秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1909/言葉・文章と「現実」②。

 観念-現実、という主題のはずが、「文学部」・大学論へとすでに(いったん)逸れている。
 逸れついでに言うと、昨年に話題の一つになった<大学スポーツ>または<大学とスポーツ>も、奇妙な問題を含んでいた。
 体育やスポーツに関する学問の必要を否定しないし、そのような研究・教育のための大学や学部の存在を否定するものではない。しかし、元来は「文学」、「法学」、「経済学」等を勉強している、又はそうするために大学生になった(はずの)者たちにとってのスポーツとかサークル活動とは何なのだろう。
 あれこれと書くと長くなるので適当に切り上げるが、テレビ「報道」を見ていて不思議だったのは、以下だ。すなわち、同世代の半分程度に少なくなったとはいえ、大学に進学しないで、または進学することができないで(これは本人の「学力」・「かしこさ」とはしばしば関係がない)、<大学で(余暇に?)スポーツ活動をする>ことなどがそもそもできない、かつすでに勤労者となって自分で生活しているだろう、多くの高校出身者のことを、どう考えているのか?
 特定の大学生等々を問題にしているのではない。いろいろな論点、問題はあるだろう。しかし、<何と贅沢な>話題だろう、<何と贅沢な>批判だろう、という気がしてならなかった。
 それだけ、いまの日本がまだ<平和で豊か>なのかもしれない。
 大学もすでに<教育企業体>であり、<教育産業>の一角だ、という当たり前かもしれないことにも気づく。その企業体の被雇用者としての事務職員もいるし、被雇用者の中には、表向きは「学問・研究者」である大学教師という「教育(・研究)労働者」もいる。
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 「教養」がある、「知識」が多い、というだけで、なぜエライのか。教養や知識は「現実」に対して何らかの意味で<有用>であって初めて、有意味なものになる。
 こう前回に書いた。だがさらに、<何らかの意味での有用性>の意味も、むろん問われる。
 つまり、「教養」・「知識」、あるいはそれがより形式的に具現化されているとみられることがある「学歴」や現時点での<知識人>ふうの肩書き、といったものは、それだけでは本当は何の「有用な価値」もないのだと思われる。
 これは「有用」性の意味の問題でもあるが、「無用」である場合だけではなく、「有害」である場合もあり得る。
 つまり、「教養」・「知識」あるいは「知識人」が多数の人々または「社会」あるいは「歴史」に対して、<悪い>影響を与える(与えた)こともある、という明瞭な事実に目を塞ぐことはできない。
 物理学等の研究は大量殺戮兵器を生み出してしまった、という例でもよいかもしれない。
 あるいは、レーニンも、スターリンも、それなりに、あるいはきわめて、「賢かった」人物だつただろう。
 「教養」も「知識」も、それ以上の「学問研究」も、<現実>に対して与えた影響・効果でもって最終的には評価されなければならない。
 「知識人」ふうであることが、それ自体で有用な「価値」をもつわけではない。
 この辺りを勘違いしている人が少なくないような気がする。
 急にまた逸れるが、かつて清水幾太郎は<左>から<右>へと大旋回を遂げたようだ。<保守>派に転じた頃のこの人物の文章を読んだこともある。
 しかし、大旋回したとはいえ、清水幾太郎にとっては「知識人」として遇されることが最も重要なことで、「知識人」として目立ち、話題にされれば、その思考・発言内容は<左>でも<右>でもどうでもよかった、少なくとも第二次的なものではなかっただろうか。
 そのような「知識人」ふうの人々は、右にも左にも、斜め右上であれ斜め左であれ、手前にも奥にも、現在の日本にも多数棲息しているように見える。
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 多少とも「現実」に向き合わざるをえない学問研究分野と、直接的・経験的な「事実」そのものよりも「言葉・観念」を第一次的な研究対象とする学問研究分野がある。
 大雑把であることは十分に自覚して書いているが、経済学や法学は前者で、少なくとも狭い意味での「文学」は後者だ。
 法学部出身者(の多く)には当たり前のことを、以下に書く。
 「法」は規範の一種であって「現実」そのものではない、ということは、どの入門書でも最初の方に記述されていることだろう。
 「法」と「現実」が乖離していることがあることなど、当然の前提だ。
 また、「現実」が一定の「法」規範群に照らして正当な(または「適法な」)ものであるか否かを判断するためにこそ、「法解釈」論・学という<実用性>の高い議論も必要になってくる。
 もとより「法」規範の内容は変化するもので、それは「社会の現実」が要求することが多い。一方でまた、法」規範はそれに適合するように「社会の現実」が変化することを要求する機能も持っている。
 さらにもう一段階進んで言うと、「法」規範の内容はさしあたりほとんどの場合は<言葉・概念>で明文化されている(不文法に対する成文法)。
 この成文法自体が用いる言葉・概念・観念は一義的にその意味内容が明瞭であるとは限らない(そうでない場合がほとんどだろう)ために、上にいう「法の解釈」も必要になる。
 言葉・言語それ自体と「現実」の関係は、哲学的または理論的あるいは認識論的にいうと相当にややこしい議論があるようでもある。
 早い話が、「現実」そのものも、「直感」されないかぎりは「言葉」で叙述せざるをえない。「言葉」でこそ、「現実」に関する主体の「認識」も伝達することができる。
 法規範上の「言葉」と「現実」の関係は、F・ソシュールのいう<表現形式>(signifiant)と<意味内容>(signifié)の区別に単純に対応するのではないだろう。
 規範は特定の物・事象のみを表現しようとするものではない。それが持つ意味も幾層の段階があり、系統的な「構造」をもち得るもので、それらが同時にまた「現実」に関する何らかの意味づけをさらに前提にしている可能性がある。
 言語学・言語哲学あるいは法哲学の「しろうと」として書いている。
 しかし、よく言われるようにsollen とsein の違いを法学は当然の前提にしている。このような説明自体が、何らかの哲学・認識論を前提にしているのかもしれないのだが。
 いずれにせよしかし、「規範」ばかりでもない、事実を叙述するものも多い、「言葉・文章」を第一次には研究対象としている学問分野があって、それは不可避的に、生々しい「現実」からは遊離してしまう危険性・可能性がある、と考えられる。「文学」畑の人は注意しなければならない。
 この「現実」の中には「歴史的事実」、つまり「過去の現実」も含まれる。
 前回に名を掲げたような人々をじつは念頭に置いているのだが、この人たちには、「言葉・観念」があればそれが「現実」的な実体をもつと、あるいは新しい「言葉・観念」を作り出せば(正確には脳内作業にすぎなくとも)それは何らかの「現実」的な実体を持ち得るとでも誤解しているところがないだろうか。
 江崎道朗において、「保守自由主義」とは何か。
 櫻井よしこ、小川榮太郎において、(あるいは<日本会議>のいう)「日本」とは何か。
 これらは「歴史的事実」にも密接に関係する観念・概念だが、いかなる<実体>を持たせているつもりなのだろうか。
 これらの「意味内容」を明瞭にしないままで、たんに「歴史と伝統」とか言っても、ほとんど空論だ。少なくとも、自分たちで自己満足はできても、他者と議論できるようなものには決してならない。
 ある程度は、またはかなりの程度は、言葉・概念の用い方に関する厳密さ・丁寧さの<程度>の問題に大きくはなるのかもしれない。
 「歴史的事実」の認定とその評価について、際限もなく議論は発生し得るからだ。
 しかし、そうではあっても<度を超えて>はならないだろう。
 その部分を「精神論」だまたは「文学」だ、「物語」だなどと称して、曖昧にしてはならない。
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 L・コワコフスキの造語らしいのだが、彼はたぶん面白がって?、<保守的自由主義的社会主義>(conservative liberal socialism)という概念を使ったことがあるらしい。
 ナツィス党は<国家(国民)社会主義労働者党>。これでもnationalとsocial を併存させてかなり広そうだが、conservative 、liberal、socialの三語・三観念を包括する政党または主義・思想は、ほとんど何でも包括してしまうように見える。多種、多様、雑多な、異なる次元の、諸概念がある。
 再び、法学における言葉・文章と「現実」との関係に戻って、多少は具体的に散文つづりを続けてみよう。

1908/言葉・文章と「現実」①-「文学部」出身者。

 言葉・観念・文章・修辞と「現実」について、書こうと思う。
 そして、両者の違いについての意識・感覚が少ないかほとんど全くない場合があるのは、大学の出身学部でいうと相対的には(経済学・経営学・法学・政治学)ではなく「文学部」(・外国語学部または一部の「教育学」)の出身者であり、そういう人々がかなり多く日本の<(知的)情報産業界>の要職に就いているらしいがゆえに、必要だったまたは不可避だった以上に戦後日本は<悪くなった>、という面があることも、 書こうと思う。
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 渡部昇三(故人)、櫻井よしこ、小川榮太郎、江崎道朗、平川祐弘、加地伸行、長谷川三千子、花田紀凱
 こう並べただけで一定の<主張・思考>の傾向がある。(櫻井よしこが外国の「歴史」卒業とされている以外は)全て日本の大学の「文学部」出身者だ。外国語学部出身者を含む。
 文学部にもいろいろあるが、哲学/思想・(狭い)文学系に著しいかもしれない。
 本来は「社会学」は社会系のはずだし、「歴史学」も総合的な社会系のように思われるが、しかし、日本の悪しき<文学部>系の影響を、これらも受けている可能性がある(心理学、地理学は、理・文の両者にかかわるだろう)。
 いつぞや池田信夫が日本の人文社会系学部の廃止を主張しており、共感するところがある(極論としてはいったん指導教師-学生の関係を全て断ち切るべきだ)。しかし、では司法・行政の官僚または人文社会系の「専門家」・「技術者」をどう養成するかという重要な問題は残る。
 しかし、上に上げたような「文学」関係分野は、そもそも大学という「高等」教育機関には不要ではないか。人文社会系学部全体とはいえなくとも、人文系学部くらいは原則廃止くらいの方が、日本のためになる。
 これは「素養」・「教養」のようなものにかかわる。大学で本来、「素養」・「教養」のごときものを教育する必要があるのか?
 現実には通用しない主張であり、議論であることは承知している。
 より大きな問題は、「大学」なるものに、同世代人口の今や半分近くが進学しているという「現実」そのものにあるのだろう。
 この数は、-時期によって異なるが-戦前の「旧制中学」への進学者よりもはるかに多く、従ってまた、現代日本の「大学教授」様たちは、戦前の「中学」の教師たちよりもはるかに(相対的な)知的等のレベルは劣っている。大学の大衆化は、大学教師の大衆化・劣化でもある。
 それにそもそも、明治以降の「教養」重視教育も関係があるものと思われる。
 「教養」がある、「知識」が多い、というだけで、なぜエライのか??
 教養や知識は「現実」に対して何らかの意味で<有用>であって初めて、有意味なものになる。
 それでもしかし、(すぐに役立たなくとも)長期的に有益であればよい、あるいは、<役立たない学問にこそ意味がある>というような主張をする人がいるだろう。
 しかし、日本のいわゆる<リベラル・アーツ>教育・研究のあり方は、根本的に再検討されるべきだろう。
 本当に「何ら役に立たない」のであれば、存在しても無意味だと考えられる。
 役に立っているのは、某大学であれ、某々大学であれ、その「文学部」であれ、そこを卒業している、という<レッテル付け>でしか、もはやないのではなかろうか。
 しかし、似たようなことは、50パーセント近い大学進学率となると、経済学部や法学部についても、もちろん言える。
 しばしば思うのだが、現在の学校・教育制度の根本的な変化がないかぎりは、<戦後レジーム>の終焉はない、と考えられる。矛盾しているようでもあるが、逆に、<戦後レジーム>の終焉があってはじめて、六三三四制という学校・教育制度の変化も生じるのではないか、と思われる。
 しかし、ほとんど誰もそれを口にしないのは、いつか触れたが、右であれ左であれ、斜め右上であれ斜め左下であれ、手前であれ奥であれ、<戦後レジーム>の受益者たち(またはそう「感じて」または「思い込んで」いる者たち)が、日本の既成権益階層(establishment)を形成しているからだ、と思われる。
 その中には、少なくとも中堅以上の、新聞社、放送局、雑誌・書籍等の出版会社、簡単に言って<情報産業界>の社員等も含まれる。これらに登場したり、執筆したりしている者も含まれる。
 なお、別の論点だが、情報産業の中では「広告・宣伝」がむしろ最重要の業務であって、新聞社、放送会社のほとんどは、かなり、又はほとんど「広告・宣伝」業者でもある。「広告・宣伝」企業の一員であるにもかかわらず、<ジャーナリスト>などと自分を考えない方がよいと感じる者もいっぱいいる。
 一度誰かが調査・研究すればよいと思われる。
 テレビ番組の制作者・構成作家、新聞の論説委員・記者、雑誌の編集者等々には、かりに大学出身者だとして、いったいどの学部出身者が多いか? 「文学部」ではなかろうか。
 表向きのテレビ・コメンテイター類や論壇?雑誌の執筆者ではなくて、日本の「知的」雰囲気を形成しているのは、じつは、テレビ番組の制作者・構成者、雑誌の編集者等々、だろう。

1907/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑯。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). の試訳のつづき。
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 第5章・スターリンの革命。
 第1節・スターリン対右翼(the Right)。

 (1)1927-28年の冬、党指導者たちは、農民層に関する政策で、一方でスターリン、片方でのちに右翼反対派として知られる集団、の二つに分裂していた。
 直接の問題は、穀物の獲得だった。
 1927年秋の豊作にもかかわらず、農民による市場取引と国家の穀物取得は、想定よりもはるかに落ち込んだ。
 戦争の恐怖が一要因だったが、国家が穀物に提示する価格の低さもその要因だった。
 工業化追求がすでに見込まれていたので、体制側が農民たちからさらに搾り上げる政策を執るか、それとも金銭で全て買い取ってしまう経済的帰結を生じさせるかが、問題だった。//
 (2)ネップの間は、農民の農業生産物に相対的に安い価格を支払い、一方で同時に、国有産業が生産した工業製品には相対的に高い価格を支払って国家による資本蓄積を増大させるのは、体制側の経済哲学だった。
 しかし、実際には、穀物についての自由市場の存在によってこれはつねに緩和されていて、国家が定める価格は市場の水準に近いままだった。
 国家は、農民層との対立を欲しておらず、ゆえに、1923-24年の「鋏状危機」が発生して農業生産物価格と工業製品価格の差が大きすぎるに至ったとき、譲歩をした。//
 (3)しかしながら、1927年、工業化追求は、多くの点での均衡を変えた。
 穀物収穫高は信頼できなかったので、外国からの機械類輸入と均衡させるための大規模な穀物輸出の計画は危うくなった。
 穀物価格が高ければ、工業拡大のために用いることのできる資金は減少し、第一次五カ年計画の達成をおそらく不可能にするだろう。
 さらに、市場に出る全穀物のほとんど大部分はロシア農民の農業のごく一部にすぎないと推定されたので、穀物価格を高めることによる利潤は農民層全体ではなくて-体制の階級敵の-「クラク」に入るように思われた。//
 (4)1927年12月に開催された第15回党大会では、公的論点のうちの主要な話題は、第一次五カ年計画および(トロツキーとジノヴィエフの)左翼反対派の追放だった。
 しかし、これらの背後では、穀物取得問題が指導者たちの心理の中できわめて大きく、国の主要な穀物生産地帯の代議員から、懸念する議論が述べられた。
 大会の直後に、多数の政治局および中央委員会メンバーが、これら地帯に向けて、早急の調査の任務を帯びて出発した。
 内戦以来の数少ない地方旅行の一つだったが、スターリン自身が、シベリアの状況を調査するために出立した。
 党の有望な人物で、高い教育を受けた有能なSergei Syrtov が指導する党シベリア委員会は、収穫に関する農民層との対立を避けようとしていた。そして、最近ではRykov (ソヴィエト内閣の長および政治局員の一人)から、執るべき正当な政策だと承認されていた。
 しかしながら、スターリンの考えは、異なっていた。
 1928年早くにシベリアから帰って、スターリンは、自分の考えを政治局と中央委員会に知らせた。(7)//
 (5)スターリンが結論づけた根本問題は、クラクは穀物を収穫して隠匿し、ソヴィエト国家を人質にしようとしている、ということだった。
 クラクたちの要求は高まるだけだろうから、穀物価格を上げたり工業製品の田園地帯への供給を増やしたりする懐柔的手段は無意味だ。
 いずれにせよ、国家は彼らの要求に合わせることはできない。工業の改善こそが優先されるべきだからだ。
 短期的な解決(ときどきは農民層との間の「ウラル・シベリア方法」と称された)は、実力行使だ。すなわち、「収穫して隠匿する」農民は、元来は都市の投機者に対処するものとして立案された刑法典107条にもとづいて、起訴されなければならない、というものだ。//
 (6)スターリンが示唆した長期的解決は、農業の集団化を押し進めることだった。これは、都市部、赤軍および輸出の需要に対する穀物の信頼できる供給源を確保し、穀物市場でのクラクの支配もまた破壊するだろう。
 スターリンはこの政策はクラクに対する過激な手段だ(「脱クラク化」)または穀物の強制的徴発という内戦期の実務への回帰だ、ということを拒否した。
 しかし、この拒絶自体が、不吉な響きをもった。指針を求める共産党員たちにとって、ネップを想起させる標語が用いられないで内戦時の政策への言及があることは、攻撃の合図に等しいものだった。//
 (7)スターリンの政策-宥和ではなく対立、訴追、農民小屋の探索、農民が公定価格よりも高い価格で提供する取引人を見つけるのを阻止するための道路検問-は、1928年春に実行に移された。そして、穀物取得の水準を一時的に改善させた。同時に、農村地帯では、緊張が急速に増大した。
 しかし、新しい政策に関して、党内部にも、大きな緊張があった。
 1月、地方の諸党組織は、多数の、しばしば矛盾する指令文書を政治局と中央委員会からの訪問者から受け取っていた。 
 スターリンはシベリアの共産党員たちに頑強であれと語ったが、一方では、Mosche Frumkin (財政人民委員代理〔=財務副大臣〕)は南部ウラルの隣接地域を訪問旅行し、宥和および穀物に対する直接交換物として工業製品を提供することを助言していた。
 また、Nikolai Ulganov (モスクワ党組織の長で政治局員候補)は低地ヴォルガ地帯で同様の助言を与え、さらには、つぎのことに注目させていた。すなわち、中央からの過大な圧力は、いくつかの地方党官僚組織に、望ましくない「戦時共産主義の方法」を穀物取得のために用いるよう指導している、と。(8)
 偶然にか意図してか、スターリンは、Ulganov たちやFrumkin たちを愚かだと思わせるようにした。
 政治局の内部では、スターリンは合意を獲得するためのその初期の実務を捨てており、きわめて恣意的でかつ刺激的なやり方で、単直に自分の政策方針を押し通した。//
 (8)スターリンに対する右翼反対派は1928年初めに、党内での指導性を集め始めた。それは、左翼反対派が最終的に敗北してわずか数カ月後のことだった。
 右派の立場の根本は、ネップの政治的枠組と基本的な社会政策は変えずに維持しなければならない、それらは社会主義建設へと向かう真の(true)レーニン主義的接近方法を意味している、というものだった。
 右派は、農民に対する実力行使、クラクの危険性の行き過ぎた強調、そして貧農がより裕福な農民に対抗して行う階級戦争を刺激するのを意図する政策に反対した。
 農民層に対する実力行使は穀物配達のために(したがって穀物輸出と工業化追求ら要する財政のために)必要だという論拠に対しては、右派は、工業生産高と発展に関する第一次五カ年の目標は「現実的な」ままで、すなわち相対的に低いままであるべきだ、と反応した。
 右派はまた、The Shakhy裁判が例証するような、かつての知識人に対する攻撃的な階級戦争という新しい政策にも反対した。そして、戦争の切迫やスパイと罷業による危険を絶えず議論していることで発生している危機的雰囲気を除去しようとした。//
 (9)政治局にいる主要な二人の右派は、ソヴィエト政府の長であるRykov と、<プラウダ>の主席編集長、コミンテルン議長、傑出したマルクス主義理論家であるBukharin だった。
 彼らのスターリンとの間の政策不一致の背後にあったのは、スターリンはレーニン死後に演じられてきた政治ゲームのルールを一方的に変更したという意識だった。スターリンは、ネップという基本的政策の多数の前提を放棄すると見えたのと同時に、集団指導制のための会合をそっけなく無視していたのだ。
 トロツキー主義やジノヴィエフ主義の反対派との闘いではスターリンを支持した激しい論争家だったブハーリンは、個人的に裏切られたという特有の意識をもった。
 スターリンは彼を政治的に対等に扱い、自分たちは党の二つの「ヒマラヤ」だと保障はしたけれども、スターリンの行動は今や、ブハーリンに対する本当に政治的なまたは個人的な敬意をほとんど持っていないことを示していた。
 失望に血気早く反応したブハーリンは、敗北した左翼反対派の指導者たちと1928年夏に秘密の会合を開くという、政治的には破滅的な一歩を進んだ。
 ブハーリンがスターリンを革命を破壊する「チンギス・ハン」と私的に性格づけたことは、すみやかにスターリンの知るところとなった。しかし、スターリンのために彼が近年に攻撃した者たちに対する信頼が増大したわけでもなかった。
 スターリンの仲間たちは、その多数はブハーリンの個人的友人だったが、憤激し、彼らは躊躇していてブハーリンの側につくかもしれないとの彼の主張によって、不和になった。(9)//
 (10)ブハーリンは私的に主導性を発揮したけれども、政治局の右派は、反対派を組織する努力を何ら行わず(左翼が引き起こした「分派主義」に対する制裁を遵守していた)、その議論をスターリンとともに遂行し、政治局のスターリンの支持者たちはドアを閉鎖した。
 しかしながら、この戦術は厳しい不利益をもたらしたことが分かった。政治局の狭い部屋にいる右翼主義者たちは、党内にいる曖昧で匿名の「右翼の危険」--この意味は、気弱で優柔不断な指導性の傾向と革命的確信の欠如だった--に対する公共的な攻撃に参加することを余儀なくされた。
 党指導部の閉鎖的な集団の外にいる者たちには、何らかの種類の権力闘争が行われていることが明瞭だった。しかし、係争点が何かも、右翼として攻撃されている者が誰かも、長い月日の間、明確にはならなかった。
 政治局の右派は、党内に支持を広げるようとすることができなかった。そして、彼らの基本的主張は、歪められたかたちでその対抗者によって公にされ、右派自身によっては、ときどきの示唆かイソップ的な言及しか行われなかった。//
 (11)右派勢力の二つの主要な根拠は、Ugalnov を長とするモスクワの党組織と、政治局の右翼メンバーのMikhail Tomsky を長とする中央労働組合会議だった。
 前者は1928年秋にスターリン派に屈し、ついには、スターリンの古い同僚のVyacheslav Molotov が指揮する徹底的な粛清を受けた。
 後者は数カ月後にスターリン派に屈したが、こちらの場合に指導したのは、目立ってきているスターリン支持者のLazar Kaganovich だった。この人物は、まだ政治局員候補者にすぎなかったが、悪名高く面倒なウクライナ党組織に関して以前に割り当てられた仕事での頑強さと政治的狡猾さで、すでによく知られていた。
 政治局内の右派は孤立し、政治的策略に負け、最終的には氏名が識別され、1929年の初頭に裁判にかけられた。
 Tomsky は労働組合での指導力を失い、ブハーリンはコミンテルンおよび<プラウダ>編集部での地位を奪われた。
 Rykov は政治局内右派の最長老であり、ブハーリンよりも慎重で実際的な政治家だった。また、おそらくは党指導層内にもっと力があったと推定される。そして、右派の敗北後もほとんど二年間、ソヴィエト政府の長にとどまった。しかし、1930年の末には、Molotov と交替させられた。//
 (12)右派が党と行政エリートたちの間で現実にいかほど強かったのかは、査定するのが困難だ。公然たる論争や組織された分派が存在していなかったのだから。
 党と政府官僚機構からの集中的な粛清が右派の敗北後に続いために、右派はかなりの支持を得ていた(またはそう考えられていた)ように見えるかもしれなかった。(10)
 しかしながら、右派だとして降格された官僚たちは必ずしもイデオロギー的には右派ではなかった。
 右翼とのレッテルは、イデオロギー上の偏向者にも、官僚組織上の無用者にも、いずれにも貼られた。後者はすなわち、あまりに無能で無感情で、あるいはスターリンの上からの革命という攻撃的な政策をともに実行することに挑戦しようとの意欲がない、と判断された者たちだった。
 この二つの範疇は、明確には識別できなかった。同じ一つのレッテル貼りは、イデオロギー的右派の信用を貶めるための、スターリニストたちの方法の一つにすぎなかったのだ。//
 (13)スターリンに対するこれまでの反対派と同様に、右派は、スターリンが統制する党機構に敗北した。
 しかし、初期の指導者をめぐる闘争とは対照的に、今回のものは基本的考え方や政策に関する明瞭な論争点が関係していた。
 これらの論点は票決に付されはしなかったので、我々は全体としての党の態度を想像することができるにすぎない。
 右派の基本的考え方は、社会的および政治的な転覆の危険性をより少なく意識するものだった。そして、党幹部たちがネップ時代の習慣と志向を変更することを要求しなかった。
 一方で弱点は、右派はスターリンに比べて、はるかに少なくしか成果を見込んでいないことだった。
 そして、1920代後半の党は、何らかの成果に飢えていた。我々が後になって知っているそれに要した対価について、党には知識がなかった。
 右派は、結局のところは、穏健だが成果に乏しい、対立の少ない基本方針を党に提案していた。党は、憎悪に溢れるほどに革命的であり、外国や国内にいる敵の隊列から脅威を受けていると感じており、社会をなおも変形することができるし、そうしなければならないと信じ続けていた。
 レーニンは1921年に、〔右派のような〕基本方針を受諾させた。
 しかし、1928-29年の右派には、それを指導するレーニンがいなかった。
 そして、全体的な経済崩壊と民衆反乱の切迫は、退却というネップ政策を(1921年のようには)もう正当化することができなかった。//
 (14)かりに右派指導者たちがその基本方針を公に発表しなければ、または論点に関する党の広範な議論を要求しなければ、党の統一に関して彼らが明確に逡巡した以上に事は進んだかもしれない。
 右派の基本方針は合理的なもので、おそらくは(彼らが主張したように)レーニン主義的でもあった。しかし、共産党員たちの内部で運動をするには、適切な基本方針ではなかった。
 政治的な観点からすると、右翼主義者は、例えば、労働組合に対して大きな譲歩をすることに決したイギリスの保守党政治家たちや連邦の統制力を拡大し事業に対する政府の規制を増大させようとしたアメリカの共和党政治家たちが直面しただろう問題を抱えていた。
 そのような諸政策は、実際的(pragmatic)な理由で、政府の閉じられた会議の中では勝利したかもしれない(これは1928年の右派の望みであり基本戦略だった)。
 しかし、党員たちを奮い起こして結集させる、よいスローガンを、彼らは提示しなかった。//
 (15)初期の反対派たちと同様に、右派もまた、党内部での民主主義の拡大という信条を採用した。これはしかし、共産党員たちの心を掴む方法としては曖昧な価値しかもたなかった。
 党の地方官僚たちが不満に感じたのは、自分たちの権限をそれは弱めるのではないかとということだった。
 Rykov は、ウラルでのとくに明瞭な変化の際に、右派は「(地域の党の)書記局員たちから逃げだそう」としているように見える(11)、と言われた。つまり、何かが間違って行われていると責め、その組織の上部には、適切に選出されていないために仕事をする権利がないと主張していると見える、と。
 中級層の地方官僚の立場からは、右翼主義者は民主主義者というよりもエリートたちであり、おそらくはモスクワであまりに長く務めたために党の草の根の部分の気分を理解していない者たちだった。
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 (7) スターリンの調達危機(1928年1-2月)に関する言明は、スターリン全集第11巻p.3-22.
 Moshe Lewin, <ロシアの農民とソヴィエト権力>(London, 1968),p.214-p.240.も見よ。
 (8) Frukin の助言は<Za chetkuyu klassovuyu>(Novosibirsk, 1929),p.73-74.で報告されている。
 Uglanov の推薦は1月末のモスクワでの演説で述べられ、<Vtoroi plenum MK PKP(b),1.31-2.2.1928. Doklady i rezoliutsii>(Moscow, 1928),p.9-11, p.38-40.で公刊された。
 (9) Fitspatrick,<スターリンTeamについて>,p.55-57.を見よ。
 (10) Cohen,<ブハーリンとボルシェヴィキ革命>,p.322-3.を見よ。
 (11) このコメントはウラルの党書記のIvan Kabakov によってなされた。ルィコフが1930年夏にSverdlovsk で行った時機遅れの「右翼主義」演説に反応して。
 <X Ural'skaya konferentsiya Vsesoyuznoi Kommunisticheskoi Partii(b)>,(Sverdlovsk, 1930), Bull.6,14.
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 第2節・工業化(The industrialization drive)。
 (1)かつて帝制時代の最高位にあった近代化者のWitte 公にとってと同じく、スターリンにとって、ロシアの重工業の急速な発展は国力と軍事力の必須条件だった。
 スターリンは1931年2月に、こう語った。//
 『過去には、我々には祖国がなく、それをもち得なかった。
 しかし、資本主義を打倒して権力を我々の手中に、人民の手中にした今では、我々には祖国がある。そして、その祖国の独立を防衛しなければならない。
 きみたちは、我々の祖国が打ち負かされて、独立を失うのを望むか?
 そう望まないならば、きみたちは、できるかぎり短い期間内に後進国状態を終わらせて、本当のボルシェヴィキ的速さで、社会主義経済を建設しなければならない。』
 これは、絶対的に切実に必要なことだった。ソヴィエトの工業化の速さは、社会主義祖国が生き延びるか、それとも敵の前で崩壊するかを、決するだろうからだ。//
 『遅らせることは、後退することを意味する。
 そして、後退した者は打ち負かされる。
 いや。我々は敗北するのを拒む。
 これまでのロシア史の特徴の一つは、後進国であるがゆえの継続的な敗北だった。
 モンゴル・ハンに負けた。
 トルコの豪族様に負けた。
 ポーランドとリトアニアの地主紳士諸君に負けた。
 イギリスとフランスの資本主義者たちに負けた。
 日本の貴族たち(barons)に負けた。
 みんなロシアに、後進国だから勝ったのだ。軍事的後進性、文化的後進性、政治的後進性、産業の後進性、農業の後進性のゆえに。<中略>
 我々は、先進諸国から50年、あるいは100年、後れている。
 我々は、10年以内にこの隔たりを埋めなければならない。
 それをするか、敗北しなければならないのか、のいずれかだ。』(12)//
 (2)1929年の第一次五カ年計画の採択によって、工業化はソヴィエト体制の最優先の課題になった。
 工業化追求を担当する国家機構、重工業人民委員部(最高経済会議の後身)の長は、1930年から1937年まで、スターリン主義指導層のうちの最も強力で活力のある者の一人であるSergo Ordzhonikidze だった。
 第一次五カ年計画は、鉄と製鉄に焦点を当て、すでに存在したウクライナの冶金工場群の生産高を最大限にまで押し上げ、南部ウラルのManitogorsk のような大きくて新しい複合施設を最初から建設した。
 トラクター製造工場にも高い優先順位があったのは、集団的農業に直接に必要だった(集団化の過程で農民が牽引動物を殺戮したためにより切実になっていた)ばかりではなく、将来の戦車(tank)製造へと容易に転換することができたからだった。
 工作機械製造工業は、外国からの機械輸入への依存から脱するために、急速に拡大した。
 織物産業は、その発展のためにネップの時期に多額が投資されていたにもかかわらず、また多数の熟練ある労働力があったにもかかわらず、衰退した。
 スターリンが語ったと言われているように、赤軍は皮や織物とではなく、金属と闘うこととなった。(13)//
 (3)金属が優先されることは、国家の安全や防衛の考慮と緊密に結びついていた。しかし、スターリンに関するかぎりでは、それを超える重要性をもったように見える。
 つまるところ、スターリンはボルシェヴィキ革命家なのであり、その党での名前はロシア語の鋼鉄(<stal'>)から取ったもので、1930年代初めの製鉄と銑鉄の生産への狂信さ(cult)は、スターリン個人崇拝(cult)の出現よりも超えるものだった。
 全てが第一次五カ年計画での金属のために犠牲になった。
 実際、石炭、電力および鉄道への投資は十分でなかったので、燃料と力の不足と輸送手段の故障は、しばしば金属冶金工場群が停止する脅威となった。
 1930年まで国家計画委員会の長だった古いボルシェヴィキGleb Krzhinzhanovski の見解では、スターリンとモロトフは金属生産にあまりに夢中で、工場群は原料の鉄道輸送や燃料、水および電気の安定的供給に依存していることを忘れがちだった。//
 (4)だがなおも、供給と配分を組織することは、第一次五カ年計画の間に国家が想定していた、おそらくは最も手強い任務だった。
 これが10年前に戦時共産主義のもとで(失敗しつつかつ一時的に)行われたとき、国家は、都市での経済、配分および取引をほとんど全面的に統制することができた。
 そして、今度は、統制は永続的なものとされた。
 私的な製造工業と取引の削減は、ネップ時期の後半に始まった。そして、1928-29年には、ネップマンたちに対抗する圧力とともにその過程は速くなっていった。-プレスでの中傷、法的および財政上の嫌がらせおよび多数の私的起業者たちの「投機」を嫌疑とする逮捕。
 1930代の初めには、職人や小規模小売店は仕事からはじき出され、または国家が監督する協同組合へと強制的に編入された。
 同時期に行われた農業の実体的部分の集団化とともに、かつてのネップ時期の混合経済は早々と消滅していた。//
 (5)ボルシェヴィキにとって、中央指向の計画と国家による経済統制という原理的考え方は大きな重要性をもつもので、1929年の第一次五カ年計画の導入は社会主義へと至る重要な一歩だった。
 たしかに、ソヴィエトの計画経済が制度として確立されたのはこの10年のうちにだった。経済成長のうちの「計画」的要素をさほど文字通りには理解することはできない、そういう移行と実験の時代だったのだけれども。
 第一次五カ年計画と経済の現実的作動との関係は、のちの五カ年計画よりもはるかに少ないものだった。つまり、実際には、純粋な経済計画と政治的な奨励との混合物(hybrid)だった。
 この時期の逆説の一つは、こうだった。すなわち、計画の真っ最中の1929-31年に、国家の計画機関の人員たちは右翼主義者、元メンシェヴィキあるいはブルジョア経済学者という理由で容赦なく粛清され、彼らはほとんど機能することができなかった。//
 (6)1929年の導入の以前と以後のいずれにも、第一次五カ年計画には多くの版があり、多くの修正があった。政治家たちからの圧力の程度が異なるのに対応して、計画者たちが競い合ったのだ。(14)
 1929年に採択された基本版は大量の農業集団化を想定しておらず、工業が労働力を必要とすることを大幅に低く見積もっており、職人的生産と取引のような諸問題をきわめて曖昧にしか処理していなかった。これらについて、体制側の政策は、曖昧で不明瞭なままだった。
 計画は、生産目標を設定した-金属のような重要分野では計画が実施された後も頻繁に上げられたけれども-。しかし、生産増大のための資源をどこから入手するかに関しては、きわめて曖昧な指示しか与えなかった。
 後続したいずれの版も計画達成に関する最終的な叙述も、現実との関係には多くは言及していなかった。
 計画の表題すらが不正確であることが判明することとなった。第一次五カ年計画は第四年度で完成する(または完結する)と最終的には決定されたのだから。//
 (7)工業は計画をたんに履行するのではなく、「上回って達成する」ことが奨励された。
 換言すると、この計画が意図したのは、資源を配分したり需要を較量することではなくて、ともかくも向こうみずに経済を前進させることだった。
 例えば、Stalingrad のトラクター製造工場群は計画されていた以上に<多くの>トラクターを生産して、計画を最善に実現することができた。しかし、そのことが工場群がもつStalingradに金属、電気部品やタイヤを供給する工程表を全面的に狂わせるものだったとしても。
 供給が優先することは、計画の文章によってではなく、一連のそのつど(ad hoc)の重工業人民委員部、政府の労働・防衛会議、あるいはときには党の政治局、の指令によって決定された。
 最優先(<udarnye>)の公的リストにある事業体や建設企画者を覆っていたのは、激しい競争意識だった。それに含められているということは、供給するには従前の全ての約定や責務を最優先の指令を実現するまでは無視することが必要だ、ということを意味した。//
 (8)しかし、最優先リストは、危機、生起する災害あるいは重要な工業部門の一つの中での目標の新規引き上げに対応して、頻繁に変化していた。
 「工業戦線での停止」は予備の新しい人間や資材の投入を要求するものなので、ソヴィエトの諸新聞の第一面に、かつ実際にソヴィエトの工業家の日常生活に、劇の一幕を提供するようなものだった。
 第一次五カ年計画の間に成功したソヴィエトの工業管理者は、忠実な官僚ではなく、むしろ敏腕で有能な起業家だった。手を抜きつつ、競争相手に勝つあらゆる機会を掴もうとする意欲があった。
 目的-計画の実現または上回っての達成-は、その手段よりも重要だった。
 供給を強く望んだ工場群が貨物運送車両を突然に襲ってその中身を徴発する、という場合もあった。このようなことは、輸送に責任がある当局から不服と遺憾の旨の文書が送られたとしても、それよりは悪くない結果をもたらすものだった。//
 (9)しかしながら、工業生産高の迅速な増大が強調されたにもかかわらず、第一次五カ年計画の本当の目的は、建設することだった。
 新しく巨大な建設計画-Nizhny Novgograd (Gorky)の自動車、Stalingrad とKharkov のトラクター、Kuznetsk とMagnitogorsk の冶金、Dnieper (Zaporozhe)の製鉄、およびその他多数-は、第一次五カ年計画の間に膨大な資源を呑み込んだ。しかし、完全に生産を開始したのはようやく1932年より後の、第二次五カ年計画(1933-37年)のもとでだった。
 これらの建設計画は、将来のための投資だった。
 投資額の巨大さのゆえに、第一次五カ年計画の間になされた新しい巨大工業基地の位置に関する決定は、事実上はソヴィエト同盟の経済地図の中で描き直されていた。//
 スターリンがジノヴィエフ反対派と対立していた1925年の初めには、投資の問題は党内政治のある範囲の部分だった。スターリンの運動家たちは、工業化計画がそれぞれの特定地域にもたらす利益を各地域の党指導者が理解するように、取り計らったのだから。
 しかし、ボルシェヴィキたちが政治の新しい次元全体-発展の配置に関する地域間競争-に本当に目を開いたのは、1920年代の最後の年に、第一次五カ年計画の最終決定が迫ったことによってだった。
 1929年の第16回党大会では、演説者は多大なる関心をより実際的な問題に寄せたがゆえに、イデオロギー上の闘争に気持ちを向け続けることが困難だった。ある古きボルシェヴィキが、皮肉っぽくこう記したように。
 「演説は全て、こう終わる。
 『ウラル地域に工場を一つ寄こせ。そして、右翼よくたばれ!
 我々に発電所を寄こせ。そして、右翼よくたばれ!』」(15)//
 (10)ウクライナとウラルの党組織は、鉱業や冶金複合体および機械製造工場群に対する投資の配分に関して反目し合っていた。
 そして、それらの対立関係は、1930年代を通じてずっと継続した。-この対立を引っ張ったのは、ウクライナの前党書記のLazar Kaganovich と労働組合の全国的指導者の地位を得る前にウラル党組織の長だったNikolai Shvernik のような、国家的大政治家たちだった。
 緊張にみちた対立は、第一次五カ年計画の間の建設が予定された特殊な工場群の位置の問題にも発展した。
 ロシアとウクライナの六都市はトラクター工場群について入札したが、結局はKharkov に建設された。
 同様の争いは、おそらくこの種の最初のものだが、ウラルの機械製造工場群(Uralmash)の位置に関して1926年から激しく行われていた。最終的に勝利したSverdlovsk は、場所の決定にかかるモスクワの手を縛るために、中央による認可書なくして、地方の資金を使って建設を開始した。(16)
 地域間の強い競争(例えばウクライナとウラルの間のそれ)は、しばしば二つの勝利という結論をもたらした。-計画者の元来の意図は一つだけ建設することだったにもかかわらず、各地域それぞれに別々の二つの工場群を認める。
 こうしたことは、第一次五カ年計画の特徴である、目標の高揚や永続的な費用の増大の一要因だった。
 しかし、唯一の要因ではなかった。モスクワにいる中央の政治家や計画者たちは、明らかに「巨大症(gigantomania)」、つまり巨大さに対する妄想〔強迫観念〕、に陥っていた。
 ソヴィエト同盟は他国よりも、より多く建設し、より多く生産しなければならなかった。
 その工場群は世界で最も新しく、最も大きなものでなければならなかった。
 経済発展で西側に追いつくことだけではなくて、凌駕しなければならなかった。//
 (11)スターリンが飽くことなく強調したように、近代工業は、追いつき、追い越す過程にとって不可欠の条件だった。
 多くの専門家たちは反対する助言をしたけれども、新しい自動車とトラクターの工場は流れ組み立て作業(assembly-line)による生産用に建設された。伝説的な資本家であるフォードが、試合で敗北しなければならなかったからだ。
 実際には、第一次五カ年計画の間に新しいコンベア・ベルトがしばしば止まり、一方では、労働者たちは仕事場での伝統的な方法で、丹念に一台のトラクターを組み立てた。
 しかし、故障したコンベアにすら、その役割があった。
 実質的に見れば、それは第一次五カ年計画による将来の生産への投資の一部だった。
 象徴的な意味では、ソヴィエトの新聞に写真が掲載され、公式のかつ外国の訪問者に敬意を表されれば、スターリンがソヴィエト国民や世界が受け取るだろうと期待するメッセージを伝えたのだ。つまり、後進国のロシアはすみやかに「ソヴィエト式のアメリカ」になるだろう、というメッセージ。
 経済発展という大飛躍は、こうして進められていた。//
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 (12) スターリン全集・第13巻p.40-41.〔=日本語版全集13巻「経済活動家の任務について」p.59-p.61.(大月書店)〕
 (13) スターリンの言葉は<Puti industrializatsii>(1928), no.4, p.64-65. に引用されている。
 (14) E. H. Carr & R. Davis, <計画経済の形成, 1926-1929>(London, 1969), i, p.843-p.897.を見よ。
 (15) David Ryazanov, in: <XVI Konferentsiya VKP(b), aprel' 1929 g. Stenograficheskii otchet> (Moscow, 1962), p.214.
 (16) 第一次五カ年計画をめぐる政治につき、Sheila Fitzpatrick,「Ordzhonikidze によるVesenkha の継承-ソヴィエトの官僚的政治の事例研究」<ソヴィエト研究>37: 2(1984.4).
 地域的事例研究として、James R. Harris, <大ウラル-地域主義とソヴィエト体制の進展>(Ithaca, 1999), p.38-p.104. を見よ。
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 第3節、第4節へとつづく。

1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski (1927.10-)は存命だと今年で92歳になるが、彼もヒト・人間なので永遠には生存できず、2009年の誕生月前に81歳で亡くなっている。
 以下は、L・コワコフスキの逝去を伝えるNew York Times の記事。
 とくに目新しく感じるところは多くない。私の印象に残ったのは、以下だ。
 ①sudden, short illness の後の死だったとされていること。それ以外の子細は公表されていない。
 ②訃報に接して、ポーランド国会が「黙祷」の時間をもったこと。
 ③エッセイ集にL・コワコフスキの英語訳者として名が出てくるAgnieszka Kolakowska は実の娘だと分かったこと(年齢等不詳。後で追記、1960年生まれ )。
 ④一番最後に紹介されているL・コワコフスキの文章は、彼らしく思えること。
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 レシェク・コワコフスキ、ポーランド人哲学者、81歳で逝去。
 New York Times 2009年7月20日。
 記者/Nicholas Kulish。
 ワルシャワ--レシェク・コワコフスキ、マルクス主義を拒否して国外滞在中に母国の連帯運動を活発になるのを助力したポーランド人哲学者が、金曜日に、イギリス、オクスフォードで逝去した。81歳だった。//
 彼の家族は彼の死をポーランドの新聞 Gazeta Wyborza に発表し、彼はオクスフォードの病院で「突然の、短い病気のあとで」死去したと語った。
 それ以上の詳細は、伝えられていない。//
 ワルシャワでは、国会が、彼の栄誉のために、彼のポーランドの自由に対する貢献のために、黙祷をした。//
 長いかつ広範囲の経歴のあいだに、コワコフスキ氏は冷戦というイデオロギー的および軍事的武装競争が極みにあるときに、自分が若いときに支持した共産主義体制の知的な土台を詳細に分析した。
 彼はその影響力が学問の領域をはるかに超える研究者であり、その書いたものは陽気で風刺的で、しかしほとんどは理解しやすい学者だった。//
 ポーランド反対派の指導者の一人である、1985年にGdansk 獄房から執筆したAdam Michnikは、コワコフスキ氏を「現代ポーランド文化の重要な創造者の一人」だと述べた。//
 彼の最も影響力ある著作である、1970年代に出版された三巻本の"マルクス主義の主要潮流-その発生、成長および解体"は、「我々の世紀の最大の幻想」とその哲学を称する、歴史書であり、批判書だった。
 彼は、スターリニズムはマルクス主義からの逸脱ではなく、むしろその自然の帰結だと主張した。//
 きわめて真剣な文章に加えて、彼は戯曲や寓話および魔王が多数の有名な神話上および歴史上の人物と討論する"悪魔との会話"という本も書いた。//
 コワコフスキ氏は、50年以上にわたる経歴の中で30冊以上の書物を出版した。
 彼は、ポーランドの最高の栄誉である白鷲勲位(the Order of the White Eagle)を受け、天才にその資格があると広く知られているMacArthur Foundation 助成金を受けた。//
 2003年には、ノーベル賞がない分野に与えられる、人文社会科学の生涯の偉業に対する、連邦国会図書館の100万ドルのW. Kluge 賞の初代の受賞者になった。
 図書館長のJames H. Billington はこの賞の発表に際して、コワコフスキ氏の学問のみならず、「彼自身の時代での大きな政治的事件への明白な重要性」にも注目を向け、「彼の声はポーランドの運命にとってきわめて重要であり、全体としてのヨーロッパに影響力をもった」、と付け加えた。//
 レシェク・コワコフスキは1927年10月23日にワルシャワの南方のRadom 市で生まれた。その世代のほとんどのポーランド人と同様に、コワコフスキ氏は幼少時に困難な体験をした。
 第二次大戦中のドイツ占領間、コワコフスキと彼の家族は異なる町や村へと移り住むことを強制された。//
 ドイツはポーランドの学校を閉鎖したために、若きレシェクは独学をし、設立されていた地下の学校制度の試験を受けなければならなかった。
 戦争の後、彼は哲学を最初はLodz 大学で学び、のちにWarsaw 大学で博士の学位を得た。
 彼はその大学で教職の地位を得て、哲学史部門の長へと昇った。
 人生のはじめは、彼はナツィズムによる自分の国の破壊に対する反応として共産主義を受け入れ、赤軍をドイツによる数年間の抑圧後の解放者だとして歓迎した。
 しかし、有望な青年マルクス主義知識人への報奨として意図されたモスクワ旅行は、逆に、転換点となった。「スターリン体制が引き起こした巨大な物質的および精神的な荒廃」と彼が叙述したものを、しっかりと見たのだった。//
 2004年のNYタイムズとのあるインタビューで、コワコフスキ氏は、「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」と語った。//
 1956年のPoznan での労働者騒擾のあとで、コワコフスキ氏の著述は検閲と激しく衝突し始めた。
 彼のスターリニズム批判 "社会主義とは何か?" はとくに、公刊禁止となった。
 コワコフスキ氏は、ポーランド統一労働者党から1966年に除名され、Warsaw 大学での地位を1968年に失った。
 彼は、その年に、外国へと移住した。//
 コワコフスキ氏はポーランドを離れたあと、Montreal のMcGill 大学、California 大学Berkley校、Yale およびChicago 大学の社会思想委員会を含む、最高級の研究施設で教育した。しかし、彼の本拠となったのは、Oxford だった。//
 コワコフスキ氏は、妻のTamara と一人娘のAgnieszka を残して先立った。//
 1982年の著名な講義でコワコフスキ氏は、哲学の文化的役割について、こう語った。
 「精神のもつ知的欲求のエネルギーを決して眠らせないこと、明白で決定的だと見えるものを疑問視するのを決してやめないこと、常識がもつもっともらしい純粋な根拠につねに反抗してみること」、そして「科学の正統とされる範囲を超えて存在してはいるが、それでもなお他にも、我々が知るように、人間の生存にとっては致命的に重要な諸問題がある、ということを決して忘れないこと」。
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 以上。
 下は全てRadom 市に存在するのものだと思われる。ネット上から。
 
 Leszek_Kolakowski_grave_2 (2) Leszek_Kołakowski_ssj_20110627 (2)

 Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland1 (3) Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland2 (2)
 

1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル・ジバゴ。

  ノーベル文学賞が与えられたことになっている(本人は辞退)『ドクトル・ジバゴ』(1957年。映画化1965年)の作者であるB・パステルナーク(Boris Pasternak)について、無責任にも?<なぜこの人は亡命しなかったのだろうと思うときがある。よく分からない>とこの欄にかつて書いたことがある。1910年頃に留学していたドイツ・マールブルク(Marburg)について記したときだった。
 今でもよく分からないが、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』第三巻第二章第一節の<文化等の一般的状況>(この欄№1863/1918.11.02)の中で久しぶりにBoris Pasternak の名を見つけた。1920年代~1930年代の<作家・文筆家>の様子がある程度は分かる。
 L・コワコフスキによると、1930年代、作家(文筆家・詩人)たちは、こう分かれる。
 ①殺戮される-Babel、Pylnyak、Vesyoly。
 ②自殺する-Mayakovski、Yesenin。
 ③強制収容所で死ぬ-Mandelshtam。
 ④国外に逃亡(亡命)する-Zamyatin。
 ⑤スターリンを称賛する「物書き」になる-Fadeyev、Sholokhov、Olesha, Gorky。
 B・パステルナークはどこに入るのか。まだ、つぎがある。
 ⑥何とか「迫害と悲嘆の時代」を生き残る-Akhmatova、Pasternak。
 B・パステルナークは殺されもせず、亡命(国外移住)もせず、ロシア国内で「生き延びた」のだ。
 どのようにして? その詳細は分からない。何らかの「食って、生きる」ための仕事をし、詩作や文章書きを<隠れて>行っていた、という程度にしか分からない(もちろん、日本語本にあるこの人の評伝には正確なことが書かれているだろう)。
 それにしても、Pasternak と並んでいるAkhmatova (女性)は、第三者、とくに体制関係者に分からないように、<自分の脳内に詩作を記憶させ、蘇生させ反芻しながら、脳内で詩作を続けていた>と何かで読んだのだから、凄まじい<表現の自由>の否認状況だろう。脳内にしか、発表し、保存する媒体はないのだ。
 Boris Pasternak もまた、似たような状況にいたと思われる。
 "Doktor Zhivago" がふつうの小説ではなく、私が一読しても登場人物にかかるストーリーの現実性や連続性には疑問があり、長いものもある「詩」が何度か挿入されているのも、その作成や構成に要した時間と、取り囲んでいた「(とくに政治)環境」によるものと思われる。
  レーニン時代にせよ、スターリン時代にせよ、種々の政治的事件や制度等の歴史も重要だし(指導者、党、国政あるいは中央と地方、ロシアと他民族、外国との関係等々)、また、いかほどの数の人間が粛清やら大粛清あるいはテロルによって死んだのかも、もちろん重要な関心事だ。
 しかし、どうしても今日的には理解し把握し難い、あるいは実感し難い重要なものがあるということを意識しておかなければならないように思われる。
 それは、<イデオロギー>というものの役割、あるいはいささかどぎつい言葉を選べば「洗脳」というものはいかなるものか、だ。
 これは現在の日本人には、またほとんどの欧米人には、ほぼ理解不能なのではないか。
 そんなことを感じたのは、やはりL・コワコフスキの叙述による。
 うまく訳しきれていないが、L・コワコフスキによると(№1886/2018.12.08)、こんな状態があった。長くなるが、叙述の順序に従って、ほとんど再引用する。要約している部分もかなりある。
 ①人物や事件の評価が「修正」されたとき、人々はその「修正」の簡単な方法・経緯を知っていたが、それを公言すれば制裁を受けるので<何も語らなかった>。
 ②知っていても決して言及しない「公然の秘密」がある。
 ③人々は強制収容所についてしっかりと知っていたが、それはしかし(引用すると)、「そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつ、その事実に気づいていることを政府が望んでいた」からだ
 ④人々には「二重(dual)の意識」が作り出された。それは体制側の意図だった。
 ⑤人々はあちこちで「醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ」、かつ同時に、「十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた」。
 ⑥人々は、「党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって、ウソだと知りつつ発言することで、ウソについて党と国家の共犯者になった」。
 ⑦体制側の意図は、馬鹿馬鹿しい虚偽を「そのまま信じる」ことではなかった。
 ⑧「完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になる」。
 ⑨「党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。
 すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する
 一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている
 市民はかくして、『信じることなくして信じる』(believe without believing)ことをしなければならなかった」。
 ⑩上の「心理(mind)状態」こそが、、党が人々の中に「作り出して維持しようとしている」ものだった。
 ⑪人々は「政府のウソを繰り返して言った」。そして考え難いことだが、その人々は「自分たちが言っていることを半分は信じていた」。
 ⑫人々は何と言うのが「正しい」のか、つまり「何と言うことが彼らに要求されているか(=正しいか)」を知っていた。そして奇妙なことだが、彼らは「真実と正しさ」とを混同していた
 この辺りのL・コワコフスキの最後の文章はつぎのとおり。
 ○「このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった」。
 ソヴィエト体制下で生じたのは、たんなるテロル・大粛清や貧困・飢餓等だけではない。
 注目しておくべきなのは、人間の<自由で、誠実な精神>というものの破壊だっただろう。
 上の⑤⑥、⑧⑨あたりは、きわめて理解し難い「心理・精神」の状態だ。
 L・コワコフスキは二重(dual)意識と呼ぶが、G・オーウェル『1984年』には二重(double)意識という語が出てくるらしい。
 ともあれ、ソヴィエト体制下でのイデオロギー操作というのは、<ウソが真理だと信じ込ませる>ことでは全くない、と今日のわれわれも知っておくべきだろう。単純な?「洗脳」ではない。
 私にもまだ判然としないが、こういう心理・精神状態をどう理解すればよいのだろう。
 **ウソをつきつつそれが本当のことだと信じている<ふりをする>、かつまた、ウソであることを本当は知っていることも<匂わせる>。**
 何と複雑な、欺瞞に満ちた心理・精神状態だろうか。
 多くの人々が、こういう心理・精神状態の中で生きていたのではないか。
 「しろうと」ながら、ヒトラー・ナツィズム体制は、もっと大らかで率直で正直だったような気がする。唖然とする、悪辣なことを平然とかつ公然と語っていたような気がする。
 コミュニズム(共産主義)とナツィズムの違いだ。
  B・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』はレーニン時代を歴史的背景とする作品だ。
 1917年秋・冬から三回の冬のことを、この作品はこう叙述している(私の訳-№1548/2017/05/18)。
 「冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//」
 さらに、すでに新体制=ソヴィエト・ボルシェヴィキ体制の「人間」観を疑問視するこんな発言も、主人公の友人(ラーラの正式・形式上の夫でボルシェヴィキに入党したが、最後は自殺)にこう語らせている(私の訳-№1539/2017/05/13)。
 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
 あくまで小説上のものだが、これはスターリン下の言葉ではない。明らかにレーニン時代のものとして語らせている。
 ***
 最後に、この時代に、ロシア(・ソ連)の将来を悲観して、あるいはブルジョアジーとか「知識人」とかの<逆差別>を受けて(レーニン政権が追求したのは決して「平等」なのではない。「階級敵」の平等視があるはずもない)、国外に脱する直前のユリイの正式の妻・トーニャの手紙の一部を再度引用しておきたい。
 あくまで、作品上のものだ。しかし、他国へ行く当時の人々によってこういう文章は実際に書かれたのではないか(私の訳。同上)。
 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。Boris Pasternak, Doktor Shiwago〔独語版〕, p.521.

1904/NYタイムズ2004.02.14の記事-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski の第一回Kluge 賞受賞はアメリカのメディアの関心を惹いたようで、翌2004年の2月14日付The New York Times は、Oxford まで記者を派遣して(又はロンドン在住の記者によって)一部は明瞭にL・コワコフスキからのインタビューから成る記事を掲載している。
 上記期日のThe New York Times(Online)から試訳する。記者はSarah Lyall。
 L・コワコフスキの評価は彼の書物自体の内容によって行うべきことは明らかだ。
 しかし、その<人物>にも関心は向かうのはやむをえず、とくにL・コワコフスキの場合は、例えばつぎのような疑問が生じ、知りたくなる。
 ①ポーランド出国の詳細な経緯。
 ②例えば、強制的国外追放という制裁が「法的に」は想定し難いとすると(シベリア流刑とは異なる)、どのようにして国外に移ったのか。家族はいたのか。家族はいたとすれば、彼らも一緒だったのか、等々。
 ③L・コワコフスキの「連帯」運動への影響というのは、より詳細にはいかなる態様、内容のものだったのか。
 これらのうち、上の②の一部は、以下の記事によって判明する。
 その他の①について、相当に参考になる情報・知識をネット上で得たが、以下では明瞭ではない。
 さらに、上の③は私にはまだほとんど分からない。なお、ポーランド青年たちを「目覚ました」とされる1971年の小論<希望と絶望について>は、ネット上にフランス語→英語版が掲載されていたが、読んでいない。
 なお、以下で言及されている1960年代の"社会主義とは何か"は、長い論文ではなく標語の羅列のようなもので、のちの彼のエッセイ集にそのまま収載されている。
 また、手元で確認できていないが、日本では加藤哲郎が、何かの本でこの「社会主義とは何か?」に気づいてそのまま紹介、掲載していた。その元の本自体も不明なので、別の機会にこの欄に記す。
 加藤哲郎がその後ひき続いて、このポーランドの「レシェク・コワコフスキ」に対する関心を維持しなかったのは、間違いないように思える。
 その他のコメントは避ける。この記事の内容も、興味深いものがある。
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 The New York Times/2004年2月14日付。
 哲学者が変化をもたらすとき。

 記者・Sarah Lyall。
 連邦議会図書館が76歳のポーランド人哲学者のレシェク・コワコフスキに初めて語りかけたのは、100万ドルの新しい人文社会科学賞の候補に指名された、と伝えるためだった。
 のちに彼自身がその賞を受けたと伝えられたとき、彼はこのときのことを思い出した。//
 コワコフスキ博士は驚いたのだとすれば、ほとんどのアメリカ人はたぶん当惑しただろう。彼の名前は合衆国では十分に知られていなかったのだから。
 しかし、図書館長の James H. Billington 博士は、三ヶ月前の発表の際に、なぜこの哲学者が人文学および社会科学での生涯にわたる業績に対する初代のJohn W. Kluge 賞に選抜されたかを知りたい人々のために、つぎのように説明した。
 「これほどの広さで洞察しその時代の大きな政治的事件に重要な影響を与えた、奥深く熟考する思索家を、他にはほとんど誰も見出すことができない。」//
 ポーランドで生まれ、1960年代に、増大していた反正統派信条を理由として大学での地位と共産党から追放された。
 国外でのコワコフスキ博士は、1980年代のポーランド連帯運動の重要人物になった。
 三巻にわたるマルクス主義の分析作業、"マルクス主義の主要潮流" (1978年)は、その主題にかかる決定的著作だと考えられている。
 しかし、彼は明快で魅力あふれたエッセイ著述者でもあり、その書物や著作はSpinoza、Kant、モダニズム、権威と自由意志および日常生活での哲学の意味といった主題にかかわっている。//
 このような素晴らしい諸業績があるにもかかわらず、コワコフスキ博士は穏やかな人物のままであり、個人的な質問から逸らせた。
 「あなたは、私の人生について知らなくてもよいです」。
 彼は、数年前までAll Souls College の主任研究員だったOxford の北郊にある自宅の居間で、コーヒーをすすりながら、そう言った。//
 同じように、最近の受賞の報せにどう反応したかにも触れたくはないようだった。
 いや、そうだ。お金はどうしますか?
 彼はカップに目を落とし、悪戯っぽい笑いを浮かべて、言った。
 「金を使うことに、大きな問題は全くないです」。//
 コワコフスキ博士-その名は、LESH-ehk ko-wah-KUHV-skee と発音される-の人生は、二度、引き裂かれた。先ず、ナツィズムによって、次いで、共産主義によって。
 知識人の子息だった彼は、ドイツによる侵略のあと、家族とともに何度も中央ポーランドの町や村へと転居させられ、学校に通うことは禁じられた。彼は語った。
 「ドイツ人はポーランド人のための学校を閉鎖しました」。
 「ドイツ人のための豚飼いであるポーランド人を読み書きができないようにしておくというのは、素晴らしい考えでした」。//
 にもかかわらず、彼は多数の本をこっそりと読んで勉強し、戦後には、ワルシャワ大学から哲学で博士の学位を得た。
 最初は、ナツィズムの解毒剤として、そしてうむをいわさぬユートピア理想として、教条的マルクス主義を受け入れた。彼は、こう説明した。
 「私はポーランド文化にある一定の伝統-右翼、聖職主義、反ユダヤ-をひどく嫌いました。そして、戦争中に左翼の環境(milieu)の中に入りました」。
 「ドイツのもとでの恐怖の5年間のあと、われわれは、赤軍を解放者として歓迎しました」。//
 彼が語るには、そのあと、彼が信じて誓約したものはそう主張していたものではない、ということに気づくことができた。
 1950年に、有望な青年マルクス主義知識人のための企画の一環として三ヶ月の間モスクワに行って初めて、彼はイデオロギー的に目覚め、マルクス主義の豊かなイデオロギー上の修辞は薄っぺらで皮肉に満ちた現実と食い違っていることを発見した。//
 「文化的頽廃-ソヴィエトの科学とイデオロギーの指導的著名人の知的生活の貧しさ、芸術等々の貧しさ-が、分かった」、と彼は語った。//
 ポーランドに戻って、彼はワルシャワ大学での経歴を登り、最後には哲学史部門の講座長になった。一方では、マルクス主義を辛辣に攻撃した。また、しばしば風刺的に著述したことによって、彼はますます既成組織集団(establishment)には相容れないものになった。
 彼は人間主義的社会主義または社会主義的人間中心主義を擁護して議論することを始め、改革を支持して運動する知識人たちでが起こしていた「ポーランドの十月」運動を背後で支える指導的思考家になった。//
 コワコフスキ博士の影響力あるスターリン批判、"社会主義とは何か"は、多数ある著述の中でもとくに、政府によって発表が禁止された。しかし、幻滅していたその他の知識人たちの間には広く流通した。
 1966年に党から除名され、その二年後に、大学での仕事を奪われた。
 そして、精神病理学者の妻、妻との間の一人の娘とともに国を去り、Montreal のMcGill 大学の客員教授職を得た。彼は、つぎのように語った。
 「ポーランドにいなくなるのは2年だろうと想定していた。しかし、20年に延びた」。//
 1970年代および1980年代にポーランドで反対運動が力強くなり始めたとき、コワコフスキ氏の著作はポーランドの運動に対して中枢的な(pivotal)影響力をもち、とくに1981年に発布された戒厳令のあとでは、国外での運動を活気づける効果をもった。
 しかし、自分は著作物や政治的動きが影響力をもった多数の知識人の一人にすぎない、自分のしたことは「わずかな奉仕」だ、と言って、彼は自分の役割を軽く扱った。//
 あるときに、彼は英語で口挿んだ。-「私は一つの言葉しか持たない-ポーランド語だ。多数の言語で話すふりをしている(pretend)けれども」。
 (英語以外に、フランス語、ドイツ語およびロシア語だ。)//
 共産主義体制の解体について、コワコフスキ博士はこう語った。
 「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」。//
 コワコフスキ博士は、共産主義の崩壊とともに、Spinoza を含む初期の関心へと立ち戻った。
 彼は、哲学の歴史や宗教の歴史、倫理および形而上学に関する書物を執筆した。
 彼の著作は16世紀と17世紀のヨーロッパのキリスト教運動の歴史的検証から、風刺劇の脚本や寓話的童話にまで及んでおり、その寓話では彼はとくに、旧訳聖書から現代の弁証法的理性までの物語を主題にした。
 "悪魔との対話"(1972年)という初期の書物では、狡猾な魔王(Satan)は神話や歴史上の人物たちと討論する-Orpheus, Héloïse、Luther、St. Peter the Apostle、St. Bernard -。さらには「形而上学的新聞社大会」への参加者とも。
 最新の著作である"スピノザに関する二考と哲学者たちに関するその他のエッセイ"は、まもなく店頭に並ぶはずだ。//
 批評家のGeorge Gomori は、コワコフスキ博士について、こう書いた。
 「これが十分に、彼のメッセージの要点であるかもしれない。すなわち、真実と権威の双方を、貴方は愛することはできない
 ドグマに囚われず、貴方自身がもつ前提を頻繁に再思考して、貴方は選択しなければならない。
 コワコフスキは、大人のための哲学者だ」。
 その書いたものは実際上は難解であることがある多数の今日の哲学者たちとは対照的に、コワコフスキ博士は、学界に属していない者ですら平易に理解することができるように書く。//
 連邦議会図書館のScholarly programs の長であるProsser Gifford 博士は、コワコフスキ博士にKluge 賞を授賞することに最終的には決した選考過程を統括した。彼は、こう言った。
 「学界の仲間たちを、こき下ろしたくはない。
 しかし、ある範囲の側面での近年の人文社会科学は、きわめて奥義的(arcane)になっていて、専門家的隠語(jargon)でいっぱいだ。」
 「我々は、基礎的な諸問題を対象にして研究している。そしてそれらは、学界人ではなくそうした作業に職業的に関与していない人々にも理解可能なものであるべきだ。
 コワコフスキ博士は、それをしている」。//
 コワコフスキ博士はまた、答え難い質問にも尋ねる価値があると認める、無邪気とも言える率直さでも目立っている。
 例えば、"形而上学的恐怖(Metaphysical Horror)'' (1988年)で彼は、「ありえない疑問」に対する人々の恐怖を戯れ的に描き、ある意味では彼の生涯の作業を、この書物の最初の一行にまとめている。
 「似而非専門家(charlatan)だという感情を決して抱いたことのない今日の哲学者たちは、薄っぺらな心性しかもたないので、その著作はたぶん読むに値しない」。
 上のような見方について質問されて、彼は笑った。そして、ときどきは彼も似而非専門家のように感じるけれども、としつつ、こう語った。
 自分の似而非専門家的思考は、「似而非専門家ですら、有用な役割を果たすことができるという感情」でもって均衡が保たれている、と。
 コワコフスキ博士によると、根本的な諸問題を検討することは、それぞれの時点ではいかに無益で虚しいことのように見えるとしても、経験にとって根本的なことだ
 彼は語った。「形而上学上の、認識論上の、倫理上の諸問題を発するのは、人間の精神(mental)の抑え難い欲求だ。
 それについて思考するのが幸福だ、というのではない。そうした諸問題そのものが、抜け出すことが困難だからだ。」
 付け加える。「決定的に明確な回答はない。
 しかし、そうした諸問題に接近することによって、望む目標地点に到達しなかったとしても、正しい(right)途の上を進んでいるという感情を得ることができる」。
 彼は語った。「にもかかわらず、そうした場所(position)は、劇的で面白いものではない
 戦慄にみちたものでもない。
 人は、そうした場所で生きることができる。」
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 以上。

1903/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑮。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第4章までは済ませている。
 各節の前の見出しのない部分はこれまでどおり「(はじめに)」とここでは題しておく。しかし、正確な言葉ではなく、これまでの章もそうだが、章全体の内容をあらかじめ概述するような意味合いのものであるようにも見える。
 これまでと同様に、一文ごとに改行し、本来の改行部分には//を付す。但し、新規にだが、原文にはない段落番号を( )の中に記すことにした(但し、太字化はしない)。
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 第5章・スターリンの革命。
 (はじめに)
 (1)第一次五カ年計画(1929-1932)による工業化追求とそれに伴う強制的農業集団化は、しばしば「上からの革命」だと叙述されてきた。
 しかし、戦争の比喩的描写と同じようにするのが適切だった。そしてこの当時は、-ソヴィエトの注釈者たちが好んで行ったように「戦闘の真只中」のときには-戦争に関係する暗喩の方が、革命的な語法よりすら一般的だった。
 共産党員(共産主義者)は「戦闘員」だった。ソヴィエトの力は工業化と集団化という「戦線」へと「動員」されなければならなかった。
 ブルジョアジーやクラク〔富農〕という階級敵から「反撃」や「伏兵攻撃」がなされることが、想定され得た。
 ロシアの後進性に対する戦争だった。そして同時に、国の内部と外部にいるプロレタリア-トに対する階級敵との戦争だった。
 実際にこの時期は、ある範囲の歴史研究者ののちの見方によれば、「国民(the nation)」に対するスターリンの戦争の時代だった。(1)//
 (2)戦争で喩えるのは、明らかに、内戦と戦時共産主義の精神に立ち戻ることおよび非英雄的なネップという妥協を非難することを意味していた。
 しかし、スターリンはたんに表象を弄んでいたのではなかった。第一次五カ年計画の時代のソヴィエトは、多くの点で、戦争中の国家に似ていたからだ。
 体制の政策に対する政治的な反対と抵抗は裏切りだと非難され、ほとんど戦争中の厳しさでもって頻繁に罰せられた。
 スパイと破壊工作に対する警戒の必要性は、ソヴィエトの新聞の決まった主題になっていた。
 民衆一般は愛国的連帯意識を強く搔き立てられ、工業化という「戦争遂行」のために多大の犠牲を払わなければならなかった。すなわち、戦争時の条件や配給制をさらに進めたものが(意図せざるものであっても)都市部に再導入された。//
 (3)戦時中のごとき危機的雰囲気は、ときに純粋に工業化や集団化の失墜に対する緊張への反応として認められた。しかし、それはじつに、現実に起きたことに先行していた。
 戦争非常事態という心理状態は、1927年の大戦の恐怖でもって始まった。その頃、党や国家では全体として、資本主義諸国による新しい軍事干渉が近づいていると信じられていた。
 ソヴィエト同盟はその当時、その外交政策およびコミンテルンの政策が連続して拒絶されるという憂き目に遭っていた。-英国は突然にロンドンのソヴィエト通商使節団(ARCOS〔=All Russian Co-operative Society〕)を攻撃し、中国の国民党の蒋介石は、同盟者である中国共産党への攻撃を開始し、ポーランドではソヴィエトの外交幹部団の暗殺があった。
 トロツキーとその他の反対派たちは、このような外交政策の失敗に、とくに中国でのそれについてスターリンを非難した。
 多数のソヴィエトおよびコミンテルンの指導者たちは、こうした拒絶はイギリスが指導している積極的な反ソヴィエト陰謀の証拠だと大っぴらに解釈した。ソヴィエト同盟に対する計画的な軍事攻撃で終わるものと想定される陰謀なのだった。
 国内の緊張が増したのは、GPU(チェカの後継機関)が体制の敵である嫌疑者を探し回り始め、新聞が反ソヴィエトのテロルの事件や反体制の国内陰謀を発見したことを報道したときだった。
 戦争が始まるのを予期して、農民たちは穀物を市場に出すのを拒み始めた。そして、村落と都市の両方の住民はパニックを起こして、基礎的な消費用品を買い漁った。//
 (4)たいていの西側の歴史研究者は、干渉という現実的かつ即時の危険はなかった、と結論づける。これはまた、ソヴィエト外務人民委員部〔=外務省〕の見解であり、そしてほとんど確実に、陰謀の気持ちのないアレクセイ・ルィコフ(Rykov)のような政治局員たちの見解でもあった。
 しかし、党指導部のその他の者たちは、本当にもっと怖れていた。
 その中には、このときはコミンテルン議長だった興奮しやすいブハーリンがいた。コミンテルンには、不安を撒き散らす噂が溢れ、外国の政府の意図に関する真実(hard)の情報はほとんどなかった。//
 (5)スターリンの態度を推測するのは、むつかしい。
 戦争の危険に関する数ヶ月の間の憂慮的議論の間、彼は沈黙を保ったままだった。
 そして、1927年の半ば、スターリンはきわめて巧妙に、反対派たちへと論点を向き変えた。
 戦争が切迫していることを否定したが、にもかかわらず彼は、トロツキーを公然と批判した。第一次大戦の間のクレマンソー(Clemenceau)のようにトロツキーは、敵が資本の傍らにいるときでも国の指導部には積極的に反対すると言明した、として。
 忠実な共産党員やソヴィエト愛国者にとって、これは国家への大逆行為に近いものに受け止められた。そして、この批判は、スターリンが数ヶ月のちに反対派に対する最後の一撃を下すためにおそらくは決定的だった。そのとき、トロツキーと反対派指導者たちは、党から除名(expell)されたのだった。//
 (6)スターリンのトロツキーとの間の1927年の闘いは、政治的雰囲気を悪い方向に高める不吉な背景になった。
 ボルシェヴィキ党でのそれまでの禁忌(タブー)を犯して、指導部は政治的反対者の逮捕、行政的な追放、および反対派に対するGPUによる嫌がらせという制裁を課した。
 (トロツキー自身は、党から除名されたのちアルマ-アタ(Alma-Ata)へと追放された。
 1929年1月には、政治局の命令によってソヴィエト同盟から強制的に国外追放された。)
 1927年末に、反対派によるクーの危険があるとのGPUの報告に反応して、スターリンは政治局に、フランス革命期の悪名高き嫌疑令(Law of Suspects)とのみ対比することが可能な一体の提案を行った。(2)
 承認されたが公表はされなかったその提案は、つぎのようなものだった。//
 (7)『反対する見解を宣伝する者は、ソヴィエト同盟に対する外部および内部の敵の危険な共犯者(accomplices)だと見なされる。
 かかる者は、GPUの行政布令によって「スパイ」として処刑される。
 広くかつ枝分かれした工作員のネットワークが、その最高部まで含めて政府機構内部にいる、および党の最高指導層を含めて党内部にいる、敵対分子を探索する職責をもつものとして、GPUによって組織される。』//
 スターリンの結論は、こうだった。「微小なりとも疑いを掻き立てる者は全て、排除されなければならない」。(3)//
 (8)反対派との最後の対決と戦争への慄えによって一般化した雰囲気は、1928年当初の数カ月の間に、さらに悪化した。この頃に、農民層との大規模な対立が始まり(後述、p.125-7.参照)、忠誠さの欠如の追及が直接に古い「ブルジョア」知識人に対して行われたのだ。
 1928年3月、国家検察庁長官は、鉱業での意図的な罷業と外国勢力との共謀を訴因として、Donbass のShakhty 地方の技術者集団を裁判に処する、と発表した。
 これはブルジョア専門家に対するひと続きの見せ物裁判の最初だった。これらの訴追によって、階級敵による内部的脅威は外国資本主義勢力による干渉の脅威と連結された。(4)
 そして、被告人たちは罪状を自白し、陰謀劇ふうの活動に関する状況的説明を行った。//
 (9)毎日の新聞が決まり文句でその大部分を報道した諸裁判がもたらしたのは、つぎの明白なメッセージだった。すなわち、ブルジョア知識人たちは、ソヴィエト権力に対して忠誠心をもつと主張していても、階級敵のままなのであり、その定義上、信頼するに値しない。
 ブルジョア専門家たちと一緒に仕事をしている党管理者や行政職員にそれほどに明白ではなくとも明瞭に伝わったのは、党の幹部たちもまた、かりにより酷くはなくとも、間違って、専門家たちに欺されるという愚かさ又は軽々しさの罪を冒す、ということだった。(5)//
 (10)新しい政策方針は、ロシアの労働者階級と党員たちに独特の、かつての特権階層出身の知識人に対する懐疑と敵愾の感情を利用していた。
 ある程度はそれはまた、疑いなく、第一次五カ年計画らによって到達すべきものと設定された高い目標に対する、多数の専門家や技術者たちの懐疑心に対する反応だった。
 にもかかわらず、工業化という突貫的な計画に着手しようとする体制にとって、莫大な犠牲を伴う政策方針だったのだ。農業分野での「クラク〔富農〕」という敵に対する1928-29年の運動がそうだったのと全く同様に。
 国にはあらゆる種類の専門家が不足していた。とくに、工業化への途にとって決定的に重要な知識をもつ技術者たちが。(1928年でのロシアの有資格技術者の大多数は、「ブルジョアジー」で、非党員だった)。//
 (11)反専門家運動を始めたスターリンの動機が何だったかは、歴史研究者たちを困らせている。
 共謀や罷業という訴因は容易には信じ難く、被告人たちの自白は強制されたか欺されたものだったために、スターリンとその仲間たちは彼らを信じることができなかっただろうと、しばしば考えられている。
 しかしながら、公文書庫から新しい資料が出てきたために、ますます、(必ずしも政治局の同僚たち全員ではなく)スターリンは共謀の存在を信じていた、そう信じることが同時に政治的利益になると知りつつ、少なくとも半分は信じていた、ように見える。//
 (12)OGPU(GPUの後身)の長官、Vyachevlav Menzhinskii が「工業党」党員だと追及している専門家の尋問調書からする資料をスターリンに送った。この党の指導者はたちはエミグレ資本主義者たちにより支援されるクーを計画し、外国による軍事干渉を企図する計画を抱いて活動しているとされていた。これを送られてスターリンは、面前での自白をいずれも価値があるものとして受領した、切迫する戦争の危険はきわめて深刻だと思う、との趣旨の返答をした。
 スターリンはMenzhinskii に対して、最も興味深い証拠は、予定される軍事干渉の時期にかかわっていると、つぎのように語った。//
 (13)『干渉を1930年に意図していたが、1931年または1932年に延期した、ということが判る。
 これは全くありそうだし、重要なことだ。
 これが第一次な情報源から、つまりRiabinsky、Gukasov、DenisovおよびNobela (革命前のロシアの大きな利益をもつ資本主義者たち)という、ソ連および他国移住者たちの中に現存する全ての集団の中で最も有力な社会経済グループ、資本およびフランスやイギリス両政府との関係という観点からして最も有力なグループを代表しているグループから得られたがゆえに、より重要なものだ。』//
 証拠が手に入ったと考えて、スターリンは、こう結論づけた。
 ソヴィエト体制はこれを国内かつ国外で集中的に公にすることができるだろう、「そうすれば、つぎの一年または二年の間、干渉の企てを全て抑え、阻止することができる。これは、我々には最大限に重要なことだ」。(6)//
 (14)スターリンおよび他の指導者たちが反ソヴィエト陰謀の存在と直接的な軍事的脅威を信じたか否かとは関係なく、あるいはいかほどに信じたかとは関係なく、こうした考え方はソヴィエト同盟に広く行き渡るようになった。
 これは体制側のプロパガンダ活動によるだけではなく、すでにある先入観と恐怖を強めるこのような見方が、ソヴィエトの国民の大部分にとって信じ得るものだったことにもよる。
 1920年代の遅くに始まったことだが、食糧不足、工業、輸送および電力の故障のような経済的諸問題の発生を説明するために、このような内部的および外部的な陰謀は決まって言及された。
 戦争の危険もまた、この時期にソヴィエトの<心性(mentalité)>に深く埋め込まれた。
 政治局および新聞読者たちの注意は絶えず戦争の脅威へと向かい、それは1941年に実際に起きた戦争勃発まで続いた。//
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 (1) Adam B. Ulam, <スターリン>(New York, 1973), Ch. 8.を見よ。
 (2) ジャコバンの大会は、嫌疑令(Law of Suspects、1793年9月17日)によってつぎのことを命じた。その行動、人間関係、著述物または一般的な挙措に照らして革命に対する脅威となる可能性のある全ての人物を即時に逮捕すること。
 スターリンはフランス革命のテロルを称賛していたことにつき、Dimitri Volkogonov, <スターリン-栄光と悲劇>, Harold Shukman 訳(London, 1991), p.279. を見よ。
 (3) Reimann,<スターリニズムの誕生>, p.35-p.36. によるドイツ外務省政治文書庫の中の文書から引用した。
 (4) Shakhty 裁判およびその後の「工業党」裁判につき、Kendall E. Bailes, <レーニンとスターリンのもとでの技術と社会>(Princeton, NJ, 1978), Chs. 3-5.を見よ。
 (5) S・フィツパトリク「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線(The Cultural Front)>, p.153-4, p.162-5.を見よ。
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 第一節・スターリン対右派、へとつづく。

1902/秋月瑛二の想念⑥-2019年01月。

 Emotion を「情動」と訳している書物があった。Feeling は「感情」として区別されていたが、「想念」の英米語は何なのだろう。「情念」ではない。
 たんに想い抱くという程度の意味で用いているが、「想う」という語は分解し難い。きっと、感性と理性の両方が混じる言葉だ。
 ともあれ、秋月瑛二の「想念」のつづき。
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 自分の葬式には(数十人ということはないだろうから)何百人くらい、何千人くらい来るだろうと考えている者がいるかもしれない。
 年齢ではなくて死後叙勲というものもあるらしいから、自分が死ねばいかなる勲章が貰えるのだろうと想像する者もいるのかもしれない。
 どちらも秋月瑛二には関係がない話だが、どうやら自分の死後の報道のされ方まで思い浮かべて死ぬ人もいるようだ。
 来年の秋には50年になる。1970年11月に死んだ三島由紀夫であれば、自分の死後の報道ぶり等を想起しても何ら不思議ではなかっただろう。
 だからこそ、信頼できる一人か二人に「檄文」を預けて、公表してもらうために残していた。あの「檄文」自体が政治的意味をもつもので、あれが公表されること自体が三島の自裁の大きな目的だった、と思われる。
 三島由紀夫の「文学」作品と政治的(に見えていた)行動がいかほど理解されていたかは問題ではあるが、しかし三島ほどの高名だと、自分の死の何らかの影響を自ら想定していても何ら不思議ではない。
 しかし、三島ほどの怜悧な人物は、自分の「魂」あるいは「霊」が死後も残存するとは微小だに考えてはいなかった、と思える。
 「檄文」自体を他者に預けたのもそうで、自分の「霊魂」が残り続けるならば、それを通じて肉体の「死」後も思いを伝え続けることができたはずだろう。彼は、自分も所持していた「檄文」が自衛隊関係者によって奪い取られ、その意味内容が「現実」から消失するのを懼れていたのだ。
 三島由紀夫は最後に輪廻転生という仏教的観念を背景としたらしい作品を遺した(私も昔にたぶん一読した)ようだが、「転生」を本当に<信じて>いたのだろうか。そうは思えない。
 逸れかかっているが、ヒト・人間の「死後」にはそれぞれの「自己」は存在せず、「死後」のことを想像し、思い画いてみたところで、その正しさ、適確さを、自ら確認しようがない。
 自分の葬式に何人くる?、誰々が来る?
 そんなことを「死者」が分かるはずはないだろう。
 同様のことは、死後の<評価>とか<歴史的位置づけ>についても、当然に言える。
 何らかの意味で顕名、高名であり、何らかの<歴史>に残るかもしれない人間でかりにあったとしても、その人物はその評価や歴史的位置づけを生前に知ることができるはずはない。
 当たり前のことを書いている。1100年以上前に死んだ菅原道真は、自分が「天神」となり天満宮の「神」になっていることを、絶対に知っていない。
 150年以上前に死んだ吉田松陰は、「明治維新」なるものを知らないし、自分の大きな像が自分の墓地近くに建立されて自分を祭神とする「松蔭神社」の方を見ているなどと、全く想像もしなかっただろう。
 世俗的な「名誉」・「評判」がどうであれ、死んでしまえば、それが永続的に維持されるか否かなど、分かりはしない。
 多少は「名」のあった者でも、たいていは、一時期に話題にされただけで、そのうちにすみやかに、(何年も経てば多くは遺族からすら?)忘れられてしまう。
 まことにヒト・人間は、あるいは「生物」の個体というのは、<平等>なものだ。絶対的に平等だ。
 みんな、「死んでいく」。そして、永遠に「意識」はなくなる。
 そう考えると、一時的な、世間的な、世俗的な、あれこれの毀誉褒貶など馬鹿々々しいものだ。
 それでも、生きている間は<食って生きて>いかなければならない。それが<本性>、<本能>だ。また、意識とは無関係に、各臓器、各細胞は、生きようとしている。さらに、「死」を自己決定できても、通常は実践することができない。
 そしてまた、一時的な、世間的な、世俗的な、「名」や「肩書き」等々にこだわるのもある程度はヒト・人間の本性・本能かもしれない。
 しかし、これは多分に、社会、時代によって、あるいは国家や共同体によって、「名」や「肩書き」、あるいは「経歴」、「資格」等々にかかかわる<意識>は異なる、変わるものだ、と思われる。
 再び逸れるが、S・フィツパトリクの著・ロシア革命(2017)の既読(・試訳済)部分で興味深かった一つは、かつてのかの国の人々のIdentity-「帰属意識」・「自己認識」・「自己同一性」、「識別」等々と訳し得る-をとくに検討し、叙述していたところだった。これは、階級・階層か職業や地位かとかの問題にかかわる。
 戻ると、個々の人々の「帰属意識」は「名」、「肩書き」、「経歴」、「資格」等々によって生じ得るものだが、果たしてそれは<永遠>のものなのか?
 一時的な、世間的な、世俗的な類のもので、本当はどうでもよい、少なくとも瑣末なものではないか。
 「肩書」、「経歴」(「学歴」を当然に含む)、「資格」等々ではなくて、もっと大切なものがある。死後はともかく、少なくとも生きている間は、もっと大切なものがある。 
 そんなことを新しい年の初めにあらためて「想念」した。きっと、くだらないことだ。

1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。

 Leszek Kolakowski は、アメリカの連邦議会図書館によるクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。
 と言っても私は全く知らなかったのだが、このクルーゲ賞は、人文社会科学のうちでノーベル賞の対象になっていない分野(というと経済、文学(、平和)以外)の傑出した研究者に与えるべく設定されたもののようで、2003年が第一回。日本の人文社会科学の研究者は、はたして候補者にでもなったことがあるのかどうか。
 クルーゲ(John W. Kluge)というのは個人名で、以下によると、財政支援者のようだ。
 先走って書くと、L・コワコフスキが受賞したからといって<反共産主義>の鮮明な性格の賞ではないようで、のちにはドイツのJ・ハーバマス(Jürgen Habermas)も受賞している。
 以下に試訳を紹介しておくのは、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)への授賞と選考過程を伝える、同図書館報(Bulletin)。
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 アメリカ合衆国・連邦議会図書館報(Bulletin)2003年12月。
 /執筆者-Gail Finberg 〔館員で編集スタッフとみられる〕。
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 A/授賞式の模様。
 レシェク・コワコフスキ、76歳、学者、哲学者、歴史家および才幹溢れる著述者で、その諸著作が母国ポーランド内部での反全体主義の若者の運動を教示し喚起させた人物が、人文社会科学での生涯にわたる業績に対して、第一回のJohn W. Kluge 賞を授与された。//
 100万ドルの賞金が、人文および社会科学-ノーベル賞の対象でない分野-での生涯の業績に対して、連邦議会図書館によって与えられる。
 この分野は、哲学、歴史、政治学、人類学、社会学、宗教学、言語学および芸術・文学評論を含む。//
 <つぎの3段落省略-*要旨-図書館長は、この賞はアメリカで、ワシントンで、Kluge センターの本拠であるこの図書館で授与するのがふさわしい、と語った。>
 図書館長Billington は受賞者を紹介して、語った。
 「レシェク・コワコフスキは…人間の思想についての歴史家、…非常に広い範囲でのエッセイ著述者です。
 自由がポーランドに始まっていたとき、ようやくこの人物の名前を発することがその国で可能になったそのときに、国民たちは彼を『ヨーロッパ文化の理論家』だと称しました」。//
 受賞者は30以上の書物および、多様な方式と四つの言語-先ずはポーランド語、ついでフランス語、英語およびドイツ語-での400以上の「あらゆる種類の対象に関する」論文の執筆者だと、館長は述べた。
 受賞者の主要な研究対象は哲学の歴史および宗教哲学だった、とも。//
 「彼はソヴィエト体制の内部から、その体制の奥にあるイデオロギーの知的頽廃、自由と多様性に対する寛容、および卓絶への絶えざる追求の必要性を明らかにしてきました」、と館長は述べた。
 「この人物は、ほとんど全てのことに関して執筆し、つねに、人間の条件にとって根本的に重要な諸問題に焦点を当てました」。//
 館長は、「彼は、二〇世紀後半の最も重要な事件-ソヴィエト体制の内部崩壊と平和的で非暴力的な終焉-の背後にいた、最も重要な一人の思索者(single thinker)でした」、と続けた。
 「ポーランドの連帯運動は、彼を頼って見つめていました。
 彼は、絶望に対して希望を注入し、恐怖を希望に取り替える、甚大な影響力をもちました。
 希望に関する彼の偉大な1971年の小論は、ポーランドの若者たちの運動の決定的な開始点であり、それが<連帯>へと流れ込んでいきました。」//
 「彼はヒューマニストで、哲学者で、文化批評者で、知性の歴史家であり、大きな諸問題を知的誠実さと深さでもって探求しました。その知的な誠実さと深さこそが、我々がKluge 賞でもって栄誉を与え、この国の最古の連邦文化施設にあるKluge センターに歓迎しようとしてきたものです」、と館長は語った。//
 選考過程に簡単に論及して館長は、こう語った。世界じゅうからの候補指名者たちは、人文学またはその近接した関連分野での業績が同学者たち(peers)によって優れていると承認され、別の分野や公的世界の人々に対して訴えかけるもののある傑出した学者を推薦するように、求められた、と。
 館長は、賞の支援者であるKluge は選抜に関与しておらず、とりわけ最初の受賞者が誰なのかを知らないように求められた、と述べた。//
 コワコフスキは館長Billington およびKluge 賞の初代の選抜に責任ある全ての人々に対して謝辞を述べ、Kluge に暖かく挨拶した。
 「彼は『kluge(賢明な)』人です」と、彼は言った。//
 <つぎの4段落省略>
 コワコフスキは公式の挨拶を水曜の夜に行った。そのときに彼はKluge賞を受けたが、その儀式はCoolidge Auditorium で行われ、著名人の中ではとくに、ノーベル賞の母国であるスウェーデンの皇太子Victoria 〔女性〕が同席した。// 
 B/選考過程。
 レシェク・コワコフスキをKluge賞に選抜するまでの過程は、二年前から始まった。世界じゅうの2000人を超える人々による候補者指名の要請とともに。すなわち、大学や優れた研究所の学長または理事長、人文学および社会科学の英れた仕事を評価する地位にいる広くかつ多様な著名研究者の人たちへの要請によって。
 この候補者指名その他は、別の多数の研究者たちによって、確認(review)されていた。
 図書館の専門家職員たちは、被指名者に関する経歴や資料を提供した。そして、2002年9月に、図書館の研究者会議(Council of Scholars)は、その確認(review)を行った。
 特定の分野、科目、文化および言語に精通した外部の検討者たち(reviewers)は相談を受け、過程全体に関する評価書を書いた。//
 選考過程の最終段階は、賞候補者14名から成る被選抜者たちを評価するための、特別の外部的審査員団を招集した2003年9月の会合だった。
 多様な高度の学術的選考手続に習熟している5名の傑出した研究者が、最終的な審査員団を構成した。
 これらの人々は、つぎのとおり。// 
 David Alexander。Pomona College in California の名誉学長、the Phi Beta Kappa Fellows の副所長、かつてthe Rhodes Trust のアメリカ事務局長、Oxford からの博士学位は宗教と哲学。//
 Timothy Breen。Northwestern University の米国史の教授、Yale での博士学位取得ののち、Princeton, N. J. のthe Institute for Advanced Study およびthe National Humanities Center in Durham, N.C.で勤務してきた。//
 Bruce Cole。The National Endowment for the Humanities (NEH) の現在の議長。Indiana University in Bloomington で芸術と比較文化の優れた教授だった。博士学位は、Bryn Mawr College in Pennsylvania から。//
 Gertrude Himmelfarb。The Graduate School of the City University of New York の歴史の名誉教授で、17-18世紀の精神史および文化史の研究者、the British Academy and the Royal Historical Society の主任研究員。//
 そして、Amartya Sen。英国のTrinity College, Cambridge University の修士で、2004年にHarvard 大学の経済および哲学の教授になるだろう。ノーベル経済学賞の受賞者の一人。インド・カルカッタのPresidency College とCambridge で教育を受けた。//
これら5名の審査員団による討議と推薦は、館長に最終的な選抜を答申するうえでの決定的な要因(key factor )だった。
 第13代図書館長Billington は、かつてPrinceton University の歴史の教授で、the Fulbright 〔フルブライト〕Program を指揮する委員会の議長、かつthe Woodrow Wilson International Center for Scholars の理事長。//
 この図書館のScholarly Programs at the Library の長であるProsser Gifford は、Kluge賞の選考過程全体を統括した。
 彼は、三大学を、人文社会科学の三つの異なる分野で卒業し、かつてfaculty at Amherst College の学部長かつthe Wilson Center の副所長だった。//
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 以下は、連邦図書館サイト上のL・コワコフスキらと、同時期に訪れたホワイト・ハウスでの写真(これはWhite House が発表)。いずれも「公」的なものだ。2003年時点でのブッシュ大統領との写真は、ブッシュらを嫌悪する人たちがL・コワコフスキを「その仲間」だとして利用していることがある。
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1900/Leszek Kolakowski の写真。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)がどういう風貌の人物かは、「(レシェク・)コワコフスキ」の検索で容易に判るので、意識してこの欄に掲載したことはなかった。
 例外はあって、一つは、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の自伝的な書物の中にある、R・パイプスとL・コワコフスキが並んでしかも二人とも(I・バーリン等とは違って)顔を見せている写真だ。この二人が同時に写っているのは、私には貴重だった。これについては版権者からのクレームはないようだ。再掲。
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 もう一つは、L・コワコフスキ著のドイツ語版・第一巻のカバー裏袖にある写真(1978年刊だから50歳くらいの年)で、ネット上にない、珍しい、かつ理知的雰囲気の強い、よい写真だった。
 しかし、これはたぶん一ヵ月後くらいに画面から消失した。まさに版権者の「事前同意なく」載せたので、ドイツの出版社または写真版権者からクレームがあったのだろうと推測し、あえて再挑戦等はしていない(この写真はネット上ではその後も見たことがない)。可能性としては、当方のたんなる操作ミスも考えられるのだが。
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 以下の4枚は、L・コワコフスキの出身市であるラドム(Radom)市のウェブサイトと見られるものの中にある9枚のProf. Kolakowski の写真の中の4枚だ。したがって、版権上の問題は実質的にはない、と思われる。「(レシェク・)コワコフスキ」検索では、たぶん出てこない。
 順に、①時期が私には不明。
 ②1949-50年頃、22-23歳頃の写真。隣に立つのは、少なくとものちの配偶者で(つまりこのときに結婚していたかは不明で)医学博士の、個人名・Tamara 氏(で間違いない)。
 ポーランド、Lodz 大学で。
 かつてこの欄に経歴紹介でこのLodz 大学を「ロズ」大学と書き記したのは誤りで、l, o, dz の三つ全てが、原ポーランド語では英米語に対応していないようだ。正確には、「ウッチ」または「ウージ」。現在、人口ではワルシャワに次ぐポーランド第二の都市。
 ③・④1989年、62歳の頃、ポーランド・ワルシャワ大学での写真。③は、何か演説か講演か、あるいは多数者に対する挨拶かをしている。この1989年には、ポーランドに入国できたものと思われる。
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 レシェク・コワコフスキ(1927〜2009)。
 Leszek-Kolakowski01-(2)1960 Leszek-Kolakowski02-(2)1949-50
 Leszek-Kolakowski-03-radom (2)1989warsawuni Leszek-Kolakowski-04-radom (2)1989warsawuni


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1899/G・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス(2016)。

 ソ連解体後でも、日本の出版社およびこれに影響をもつ日本共産党員や容共「知識人」の外国の<反共産主義>文献に対するガード(つまり、自主検閲・自主規制)は堅いようだ。
 L・コワコフスキの大著、R・パイプスの二著のほかにシェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(最新版、2017)も邦訳書はない。
 一方で例えば、江崎道朗が唯一コミンテルン関係書として付録資料のそのまた一部を利用していた邦訳書・コミンテルン史(大月書店、1998年)は、立ち入った内容紹介はこの欄でしていないが、レーニン擁護まではいかなくともレーニンになおも「甘い」ところがある。かつまた、著者の二人は20-30歳代だったと見られ、そのうち一人の現在はネット検索してもさっぱり分からない。
 また、岩波書店のシリーズものの一つ、グレイム・ギルほか=内田健二訳・スターリニズム -ヨーロッパ史入門(2004年)は、レーニンとスターリニズムとの接続関係を何とかして認めないように努めている。まだ、この欄では紹介、言及していない。
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 カール・マルクスの人生や論考全体に関する近年の研究書に、以下がある。
 ①Gareth Stedman Jones, Karl Marx :Greatness and Illusion (Cambridge、2016年)。
 ②Jonathan Sperber, Karl Marx :Nineteenth-Century Life (Liveright、2014年)。
 これらは、目も耳も早そうな池田信夫が紹介したかもしれないと思ったが、まだのようだ。
 ①のG・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス-偉大と幻想(2016)は、奇妙な読み方だろうが、そのEpilogue であるp.589-p.595 を辞書なしで何とか読んでしまった(Kindle 版ではない)。
 小川榮太郎の文章を探して確認して読むよりは、私にははるかに知的刺激になる。
 小川榮太郎によると、彼の文章の意味が分からない者は、<小川榮太郎の「文学」>を理解できない人間なのだそうだ。
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 上の①の最後の部分を試訳する余裕はないが、著者は興味深いことを書いている。たぶん、以下のようなことだ。
 ・エンゲルスはマルクスの生前の手紙類をロシアの友人、「社会主義」者のLavrov に渡したが、その内容を<資本>の第二巻・第三巻の編集に利用しなかった。
 ・プレハノフ、ストルーヴェおよびレーニンがロシアのマルクス主義は「史的唯物論対人民主義」、「西欧化対ロシア主義」の闘いだとしたとき、エンゲルスは異論を挟まなかった。このことは、農民共同体の重要性が直接的な政治的争点になった国で、マルクスの見解を忘れさせる意味をもった。
 ・エンゲルスはロシアでの農民の多さ、都市プロレタリアートの少なさを指摘はしていたが、マルクスの1883年直前のロシア・農村共同体(ミール)に関する見解は20世紀にまで(ロシア革命以前に)ロシアに伝わらなかった。〔イギリスやロシアの農村共同体に関する論及がEpilogueの最初にあるが割愛する。〕
 ・マルクス=エンゲルス全集を編纂したRyazanov はマルクスからの手紙のやりとりがあったことを想い出し、かつAkselrod文書の中にあることが判ったが、編集者はマルクスの手紙が忘れ去られた本当の理由を理解できなかった。
 ・マルクスの手紙は、「正統派マルクス主義」派の「都市に基礎をおく労働者の社会民主主義運動の構築という戦略」ではなくて、プレハノフらに、「農村共同体を支援する」ことを強く迫るものだった。
 ・〔秋月の読み方では、マルクスは後進国とされるロシアでのプロレタリアートの少なさ・弱さからして、これの支持を得ての「革命」-「プロレタリアート独裁」を想定していなった。二次的に(必ずしも理論的にではなく)「農民」の支持を求めるいわゆる<労農同盟>論は-元々は日本共産党も継承した-マルクスではなく、レーニン・ボルシェヴィキによる。〕
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 このG・ステッドマン・ジョウンズの2016年著に対する書評をさらにネット上で見つけた。
 Terence Renaud (Yale Uni. )は、マルクスの伝記はとくにIsaiah Berlin、George Lichtheim およびLeszek Kolakowski のものが「スタンダード」だとしつつ(コワコフスキを除き、邦訳書があって所持している筈だ)、この著者も青年マルクスと成年マルクスの哲学上の継続性を承認する。しかし、長くは紹介しないが、こんな紹介があって、「しろうと」には意外感を抱かせる。一部だけ。
 「ステッドマン・ジョウンズは、マルクスの政治論は1860年代に変化した、と主張する。
 イギリスに逃亡中の間に、彼は社会(的)民主主義者、そして暴力的手段を拒絶する労働組合支援者に変化した。
 マルクスは蜂起についてのジャコバン型やブランキ型を放棄し、ゆっくりとした漸進的な変化を支持した。
 多数の共産主義者たちがのちに信じたのとは反対に、マルクスは革命に関して単一の劇的な事件ではなくて長い過程だと考えた。
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 しかし、このTerence Renaud は、著者のGareth Stedman Jones (1942~、Uni. of London)は、「新左翼」-「フランス構造主義派」-<マルクス主義放棄>と立場を変えており、自己正当化のためのマルクス理解・解釈ではないか、とかなり疑問視しているように読める。
 Stedman Jones はかつてNew Left Review の編集長だったらしく(1964-1981)、これはL・コワコフスキを批判するE・トムソンの文章が別の雑誌に掲載された1970年代前半を含んでいる(その反論がこの欄に試訳を掲載したL・コワコフスキ「左翼の君へ」)。
 T. Renaud という研究者についても全く知らないのだが、Stedman Jones の主張を鵜呑みにするわけには、きっといかないのだろう。
 だが、いろいろと興味深い議論または研究ではあるようだ。
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 日本で、マルクス(やエンゲルス)あるいはレーニン等に関する、冷静な学問的研究を妨げているのは、マルクスとマルクス主義あるいは「科学的社会主義」を党是とする政治組織・政党が存在していて、その「政治的」圧力が、意識的または無意識的に、日本の人文社会分野の研究者を<拘束>しているからだと思われる。
 <身の安全を図る>ために、日本共産党が暗黙に設定している<タブー>を破って「自由な学問研究」をすることを、事実上自己抑制しているのではないか、と秋月瑛二は推測する。「自由な学問」・「大学の自治」は共産主義組織・政党によって蝕まれているのではないか。
 かつまた、「(容共)左翼」に反発している人々も、立憲民主党や朝日新聞等を批判することがあっても、なぜか正面からの<日本共産党批判>には及び腰だ。
 なぜだろうと、つねに不思議に感じている。日本の出版業界やマス・メディア業界(これらも資本主義的で自由な営利企業体だ)の独特さ、奇妙さにも一因があるに違いない。

1898/Wikipedia によるL・コワコフスキ③。

 Wikipedia 英米語版での 'Main Currents of Marxism' の項の試訳のつづき。
 2018年12月22日-23日の記載内容なので、今後の変更・追加等はありうるだろう。
 前回に記さなかったが、この本の総頁数は、つぎのように書かれている。
 英語版第一巻-434頁、同第二巻-542頁、同第三巻-548頁。秋月の単純計算で、総計1524頁になる。
 英語版全巻合冊書-1284頁
 さて、以下の書評類は興味深い。何とも直訳ふうだが、英語そのままよりはまだ理解しやすいのではないか。
 書評者等の国籍・居住地、掲載紙誌の発行元の所在地等は分からない。多くは、イギリスかアメリカなのだろう。
 こうした書評上での議論があるのは、なかなか愉快で、コワコフスキ著の内容の一端も教えてくれる。
 それにしても、わが日本では、コワコフスキの名も全くかほとんど知られず、この著の存在自体についても同様だろう。2017年の最大の驚きは、この著の邦訳書が40年も経っても存在しないことだった。
 マルクス主義・共産主義に関する<情報>に限ってもよいが、わが日本の「知的」環境は、果たしていかなるものなのか。
 なお、praise=讃える、credit=高く評価する、describe=叙述する、accuse=追及する、consider=考える、等にほぼ機械的に統一した(つもりだ)。criticize はむろん=批判する。これら以外に、論じる、主張する、等と訳した言葉がある。
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 3/反応(reception)。
 1.主流(main stream)メディア。
 (1) <マルクス主義の主要潮流>はLibray Journal で、二つの肯定的論評を受けた。
 一つは最初の英語版を書評した Robert C. O'Brien からのもので、二つはこの著作の2005年合冊版を書評した Francisca Goldsmith からのものだった。
 この著作はまた、The New Republic で政治科学者 Michael Harrington によって書評され、The New York Review of Books では歴史家の Tony Judt によって書評された。
 (2) O'Brien は、この著作を「マルクス主義教理の発展に関する包括的で詳細な概観」で、「注目すべき(remarkable)著作だ」と叙述した。
 彼はコワコフスキを、「マルクスの思想が<資本>に到達するまでの発展の基本的な継続性」を提示したと讃え、Lukács、Bloch、Marcuse、フランクフルト学派および毛沢東に関する章が特別の価値があると考えた。
 Goldsmith は、コワコフスキには「明瞭性」と「包括性」はもちろんとして「完全性と明晰性」があると讃えた。
 哲学者のJohn Gray は、<マルクス主義の主要潮流>を「権威がある(magisterial)」と呼んで讃えた。//
 2.学界雑誌。
 (1)<マルクス主義の主要潮流>は、Economica で経済学者のMark Blaug から、The American Historical Review で歴史研究者の Martin Jay から、The American Scholarで哲学者のSidney Hook から、the Journal of Economic Issues で John E. Elliott から肯定的な書評を受けた。
 入り混じった書評を、社会学者のCraig CalhounからSocial Forces で、David Joravsky からTheory & Society で、Franklin Hugh Adler からThe Antioch Review で、否定的な書評を社会学者の Barry Hindess からThe Sociological Reviewで、社会学者 Ralph Miliband からPolitical Studies で受けた。
 この本の書評はほかに、William P. Collins が The Journal of Politics に、Ken Plummeが Sociology に、哲学者のMarx W. Wartofsky がPraxis International に、それぞれ書いている。
 (2) 経済学者Mark Blaug は、この本を「輝かしい(brilliant)」かつ社会科学にとって重要なものだと考えた。
 マルクス主義の強さと弱さを概括したことを高く評価し、歴史的唯物論、エンゲルスの自然弁証法、Kautsky、Plekhanov、レーニン主義、Trotsky、トロツキー主義、Lukács、Marcuse およびAlthusser に関する論述を讃えた。 
 しかし、哲学者としての背景からしてマルクス主義を主に哲学的および政治的な観点から扱っており、それによってマルクス主義のうちの中核的な経済理論をコワコフスキは曲解している、と考えた。
 彼はまた、Paul Sweezy によるThe Theory of Capitalist Development (1942)での Ladislaus von Bortkiewicz の著作の再生のようなマルクス主義経済学の重要な要素を、コワコフスキは無視していると批判した。
 彼はまた、「1920年代のソヴィエトでの経済政策論争」を含めて、コワコフスキがより注意を払うことができただろういくつかの他の主題がある、と考えた、
 彼はコワコフスキの文献処理を優れている(excellent)と判断したけれども、 哲学者H. B. Acton のThe Illusion of the Epoch や哲学者 Karl Popper のThe Open Society and Its Enemies が外されていることに驚いた。
 彼は、コワコフスキの著述の質を、その翻訳とともに、讃えた。
 (3) 歴史研究者Martin Jay は、この本を「きわめて価値がある(extraordinarily valuable)」、「力強く書かれている」、「統合的学問と批判的分析の、畏怖すべき(awesome)達成物〔業績〕」、「専門的学問の記念碑」だと叙述する。
 彼は、コワコフスキによる「弁証法の起源」の説明、マルクス主義理論の哲学的側面の論述を、相対的に独自性はないとするけれども、讃える。
 彼はまた、マルクス主義の経済的基礎の論述や労働価値理論に対する批判を高く評価する。
 彼は、歴史的唯物論が原因となる力を「究極的には」経済に求めることの誤謬をコワコフスキが暴露したことを高く評価する。
 しかし、Lukács、Korsch、Gramsci、フランクフルト学派、GoldmannおよびBloch の扱い方を批判し、「痛烈で非寛容的で」、公平さに欠けるとする。こうした問題のあることをコワコフスキは知っていると認めるけれども。
 彼はまた、コワコフスキの著作はときに事実に関する誤りや不明瞭な解釈を含んでいるとする一方で、この本の長さを考慮すれば驚くべきほどに数少ない、と書いた。
 (4) 哲学者Sidney Hook は、この本は「マルクス主義批判の新しい時代」を開き、「マルクスとマルクス主義伝統にある思想家たちに関する最も包括的な論述」を提示した、と書いた。
 彼は、ポーランドのマルクス主義者、Gramsci、Lukács、フランクフルト学派、Bernstein、歴史的唯物論、マルクス主義へのHess の影響、「マルクスの社会的理想」での個人性の承認、「資本」の第一巻と第三巻の間の矛盾を解消しようとする試みの失敗, マルクスの「搾取」概念、およびJaurès やLafargue に関するコワコフスキの論述を讃える。
 彼は、トロツキーの考え方は本質的諸点でスターリンのそれと違いはない、スターリニズムはレーニン主義諸原理によって正当化され得る、ということについてコワコフスキに同意する。
 しかし、ある範囲のマルクス主義者の扱い方、 社会学者の Lewis Samuel Feuer の「研究がアメリカのマルクスに関するユートピア社会主義の植民地に与えた影響」を無視していること、を批判した。
 彼は、マルクスとエンゲルスの間、マルクスとレーニンの間、に関するコワコフスキの論述に納得しておらず、マルクスの Lukács による読み方を讃えていることを批判した。
 彼は、マルクスは一貫して「Feuerbach の人間という種の性質に関する見解」を支持していたとのコワコフスキの見方を拒否し、思想家としてのマルクスの発展に関するコワコフスキの見方を疑問視し、マルクスの歴史的唯物論は技術的決定論の形態にまで達したとのコワコフスキの見方を、知識(knowledge)に関するマルクスの理論の解釈とともに、拒否した。
 (5) Elliott は、この本は「包括的」で、マルクス主義を真摯に研究する全ての学生の必須文献だと叙述する。
 彼は、<資本>のようなマルクスの後半の著作は1843年以降の初期の著作と一貫しており、同じ諸原理を継続させ仕上げている、とするコワコフスキの議論に納得した。
 彼は、マルクスは倫理的または規範的な観点を決して採用しなかったという見方、マルクスの「実践」観念や「理論と実践の編み込み」に関する説明、マルクスの資本主義批判は「貧困によってではなく非人間化によって」始まるとの説明のゆえに、「制度的伝統」にある経済学者にとって第一巻は価値があると考えた。
 彼は、第二巻を<tour de force>だとし、三巻のうちで何らかの意味で最良のものだと考えた。
 彼は、第二インターナショナルの間の多様なマルクス主義諸派がいかに相互に、そしてマルクスと、異なっていたか、に関するコワコフスキの論述を推奨した。
 彼はまた、レーニンとソヴィエト・マルクス主義に関するコワコフスキの論述は教示的(informative)だとする一方で、ソヴィエト体制に対するコワコフスキの立場を知ったうえで読む必要があるとも付け加えた。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を批判するよりも叙述するのに長けていると考え、マルクスの価値理論に対する Böhm von Bawerk による批判に依拠しすぎていると批判した。
 しかし彼は、コワコフスキの著作はこれらの欠点を埋め合わす以上の長所をもつ、と結論づけた。
 (6) 社会学者Calhoun は、この本はコワコフスキのマルクス主義放棄を理由の一部として左翼著述者たちからの批判を引き出した、しかし、マルクス主義に関する「手引き書」として左翼に対してすら影響を与えた、と書いた。
 彼は、コワコフスキがマルクス主義への共感を欠いていることを批判した。また、哲学者または逸脱したマルクス主義者と考え得る場合にかぎってのみマルクス主義の著述者に焦点を当て、マルクス主義の経済学者、歴史家および社会科学者たちに十分な注意を払っていない、と主張した。
 彼は、この本は明晰に書かれているが、「不適切な参考書」だと考えた。
 彼は、第一巻はマルクスに関するよい(good)論述だが、「洞察が少なすぎて、もっと読みやすい様式で書かれなかった」と述べた。
 彼はまた、第二巻のロシア・マルクス主義に関する論述はしばしば不公平で、かつ長すぎる、とした。
 また、スターリニズムはレーニンの仕事(works)の論理的な帰結だとのコワコフスキの議論に彼は納得しておらず、ソヴィエト同盟がもった他諸国のマルクス主義に対する影響に関するコワコフスキの論じ方は不適切(inadequate)だ、とも考えた。
 彼は、全てではないが、コワコフスキのフランクフルト学派批判にある程度は同意した。
 <マルクス主義の主要潮流>は一つの知的な企てとしてマルクス主義の感覚〔sense=意義・意味〕を十分に与えるものではない、と彼は結論づけた。
 (7) Joravsky は、この本はコワコフスキが以前にポーランド共産党員だった間に行った共産主義に関する議論を継続したものだと見た。
 マルクス主義の歴史的な推移に関するコワコフスキの否定的な描写は、<マルクス主義の主要潮流>がもつ「事実の豊富さと複雑さ」と奇妙に矛盾している、と彼は書いた。
 彼は、マルクス主義者たちの間の論争から超然としていると自らを提示し、一方でなお Lukács のマルクス解釈を支持するのは一貫していない、とコワコフスキを批判した。また、マルクスを全体主義者だと非難するのは不公正だ、とも。
 彼は<マルクス主義の主要潮流>の多くを冴えない(dull)ものだとし、哲学史上ののマルクスの位置に関するコワコフスキの説明は偏向している(tendentious)、と考えた。
 彼は、社会科学に投げかけたマルクスの諸問題を無視し、諸信条の社会的文脈を考察したごとき常識人としてのみマルクスを評価しているとして、コワコフスキを批判した。また、マルクス主義の運動や体制に関係があった著述者のみを扱っている、とも。
 彼は、オーストリア・マルクス主義、ポーランドのマルクス主義と Habermas に関する論述にはより好ましい評価を与えたが、全体としての共産主義運動の取り扱い方には不満で、コワコフスキはロシアに偏見を持っており、他の諸国を無視している、と追及した。
 (8) Adler は、この本を先行例のない、「きわめて卓絶した(unsurpassed)」マルクス主義の批判的研究だと叙述する。
 コワコフスキの個人的な歴史がマルクス主義に対するその立場の大部分を説明すると彼は結論づけたが、<マルクス主義の主要潮流>は一般的には知的に誠実だ(honest)、とした。
 しかし、彼は、コワコフスキの東欧マルクス主義批判は強いものだとしつつ、その強さが西欧マルクス主義と新左翼に関する侮蔑的な扱いをすっかり失望させるものにしている、と考えた。
 新左翼に対するコワコフスキの見方は1960年代のthe Berkeley の反体制文化との接触によって形成されたのかもしれない、としつつ、彼は、新左翼を生んだ民主主義社会の価値への信頼の危機を何が招いたのかをコワコフスキは理解しようとしていない、と述べた。
 彼は、Gramsci と Lukács に関する論述を讃えた。しかし、「東側マルクス主義批判へとそれを一面的に適用しており、彼らの主導権や物象化に関する批判は先進資本主義諸国の特有の条件に決して適用できるものではない」、と書いた。また、フランクフルト学派とMarcuse の扱いは苛酷すぎ、不公平だ、とも。
 彼はまた、この本の合冊版は大きくて重くて、扱いにくく身体的にも使いにくい、とも記した。
 (9) 社会学者Hindess は、この本はマルクス主義、レーニンおよびボルシェヴィキに対して「重々しく論争的(polemic)」だ、と叙述した。
 彼は、コワコフスキは公平さに欠けていると考え、マルクス思想は<ドイツ・イデオロギー>の頃までに基本的特質が設定された哲学的人類学だというコワコフスキの見方に代わる選択肢のあることを考慮していない、と批判した。また、「政治分析の道具概念としては無価値」の「全体主義という観念」に依拠している、とも。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を哲学と見ているために、「政治的計算の手段としてのマルクス主義の用い方、あるいは具体的分析を試みる多数のマルクス主義者に設定されている政治的および経済的な実体的な諸問題」への注意が不十分だ、と主張した。
 彼はまた、Kautsky のようなマルクス主義著述者、レーニンの諸政策、スターリニズムの進展に関して誤解を与える論述をしている、と追及した。
 彼は、コワコフスキによるマルクス主義の説明は「グロテスクで侮辱的な滑稽画」であり、現代世界に対するマルクス主義の影響力を説明していない、と叙述した。
 (10) 社会学者Miliband は、コワコフスキはマルクス主義の包括的な概述を提供した、と書いた。
 しかし、マルクス主義に関するコワコフスキの論述の多くを讃えつつも、そのマルクス主義に対する敵意が強すぎて、「手引き書」としての著作だという叙述にしては、精細すぎると考えた。
 彼はまた、マルクス主義とその歴史への接近方法は「根本的に見当違い(misconceived)」だと主張した。
 彼は、マルクス主義とレーニン主義やスターリニズムとの関係についてのコワコフスキの見方は間違っている(mistaken)、マルクスの初期の著作と後期のそれとの間の重要な違いを無視している、コワコフスキは第一次的には「経済と社会の理論家」だというよりも「変わらない哲学的幻想家」だとマルクスを誤って描いている、と主張した。
 マルクス主義は全ての人間の願望が実現され、全ての諸価値が調整される、完璧な共同体たる社会」を目指した、とのコワコフスキの見方は、「馬鹿げた誇張しすぎ」(absurdly overdrawn)だ、と彼は述べた。また、コワコフスキの別の著述のいくつかとの一貫性がない、とも。
 彼はまた、コワコフスキの結論を支える十分な論拠が提示されていない、と主張した。
 彼は、コワコフスキはマルクスを誤って表現しており、マルクス主義の魅力を説明することができていない、と追及した。また、歴史的唯物論に関する論述を非難し、 Luxemburg に対する「誹謗中傷〔人格攻撃〕」だとコワコフスキを追及した。
 彼は、改革派社会主義とレーニン主義はマルクス主義者にとってのただ二つの選択肢だった、とのコワコフスキの見方を拒否した。
 彼は結論的に、<マルクス主義の主要潮流>は著者の能力とその主題のゆえに無価値(unworthy)だ、と述べた。
 コワコフスキはMiliband の見方に対して返答し、<マルクス主義の主要潮流>で表現した自分の見解を再確認するとともに、Miliband は自分の見解を誤って表現していると追及した。
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 以上。つぎの、<3/反応の3.書物での評価>は割愛する。

1897/Wikipedia によるL・コワコフスキ②。

 'Leszek Kolakowski' は英米語版のWikipedia も勿論あるが(日本語版はひどい)、その著、'Main Currents of Marxism' という書物自体も、英米語版Wikipedia は項目の一つにしている。
 以下は、その試訳。2018年12月21日現在。なお、この欄で合冊版の発行年を、所持している版の発行年2008年としたことがあり、最近では書物の最初部分に依拠して最も若い年の2004年としているが、以下では2005年だと記されている。( )は改行後を示すもので、数字も含めて、原文にはない。
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 (1) <マルクス主義の主要潮流-その起源、成長および解体>(〔ポーランド語・略〕は、政治哲学者レシェク・コワコフスキによる、マルクス主義に関する著作。
 英語版での三つの諸巻は、第一巻・創成者たち、第二巻・黄金時代、第三巻・崩壊。
 1976年にパリでポーランド語によって最初に出版され、英語翻訳版は1978年に出た。
 2005年に、<マルクス主義の主要潮流>は一巻の書物として再発行され、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグがそれに付いていた。  
 この著作はコワコフスキによると、マルクス主義に関する「手引き書」という意図だった。
 彼は、かつて正統派マルクス主義者だったが、最終的にはマルクス主義を拒絶した。
 そのマルクス主義に対する批判的な立場にもかかわらず、コワコフスキはカール・マルクスに関するLukács György〔ルカチ・ジョルジュ〕の解釈を支持した。
 (2) この著作は、マルクス主義に関するその論述の包括性とその叙述の質を褒め称える、多数の肯定的な論評を受けた。
 歴史的唯物論、ルカチ、ポーランド・マルクス主義、レオン・トロツキー、ハーバート・マルクーゼおよびフランクフルト学派に関するその論述が、とくに抜きん出ているとされた。
 別の論評者たちはフランクフルト学派に関する彼の扱いにもっと批判的だ。また、カール・カウツキー、ウラジミル・レーニンおよびアントニオ・グラムシに関する取り扱いについて、彼らの評価は、分かれている。 
 コワコフスキは、特定の著者たちまたは諸事件、彼のマルクス主義に対する敵意、ルカチの解釈への依存、に関する論述を省略していると批判された。また、現代世界に対するマルクス主義の訴えまたは影響を説明していない、他のマルクス主義著作者を無視してマルクス主義哲学者に焦点を当てることでマルクス主義の印象を誤らせる、とも。//
 1/背景と出版の歴史。
 コワコフスキによると、<マルクス主義の主要潮流>は、1968年と1976年の間にポーランド語で執筆された。その頃、この著作を共産主義が支配するポーランドで出版するのは不可能だった。
 ポーランド語版はフランスでthe Institute Littérailie よって1976年と1978年に出版され、そのときに、ポーランドの諸地下出版社によって複写された。一方、P. S. Falla が翻訳した英語版は、1978年に、Oxford University Press によって出版された。
 ドイツ語、オランダ語、イタリア語、セルビア=クロアチア語およびスペイン語の各翻訳書版が、そのあとに続いて出版された。
 別のポーランド語版は、1988年にイギリスで、Publishing House Aneks によって出版された。
 この著作は、2000年にポーランドで初めて、合法的に出版された。
 コワコフスキは、最初の二巻だけがフランス語版となって出版されていると書き、その理由を、「第三巻は、フランス左翼たちの間の憤懣が激しかったので出版社がリスクを冒すのを怖れた」、と推測している。
 <マルクス主義の主要潮流>の全一巻合冊版は、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグ付きで、2005年に出版された。
 2/要約。
 (1) コワコフスキは、マルクス主義の起源、哲学上の根源、黄金時代および崩壊〔瓦解〕を論述する。
 彼は、マルクス主義は「二〇世紀の最大の幻想(fantasy=おとぎ話)」、「虚偽と搾取と抑圧の怪物的体系」のための建設物となる完璧な社会という夢想、だと叙述する。
 彼は、共産主義イデオロギーのうちのレーニン主義やスターリン主義はマルクス主義を歪曲したものでも堕落させたものでもなく、マルクス主義のありうる諸解釈の一つだ、と主張する。
マルクス主義を拒絶しているにもかかわらず、彼のマルクスの解釈はルカチから影響を受けている。
 第一巻は、マルクス主義の知的背景を論述し、Plotinus、Johannes Scotus Eriugena、Meister Eckhart、Nicholas of Cusa、Jakob Böhme、Angelus Silesius、Jean-Jacques Rousseau、David Hume、Immanuel Kant、Johann Gottlieb Fichte、Ludwig Feuerbach、Georg Wilhelm Friedrich Hegel および Moses Hess を検証した。カール・マルクスとフリートリヒ・エンゲルスの諸著作の分析があるのは、勿論のことだ。
 ヘーゲルは全体主義の弁解者だということを彼は承認しなかったけれども、ヘーゲルに関して彼は、「ヘーゲルの教理の適用が実際に意味したのは、国家機構と個人とが対立する全ての場合に勝利するのは前者だ、ということだ」と書いた。
 (2) 第二巻は、第二インターナショナルおよびPaul Lafargue、Eduard Bernstein、Karl Kautsky、Georgi Plekhanov、Jean Jaurès、Jan Wacław Machajski、Vladimir Lenin、Rosa Luxemburg やRudolf Hilferding といった人々に関する論述を内容とする。
 これは、経済学者の Eugen Böhm von Bawerk との価値理論に関するヒルファーディングの議論を再述している。
 また、オーストリア・マルクス主義に関しても論述する。
 第三巻は、Leon Trotsky、Antonio Gramsci、Lukács、Joseph Stalin、Karl Korsch、Lucien Goldmann、Herbert Marcuse、Jürgen Habermas および Ernst Bloch といった人々を扱う。フランクフルト学派と批判理論については勿論のことだ。
 コワコフスキは、ルカチの<歴史と階級意識>(1923年)やブロッホの<希望の原理>(1954年)を批判的に叙述する。
 また、Jean-Paul Sartre についても論述する。
 コワコフスキは、サルトルの<弁証法的理性批判>(1960年)を批判する。
 彼は、弁証法的唯物論は、第一にマルクス主義に特有の内容を有しない自明のこと、第二に哲学上のドグマ(dogmas)、第三にたわ言(nonsense)、そして第四に、これらのいずれかであり得る、どう解釈するかに依存する言明 、で成り立つと論じて、弁証法的唯物論を批判する。
 (3) 2005年版で追加した緒言で、コワコフスキは、ヨーロッパでの共産主義の解体の理由の一つはイデオロギーとしてのマルクス主義の崩壊にある、と叙述した。
 彼は、ヨーロッパ共産主義が終焉したにもかかわらず研究対象としてのマルクス主義の価値を再確認し、全く確実ではないにせよ、将来でのマルクス主義と共産主義の再生はなおもあり得る、と述べた。
 彼が追加したエピローグでは、マルクス主義に関するこの著作は「この対象になお関心をもつ数少なくなっている人々にはたぶん有益だろう」と最後に記した。
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 3以降へとつづく。

1896/小川榮太郎の「文学」・杉田水脈の「コミンテルン」②。

 まず、前回の余録。 
 杉田水脈は語る-「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する」という「旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデル」。
 たしかに、たぶんレーニンではなくスターリンのもとで、子どもに両親(二人またはいずれか)の「ブルジョア」的言動を学校の教師とか党少年団の幹部とかに<告げ口>させるというようなことがあったようだ。
 どの程度徹底されたのかは知らない。しかし、東ドイツでも第二次大戦後に、夫婦のいずれかが片方の言動を国家保安省=シュタージに「報告」=「密告」していることも少なくなかったというのだから、現在日本では<想像を超える>。
 しかし、「ブルジョア」的言動か否かを判断できるのは日本でいうと小学生くらい以上だろうから、「保育所」の児童ではまだそこまでの能力はないのではないか。
 これはそもそも、産まれたヒト・人間を「社会」・「環境」がどの程度「変化」させうるのか、という基本問題にかかわる。だが、ともあれ、「保育所」の児童の「洗脳」を語る場合に、杉田水脈は具体的にどういうことを想定したのだろうか。
 さる大阪府豊中市内の保育園か幼稚園で、子どもたちにそのときの総理大臣に感謝する言葉を一斉に連呼させていた例も平成日本であったようだから、スターリン(様?)に対してか共産党体制に対してか、感謝を捧げ、スターリン・ソ連万歳!と言わせるくらいの「洗脳」はできるだろうが、杉田水脈はそれ以上に、何を想定していたのだろう。
 保育所児童がマルクス=レーニン主義を理解するのはまだ無理で、<歴史的唯物論>はむつかしすぎるのではないか?
 そうだとすると、ソ連が日本でいう小学生程度未満の「子供を家庭から引き離し」た目的は、その母親を労働力として利用するために「家庭」に置かない、「育児」のために「家庭で子どもにかかりきりにさせる」のではなく「外」=社会に出て、男性(子どもにとっての父親を含む)と同様に「労働」力として使うことにあったのではないか、と思われる。
 1917年末の立憲会議選挙(ボルシェヴィキ獲得票24%、招集後に議論なく解散)は男女を含むいわゆる普通選挙で、かつ比例代表制的な「理想」に近いほどの?方式の選挙だったともいわれる。
 したがってもともと、「社会主義」には男女平等の主張は強かったのかもしれないが、その重要な帰結の一つは、「(社会的)労働」も男女が対等に行う、ということだったと考えられる。
 かつまた、当時のソ連の経済状態からして、男性を中心とする「労働」だけでは決定的に足りなかった。囚人たちも「捕虜」たちも、労働に動員しなければならなかった。
 そのような状況では、子どもを生んだ女性たちの力を「家庭内で育児にほとんど費やさせる」余裕など、ソ連にはなかった、と思われる。
 100人の女性が多く見積もって200人の幼児・児童の「子育て」に各家庭で関与するよりも、20人の「保育士」が200人の幼児・児童を世話をする方が、5倍ほども「効率」がよい。-各家庭または母親等の「個性的」子育て・しつけはできないとしても。
 以上のようなことから、「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設」で受け入れる必要がまずあったのであって、「洗脳」は、幼児や保育園児童については二次的、三次的なものでなかっただろうか。
 私はソ連史、ヒトの乳幼児時期や育児論、に詳しくはないし、上の数字も適当なものだ。
 しかし、女性の「労働」環境がソ連と現在の日本とでは出発点から異なることを無視してはいけないように思われる。
 多数の女性が「社会」に進出して?「工場」等で「労働」するようになると、それなりの(女性の特有性に配慮した)「女性福祉」の必要が、ソ連においてすら?必要になる。
 一般的にソ連または社会主義体制は「福祉に厚い(厚かった)」という宣伝を、資本主義諸国の状況と単純に比較して、前者を「讃美」・「称揚」することはできないのだ。-このトリックをいまだに語る日本人は少なくない。
 ともあれ、杉田水脈の「思考」はまだ不足しているのではないか、ということだ。
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 かつて、つぎの本があり、上下二巻を私は面白く読んだ。
 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫 1945-1970/上・下(麗澤大学出版会、2010)。
 文学または文芸分野の著作かにも感じられるが、しかし、著者は法学部出身で政党活動にも関係していたからでもあろう、タイトルの二人の言説の比較、経緯等をときどきの「政治」の世界とその歴史の中で位置づけ、論述していたのが興味深くて、かなり一挙に読み終えた。当時の自分の関心にも適合していたのだろう。
 だが翻って感じるのは、この遠藤浩一(故人)の仕事・著作は、いったいいかなる性格の知的営為であって、無理やり分けるとしていかなる<ジャンル>のものなのだろう、ということだ。
 日本戦後史の一部の「歴史研究」という意図があるいはあったかにも見える。「文芸」も「文芸評論」も作家の「小説」類も、歴史的叙述の対象に、それらを対象に限ったとしても、なりうる。しかし、著者は正面からその旨を謳ってはいなかった。
 むしろ、記憶に残る印象は、二人の文芸・文学「知識人」を素材にした、戦後の「政治」とその歴史の一端についての、遠藤による<物語>または<作品>だった、ということだ。
 最近までも含めて、「歴史」に関する書き物での、いったいいかなるレベルの叙述なのかが曖昧なものがきわめて多いように見える。
 単純に二分すると、歴史「研究」書又は歴史「研究」を基礎にした一般向け書物なのか、それとも歴史に関する「お話」、個人的に思いつきや思い込みを含めて書いた「物語」、あるいは後者を含む意味での、要するに歴史叙述に名を借りた「作品」か。(これらとは、最初から歴史「小説」と明言されているものはー「時代小説」も含めてー、史料を踏まえていても、もちろん区別され、別論だ。)
 むろん、このように単純化はできない。前者を歴史「学界」または「アカデミズム」の一員によるものに限るのもおそらくやや狭すぎる。
 井沢元彦の<歴史研究>をアカデミズムは無視するかもしれないが、単なるマニア、歴史好きのしろうと(私のような)では、この井沢はないだろう。
 しろうとよりは多数の知識をもっていて「専門家」とすら自己認識している可能性すらあるようにも見える八幡和郎は、しかし、日本史の「専門家」では全くないだろう。歴史好きの平均的なしろうと(私のような)よりは「かなりよく知っている」程度にとどまると思われる。
 長々と余計なことを書いているようでもあるが、「歴史」に関する話題に収斂させたいのではない。
 小川榮太郎の文章を読んでいて興味深く思うのは、「文論壇」とか「文・論壇」とかのあまり見たことがない言葉が用いられていて、どうやら「文壇と論壇」を合わせたものを意味させているようであることだ。
 小川はどうも主観的には、「文壇」と「論壇」の両方で活躍??しているつもりらしい。
 先に遠藤浩一の著について感じた、これはいかなる性質の、どの分野の言述なのか、が小川榮太郎についても問題になりうる。
 いかほどに深く、この点を小川榮太郎が思考しているかは、疑わしい。
 <文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、そもそも間違っているのではないか。
 いや、小林秀雄も、福田恆存も、あるいは三島由紀夫も、とか小川は言い出すかもしれない。しかし、あくまで現時点での個人的な印象・感覚だが、これら三人は、<文学・文芸>の分限とでもいうべきものを弁えており、<政治そのもの>に没入はしなかった。
 むろん三島由紀夫の自衛隊・市ヶ谷での1970年の行動は、<政治そのもの>であって、<文学・文芸>の分限を超えるものであることを三島自身は深く自覚・意識していたに違いない。このような意味で、同じ人間が時機や特定の言動について、二つの異なる世界を生きることはあるが、同じ人間が同じ時機と同じ言動によって異なる二つの世界を生きることを(三島由紀夫はかりに別論としても)、小林秀雄も福田恆存も慎重に避けていたのではないだろうか。
 小川榮太郎が<文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、間違っているのではないか。
 むろん、「文学・文芸評論家」ではなく、「政治評論家」あるいはさらに「政治活動家」として自分は言動している、と言うのであれぱ、それでよい。それで一貫はしている。
 (つづく)

1895/小川榮太郎の「文学」・杉田水脈の「コミンテルン」①。

 2018年9月の新潮45<騒動>の出発点となったのは杉田水脈の文章で、それを大きくして決着をつけた?のは、小川榮太郎の文章。
 2年近く前の小林よしのり、ちょうど1年前の篠田英朗。タイミングを失して、この欄に書こうと思いつつ果たしていないテーマがある。
 新潮45問題に関して気になっていたことを、ようやく書く。時機に後れていることは、当欄の性格からして、何ら問題ではない。
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 原書・原紙で読んだわけではないが、杉田水脈はこう書いている。ネット上で今でも読める。
 産経新聞2016年7月4日付、杉田・なでしこリポート(8)。
 「保育所を義務化すべきだ」との主張の「背後に潜む大きな危険に誰も気づいていない」。
 「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデルを21世紀の日本で実践しようとしている」。
 一部かと思っていたら「数年でここまで一般的な思想に変わってしまう」とは驚きだ。
 「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンは息を吹き返しつつあります。その活動の温床になっているのが日本であり、彼らの一番のターゲットが日本なのです」。
 「これまでも、夫婦別姓、ジェンダーフリー、LGBT支援-などの考えを広め、…『家族』を崩壊させようと仕掛けてきました。…保育所問題もその一環ではないでしょうか」。
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 2018年の「生産性」うんぬんの議論の芽は、ここにすでに見えている。
 この言葉とこれに直接に関係する論脈自体は別として、秋月瑛二は上のような議論の趣旨が分からなくはない。また、一方で、「保守」派はすぐに伝統的「家族」の擁護、<左翼>によるその破壊と言い出す、という<左>の側からの反発がすぐに出るだろうことも知っている。
 戦後日本の男女「対等」等の<平等>観念の肥大を、私は懸念はしている。
 しかし、上のようなかたちでしか国会議員が論述することができないということ自体ですでに、「知的」劣化を感じざるをえない。
 第一に、現在日本での「保育所」問題あるいはとくに女性の労働問題と「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデル」とを、あまりに短絡に結びつけているだろう。
 百歩譲ってこの「直感」が当たっているとしても、その感覚の正当性をもっと論証するためには、幾十倍化の論述が必要だ。旧ソ連の「子育て」・労働法制(または仕組み・イデオロギー)と日本の現下の保育所を含む児童福祉・労働法制等の比較・検討が必要だ。
 そのかぎりで、杉田水脈は一定の「観念」にもとづいて、「思いつき」でこの文章を書いている。
 第二に、唐突に「コミンテルン」が出てくる。これはいったい何のことか。
 杉田水脈が「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンは息を吹き返しつつあります。その活動の温床になっているのが日本であり、彼らの一番のターゲットが日本なのです」と明記するには、それなりの根拠あるいは参照文献があるに違いない。
 いったい何を読んでいるのだろうか。また、その際の「コミンテルン」とはいかなる意味か。
 「コミンテルン」を表題に使う新書本に、この欄でまだ論及するつもりの、以下があった。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本で江崎は戦争中の「コミンテルンの謀略」を描きたかったようだが、そして中西輝政が本当に読んだのかが決定的に疑われるほどに(オビで)絶賛しているが、江崎自身が中で明記しているように、「コミンテルンの謀略」とはつまるところ「共産主義(・マルクス主義)の影響」の意味でしかない。タイトルは不当・不正な表示だ。
 「謀略」としてはせいぜいスパイ・ゾルゲや尾崎秀実の「工作」が挙げられる程度で、江崎自身が、無意識にせよ、客観的にはソ連・共産党を助けることとなった言論等々を含むときちんと?明記している。
 上の本は正式には<共産主義と日本の敗戦>という程度のものだ。しかも、延々と明治期からの叙述、聖徳太子に関する叙述等々があって、コミンテルンを含むソ連の「共産主義者」に関する叙述は三分の一すらない。
 さて、杉田水脈における「コミンテルン」も、何を表示したいのだろうか。
 しかも、これは「弱体化したと思われていた」が「息を吹き返しつつあ」るもので、しかも、「一番のターゲットが日本」なのだとすると、本拠?は日本以外にあり、かつ日本以外にも攻撃対象になっている国はある、ということのようだ。本部は中国・ペキンか、それともロシア・モスクワか。ひょっとしてアメリカ・ニューヨークにあるのか。
 これは、「コミンテルン」=共産主義インターナショナルという言葉に限ると、<デマ>宣伝にすぎない。この人の「頭の中」には存在するのだろう。
 左にも右にもよくある、<陰謀>論もどきだ。
 ロシア革命が「原因」でヒトラー・ナツィスの政権奪取があったとする説がある。なお、レーニン・十月革命(10月蜂起成功)ー1917年、ヒトラー・ミュンヘン蜂起失敗ー1923年。
 両者の<因果関係>は、間違いなくある。ほんの少し立ち入ると、両者をつなぐものとしてリチャード・パイプス(Richard Pipes)もかなり言及していたのは<シオン賢人の議定書>だ。記憶に頼って大まかにしか書けないが、これは当時に刊行のもので、ロシア・十月革命の原因・主導力を「ユダヤの陰謀」に求める。又はそのような解釈を積極的に許す。かつ、その影響を受けたドイツを含む欧州人は「反ユダヤ人」意識を従来以上に強くもつに至り、ヒトラーもこれを利用した、また実践した、とされる(なお、いつぞや目にした中川八洋ブログも、この議定書(プロトコル)に言及していた)。
 理屈・理性ではない感情・情念の力を無視することはできないのであり、中世の<魔女狩り>もまた、理性・理屈を超えた「情念」あるいは「思い込み」の恐ろしさの表れかもしれない。
 現在の日本の悪弊または消極的に評価する点の全てまたは基本的な原因を、存在してはいない「コミンテルン」なるものに求めてはいけない。もっときちんと、背景・原因を、そして戦後日本の政治史と社会史等々を論述すべきだ。
 <左翼>は右翼・ファシスト・軍国主義者の策謀(ときにはアメリカ・CIAも出てくる)を怖れて警戒の言葉を発し、<右翼・保守>は左翼の「陰謀」に原因を求めて警戒と非難の言葉を繰り返す。
 要するに、そういう<保守と左翼>の二項対立的な発想の中で、左翼またはその中の社会主義・共産主義「思想」を代言するものとして、おそらく杉田水脈は(まだ好意的に解釈したとしてだが)、「コミンテルン」が息を吹き返しつつある、などと書いたのだろう。
 産経新聞編集部もまた、これを簡単にスルーしたと思われる。産経新聞社もまた、江崎道朗と同様に?、「コミンテルンの陰謀」史観に立っているとするならば、当然のことだ。
 共産主義あるいはマルクス主義・社会主義に関心を寄せるのは結構なことだが、簡単にこれらを「観念」化、「符号」化してはならない。
 歴史と政治は多様で、その因果関係もまた複雑多岐で、「程度・範囲・濃度」が様々にある。
 幼稚な戦後および現在の「知的」議論の実態を、杉田水脈の文章も、示しているように思われる。

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
 **
 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
 **
 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1893/L・コワコフスキ著・第三巻第四章第1節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第四章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化(crystallization。独語訳版はAusformung=形成)。
 1978年英語版第三巻 p.117-p.121、2004年合冊版p.881-p.884。
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 第1節・戦時中という幕間。
 (1)1930年代の終わりまでに、マルクス主義は、ソヴィエトの党と国家の教理という、明瞭に定められた形態をとるに至っていた。
 その公式名称は、マルクス=レーニン主義(Marxism-Leninism)だった。これは、すでに説明してきたように、スターリンの個人的イデオロギー以外の何ものをも意味しなかった。マルクス、エンゲルスおよびレーニンからの理論の細片をわずかに含んではいた。しかし、四人の「古典的」教師たちが「発展」させ、「豊かに」した単一のイデオロギーだと称した。
 マルクスはこうして「古典的マルクス=レーニン主義」の中核へともち上げられ、スターリンの先駆者だとされた。
 マルクス=レーニン主義の本当(true)の内容はスターリンの諸著作が、もっと個別に言えば<小教程>が、解説した。//
 (2)すでに述べたように、全体主義国家を支配する階層の利益を抜きん出て映し出すこのイデオロギーの際立つ特質は、極端な厳格性と極端な融通性を結合していることだ。
 相反するように見えるこれら二つの性質は、お互いを補強し合っている。
 微小の逸脱すらなく反復するよう全ての者が義務づけられた、変わらない、型に嵌まった諸定式を集めたものだ、という意味で、それは厳格だった。
 しかし、その諸定式の内容はきわめて曖昧であり、どの段階でもどんな変化があっても、全ての国家政策をそれが何であっても正当化するために、用いることができた。//
 (3)ソヴィエト・マルクス主義がもつこの機能の最も逆説的な効果は、第二次大戦中の、それ自体の部分的な自己崩壊だった。
 (4)1930年代の後半、ヨーロッパはナツィによる攻撃という脅威で弱体化していた。
 戦争勃発に先行していた危機の間、スターリンを冠に戴くソヴィエト同盟は、全ての方向からの脅威に対抗して安全を確保すべく、巧妙で目敏い政策を追求した。
 宥和という西側諸勢力の臆病な政策によって、かりにドイツがその東方または西方の隣国を攻撃したとすればどうなるか、を予見することが困難になった。
 ドイツがチェコスロバキアを併合して従属させた後では、戦争が避けられないことがほとんどの人々に明白だった。
 1939年8月のドイツ・ソヴィエト不可侵協定〔独ソ不可侵条約〕は、秘密条項を含んでいた。その条項は、ポーランドを両国で分割することを定め、フィンランド、エストニアおよびラトヴィアをソヴィエトの利益圏に組み込んでいた。
 (リトアニアは、同年9月28日の協定の修正で、これらに付け加えられた。)
 同年9月1日、ソヴィエト同盟がこの協定を裁可した翌日に、ドイツはポーランドへと侵攻した。そして同月17日、ソヴィエト赤軍がポーランド東部地域を「解放する」ためとして侵入してきた。両国政府は一方で、ポーランドはこれを最後に消滅した、と宣言した。
 侵略者たちは、それぞれの占領地域での地下活動を弾圧して相互に助け合う秘密合意書を締結していた。
 (ナツィとソヴィエトの協力の期間、後者は、ソ連邦に収監されていた何人かのドイツ共産党員を引き渡した。その中には、物理学者のAlexander Weissberg も含まれていた。しかし彼は生き延びて、スターリンの粛清に関する事実を記録する(documentary)最初の諸文書を書くことができた。)
 ヒトラーとの協定は、ソヴィエトの国家イデオロギーの変形を生じさせた。
 ファシズムに対する批判が、かつ「ファシズム」という言葉自体が、ソヴィエトの宣伝活動から消滅した。
 西側の諸共産党、とくにイギリス共産党とフランス共産党は、宣伝活動の全体を戦争への反対に向け、ナツィ・ドイツと闘う西側帝国主義諸国を非難するよう指令された。
 フィンランド侵攻が失敗したことで、ロシアの軍事力の弱さが世界中に、とりわけ、その目標は最初からソヴィエトという「同盟者」(ally)だったヒトラーに、明らかになった。
 さらに大災難だったのは、1941年6月21日のドイツ侵攻のあとに生じた、ソヴィエト同盟のだらしない混乱ぶりだった。
 歴史研究者たちは、その驚くべき不用意さの原因について、今もなお議論している。
 軍隊の最良の幹部たちの粛清、スターリンの軍隊の無能力、ドイツによる早期の攻撃への警戒心を抱かなかったこと、およびソヴィエト国民が完全に心理的武装解除に陥っていたこと-ドイツ侵攻の一週間前に政府は戦争に関する風聞は「馬鹿げている」と公式に非難していた-、これらが、ソヴィエト国家を破滅の縁に追い込んだ一連の失敗の理由として挙げられている。//
 (5)ドイツ・ソヴィエト戦争は、ソヴィエト同盟と世界の全共産主義者たちにさらに、イデオロギーの変化をもたらした。
 西側の共産主義者たちはもはやその攻撃を反ナツィ勢力に向ける必要がなかった。自発的にファシズムを「当然の」敵だと見なすべきことになった。
 1941年6月まではポーランド国家の廃絶を従順に受容してたポーランドの共産主義者たちはその党を再建し、一部はソ連邦内で、主としてはドイツ占領下のポーランドの地下運動として、ナツィの侵略者と闘った。
 「正常な」残虐さと破壊とは別に、ロシアでの戦争はそれ自体のイデオロギー上の暴虐を生んだ。すなわち、東部領域からのポーランド人、とくに知識人の大量の追放と殺戮、ロシア軍の捕虜になっていたポーランド将校たちの大殺戮、ドイツとの戦闘がなお続いている間の八つの少数民族集団の<ひとかたまり>での再移住、および四つの自治民族共和国の解体-ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、the Kalmyksおよびチェコ人とthe Ingushes の人々の自治共和国のそれ。
 無数の生命がこうした追放の間に失われ、逃亡した人々は、生まれた故郷に再び戻ることは決してできなかった。//
 (6)他方で、戦争によって、ロシアのイデオロギー統制を緩和することが可能になった。
 貴重な生命のために闘う国民については、マルクス主義は心理的な兵器としては価値がないことが分かった。
 マルクス主義は、公的な宣伝から事実上は消失した。そして、スターリンはその代わりに、ロシア愛国主義とAlexander Nevsky、Suvrov およびKutukov のような英雄たちの記憶に訴えかけた。
 インターナショナル歌はソヴィエトの聖歌であることをやめ、ロシアの栄光を賛美する曲に替えられた。
 反宗教の煽動は止まり、戦闘的無神論者同盟は事実上解散し、一方で聖職者たちが、愛国主義の精神を維持するのを助けるために召喚された。//
 (7)1945年以降のソヴィエトの宣伝は、社会主義イデオロギーの栄光としてのヒトラーに対する勝利を象徴的に意味した。これは、戦闘をした男たちとソヴィエト民衆全体の心のうちに生きていた。
 そうではなく、反対のことが真実(truth)に近かっただろう。すなわち、国民はマルクス主義イデオロギーに関して忘れなければならず、代わりに民族的かつ愛国的な心情を吹き込まれなければならないということが、勝利のための必要条件だったのだ。むろん、十分条件ではなかったけれとも。
 ソヴィエト国家と民衆の戦争努力を別にすれば、莫大な量のアメリカ合衆国による軍事的援助やヒトラーの「イデオロギー的」まぬけさなどの、別の要因がそれぞれの役割を果たした。
 ヒトラーは、戦争の最初の数カ月の圧倒的な成功に幻惑されて、征服した地域を完全に厳格なナツィの教理に従属させた。ベラルーシとウクライナで「解放者」として振る舞うのではなく、人種主義の笞をふるい、住民たちを永遠に絶滅され、奴隷とされるべき劣等人間として扱った。
 (ドイツ人は、征服地域にある集団農場の解体すらしなかった。そのシステムによって生産物を徴発するのが容易になったからだ。)
 ナツィスの凶暴な残虐さによって、すべての民衆が、ヒトラー主義(Hitlerism)よりも酷いものはあり得ない、と確信した。
 最初の後退のあとで傑出した勇気と献身性を示した赤軍の兵士たちは、彼らの国家の存在のために闘った。マルクス=レーニン主義のためにではなかった。
 ロシアでは多数の者が、戦争はナツィズムに対する最終的な勝利で終わるだけではなく、国内での自由をも、少なくとも圧政の緩和をも、望んでいた。
 戦争に勝利すべく全力が捧げられるためにイデオロギー的統制が緩やかになったのだとすれば、そのように考えるのも当然だった。しかし、勝利のあときわめてすみやかに、そのような希望は幻想であることが明白になった。//
 (8)種々のことがあったにもかかわらず、多様なマルクス主義諸装置は、戦争中ずっと機能し続けた。
 ソヴィエト哲学の分野での最も重要な出来事は、G. F. Aleksandrov が編集した<哲学の歴史>全集の第三巻にある誤りを非難する、党中央委員会の布告だった。
 時代と並行して進み続けることをしない執筆者は、哲学者およびマルクス=レーニン主義の先駆者としてのヘーゲルを過大評価しており、ヘーゲルのドイツ排外主義を考慮していない、とされた。
 この非難は、反ドイツ宣伝のためになされた戦時中の多数の行為の一つにすぎなかった。しかし、マルクス=レーニン主義正統派の歴史文書に占めるヘーゲルの地位を破壊した。
 ソヴィエト哲学者のあるインタビューに答えて、スターリンは、ヘーゲルはフランス革命とフランス唯物論に対して貴族政的に反応したイデオロギストだ、と述べた。これ以降、この評価が哲学の分野で義務的なものになった。//
 (9)勝利の見込みによって事実上の安定を獲得したとき、征服と膨張への欲求を動機とするスターリンの政策は、ヨーロッパと世界の戦後秩序に関わり合った。
 西側連合国は、テヘラン協定とヤルタ協定によって事実上、東ヨーロッパに関するフリー・ハンドをソヴィエト同盟に与えた。
 バルト三国の公然たる併合とほとんど全ての隣国からの領土獲得に加えて、チャーチルとルーズヴェルトの不本意な同意を得て、ソヴィエト同盟は、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、およびより少ない程度でユーゴスラヴィアで支配的な地位を得た。
 これらの諸国で、また東ドイツでも、共産党体制が確立するのに、数年とかからなかった。しかし、この結果は、すでに先立って決められていたことだった。//
 (10)ある範囲の歴史研究者たちは、併合や赤軍が占領した諸国への共産主義の押し付けは帝国主義諸国の企図によるのではなく、ソヴィエト同盟が必要とした可能なかぎりでの「友好」なまたはむしろ卑屈な諸国家に包囲されていることによる安全確保への関心による、と論じた。
 しかし、これは不必要な区別だ。なぜなら、全ての国家がソヴィエト同盟に従属していないかぎりは、ソヴィエト同盟の安全についての絶対的な保障などあり得ないのだから。完全に有効であるためには、世界全体がソヴィエトの支配下に置かれるまでは、「防衛」の過程は継続されなければならないのだ。//
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 第1節、終わり。第四章の途中だが、第三巻の試訳は、ここでいったん区切る。

1892/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.113-p.116、2004年合冊版p.874-p.880。
 最後から二つ目の文につき、ドイツ語訳書3巻p.132も参照した。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容③。
 (19)世界共産主義に対するスターリン独裁の一つの効果は、マルクス主義の研究を徐々に衰退させたことだった。。
 「ボルシェヴィキ化」の過程にあった1920年代は、多様な分派的で個人的な争論で溢れていた。それらは通常は、レーニンが遺した政治的文献の正しい解釈に関する論争というかたちをとった。しかしこれらは、ソヴィエト様式(Soviet-type)の正統派が徐々に成文化されたことを別とすれば、教理に対する永続的な影響を持たなかった。
 にもかかわらず、1920年代初期の革命的雰囲気は、若干の理論的な文献を生んだ。そこでは、第二インターナショナルの正統派指導者たちが伝えたマルクス主義教理が完全に修正されていた。
 それらのうち最も重要なのは、ルカチ(Lukács)とコルシュ(Korsch)の著作だった。この二人はいずれも、コミンテルンによって「極左」だと汚名を着せられて非難された。
 彼らは異なる方法で、「理論と実践の統一」という観念に新しい生命を注入し、正統派と新カント派のいずれにも広まっている科学的見方と闘うことによって、マルクス主義哲学を最初から再構築しようとした。。
 多くの諸国では、逞しい従前の世代がなおも、共産主義運動の外側で非教条的なマルクス主義の伝統を維持していた。すなわち、オートスリアのAdler やBauer 、ポーランドのKrzywicki 、ドイツのKautsky やHilferding。
 しかしながら、この時代の彼らの活動は教理の発展に対して大きな影響力を持たなかった。彼らのうちいく人かはすでに作られていた諸観念や主題を反復することで満足しており、別の者たちは次第にマルクス主義の伝統から離反した。
 そうしているうちに、社会民主主義との闘いに社会主義運動を一元化するコミンテルンの政策によって、理論的作業は行われなくなった。
 社会民主主義はマルクス主義から大きく離れたものになっており、単一の拘束的イデオロギーを求める必要性を失った。
 マルクス主義はソヴィエトのイデオロギストたちを実際に独占し、過ぎゆく年ごとに味気ないものになった。//
 (20)ドイツにだけは、共産主義と一体化しない重要なセンターがあつた。1923年にフランクフルトに創立された社会研究所(the Institute fuer Sozialforschung)だ。
 このメンバーたちは最初はマルクス主義の伝統から強く影響を受けていた。しかし、それとの連環は次第に弱くなりつ、のちにますます明確になった一定の様式が形成された。
 一方で、マルクス主義は制度化された党イデオロギーとして硬直化し、政治的には有効だつたが全ての哲学上の価値を失った。
 他方で、マルクス主義は全く異なる伝統と、明瞭な外郭線を示すことをやめるに至るまで結びついた。そして、知的歴史に寄与する多数のものの一つにすぎなくなった。//
 (21)しかしながら、1930年代半ば頃のフランスで、マルクス主義運動がある程度生き返った。
 その指導者の中には科学者、社会学者および哲学者がいたが、全てが共産主義者ではなかった。Henri Wallon 、Paul Langevin 、Frédéric Joliot-Curie 、Marcel Prenant 、Armant CuvillerおよびGeorges Friedman だ。
 これらは戦後のフランスの知的生活で重要な役割を果たした。政治的に共産主義に関与する学者と(但し、必ずしもマルクス主義理論家ではなかった)、または伝統的マルクス主義理論の、システムを形成しないでばらばらな様式で知的生活を一貫させた一定の側面の継続者とのいずれかとして。
 戦争間でのフランスで最もよく知られた正統派は、Georges Politzer だった。この人物は、占領期に殺された。
 彼はBergson を激しく批判する書物やレーニン主義の弁証法的唯物論に関する一般向け手引き書を書いた。
 イギリスでは、著名な生物学者で地球上の生命の起源に関する書物の執筆者だったJ. B. S. Haldane が、マルクス主義と現代科学との親和性を証明しようと努力した。
 もう一人のマルクス主義者は、アメリカの遺伝学者のH. J. Muller だった。
 しかしながら、この二人の場合、マルクス主義はとくにマルクス主義とは言えない様相で示された。生物学では、主としては生気論や最終主義に対する一般的な反論という形で表れたように見える。
イギリスのMaurice Dobb も、とくに景気循環との関係で、マルクス主義経済理論を擁護した。//
 (22)イギリスの労働党の左翼では、Harold J. Rasky がマルクス主義的用語法で国家の理論、権威の性質および政治思想の歴史を詳しく解説した。
 1930年代の後半、彼は、「究極的には」ある階級が別の階級を強制することに役立つ装置としての国家に関するマルクス主義理論を採用した。
 彼は当時のリベラリズムを主要な目的は被搾取者の意見が聴かれないままにするイデオロギーだと攻撃し、財産所有階級の致命的利益が脅威に直面すれば彼らは統治のリベラルな形態を拒絶し、生の暴力に頼るだろう、と主張した。
 ヨーロッパでのファシズムの成長は、ブルジョア国家の発展の自然な結果だ。ブルジョア民主主義は衰退の状態にあり、ファシズムに対する唯一の代替選択肢は、社会主義だ。
 にもかかわらず、Rasky は、伝統的な民主主義的自由に愛着があり、プロレタリア革命は民主主義的自由を損なわないままにするだろうと信じた。
 彼は、社会発展への鍵は中産階級の態度にある、と明確に論じた。
 この当時に共産党員だった(のちに社会民主主義者になった)John Strachey は、同じ問題について、正統派的なレーニン主義の観点から議論した。//
 (23)才能ある著作者のChristopher Caudwell (Christopher St. John Sprigg, 1907-37の筆名)は短期間、イギリスのマルクス主義の中で傑れていた。
マルクス主義者かつ共産主義者としての彼の経歴はほとんど二年間しかなかった。-スペインの国際旅団で闘って殺された。
 しかし、1936年に、<幻想と現実-詩の源に関する研究>と題する注目すべき書物を生んだ。
共産党員になるまでに彼は、いくつかの探偵小説や飛行機に関する大衆向け書物を書いた。
 <死にゆく文化の研究>(1938)、当時のイギリス文学、「ブルジョア文化」一般に関する小文を集めたもの、および未完の<物理学の危機>(1939)、観念論、経験主義および現代科学理論の非決定論に対するレーニン主義的攻撃、のような彼の詩作は、死後に遺作として出版された。
 マルクス主義の著作として最もよく知られる<幻想と現実>で、彼は社会と技術の進化について異なる段階の韻律の変化を含めて、詩の歴史の相互関係を示そうとした。
 同時に、自由を必然性からの自立と把握するブルジョア的観念を攻撃した。一方でエンゲルスは、自由とは人間の目的のために自然的必然性を利用することだと述べていたのだが。
 この書物は、16世紀以降のイギリスの詩に個別に注目した。Marlowe とShakespeare は本源的蓄積の英雄的時代に位置し、Pope は重商主義時代に位置する、等々。
Caudwell は、詩作は元来は生産を増やす目的の農業儀礼の一要素にすぎなかった、とする見解だった(とくにマルクス主義的というのではないが、初期の人類学的作業だ)。
 のちの階級社会で、詩作、音楽および舞踏は生産と分離したが、それは芸術の疎外(alienation)を意味した。
 社会主義の役割は、この過程を逆方向に動かし、生産活動と芸術的活動の統一を回復することだ。//
 (24)西側ヨーロッパの知的生活は、またある程度の範囲ではアメリカ合衆国のそれは、1930年代遅くには奇妙な情況を呈した。
 一方では、スターリニズムが十分な実績をつみ、その最もおぞましい特質のいくつかは全世界の者が分かるまでに暴露されていた。
 しかし、他方では、多数の知識人たちが、ファシズムに代わる唯一の選択肢およびそれに対抗する防衛手段として、共産主義に魅了された。
 あらゆる種類の政治的集団はナツィの侵攻の脅威を前に、弱々しく、決断力がなく、そして無力であるように見えた。
 多くの者にとってマルクス主義は理性主義、人間中心主義そしてかつてのリベラルな考え方の全てを維持し続けているように思え、そして共産主義はマルクス主義を政治的に具現化したもので、ファシストの猛襲を食い止める最大の希望だった。
 左翼知識人たちは、実際に現存しているが最初からとくにマルクス主義的というのでもない特質をもつマルクス主義に向かって、惹き寄せられた。
 ソヴィエト・ロシアがファシズムに対抗する主要な勢力だと見えるかぎりで、こうした知識人たちは、ソヴィエト共産主義と彼らが理解するマルクス主義とを同一視しようと努めた。
 そのようにして彼らは、共産主義政治の現実にわざと目を閉ざした。
 George Orwell のように教理上の想定からではなく経験上の事実から実際の共産主義に関する考えを形成した人々は、憎悪と憤慨を味わった。
 偽善と自己欺瞞は、左翼知識人がもつ永続的な思潮になった。//
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 ③終わり、第3節終わり。そして、第三章も終わり。

1891/白井聡「『国家と革命』解説」(2011)。

 レーニン=角田安正訳・国家と革命(講談社学術文庫、2011)。
 この文庫本版のレーニン文献に翻訳者とは別の「解説」を書いているのが白井聡で、その表題は「解説-われわれにとっての『国家と革命』」。一年以上も前に、知ってはいた。
 レーニンとロシア革命の擁護という点で、目を剥く文章が見られる。以下に抜粋的に引用する。
 自らの『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)の議論の要約らしきものを述べた後でこのように書く。p.274-。
 ・<国家と革命>またはレーニンの言説全般にかかる「理想主義」か「現実主義」かの問いの無意味さは「現存社会主義」の崩壊によって「現実」となつたが、それは「想像力の貧困の帰結」だ。レーニンの文章の「不可解さ」は彼の罪ではなく、「われわれの想像力の貧しさ」にある。「いかにしてこのような貧困状態にわれわれが落ち込んだのか」。
 ・レーニンが描いた共産主義建設の試みは①「国家の死滅」ではない「国家の異常な肥大」や「形式的な民主主義」の無視をもたらし、②「理想社会」という「嘘と欺瞞に対する怨嗟」が広まって「帝国を崩壊」にもたらす、という「二度」の「挫折」をした。
 ・上の帰結の原因につき、①マルクス=レーニン思想に「内在する独断性」による「硬直的なほとんど教権的」体制の構築、②ロシアの特殊性、が語られる。
 ・しかし、上の①と②には「何の違いもない」。なぜなら、「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている点」で共通しているからだ。
 ・「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をレーニン、スターリン、マルクスのずれかに求める談義をする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ・こう考えるべきだ。「ロシア革命の失敗は、われわれが責めを負うべき事柄なのではないか」。あるいは、「ロシア革命の失敗が失敗であるがままでとどまっているのは、ほかでもなくわれわれのせいなのではないか」。
 ・「ボルシェヴィキ政権が」「恐ろしく強権的なもの」になったのは「事実」だが、「仮に、当時ほかの先進諸国のどこかでボルシェヴィキ革命と同程度に決然とした反資本主義の革命が一つでも起こっていたとするなら、世界は果たしてどうなっていただろうか」。それが起きていたなら、「ソヴィエト政権がかくも強硬なものとならざるを得なくなった必然性」の原因の一つが除去される。
 ・革命政権を干渉軍と「社会主義者たち」は非難した。レーニンが「ボルシェヴィキ革命を批判したカウツキーを『背教者』とまで呼んで罵倒したことは、筆者にとって完全に納得できる」。「社会主義者」にある「根本的欺瞞がレーニンをして怒髪天を衡く怒りを発せしめた」のだ。
 ・われわれがロシア革命の失敗の原因を論じるときに「カウツキーと同じ過ちを犯す危険」に近づく。つまり、「われわれはわれわれ自身の義務を果たした上で、レーニンの革命を批判しているのか?
 ・レーニンの革命の理想を「救済」できるのは後代のわれわれだけだとすれば、「国家と革命」の中の「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ・日本人の大多数は戦後にロシア革命から「多大の恩恵」を受けた。資本主義体制が「階級対立の緩和、労働者階級の富裕化、富の分配の平等化、社会福祉の実現」をかなり追求した必然性の原因の一つは「巨大な社会主義陣営の存在」だった。
 ・「歴史の皮肉」は、「現存社会主義の体制を大方冷ややかに見ていた諸国の大衆こそが、社会主義革命の果実を最も豊富に享受していた」ということだ。「自由主義先進諸国の勤労者階級は、階級闘争において代行的に勝利を収めることとなった」。
 ・レーニン「国家と革命」の中の「革命」に、「われわれは非常に多くを負ってきた」。「今日のわれわれの社会が背負っている痛みは、部分的には、この多くのものが失われたことに起因する」。「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
 以下略。上は、p.283まで。
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 上で印象的なのは、第一に、ロシアでの「十月革命」を「社会主義革命」だったと完全に信じていることだ。
 そして第二に、「社会主義(革命)」の理想を未だに抱いているごとくであり、資本主義=「悪」という立場に当然のごとく立っている。
 第三に、レーニンの描いた十月革命後の「理想」が実現されず、かつむしろ悲惨な結果をもたらしたことの大きな原因をドイツ等での「革命」が後続しなかったことに求めている。かりに-だつたら、こんなことにならなかった、と嘆いている。
 第四に、ロシア革命の失敗とその理想の追求を「われわれ」の痛みと夢として抱き続ける必要があると論じている。
 印象的な文章の例を、くどいかもしれないが、再度引用しよう。
 ①「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている…」。
 ②「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をあれこれの他者に求めようとする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ③レーニンの革命の理想を「救済」できるのはわれわれだけであって、「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ④「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
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 なぜ、このように書く人物が生じたのか。
 すでに一度この欄で言及したが、白井聡が大学院学生または20歳台のときにもっぱら又はほとんど、レーニンの文献を読んでいたことの結果だと言えるだろう。
 加藤哲郎(元一橋大学)には、このような人物が生まれたことについての「責任」はないのだろうか(同じことは、長谷川三千子-小川榮太郎についても、感じる)。
 白井聡はもともと親社会主義・共産主義的心性は抱いていたのだろうが、レーニンを読み耽ることが、上のような文章を書くことにつながったと見られる。
 白井聡にとって、レーニンとそのロシア革命は「われわれ」という名の「自分」すなわち白井聡の「一部」であり「分身」なのだ。レーニンの屈辱も夢も、白井聡の同身者のものなのだ。
 このような、レーニン研究者としてはまだ研究業績があると言えるかもしれない者が戦後日本史あるいは現代日本について語り出すといったいどうなるのか。
 真面目に読む気がしないのだが、読まなくとも、この人の心底にある「怨念」めいた信条による歴史・現実の把握が尋常なものでなくなることが、容易に判るような気がする。
 それでも、雑文執筆を依頼し、書物の刊行までしてくれるマスコミや出版社が、日本にはある。かつまた、雇用してくれる大学も、日本にはある。
 白井聡は京都精華大学の教員らしい(教授ではない)。この大学はかつて、上野千鶴子が所属していた。また、この欄でレーニン幻想をもつ「左翼」としてとり上げた、理系・建築系の田中充子も(今を確認しないが)いた。
 これらは、京都精華大学という大学にとって名誉なことだろうか。

1890/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.109-p.113、2004年合冊版p.874-p.877。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容②。
(10)1924年半ば、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフの三人組の支配者たちは、トロツキーと深刻な闘争を繰り広げていた。その頃、第五回大会が開かれ、全ての構成諸党の「ボルシェヴィキ化」を求める決議を採択した。
 これが意味するのは理論上は、ロシアの党の方法と様式を採用すべきだ、ということだ。だが実際には、全ての問題に関してロシアの党の権威を承認すべきだ、というととだった。
 この大会自体が、「ボルシェヴィキ化」がすでに十分に進んでいることを示した。スターリンとその仲間たちの求めによって、全ての諸国の共産党が満場一致で、トロツキーを非難した。
 翌年のドイツ共産党の大会で、何をボルシェヴィキ化が意味するかに関する実際的な説明が示された。スターリンの主要な取り巻きの一人であるコミンテルン・ソヴェト代表者Manuisky が中央委員会の構成に関する規約を定めようと試みたときに。
 ドイツ共産党の代議員たちがこれに従うのを拒否したとき、執行委員会議長のジノヴィエフは彼らをモスクワへと召喚し、Ruth Fischer とArkady Maslow という「左翼」指導者たちを排除するよう命じた。これらの人物は、ボルシェヴィキ<に対して向かいあった>ある程度の自立性をもつ外観は維持しようとしていたのだった。//
 (11)第五回大会の別の決議は、ドイツの彼らの役割はブルジョアジーと共謀して労働者階級の中に民主主義と平和主義の幻想を染みこませることにあると述べて、社会民主主義者だと性質づけた。
 資本主義が衰亡するにつれて、社会民主主義は限りなくファシズムに接近する。この二つは、実際には、資本主義者の手のうちの単一の武器の両面だ。
 これらは、数年後に、コミンテルンの政策の原理的な指針となった。//
 (12)第五回と第六回のコミンテルン大会の間に四年が過ぎた。スターリンはおそらく、トロツキーに対する、またジノヴィエフとカーメネフ、およびこれらの仲間たち、に対する最終的な勝利を達成するまでは大会を招集するつもりがなかった。
 コミンテルンはその間に、「社会ファシズム」に関する教理にもかかわらず、アングロ=ロシア委員会をもつ1925年に形成されるに至ったイギリス労働組合に、世界労働組合運動の統合を促進するよう勧めていた。
 しかし、これは短期間で終わり、成功しなかった。
 1926-27年、コミンテルンは中国で重大な後退をこうむった。中国では、モスクワの指令にもとづいて小さな共産党が、中国を統一して近代化し、西側諸国による支配から自由になろうとする革命的な蒋介石を支援していた。
 スターリンの意見では、これはブルジョア的民族運動であり、その行方はプロレタリアート独裁へと一気に進むものではなかった。 
 ソヴェト同盟は武器を与え、軍事、政治の顧問団を送って助け、1926年春に蒋介石は、コミンテルンを「同調する」(sympathizing)党だとすら認めた。
 しかしながら、蒋介石は政府を形成したときに共産党員を排除し共産党には一部の権力も与えなかった。また、1927年4月の上海での中国共産党の蜂起を、多数の逮捕と処刑でもって鎮圧した。
 蒋介石はまずは打撃を加えて「同盟者」の機先を制した、と遅まきながら悟ったスターリンは、広東での暴動を命じて状況から脱しようと試みた。
 この広東暴動は同年12月に起きたが、新しい大虐殺でもって鎮静された。
 これらの失態について、トロツキーはスターリンを非難した。蒋介石の指導性を認めるのではなく、中国共産党は最初からソヴェト共和国樹立を狙うべきだったのだ、と。-トロツキーは、中国共産党はいかにすれば当時のその勢力の状態で蒋介石に勝つことができたのかを説明しなかったけれども。
 しかしながら、コミンテルンは中国共産党を「誤った政策方針」を追求したと非難した。そして、陳独秀〔中国共産党の初代総書記〕は批判され、のちに追放された。//
 (13)1928年8月の第六回大会は、社会主義者たちとの協働の試みを最終的にやめさせた。いずれにせよ、下らなくて、かつ成功しない、として。
 この大会は、世界の社会民主主義とその支配下にある労働組合は資本主義の主柱であり、全ての共産党は「社会ファシストたち」との闘いに全力を集中することを命じられる、と宣言した。
 また、資本主義の一時的な安定は今や終わった、新しい革命の時代が始まっている、と宣告した。
 多様な諸国の各共産党は、これらに倣って「右派」と「宥和派」を党から追放した。そして、新しい粛清によって、ドイツ、スペイン、アメリカ合衆国その他の諸国の指導者たちの中に、多数の犠牲者が生まれた。//
 (14)力強い政治的勢力の代表だったドイツ共産党が社会主義者を攻撃したことは、ヒトラーが権力を奪取した大きな原因だった。
 ドイツ共産党は、ナチズムは一過的な事象であり得るにすぎない、大衆が過激になることは共産主義への途を掃き清めてくれるだろう、と主張した。
 ヒトラーが政権に就いた後ですら、ドイツ共産党は、一年全部ほどの間、社会主義者を主要な敵だと見なした。
 ドイツ共産党が見方を変えたときまでには、この党はすでに破壊され、無力になっていた。//
 (15)1929年の末までに、ブハーリン(1926年にジノヴィエフを継いで執行委員会議長)の脱落の後には、スターリンは疑いなくボルシェヴィキ党の所有者であり、かつそれを通じて、国際共産主義の所有者だった。
 コミンテルンは独自の意義を全て失い、クレムリンから他諸党に対する指令の連絡管にすぎなくなった。
 コミンテルンの部員はスターリンに忠実な者たちだけで占められ、ソヴィエトの警察に統制された。
 彼らの仕事の中には、ソヴィエト同盟のための諜報員(intelligence agents)を新規に見つけることも含まれていた。
 粛清が繰り返されたあとの全ての諸党は、抗弁することなくモスクワからの変転する指令を受け入れた。その大部分は、ソヴィエトの外交部局が命じたものだった。
 スターリンは諸党に気前よく財政的援助をし、そうして諸党の彼への依存関係はますます増大した。
 コミンテルンは1930年代の半ばまでにたんなる外形だけになっており、外国諸党の服従を維持するという目的のためにすら、もう必要がなかったほどだ。//
 (16)第七回、そして最後のコミンテルン大会はモスクワで1935年7月-8月に開かれ、その後の一年またはそれ以上の期間の予兆となった、ファシズムに対する「人民戦線」という新しい政策方針を宣言した。
 それまで「右翼日和見主義」だと非難されてきたものが、今や公式の方針になった。
 全ての民主主義諸勢力、リベラル派はもちろん必要であれば保守派もだが、とくに社会主義者たちは、ファシストに対抗するために共産党の指導のもとに結集すべきものとされた。
 この政策に転じたスターリンの根拠は、かりにヒトラーがロシアを攻撃した場合にフランスその他の諸国が中立の立場をとる、ということへの恐怖だったかに見える。
 ともかくも、フランスは「人民戦線」方針の主要な対象だった。ドイツでは力のない<エミグレ>集団にだけ適用できるもので、他諸国の各共産党は、事態に影響を与えるには弱体すぎた。
 フランスの人民戦線は、1936年5月の選挙で勝利した。しかし、フランス共産党は、Léon Blum〔レオン・ブルム〕政権に閣僚を出すことを拒否した。
 一般的には、この政策方針は長くは続かず、ほとんど成果を生まなかった。
 その方針は、公式には取り消されなかったけれども、スターリンがナツィ・ドイツとの<友好関係(rapprochement)>を追求すると決定したときに、死文書(dead letter)となった。
 その間に、破壊されて地下に潜っていたドイツ共産党は遅まきながら、全ドイツの統一とポーランド回廊の廃絶というヒトラーのスローガンを採用した。//
 (17)「人民戦線」戦術の真の性格は、スペイン内戦によって明確になった。
 フランコ(Franco)の反乱の数カ月のち、スターリンは、共和国防衛のために干渉することに決めた。
 国際的旅団が編成され、ソヴィエト同盟は、軍事顧問団の他に政治工作員から成る組織を派遣した。そして、この組織は、共和国勢力の中のトロツキー主義者、アナキストおよびあらゆる種類の偏向主義者たちを追放した。
 (18)国際共産主義は、今や完全に「ボルシェヴィキ化」された。そして、いかなる場合でも、非ボルシェヴィキの共産主義の形態は、意味あるものとして継続することをやめた。
 1920年代には、党から追放されたりコミンテルンの方針に抗議して脱退したりした個人や集団は、ときおりは非ソヴィエト的共産主義の運動を組織しようとした。しかし、そうした試みは何も生み出すに至らなかった。
 トロツキー主義者たちは小集団となって無為に暮らし、力もなく世界のプロレタリアートの「国際的良心」に訴えかけた。
 ボルシェヴィキ党の権威と全共産党によって受諾された組織上の諸原理の強さは、1950年代までどの反対派集団も支持または影響力をもち得ないほどのものだった。
 世界の共産主義者たちは、スターリンが定めた道筋に沿って従順に行進した。
 1943年5月のコミンテルンの解散は、ソヴィエトが善意と民主主義的意思をもつことを西側の世論に対して説得するための素振り(gesture)にすぎなかった。
 諸共産党は十分にうまく躾けられ、組織や財政についてソヴィエト同盟に依存していたので、それら諸党を基本方針内に抑え込み続けるための特別の制度はもう必要がなかった。したがって、コミンテルンの解散には、何の意味もなかった。//
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 ③へとつづく。

1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
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 ②へとつづく。

1888/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨⑲。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年)を見ていて、コミンテルンに関する叙述にさしかかり、江崎道朗の上の本のひどさ、「悲惨さ無惨さ」を思い出した。
 重なるがいま一度記しておく。
 江崎道朗は上の本でコミンテルンに論及したつもりで、こう豪語した。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 ああ恥ずかしい。
 江崎道朗はコミンテルン関係文書を英語訳等の原語では見ておらず、ほとんどを網羅しているとみられる、かつ古くから日本に存在する邦語訳の資料集類をいっさい参照していない。
 江崎が使っているのは、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)に<付録>として付いている資料で、以下の4点だけ。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつ第一に、これらは付録にある全19件のうちの4件にすぎず、第二に、個々に見ても付録自体にあるこれら一次資料(邦訳)は全文ですらなく全て「一部抜粋」にすぎない。
 そして、重要なことだが、第一にコミンテルンについてこれらにもとづいてのみ叙述しようとし、かつ第二に、もっぱら邦訳文に依拠していることと本来の「無知」によって、つぎのほぼ致命的なミスを活字にしてしまっている。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある。
 何度でも指摘しておこう。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の違いを理解していなくて、なぜ共産主義、マルクス主義またはマルクス=レーニン主義あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ②「社会愛国主義」=「社会排外主義」というレーニン・ボルシェヴィキらの侮蔑語(とくに第一次大戦、対ロシア戦争に反対しなかったドイツ社会民主党に対する)を知らずして、なぜレーニンら、あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ③ソ連邦=ソヴィエト社会主義共和国連邦がまだ結成されていない時期の文書中の「各ソヴェト共和国」をソ連のことだと理解する<妄想力>を、いったいどうやって身につけたのか。
 なお、のちに(原稿最終提出時に?)複数のごとき「各」が付いていることに気づいたのか、ソ連以外に共産党支配の中国のことも意味する旨も記している。
 この部分は、しっかりした?邦訳資料集の邦訳によるとつぎのとおり。
 共産主義インターナショナルへの加入条件(1920年8月6日)。
 L・コワコフスキは、「21の条件」(Twenty-One Conditions)と略記している(第三分冊、p.107.)。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻(大月書店、1978年)に所収。
 これの、第14条(の第一文)。
 「共産主義インターナショナルに所属することを希望するすべての党は、反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争を全幅的に支持する義務がある。
 江崎道朗によると、1920年の文書にいうここでの「各ソヴェト共和国」とは、1922年結成のソ連邦(および1949年の中華人民共和国)なのだ。しっかりと、「あほ」だろう。
 L・コワコフスキの書物(第三巻p.107)では上の「各ソヴェト共和国」の部分は、直接の引用でなくして、all existing Soviet republics になっている。原文の「条件」では少なくとも(all) Soviet republics が使われているのだろう。
 これを2017年にソ連邦(および1949年の中華人民共和国)と理解する日本人がおり、かつ一冊の本にまで明記するとは、1920年のボルシェヴィキやコミンテルン関係者は誰も想像できなかったに違いない。
 ついでに、上の⑤に触れる。
 L・コワコフスキは粛清と大粛清とを意識的には区別していないようでもあるが、great と「大」を付加している場合は、スターリン時代のそれをもっぱら意味させているようだ。
 なお、「粛清」と秋月瑛二も邦訳していることがほとんどである原英語は、purge (パージ)。いつか触れたが、日本での「レッド・パージ」は「赤」に対する「殺害・殺戮」を意味したわけではない。
 この点、シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitspatrick)・ロシア革命(2017年)は言葉遣いにより厳しく、一般的な「粛清」はpurge、スターリン時代のそれはPurge と、小文字と大文字で使い分けている。
 なぜなら、レーニン時代の共産党・ボルシェヴィキ内の「粛清」(purge)は殺害・殺戮の意味を実質的にも持たず、革命後に急速に数が増大した共産党員のうち適性・資格を欠く者の<定期的検査による除名>をほぼ意味したからだ。
 時代の変化を敏感に読み取った出世主義?の者たちの大量入党者の中には、「社会主義革命」とか「プロレタリアート独裁」等の意味を全く知らなかった者もいたに違いなく、又出身階層も(農村から都市への移住者はまだマシだが)原・元の「プロレタリアート」であるのか疑わしい者もいたに違いなく、レーニンらは資格・適性の<再検討・再審査>が必要だと判断したと見える。
 よって、この初期の「粛清」は殺害・殺戮の意味を帯びてはいない。
 なお、L・コワコフスキ著のドイツ語訳書の「粛清」は、Säuberung
 これは「浄化」にも近く、「粛清」という訳語でも誤りではない。
 もともとのロシア語は、cleansing の意味だとどこかに誰かが書いていた(S・Fitspatrick だったかもしれない)。
 これは要するに「清潔にすること」、「清浄化」、「浄化」で、独語のSäuberung とたぶんほとんど同じ。
 但し、英語の purge には、「追放」とか「迫害」の意味もある可能性がある。
 これくらいにするが、いずれにせよ、江崎道朗には、「粛清」という言葉・概念の意味についてしっかりと吟味する姿勢自体が存在しないと推定される。
 この点は、しかし、まだマシだ。
 上の①~③はひどい。決定的に、悲惨で無惨。
 これでよく、「コミンテルン」を表題の重要な要素にする書物を刊行できたものだ。
 なお立ち入っていないが、日本の明治以降の江崎道朗の叙述もひどいものがある。
 最終的には、聖徳太子の一七条の憲法-五箇条のご誓文-大日本帝国憲法を、何の論拠も示さず、いかなる詳しいまたは厳密な概念定義を示すことなく、「保守自由主義」なるもので結合させる(7世紀~19世紀!)という単純さと乱暴さ。
 江崎道朗。月刊正論(産経)の毎号執筆者であり続けている。
 月刊正論編集部も、天下の?産経新聞社も、<恥ずかしい>とは感じないのだろうか。
 この程度の人が、何と新書一冊を出版できる、という現在の日本の<惨憺たる>知的世界、<あまりのユルさ>にも唖然とした、江崎道朗・上掲書だった。

1887/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.101-p.105、2004年合冊版p.868-p.871。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)③。
 (20)スターリンが解説する弁証法的および歴史的唯物論は、プレハノフ、レーニンおよびブハーリンに従ったマルクス主義の、陳腐で図式的な版型だ。すなわち、弁証法は現実の全側面を支配する普遍的「諸法則」を示すもので、人間の歴史はこの諸法則を適用した特殊な場合だと、広大無辺にかつ野心的に主張する哲学。
 この哲学は、天文学と同じ態様で自らを「科学的」だと主張し、社会過程は他のものと同様に「客観的」で、予見可能だと宣言する。
 この点で、ルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が再構築したマルクス主義の見地とは根本的に異なる。これによれば、プロレタリアの意識の特定の場合に、社会過程とその過程の知覚は同一のものになり、社会に関する知識は社会を変える革命的実践と合致する。 
スターリンは、一般的な自然主義(naturalism)を採用した。それは第二インターナショナルのマルクス主義者たちに支配的だったもので、そこには「理論と実践の統一」という特有のマルクス主義的見方が入り込む余地はなかった。
 確かにこの定式は承認されていて、スターリンや随行哲学者たちががあらゆる機会に強調したものだった。
 しかし、その持つ意味は実際には、実践が理論に優越する、理論は実践の補助的なものだ、という主張へと変質していた。
 この考え方に沿って、学者たちに対して-とくに1930年代初めの科学アカデミーのイデオロギー的再建の後で-、工業にとって直接の利益になり得る分野に研究を限定すべきだという圧力が加えられた。
 この圧力は、全ての自然科学に、緩和されてだが数学に対してすら、適用された。
 (数学は、マルクス主義に関する博識の高僧たちでも理解するふりをしなかったので、ソヴィエト同盟で、イデオロギー的な監視がほとんどなかった。その結果として標準は維持され、ソヴィエト数学は時代による破壊から救われた。)
 「理論と実践の統一」は、もちろん人文科学にも適用された。だが、少しばかりは異なる意味でだった。
 大まかに言って、自然科学は工業へと、人文科学は党の宣伝活動へと繋がれていた。
 歴史、哲学および文学史や芸術史は、「党と国家に奉仕する」ものだと、換言すれば党の主張を守り、そのときどきの決定に理論的な支援を提供するものだと、想定された。//
 (21)自然科学は直接の技術的有用性がある研究分野に限定すべきとの要求は重要な分野についてはきわめて強く、その結果としてすみやかに、自然科学は技術へと落ち込んだ。
 しかしながら、より致命的ですらあったのは、科学研究の現実的成果をマルクス主義的「適正さ(correctness)」の名前のもとにイデオロギー的に統制しようとする試みだった。
 「観念主義」の相対性理論は、1930年代には、哲学者たちやA. A. Maksimovが率いる未熟な物理学者たちからの砲火を浴びた。
 同じ時期にはTrofim D. Lysenko(ルィセンコ)が登場した。この人物の役割は、マルクス=レーニン主義に従ってソヴィエトの生物学を革命化し、Mendel やT. H. Morgan の「ブルジョア」理論を破壊することだった。
 農学者のLysenko は、様々の植物栽培技術を探求し、経歴の初期に、それらから普遍的なマルクス主義の遺伝学理論を発展させようと決意した。
 彼は、助手のI. I. Prezent とともに1935年の後に、現代遺伝学理論を攻撃し、遺伝による影響は環境を適切に変化させることによってほとんど完全に排除することができる、と主張した。遺伝子なるものは、遺伝子型と表現型(phenotype)の区別と同様に、ブルジョア的考案物だ。
 「遺伝は永続的な実体をもつ」ことを否定し、生きている有機体を環境の変化によって望むとおりにまで変化させることができる、という主張がマルクス=レーニン主義(「全てのものは変化する」)と合致する、と党指導者たちやスターリン自身が納得するのは困難なことではなかった。また、人間は、とりわけ「ソヴィエト人間」は、その心に思い浮かべたように自然を変化させることができる、とするイデオロギーにそれが見事に適合している、ということについても。
 Lysenko は急速に党の支持を獲得し、研究所、研究者そして諸雑誌等々に対する影響を大きくした。そして、我々が知るだろうように、彼の革命的理論は1948年に完全な勝利をかち得た。
 党の宣伝はおよそ1935年以降から絶えず彼の発見を褒め称え、その実験には科学的な価値がないと反対していた者たちは、まもなく沈黙へと追い込まれた。
 新しい理論を支持するのを拒んでいた優れた遺伝学者のNicholay I. Vavilov は、1940年に逮捕され、Kolyma の強制収容所で死んだ。
 予期され得たことだが、たいていのソヴィエト哲学者たちは、Lysenko の見解に喝采を送る一群に加わった。//
 (22)今日では、Lysenko は無学で、山師だったということを誰も疑っていない。また、彼の経歴は、科学や文化の点だけではなくて経済や行政の分野でもソヴィエトのシステムがいかに機能していたかを教示してくれるよい例だ、ということも。
 後年にはより明確になった自己破壊的な特質が、すでに見えていた。
 党が全ての生活領域で無制限の権限を行使し、システム全体が指令の一方方向の連鎖をもって階層的に組織されていたことからして、どの個人の経歴も、権力に対する従順さや追従や弾劾をする技巧の熟達ぶりに依存することになる。
  他方では、主導性、自分自身の心性、あるいは真実に対する最小限度の敬意すらを示すことは、致命的だ。
 当局者たちの主要な目標がその権力を維持し、増大させることにあるとき、科学(とくにイデオロギー的に統制されている場合)についても経済管理についても、間違った人々が頂上へと進むだろうことは不可避だ。
 非効率性と無駄は、ソヴィエト体制の中に組み込まれている特徴だ。
 政治および「保安」を理由とする不適切で全体的な情報流通の制限の増大によって、経済発展は妨害される。
 経済を合理化しようとする後年の試みはある程度は成功したが、それは全体主義原理から、あるいはスターリニズムの体制が完成にまで至らしめていた「統一」という理想から、離れたかぎりでのみのことだった。//
 (23)1930年代のソヴィエト文化のもう一つの特質は、ロシア民族主義の成長だった。
 これはのちに頂点に到達した現象でもあるが、スターリンの演説が社会主義が生むことができかつ生まなけれならない「強いロシア」に関する言葉を述べ始めた、1930年代の初めにはすでに感知することができた。
 愛国的主題は次第に宣伝活動で強調されはじめ、ソヴィエトの愛国主義とロシアのそれとが同時に大きくなった。
 ロシアの歴史の栄光が、民族的誇りや自助努力への訴えの中に再生された。
 ウズベク人(the Uzbeks)のような、以前はアラビア文字で彼らの言語を記していて、ソヴィエト当局によってラテン・アルファベツトを与えられた諸民族は、今や、キリル(Cyrillic)の形式を採用するように強いられた。その結果として、同じ世代の者たちが三種類のアルファベットを使うようになった。
 ソヴィエト同盟の中の非ロシア共和国で権力を行使する「民族の幹部たち(cadres)」という考え方は、すぐに作り話(fiction)であることが分かった。すなわち、理論的にではないが実際には、党や国家行政の最高部の職(posts)は、通常はモスクワが任命したロシア人によって占められた。
 国家権力のイデオロギーは、徐々にロシア帝国主義のそれと区別できないものになった。//
 (24)ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義は、きわめて早く、政策を決定する自立した要素ではなくなった。
 必然的に、その内容は内政または外交問題に関する特定の動向を正当化するために、曖昧で一般的なものにならなければならなかった。NEP(ネップ)または集団化、ヒトラーとの友好または彼との戦争、内部体制のあれこれの厳格化または緩和、等々。
 そして実際に、理論は「一方で」上部構造は土台の産物かつ道具だとし、「他方で」上部構造は土台に影響を与えるとするがゆえに、経済を規制する、あるいは文化を多かれ少なかれ統制する、全ての考えられ得る政府の政策は、マルクス主義と合致した。
 「一方で」個人は歴史を作らず、「他方で」歴史的必然性を理解する例外的な個人は歴史に重要な役割を果たすとのだとすれば(そしていずれの見方もマルクスやエンゲルスの引用によって支持され得るのだとすれば)、社会主義の専制者に聖なる栄誉を与えることも、その実践を「逸脱」だと非難することも、いずれも同等にマルクス主義に合致している。
 「一方で」全ての民族は自己決定の権利をもち、「他方で」世界社会主義革命の根本教条が至高の理念だとすれば、柔和であれ厳格であれ、帝国に住む非ロシア人民衆の民族的願望を挫折させる目的の政策は、疑いなくマルクス主義的だ。
 このようなことは実際、スターリンのマルクス主義の両義的な基礎であり、その曖昧で矛盾する様相は、「弁証法」原理に似たようなものだった。
 かかる観点からすると、公式のソヴィエト・マルクス主義の機能と内容はいずれも、スターリンの死後も同じままだった。
 マルクス主義は、たんにロシア帝国の現実政策(Realpolitik)を理論的に粉飾するにすぎないものになった。//
 (25)こうした変化の理由は、きわめて単純だった。つまり、ソヴィエト同盟はその定義上人間の進歩の基地であるがゆえに、ソヴィエトの利益に奉仕するものは何であれ進歩的であり、そうでないものは反動的なのだ。
 歴史上のその他の大国と同様に帝制ロシアは、その対抗国を弱体化させるために少数民族の民衆の願望を支援した。ソヴィエト同盟もまた、最初からそうした政策を追求した。しかし、異なる口実(guise)によってだった。
 「封建的な」民族長老(sheikh)やアジアの皇子ですら、スターリンによれば、帝国主義の前線を掘り崩すかぎりでは、「客観的に」進歩的な役割を果たした。
 これは完全に、世界革命に関するレーニンの理論と合致していた。レーニンの理論は、非社会主義者、非プロレタリアートおよびマルクス主義の用語では「反動的」勢力のですら、それらの参加を是認し、また要求しすらするものだった。
 弁証法の見地からは、世界の別の大国の利益に敵対的であるならば、反動的な者たちの活動はただちに進歩的なものになる。
 同じく、ソヴィエト同盟はその定義上世界的解放運動の中心者なので、1917年以降は、つぎのことは自明のことになった。すなわち、外国の領域の一部への武装侵入(incursion)やその占領は全て、侵略(invasion)ではなく、解放する行為だ。
 こうしてマルクス主義は、帝国主義者がもつ道具として、帝制ロシアが異民族を支配するのを正当化しようとした不器用でかつ滑稽ですらある基本的考え方よりもはるかに有用な論拠の目録を、ソヴィエト国家に提供した。//
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 ③終わり。かつ、第2節も終わり。第3節の表題は「コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー的変容」。 
 

1886/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.94-p.101、2004年合冊版p.863-p.868。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)②。
 (7)<小教程>は、レーニン・スターリン崇拝と結びついたボルシェヴィキの神話の全てのパターンを確立したのみならず、儀式や式典の詳細をも定めた。
 これが発行されたときから、この書物が扱う主題のどの部分にではあれ接触する作家、歴史家および宣伝家たちは、経典化した全ての定式に従い、全ての重要な語句を反復するように強いられた。
 <小教程>は、歴史を捏造した書物であるのみならず、一つの強力な社会的装置だった。-マインド・コントロールをするための党の最も重要な手段、批判的思考および自分たちの過去に関する社会的記憶のいずれをも破壊する道具、の一つだった。//
 (8)この書物は、こうした観点からは、スターリンが生んだ全体主義国家のまさに一部だ。
 システムを完成させて市民社会を無きものにするためには、国家が統制しないで何らかの脅威を形成する可能性のある、生活の全形態を根絶する必要があった。
 また、自立した思考と記憶を破壊するための道具を考案する必要もあった。-きわめて困難だが、重要な課題だった。
 全体主義的システムは、恒常的に歴史を書き換えることなくして、そして過去の事件、人々や思想を排除してそれらの代わりに偽りのもので補填することなくしては、生き延びていくことができない。
 ソヴィエト・イデオロギーの趣旨からすると、粛清の犠牲となった特定の指導者がかつては党に対する本当の奉仕者だったがのちに栄誉を失った、と述べることはおよそ考えられない。最終的に裏切り者だと宣告された者は全て、最初から裏切り者でなければならなかった。
 裏切り者との烙印を捺されることなくたんに殺戮された者たちは名無し人(unpersons)となり、二度と彼らについて語られることはなかった。
 ソヴィエトの読者たちは、まだ販売されているが編集者や翻訳者の氏名が注意深く抹消された多数の版この書物を見るのに慣れてしまった。
 しかしながら、かりに執筆者自身が裏切り者であれば、この書物は完全に流通しなくなって消失し、数部だけが図書館の「禁書」部分に残されただろう。
 この書物の内容が申し分なくスターリニストのそれだったとかりにしてすら、同じだった。すなわち、全ての呪術思考でのように、いかなる態様であっても邪悪な精神と結びついている対象は永遠に堕落したままなのであり、記憶から除去され、抹殺されなければならなかった。
 ソヴィエト国民は、式典による呪詛に包含するために、<小教程>が言及している数少ない裏切り者の存在を思い出すことが許された。しかし、悪魔の仲間の残り者たちは忘れ去られることが想定されており、かつどの国民も、あえて彼らの名前を語ろうとはしなかった。
 古い新聞や雑誌は、裏切り者の写真や彼らが書いた論文が掲載されていると分かると、一夜にして不浄なものになった。
 過去だけが継続的に修正されたのではなく、-スターリニズムの重要な特質だが-一方ではそのことおよび修正がなされる全く単純な方法に気づいており、他方ではそれに関しては悲惨な処罰を受けるので何も語らない、のいずれもが、国民の全てについて想定されていた。
 ソヴィエト同盟には、この種の偽りの秘密(pseudo-secret)が他にも多数存在した。すなわち、国民大衆はそれに関して知っても決して言及しようとはしない諸事項が。
 労働強制収容所については、新聞では決して言及されなかった。しかし、市民が収容所に関して知っておかなければならないのは、不文の法だった。そのような事物を何とかしてでも秘密にし続けることはできない、という理由のみによるのではない。すなわち、そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつも、ソヴィエトの生活にある一定の事実に気づいていることを、政府は人々に望んでいる、という理由によってだ。
 システムの目的は、人々に二重(dual)の意識を作り出すことだった。
公衆の会合で、あるいは私的な会話ですら、市民たちは、儀礼的な様式で自分たち自身、世界およびソヴィエト同盟に関する醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ、同時に、十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた。テロルに遭っているからのみではなく、市民たちが党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって-ウソだと知りながら-そのウソについて党と国家の共犯者運動の共犯者になったからだ。
 体制側の意図は、提示される馬鹿々々しさを文字どおりに信じるべきだ、というのではなかった。そうしたり現実を完全に忘れるにはきわめて繊細(naïve)な問題であれば、彼らの良心と<向かい合う>愚かな状態になり、共産主義イデオロギーをを本来的に妥当なものと受け入れる傾向になるだろう。
  しかしながら、完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になるだろう。
 (スターリンは、レーニンのように、彼自身はマルクス主義に何も「付け加えて」おらず、ただ発展させただけだ、と注意深く強調した。)
 党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する。一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている。
 市民はかくして、「信じることなくして信じる」ことをしなければならなかった。そして、党が党員たちの中に、また可能なかぎりで全民衆の中に、作り出して維持しようとしているのは、まさにこのような心理(mind)の状態だった。
 生活必需品を欠く半ば飢えている人々は、集会に参加し、いかに富裕であるかについて政府のウソを繰り返して言った。そして考え難いことに、その人々は自分たちが言っていることを半分は信じていた。
 彼らはみな、何と言うのが「正しい」のか、つまり何と言うことが彼らに要求されているかを知っていた。そして、奇妙なことだが、彼らは真実と「正しさ」とを混同していた。
 真実は党が問題にすることだ、と彼らは知ってた。そのゆえに、ウソが経験上の単純な事実と矛盾しているとしても、ウソが真実になった。
 このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった。//
 (9)<小教程>は、虚偽の歴史と二重思考の完全な手引き書だった。
 それがもつ虚偽と隠蔽はあまりに明白すぎて、問題のある事象を目撃していた読者たちが看過したほどのものだった。最も若い党員たち以外の全てが、トロツキーとは誰か、ロシアの集団化はいかにして生じたかを知っていた。しかし、彼らは、公式の見解をオウムのごとく繰り返すことを余儀なくされて、新しい過去の共作者になり、党が作った真実の信奉者になった。
 かりに誰かが明白な経験的事実にもとづいてこの真実を攻撃したとすれば、忠誠者たちの憤激は完璧に嘘偽りのないものだった。
 スターリニズムはこうして、実際に「新しいソヴィエト人間」を生み出した。
 すなわち、イデオロギー上の統合失調症患者、自分が言ったことを信じるウソつき、知的な自傷行為を絶えずかつ自発的に行うことのできる人間。//
 (10)すでに述べたように、<小教程>は弁証法的および歴史的唯物論の新しい提示を含んでいた。-全世代の者にとっての、完全なマルクス主義教理書。
 スターリンのこの作業は、例えばブハーリンの手引き書にも見られ得る簡潔なマルクス主義の説明に、何かを付け加えるものでは実際にはなかった。しかし、全てに番号を振り、体系的に説明する、という長所があった。その書物の他部分と同じく、マルクス主義の提示(exposé)は説教をする目的をもち、理解し記憶するのが容易だった。//
 (11)弁証法的唯物論、マルクス主義哲学は二つの要素、すなわち世界の唯物論的見方および弁証法的方法、から成る、から文節は始まる。
 後者は四つの原理的特質をもつ法則に区別される。
 第一に、全ての現象は相互に連関し合っており、全世界は全体として考究されなければならない。
 第二に、自然にある全ての事物は変化、運動および発展の状態にある。
 第三に、現実の全ての分野で、変化は量的蓄積から生じる。
 第四に、「統合と反対物の闘い」の法則は、全ての自然現象は内部矛盾を具現化したもので、発展の「内容」はその諸矛盾の対立だ、というものだ。
 全ての現象に積極的および消極的側面が、過去と未来があり、闘いは新しいものと古いものとの対立の形態をとる。//
 (12)気づかれるだろうが、この説明は、レーニンが<哲学草稿>で述べたような、エンゲルスの「否定の否定」を含んでいない。
 これを省略している理由は、説明されていない。しかし、いずれにせよ、弁証法はこののちは四つの法則から構成されるのであり、それ以上からではない。
 弁証法の反対物は「形而上学」だ。
 形而上学者はブルジョア哲学者や学者で、当該の諸法則のうちの一つかそれ以上を否定する。そうして彼らは、現象を分離して、つまり相互関係においてではなく、判断することを要求し、何ものも発展しないと主張する。彼らは、質的な変化が量的変化から生じることを理解せず、内部矛盾という考え方を拒否する。//
 (13)自然の唯物論的解釈は、三つの原理を含む。
 第一に、世界はその性質上物質的で、全ての現象は動いている事物の形態だ。
 第二に、事物または存在は我々の精神(mind)の外側に自立して存在する「客観的な現実」だ。
 第三に、世界の全てのものは、知り得る(=可知、knowable)。//
 (14)歴史的唯物論は、弁証法的唯物論の論理的帰結だとして提示される。これを支える見解は、エンゲルス、プレハノフおよびブハーリンのいくつかの叙述に見出すことができる。
 「物質的世界が一次的で、精神は二次的なものである」ため、「社会の物質的生活」、つまり生産と生産諸関係も一次的で、「客観的な現実」だ。一方、社会の精神的(spritual)生活はそれの二次的「反射」だ。
 こうした推論の論理的根拠は、説明されていない。
 スターリンはその際にマルクスの諸定式を引用する。土台と上部構造、階級と階級闘争、イデオロギー(および上部構造の他の全諸形態)の生産諸関係への依存性、社会的変化の理由を地勢や人口動態に求めることの誤り、歴史は一次的には技術発展に依存すること、に関するマルクスの諸定式だ。
 そして、五つの主要な社会経済体制に関する説明がつづく。すなわち、原始共産制、奴隷所有制、封建制、資本主義、社会主義。
 これらが次々と発生する順序は歴史的に不可避のものだ、と叙述される。
 マルクスの言う「アジア的生産様式」に関しては、何も語られていない。
 考えられるその理由は、別の箇所で論述した(第一巻第一四章、pp.350-1)。//
 (15)社会の五つの類型の列挙とその世界各国への適用は、ソヴィエトの歴史研究者に大きな問題を与えた。
 そのような現象をかつて聞いたことがない人々にとって、奴隷社会や封建社会の存在を識別するのは容易なことではなかった。
 さらに、資本主義がブルジョア革命によって生まれ、社会主義は社会主義革命によって生まれたので、従前の移行も同様の方法で発生した、と想定するのは当然だった。
 スターリンは実際、封建制は奴隷所有制から奴隷革命(slave revolution)の結果として出現した、と書いた(または「証明した」。ソヴィエト哲学では、マルクス=レーニン主義の古典に関係する場合にはこれらの二つの言葉は同じことを意味した)。
 スターリンは、実際に1933年2月19日の演説で、同じ点を指摘した。すなわち、奴隷所有制は奴隷革命によって打倒された。その結果として、封建領主たちがかつての搾取者の地位を奪った。
 これは歴史研究者たちに、奴隷所有制から封建制への移行の全ての場合について「奴隷革命」の存在を識別しなければならないという問題を追加した。//
 (16)スターリンの作業はイデオロギストたちの、マルクス主義理論の至高の達成物で哲学史を画するものだ、との大合唱によって歓迎された。
 つづく15年間、ソヴィエト哲学は、この至高の功績の主題に関してはほとんど全く変わりがなかった。
 全ての哲学の論考や参考書は、義務のごとく弁証法の四つの「標識」と唯物論の三つの原理を列挙した。
 哲学者たちには、異なる現象は相互に関連していること(スターリンの第一法則)、あるいは事物は変化すること(第二法則)等々を示す例を見つける(各法則を証明する)こと以外にすることがなくなった。
 こうして、哲学は、最高指導者に対して絶えざる阿諛追従をする媒体の地位へと身を落とした。
誰もが、精確に同じ文体で執筆した。彼らの仕事の形式や内容でもって誰がしているかを区別することはできなかった。
 自立して思考しようとする試みはなく、眠気が生じる決まり文句が際限なく繰り返された。自立した思考は、いかに臆病で媚びたものであっても、その著者を直接的な攻撃の対象にさせただろう。
 哲学に関して自分自身の何かを語ることは、スターリンは重要な何かを省略したと追及していることをすでに意味しただろう。
 自分の様式で執筆することは、スターリンよりもうまく何かを表現することができると示唆することであって、危険な図々しさを示すことだった。
 こうして、ソヴィエトの哲学上の文献は、<小教程>第四章第二節の内容を薄めて再生産する無駄紙の山で成り立つようになった。
これと比較すれば、「弁証法論者」と「機械主義者」のかつての論争は、大胆かつ生産的な、そして自立した思考の一つの例だった。
 哲学史は、ほとんど忘れられた科目になった。
 1930年代には、哲学の古典の翻訳書がなおいくつか出版されていた。しかし、それらの著者は良くも悪くも「唯物論者」だと区分けされるものか、宗教に反対する者だった。ソヴィエトの読者はときにはHolbach やVoltaire の反聖職者本を、あるいは幸運であれば、Bacon やSpinozaの何かを、見たかもしれなかった。
 ヘーゲルの書物も、彼は「弁証法」的執筆者の聖人の一人だったので、まだ出版されていた。
 しかし、およそ40年の間、他の危険な観念論者は言わずもがな、プラトン(Plato)が読まれる機会は存在しなかった。
 職業的哲学者たちは、「マルクス=レーニン主義の古典」、すなわちマルクス、エンゲルス、レーニンそしてスターリンのみを引用した。もちろん、全員が揃って言及されるときにはこの年代的な順序が守られたが、引用の頻度の点でいうと、順序はまさに正反対だった。//
 (17)<小教程>の刊行が生んだイデオロギー状況は、最終的な完璧さの一つだった、と見えるかもしれなかった。
 しかし、戦後には、いっそうの改良がさらになされることになった。//
 (18)スターリンによって成文化されたマルクス主義は何らかの基本的な点でレーニン主義とは異なる、と考えてはならない。
 そのマルクス主義は単調な、初歩的な範型であって、新しい何かをほとんど含んでいなかった。
 1950年以前のスターリンの著作のいくつかに見出し得る独自的なものは、じつに、二つの例外を除いて、ほとんど何もない。。
 第一に、我々が輸入元をすでに考察した、社会主義は一国で建設することができる、ということ。
 第二に、階級闘争は社会主義の建設が前進するにつれて激しくならなければならない、ということ。
 この原理的考え方は、スターリンがソヴィエト同盟にはもはや敵対階級は存在しないと宣言した後でも、公式には有効なままだった。-もはや階級はない、だが階級闘争はかつて以上に深刻になっている。
 1933年1月12日の中央委員会幹部会でスターリンが始めて発表したもののように思われる第三の原理的考え方は、共産主義のもとで国家が「消滅する」前に、弁証法的理由によって国家はようやく最大限の力強さの頂点へと発展するにちがいない、というものだった。
 しかし、この考え方は、トロツキーが内戦の間にすでに定式化していた。
 いずれにせよ、第二および第三は、警察テロルのシステムを正当化すること以外には、意味をもたなかった。//
 (19)しかしながら、つぎのことを再び強調しておかなければならない。すなわち、スターリンのイデオロギーに関して重要なのはその内容ではなく-聖典的な形態で表明されたとしてすら-、イデオロギー上の問題について異論を挟むことのできないと誰もが判断する、至高の権威をもった、という事実だ。
 イデオロギーは、かくして、完全に制度となり、事実上は全ての知的生活がそれに従属した。
 「理論と実践の統一」は、教理、政治および警察の権威のスターリン個人への集中によって表現された。//
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 ③へとつづく。

1885/池田信夫ブログ-主として2018年11月から。

 池田信夫のブログのうち、日々の話題に関するコメント類も興味深いが、とくに急いで掲載する必要はないように見える、ヒト・人間の「進化」や「本性」、これらを「歴史」と関連づけるような主題の叙述も面白い。
 と言って文献紹介が主で詳細に論じられているわけでもないが、適度に思考を刺激してくれる。近時にこんなテーマを書き続けることのできる、もともとは「文科系・経済学」出身の人物は稀有だろう。
 前回に触れて以降、以下のようなものがあった。
 ①2018/11/01「江戸時代化する日本」ブログマガジン11/05。
 ②2018/11/04「言語はなぜ進化したのか」同11/05。
 ③2018/11/08「文化の進化をもたらした『長期記憶』」同11/12。
 ④2018/11/10「人類は石器時代から戦争に明け暮れてきた」同11/12。
 ⑤2018/11/14「新石器革命は『宗教革命』だった」同11/19。
 ⑥2018/11/17「文化は暇つぶしから生まれた」同11/19。
 ⑦2018/11/23「猿や動物にも『公平』の感情がある」同11/26。
 ⑧2018/11/26「感情にも普遍的な合理性がある」同12/03。
 ⑧2019/11/29「退屈の小さな哲学」同12/03。 
 ⑨2018/12/01「人はなぜ強欲資本主義を嫌うのか」同12/03。
 いちいちの感想、湧いた発想等はキリがないので省略する。
 いくつか、感じた、少しばかりは思考したことがある。
 個人と「共同体」または「集団」の関係。
 もともとはヒト・個人の一個体としての生存本能最優先で、その一個体の生存本能が充たされる、または守られるかぎりで、「集団」や「共同体」に帰属する、帰属してきた、あるいは、これらを個体のための必要に迫られて、作ってきた、というイメージを持ってきた。
 これは憲法学等の法学がいう<近代的な合理的人間(個人=自然人)>というイメージと合致するもので、経済学的な<自己の利益を最大化しようとする合理的個人>という近代資本主義の人間像とおそらく重なるところがあるだろう。
 そしてまた、「個人の尊重」(日本国憲法13条)や「人間の尊厳」(ドイツ憲法1条)も、それだけがあまりに強調されるのは困るが、理念としてのそれはかなり普遍的なものではないかとも考えてきた。ヒト・人間・一個体の究極的本性とも合致しているのだから。
 しかし、池田の叙述には、これを動揺させるものがある。
 ヒトはもともと「集団」帰属本能を有している、「他集団」と闘って「自集団」が勝たないと生きていけない(いちいち元の文章は探さない)、といった記述だ。
 そうすると、上の「合理的人間」イメージも、近代以降に限定された、歴史的制約をもつことになるだろう。
 樋口陽一(憲法学、元東京大学)は1989年(ソ連解体の前々年)に「個人主義」の大切さを説きつつ、つぎのようにまで主張した(同・自由と国家(岩波新書、1989))。
 「1989年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」。
 <ルソー=ジャコバン型個人主義>を称揚するという点で社会主義・共産主義に親近的な「個人」主義、つまり日本はまだ「真の個人主義」を確立していない、日本人は「真の個人」を経験していないという近代西欧に比べて日本は…、という「左翼的」論じ方には反発を覚えた。
 だが、池田信夫の示唆をふまえると、そうした点をさらに超えて、樋口陽一が井上ひさしとの対談本で、日本国憲法で一番大切なのは13条の「個人の尊重」です、などと説くこと自体が、そもそもヒト・人間の本性・本質に迫っているのか、という大きな疑問が出てくるだろう。
 ついでに余計なことを書くと、日本の(欧米のも?)憲法学者たちは、個人の「内心の自由」こそが基底的な個人の「自由」であって侵犯されてはならないと、しばしば説く。教科書類にそう書かれているかもしれない。
 しかし、そういう憲法学者やそうしたことを論じる最高裁を含む裁判所の裁判官や法曹たちは、そもそも個人・人間の「内心の自由」なるものはいかにして形成されるのか、を思考しているのか、思考したことがあるのだろうか、という感想を持ってきた。
 ヒト・個人に「内在的に」、つまりその個人の精神または「頭脳」の中に「内心」なるものが存在する、ということを前提としているが、「内心」が生まれつきで存在しているわけはないだろう、生後の環境・教育等々々によって形成されていくものであって、そのことを無視した議論は空論または観念論・「建前」論だろう、と感じてきた。
 もう一点だけ触れると、池田信夫の説明等ではなお、(生物として継承される)生物的遺伝子と社会的遺伝子の区別はいま一つまだ分からない。そもそも「進化生物学」なるものを知らないからだが、後者が形成するのは宗教・国家等々と語られて「社会的に」継承されると言われても、いま一つよく分からない。
 広義の文化、宗教等が国家・民族等々によって異なるのは当たり前のことだ。国家・地域・民族等々ごとに異なる文化が形成されていて、ヒト・人間は生まれ落ちた後でそうしたものに無意識であれ影響を受けていく、という程度のことであれば、しごく当然のことで社会的遺伝子・ミームという言葉を使う必要もないとすら感じられる。
 「集団帰属」感情あるいは「不平等に反発する」感情が生物的遺伝子の中に組み込まれているのかどうか、という問題であるとすると、きわめて興味深い。ヒト・人間の本性・本質にかかわる問題だ。もっとも、「生物的」・「社会的」の区別自体の意味を私が理解していない可能性もある。

1884/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.91-p.94、2004年合冊版p.860-p.863。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)①。
 (1)ソヴィエト同盟の文化諸分野は1930年代に厳しく統制され、自立した知的生活は、実際上は存在しなくなった。
 純文学(Belles-lettres)は徐々にだが効果的に、体制と指導者を称賛して「階級敵」の仮面を剥ぐことを唯一の目的とする、政治と虚偽宣伝の付属物になっていった。
 スターリンは1932年にGorky の家で作家グループと話しているとき、著作者たちは一般に「人間の精神(souls)に関する技術者」だと述べた。そして当然に、この追従的な言葉遣いは、公式の決まり文句になった。
 映画や演劇も、同じように見なされた。後者の方が被害は少なかったけれども。
 伝統的な戯曲の演目は、たいていは古典的ロシア劇作家である作者が「進歩的」であるか「部分的に進歩的」であると表現できる場合にのみ、上演することが許された。この中には、Gogol、Ostrovsky、Saltykov-Shchedrin、TolstoyおよびChekhov が含まれていた。そして、最悪の年代にすら、優れた上演作品はロシアの舞台で観ることができた。
 小説家、詩人および映画監督たちは、Byzantine で、スターリンの称賛を互いに競い合った。これが頂点に達したのは戦後だったが、いま我々が考察している時代にすでに高い程度に至っていた。//
 (2)しかしながら、抑圧と統制は、異なる程度で異なる知的分野に影響を与えた。
 1930年代には、科学の一定の分野で、とくに理論物理学と遺伝学で、マルクス主義を志向する大きな趨勢があった。しかし、1940年代遅くまでには頂点に達しなかった。
 しかしながら、とくにイデオロギーの観点からは微妙(sensitive)な他の分野、すなわち哲学、社会理論および歴史-とりわけ党の歴史と近現代一般の歴史-のような分野は、1930年代にたんに拘束着を身につけさせられた(straight-jacketed)ばかりではなく、スターリンの用語法で完全に成文化(codify)された。//
 (3)ソヴィエトの歴史編纂が屈服した重要な段階は、スターリンが1931年に雑誌<プロレタリア革命>に寄せた書簡によって画された。その手紙は、編集部による適切な自己批判とともに掲載されていた。
 スターリンの書簡は、1914年以前のボルシェヴィキとドイツ社会民主党の関係に関するSlutsky の論考を掲載したとして編集部を叱責した。その論考は、第二インターナショナルでの「中央主義」と日和見主義の危険性を正しく評価することができなかったとして、レーニンを批判していた。
 スターリンはまず、レーニンは何かを「正しく評価することのできなかった」、つまりレーニンはかつて謬りを冒したと示唆する「赤いリベラリズム」だと雑誌を厳しく咎めた。そのあとで彼は、のちに経典的文章となった第二インターナショナルの完全な歴史を概述した。
 スターリンの主要な関心は、非ボルシェヴィキの左翼とトロツキーにあった。
 スターリンによれば、社会主義的左翼は日和見主義との闘いである程度の貢献はしたが、重大な過ちも冒した。
 Rosa Luxenburg とParvus は、例えば党規約に関する党の論争でしばしばメンシェヴィキの側に立った。そして1905年には、「永続革命という準メンシェヴィキ的図式」を案出した。その図式はのちにトロツキーが採用し、その致命的な誤りはプロレタリアートと農民間の同盟という考えを拒否したことだった。
 トロツキー主義について言えば、それは共産主義運動の一部ではとっくになくなっており、「反革命的ブルジョアジーの先鋭的特殊部隊」になっていた。
 戦争前のレーニンはブルジョア民主主義革命が社会主義革命へと不可避的に発展することを理解していなかった、レーニンはのちにトロツキーからその考え方を拾い上げた、というのは、奇怪なウソだ。
 スターリンの書簡(英語版全集第13巻、1955年、pp.86ff.)は、ソヴィエトの歴史編纂の仕方を最終的に決定した。すなわち、レーニンはつねに正しかった(right)。ボルシェヴィキ党は、敵が組織内にしのび込んで組織を正しい道から逸らそうとして失敗したときでも、つねに無謬だった。
 社会主義運動での全ての非ボルシェヴィキの集団は、つねに裏切りの温床であり、せいぜいのところ有害な過ちの培養地だった。//
 (4)こうした判断はRosa Luxenburg の歴史的評価を封印し、決定的にトロツキーに関する処理をつけた。
 しかしながらさらに、歴史、哲学および社会科学の全ての諸問題が、最終的に解決済みのものとされた。
 これを行ったのは、匿名の委員会が編集した1938年の<ソヴィエト同盟共産党の歴史・小教程(Short Cource)>だった。スターリンは当時、党の世界観に関して是認される範型を叙述する、「弁証法的かつ歴史的唯物論」という名高い部分(第4章)だけの執筆者だと考えられた。
 しかしながら、戦後には、この書物全部がスターリンによるものだったとされ、彼の全集の一部として再発行された。そして、その死後も途切れることがなかった。
 スターリンの特徴的な文体はいくつかの場所で明確だった。とくに、多様な反抗者や偏向主義者を「白衛軍のまぬけ」、「ファシストの完璧な子分」等々と称するところで。//
 (5)<小教程>の特質は、出版史の世界での際立つ記録だ。
 ソヴィエト同盟で数百万冊が発行され、15年のあいだ、全市民を完全に拘束するイデオロギーの手引き書として用いられた。
 版の多さは、疑いなく、西側諸国では聖書のそれだけが比べものになっただろう。
 止むことなく、あらゆる場所で発行され、教えられた。
 中学校の上級クラス、高等教育の全ての課程、党での研修等々、<小教程>は何かが教育される全てのところで、ソヴィエト市民の主要な知的滋養源(pabulum)だつた。
 識字能力のある全ての者にとって、これを知らないままでいることは異様な曲芸であっただろう。
 ほとんどの者が何度も読み返すことを義務づけられ、党の宣伝者や講師たちはほとんどこれを暗記していた。//
 (6)<小教程>は、もう一つの点でも世界記録を打ち立てた。
 歴史の体裁をとる書物の中で、これだけ多くの虚偽と隠蔽(lies and suppressions)を含むものは、おそらく存在しない。
 書名が示すように、この本は最初からボルシェヴィキ党の歴史だと謳う。だが第4章も、読者を世界史の一般的諸問題へと誘引し、読者にマルクス主義哲学と社会理論の「正しい」見方を解説する。
 諸教訓(morals)が歴史的事象からあっさりと抽出され、それらがボルシェヴィキ党と世界共産主義運動の諸行動の基礎を形成したものだと提示される。
 歴史の結論は、単純だ。すなわち、レーニンおよびスターリンの素晴らしい指導のもとで、ボルシェヴィキ党は、十月革命の成功という栄冠に輝く、誤りのない政策を最初から確固として追求してきた。
 レーニンはつねに歴史の先頭にいると描かれる。そして、すぐ後に、スターリンがつづく。
 幸福にも大粛清の前に死亡した第二または第三ランクの少数の者たちは、物語の適当な箇所で簡単に言及される。
 レーニンが党を創立するのを実際には助けた指導者たちは、全く言及されないか、または札付きの裏切り者もしくは党に入り込んで妨害と陰謀とをその経歴とする破壊者だと叙述される。
 一方で、スターリンは、最初から過ちなき指導者であり、レーニンの最良の生徒であり、レーニンが最も信頼した協力者であり、最も親密な友人だった。
 レーニン自身については、彼はまだ若い間に人間性を発展させる計画を抱いており、彼の人生の一連の全ての行為はその計画を実現するための考え抜いた歩みだった、と読者が理解するように記述される。//
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 ②へとつづく。

1883/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.88-p.91、2004年合冊版p.857-p.860。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味④。
 (24)組織的に作りごとをする同様の仕組みは、例えば一般的「選挙」のような、他の多くの分野に見られた。
 選挙を実施するような面倒事を行い費用を割くのを政権はやめたはずだ、と思われるかもしれない。誰が見ても、その馬鹿々々しさは明白だ。
 しかし、それを実施するのは重要だった。全ての市民を、共同の虚構の、まさにそのことによって完全な紛い物ではなくなる公式の「現実」の、参加者かつ共作者に変えることができたのだから。
 (25)第四の問題は、不可解な現象を我々に再び提示する。
 ソヴィエト同盟から西側に入った情報は、むろん、断片的で不確かなものだった。
 体制は接触を厳格にし、いずれの側からの情報の流出入も制限しようと最大限の努力をし尽くした。
 ソヴィエト国民による外国旅行は国家利益のために厳しく統制され、外国人による無資格の通信や報道は、諜報活動か反逆行為だと見なされた。
 にもかかわらず、ソヴィエト国家は、完全に世界から自らを遮断することはできなかった。
 警察テロルに関するある程度の情報は西側へと浸み出た。その情景を実感した者はいなかったけれども。
 さらに、モスクワ裁判は急いでかつ不器用に準備されたので、いくつかの西側の新聞は、明らかな矛盾や不条理を指摘した。
 だが、そうしたときに、西側の知識人たちがスターリニズムに対してとった寛容な態度を、いったいどう説明すればよいだろうか。彼らは、積極的に支援しなかったか?
 実直で腐敗とは無縁のイギリスの社会主義者、Sysney Webb とBeatrice の夫妻は、テロルが高揚していた間に一度ならずソヴィエト同盟を訪問し、「新しい文明」に関する喫驚するばかりの書物を発行した。
 彼らが明確に記述するところによると、ソヴィエトの制度は正義と幸福を求める人間の最も貴重な希望を具現化したものだった。そして彼らは、イギリスの汚辱と対照させて観察し、イギリスのエセ民主主義を罵倒した。
 モスクワ裁判の真正さやロシア最初の「民主主義」政権の完璧さを疑う理由が、彼らにはなかった。
 ソヴィエトの制度を擁護し、裁判の虚偽性を看取しなかった者たちの中には、Leon Feuchtwanger、Romain Rolland、およびHenri Barbusseらがいた。
 そうした合唱に加わらなかった数少ない一人は、André Gide(アンドレ・ジッド)だった。彼は1936年にソ連邦(USSR)を訪れ、印象記を書いた。
 彼は当然に、暴虐行為については何も見なかった。へつらいに囲まれ、体制による偉業の幻惑だけを示された。しかし、彼は、表面的なものが普遍的な虚偽(mendacity)のシステムを隠蔽していると悟った。
 何人かのポーランドの文筆家たちもまた、見せかけ(make-believe)のものを見抜いた。イギリスの報道記者のMalcom Muggeridge がそうだったように(<モスクワの冬>、1934年)。//
 (26)西側知識人たちの反応は、良識や批判的精神に対する、教理的イデオロギーの特筆すべき勝利だった。
 粛清の時期は確かに、ナツィの脅威の時期でもあった。このことによって、左翼またはリベラルな伝統の中で育て上げられた多数の思索者や芸術家たちが、文明に掛かる脅威からその文明を救い出すという唯一の希望をロシアに見た、ということが説明され得るかもしれない。
 ファシストの野蛮さに対する防波堤を与えてくれると頼ることができるならば、彼らは、「プロレタリア国家」を最大限に許す心の用意があった。
 彼らは、スターリニズムとは違ってナツィズムはその悪の顔を世界から隠そうとはほとんど努力しなかったために、それだけ一層、たやすく巧みに欺された。ナツィズムは公然と、その意図は他の民族を粉々にして塵とし、「劣った諸人種」を奴隷状態に貶める、そのような強大で全能のドイツを作ることだ、と宣言していたのだ。
 一方でスターリンは、平和と平等、被抑圧民衆の解放、国際協調主義、そして諸民衆の間の友好、という社会主義の福音を説きつづけた。
 批判的に思考することが職業であるはずの西側の者たちは、事実よりも無用の言葉を信頼した。すなわち、イデオロギーと願望を伴う思考が、最も明白な現実よりも強力だったのだ。//
 (27)粛清に関して考察する際には、スターリンのロシアはどの時期であれ、警察には、ましてや<党の上にある>警察には、統治されなかった、ということを知ることが重要だ。
 <党の上にある>警察うんぬんは、党の優越性を回復するのが課題だと主張した、スターリン死後の自称改革者が用いた口実(alibi)だった。
 スターリンのもとでの警察は随意に党員たちを逮捕し殺害した、というのは本当のことだ。しかし、党組織の最高部が、とくにスターリン自身が指示しまたは是認しなければならない履行者たちがいる、党の最高のレベルに対してではなかった。
 スターリンは党を支配するために警察を使った。しかし、彼自身が、秘密警察の長ではなく党指導者としての権能をもって、党と国家のいずれをも支配した。
 この点は、ソヴィエト体制における党の機能に関する研究で、Jan Jaroslawski が十分に明らかにしている。
 スターリンに具現化される党は、一瞬なりとも至高の権力を放棄しなかった。
 スターリン後の改革者たちが党は警察よりも上位だと主張したとき、彼らは、党員は党当局の承認なくしては逮捕されてはならないということのみを意味させたかった。
 しかし、かつてもつねにそのような状態だった。警察が同等の階層にいる党指導者たちをある程度は逮捕したとしてすら、さらに上位の党指導者たちの監視のもとにあった。
 警察は、党の手中にある道具だった。
 厳格な意味での警察システム、つまり警察が完全に自由に権限を行使するシステムがロシア国家を覆ってはいなかったし、またそうすることはできなかった。それは、党が権力を失うことを意味していただろう。そしてそれは、システムの全体が崩壊することを原因とすることなくしては生じ得なかっただろう。//
 (28)このことによってまた、スターリンのもとでの、かつ現在でのいずれについても、イデオロギーが果たす特殊な役割が、説明される。
 イデオロギーは、たんにシステムに対する助けや飾りにすぎないのではない。それを民衆が本当に信じようと信じまいと、そのいずれにも関係なく、システムが存在するための絶対的条件だ。
 スターリニズム的社会主義は、その正統性の根拠は完全にイデオロギーに由来する、モスクワが支配する帝国を生み出した。とくに、ソヴィエト同盟は全ての労働大衆の利益を、とりわけ労働者階級の利益を具現化する、ソヴィエト同盟は彼らの要求と希望を代表する、ソヴィエト同盟はいずこにいる被搾取大衆の解放をも実現する世界革命に向かう最初の一歩だ、という諸教理に由来する、そういう帝国を。
 ソヴィエト体制は、このイデオロギーなくしては作動することができなかった。そのイデオロギーこそが、今ある権力装置の<存在理由(raison d'etre)>だった。
 その権力装置は、性質上本質的にイデオロギー的でかつ国際主義的なもので、警察、軍隊その他の諸制度によって代替されることはできないものだった。//
 (29)ソヴィエト国家の警察はいつでもイデオロギーによって決定された、と述べているのではない。
 そうではなく、必要としたときに警察を正当化するために、イデオロギーが存在しなければならない。
 イデオロギーはシステムの中に組み込まれており、その結果としてイデオロギーは、正統化の基本原理が国民による選挙かまたは世襲君主制のカリスマ性かに由来する国々と比べて、全く異なる役割を果たす。
 (30)ソヴィエトのような体制には、その行動の正当化を公衆(the public)に求める必要がない、という利点がある。その定義上、公衆の利益と要求を代表する、そして、このイデオロギー上の事実を変更できるものは何もないのだ。
 しかしながら、ソヴィエト的制度は、民主主義的諸体制には存在し得ない危険(risk)にもさらされている。すなわち、イデオロギー上の批判に対して極度に敏感(sensitive)なのだ。
 このことはとりわけ、知識人が他の体制下とは比べものにならない地位を占める、ということを意味する。
 システムの知的な正当性(validity)に対する脅威、あるいは異なるイデオロギーの擁護は、道徳的な危険を示す。
 全体主義国家は決して全くの不死身のものになることはできないし、批判的思考をすっかり抑え切ることもできない。
 全体主義国家は、生活の全様相を支配するので全能であるように見えるかもしれないが、イデオロギー上の一枚岩に生じるいかなる裂け目もその存在に対する脅威になるというかぎりでは、弱いものでもある。//
 (31)さらに、イデオロギーがそれ自体の慣性的運動を失い、国家当局による現実的命令以外の何ものでもほとんどないものへと位置を下げる、そのようなシステムを維持することは困難だ。
 スターリニズムの論理は、真実はそれぞれの時点で党が、すなわちスターリンが語ることだ、というものだった。そして、このことの効果は、イデオロギーの実質をすっかり空虚なものにすることだった。
 他方で、イデオロギーは、それ自体の首尾一貫性をもつ一般的理論として提示されなければならない。そしてそれがなされるかぎりは、イデオロギーがそれ自体の推進力を得られない、そして-実際にスターリン後の時期に生じたように-その主要な代表者や単独の権威ある解釈者に対抗して用いられる、といったことは保障されるはずはない。
 (32)しかしながら、1930年代の遅くには、このような危険からはきわめて遠くにいるように思われた。
 市民社会がもはやほとんど存在せず、一般民衆はスターリンに個人化された国家の命令に服従すること以外のいかなる志向も持たないように見える、そうしたほとんど理想的な、完璧な国家へと、システムが持ち込まれた。
 (33)社会的紐帯を破壊するきわめて重要な手段は、隣人たちを相互にこっそりと監視(spy)する普遍的な制度だった。
 全ての市民が法的にまたは道徳的にそうするように義務づけられ、密告(tale-bearing)は立身出世するための主要な方法になった。
 こうしてまた、莫大な数の人々が、個人的な上昇のために犯罪加担者になった。
 スターリニズム的社会主義の理想は、国の誰もが(スターリンを除いて)強制収容所の収監者であり、同時にまた秘密警察の工作員でもある、そのような状態であるように見えた。
 これを究極的な完成形にまで至らせるのは困難だったが、それへと向かう趨勢は、1930年代にはきわめて強かった。//
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 ④終わり。第1節も終わり。第2節の表題は「スターリンによるマルクス主義の編纂」(仮)。

1882/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.84-p.88、2004年合冊版p.854-p.857。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味③。
(17)第一の問題について、多くの歴史研究者たちは、大粛清の主要な目的は政治生活の潜在的な焦点である党を、何らかの事情のもとではそれ自体の、たんに支配者の手にある道具ではない生命を獲得するかもしれない力を、排除することだ、と考えた。
 Isaac Deutscher は、モスクワ裁判に関する彼の最初の(ポーランドで出版された)書物で、メンシェヴィキによるボルシェヴィキに対する復讐行為だ!との注目に値する議論を述べた。-その理由は、犠牲者はほとんどオールド・ボルシェヴィキであり、主任検察官のVyshinsky は元メンシェヴィキで、当時の主要な党宣伝者のDavid Zaslavsky はユダヤ同盟の一人だった、ということにある。
 これは、Deutscher がのちにトロツキーの人生に関する三巻本(<追放された予言者>1963年、p.306-7)で進めた説明のように空想的なものだった。すなわち、ソヴィエトの上層官僚たちは富を蓄積できなかった、または子どもたちに遺すことができなかったために、大きかったけれども彼らの特権に満足していなかった、また、トロツキーが危惧したように、彼らが社会的な所有制度を破壊しようとする危険があった、とする。
 Deutscher によれば、スターリンは、この危険を察知し、新しい特権階層が固定してシステムを破滅させることを妨げるためにテロルを用いた。
 これは、実際は、犠牲者たちはロシアに資本主義を復活させようとしていたというスターリニストたちの見方を言い換えたものだ。
 しかしながら、Deutscher はスターリンの人生に関する書物(1949年)では、多少とも歴史研究者たちに一般的な見方を採用していた。
 スターリンは、政府または党指導者のうちの全ての考えられる代替選択肢を破壊したかった。もはや積極的な反対者はいなかったが、突然に危機が発生するかもしれず、彼は党内に対抗的な権力が集まる全ての可能性を粉砕しなければならなかった。//
 (18)この説明はモスクワ裁判には合っているかもしれない。しかし、粛清の大量性の説明としては明瞭性がない。それは、代替的な党指導者になるいかなる機会もなかった、知られざる数百万の人々に影響を与えたのだ。
 スターリンは経済の失敗についての生け贄を必要としたとか、スターリンの個人的な執念深さやサディズムとかの、他の考え方に対しても、同じ異論がしばしば当てはまる。-それらはたしかに大多数の場合についての説明になるが、数百万の大殺戮についてはほとんど困難だ。//
 (19)その目的を他の手段では全く不十分にしか達成できなかったという意味で、大粛清はおぞましい的はずれだった、と言えるかもしれない。
 だがしかし、大粛清は言わば、システムの自然的論理の一部だった
 全ての顕在的または潜在的な対抗者を破壊することのみではなく、かりに僅かで些細であってもなお国家とその指導者以外の何らかの根本教条への忠誠の残滓が-とくに、指導者や党の現在の指令から自立した参照枠組みと崇拝対象としての共産主義イデオロギーへの信念の残滓が-まだ依然としてある単一の有機的組織体(organism)を全て除去してしまうこと、こそが疑問だったのだ。
 全体主義的(totalitarian)システムの目的は、国家が課さず、国家が厳密に統制することのない共同生活の全ての形態を破壊することだった。そのようにして、個々人が他者から引き離され、国家の手中にあるたんなる道具になる、ということだった。
 市民は国家に帰属し、国家のイデオロギーに対してすら、忠誠心を抱いてはならなかった。
 このことは逆説的であるように見える。しかし、この類型のシステムを内部から見知っている全ての者にとって、驚くべきことではなかった。  
 支配党に対する全ての形態の反抗、全ての「偏向主義」と「修正主義」、分派、批判、抵抗-こうした類の全ては、党が防御者であるイデオロギーに訴えかけてきた。
 その結果として、イデオロギーは、それに自立的に訴えかける資格を以上のような者たちは持たないということをを明確にするために、修正された(revised)。-ちょうど、中世には無資格の人々は聖典に関して論評することが許されず、聖書自体がつねに<論述の神(liber haereticorum)>だったのと全く同様に。
 党は本質的にはイデオロギー的組織体だった。言わば、党員たる者は共通する忠誠心でもって連結され、諸価値を分かち持った。
 しかし、諸イデオロギーが諸装置に変わるときにはつねに生じるように、その忠誠心は、教義の「本当の」変更はないと主張されつつも、全ての政治的動きを正当化するためには曖昧で不明瞭なものでなければならかった。
 不可避的に、真摯に忠誠心を理解する者たちは自分でそれを解釈することを欲し、あれこれの政治的な歩みがマルクス=レーニン主義(Marxism-Lenumismatic)に関するスターリンの見方と合致しているか否かを考えようとした。
 しかし、そのことは、たとえスターリンに対する忠誠を誓ったとしても、彼らを政治的危機と政府に対する反抗へと追い込んだ。なぜなら、彼らはつねに今日のスターリンに反抗して昨日のスターリンに依拠しているのかもしれず、指導者自身に反対して指導者の言葉を引用しているかもしれなかったからだ。
 ゆえに、粛清が企図したのは、党内部になお存在しているイデオロギー上の連結を破壊し、上位者からの最新の命令に対する以外にはいかなるイデオロギーや忠誠心も持たないことを党員たちに確約させること、そして、社会の残余者たちのように無力で統合されていない大衆へとを党員たちを貶めること、だつた。
 これは、リベラル諸政党や社会主義諸政党、独立したプレスおよび文化的諸組織、宗教、哲学、芸術、そして最後に党内部の分派の廃絶(liquidation)を始めたのと同じ論理を継続させたものだった。
 支配者に対する忠誠心以外に何らかのイデオロギー上の連環がある場合にはつねに、現実には存在していないとしても、分派主義(fractionalism)が生まれる可能性があった。
 粛清の目的はこの可能性を除去することであり、その目的に関して、粛清は成功した。
 しかし、1930年代の大虐殺(hecatomb)を必要とした原理的考え方はなおも力を持っており、まだ決して放棄されていない。
 そのようなものとしてのマルクス主義イデオロギーに対する忠誠は、今なお犯罪であり、あらゆる種類の逸脱の源泉だ。//
 (20)そうであっても、ソヴィエトの民衆は、そして党ですらも、ホロコーストに抵抗しなかったという事実は、いずれにせよあの規模のごとくには粛清は必要でなかったということを示唆しているように見える。
 党はすでに(マルクスがフランスの農民について言った)「ジャガ芋袋」の理想的状態になるほど閉鎖的で、独立した思考の中心が生まれることは望まれず、かつそれをする能力もなかった、と思われていただろう。
 一方で、粛清がなかりせば、例えばドイツとの戦争の最も危険なときのような危機の場合にそうならなかったかどうかは、分からない。//
 (21)このことは、我々につぎの第二の疑問を生じさせる。いかにして、ソヴィエト社会は抵抗することが全くできなかったのか?
 答えは、党は、つまり指導者の外側は、装置から独立したいかなる態様でも自分たち自身を組織することがすでにできなかった、ということのように見える。
 残りの国民大衆と同じく、党は個人の離ればなれの集合体へと変形されていた。
 抑圧の文脈では、生活の全ての他の分野のように、一方での全能の国家が他方での孤立した市民に対して向かいあっていた。 
 個人の麻痺状態は、完全だった。
 そして同時に、党が最初から獲得していた原理的考え方に適合して行動することが否定された。
 党員は全員が民衆に対する大量の残虐行為に加担し、彼ら自身が無法状態の犠牲者になったとき、彼らには訴えて頼るものが何もなかった。
 彼らのうち誰も、被害者が党員でなかった間は、虚偽の裁判と処刑に反対しなかった。
 彼らは全員が積極的であれ消極であれ、「原理として」司法による殺人に間違ったところは何もない、と受け入れた。
 また、彼らは全員が、いかなるときでも、誰が階級敵なのか、富農の仲間なのか、あるいは帝国主義者の手先なのか、を党指導者が決定することができる、ということに同意していた。
 彼らが容認していたゲームの規則は彼らに向かって集中的に課されており、抵抗精神を促進したかもしれない道徳的な原理を彼らは身につけていなかった。//
 (22)戦争中に、ポランドの詩人、Aleksander Wat は、スターリンの監獄の一つでオールド・ボルシェヴィキである歴史研究者のI. M. Stelov と遭遇し、モスクワ裁判の全ての主役はたちはなぜ、最も滑稽な責任を告白したのか、と質問した。
 Stelov は単純に、こう答えた。「我々はみな、血に夢中になっていた」。//
 (23)第三の問題について言うと、我々は最初は、集団的な幻覚(hallucination)を論じているように見える。
 共産党員の大量殺戮にはそれなりの理由がスターリンにあったと想定してすら、なぜ無数の重要ではない人々を拷問によって、ウズベキスタンをイギリスに売り渡すことを謀った、Pilsudski の工作員だった、あるいはスターリンを謀殺しようと試みた、と自白させることが必要だったのか?
 しかし、この狂気においてすら、少しばかりの方法はあった。
 犠牲者たちは、肉体的に破壊されたり無害なものに変えられたりしたのみならず、道徳的にも廃人になった。
 NKVDの機関員たちは虚偽の自白書に自分たちで署名して、拷問を受けた犠牲者たちに止めを刺すか、有罪を「認めた」ことを理由に収容所へと送り込んだ、ということが考えられ得ただろう。-もちろん、全世界に対して自分たちの罪責を宣言しなければならない見せ物裁判の被告たちを除いて。
 しかし、これらは全体のごく僅かの割合にすぎなかった。
 しかしながら、実際には、警察が人々に自分たちの自白に署名することを強いた、そして、知られている限りでは、署名を偽造することはなかった。
 結果は、犠牲者たちが自分たちに冒した犯罪に対する付属物になり、偽造という一般的な運動への関与者になった、ということだった。
 ほとんど誰も、拷問によって何かを自白することを強いられ得なかった。しかし、通常は、少なくとも20世紀には、拷問は真実の情報を得るために用いられている。
 スターリン・システムでは、拷問を加える者とその犠牲者たちは両方とも完全に、情報は虚偽だということを知っていた。
 しかし、彼らは作り話に固執し、そのようにして、誰もが、普遍的な作り話が真実だという見かけを呈する、そういう非現実的な「イデオロギー上の」世界を構築するのを助けた。//
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 ④へとつづく。

1881/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第25期(2017年11月~2020年10月)等。

 左翼人士-民科法律部会役員名簿・第25期(2017年11月~2020年10月)等。
 理事長/胡澤能生(早稲田大学)
 副理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)、豊島明子(南山大学)、本多滝夫(龍谷大学)
 全国事務局事務局長/本秀紀(名古屋大学)
 理事(50名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、朝倉むつ子(早稲田大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、上地一郎(高岡法科大学)、大河内美紀(名古屋大学)、岡田順子(神戸大学)、岡田正則(早稲田大学)、緒方桂子(南山大学)、緒方賢一(高知大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、金澤真理(大阪市立大学)、川崎英明(関西学院大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、桐山孝信(大阪市立大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、清水雅彦(日本体育大学)、新屋達之(福岡大学)、白藤博行(専修大学)、清水静(愛媛大学)、鈴木賢(明治大学)、高田清恵(琉球大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(岐阜大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、富田哲(福島大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、新倉修(青山学院大学)、根本到(大阪市立大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、人見剛(早稲田大学)、広渡清吾、本多滝夫(龍谷大学)、松岡久和(京都大学)、松宮孝明(立命館大学)、三成賢次(大阪大学)、三成美保(奈良女子大学)、村田尚紀(関西大学)、本秀紀(名古屋大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山下竜一(北海道大学)、山田希(立命館大学)、山本晃正(鹿児島国際大学)、吉村良一(立命館大学)、亘理格(中央大学)、和田真一(立命館大学)
 監事(3名) 市橋克哉(名古屋大学)、今村与一(横浜国立大学)、森山文昭(愛知大学)
 出所-同会機関誌『法の科学』の末尾(日本評論社刊)
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 歴代理事長(上掲雑誌49号(2018年)p.125 による)
 ・戒能通厚/第20期-2002年~2005年。
 ・西谷 敏/第21期-2005年~2008年。
 ・広渡清吾/第22期-2008年~2011年。
 ・浦田一郎/第23期-2011年~2014年。
 ・吉村良一/第24期-2014年~2017年。
 ・胡澤能生/第25期-2017年~。
 以上。

1880/森下敏男「わが国におけるマルクス主義法学の終焉」(神戸法学雑誌)。

 アゴラなどで篠田英朗が長谷部恭男や木村草太らを批判しているらしいのは、あるいは篠田が「戦後憲法学」を批判しているらしいのは別の専門分野(国際法学)からする的はずれのもので、結局は同じグループ内の仲間うちの喧嘩のような印象を持ってきた(この欄でこの論争を取りあげたことがないのは興味を惹かなかったからだ)。
 篠田が批判し攻撃しているのが典型的に長谷部恭男だとすれば、長谷部は日本共産党員学者ではなく、自衛隊自体の合憲性まで否定してはいない。木村草太もまた日本共産党員学者ではない。
 闘うべきは、日本共産党員の、少し緩めれば日本共産党系の法学であり法学者だ。篠田は真の敵を知らなければならない。
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 ほんの最近に知って、一部は読んだ。以下に、注目が向けられてよい。
 森下敏夫「わが国におけるマルクス主義法学の終焉-そして民主主義法学の敗北-」。
 ネット上では、5部ほどに分けて、pdfファイル化されている。
 ①森下敏夫「…マルクス主義法学の終焉/上」(神戸法学雑誌64巻2号、2014.09)。
 www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000695.pdf
 ②森下敏夫「…マルクス主義法学の終焉/中」(神戸法学雑誌65巻1号、2015.06)。
 www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81009060.pdf
 ③森下敏夫「…マルクス主義法学の終焉/下Ⅰ」(神戸法学雑誌65巻2号、2015.09)。
 www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81009203.pdf
 ④森下敏夫「…マルクス主義法学の終焉/下Ⅱ」(神戸法学雑誌65巻4号、2016.03)。
 www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81009465.pdf
 ⑤森下敏夫「…マルクス主義法学の終焉/下Ⅲ完」(神戸法学雑誌66巻1号、2016.06)。
 www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81009556.pdf
 森下敏男、元神戸大学大学院法学研究科教授。
 私、秋月よりも、日本の「マルクス主義法学」について詳しそうだ。日本のこれが「民科法律部会」の会員たち(とくにその幹部たち)によって担われてきていること、かつまた日本共産党系の「マルクス主義」であることも、あっけらかんと前提として批判的分析がなされており、かつまた、マルクスの用語・議論を利用しての自説も展開されている。
 日本で<マルクス主義法学の終焉>がすでにあったのかどうかはまだ怪しいが、副題にいう「民主主義法学の敗北」だけは間違いないだろう。
 存在を知って原文を読みたいと感じていたが、ネット上で読めることを知った。
 これの内容を紹介するだけでも、多少の意味はある。今日までの日本の「マルクス主義」法学者=ほぼ日本共産党員=ほぼ「民主主義法学」を謳う者<民科法律部会の会員、の氏名だけでも、相当の数が言及されているようだ。

1879/L・コワコフスキ著・第一巻第一四章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
 第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
 1978年英訳書第一巻p.338-p.342、2004年合冊版p.278-p.280。
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 第2節・社会的存在と意識①。
 (1)歴史的唯物論に対する反対論が、19世紀にしばしば喚起された。
 ① 歴史における意識的な人間の行動の意義を否定するもので、馬鹿げている。
 ② 物質的利益を理由としてのみ人間は行動すると明言するもので、全ての証拠にも反する。
 ③ 歴史を「経済的要因」へと還元し、宗教、思想、感情等々の全ての他の要素を、重要ではないものかまたは経済学により人間の自由の排除へと決定されるものだと見なす。
 (2)マルクスとエンゲルスによる教理の定式化のいくつかには、たしかに、これらの批判を生じさせ得ると思えるものがある。
 諸批判に対して、エンゲルスおよび部分的には後年のマルクス主義者たちが回答した。しかし、全ての曖昧さを除去するような態様によってではなかった。
 しかしながら、我々が歴史的唯物論はいかなる問題について解答しようと意図しておりまたは意図していなかったのかを想起するならば、諸反対論は、その力の多くを喪失する。
 (3)第一に、歴史的唯物論は、いかなる特定の歴史的事象をも解釈するための鍵(key)ではないし、そう主張してもいない。
 歴史的唯物論が主張するのは、何らかのそして決して全てではない社会生活の特質の間の諸関係を明瞭にする、ということだ。
 マルクスの「批判」への書評の中で、エンゲルスは1859年につぎのように書いた。
 『歴史はしばしば、飛躍的にかつジグザグに進む。そして、そのように進むのだとすれば、重要でない些細な多くの素材が含入されていなければならないだろうのみではなく、思考(thought)の連鎖もしばしば中断するだろう。<中略>
 取り扱うためには論理的方法だけが、ゆえに、適切なものだった。
 しかしながら、これは本質的には、それから歴史的形態や攪乱する偶然性を除去した歴史的方法と何ら異なるところがない。』
 〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第4巻(大月書店、1974年)p.50.〕
 言い換えると、上部構造が生産諸関係に依存するとのマルクスの説明は、大きな歴史的時代や社会の根本的な変化に当てはまる。
 技術のレベルが労働の社会的分業の詳細を全て決定する、そしてつぎに政治的および精神的生活の詳細を全て決定する、とは主張されていない。
 マルクスとエンゲルスは、広い歴史的範疇で、かつ一つのシステムから別のそれへの変化を支配する根本的な要因という趣旨で思考した。
 彼らは、所与の社会の階級構造は遅かれ早かれ根本的な制度的形態であることを明らかにするよう強いられているが、このことを生じさせる事象の行程は多数の偶然的な事情に依存している、と考えた。
マルクスがKugelmann への手紙(1871年4月17日)でつぎのように書いたごとくにだ。
 すなわち、「世界史は、<中略>かりに『偶然事』(accidents)が何も役割を果たさないとすれば、きわめて神秘的な性質のものになるでしょう。
 これらの偶然事は当然に発展の一般的な行程の中に組み込まれ、別の偶然事によって埋め合わされます。
 しかし、加速や遅延はそのような『偶然事』に大きく依存しているのであり、その中には、運動の前面に先頭に立つ人物たちの性格に関する「偶然」も含まれます。」〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第4巻(1974年)p.324.〕
 エンゲルスもまた、いくつかのよく知られた手紙の中で、いわゆる歴史的決定論を誇張して定式化することに対して警告を発した。
 すなわち、「実存の物質的様式は、<主要なもの(primum agens)>ですが、このことは、副次的な影響ではあるけれども、それに対する反応として生じるイデオロギー諸分野のあることを排除しはしません。」(1890年8月5日、Conrad Schmidt への手紙〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第8巻(1974年)p.248〕。)
 『歴史の決定的要素は、究極的には、現実の生活での生産と再生産です。
 それ以上のことを、マルクスも私もこれまで主張したことはありません。
 したがって、かりに誰かが経済的要素のみが決定的なものだとこれを歪曲するならば、その人物は、無意味の、抽象的でかつ馬鹿げた決まり文句へと変形しています。
 経済状況は、土台(basis)です。しかし、上部構造の多様な諸要素は-階級闘争の政治的形態とその帰結、勝利した階級が闘争後に確立する国制(constitutions)等、あるいは法の形態や闘争者の頭脳の中にあるこれら全ての現実的闘いの反映物ですら、あるいは政治的、法的、哲学的諸理論、宗教的諸観念およびこれらのドグマ体系への一層の発展-、これら全ては、歴史的闘争の行程に対して影響力を発揮し、多くの場合は、それらの形態を圧倒的に決定するのです。
 それはこれら全ての諸要素の相互作用であり、その相互作用の中でかつ全ての際限のない偶然事という主人たちの真っ只中で、経済活動が必要なものだとして最終的には貫徹するのです。』
 (1890年9月21日、Joseph Bloch への手紙〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第8巻(1974年)p.254〕。)
 (4)同様にして、歴史の進路を現実に形成したと思える偉大な個人たちは、社会が彼らを必要としたがゆえに舞台に登場した。
 Alexander、Cromwell、そしてNapoleon は、歴史の過程の道具だ。
 彼らは、その偶然的な個人的特性によって、影響を及ぼすかもしれない。しかし、彼らは、彼らが生み出したのではない偉大な非個人的な力の、無意識の代理人だ。
 彼らの行動の影響力は、それが発生した状況によって決定されている。
 (5)我々が歴史的決定論を語ることができるとすれば、大きな装置上の特質という文脈においてのみだ。
 現実にあったのが十世紀の技術レベルであれば、当時には人間の権利の宣言や<ナポレオン法典>はあり得なかっただろう。
 我々が知るように、技術レベルがほとんど同じ社会でも、実際には相当に異なる政治システムがあり得る。
 にもかかわらず、個人的な性格、伝統や事情をではなくこれら諸社会の本質的な特徴を考察するならば、全ての決定的側面についてそれらはお互いに類似しており、そのような傾向を示している、ということが歴史的唯物論の観点から明らかになるだろう。
 (6)生産様式上での上部構造の反射作用に関しては、この点についてもまた、我々は、「究極的な」性質づけを想起しなければならない。
 例えば、国家は、生産力のレベルが必要とする社会的な変化を支援することと妨害することのいずれの態様でも行動するかもしれない。
 国家の行動の有効性は、「偶然的」諸事情に応じて変化するだろう。しかし、ときが成熟している場合には、経済的要因が支配的になるだろう。
 我々が歴史を全景として(in panoramic form)考察するならば、騒乱にある混沌とした諸事象があるごとく見える。その真っ只中で分析者は、マルクスが語った根本的な相互関係を含めて、一定の支配的な傾向を感知することができる。
 例えば、法的形態は着実に、支配階級の諸利益に最大に奉仕する状況へと接近する、ということが見られるだろう。また、この諸利益は当該社会の生産、交換および所有制の様式に対応して構成される、ということも。
 哲学、宗教的信条および信奉儀式は社会的必要や政治的諸装置の変化に対応して多様化するということも、見られるだろう。
 (7)歴史過程で意識的意思が果たす役割に関しては、マルクスとエンゲルスの考え方はつぎのようなものだと思える。
 人間の全ての行為は、特有の意図-個人的感情または私的利益、宗教的諸観念または公共の福利に対する関心-によって支配されている。
 しかし、これらの雑多な全ての行為の結果は、いかなる一人の人間の意図をも反映しない。
 結果は、一種の統計的な規則性をもつ。その規則性は、大きな社会的単位の進化で後づけることができるが、個々人というその構成分肢に対して何が生起しているのかを語ることはしない。
 歴史的唯物論は、個人的な動機が頑固だとか利己的だとか、あるいはすべての性質をもつものだとかを述べるものではない。
 歴史的唯物論は、そのような動機には少しも関係がなく、個人の行動を予言しようと試みることもない。
 歴史的唯物論は、誰かが意識的に意図したのではない、規則的で物理的法則のごとく非個人的な社会的法則に従った、そういう大量の現象にのみ関係する。 
 人間存在と人間の諸関係は、にもかかわらず、歴史過程の唯一の現実だ。それは究極的には、個々人の意識的な行動から成る。
 彼らの諸行為の総体は弁証法的な歴史法則の一つの型を形成し、一つの社会システムから次のそれへの移行を、また技術、所有の諸形態、階級障壁、国家制度およびイデオロギーのような諸特質の相互関係を、描写する。
 『人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、好むどおりにつくりはしない。
 自分で自由に選択した事情のもとで、歴史をつくりはしない。そうではなく、直接に見出され、与えられる、過去から受け継いだ事情のもとでつくる。』
 (<ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日>〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第3巻(1974年)p.153-4〕。)
 (8)厳密に言えば、歴史での多様な「諸要因」を際立たせるものだと、それらの諸要因を一つの要因に「還元」するものだと、そして他の全てのものがそれに依存するものと主張するものだと唯物論を意味させるのは、間違っている。
 このような接近方法が誤りを導くものであることは、とりわけプレハノフによって明瞭に指摘された。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1878/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)③。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)。
 この笹倉という人物は、一期だけのようだが、民科法律部会(「学会」の一つ)の理事だった。当然に、ずっと会員だったのだろう。
 さて、上掲書のp.305に、こうある。
 ①「<ロシア革命のあと理想的な社会をめざして進んでいたソ連邦は、スターリンの時代に誤った道をさらに進み、それが多くの問題を引き起こした。他の国での社会主義化でも同様の問題が生じた>という面が、確かにある。
 ロシア革命後はよかったがスターリン時代に誤った、「という面が、確かにある」と記述し、「確かにある」というその内容を、< >で包んでいる。
 問題は、またはきわめて奇妙なのは、< >の出典、参照文献等がいっさい記載されていないことだ。
 前の頁下欄に不破哲三・マルクスの未来社会論(2004)を参照文献として記しているが、注記の箇所が異なるので、この不破哲三著を読め、と言っているわけでもない。
 そうすると、< >内の内容は、笹倉秀夫自身による理解だ、ということになるだろう。
 そしてこれは、現在の、正確には1994年党大会以降の、日本共産党の基本的理解・認識とまったく同一だ。
 また、p.309に、こうある。
 ②「レーニンは、晩年にその『遺書』で、スターリンを『粗暴』であるとし、かれが権力を握ることの危険性を警告した。スターリンは、このレーニンの遺言を消し去り、レーニンの後継者としてふるまうことによって、まさにその遺言どおりの危険を生じさせた。
 あれあれ、これも日本共産党関係文献が「主張」し、理解しているようなこととまったく同じ。少なくとも、反スターリニズムの「共産主義者」と同じ。私ですら、こうした主張・認識は誤りだ、一部を過大視、誇張する「政治的」目的をもつものだ、と反論することができる。
 さらに、p.313に、こうある。
 ③「一党独裁や個人指導については、レーニンは1902年に前衛党論を書いたときに考えてはいなかった。だがかれは前述のように、1920年頃の内戦と外国の干渉・侵略という内外の危機に直面して諸自由を制限しだした。
 渓内謙・現代社会主義を考える(1988)一つだけを参照文献として注記しているが、この渓内自体がレーニンだけはなお擁護しようとする日本共産党員とみられるソ連(・ロシア)史学者なのだから、公平性・客観性はまるでない。
 そもそも、笹倉秀夫は<1902年の前衛党論>なるもの(つまりレーニン「何をなすべきか?」)をきちんと読んだのだろうか。
 また、「1920年頃の内戦と外国の干渉・侵略」とはいったい何のことだろうか。
 「内戦」は1918年には始まっている。農民に対する食料(穀物)徴発制度自体が農民の「自由」を認めるものではない。秘密警察(チェカ、チェーカー)設立は1917年12月。「内戦」の敵はもちろん反対政党(エスエル・メンシェヴィキ)の幹部たちを「見せ物裁判」で形式的な手続で「殺戮」したのはレーニンの時代。その前に1918年2月に『社会主義祖国が危機!』との布令を発して反抗者の略式処刑を合法化したのもレーニン。のちにスターリンが大テロルまたは「大粛清」のために最大限に活用した刑法典の発布もレーニンの時代。「1920年頃」には田園地帯での飢饉も始まっていた。1921年のクロンシュタット蜂起は、もともとはほとんどが戦闘的なボルシェヴィキ(共産党員)だった海兵たちの反乱。
 少なくとも親日本共産党の、幼稚で無知な笹倉に、上のような断片的な一部を説いてもきっと無意味なのだろう。
 ところでそもそも、上の笹倉著は『法思想史講義』という名を謳っているのだが、ロシア・ソ連での「法思想」には(レーニン刑法もスターリン憲法もパシュカーニスも)まったく論及していないのは、いったい何故なのだろうか。
 この人は「法思想」を「思想」と混同しているのではなかろうか。しかも、「政治思想」に相当に偏った「思想」だ。区別がつき難いところはむろんあるだろうが、一定の自立性・自律性をもつ「法思想史」をたどり、まとめるという作業は全く不可能とは言えないだろう。
 上掲書が、それを行っているとは、また試みようとしているとすらも、全く感じられない。

1877/L・コワコフスキ著・第一巻第一四章第1節。

 マルクス(・エンゲルス)の論述自体をL・コワコフスキはどう紹介し、分析し、論評しているかにも関心をもつに至ったので、第一巻の一部の試訳作業も、並行して行うこととする。青年マルクスとか「ヘーゲル左派」とかにまで戻ると、マルクスとレーニンとの関係・差異に言及されない予感がするので、<歴史的唯物論>(「史的唯物論」とされるものの訳語はこれを用いる)あたりから始めることにする。但し、今回部分には、論評類はほとんどない。
 マルクスが先ず使ったと思われる言語からするとドイツ語版の方が適切かもしれないが、英訳書(P. S. Falla による)に慣れてきているので、原則として英語版による。文法構造等が不明になったときにはドイツ語版を参照する(今回の以下では、一回だけあった)。なお、マルクスの諸概念に関する日本での「定訳」に通暁しているわけではないので、不思議な言葉を使って訳している場合があるかもしれないことをお断わりしておく。
 今回に出てくる、マルクス『政治経済学批判/序言』の一部の引用部分は、マルクス=エンゲルス八巻選集のうち第4巻(大月書店、1974年)p.40-41を参照した。この選集はドイツ社会主義統一党(旧東ドイツ共産党)マルクス=レーニン主義研究所編集によるものを基礎にしており、ドイツ語版の邦訳書だ。しかし、そのままを引用して紹介してはおらず、英訳書で再確認しており、かつ、やや異なる場合は英語版の方をむしろ優先しつつ若干の変更も加えている。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
 1978年英訳書第一巻p.335~p.338、2004年合冊版p.275~p.278。
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 第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
 第1節/生産諸力・生産諸関係・上部構造。
 (1) マルクスは<資本>の叙述の中で、技術の発展と資本の無限の拡張の間の因果関係に論及した。
 同時に、一定の技術的条件のもとでのみ、区別なき歴史のどの時期でもなくして、この傾向は発生し、普遍的になり得る、と論じた。
 資本主義の作動および膨張主義傾向は、社会生活を全ての形態で支配する諸関係(relations)の、過去および現在のより一般的なシステムの特殊な場合だ。
 このシステムに関するマルクスの論述は、歴史的唯物論または歴史の唯物論的解釈と称される。
 これは<ドイツ・イデオロギー>で最初に明瞭に述べられた。しかし、最もよく知られた定式はマルクスの<政治経済学批判への序説>(1859年)の中にある。
 その教理はまた、多様な版型でのエンゲルスの著名な著作で述べられている。
 以下は、マルクスの古典的な叙述だ。//
 (2) 『人間は、彼らの生活の社会的生産で、不可欠で彼らの意思から独立した一定の諸関係へと入る。
 これら生産諸関係は、生産にかかる物質的諸力の発展の特有の段階に対応する。
 これら生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を構成する。-これが実在的な土台(foundation)であり、その上に一つの法的および政治的上部構造が立ち、この実在的な土台に一定の特別の諸形態の社会的諸意識が対応する。
 物質的生活の生産様式は、社会的、政治的および精神的な生活過程一般を規定する。
 人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。
 社会の物質的な生産諸力は、その発展の一定の段階で、現存の生産関係と、または-同じことの法的表現にすぎないが-その中でそれまで作動していた所有関係と、矛盾するようになる。
 これら諸関係は、生産諸力の発展諸形態から、その桎梏(fetters)に変わる。
 そのとき、社会革命の時期が始まる。
 経済的土台の変化とともに、巨大な上部構造の全体が、多かれ少なかれ急速に変革される。
 このような変革(transformation)を考察するにあたっては、自然科学の精確さで決定することができる生産の経済的諸条件の物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになり、それを闘い抜く、法的、政治的、宗教的芸術的または哲学的な-簡単に言うとイデオロギー的な、諸形態とをつねに区別しなければならない。  
 ある個人に関する我々の見解がその個人の自分自身に関する見解にもとづいていないのと全く同様に、我々は、そのような変革の時期をその時期自身の意識によって判断することはできない。反対に、この意識は、物質的生活の諸矛盾から、生産の社会的諸力と生産諸関係の間の現存する衝突から、説明しなければならない。
 いかなる社会秩序も、そのための余地を残す全ての生産諸力が発展しきる以前には決して消滅しない。新しい高度の生産諸関係は、古い社会自体の胎内でそれらが存在するための物質的諸条件が成熟する以前には出現しない。
 それゆえに、人類はつねに、自分で解決できる課題だけを自分に設定する。
 なぜならば、問題をより詳細に考察すると、その課題そのものは、その解決のために必要な物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも形成されつつあるときにだけ発生することが、つねに見られるだろうからだ。
 大まかに言って、我々は、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的な生産諸様式を社会の経済的構成の進歩の諸段階として挙げることができる。
 ブルジョア的生産諸関係は、生産の社会的過程の最後の敵対的な形態だ。-個人的な敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的諸条件から生じてくる敵対だ。
 同時に、ブルジョア社会の胎内で発展している生産諸力は、この敵対を解消するための物質的諸条件を作り出す。
 現在の構成は、それゆえに、人間社会の前史時代の最終の章だ。』//
 (3) 人間の思想(thought)の歴史で、このテクストほどに、論争、批判および解釈の対立を生じさせたものはほとんどない。
 我々はここでは、複雑な議論の全体に立ち戻ることはできない。だが、主要な論点のいくつかを記しておこう。
 (4) エンゲルスは、<社会主義、空想と科学>(英語版への序文、1892年)で、歴史的唯物論をつぎのように定義する。「重要な全ての歴史的事象の究極の原因および変動させる大きな力を、社会の経済的発展のうちに、生産と交換の様式の変化のうちに、その結果としての異なる階級への社会の分裂のうちに、そしてこれら諸階級の他階級に対する闘争のうちに求める、歴史の発展に関する考え方」。
 (5) かくして歴史的唯物論は、つぎの問題に対する解答だ。すなわち、人間の文明に対して最も大きな影響力をもつのはいかなる事情(circumstances)なのか? -この文明という言葉は、思想の諸範疇から労働や政治装置に関する社会的組織までの、意思疎通のための全ての社会的形態を含む広い意味で理解されている。
 (6) 唯物論の観点からする人間の歴史の出発点は、自然との闘争であり、人間が自然に対して、満足するように増大するその必要のために役立たせるべく強いるところの、手段の総体だ。
 人間は、道具を作る点で他の動物と区別される。野獣生物は原始的な方法で道具を使うかもしれないが、自然それ自体のうちにそれを発見する場合に限られる。
 個人が自分で消費するよりも多くの物品を生産することができる程度にまで備品(equipment)が完全なものにいったんなれば、余剰の生産物の配分に関して対立する可能性や、ある範囲の者たちが他人の労働の果実を搾取する可能性が生じる。-すなわち、階級社会だ。
 この搾取がとり得る多様な諸形態が、政治的生活や意識を、換言すると人々が彼ら自身の社会的存在を理解する仕方を、規定する。//
 (7) かくして、我々は、以下のような図式を得る。
 歴史的変化の究極的な主導力=技術・生産諸力・社会が活用し得る備品全体+獲得した技術的能力+労働の技術的部分。
 生産諸力のレベルは、生産諸関係の基底的構造を、つまり社会的生活の基盤(foundation)を決定する。
 (マルクスは、技術それ自体を「土台(base)」の一部だとは見なさない。彼は、生産諸力と生産諸関係の対立について語っているのだから。)
 生産諸関係は、とりわけ、所有諸関係から、換言すると原資材と生産道具を、したがってまた労働の生産物を処分する、法的に保障された権能から成る。
 生産諸関係はまた、労働の社会的分割を含む。そこでは人々は、彼らが従事する生産の種類によってではなく、あるいは生産過程の特定の段階によってではなく、物質的生産に少しなりとも関与するのか、それとも管理、政治的行政または知的作業のような別の作用を行うのか、によって区別される。
 肉体的作業と精神的作業の分離は、歴史上の最大の変革の一つだった。
 この分離を可能とする前提は、ある範囲の者たちが生産過程に関与することなく他者の作業を自分のものにするのを許容すること、したがって社会的不平等だ。
 こうして生み出された余暇(leisure)の容量が、精神的作業を可能にした。そして人類の精神的文化の全体-芸術、哲学および科学-の根源は、社会的不平等にある。
 「土台」あるいは生産諸関係のもう一つの構成要素は、生産物が生産者たちの間で配分され、交換される態様だ。//
 (8) 生産諸関係はさらに、マルクスが上部構造という名称を付与した現象の全体を規定する。
 この上部構造には、全ての政治的諸装置、とくに国家、全ての組織された宗教、政治的団体、法および慣習、そして最後に、世界に関する諸観念で表現される人間の意識、宗教的信条、芸術的創造の形態および法、政治、哲学や道徳に関する諸教理、が含まれる。
 歴史的唯物論の主要な教義的主張は、特定の技術レベルが特定の生産諸関係を求め、それが生産諸関係が時代の推移に応じて歴史的に発生する原因になる、というものだ。
 生産諸関係はつぎに、相互に対立し合う異なる諸要素から成る、特定の種類の上部構造を発生させる。他者の労働の果実を搾取することにもとづく生産諸関係は、対立する利益をもつ諸階級へと社会を分裂させ、そしてその階級闘争は政治的な諸力と諸見解の間の対立としての上部構造に表現されるのだから。
 上部構造は、余剰労働の生産物に対する最大限の分け前を求めて相互に闘う諸階級が用いる武器の総体だ。
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 第1節は終わり。第2節の表題は「社会的存在と意識」。

1876/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.80-p.84、2004年合冊版p.852-p.854。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味②。
 (7)大粛清の地獄の様相は、しばしば歴史研究者、小説家、記録作家によって描写されている。
 見せ物裁判は、党をそれの主要な犠牲者とするジェノサイドの大量執行のうちの見える断片にすぎなかった。。
 数百万人が逮捕され、数十万人が処刑された。
 従前は散発的に用いられ、通常は真実にたどり着くことを目的としていた拷問は、今や、最もありそうにない犯罪について数千の虚偽の告白を引き出すための日常的な方法になった。
 (拷問は、18世紀にロシアの司法手続の一部であることをやめていた。のちには、ポーランド暴動や1905年革命のような例外的状況に際してのみ用いられた。)
 捜査官たちは、検察官が全くの想像上のものであることを知っている犯罪を行ったことを認めるように人々を誘導するための、肉体的および精神的な苦痛の全ての方法を自由に考案し、課した。
 このような手段には負けなかったわずかの人々も、自白するのを拒めば妻や子どもは殺されると聞いて、ふつうは屈服した。-この妻子の殺害は、ときどきは実際に実施された。
 誰もが安全だとは感じなかった。専制者に対するいかなる程度の阿諛追従の言動も、責任が追及されない保障にはならなかったからだ。
 いくつかの場合には、地域の全党委員会の委員たちが殺戮され、その後には、処刑の悪臭をまだ漂わせる彼らの委員会の後継者たちが墓場へと続いた。
 犠牲者たちの中にいたのは、ほとんど全てのオールド・ボルシェヴィキたち、レーニンの親密な同僚たち、政府、政治局そして党書記局の以前の構成員たち、全ての階位の活動家たちであり、また、研究者、芸術家、文筆家、経済学者、軍人、法律家、技術者、医師、そして-割り当てられた仕事をしなかったときには当然に-秘密警察の上層官僚であれとくに熱心だった党員であれ、粛清それ自体の機関員たち、だった。
 陸軍および海軍の将校団は、まとまって殺害された。これは、対ドイツ戦争で最初の二年間はロシアが敗北したことの原因だった。
 逮捕と処刑の指定数は、党当局によって特定の分野や地域ごとに割り当てられた。
 警察官たちがこの数字を履行しなければ、彼ら自身が処刑される可能性が高かった。かりにその数字を履行すれば、党幹部たちを皆殺しにしていることの説明に使われるのに間に合うかもしれなかった。
 (スターリンに関する典型的なおぞましい冗句によると、大量殺戮運動の功労者だったPostyshev のような者に対しても、責任追及は行われた。) 
 その任務を履行するのが不十分だった者は、怠慢を理由として射殺されるかもしれなかった。
 その任務を履行するのが十分すぎた者は、自分の不満を隠蔽するために熱意を示していると疑われるかもしれなかった。
 (1937年の演説でスターリンは、多くの破壊者たちは精確にこれを行っていると言った。)
 裁判と取り調べの意味は、レーニンの最も緊密な協力者たちも含めて、党の元来の中核のほとんど全体が一団のスパイ、帝国主義者の工作員、人民の敵であって、それらの考えはソヴィエト国家を破壊することであり、またかつてつねにそのことだった者たちだ。
 驚く外国の前で、全ての空想上の犯罪について、大きな見せ物裁判の場で被告たちの自白が行われた。
 全てのGrand Guignol(グラン・ギニョール=恐怖劇)の犠牲者のうち、ブハーリンは、架空の反革命の組織化という申し立てられた犯罪に対しては一般的責任を認めたけれども、スパイ行為やレーニン暗殺の企画のような罪を免れない責任追及に対しては、自白することを拒んだ。
 誤った指導に対する懺悔の念を明白に表明しつつ、ブハーリンは、裁判の雰囲気を典型化する言葉として、「新しい生活の愉快さに対抗する犯罪的な方法で我々は反抗した」と付け加えた。
 (明らかにブハーリンは、肉体的な拷問を受けていなかった。しかし、彼の妻と幼い息子を殺害すると脅かされていた。)//
 (8)粛清がもった第一の効果は、荒廃を生み出したことだった。党にのみならず、ソヴィエト同盟の全社会生活の全側面に。
 血の海(blood-bath)が、指導者に対して阿諛追従を表明する票決をしたにすぎない第17回党大会に出席した代議員たちの大多数、忠実なスターリニストたちのほとんどの者の気分の原因だった。
 きわめて多くの傑出した芸術家たちが、ソヴィエトの全文筆家の三分の一以上が、殺された。
 国家全体が、明らかに単一の専制者の意思が生じさせた-但し、表面的には欺瞞が講じられたが-悪魔的狂気によって握られた。//
 (9)ロシアにいる外国人共産主義者たちも、粛清の犠牲になった。
 ポーランド人の被害が最大だった。コミンテルンの1938年の決定によって、トロツキー主義者その他の敵の温床だとの理由でポーランド共産党は解散させられ、ソヴィエト同盟にいるその幹部たちは、逮捕され、処刑としてまとめて殺戮された。
 ほとんど全ての指導者たちは投獄され、ごく数人だけが、数年後に自由を再獲得した。
 幸運だったのは、ポーランドで収監されていたので招集されたときにロシアへ行くことができなかった者たちだった。
 招集に実際に従わなかったごく数人は、ポーランド警察の工作員だと公式に宣告され、そのポーランド警察の手に渡された。-これは、1930年代にロシア以外の国の地下共産党組織の「偏向主義者」に対して、しばしば用いられた手段だった。
 ポーランド人以外の粛清の犠牲者は、多数のハンガリー共産党員(Kun Béla を含む)およびユーゴスラヴィア、ブルガリアおよびドイツのそれらだった。1939年まで生き残ったドイツ共産党員のうちの何人かは、当然のごとくして、スターリンからGestapo(ゲシュタポ=ナツィス・ドイツの秘密警察)へと引き渡された。//
 (10)強制収容所は張り裂けそうなほどに、満杯だった。
 全てのソヴィエト市民は、つぎのことに慣れてしまっていた。すなわち、仕事を懸命にしようとしまいと、いかなる種類の反対派に属していたとしてもまた属していなかったとしても、あるいはさらに、スターリンが好きであろうとなかろうと、逮捕されて死刑を宣告されることあるいは恣意的に不特定の期間のあいだ収監されることには、全く何の関係もない、ということに。
 暴虐(atrocituy)の雰囲気は、一種の一般的なパラノイア(偏執狂)を、従前の全ての規準が、「通常の」専制体制の規準ですら、適用することができなくなる怪物的で非現実的な世界を、生じさせた。//
 (11)後年に流血と偽善のこの異常な秘宴(orgy)を理解しようとつとめた歴史研究者その他の者たちは、答えることが全く容易ではない問題を設定した。//
 (12)第一。どう考えても、スターリンまたはその体制には現実的な脅威は存在せず、党内部での反乱の源は全て、大量の殺戮なくして容易に一掃することができた、そのようなときに、かかる破壊的狂乱(frenzy)が生じた理由はいったい何だったのか?
 とりわけ、上層幹部たちの無差別の破壊は軍事的にも経済的にも国家を致命的に弱体化させるだろうことが明瞭だと思われることを、どのように説明するのか?//
 (13)第二。暴虐行為をきわめて献身的に実行した者たちですら含めて、民衆の全てに脅威が迫っていたにもかかわらず、抵抗が完全に欠けていたのはいったい何故だったか?
 多くのソヴィエト国民は軍事的な勇敢さを示し、戦闘では生命を危険に曝した。なぜ、誰も専制者に反抗する拳を振り上げなかったのか? なぜ進んで、全ての者が殺戮へと向かったのか?//
 (14)第三。見せ物裁判の犠牲者たちが虚偽宣伝を理由として存在しない犯罪を告白させられたということを認めるとしても、数十万人のまたは数百万人ほどの人々に、なぜ、誰もかつて聞いたことがないような告白が無理強いされたのか?
 警察の記録簿に載せられるが、どんな公的な目的にも使われない虚偽の認諾書に署名するように未知の犠牲者たちを追い込むために、なぜ途方もない労力がつぎ込まれたのか?//
 (15)第四。まさにこの時代に、スターリンはいかにして、自分個人に対する崇拝(cult)をかつて例のないほどの程度まで高めたのか?
 とくに、いったい何故、個人的な圧力を受けていないはずの、あれほど多くの西側知識人たちがこの時期にスターリニズムへとはまり込み、モスクワの恐怖の館を従順に受け入れ、あるいは積極的に称賛したのか? 現実に行われていることの虚偽と残虐さは誰にも明瞭だったはずではなかったのか?//
 (16)これらの疑問は全て、マルクス主義・社会主義(Marxist-socialist)が新しいシステムで稼働させ始めた特有の機能を、どう理解するかにとって重要だ。//
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 ③へとつづく。

1875/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味①。1978年英語版 p.77-p.80、2004年合冊版p.849-p.852。
 (1)1930年代のソヴィエトには、全体主義的社会主義国家の公式の経典的イデオロギーとしての新しい範型のマルクス主義の形成(crystallization)が見られた。
 (2)集団化のあとの数年間、スターリン国家は一連の失敗と災難をくぐり抜けた。一方で民衆は、連続する抑圧の波にさらされた。
 集団化の実施は第一次五カ年計画の開始と一致していた。後者は、公式には1928年からの施行だったが、実際に是認されたのは翌年だった。
 トロツキーやPreobrazhensky が定式化し、スターリンが継受した考えによれば、奴隷化農業の役割は、工業の急速な発展のために余剰の価値を供給することだった。
 そのときから、重工業の優先というドグマは、国家イデオロギーの永続的な要素になった。
 当初の目標は、真摯な計算をすることなく、力によって全てのことはなされ得る、ボルシェヴィキが突破できない要塞はない、という想定のもとで、恣意的に決定された。
 にもかかわらず、スターリンはつねに、生産目標に満足しておらず、目標をさらに高く押し上げ続けた。
 もちろんその意図のほとんどは、達成できないことが判明した。最大限の人的および財政的な努力が投じられた重工業についてすら、結果は、想定されていたはずのときどきは半分、四分の一、あるいは八分の一だった。
 これを是正する方法は、統計学者を逮捕し、射殺すること、そして統計数字を捏造することだった。
 スターリンは1928-1930年に ほとんどの経済雑誌および統計雑誌を閉刊させた。N. D. Kondratyev を含む重要な統計学者のほとんどは、処刑されるか、投獄された。
 このとき以降、異なる工業の段階ごとに、生産額の二倍または三倍に上るように国民総収入を計算することも、習わしになった。こうして無意味な総額が生み出され、社会主義の優越性を証明するものとして定期的に誇らしげに発表された。
 集団化がますます農村地帯を破壊していたので、農業に関する数字は体系的に偽造(fake)された。
 スターリンや他の指導者たちがどの程度経済の本当の状態を知っていたかは、明瞭ではない。
 その間に、工業労働者たちの数が、農村部門からの補充によつて急速に膨らんだ。
 社会的な災難を償うために、怠業、つまり履行不能なノルマを達成できなかったこと、を理由とする技術者や農業専門家の逮捕や裁判が継続した。
 引き続いて1932-33年に飢饉が発生し、数百万人が死んだ。
 全ての世代の知識人を急進派に変え、マルクス主義の成長を促した1891-2年の飢饉と比較すると、取るに足らない割合の後退だった。
 スターリニストたちは、国じゅうが略奪者や怠業者、隠れ富農、戦前型の忠誠心なき知識人、トロツキー主義者、そして帝国主義諸国の工作員で溢れていると、休むことなく繰り返して宣伝した。
 飢えていく農民たちは、集団農場から一握りの穀物を盗んだとして強制労働収容所行きを宣告され得たし、実際にそうされた。
 奴隷労働収容所(slave-labour camps)が増加し、国家経済の重要な構成要素になった。とくに、シベリアの鉱山や森林のような条件が最も苛酷な地域では。//
 (3)にもかかわらず、虚構の計画による混沌と公的なウソのまっただ中で、叙述し難いほどの犠牲を対価として、ソヴィエトの工業は実際に進歩し、第二次五カ年計画(1933-37年)は、第一次よりもはるかに現実的だった。
 この時期にソヴィエト同盟が今日の工業力の基礎を設定したことは、共産主義者によってスターリニズムを歴史的に正当化するものとしていまだに呼び求められている。そして、多数の非共産主義者も、同様の見方をしている。後進国ロシアが早くその産業を近代化するためにはスターリニストの社会主義が必要だったと考えるのだ。
 先取りして我々の議論をある程度述べると、これについては、つぎのように回答することができる。
 ソヴィエト同盟は実際にかなりの程度の工業基盤を確立した。とくに、1930年代に重工業と軍需兵器について。
 それを可能にしたのは大量の強制と完全なまたは部分的な奴隷化という方法であり、それの副作用は、国民文化の破滅と警察体制の永続化だった。
 このような点で、ソヴィエトの工業化は、歴史上のその種のうちでおそらく最も無駄な過程だった。そして、このような規模の人的かつ物的コストなくしてはその全ての進歩は達成されなかったという証拠は全く存在しない。
 歴史は多様な方法での工業化の成功を記録しているが、それら全てが社会的な面での犠牲を払っている。しかし、社会主義ロシアにおけるほど、そのコストが重かったものはない。
 しばしば例示される、西側欧州が進んだ行程は産業諸国家の周縁部では繰り返されなかった、資本主義の大きな中心部がすでにその地位を確立していたので、というもう一つの議論は、たとえ相当の犠牲があったとしてもロシアとは異なる方法で工業化に成功した、日本、ブラジルおよびごく近年にはイランといった「周縁部の」諸国の例によって拒否される。
 1917年以前のロシアは急速かつ集中的に工業化している国だった。革命はその前進を多年にわたり遅らせた。
 工業発展のグラフは、帝政時代の最後の二十年間に顕著に上昇していた。それが厄災のごとく落ち込んだのは、革命の後だった。そして、様々な指標が、ある物は別の物よりも早かったが、それらの戦前のレベルにもう一度到達し、上昇し続けるのには、長い年月を要した。
 間に介在していた時代は、社会の解体と数百万の人命の破壊の時代だった。そして、革命前の発展を国が取り戻すためにはこうした全ての犠牲が必要だったと主張するのは、たんなるお伽噺(fantasy)にすぎない。//
 (4)歴史過程には人間の意図とは独立した内在的な目的がある、後知恵でのみ認識可能な隠れた意味がある、と考えるとすれば、ロシア革命の意味は工業化にあったのではなく、むしろロシア帝国の首尾一貫性および膨張した活力ににあった、と言わなければならない。この点では、新体制は実際、旧体制よりも効率的ではあったのだから。//
 (5)全ての社会階層-プロレタリアート、農民層および知識人-の抵抗が成功裡に収拾された後で、国家が組織していない全ての社会生活の形態が粉砕されて存在しなくなった後で、そして党内部の反対派が破壊された後で、-実行されなかったが-単一の専制者のもとでの全体主義的支配を完全にするのを脅かす、その可能性のある最後の要素は抑圧された。すなわち、党自体。共同社会にある全ての別の敵対勢力の息を止め、破壊するために用いられた組織それ自体。
 党の破壊は、1935-39年の間に達成された。そして、ソヴィエト体制とそれ自体の客体の間の矛盾について新しい記録が確立された。
 (6)1934年、スターリンはその権力の絶頂にあった。
 その年の最初の第17回党大会は、おべっかと崇拝の宴祭だった。
 敬慕される独裁者に対する積極的な反対者は存在しなかった。しかし、党の多くの中には、とくに古いボルシェヴィキの中には、礼は尽くすが心の奥底ではスターリンに縛られていない者がいた。
 彼らは、自分の努力でのし上がったのであり、スターリンの贔屓によるのみではなかった。したがって、危機のときには不安または反抗の危険な要因になり得た。
 そのゆえに、潜在的な反対者として、彼らは破壊されなければならなかった。
 彼らを絶滅するための最初の口実は、1934年12月1日のSergey Kirov(S・キーロフ)の殺害だった。キーロフは中央委員会書記の一人で、レニングラードの党組織の長だった。
 全てではないがたいていの歴史研究者は、この犯罪の本当の企図者はスターリンだった、ということで合意する。彼は一撃でもって可能な対敵を排除し、かつ大量抑圧の口実を生み出したのだ。
 これに続く魔女狩りは、最初は、党内部の以前の反対者たちに向けられた。しかしすぐに、独裁者の忠実な下僕たちも狙われた
 ジノヴィエフ(Zinovyev)とカーメネフ(Kamenev)は逮捕され、監獄での拘禁の刑を受けた。
 大量の処刑が、国じゅうの大都市で、とくにレニングラードとモスクワで起きた。
 テロルは1937年に激発にまで達した。この年が、「大粛清(great purge)」の最初の年だった。
 1936年秋に最初の大規模の見せ物裁判があり、それでジノヴィエフ、カーメネフ、スミルノフ(Smirnov)その他は死刑を宣告された。
 1937年1月の第2回裁判では、ラデク(Radek)、Pyatakov、Sokolnikov その他の「裏切り」に焦点が当てられた。
 1938年3月、ブハーリン(Bukharin)、ルィコフ(Rykov)、Krestinsky、Rakovsky およびYagoda が、被告に加わった。最後のYagoda は、1934-36年にNKVD(秘密警察)の長で、初期の粛清の組織者だった。
 少し前の1937年に、元帥トゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍最高指導者たちが秘密に裁判にかけられ、射殺された。
 全ての公開の審問で被告たちは、空想上の犯罪を自白した。そして、いかにして外国の諜報機関と策謀を図り、党指導者の暗殺をたくらみ、ソヴィエト領土の一部を帝国主義諸国に提供し、仲間の市民たちを殺し、毒を盛り、産業を妨害し、意識的に飢饉を引き起こしたか、等々を、次から次へと描写した。
 ほとんど全ての者は死刑の判決を受け、ただちに処刑された。ラデクのような数人だけは投獄の刑を受けたが、裁判のあとですみやかに殺された。//

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

1873/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.70、2004年合冊版p.843-p.847。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義③。
 (16)「弁証法論者」は、執筆者たちはのちに非難されたとしても、国家イデオロギーの経典へと入り込み、数十年の間は拘束的なままだった基本的用語、言明、および教義をソヴィエト・マルクス主義に授けた。
 彼らの遺産の一部は、形式論理に対する攻撃だった。それは、ロシアでの論理的研究の崩壊をもたらした以上のものだった。
 弁証法論者は、論理が何と結びついているのか、あるいはその言明は何を意味するのかを分かっていなかった。
 しかしながら、彼らは、論理は「概念の内容から抽出」するので弁証法とは対立するに違いないと想像していた。なぜなら、弁証法は我々に、「具体的状態で」かつ(論理は切り離す)「相互関係において」、また(形式論理は理解できない)「動きの中で」現象を研究するように要求するのだから。
 この馬鹿々々しさの理由は、部分的には無知だった。しかし、部分的には、エンゲルスのいくつかの言明にもとづいていた。
 Deborin は1925年のレーニンに関する論考で、形式論理は世界が単相でもあり多層的でもあるということを考慮することができない、と書いた。また、同年の<弁証法的唯物論と自然科学>で、形式論理は「形而上学のシステム」の構築に奉仕するだけで、マルクス主義からは排除されている、弁証法は形式と内容は相互に浸透し合うことを教えているのだから、と宣言した。
 科学は形式論理を基礎にしては前進することができない、各科学は「事実の収集体」であるにすぎず、マルクス主義的弁証法のみがそうした諸事実を系統的な全体へと連環づけすることができる。
 物理学者たちが「這いずり回る経験論」に執着しないでヘーゲルを読めばすぐに、彼らが進歩し様々の「危機」を克服するのを弁証法が助けることを理解するだろう。
 「理論的自然科学」の創始者であるエンゲルスは、最初からずっと、ヘーゲルから弁証法を吸収した。//
 (17)Deborin は哲学が諸科学を支配すると考えために当然に、Lukács の<歴史と階級意識>によって激しく論難された。この書物は弁証法は統合へと進む過程での主体と客体の相互作用だとの理由で自然の弁証法の可能性を疑問視した。
 この主張を受けてDeborin は、Lukács は認識は「現実の実体」だと考える観念論者である正体を暴露した、と論じた。
 1924年に発行されたオーストリアの雑誌<労働者文学>の論考でDeborin は、Lukácsの誤り、およびエンゲルスに対する、ゆえにマルクスに対する、非礼な態度を非難した。
 さらには何と、Lukács はマルクス主義正統派はマルクス主義の方法に関する知識でのみ成り立っていると述べたが、しかるにその方法はマルクス主義者にとっては「内容と不可分に結びついている」、と。
 Lukács の「主体と客体の一体性」は観念論の同類で、エンゲルス、レーニンおよびプレハノフの明確な言述と矛盾している。
 主体が行う全ては客体を「反映する」ことであり、そう考えないのは「客観的な現実」を放棄することだ。//
 (18)機械主義、「這い回る経験論」および科学の自律性を攻撃し、そしてヘーゲル、「質的跳躍」および「現実の矛盾」を擁護することで、Deborin は、同好の学者たちと狂信者たちの多数から支持された。
 そのうち最も積極的だったのはG. S. Tymyansky だった。この人物はSpinoza の著作を翻訳し、論評していた(その論評はきわめて図式的だったが、啓蒙的で、事実の観点からは有用だった)。
 さらに、純粋な哲学者で哲学史研究者のI. K. Luppol。そして、V. F. Asmus, I. I. Agol、およびY. E. Sten。
 Medvedyev がスターリンに関する書物で述べるように、Sten は、1925-1928年にスターリンに哲学について授業(lesson)をし、スターリンにヘーゲル弁証法を理解させようとした。
 このグループのうちたいていは、全員ではないが、1930年代の大粛清の中で死んだ。//
 (19)しかしながら、弁証法論者は1920年代の後半には有利な位置を占め、ソヴィエトの哲学上の諸装置に対する完全な支配権を獲得した。
 1929年4月のマルクス=レーニン主義教育者会議で、Deborin は彼の哲学上の大綱を提示し、異端者に対する非難を繰り返した。
共産主義アカデミーは彼を完全に支持し、機械主義を非難する声明(decree)を発した。
 このDeborinの例に見られるように、以前に会議自体が、プロレタリアートの独裁の理論的武器としてのマルクス=レーニン主義の役割を確認し、自然科学へのマルクス主義の方法を適用することを求め、機械主義者たちを「修正主義」、「実証主義」そして「卑俗的進化主義」と非難する決議を採択していた。
 哲学上の諸問題を党の会議または党の支配に服する集会での票決によって決定するという習慣は、このときまでに十分に確立されており、驚く者は一人もいなかった。
 機械主義者たちは議論で自己防衛し、反対攻撃すらした。「観念論的弁証法」を主張し、自然に対して空想上の図式を課し、機械主義に対してのみ矛先を向け、観念論が提起する諸問題を無視し、注目を党が設定した実践的な責務から逸らすものだ、と彼らの反対者を追及することによって。
 しかしながら、こうした防衛は無益だった。機械主義者たちは分離主義者(schismatics)だというのみならず、ちょうどその頃にスターリンが攻撃していた「右翼偏向主義」を哲学の分野で代表するものだという烙印を捺された。//
 (20)Deborin主義者たちは勝利のあと、哲学教育または哲学関係著作物の出版に関係する全ての諸組織を支配した。
 しかし、彼らの栄光は長くは続かなかった。
 「弁証法論者」は、懸命に努力したにもかかわらず、哲学問題に関する党の期待を推し量らなかったようだ。
 1930年4月のモスクワでの第二回哲学会議で、Deborinとそのグループは、赤色教授研究所からの一団の若き党活動家によって攻撃された。党の精神を不十分にしか示していない、と糾弾されたのだ。
 この批判は6月に、M. B. Mitin、P. F. Yudin およびV. N. Raltsevich の論考で繰り返された。この論考は<プラウダ>に掲載され、編集部によって、つまりは党当局によって、推奨されていた。
 この新しい批判は党生活でと同様の哲学での「二つの前線での闘い」を呼びかけ、当時の哲学指導者たちは「形式主義者」で、レーニンを犠牲にしてプレハノフを高く評価し、哲学を党の目標から切り離そうとしている、と追及した。
 弁証法論者たちはこの責任について反論したが、無駄だった。
 12月に、赤色教授研究所内の党執行部は、スターリンにインタビューをした。スターリンは、Deborin主義者の考え方を表現するために「メンシェヴィキ化する観念論」という語を作り出した。
 それ以降、この言葉によるレッテル貼りは公式に採用された。そして、その執行部は、一方では機械主義者およびTimiryazev、Akselrod、Sarabianov、そしてVaryashという「しばしばメンシェヴィキ化する」修正主義者、他方ではDeborin、Karev、Sten、Luppol、Frankurtその他の観念論的修正主義者を非難する、長い決議を採択した。
 その決議は、「Deborin主義グループの理論的かつ政治的考え方全体は本質的に、非マルクス主義、非レーニン主義の方法論にもとづくメンシェヴィキ化する観念論に達しており、プロレタリアートを取り囲む敵対階級勢力の圧力を反映しているとともに、小ブルジョアのイデオロギーを表現している」、と述べた。
 このグループは、レーニンの論文「戦闘的マルクス主義の意義」の教えを「歪曲し」、「理論を実践から分離し」、そして「党哲学のレーニン主義原理」を変質させて拒絶した。
 彼らは、弁証法的唯物論の新しい段階としてのレーニン主義を理解することができず、多くの点で、機械主義を批判するふりを装いながら機械主義者と共通する根本教条に立っている。
 彼らの出版物は、プロレタリアート独裁に関する「カウツキー主義者」の誤りを含み、文化問題では右翼日和見主義者の誤りを、集団主義と個人主義に関してはBogdanov 主義者の誤りを、生産力と生産関係という概念に関してはメンシェヴィキの誤りを、階級闘争については準トロツキー主義者の誤りを、そして弁証法に関しては観念論者の誤りを含んでいる。
 Deborin主義者たちは、ヘーゲルを不当に賞賛した。世界観から方法論を、歴史的なものから論理的なものを、切り離した。そして、自然科学の問題に関するレーニンの重要性を過小評価した。
 党内部で富農の利益を擁護しようとする右翼偏向の理論的根拠であるので、この時点での主要な危険はたしかに、機械主義的修正主義だ。しかし、闘いは二つの戦線で果敢に行われなければならない。修正主義の二つの形態は、実際には一つのブロックを形成しているのだから。
 (21)共産主義アカデミーでのMitin の講義は、こうした批判の全てをさらに発展させた。彼自身はこのとき、「哲学戦線」での指導者になることを望んでいた。
 その講義は繰り返して「メンシェヴィキ化する観念論」とトロツキー主義の間の連環に言及した。すなわち、たしかに機械主義者たちはブハーリンや親富農偏向の哲学上の前面にいるので、Deborin主義者たちが正統派を装いつつトロツキー主義の左翼偏向を支持していると推論するのは当然だ、と。
 Mitin によると、二つのグループは、哲学および理論の問題ではレーニンはマルクスとエンゲルスが語ったのと同じことをたんに反復しているにすぎないという悪辣な中傷を広げていた。-まるでスターリンは、レーニンが「発展させ、深化させ、より具体的にすることで」マルクス主義理論史上の質的に新しい段階を代表していることを証明していないかのごとくに!
 偏向者たちはまた、哲学および自然科学を含む全ての科学は党の精神の中に注入されなければならないというレーニンの原理を無視している。
 Mitin は、プレハノフは多数の政治的かつ哲学的な間違いを冒している一方で、レーニンが言明したように彼の著作はマルクス主義文献の中での最良のものだという趣旨のKarev の論文を引用した。
 Mitin は述べた。このことは、Deborin主義者は「プレハノフ全体、メンシェヴィキとしてのプレハノフ」のために武器を取り上げていることを示す、と。
 Deborin主義者は、レーニンは哲学についてはプレハノフの生徒だと、あえて主張することすらする。だが実際には、レーニンはマルクスとエンゲルスの後の最も一貫した、正統なマルクス主義者だ。
 その一方でプレハノフは、弁証法を正しく理解しておらず、形式主義に落ち込み、不可知論へと傾き、Feuerbach、Chernyshevsky および形式論理の影響を受けている。
 Deborin主義者の過ちの根源は、しかしながら、「理論の実践からの分離」にある。
 彼らの機械主義者たちに対する闘いは、長年継続したけれども一人の機械主義者すら自分の誤りを認めなかった!、ということが示すように、模擬演習のようなものだ。
 実際のところ、二つのグループの間にはほとんど違いがない。メンシェヴィキ化する観念論者とメンシェヴィキ化する機械主義者はいずれも、レーニンの哲学を見下している。//
 (22)ソヴィエト哲学の粛清は、1931年1月25日の<プラウダ>で発せられた党中央委員会の布告(decree)によって完結した。この布告は<Pod znamenem Marksizma>の誤りを非難し、すでに記した批判を簡単に要約した。
 (23)Deborin、Luppolおよびその他の構成員は急いで自己批判を行い、正しい光を見るのを助けてくれたことについて党に感謝した。
 Sten、Luppol、Karev、Tymyanskyおよび他の多数の者は、1930年代の粛清の中で死んだ。
 Deborin は、<Pod znamenem Marksizma>の編集長を解任されたが(編集部は実際上完全に変わった)、生き残った。
 彼は党から除名もされず、その後の時代に申し分のないスターリン主義正統派の多くの論文を発表した。
 彼は、フルシチョフの時代まで生き延びた。そして晩年には、粛清の犠牲となった多数の生徒や同僚たちの社会復帰(・名誉回復)のために働いた。
 Asmus も戦後にまで生き残ったが(1975年死亡)、1940年代にはさらなる攻撃を受けた。
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 ④へとつづく。

1872/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.69、2004年合冊版p.841-p.843。
 英語訳書で文章構造の読解が不可能だと感じた二カ所でのみ、独語訳書を参照した。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義②。
 (9)Deborin の<序論>は、マルクス主義のプレハノフ学派の典型的な産物だ。
 諸概念の分析は何もなく、マルクス以前の哲学を悩ませた全ての問題を解決するものだと想定された、支持されない一連の主張だけを含んでいる。
 しかしながら、Deborinはプレハノフのように、Bacon、Hobbs、Spinoza、Locke、KantおよびとくにHegelの意義を弁証法的唯物論への途を準備するものと称えて、マルクス主義と過去の哲学全体との連環(link)を強調する。
 彼は、エンゲルスとプレハノフが定式化した線にもとづいて、観念論、経験主義、不可知論および現象主義を批判する。以下に示す部分的抜粋によって明らかになるように。//
 『さて、形而上学は、全ては存在する、しかし何も成らない、と主張し、現象主義は、全ては成る、しかし何も存在しない、つまり、無が現実に存在する、と主張する。
 弁証法が教えるのは、存在と非存在の統合は成りつつある、ということだ。
 具体的な唯物論的用語ではこれの意味は、全ての根拠は継続的な発展の状態にある物質だ、ということだ。
 かくして、変化は現実的かつ具体的であり、他方で、現実的かつ具体的なものは変化し得る。
 この過程の主体は絶対的に現実の存在であり、現象主義的な無に反対するものとしての「実体的な全て」(substantive All)だ。<中略>
 形而上学のいう性質なき不可変の実体と、実体の現実を排除することを想定する主観的かつ可変の状態との間の矛盾は、つぎの意味での弁証法的唯物論によって解消される。すなわち、実体、物質は動きと変化の永続する状態にある、性質または状態は客観的な意味をもつ、物質は原因と根拠づけ、質的な変化と状態の「主体」だ、という意味での弁証法的唯物論によって。』
 (<弁証法的唯物論哲学序論>第4版、1925年、p.226-7.)
 (10)この文章部分は、引用した本での、および他の彼の著作で見られる、Deborin のスタイルの典型だ。
 「弁証法的唯物論が教えるのは、…」、あれこれの哲学から「弁証法的唯物論は正しい部分を継受する」。
 主観的観念論者は物質を理解しないがゆえに間違っており、客観的な観念論者は物質が第一次的で精神は第二次的なものであることを認識しないがゆえに間違っている、等々。
 全ての場合に、通常は極端に曖昧に個々の結論が述べられる。そして、それを論拠で支える試みはない。
 彼らの対敵がそうである以上に、いかにして現象主義者が間違っているかを我々が知るのかは説明されない。 
 弁証法的唯物論はそのように我々に語るのであり、それが存在する全てなのだ。
 (11)弁証法論と「形而上学」の対立は、前者は我々に全ての物は連結し合っており、孤立している物は何もない、ということを教える、ということだ。
 全ては恒常的な変化と発展の状態にある。この発展は現実それ自体に内在する現実の矛盾の結果であり、質的な「跳躍」の形態をとる。
 弁証法的唯物論が述べるのは、我々は全てを知り得る、我々の知識を超える「物それ自体」は存在しない、人は世界の上で行動することで世界を知るに至る、我々の概念は「客観的」であって「事物の本質」を包摂する。
 我々の印象も「客観的」で、すなわちそれは客体を真似ることはないけれども、「反映」する(ここでDeborinは、レーニンが非難した誤りについてプレハノフを引き継ぐ)。
 印象と客体の合致は、客体にある同一性と相違が、主観的な「反射」での同一性と相違とに、適合していることにある。
 これは、Mach およびロシアでの彼の支持者たちであるBogdanov やValentino が拒否したものだ。
 彼らによれば、精神的な(psychic)現象だけが現実であり、「我々の外」の世界は存在していない。
 しかし、その場合に、自然の法則は存在せず、したがって何も予見することはできない。
 (12)彼らの著述は教義的で単純で、かつ実質に乏しいものだったが、Deborin とその支持者たちには、歴史的研究の必要を強調し、古典的文献に関する公正な知識で一世代の哲学者たちを訓練する、という長所があった。
 さらにまた、マルクス主義の「質的な」新しさを強調しつつも、伝統にあるその根源に、とくにヘーゲルの弁証法との連環に、注意を向けた。
 Deborin によれば、弁証法的唯物論はヘーゲルの弁証法とフォイエルバハ(Feuerbach)の唯物論を統合したもの(synthesis)だった。弁証法的唯物論には、これら二つの要素が変形され、かつ「高い次元へと止揚され」ている。
 マルクス主義は「統合的な世界観」で、知識に関する一般的方法論として弁証法的唯物論を、また、別の二つの特有の見地をも、すなわち自然の弁証法と歴史の弁証法、あるいは歴史的唯物論を、構成した。
 エンゲルスが述べたように、「弁証法」という用語は三重の意味で用いることができる。
 「客観的」弁証法は、諸法則または現実の「弁証法」的形態と同じものだ。
 「弁証法」はまた、これら諸法則を叙述したものを意味する。
 あるいは第三に、普遍世界〔=宇宙〕の観察方法、すなわち広義での「論理」を意味する。
 変化は、自然と人間史のいずれにも同等に適用される一般的な規則性をもつ。そして、この規則性の研究、すなわち哲学は、したがって、全ての科学を統合したものだ。
 科学者がこの方法論的観点から正しく出発し、自分たち自身の観察の意義を理解するためには、哲学の優先性を承認しなければならない。科学者はその哲学に対して、「一般化」のための素材を提供するのだ。
 かくして、マルクス主義は、哲学と正確な科学との間の恒常的な交流を求めた。
 自然科学や社会科学により提供される「素材」なくしては、哲学は空虚なものだ。しかし、諸科学は、それらを指導する哲学なくしては盲目だ。
 (13)この二重の要件がもつ目的は、十分に明確だった。
 哲学が科学の結果を利用する意味は、粗く言って、自然科学者たちは自然の客体が質的な変化を進行させている仕方を示し、そうして「弁証法の法則」を確認する、そのような例を探し求めなければならない、ということだ。
 哲学が科学を自らの自然へと覚醒させ、盲目にならないよう保たせるのは、科学の内容を監視する、およびその内容が弁証法的唯物論に適合するのを確保する、そういう資格が哲学にはある、ということを意味する。
 後者〔弁証法的唯物論〕は党の世界観と同義語であるがゆえに、Deborin とその支持者たちは、自然科学であれ社会科学であれ、全ての科学の内容に関する党の監督を正当化する理由を提供した。
 (14)Deborin は、自然科学での全ての危機は物理学者がマルクス主義を習得しておらず、弁証法の公式を適用する仕方を知らないことによる、と主張した。
 彼は、レーニンのように、随時的にであれ継続的にであれ、科学の発展はマルクス主義哲学の出現へと至るだろう、と信じた。
 (15)このような理由で、Deborin とその支持者たちは、機械主義者たちは科学の自律性と哲学的諸前提からの自立に固執することで致命的な誤りに陥っている、と糾弾した。
 このように理解される唯物論は、他の存在論的(ontological)教理以上に経験論的中立主義と共通性があり、いかなる外界の要素も全てなくしての自然の観察に他ならないとする、唯物論の性質に関するエンゲルスの論及を想起させる。
 Deborin は、自然科学は何らかの哲学的な根拠を承認しなければならない、ゆえに哲学から誘導的役割を剥奪し、またはそれを全く無視するいかなる試みも、実際には、ブルジョア的で観念論的な教理に屈服することを意味することになる、と主張した。
 全ての哲学上の観念はブルジョア的であれプロレタリア的であれ階級に基礎があり、機械主義者は哲学を攻撃することで、社会主義と労働者階級の敵を支援しているのだ。
 「質的な跳躍」の存在が否定され、全ての発展は継続的だと主張されるとしても、そうしたことは、結局は「跳躍」の例である革命の理念を実現することを意味しはしなかったのではないか?
 要するに、機械主義者たちは、哲学的に間違っているのみならず、政治的には修正主義者でもあったのだ。//
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 ③へとつづく。

1871/資料・史料-民科法律部会という「学会」による橋下徹批判/2012年。

 民科法律部会(民主主義科学者協会法律部会)というのは、法学研究者のうち、日本共産党員、同党シンパ、日本共産党シンパだと思われても痛痒を感じない人、日本共産党系か否かといった関心がおそらくなくただ「民主主義」に賛同している、又は種々の人間関係を考慮している、そういった人々、を会員とする「学会」だ。
 この民科法律部会は、この組織・団体の名前で、橋下徹大阪市長(当時)の施政を批判する「市民と一緒に大阪から民主主義のあり方を考える」と題するシンポジウムを2012年7月に行い、その内容を一冊の書物にまとめていた。
 なお、ここでも?「ポピュリズム」という語が使われているが、この点には立ち入らない。
 以下、その書名とシンポジウム報告者の氏名等を資料・史料として記録しておく。
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 浦田一郎=白藤博行編・橋下ポピュリズムと民主主義(自治体研究社、2012年10月)
 以下、編者と報告者。浦田は編のみ。所属は当時。テーマらしきものは秋月による。
 浦田一郎(明治大学、当時・理事長)。
 白藤博行(専修大学、当時・事務局長)/民主主義。
 小松 浩(立命館大学)/憲法上の民主主義。 
 榊原秀訓(南山大学)/自治体民主主義。
 市川須美子(獨協大学)/教育と自治体民主主義。
 西谷 敏(大阪市立大学(名誉教授))/労働組合と自治体民主主義。
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 以上。

1870/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義①。
 (1)ブハーリンの意図とは別に、彼の書物は1920年代に、対立する二つの派、「弁証法論者」と「機械主義者」の間の活発な論争に貢献した。
 この論争は、定期雑誌<Pod znamenem Marksizma >(マルクス主義の旗の下で)の頁上で繰り広げられた。
 1920年創刊のこの雑誌は、ソヴィエト哲学の歴史上重要な役割を果たした。また、党の理論的機関の一つだった。
 (創刊号はトロツキーからの手紙も載せていた。しかしながら、それはたんに一般論から成るにすぎなかった。)
 発表された諸論考は全て公称マルクス主義者のものだったが、最初の数年間は、例えば、Husserl のような、ロシア外部の当時の哲学に関する情報を読者は得ることができた。そして、論述の一般的なレベルは、後年の標準的な哲学著作よりもはるかに高かった。
 (2)かりに論争の要点を一つの文章で表現してよいとすれば、機械主義者は自然科学の哲学の介入への対抗を代表し、一方で弁証法論者は科学に対する哲学の優越性を支持した、そしてソヴィエトのイデオロギー的発展の特徴的傾向を映し出した、と記し得るだろう。
 機械主義者の考え方は否定的だと称し得る一方で、弁証法論者は哲学に大きな重要性を与え、自分たちはその専門家だと考えた。
 しかしながら、科学とはどのようなものであるかに関して、機械主義者はより十分に考えていた。
 弁証法論者はこの分野については無学であり、科学を「一般化」して統合する哲学上の必要性に関して一般論的定式化をすることに限定していた。
 他方で彼らは、哲学の歴史については機械主義者よりもよく知っていた。
 (党は結局は両派をともに非難し、無知の両形態の弁証法的な統合を生み出した。)
 (3)機械主義者はマルクス主義を受容したが、哲学はたんに自然科学と社会科学の全ての総計を示すものなので、科学的世界観には哲学の必要はない、と主張した。
 雑誌の最初の諸号の一つに、O. Minin による論考が掲載されている。この人物については他に何も知られていないが、機械主義者の反哲学的偏見を示す極端な例として、しばしば引用された。
 Minin がきわめて単純な形で述べた考えは、封建領主はその階級利益を増大させるために宗教を用い、ブルジョアジーは同様に哲学を用いる、というものだった。他方で、プロレタリアートはいずれも拒否し、その力の全てを科学から引き出す。
 (4)多かれ少なかれ、このような哲学に対する嫌悪は、機械主義派の者たち全体によく見られるものだった。
 最もよく知られた支持者は Ivan I. Skvortsvov-Stepanov (1870-1928)と、著名な物理学者の子息の Arkady K. Timiryazev (1880-1955)だった。
 すでに別の箇所でその考え方に論及したA. Akselrod も自称「機械主義的世界観」を公言していた。しかし、彼女はプレハノフの弟子として、この派の別の者たちよりも穏健な立場を採った。
 (5)機械主義者たちは、エンゲルスの著作にある程度は支えられて、マルクス主義の観点からは、特定の科学を指示し、発見物の正否を判断する権利を要求する「科学の中の科学」のようなものは存在しない、と考えた。
 対立派が理解する弁証法なるものは、余計なものであるばかりか科学的考究とは矛盾している。それは科学の知らない世界観の全体や範疇を持ち込むもので、マルクス主義の科学的な革命精神と社会主義社会の利益といずれとも疎遠なヘーゲル的な継承物だ。
 科学の当然の意図は、全現象を物理的または化学的過程へと整理することで全ての現象をできるだけ正確に説明することだ、他方で質的な飛躍、内部的矛盾等があるという弁証法論者は、反対のことをしている。弁証法論者たちは、実際には現実の多様な分野の間のその言う質的な相違を、観念論者から虚偽の全体性を借用することによって確認しているのだ。
 全ての変化は最終的には質的な条件へと切り縮めることができる。そして、例えばこのことが生きている現象に適用されないという考え方は、もはや観念論的な生気論(vitalism)にすぎない。
 確かに、正反対の物の間の闘いを語ることはできるが、概念の内部的分裂というヘーゲル的意味においてではない。すなわち、その闘いは物理学や生物学で、あるいはいかなる特定の弁証法的論理に頼る必要のない社会科学で、観察され得るような矛盾する力の間のものだ。
 科学的考究は完全に経験にもとづいていなければならない。そして、全てのヘーゲル的な弁証法の「範疇」は、経験上のデータへと単純化することはできない。
 弁証法論者の立場は明らかに自然科学の進展によって掘り崩されているのであり、そのことは、宇宙での全ての現象は物理的および化学的な用語で表現することができるということを徐々にだが着実に明らかしてきている。
 切り縮めることのできない質的な相違と自然過程の非継続性を信じるのは全く反動的だ。弁証法論者が、「偶然」は主観的なもので個別の原因に関する我々の無知を示す語にすぎない、と論じているように。//
 (6)「弁証法論者」の立場は、1925年にエンゲルスの<自然の弁証法>が公刊されたことでかなり強くなった。この著作は、機械主義と哲学的ニヒリズムに対抗し、かつ科学の哲学的および弁証法的な解釈を擁護するための十分な武器を提供した。
 1929年にレーニンの<哲学ノート>が出版されて、さらに強い支援になった。この著作は、ヘーゲル弁証法の唯物論的範型の必要性を強調し、弁証法の「範疇」の長いリストを列挙し、対立物の闘争と統合の原理はマルクス主義の中心にある、と宣告した。//
 (7)二つの対立する派のうちでは弁証法論派が多数になり、科学的な諸装置をより十分に備えることになった。
 彼らの指導者で最も活動的な執筆者は、Abraham Moiseyevich Deborin (1881-1963) だった。
 彼はKovno で生まれ、若いときに社会民主主義運動に参加し、1903年以降はスイスにいた<エミグレ>だった。
 彼は最初はボルシェヴィキで、のちにメンシェヴィキ派に加わった。
 革命後には数年の間は非党員マルクス主義者だったが、1928年に再入党した。
 1907年に彼は<弁証法的唯物論哲学序論>を執筆し、1915年になって出版された。、
 この書物は何度も重版されて、1920年代でのロシアの哲学教育の主要な文献だった。
 彼は党員ではなかったけれども共産主義アカデミーや赤色教授研究所で講義をし、若干の著作を発表した。
 1926年以降は<Pod znamenem Marksizma >の編集長で、この雑誌はこのときから、機械主義者の論考を掲載するのを中止し、純粋な弁証法論者のための雑誌機関になった。
 (8)自分で執筆しはしなかったが、Deborin は哲学に精通していた。
 例えばプレハノフには見出せない考えを、彼はほとんど発していない。しかし、のちのソヴィエトの哲学者たちと比べると、彼とその支持者たちは哲学の歴史に関する公正な知識をもち、それらを論争上の目的のために巧く用いることができた。//
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 ②へとつづく。

1869/宮地健一HPによる日本共産党の異様性・稀少性。

 <宮地健一のホームページ>の中の、コミンテルン型共産主義運動の現状-ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り→1/ヨーロッパの発達した資本主義国における転換・終焉の3段階・2/ヨーロッパ各国・各党の終焉の経過と現状→3)/発達した資本主義国での運動…ユーロ・コミュニズムといわれた諸党、の中につぎの表が掲載されている。宮地作成のものと思われる
 <(表1)レーニン型前衛党の崩壊過程と割合
 この表は、「レーニン型前衛党」の要素として、①プロレタリア独裁理論、②民主主義的中央集権制、③前衛党概念、④「マルクス・レーニン主義」、⑤政党名=「共産党」を挙げ、ヨーロッパ各国および日本と<社会主義4国(中国・北朝鮮・ベトナム・キューバ)>の各<共産党>がどのように維持したり、放棄等をしたりしているのかの「現状」を示している。
 これによると、社会主義4国は北朝鮮の党名が「労働党」である以外は全て「堅持」している。
 ヨーロッパ(東欧は除外)各国の共産党は、⑤の政党名(政党形態)の項によると、1.イタリア-「左翼民主党」に1991年に改称、2.イギリス-1991年に解党、3.スペイン-1983年に分裂、4.フランス-「共産党」維持、5.ポルトガル-「共産党」維持。
 以上と日本(日本共産党)をすでに比べてみると、日本と同じなのはフランスとポルトガルだけ。
 ④「マルクス・レーニン主義」の堅持状況は、1.イタリア-放棄、2.スペイン-放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。
 そして宮地は日本(日本共産党)は「訳語変更堅持」だとする。これは、「科学的社会主義」という語・概念への言い換えのことを意味するとみられる。
 以上までで日本(日本共産党)を比べてみると、日本と同じなのは、すでにポルトガル(ポルトガル共産党)だけ
 ③の前衛党概念の堅持状況も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。宮地によると日本は「隠蔽・堅持」。
 ②の民主主義的中央集権制という組織原則については、1.イタリア-1989年に放棄、2.スペイン-1991年に放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。宮地によると日本は「略語で堅持」。おそらく「民主集中制」だろう。
 この点も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。
 ①のプロレタリアート独裁理論については、1.イタリア-1976年放棄、2.スペイン-1970年代前半放棄、3.フランス-1976年放棄、4.ポルトガル-1974年放棄
 ここで、初めて、日本とポルトガルの違いが出てくる。
 日本共産党は「プロレタリアート独裁」という言葉(訳語)を変更しているが、実質的には維持しているからだ。宮地健一も、日本共産党につき「訳語変更堅持」と明記している。
 宮地健一は、この表の上すぐと下で、つぎのように日本共産党の基礎的な現状についてまとめ、コメントしている。一文ごとに改行。
 「資本主義諸国において、残存するレーニン型前衛党は、2党だけになってしまった。
 ただ、ポルトガル共産党は、1974年12月、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論は誤りだとして、放棄宣言をした。
 よって、5つの基準・原理のすべてを、『訳語変更、略語方式、隠蔽方式』にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。

 「21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。」 
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 「世界で日本共産党ただ一つ」、「日本共産党という一党だけが」ということは<誤り・間違い>であることの論拠にはならない。
 しかし、日本には<左翼>または<容共>者が欧米各国に比べて異様に多いということの根本的な原因を、この日本共産党という独特の政党・政治組織の存在に求めることは誤りではない、と考えられる。
 上に記されているような意味で「世界でただ一つ」の共産党がある程度の組織を維持しつつ存在するがゆえに、安心して?、朝日新聞社等々の「左翼」メディアがあり、また、立憲民主党等の「左翼」政党がある。岩波書店(・日本評論社法学系)等の「左翼」出版社もある。
 立憲民主党はともあれ、朝日新聞社、岩波書店等々の中には、当然のごとく日本共産党員もいる。
 また、日本共産党の路線が<先ず民主主義革命>であるために、「民主主義」という旗印(これに近いのが「平和」・「護憲」)を支持して日本共産党の周囲に、ある程度の範囲の者たちが集まってくる(そして入党勧誘の候補者になる者もいる)ということになる。
 こうしたことの背景にはさらに、日本はほぼ日本語だけで社会が動き、(共産主義・共産党に関するものも含めて)英語等の外国語による世界の情報が十分に正確には入っていない、ということがある。
 上の宮地健一が示すような現状は、日本ではほとんど知られていないだろう。
 そうした外国語情報の流入は意図的に阻止されていることがある、と考えられる。
 明らかに<反共産主義>の文献は、どの分野であれ、日本語に訳されて出版されることが全くないか、ほとんどない。少なくとも大手出版社はそのような文献の邦訳書を出版しない。
 欧米では意見・感想の違いはあっても読書されて当然の、例えばレシェク・コワコフスキの大著、リチャード・パイプスの二著の邦訳書がいまだに日本に存在していないのは、その顕著な例だろう(一方で、欧米の若手<親マルクス主義系>研究者の本が簡単に邦訳されたりしている)。

1868/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第2節・哲学者としてのブハーリン②完。合冊版、p.836~p.838。
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 (14)一般的には、弁証法全体は平衡状態(equilibrium)に対する妨害と復活の無限の過程へと簡略化されてよい。
 諸現象の「機械主義的」見方に対して「弁証法的」見方を対峙させることには、もはや何の目的もない。現代では、機械それ自体が弁証法的になっているごとく。すなわち、我々は物理学から、全てが他の全てに影響を与える、そして自然界に孤立しているものはいっさい存在しない、ということを学習しなかったのか?
 全ての社会現象は、人間の自然との闘いを原因とする、対立する力の闘争だとして説明することができる。 
 (にもかかわらす、ブハーリンは、共産主義が最終的に建設されればそれを最後に平衡状態は確立されてしまう、と考えたように見える。
 しかしながら、今のところは、技術的問題についての後退をも不可避的に含む革命的な時代に我々はいるのだ。)
 生産関係は単直に言って、「生きている機械」だと見なされた人間たちの、労働過程にかかる共同作用だ。
 この過程に従事している間に人々が考えたり感じたりしているということは、生産関係はその性質上精神的(spiritual)なものだということを意味しはしない。すなわち、精神的なものは全て、それらが存在するのは物質的な必要性があるからであり、生産と階級闘争に奉仕している。
 例えば、Cunow とTugan-Baranovski が主張するように、ブルジョア国家が全階級の利益となる働きをする、ということはあり得ない。
 ブルジョアジーはたしかに、自分たちのために、公共的業務の分野で活動することを強いられる。例えば、道路の建設、学校の維持、科学知識の普及。
 しかし、これらは全てが純粋に資本主義者の階級利益の観点から行われるのであり、そうして、国家は階級支配のための道具に他ならなくなる。//
 (15)ブハーリンは<史的唯物論>の中で、「平衡状態の法則」以外に、社会生活に関する他のいくつかの法則を定式化した。
 そのうちの一つ、「社会現象の物質化の法則」は、イデオロギーと精神生活の多様な形態は、それ自体の実存性があって一層の進化の出発地点となる、そういう物体に-書籍、図書館、美術画廊等に-具現化される、というものだ。
 (16)ブハーリンのこの書物は極端に単純なもので、ある範囲ではそれはレーニンの<経験批判論>を上回りすらする。
 レーニンの論拠は論理的に無価値のものだったが、それでも彼は少なくとも論じようとした。しかし、ブハーリンは論じようとすらしていない。
 ブハーリンの著作は、教義的にかつ無批判に、使われる概念を分析する試みをいっさいすることなく明言される「諸原理」、「根本的諸点」の連続だ。また、それらは、諸教理を定式化するとすぐに生じる、そして繰り返して批判的に進められた、史的唯物論に対する反対論を論駁しようともいっさいしないで語られている。
 彼がピアノが存在していなければ誰もピアノを弾けないということで芸術が社会条件に依存していることが証明される、と我々に述べていることは、その推論のレベルを明らかに例証している。
 思考の未熟さの例は、つぎのように幼稚に信じていることだ。すなわち、未来の科学は技術的発展の光を当てて社会革命の日付を「客観的に」予言することができるだろう。
 さらには、人々が書物を執筆する「科学的法則」、あるいは宗教の起源に関する根拠なき幻想、等々。
 この「手引き書」の特質は、のちのマルクス主義文献の多くのそれのように、「科学的」という語を絶え間なく使用していることでありり、それ自体の言明がこの性格を特別の程度に有すると執拗に主張していることだ。//
 (17)ブハーリンの書物の凡庸さを、グラムシ(Gramsci)やルカチ(Lukács)のような知的なマルクス主義批判者は見逃さなかった。彼らはとくに、ブハーリンの「機械主義」の傾向に注意を向けた。
 ブハーリンは社会を、生起する全てはそのときどきの技術の状態によって説明することのできる、結び合った全体だと考えた。、
 人々の思考や感情、人々が表現する文化、人々が作り出す社会制度、これらは全て、自然法則がもつ不変の規則性を伴う生産力によって生み出される。
 ブハーリンは、「平衡状態の法則」でもって何を明瞭には意味させたいのかを、説明しない。
 社会での平衡状態は継続的に攪乱されかつ復活されている、そして平衡状態は技術のレベルと生産関係の「合致」に依存する、と我々は語られる。
 しかし、ある所与のときにこの合致が存在するか否かを決定する際に用いる規準(criteria)に関する示唆は、いっさい存在しない。
 実際にブハーリンは、平衡状態の攪乱を革命または全ての社会転覆と同一視しているように見える。
 かくして「平衡状態の法則」が意味するのは、危機と革命は歴史上に発生した、そして疑いなくもう一度発生するだろう、ということのように見える。
 社会現象の研究はそれ自体が社会現象で、そのようなものとして歴史的な変化を発生させるのを助ける、ということをブハーリンの頭は思いつかなかった。
 ブハーリンは、天文学が惑星の運動を我々に教えるのと同じ方法で、未来に関する「プロレタリアの科学」は歴史的事象を分析して予言するだろうと信じていた。//
 (18)ブハーリンの政治的地位のおかげで、彼のマルクス主義に関する標準版は長らく、党の「世界観」を最も権威をもって言明したものと見なされた。スターリンの著作がそうなったほどには、忠誠者に対する拘束力あるものにはならなかつたけれども。
 彼の<史的唯物論>は実際、スターリンが自分自身の手引きとしたほとんど全てのものを含んでいた。
 スターリンは、「平衡状態の法則」に言及しはしなかった。
 しかし彼は、ブハーリンの「弁証法の法則」を継受して、歴史的唯物論について哲学上の唯物論の一般原理の「適用」または特殊な場合であると説明した。
 その基礎をエンゲルスに、とくにプレハノフに見出すことができるこのような接近方法は、ブハーリンによって経典的マルクス主義の本質部分だとして提示された。//
 (19)のちにブハーリンがその栄誉ある地位から転落して「機械主義」が非難されたとき、つぎのことを示すのが、党哲学者たちの仕事になった。すなわち、彼の「機械主義」的誤りとその政治上の右翼偏向は分かち難く結びついている、そしてレーニンが正当に譴責した弁証法の無知こそが彼が富農(kulak)を防衛し集団化に反対した根本原因だ。
 しかしながら、この種の哲学と政治の連関づけは全く根拠がなく、わざとらしい。
 ブハーリンの著作にある曖昧な一般論は、特定の政治的結論の根拠を何ら提供していない。
 但し、当時にまたはのちに誰も論難しなかったつぎのような前提命題は除く。例えば、プロレタリアートの社会主義革命は、最終的に世界を制覇するはずだ。宗教とは闘わなければならない。プロレタリア国家は、産業の成長を促進するはずだ。
 より厳密な結論について言えば、最も矛盾する趣旨が、同じ論理を使って同じ理論上の定式から演繹されている。教理(doctrin)は事実上、政治に従属している。
 「一方で」土台は上部構造を決定するが、「他方で」上部構造は土台へと反作用するのだとすれば、いかなる程度であっても、またいかなる手段をとるのであっても、「プロレタリア国家」は経済過程を規整するだろうし、つねに教理と合致して行動することになるだろう。
 ブハーリンは、都市と田園地帯の間の経済の均衡を混乱させるとスターリンを責め立てた。しかし、彼の「平衡状態の法則」は、いつそしてどのような条件のもとであれば現在の平衡状態が維持されるのかそれとも破壊されるのかに関する手がかりを、何ら提供しなかった。
 最終的な安定が共産主義のもとで達成されるまでは、平衡状態は攪乱されつづけるだろう、そしてスターリンの「上からの革命」(revolution from above)、換言すると農民層の強制的収奪、のごとき政策は、平衡状態へと向かう社会の一般的趨勢と完全に合致しているかもしれない。なぜならば、国有産業と私的農業の間の矛盾を除去すること、そのことで不均衡の要因を取り除くことは、政策の目標だからだ。
 Cohen はつぎのことを正しく(rightly)観察している。すなわち、ブハーリンが手引書を執筆したのは、党の言葉遣いでは極端に「主意主義的な」(voluntaristic)ものと称される経済現象に対する態度の実例を彼自身が示したときだった。ブハーリンは、経済生活の全ては行政的かつ強制的な手段によって完全に十分に規整され得る、プロレタリアートの勝利ののちには全ての経済法則が弁証法的に取り替えられるだろう、と信じた。
 ブハーリンはのちに戦時共産主義の考えを放棄し、ネップのイデオロギストになった。
 しかし彼は、<史的唯物論>の諸テーゼを変えることはなかった。
 そのゆえに、彼の著作の中に1929年の彼の政策のための着想を探し出そうというのは馬鹿げたことだ。
 ついでに言えば、戦時共産主義という観念もまた、それから演繹することはできない。
 我々は、もう一度、かかる曖昧な哲学的言明はいかなる政策を正当化するためにも用いることができる、とだけ言おう。あるいは、同じことに帰一するのだが、かかる曖昧な哲学的言明は、いかなる政策もいっさい正当化しはしない。
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 第2節終わり。

1490再掲/レーニンとスターリン-R・パイプス1994年著終章6節。

 ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳する。 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。
 
章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節だ。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1867/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節/ブハーリン①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第2節・哲学者としてのブハーリン①。合冊版、p.833~p.836。
 (1)共産主義の際立つ特質の一つは、政治生活における哲学の重要性についての確信だ。
 まさに最初から、換言すればプレハノフの初期の著作から、ロシア・マルクス主義は、哲学、社会学および政治学に関する諸問題の全てを包摂しそれらに回答を与える統合的「システム」へと発展する傾向を示した。
 「真の」哲学はいったい何を構成要素とするのかについて個々人で異なってはいたけれども、彼らはみな、党には明瞭に定義された哲学上の考え方(outlook)が存在しなければならないし、存在した、この考え方は反論を許すことができない、ということに合意していた。
 ロシアには事実上、ドイツ・マルクス主義には多くあった、論理的に別個の二つの提示命題の中で意見表明をする哲学的「中立主義」に対応するものがなかった。
 第一は、社会現象に関する科学的理論としてのマルクス主義は、その他の科学からの哲学上の前提はもはや必要がない、とする。
 第二は、党は政治綱領と歴史的社会的教理に拘束されるが、構成員たる党員は自由にいかなる宗教も哲学も支持することができる、とする。
 レーニンはこれらいずれの考え方も激烈に攻撃した。そうすることで彼は、完全にロシア・マルクス主義の代表者だった。
 (2)その結果として、革命後の党執行部には、哲学教育にかかわり合う時間がなかった。
 しかしながら、まだ成典化された哲学は存在していなかった。
 マルクスとエンゲルスを別にすれば、プレハノフは主要な権威だと見なされた。
 レーニンの経験批判論に関する著作は、全ての者が参照すべく義務づけられるような標準的なテクストの地位を決して得ていなかった。
 (3)ブハーリンは、レーニンの後で、党の一般的哲学および社会的教理を体系的に提示することを試みた最初の党指導者だった。
 彼には、他のたいていの者たちよりも、この仕事をする適格性があった。国外逃亡中の年月の間に彼は、Weber、Pareto、Stammler その他の者の非マルクス主義的社会学の著作を研究していたので。  
1921年に彼は、<史的唯物論 : マルクス主義社会学の一般向け手引き>(英訳書、1926年)を出版した。
 レーニンの<経験批判論>は特定の一つの異説に対する攻撃だったが、それとは違って、ブハーリンのこの著作は、マルクス主義教理に関する一般的な説明を行うことを趣旨としていた。
 長年にわたって、この著作は党幹部たちを理論的に鍛えるための基本的な教科書として用いられた。これの重要性は、これが持つ長所にあるというよりも、その用いられたという事実にある。//
 (4)ブハーリンは、マルクス主義は社会現象に関する厳格に科学的な、かつ唯一科学的で包括的な理論だ、マルクス主義はその現象を他の科学がそれぞれに固有の対象を扱うように「客観的に」取り扱う、と考える。 
 それゆえに、マルクス主義は歴史的進化を的確に予見することができる。他の何もそうすることはできない。
 マルクス主義は全ての社会理論のように階級理論でもあるのはそのとおりだが、ブルジョアジーよりも広い精神的視野をもつプロレタリアートに託された理論だ。プロレタリアートの意図は社会を変革することであり、だから彼らは将来を見通すことができる。
 かくしてプロレタリアートのみが社会現象に関する「真の(true)科学」を生み出すことができるし、実際に生み出した。
 この科学は歴史的唯物論、またはマルクス主義社会学だ。
 (「社会学」(sociology)という語はマルクス主義者によって是認されておらず、レーニンは「社会学」それ自体は-たんにあれこれの理論にすぎないのではなく-ブルジョアが考案した語だとして拒絶した。
 しかし、ブハーリンは明らかに、科学的考究の特定の分野を表示するために既に用い得る語として、これを適応させようとした。)//
 (5)ブハーリンによれば、歴史的唯物論〔=史的唯物論〕は、社会科学と自然科学との間には探求方法についても対象に対する因果関係的接近についても何ら差違はない、という前提に立つ。
 全ての歴史的進歩は、不可変の因果法則に依っている。
 Stammler のような理論家による反対論はあるにもかかわらず、人間の目的というものはこれに違いをもたらさない。意思と目的はそれら自体が、他の全ての場合と同様に条件づけられている。
 自然および社会のいずれの分野の目的的(purposive)行動の理論も全て、非決定主義理論であり、Deity の仮定へとまっすぐに至ることになる。
 人間は、自由な意思をもたない。その行動の全ては因果的に決定されている。
 いかなる「客観的」意味においても、偶然(chance)というようなものは存在しない。
 我々が偶然と称しているものは、因果関係の二つの連鎖が交差したものだ。そのうちの一つだけが我々に知られている。
 「偶然」という範疇は、我々が無知であることをたんに表現しているにすぎない。//
 (6)必然性の法則は全ての社会現象に適用されるので、歴史の方向を予言することは可能だ。
 この予言は「まだ今のところ」正確ではないので、個々の事件の日時まで予告することはできない。しかし、それは、我々の知識がまだ不完全なものであることによる。//
 (7)社会学での唯物論と観念論の対立は、根本的な哲学上の論争の特殊な例だ。
 唯物論は、人は自然の一部だ、精神(mind)は物質の作用だ、思考(thought)は物理的な脳の活動だ、と主張する。
 これら全ては、観念論によって反論されている。観念論は宗教の一形態にすぎず、科学によって効果的に論駁されている。
 この狂気の唯我論(solipsism)または人または梨のような事物は存在しないとするプラトンの考えを真剣に受け取る者にとっては、それらの「観念(ideas)」にすぎないのか?
 (8)そして社会分野では、精神(spirit)と物質のうちの優先性に関する問題が生じている。
 科学の、すなわち歴史的唯物論の観点からは、物質的な現象つまりは生産活動が、観念、宗教、芸術、法その他の精神的現象を決定する。
 しかしながら、我々は、一般的法則が社会的論脈の中で働く態様を観察するよう留意しなければならず、また、単直に自然科学の法則を社会的用語へと入れ替えてはならない。//
 (9)弁証法的唯物論が教えるのは、宇宙には永遠のものは存在しないが、全ての事物は相互に関係し合っている、ということだ。
 私有財産、資本主義および国家は永続的なものだと何とかして主張しようとしているブルジョア歴史家は、このことを否定する。
 変化は、内部的な矛盾と闘争から現実に発生している。なぜなら、他の全ての分野でのように社会では、全ての平衡状態は不安定で、いずれは克服される。そして、新しい平衡状態は新しい原理にもとづかなければならない。
 この変化は、量的な変化が蓄積したことから帰結する質的な飛躍によって生じる。
 例えば、水は熱せられると一定の瞬間に沸点に到達し、蒸気となる。-これが、質的な変化だ。
 (ちなみに、我々は、エンゲルスからこの例を繰り返したスターリンまで「古典的マルクス主義著作者」のうち誰も、水が蒸気となるには摂氏100度に到達する必要はないということを観察しなかった、ということに気づいてよい。)
 社会革命は同種の変化であり、そしてこれが、質的な飛躍による変化という弁証法の法則をブルジョアジーが拒否する理由だ。//
 (10)変化と発展のとくに社会的な形態は、人間と自然の間のエネルギー交換、すなわち労働に依存している。
 社会生活は生産によって条件づけられ、社会の進化は労働生産性の増大を条件とする。
 生産関係が思考(thought)を決定する。しかし、人間は相互に依存し合いながら品物を生産するように、社会は諸個人のたんなる集まり(collection)ではなく、その全ての単位が相互に影響し合う、真の集合体(aggregate)だ。
 技術が、社会発展を決定する。
 他の全ての要因は、二次的なものだ。
 例えば、地勢(geography)はせいぜいのところ人々が進化する程度に作用することができ、進化それ自体を説明することはできない。
 人口統計上の変化は技術に依存しており、それ以外にではない。
 進化の種族諸理論について言うと、プレハノフはそれらを明確に論難していた。//
 (11)「究極的には」、人間の文化の全側面は技術の変化によって説明することができる。
 社会の組織は、生産力という条件に従って進化する。
 国家は支配階級の道具であり、その特権の維持に奉仕する。
 例えば、宗教はいかにして発生したのか?
 きわめて簡単だ。原始社会には部族の支配者がおり、人々はその発想を自分たち自身へと転化し、肉体を支配する精神(soul)という観念へと到達した。
 そして彼らは、その精神を自然全体へと転化し、宇宙に精神的な性質を与えた。
 こうした幻想は結局は、階級の分化を正当化するために用いられた。
 再び言うと、知られざる力としての神(God)という観念は、資本主義者が自分たちで支配できない運命に依存していることを「反映」(reflect)している。
 芸術は同様に、技術発展と社会条件の産物だ。
 ブハーリンは、こう説明する。未開人はピアノを弾くことができない。なぜなら、ピアノが存在していなければそれを演奏することも、そのために楽曲を作ることもできない。
 頽廃的な現代芸術-印象主義、未来主義、表現主義-は、ブルジョアジーの衰亡を表現している。//
 (12)これら全てにかかわらず、上部構造に全く重要性がないというのではない。
 ブルジョア国家は、結局のところ、資本主義的生産の一つの条件だ。
 上部構造は土台に影響を与える。しかし、いつの時点であっても、上部構造は「究極的には」、生産力によって条件づけられている。
 (13)倫理について言えば、これは階級社会の物神崇拝主義(fetishism)の産物で、階級社会とともに消失するだろう。
 プロレタリアートには、倫理は必要がない。倫理がそのために生み出す行動の規範は、性格において技術的なものだ。
 椅子を制作する大工が一定の技術上の規則に適合させるのと全く同じく、プロレタリアートは、社会構成員の相互依存に関する知識にもとづいて、共産主義を建設する。
 しかし、このことは、倫理と何の関係もない。//
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 ②へとつづく。

1866/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気④完。
合冊版、p.831~p.833。
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 (16)国家もまた最初から、教会と宗教の影響を破壊し始めた。
 これは明らかにマルクス主義の教理と一致しており、全ての独立した教育を破壊するという国家の目標とも一致していた。
 我々はすでに見たことだが、ソヴィエト体制は教会と国家の分離を宣言したけれども、この原理を現実化するのに成功していなかったし、成功することのできないものだった。
 なぜなら、教会と国家の分離は、国家が市民の宗教的見方に関心を抱かず、どの宗派に属しているかまたはいないかを問わず市民に同等の権利の全てを保障し、一方で教会は私法の主体として承認される、ということを意味するだろうからだ。
 国家がひとたび反宗教哲学をもつ党によって購われるものになってしまえば、この分離は不可能だった。
 党のイデオロギーは国家のそれになった。そして、全ての形態の宗教生活は、否応なく反国家活動になった。
教会と国家の分離は、信者とそうでない者とが同等の権利をもち、前者は無神論者である党員と同様の権力行使の機会をもつ、ということを意味する。
この原理を実現しようとするのはソヴィエトの条件のもとではいかに馬鹿々々しいかと述べるので十分だ。
 最初から根本的な哲学またはイデオロギーへの執着を表明した国家があり、その哲学またはイデオロギーにその国家の正統性が由来するのであるから、宗教<に対して(vis-à-vis)>中立などということはあり得なかった。
 したがって、1920年代の間ずっと、教会は迫害され、キリスト教を伝道することを妨害された。異なる時期ごとに、その過程の強度は違っていたけれども。
 体制の側は、階層の一部に対して譲歩するように説得するのに成功した-これはその一部の者たち自身にとって譲歩でなかったので、妥協だと言うことはほとんどできない。そして、1920年代の後半に多数の頑強な神職者たちが殺戮されてしまったあとで、ほどよい割合の者たちがとどまって忠誠を表明し、ソヴィエト国家と政府のために祈祷を捧げた。
 そのときまでに、無数の処刑、男女の各修道院の解体、公民権の収用や剥奪のあとで、教会は、かつてあったものの陰影にすぎなくなった。
 にもかかわらず、反宗教宣伝は今日まで、党の教育での重要な要素を占めている。
 1925年にYaroslavsky の指導のもとで設立された戦闘的無神論者同盟(the League of Militant Atheists)は、キリスト教者やその他の信者を全てのありうるやり方で執拗に攻撃して迫害し、そうすることで国家の支援を受けた。//
 (17) 新社会で最も力強い教育への影響力をもったのは、しかしながら、警察による抑圧のシステムだった。
 この強度は変化したけれども、いかなる市民でもいかなる時にでも当局の意ののままに抑圧手段に服することがあり得るというのは日常のことだった。
 レーニンは、新しい社会の法は伝統的な意味での法とは全く関係がない、と明言していた。換言すれば、政府権力をいかなる態様をとってであれ制限することが法に許容されてはならない、と。
 逆に一方では、いかなる体制のもとでも法は階級抑圧の道具に「他ならない」がゆえに、新しい秩序は対応する「革命的合法性」の原理を採用した。これが意味したのは、政府当局は証拠法則、被告人の権利等々の法的形式に煩わされる必要はなく、「プロレタリアート独裁」に対する潜在的な危険を示していると見え得る誰であっても単直に逮捕し、収監し、死に至らしめることができる、ということだった。
 KGBの先駆者であるチェカは、最初から司法部の是認なくして誰でも収監する権限をもっていた。そして、革命の直後に、多様で曖昧に定義された範疇の人々-投機家、反革命煽動者、外国勢力の工作員等々-は「無慈悲に射殺される(shot witout mercy)」ものとする、と定める布令が発せられていた。 
 (いかなる範疇の者は「慈悲深く(mercifully)射殺される」のかは、述べられていなかった。)
 これが実際上意味したのは、地方の警察機関が全市民の生と死に関する絶対的な権力をもった、ということだ。
 集中収容所(Conceneration camps)(この言葉は現実に使われた)はレーニンとトロツキーの権威のもとで、様々のタイプの「階級敵」のために用いるべく、1918年に設置された。
 もともとは、この収容所は政治的反対者を制裁する場所として使われた。-カデット〔立憲民主党〕、メンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕、のちにはトロツキストその他の偏向主義者、神職者、従前の帝政官僚や将校たち、および資産所有階級の構成員、通常の犯罪者、労働紀律を侵害した労働者、およびあらゆる種類の頑強な反抗者たち。
 数年しか経たないうちに、この収容所は、大量の規模の奴隷労働を供給するという利点によって、ソヴィエト経済の重要な要素になった。
 異なる時期に、とくにそのときどきの「主要な危険」に関する党の選択に応じたあれこれの社会集団に対して、テロルが指令された。
 しかし、最初から、抑圧システムは絶対的に法を超越していた。そして、全ての布令と罰則集は、すでに権力を保持する者による恣意的な権力行使を正当化することに寄与するものにすぎなかった。
 見せ物裁判(show trial)は初期に、例えばエスエルや神職者たちの裁判で始まった。
 来たるべき事態を冷酷に告げたのは、Donets の石炭盆地で働く数十人の技術者たちに関する1928年5月のShakhty での裁判だった。そこでは証拠は最初から最後まで捏造されており、強要された自白を基礎にしていた。
 怠業と「経済的反革命」の咎で訴追された犠牲者たちは、体制の経済後退、組織上の失敗および一般国民の哀れな状態の責任を負う、好都合の贖罪者だった。
 11名が死刑を宣告され、多数は長期の禁固刑だった。
 この裁判は、国家による寛大な処置を期待することはできないという、全ての知識人たちに対する警告として役立った、ということになった。
 Solzhenitsyn は訴訟手続の記録を見事に分析し、ソヴィエト体制のもとでの法的諸観念の絶対的な頽廃を描いてみせた。//
 (18)犠牲者の誰もがボルシェヴィキ党員ではなかった間は、党指導者の誰かが、いずれかのときに、抑圧や明らかに偽りの裁判に対して異議を申立てたり、または妨害を試みたりした、とするいかなる証拠もない。
 反対派集団は、献身的な党活動家だった自分たちの仲間にまでテロルが及んできたとき初めて、苦情を訴え始めた。
 しかし、そのときまでには、苦情は無意味になっていた。
 警察機構は完全に、スターリンとその補助者たちの掌中にあった。そして、下部については、それが党の官僚機構に先行していた。
 しかしながら、警察が党全体を統制していた、と言うことはできない。なぜなら、スターリンは、警察のではなく党の最頂部にいた間ずっと、至高の存在として支配した。彼が党を統治したのは、まさに警察を通じて、なのだ。//
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 第1節終わり。第2節へとつづく。

1865/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気③。合冊版、p.828~p.831。
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 (11)Pashukanis の理論はじつにマルクスの教えに深く根ざしており、当時にルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)によって進められたマルクスの解釈と合致していた。
 他方で、Renner やカウツキーのような社会民主主義者は、法を個人間の関係を規律するための永続的な道具だと見なした。
 物象化を分析したルカチの議論によれば、法は商品交換が支配する社会での人間関係を具象化して物神崇拝的な性格のものにする形式だということは、マルクスの社会哲学から帰結する。
 社会生活が介在者のいない形態に戻るときには、人間は、抽象的な法的規則を通じて彼らの関係を管理することを強いられないだろうし、あるいはそうできすらする。
 Pashukanis が強調したように、法的な協同は、抽象的な 法的範疇へと個人を変化させる。
 従って、法は、ブルジョア社会の一側面であり、そこでは全ての個人的協同関係は具象化した形態をとり、諸個人は、非人間的な力のたんなる操り人形だ。-経済過程における交換価値のそれら、あるいは政治社会における抽象的な法的規則。
 (12)マルクス主義から同様の結論が、1920年代のもう一人の法理論家、Petr I. Stuchka によって導かれた。この人物は、法はそのようなものとして階級闘争の道具であり、ゆえに階級対立が継続する間は存在するに違いない、と主張した。
 社会主義社会では、法は敵対階級が抵抗するのを抑圧するための道具であり、階級なき社会ではそれを必要とすることはもうあり得ない。
 コミンテルンでラトヴィアを代表したStuchka は、長年の間、ソヴィエト秘密警察の幹部だった。//
 (13)党の歴史よりも政治的敏感度が低い文学やその他の分野では、国家や党指導者たちは多くの場合、体制に対する一般的な忠実性の範囲内である程度の多元主義を認めることに痛みを感じなかった。
 レーニンもトロツキーも、ブハーリンも、文学に対して拘束着(strait-jacket)を課そうとはしなかった。
 レーニンとトロツキーは古い様式のものが個人的な好みで、<アヴァン・ギャルド>文学とかプロレタリア文学(Proletkult)とかを読まなかった。
 ブハーリンは上の後者に共感を寄せたが、文学を話題にしたいくつかの記事を執筆したトロツキーは、「プロレタリアートの文化」ではなく、かつ決してそうなり得ないと、にべもなく述べた。
 トロツキーは、つぎのように論じた。プロレタリアートは、教育を受けていないために、現在ではいかなる文化も創出することができない。将来についても、社会主義社会はいかなる類の階級文化も創出しないだろう。しかし、人間の文化全体を新しいレベルにまで引き上げはするだろう。
 プロレタリアートの独裁は、輝かしい階級なき社会が始まるまでの短い過渡的な段階にすぎない。-その社会は、全ての者がアリストテレス、ゲーテ、あるいはマルクスと知的に同等になることのできる、超人たち(supermen)の社会だ。
 トロツキーの考えでは、文学様式のうちのいずれか特定のものを崇めたり、内容と関係なく創作物に対して進歩的とか反動的だとかのレッテルを貼るのは、間違いだった。
 (14)芸術や文学に様式化された型をはめたこと以降の推移は、全体主義の発展の自然な結果だった。すなわち、それは国家、党、そしてスターリンを賛美するメディアへと移行していった。
しかし、創造的なはずの知識人界、少なくともその大部分は、そのように推移するのををかなりの程度、助けた。
 多様な文学および芸術の派が競争し合っていて、体制に対する一般的な忠実性を守るという条件のもとで許容されていた間は、ほとんど誰も、好敵たちに対抗するために党の支援を依頼することなどしなかった。このことはとくに、文学界と演劇界に当てはまる。
 かくして、自分たちの考え方が独占するのを欲した文筆家等は、つぎのような毒に満ちた原理を受容し、かつ助長した。すなわち、人文や芸術のあれこれの様式を許容したり禁止したりするのは党および国家当局の権限だ、という根本的考え方を。
 ソヴィエト文化が破壊された一因は、文化界の代表者たち自身にあった。
 しかしながら、例外もあった。
 例えば、「形式主義(formalists)」派による文学批判は1920年代に盛んになり、重要な人間主義的動向として敬意が払われた。
 これは、十年間の最後には非難された。この派の若干の者たちは政治的圧力と警察による制裁に屈することを拒んだけれども、結局は沈黙を強いられなければならなかった。
 つぎのことは、記しておくに値する。このような頑強さの結果として、形式主義派は地下の動向として存在し続けた。そして、25年後のスターリン死後の部分的な緩和のときに、力強く純粋な知識人の運動だったとして、再評価された。もちろん、そうした間に、この派の指導者たちの何人かは、病気その他の理由で死んでいたのだけれども。//
 (15)1920年代は、「新しいプロレタリアート道徳」の時代でもあった。-これは計画的または自発的な多数の変化を表象する用語だったが、全てが必ずしも同一の方向にあったのではなかった。
 他方で、「ブルジョア的偏見」に対する継続的な闘いがあった。
 これは、とくにマルクス主義的というのではなく、古いロシアの革命的伝統を反映していた。
 これは例えば、家族に関する法制度の緩和に見られた。婚姻と離婚はゴム印を捺す作業となり、嫡出子と非嫡出子の差別は廃止され、堕胎に対していかなる制限も課されなくなった。
 性的自由は、革命家たちの間の決まり事だった。Alexandra Kollontay が長らく理論の問題として擁護したように、また、その時代のソヴィエトの小説で見られ得るだろうように。
 政府は、親たちの影響力を弱めて教育の国家独占を容易にすることに役立つかぎりで、このような変化に関心をもった。
 公的な宣伝活動(propaganda)によって、幼児である子どもたちについてすら、あらゆる形態の集団教育が奨励された。そして、家族の絆はしばしば、たんなるもう一つの「ブルジョア的残存物」を意味するものとされた。
 子どもたちは、彼らの両親をスパイし、両親に反対することでも知らせるように教え込まれた。そして、そのように行ったときには、褒美が与えられた。
 しかしながら、この点に関する公的な見解は、授業や軍隊のような、生活の別の側面でのように、のちには著しく変化した。
 国家が個人に対して絶対的に支配することを助けるもの以外は、革命の初期の時代に説かれた急進的で因襲打破的な考え方の中から放擲された。
 それ以来、集団教育および両親の権威を最小限度にまで減らそうという理念は支配し続けた。しかし、主導性と自立性を促進すべく立案された「進歩的な」教育方法には終わりが告げられた。
 厳格な規律が再び原則となった。この点でソヴィエトの学校がロシア帝政時代のそれと異なっていたのは、思想教化(indoctrination)の強調がきわめて増大したことだけだった。
 そのうちに、厳格な性的倫理が、好ましいものとして復活した。
 最初のスローガンはもちろん、軍隊の民主化に関係するものだった。
 トロツキーは内戦の時期に、有能な軍隊には絶対的な紀律、厳格な階層制、職業的な将校団が必要であることに十分に気づいていた。しかし、兄弟愛、平等および革命的熱情にもとづく人民の軍隊という夢は、ユートピア的なものだとすみやかに認めざるを得なかった。//
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 ④へとつづく。

1864/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳のつづき。
 前回に作者・文筆家として名が挙げられていたBoris Pasternak (B・パステルナーク)はのちにその小説・ドクトル・ジバゴがノーベル文学賞を授与され(本人は辞退)、その小説は二度にわたつて映像化もされた。1965年(ラーラ役/ジュリー・クリスティ)、2002年(同/キーラ・ナイトリィ)。
 この欄で記したように(2017/05/18=No.1548)、この小説の「10月革命」以降の背景は最後の一瞬を除けばレーニン時代であり、映像化されている伝染病蔓延も戦闘も、ジバゴの友人(ラーラの公式の夫)のボルシェヴィキ(共産党)入党と悲惨な末路も、スターリンではなくて、レーニンの時代のことだ。
 レーニンが<市場経済から社会主義へ>の途を確立したと日本共産党・不破哲三が「美しく」いう1921年にあった飢餓も詳しくないが描写されている。まさにその1921年夏の<人肉喰いも見られた饑饉>の様相は、リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)の<ネップ>に関する章の中で、生々しく歴史叙述されている(すでにこの欄で試訳を紹介したー2017/04/24-25、№1515-1516)。
 今回に下に出てくるPashukanis (パシュカーニス・法の一般理論とマルクス主義には邦訳書が古くからあった(第一版/日本評論新社、1958年、第二版/日本評論社、1986年、訳・稲子恒夫)。
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 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気②。
合冊版、p.826~p.828。
 (5)新体制は識字能力を高め、教育を促進すべく多大の努力をした。
 学校はすみやかにイデオロギー的教化のために用いられ、教育制度全体がきわめて膨大なものになった。
 大学があちこちに設立されたが、多くは長く続かなかった。そのことは、つぎの数字が示している。
 戦争の前、ロシアには97の高等教育の場があった。1922年には、278になった。しかし、1926年に再びそのほとんど半分(138)に減った。
 同時に、「労働者学校(Workers' Faculties、rabfaki)」が創立され、労働者の高等教育を準備する速成課程を提供した。
 もともとは、ルナチャルスキのもとでのソヴィエトの文化政策は、限定された目的で満足するものだった。
 「ブルジョア」的な全ての研究者や教師を学問的諸団体から一斉に排除するのは、事実上は学習と教育を終焉させることになっただろうので、不可能だった。
 大学は最初から、アカデミーや研究所よりも強い政治的圧力に服しており、その当時でもまだ変わりはなかった。
 当然に、青年の教育に従事する団体に対しては、より緩やかな統制が行われた。
 1920年代に自然科学アカデミーは相当の範囲の自治力を維持していた。一方、大学は、早い時期にそれを失い、大学を管理する団体は教育人民委員部の代表者と労働者学校出身の党活動家で充たされていた。
 教授職は学術上の資格なしで政治的に信頼できる人物に配分され、学生の入学は「ブルジョア」の申請者、すなわち従前のインテリ層または中産階級の子女たちを排除するために、階級という規準(criteria)に従属した。
 公正で可変的なカリキュラムをもつ「リベラルな」大学という古い考え方とは反対の立場にある、「職業教育」に重点が置かれた。
 その目的は、古い意味でのインテリ層を生み出すのを阻止することだった。古い意味でのインテリ層とは、職業について熟練することだけではなくて、視野を広げ、全分野の文化を獲得し、一般的な諸論点に関する自分たち自身の意見を形成することを望む者たちのことだった。
 今日でも有効に維持されているこの原理的考え方は、初期に導入された。しかしながら、政治的圧力の強さは、多様な諸分野ごとに違っていた。
 自然科学の内容に関するかぎりは、最初は実際には強制(coercion)はなかった。
 人文社会科学の分野では、その中のイデオロギー上で敏感な分野で、すなわち、哲学、社会学、法および近現代史について、強制が最も厳しかった。
古代の世界、Byzantium、あるいは旧ロシアの歴史に関する非マルクス主義者の著作は、1920年代にはまだ出版が許されていた。//
 (6)ソヴィエト国家の中の非ロシア人に関しては、彼らの「自己決定権」はすぐに、レーニンが予告したようにたんなる一片の紙切れであることが判明していたが、彼らの母国語を媒介として、大学教育の利益を享受した。そして、ロシア化は、最初は重要な要素ではなかった。
 要するに、教育の一般的レベルは相当に劣悪なものだったけれども、新体制は、一般的に接近することの可能な学校制度を設立することに、ロシアの歴史上で初めて成功した。//
 (7)ソヴィエト権力の最初の10年間、諸大学は古いタイプのアカデミーにきわめて大きな影響を受けることとなった。いくつかの学部ですら-とくに、歴史、哲学および法の学部は、完全に「改良」されるか、閉鎖された。
 新しい教師階層を形成し、正統的な学習の伝搬を促進するため、当局は、党を基礎にした二つの研究施設を設立した。すなわち、大学での古いインテリ層の後継者を養成するための「赤色教授(Red Professors)」研究所(1921年)、そして初期の頃には、モスクワの共産主義アカデミー(Commuist Academy)。
 これら両機関はともに権力にあった時代のブハーリンによって支援され、「左翼」または「右翼」偏向主義という理由でしばしば浄化(purge)された。
これら両機関はやがて、党が学術上の全ての団体を十分に統制し、信頼できるスタッフで充足させる特別の訓練機関はもはや必要がなくなったときに、解体させられた。
 この時期にもう一つ生み出されたのはマルクス・エンゲルス研究所で、これは共産主義の歴史を研究し、マルクスとエンゲルスの諸著作の第一級の厳密な校訂版(M.E.G.A.版)を出版し始めた。
 その所長だった D. B. Ryazanov は、実際上は全ての純粋なマルクス主義知識人と同じく、1930年代にその職を解任された。そして、おそらくは粛清(purge)の犠牲者となった。彼は1938年にSaratov で自然の死を迎えたと、ある範囲の人々は言うけれども。
 (8)1920年代の主要なマルクス主義歴史家は、すぐれた学者でブハーリンの友人のMikhail N. Pokrovsky だった。
 彼は数年間、ルナチャルスキーのもとで教育人民委員代行で、赤色教授研究所の初代所長だった。
マルクス主義を用いて歴史を教え、詳細に分析すればマルクス主義の一般的議論が不可避的に確認されることを示そうとした。技術の決定的な役割と階級闘争、歴史過程での個人の副次的な重要性、全ての国家は根本的には同じ進化の過程を通り抜けるという教理。
 Pokrovsky は、ロシアの歴史を執筆し、レーニンに高く評価された。そして、大粛清の前の1932年に死ぬという好運に恵まれた。
 彼の見解はのちに不正確だとの烙印を押され、例えば歴史は過去に投影された政治にすぎないというしばしば引用された言術に見られるように、歴史科学の「客観性」を否認するものだとして非難された。
 しかしながら、彼は、「科学的な客観性」を主唱する党学者と違って、純粋な歴史家であり、良心的に証拠を分別する人物だった。
 彼とその学派に対する非難は主として、国家イデオロギーでのナショナリズムの影響の増大や、歴史に関する至高の権威としてのスターリン崇拝(cult)に関係していた。
 Pokrovskyには「愛国主義の欠如」があり、その研究はレーニンやスターリンの役割を低く評価した、とされた。
 こうした責任追及は、Pokrovsky がのちの年代には礼式(de rigueur)になったようには帝政ロシアの打倒を称賛せず、ロシア人民の美徳と一般的な優越性を称揚しなかったかぎりでは正しい(true)。//
 (9)党の歴史は当然に、全くの最初から厳格な統制に従属した。
 にもかかわらず、多年にわたって、単一の真正な見方というのはなかった。じつに1938年の<ソ連共産党史〔Short Course〕>までは、なかった。それまでは、分派闘争が継続し、各派は自分たちに最も都合のよい光に照らして党の歴史を語った。
 トロツキーは革命の見方の一つの範型を提示し、ジノヴィエフは別のそれを示した。
 多様な手引書が、出版された。もちろん全てを党の活動家や歴史家が命令のもとで書いていたけれども(例えば、A. S. Bubnov、V. I. Nevsky、N. N. Popov)、それらの内容は厳密には同一ではなかった。
 しばらくの間、最も権威ある見方だとされたのはE. Yaroslavsky のもので、1923年に最初に出版され、指導者間での権力の転移に合致するようにしばしば修正された。
 最後にはそれは、Yaroslavsky が編集者として行った集団的著作に置き換えられた。しかし、彼のそうした努力の全てにもかかわらず、「致命的な誤り」がある、すなわちスターリンを科学的に賛美していない、と非難されることとなった。
 実際、党の歴史は、他のいかなる学習分野にもないほどに、初期にすでに政治的な道具の位置をもつものへと貶められた。すなわち、最初から、党史に関する手引書〔manuals〕は、自己賞賛のそれに他ならなかった。
 それにもかかわらず、1920年代には、主としては回想録や専門雑誌への寄稿文のかたちで、この分野についての価値ある資料も公刊されていた。//
 (10)1920年代の法および国制理論に関する最もよく知られた専門家は、Yevgeny B. Pashukanis (1890-1938)だった。この人物は、多数の者たちと同様に大粛清のときに突然に死んだ。
 彼は、共産主義アカデミーでの法学研究部門の長だった。そして、その<法の一般理論とマルクス主義>(ドイツ語訳書で1929年刊)は、この時期のソヴィエト・イデオロギーの典型的なものだと見なされた。
 彼の議論は、法的規範の個別の変化にのみあるのではなかった。法それ自体の態様は、すなわち全体としての法現象は、物神主義的(fetishistic)な社会関係の産物であり、ゆえに、それの発展形態において、商業生産の時代を歴史的に表現したものだ、とした。
 法は、取引を規律する道具として生み出され、そのあとで他の類型の個人的関係へと拡張された。
 したがって、法は共産主義社会において国家や他の商品物神崇拝の産物と同じように消滅するはずだと考えるのは、マルクス主義と合致している。
 今日に力のあるソヴィエトの法は、まさにその存在自体で、階級がまだ廃棄されておらず資本主義の残存物が当然にまだ現にある、そういう過渡的な時代に我々がいることを示している。
共産主義社会に特有の法の形態のごときものは存在しない。その社会での個人的関係は、法的な範疇によって考察されることはないだろうからだ。//
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 ③へとつづく。

1863/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳を行ってきいるが、1300頁に及ぶ大著で、けっこうな数の回数を費やしても、試訳をこの欄で掲載したのは(最近に紹介した全巻・第一巻の冒頭や新旧のプロローグ・エピローグを除けば)、つぎに限られる。合冊版で示す。しかも、下の①の第17章については、レーニン・唯物論と経験批判論の前の「哲学」論争の一部は割愛している。
 ①第二部(巻)第16章・第17章・第18章、p.661~p.778。…主としてレーニン。
 ②第三部(巻)第1章、p.789~p.823。…主としてスターリン。
 全体からするとまだ10%強にすぎない。
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)のスターリン時代の本格的な叙述部分の試訳をまだ紹介していないのだが(14回までで中断している)、スターリン時代の様相を知っておくためにも、L・コワコフスキの著の上の②以降を訳しておくこととした。
 もともとは、レーニン期とされる<ネップ>と「10月革命」前後の政治史にしか関心がなかったのだから、この数年の間に関心は広がり、知識・簡単な素養も増えてきたものだ、と自分のことながら感心する。そして今や、「物質」と「観念」、「認識」あるいはそれにかかわる「言葉」・「言語」・「概念」や「思想なるもの」一般にも関心は広がっている。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)。
 第三巻p.45-47(ドイツ語版p.57-59)、合冊本p.824-826、の試訳。
 改行箇所はこれまで//で示してきたが、改行のつぎの冒頭に原著・訳書にはない番号を勝手に付すことにした(どうやら、その方が読みやすいと独断で判断したことによる。従って、(1)、(2)、…は、ここでの試訳のかぎりのものである)。
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 第三巻/第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立。
 第一節・知的および政治的な雰囲気(秋月注記・独語版=一般的な知的状況)①。
  (1)述べてきたように、1921年から1929年までのネップの時期は、知的分野での自由の時代では決してなかった。
 逆に、自立した芸術、文学、哲学および人文社会科学に対する圧力は増大していた。
 にもかかわらず、こうした諸分野でものちの集団化の時代に転換点を迎えた。それは、つぎのように叙述すことができる。
 ネップ期の文筆家や芸術家は体制に対して忠誠を示すことを要求され、反ソヴィエト作品を生み出すのは許されなかった。しかし、その制限の範囲内では、多様な動向が許され、実際にそれらが存在した。
 芸術や文学に排他的な派閥はなく、実験が許され、体制やその指導者を直接に称賛することは公刊物の<必須要件(sine qua non)>ではなかった。
 哲学の分野ではマルクス主義が至高なものとして君臨したが、まだ聖典化はされていなかった。そして、何が「真正の(true)」マルクス主義であるかは決して一般的になっていなかった。
 したがって、論争は継続し、マルクス主義と適合的であるのか否かを純粋に探求しようとする信念あるマルクス主義者がいた。
 さらに加えて、とくに重要な著作を残さなかったけれども、1920年代の哲学者たちは、「正常な」知的背景をもつ者たちであり、体制には忠実だったが、自分たちの思索に対して体制がどう反応するかに関して惑わされることがなかった。//
 (2)同様にまた、数年間は、私的な出版団体が活動していた。
 非マルクス主義の文献は1918-1920年にはまだ出版されていた-例えば、Berdyayev、Frank、Lossky、Novgorodtsev およびAskoldov のそれら。そして、<Mysl i slovo>や<Mysl>のような、一つまたは二つの非マルクス主義の定期刊行物もあった。
 こうしたことは、ソヴィエト権力に対する切迫した脅威があるがゆえに抑圧を増大させることが必要だというのちの論拠には根拠がない、ということを示している。
 相対的な文化的自由の数年間は内戦の時期であり、体制に対する脅威はのちの時代よりも大きかった(そして同様に、ある程度の範囲での文化問題の緩和は1941年とその後にに生じたが、それは国家の運命が分岐点に立っていたからだ)。
 しかしながら、1920年には大学での哲学講座は弾圧され、1922年には、上で言及した者たちを含めて、非マルクス主義の哲学者たちは国外に追放された。//
 (3)芸術や文学についての1920年代の特徴は、多数の価値ある成果を生んだことだ。
 革命に共鳴した傑れた作者たちは、著作よって革命に対してある種の真正らしさを与えた。その中には、Babel, 若き日のFadeyev、Pilnyak、Mayakovski、Yesenin、Atem Vesyoly およびLeonov がいた。
 彼らが示した創造性は、革命がたんなる<クー・デタ>ではなくて本当にロシア社会にあった諸力の爆発だったという事実の証拠だ。
 しかし、決してソヴィエト体制を支持しなかったその他の作者たちもまた、当時に活動していた。例えば、Pasternak、AkhmatovaやZamyatin。
  1930代には、こうしたことは全て終わった。
 実際、この時期に革命と合致していたのか否かや「ブルジョアの生き残り」だったのか否か、そしてどちらがいったい安全だったのかを語るのは困難だ。
 文筆家のうち従前の階級の者たちは殺戮(murder)され(Babel, Pylnyak, Vesyoly)、または自殺した(Mayakovski, Yesenin)。第二の範疇に入る者のうちMandelshtam のような何人かは、労働収容所で死んだ。
 しかし、他の者たちは迫害と悲嘆の時代を生き残り(Akhmatova, Pasternak)、あるいは何とかして国外へ逃亡した(Zamyatin)。
 スターリン専制を称賛する物書きになることを選んだ者たち(Fadeyev, Sholokhov, Olesha, Gorky)は、総じて次第に彼らの才能を失っていった。//
 (4)内戦後最初の数年間は、全ての文化分野での高揚があった。
 偉大な演出家や監督の名前-Meyerhold, Pudovkin, Eisenstein-は、演劇や映画の世界史の一つになっている。
 当時の西側の流行、とくに多かれ少なかれ<アヴァン・ギャルド(avant-garde)>型の様式は熱心に、かつその結果に関する恐怖なくして、取り入れられた。
  I. D. Yelmakov のような Freud に対するソヴィエトの支持者は、心理分析の唯物論的で決定主義的な側面を強調した。
 トロツキー自身が、フロイト主義に対する好意的な関心を示した。
 行動主義に関するJ. B. Watson の著作が、ロシア語に翻訳されて出版された。
 その当時はまだ、自然科学での新しい発展に対するイデオロギー的な攻撃はなかった。
 相対性理論は、時間と空間は物質の実存形態だと主張して弁証法的唯物論の正しさを証明すると論じる論評者たちが賛同して、受容された。
 教育分野での「進歩的」傾向もまた、歓迎された。とくに、紀律と権威に対抗するものとしての「自由学校」を Dewey が強調していたことは。
 同時に、例えば、Viktor M. Shulgin は、共産主義のもとでは学校は「消滅する」だろうとの展望を述べた。
 これは実際、旧世界の制度は全て、国家も軍隊も学校も、そして民族も家族も、消滅する運命にあるとするマルクスの教理と矛盾していなかった。
 このような見方は、それ自体がいずれは永遠に消滅する運命にあった、共産主義の無邪気な<アヴァン・ギャルド> 精神を表現していた。
 支持者たちは、理性が栄光ある勝利を獲得する前に、衰えている制度と伝統、神聖と禁忌、礼拝と偶像は灰燼となって崩壊する、そのような新しい世界が実際に実現することになるだろう、と信じた。もう一つのプロメテウスのごときプロレタリアートがヒューマニズム(人間主義)の新しい時代を創出する、そういう世界だ。
 こうした因習を打破する熱情は、文学や芸術上の<アヴァン・ギャルド>派の多数の西側知識人を魅了した。伝統、学界主義(アカデミズム)、権威および過去のもの一般に対する自分たちの闘いを政治的に具現化するものを共産主義のうちに見た、フランスのシュール・レアリスト(surrrealists)のような、西側知識人たちを。
 この時代のロシアの文化的雰囲気には、全ての革命の時期には共通する若々しくて未熟な性質があった。人生は始まったばかりだ、将来は無限にある、人類はもはや歴史の制約に縛られていない、と信じていた。//

1862/松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。

 「日本共産党の大ウソ・大ペテン」の連載?にそろそろ区切りを付けて終わっておかなければならない。
 大ウソ・大ペテンとして取り上げてきたのは、大きく、つぎの二つだった。
 第一。1994年党大会の直前まで、ソ連は「社会主義」国家だった(「現存」社会主義国という言い方もあった)と党の文献上も語ってきたにもかかわらず、さらには中国共産党がソ連を「社会帝国主義」国家だとして社会主義陣営ではないと主張していたときにいや「社会主義」国家で、ソ連を含む<社会主義の復元力>を信じる、等と主張していたにもかかわらず、1991年夏にソ連共産党が消滅し、同年1991年12月にソ連が解体したことについて、1994年党大会以降は、日本共産党は、ソ連はスターリンによって社会主義への途から踏み外した(ソ連はそれ以降社会主義国ではなかった)、そうしたソ連の大国主義・覇権主義、スターリン等と日本共産党は「正しく」闘ってきた、とのうのうと主張するという、大ウソ・大ペテン。
 第二。レーニンはネップ政策導入の時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という「普遍的」路線を明らかなものとして確立した(それをスターリンが継承しないで転落した)、という大ウソ・大ペテン。
 この第二について、不破哲三が画期的なものとして取り上げるレーニンの論文では、上のことは全く明らかではない、読み方がおかしいのではないか、というのが秋月に最後に残されている記述だ。
 ***
 その前に、つぎの書物に言及する。日本共産党の幹部以外では、-レーニン幻想をなお抱き、レーニンとスターリンを切り離してレーニンだけは擁護しようとする論者は多いが-ネップ期における<市場経済を通じて社会主義へ>の路線確立なるものを評価し擁護しているとみられる、稀有の文献だ。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。
 幹部というほどではない時期のもののようだが、この人物はかつて日本共産党(中央委員会?)政策委員会の長(・責任者)だったことをのちに知った。
 この本の「あとがき」はなかなか面白いので、紹介したくなって、今回の投稿になった。一行ごとにここでは改行する。
 社会主義について種々の否定的な要素が指摘されるが、としつつ、松竹はこう記す。
 「けれども、社会主義というものは、ほんらい、ソ連や中国などとは違うのではないかという思いは、〔1970年代の半ば以降〕少なくない若者が共通して感じていた。
 マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、そこでは人びとはそれなりに充足し、余暇を楽しんでいるはずだったのだから」。//
 レーニンについても「行き過ぎや誤りはあっただろうが、社会主義らしさを感じさせる成果を挙げたことは、率直に評価すべきだと感じてきた」。
 例えば、第一次大戦からの離脱、周辺諸国の領土返還、労働時間等の規制。
 「だから、いつか社会主義が輝きを取り戻す時代が来るのではないか、いやそうしなければならないと、私は心から思ってきたのである。それはいまも変わらない」。
 「それまで社会主義の立場にたっていた研究者の動向」は残念だ。
 「いまこそ、研究者は、社会主義の可能性を大胆に提示すべき時ではないのだろうか」。
 この本では「素人なりに取り組んだ」。/「社会主義の再生を心から願う」。
 以上、紹介・要約。
 2009年に、1955年生まれの54歳になる人物が、このようなことを書いていた。
 なかなか興味深く、面白いだろう。
 いったん社会主義(・共産主義)の虜になった、または<囚われてしまった>者の発想というのは、社会主義(・共産主義)をめぐる現実も理論動向も、もはや冷静には見ることができなくなるのだろう。
 何と言っても、「マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、…そこでは人びとはそれなりに充足し、……はずだったのだから」とか、「社会主義というものは、ほんらい、…」とかのように、「はずだ」、「ほんらいは」とかを持ち出すと何とでも言えるだろう。
 「本来」、こうなる「はずだ」というのは、いったいどういう意識なのだろうか。何ゆえにそんな規範論あるいは理念論が「現実に」なるという信念を持ち得るのだろうか、不思議だ。社会主義(・共産主義)というユートピアの到来を信じる強い「思い込み」があるのだろう。
 松竹伸幸、現在は、かもがわ書房の編集責任らしい。「文学部」出身ではなかった。

1861/池田信夫・ブログマガジン10月22日など。

 「進化」に関する池田信夫の書き込みが続いている。
 2018年10月16日付(のち同・ブログマガジン10月22日)①「人類は『集団主義』で生き残った」10月20日付(ブログマガジン同)「『無駄な進化』には意味があるのか」もそうだ。
 ①の最初にこうある。「集団が滅びると個体も滅びるので、脳には集団主義の感情が遺伝的に組み込まれている」。
 一瞥後は「集団主義」の<遺伝子化>ということに違和感があったが、きちんと読むと、「集団が滅びると個体も滅びるので」とあって、そもそも「個体」を守るという(第一次的?)本能=個体の生存本能のために「集団主義」感情も生まれる(遺伝に組み込まれている)というのだから、納得がいく。
 生物・動物の「進化」と人間または人間社会の「進化」または「進歩」の関連にはもともと関心があるので興味も湧く。そして、ときに雑談ふうに?池田が人間または社会にも言及している部分が面白い。例えば、「集団主義」にかかわって、こう語る。
 「だから猿が…ように、人間はいつも無意味な噂話をしている。その目的は話の中身ではなく、互いが仲間だと確認することなのだ」。
 この部分は、日本人のある範囲の者たちがが「左翼」=容共派と「保守」らしき派を作って、お互いの<身内で>、仲間どおしでは理解容易な言語と論理を使って「互いが仲間だと確認」し合っている様相を皮肉るものでもあるように思える。
 日本共産党その他の特定の「政治」団体・組織からすると、<味方か敵か>、<あっちかコッチか>あるいは<外の者か内の者か>という、「仲間」か否かの確認はきわめて重要なことなのだ、きっと。
 もともとは150人程度が適正な「集団」だったとされるが、池田の言うように、人間は、あるいはヒトの脳はそれ以上の数の仲間「集団」を作ってきた。 
 つぎに、上の②では、「無駄な進化」にも意味はあるのではないか旨が、小さなクモを素材にして語られている(ごく大まかに言って)。
 これは「適者生存」といいう「ダーウィン以来の進化論の原理」がそのままあてはまらない場合があることを意味する。
 そして池田は、人間または社会では「文化的な進化」は「遺伝的進化」と異なり、「脳の機能のほとんどは生存競争の中では無駄だが、意味があるのだ」と書いて締める。
 「近代社会では、かつては無駄だった論理的な思考力のすぐれた個体がエリートになった」という一文は、原始時代はともあれ古代でも「論理的な思考力のすぐれた個体」は集団?として必要だっただろうし、「エリート」という言葉の意味も問題にはなる。
 但し、全体の趣旨は理解できる。
 上にいう「生存競争」というのは、私が使ったことのある<食って生きていく>という本能を充たすための行動にほぼ近いだろう。
 だが、人間は、<食って生きていく>ことに最低限度は困らなくなると、それ以外の何かを求める<本能>的なものを有していると思われる。つまり、<より快適な、より愉快な生活>、あるいは<顕名意欲=名誉欲を充たし維持したいという意識> などだ。
 なぜこういったものが生じるかは、とくに後者については、なお検討が必要だとも思われる。しかし、いずれにせよ、現代の多くの人々にとって(つまり地球上にも日本にもいる「生存」自体に窮する人々を除いて)、「文化的な進化」を伴う「脳の機能」は決して無駄ではなく「意味」があり「有用」なものであるに違いない。
 さらに第三に、2018年10月28日付(のち同・ブログマガジン10月29日)③「血縁淘汰から『マルチレベル淘汰』へ」もある。これは、池田がすでに取り上げたことのある(そして私も触れたことのある)O・ウィルソンの本に関連する文章だ。
 ここで「血縁淘汰」というのは、私なりに理解すると、「血縁者=親子・兄弟姉妹等」の利益=「遺伝子を共有している確率(血縁度)」を優先し、「利他的な行動」を進化させて「個体」の利益を犠牲にするような「淘汰」=「自然選択」のことだろう。そして、これは上述と関連させると、「集団主義」=「集団」利益の優先、ということになるはずだ。
 O・ウィルソンはこれを「マルチレベル淘汰」と称して「個体レベル淘汰」と区別しているらしい。
 ハチのような場合はともかく、ヒト・人間の場合は、これはどのような示唆を生むのだろうか。
 池田信夫によると、上の後者につながる「個人的な利己心」を抑制して前者につながる「集団的な利他心」を強めるのが宗教・道徳で、遺伝しないが(ドーキンスという学者のいう)「ミーム(文化的遺伝子)」として継承される、という。池田によると「国家」そのものも、「一神教」も、どうもそのようなものらしい(なお、「戦争を抑止するシステム」としての「国家」という叙述には、日本の<左翼>・共産主義者はきっと驚くだろう)。
 興味深い叙述だ。秋月が関心をもつのはさらにその先で、宗教、道徳、「国家」観、「世界」観(途中のどこかに「人生」観を含めてもよい)に関する考え方・理解が人によって、また時代によって、帰属する「国家」によって様々であるのは、いったい何を原因としているのか、だ。
 遺伝子によらないとすれば、簡単に「生育環境」とか「社会」とか「教育」を持ち出す人もいるかもしれない。
 しかし、「社会」・「教育」(内容・制度)等そのものが「国家」や憲法を含む「法」(の内容・制度)によって大きくは包まれ、多少とも制約を受けていることを否定することはできない。
 ところでそもそも、池田信夫は、どうして「進化」あるいは「淘汰」について強い関心を示すのだろうか?
 ふと思いついたことがある。別に当たっている必要もない。
 マルクス(・エンゲルス)もダーウィンもおよそ19世紀半ばから後半の人物で、ある意味において、彼らの論は「近代」の「科学」の所産だったかに見える。
 必然的な「淘汰」ではなくて「偶然」だ、というような池田の文章も読んだことがあるような気がする(探し出す手間はかけない)。
 自然・生物界も、ヒトも、社会も「必然的な発展」などはしないのではないか。少なくとも、大きな例外が、存分にあるのではないか。
 現在ある社会の姿は「それなりの理由・根拠」があって生まれているもので、将来にさらに「良くなる」または「進歩する」だろう、というのは、-そもそもは「良くなる」とか「進歩」の意味が問題なのだが-今を生きる人間たちが抱きたい<願望>にすぎないのではないか。
 こうした疑問を私とともに共有しているかもしれず、そうであるとすると、これは、マルクス主義あるいは「史的唯物論」のいう<歴史が発展する「法則」>の存在を根本的に批判している、ということになる。
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