瞭に定義された哲学上の考え方(outlook)が存在しなければならないし、存在した、この考え方は反論を許すことができない、ということに合意していた。
 ロシアには事実上、ドイツ・マルクス主義には多くあった、論理的に別個の二つの提示命題の中で意見表明をする哲学的「中立主義」に対応するものがなかった。
 第一は、社会現象に関する科学的理論としてのマルクス主義は、その他の科学からの哲学上の前提はもはや必要がない、とする。
 第二は、党は政治綱領と歴史的社会的教理に拘束されるが、構成員たる党員は自由にいかなる宗教も哲学も支持することができる、とする。
 レーニンはこれらいずれの考え方も激烈に攻撃した。そうすることで彼は、完全にロシア・マルクス主義の代表者だった。
 (2)その結果として、革命後の党執行部には、哲学教育にかかわり合う時間がなかった。
 しかしながら、まだ成典化された哲学は存在していなかった。
 マルクスとエンゲルスを別にすれば、プレハノフは主要な権威だと見なされた。
 レーニンの経験批判論に関する著作は、全ての者が参照すべく義務づけられるような標準的なテクストの地位を決して得ていなかった。
 (3)ブハーリンは、レーニンの後で、党の一般的哲学および社会的教理を体系的に提示することを試みた最初の党指導者だった。
 彼には、他のたいていの者たちよりも、この仕事をする適格性があった。国外逃亡中の年月の間に彼は、Weber、Pareto、Stammler その他の者の非マルクス主義的社会学の著作を研究していたので。  
1921年に彼は、<史的唯物論 : マルクス主義社会学の一般向け手引き>(英訳書、1926年)を出版した。
 レーニンの<経験批判論>は特定の一つの異説に対する攻撃だったが、それとは違って、ブハーリンのこの著作は、マルクス主義教理に関する一般的な説明を行うことを趣旨としていた。
 長年にわたって、この著作は党幹部たちを理論的に鍛えるための基本的な教科書として用いられた。これの重要性は、これが持つ長所にあるというよりも、その用いられたという事実にある。//
 (4)ブハーリンは、マルクス主義は社会現象に関する厳格に科学的な、かつ唯一科学的で包括的な理論だ、マルクス主義はその現象を他の科学がそれぞれに固有の対象を扱うように「客観的に」取り扱う、と考える。 
 それゆえに、マルクス主義は歴史的進化を的確に予見することができる。他の何もそうすることはできない。
 マルクス主義は全ての社会理論のように階級理論でもあるのはそのとおりだが、ブルジョアジーよりも広い精神的視野をもつプロレタリアートに託された理論だ。プロレタリアートの意図は社会を変革することであり、だから彼らは将来を見通すことができる。
 かくしてプロレタリアートのみが社会現象に関する「真の(true)科学」を生み出すことができるし、実際に生み出した。
 この科学は歴史的唯物論、またはマルクス主義社会学だ。
 (「社会学」(sociology)という語はマルクス主義者によって是認されておらず、レーニンは「社会学」それ自体は-たんにあれこれの理論にすぎないのではなく-ブルジョアが考案した語だとして拒絶した。
 しかし、ブハーリンは明らかに、科学的考究の特定の分野を表示するために既に用い得る語として、これを適応させようとした。)//
 (5)ブハーリンによれば、歴史的唯物論〔=史的唯物論〕は、社会科学と自然科学との間には探求方法についても対象に対する因果関係的接近についても何ら差違はない、という前提に立つ。
 全ての歴史的進歩は、不可変の因果法則に依っている。
 Stammler のような理論家による反対論はあるにもかかわらず、人間の目的というものはこれに違いをもたらさない。意思と目的はそれら自体が、他の全ての場合と同様に条件づけられている。
 自然および社会のいずれの分野の目的的(purposive)行動の理論も全て、非決定主義理論であり、Deity の仮定へとまっすぐに至ることになる。
 人間は、自由な意思をもたない。その行動の全ては因果的に決定されている。
 いかなる「客観的」意味においても、偶然(chance)というようなものは存在しない。
 我々が偶然と称しているものは、因果関係の二つの連鎖が交差したものだ。そのうちの一つだけが我々に知られている。
 「偶然」という範疇は、我々が無知であることをたんに表現しているにすぎない。//
 (6)必然性の法則は全ての社会現象に適用されるので、歴史の方向を予言することは可能だ。
 この予言は「まだ今のところ」正確ではないので、個々の事件の日時まで予告することはできない。しかし、それは、我々の知識がまだ不完全なものであることによる。//
 (7)社会学での唯物論と観念論の対立は、根本的な哲学上の論争の特殊な例だ。
 唯物論は、人は自然の一部だ、精神(mind)は物質の作用だ、思考(thought)は物理的な脳の活動だ、と主張する。
 これら全ては、観念論によって反論されている。観念論は宗教の一形態にすぎず、科学によって効果的に論駁されている。
 この狂気の唯我論(solipsism)または人または梨のような事物は存在しないとするプラトンの考えを真剣に受け取る者にとっては、それらの「観念(ideas)」にすぎないのか?
 (8)そして社会分野では、精神(spirit)と物質のうちの優先性に関する問題が生じている。
 科学の、すなわち歴史的唯物論の観点からは、物質的な現象つまりは生産活動が、観念、宗教、芸術、法その他の精神的現象を決定する。
 しかしながら、我々は、一般的法則が社会的論脈の中で働く態様を観察するよう留意しなければならず、また、単直に自然科学の法則を社会的用語へと入れ替えてはならない。//
 (9)弁証法的唯物論が教えるのは、宇宙には永遠のものは存在しないが、全ての事物は相互に関係し合っている、ということだ。
 私有財産、資本主義および国家は永続的なものだと何とかして主張しようとしているブルジョア歴史家は、このことを否定する。
 変化は、内部的な矛盾と闘争から現実に発生している。なぜなら、他の全ての分野でのように社会では、全ての平衡状態は不安定で、いずれは克服される。そして、新しい平衡状態は新しい原理にもとづかなければならない。
 この変化は、量的な変化が蓄積したことから帰結する質的な飛躍によって生じる。
 例えば、水は熱せられると一定の瞬間に沸点に到達し、蒸気となる。-これが、質的な変化だ。
 (ちなみに、我々は、エンゲルスからこの例を繰り返したスターリンまで「古典的マルクス主義著作者」のうち誰も、水が蒸気となるには摂氏100度に到達する必要はないということを観察しなかった、ということに気づいてよい。)
 社会革命は同種の変化であり、そしてこれが、質的な飛躍による変化という弁証法の法則をブルジョアジーが拒否する理由だ。//
 (10)変化と発展のとくに社会的な形態は、人間と自然の間のエネルギー交換、すなわち労働に依存している。
 社会生活は生産によって条件づけられ、社会の進化は労働生産性の増大を条件とする。
 生産関係が思考(thought)を決定する。しかし、人間は相互に依存し合いながら品物を生産するように、社会は諸個人のたんなる集まり(collection)ではなく、その全ての単位が相互に影響し合う、真の集合体(aggregate)だ。
 技術が、社会発展を決定する。
 他の全ての要因は、二次的なものだ。
 例えば、地勢(geography)はせいぜいのところ人々が進化する程度に作用することができ、進化それ自体を説明することはできない。
 人口統計上の変化は技術に依存しており、それ以外にではない。
 進化の種族諸理論について言うと、プレハノフはそれらを明確に論難していた。//
 (11)「究極的には」、人間の文化の全側面は技術の変化によって説明することができる。
 社会の組織は、生産力という条件に従って進化する。
 国家は支配階級の道具であり、その特権の維持に奉仕する。
 例えば、宗教はいかにして発生したのか?
 きわめて簡単だ。原始社会には部族の支配者がおり、人々はその発想を自分たち自身へと転化し、肉体を支配する精神(soul)という観念へと到達した。
 そして彼らは、その精神を自然全体へと転化し、宇宙に精神的な性質を与えた。
 こうした幻想は結局は、階級の分化を正当化するために用いられた。
 再び言うと、知られざる力としての神(God)という観念は、資本主義者が自分たちで支配できない運命に依存していることを「反映」(reflect)している。
 芸術は同様に、技術発展と社会条件の産物だ。
 ブハーリンは、こう説明する。未開人はピアノを弾くことができない。なぜなら、ピアノが存在していなければそれを演奏することも、そのために楽曲を作ることもできない。
 頽廃的な現代芸術-印象主義、未来主義、表現主義-は、ブルジョアジーの衰亡を表現している。//
 (12)これら全てにかかわらず、上部構造に全く重要性がないというのではない。
 ブルジョア国家は、結局のところ、資本主義的生産の一つの条件だ。
 上部構造は土台に影響を与える。しかし、いつの時点であっても、上部構造は「究極的には」、生産力によって条件づけられている。
 (13)倫理について言えば、これは階級社会の物神崇拝主義(fetishism)の産物で、階級社会とともに消失するだろう。
 プロレタリアートには、倫理は必要がない。倫理がそのために生み出す行動の規範は、性格において技術的なものだ。
 椅子を制作する大工が一定の技術上の規則に適合させるのと全く同じく、プロレタリアートは、社会構成員の相互依存に関する知識にもとづいて、共産主義を建設する。
 しかし、このことは、倫理と何の関係もない。//
 ----
 ②へとつづく。

1866/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気④完。
合冊版、p.831~p.833。
 ----
 (16)国家もまた最初から、教会と宗教の影響を破壊し始めた。
 これは明らかにマルクス主義の教理と一致しており、全ての独立した教育を破壊するという国家の目標とも一致していた。
 我々はすでに見たことだが、ソヴィエト体制は教会と国家の分離を宣言したけれども、この原理を現実化するのに成功していなかったし、成功することのできないものだった。
 なぜなら、教会と国家の分離は、国家が市民の宗教的見方に関心を抱かず、どの宗派に属しているかまたはいないかを問わず市民に同等の権利の全てを保障し、一方で教会は私法の主体として承認される、ということを意味するだろうからだ。
 国家がひとたび反宗教哲学をもつ党によって購われるものになってしまえば、この分離は不可能だった。
 党のイデオロギーは国家のそれになった。そして、全ての形態の宗教生活は、否応なく反国家活動になった。
教会と国家の分離は、信者とそうでない者とが同等の権利をもち、前者は無神論者である党員と同様の権力行使の機会をもつ、ということを意味する。
この原理を実現しようとするのはソヴィエトの条件のもとではいかに馬鹿々々しいかと述べるので十分だ。
 最初から根本的な哲学またはイデオロギーへの執着を表明した国家があり、その哲学またはイデオロギーにその国家の正統性が由来するのであるから、宗教<に対して(vis-à-vis)>中立などということはあり得なかった。
 したがって、1920年代の間ずっと、教会は迫害され、キリスト教を伝道することを妨害された。異なる時期ごとに、その過程の強度は違っていたけれども。
 体制の側は、階層の一部に対して譲歩するように説得するのに成功した-これはその一部の者たち自身にとって譲歩でなかったので、妥協だと言うことはほとんどできない。そして、1920年代の後半に多数の頑強な神職者たちが殺戮されてしまったあとで、ほどよい割合の者たちがとどまって忠誠を表明し、ソヴィエト国家と政府のために祈祷を捧げた。
 そのときまでに、無数の処刑、男女の各修道院の解体、公民権の収用や剥奪のあとで、教会は、かつてあったものの陰影にすぎなくなった。
 にもかかわらず、反宗教宣伝は今日まで、党の教育での重要な要素を占めている。
 1925年にYaroslavsky の指導のもとで設立された戦闘的無神論者同盟(the League of Militant Atheists)は、キリスト教者やその他の信者を全てのありうるやり方で執拗に攻撃して迫害し、そうすることで国家の支援を受けた。//
 (17) 新社会で最も力強い教育への影響力をもったのは、しかしながら、警察による抑圧のシステムだった。
 この強度は変化したけれども、いかなる市民でもいかなる時にでも当局の意ののままに抑圧手段に服することがあり得るというのは日常のことだった。
 レーニンは、新しい社会の法は伝統的な意味での法とは全く関係がない、と明言していた。換言すれば、政府権力をいかなる態様をとってであれ制限することが法に許容されてはならない、と。
 逆に一方では、いかなる体制のもとでも法は階級抑圧の道具に「他ならない」がゆえに、新しい秩序は対応する「革命的合法性」の原理を採用した。これが意味したのは、政府当局は証拠法則、被告人の権利等々の法的形式に煩わされる必要はなく、「プロレタリアート独裁」に対する潜在的な危険を示していると見え得る誰であっても単直に逮捕し、収監し、死に至らしめることができる、ということだった。
 KGBの先駆者であるチェカは、最初から司法部の是認なくして誰でも収監する権限をもっていた。そして、革命の直後に、多様で曖昧に定義された範疇の人々-投機家、反革命煽動者、外国勢力の工作員等々-は「無慈悲に射殺される(shot witout mercy)」ものとする、と定める布令が発せられていた。 
 (いかなる範疇の者は「慈悲深く(mercifully)射殺される」のかは、述べられていなかった。)
 これが実際上意味したのは、地方の警察機関が全市民の生と死に関する絶対的な権力をもった、ということだ。
 集中収容所(Conceneration camps)(この言葉は現実に使われた)はレーニンとトロツキーの権威のもとで、様々のタイプの「階級敵」のために用いるべく、1918年に設置された。
 もともとは、この収容所は政治的反対者を制裁する場所として使われた。-カデット〔立憲民主党〕、メンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕、のちにはトロツキストその他の偏向主義者、神職者、従前の帝政官僚や将校たち、および資産所有階級の構成員、通常の犯罪者、労働紀律を侵害した労働者、およびあらゆる種類の頑強な反抗者たち。
 数年しか経たないうちに、この収容所は、大量の規模の奴隷労働を供給するという利点によって、ソヴィエト経済の重要な要素になった。
 異なる時期に、とくにそのときどきの「主要な危険」に関する党の選択に応じたあれこれの社会集団に対して、テロルが指令された。
 しかし、最初から、抑圧システムは絶対的に法を超越していた。そして、全ての布令と罰則集は、すでに権力を保持する者による恣意的な権力行使を正当化することに寄与するものにすぎなかった。
 見せ物裁判(show trial)は初期に、例えばエスエルや神職者たちの裁判で始まった。
 来たるべき事態を冷酷に告げたのは、Donets の石炭盆地で働く数十人の技術者たちに関する1928年5月のShakhty での裁判だった。そこでは証拠は最初から最後まで捏造されており、強要された自白を基礎にしていた。
 怠業と「経済的反革命」の咎で訴追された犠牲者たちは、体制の経済後退、組織上の失敗および一般国民の哀れな状態の責任を負う、好都合の贖罪者だった。
 11名が死刑を宣告され、多数は長期の禁固刑だった。
 この裁判は、国家による寛大な処置を期待することはできないという、全ての知識人たちに対する警告として役立った、ということになった。
 Solzhenitsyn は訴訟手続の記録を見事に分析し、ソヴィエト体制のもとでの法的諸観念の絶対的な頽廃を描いてみせた。//
 (18)犠牲者の誰もがボルシェヴィキ党員ではなかった間は、党指導者の誰かが、いずれかのときに、抑圧や明らかに偽りの裁判に対して異議を申立てたり、または妨害を試みたりした、とするいかなる証拠もない。
 反対派集団は、献身的な党活動家だった自分たちの仲間にまでテロルが及んできたとき初めて、苦情を訴え始めた。
 しかし、そのときまでには、苦情は無意味になっていた。
 警察機構は完全に、スターリンとその補助者たちの掌中にあった。そして、下部については、それが党の官僚機構に先行していた。
 しかしながら、警察が党全体を統制していた、と言うことはできない。なぜなら、スターリンは、警察のではなく党の最頂部にいた間ずっと、至高の存在として支配した。彼が党を統治したのは、まさに警察を通じて、なのだ。//
 ----
 第1節終わり。第2節へとつづく。

1865/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気③。合冊版、p.828~p.831。
 ----
 (11)Pashukanis の理論はじつにマルクスの教えに深く根ざしており、当時にルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)によって進められたマルクスの解釈と合致していた。
 他方で、Renner やカウツキーのような社会民主主義者は、法を個人間の関係を規律するための永続的な道具だと見なした。
 物象化を分析したルカチの議論によれば、法は商品交換が支配する社会での人間関係を具象化して物神崇拝的な性格のものにする形式だということは、マルクスの社会哲学から帰結する。
 社会生活が介在者のいない形態に戻るときには、人間は、抽象的な法的規則を通じて彼らの関係を管理することを強いられないだろうし、あるいはそうできすらする。
 Pashukanis が強調したように、法的な協同は、抽象的な 法的範疇へと個人を変化させる。
 従って、法は、ブルジョア社会の一側面であり、そこでは全ての個人的協同関係は具象化した形態をとり、諸個人は、非人間的な力のたんなる操り人形だ。-経済過程における交換価値のそれら、あるいは政治社会における抽象的な法的規則。
 (12)マルクス主義から同様の結論が、1920年代のもう一人の法理論家、Petr I. Stuchka によって導かれた。この人物は、法はそのようなものとして階級闘争の道具であり、ゆえに階級対立が継続する間は存在するに違いない、と主張した。
 社会主義社会では、法は敵対階級が抵抗するのを抑圧するための道具であり、階級なき社会ではそれを必要とすることはもうあり得ない。
 コミンテルンでラトヴィアを代表したStuchka は、長年の間、ソヴィエト秘密警察の幹部だった。//
 (13)党の歴史よりも政治的敏感度が低い文学やその他の分野では、国家や党指導者たちは多くの場合、体制に対する一般的な忠実性の範囲内である程度の多元主義を認めることに痛みを感じなかった。
 レーニンもトロツキーも、ブハーリンも、文学に対して拘束着(strait-jacket)を課そうとはしなかった。
 レーニンとトロツキーは古い様式のものが個人的な好みで、<アヴァン・ギャルド>文学とかプロレタリア文学(Proletkult)とかを読まなかった。
 ブハーリンは上の後者に共感を寄せたが、文学を話題にしたいくつかの記事を執筆したトロツキーは、「プロレタリアートの文化」ではなく、かつ決してそうなり得ないと、にべもなく述べた。
 トロツキーは、つぎのように論じた。プロレタリアートは、教育を受けていないために、現在ではいかなる文化も創出することができない。将来についても、社会主義社会はいかなる類の階級文化も創出しないだろう。しかし、人間の文化全体を新しいレベルにまで引き上げはするだろう。
 プロレタリアートの独裁は、輝かしい階級なき社会が始まるまでの短い過渡的な段階にすぎない。-その社会は、全ての者がアリストテレス、ゲーテ、あるいはマルクスと知的に同等になることのできる、超人たち(supermen)の社会だ。
 トロツキーの考えでは、文学様式のうちのいずれか特定のものを崇めたり、内容と関係なく創作物に対して進歩的とか反動的だとかのレッテルを貼るのは、間違いだった。
 (14)芸術や文学に様式化された型をはめたこと以降の推移は、全体主義の発展の自然な結果だった。すなわち、それは国家、党、そしてスターリンを賛美するメディアへと移行していった。
しかし、創造的なはずの知識人界、少なくともその大部分は、そのように推移するのををかなりの程度、助けた。
 多様な文学および芸術の派が競争し合っていて、体制に対する一般的な忠実性を守るという条件のもとで許容されていた間は、ほとんど誰も、好敵たちに対抗するために党の支援を依頼することなどしなかった。このことはとくに、文学界と演劇界に当てはまる。
 かくして、自分たちの考え方が独占するのを欲した文筆家等は、つぎのような毒に満ちた原理を受容し、かつ助長した。すなわち、人文や芸術のあれこれの様式を許容したり禁止したりするのは党および国家当局の権限だ、という根本的考え方を。
 ソヴィエト文化が破壊された一因は、文化界の代表者たち自身にあった。
 しかしながら、例外もあった。
 例えば、「形式主義(formalists)」派による文学批判は1920年代に盛んになり、重要な人間主義的動向として敬意が払われた。
 これは、十年間の最後には非難された。この派の若干の者たちは政治的圧力と警察による制裁に屈することを拒んだけれども、結局は沈黙を強いられなければならなかった。
 つぎのことは、記しておくに値する。このような頑強さの結果として、形式主義派は地下の動向として存在し続けた。そして、25年後のスターリン死後の部分的な緩和のときに、力強く純粋な知識人の運動だったとして、再評価された。もちろん、そうした間に、この派の指導者たちの何人かは、病気その他の理由で死んでいたのだけれども。//
 (15)1920年代は、「新しいプロレタリアート道徳」の時代でもあった。-これは計画的または自発的な多数の変化を表象する用語だったが、全てが必ずしも同一の方向にあったのではなかった。
 他方で、「ブルジョア的偏見」に対する継続的な闘いがあった。
 これは、とくにマルクス主義的というのではなく、古いロシアの革命的伝統を反映していた。
 これは例えば、家族に関する法制度の緩和に見られた。婚姻と離婚はゴム印を捺す作業となり、嫡出子と非嫡出子の差別は廃止され、堕胎に対していかなる制限も課されなくなった。
 性的自由は、革命家たちの間の決まり事だった。Alexandra Kollontay が長らく理論の問題として擁護したように、また、その時代のソヴィエトの小説で見られ得るだろうように。
 政府は、親たちの影響力を弱めて教育の国家独占を容易にすることに役立つかぎりで、このような変化に関心をもった。
 公的な宣伝活動(propaganda)によって、幼児である子どもたちについてすら、あらゆる形態の集団教育が奨励された。そして、家族の絆はしばしば、たんなるもう一つの「ブルジョア的残存物」を意味するものとされた。
 子どもたちは、彼らの両親をスパイし、両親に反対することでも知らせるように教え込まれた。そして、そのように行ったときには、褒美が与えられた。
 しかしながら、この点に関する公的な見解は、授業や軍隊のような、生活の別の側面でのように、のちには著しく変化した。
 国家が個人に対して絶対的に支配することを助けるもの以外は、革命の初期の時代に説かれた急進的で因襲打破的な考え方の中から放擲された。
 それ以来、集団教育および両親の権威を最小限度にまで減らそうという理念は支配し続けた。しかし、主導性と自立性を促進すべく立案された「進歩的な」教育方法には終わりが告げられた。
 厳格な規律が再び原則となった。この点でソヴィエトの学校がロシア帝政時代のそれと異なっていたのは、思想教化(indoctrination)の強調がきわめて増大したことだけだった。
 そのうちに、厳格な性的倫理が、好ましいものとして復活した。
 最初のスローガンはもちろん、軍隊の民主化に関係するものだった。
 トロツキーは内戦の時期に、有能な軍隊には絶対的な紀律、厳格な階層制、職業的な将校団が必要であることに十分に気づいていた。しかし、兄弟愛、平等および革命的熱情にもとづく人民の軍隊という夢は、ユートピア的なものだとすみやかに認めざるを得なかった。//
 ----
 ④へとつづく。

1864/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳のつづき。
 前回に作者・文筆家として名が挙げられていたBoris Pasternak (B・パステルナーク)はのちにその小説・ドクトル・ジバゴがノーベル文学賞を授与され(本人は辞退)、その小説は二度にわたつて映像化もされた。1965年(ラーラ役/ジュリー・クリスティ)、2002年(同/キーラ・ナイトリィ)。
 この欄で記したように(2017/05/18=No.1548)、この小説の「10月革命」以降の背景は最後の一瞬を除けばレーニン時代であり、映像化されている伝染病蔓延も戦闘も、ジバゴの友人(ラーラの公式の夫)のボルシェヴィキ(共産党)入党と悲惨な末路も、スターリンではなくて、レーニンの時代のことだ。
 レーニンが<市場経済から社会主義へ>の途を確立したと日本共産党・不破哲三が「美しく」いう1921年にあった飢餓も詳しくないが描写されている。まさにその1921年夏の<人肉喰いも見られた饑饉>の様相は、リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)の<ネップ>に関する章の中で、生々しく歴史叙述されている(すでにこの欄で試訳を紹介したー2017/04/24-25、№1515-1516)。
 今回に下に出てくるPashukanis (パシュカーニス・法の一般理論とマルクス主義には邦訳書が古くからあった(第一版/日本評論新社、1958年、第二版/日本評論社、1986年、訳・稲子恒夫)。
 ----
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気②。
合冊版、p.826~p.828。
 (5)新体制は識字能力を高め、教育を促進すべく多大の努力をした。
 学校はすみやかにイデオロギー的教化のために用いられ、教育制度全体がきわめて膨大なものになった。
 大学があちこちに設立されたが、多くは長く続かなかった。そのことは、つぎの数字が示している。
 戦争の前、ロシアには97の高等教育の場があった。1922年には、278になった。しかし、1926年に再びそのほとんど半分(138)に減った。
 同時に、「労働者学校(Workers' Faculties、rabfaki)」が創立され、労働者の高等教育を準備する速成課程を提供した。
 もともとは、ルナチャルスキのもとでのソヴィエトの文化政策は、限定された目的で満足するものだった。
 「ブルジョア」的な全ての研究者や教師を学問的諸団体から一斉に排除するのは、事実上は学習と教育を終焉させることになっただろうので、不可能だった。
 大学は最初から、アカデミーや研究所よりも強い政治的圧力に服しており、その当時でもまだ変わりはなかった。
 当然に、青年の教育に従事する団体に対しては、より緩やかな統制が行われた。
 1920年代に自然科学アカデミーは相当の範囲の自治力を維持していた。一方、大学は、早い時期にそれを失い、大学を管理する団体は教育人民委員部の代表者と労働者学校出身の党活動家で充たされていた。
 教授職は学術上の資格なしで政治的に信頼できる人物に配分され、学生の入学は「ブルジョア」の申請者、すなわち従前のインテリ層または中産階級の子女たちを排除するために、階級という規準(criteria)に従属した。
 公正で可変的なカリキュラムをもつ「リベラルな」大学という古い考え方とは反対の立場にある、「職業教育」に重点が置かれた。
 その目的は、古い意味でのインテリ層を生み出すのを阻止することだった。古い意味でのインテリ層とは、職業について熟練することだけではなくて、視野を広げ、全分野の文化を獲得し、一般的な諸論点に関する自分たち自身の意見を形成することを望む者たちのことだった。
 今日でも有効に維持されているこの原理的考え方は、初期に導入された。しかしながら、政治的圧力の強さは、多様な諸分野ごとに違っていた。
 自然科学の内容に関するかぎりは、最初は実際には強制(coercion)はなかった。
 人文社会科学の分野では、その中のイデオロギー上で敏感な分野で、すなわち、哲学、社会学、法および近現代史について、強制が最も厳しかった。
古代の世界、Byzantium、あるいは旧ロシアの歴史に関する非マルクス主義者の著作は、1920年代にはまだ出版が許されていた。//
 (6)ソヴィエト国家の中の非ロシア人に関しては、彼らの「自己決定権」はすぐに、レーニンが予告したようにたんなる一片の紙切れであることが判明していたが、彼らの母国語を媒介として、大学教育の利益を享受した。そして、ロシア化は、最初は重要な要素ではなかった。
 要するに、教育の一般的レベルは相当に劣悪なものだったけれども、新体制は、一般的に接近することの可能な学校制度を設立することに、ロシアの歴史上で初めて成功した。//
 (7)ソヴィエト権力の最初の10年間、諸大学は古いタイプのアカデミーにきわめて大きな影響を受けることとなった。いくつかの学部ですら-とくに、歴史、哲学および法の学部は、完全に「改良」されるか、閉鎖された。
 新しい教師階層を形成し、正統的な学習の伝搬を促進するため、当局は、党を基礎にした二つの研究施設を設立した。すなわち、大学での古いインテリ層の後継者を養成するための「赤色教授(Red Professors)」研究所(1921年)、そして初期の頃には、モスクワの共産主義アカデミー(Commuist Academy)。
 これら両機関はともに権力にあった時代のブハーリンによって支援され、「左翼」または「右翼」偏向主義という理由でしばしば浄化(purge)された。
これら両機関はやがて、党が学術上の全ての団体を十分に統制し、信頼できるスタッフで充足させる特別の訓練機関はもはや必要がなくなったときに、解体させられた。
 この時期にもう一つ生み出されたのはマルクス・エンゲルス研究所で、これは共産主義の歴史を研究し、マルクスとエンゲルスの諸著作の第一級の厳密な校訂版(M.E.G.A.版)を出版し始めた。
 その所長だった D. B. Ryazanov は、実際上は全ての純粋なマルクス主義知識人と同じく、1930年代にその職を解任された。そして、おそらくは粛清(purge)の犠牲者となった。彼は1938年にSaratov で自然の死を迎えたと、ある範囲の人々は言うけれども。
 (8)1920年代の主要なマルクス主義歴史家は、すぐれた学者でブハーリンの友人のMikhail N. Pokrovsky だった。
 彼は数年間、ルナチャルスキーのもとで教育人民委員代行で、赤色教授研究所の初代所長だった。
マルクス主義を用いて歴史を教え、詳細に分析すればマルクス主義の一般的議論が不可避的に確認されることを示そうとした。技術の決定的な役割と階級闘争、歴史過程での個人の副次的な重要性、全ての国家は根本的には同じ進化の過程を通り抜けるという教理。
 Pokrovsky は、ロシアの歴史を執筆し、レーニンに高く評価された。そして、大粛清の前の1932年に死ぬという好運に恵まれた。
 彼の見解はのちに不正確だとの烙印を押され、例えば歴史は過去に投影された政治にすぎないというしばしば引用された言術に見られるように、歴史科学の「客観性」を否認するものだとして非難された。
 しかしながら、彼は、「科学的な客観性」を主唱する党学者と違って、純粋な歴史家であり、良心的に証拠を分別する人物だった。
 彼とその学派に対する非難は主として、国家イデオロギーでのナショナリズムの影響の増大や、歴史に関する至高の権威としてのスターリン崇拝(cult)に関係していた。
 Pokrovskyには「愛国主義の欠如」があり、その研究はレーニンやスターリンの役割を低く評価した、とされた。
 こうした責任追及は、Pokrovsky がのちの年代には礼式(de rigueur)になったようには帝政ロシアの打倒を称賛せず、ロシア人民の美徳と一般的な優越性を称揚しなかったかぎりでは正しい(true)。//
 (9)党の歴史は当然に、全くの最初から厳格な統制に従属した。
 にもかかわらず、多年にわたって、単一の真正な見方というのはなかった。じつに1938年の<ソ連共産党史〔Short Course〕>までは、なかった。それまでは、分派闘争が継続し、各派は自分たちに最も都合のよい光に照らして党の歴史を語った。
 トロツキーは革命の見方の一つの範型を提示し、ジノヴィエフは別のそれを示した。
 多様な手引書が、出版された。もちろん全てを党の活動家や歴史家が命令のもとで書いていたけれども(例えば、A. S. Bubnov、V. I. Nevsky、N. N. Popov)、それらの内容は厳密には同一ではなかった。
 しばらくの間、最も権威ある見方だとされたのはE. Yaroslavsky のもので、1923年に最初に出版され、指導者間での権力の転移に合致するようにしばしば修正された。
 最後にはそれは、Yaroslavsky が編集者として行った集団的著作に置き換えられた。しかし、彼のそうした努力の全てにもかかわらず、「致命的な誤り」がある、すなわちスターリンを科学的に賛美していない、と非難されることとなった。
 実際、党の歴史は、他のいかなる学習分野にもないほどに、初期にすでに政治的な道具の位置をもつものへと貶められた。すなわち、最初から、党史に関する手引書〔manuals〕は、自己賞賛のそれに他ならなかった。
 それにもかかわらず、1920年代には、主としては回想録や専門雑誌への寄稿文のかたちで、この分野についての価値ある資料も公刊されていた。//
 (10)1920年代の法および国制理論に関する最もよく知られた専門家は、Yevgeny B. Pashukanis (1890-1938)だった。この人物は、多数の者たちと同様に大粛清のときに突然に死んだ。
 彼は、共産主義アカデミーでの法学研究部門の長だった。そして、その<法の一般理論とマルクス主義>(ドイツ語訳書で1929年刊)は、この時期のソヴィエト・イデオロギーの典型的なものだと見なされた。
 彼の議論は、法的規範の個別の変化にのみあるのではなかった。法それ自体の態様は、すなわち全体としての法現象は、物神主義的(fetishistic)な社会関係の産物であり、ゆえに、それの発展形態において、商業生産の時代を歴史的に表現したものだ、とした。
 法は、取引を規律する道具として生み出され、そのあとで他の類型の個人的関係へと拡張された。
 したがって、法は共産主義社会において国家や他の商品物神崇拝の産物と同じように消滅するはずだと考えるのは、マルクス主義と合致している。
 今日に力のあるソヴィエトの法は、まさにその存在自体で、階級がまだ廃棄されておらず資本主義の残存物が当然にまだ現にある、そういう過渡的な時代に我々がいることを示している。
共産主義社会に特有の法の形態のごときものは存在しない。その社会での個人的関係は、法的な範疇によって考察されることはないだろうからだ。//
 ----
 ③へとつづく。

1863/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳を行ってきいるが、1300頁に及ぶ大著で、けっこうな数の回数を費やしても、試訳をこの欄で掲載したのは(最近に紹介した全巻・第一巻の冒頭や新旧のプロローグ・エピローグを除けば)、つぎに限られる。合冊版で示す。しかも、下の①の第17章については、レーニン・唯物論と経験批判論の前の「哲学」論争の一部は割愛している。
 ①第二部(巻)第16章・第17章・第18章、p.661~p.778。…主としてレーニン。
 ②第三部(巻)第1章、p.789~p.823。…主としてスターリン。
 全体からするとまだ10%強にすぎない。
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)のスターリン時代の本格的な叙述部分の試訳をまだ紹介していないのだが(14回までで中断している)、スターリン時代の様相を知っておくためにも、L・コワコフスキの著の上の②以降を訳しておくこととした。
 もともとは、レーニン期とされる<ネップ>と「10月革命」前後の政治史にしか関心がなかったのだから、この数年の間に関心は広がり、知識・簡単な素養も増えてきたものだ、と自分のことながら感心する。そして今や、「物質」と「観念」、「認識」あるいはそれにかかわる「言葉」・「言語」・「概念」や「思想なるもの」一般にも関心は広がっている。
 ----
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)。
 第三巻p.45-47(ドイツ語版p.57-59)、合冊本p.824-826、の試訳。
 改行箇所はこれまで//で示してきたが、改行のつぎの冒頭に原著・訳書にはない番号を勝手に付すことにした(どうやら、その方が読みやすいと独断で判断したことによる。従って、(1)、(2)、…は、ここでの試訳のかぎりのものである)。
 ***
 第三巻/第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立。
 第一節・知的および政治的な雰囲気(秋月注記・独語版=一般的な知的状況)①。
  (1)述べてきたように、1921年から1929年までのネップの時期は、知的分野での自由の時代では決してなかった。
 逆に、自立した芸術、文学、哲学および人文社会科学に対する圧力は増大していた。
 にもかかわらず、こうした諸分野でものちの集団化の時代に転換点を迎えた。それは、つぎのように叙述すことができる。
 ネップ期の文筆家や芸術家は体制に対して忠誠を示すことを要求され、反ソヴィエト作品を生み出すのは許されなかった。しかし、その制限の範囲内では、多様な動向が許され、実際にそれらが存在した。
 芸術や文学に排他的な派閥はなく、実験が許され、体制やその指導者を直接に称賛することは公刊物の<必須要件(sine qua non)>ではなかった。
 哲学の分野ではマルクス主義が至高なものとして君臨したが、まだ聖典化はされていなかった。そして、何が「真正の(true)」マルクス主義であるかは決して一般的になっていなかった。
 したがって、論争は継続し、マルクス主義と適合的であるのか否かを純粋に探求しようとする信念あるマルクス主義者がいた。
 さらに加えて、とくに重要な著作を残さなかったけれども、1920年代の哲学者たちは、「正常な」知的背景をもつ者たちであり、体制には忠実だったが、自分たちの思索に対して体制がどう反応するかに関して惑わされることがなかった。//
 (2)同様にまた、数年間は、私的な出版団体が活動していた。
 非マルクス主義の文献は1918-1920年にはまだ出版されていた-例えば、Berdyayev、Frank、Lossky、Novgorodtsev およびAskoldov のそれら。そして、<Mysl i slovo>や<Mysl>のような、一つまたは二つの非マルクス主義の定期刊行物もあった。
 こうしたことは、ソヴィエト権力に対する切迫した脅威があるがゆえに抑圧を増大させることが必要だというのちの論拠には根拠がない、ということを示している。
 相対的な文化的自由の数年間は内戦の時期であり、体制に対する脅威はのちの時代よりも大きかった(そして同様に、ある程度の範囲での文化問題の緩和は1941年とその後にに生じたが、それは国家の運命が分岐点に立っていたからだ)。
 しかしながら、1920年には大学での哲学講座は弾圧され、1922年には、上で言及した者たちを含めて、非マルクス主義の哲学者たちは国外に追放された。//
 (3)芸術や文学についての1920年代の特徴は、多数の価値ある成果を生んだことだ。
 革命に共鳴した傑れた作者たちは、著作よって革命に対してある種の真正らしさを与えた。その中には、Babel, 若き日のFadeyev、Pilnyak、Mayakovski、Yesenin、Atem Vesyoly およびLeonov がいた。
 彼らが示した創造性は、革命がたんなる<クー・デタ>ではなくて本当にロシア社会にあった諸力の爆発だったという事実の証拠だ。
 しかし、決してソヴィエト体制を支持しなかったその他の作者たちもまた、当時に活動していた。例えば、Pasternak、AkhmatovaやZamyatin。
  1930代には、こうしたことは全て終わった。
 実際、この時期に革命と合致していたのか否かや「ブルジョアの生き残り」だったのか否か、そしてどちらがいったい安全だったのかを語るのは困難だ。
 文筆家のうち従前の階級の者たちは殺戮(murder)され(Babel, Pylnyak, Vesyoly)、または自殺した(Mayakovski, Yesenin)。第二の範疇に入る者のうちMandelshtam のような何人かは、労働収容所で死んだ。
 しかし、他の者たちは迫害と悲嘆の時代を生き残り(Akhmatova, Pasternak)、あるいは何とかして国外へ逃亡した(Zamyatin)。
 スターリン専制を称賛する物書きになることを選んだ者たち(Fadeyev, Sholokhov, Olesha, Gorky)は、総じて次第に彼らの才能を失っていった。//
 (4)内戦後最初の数年間は、全ての文化分野での高揚があった。
 偉大な演出家や監督の名前-Meyerhold, Pudovkin, Eisenstein-は、演劇や映画の世界史の一つになっている。
 当時の西側の流行、とくに多かれ少なかれ<アヴァン・ギャルド(avant-garde)>型の様式は熱心に、かつその結果に関する恐怖なくして、取り入れられた。
  I. D. Yelmakov のような Freud に対するソヴィエトの支持者は、心理分析の唯物論的で決定主義的な側面を強調した。
 トロツキー自身が、フロイト主義に対する好意的な関心を示した。
 行動主義に関するJ. B. Watson の著作が、ロシア語に翻訳されて出版された。
 その当時はまだ、自然科学での新しい発展に対するイデオロギー的な攻撃はなかった。
 相対性理論は、時間と空間は物質の実存形態だと主張して弁証法的唯物論の正しさを証明すると論じる論評者たちが賛同して、受容された。
 教育分野での「進歩的」傾向もまた、歓迎された。とくに、紀律と権威に対抗するものとしての「自由学校」を Dewey が強調していたことは。
 同時に、例えば、Viktor M. Shulgin は、共産主義のもとでは学校は「消滅する」だろうとの展望を述べた。
 これは実際、旧世界の制度は全て、国家も軍隊も学校も、そして民族も家族も、消滅する運命にあるとするマルクスの教理と矛盾していなかった。
 このような見方は、それ自体がいずれは永遠に消滅する運命にあった、共産主義の無邪気な<アヴァン・ギャルド> 精神を表現していた。
 支持者たちは、理性が栄光ある勝利を獲得する前に、衰えている制度と伝統、神聖と禁忌、礼拝と偶像は灰燼となって崩壊する、そのような新しい世界が実際に実現することになるだろう、と信じた。もう一つのプロメテウスのごときプロレタリアートがヒューマニズム(人間主義)の新しい時代を創出する、そういう世界だ。
 こうした因習を打破する熱情は、文学や芸術上の<アヴァン・ギャルド>派の多数の西側知識人を魅了した。伝統、学界主義(アカデミズム)、権威および過去のもの一般に対する自分たちの闘いを政治的に具現化するものを共産主義のうちに見た、フランスのシュール・レアリスト(surrrealists)のような、西側知識人たちを。
 この時代のロシアの文化的雰囲気には、全ての革命の時期には共通する若々しくて未熟な性質があった。人生は始まったばかりだ、将来は無限にある、人類はもはや歴史の制約に縛られていない、と信じていた。//

1862/松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。

 「日本共産党の大ウソ・大ペテン」の連載?にそろそろ区切りを付けて終わっておかなければならない。
 大ウソ・大ペテンとして取り上げてきたのは、大きく、つぎの二つだった。
 第一。1994年党大会の直前まで、ソ連は「社会主義」国家だった(「現存」社会主義国という言い方もあった)と党の文献上も語ってきたにもかかわらず、さらには中国共産党がソ連を「社会帝国主義」国家だとして社会主義陣営ではないと主張していたときにいや「社会主義」国家で、ソ連を含む<社会主義の復元力>を信じる、等と主張していたにもかかわらず、1991年夏にソ連共産党が消滅し、同年1991年12月にソ連が解体したことについて、1994年党大会以降は、日本共産党は、ソ連はスターリンによって社会主義への途から踏み外した(ソ連はそれ以降社会主義国ではなかった)、そうしたソ連の大国主義・覇権主義、スターリン等と日本共産党は「正しく」闘ってきた、とのうのうと主張するという、大ウソ・大ペテン。
 第二。レーニンはネップ政策導入の時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という「普遍的」路線を明らかなものとして確立した(それをスターリンが継承しないで転落した)、という大ウソ・大ペテン。
 この第二について、不破哲三が画期的なものとして取り上げるレーニンの論文では、上のことは全く明らかではない、読み方がおかしいのではないか、というのが秋月に最後に残されている記述だ。
 ***
 その前に、つぎの書物に言及する。日本共産党の幹部以外では、-レーニン幻想をなお抱き、レーニンとスターリンを切り離してレーニンだけは擁護しようとする論者は多いが-ネップ期における<市場経済を通じて社会主義へ>の路線確立なるものを評価し擁護しているとみられる、稀有の文献だ。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。
 幹部というほどではない時期のもののようだが、この人物はかつて日本共産党(中央委員会?)政策委員会の長(・責任者)だったことをのちに知った。
 この本の「あとがき」はなかなか面白いので、紹介したくなって、今回の投稿になった。一行ごとにここでは改行する。
 社会主義について種々の否定的な要素が指摘されるが、としつつ、松竹はこう記す。
 「けれども、社会主義というものは、ほんらい、ソ連や中国などとは違うのではないかという思いは、〔1970年代の半ば以降〕少なくない若者が共通して感じていた。
 マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、そこでは人びとはそれなりに充足し、余暇を楽しんでいるはずだったのだから」。//
 レーニンについても「行き過ぎや誤りはあっただろうが、社会主義らしさを感じさせる成果を挙げたことは、率直に評価すべきだと感じてきた」。
 例えば、第一次大戦からの離脱、周辺諸国の領土返還、労働時間等の規制。
 「だから、いつか社会主義が輝きを取り戻す時代が来るのではないか、いやそうしなければならないと、私は心から思ってきたのである。それはいまも変わらない」。
 「それまで社会主義の立場にたっていた研究者の動向」は残念だ。
 「いまこそ、研究者は、社会主義の可能性を大胆に提示すべき時ではないのだろうか」。
 この本では「素人なりに取り組んだ」。/「社会主義の再生を心から願う」。
 以上、紹介・要約。
 2009年に、1955年生まれの54歳になる人物が、このようなことを書いていた。
 なかなか興味深く、面白いだろう。
 いったん社会主義(・共産主義)の虜になった、または<囚われてしまった>者の発想というのは、社会主義(・共産主義)をめぐる現実も理論動向も、もはや冷静には見ることができなくなるのだろう。
 何と言っても、「マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、…そこでは人びとはそれなりに充足し、……はずだったのだから」とか、「社会主義というものは、ほんらい、…」とかのように、「はずだ」、「ほんらいは」とかを持ち出すと何とでも言えるだろう。
 「本来」、こうなる「はずだ」というのは、いったいどういう意識なのだろうか。何ゆえにそんな規範論あるいは理念論が「現実に」なるという信念を持ち得るのだろうか、不思議だ。社会主義(・共産主義)というユートピアの到来を信じる強い「思い込み」があるのだろう。
 松竹伸幸、現在は、かもがわ書房の編集責任らしい。「文学部」出身ではなかった。

1861/池田信夫・ブログマガジン10月22日など。

 「進化」に関する池田信夫の書き込みが続いている。
 2018年10月16日付(のち同・ブログマガジン10月22日)①「人類は『集団主義』で生き残った」10月20日付(ブログマガジン同)「『無駄な進化』には意味があるのか」もそうだ。
 ①の最初にこうある。「集団が滅びると個体も滅びるので、脳には集団主義の感情が遺伝的に組み込まれている」。
 一瞥後は「集団主義」の<遺伝子化>ということに違和感があったが、きちんと読むと、「集団が滅びると個体も滅びるので」とあって、そもそも「個体」を守るという(第一次的?)本能=個体の生存本能のために「集団主義」感情も生まれる(遺伝に組み込まれている)というのだから、納得がいく。
 生物・動物の「進化」と人間または人間社会の「進化」または「進歩」の関連にはもともと関心があるので興味も湧く。そして、ときに雑談ふうに?池田が人間または社会にも言及している部分が面白い。例えば、「集団主義」にかかわって、こう語る。
 「だから猿が…ように、人間はいつも無意味な噂話をしている。その目的は話の中身ではなく、互いが仲間だと確認することなのだ」。
 この部分は、日本人のある範囲の者たちがが「左翼」=容共派と「保守」らしき派を作って、お互いの<身内で>、仲間どおしでは理解容易な言語と論理を使って「互いが仲間だと確認」し合っている様相を皮肉るものでもあるように思える。
 日本共産党その他の特定の「政治」団体・組織からすると、<味方か敵か>、<あっちかコッチか>あるいは<外の者か内の者か>という、「仲間」か否かの確認はきわめて重要なことなのだ、きっと。
 もともとは150人程度が適正な「集団」だったとされるが、池田の言うように、人間は、あるいはヒトの脳はそれ以上の数の仲間「集団」を作ってきた。 
 つぎに、上の②では、「無駄な進化」にも意味はあるのではないか旨が、小さなクモを素材にして語られている(ごく大まかに言って)。
 これは「適者生存」といいう「ダーウィン以来の進化論の原理」がそのままあてはまらない場合があることを意味する。
 そして池田は、人間または社会では「文化的な進化」は「遺伝的進化」と異なり、「脳の機能のほとんどは生存競争の中では無駄だが、意味があるのだ」と書いて締める。
 「近代社会では、かつては無駄だった論理的な思考力のすぐれた個体がエリートになった」という一文は、原始時代はともあれ古代でも「論理的な思考力のすぐれた個体」は集団?として必要だっただろうし、「エリート」という言葉の意味も問題にはなる。
 但し、全体の趣旨は理解できる。
 上にいう「生存競争」というのは、私が使ったことのある<食って生きていく>という本能を充たすための行動にほぼ近いだろう。
 だが、人間は、<食って生きていく>ことに最低限度は困らなくなると、それ以外の何かを求める<本能>的なものを有していると思われる。つまり、<より快適な、より愉快な生活>、あるいは<顕名意欲=名誉欲を充たし維持したいという意識> などだ。
 なぜこういったものが生じるかは、とくに後者については、なお検討が必要だとも思われる。しかし、いずれにせよ、現代の多くの人々にとって(つまり地球上にも日本にもいる「生存」自体に窮する人々を除いて)、「文化的な進化」を伴う「脳の機能」は決して無駄ではなく「意味」があり「有用」なものであるに違いない。
 さらに第三に、2018年10月28日付(のち同・ブログマガジン10月29日)③「血縁淘汰から『マルチレベル淘汰』へ」もある。これは、池田がすでに取り上げたことのある(そして私も触れたことのある)O・ウィルソンの本に関連する文章だ。
 ここで「血縁淘汰」というのは、私なりに理解すると、「血縁者=親子・兄弟姉妹等」の利益=「遺伝子を共有している確率(血縁度)」を優先し、「利他的な行動」を進化させて「個体」の利益を犠牲にするような「淘汰」=「自然選択」のことだろう。そして、これは上述と関連させると、「集団主義」=「集団」利益の優先、ということになるはずだ。
 O・ウィルソンはこれを「マルチレベル淘汰」と称して「個体レベル淘汰」と区別しているらしい。
 ハチのような場合はともかく、ヒト・人間の場合は、これはどのような示唆を生むのだろうか。
 池田信夫によると、上の後者につながる「個人的な利己心」を抑制して前者につながる「集団的な利他心」を強めるのが宗教・道徳で、遺伝しないが(ドーキンスという学者のいう)「ミーム(文化的遺伝子)」として継承される、という。池田によると「国家」そのものも、「一神教」も、どうもそのようなものらしい(なお、「戦争を抑止するシステム」としての「国家」という叙述には、日本の<左翼>・共産主義者はきっと驚くだろう)。
 興味深い叙述だ。秋月が関心をもつのはさらにその先で、宗教、道徳、「国家」観、「世界」観(途中のどこかに「人生」観を含めてもよい)に関する考え方・理解が人によって、また時代によって、帰属する「国家」によって様々であるのは、いったい何を原因としているのか、だ。
 遺伝子によらないとすれば、簡単に「生育環境」とか「社会」とか「教育」を持ち出す人もいるかもしれない。
 しかし、「社会」・「教育」(内容・制度)等そのものが「国家」や憲法を含む「法」(の内容・制度)によって大きくは包まれ、多少とも制約を受けていることを否定することはできない。
 ところでそもそも、池田信夫は、どうして「進化」あるいは「淘汰」について強い関心を示すのだろうか?
 ふと思いついたことがある。別に当たっている必要もない。
 マルクス(・エンゲルス)もダーウィンもおよそ19世紀半ばから後半の人物で、ある意味において、彼らの論は「近代」の「科学」の所産だったかに見える。
 必然的な「淘汰」ではなくて「偶然」だ、というような池田の文章も読んだことがあるような気がする(探し出す手間はかけない)。
 自然・生物界も、ヒトも、社会も「必然的な発展」などはしないのではないか。少なくとも、大きな例外が、存分にあるのではないか。
 現在ある社会の姿は「それなりの理由・根拠」があって生まれているもので、将来にさらに「良くなる」または「進歩する」だろう、というのは、-そもそもは「良くなる」とか「進歩」の意味が問題なのだが-今を生きる人間たちが抱きたい<願望>にすぎないのではないか。
 こうした疑問を私とともに共有しているかもしれず、そうであるとすると、これは、マルクス主義あるいは「史的唯物論」のいう<歴史が発展する「法則」>の存在を根本的に批判している、ということになる。

1860/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)②。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)
 この本の、14のマルクスの部分、15のマルクス・レーニン・スターリンの部分をしっかりと読んで、この人物の基本的な情念・前提命題と「論理」らしきものを分析してみたい。
 前提として、上に関する部分の注記に文献名が挙げられているので、以下にそのままその文献名だけを列挙する。
 執筆時に参照したのだろうから、この人物にはすでにこれら以外の諸文献を通じた「知識」や「感情」があるに違いないが、それでも「頭の中」をある程度は覗くことができるだろう。
 注記は元来は連番なので、ここでは14の(222)を(01)とし、15の(239)をあらためて(01)として紹介する。頁数や叙述内容は記載しない。前掲書と同じ趣旨の記載の場合も、あらためて同一文献名を記した。
 ***
 14注
 (01) 藤田勇「社会の発展法則と法」渡辺洋三ほか・現代法の学び方(岩波新書、1969)。林直道・史的唯物論と経済学/下(大月書店、1971)。
 (02)マルクス・経済学批判-マルクス・エンゲルス全集37巻(大月書店)。
 15注
 (01) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (02) レーニン・国家と革命(大月書店、国民文庫)。
 (03) マルクス・ゴータ綱領批判-マルクス・エンゲルス全集19巻(大月書店)。
 (04) 不破哲三・マルクスの未来社会論(新日本出版社、2004)。
 (05) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (06) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (07) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (08) 渓内謙・現代社会主義の省察(岩波書店、1978)。
 (09) 大江泰一郎・ロシア・社会主義・法文化(日本評論社、1992)。鳥山成人・ロシア・東欧の国家と社会(恒文堂、1985)。浅野明「君主と貴族と社会統合」小倉欣一編・近世ヨーロッパの東と西(山川出版社、2004)。
 (10) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (11) 丸山真男・現代政治の思想と行動(未来社、1964)。
 (12) 山口定・ファシズム(岩波現代文庫、2006)。
 以上。
 不破哲三はご存知、日本共産党の幹部(元最高指導者)、藤田勇・渡辺洋三は、前回に言及した二つの講座もの全集(日本評論社刊行)の編者、林直道はマルクス主義経済学者で日本共産党員と推察される人物(元大阪市立大学)、渓内謙は今日でも基本的な<レーニン幻想>を崩していない人物(元東京大学)。
 これらの諸文献も秋月も参照しながら、「読解」してみる。結論はすでに出ているし、この人物の主観的な「願望」が空想的社会主義のレベルまで戻るようなものであることも分かる。歴史的(史的)唯物論なるものを「観念的」・「主意的」に理解した、結局は政治・世俗優先の<日本の戦後教育の優等生>の一人が行った「作業」であることが判るだろう。
 ***
 なお、藤田勇(1925-)に、上と同年刊行の、つぎの著がある。第3段階とは1960年代~1990年前後を言うとされる。
 藤田勇・自由・民主主義と社会主義1917-1991-社会主義史の第2段階とその第3段階への移行(桜井書店、2007年10月)。
 ネップ期に関する叙述もあるが、日本の「共産主義政党」の基調の範囲内で行ってきた「自由」な研究の末路を見る想いもする。

1859/井沢元彦・逆説の日本史23-廃仏毀釈。

 井沢元彦・逆説の日本史23/琉球処分と廃仏毀釈の謎(小学館、2017)。
 上の本の、とくにp.251以下。
 ***
 日本本土で先の大戦中に空襲を受けて被災した都市では、原子爆弾を投下された広島・長崎ではもちろん、その被災区域にあった神社・寺院はおそらく全てまたはほとんどが、火災・燃焼等によって破壊されたのではないかと思われる。もちろん、住職や神職者が存在しないような小さな祠や地蔵仏も同様だ。
 かつて福山市内の芦田川の堤防上の道を歩いていて、右岸(上流から見て左か右を分ける)のすぐ下に「地神」と大きく彫った石柱がたぶん三つほどほぼ同間隔で連続して並んで立っているのに気づいた。
 「地神」というのは珍しいと思ったのだが、神道系で、かつ戦災にも遭うことなく、かつてのまま立って残っていたのだろう。
 神社や仏閣あるいは上に触れたような小さな鳥居と祠・地蔵仏などで現在に残っていないのは戦争による被害がほとんどで、再建されたのは戦後だろうと考えてきた。もう70年以上経つので、戦前からのものか戦後の再建なのかは(しろうとには)不分明になっているものもあるに違いない。
 ところが、上の井沢元彦の本を読んで、明治期当初の「廃仏毀釈」による仏教寺院の破壊や消滅も相当にあることを(そういえばという感じで)想起することができた。
 井沢によると、いわゆる「廃仏毀釈」による影響は、つぎのとおりだ。
 ①鹿児島県には、国宝等クラスの寺院・仏像が残っていない。p.273。
 ②薩摩藩島津家の菩提寺だった「福昌寺」は「今は跡形も無い」。p.273-4。
 ③安徳天皇を葬って祀った下関阿弥陀寺は廃寺となり、新たに赤間神宮が建立された。p.272。
 ④奈良県天理市にあった「内山永久寺」は比叡山延暦寺・東叡山寛永寺とともに元号を名とする大寺院だったし、近くの石上神宮の神宮寺でもあったが、「今は跡形も無い」。「現在は本体の破片すら残っていない。徹底的に破壊されたに違いない」。幸いというべきか、現在の石上神宮の摂社の一つ建物は、かつてこの永久寺の鎮守社(寺院境内の神社)のものだった。p.277-8。
 ⑤現在の奈良公園のほとんどは興福寺の境内だった。(井沢は明記していないが、いわゆる明治維新期当初に新政府が「接収」または補償金のない「収用・収奪」をして奈良県庁・裁判所・師範学校等にしたものと見える。最近に再興・再建された「中金堂」の区画は、かつては県庁舎の一部の敷地だったようだ。西国観音札所の納経は「南円堂」)。p.279以下。
 他にもあるが、割愛する。
 (上の③については、この欄で櫻井よしこの「無知」を指摘する中で触れたことがある。②に対して、萩藩の毛利氏の菩提寺二つは現在もきちんと残っている。)
 井沢はまた、この政策の背景にある新政府の<宗教政策>およびその前提としての各「宗教」の内容や実態についても説き及んでいるが、逐一の紹介は避ける。
 ともあれ、考えさせられるのは、明治維新(あるいは一般的には「政治変革」)による宗教政策の変化とそれによる「現実の宗教施設・宗教運動」への影響の大きさ、というものだ。
 神道・神社と仏教・寺院および神道政治連盟(<日本会議)と全日本仏教会の違いというのも(後者は首相靖国公式参拝に組織として反対している)、少なくとも明治維新とその「廃仏毀釈」政策にまで遡らないと、理解することが困難であることも判明してくる。
 追記すれば、井沢元彦は、のちに「明治維新」の主役となった者たちの宗教は<神道+朱子学>であって、<神仏混淆>を否定して神道の純粋性を守るために仏教と切り離すことを意図した、とする(正確な引用ではない)。
 池田信夫によると福沢諭吉は「儒学」を捨てて「洋学」に向かった、というのだが、福沢諭吉は「明治維新の元勲たち」ではなく、明治維新より後の時代での彼に関する叙述だから、少なくとも明らかに矛盾しているとはいえないようだ。
 

1858/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)①。

 マルクス主義法学講座(日本評論社、全8巻、1976-1980)の編者5名のうちの一人、講座・革命と法(日本評論社、全3巻、1989-1994)の編者3名のうちの一人で、それぞれに文章を複数回掲載していた者に、渡辺洋三(1921-2006)という人物がいた。元東京大学社会科学研究所教授。
 その渡辺洋三は1996年に、つぎの岩波新書を刊行していた。
 渡辺洋三・日本をどう変えていくのか(岩波書店/岩波新書、1996)。
 自社さ連立政権の頃で、この年に首相は村山富市から橋本龍太郎に替わった。
すでにこの欄で多少は触れたことだが(№0041)、この書物の最後で当時の「政局」との関連で憲法問題を論じ、小沢一郎批判から始めて、自民党・新進党・(新)社会民主党に対して批判的に言及し、その中で公明党や「さきがけ」にも触れている。
 ところが何と、日本共産党には何ら言及せず、「日本共産党」または「共産党」という言葉をいっさい出していない(p.234~p.240)。
 その直後に渡辺は「日本社会の改革目標」を平和大国・生活大国・人権大国・民主主義大国とまとめるのだが(p.241-2)、上のことからして、こうした主張は日本共産党員である自らの主張であり、かつまた同党の主張・路線と一致していることを「問わず語り」に暴露している、と言えよう。
 真偽は定かではないが、渡辺洋三のことを日本共産党の「大学関係」責任者だと述べていた人もいた。
 さて、笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)。
 この書物にも、たぶん一度触れた(№1408)。
 あらためてこの本を捲ってみると、目次(構成内容)からしてじつに興味深い。
 最終の「部」である「近代の変容・現代」のうち、14(章)以降の構成・叙述内容を「目次」から紹介してみよう。以下、省略部分はあるが、それ以外は忠実な再現だ。
 「14」の表題は<「近代の疎外」との対峙>、「15」のそれは<社会主義>、「16」のそれは<近時の主な法思想>(17はここでは略す)。
 14-1/マルクス 14-1-1 マルクスの思想形成、14-1-2 史的唯物論の素描
 14-2/自由主義と民主主義の再結合へ (1) ミル、(2) ラスキ
 14-3/ヴェーバー
 14-4/フロム 14-4-1 学説史的位置、14-4-2 現代社会論
 14-5/フーコと「紀律化」 14-5-1 フーコの議論、14-5-2 私見
 15-1/社会主義思想の形成
 15-2/スターリニズム 15-2-1 スターリニズムの問題点、15-2-2 スターリニズムの要因、15-2-3 スターリニズム批判とその後
 15-3/まとめ
 16-1/価値相対主義、16-2/「実践哲学の復興」、16-3/ポストモダニズム  
 以上
 ここですでに明らかなのは、マルクスに論及があり、かつスターリニズムについての詳細らしき叙述はあるが、「レーニン」という語が全く出てこないことだ。
 これはこの人物の<政治的立場>をすでに「問わず語りに」示唆しているのではないだろうか。
 もっとも、さらに下の項を見ると、「15-2-2 スターリニズムの要因」の中の(3) として「マルクス・レーニンらの問題点」が叙述されている。
 そこではマルクス(・エンゲルス)とレーニンに関しては構成上は「一括して」叙述されており、「レーニン」という小見出し(黒ゴチ)がある部分は、15-2-2-3-2-2のところに位置する(正確な又は的確な言葉を知らないが、「ディレクトリ」の階層的に示すと「レーニン」はここに位置する)。
 内容には別途立ち入るとして、このように「マルクス・レーニン」と「スターリン(スターリニズム)」を明瞭に区分していること、レーニンをマルクス(・エンゲルス)と「一括して」、正確にはおそらく「引きつけて」理解して同様にレーニンとスターリンとを切り離していること、これらは、この人のこの書物の時点での、少なくとも過去の一定の時点での<政治的立場(・心情)>を示唆しているように感じられる。
 全集・世界の大思想(河出書房)の一つの巻を「レーニン」が占めていた(1965年)。「法思想」と「思想」は同じではないのだが、この笹倉秀夫は、レーニンを大々的には、あるいは正面からは論述の対象にはしたくないのではなかろうか。

1857/安倍晋三・改憲姿勢とレーニン・ロシア革命。

 安倍晋三首相・自民党総裁は「改憲」に積極的な姿勢をしばしば示しているようだ。
 しかし、彼が自民党単独の賛成で国民投票にかけることができ、本当に「改憲」できると考えているかきわめて疑わしく、<見せかけ>あるいは<そのふり>だと思われる。
 来年の参院選の結果にも左右され、そもそも自民党で文案がまとまるか否かにも不透明さが残っている。
 党の役員人事が<改憲布陣>などと報道され、論評されることもあるが、かりに人物的にそのような印象があったとしても、これまた<見せかけ>あるいは<そのふり>の可能性が高い。
 なぜそのような「ふり」をするのか。
 言うまでもない。<改憲>=<保守>、<護憲>=<左翼・革新>という根深い観念・イメージがあるからだ。
 そして、安倍晋三と同内閣・同自民党の支持者、かつ<堅い>支持者とされる日本会議等々のいわゆる<堅い保守層>からすると、「改憲」と主張しているかぎり、断固として支持しよう、支持しなければならない、と思いたくなるからだ。
 その際、現九条二項を残したままでの「自衛隊」憲法明記がどういう意味をもつのか、それによって「自衛隊」が本当に合憲なものになるのか、それに弊害はないのか、とったことを考えはしない。あるいは、理解できる者たちも、あえて口を閉ざしている。
 現九条二項の削除が本来は望ましいが、とりあえず「自衛隊」の合憲化だけでもよい、という程度のことしか多くの上記支持者たちは考えていない。
 こういう「現実的」?案を案出した者たちの責任はすこぶる重い。
 ---
 <見せかけ>・<そのふり>で想起するのは、1917年4月・ロシア帰還前後のレーニンの主張だ。
 レーニンは、臨時政府打倒を叫び、「全ての権力をソヴィエトへ!」と主張した。
 しかし、この政治的人物は、この時点で臨時政府を打倒し、そり権力を全てソヴィエトに移すことなど不可能だと知っていたはずだ。
 もともと、臨時政府自体が<二重権力>と言われるように実質的には半分はソヴィエトによって支えられていたが、そのソヴィエトの中で、レーニン率いるボルシェヴィキ(翌年3月に正式には共産党に改称)は少数派であって、本当に「全ての権力をソヴィエトへ!」が実現されたとかりにしても、その主導権をレーニンらが掌握することはできなかった。
 レーニンの上の主張は、実現不可能を見越した上での、いわばスローガン、プロパガンダにすぎなかったのだ。何のためか? 他のソヴィエト構成諸党との<違い>を際立たせ、最も先鋭的な層の支持を獲得しておくためだ。
 さて、その後7月事件を経てケレンスキー首相による継戦努力が不首尾だったりして臨時政府・ソヴィエトに対する不信が高まり、レーニンのボルシェヴィキがソヴィエト内での一時的にせよ多数派(相対的な第一会派)を握る、という状態が生じる。
 しかし、このとき、レーニンは<「全ての権力をソヴィエトへ!」とはもう強調しない。
 この辺りは歴史研究者に分かれがあるかもしれないが、トロツキー(首都のソヴィエト執行委員会が設立した軍事委員会の委員長)は、のちのボルシェヴィキ中心政権がソヴィエト・システムの中から生まれたように(少なくとも擬制するために)努力したとされる。
 つまり、ソヴィエト全国総会-同執行委員会-新「革命政権」(1917年10月)という流れで、新政権をソヴィエトも正当化した、という「かたち」を辛うじて取るようにしたらしい。
 しかし、上もすでに「擬制」であって、レーニンは、<全ソヴィエト派>が生み出した権力、あるいは<全ソヴィエト派が権力を分有する>政権を成立させようとは全くしなかった、と推察される(しろうとの秋月だけの解釈ではない)。
 「全ての権力をソヴィエトへ!」ではなく、「全ての権力を自分たち(=レーニン・ボルシェヴィキへ)!」が本音だったわけだ。
 つまり、ソヴィエト内の各派・各党がそれぞれの勢力比に応じて内閣・閣僚を分け合うような政権を作るつもりはなかった。
 そして、じつに際どく、ソヴィエト全国大会が開催中に!新政権が発足したことにし、おそらくは事実上または結果としてソヴィエト大会に「追認」させた、または「事後報告の了解」を獲得した。あるいは、獲得した「ふり」をした。
  レーニンはもはや「全ての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを捨てていて、それを守るつもりなどなかった。そして、既成事実の産出こそ、この人物の強い意思だった。
 たしかに「左翼エスエル(社会革命党左派)」も最初は数人だけ閣僚(=人民委員会議委員)の一部になっているが、エスエル本体の主要メンバーは入っておらず、エスエルとともにソヴィエトの有力構成派だったメンシェヴィキも加わっていない。
 この実質的一党独占政権は、半年後には正式に?一党独裁政権へと(まだ1918年夏だ!)へと変化し、形骸化していた「ソヴィエト」はさらに形骸化し、セレモニーの引き立て役になる。
 しかしながら、「ソヴィエト」による正当化という「かたち」はぎりぎり維持したかったのだろう、レーニンたちはロシア以外の諸民族・「国家」を統合した連邦国家に、「ソヴィエト」という地名でも民族でもない、本来はただの普通名詞だった言葉を冠した(強いて訳せば、<ロシア的評議会式の~>だろう)。
 ---
 以上要するに、政治家の発言の逐一を、そのまま本気であると、その内容を本当に実現したがっており、かつ実現できると考えている、などと理解してはいけない。
 政治家は、平気でウソをつく(政治家ばかりではないが)。日本共産党もまた、目的のためならば「何とでも言う」。
 自民党を念頭におくと、政治家は、例えば選挙で当選するためには、大臣にしてもらうためには、あるいは政権を何としてでも維持するためには、平気でウソをつく。
 ウソという言葉が厳しすぎるとすれば、平気で「そのふり」をし、何らかの「見せかけ」の姿勢を示そうとする
 以上は、安倍晋三を批判するために書いたものではない。
 この人は、ずいぶんと現実的になり、政治家として「したたかに」なったものだと感心し、ある意味では敬服している。ただの<口舌の徒>にすぎないマスコミ・ジャーナリストや評論家類に比べて、人間という点ではあるいはその職責上の役割という点でははるかに上かもしれない。
 もちろん、こう書いたからといって、安倍晋三を100%支持して「盲従」しているわけではない。

1856/総特集・木村敏/臨床哲学のゆくえ(現代思想2016年11月臨時増刊)。

 現代思想2016年11月臨時増刊号(青土社)-総特集・木村敏/臨床哲学のゆくえ。
 上のうち、以下を読み終えている。
 内海健=檜垣立哉(対談)「存在・時間・生命-木村敏との対話」、p.41-63。
 深尾憲二朗「激烈な非難と無際限の楽観-木村敏と科学」、p.64-81。
 ***
 日本共産党員や日本のマルクス主義者ないし共産主義者が「社会科学」という概念をマルクス主義と同義のものだとしたり、マルクス主義を「科学」的社会主義だなどと称しているので、「社会科学」という語を用いるのは抵抗があって、社会系学問分野とか表現したこともあった。
 かりにそうした限定的な意味でなくとも、「科学」の一つである社会科学と「宗教」は相容れないもので、宗教的感覚を排除することこそが(社会)科学だという意識・考え方は相当に一般的だろう。
 しかし、自然科学はかりに別論としても、社会科学もまた観念・概念の論理的体系構造をもつとすれば、宗教的想念や宗教的「教義大系」と相当に近いものだ、というのが近年の強い「想念」になっている。
 そもそもが宗教と「学問」とが(自然・人間・社会のいずれにも関連して)渾然一体となっていた時代は日本にも必ずや存在したと考えられる。そして、究極的には分離し難いことはおそらく、今日でも同じだろう。
 そうだとすれば、例えば日本共産党は日本「共産教」の信者組織だと表現するのは、むしろ宗教に対して失礼であって、「宗教」の本質を理解していないことになるだろう。
 おそらくは日本会議を典型とするのかもしれない日本の原理的・特定「保守」派を<愛国カルト>と称している「ネトサヨ」ブログ欄もあるようだが、そういう表現の仕方をすれば日本共産党は日本の代表的な<反・反共カルト>組織であり、現在の同党は1961年以降はより正確には<宮本・不破カルト>という信仰団体になるだろう。1994年以降は、ひょっとすれば宮本顕治は後景に退いて、<不破哲三カルト>かもしれない(あるいは、それほどまでの教義があるわけではない、ただの世俗的政治団体だという見方も、内部にすらあるかもしれない)。
 秋月がもともと日本の神道・神社や日本の仏教・寺院に素朴な関心と素朴な愛着を感じてきたことはこの欄で示してきているとおりで、社会や歴史とともに日本の「宗教」について語ることに何ら違和感はない。むしろ、例えば櫻井よしこの日本の宗教に関する「無知」と「無教養」に驚いてしまったほどだ。
 社会系学問も(人文系はもちろん)宗教的な議論も「観念」や「論理」を用いるのだとすると、さらにそもそも、ヒトまたは人間の「観念」・「論理」等に関する、又はそれらを用いた<精神>活動とはいったい何なのか、にも関心は移っていく。
 そうすると関心は<精神>的営為を行うヒト・人間の<いのち>にも波及するのであり、<生命>に関する福岡伸一の<動的平衡>の連作がいう、<絶え間なく変化しながら一定のまとまりを維持する平衡体>(これは福岡の文章の正確な引用ではない)ということの趣旨も何となくは理解できる。彼によると、<絶対矛盾的自己統一>という西田幾多郎哲学はこれと矛盾せず、よく似ているのだそうだ。
 ともあれ、<精神>活動が人間の(対外的表現の基礎となる観念・言葉の産出作用それ自体は)「脳内」活動であることに異論はないと思われるが、文筆・評論的な活動をしている主としては<文系の>人々は、得てして、このことを忘れがちだろう。
 ***
 「精神分析」とか「精神病理学」とかの言葉自体は従前から知っており、関心はあったが、まともに読む機会は少なかった。 
 上の雑誌を手にして一部読んで相当に面白いのは、ある程度は予期し得たことかもしれないが、文系とされる「哲学」と理系・自然科学系とされる「精神医学」との間の垣根は存在しないか、両者はほとんど接近している、ということだ。
 上の①の対談の二人は、文系の「哲学」専攻者・研究者(檜垣)と自然系・医学系の「精神医学/精神病理学」専攻者・研究者(内海)だ。木村敏という先学者に関して語り合って、会話・対談が成り立っていること自体が、疎遠だった者からすると相当に興味深い。
 内海は比較的最初の方で、精神医学者で「臨床哲学者」ともされる木村敏(京都大学医学部元教授)について、木村の「分裂病論が斬新だったのは、分裂病を自己の自己性に関わる病態として捉えたこと」だと述べているが(以下は省略)、<自己の自己性>とは「哲学」の問題でもあるはずだ。
 また、逐一言及するのはやめるが、じつに多くの、「哲学」、「社会・政治思想」の論者または学者だとされている者たちの名が-最多はフランスのそれらのようだ-出てくる。木村自体がハイデガーや西田幾多郎等々の読者かつ研究者だった、という。
 無知な読者として印象に残るのは、病態としての<狂気>もまた、各人の「自己」と無関係なはずはない社会(・国家)の病気の一つで(あくまでも可能性として)あり得る、そして<狂気>(これが精神「障害」なのか精神「疾患」なのかという問題もある)の認定もまた一つの、人間世界の、その意味で社会的な判断作業だ、という示唆であり、あるいはそのことを前提にして対談がなされている、ということだろう。医学または自然科学上の議論を等閑視してはいけない。
 上の②もまた、簡単な要約はできない。木村敏には『精神医学から臨床哲学へ』という書物があるようだが、これはさらに簡略化すれば<医学から哲学へ>になる。
 印象に残った一つは、「脳死」判断に関する木村の意見だ。簡単にしか紹介されていないが、「死」の認定方法・基準自体が<社会性>を帯びる、という当たり前のことかもしれないことを感じさせる。
 「死」を厳密にどう理解するかは、ヒト・人間の究極的な「哲学」的問題に対処することかもしれない。木村敏は「脳死」基準導入に対して、学部教授会で「ほとんど一人で反対した」、という。つぎの文章が紹介されている(一部引用)。
 「純粋に医学的・自然科学的な理論」によって「個体の死」が定義され、認定されたあとで、この「理論上の死体から生きた臓器を摘出するという人為的な作為によって実際の死が強制的にひきおこされるというのは、家族の共同体にとって殺人と同様の暴力的で不自然な事態ではないのだろうか」。
 「自然な死」と「不自然な死」。「自然には死ねなくなっている現代日本の高齢化社会…」。さて。

 

1855/「ポピュリズム」考-神谷匠蔵の一文から②。

 ポピュリズムとは字義からして、人種とか民族には関係がないと漠然と感じてきた。
 神谷匠蔵が2017年に「人種差別」や「排外主義」をも要素とするものだと「左翼」が意味を転倒させたとして嘆き又は批判しているのは、アメリカや欧州(とくにルペンのフランス)を意識してのことだろう。
 おそらく1年以上前にドイツに関する日本での報道特集的なものを見ていたら、ドイツ・メルケルの難民政策に批判的な活動をしている中年男性ドイツ国民を取り上げていて、同時に、その国民の話しかけに対して‘Schweine!’と吐き捨てた若い夫婦らしき二人のうちの男性も映像に捉えていた。
 邦訳されていなかったが、Schweine!とはたぶん、<ブタ野郎!>とかの意味だ。
 ドイツ政府の難民政策の見直し要求・批判をする者を侮蔑する国民も、一方にはいる、ということだ。
 欧米でのポピュリズムなるものが、各国での「難民」政策にかかわっており、したがってそれに関する議論が人種・民族に関連している、ということなのだろう。
 アメリカのトランプ(大統領)やフランスのルペン(この当時に大統領候補)を批判した(している)「左翼」の側が、この人たちを支持し、難民政策の変更または移入制限を求める人々や運動をポピュリズム(・ポピュリスト)とか称したのだろう。
 関連して思い出すのは、NHK等の日本のテレビ・メディアが、フランス・ルペンやドイツの政党・AfD(ドイツのための選択肢)を明瞭に「極右」と表現していたことだ。
 フランス社会党の候補が大統領決戦投票の二人の中に存在しなかったという状況で、二人の候補の一人を「極右」と形容したのは、フランス国民に対して失礼だっただろう。
 共・社・中道左派・中道右派そして「極右」という時代のままの、すでに古くさい図式に日本のメディア関係者は嵌まったままだと感じたものだ。しかも、日本にこそある、日本的な外国人移民・労働政策への真摯な検討の姿勢を新聞も含めた日本のメディアにはあまり感じないような状態であったにもかかわらず。
 ***
 日本でポピュリズムという語を使った批判があることを知ったのは、橋下徹に対する佐伯啓思による批判によってだっただろうか。その後に昨年も小池百合子に対する批判の中で、「ポピュリズムに陥ってはならない」というようなことが説かれていたように思う。
 日本での議論・評論の特徴の一つは(あるいはどの国でもきっとそうなのだろうが)、意味不分明なままで言葉がすでに何らかの評価(ポピュリズムの場合は批判的・蔑視的評価)を持ったものとして使われることだ。
 一年ほど前だろう、天下の読売新聞が「ポピュリズム」についてこれをとくに「大衆迎合主義」と言い換えて、言葉・概念の説明する小さい欄を設けていた。
 これもどとらかと言えば、批判的・消極的な評価を伴うものだったが、違和感を感じた。
 神谷匠蔵によると「大衆の熱狂」の喚起又はその利用がこの言葉の中核要素らしいのだが、そこまで進まない「大衆迎合」くらいは読売新聞社もどの新聞社も行っていることで(そうでないと販売できないだろう)、他人事のごとく大新聞社が「大衆迎合主義」と訳して解説していたのが奇妙で、あるいはむしろ面白かった。
 厳密には違うと訂正されそうでもあるが、民主主義とは民衆主義・大衆主義でもあるのであり、もともと「大衆迎合主義」の要素を含んだ概念ではないのだろうか。Democracy のDemo とは「大衆」であり、あるいは「愚民」のことだろう。
 「大衆迎合」を批判できる民主主義体制など存立し得るのだろうか。
 これは言葉の意味・射程の問題で、少なくとも、決まり切った答えはないだろう。
 しかし、この言葉になおこだわって想念を働かせると、新聞や雑誌の販売部数もテレビ番組の視聴率も、あるいは全ての(物やサービスの)商品の売れ行きも「大衆に迎合」してこそ高くなるのであって、「大衆迎合はけしからん」などとは、ほとんど誰も口にできないのではないか。
 にもかかわらず「大衆」を何となくバカにする、ポピュリズム=「大衆迎合主義」批判はどうも偽善的だ。本音では、販売部数を、視聴率を、販売額等々を読者・視聴者・消費者大衆との関係で「上げたい」はずなのに。
 ***
 ところで、佐伯啓思は2012年かその次の総選挙の際に、<ポピュリズムがどう評価されるか、それが今回の選挙の争点だ>と投票前に何かに書いていた。選挙後にこれについての総括をこの人はたぶん何も行っていなかったはずだ。
 今日に捲っていた本の中で原田伊織が「学者」と「物書き」の区別をしていた。
 佐伯啓思の新聞や雑誌での文章はたぶん学者・研究者の「論文」ではなく評論家という「物書き」の仕事としてのものなのだろう。この人は一年くらいからは「死に方評論家」にもなったらしく、また西部邁逝去後には西部に関連して「右か左かなどはとるに足らない問題だ」とか某雑誌に書いていた。佐伯啓思に全く限りはしないのだが、「学者」の議論は専門家すぎるか全体・大局を見ない議論・主張であることも少なくなく、たぶん「評論家」なるものも含まれるだろう「物書き」は玉石混淆だが「玉」は滅多にいなくて、アホらしくて読めないものがや多い。
 この感想に圧倒的に寄与した大人物は、佐伯啓思ではなく、月刊正論(産経)毎号執筆者・江崎道朗。第三者には理解し難いかもしれないが、とりわけ日本会議系「保守」論者の低レベル、いやそういう高低の評価自体になじまないほどの悲惨さ・無残さには唖然とした。こんなヒドさでも、平気で出版できる日本のアマさ、ユルさは相当の程度に達している。
 あまり意味のない、退屈な文章を書いてしまった。

1854/左翼は「ファシスト」の存在・ファシズムの再来可能性を必要とする。

 この欄で2016年に、青木理が同年7/24夜のテレビ番組で「歪んだ民主主義からファシズムは生まれるとか言いますからね」とか言い放った、と紹介している。
 日本の左翼にとって、その歴史観・政治観の形成にとって、「ファシズム」・「ファシスト」=絶対の悪という公式は不可欠なのだ。
 もっと幅広く、歴史的または欧州史または欧米思想の観点から、この欄ですでに紹介して言及したように、François Furet, The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentieth Century - (原仏語版1995年) は、<第6章/共産主義とファシズム>の中で、つぎのように述べていた。
 前回の投稿の補足として掲載する。すでに掲載した部分をあらためてできるかぎり全文に近くなるように、邦訳書と原英訳書を見て、紹介・掲載し直す。邦訳書は、以下。なお、この邦題は「過去」と「全体主義」の二カ所ですでに適切ではないと指摘した。<幻想の終わり-20世紀の共産主義>が原書(フランス語版)の意味にも添う。
 楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)。 p.244-。 
 ・「20世紀の歴史を織り成しているのは、…全く新たな政治体制であり、また20世紀が特異な性格を示すようになったのは、まさにそうした政治体制の出現のゆえにだった。そのために、歴史家は20世紀を19世紀の眼鏡を通して理解する誘惑を避けられなかった。彼らはあくまで、民主主義対反民主主義という闘いの図式を繰り返し、ファシズム対反ファシズムという対立の構図に固執した。こうした傾向は、…第二次大戦終結以降、ほとんど神聖にして犯すべからざる思想上の観点とさえ見なされるようになった。」
 ・「こうした精神的束縛にはきわめて強力なものがあり、ゆえに欧州で最も大きな力を獲得した国々-フランスとイタリア-で、コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示すものだと考えられ、そのため長い間、コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる結果になってしまった。かつまた、ファシズムの歴史を語ることすら、相当に困難になってしまった。」
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには、≪ファシズム≫が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ! 栄光から見離された政治体制が、これらの政治体制を打倒した人々の空想の世界でこれほどまでに長く後世の摸倣者を輩出したという例は、決して見られなかった現象だろう。」
 ・「我々は今日なお、ファシズムに対する偏った見方によって積み重ねられてきた廃墟の中から完全には脱し切れていない。ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかった欧州の政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上、神谷匠蔵の一文での指摘はF・フュレの叙述や秋月の理解と大きくは違っていないだろう、ということの例証で、さして大きな意味はない。

1853/<ファシズムの兆候>と闘うつもりの日本の左翼-神谷匠蔵の一文から①。

 <民主主義対ファシズム>という(基本的対立構造に関する)幻想の解消を秋月瑛二が日本での主要課題の第一に挙げたことがあるのは、むろん、そのような幻想をなお抱いている人々が多い-欧米よりも顕著に多い-という判断による。
 大まかにいってそのような人々は、護憲・改憲の議論にもかかわって「ガラパゴス左翼」とか「えせリベラル」とか称される人々(・組織や政党)に該当するので、この課題または論点は、少なくとも一部の論者たちにとっては、すでに無視してよい論点として決着済みの可能性はある。
 しかし、依然として上のような「基本的対立構造」に関する「理解」をしている人々が顕著に存在していると見られる。簡単に言えば、日本の社会・政治諸現象の中に「ファシズム」の兆候が見られ得るとし、その兆候が見られたとすればそれを批判的に指摘し、それと闘うことこそが「正しい」見方で、そのような立場を採るのが「正しい左翼」であり(当然に正しくないことはあり得ない)共産主義者(>日本共産党員)だとする、そういう人々だ。
 「言論プラットフォーム」なるアゴラの中で知ったが、1992年生まれらしい、信じがたいほどの若さの神谷匠蔵は、2017年1月の文章の中で、主題は「ポピュリズム」ではあり、また上のような私の論脈の中でではないが、上のような「リベラル左派及び共産主義者」の考え方・発想の仕方を、つぎのように述べている。
 神谷・2017年1月5日付「左派によって歪められた『ポピュリズム』の実像」。
 ・「左派」は「今日でもあらゆる右派的な言動の中に『ファシズム』の影を、『全体主義』の影を、…見出しては恐怖を語り『先の大戦の惨禍』が再び繰り返される可能性をあらゆる点に見出し、その芽を潰すことで『人類』に対して政治的に貢献できていると思いたい」のだろう。
 ・「左派のポピュリズム批判」は第一次大戦後から現在まで「一向に変化して」おらず、ヴィシー政権・ナチスおよびドイツ国民を「批判」したのと同じ言葉でトランプ氏やルペンに対する「人身攻撃」を浴びせているだけだ。彼ら左派が「『ポピュリズム』を批判する時、その念頭にあるのは常に第二次大戦の記憶であり、ナチスであり、ヒトラーである」。
 ・ポピュリズムは必ずしも「人種差別」や「排外主義」という要素を持たずたんに「娯楽至上主義」であり得るのであって、鍵は「大衆の熱狂」だ。にもかかわらず「左派および共産主義者が敢えて『無知な大衆の人種差別的排外主義的感情の発露』へと矮小化した」のは彼らに都合が良かったからだろう。
 ・つまり「リベラル派・左派は」、「ナチスと自分たちを区別する為にあたかもナチス的な『ポピュリズム』においては人種差別思想が不可欠の要素」だっかたのごとく語り、「そうすることで自らの『ポピュリズム性』を隠蔽してきたのである」。
 ・さらに言えば、「ポピュリズム」=「反知性」、自分たち=「知性」だと主張できるように「ポピュリズム」を再定義したのだ。かくして、「『知的で教養ある貴族の良識ある保守主義』と『大衆の扇動によって体制変革を試みる革命主義』の二項対立図式」を、見事に「『人種差別的な大衆感情を利用する極右』と『異文化に理解のあるリベラリスト』へとひっくり返した」。
 ファシズムとは直接に関係がない部分まで引用してしまった。
 しかし、「『先の大戦の惨禍』が再び繰り返される可能性をあらゆる点に見出し」、「念頭に」置くのは「常に第二次大戦の記憶であり、ナチスであり、ヒトラーである」というのは、欧米について語られていても、まさに日本の「左翼」=容共主義者の現在の主張の仕方、基本的発想にもあてはまる。
 「ナチスであり、ヒトラーである」は、「ナチスであり、ヒトラーであって、それと軍事同盟を結んだ日本の軍国主義者たち」と言い換えた方がよいかもしれない。
 繰り返すが、彼らにとって先の大戦は<民主主義対ファシズム>の戦争であり、共産主義者=ソ連は前者の側に含まれていた。そして、この戦争に「唯一」反対して闘った「栄光ある」日本共産党もまた前者の側にいたのだ。
 首相としての戦後70年談話で怪しくはなったが、それ以前の日本共産党・不破哲三による同党中央委員会政治理論誌・前衛上の論考では、安倍晋三は第二次大戦の「悪」、日本の「侵略」性を認めない→日本はドイツ(+ファシスト・イタリア)と軍事同盟を結んで戦った→ナチス容認→ゆえに「ネオ・ナチス」だ、という単純かつ簡単な(かつ幼稚な)論法と結論が述べられていた(いまだに不破哲三は日本共産党の最高幹部の一人のはずだ)。
 何かといえば少なくとも内心ではナチスとかファシズムに結びつけ、安倍晋三、安倍・自民党や安倍政権という「右派」政権を警戒し危険視して打倒しよう(少なくとも混乱させよう)というのが日本の「左翼」=容共主義者の<怨念>に満ちた基本発想であることを知っておく必要がある。
 こうした、現実認識というよりも政治的な主張に客観的には「協調」しているのは、改憲問題にかかわっての一定の憲法学者・憲法研究者だ。すでに過去のものだが、<集団的自衛権>行使容認をめぐる2015年あたりの安保法制の合憲性や真の語義からは逸脱している「立憲主義」をめぐる問題があった。
 上のような基本的対立軸の設定そのものに差異があること、その設定軸自体に内在する間違いがあること、いや我々も「民主主義」の側にいるのであって「ファシズム」を容認しているわけではないなどと反論・釈明し始めてはならないということ、を意識すべきだ。
 キミたちのいう「民主主義」とは何か?、その中には「正しい」ものならば(あるいはスターリン的以外ならば)共産主義(コミュニズム)も含まれるのか??、としつこく問う必要がある。

1852/L・コワコフスキ・第一巻第一章/第一節「人間存在の偶然性」。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))
のつづきの試訳。
 英訳書と独訳書の両方を参照した。綿密さを期したというよりも、邦訳のしやすさで選択したというのが正確だろう。
 ----
 第一節・人間存在の偶然性(contingency, Zufälligkeit)。
 (1) 存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、そうでもあるが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)の知覚だった。
 哲学的思考を発動させたこの人間の不完全さという感覚および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。
 (2) 哲学上の関心の中心的位置を占めたのはこの不完全さと人間の悲惨さだったが、明瞭で直接に可視的でかつ治癒しうる不完全さではなく、技術的な手段では克服できない根本的な弱さだった。その弱さはまた、いったん把握されればただちに経験上のかつ明瞭な欠陥だと感じられたもので、後者はたんに二次的な現象にすぎなかった。
 根本的な生来ある弱さは、多様な名称を与えられた。中世のキリスト教哲学は、全ての被造物が分かちもつものだが、人間存在の「偶発性」(contingency, Zufälligkeit)を語った。
 この「偶発性」という語は、アリストテレスの伝統に由来するもので(<de interpretatione, Peri hermeneias>では、その性質を変えることなく付着し得たり又はそうできなかったする事物の特性について申述する偶発的決定が論じられている)、実在し得る又は実在し得ない、だがその本質に固有のものではない、ゆえに必然的ではない、終わりある存在という状態を意味した。
 全ての被造物には、被造物であるがゆえに、時間上の始まりがある。したがって、それが存在しなかった、つまり論理的に必然的に、実在していた<はずがなかった>、そのような時点があった。
 Aristotleに従った中世スコラ哲学にとっては、本質と実在の区別は被造物と実在するのが必然の創造者との区別を際立たせるもので(神の本質と実在は同一のことだった)、被造物という存在の虚しさの最も明確な証拠だった。だがしかしそのことは、決して堕落することの原因でも衰亡することの目印でもなかった。
 人間が偶発的なもので偶然の存在であるということは、謙虚さや創造者崇拝の原因だ。
 それは人間存在の不可避の、根絶し難い側面だが、しかし、より高次の状態からの崩落を意味するわけではなかった。
 人間の肉体的かつ一時的な実在はいかなる退廃の結果でもなく、被造生物の階層の範囲内での人間という種の自然の性質なのだ。
 (3) これに対して、プラトン的伝統では、「偶発的」という語は全くか又は稀にしか用いられず、人間は終わりある一時的な存在だということは、<人間性の本質>とは異なる何か別のものだということだけを、すなわち、<人間は彼が何かである者ではない>のであって、その経験上、事実上のかつ時間的に限定された実在は人間性それ自体の、観念上の完全な、時間を超越した人間の存在と同じことではないということを意味していた。
 しかし、「人間がそうである者ではないこと」は、耐え難い苦痛を受けること、自らの頽廃に気づきながら、肉体的には下降へと向かった、時間的限定のある生活によっては決して保証することのできない完全な自己同一性意識を絶えることなく憧憬しながら、生きることを意味する。
 終わりある個体として、自分たちの無常さを意識しつつ我々が生きる世界は、流刑(exile, Verbannung)の地なのだ。//

 ----
 以上。

1851/L・コワコフスキ・マルクス主義/第一巻第一章・弁証法の起源「はしがき」。

 L・コワコフスキの文章の中で2009年にトニー・ジャットが引用していた一つは、つぎだった。
 「現実には全ての事情(事態、境遇)が一つの世界観の形成に寄与しており、全ての現象は、尽きることのない無数の原因に由来している」(Leszek Kolakowski, Marxism, 3. The Break Down(英訳、1978)p.339. この欄の№.1834)。
 L・コワコフスキはまた、全巻の緒言(Preface, Vorwort)の中で、つぎのようにも書いていた。
 「いかなる主題に関する著作者であっても、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を全体(living whole)から切り出すことを余儀なくされる」(この欄の№.1839)。
 以下の試訳部分は、どちらかと言えば、上の後者の叙述に関係しているところが多いだろう。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78年)の第一巻の第一章の最初に「第一節」に当たる「1.人間存在の偶然性」よりも前にある、実質的に(第一巻ではなく)第一章の「まえがき」または「緒言」を試訳する。英訳書・第一巻9-11頁、独訳書23-25頁。一文ごとに改行し、段落の冒頭には原書にはない数字を付した。
 第一節の「1.人間存在の偶然性」という項にはその内容に関心をもち、試訳しておきたくなったので、その前にある、原書には見出しのない「はじめに(緒言)」部分も訳しておくことにした。
 哲学文献を英語(または独語)で読むことに習熟している専門家(哲学と英語・独語邦訳の両方の専門家が望ましい)によって全体が邦訳されて日本で刊行されることがもちろんよいが、その状況ではないとすれば、「しろうと」の秋月瑛二の蛮勇で試訳してこの欄でささやかに「公に」しても非難されることはないだろう。
 ---
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))。
 (はじめに)
 (1) 生きている現代哲学の全ての潮流には、記録された哲学的思索のほとんど最初に遡ることのできる、それら自体の前史がある。
 それら前史には、結果として、諸潮流の呼称よりも古くてかつ明瞭に区別できる態様がある。
 すなわち、Comte 以前の実証主義(positivism)、Jaspers 以前の実存哲学(existential philosophy, Existenzphilosophie)について語るのは意味があることだ。
 マルクス主義の場合は状況が異なるように、最初は思える。その呼称は全く単純に、その創始者の名前に由来しているのだから。
 「マルクス以前のマルクス主義」なる句は、「Descartes 以前のデカルト主義」あるいは「キリスト以前のキリスト教」という矛盾した言辞(paradox)と同じだと思えるかもしれない。
 だが、特定のある人物に出発点をもつ知的潮流であっても、それら自体の前史があるのであり、それは、浮かび上がってきた諸問題や、傑出した知性によって単一の全体へと編み込まれ、新しい文化現象へと変換された諸回答の中に具現化されている。
 もちろん、「キリスト以前のキリスト教」なる句は、「キリスト教」という概念が通常はもつのとは異なる意味で「キリスト教」という語を用いており、たんなる言葉上での遊びでもありうる。
 それにもかかわらず、一般的な合意があるように、何と言っても、キリスト降臨の直前の時期でのユダ(Judaea)の霊的生活に関して懸命に集められた知識なくしては、初期キリスト教の歴史を理解することができない。
 同じことはマルクス主義についても当てはまる、と断じてよいだろう。
 「マルクス以前のマルクス主義」という句に意味はないが、しかし、マルクスの思想(thought, Denken)は、それをヨーロッパ文化史全体の中で、かつ哲学者たちがが数世紀にわたってあれこれと発している一定の根本的問題に対する回答だと理解して、そう位置づけて考察しないとすれば、内容が空虚なものになるだろう。
 そうした根本的問題やその進展および定式化のされ方の多様性に関係づけてのみ、マルクスの哲学を、その歴史的特殊性やそのもつ価値の永続性とともに理解することができる。//
 (2) 多数のマルクス主義に関する歴史家は、この四半世紀の間に、古典的ドイツ哲学がマルクスに提示し、マルクスが新しい回答を用意した諸問題を研究する貴重な仕事をしてきた。
 しかし、古典的ドイツ哲学自体は-Kant からHegel まで-、根本的でかつ太古からある諸問題について、新しい概念上(conceptual, begrifflich)の形式を考案する試みだった。
 確かにその根本諸問題が彼らによって完全に研究され尽くされたのではないけれども、そのような諸問題の見地からする以外は、意味を成さない。-かりに平準化が可能であるとすれば、全ての哲学の発展がその固有の時期との特殊な関係を奪われてしまうにつれて、哲学の歴史は存在することをやめてしまうだろう。
 一般的に言って、哲学の歴史は、互いに制限し合う二つの原理(principles, Regeln)に服している。
 一方で、どの哲学者にとっても基本的な関心を惹く諸問題は、変わらない境遇であるにもかかわらず、それでもって人間生活が向かい合っている人間の知性に生じる同一の知識欲(curiosity)に関する様相だと見なされなければならない。
 他方で、我々は全ての知的潮流または観察し得る事実の歴史的特殊性(uniqueness, Besonderheit)に光を照射し、まさしく当の哲学者たちを生み、哲学者になるのに役立つ重要な事象に可能なかぎり綿密に言及する必要がある。
 これら二つの原則を同時に遵守するのは困難だ。なぜなら、我々はそれらは相互に制限し合わざるを得ないことを知っているけれども、どういう態様で制限し合うのかを正確に知りはしない。したがって我々は、誤りに陥りやすい直感へと立ち戻ってしまうからだ。
 かくして、二つの原理は、科学的実験や資料の識別を行う方法のように信頼できかつ明瞭であるとは全く言い難い。しかし、それにもかかわらず、二つの態様での歴史的ニヒリズム(historical nihilism)に陥るのを避ける指針および手段として、これらは有用だ。
 歴史的ニヒリズムの第一が基礎にするのは、全ての哲学的努力を永遠に繰り返されるワンセットの諸問題へと系統的に格下げをして、人類の文化的進化の全景(panorama, Panorama)を無視し、一般的には人類の文化的進化を蔑視する、ということだ。
 それの第二が構成要素とするのは、全ての現象または文化的事象の特殊な性質を把握するので満足してしまう、ということだ。それが明示的であれ黙示的であれ前提としている考え方は、いずれが個々の歴史的複合体(complex, Ganzheit)の特殊性を構成していようと、それらの現象や事象の重要性の唯一の要素はつぎのことにある、つまりその歴史的複合体の全ての細部の諸事項はその複合体との関係でのみ新しい意味を獲得するということにあり、他の態様においてはもはや意義深いものではない、ということだ。-その細部の諸事項は争う余地もなく従前の諸観念を反復したものであるかもしれないけれども-。
 このように解説的に仮説を立てることは、明らかにそれ自体の歴史的ニヒリズムへと至る。全ての細部事項を共時的な全体(synchronic whole, synchrone Ganzheit)へと排他的に関係させることを強く主張することによって、解釈の継続性を全て排除し、連続している一つの閉じられた単一項的な実在物(monadic entities)の一つだと精神や事象(mind, epoch)を見なすことを我々に強いることになるからだ。
 それは予め、そのような実在物の間には情報伝達の可能性はないと、また、それらを集合的(collectively)に描写することが可能な言語はないと、決めてしまっている。すなわち、全ての概念はそれが用いられる複合体に応じて異なる意味をもつのであり、上位のまたは非歴史的な範疇は探求の根本的原理と矛盾するものとして閉め出されるのだ。//,
 (3) 以下の考究では、これら二つの極端なニヒリズムに陥るのをを避けようとする。そして、哲学者たちの知性を鍛えてきた諸問題に対する回答としてマルクスの根本思想を理解し、同時に、マルクスの天才性を発露したものおよび彼の時代の特異性のいずれとしてもある、その特殊性(uniqueness, Besonderheit)に着目してそれらを包括的に論述ことを目的とする。
 このような自らへの要求を明確に語るのは、それを実際に成功裡に行うよりもはるかに容易だ。
 そのように実際に行って完璧さにまで至るためには、哲学の完全な歴史を、あるいはじつに人間の文明の完全な歴史を、執筆しなければならないだろう。
 そのような不可能な作業を穏便に埋め合わせて補うものとして、マルクス主義がそれらに関してはヨーロッパの哲学の展開の中で新しい一歩を形成したものとして叙述することができる、そのような諸問題の簡単な説明をすることから始めよう。//

1850/秋月瑛二の想念⑤-2018年9月。

 ヒト、人間とは何であるのか、というのは自分とはいったい何者か、という問いでもある。
 日本、日本人とは何なのかという問いは、日本人として生まれ育った私自身を問うことでもある。
 L・コワコフスキは、歴史を知る(学ぶ)ことは我々自身が何であるかを知る(探求する)ことだ、と書いた。
 また彼は、思想・イデオロギーの歴史、とりわけマルクス主義の教理の歴史を研究するのは、一定の程度で、我々自身の文化を自己批判する試みだ、とも書いた。
 さらにつぎの趣旨も書いた(マルクス主義の主要潮流・2004年版「新しい緒言」)-「宗教史、文化史の一部の研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察し、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を考究することができる。宗教・哲学・政治の何であれ、諸思想の歴史に関する研究は、我々が自分自身を認識するための探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味するところを探求することだ。マルクス主義あるいは共産主義もまた、十分に関心を惹く歴史研究の対象になりうる」。
 20歳でポーランド統一労働者党の党員となり、党幹部候補であったと推測されるがスターリン支配下のモスクワでの短期滞在(留学)を経てポーランドの<レーニン・スターリニズム体制>に疑問をもち、ついに祖国を離れて西欧や北米に滞在し、最後にはロンドンにいたL・コワコフスキにとって、かつて学んでいったんは自分のものにした「マルクス主義」またはスターリン解釈による「マルクス・レーニン主義」は、まさに若き自分自身の一部だったに違いなく、マルクス主義の歴史研究は「自分史」の自己批判を含む研究だったに違いない。
 また、出国後ではなくポーランド時代からすでに彼は、キリスト教(・カトリシズム)の文化の中にいたように推察される。
 マルクス主義に関する大著刊行のあと、きっぱりと?マルクス主義研究から離れ、むしろ「神学」・カトリック研究にたずさわったらしいのも、自分自身の一部を形成している「神学大系」を探求して、自分とは何かをさらに知ろうとする試みだったかに見える。
 ***
 原語はフランス語らしいが、画家・ゴーギャンはある大きな絵の左上隅に、つぎのように記したらしい。
 「D'où Venons Nous /Que Sommes Nous /Où Allons Nous.」
 「われわれは何処から来たのか。われわれは何者か。われわれは何処へ行くのか。
 この部分から邦訳書の表題をつけたと見られる書物に、以下がある。
 エドワード・O・ウィルソン/斉藤隆央訳・人類はどこから来て、どこへ行くのか(化学同人、2013年)。
 但し、原書はつぎのようで、そのタイトルは「地球(地上)の社会的征服(制覇)」くらいにしか直訳はできない。
 Edward O. Wilson, Social Conquest of Earth (Liveright Publ. CO, 2012).
 まだ邦訳書の「解説」しか読んでいないのだから、興味がわく、という程度のことしか書けない。
 ***
 だが、捲っていて気づいたp.323-325の三つの画像とそれらへのコメントは、「ヒト・人間の本性」または「ヒト・人間の脳内感覚」にすでに関係しているだろう。
 つまり「複雑さが中程度」のデザインが「無意識に最も刺激し」、日本の書道での漢字の「隷書体」や「和様体」には「自然にもたらす刺激」があり、「パンジャブ語」の文面の「本質的な美しさ」は「無意識の刺激のレベルを最大まで高める」、とか言うのだ。
 理屈ではない<視的感覚>、<視的な刺激・心地よさ>。
 こういうものは、むろん個人差(個体差)はあるだろうが、脳感覚の中にあると思われる。
 数ヶ月間、日本語の新聞も雑誌も見なかったあとで、外国で久しぶりに見た某日本文学全集の(縦書きの)、漢字とひらがなの混じった日本語文章は、アルファベットばかりの中で生活していたので、じつに(内容では全くなくて)紙面自体が美しく感じた。
 これは日本人であるがゆえの感覚だったかもしれない。
 だが、同じ日本語文章でも、言語学者でもある安本美典によると、根拠文献を探す手間を省くので正確な紹介はできないが、一頁(ひいては全体)の中の漢字とひらがなとの割合が一定のある割合だと、最も<快適に>読まれる傾向がある、という。
 漢字がたくさん詰まった難解で複雑そうな文章よりも、適度にひらがな(カタカナ)が入っていた方が読みやすい。-こういう感覚は、よく分かる。
 また、誰かが書いていたが、一頁(ひいては全体)の中の、改行の数も関係がある。
 改行なしの、一文がどこで終わるのかがすぐには判らない文章が長々と続くと、読みにくい。適度に改行をして、その下に「空白」を入れた方がよい。
 これは、たんなる美しさや快適さの問題なのではない。
 すなわち、書き手が伝えたいことが、きちんと「読者」に伝わるか否かにとって重要なことだ。また、そもそも、「読む」気を起こさせないような、例えば一頁以上も改行がなく、見た印象で7-8割が漢字のような文章は、全く読まれないことになりかねない。
 そうした意味でも、「理屈」・「内容的適正さ」よりも、「見た目」、あるいは「視的美意識」にも訴えるというのは、じつに人間の「感性」、そして「本性」に適合的だろう。
 他にも多数の「感覚」の問題、さらに脳内でのもっと複雑な「感情」の問題はある。
 これらを抜きにして、ヒト・人間を語ることはできないし、その「歴史」を-かりに「政治史」であれ-把握することもできないだろう。当たり前のことを書いたかもしれない。

1849/池田信夫のブログ、例えば9/21から。

 池田信夫のブログは、その日のうちにたいてい読んでいる。
 圧倒する印象は、頻度、投稿の回数の多さだ。
 そのうち、第一に、原子力、経済政策、放送・通信あたりの議論は、こちらに専門知識がないか乏しくて、お説拝聴という場合が多い(原発再稼働問題は除く)。
 第二に、ときに、間違い、簡単すぎる、と感じることもある。
 典型は、もう古くなったが、自然災害-水害対策としての土地利用規制計画の見直し、<危険地帯に住まない>方向への誘導を説いていた、7/23だ。
 土地利用規制計画の見直しは一般論としてはそのとおりだが、特定の地域への居住を禁止して転居?に補助金を、とかの政策の実施は、おそらく「私的財産権」の利用制限(または剥奪)とそれに対する補償の必要の関係で、実現不可能であるか、相当の立ち入った計算・見込みがないとほとんど無理だろう。
 その中には、災害発生の「確率」(リスクあるいはハザード)の問題、日本における「私的財産権」絶対意識の強さも視野に入れなければならない。
 第三に、最も多いのは、適度に想念や思考を刺激してくれるものだ。
 池田が何らかの文献・書物を紹介しながら書いている文章は、アマゾンとの関係でいくらの収益をもたらしているのか知らないが、そして池田自身の言葉かそれとも当該書物の内容に沿ってたんに紹介しているのかが不分明であるときがあるのがタマにキズ?だが、思考を適度に刺激してくれる。
 とりわけ、広く歴史や「学問」にかかわるものだ。
 トルーマンによる日本への原爆投下に関する、8/15、9/17もそうだ。
 いちいち書き出すとキリがない。
 ***
 江戸時代から戦前日本までの欧米との対比は池田の関心でもあるようで、9/21の「実学」関係も、「科学・学問」にもかかわって興味を惹く。
歴史上ほとんどの学問は既存の価値体系にもとづいて新しい事実を解釈する技術であり、大事なのは体系の整合性だけなので、それを脅かす異端を排除すれば、学問の権威は守れる」。
 この文章は含蓄、含意が多い。これをすっと書いたのだとすると、相当のものだ。
 「天動説は…『反証』されたが、それによって否定されなかった」。
 「キリスト教とアリストテレスを組み合わせた神学大系」でたいていは説明できたが、「植民地支配」の結果として、「実証主義」等の新しい<理論>が必要となり、生まれた。
 以上は、池田からの引用か、その要旨。
 キリスト教的ヨーロッパによる<異文化>との接触こそが新しい<理論>動向を生んだ。
 マクロにはそうなのかもしれない。その大きな潮流の中に、マルクスもおり、マルクス主義もあったに違いない。
 福沢諭吉はかつての観念大系=「実学」そのもの、「身分制度」正当化、の儒学を捨てて「洋学」に向かった、と池田は記す。
 儒教・儒学・朱子学あたりは「明治維新」を生んだイデオロギーだとされもするので、このあたりはなかなか複雑だ。「天皇」と明治維新。
 池田によると、丸山真男に依拠しているのか、福沢が「下級」武士出身だったからこそ、上のようにできた。
 もっとも、そこで「明治維新の元勲と同じく、」と書かれてしまうと、「明治維新の元勲」たちのもった「イデオロギー」は何だったかに関して、疑問が出なくもない。
 五箇条の御誓文の最終案をまとめたのは木戸孝允(桂小五郎)だとされ、この人物も「明治の元勲」の一人だろう、たぶん。
 しかし、木戸は決して「下級」武士ではなかったと思われる。
 萩(山口県)に木戸の旧宅も残っているが、藩医(典医)だった父親のその邸宅はとても「下級」武士のものだったとは感じられない。
 もっとも、木戸孝允は、明治6年政変(「征韓論政変」)頃にはすでに、精彩を欠いている。
 木戸(桂)の当初の「夢」に対して、維新の「現実」はどうだったたのだろうか、という関心も持つのだが、池田信夫を契機とする今回の駄文はここまで。

1848/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流。
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 前回とほぼ同様に、英語版から始めてドイツ語版に最終的には依った。段落の区切りも後者がやはり一つ多いが、段落数字も後者の区切りによる。
 (注1) はドイツ語版にのみある。そこでのThomas Mann の原文引用部分は、以下では割愛した。
 ----
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)
 (7) 我々がイデーの歴史研究者としてイデオロギーの外側に立つとしても、そのことは、我々がその中で生きる文化の外側にいることを意味しない。
 全く逆だ。すなわち、諸イデーの歴史、とくに影響力がありかつ最も影響力をもち続けているイデーの歴史は、一定の程度で、自分たち自身の文化を自己批判する試みだ。
 私はこの書物で、Thomas Mannがナツィズムとドイツ文化との関係に向かいあって<ファウスト博士>で採用した立脚点から、マルクス主義を研究することを提案する。
 Thomas Mann は、ナツィズムはドイツ文化とは全く関係がない、そしてナツィズムはドイツ文化を恥知らずに否定して戯画化したものだ、と述べることができただろうし、そう述べる正当な資格ももっていただろう。
 彼はそう語ってよかった。だが実際には、彼はそう語らなかった。
 Thomas Mann はその代わりに、いかにしてヒトラーの運動やナツィのイデオロギーのような現象がドイツで発生したのか、そしてドイツ文化のうちの何がそれを可能にしたのか、という問題を設定した。
 彼は、こう書いた。ドイツ人は誰でも驚愕しつつ、ナツィズムの残忍さのうちに、最良の(これが重要な点だが、最良の)代表者たちが感知することのできた、グロテスクに歪曲された文化の特質を再認識するだろう、と (注1)。
 彼はまた、ナツィズムの精神的な起源に関する問題を簡単に回避してしまうことに反対し、ナツィズムはドイツ文化が生んだ何かに正当性を求める資格がない、とする説明に満足しなかった。
 Thomas Mann は、彼自身がその一部であり共作者である文化を、率直に自己批判した。
 実際に、ナツィ・イデオロギーはNietzsche を「戯画化したもの」だとする定式を語るだけでは十分ではない。戯画(caricature)の本質は、我々が原物を理解するのを助けることにあるのだから。
 ナツィスは彼らの超人たちに、<権力への意思>を読むように命じた。そして、彼らはこの本の代わりに<実践的理性批判>をも推薦することができたかのごとく、そのことは有らずもがなの偶然だった、とは言い難い。
 自明のことだが、ここで問題になっているのは、Nietzscheの「罪責(Schuld, guilt)」ではない。彼の書物が利用されたことについて個人として責任があるか否か、という問題ではない。
 だが、それでもなお、彼の著作が利用されたことは、不穏な気持ちの理由になければならならず、Nietzsche のテキストを理解するに際して、些末な偶然だとして単純に無視してしまうことはできない。
 聖パウロは個人的には、15世紀末のローマ教会や異端審問(Inquisition)について、責任はなかった。
 しかし、キリスト教徒も非キリスト教徒も、下劣な法王や司教たちの行為によってキリスト教が堕落して歪められた、という申述に満足することはできなかった。
 審問者はむしろ、犯罪や悪行だとする根拠として役立ったものを聖パウロの書簡は一切何も含んでいなかったのか否か、そして個々に見てそれはいったい何だったのか、を問うべきだっただろう。
 マルクスとマルクス主義の問題に対する我々の態度は、これと同じでなければならない。そして、この意味で、この著作での叙述は、たんに歴史的な記述をするものだけではなく、プロメテウス的人間中心主義(Humanismus, humanism)で始まり、スターリン専制の奇怪さで最高潮に達した、一つのイデーの稀有の歴史に関する省察を試みることでもある。
 -<原著、一行あけ>-
 (8) マルクス主義の年代記的叙述は、とりわけ次の理由によって錯綜している。すなわち、今日では最も重要だと考えられているマルクスの多数の文献は今世紀の20年代又は30年代またはその後でようやく印刷され、出版された。
 (例えば、<ドイツ・イデオロギー>、学位論文の<デモクリタンとエピキュリタンの自然哲学の違い>の全文、<ヘーゲル法哲学批判>、<1844年の経済哲学草稿>、<政治哲学批判綱要>。加えて、エンゲルスの<自然弁証法>も入る。)
 これらのテキストはまた、それらが執筆された時代には影響を与えることがなかった。しかし今日では、マルクス自身の精神的伝記の記述に寄与しているだけではない。それらは歴史的意味があるのみならず、それらのテキストなくしては理解することのできない教理の本質的な構成要素だという観点から、重要なものとして分析されている。
 とりわけ<資本論>に示されているマルクスのいわゆる成熟した思考は、内容的に見て、彼の青年時代の哲学的散策が自然に進展したものだったのか否か、およびどの程度にそうだったのかは、長らく議論され続けている。
 あるいはまた、若干の批判的解釈者が考えているように、それらは精神的な激変の結果であるのか否か、よってさらに、マルクスは1850年代や60年代に、主としてはヘーゲル主義と若きヘーゲル哲学に影響を受けた従前の思考や考究の様式を放棄したのか否か。
 ある者は、<資本論>の社会哲学は初期の著作物でいわば予め塑形されており、それらを発展させたもの又は詳論したものだ、とする。
 別の者は反対の見解で、資本主義社会の分析はマルクスの初期段階の夢想家的かつ規範的な修辞技法(レトリック)からの離脱を意味する、と主張する。
 これら二つの対立する見方は、マルクスの思想全体に関する異なる解釈と相互に関連している。
 (9) 私はこの著作で、哲学的人類学は年代学的にのみならず、論理的にも、マルクス主義の出発点だ、ということを前提とする。
 同時に、マルクスの哲学的思考から哲学の内容を独自の領域として切り分けるのはほとんど不可能だ、ということも意識しておかなければならない。。
 マルクスは学術分野での著作者ではなく、ルネサンスの言葉の意味での人間中心主義者だった。そして、彼の思考は人間がかかわる事象の全体を包括するものだった。このことは、社会の自由化という彼の展望が、人間が苦闘している重要な諸問題の総体に対する相関関係の中にある、ということと同様だった。
 (10) マルクス主義を三つの思考領域に分けるのが慣例になってきている。-哲学的人類学という基礎、社会主義の教理、および経済分析だ。
 そして、これらに対応させて、マルクスの教理が由来する三つの主要な源泉が注目されている。すなわち、ドイツ哲学(弁証法)、フランス社会主義思想、イギリス政治経済学。
 しかしながら、マルクス主義をこのように重要な構成部分へと画然と区別するのはマルクス自身の意図には反している、という強い主張も、広がってきている。マルクスの意図とは、人間の行動様式とその歴史に関して包括的な解釈を提示し、かつ、全体との関係でのみ個別の諸問題が意味をもち得る、そのような人間に関する包括的な理論を再構築しようとする、というものだ。
 マルクス主義の全ての構成要素の相互関連性やその内的な論理一貫性の態様をより詳しく性格づけるのは、ただ一つの文章で解答できるような容易な問題ではない。
 しかし、あたかも歴史過程の諸性質を把握しようとマルクスは実際に努めたかのように見える。その性質に関係して、認識論および経済の諸問題も、また最後に社会的理想も、初めて共通する意義をもち得る。
 すなわち、マルクスは、人間の全現象を理解可能なものするために十分に高い程度の一般性をもつ思考上の手段または認識の諸範疇を創出しようと考究した。高い程度の一般性をもつために、人間世界の全ての現象は、その助けを借りて理解できるものになる、そのようなものとして。
 これらの範疇とマルクスの思考の叙述とを彼の範疇構造に従って再構成し、マルクスの思想をそれらに合致させて提示しようと試みるのは、しかし、思想家自身の発展を無視する、という効果をもち得るだろう。そしてさらに、彼のテキストの全体が同質の、一度だけ組み立てられたブロックとして扱われてしまう危険を胚胎している。
 したがって、マルクス主義思考の展開の主要な軸を追求し、そのあとで、どのような主題が黙示的にであれこの発展の中で残存しているかという疑問を設定するのが望ましいように思われる。
 (11) この著作でのマルクス主義の歴史に関する概観では、マルクスの自立した思考の最初から考察の中心的な位置をずっとつねに占めてきたと思われる諸問題に焦点を当てことにする。
 すなわち、夢想郷論(utopianism)と歴史的運命論のディレンマを、いかにすれば回避することができるのか?
 換言すれば、想起された観念を恣意的に宣告するのでも、人間がかかわる物事が、全員が関与しているが誰も統御できない特徴なき歴史過程に従属しているという前提を諦念にみちて受容するのでもない観点を、いかにすれば明瞭にし、防衛することができるのか?
 マルクスのいわゆる歴史的決定論に関してマルクス主義者によって表明された驚くべき多様性は、20世紀のマルクス主義の動向を精確に提示し、図式化することを可能にする一つの要因だ。
 人間の意識と意思がもつ歴史過程での位置に関する問題に対する答え方は、社会主義諸観念が本来的にもつ、かつ革命と危機の理論と直接に連結する意味を少なからず明確にしている、ということも明らかだ。
 (12) しかしながら、マルクスの思考の出発空間を規定したのは、ヘーゲルから相続した資産の中に見出される哲学上の諸問題だった。
 そして、そのヘーゲルの遺産の解体は、マルクスの思考を叙述するいかなる試みも必ずそれから始めなければならない、当然の出発地点になっている。
 --------
 (注1) vgl. Thomas Mann, "Doktor Faustus", in: Gesamte Werke, 6. Bd., Berlin-Ost 1956, S.652.
 ----
 以上。

1847/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ③。

 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのだろうか。
 櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。
 ***
 以上は、この欄の2017/04/05付、<1485/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ②>の最後の部分。
 上にいう根拠文献を見つけたので、以下に記して、関連したことを書く。
  櫻井よしこ編・あなたの個人情報が危ない!(小学館文庫、2002.11)。
 これは、住民基本台帳法の改正(・個人情報保護法の制定等)による住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の導入に反対するための「書き下ろし」の文庫本だ。
 櫻井よしこが編者として一人だけ名前を出し、櫻井よしこが「ジャーナリスト」という肩書きで「はじめに」を書いている。
 この「住基ネット」反対運動の書物に櫻井以外に21名が執筆している。そして、近年のいわゆる<保守系月刊三誌>に(しばしば)登場するするような論者は一人もいない。
 むしろ、私から見ると、「左翼」または「左派系リベラル」と感じる者の方が多い。
 例えば、澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信
 名前を現時点でも知らない人が8名いるので、21-8=13名のうちのこれら7名は、れっきとした「左翼」または「左派系リベラル」だと思われる。
 残る6名は、田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一、鈴木邦男、山田宏
 内容への細かな言及はしない。冒頭に記したように「住基ネット」導入に反対するもので、かつ実際にこのときは、上を含む関連法律の改正等はなされず、導入はされなかった、とだけ述べておく。
 気になるのは、櫻井よしこなる人物は、この頃いったい何をしていたかだ。
 現在も一貫しているようだが<自衛隊は違憲だ>から出発すべきだ、とも書いていた(憲法学者の大半と同じ?。だからこそ<九条2項存置自衛隊明記>論は「法理論的にはともかく」「現実的だ」という議論の仕方になる-2017年5月頃)。また2001年施行予定の情報公開法に対してもかなり技術的な点を指摘して批判をしていた。
 要するに、「澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信」といった人々のいわば代表者となり、「田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一」等の人々と共通する目的で仕事をすることを全く疎んじていなかった人物だ。
 2000年前後から2005-2007年頃の間に、櫻井よしこは<転身>した。それも、日本会議または日本会議関係者の「働きかけ」あるいは「引き抜き」によって、というのが秋月瑛二の拙い推測だ。
 なお、「左翼」・「左派系リベラル」から日本会議や櫻井よしこがいう意味での「保守」へと基本的立場を変えること自体を批判しているのではない。
 ①そのような<転身>を櫻井よしこ自身はいかほどに自覚・意識しているのか。
 ②そのような<転身>の理由・背景・原因をこの人自身はこれまでどのように説明しているのか。
 ③現在に櫻井よしこを「長」として又は「論壇の代表者」のごとく仰ぐ又は「かついで」いる人々は、櫻井よしこのこれまでの姿をいかほどに知っているのか。
 これらが気になり、危うい、と感じるだけだ。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳①。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
 ----
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
 ----
 (7)以降の②へとつづく。

1845/自民党<自衛隊憲法明記>案では自衛隊は合憲にならない。

 一 自民党の大勢または多数議員は2017年5月3日に突如打ち出された安倍晋三総裁私案に、またはその基本的趣旨に賛成し、日本国憲法9条を改正したいようだ。
 その際、現9条第1項と第2項はそのまま存置し、9条の2を新設して、そこに「自衛隊」を明記して、<自衛隊の合憲化>または<自衛隊の合憲性論争に終止符を打つ>ことを意図しているらしい。
 マス・メディアの報道によっても、しかし、まだ9条の2の正規の文案(条文案)は確定的には伝えられていないようだ。
 だが、おおよそのところ、例えば下のAまたはBのようなものらしい。①と②は項。
 A「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ② 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 B「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための必要最小限度の実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ②自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 このAとBの基本的な違いは、①で、自衛隊につきA「必要な自衛の措置をとる~ための実力組織」と書くか、B「~のための必要最小限度の実力組織」と書くかだ。
 しかし、どちらにせよ、第一に、そのように若干の説明または目的を記したうえで「自衛隊」なるものの「保持」を明記しようとするものに変わりはない。
 第二に、いずれも「法律の定めるところにより」として、「保持」の前提としての設立とその維持、つまり「保持」については「法律」が定めるとしている点で、変わりはない。
 二 このような案では自衛隊を合憲のものにすることは、絶対に不可能だ。
 昨年夏に諸案を批判したが、そのうち、上の案に最も近いのが、百地章の案・考え方だった。
 百地章に対する一年前の批判がそのまま、あてはまる。
 簡潔に記そう。
 ①自衛隊の正確な又は具体的な姿は上にいう「法律の定めるところ」を見なければ、憲法上はまださっぱり分からない。
  ②憲法上明確なのは、第一に、「軍その他の戦力」であってはならないこと(現9条2項)のほか、第二に、新設条文により、自衛のための「必要な実力組織」または「必要最小限度の実力組織」という性格づけに反してはならないこと。
 ③自衛隊の正確な又は具体的な姿(組織・編成・人員・活動等々)を定める「法律」は上の②の制約を受ける。とりわけ現9条2項にいう「軍その他の戦力」であってはならない、という制約を受ける。
 ④自衛隊関連法律が新設されるにせよ、自衛隊関連現行法律(および政令・省令等)が維持されるにせよ、それらが「軍その他の戦力」であってはならない、という制約の範囲内のものであるか否かは、永続的に問われ続ける。
 ⑤よって、上のような9条の2新設案で、自衛隊の合憲性の問題が解消するはずがない。
 なお、上の新設9条の2の②に明確には論及しなかったが、新設条の二項は「自衛隊の行動は、法律の定める~」と定めているのだから、上と全く同じことが妥当する。
 上にいう「法律」の現九条2項適合性が、つねに問われ続けるのだ。
 三 そうだとすると、「自衛隊」という概念と一定の説明・目的の言葉を残して、<法律の定めるところにより>という字句を削除すればよい、との考え方をすぐに思い浮かべる者もいるはずだ。
 しかし、これでも、「自衛隊」なるものを合憲視することはできず、合憲性論争は続く。
 日本会議の伊藤哲夫・小坂実等々の頭脳では理解不能なのかもしれないが、いちおう、簡潔に書いておく。
 ①憲法上の「自衛隊」は、当然のこととして現9条2項に抵触しないものである必要がある。そのようなものとしてのみ、新設条文は「自衛隊」を許容するはずである。
 ②よって、そのような憲法上の「自衛隊」の範囲内に、実際の、現実の(法令上の)自衛隊がとどまっているか否かは、永続的に問われ続ける。
  ③要するに、憲法上の「自衛隊」と、現行法制上の「自衛隊」または今後改正によってその具体的な態様は変動しうる「自衛隊」、とが同じであるはずがないのだ。
 四 一年前の夏に書いたことをいっさい変更する必要を感じていない。
 また、上の大きくは二点につき、ほとんど確信に満ちた自信をもっている。<ほとんど>とは一種の修辞で、実際には100パーセントだと言ってよい。
 少しでも憲法解釈、憲法と「法律」の関係、憲法・「法律」間解釈の作法を知っている者であれば、誰でも、こういう結論になるだろう。弁護士その他法曹資格を持つ者ならば分かるはずだ。
 しかし自民党の中でも大きな声になっていないようであるのは、<ともかく改憲>派、<できるだけ早く改憲>派に、政治的に遠慮しているからだろう。
 <改憲>という言葉・概念のトリック・魔力にひっかかっている政治運動団体があるからだろう。
 憲法に「自衛隊」という言葉さえ入れば<自衛隊>は(実際の自衛隊も)合憲になる、と考えている「アホ」丸出しの政治運動団体があるからだろう。
 大切なのは、<改憲か護憲か>ではない。<どのように改憲するか>だ。
 あるいはそもそも、現在の自民党案では<改憲>にならない。自衛隊の合憲性問題を、却って大きく意識させ、浮上させるだけだ。
 そしてまた、現在の自民党案では、「自衛隊」なるものが「軍・戦力」になることを半永久的に否定することになる。これも大きな弊害だ。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
 ----
 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
 ----
 以上。
 ------------
 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
 ------------

1843/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」②。

 レシェク・コワコフスキがのちの『マルクス主義の主要潮流』を執筆し始めたのは彼が41歳のときだとされ、ポーランド語版と英独語版のPreface が同じ時期に書かれているとすると、その1976-78年は、彼が49-51歳のときだった。
 そのPreface (緒言、はしがき)は大著を公刊・公表するに際しての緊張に打ち震えているうな印象もあり、(自信があるためもか)細かな釈明的な言辞をあらかじめ記している。2004年にそれがどうなったかは別として、彼が50-51歳である1977-78年頃に執筆されたと見られるEpilogue (エピローグ、あとがき)は、全三巻の執筆を終えてすでに印刷にかかっている時期で一定の安堵感があるためなのかどうか、緒言(はしがき)に比べると、L・コワコフスキの「本音」的部分がかなり明らかにされているように感じる。
 むろん、学術研究的文章ではないので、正確で厳密な意味は把握し難い。やや感情的に、簡潔に言いたいことを書いておこうとしたような印象がないでもない。
 それでもしかし、この人物の<基本的な>姿勢を感じ取ることはかなりできそうに思える。
 それにしても、以下の文章は1978年頃のもので、今は2018年。40年が経過している。
 この40年間、私の知る限りでは、以下の文章の邦訳はなく、上の書物全体の翻訳書も日本では刊行されなかった(但し、英文等で読んだ「知識人」・「専門研究者」はきっといただろう)。
 この日本の40年間の「現実」は、もはや変えることができない。
 以下、試訳のつづき。原文にはない段落ごとの番号を付している。
 ---
 エピローグ(あとがき、Epilogue)②。第三巻523-530頁のうちの527頁以下。
 (7) マルクスはさらに、そのロマン派的夢想を、全ての必要は地上の楽園で完全に充たされるという社会主義の予想と結びつけた。
 初期の社会主義者たちは、「各人にその必要に応じて」というスローガンを限られた意味で理解したように見える。人々は寒さや飢えで苦しんではならず、あるいは極貧の中で空腹で生活してはならない。
 しかしながら、マルクスおよび彼に倣ったマルクス主義者は、社会主義のもとでは全ての欠乏が存在しなくなると想定した。
 全ての人間は、魔法の指輪か従順な精霊をもつかのごとく、全ての欲求を充たすことができる。このようにきわめて楽観的に考えて、希望を思い抱くのは可能だった。
 しかし、これを真面目に受け取ることはほとんどできないため、問題を熟考したマルクス主義者たちは、相当程度はマルクスの著作に支えられて、共産主義は、人間の本性と合致する、気まぐれや願望では全くない「本当の」または「真正の」必要を充足させるのだと決着させた。
 しかしながら、これは誰も明確には回答できない問題を生じさせた。すなわち、いかなる必要が「真正」なのかを誰が決定するのか、いかなる規準によってそれを決定するのか?
誰もが自分でこれを判断するのならば、実際に主観的に感じている全ての必要は平等に正しく供給され、区別をつける余地はない。
 一方、決定するのが国家であれば、歴史上最大の解放事業は全世界的な配給(rationing)制度であることになる。
 (8) 一握りの新左翼(New Left)の未熟者以外の全ての者にとって、今日ではつぎのことが明白だ。すなわち、社会主義は文字通りには「全ての必要を充足する」ことができず、不十分な資源の公正(just)な配分を企図することができるにすぎない。-このことが我々に残す問題は、「公正」の意味を明瞭にし、いかなる社会的機構によって、個々の各事案についてその企図を実現すべきかを決定することだ。
 完全な平等という観念、換言すると全員に対する全ての物資の平等な分配は、経済的に実施不可能であるばかりか、それ自体が矛盾している。なぜならば、完全な平等は極度の専制システムのもとでのみ想定することができるものだが、専制それ自体が、少なくとも権力への関与や情報の入手のような根本的利益に関する不平等を前提にしているからだ。
 (同じ理由で、現在の<左翼(gauchistes)>が平等の増大と政府の縮小を要求するのは支持できない立場だ。現実の生活では、大きな平等は大きな政府を意味し、絶対的な平等は絶対的な政府を意味する。)
 (9) かりに社会主義が全体主義的牢獄ではない何かだとすれば、相互に制限し合う多様な価値を妥協させるシステムでのみありうる。
 全てを包括する経済計画は、達成するのが可能だとしてすら-不可能だとするほとんど一般的な合意があるが-、小生産者や地域単位の自治(autonomy)とは両立し難い。そして、この自治は、マルクス主義的社会主義のそれでなくとも、社会主義の伝統的な価値だ。
 全ての者の生活条件を完全に確保することと技術の進歩は、共存できない。
 自由と平等の間に、計画と自治の間に、経済民主主義と効率的経営の間に、不可避的に矛盾が発生する。そして、妥協と部分的解決によってのみこうした矛盾を解消することができる。
 (10) 産業発展諸国では、不平等を除去し最小限の安全を確保するための社会制度(累進課税、医療サービス、失業対策、価格統制等々)は全て、巨大に膨張する国家官僚機構という対価を払って作り出され、拡張されている。いかにすればこの対価の支払いを避けることができるのか、誰も提案できない。
 (11) このような諸問題は、マルクス主義とほとんど関係がない。かつまた、マルクス主義の教理は実際上、これらを解決するには何の助けにもならない。
 歴史の到達点での黙示録的(最終予言的)信念、社会主義の不可避性、および「社会構成」の自然の順序。「プロレタリアートの独裁」、暴力の称揚、国有化産業がもつ自動的な効率性への信仰、対立なき社会と金銭なき経済に関する幻想。-これら全てが、民主主義的社会主義の観念と共通するところが何もない。
 民主主義的社会主義の目的は、生産が利潤に従属するのを徐々に減少させ、貧困をなくし、不平等を廃絶し、教育を受ける機会への社会的障害を除去し、国家官僚機構による民主主義的自由に対する脅威と全体主義への誘惑を最小限にする、こうした諸制度を創出することだ。
 これらの尽力と試みは全て、自由という価値に深く根ざしていないかぎり失敗するよう運命づけられている。マルクス主義はこの自由を、「消極的」自由、社会が個人に許容する決定領域だと非難した。
 この非難は当たらない。自由とはそれ自体以外に正当化を必要としない本質的価値だからだ。また、自由なくしては社会は自らを改良することができないからだ。
 この自己を規整するメカニズムを欠く専制体制は、過誤によって災厄が発生したときにだけその過誤を修正することができる。
 (12) マルクス主義はこの数十年間、全体主義的政治運動のイデオロギー的上部構造としては凍結し、機能しなくなった。その結果として、知的発展と社会的現実から乖離してしまった。
 再生してもう一度実りを生むという希望は、すぐに幻想(illusion)だと判明した。
 説明の「システム」としては、マルクス主義は死んでいる。また、現代生活を解釈し、未来を予見し、あるいは理想郷(ユートピア)の企図を培養すべく有効に使うことのできるいかなる「方法」も、マルクス主義は提示していない。
 現在のマルクス主義文献は、量的には多いけれども、純粋に歴史に関係していないかぎりでも、無味乾燥さと見込みなさの、気の滅入るような雰囲気をもつ。
 (13) 政治的動員装置としてのマルクス主義の有効性は、全く別の問題だ。
 論述したように、マルクス主義の言葉遣いは、きわめて多彩な政治的利益を支えるために用いられている。
 マルクス主義が現存体制によって公式に正当化されているヨーロッパの共産主義諸国では、マルクス主義は全ての確信を失っている。一方、中国では、見分けがつかないほどに醜悪化した。
 共産主義が権力を握っている国ではどこでも、支配階級はマルクス主義を、ナショナリズム、人種主義あるいは帝国主義が本当の源であるイデオロギーへと変形している。
 共産主義は、マルクス主義を用いることで権力を掌握しそれを維持するために、ナショナリズム・イデオロギーを強化すべく多くのことをした。そのようにして、共産主義は自らの墓穴を掘っている。
 ナショナリズムは、憎悪(hate)、嫉妬および権力への渇望のイデオロギーとしてのみ生きている。ナショナリズムはそのようなものとして共産主義世界での破壊的な要素だ。そして、共産主義世界の首尾一貫性は、実力(force)にもとづく。
 世界全体が共産主義国であれば、単一の帝国主義によって支配されるか、異なる諸国の「マルクス主義者」たる支配者間での際限のない戦争の連続だろう。
 (14) 我々は、その結合した効果を予見することのできない、重大で複雑な知的かつ道徳的な過程の目撃者であり、関与者だ。
 一方で、19世紀の人間中心主義(humanism)の多数の楽観的想定は瓦解し、文化の多くの分野には破綻の感覚がある。
 他方で、情報のこれまでにない早さと拡散のおかげで、世界じゅうの人間の諸願望はそれらを充足する手段よりも早く増大している。
 こうして急速に、欲求不満とその結果としての攻撃的心理が大きくなっている。 
共産主義者たちは、このような心理状態を利用する、攻撃感情を状況に応じて多様な方向へと流し込む、目的に適合したマルクス主義の用語法の断片を用いる、こうした技巧に長けていることを示してきた。
 メシア的希望を生じさせた対応物は、絶望と自分の過ちを見た人類を途方に暮れさせている無力の感覚だ。
 全ての問題と災難について既成のかつ即時の回答があり、それを適用する際には敵の悪意だけが立ちはだかっている、という楽観的信念は、マルクス主義という名前ののもとで移ろいゆくイデオロギー・システムに頻繁にみられる構成要素だった。-マルクス主義は一つの状況から別の状況へと内容を変化させ、別のイデオロギー上の伝統と混じっている雑種のもの(cross-bred)だ、と言うことができる。
 現在ではマルクス主義は世界を解釈しないし、世界を変化させることもない。多様な利益を組織するのに役立つ、たんなるスローガンの目録(repertoire)だ。それらのほとんどは、マルクス主義の元来の姿だったものから完全に遠ざかっている。
 第一インターナショナルの崩壊ののち一世紀、世界じゅうの抑圧された人間性の利益を守ることのできる新しいインターナショナルの見込みは、かつて以上に、ほとんどありそうもない。
 (15) マルクス主義が哲学的表現を与えた人類の自己神格化は、個人であれ集団であれ、そのような全ての試みと同じようにして終焉した。それは、人間の隷従という茶番劇の実体を露わにしたのだ。
 ----
 以上。

1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
 ----
 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
 ----
 ②へとつづく。

1841/L・コワコフスキ・2004年合冊版の「新しい緒言」。

 1976-78年に先に(9/01に)試訳を紹介した「緒言」を書いていたL・コワコフスキは、内容は同じ自分の書物=『マルクス主義の主要潮流』について、およそ30年近くのちに、つぎの「新しい緒言」を記した。
 1976-78年と2004年。言うまでもなく、その間には、1989-1991年があった。
 最後の段落以外について、原文にはない、段落ごとの番号を付した。太字化部分は秋月瑛二。
 レシェク・コワコフスキ・2004年合冊版『マルクス主義の主要潮流』の「新しい緒言」。
――――
 新しい緒言(新しいはしがき、New Preface)。
 1 いまこの新しい版で合冊される諸巻が執筆されてから、およそ30年が経過した。この間に生起した事態は私の解釈を時代遅れの、無意味な、あるいは単純に間違ったものにしたのかどうか。こう問うのは、場違いなことではない。
 たしかに、私は賢明にも、いまでは虚偽だと判断されるような予言をするのを避けていた。
 しかしながら、むしろ、つぎの疑問が、依然として有効なままだ。私の諸巻が叙述しようと試みた精神または政治の歴史について、なおも興味深いものはいったい何なのか。
 2 マルクス主義は、哲学的または半哲学的な教理であり、共産主義国家で正統性と拘束的な信仰の主要な源として用いられた政治的イデオロギーだった。
 このイデオロギーは、人々(people)がそれを信じているか否かに関係なく、不可欠のものだった。
 共産党支配の最後の時期には、それは生きている信仰としてはほとんど存在していなかった。そのイデオロギーと現実の間の懸隔は大きく、共産主義者の楽園という愉しい未来の希望は急速に色褪せていたので、支配階級(換言すれば党機構)と被支配者のいずれも、その空虚さに気づいていた。
 しかし、それは、正確には権力システムの正統性の主要な装置であったために、公式には拘束的なままだった。
 支配者が本当にその人民と意思疎通することを欲したのであれば、支配者は「マルクス・レーニン主義」というグロテスクな教理を用いなかった。むしろ、ナショナリズム感情や、ソヴィエト同盟の場合には帝国の栄光に、訴えかけていた。
 最後には、帝国と一緒にそのイデオロギーは砕け散った。それの崩壊は、共産主義という権力システムがヨーロッパで死に絶えた理由の一つだった。
 3 知的には適切でなかったが抑圧と収奪の装置としては効率的だった複雑な機構が解体した後では、研究対象としてのマルクス主義は永遠に葬り去られたと見えるかもしれない。また、それを忘却の淵から引き摺り出す場所はないように見えるかもしれない。
 しかし、そう考えるには、十分な根拠がない。
 過去の諸観念(ideas)への関心は、その知的な価値や現在にある説得力にもとづくものではない。
 我々はずっと前に死んでいる諸宗教のさまざまの神話を研究するし、もはや信者がいないことがその研究を興味深くないものにするわけでもない。
 宗教の歴史の一部、および文化の歴史の一部としてのそのような研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察したり、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を洞察したりすることができる。
 宗教的、哲学的あるいは政治的のいずれであれ、諸観念(ideas)の歴史の洞察は、我々が自分自身を認識するために行う探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味を探求することなのだ
 夢想郷(utopia、ユートピア)の歴史は冶金学や化学工学の歴史よりも魅力的ではない、ということはない。
 4 マルクス主義の歴史に関するかぎりでは、それを研究に値するものにする、追加的で、より適切な理由がある。
 長い間相当の人気を博してきた哲学的教理(マルクス主義の哲学的経済学と呼ばれたものは今日の世界の意味での本当の経済学ではなく哲学上の夢だった)は、全体としては決して死に絶えていない
 それらは言葉遣いを変えているが、文化の地下で生き延びている。そして、しばしば見え難いけれども、なおも人々を魅惑することができ、あるいは脅かすことができる。
 マルクス主義は、19世紀および20世紀の知的伝統と政治史に含まれる。そのようなものとして、マルクス主義は明らかに関心を惹くものだ。際限なく繰り返された、しばしばグロテスクな、科学的理論であるという見せかけの主張(pretension)とともに。
 しかしながら、この哲学は、人類に対する描写できないほどの悲惨と損害をもたらす実際的効果をもった。私有財産と市場は廃棄され、普遍的で包括的な計画に置き換えられるべきだ、というのは、全く不可能なプロジェクトだった。
 マルクス主義教理は人間社会を巨大な収容所へと変形させる優れた青写真だと、19世紀の終わり頃に、主としてアナキストたちによって、気づかれていた。
 たしかに、そのことはマルクスの意図ではなかった。しかしそれは、彼が考案した栄光にみちた、最終的な慈愛あふれるユートピア思想の、避けられない効果(effect)だった。
 5 理論上の教義的マルクス主義は、いくつかの学術上の世界の通路に、その貧しい存在を長くとどめている。
 それがもつ容量はきわめて乏しい。だがしかし、つぎのことは想像に難くない。すなわち、実際には一体の理論としてのマルクス主義との接触を失っているが曖昧ながらも資本主義かそれとも反資本主義かという問題として提示することのできる論争点を探し求める、一定の知的には悲惨だが声高の運動に支えられて、その力を大きくするだろう。
 (資本主義かそれとも反資本主義かという考え方は、決して明瞭ではないが、マルクス主義の伝統に由来していると感じられるようにして採用される。)
 6 共産主義イデオロギーは、死後硬直の状態にあるように見える。そして、なおもそれを用いる体制はおぞましく、したがってその蘇生は不可能であるように見えるかもしれない。
 しかし、このような予言(または反予言)を慌ててしないでほしい。
 栄養を与え、このイデオロギーを利用する社会条件は、まだなお生き返ることがありうる。
 おそらくは―誰にも正確には分からないが―、ウィルスは眠りながら、つぎの機会を待っている
 完璧な社会を求める夢想は、我々の文明に永続的に備わっているものだ。
 ***
 これら三巻は、1968-1976年にポーランド語で執筆された。そのとき、ポーランドで出版することができるとは、夢にも思っていなかった。
 これらはパリで 1976-78年にInstitute Littéraire によって出版され、ポーランドでは地下で複写出版が行われた。
 その次のポーランド語版は、1988年にロンドンで、Aneks 出版社によって刊行された。
 2000年になってようやく、この書物はポーランドで合法的に出版された(Zysk 出版社による)。そのときには、検閲と共産主義体制が消滅していた。
 P. S. Falla により翻訳された英語版は、Oxford University Press により1978年に出版された。
 つづいて、ドイツ、オランダ、イタリア、セルビア、スペインの各語での翻訳版が出版された。
 中国語版が存在すると私は告げられたが、見たことは一度もない。
 二つの巻のみが、フランス語版として出版されている。なぜ第三巻のフランス語版は刊行されていないのか、出版社(Fayard)は説明することができない。私は、その理由をつぎのように推測している。
 第三巻は、出版者があえて危険を冒すのを怖れるほどの憤慨を、フランスの左翼主義者(Leftists)を刺激して発生させたのだろう。
 Leszek Kolakowski /Oxford /2004年7月
 ----
 以上。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1839/レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の全巻「緒言」。

 レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ポーランド語、1976年)はフランス・パリで刊行され、翌1977年に原語からの直接訳として第一巻のドイツ語版が出版された(R.Piper & Co. Verlag, München & Zürich)。同じくハード・カバーで原語からの直接訳である英語版の第一巻はさらにその翌年の1978年に出版された(Clarendon Press・Oxford University Press)。
 これらには、第一巻以降の各巻の序言(Einleitung, introduction)とは別の、全巻を想定した「緒言(はしがき)」(Vorwort, Preface)目次(Inhalt, contents)よりも前に付されている。
 以下は、その試訳。ドイツ語版で最初に粗い翻訳をし、のちに英語版も含めた両者を見ていちおう確定した。
 少しは原文が違うのではないかと感じるほどに、文法構造や単語が異なっている部分もある。但し、基本的な趣旨が変わっているわけではないだろう。
 一文ごとに改行する。改行があるまでの各段落には、原文・独英訳書にはない番号((1)~)を付けた。
 ----
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ドイツ語1977年, 英語1978年)。
 緒言(はしがき、Vorwort, Preface)。
 (1) 一冊の教科書を書くのが私の意図だった。
 こう言っても、私独自の見解、志向や解釈原則から自由に、争う余地のない方法でマルクス主義の歴史を叙述するのに私は成功した、という馬鹿げた主張をしているのではない。
 私はそれでただ、緩みのある論考の形でではなく、私の見解と一致するかどうかとは関係なく、この主題への手引きを探している全ての人々が利用できる重要な事項を含み込むことが可能な方法で叙述するよう努めた、ということを意味させている。
 私はまた、叙述の中に私の論評を隠し込むのではなく、私自身の見解を別の、明瞭に画定された文章部分で提示するように意を尽くした。
 (2) 当然のこととして、ある著者による素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性について、その著者の見解や志向が反映されるのは避けられない。
 しかし、政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ、かりに全ての事実の提示は著者の個人的な見解によって歪められ、実際に多かれ少なかれ恣意的に構成されたものだとすれば、したがってまた歴史的説明なるものは存在せずたんに一連の歴史的評価のみがある、ということを最初から前提にするとすれば、いかなる種類の歴史的手引書を編成することも、全く不可能だろう。
 (3) この書物はマルクス主義の歴史、すなわちマルクス主義という一つの教理(Lehre, doctrine)の歴史、を叙述する試みだ。
 社会主義思想の歴史ではなく、この教理を多様な版型で独自のイデオロギーとして採用した政治的党派や運動の歴史でもない。
 強調する必要がないことだが、こうした区別は単純には貫徹できない。とりわけ理論家や思想家の作業と政治的な闘争の関係が明白でありかつ緊密であるために、マルクス主義の場合には微妙だ。
 それにもかかわらず、いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を「生きている全体」から切り出すことを余儀なくされる。
 これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになるだろう。
 この書物に教科書たる性格を付与するもう一つの特徴は、教理の発展とその政治的イデオロギーとしての機能の間の関係をさし示す基礎的事実を、可能なかぎり簡潔にだが示した、ということだ。
 全体が、私の注釈の付いた説話だ。
 (4)  論争の対象ではないマルクス主義の解釈にかかわる問題は、ほとんど一つも存在しない。
 私はそうした議論のうち最も重要なものに着目するよう努めた。だが、著作を研究してその見解や解釈に私は与しない全ての歴史家や論評者の見解を詳細に分析しようとすれば、この書物の射程をすっかり超えてしまうだろう。
 この書物は、特別に新しいマルクス解釈の提示を主張するものではない。
 私のマルクスのテキストの読み方が他の解釈以上に多くルカチ(Lukács)の影響をうけたことも、容易に気づかれるだろう(このことは、私がルカチのマルクス理解に縛られていることを意味しない)。
 (5) 看取されるだろうように、この書物は単一の原理でもって小区分されてはいない。
 自己充足的な全体の一部として特定の人物または志向を叙述することが必要だと思われる場合には、純粋に年代的な叙述編成に執着するのは不可能だということが分かった。
 個別諸巻へのこの書物の区分けは基本的には年代史的だが、しかし、この点でも私は、マルクス主義の異なる傾向を分離した主題としてできるかぎりの範囲で論述するために、ある程度は一貫性が欠けるのを自らに許容せざるを得なかった。
 (6) 第一巻の最初の草稿を、私は1968年に書いた。その年、ワルシャワ大学での講座職から離れた後で利用できた自由な時間を活用した。
 数年のちに、この巻について多数の補足、訂正および変更が避けられないことが判った。
 私は第二巻を1970年から1973年までに、第三巻を1975年から1976年までに書いた。Oxford の All Souls College が与えてくれた研究員たる地位を利用した。そして、この研究員たる特権的地位なくしてはこれらの諸巻を書けなかっただろうことは、ほとんど確実だ。
 (7)  この書物は、委細を尽くした文献目録を含んではおらず、出典や主要な注釈書を参照したい読者のために言及だけを行っている。
 私が言及している諸著作の中に、今日では個々の読者が理解するには残念ながらもはやあまりに広範囲すぎる文献への参照を見出すのはどの読者にも容易だろう。
 (8)  私の二人のワルシャワの友人、思想史学者のAndrzeji Walicki 博士と数学者のRyszard Herczynski 博士は、第二巻の草稿を読んでくれた。多数の有益で批判的な言及と刺激について、二人に感謝する。
 全体の原稿は、私の他には、職業は医師であり精神科医である私の妻、Tamara Kolakowska 博士だけが目を通した。
 私が執筆する全てと同じように、この書物もまた、彼女の批判的な読み方と冷静な理解力にきわめて多くを負っている。
 Leszek Kolakowski
 ----
 以上。

1838/2018年8月-秋月瑛二の想念④。

 月刊正論2017年3月号の「編集部作成」のチャート(マップ)は、「保守の指標」と題しつつ右上・左上・左下・右下という反時計回りの4象限をつぎのように示す。
 B/自虐・対米協調派 A/自尊・対米協調派
 C/自虐・対米不信派 D/自尊・対米不信派。
 月刊正論・産経新聞はAで、朝日新聞はCなのだそうだ。
 秋月瑛二が2017年の1/30や2/02で示したのは、つぎだった。
 B/リベラル・保守 A/ナショナル・保守
 C/リベラル・容共 D/共産主義(=ナショナル・容共)。

 対米協調・不信+自尊・自虐という二基準と保守・容共+リベラル・ナショナルという二基準とどちらが「優れて」いるか、あるいは少なくともどちらが<視野が広い>か、ということには再びたちいりはしない。
 ここで問題にしたいのは、こうした何らかの二つの要素だけを組み合わせた<社会思潮>の四分類程度で複雑・多岐にわたる「思想」・「意識」等を整理・把握できるのか、という問題設定の仕方そのものだ。
 なるほどある程度の「単純化」は必要で、そうしないと「知的」作業が成り立たない。
 しかし、わずかの四分類(四象限化)で済ませること自体が、タテ・ヨコ(上下・左右)の二次元しかない一枚の(平面の)紙の上の作業であることの限界を示しているだろう。
 つまり、三つ目の対立軸を立てて、平面四角形ではなく、サイコロの形のような立体的、三次元的四方型を想定しての思考方法を、最低でも、しなければならないだろう。
 ヒト・人間の本能に内在する感覚からしても、この程度の思考程度はかなり容易に行えそうな気がする。二次元の四象限化程度では、<簡略化>が行き過ぎている可能性がすこぶる高い。
 上のような四象限化を「公式に」示した月刊正論編集部は、その頭の単純さを暴露しているようなものだ。もっとも、それにお付き合いして対案を考えた秋月もおかしいかもしれない。
 もっと多様で柔軟な発想をすべきで、思考の方法や基準を「硬直」させてしまってはだめだ。
 ***
 例えば、「日本会議」と日本共産党は、真反対の側にいると相互に意識しているかもしれない。
 例えば平面上に一つの円があるとして、かりに前者が左端近くに、後者が右端近くにある、としよう(これも、あくまでかりにだ)。たしかに、両者は真反対の側にいて、対立しているように見える。
 しかし、その同じ円形を底面・上面とする円柱を、つぎに想定してみる。
 底から、または上からその円柱を覗いたとする。
 たしかに真下又は真上から見ると、両者は真反対側にいて対立しているようだ。
 しかし、例えば透明の円柱全体を横から眺めたとすると、「日本会議」と日本共産党はいずれも、底面部(下部)又は表面部(上部)に並ぶように存在していて、円柱全体の中ではきわめて近い位置にいる、ということが考えられる。
 対立していそうでいて、この両者は、それぞれの「観念」的な単純発想において、きわめてよく似ているのではあるまいか。
 いつか、つぎの趣旨を書いたことがある。
 不破哲三・日本共産党は「未来」にユートピアを求め、櫻井よしこ・「日本会議」は(日本の歴史・伝統/天皇という)「過去」に理想を求めようとする
 いずれも現在・現況に不満で、過去か未来の「空中の一点」に変革・回復目標を設定する点で、共通しているのではないか。
 むろん、これらは、現存勢力の支持・団結を維持し拡大するという、世俗的・卑近的な「政治的」目的をもつことでも共通するが、これは今回はさて措く。
 円柱を想定するとすれば、もちろんそれ以上に、円球、つまり地球のような丸い立体を想定し、かつその表面部分(地表面や海面)だけではなく、透明なガラス球のごとく内部・奥(地底・海底)も見える、という球形を想定することができるだろう。
 先だって、宇宙空間にいて眺めているような発想が必要だとも書いた。かりに上下・左右・前後について可視能力のある点的な物体の中に認識主体がいるとすれば、それ自体または他者の移動の方向が<上下・左右・前後>のいずれであるのは分からない、それらのいずれでもありうるのではないか、ということを書いた。
 だが、発想・思考のためには何らかの「軸」が必要だとすると、東経・西経/北緯・南緯の二つの軸で表現しうる地表面(・海面)に加えて、地球の中心(地核)までの距離(深さ)をも加えた三つの軸くらいはやはり必要かもしれない。そうでないと、全てが<相対的>になる。
 またこのように円球を想定した思考は、サイコロ的四方型を想定するよりも、はるかに複雑な思考をすることができる。
 上下・縦横・左右の三次元的発想によると、四象限ではなく、2×2×2の八象限化が可能だ。これでも線的(一次元)、平面的(二次元的)思考よりは、優れている。
 だが、所詮はまだ、<社会思潮>等を八つに分類することができるにすぎない。
 世の中には、もっと多数の、無数に近い論点、対立点がある。
 この点、その「内部」を含めた、表面ではなくてむしろ「内部」の位置こそに注目する円球・地球的発想では、ほとんど無限の位置を設定でき、かつ何らかの方法・基準・指標でそれを表現することが可能だ。
 もとより、ヒト・人間の一個体には、このような厳密で複雑な作業をする能力はない。しかし、発想としては、この程度に複雑・多様であることを意識して、「観念」化・「硬直」化を可能なかぎり回避する必要がある。
 唐突だが、では上の「厳密で複雑な作業」をITはすることができるか。将来的にも、絶対にすることはできないだろう。


1837/2018年8月-秋月瑛二の想念③。

 一 「知」的作業は何らかの「価値」をもち得るので、対価を受けることは当然にあり得る。そのこと自体を問題視しているのではない。
 ただ、指摘しておきたいのは、対価という「金」は自分自身や自分に頼る「身内」が食って生きていくための資力そのものなので、<食って生きて>ゆくために「知」的表現内容を微小とも(または大きく?)変えるというのは、十分にあり得る、ということだ。
 この原稿のままでは編集者は「いい顔をしないかもしれない」、この雑誌の読者には支持されそうにない、この新聞の読者層が関心をもってくれるだろうか、反論・批判が山のように編集部に届くとイヤだなあ、等々。
 こういうことを一切考慮しないで、日本の<言論人>・<評論家>たちは「自由」に、「独立」して、「知」的表現活動を行っているだろうか。
 誰でも最低限度<食って生きる>ことを考えるだろうから、このこと自体もまた、一概に非難することはできないだろう。
 しかし、読者としては、そういう考慮もして原稿を書き、「知」の作業をしている論者もいる、ということを意識しておくべきだろう。
 固有名詞は挙げないが、私にはつぎの趣旨の文章の記憶があって、印象に残っている。
 一つ。ある人が、某新聞紙上で<~と私をネットで批判する人がいるが、その当時は、これの他に見解発表媒体はなかったのだから、仕方ないではないか、という旨を書いていた。
 二つ。別のある人が、既発表のものを集めた某単行本の中で、この当時はこれが発表できるギリギリの線でした、という旨を書いていた。
 要するに、発表媒体を何とかして持ちたい「言論人」もいること、「知」的作業の発表内容を雑誌によって<自主規制>している「言論人」も明瞭に存在している、ということだ。
 そうした「言論」の内容が、完全に<自由>なものになっているはずはないだろう。
 関連して、前回に触れた、自己を<差別化>するための言論という例も思い浮かべることができるが、固有名詞を挙げるのがこの稿の目的ではない。
 別に「知」というものの虚像性には触れたい。
 ともあれ、現に世俗の世界で行われている「知識」や「理解」あるいは「評論」の作業は、生きているヒトの行動として、人間・ヒトの本能や限界から全く自由というわけではない。少なくとも、この秋月瑛二の書きものとは違って、「金」=対価や「名誉・顕名」と関係があるかぎりは。
 二 議場での議長席や演壇・演説者台から見るとたしかに、議場の「左翼」と「右翼」(およびその中間)という感覚が先立つだろう。
 だが、前回の述べ方には不十分さがある。すなわち、ヒトは二本脚を持ち、左右の二本の腕を(ふつうは)持つので、そうでなくとも<右と左>の感覚は本能的にあるだろう。
 そして、第一に、脚で地上に立つということ自体、下へと働く強い「引力」とそれがない「上」の区別の意識もまた、本能的に内在させていると思われる。
 第二に、脚で歩くのは「前を向いて」だから、人間の眼が前方しか見えない(真後ろが見えると怪人だろう)結果として、見えない「うしろ」の感覚も、要するに「前と後」を区別するという意識も、本能的に持つものと思われる。
 この第二の点は、重要なことだ。つまり、<前進と後退>、<進歩と退却>という意識は相当に強く人間に根ざしていて、前者をこそ、つまりは<前進>や<進歩>を後者と違って「良い」ものとする思考は、かなり本能に近いように見える。
 「前進」と題する機関紙をもつ政治団体もあるようだし、日本共産党中央委員会の月刊雑誌は「前衛」と題する。
 逸れかかるのかは止めるが、こうなってくると、<進歩>か後退・保守または反動かは、そもそも言葉の上で最初から勝負がついているようなものだ。
 もともと、「前進」は、前へと「進む」のは、ヒト・人間にとって必要不可欠で、「良い」ものにほとんど決まっているのだ。
 元に戻って、さらに続けよう。
 こうして、少なくとも三次元(左右・上下・前後)の意識を人間は本来有しているはずなのに、<右か左か>、<(共産主義を含む又は容認する意味での)民主主義かファシズム・軍国主義か>という左右線的、二項対立的思考がなおも強いように思われるのは、いったいどうしてだろうか。最も単純な「発想」を選びたいのかもしれない。
 <アベ政治を許さない>のか否か、<安倍政権の敵か味方か>(産経新聞社『月刊正論』のある号の目次・冒頭)という発想も全く同じのようなものだ。
 もっとも、月刊正論編集部はたぶん2016年末か2017年初頭に、公式に?四象限からなる「思想」チャートを示したことがあった。ヨコ軸とタテ軸を使う、線的思考ではない、平面的(二次元的)思考での整理だと言える。
 その内容の欠陥にいささか驚いて、私なりの四象限チャートをこの欄に示したこともある。
 それぞれを確認するために、ここで区切ろう。
 別の論脈だが、「自分」と「他者」、「自分たち」と「それ以外」、<内と外>、<味方と敵>。
 これらはかなり本能に根ざしているだろう。しかし、<内と外>や<味方と敵>という二分を狂熱的に意識してしまうと、いったいどうなるだろう。こんなことにも触れたい。

1836/2018年8月-秋月瑛二の想念②。

 一 「知識」や「思考」の作業やそれを発表する作業もまた、<食って生きて>いくことと無関係ではありえない。綺麗事や理念のために「知的」営為が行われてきたとは全く限らない。
 こう前回に書いた。ではこのブログ欄はどうなのかが問題になる。やはり昨年に何度かつぎのように書いていた。
 大海の深底に棲息する小さな貝の一呼吸が生じさせる海水の微少な揺れのようなものだ。
 全ての個人・組織(・団体)から「自由」であり、「自由」とは孤立している、孤独だ、いうことでもある。
 というわけで、かりに「知的」営為だとしても(少なくとも、単にうまい、きれい、かっこいいとだけ何かに反応しているのではない)、私の場合は<食って生きて>いくことと何の関係もない。生業・職業ではないし、何らかの経済的利益を生む副業でもない。誰かに命じられて書き込んで「小遣い銭」をもらっているわけでもない。
 しばしば何のためにこの欄を、と思ってきて、途中で止めようと思って放置したこともあった。せいぜい読書メモとしてでも残していこうかと思って1800回以上の投稿になったのだが、このブログ・サイトというのは自分が感じまたは考えたことを時期とともに記録し、検索可能なほどにうまく整理してくれる便利なトゥールだと徐々に明確に意識したからだろう。
 このような<自分のための>という生物の個体固有のエゴイズム以外に、この「知的」営為の根源はないだろう。
 ときに閲覧者数が数ヶ月にわたってゼロであれば(数字だけはおおよそ分かるが、かなり早くから-日本国憲法「無効」論者から「どアホ!」と貼り付けられてから-、コメント・トラックバックを遮断している)止めようかと思ったりする。それでもしかし、つまり読者ゼロでも、上の便利な機能は生きているので、やはり残して、気がむけば何かを表現しようとし思っている。
 最近はこういう秋月瑛二のような発信者も多いかもしれない。
 しかし、新聞・雑誌に活字になる文章やテレビ等で発言される言葉には「知的」作業そのものだったり、その結果だったりするものの方が多いだろう(政治・社会に直接の関係がなくとも)。
 二 そのような「知識」や「思考」の作業あるいは「知的」営為は、いかなる<情念>あるいは<衝動・駆動>にもとづいてなされているのだろうか。近年は従前よりも、こうしたことに関心を持つ。
 だいぶ前にJ・J・ルソーの<人間不平等起源論>を邦訳書で読み終えて、この人には、自分を評価しない(=冷遇した)ジュネーブ知識人界(・社交界?)への意趣返し、それへの反発・鬱憤があるのではないか、とふと感じたことがあった。
 ついでに思い出すと(この欄で既述)、読んだ邦訳書の訳者か解説者だった「東京大学名誉教授」は、その本の末尾に、「自然に帰れ!」と書いたらしいルソーに着目して、ルソーは自然保護・環境保護運動の始祖かもしれない旨を記していた。「アホ」が極まる(たぶんフランス文学者)。
 戻ると、「知的」文章書き等のエネルギーの多くは、①金か②名誉だろう。
 別の分類をすると、A・自分が帰属する組織(新聞社等)の仕事としてか、またはB・フリーの執筆者として(対価を得て)、「知的」文章書き等をしているのだろう。
 後者には、いわゆる評論家類、「~名誉教授」肩書者、現役大学教授や大手研究所主任等だが本来の仕事とは別に新聞や雑誌等に寄稿している者も含む。
 これらA・Bのいずれの場合でも、①金の出所にはなる(義務的仕事の一部か又は原稿料としてか)。
 また、Aの場合でも、自分が帰属する(何らかの傾向のある)組織の中で目立って社会的にはかりに別としても組織内で「出世」することは、つまるところは金または自分の生活条件を快適にする(良くする)ことにつながるだろう。組織・会社の一員としての文章であっても、<名誉・顕名→金>なのだ。
 Bの場合には、<名誉・顕名→金>という関係にあることは明確だろう。
 そして名誉又は顕名、要するに<名前を売って目立つ>ためには同業他者と比べて自分を<差別化>しなければならない。あるいは<角をつける>必要がある。
 そのような観点から、敢えて人によれば奇矯な、あるいは珍しい主張を文章化する者もいるかもしれない。
 但し、この場合、a文筆が完全に「職業・生業」であるフリーの人と、b別に大学・研究所等に所属していて決まった報酬等を得ているが、随時に新聞・雑誌等に「知的」作業またはその結果を発表している人とでは、分けて考える必要がおそらくあるだろう。
 食って生きる-そのための財貨を得る、ということのために、a文筆が完全に「職業・生業」の人にとっては、原稿等発表の場を得るか、それがどう評価されるかは直接に「生活」にかかわる。なお、おそらく節税対策だろう、この中に含まれる人であっても「-研究所」とかの自分を代表とする法人を作っている場合もある。
 櫻井よしこ、江崎道朗。武田徹、中島岳志の名前が浮かんできた。
 四人ともに、それぞれに、上に書いたことに沿って論じることもできる。
 それぞれについて、書きたいことは異なる。しかし、書き始めると数回はかかるだろう。

1835/2018年8月-秋月瑛二の想念。

 昨年、2017年の5-6月頃、つぎの「三相・三層・三面」の対立軸若しくは闘い又は目標を意識すべきだと記していたことがあった。
 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)との闘い。
 2) 「共産主義(communism)」と強いていえば「自由主義」の対立軸の措定。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」の追求
 説明をなお要するが、つぎを除き、基本的趣旨を繰り返さない。
 日本ではまだ全体として、1)の次元が解決されておらず、2)も明確ではなく、3)だけを肥大化させる、より基本的な論点を忘却させる傾向もある。2)で終わっただけでもまだ不十分なのではあるが。
 ----
 さらに、この一年間、日本人も人間も「ヒト」という生物の種の一個体だということを意識すると、種々のことが私なりに理解できるようになった、と感じている。
 いくつかある。
 第一。産まれて、生きて、死んでいく。この、永続的な生命を何人も有しないということこそ、人間と社会を考えるための最も根幹的なことだ。つぎの付随的なことも出てくる。
 個々人が一生の間に理解し、思考できることには限界がある。限られた時間の中で得た知識、思考等は自動的に次の世代に「相続」されるわけではない。DNAの変化にはよほどの長い時間が要る。
 日本人または人類全体としては「知識」・「思考」量は増えていっている、というのは幻想で、<日本人または人類全体>としての知識・思考を、誰一人として個人的に有しはしない。個々のヒト、一個体としての人間には、絶対的な限界がある。
 第二。「偉大」とされる哲学者・思想家も凡人の秋月瑛二も、上の点では本質的な違いはない。
 まだ若かった頃は、天才あるいは傑出した人物は存在し、とても理解できない難解で優れたことを思考し、発言し、あるいは行動したのだろうと漠然と思っていた。
 もちろん、相対的には差違の程度はある。しかし、本質的に同じヒトたる者が思考したり、行動したりすることには絶対的な限界がある。。
 したがって、ギリシャ(?)から現代まで、「哲学」や「思想」が分からなくとも、少なくとも大きな劣等意識をもつ必要はない。哲学者・思想家らしき者たちもまた、全てを「理解」しているわけではない。多数の人それぞれが、それぞれの時代に、それぞれの言語で、何らかの目的のために懸命に<もがいてきた>
 第三。人間はヒトとして<食って生きて>いく必要があるので、「知識」や「思考」の作業やそれを発表する作業もまた、<食って生きて>いくことと無関係ではありえない
 真理のため、人類のため、国家社会のため、といった<綺麗事>で、あるいは何らかの<理念>に仕えるために、「知的」営為が行われてきた、行われている、とは全く限らない。
 第四。動物の多くが二つの眼を、かつ<前方向きに>持つのは不思議なことで、人間・ヒトにもまた、<前と後>あるいは<前進と後退>の意識が本能的に内在し、同時に前方を向いての<左と右>という内在的で本能的な意識もある。こうしたことは、社会認識・社会観にも影響を与えている。
 フランス革命期の議会に「左翼」・「右翼」の語源はあるらしい。
 ここで欠けているのは、前方の右・左ではない「うしろ」もある、という感覚だ。さらに、会場の「上」にある空も、「下」にある地底もある、という感覚も欠けている。
 単純な冒頭の1)の 「民主主義対ファシズム」という歴史観・社会観には、この名残りが色濃くある。
 そしてまた、冒頭の「三相・三層・三面」の対立軸で思考するのも、考慮要素がまだあまりにも少なすぎる。
 点的・線的思考ではなく、重層的・多次元的思考が必要だが、かりに<宇宙空間的>思考とでも言おう。
 宇宙空間のいずれかの、前後上下左右を全て見渡せる一点に認識主体がいてかつ移動しているとして、いったいどちらが<右・左>、<前・後>・<上・下>なのだろうか。右に進んでいるように見えて循環して左に向かっているかもしれない。前後、上下も同じ。
 強引にここで結びつければ、ヒト・人類の歴史は<不断に進歩している>という無意識の観念があるとすれば、それは誤った、一種の<願望>にすぎないだろう
 <進歩>か否か、<前進>か否か、<良く>なっているか否かははたして、何でもって「判断」できるのか。「正しい」か否か、「改良・改善」か否かの規準は、いったい何なのだろうか。
 当たり前かもしれない、漠然としたこういう想念を、少しは-日本の現実とも関連させて-記してみようか。

1834/T・ジャットによるL・コワコフスキ死後の追悼文。

 産まれて、生きて、死んでゆく。
 In the long run, we are all dead. 長く走ったあと、人はみんな、死んでいる。
 TONY JUDT の最後の著作である、つぎの書物の第5部は "In the Long Run, We Are All Dead." と題され、 Francois Furet (1927-1997, フランソワ・フュレ)、Amos Elon(1926-2009)およびLeszek Kolakowski (1927-2009, レシェク・コワコフスキ)という三人に対する追悼文で成っている。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015) .
 このうちL・コワコフスキに対するものはすでにこの欄で「哀惜感あふれる」印象的な文章だとコメントをしたことがあった。
 いずれきちんと日本語文に訳してみたいと思っていた。
 S・フィツパトリクの英語文だけ読んでいると別の人の文章も読みたくなる。
 R・パイプスやL・コワコフスキの文章を一瞥しているうちに、L・コワコフスキに関するTony Judt の追悼文を思い出した。
 (S・フィツパトリクの本の試訳は丸数字のある⑳回で完結させるべく続ける予定だ。)
 この追悼文は上の著全体の最後に位置づけられており、この欄で再度別に叙述するかもしれないが、公にされるTony Judtの<絶筆>であった可能性もある。この人は<自分の近づく死>については微塵も語っていないが、10年以上前のフランソワ・フュレの追悼文とは、かなり雰囲気又は叙述の仕方が違うように感じなくはない。実際に約1年後に、T・ジャットも逝去する。
 また、この文章は、Tony Judt が全身の麻痺のために口述しかできないときに書かれている。口述文章を妻や助手たちが文字入力を助けて、原稿にしたらしい。
 上のことは、以下の「追悼文」を書いたTony Judt の上の本の編者であり妻だった Jennifer Homans の序文に書かれている。この序文はまた、亡夫Tony Judtに対する「追悼文」にもなっている。
 こうした背景も知るだけでもいささかの心理的負担を感じる。さらに、ふつうの歴史叙述等でもない、故人に関する人格的な思い出・感想や評価が内容であるだけに、訳出は必ずしも容易ではなく、英語の言葉や文章を日本語に置き換える作業をしていて、何か重要な意味やニュアンスがつぎつぎと逃げ去っていくような感覚を拭い難い。
 しかし、このようなL・コワコフスキへの<追悼文>が存在していることだけでも、日本では知られてよいだろうと思われる。
 また、お互いの面識関係はなかったと思われる人物について、元来はヨーロッパ戦後史の歴史研究者で、<戦後フランスの左翼>をとくに専門分野としていたTony Judt が、L・コワコフスキについてこれだけの文章を書くことができるということから(あるいはマルクス主義や宗教等にも幅広い関心と知識をもつことから)、日本にはおそらく稀少な、「アメリカ」(これには注釈が要るが省略)にいる知識人の一種の<すごさ>を感じてもよいと思われる。
 以下、全体の試訳の紹介。//は本来の改行箇所。<>はイタリック体になっている部分。
 なお、以下の文章の最後に、「この論考はThe New York Review of Books の2009年9月号に最初に発表された」との注記がある。
 ---
 レシェク・コワコフスキ(1927-2009)。//
 私は一度だけ、コワコフスキの講演を聴いた。
 それは1987年、Harvard でのことで、そのとき彼は、故Judith Shklar が教えていた政治理論の演習のゲストだった。
 <マルクス主義の主要潮流>はその近年にイギリスで刊行されていて、彼はきわめて高名だった。
 あまりに多数の学生たちが彼の話を聞きたかったので、講演場所は大きな公共の講堂に移され、客員たちは出席するのが許された。
 私はたまたまCambridge 〔Harvard 大学のある町〕にある会合のために来ていて、何人かの友人たちと一緒に続いた。//
 誘惑するごとく示唆的なコワコフスキの話のタイトルは、『歴史における悪魔』(The Devil in History)だった。
 しばらくの間は、学生、教授および聴衆たちが集中して聴いていて、静かだった。
 コワコフスキの著作はそこにいる多くの者によく知られていて、彼の反語や厳密な推論への強い嗜好には馴染みがあった。
 しかし、そうであっても、聴衆には明らかに、彼の論述に付いていくのが困難になった。
 いくらそう努力しても、彼の暗喩を解読することができなかった。
 多大な困惑の雰囲気が、講堂を覆い始めた。
 そのときだった。話の三分の一くらいのとき、私の隣にいた友人-Timothy Garton Ash-が凭りかかってきた。
 彼は、囁いた。『分かった。いま本当に、彼は悪魔について語っている』。
 そして、コワコフスキは実際にそうだった。//
 悪というものをきわめて真剣に考察するというのは、レシェク・コワコフスキの知的な軌跡の際立つ特質の一つだった。
 彼の見解によると、マルクスの前提命題の過ちの一つは、全ての人間の欠点は社会環境に根ざしている、という観念だった。
 マルクスは、『対立や憤激の源には人間という種の永遠の特性に固有のものがいくつかあるという可能性を、完全に見落とした』。(1)
 あるいは、彼がHarvard での講演でつぎのように表現したように。すなわち、『悪は…、偶発的なものではなく…、頑強な、くつがえすことのできない(unredeemable)事実だ』。
 ナツィによる占領とそれに続くソヴィエトによる支配を生き抜いたレシェク・コワコフスキにとって、『悪魔とは我々の経験の一部だ。極めて深刻に受け取るべきメッセージとして、我々の世代はそれを十分に見てきた』。(2)//
 近日の81歳でのコワコフスキの逝去の後に書かれた多くの追悼記事は、みな揃って、この人物のこの側面を惜しんだ。
 これは何ら、驚くべきことではない。
 世界の多くがまだなお神を信じ、宗教的慣習を行っているにもかかわらず、西側の今日の知識人たちや評論家たちにとって、信仰を明らかにするという考えには心が落ち着かないところがある。
 宗教に関して大っぴらに議論すると、自惚れに満ちた拒絶(たしかに『神』は実在しない。だがともかく、全ては神に原因がある)と盲目的な忠誠の間の不愉快な気分が突然に生じてしまう。
 コワコフスキのような才幹をもつ知識人かつ研究者が宗教や宗教的思想ばかりではなくまさに悪魔それ自体を真剣に考察した、というのは、そうでなくともこの人物を尊敬している人々にとってはミステリーであり、無視してしまいたいことだ。//
 コワコフスキの視野の射程はさらに、つぎのことでさらに複雑になっている。すなわち、公的な宗教(とくに彼自身のカトリック教)を無批判に特効薬だと見る考え方に懐疑的で距離を置いたこと、および宗教思想史の研究者としての卓抜さ(3) と同等に唯一の国際的に高名なマルクス主義研究者だ主張しうる彼の独特の地位によって。
 キリスト教の教派やその文献に関する研究でのコワコフスキの専門知識は、原典の権威が階層的構造のある大小の聖典をもち、異端的反対者もいるという、宗教的根本教条としてのマルクス主義に関する彼の影響力ある論述に、深さと痛烈さを加えている。
 レシェク・コワコフスキがOxfordの同僚たちや中央ヨーロッパの友人であるIsaiah Berlin(I・バーリン)と共有しているのは、全ての教条的な確信に対する、迷妄から離れた懐疑であり、政治的または倫理的な全ての意味を維持するための代償の必要性を承認することを哀しみをもって主張する点だ。すなわち、経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであることや、貨幣が自動的にさらに多くの貨幣を生み出すべきではないことには十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は厳密にそのようなことのために導入されるべきであって、より高次の自由の制限は導入されるべきではない。(4)//
 彼は、20世紀史の初めに急進的な政治改革は道徳的または人間的犠牲をほとんど払わずしてなされ得ると想定した者たち、あるいは、その対価は重要であったとしても、将来の利益のためには無視することができると想定した者たちには、ほとんど我慢することができなかった。
 一方で彼は、人間の永遠の真実を獲得すると偽って主張する全ての単純な定理に対して、一貫して抵抗した。
 他方でまた、それらがいかに不便なものであったとしても、人間の態様に関する自明の一定の特質はあまりに明白であって無視してよいものと見なした。//
 『我々は多くの陳腐な真実を示唆することに強く反対する、ということは何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは全ての知の領域で生じていることで、それは人間生活に関する自明なことのほとんどは不愉快なものだからだ。』(5) //
 しかし、このような考察は反動主義者または静寂主義者の反応を意味しているわけではない-そして、コワコフスキにとってもそうでなかった。
 マルクス主義は、世界史の範疇での過ちだったかもしれなかった。
 しかし、だからと言って、社会主義は完全な厄災だった、ということになるわけではなかった。また、我々は、人間の条件を改良すべく働くことができないとか働くべきではないとかの結論を導く必要はなかった。//
 『正義、安全保障、教育の機会、福祉および貧者や無力者への国家の責任の向上または拡大をもたらすために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは全て、社会主義イデオロギーと社会主義運動なくしては達成されることができなかった。未熟さや錯覚が多くあったとしても。…
 過去の経験が語ることは、一部は社会主義に味方し、一部は社会主義に反対している。』//
 社会の現実の複雑性に関するこの用心深い均衡のとれた評価-『人間の友愛は政治綱領としては災悪だが誘導する標識としてはなくてはなない』-はすでに、彼の世代の多くの知識人への接点にコワコフスキを位置づけるものだ。
 東でも西でも同様に、人間の改良には無限の可能性があるという過度の自信と、進歩という観念を未熟なままで放棄することの間で揺れ動くということが、いっそう共通の傾向になっている。
 コワコフスキは、この特徴的な20世紀にある見解の隔絶の筋違いに位置していた。
 彼の考えでは、人間の友愛は、『構成的観念というよりはむしろ調整的な観念』のままだ。//
 ここで得られる示唆は、我々が今日に社会的民主主義(social democracy)、あるいは大陸の西欧ではキリスト教民主主義の仲間たちと行っている一種の実際的な妥協だ。
 もちろん、今日の社会的民主主義はあまりにも偏愛されすぎて、敢えてその名前を出しはしないものだ、ということは別として。
 レシェク・コワコフスキは、社会的民主主義者(Social Democrat)ではなかった。
 しかし彼は、一度ならず、その時代の現実の政治史に批判的に関与した。
 共産主義国家の初期の時代に、コワコフスキは(まだ30歳でもなかったけれども)ポーランドでの指導的なマルクス主義哲学者だった。
 1956年以降、全ての批判的見解が遅かれ早かれ排除されることが運命づけられている地域で、異端的な思想を形成し、明瞭に唱えた。
 1966年に、ワルシャワ大学の哲学史の教授として、人民を裏切ったと共産党を強く非難する、有名な公開講演を行った。-これは、党幹部である自分の地位にかかわる、政治的勇気のある行為だった。
 予期されたごとく、彼は二年後に、西側へと追放された。
 コワコフスキはその後、国内にいる若い世代の反対派たちのための生き字引および目印として貢献した。彼らは、1970年代半ばからポーランドの政治的反対派の中核を形成することとなり、連帯(Solidality)運動を後援する知的エネルギーを提供し、1989年には現実の権力を握った。
 レシェク・コワコフスキはかくして、完全に知的に(知識人として)関与(engage intellectual)していたのだ。「関わり(engagement、アンガージュマン)」という偽善と虚栄を侮蔑していたにもかかわらず。
 第二次大戦後の世代の大陸ヨーロッパ人の思考では多く語られて理想化されていた、知識人の関与と「責任」は、コワコフスキには本質的に空虚な観念だった。//
 『知識人たちにはなぜ、特有の責任があるのか、なぜその他の人々とは異なる責任があるのか。そして、それは何を目的として? <中略>
 責任というたんなる感情は、それ自体は何の特有の義務意識も帰結しはしない形式上の美徳だ。すなわち、善の教条についても、悪の教条についてと同様に責任を感じることが可能なのだ。』
 この単純な考察は、フランスの実存主義者やそれのアングロ・アメリカンの崇拝者たちにはほとんど想いつかないもののように思える。
 他の点では責任感をもつ知識人がイデオロギー的確信および道徳的な一方的普遍主義の利益と同様にその対価(the cost)をも完全に理解するためには、完璧な悪の(左であれ右であれ)目標の魅力を生身で体験してみる必要があった、ということかもしれない。//
 上のことが示唆するように、レシェク・コワコフスキは、ハイデッガー、サルトルおよびこれらの追随者がとくに引き合いに出される、今日の学界での言葉遣いで通常は言われる意味でのふつうの「大陸哲学者」ではなかった。
 しかしまた、彼は、第二次大戦後に圧倒的に英語を用いる諸大学で見られるアングロ・アメリカンの思考方法と相当に共通していたのでもなかった。-このことは疑いなく、Oxford での彼の孤立と無視を説明するものだ。(7)
 カトリック神学に対する生涯にわたる疑問は別として、コワコフスキに特有の見方の射程は、認識の世界によりも、おそらくはむしろ十分に、体験に求められる。
 その最高傑作の著書の中で彼自身が観察したように、『あらゆる環境要因は、世界観の形成につながる。そして、<中略> 全ての現象は、尽きることのない無数の原因によるものだ。』(8)//
 コワコフスキ自身の場合は、無数の原因の中に、第二次大戦およびその後に続いた共産主義の厄災の歴史時代だけではなく、その厄災の数十年をくぐり抜けたポーランドの、そのまさに独特の環境が含まれている。
 というのは、コワコフスキの独自の思考が正確にいずこに向かうのかはつねに明白では必ずしもないけれども、その思考が「いずこにも存在ない場所」から生じたのでは決してない、ということは完璧に明瞭だからだ。//
 現代ヨーロッパ哲学者のうちで最も国際主義者(コスモポリタン)-主要な5カ国語とそれに付随する諸文化に習熟していた-であり、20年間以上国外に移住していたが、コワコフスキは決して「根なし草」ではなかった。
 例えばEdward Said (E・サイード)とは対照的に、彼は、あらゆる形態の共同体への忠誠を拒絶するというのは信義上可能であるのか、と問うた。
 どこかにいなくとも、どこかの外に完全にないときでも、コワコフスキは先天(居住民)主義の感情に対する終生の批判者だった。
 だがなお、彼の母国では称賛された。正しく、そうされた。
 骨格としてはヨーロッパ人だが、コワコフスキは汎ヨーロッパ主義者のナイーヴな幻想に対して公平な懐疑心をもって問い糾すことを決してやめなかった。汎ヨーロッパ主義者の同質化願望は、かつての時代の恐ろしい夢想家的ドグマを彼に思い起こさせるものだった。
 多様性は彼には、それがそれ自体で目標として偶像視されないかぎりでは、より慎重な主張であり、明確なナショナルな自己帰属意識(national identity)の維持によって確実にされることができるものであるように思えた。(9)
 コワコフスキは独特(unique)だったと結論づけるのは易しいだろう。
 アイロニー、道徳上の真剣さ、宗教的感性と認識論的懐疑主義、社会的関与と政治的疑念。彼がこれらの独特の混合体であるというのは、きわめて稀少なことだ。
 (彼は驚くべきほどにカリスマ性をもっていたことは語っておくべきだ。どのような集まりでも故Bernard Williams と同じ強さの磁力を発揮していた。同じ理由がいくつかあったからだ(10))。
 しかし、この理由によってこそ-カリスマ性も含めて-、彼はまた、まさに独特な血統の線上にしっかりと立っていた。
 彼がもつ完璧な広さの教養と知識、引喩家ぶり、迷妄なき機知、匿い場所となった好運な西側諸国の学問的偏狭さを辛抱強く受容したこと、いわば運命のいたずらによって明らかになる彼の特質を刻印したポーランドの20世紀の体験と記憶。これら全てが、亡きレシェク・コワコフスキを真の-おそらくは最後の-中央ヨーロッパ知識人だと識別(identify)させる。
 1890年と1930年の間のに生まれた男女二世代の人々にとって、20世紀の中央ヨーロッパに独特の経験は、ヨーロッパ文化の洗練された都市的中心地帯での多言語を用いる教育から成り立っていた。それは、全く同一の中心地帯(heartland)での独裁、戦争、占領、破滅、そしてジェノサイドという経験によって砥がれ、踏みつけられ、加えられたものだった。//
 正気のある人間ならば誰でも、このような心情的教育が生んだ思索と思想家の特性を正確に追体験するだけのためにのみ、この経験を繰り返したいとは望まないだろう。
 失われた共産主義東ヨーロッパの知的世界への郷愁を語ることは少しばかり不愉快なことだが、それ以上の何かがある。それは、他国民の抑圧による犠牲者に対する遺憾の想いと心地よくなく似たものによって覆われている。
 しかし、レシェク・コワコフスキが明瞭に主張した最初の人物だっただろうように、中央ヨーロッパの20世紀の歴史とその驚くべき知的な豊かさの間の関係は、それにもかかわらず、存在した。
 このことを、簡単に忘却することはできない。//
 生み出したものは、Judith Shklar が別の文脈でかつて「恐怖のリベラリズム」だと表現したものだった。すなわち、イデオロギーの過剰の結果を生身で経験したことで生じた、妥協せずして理性や穏健さを守ろうとすること。
 大厄災がある可能性を絶えず意識していること、好機または再生だと誤解されるときには最悪の形態をとる、自在に変幻する多様さのある全体支配的(totalizing)思考への誘惑についてのそれ。
 20世紀の歴史の軌跡で、<これ>こそが中央ヨーロッパの教訓だ。
 我々に幸運があるならば、これをしばらくの間は再び学ぶ必要はないはずだろう。そうするときには、それを教えてくれる人物が周りにいるだろうという希望をもつのがよい。
 そのときまで、我々は、コワコフスキを何度も読み返すだろう。//
 --------
 (1) "The Myth of Human Self-Identity", L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>(New York, Basic Books, 1974)所収、p.32. *
 (2) L・コワコフスキ「歴史における悪魔」<My Currrent Views on Everything>(South Bend, IN, St. Augustine's Press, 2005)所収、p.133.
 (3) 宗教思想史へのコワコフスキの接近方法を代表的に実証するものとして、例えば、<God Owes Nothing: パスカルの宗教とヤンセン主義の精神に関する簡単な論評>(Chicago: University of Chicago Press, 1995)を見よ。コワコフスキが20世紀のPascalian で、慎重に、忠誠ではなくて理性を重視していることは多くを語る必要がないだろう。
 (4) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>(Chicago: University of Chicago Press, 1990)、p.226-7.
 (5) L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>、p.32.
 (6) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.144.
 (7) いたる所で、彼の功績は広く承認されている。1983年にエラスムス賞が授与された。2004年に彼は、20年前にそこでのジェファーソン講演者だった国会図書館(the Library of Congress)のクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。三年後に、イェルサレム賞を授与された。
 (8) L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流, 第三巻: 瓦解>(New york: Clarendon Press, Oxford University Press, 1978)、p.339.Leon Wieseltier がこの言及部分を思い出させてくれたことに感謝している。
 (9) コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.59.Edward Said について、<Out of Place: A Memoir >(New York, Vintage, 2000)を見よ。
 (10) Cambridge での講演の後の彼を祝してのパーティのとき、私は深い敬意と多大な羨望をもって、ほとんど全ての若い女性たちが、すでに疲れていて杖で支えられていた60歳の老哲学者のいるコーナーへと部屋を移り歩いているのを、眺めていたことを想い出す。彼は、彼女たちの尊敬の眼差しの前で、会話を仕切っていた。完璧な知識がもつ磁場的な魅力というものを、決して低く評価すべきではない。 
 ----
 以上

1833/日本の邦訳書出版業界の<左傾>ぶりの一例。

 エリック・ホブスボーム著の邦訳書の多さは、驚くべきほどだ。
 以下は、私が知ることのできた全てではない。面倒になったのでかなり省略した。一部にすぎない。
 E・ホブスボーム・反抗の原初形態―千年王国主義と社会運動/青木保訳(中公新書、1971) 。
 E・ホブスボーム・匪賊の社会史―ロビン・フッドからガン・マンまで(グループの社会史〈3〉)/斎藤三郎訳(みすず書房、1972)。
 E・ホブスボーム・革命家たち―同時代的論集〈1〉/斉藤孝他訳 (未来社、1978)。
 E・ホブスボーム・イギリス労働史研究/鈴木幹久訳(ミネルヴァ書房、 改訂版1984)。
 E・ホブスボーム・市民革命と産業革命―二重革命の時代/水田洋他訳(岩波書店、1989/6)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 1―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1993/1/9)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 2―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1998/12/9)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈上巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈下巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・わが20世紀-面白い時代/河合秀和訳(三省堂、2004/7 )。
 E・ホブスボーム・破断の時代―20世紀の文化と社会/木畑洋一等訳(慶應義塾大学出版会、2015/3/21 )。
 E・ホブスボーム・いかに世界を変革するか―マルクスとマルクス主義の200年/水田洋監修(作品社 、2017/10/31 )
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-上/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/6/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-下/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/7/6)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 1<新装版>/柳父國近等訳(みすず書房、2018/7/10)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 2<新装版>/松尾太郎等訳(みすず書房、2018/7/10)。
 ---
 上に比べて、日本でのレシェク・コワコフスキ、リチャード・パイプス、シェイラ・フィツパトリクの著書の翻訳書・邦訳書発行状況はどうだろうか。
 日本には日本の<ある勢力>にとって有益な外国文献は多く翻訳されるが、<危険な>書物はほとんど発行されない、という事実を、上のようなE・ホブスボーム著の扱いは強く実証しているように思える。
 レシェク・コワコフスキの主要著<マルクス主義の主要潮流>は40年間以上経っても邦訳されなかった。
 リチャード・パイプスのロシア革命に関する二巻の大著は、1990年以降にPaperback 版があるが、邦訳されていない。
 堅実な歴史叙述が見られる、最近この欄で試訳を紹介している、シェイラ・フィツパトリク(女性)のロシア革命(最新版2017年)は(および他のこの人の著書も)、いっさい邦訳されていない、と見られる。
 欧米語文献が(かりにフランスやドイツには流通していても)日本に十分に流通しているわけでは全くないことを、日本の「知的」または「情報」産業界にいる人々は、強く意識しておかなければならない、とあらためて強く感じる。
 ---
 Tony Judtはつぎの遺稿論考集の冒頭のエッセイ(論考)で、E・ホブスボームをとり上げている。この人名義の最後の刊行物だ。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010.(edited & introduced by Jennifer Homans)
 明記されているように(その前の論考集でもTony Judt が記していたように)、エリック・ホブスボームはlife-long つまり、終生の、又は生涯にわたる「イギリス共産党員」だった。
 そのような人物の「歴史叙述」がマルクス主義の影響を受けていないはずはなく、この人を<20世紀最大の歴史家>などと喧伝しているようである上記の日本の出版社または翻訳者は、欺されているか、自分たちは知りながら、日本の読者を欺しているのだ。あるいは、日本の読者自体が、無意識にでも<容共>なのだ。
 以下、一部だけ、試訳して引用する。//は本来の改行箇所。
 最近にこの欄に名前を出したクリストファ・ヒルとエドワード・トムソンの名も出てくる。
 --------
 エリック・ホブスボームが「短い20世紀」を扱う第四巻を加えるのを選んだのは驚きだった。
 彼が序文で「私はこれまでほとんど、1914年以降の時代について仕事をするのを避けた」と認めるとき、このような回避によくある理由を提示していた。すなわち、事件にあまりに接近しすぎていて、感情的にならざるをえないからだ(1917年生まれのホブスボームの場合は、その時代のほとんどを彼は生きた)、また、解釈の対象となる十分な素材の全部がまだ手に入っているわけではなく、それらの素材全てが何を意味するかを語るのはいかにも早すぎるからだ。//
 しかし、別の理由があることは明白だった。そして、ホブスボーム自身がその理由によって責任を拒否することはきっとしないだろう。すなわち、20世紀は、彼が生涯にわたって関与した政治的かつ社会的な理想と制度の明白な崩壊とともに終焉した、ということだ。 
 過ちと災悪に関する暗く重苦しい物語を、その中に見い出さないのは困難だ。
 他の多数のイギリス共産党員または元共産党員である歴史研究者の目立った世代人(クリストファ・ヒル、ロドニー・ヒルトン、エドワード・トムソン)と同様に、ホブスボームはその職業的な注目を革命的で急進的な過去に向けた。それは、党の基本方針が現在に近接した時期についてあからさまに書くのを事実上不可能にしていた、という理由によるだけではなかった。
 真面目な研究者でもある生涯の共産党員にとっては、我々の世紀の歴史には、解釈するにはほとんど克服し難い障害物がある。彼の最後の仕事が期せずして明瞭に示しているように。//
 ----

1832/美しい日本-山岳・山稜②ー伊吹山。

 西国三十三カ所霊場の通称「よしみね寺」、いや正式にもたぶん「善峯寺」の北に、別に洛西三十三観音霊場の札所の一つがある。その理由だけで一度参拝したのだが(そして御朱印をいただいたのだが)、その寺院の本堂はたぶん東向きで、その前のテラス部分から、京都市内(盆地)の一部と山稜がよく見える。
 京都市街地からはどの程度よく見えるのかは知らないが、ここからは京都市街東方すぐの山稜で、目立ってすぐに分かるのが、比叡山だ。歴史の知識からすると無骨な印象もあるが、西方からのこの山の姿は、優美だ。頂上部が丸っこくどっしりとではなく、凜として、すっきりしている。
 ところがその左に頂上部に冠雪がまだはっきりと残っている独立峰があって、この山はいったい何なのかがよく分からなかった。比良山系の比叡山に連なる北側にある山だろうというのが、そのときの推測だった。
 ご朱印をいただく際に尋ねてもみたが、面倒くさく感じられたのか?、よく存じませんと言われた。
 そこでのちに地元の人に尋ねてみると、回答はすぐだった。
 伊吹山
 何と、京都市の西郊、長岡京市の北方辺りから、京都市街、京都・滋賀府県境の比良山系、さらに琵琶湖までをも越えて、伊吹山がはっきりと見えたのだった。
 もっと前のある年、JRと名鉄の共用の駅舎のある尾張一宮駅の西口から西方の山並みを眺めていると、穏やかな養老山系の右側(北)に遠く、白い雪が目立つ高い山らしきものが見えた。
 伊吹山だった。
 濃尾平野の西北端よりもさらに西部だと思うが(関ヶ原よりも西)、濃尾平野の中にある尾張一宮の市街からも、伊吹山がはっきりと見えるのだった。
 この地域の人々は、伊吹山の冠雪の程度によって季節の状態や変わり目を知るのだ、という(これは滋賀県等の地域でも同様かもしれない)。
 前回の「1727/美しい日本-山岳・山稜①」(2018/02/11)では、東海道新幹線の乗客を想定して、日本で最もよく近くで見られている幸福な山ではないかと伊吹山のことに触れた。
 しかし、この山は京都盆地の西郊の高台や濃尾平野の少なくともかなりの部分からも、明確に見分けて、眺められている。
 繰り返しになるが、熟達した登山家くらいしか近くで見ることのできない(ほとんど誰からも見られることのない)山岳は日本に多数あるだろう。やはり、伊吹山は特別だ。

1831/藤原かずえ(kazue fgeewara)の表向きだけの「論理」性。

 何やら論理学やら修辞学やらを持ち出してとくに立憲民主党あたりの野党議員の主張の仕方を批判している者に、最近知った、藤原かずえという人物がいる。読んだことはないが、月刊正論(産経)の執筆者になっているようだ。
 同・マスメディア報道のメソドロジーというブログサイトから、この人物の論述にある<突っ込みどころ>を指摘しておこう。読者は、一見は華麗な?論理的を装う叙述にごまかされてはいけない。
 今年3月18日付・「文書改竄問題の議論に騙されないための論理チェック」。
 第一。<安倍総理は「私や妻が関係していたら総理も国会議員も辞める」と言った。>ということからする某野党議員の推論を「誤った論証構造」だ等と批判している。
 この中で藤原は、のうのうとこう言う。-「安倍首相の『関係していたら』の意味は、『首相あるいは国会議員としての権力を使っていたら』の意味であることは自明です」。
 はたして「自明」のことなのかどうか。いつぞやも書いたが、「関係する」という語自体は、(政治・行政)権力を用いる、というような限定的な意味ではうつうは用いないのがむしろ自明のことで、その限定された趣旨ではなく広く、ふつうに理解されたとすれば、発言者自身の言葉遣いが問題になるだろう。
 藤原にとって「自明のこと」が万人に取って「自明のこと」ではないこともある。
 そのような謙虚さを欠如させた、そして別の論理的可能性を無視した、たんなる藤原の「思い込み」にすぎない可能性がある。
 第二。藤原によるとどうやら客観的に誤った報道は「誤報」で、悪意のある誤りによる誤報は「虚報」なのだそうだ。そんなに勝手に、この二つの語の意味を決めてもらっても困る。そのように理解して用いるのは自由だが、第三者にそのような違いがあるものとして両概念を用いよ、というのは傲慢だ。
 したがってまた、藤原によると、(決裁文書の)「書き換え」と「改竄」は悪意の有無によって区別すべきで、安直に後者を用いるべきではない、という。後者はすでに一定の価値評価がなされている言葉だ、という。
 趣旨は分からなくはないが、しかし、では、悪意のない「書き換え」というのはあり得るのか。「書き換え」が意識的になされていればやはり「悪意」によると言い得るのであって、「改竄」と何ら本質は変わらないとも言える。
 こんな言葉争いは、あるいは言葉の使い方を自分の感じるとおりにせよという文句のつけ方は、やはり傲慢だろう。
 第三。「関係」とか「改竄」と違って、「行政文書」および「決裁文書」は、法制上の概念だ。おそらく藤原もこの点はおさえているようだ。何らかの法令・行政内部基準による実務において問題になるこれらと、「関係」とか「改竄」とか、特段の明確な意味が法制上示されていない場合とを、きちんと分けなければならない。
 第四。藤原は、つづけて「『実行責任』と『結果責任』という言葉も分けて考える必要」がある、と言いはじめる。
 このあたり、たぶん藤原は、十分な知識が欠落しているか、非専門家であることを暴露する常識的な言い回しをしている。
 麻生財務大臣が書き換えを指示していれば「実行責任」が、指示していなければ「結果責任」がある、という。
 部下のミスは上司の、又はその部下が帰属する団体の、いかなる「責任」を生じさせるか。「結果責任」という語はあるだろうが、法学・不法行為の世界では「実行責任」なる概念は聞いたことがない。
 藤原は知らないのだろうが、不法行為上の(民事)責任につき、民法715条1項は「被用者の選任・監督」に「相当の注意」をした場合でないかぎりは、使用者が被用者によって第三者に生じさせた損害につき賠償義務を負う旨を定める。
 しかし、同規定をもつ民法の特別法とされる国家賠償法は、国家公務員個人の職務上の不法行為につき「国」自体には上の免責要件なく、直接に賠償義務を負うと定めている(と解釈されている)。
 「結果責任」というのは、例えば後者のような場合にこそ使われる概念であって、藤原のいうような、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」には<結果責任>も免ずべきという主張は、おそらく、法学上の概念用法には少なくとも適応したものではない。
 なお、「責任」とか「結果責任」という語には法学・政治学等の豊富な実例・蓄積があるのであって、上は一例にすぎない。藤原は、いわば<責任論>を学修したことがないのだ。
 「実行責任」のほかに、この意味では「結果責任」もまた藤原の造語であって、藤原のいう意味で第三者も用いるべきだ、ということにはならない。
 ここで藤原は「実行責任」もなく上の限定付きの「結果責任」もなければ麻生財務大臣は辞任する必要はない、という脈絡で、上の二つを使っている。
 何やら見知らぬ?専門的概念を使って深遠なことを述べていると読む人もいるのかもしれないが、この部分では要するに、藤原かずえは、麻生財務大臣は辞任する必要などはない、という「政治的」主張をしているのに他ならない。
 さらに、「責任」といっても種々のものがあるが、書き換えであっても改竄であっても財務大臣の「責任」がないわけではないことはむしろ常識的だ。したがって、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」を除くといった主張の仕方もかなり「政治的」で、通用しない議論だろう。
 大臣としていかに個人的な落ち度はなくとも、財務省内の(とりわけ職務執行にかかる)非違行為に対する責任は、大臣にある(上司である事務次官にだってある)。
 藤原は、安倍晋三首相が<行政(権)の長として責任を深く感じている>と明言していることを知っているだろう。
 むろん、この「責任」は辞職・辞任につながるようなものであるのか、は別の話。
 藤原かずえによる「論理チェック」一般がすべて奇妙だとは思わないが、しかし、現実的な話としては、立憲民主党等の<反アベの攻撃>の理屈・論法にのみ対象を絞ったのでは、たんなる野党たたきと安倍ガードになるだけだ。
 この人に、本当に言説の「論理」のごまかしを見抜く力があるのであれば、日本共産党が日刊赤旗や月刊前衛等で書いていることや日本会議あるいは櫻井よしこ等の言説を検討して、<論理破綻>や<論理矛盾>あるいは<論理一貫性のなさ>を分析してほしいものだ。

1830/L・コワコフスキ著-池田信夫による2017年秋紹介。

 昨年10月総選挙前後の同選挙に関する池田信夫のコメントを正確に記録しようと思って遡っていると、少なくとも一部、何らかの「会員」にならないとバックナンバーを読めないというブログ記事があった。
 秋月瑛二の文章とは違って、価値のあるものには「価格」がつくのだなあと、市場原理に納得した(?)。
 レシェク・コワコフスキ著・マルクス主義の主要潮流に言及していたものもあったはずなので、探してみると、これは全文が残っていて、読めた。
 池田信夫のブログの文章には、全文が①メール・マガジン(有料)、②たぶんアゴラ?の会員むけ(有料)、③フリーの三種があるようだ。
 L・コワコフスキの本の一部を試訳してきていながら、以下をきちんと読んだのは半年も遅れてだから、どうかしている。
 少しだけコメントを記して、ネット上から元が消失する前に、この欄にコピーしておく。
 1.「1978年にポーランド語で書かれた」は不正確で、ポーランド語の原書3冊は、パリで1976年に出版された。1978年というのは、英語版3冊がロンドン(Oxford)で刊行された年。
 1977年にドイツ語版の第一巻がドイツで刊行され、1978年、1979年で第三巻まで完結発行された。
 その後2008年に、三巻合冊本(1200頁以上)がたぶんアメリカとイギリスで(要するに英米語で)刊行された。L・コワコフスキは、New Preface と New Epilogue を元々のそれらを残しつつ、書き加えた。文献、注等は1978年版と同じと見られる。
 日本では、いっさい邦訳されていない。1978年からでも、なんと40年。
 2.一日4頁ずつ黙読しても300日、40頁ずつ読んでも30日かかる。忙しいはずの池田信夫は、全書を読んだのだろうか。要点読解にしても、以下のようにまとめることのできるのは卓抜した英語力と理解力だ。
 秋月瑛二はまだ一部試訳したのみでNew Preface とNew Epilogueを含む各巻の序文等もきちんと見ていないので、以下の読解の当否は判断しかねる。
 一部にとどまっているのはレーニンにとくに関心があったからだが、いずれ冥途話として、レーニンに関する叙述よりも大分量のマルクスに関する論述もきちんと読んでおきたいものだ、と考えている。
 なぜ、かくも、マルクス(主義)は今日まで影響力を残しているのか、という強い関心からだ。
 3. 池田は最後にこう書く。「今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない」。
 「マルクス主義には思想としての価値はない」とL・コワコフスキが考えていた、というのは大いにありうる。
 しかし、L・コワコフスキ個人の評価・「思想としての価値」の判断とは別に、マルクス主義の<現実的な力>の存在は別に語ることができる。秋月は、その「魅力」は「途上国などではまだある」という程度のものではない、と感じている。その本来の「価値」とは別に、Tony Judt の言った<時宜にかなった幻想>は十分に残り得る。
 以下、引用。  
 ----
  2017年10月29日17:29
 マルクス主義はなぜ成功したのか
 最近の「立憲主義」は社会主義の劣化版だが、今では彼らさえ社会主義という言葉を使わないぐらいその失敗は明らかだ。しかしそれがなぜ100年近くにわたって全世界の労働者と知識人を魅惑したのかは自明ではない。本書は1978年にポーランド語で書かれたマルクス主義の総括だが、40年後の今もこの分野の古典として読み継がれている。
 マルクス主義は「20世紀最大のファンタジー」だったが、彼の思想は高度なものだった。それを社会主義という異質な運動と結びつけて「科学的社会主義」を提唱したのが、間違いのもとだった。目的を実現する手段が科学的だということはありうるが、目的が科学的だということはありえない。
 マルクスがその思想を『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の「科学性」が証明されると主張した。このように独特な形で共産主義の理論と実践を結びつけたことが、その成功の一つの原因だった。
 ロシア革命という脱線
 しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになり、マルクスの考えていた「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
 それでも社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にし、どう配分するかは労働者が決めればよいと考えていた。
 このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
 本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。
 彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
 このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
 日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
 ----
 以上、引用終わり。

1829/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑭。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第14回
 第4章・ネップと革命の行く末。
 ----
 第4節・一国での社会主義の建設。
 権力をもったボルシェヴィキの目標は、簡潔にいうと「社会主義の建設」だった。
 社会主義に関する考え方がいかに曖昧なものであっても、彼らに明白だつたのは、「社会主義の建設」のために最も重要なのは経済の発展と近代化だ、ということだった。
 社会主義になる前提要件として、ロシアには工場、鉄道、機械類および諸技術がもっと必要だった。
 都市化、田園地帯から都市への人口の移動、およびさらに大きくて永続的な都市的労働者階級が必要だった。
 民衆の識字能力が大きく向上すること、より多くの学校、より熟達した労働者と技術者が必要だった。
 社会主義の建設とは、ロシアを近代工業社会に変えることを意味した。//
 この変化について、ボルシェヴィキは明瞭な像を持っていた。それは基本的には、資本主義が西側の先進諸国で生じさせた変化だったからだ。
 しかし、ボルシェヴィキは「未成熟なままで」権力を奪取していた。-すなわち、ロシアでは、資本主義者の仕事をすることを始めたのだ。
 メンシェヴィキは、これは現実には危険を秘めており、かつ理論上きわめて不明瞭だと考えた。
 ボルシェヴィキたち自身が、どのようにすれば達成できるのかを本当には理解していなかった。
 十月革命後の最初の数年間、彼らは、ロシアが社会主義へと前進するためには産業化した西側ヨーロッパの助力が必要だろうとしばしば示唆していた。
 しかし、ヨーロッパの革命運動は挫折し、ロシアはどう前進すればよいか不確定なままに、しかし何とかして前進する途を自ら決定しなければならないままに、取り残された。
 かつての時期尚早の革命という議論を振り返って、レーニンは1923年に、メンシェヴィキの異論は「きわめて陳腐な文句」だと見なし続けた。(*秋月注)
 革命的情勢のもとでは、ナポレオンが戦争に関して述べたように、<仕事をせよ、そうすればつぎのことが分かる>(on s'engage et puis on voit )(**秋月注)。
 ボルシェヴィキは、危険を冒した。そしてレーニンは、-6年後に-「全体として」成功してきたことに今や疑いはありえない、と結論づけた。(22)//
 これはおそらく、勇敢さを装っている。最も楽観的なボルシェヴィキですら、内戦後に直面していた経済状態に動揺していたからだ。
 全てのボルシェヴィキたちの願望を嘲弄して、まるでロシアが20世紀をたくみに逸らして、全体的な後進性という類似性から逆に進んだかのごとくだった。
 町々は枯渇し、機械類は放棄された工場で錆びついていおり、鉱山は水浸しになり、工業労働者の半分は明らかに農民層へと再び吸収されていた。
 1926年の統計調査が示すことになるように、欧州ロシアは内戦直後の数年間に、1897年に比べて実際には都市化して<いなかった>。
 農民たちは伝統的な実体農業に戻り、農奴制出現以前の昔の黄金時代を再び獲得する意図をもっているように見えた。//
 1921年のネップの導入は、つぎのことの承認だった。すなわち、ボルシェヴィキはたぶん大資本家の仕事をすることができるが、当分の間は小資本家たちの存在なくしては生きていくことができない、ということ。
 都市部では、私的取引と小規模の私的産業の再生が許された。
 田園地帯では、ボルシェヴィキはすでに農民たちに土地を自由にさせていた。そして今ではボルシェヴィキは、都市的工業製品の消費者としてはもちろん、農民たちが都市市場のための信頼できる「小ブルジョア」生産者としての役割を果たしてくれるのかと気に懸けていた。
 農民たちの土地保有を強固にするという(ストリュイピンのもとで始まった)政策は、1920年代にソヴィエト当局によって継続された。<ミール>の権限を正面から攻撃するということはなかったけれども。
 ボルシェヴィキの立場からすれば、小資本家的農民の農業は村落の伝統的な共同体的かつ実体類似の耕作よりも好ましかった。そして、そう奨励することに全力を尽くした。//
 しかし、ネップ期の私的部門に対するボルシェヴィキの態度は、つねに両義的だった。
 内戦後に粉々になっていた経済を復興させるためには、ネップが必要だった。そして、復興に続く経済発展の初期の段階のためにもおそらく必要だろう。
 しかしながら、資本主義の部分的な復活ですら、多くの党員たちには不快でおぞましいものだった。
 製造業や採掘業の「免許」を外国企業に与えたとき、ソヴィエト当局は心配して当惑し、その免許を撤回して外国企業を買収できるほどに事業が安定するときが来るのを待った。
  地方の起業家(「ネップマン」)は、多大の疑念をもって処遇された。そして、彼らの活動に対する制限は1920年代の後半までにはきわめて強くなったので、多くの事業は消滅に至り、残っているネップマンたちには法の限界のところで活動する暴利商人のごとき翳りある様相があった。//
 農民層に対するボルシェヴィキのネップ期の方針は、いっそう矛盾すらしていた。
 集団的および大規模の農業は、ボルシェヴィキの長期的な目標だった。しかし、1920年代半ばの一般的な知識が教えたのは、その目標を達成する見込みは遠い将来のことだ、ということだった。
 その間に農民層を懐柔し、彼らが小ブルジョアの途を自由に進むのを許さなければならなかった。
 かつまた、農民たちが農業の方法を改善して生産を高めるように奨励することは、国家の経済的利益だった。
 これが暗黙にでも示すのは、懸命に働いて個々人の農業経営に成功する農民たちを、体制は許容し、推奨すらした、ということだ。//
 しかしながら、実際には、ボルシェヴィキは隣人たちよりも裕福になっていく農民たちをきわめて疑っていた。
 そのような農民たちは潜在的な搾取者であり村落の資本家だとして、しばしば「クラク〔富農〕」へと分類された。それが意味するのは、選挙権の剥奪を含む多様な形態で差別される、ということだった。
 「中産(middle)」農民(全農民の大多数が入る「裕福」と「貧困」の間にある範疇)との同盟を作出することを多く語りながらも、ボルシェヴィキは、農民層内部の階級分裂の徴候を継続的に見守り続けた。農民層を階級闘争へと投げ込み、裕福な農民に対する貧困な農民の闘いを支援する機会が来るのを心待ちしながら。//
 しかし、ボルシェヴィキが経済発展にとって最も重要と位置づけたのは、村落ではなくて、都市だつた。
 社会主義の建設について語るとき、彼らが心に抱く主要な過程は工業化だった。それは最後には都市経済のみならず村落経済をも変質させるはずのものだった。
 内戦の直接の影響で、1913年の水準にまで工業生産を復活させることだけでも、困難な任務であるように思えていた。レーニンの電力化計画は、事実上は1920年代前半の長期にわたる開発計画に他ならなかった。そして、よく周知されたにもかかわらず、元来の目標は全く控え目のものだった。
 しかし、1924-25年、予期しなかったほどの急速な工業および経済の復活によって、ボルシェヴィキ指導者の間には楽観的見方が急に沸きたち、近い将来での大工業の発展の可能性が再評価され始めた。
 内戦期のチェカの長であり党の最良の組織者の一人である Feliks Dzerzhinsky (ジェルジンスキー)は最高経済会議(Vesenkha)の議長職を継承し、その会議を強力な工業省へと作り替え始めた。彼は、帝政時代の先行者のように、冶金、金属加工および機械製造に焦点を当てた。
 急速な工業発展に関する新しい楽観主義は、1925年末のジェルジンスキーの自信に満ちた言明にも現れている。つぎのようなものだった。//
 『こうした(工業化という)新しい任務は、15年前あるいは20年前でも抽象的な言葉で考察していたようなものでは全くない。その当時に我々は、国家の工業化の行程を進み始めることなくしては社会主義の建設は不可能だ、と言っていた。
 今では我々は、一般的な理論のレベルで問題を設定しているのではなく、我々の全ての経済活動の明確で具体的な目標として設定しているのだ。』(23)//
 急速な工業化が望ましくないことについては、ボルシェヴィキ指導者の間で現実的な異論はなかった。しかし、この問題は不可避的に、1920年代半ばの党派闘争の中で論じられることになった。
 トロツキーは、ネップの初期の暗鬱なときですら国家経済計画を積極的に支持した数少ないボルシェヴィキの一人だった。そして、彼の政敵たちに対抗して工業化という根本的考え方を主唱したのは幸せなことだっただろう。
 しかし、1925年にスターリンは、工業化は今や<自分の>問題であり、自分の最も優先されるべき問題の一つだ、と明瞭に述べた。
 十月革命の八周年記念行事でスターリンは、経済の急速な近代化を推進するという党の最近の決定を、1917年のレーニンの、政治権力を奪取する重要な決定と照らし合わせた(24)。
 これは大胆な比較だった。スターリンが自分のために望んだ名声のみならず、経済近代化の達成に彼が付した重要性をも示唆していた。
 思うに、すでに彼は、レーニンの後継者としての歴史を密かに用意していたのだろう。すなわち、彼は工業化推進者(Industrializer)たるスターリンとなるはずだったのだ。//
 党の新しい方針は、スターリンの「一国での社会主義」というスローガンで表明された。
 これが意味したのは、自分の力だけで、ロシアは工業化し、強大になり、社会主義の前提条件を生み出そうとしている、ということだった。
 世界革命ではなく国家の近代化が、ソヴィエト共産党の第一次的な目標になった。
 ボルシェヴィキは、自分たちのプロレタリア革命を支えてくれるヨーロッパでの革命を必要としなかった。
 ソヴィエト国家を建設するためには、外国人の善意を-革命家のであれ資本家のであれ-必要としなかった。
 自分たちの力は、1917年十月にそうだったように、戦いに勝利するには十分だったのだ。//
 ソヴィエトが世界で孤立しているという否定できない事実やいかなる犠牲を払っても工業化するというスターリンの意図を考慮すれば、「一国での社会主義」は結集させるための有用な叫び声であり、よい政治的戦略だった。
 しかし、それはマルクス主義理論の厳格な教えに熟達した古いボルシェヴィキには、現実に反対する意向を大きくはもたないとしても、しばしば論争したくなるような戦略だった。
 結局のところ、国家的熱狂(愛国主義、chauvinism)という底流を掻き乱すものとして、<理論上の>問題は無視されることになった。まるで、ソヴィエトの政治的に遅れた国民大衆に、党が迎合しているかのごとくだった。
 先ずはジノヴィエフ(1926年までコミンテルン議長)が、次にトロツキーが毒餌に食いつき、「一国での社会主義」に反対の声を挙げた。イデオロギー的には誤っていないが、政治的には災悪だ、と。
 この反対によって、スターリンは反対者たちに汚名をつけることができた。そして同時に、スターリンは国家建設とロシアの国益を主唱しているという、政治的に有利な事実を強調した。(25)//
 ユダヤ人知識人のトロツキーがボルシェヴィキはつねに国際主義者だったと強く指摘したとき、スターリンの支持者たちは、トロツキーはヨーロッパ以上にロシアのことを気に懸けない世界主義者(cosmopolitan)だと描いた。
 トロツキーが自分はスターリンと同じく工業化論者だと適切に主張したとき、スターリンの仲間たちは、トロツキーは1920年に労働徴兵を支持し、従って、スターリンとは違って、おそらくロシアの労働者階級の利益を犠牲にする心づもりのある工業化論者だ、と想起させた。
 だがなお、工業化に要する資金が論争点となった。そして、トロツキーは、ソヴィエト国民が耐えられないほどに搾り取られるべきではないとすれば、外国取引と借款がきわめて重要だ、と主張した。このことは、トロツキーが「国際主義」者であることのもう一つの証拠になっただけだった。-大規模な外国取引と借款を獲得できそうではない情勢にますますなっていたのだから、トロツキーに現実的感覚が欠けていたことは言うまでもないとしても。
 スターリンは、対照的に、愛国的でありかつ同時に現実的な立場をとった。すなわち、ソヴィエト同盟は、資本主義の西側からの恵みを乞う必要はないし、そう望みもしない、と。//
 しかしながら、工業化のための資金融通は重大な問題で、言葉上の盛んな議論だけで終わらせるべきものではなかった。
 ボルシェヴィキは、資本の蓄積がブルジョア産業革命の前提条件だったことを、そして、マルクスはこの過程は民衆の受難を意味すると生々しく叙述していたことを、知っていた。
 ソヴィエト体制もまた、工業化するためには資本を蓄積しなければならない。
 ロシアのかつてのブルジョアジーはすでに収奪されてしまっており、新しいブルジョアジーであるネップマンとクラク(富農)には、多くを蓄積する時間と機会がなかった。
 革命の結果として孤立しているロシアがウィッテ(Witte)の例にもう従えないとすれば、体制は自分たちの資力を、民衆一般の資力を、そしてまだ圧倒的な数の農民から資力を引き出さなければならなかった。
 そうすると、ソヴィエトの工業化とは、「農民の搾取(squeezing)」を意味したのか?
 そうであるならば、体制はそれに続きそうである政治的対決から生き延びることができたのか?//
 1920年代半ば、この問題は、機会主義者であるプレオブラジェンスキーとブハーリン、およびスターリン主義者たちの間の論争の主題だった。
 <共産主義のイロハ>の共著者だった前者二人は、ともによく知られたマルクス主義者で、それぞれに対応して経済理論と政治理論の専門家だつた。
 プレオブラジェンスキーはこの論争で-経済学者として論じて-、工業化に使うために、主としては村落部門に対する取引条件を変えることによって、農民に「貢ぎ物」を要求する必要があるだろうと書いた。
 ブハーリンは政治的観点から、これは受け入れ難いと見なした。農民から反発されるだろうし、レーニンがネップの基礎だとした労働者・農民の同盟関係を破壊する危険を冒す余裕は体制側にはない、と異論を述べたのだ。
 この論争に、結論は出なかった。ブハーリンは工業化する必要、そのために何とかして資本を蓄積する必要を肯定したからであり、一方でプレオブラジェンスキーは、農民層と強制力や暴力をもって対立するのは望ましくないことに同意したからだ。(26)//
 スターリンは、この議論に関与しなかった。そのことで多くの者は、彼は味方であるブハーリンと同じ考えだと想定した。
 しかしながらすでに、スターリンの農民に対する態度はブハーリンのそれよりも優しくない、ということがある程度は示されていた。すなわち、スターリンはクラクの脅威に関して、より強硬な方針を採った。また、1925年には明示的に、農民層が「金持ちになる」ことを体制による祝福でもって奨励するブハーリンの考え方からは離れていた。
 さらに加えて、スターリンは、工業化追求をきわめて強く確言していた。そして、ブハーリン・プレオブラジェンスキー論争から導かれる結論は、ロシアは工業化を遅らせるか、それとも農民層と対立する大きな危険を冒すか、のいずれかだったのだ。
 スターリンは、不人気な政策を事前に発表するような人物ではなかった。しかし、後から見ると、どの結論をスターリンが選択したのかを推測するのはむつかしい。
 彼が1927年に記したように、工業生産高と産業プロレタリア-トの数字をほとんど戦前の水準にまで向上させたネップによる経済回復は、都市側の方へと、都市と田園地帯の間の力の均衡を変えていた。
 スターリンは工業化を目指し、それが田園地帯との政治的対立を意味しているとすれば、「都市」が-つまりは都市的プロレタリア-トとソヴィエト体制が-勝利するだろうと考えた。//
 ネップの導入に際して、レーニンは1921年に、これは戦略的な退却だ、いまはボルシェヴィキが新規に革命的な攻勢を行う前に勢力を結集させるときだ、と述べた。
 10年も経たないうちにスターリンは、ほとんどのネップ政策を放棄し、工業化を追求する第一次五カ年計画と農業の集団化によって、革命的変化の新しい段階を開始した。
 これは真の(true)レーニンの路線だ、レーニンが生きていれば彼自身が採用していただろう途だと彼は語ったし、疑いなくそう信じていた。
 ブハーリンやルィコフを含む他の党指導者たちは、次の章で論述するように、同意しなかった。レーニンは、ネップという穏健で懐柔的な政策は体制が社会主義に向かうさらなる決定的な一歩を踏み出す望みを持てるまで「真剣にかつ長い間」実施されなければならないと述べたのだと、彼らは強く指摘した。//
 歴史研究者たちは、レーニンの政治的遺産に関して、分かれている。
 ある者たちは、善意であれ悪意であれ、スターリンはレーニンの真の(true)後継者だったとする。一方、別の者たちは、スターリンは基本的にはレーニンの革命に対する裏切り者だと見る。
 もちろんトロツキーは後者の見方を採り、自分は匹敵し得る後継者だと考えた。しかし、彼は、スターリンによるネップの放棄と彼の五カ年計画の間の経済的かつ社会的な変化の追求に関して、原理的には何ら本当には反対していなかった。
 1970年代、そしてソヴィエト同盟でのゴルバチョフのペレストロイカの短い時期に、レーニン主義(または「元来のボルシェヴィズム」)とスターリニズムの間に根本的な違いを見た研究者たちを惹きつけたのは、スターリンに対する「ブハーリンという選択肢」だった。
 ブハーリンという選択肢とは、実際には、近い将来までの間のネップの継続だった。そして、それが力を持ったとすれば、ボルシェヴィキは漸進的な方法でその革命的な経済的かつ社会的目標を達成できるという可能性が少なくともあることを、意味していた。//
 レーニンが生きていれば1920年代末にネップを放棄していたのか否かは、誰一人決して明確には回答することができない、「かりに〜ならば、どうなっていたか」(what if)という歴史の問題だ。
 レーニンの晩年の1921-23年、彼は急進的な変化について-当時のボルシェヴィキ指導者たちと同様に-悲観的で、また、放棄したばかりの戦時共産主義政策への執着が党に心遺りとして続いているのを妨げたいと願っていた。
 しかし、彼は異様に気まぐれな思想家であり、政治家だった。彼の気分は-他のボルシェヴィキ指導者たちのように-、予期しなかった1924-25年の急速な経済回復に鋭く反応して変わったかもしれなかった。
 レーニンは、1917年4月に、「この革命の決定的な闘い」が生きている間にやって来るのは結局は不可能だと考えていた。しかし、同じ年の9月頃には、プロレタリア-トの名による権力奪取の絶対的な不可避性を主張した。
一般的にレーニンは、状況の消極的な犠牲者になりたくはなかった。この状況というのは、ネップのもとでの自らの位置をボルシェヴィキがどう理解しているかにとって、基本的に重要だつた。
 レーニンは気質において革命家なのであり、ネップは決して、経済的かつ社会的観点からするその革命的目標を実現するものではなかった。//
 1956年の第20回大会でのフルシチョフによるスターリンの悪に対する批判の後で、古い世代の多数のソヴィエト知識人は、1920年代の青年時代の回想録を執筆した。それらによると、ネップ期はほとんど黄金時代だったように見える。
 そして、西側の学者たちはしばしば、同じような見方を示した。
 しかし、遡って回顧してのネップの美点-社会内部での相対的な緩和と多様性、体制の側での比較的にレッセ・フェール的な態度-は、当時の共産党員たる革命家たちが褒め讃えた性質ではなかった。
 1920年代の共産党員たちは、階級敵を怖れ、文化的多元主義を許容せず、党の指導部の一体性の欠如に不安をもち、方向と目的意識の感覚を喪失していた。
 彼らは、その革命で世界を変えたかった。しかし、いかに多く古い世界が存続したかは、ネップ期に明瞭だった。//
 共産党員たちにとって、ネップは、偉大なフランス革命が堕落した時期であるテルミドールの匂いがした。
 1926-27年、党の指導部と反対派の間の闘争は、新しい次元の苦しみにまで達していた。
 どちらの側も他方を、革命の陰謀とか裏切りとか言って責め立てた。
 フランス革命との類似性が、しばしば引用された。ときには、「テルミドールの退廃」と関連させて。ときには-不気味にも-、ギロチンが持つ有益な効果に言及がなされて。
 (過去にボルシェヴィキ知識人たちは、革命を食い潰し始めたときに革命は瓦解するということを教える革命の歴史を知っていることを誇った。) (28)//
 また、病気の前の不快な感覚は党のエリートたちに限られてはいない徴候もあった。
 多数の一般党員や同調者たちは、とくに若者たちは、幻滅し始め、革命は行き詰まったと考える方向へと傾斜した。
 労働者たち(党員の労働者を含む)は、「ブルジョア専門家」やソヴェトの行政担当者の特権、悪徳な取引をするネップマンの利得、高い失業率、および機会と生活水準の不平等さの永続にひどく腹を立てていた。
 党の煽動者やプロパガンダ者は頻繁に、「我々は何のために闘ったのか?」という怒った疑問に対応しなければならなかった。
 党の空気を占めたのは、若きソヴィエト共和国がやっと静かな港に入ったという満足感の一つではなかった。
 あったのは焦燥感、不満感の空気であり、辛うじて戦闘気分が抑えられていた。そして、とくに若者の党員たちの間には、内戦期のあの英雄的な日々への郷愁が覆っていた。(29)
 共産党-革命と内戦の経験を通じて塑形され、(レーニンの1917年の言葉では)「腕を組む労働者階級」だと自己をまだ意識していた1920年代の若き党-にとって、おそらくは平和があまりにも早くやって来ていた。//
 --------
 (22) レーニン「我々の革命」(N・スハノフの記録について), <全集>第33巻p.480〔=日本語版全集第33巻「わが革命について/1923年1月17日」500頁。下のとくに**を参照。〕
 *(秋月1) レーニン全集日本語版33巻498頁の訳では、「はてしのないほど」の又は「極端に」「紋切り型」。
 **(秋月2)レーニン全集日本語版33巻500頁の訳文は、こうなっている。
 「私の記憶では、ナポレオンは<On s'engage et puis …on voit>と書いた。ロシア語に意訳すれば、こうなる。『まず重大な戦闘にはいるべきで、しかるのちどうなるかわかる。』
 そこで、われわれもまず1917年十月の重大な戦闘……、しかるのち…がわかったのである。
 そして現在、われわれがだいたい勝利をおさめてきたことは、疑う余地がない」。
 (23) Yu. V. Voskresenskii, Perekhod Kommunisticheskoi Partii k osushchesvleniyu SSSR (1925-1927)(Moscow, 1969), p.162. から引用した。
 (24) スターリン「十月、レーニンおよび我々の発展の展望」, <全集>(Moscow, 1954)vii 所収, p.258〔=日本語版スターリン全集(大月書店)第7巻「十月革命、レーニンおよび、われわれの発展の見通し」261頁以下〕
 (25) こうした議論につき、E. H. Carr, <一国社会主義>, ⅱ, p.36-p.51.を見よ。
 (26) この論争の詳細な検証につき、A. Erlich, <ソヴィエト工業化論争-1924-1926年>(Cambridge, MA, 1960)を見よ。
 (27) Stephen F. Cohen「ボルシェヴィズムとスターリニズム」, Tucker ed. <スターリニズム、ブハーリンおよびボルシェヴィキ革命>(New York, 1973)所収、Moshe Lewin, <ソヴィエト経済論争の政治的底流: ブハーリンから現在の改革者まで>(Princeton, NJ, 1974), を見よ。
(28)テルミドールに関する党の議論につき、Deutscher, <武装していない予言者>(London, 1970), p.312-332. およびMichal Reiman, <スターリニズムの誕生>, 訳George Saunders (Bloomington, IN, 1987), p.22-23. を見よ。
 (29) 若者の疎外感に関する懸念につき、Anne E. Gorsuch, <革命ロシアの若者たち>(Bloomington, IN, 2000), p.168-181. を見よ。
 ----
 第4章(ネップと革命の行く末)の第4節が終わり。第4章の全体も終わり。

1828/不破哲三の2017年11月・朝日新聞での妄言①。

 日本共産党前議長・現常任幹部会委員の不破哲三が、朝日新聞2017年11月17日朝刊の紙面に登場して、<ホラ話>を述べている。
 ロシア革命100年ということでこんなインタビュー記事を掲載する堂々とした全国紙があるのだから、日本の<左翼的>状況の程度をよく知らせてくれている。
 聞き手は「三浦俊章、池田伸壹」とされる。編集部の手が入っているだろうが、本人・不破哲三の不服・不満があるかたちで紙面になっているとは考え難い。したがって、不破哲三自身の言葉・表現だと理解して、以下、この<妄言>についてコメントする。
 最初に語られているテーマは、ロシア革命の意味・意義だ。
 最近に岩波書店のロシア革命・講座の「編集代表一同」の「刊行の言葉」に言及したが、そこで書かれていた三点のうち二点は、この朝日新聞での不破哲三発言と同じだ。
 似たようなデマゴギーが溢れている。
 ----
 さて、不破は、つぎの三点を挙げていると読める。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 第二。「ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着した」。
 これのコロラリーのようなかたちで、つぎもある。
 「社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた」。
 第三。「革命政権は、〔第一次大戦〕大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。…。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」。
 以上の三点全てが<ホラ話>だ。<妄想>だ。つまり現実・事実に反する。あるいは、論証されていない命題にもとづいて何らかのことを「政治的に」主張している。あるいは、「観念・言葉」と「現実」の混同がある。
 たぶん一回ではすまない。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 資本主義からの離脱に初めて成功した、と不破哲三は理解する。
 かりにそうだとして、それが<良かった>、<進歩的だった>のかはもちろん別の問題だ。
 この人は、そしておそらく日本共産党員の全てが、資本主義→社会主義(・共産主義)という道筋を「人類」はたどる「はず」だと想定しているのだろう。そうだとすれば、ロシア革命は歴史上「初めて」の積極的な意義があることになる。ちなみに、何となくそう理解している、あるいはロシアの現実は別として、資本主義→社会主義(・共産主義)という方向自体は少なくとも理念として正しいのではないかと考えている、<容共>者もいるかもしれない。
 しかし、そもそも上の想定・前提は<正しい>、<適切な>ものなのか。
 一定の観念・想念・幻想があってはじめて、「資本主義に代わる新しい社会を目指す」のは良かったことだ、という評価が成り立つ。
 不破によると、「マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えた」。
 そのとおりかもしれず、「マルクスの理論」が現在でもなお影響力をもつのは「ロシア革命」が成功したこと、つまりは<理論が現実化>して、<理論の正しさ>が現実で証明された、と少なくとも「受け止められた」ことにあっただろう。
 その意味で、マルクス→レーニンによってこそ、マルクスは現にあるような形で歴史に残っているのだとも言える。
 それは、ルソー(ら)→フランス革命、吉田松陰→明治維新、という関係とも似ている
 しかし、レーニンによる「ロシア革命」は本当に<社会主義(を目指す)革命>だったのか。
 そのようにレーニンらボルシェヴィキ派が<宣伝>した、<言葉・概念で訴えた>だけかもしれず、本当に<マルクスの理論を現実化した>ものかどうかは別途の検討が必要だ。
 かりにレーニンらが「マルクスの理論」を現実化したもの、または現実化しようとしたものであったとしても、1917年~1922年の現実は、かりに「社会主義が現実化」したものだったとすれば、悲惨な現実だったと私には思われる。
 国家・行政の運営の仕方を知らない<しろうと>たちが、マルクスが簡単かつ抽象的に描く「共産主義」をさっそく実施しようとしたがゆえの悲惨な現実だった、と十分に理解することができる。
 不破哲三による<市場経済をつうじて社会主義へ>というレーニンの考えの確立という発見(?)の特徴は、この人はおそらくレーニン全集等で読むことのできるレーニンの<言葉・文章>だけでロシア革命等を、また十月革命直後の歴史を理解しようとしていることだ、と論評することができる。
 この人はいったい、どこまで、1917年~1922年くらい、要するに<レーニン時代>のロシアの現実を知っているのだろうか。
 かりに現実にしたのだったとしても、そこでの「社会主義」とは人間の本性には反した絵空事を描いたものではなかっただろうか。
 さらにもともと、マルクスらのいう封建主義→資本主義→社会主義(・共産主義) という「歴史的法則」自体の<正しさ・適切さ>も、何ら証明されていないものだ。
 <最初に資本主義から離脱した>。これがなぜ積極的意義・意味を持つのか、さっぱり分からない。
 ----
 若い頃からマルクス、レーニン、(1980年くらいまでは)スターリンを読み、かつ日本共産党の幹部だった(である)人物の<思考・意識形態>というのは、ヒト・人間観察としても、すこぶる興味がある。
 続けざるを得ないだろう。

1827/読書しないでメモ。

 WiLL8月号増刊・歴史通(ワック、2018)。
 歴史通(ワック)というのはワックの季刊誌かと思っていたが、今は月刊誌の増刊号という扱いなのだろうか。
 表紙に、<朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ>とある。
 朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ、だとして、では、月刊Willの執筆者(・編集者)が撒き散らしている、いや失礼、適切に?伝播させている「歴史」には、「フェイク」はないのだろうか
 月刊正論、月刊Hanada、月刊WiLLの歴代編集者や執筆人の多くは、<日本会議史観>に染まってはいないのだろうか。「東京裁判史観」とか故渡部昇一のように言い出すと、すでにおかしい。
 櫻井よしこは国家基本問題研究所理事長だが、この「研究所」の評議員を務める編集者もいた。
 そして、伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかまず、聖徳太子の<十七条の憲法>を高く評価する。
 聖徳太子は皇族だったとされる。しかし、聖徳太子は神道よりも仏教に縁が深く、かつ政治的には敗北者だった。
 聖徳太子および近接の天皇・皇族たちの墓地(御陵)は飛鳥を含む奈良盆地にはなく、いまの大阪・南河内にある(太子町!)。伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかを説明できるのだろうか。
 日本にもかつて<憲法>があったなどという<言葉・概念>の幼稚なトリックに嵌まっていなければ幸いだ。
 つづいてなぜか、1000年も飛んで、後醍醐天皇も通過して、<五箇条の御誓文>を褒め讃える。
 そして、江崎道朗は、十七条の憲法・五箇条の御誓文・大日本帝国憲法は「保守自由主義」で一貫しているのだとのたまう。
 こういう単純化はたいていか全てそうだが、間違っている。<フェイク>の最たるものだ。
 ところで、こういう増刊ものは、新しい論考や座談だけではなくて、すでに発表されている論考等を再度掲載していることがある。
 <一粒で二度おいしい>のは出版社(・編集者)と執筆者(余分の収入になるとすれば)であり、迷惑なのはきっと<知的に誠実な>、新鮮な情報を期待している読者だろう。
 ----
 八幡和郎・「立憲民主党」・「朝日新聞」という名の"偽リベラル"(ワニブックス、2018)。
 入手して、「はじめに」だけ一瞥した記憶がある。
 八幡和郎は文筆で「食って生きている」人物のようで、多数の安っぽい書物を敬遠してきたのだが、意外によいことを書いていることを、この半年くらいに、この人のブログで知った。したがって、現在は敬遠してはいない。
 池田信夫・所長とどういう関係にあるのか詳しく知らないが、親しくはあるようだ。
 そして、池田が八幡に対して「新手の皇国史観」だと批判したら、八幡が「それはそうかもしれないけれど」とか反論していたのが面白かった。
 面白かったというのは、内容もそうだが、たぶん同じ共同ブログサイトの執筆者でありながら、相互に批判し合っていたからだ。
 内容の当否に立ち入らないが、こういう<自由さ・率直さ>はなかなか面白く、よいと思われる。
 産経新聞の「正論」欄編集者が元原稿にあった特定の人物(批判された櫻井よしこ)の名を事実上削除した感覚とは、かなり異なるだろう。
 さて、上の本。「読まない」で書くが、第一に、望むらくは、秋月瑛二が<敵視している>勢力のことをやはり批判している、と理解したいものだ。立憲民主党と朝日新聞が明記されているところをみると、大いに期待できるだろう。
 第二、私は、「左翼」または共産主義(・社会主義)者・日本共産党および<容共>の者たちを、この欄で批判している。簡単には「左翼」または「容共」論者だ。
 しかして、八幡和郎のいう「偽リベラル」とはいったいどういうつもりの呼称なのだろう。
 もちろん、「本当の」・「真の」リベラルではない、ということは簡単に理解できる。
 中身を読めば書いているのかもしれないが(そう期待したいが)、リベラルまたはリベラリズムの概念論争に決定的な意味があるとも思えない。
 気になるのは、八幡和郎は「偽リベラル」を何と簡単に呼称しているかだ。立憲民主党や朝日新聞等でははっきりしない。要するに、共産主義(・社会主義)者・<容共>者ときちんと呼称して、対決しているか否かだ。
 私の理解では、立憲民主党と朝日新聞が「左翼」の中核にいるわけでは決してない。
 しかし、<特定保守>論壇もそうなのだが、商売として<左翼>をやっている気配がたぶんにある立憲民主党と朝日新聞を攻撃すればよい、というのでは不十分だろう。
 批判の矢はきちんと、日本共産党「等」の今に残る共産主義(・社会主義)者に向けられなければならない。
 ----
 以上の二者。いずれも、本当に「読まないで」書いてしまった。
 八幡の本は入手して数ヶ月、本棚のどこかに置いたままだ。「本来の」リベラルの立場からするという、原理的「左翼」あるいは原理的護憲派、憲法九条死守派に対する批判など、簡単に想像できそうであるからでもある。大きく間違っていれば、幸いだ。

1826/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑱。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本が<レーニンの生い立ち>についてもっぱら、正確には一つだけの邦訳書として、「参考に」しているので、おかげで著書の執筆者、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)について、関心をもち、知識も得ることができた。
 ----
 既述のようにヒルは、1945-46年にLenin and the Russian Revolution(1947)を執筆し、1947年に英国で刊行し、これが1955年にクリストファー・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)という邦訳書となって日本でも刊行された。これは、彼の43歳の年で、原書を執筆していたのは、33~34歳のとき。
 また、80歳をすぎた1994年1月の英国新聞紙上で、私に言わせればなお<レーニン幻想>をもつことを明らかにし、「スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blamming Lenin for Stalin)」に陥ってはならない旨を語った。
 なお、「スターリン以降の歴代指導者」が「社会主義の原則」を踏みにじったのであって、レーニンは社会主義に向かう「積極的努力」をした、というのは現在の日本共産党の歴史理解だ。したがって、Ch・ヒルは(も?)日本共産党と似たようなことを言っていることになる。
 但し、<レーニンはまだマシだった>くらいの議論は欧米にも(当然に?日本でも)あるようだが、レーニンは<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を確立した、とまで書いている欧米文献は見たことがない
 ----
 さて、とりあえず、ネット上の情報によると、つぎのことは確実だろうと思われる。
 クリストファー・ヒル(Christopher Hill)、1912年2月~2003年2月。満91歳で死去、イギリス人。
 1930年代の前半、イギリス共産党に入党。共産党員となる。
 これはコミンテルンの支部としての、「共産党」と名乗ったイギリスの党だと思われる。一般的な言葉ではなく、私の造語かもしれないが、日本共産党とともに出自は<レーニン主義政党>だ。
 つづき。のち1956年に<ハンガリー事件(動乱)>をきっかけとして、離党した。
 マルクス主義歴史家としてイギリスで著名で、主要研究分野は17世紀のイギリス。
 ---
 以上は英米語と日本語のWiki (ウィキ)でほぼ共通することを書いた(一部は私の文章だが)。
 英米語版Wikipedia は相当に詳しい。以下、それによる。
 ソ連による1956年のハンガリー侵攻の際に「多くの他の知識人たち〔党員〕」は離党したが、Ch・ヒルが離党したのは1957年の春で、「多くの他の知識人たち」と違っていた(unlike)。
 1931年にドイツ・フライブルクにいて、ナツィスの勃興を目撃。
 1934年にUniversity of OxfordのBalliol College を卒業。
 1932~1934年の間に、マルクス主義に馴染み、イギリス共産党に入党。
 1935年、OxfordのAll Souls Collegeの研究員になり、10箇月間のモスクワ旅行。
 1936年、the University College of South Wales and Monmouthshire(at Cardiff )の「助講師」。
 この年、コミンテルン設立の「国際旅団」に参加して「人民戦線」側で戦う(スペイン内戦)ことを応募したが却下された。代わりに、バスク難民救済事業に参加。
 1938年、University of Oxford/Balliol College の「研究員兼講師」(歴史学)。
1946年、<イギリス共産党・歴史家グループ>を結成。
 1949年、新設の Keele University の the chair of History に応募したが、共産党員であること(his Communist Party affiliations)を理由として、拒否される。
 以上が、江崎道朗が「参考」にした本が書かれる頃までの、かつ共産主義・共産党にかかわるCh・ヒルの「経歴」の一部だ。全くのウソではないだろう。
 ----
 ハーヴェイ・J・ケイ(監訳/桜井清)・イギリスのマルクス主義歴史家たち(白桃書房、1989)という邦訳書がある。原書は、以下。
 Harvey J. Kaye, The British Marxist Historians (Polity Press, Cambridge, 1984).
 邦訳書によると、これはアメリカ人によるものだが、上では省略した邦訳書の副題に並べられているように、5人のイギリス・マルクス主義歴史家について叙述する。5人とは、以下。
 ①モーリス・ドップ(Maurice Dopp)、②ロドニー・ヒルトン(Rodony Hilton)、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)、④エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)、⑤トムソン(E. P. Thompson)
 ⑤のE. P. トムソンは、1970年代前半にL・コワコフスキを批判し、逆に後者から辛辣な反論を浴びた学者。L・コワコフスキの文章はこの欄で試訳した。トニー・ジャッㇳ(Tony Judt、1948-2010)による両者の論争?への言及についても紹介した。
 ④のE・ホブズボームについては、マルクス主義・共産主義と「ロマンス」をした、イギリス共産党員たることをやめなかった人物だと Tony Judt が描いていると、この欄で言及したことがある。
 そして、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)。1984年の時点で、元イギリス共産党員。
 上の本の著者自体が、マルクス主義者または明瞭な親・マルクス主義者だ。
 著者のハーヴェイ・J・ケイ(Harvey J. Kaye)はアメリカ人だが、イギリスのマルクス主義歴史学者の確かな流れ・系譜を上記の5人に見ている。
 例えば、序論で、つぎのように書く。
 彼ら(上の5人)は個別研究分野で優れているのは勿論だが「共に理論的伝統を支えてきた」。筆者(ケイ)の「論拠は、これらイギリス・マルクス主義歴史家たちが、共通の理論的問題設定に取り組んでいるという点に基礎」を置く。p.4。 
 その最終章(第7章)は「共通する貢献」と題しており、例えば、つぎのように書いている。
 彼らの研究は「総体的にみて、筆者の言う『階級闘争分析』と『底辺からの歴史』という視点から歴史研究と歴史理論の再構築をはかろうとする理論的伝統に立っている」。「特にマルクス主義との関連で言えば、彼らは、…マルクス主義あるいは史的唯物論を、階級決定論として発展させることに努めている」。p.249。  
 あくまでH. J. ケイによる見方だが、ともあれ、Ch・ヒルとは、1980年代前半の時点で、イギリス・マルクス主義歴史学者の(当時までの)5人の中の一人なのだ。マルクス主義内部の細部の論点には立ち入らない。
 ----
 さて、江崎道朗は冒頭掲記の2017年8月の著で、いったい何ゆえに、<レーニンの生い立ち>に関して、このCh・ヒルが30歳台のとき、第二次大戦後すぐの1947年に刊行して1955年に日本語訳書となった古い本をもしかも岩波書店刊行(岩波新書・岡稔訳)の本を、<ただ一つだけ>「参考に」したのだろうか。
 大笑い、大嗤いだろう。
 <インテリジェンス>うんぬんを語る日本の<保守>派らしき人物が、当時はれっきとしたイギリス共産党員だった者が執筆したレーニン・ロシア革命に関する本を、何の警戒も、何の注意も払うことなく(まさか岩波新書だから古くても信頼が措けると判断したのではあるまい)、ただ一つの「参考」書として使っているのだ。
 この本刊行のあと晩年まで<レーニン幻想>を抱いていた人物であることは、私は突きとめた。
 なぜ、こんな安易な本の参考の仕方を江崎道朗はしているのか。
 要するに「無知」、「幼稚」の一言か二言でもよいのだろう。
 だが少し想像すれば、おそらく、レーニンの「生い立ち」を叙述する必要に迫られて、手頃に、簡単に入手できたCh・ヒル著(岩波新書)を見つけ、60年以上前に刊行された岩波新書であることも無視して、あえて使ったのだろう。
 この本以外に、レーニンの伝記的な部分を含むレーニンに特化しての研究書が邦訳書も含めて多数(しかも詳しいものが)あると想像すらしなかったようであることは、信じられないほどだ。
 江崎道朗の2017年8月著は悲惨であり、無惨だ。
 なぜ、この程度の人物が月刊正論(産経)の毎号執筆者なのか。
 なぜ、この程度の人物が<インテリジェンス>の専門家面しておれるのか。
 このような人を<培養している>のはいったいどういう情報産業界なのか。
 そして、<日本の保守>派とはいったいいかなる人たちで成っているのか。なぜ、これほどに頽廃した人々が<保守>を名乗っておれるのか。
 昨年8月に覚えた絶望的な気分を、再び思い出した。精神衛生によくない。

1825/日本の教育・大学制度-池田信夫7/6ブログを契機に。

 池田信夫の7/06ブログ掲載の資料によると、大学入学について「一般入試」、たぶん紙等での競争試験を受けて限定的な数の合格者が決定される方法、による入試方式での入学者数は、国立大学で83.1%、公立大学で71.6%、私立大学で47.9%らしい(2017年、旺文社調べとされる)。
 人数的に私立大学総計の方が多いとすると、「一般入試」以外で入学した学生の方が多いだろう。
 しかし、この「一般入試」以外は全て<裏口入学>というわけではないだろう。
 池田によると、「日本のように裏口入学が犯罪扱いされる国は珍しい」のだそうだ。
 そして、いかに「裏口入学」が日本でも多いかを示す資料として、上の資料を示している。
 ----
 これは言葉・概念の問題だ。
 池田によると、「世界的にも一流大学は有力者や金持ちの子供が寄付金で入学するものというのが常識で、裏口入学は犯罪とは思われていない」。
 これはこれで興味深い、知見が豊かになる情報だ。
 しかし、「犯罪」=「悪」だとかりに前提にすると、日本で、一般入試以外=「裏口入学」=犯罪=悪だとは意識されていないと思われる。
 「裏口入学」という言葉・概念の使い方による。
 一般入試以外に、池田の資料によると、①公募制推薦入試、②指定校制推薦入試、③付属校・系列校推薦入試、④AO入試、がある。
 これらを「裏口入学」と観念するのは自由だが、私はそういう言葉遣いはしない。
 現行法制上許容されている入学方法だと思われ、情実・コネ等を一切排除できないのかもしれないが、これらによる入学は「悪」ではないだろう。
 そういう意味では、文部科学省前局長にかかる近日の<増収賄>とされる事例とは分けなければならない。
 ----
 池田信夫にクレームをつけるのが、今回の元来の趣旨ではない。
 そのあとの文章のかなり多くは、共感する。一文ずつ改行。
 「日本の(特に文系の)大学は、教育機関としての機能をほとんど果たしていないが、その取り柄は、すべての受験生が同じ条件で競争する大学入試によるシグナリングの客観性だった。
 非裁量的なペーパーテストが、労働者の質を示す情報生産機能を果たしていた。
 その点数が『人格』をあらわしている必要はない。//
 企業からみると、終身雇用で採用する労働者に専門知識は必要なく、常識と忍耐力が大事だ。
 一流大学の卒業生には天才はいなくても常識があり、退屈な受験勉強を長期間やる忍耐力がある。
 人格やコミュニケーション能力は面接でみるので、大学入試は学力(学習能力)だけをみればいいのだ」。
 以上について、「一流大学の卒業生には天才はいなくても常識があり」を除いて、ほとんど全く同感する。
 これについて発展させたいが、とりあえず措いて先に進む。以下、抜粋的引用。
 池田によると、これを文科省が「改革」しようとした。
 しかし、①「入試が『人物本位』になり、面接のうまい学生が推薦で偏差値の高い私立大学に合格するようになった。彼らは人当たりがいいので営業には使えるが、学力がないので研究開発などのむずかしい仕事ができない」。
 一方、②「国公立大学は裏口が少ないので人事の評価が高いが」、③「私立文系の大部分はもはや学歴の意味をなさない」。
 この部分にはやや違和感がある。
 第一に、国立大学と私立大学の単純な二分があるように見える。たしかに、③では「大部分」とされているが。全私立大学と全国立大学について、このように簡単には言えないだろう。
 第二に、(ペーパー→)人物本位→人当たりよし→研究開発は困難、というのも、こう単純ではないだろう。
 ----
 かねて感じてきたのは、国公私立を問わず(これらによってあるいは傾向的な差違はあるかもしれないが)、池田信夫もかねてから指摘している「日本の大学」、「特に文系の」大学や学部のひどさだ。
 これは立ち入らないが、「文系」大学・学部の教師=教授たちがいかに生産されるかにもかかわる。
 50%近くの進学率となって、いまさら旧制高校的<教養教育>に郷愁を感じるのは時代錯誤だ。
 「文系」といっても、大きくは人文系と社会系に分けることができるだろう。
 秋月によると<歴史学>はむしろ<社会系>だ。文学部に今あるかもしれない<心理学>や<地理学>は理系と人文系の両方がまじる。
 <教育学>だけは迷う。
 要するに、経済・経営・法学・歴史は<社会系>で、狭義の文学・哲学・外国語は<人文系>だ。
 むろん教育学のほかに、<法哲学>や<経済思想>等々、分類がむつかしいのはありうる。
 <社会系>に問題がないわけでは全くないが、私が感じてきたのは、相対的には、狭義の文学・哲学・外国語という<人文系>の方がひどい、ということだ。日本での英文学、独文学、仏文学、ドイツ哲学、フランス哲学、あるいは英語学、ドイツ語学、フランス語学、等々々。
 唐突だが、現在のマス・メディア、出版系の企業、つまりは情報産業の(技術または経営の観点からではなく)表舞台に立っているのは、狭義の文学・哲学・外国語という<人文系>学部の出身者ではないか。
 「文学・哲学・外国語」関係学部出身者こそが、戦後日本を奇妙なものにしてきて、きちんとした政策論・制度論をできにくくし、<精神論・観念論>的な論議を横溢させてきたように感じられる。
 もちろん、総体的かつ相対的な話として書いている。
 渡部昇一、加地伸行、小川榮太郞、江崎道朗、花田凱紀、長谷川三千子。全て、歴史以外の文学部出身だろう(外国語学部を含める)。桑原聡を含む月刊正論の代々編集代表者、月刊WiLLの編集者の出身学部を知りたいものだ。
 <歴史学>は社会系学部として位置づけられず、<文学部>の中に多くは吸収されているために、その他の狭義の文学系等の悪い影響を受けているようだ。典型例は、歴史系だとかりにしても、平川祐弘。元々、この人は狭義の文学・哲学系かもしれないが。
 上に限らない。例えば、以下の者たちは、東京大学文学部仏文学科出身だ。大江健三郎 1935年生、鹿島茂 1949年生、内田樹 1950年生。
 <左翼系>メディア・雑誌の編集者にも、圧倒的に文学部出身者が多いように推察される。
 彼らは、教育公務員試験を除いて国・地方の公務員試験をほとんどは(たぶん)目指そうとはせず(司法試験はもちろん)、企業のトップ「戦士」にもなりたくない(または、企業の方が経済学部や法学部系を優先する)。
 かくして残るは<マスコミ>(放送・新聞のほか文藝春秋・講談社等々を全て含む)だった、という人たちも多いのではないか。
 かくして、かなり単純化しているのは承知のうえだが、日本の<マス・メディア、出版系の企業、情報産業>はおかしくなっている。
 あまり書く機会または契機がないのだが、この点はより実証的に書いてみたい。
 ともあれ、<文系>といっても、多様なのだ。
 なお、法学・経済系は立派だ、などとは一言も言っていない。このことは、法学部出身官僚の劣悪化らしき様相を見ても感じられる。
 ----
 より大きな問題は、日本の大学制度、ひいては教育制度そのものだ。
 戦後にいろいろと変わってきた。
 例えば、1990年にあった諸銀行のうち、とくに都市銀行と言われたもののうち、今もなお名をとどめているのはきっとないのだろう。
 唐突ではあるが、しかし、小・中・高校・大学という<6・3・3・4制>は、なぜ変わっていないのだろうか。
 むろん、工業専門学校、短大、大学院、中高一貫校など、これに含めることができないものはある。
 しかし、基本的な部分は変わっていない。種々の(大学入試制度も含む)「改革」がなされてきたが-ゆとり教育?、道徳の科目化?、小学校から英語?-根本的なところは変わっていないし、根本的なところから考え直そうという議論があることも、寡聞にして知らない。
 なぜか、それは戦後の<教育制度>または大学を含む<教育制度>によって「利益を受けた」と感じている者たちの方が多いからだと思われる。
 少なくとも、制度変更およびそのための議論に参画する者たちのほとんどは、戦後の<6・3・3・4制>と大学制度に「利益を受けた」と無意識にでも感じているからだと思われる。
 意識することもしないで、当然の<所与>と感じてしまっている可能性が高いかもしれない。
 国立大学と私立大学の違いも、池田信夫も言及している「偏差値」や「ランク」も、今ある大学制度、ひいては戦後の教育制度・学校制度を前提にした話だ。
 既存の基本制度を超えて構想することのできる大人物は、日本にはいないのだろうか。
 

1824/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑬。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第13回
 ----
 第4章・ネップと革命の行く末。
 第2節・官僚機構の問題(The problem of bureaucracy)。
 革命家として、全てのボルシェヴィキは「官僚制」(bureaucracy)に反対だった。
 自分たちは党の指導者か軍事指令官だと幸せにも思ってきたのだが、彼らは真の革命家が新しい体制の一官僚(bereaucrat)、<chinovnik>になるのを受忍できたのだろうか?
 行政活動について議論したとき、彼らの言葉遣いは豊富な婉曲語法になった。すなわち、共産党員である行政担当者(officials)は「幹部(cadres)」で、 共産党官僚機構は「ソヴェト権力」の「装置」であり「機関」だった。
 「官僚機構」(bureaucracy)という語は、つねに侮蔑的なものだった。「官僚主義的方法」や「官僚主義的解決」は、何としてでも避けられるべきものだった。そして、革命を「官僚主義の頽廃」から守らなければならなかった。//
 しかし、こうしたことによって、ボルシェヴィキが独裁制を確立した意図は社会を支配しかつまた移行させることにあった、という事実を曖昧にすることはできなかった。
 行政機構なくしてこの目的を達成することはできなかった。彼らは最初から、社会は自主的にまたは自発的に変化を遂げることができる、という考え方を拒否していたのだから。
 かくして、疑問が出てくる。どのような行政機構が必要だったのか?
 ボルシェヴィキは、地方での基盤が解体してしまった中央政府の官僚機構(central government bureaucracy)を引き継いだ。
 彼らは、地方政府の機能を1917年に部分的に奪い取ったソヴェトを有してはいた。
 最後に残っていたのは、ボルシェヴィキ党自体だった。-革命を準備して実行するという従前の機能は、十月以降の状況には明らかに適合しなくなっていた組織だ。//
 かつての政府官僚機構は今はソヴェトの支配下にあったが、ツァーリ体制から継承した多数の行政担当者や専門家をなおも使っていた。そしてボルシェヴィキは、革命的諸政策の実施を拒否したり妨害したりする彼らの能力を怖れた。
 レーニンは1922年に、古いロシアの「被征服国民」は共産主義者という「征服者」に価値を認める過程にすでに入っている、とつぎのように書いた。。//
 『4700名の共産党員が責任ある地位に就いているモスクワについては、あの大きい政府官僚機構、あの巨大な堆積物については、「誰が誰を指揮しているのか?」と問わなければならない。
 共産党員はあの堆積物を指揮している、と本音で言われているのか否かを、私はひどく疑っている。
 本当のことを言えば、共産党員は指揮しておらず、指揮されている。<中略>
 その(かつての官僚制の)文化は悲惨でとるに足らないものだが、我々のそれよりもまだ高いレベルにある。
 現にそうであるように惨めで低くても、我々の責任ある共産党員行政担当者よりも高い。共産党員行政担当者には、行政の資質がないからだ。』(11)
 レーニンは、かつての官僚機構が共産主義の価値を破壊する危険を見ていた。しかし、共産党にはそれによって活動する以外の選択肢はないと考えていた。
 共産党員は、かつての官僚制の技術的な専門知識を必要とした。-行政上の専門知識だけではなくて、政府財政、鉄道運営、度量衡あるいは共産党員に可能であるとは思えない地理測量のような分野の特殊な知識をも。
 レーニンの考えでは、新体制が「ブルジョア」専門家を必要とすることを理解しない党員は全て、「共産主義者的傲慢」という罪を犯していた。この罪は、共産主義者は全ての問題を自分で解決できると考える無知で子どもじみた信念のことだ。
 十分な数の共産党員専門家を党が養成するには、だいぶ時間がかかるだろう。
 そのときまで、共産党員はブルジョア専門家とともに仕事をし、同時にしっかりと彼らを支配し続けることを学ばなければならなかった。//
 専門家に関するレーニンの考えは、他の党指導者たちも一般に受け入れていた。しかし、彼らは一般党員にあまり人気がなかった。
 たいていの党員は、政府の高いレベルで必要な専門技術的知識の性質や種類に関してほとんど何も知らなかった。
 しかし彼らは、旧体制からいる小役人がソヴェトで類似の仕事を何とか苦労してしているとき、あるいは主任会計士がたまたま工場施設の地方党員活動家に同意しないとき、あるいは村落の学校教師がコムソモルで面倒を起こしたり学校で教理問答書を教育する宗教信者だったときですら、地方レベルで専門知識がもつ意味を明確に理解していた。
 たいていの党員は、重要な何かをしなければならないときには党を通じてそれをするのが最善だと明白に思っていた。
 もちろん、日常の行政レベルでは、党中央の機構は巨大な政府官僚機構と競い合うことはできなかった。-党の機構は、あまりにも小さすぎたのだ。
 しかし、地方レベルでは、党委員会とソヴェトがともに最初から設立されており、状況は違っていた。
 党委員会は内戦後に主要な地方機関として出現してきており、一方でソヴェトは、かつてのゼムストヴォと似ていなくもない二次的な役割の担当者になっていた。
 党の命令系統を通じて伝達される方針の方が、大量の布令や非協力的でしばしば混乱しているソヴェトに対して中央政府から伝えられる指示文書よりも、実施される可能性が高かった。
 政府にはソヴェトの人員を採用したり解職するしたり権能がなかった。そして、より効果的な、予算による統制も及ぼすことができなかった。
 党委員会は、これと対照的に、党の上級機関からの指示に従うという党紀律に服する党員を揃えていた。
 委員会を率いる党の書記局員は、形式上は地方党機関が選出した者たちだったけれども、実際には、党中央委員会書記局が転任させたり、交替させることができた。//
 しかし、一つの問題があった。
 党組織-中央委員会書記局を頂点とする諸委員会と幹部の階層制-は、どの点から見ても明らかに、官僚機構(bureaucracy)だった。そして、官僚機構とは共産主義者が原理的に嫌うものだったのだ。
 1920年代半ばの継承者争い(後述、p.108-111)のときトロツキーは、党官僚機構を設立して自分の政治目的のために巧みにそれを操っているとして、党総書記のスターリンを非難した。
 しかしながら、この批判は党全体に対してほとんど影響を及ぼさなかったように見えた。
 その一つの理由は、党書記局員の(選出ではなく)任命は、トロツキーが主張するほどにはボルシェヴィキの伝統から離れているものだはなかった、ということだ。すなわち、地下活動をしていた1917年以前の古い時期には、委員会はつねに、ボルシェヴィキ中央から派遣された職業的革命家たちの指導に大きく依拠していた。そして、1917年に地上に出てきたときですら、委員会が自分たちの地方的な指導性を選択する民主主義的権利を主張するのではなく、ふつうは「中央から来た幹部たち」に執拗に要請した。//
 しかしながら、より一般的な観点からすれば、ほとんどの共産党員は党組織を侮蔑的な意味での官僚機構だとは考えていなかったように思える。
 彼らにとって(Max Weber にとってと同じく)、官僚機構は明確に定義された法令と先例群を適用することによって活動するもので、高い程度の専門性と職業的な専門技術や知識への敬意という特徴ももっていた。
 しかし、1920年代の党組織は顕著な程度には専門化されておらず、(治安や軍事問題は別として)職業的専門家を尊重していなかった。
 党組織の職員は「書物を見て仕事をする」ように指導されてはいなかった。すなわち、初期には、依拠することのできる党の諸指令を集めたものは存在せず、のちには、そのときどきの党の基本的政綱の精神に対応するというよりもむしろ、かつての中央委員会の指令を示す文書にすがっている書記局員は全て、「官僚主義の傾向」があると非難されそうだった。
 共産主義者が官僚機構を欲しないと言うとき、意味しているのは、革命家の命令に対応しようとしない又は対応することのできない行政機構を欲しない、ということだった。
 しかし、それと同じ理由で彼らは、革命家の命令に対応<しようとする>行政機構を大いに持ちたかった。-革命の指導者たちからの命令を進んで受け入れて、急進的な社会変革の政策を実施する意欲のある、そういう職員がいる行政機構をだ。
 そのようなことをするのは、党組織(または官僚機構)が遂行することのできる革命的な作用だった。そして、ほとんどの共産党員は本能的に、そのことを是認していた。//
 ほとんどの共産党員はまた、「プロレタリア独裁」をする機関はプロレタリアのものであるべきだと信じていた。これが意味するのは、従前の労働者が責任ある行政の仕事に就くべだ、ということだった。
 これは、マルクスがプロレタリア独裁でもって意味させたそのものではなかったかもしれない。そして、レーニンが意図したそのものでもなかったかもしれない。
 (レーニンは、1923年にこう書いた。
 労働者は、「我々のためにより良き機構を樹立したがっているけれども、その方法を知らない。
 労働者は、それを樹立することができない。
 労働者は、そのために必要な文化をまだ発展させていない。必要なのは、文化だ」。(12))
 にもかかわらず、全ての党内論議で当然の前提にされていたのは、つぎのことだった。すなわち、組織の政治的健全さ、革命的情熱および「官僚主義的頽廃」からの自由は、労働者階級出身の幹部の割合と直接に関係している、ということ。
 階級という標識は、党組織を含む全官僚機構に適用された。
 この標識は、党自体の新規加入者にも適用された。そして、将来におけるソヴィエトの行政エリートの構成に影響を与えることになる。//
 1921年、工業労働者階級は混乱状態にあり、それと体制との関係は危機に瀕していた。
 しかし、1924年までに、経済の再生によっていくぶんかは困難が落ち着き、労働者階級は回復と成長をし始めた。
 党が数十万の労働者を党員として新規に募集する運動であるレーニン募集(Lenin Levy)を発表し、プロレタリア一体性(proletarian identity)の確約を再確認したのは、その年だった。
 この決定で暗黙に示されていたのは、労働者が行政上の仕事に就くのを促進して「プロレタリア独裁」を生み出し続ける、という確約だった。//
 労働者階級出身党員の大募集から三年後の1927年までに、共産党には一般党員および幹部を含めて総じて数百万を超える党員がいた。そのうち39パーセントは職業上は当時の労働者で、56パーセントは入党したときの職業が労働者だった。(13)
 この二つの割合の違いは、行政上のまたはホワイトカラーの仕事へと永久に移行した労働者共産党員のおおよその数を示している。
 ソヴェト権力になってから最初の10年間に入党した労働者がその後に行政的職務へと昇進する可能性は、(1927年より後の昇進を除いても)少なくとも50対50だった。//
 労働者階級の党員にとって、党組織は、政府官僚機構以上に人気のある目的地だった。その理由の一つは、労働者は党という環境の方が安心感を抱いたからであり、また一つは、教育の不足が、まあ言えば政府の財務人民委員部の課長に比べて、地方の党書記局ではさほど問題にならなかったからだ。
 1927年に、党組織で責任ある地位に就く党員の49パーセントは、従前の労働者だった。これに対して、政府やソヴェトの中の党員の対応する数字は、35パーセントだった。
 こうした乖離は、行政階層の最上位のレベルではもっと顕著だった。
 上位の政府の職務に就く党員にはほとんど労働者階級出身の者はおらず、一方で、地域の党書記たち(<oblast'>、<guberniya>や<krai>といった組織の長)のほとんど半分はかつての労働者だった。(14)
 --------
 (11) レーニン<全集>33巻p.288。
 (12) 「より少なく。しかし、より良く」(1923年3月2日), レーニン・<全集>33巻p. 288.
 (13) I. N. Yudin, <Sotsial'naya baza rosta KPSS>(Moscow, 1973), p.128.
  (14) <Kommunisty v sostave apparata gosuchrezdenii i obshchestvennykh organizatsii. Itogi vsesoyuznoi perepisi 1927 goda>(Moscow, 1929), 25;<ボルシェヴィキ>, 1928, no.15, p.20.
 ----
 第3節・指導者争い(The leadership struggle)。
 レーニンが生きていた間、ボルシェヴィキは彼を党指導者だと認めていた。
 にもかかわらず、党は公式には一人の指導者を持たなかった。そして、党は必ず指導者を必要とすると考えるのは、ボルシェヴィキには不快だつた。
 政治的な混乱状態があったとき、党の同志たちがレーニンは個人的な権威でもって取引しすぎると彼を強く批判するのは、聞かれないではなかった。
 そして、レーニンは通常は自分の主張を押し通そうとする一方で、追従や特別の敬意をとくに示すこと要求することはなかった。
ボルシェヴィキは、ムソリーニや彼のイタリア・ファシストについては侮蔑以外の何ももっていなかった。喜劇オペラの制服で着飾り、統領(Il Duce)に忠誠を誓う政治的には原始的な連中だと見なしていたのだ。
 その上、ボルシェヴィキは歴史の教訓を学んでおり、ナポレオン・ボナパルトが皇帝だと自ら宣言したフランス革命のようにはロシア革命を衰退させるつもりはなかった。
 ボナパルティズム-革命戦争指導者の独裁者への変化-は、ボルシェヴィキ党内でしばしば論議された危険だった。その論議では通常は暗黙のうちに、赤軍創設者であり内戦中の若い共産主義者たちの英雄だったトロツキーが示唆されていた。
 想定されたのは、いかなる潜在的なボナパルトも、奮起させる演説力と壮大な展望力をもつ、おそらくは軍服をまとったカリスマ的人物だろう、ということだった。//
 レーニンは、1924年1月に死んだ。
 しかし、彼の健康は1921年半ば以降は深刻に悪化していて、その後は間欠的にしか政治上の活動をしなかった。
 1922年5月の発作によって部分的に麻痺し、1923年3月の二度めの発作で麻痺が増大して、言葉を発する能力を失った。 
 ゆえに、レーニンの政治的な死は漸次的な過程であり、彼自身は最初の結果を観察することができた。
 政府の長としてのレーニンの責務は、三人の代行者が引き継いだ。その中では、1924年にレーニンを継いで人民委員会議の議長になった Aleksei Rykov (ルィコフ)が最も重要だった。
 しかし、明白なのは、権力の主要な中枢は政府にではなく党の政治局にあり、この政治局はレーニンを含む総員七名で成り立っていた、ということだった。
 他の政治局員は、トロツキー(戦争人民委員)、スターリン(党総書記)、ジノヴィエフ(レニングラード党組織の長・コミンテルン議長)、カーメネフ(モスクワ党組織の長)、ルィコフ(人民委員会議初代副議長(副首相))および Mikhail Tomsky (トムスキー、中央労働組合会議議長)だった。//
 レーニンが病気の間-そして実際にはその死後も-政治局は集団指導制によって活動すると公式に確言し、誰かがレーニンと交代できるとか彼と同様の権限ある地位に就きたいとかいうことを、どのメンバーも強く否定した。
 にもかかわらず、1923年には、秘やかなというよりもむしろ激しい継承者争いが進展した。ジノヴィエフ、カーメネフおよびスターリンの三人組(triumvirate)が、トロツキーに対抗したのだ。
 トロツキー-ボルシェヴィキ党への加入の遅さとそれ以降の輝かしい業績の両方の理由で、指導層から外れた風変わりな人物-は、強く否定していたけれども、最上位を目ざす野心をもつ競争者だと受け止められていた。
 1923年遅くに書いた<新しい行路>(the New Course)でトロツキーは、ボルシェヴィキ党の古き前衛たちは革命的精神を喪失し、「保守的で官僚主義的な党派主義」に屈服し、地位を保つのが唯一の関心である小粒の支配エリートのごとくますます振る舞っていると警告することで、意趣返しをした。//
 レーニンは病気のために指導者として活動できなかったが、彼の継承者になる可能性のある者たちの策略(manoeuvring)をまだ観察することができた。そして、政治局に関して同様に偏見に満ちた見方を作り上げており、それを「少数独裁制」だと描写し始めた。
 1922年12月のいわゆる「遺書」で、レーニンは、-傑出していると認めたスターリンとトロツキーの二人を含む-多様な党指導者たちの性格を概述した。そして、わずかに称賛をしつつ事実上は彼ら全員を酷評した。
 スターリンについての論評は、党総書記として巨大な権力を蓄積しているが、その権力をつねに十分な注意を払って行使しているわけではない、というものだった。
 一週間後、スターリンとレーニンの妻のNadezhda Krupskaya (クルプシュカヤ)との間でレーニン病床体制に関する衝突が生じた後で、レーニンは、スターリンは「粗暴すぎる」、総書記の地位から排除すべきだ、と遺書の最後に書き加えた。(15)//
 この時期、多くのボルシェヴィキ党員は、スターリンがトロツキーと対等の政治的評価を得ていることに驚いただろう。
 スターリンは、ボルシェヴィキが傑出した指導者にふつうは連想する資質を一つも持っていなかった。
 スターリンはレーニンやトロツキーのようには、カリスマ性のある人物でも、優れた演説家でも、抜きん出たマルクス主義理論家でもなかった。
 スターリンは英雄ではなく、労働者階級の実直な息子でも、優れた知性の持ち主でもなかった。
 Nikolai Sukhanov (スハーノフ)はスターリンの印象を「よどんだ灰色」とした。-したたかな裏工作政治家で党内活動の専門家だが、個人的な特徴のない人物だと。
 スターリンよりもジノヴィエフの方が政治局三人組の中の第一のメンバーだと、一般に想定されていた。
 しかしながら、レーニンは、たいていの者よりもスターリンの能力をより十分に評価することができた。なぜなら、1920-21年の党内闘争の間、スターリンはレーニンの右腕だったからだ。//
 トロツキーに対する三人組の闘いは、1923-24年の冬に頂点に達した。
 党内分派が公式には禁止されているにもかかわらず、状況は1920-21年のそれに多くの点で似ていた。そしてスターリンは、レーニンが行ったのと同じ戦略に多く従った。
 第13回党大会に先立つ党内議論と代議員の選挙の際に、トロツキー支持者たちは反対派として運動を行った。一方で、党組織は、「中央委員会多数派」、すなわち三人組、を支持するために動員された。
「中央委員会多数派」が勝利した。中央政府官僚機構、大学および赤軍の党細胞に、トロツキーが支持されるという空白部分があったけれども。(16)
 最初の投票のあとで、親トロツキー諸細胞に対する集中的な攻撃があり、それは、その細胞の多くが多数派へと寝返ることを誘発した。
 わずか数ヶ月のち、そのときすでに近づいている党会議に備えて1924年春に代議員が選出されていたが、トロツキーへの支持はほとんど完全に消滅していたように見えた。//
 これは基本的に、党機構のための勝利だった。-すなわち、総書記であるスターリンのための勝利だった。
 総書記は、ある研究者が「権力の循環する流出物」(circular flow)と名付けたものを操作する地位にいた。(17)
 書記局は地方党組織を率いる書記局員を任命し、望ましくない分派的傾向を示せば彼らを解任することもできた。
 地方党組織は、全国的な党の大会や会議のために代議員を選出した。そして、〔地方の党の〕書記局員が地方代議員名簿の上位へと載せられるのが、ますます一般的になっていた。
 その代わりに、党の全国的会議は、党の中央委員会、政治局および組織局-もちろん書記局の-委員を選出した。
 要するに、総書記は、政治的反対者に制裁を加えるのみならず、その職務に在任することを確認する会議をも操作することができた。//
 1923-24年の深刻な闘いによって、スターリンは、その地位を強固にすることを系統的に進行させた。
 1925年、スターリンはジノヴィエフおよびカーメネフと決裂し、この二人が侵略者のごとく見える防御的な反対者の立場へと追い込んだ。
 のちにジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーと一緒になって統一した反対派となった。スターリンは、忠実で意思の堅い仲間たち〔チーム〕の助けを借りて、これを簡単に打ち破った。-その仲間の中には、将来の政府および工業の指導者となる Vyacheslav Molotov(モロトフ)や Sergo Ordzhonikidze (オルジョニキーゼ)もいた。彼らはこのとき、スターリンの周りに結集していた。(18)
 多数の反対派支持者たちは、遠方の州の仕事へと自分たちが任命されていることに気づいた。そして、反対派の指導者たちはまだ党の諸会議に参加することができたが、反対派の代議員はほとんどいなかったので、その指導者たちは党との接点を完全に喪失した無責任な<フロンド党員>のように見えた。
 1927年、反対派の指導者と支持者たちの多くは分派主義を禁止する規約を破ったという理由で党から除名された。
 トロツキーとその他の反対派の者たちは、そのとき、遠方の州へと行政的に〔判決によらずして〕追放された。//
 スターリンとトロツキーの間の論争で対立した争点は、とくに、工業化の戦略と農民に対する政策に関してだった。
 しかし、これらの現実的な問題について、スターリンとトロツキーの考えは大きくは離れていなかった(後述p.114-6)。すなわち、二人はいずれも、農民に対する特別の優しさを持たない、工業化論者だった。1920年代半ばのスターリンの公的立場の方がトロツキーのそれよりも穏健だったけれども。
 そして、数年後にスターリンは、急速な工業化のための第一次五カ年計画についてトロツキーの政策を盗んだとして追及されることとなった。
 一般党員たちは、彼らの個人的性格のいくつかほどには、論点に関する競争者の不一致を明確に感知することができなかった。
 トロツキーは、ユダヤの知識人で内戦時に無情さと華麗でカリスマ的な指導性を示した人物だと(必ずしも好ましいものとは限らなかったが)広く知られていた。
 スターリンは、より中庸的で陰の多い人物で、カリスマ性はなく、知的でもユダヤ人でもない、と知られていた。//
 党機構とその挑戦者の間の対立にあった真の争点は、ある意味では、機構そのものだった。
 こうして、支配的な党派と元々一致していない点が何であったにせよ、1920年代の全ての反対派集団は、同じ主要な不満をもって終焉することとなった。すなわち、党は「官僚主義化」した(bereaucratized)。そして、スターリンは、党内民主主義の伝統を死滅させた。(19)
 このような「反対派」の見方は、晩年のレーニンにすら起因していた。(20) そしてそれは、おそらくある程度は正当だった。レーニンもまた、指導者層の内部から閉め出されていたのだから。但し、レーニンの場合は政治的敗北ではなくて病気が原因だったけれども。
 しかし、多くの点でスターリンの政治的師匠だったレーニンは、党機構に反対して党内民主主義という原理的考え方へと本当に変わったのだ、と理解するのは困難だろう。
 レーニンに関心があったのは権力の集中それ自体ではなく、権力が誰の手に集中されているのか、という問題だった。
 同様に、1922年の遺書でレーニンは、党書記局の権力を減少させることを提案しなかった。
 彼はただ、スターリン以外の誰かが総書記に指名されるべきだと書いたのだ。//
 やはりなお、1920年代のレーニンとスターリンの間の継続性の要素が何であろうとも、レーニンの死と継承者争いは政治的な転換点だった。
 権力を追求するスターリンは、反対派たちに対抗してレーニン主義の方法を使った。しかし彼は、-党でのその個人的権威が長く確立していた-レーニンは決して到達し得なかった完璧さと冷酷さをもってそれを使った。
 一たび権力を握ると、スターリンは手始めにレーニンのかつての役割を果たした。まず最初は、政治局でだった。
 しかし、そうしているうちにレーニンは死んで、過ちや非難を超越したほとんど神のごとき性格を与えられた指導者(the Leader)になり、その遺体は防腐処理されて恭しく、民衆を喚起するためにレーニン霊廟に安置された。(21)
 死後に生じたレーニン崇拝(Lenin cult)は、指導者なき党というかつてのボルシェヴィキの神話を打ち砕いた。
 新しい指導者が抜きん出て初代のそれ以上になることを望んだとすれば、彼には構築しておくべき基盤がすでにあった。//
 --------
 (15) 「遺書」のテキストは、Robert V. Daniels, ed., <レーニンからゴルバチョフまでのロシア共産主義に関する資料による歴史>(Lebanon, NH, 1993)に所収、p.117-8.
 (16) Robert V. Daniels, <革命の良心>(Cambridge, MA, 1960), p.225-230.を見よ。
 (17) この語句はDaniels のものだ。明瞭でかつ簡潔な議論につき、Hough & Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかにして統治されたか>, p.124-133, p.144.を見よ。
 (18) 1920年代の分派闘争の経緯におけるスターリンのチームの形成につき、S・フィツパトリク・<スターリン・チームについて-ソヴィエト政治における危険な生活の年代>(Princeton, 2015), ch. 1.を見よ。
 (19) これは1920年代の共産党内反対派の研究であるDaniels の<革命の良心>の統一テーマだ。-このタイトルが示すように、Daniels は、党内民主主義という抗弁は反対派の固有の機能ではなくて革命的な理想主義の表現だと見なしている。
 (20) Moshe Lewin, <レーニンの最後の闘い>(New York, 1968)を見よ。
 選択しうる別の解釈につき、Service, <レーニン>, Chs. 26-28.を見よ。
 (21) レーニン崇拝の出現につき、Nina Tumarkin, <レーニンは生きている!>(Cambridge, 1983)を見よ。
 ----
 第4章(ネップと革命の行く末)の第2節と第3節の試訳が終わった。
アーカイブ
ギャラリー
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
  • 0768/小池百合子と山崎拓の対立、NHK6/22の「反日捏造番組」。
  • 0761/阪本昌成におけるフランス革命-1。
  • 0759/山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)の欺瞞-なぜ「司馬遼太郎賞」。
  • 0757/NHK「売国反日プロデューサー」列伝-長井暁・濱崎憲一ら。
  • 0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。
記事検索
最新記事
カテゴリー